第 33 号 (通算1 05号) 平成 27(2015)年7月 20 日 在ベネズエラ日本国大使館 附属カラカス日本人学校発行 目指す児童生徒像 よく考える子 思いやりのある子 進んでやりぬく子 強くたくましい子 日本もベネズエラもよく知る子 ただ子どもたちのために!ただ学校のために!ただそのために汗と涙を流す! わかる授業の創造、知徳体バランスのとれた人格の形成、ククククククク人材の育成のために… (写真左2枚:6月小学部5年上唐湊教諭の授業研究会のようす 写真右2枚:7月教職員研修で訪れたコロニア・トバールのようす) 日本の学校と同様に,日本人学校においても教員の実践力向上のために,組織的な教員の研修を行って います。その成果は,日々の授業の中や学級づくり,国際理解教育・現地理解教育や生徒指導の場などで 発揮されています。今年は特に,教員の授業力向上のための授業研究会,現地理解教育のための現地視察 に力を入れています。これらは全て,子どもたちの学力を高めるためであり,子どもたちの国際性を高め るためです。(現地視察は将来の校外学習のための下見も兼ねています。昨年の現地視察で行ったカラカ ス植物園に,今年の校外学習で行く予定をしています)全てはただ子どもたちのため、そのために私たち は汗を流します。子どもたちの喜びを自分の喜びとし悲しみを自分の悲しみとして,涙も流します。子ど もたちだけでなく教職員も保護者も,そして地域の全ての人々もまた成長できる場所,それが学校です。 カラカス日本人学校をもっともっと知り、もっともっと好きになるために…(その71) 学校にとってかけがえのない大切な物を私たちは「学校遺産」とよびます…その25 海外に暮らすと、同県人というのが大きな意味を持つことは誰もが感じられることだと思います。以前、こ のコラムでも書きました学校遺産「校標」(カラカス日本人学校の看板)について、当時の橋本貞夫教頭先生 が書かれた原文がありましたので、追記します。 …副総理の秘書官が私の耳元で「群馬県人がいれば、集まってほしい。」私は「二、三年、群馬県に疎開して いた者も資格がありますか。実は私は江戸っ子ですが…。」「よいとも。集めてくれ。」福田赳夫副総理がカラ カスを訪問され、日本大使公邸でレセプションが行われたときのことです。 (1976 年)進出企業、邦人代表者 約 100 名、アナウンスされて集まった副総理との同県人は3~4名。改めて自己紹介。群馬テレビがカメラ に収めている。「私は戦時中2年程、高崎中学にいました。」「ほう、ぼくの後輩だなあ。」「すると、副総理は 私の大先輩。私のクラスメートの中に、高崎の白衣観音を作った孫がいました。」 「井上だなあ。」 「はい、そう です。」烏川のこと、○○○天下のこと(注:原文のまま)、笑いが続きましたが、そのうち日本人学校の話に なりました。 「よし、ぼくがひとつ書いてみよう。 」これがきっかけでした。その後、日本に帰られた副総理か ら墨痕鮮やかな「カラカス日本人学校 福田赳夫副総理」と書かれた紙が届きました。いずれは必ず総理にな るとの判断から、副総理の文字を抜き、銅板にするため、再び日本に送りました。こうして出来上がった校標 が送られてきました。この校標はまずカスティジャーナのキ ンタカルメンの玄関に掲げられ、その後、新校舎のアティー ジョの正面入口に掲げられました。また、原紙になったもの は額に入れました。そして、この額は職員室の私のすぐそば に記念として掲げられてありました。(注:現在は探したけ れど、どこにもありませんでした。残念です。 )… この文章は、創立 20 周年のファイルの中に挟まっていま した。もし橋本先生が同県人でなかったら、この話もこの校 標もなかったことでしょう。書かれてある通り、1976 年 12 月に福田赳夫副総理は第 67 代総理大臣となられました。橋 本先生の先見性と行動力、福田総理のお人柄がしのばれる素 晴らしい逸話ではないでしょうか。また、校長室には同じく 福田赳夫氏の副総理時代の書が飾られてあります。「長い友 は 一生の宝」このエピソードにぴったりの文言です。
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