日本大学英文学会通信94号

2010第
年 94
11 号
月
英文学会通信
英 文 学 会 通 信
第94号
─ 日本大学英文学会─
発行 : 日本大学英文学会
〒 156-8550 東京都世田谷区桜上水 3-25-40
日本大学文理学部英文学研究室内
Tel(03)5317-9709(直通)
Fax(03)5317-9336
目 次
《ご挨拶》
今年度の日本大学英文学会と英文学科、そして、あれやこれや。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学英文学会長・日本大学文理学部英文学科主任 吉良 文孝
《エッセイ》
アメリカ旅行記― E. A. ポーとスミソニアン ・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部専任講師 堀切 大史
平成 22 年度海外語学研修を引率して ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部准教授 飯田啓治朗
日本大学文理学部教授 A.Robert Lee
Writing Multiculture ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
A・ロバート・リー著、原公章・野呂有子訳『多文化アメリカ文学
―黒人・先住・ラティーノ/ナ・アジア系アメリカのフィクションを比較する』
(冨山房インターナショナル、2010 年 11 月) ・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部教授 原 公章
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《特 集》
ハーディ文学との出会い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 聖徳大学名誉教授 藤井 繁
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《海外留学体験記》
留学体験記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部英文学科 4 年 大竹 萌
留学を終えて ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部英文学科 4 年 島田 雅史
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《年次大会発表要旨》 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11
《月例会報告・予定、研究発表者募集》 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
《新刊書案内》
新刊書案内など ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 13
《事務局・研究室だより》
卒業された同窓会員の皆様へ、その他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 13
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日本大学英文学会
2010 年 11 月
《ご挨拶》
今年度の日本大学英文学会と英
文学科、そして、あれやこれや。
日本大学英文学会会長・日本大学文理学部英文学科主任
吉良 文孝
今年度の出来事とは言っても、 11 月 3 日現在の話
です。思いつくままに書き綴ることにします。
人と仲良くするのはなかなか難しいようです。隣国
中国とは尖閣諸島をめぐり連日のように心配な新聞の
見出しが躍ります。加えて、ロシアのメドベージェフ
大統領が北方領土の国後島を訪問したとの報道。容易
には解決の糸口が見えない、一筋縄ではいかない問題
です。平成元年、文部省告示の中学校学習指導要領に
は、外国語の「目標」として「国際理解教育」の促進が
謳われました。それから 20 余年が過ぎようとしてい
ます。この地球上には、肌の色も違う、髪の色も違
い、さらには、ものの考え方も違うような人々が大勢
暮らしています。そのような人たちを理解し、仲良く
やっていくことの大切さを「目標」として掲げている
わけです。国際理解教育は、英語(科)教育だけに課
されたものでは、もちろん、ありませんが、口ではき
れいごとは言えても、いざとなると国際理解教育の精
神だけでは何とも解決のできないことがこの世の中に
はいっぱいあることを実感させられる、そんな事件で
した。せめて身近にいる人とだけでも仲良くやってい
きたいものです。
さて、日本大学英文学会、そして英文学科に目を転
じてみます。はじめに悲しいニュースです。永きに渡
り英文学科で教鞭をとられた阪田勝三先生が本年 9 月
19 日、 95 年の人生に幕を閉じ、永眠されました。文
理学部次長もお勤めになられた先生です。私は、阪田
先生に直接ご指導いただく機会には恵まれませんでし
たが、大学院生による(修士論文の)中間発表会や月
例会などではそのお姿を拝見しています。ひと言ひと
言を飲み込み、味わうかのような、あのゆっくりとし
た口調が思い出されます。分野が違うため私にはわか
りませんが、相当な学者である、ということを肌で感
じることのできる風格のある先生でした。心よりご冥
福をお祈り申し上げます。次に、十数年にわたり英文
学科教授として学部生・院生の指導にあたられたアー
サー・ロバート・リー先生がこの 3 月末をもって英文
学科を退職されます。リー先生は、アメリカ文学の国
際的な研究者として大変著名で、特にマルティ・カル
チュラルな視点から論じた一連の著作は国際的に高く
評価されています。2004 年にはその功績が認められ、
「米国図書大賞」(The American Book Awards)を受賞
されました(なお、授賞対象となった著作は、原公
かつぞう
章、野呂有子両教授によって翻訳され、『多文化アメ
リカ文学 』と題して、近く冨山房インターナショナル
より上梓されます)。リー先生が英文学科を去られる
ことは、誠に寂しい限りです。
今年度、私が多少なりとも関わった例会には、 6 月
と 10 月に開催された英語(科)教育関連の特別講演、
ならびにシンポジウムがありました。6 月は、慶應義
塾大学教授の大津由紀雄先生をお迎えしての特別講演
会です。
「言語教育の構想―「ことばへの気づき」を基
盤に母語教育と外国語教育を一体化する」の演題で多
岐にわたるお話をしていただきました。その内容が、
私が普段「英語科教育法」で話していることと同じ部
分が多々あることにホッと安堵したことを覚えていま
す(なお、寝っころがって読むことのできる(と言っ
ては失礼かもしれませんが、わかりやすく書かれた)
大津先生の著作のひとつに『英語学習 7 つの誤解』
(NHK 出版)があります。これは特に学部生にはお勧
めの一冊です)。10 月の英語教育シンポジウムでは、
原公章(文理学部教授)、青木啓子(文理学部講師)、
黒澤隆司(日本大学第二高等学校・中学校教諭)
[発表
順]のお三方にご登壇いただきました。テーマは「私
家版 英文解釈教授法」です。「学校で「使える英語」な
んて幻想だ―中学・高校で教えるべきは文法と訳読。
明治以来、基本は同じ」
(斉藤兆史氏「朝日新聞」オピ
ニオン欄、 2009 年 8 月 1 日朝刊)や、「
「訳読 vs. 会話」
論争やめ日本人に合う教育を」
(鳥飼玖美子氏「朝日新
聞」オピニオン欄、 2010 年 10 月 20 日朝刊)などへの
言及や、フロアの皆さんとの質疑応答など、有意義な
時間を皆さんと共有できたと思います。この手の内容
のシンポジウムでは、はじめから結論は見えているの
ですが、手っ取り早い英語学習法や、英語名人への近
道などはなく、英語熟達への極意を問われれば、月並
みではありますが、
「いかに英語に時間を費やし、い
かに英語に愛情を注いだのか。」が決め手ということ
になるでしょう(上に紹介した斉藤兆史氏といえば、
同氏の著書『英文法の論理』
(NHK ブックス)の「あと
がき」には、次の件があります。
「いくら文法・読解
の学習をしてもさっぱり英語が使えるようにならな
かったと文句を言う人のなかで、文法書を何度も読ん
だり、辞書がボロボロになるまで英文を読んだという
人にはほとんどお目にかかったことがない。(中略)
基礎の文法・読解学習で英語嫌いになっているようで
は、そもそも英語を勉強する意味はない。その基本的
な学習を避けて楽しく英会話ごっこをやったところ
で、英語嫌いにこそならないかもしれないが、たいし
た英語の使い手にもならない。」手厳しい言葉ですが、
真理をついた指摘です)。
さて、今年は、外部の大きな学会の年次大会がここ
文理学部で開催され、そしてこれから開催されようと
しています。文理学部にその事務局を置く英語語法文
法学会の第 18 回大会が 10 月に開催されました。文理
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くだり
英文学会通信
学部での開催は 3 回目となります。名誉なことです。
開催に際しては、大会当日の学生諸君の働きぶりに、
「日大生は本当にすばらしい!」との絶賛の言葉をい
ろいろなところで耳にしました。そして、この 11 月
13 日、 14 日の両日、日本英語学会第 28 回大会が開催
されます。英語学関連のわが国最大の学会です。開催
校委員代表の保坂道雄教授のもと、着々とその準備が
進んでいます。数年前にも日本英文学会の全国大会が
文理学部で開催されましたが、その際、日大生の礼儀
の良さ、働きぶりに痛く感銘された当時の日本英文学
会会長から、直々に、お手伝いをした学生たちに対し
てお褒めの言葉をいただきました。きっと今回も、わ
が学部生・院生諸君の働きぶりは評判となることで
しょう。日本を代表する大きな学会が文理学部で開催
されることは名誉なことであり、そして学生・院生の
皆さんが高い評判をえることは誇り高きことです。
このように、研究面では、以前にも増して随分と頑
張っているように思います。ここでひとつ気がかりな
ことがあります。それは、学会規約にもありますが、
本学会の「目的」のひとつに、「会員相互の親睦を図る
こと」があります。今後、この点を見据えた活動を学
会は検討していく必要があるように思います。と言い
ますのも、先月開催された英語語法文法学会の懇親会
での出来事です。かねてからの知り合いで、東京から
北海道へとお移りになったある先生から、その同僚で
あるという先生を紹介されました。その先生は北海道
教育大学で准教授をされている英語学専攻の先生でし
た。しかし、驚きました。なんとその先生は、私がク
ラス担任をしていたときの教え子であったのです。教
え子の顔と名前が一致していないことを恥じると同時
に、私は痛感しました。われわれが知らないところで
卒業生がいろいろな方面で活躍しているのだ、という
ことを。冒頭でも述べましたが、人と仲良くすること
はなかなか容易なことではありませんが、われわれ日
本大学(英文学科)卒業生は、卒業後もその活躍を語
り、音信を知る場が必要なのではないかと思います。
世に言う「同窓会」としての場です。大所帯であるだ
けになかなか難しいのですが、その役を担うことがで
きるのは、日本大学英文学会をおいて他にありませ
ん。卒業後いつでも学び舎に帰ってくることができ
る、数年に 1 回でもいい、恩師、旧友と語りあうこと
ができる、そんな場を提供するための方策を、会員の
皆様のお知恵を拝借しながら考えていこうと思いま
す。今後とも、学会に対するより一層のご理解とご協
力をいただけますようお願いいたします。
はやいものです。(故)寺 隆行前会長の跡を受け、
非力ながら会長としての 8 ヶ月が経ちました。まだ任
期は数ヶ月残っておりますが、次回「英文学会通信」
の発行は来年の 6 月です。ひと区切りといたしまし
て、これまでの皆様の温かいご支援に心より感謝申し
上げます。
(平成 22 年 11 月 3 日)
第 94 号
《エッセイ》
アメリカ旅行記
― E. A. ポーとスミソニアン
日本大学文理学部専任講師 堀切 大史
私はこの 8 月に、リッチモンド、ボルティモア、ワ
シントン DC を旅してきました。まず、ミュージアム
好きな私にとって、ワシントン DC は憧れの地であ
り、 16 の美術館と博物館からなるスミソニアン協会
のミュージアム群を見て回った時間は、ミュージアム
三昧といった感じで、まさに至福の時間でした。なか
でも、国立アメリカ美術館とナショナルギャラリーに
おいて、私の好きなトマス・コール、アシャー・ブラ
ウン・デュランド、アルバート・ビアスタットなど、
ハドソン・リヴァー派と呼ばれる 19 世紀アメリカの
風景画家たちの作品を数多く見ることが出来たのは幸
いでした。ハドソン・リヴァー派の画集は何冊か持っ
ているのですが、本当によい絵というものは、ほんも
のを見なければそのよさはわかりません。スミソニア
ンは、そのほとんどのミュージアムが入場無料である
ため、私は毎日必ず、これらふたつの美術館には立ち
寄り、夏の強い日差しのなかで歩き疲れた体を休めな
がら、お気に入りの絵を何度でも見ていたものでし
た。今日はこの絵を見たい気分だな、という時に、い
ちいちお金を払わずに、ふらりと気楽に美術館に入っ
て絵を見ることが出来るというのは、何と文化的に贅
沢な生活でしょうか。ある日、いかにも仕事帰りとい
う女性が閉館間際に入ってきて、受付の人に、もうす
ぐ閉館ですよと言われても、大丈夫と言って奥の展示
室に歩いてゆくのを見ましたが、おそらくこの女性も
お目当ての絵があって、少しの時間だけでも見て、気
分よく帰宅したのでしょう。ここに住む人たちがうら
やましいな、と思いました。
今回、これらふたつの美術館以外にも、国立肖像画
美術館、コーコラン・ギャラリー、国立アメリカ歴史
博物館なども興味深く見ましたが、なかでも変わって
いたのが、国立犯罪と刑罰博物館というものでした。
セイラムの魔女狩りからユナボマーまで、アメリカの
犯罪の歴史を紹介するという異色の博物館です。数あ
る犯罪者のなかでも、アル・カポネ、ボニー&クライ
ド、ジョン・デリンジャーは、伝説的な犯罪者として
特に有名ですが、彼らが犯罪者でありながら国民たち
から英雄視されたのも、彼らが 1920 ∼ 30 年代とい
う、禁酒法と大恐慌の時代に、国や法律に屈すること
なく、悪事を繰り返すという、ある種、国民たちが憧
れるようなことを代わりにやってくれたところにある
のではないか、と思いました。また、例えばボニー&
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2010 年 11 月
日本大学英文学会
クライドを描いた映画『俺たちに明日はない』
(1967
年)がヒットしたのは、その背景に、当時のヴェトナ
ム戦争に起因する、国家に対する国民の不信感があっ
たからなのではないか、と思いました。ちなみに、こ
の映画のクライド役でありプロデューサーでもあった
ウォーレン・ビーティは、当初、このクライド役に、
「風に吹かれて」
(1963 年)などの反戦歌で有名な
フォークロック歌手ボブ・ディランを考えていまし
た。また、展示の最後には、ポーの小説「マリー・ロ
ジェの謎」(1842 年)が紹介されていました。なぜ
ポーが紹介されていたのかというと、この小説のもと
に な っ た、 1841 年 に 実 際 に 起 き た メ ア リ ー・ ロ
ジャーズ殺人事件が、アメリカ最古のコールド・ケー
ス(迷宮入り事件)として紹介されていたからでした。
これは、事件そのものというよりも、ポーがその舞台
をニューヨークからパリに移して、 C・オーギュス
ト・デュパンを主人公とする推理小説にしたことで有
名になった事件です。これらの展示を見て、文化は時
代を映す鏡であるとともに、歴史を伝えるものでもあ
るのだと、改めて実感しました。
そのポーについては、今回、リッチモンドにある
ポー博物館と、ボルティモアにあるポーの家および
ポーの墓を訪ねました。ポー博物館では、彼がリッチ
モンドで過ごした日々が紹介されていて、彼の直筆の
原稿や実際に着ていた服なども展示されていました。
また、ポーの家は、中心地から少し外れた、治安の悪
そうな寂れた地区に建つ小さな家で、それぞれの部屋
も狭かったのですが、特に書斎への階段は狭く、這っ
て上がらなければならないほどでした。ここでは、彼
の直筆の手紙や実際に使っていた食器などが展示され
ていました。それから、とりわけポーの墓は印象的で
した。ボルティモアのウエストミンスター教会墓地の
入り口わきに立っているのですが、その入り口は交差
点の角にあり、墓のすぐそばを車が常に走っていると
いう、とても騒々しい場所でした。これではポーも落
ち着いて眠れないだろうな、と気の毒に思いました。
また、この墓は場所が悪いだけでなく、彼の誕生日が
本当は 1 月 19 日なのに、間違って 1 月 20 日と墓石に
彫られていて、しかもそのままになっているのです。
実はもともと教会の裏庭の静かな場所に埋葬されてい
たのですが、後に何らかの理由で現在の場所に移され
たようです。その裏庭には現在、墓石のみが立ってい
ますが、この静かな落ち着いた場所の方がポーにはふ
さわしいと、多くの人が感じているからでしょうか、
こちらにはたくさんの花や手紙がたむけられていまし
た。ポーはリッチモンドとボルティモア以外にも、
ニューヨークやフィラデルフィアなど、東海岸のいく
つかの街を転々としていましたが、ファンにとって有
難いことに、どの街でも、住んでいた家を一般公開し
たり、遺品を博物館に展示していたりと、ポーゆかり
のものを保存・公開する活動を続けてくれています。
最近読んだ本に、フランスの元文化外交官フレデ
リック・マルテルが書いた全米踏査レポート『超大国
アメリカの文化力』
(根本長兵衛・林はる芽訳、岩波
書店、2009 年)という大変おもしろいものがあります
が、そこで著者はこんなことを書いています。「ジャ
ン = リュック・ゴダールさながら、ヨーロッパの批
評家たちはアメリカに歴史はない、と繰り返すが、こ
の国のいたるところでおこなわれている歴史的建造物
の指定と修復をよく観察するならば、それだけで彼ら
に対する手厳しい反論となる。反対に、こう断言する
ことさえできる。アメリカは歴史に―少なくとも自ら
の歴史に―とりつかれている、と。」(222 頁)ワシン
トン DC には、10 以上の美術館、歴史博物館、犯罪と
刑罰博物館の他に、国立自然史博物館、国立郵便博物
館、国立航空宇宙博物館、国立アメリカン・インディ
アン博物館など、さまざまなミュージアムがありま
す。そしてそれらが、アメリカの首都という場所で、
ホワイトハウス、国会議事堂、最高裁判所などととも
に混在しているという事実が、アメリカという国の、
文化や歴史に対する姿勢を象徴しているように思いま
した。そしてそのワシントン DC を南北からはさむよ
うな形で、リッチモンドとボルティモアがあり、それ
ぞれがポーの家とポー博物館を管理・運営していま
す。今回の旅をとおして、アメリカという国は、歴史
が浅いにもかかわらず、というか、歴史が浅いからこ
そ、自らの文化的・歴史的遺産を積極的に保存し、且
つ、それらを惜しみ無く人々に公開しているという印
象を受けました。また、これからも出来る限りアメリ
カに足を運び、実際に自分の眼で見て学んだことを学
生たちに伝えることで、アメリカの文化的・歴史的遺
産を活かしてゆかなければならないと思いました。
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ポー博物館(リッチモンド)
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英文学会通信
平成 22 年度海外語学研修を
引率して
日本大学文理学部准教授 飯田 啓治朗
8 月 2 日∼ 25 日に、イギリスの Canterbury にある
Kent 大学で海外語学研修 1(英語)が実施されました。
今年度は、英文学科 11 名、心理学科 3 名、国文学科 2
名、ドイツ文学科、教育学科、地球システム科学科か
らそれぞれ 1 名ずつ、計 19 名の参加学生があり、當
麻一太郎先生とともに引率してまいりました。
われわれ一行は 8 月 1 日に成田に前泊し、翌 2 日 11
時 35 分に全日空の便で London に向けて出発しまし
た。約 12 時間半のフライトの後、 16 時前(BST、時
差 8 時間)に Heathrow 空港に着陸しました。入国審
査 等 の 手 続 き を 経 る と、 Kent 大 学 の 院 生 で Social
Events Organiser の Ruhsen Sevketoglu さんの出迎えを
受けました。その後、大学からのバスを待ち、高速道
路で一路 Kent に向かいました。途中、イギリスらし
い shower の洗礼を受け、まだまだ明るい 19:30 頃大
学 に 到 着 す る と、 宿 泊 先 の Tyler Court の 上 に は
rainbow の arch が作られていました。
翌日、学内施設の案内、コンピューターのログイン
の仕方、次の日からの授業や成績評価等についての
General Introduction がありました。その中で学生達
は、日本では耳にしたことがない Moodle による課
題が出されました。この課題は、電子メールに類似し
た教育ソフトの一つを活用して、毎日指示されたテー
マで 10 行程度の英文を書いて担当教員に報告すると
いうものでした。その日の午後は、キャンパス内の敷
地 を 下 っ て 通 り 抜 け 30 分 程 歩 い た 所 に あ る
Canterbury の街を案内されました。
4 日 か ら 授 業 が 始 ま り、 学 生 達 は Plantagenets、
Tudors と名付けられた 2 つのクラスに分かれ、 Jane
Hobbs 先生と Liam Bellamy 先生が午前と午後の授業を
入れ替わりでそれぞれのクラスを担当されました。午
前は speaking、listening、reading、writing の技能を伸
ばすことを中心とした授業、午後は project work の授
業でした。project work は、 2~3 名の学生が一組にな
り、自分達で設定したテーマについて、Canterbury の
High Street で地元の人達や観光で訪れている人達に
聞き取り調査を行い、研修の最終日に結果報告・分析
の presentation を行うというものでした。授業では、
聞き取り調査のための質問の準備、 PowerPoint の使
用、効果的な presentation の仕方について学びまし
た。街での実際の聞き取り調査で、学生たちはノルマ
として課せられた人数を達成するのに苦労していまし
た。成績評価は主として、英語の技能を確認する試験
と project work の presentation によるものでしたが、
第 94 号
学生達は全員、高(好)評価を得て、修了証書を授与
されました。
研修中は、授業以外に、懇親会、球技、ダンス、そ
して先生方を交えての Farewell Party 等の social event
がありました。また、いくつかの excursion もあり、
授業の中で下調べをした上で、バスで London や、大
学から 1~2 時間程の所にある Broadstairs(Charles
Dickens が し ば し ば 訪 れ た ) や Brighton(Graham
Greene の小説 Brighton Rock の舞台で有名)の海岸沿
いの町、そして Leeds 城に出かけました。Canterbury
とは雰囲気の異なるそれぞれの土地で、自由時間を
ゆっくり過ごしました。さらに、終日 free の週末に
は、学生達は自ら計画を立てて、地元 Canterbury の
Cathedral、 St. Augustine Abbey や Sir Thomas More の
教会等の史跡を訪ねたり、Dover や遠くは Oxford など
にも足を伸ばしたりして、限られた時間の中で、イギ
リスの歴史、文化、風土の多様性を体感することがで
きました。
研修最後の 3 日間は、London の Kensington Gardens
近くのホテルに 2 泊しました。ホテル周辺の Kensington
Palace や Hyde Park を散策したり、 Victoria and Albert
Museum や Natural History Museum を見学したり、あ
る い は tube で 中 心 部 へ 出 て、 Buckingham Palace、
British Museum や National Gallery、Thames 川沿いの
Big Ben、Shakespeare’s Globe Theatreや Tower of London、
あるいは Covent Garden や Camden Town 等々で、学生
達はそれぞれ最後の London を楽しみました。
学生達は、3 週間にわたる語学の授業、social event、
そして excursion の濃密なスケジュールをこなし、英
語の母国で常に言葉と五感を full に働かせながら生活
をする中で、さまざまな場面で数え切れない程の刺激
の shower を 浴 び ま し た。 こ の shower は、 ま さ に
Geoffrey Chaucer の The Canterbury Tales の General
Prologue の冒頭の言葉のごとく、学生達の今後の人生
にしみわたり、花を開かせてくれるものになるはずで
す。
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2010 年 11 月
日本大学英文学会
Writing Multiculture
Literature.
日本大学文理学部教授 A.Robert Lee
First, and quite before anything else, the translation
into Japanese of my Multicultural American Literature:
Comparative Black, Native, Latino/a and Asian American
Fictions (2003) gives me the opportunity to give public
thanks, a strongest arigato, to Professors Hara and Noro
– together with proof-checking by Maejima-san – for
taking on the task. This has been a considerable labour
for them all, a great deal of their time and energy as well
as diligence. My true appreciation to each.
Not a few times I have been asked how I became
interested in not only US multicultural literature but
multiculturalism at large, whether as culture and politics
in America itself or in the UK, Europe, and Asia and the
Pacific from the Philippines to Australia and New
Zealand. A great deal has to do with the fact that, as a
young Britisher landing for the first time in the United
States of the 1960s, I saw first-hand the era of Martin
King and Malcolm X, Civil Rights and Black Power.
Abroad there was the Vietnam War with its implications
for race as well as military adventuring. It did not take
long before I saw more and more not only of Afro-America
but of America’s encompassing multicultural order –
Hispanic America from the west and southwest to Spanish
Harlem and Florida, the Asian America of Chinese
Americans, Japanese Americans, Korean Americans and
Filipino Americans, and not least Native Americans
(“Indians” as were). Nor did this preclude so-called
white ethnicities, whether WASP, Irish American, Polish
American, Italian American or, increasingly to the point,
“mixed” American.
My interests, however, always were also literary. Who had
written what? How had multicultural writers envisioned,
and inscribed, America? As the years evolved and if I
was reading (and teaching) Melville or Henry James or
Emily Dickinson, I was also reading Ralph Ellison, Maxine
Hong Kingston, Rudolfo Anaya and N. Scott Momaday,
and all the authorships around them. That long comported
with interests in Jewish American literary tradition, just
as today I find myself turning to writing by Arab American,
Indo-Pakistani American, Iranian American and Caribbean
American authors. Issues of identity, ethnicity, geography,
gender, class and, always, language, were and remain
inescapable. Finally I was able to refract both these literary
interests and my own personal close-encounters with
America in the study that became Multicultural American
That interest has infinitely continued as the subsequent
books I have written bear witness, especially Gothic to
Multicultural: Idioms of Imagining in American Literary
Fiction (2009) and Modern American Counter Writing:
Beats, Outriders, Ethnics (2010). None of which is to say
I have not been drawn to, or written about, multicultural
dynamics elsewhere – as in the edited collections Other
British, Other Britain: Contemporary Multicultural Fiction
(1995) and China Fictions/English Language: Literary
Essays in Diaspora, Memory, Story (2008).
To have Multicultural American Literature: Comparative
Black, Native, Latino/a and Asian American Fictions now
appear in a Japanese version pays tribute to my time as a
teacher at Nihon University and in Japan at large. Maybe
it will throw an interesting light on whether, or whether
not, Japan itself will ever come to think itself multicultural.
I remain hugely grateful to my translators, to the college,
and to Fuzambo International as publishers.
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A・ロバート・リー著、原公章・野呂有子訳
『多文化アメリカ文学―黒人・先住・ラティーノ/ナ・
アジア系アメリカのフィクションを比較する』
(冨山房インターナショナル、2010 年 11 月)
日本大学文理学部教授 原 公章
日本大学文理学部英文学科に、アーサー・ロバー
ト・リー先生が専任教授としてお見えになったのは、
1996 年 4 月だった。それから、早くも 14 年以上もの
歳月が流れた。この間、リー先生は数々の著書・論文
の執筆に加え、アジア、アメリカ、ヨーロッパ各地の
大学での特別講義やシンポジウム参加、文学全集の編
集など、驚くほどの活躍ぶりであった。なかでも、
2004 年 度 の 全 米 図 書 賞(American National Book
Award)に輝いたのが、先生の代表作、 Multicultural
American Literature, Comparative Black, Native, Latino/a,
Asian American Fictions (Edinburgh) である。この本の
翻訳の意義を一早く認めたのが、野呂有子先生だっ
た。先生は、多民族・多文化国家アメリカが、いまや
「少数民族」と言われる人々の存在を抜きにしては存
続しえないこと、また、アメリカ文学も従来の白人主
流文学ではとらえきれないことを、この本から察知さ
れたのである。そこで、リー先生の依頼により、野呂
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英文学会通信
先生と私がこの本の翻訳を引き受けることになったの
が、 2007 年末ごろではなかったかと思う。だが、実
際に着手したのは、2008 年夏からだった。
まず私が序章から第 5 章までの 6 章分、次いで野呂
先生が第 6 章から終章までの 5 章分を翻訳し、その
後、原稿を交換しあって、手直ししたり全体を統一し
たりした。さらに、大部な索引の作成と、表記も含め
た全体の固有名詞のチェックについては、前島洋平助
教の力を得た。前島氏には同時にまた、文学作品だけ
でなく、映画や漫画やテレビ番組に至るまで、全ての
作品に、邦題・邦訳があるときには、それも調べてい
ただいた。さらに、英語の不明箇所は、随時リー先生
にうかがうことができた。だから、本書の翻訳は、ま
さに、四人の共同作業のたまものであった、と言えよ
う。
次に少しだけ、翻訳の苦労話を披露しておく。リー
先生の論文は、先生が日本大学に赴任されたときの業
績審査として幾つか読んだことがあるが、その濃密な
文体は決して読みやすいとは言えないというのが、正
直な感想だった。それゆえ翻訳にあたっては相当な覚
悟が必要と思われた。果たせるかな、実際に翻訳に取
りかかると、スペイン語や中国語も交じった多文化ア
メリカの豊富な語彙と、リー先生特有の個性的文体が
あいまって、予想以上の難航続きだった。例えば、
beads( 焦点 )、a litany of …(多くの…)など、普段使い
慣れない語や言い回しが続出したり、また Bolinquen
(Puerto Rico の古名で「勇者の国」を意味する ) など一
般の英和辞書に出ていない単語や、 pinoy(フィリピ
ン 人 ) な ど の 俗 語 も 多 く 見 ら れ た。 ま た The
Wounded Knee is the My Lai of American History. とい
う一文を、
「傷ついた膝はアメリカ史の私の詩である」
などと、翻訳しても何のことやらわからない。正しく
は「
(アメリカ騎兵隊による先住民虐殺の地である)
ウーンディッド・ニーは、アメリカ史における(米軍
による住民虐殺で知られるヴィエトナムの村)ミーラ
イである」という意味になる。最も記憶に残るのが、
‘reflexive’ という語である。最初、これに「反射的な」
とか「自己反省的な」など、いろいろな訳語を当てて
みたが、どうもしっくりこない。もちろんリー先生に
もこの語の意味をうかがったが、今ひとつ訳語が思い
浮かばない。ところが野呂先生がいろいろな文献を調
べあげ、この語が現在では「自己反映的な」と訳され
ていることを突き止とめられた。そこで、この訳語で
全体を統一できたのは、ひとえに野呂先生のおかげで
ある。ミルトン専門家の野呂先生はまた、キリスト教
関係についてもご造詣深く、例えば私が「聖書主義」
と訳したところを、「聖書中心主義」と言うのが普通
であると、手直してくださった。このように、私自
身、この翻訳の過程で多くを学ぶことができた。
こうして 2009 年夏の終わりには、一応の原稿が出
来上がったが、さて出版となるとそれからがまた、一
第 94 号
苦労であった。ここでも前島氏の誠実な仕事ぶりによ
り、どれほど助けられたか知れない。詳細は省くが、
とにかく初校から最終校に至るまで、細かな直しの連
続であったことを、お伝えしておく。それでもなお、
誤植や誤訳が残っているかもしれない。この本を手に
取られた方で、もしお気づきの点があれば、ぜひ、ご
教示願いたい。
この本の内容や、出版の意義については、ここでは
あえて繰り返さない。ご関心のある方は、リー先生が
本書の冒頭に寄せた「日本の読者の皆様に」と、最後
の「訳者あとがき」をぜひ、お読みいただきたい。そ
こで最後に、文理学部より頂いた出版助成金につい
て、一言しておきたい。もともと、 2009 年 9 月に日
本大学出版助成制度に申し込むつもりであったが、そ
の制度は同年 7 月に廃止が決まっていたことを、この
とき初めて知った。残念に思っていたところ、前学部
長の島方洸一先生が、文理学部に新たな出版助成制度
を設けると、教授会で公言された。そこで本年 1 月に
改めて、文理学部にその申し込みを行ったが、 2010
年度からの新設ということで、なかなか制度の細部が
定まらず、結局、改めてすべての書類を提出し直した
のは、本年 4 月であった。アメリカ文学専門の當麻一
太郎教授と高橋利明教授のご尽力も得て、文理学部研
究委員会で正式にそれが認められたのが、ようやく本
年 9 月末である。だが、文理学部出版助成制度の第 1
号として、私たちの翻訳が認定されたことを、今年度
限りで英文学科を去るリー先生とともに、心からうれ
しく、ありがたく思っている。
(2010 年 10 月)
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
《特集》
ハーディ文学との出会い
聖徳大学名誉教授 藤井 繁
病弱だった戦中派の私が、健康の維持に無関心なの
に、うっかり生き延びて、
「長生きは地球を滅ぼす」
という軽妙で重い言葉に、罪の意識さえ感じる昨今で
す。教職もすでに半世紀を超えます。その厚顔無知を
恥じるばかり。
「英語だけは学ぶまい、教師にだけは
なるまい」と誓っていた軍国少年でしたから。全寮制
度の学校に学び、「英語は禁止」で、違反すれば「停学
処分」です。振り返れば「ハーディ文学」との出会い
は必然でした。
ハーディの物語を要約しますと、
「進化論」のダー
ウィンに影響されてか、「物語の展開は偶然に支配さ
れ、唯一の意味に帰着するような一義性と訣別し、結
─ ─
7
2010 年 11 月
日本大学英文学会
論は極めて曖昧で多義的」です。以来、私も「Yes or
No」の選択には慎重です。「Yes(No), but」という対
応もあり得るからです。今はクイズ番組が大流行の時
代ですが、全てを「二者択一」で済ますことに懸念を
抱きます。政局を変える「民意」の根拠にも。
仙台で教育を受けた私は、上京して本学の文学部英
文科の 3 年に編入学。教育実習は赤坂にあった日大三
高で、そこの 3 年生の生徒たちが相手です。指導教員
は英語科主任の山本文之助先生で、本学英文科の第一
期生と聞きます。温厚な方でした。やがて先生は膨大
な資料を編集し、
『トマス・ハーディの書誌』(1957)
を刊行。それがハーディ学者を本学に集め、学会創立
の契機となります。さらに『トマス・ハーディの文学
論考』(1962)で文学博士の学位を取得し、桜美林大
学文学部英文科の主任教授に迎えられます。学者の資
質でしょうか、その勤勉・実直で、誠実な人柄に魅か
れます。幸運にも、先生との出会いが、私の人生を大
きく変えます。話を戻しますが、 2 週間の実習を終え
た私は、礼状のハガキを差し上げました。それには私
の稚拙な詩が印刷してあったのです。
早速、山本先生から返信が届き、「藤井さんは詩を
書くのですね」と誤解され、「私の仕事を手伝ってく
ださい」との要請でした。卒論も「語法研究」がテー
マでしたので、ためらいはありましたが、断ることも
できず、結局は引き受けたのです。こうして唯一の貴
重な日曜日は、麦畑を通って千早町のご自宅に先生を
訪ね、新聞・雑誌の山に埋もれます。
「ハーディ」の
文字を探し出しては、そこに赤線を引く、という単純
労働で無報酬でしたが、怠惰な私には、別世界を覗き
見る思いで「充実した」一日でした。
やがて『書誌』は刊行されますが、版を重ねて『新
版』
(1978)の冒頭には、懸賞論文「はたちの願い」に
入選の、現皇后の正田美智子様の「虫くいのリンゴで
はない」が掲載されています。陛下の学生時代の「テ
ス」論です。ハーディアンには無言の励ましです。
私の手伝いは続きます。次はハーディの詩の翻訳で
す。和訳して注釈を付ける仕事は、「英語禁止の時代」
を生きた私には容易ではありません。それが『トマ
ス・ハーディの詩』
(1967)として刊行、日本では本
格的なハーディ詩の最初の和訳とのこと。山本先生に
代わって出版社に原稿を届け、校正をする私に、社長
の千 城さんが、「藤井さんの本なら出しますよ」と囁
かれます。この誘いに甘え、以来、翻訳や評論など多
数の出版を引き受けてくださったのです。山本先生も
千城社長もすでに亡く、ご冥福を祈るだけですが、遺
族のご子息さんたちとは今も親しく、わずか半世紀の
過去を、遥かな思いで語り合います。
日大の英文科では、とりわけブライズ先生の講義に
魅了され、再受講したくて文学専攻科に進学。シンガ
ポール大学では、英国の詩人のエンライト教授に啓発
されます。
「日本のみな様へ」というメッセージと、
せんじょう
贈られた彼の詩を持参して帰国。それが『英語青年』
に紹介され、私の「文学」への傾斜は一気に加速しま
す。当時を回想し、英文学のテクストを開くと、読み
の記憶が喚起され、想像への刺激を喜んでいます。青
春時代に、英文学に出会っていなかったら、私の内的
な生活は、不毛で貧困なもので終わったはずです。
「目はカメラと同じ」という先入観にこだわる限り、
私たちの「現実認識」も不確かなものです。それが作
品に書き込まれているのではなく、私たちの「読み」
の問題です。「意識が知覚世界を変容させる」ことを
示唆したのもハーディ文学です。ハーディは「暗くて
救いがない」、という読みが一般的ですが、それは表
面的な読みに過ぎません。
先に山本先生の『書誌』に触れましたが、その『新
版』に、「各大学の卒業論文一覧」
(1978)が掲載され
ています。日大の英文も、タイトル(英文)と執筆者
名が記されています。懐かしい名前が並んでいます。
何と 26 名で、全国一の数です。創立以来、日大英文
はハーディ文学の「メッカ」と伝えられています。「伝
統」に関わりなく、できるだけ多くの若い方々に、
ハーディを読んで欲しい、今の時代だからこそ、読ん
で欲しいのです。私が英文のスタッフのとき、研究費
の一部を割いて、ハーディ全集などの収集に充て、多
少は補充に努めましたが、利用されなければ無意味で
す。私に残された時間もわずかです。目下「ハーディ
文学の現代性」に範囲を絞り、関連のプルーストやユ
ングとの共通性を探り、その比較・論証に快く汗ばん
でいます。人生は入り口で決まるのではありません。
(July 15, 2010)
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
《海外留学体験記》
留学体験記
日本大学文理学部英文学科 4 年 大竹 萌
2009 年 8 月、私は日本大学より交換留学生として
ア メ リ カ の ミ シ ガ ン 州 に あ る Western Michigan
University に派遣されました。WMU はカラマズーと
いう都会から少し離れた田舎にあります。カラマズー
は学生の多く住む町で、とても穏やかなところなので
勉強をするのに最適の環境でした。私は前期と後期、
合わせて 6 つのクラスを履修しました。6 つのクラス
というと少ないように聞こえるかもしれませんが、ア
メリカのクラスはそのクラスにもよりますが、大体 1
クラス 2 時間と決まっています。私の場合は 1 つのク
ラスにつき週に 2 回、クラスによっては週に 4 回授業
─ ─
8
英文学会通信
がありました。私は日本大学での専門が英文学という
こともあって、アメリカの大学でも英米文学に触れた
いと考えていたので、 WMU でも英米文学中心のクラ
ス選択をしました。初めて授業に参加した際は、アメ
リカ人の生徒の中に混ざってクラスを受けるため、ク
ラスではいつも通りのスピードで英語が話され、内容
を聞き取るのにとても苦労したのを今でもよく覚えて
います。私の履修したクラスの多くは、主にアメリカ
やイギリス文学を読解するという内容のものでした。
毎回の授業で宿題として出されるリーディングのペー
ジが決められており、授業でクラスの皆でその小説の
内容や、作者は何を伝えたいのか、また小説の書かれ
方などをディスカッションしました。授業に参加して
間もない頃は、出されるリーディングの量に慣れるの
が大変で、辞書を片手に追い付くのにとても苦労しま
した。しかし、授業に慣れていくにつれて知らない単
語があっても、大体は書かれていることの意味が把握
できるようになり、読むことが楽しくなっていきまし
た。そして、毎回辞書を引かなくなるため、内容がよ
り頭に入りやすくなりました。私はこの経験を通して
多くの文学作品を読解することによって、自分の専門
である英米文学により深く触れることができ、多くの
楽しさを発見することができ、今までとは全く違った
環境でこんなに多くの素晴らしい作品に触れることが
できたのはとてもいい経験になったと思います。
また WMU では勉学の他にもとても素晴らしい体験
をすることができました。WMU には IPC(International Program Council)というグループがあり、私はこの
グループに参加しました。これは様々な国出身の学生
と国際交流に興味のあるアメリカ人の学生が集まり、
一緒にイベントなどを行うグループです。このグルー
プではシカゴ旅行、 Apple picking、ハロウィン、ダン
スパーティー、アイススケートなど多くの行事を行い
ました。私がこのグループに参加して大変良かったと
思うのは、アメリカ人の学生だけでなく、ウェスタン
ミシガン大学に在籍する多くのその他の国の学生たち
と交流ができたことです。彼らから学んだことは数え
切れません。
最後に私は 8 カ月間をこのウェスタンミシガン大学
という素晴らしい大学で勉強できたことを誇りに思い
ます。この思い出は一生忘れることのできない思い出
になるでしょう。そしてこの機会を与えてくださった
日本大学の方々や応援してくれた家族や友達に感謝し
たいと思います。
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
第 94 号
留学を終えて
日本大学文理学部英文学科 4 年 島田 雅史
私にとっての留学は人生の大きな分岐点であったと
思います。大学 3 年の秋、就職活動をしようか、それ
とも教師を目指そうか悩んでいました。ちょうどその
ころは足を怪我してしまい、約 2 カ月間学校にほとん
ど行けずに家で療養をしていました。怪我の前は将来
のことで毎日頭の中が混乱していましたが、ゆっくり
家で休むことで将来のことを考えることができ、自分
を見つめ直すことができました。その中で私が出した
答えは教師になるというものでした。その理由は自分
がどこか心の奥にしまっていた夢であり、怪我の間、
教師である母が仕事と家庭で大変にもかかわらず、私
の補助してくれた姿に尊敬をして、同じ教師になるこ
とで親孝行をしたいというものでした。前置きが大変
長くなりましたが、教師を目指すにあたり、私には指
導力が不足しており、学問としての英語という言語や
英語教育についてより学びたいと感じ、留学したいと
決意しました。もちろん、留学の経験がなくてもたく
さんの素晴らしい教師の方々がいますが、自信を持っ
て教壇に上がるために、留学という経験を通して、そ
の基礎を築きたいと考えました。
留学をするにあたっては、まず留学の試験に始まり
ます。怪我で学校にほとんど行けなかったので、その
時間を使って英語のスキルアップに励んでいました。
リスニング、リーディング、ライティング、スピーキ
ングとすべてのスキルが TOEFL には求められていた
ので、特にライティング、スピーキングの学習は難し
かったですが、その 4 つすべてのスキルアップを目指
しました。スコアを取り、学部の試験を受けた後は、
留学先であるハワイ大学から送られてくる書類一つ一
つに目を配り、ビザの取得、留学中の滞在場所、現行
残高や医療書類の提出など他国で生活するのに必要な
準備をすべて行いました。当たり前のことですが送ら
れてきた書類はすべて英語で書かれており、教育実習
とも時期が重なり、すべてにおいて四苦八苦をしてい
た記憶があります。
留学をしてからも最初は知り合いがいるわけでもな
く、異国の国で生活するために、独りですべてを行い
ました。英語で自分の思っていることをすぐに言えた
わけでもなく、相手が何を喋っているかちゃんと理解
できたわけでもなく、留学前にある程度は覚悟をして
いましたが、大きな挫折感を味わいました。けどそれ
以上に、留学生活は素晴らしいものでした。ハワイと
いう場所は多くの国の人があふれていて、同じ留学生
の中にも、韓国、香港、タイ、シンガポールなど、ア
ジア人を中心に多くの国の学生が来ていました。また
ハワイで生まれ育った人や、アメリカ本土から来た人
などがいて、そこはまさに人種のるつぼでした。一人
─ ─
9
2010 年 11 月
日本大学英文学会
ひとりとの出会いが真新しく、その人たちとたくさん
の経験を共有しました。その出会いや経験を忘れるこ
とは今でもなく、おそらく将来を通しても私の中で忘
れることのできない思い出となると思います。英語と
いうコミュニケーションツールを使い、英語圏の人は
もちろん、英語圏以外の人ともコミュニケーションが
できたのは、私の人生で大きな経験でした。
授業の話をしますと、日本の授業は大人数の講義形
式が多いですが、留学先(アメリカ一般的)では、少
人数のディスカッション形式が中心を占めていまし
た。私が受講した授業の多くでも、あらかじめ決めら
れたり、その場で述べられたりしたテーマに対して生
徒間で議論をするものが多かったです。授業はディス
カッション形式なので喋らないと何も始まりませんで
したが、最初のころはあまり喋ることができませんで
した。日本でも同じですが、何も喋らなければ意見が
ないのと同じで、あいつは何も意見がない、考えてな
い、と見なされ、私はまさにそれだったので最初は大
変苦労をしました。思っていることをすぐに言えない
もどかしさを感じていました。徐々に喋れるように
なってからはクラスの仲間ともコミュニケーションが
取れ、授業前や後ではくだらないことも話しながら授
業を受けていました。また授業ではプレゼンテーショ
ンやレポートも多く、夜遅くまで、学校にある 24 時
間の図書館でよく課題に取り組んでいました。様々な
課題が重なり朝 6 時までレポートを書いたこともあり
ましたし、グループプレゼンテーションでは仲間から
深夜を超えてから内容が事前に話していたのと違うス
ライドが送られて来て、その人と連絡がとれず一から
話す内容を独りで変更したこともありました。その時
はすべてが大変で、何度も日本に帰りたいと思ってい
ましたが、今ではいい思い出として残っています。
私は今まで留学しようとした理由、留学前、留学中
の経験を述べさせて頂きましたが、留学で経験したつ
らかったこと、楽しかったことすべてが私の経験にな
り、成長の糧になったと思います。留学は私の視野を
広げ、交流の場を増やしてくれました。留学が終わっ
てしまったとただ単純に思うのではなく、留学の経験
を今後どう生かすかが、留学をした本当の意味だと私
は感じます。最後に、この場を借りて、留学をするに
あたりご協力して下さった方々に感謝を述べたいと思
います。また私のこの留学体験記を読み、皆さんが留
学に興味を持ったり、留学の想像をより膨らませるこ
とができたりしたら嬉しく思います。
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《年次大会プログラム》
日本大学英文学会 2010 年度学術研究発表会・総会・懇親会
日 時:12 月 11 日(土)13:30 より
場 所:日本大学文理学部
3 号館 2 階 3205 教室(学術研究発表会・総
会)
カフェテリア・秋桜(懇親会)
◆文学の部:15:10~16:30
[司 会]深沢 俊雄(聖徳大学教授)
[発表者]1. 原田 明子(作新学院大学准教授)
2. 野呂 有子(文理学部教授)
会長挨拶:吉良 文孝(文理学部教授)
休憩:16:30~16:40(10 分間)
学術研究発表会
◆語学の部:13:35~14:55
[司 会]中村 光宏(経済学部教授)
[発表者]1. 久井田 直之(文理学部講師)
2. 松山 幹秀(文理学部教授)
総 会:16:40~17:10
[司 会]保坂 道雄(文理学部教授)
[会長挨拶]吉良 文孝(文理学部教授)
[会務報告]前島 洋平(文理学部助教)
[会計報告〕塚本 聡(文理学部教授)
その他
休憩:14:55~15:10(15 分間)
懇親会:17:30~19:30
懇親会費:研究会員 5,000 円
同窓会員・学生会員及び大学院生 2,000 円
─ ─
10
英文学会通信
《年次大会発表要旨》
◆語学の部
have / take / give a VERB の考
察―コーパスデータを通して
日本大学文理学部講師 久井田 直之
ジーニアス英和辞典(2006)は、 have a shave は
shave と同義で、 give a laugh は laugh と同義であると
説明している。一方で、構造的な類似表現として扱わ
れる take a look に関しては、 look と同義であるという
説明はしていない。コーパスのデータがそれぞれの頻
度に顕著な差があることが示していること(例えば
have a shave は shave と比べて圧倒的に頻度が少ない)
や、 形 式 が 異 な れ ば 意 味 も 異 な る と い う Bolinger
(1977)の考えに沿えば、それぞれが異なる意味を
持っているために棲み分けがあり、頻度差が生じてい
ると推測できる。
本発表では、 have / take / give a VERB を構文的な枠
組みと意味論的な枠組みの両面から考察する。コーパ
スの実証的なデータを基に、 Dixon(2005)などの先
行研究を精査し、使用制約の修正を試みる。
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
Be 動詞と英語の等式型・
コピュラ構文の諸相
日本大学文理学部教授 松山 幹秀
本発表では、
(1)The man is my boss / a doctor.(2)
The women are my aunts.(3)Her hope is her three
children.(4)The stars was our only guide.(5)Mosquitoes are a nuisance.(6)The third reason are technical
IT-related terms. などに代表される NP is/am/are NP で
表される等式型・コピュラ構文について、その歴史
的、統語的、意味的特性を総覧した後、情報構造と語
用論からの考察・分析を加味して当該構文の全体像に
迫ってみたい。
(なお、上記の(4)や(6)は非文法文
ではないことに注意。)
まず、be 動詞(および be 助動詞)の意味的・機能的
派生の史的 directionality(本発表では存在動詞の原義
からの意味拡張・文法化説を採る)、日本語との史的
変遷の異同、コピュラ構文の意味的コア形式の設定可
能性を論じる。次いで、(1)~(7)に見られる数(す
う)の一致に関する統語的・意味論的な諸問題、さら
には be 動詞の 3 つの異なる語源(ルーツ)を確認した
上で、語源が異なることが be の省略現象や 2 種類の
第 94 号
助動詞[root 助動詞と epistemic 法助動詞]との共起関
係(つまり統語的な文法性・非文法性)とどのように
関わるかを検証する。最後に、有名な M.A.K. ハリ
ディ(1967)の分類や Mikkelsen(2005)ほかの分析、
情報構造・倒置(inversion)・主節現象(main clause
phenomena)の相互関係、そして日本語の「僕はウナ
ギだ」文が可能となる英語のコピュラ文の語用論的条
件について考察する。
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
◆文学の部
Melvilleの Pierreをどう読むか ―
territoriality, exile の視点から
作新学院大学人間文化学部准教授 原田 明子
メルヴィルの Pierre or The Ambiguities(1852)は、
出版された当時から壮大な失敗作とみなされてきた。
メルヴィルには珍しい domestic novel の体裁、当時流
行していた sentimentalism や occultism を盛り込んだ
大げさな表現といった特徴は、この小説をどう読むべ
きか、現代に至ってもなお読者を悩ませ続けている。
Sacvan Bercovitch は The Rites of Assent(1993)で、こ
の小説を、 transcendentalism をはじめとする同時代の
アメリカ文化に対する、さまざまな側面からの批判と
して読んでいる。
もちろん Pierre の物語の派手なメロドラマを字義通
りに受け取るのは間違いだが、既存の文化に対する批
判のレトリックだけでは、この小説のもつ力を説明で
きない。サドル・メドウズの次期領主という作中での
ピエールの立場を念頭に置いて、間テクスト的にこの
作 品 を 眺 め る と、 Moby Dick(1851)、 Israel Potter
(1853)という exile をテーマにもつ二つの長編小説に
挟まれたこの小説は、アメリカ人の抱える exile や
territoriality の問題を、アメリカの内部から俯瞰した
作品であることに気付く。今回はこのような視点から
Pierre を読んでみたい。
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
John Milton vs. George Eliot(仮題)
日本大学文理学部教授 野呂 有子
2002 年 6 月、文理学部に赴任したばかりの私は、
大学院特別講義でおいでになっていた津田塾大学教授
の川本静子先生と初めて親しくお話する機会をいただ
きました。特別講義のテーマの一つはイギリスの女性
─ ─
11
2010 年 11 月
日本大学英文学会
作 家、 生 涯 を 男 性 筆 名 で 通 し た George Eliot
(1819-80)だったかと記憶しています。
そして、 2005 年 7 月、私はフランスのグルノーブ
ル大学で開催された第 8 回の the International Milton
Symposium で研究発表を行うため、その中継地点と
してスイスのジュネーブを訪れました。John Milton
(1608-74)が尊敬する、宗教改革の立役者の一人であ
る John Calvin(1509-64)に縁が深く、永世中立国の
中心都市としても、また、世界の金融の隠れた中心と
しても名高いこの美しい町を散策中、ふと目に止まっ
た家のドアに記されていたのは、かの George Eliot が
ここで一年近くを過ごした、という一文でした。
更に、 2008 年 7 月にイギリスのロンドン大学で開
催された第 9 回 IMS で、私と同じ session で研究発表
をなさったのが、ルイジアナ州立大学教授の Anna
K. Nardo さ ん で し た。 そ の 時、 既 に Nardo 教 授 は、
George Eliot’s Dialogue with John Milton(2003)を出版
しており、それは大会の折、書店の出店で多くのミル
トン研究書の一冊として展示・販売されていました。
今年、川本先生と原公章先生の共同研究の集大成
『ジョージ・エリオット̶評論と書評』が出版されま
した。そして、それは川本先生の最後のお仕事となっ
てしまいました。
私のささやかな発表が何らかの形で、川本先生とエ
リオット、そしてミルトンへのオマージュになれば、
と願っています。
《月例会関連》
●月例会報告
2010 年度 6 月以降の月例会・特別講演は以下の通
り行われました。
6 月 研究発表・特別講演(2010 年 6 月 26 日)
【研究発表】
[司 会]宗形 賢二(国際関係学部教授)
[発表者]石川 勝(文理学部講師)
The Single One への回帰―サリンジャーと
フリーメイソン
【特別講演】
[司 会]松山 幹秀(文理学部教授)
[講演者]大津 由紀雄(慶應義塾大学教授)
[演 題]言語教育の構想―「ことばへの気づき」を
基盤に母語教育と外国語教育を一体化す
る
9 月 イギリス文学シンポジウム(2010 年 9 月 25 日)
「イギリス 教 養 小説の諸相」
[司 会]原 公章(文理学部教授)
[発題者]
1. Charles Dickens, David Copperfield
上島 美佳(通信教育部講師)
2. George Meredith, Diana of the Crossways
原 公章(文理学部教授)
3. James Joyce, A Portrait of the Artist as a Young
Man
八木 悦子(文理学部講師)
4. W. Somerset Maugham, Of Human Bondage
前島 洋平(文理学部助教)
ビルドゥングス ロ マ ン
10 月 2010 年度第 2 回特別講演会(2010 年 10 月 9 日)
[司 会]高橋 利明(文理学部教授)
[講演者]エリザベス・シュルツ(カンザス大学名誉
教授)
[演 題]"Is Moby-Dick still the Great American
Novel?"
10 月 英語教育シンポジウム(2010 年 10 月 23 日)
「私家版 英文解釈教授法」
[司 会]吉良 文孝(文理学部教授)
[発題者]
1. 「古谷メソッド」とはなにか
原 公章(文理学部教授)
2. 英文解釈と「音」
青木 啓子(文理学部講師)
3. 英文法に根ざした英文解釈―速読か精読か ?
黒澤 隆司(日本大学第二高等学校・中学校教
諭)
●月例会予定
2010 年 11 月以降の月例会の予定は以下の通りで
す。詳細が決まり次第、はがきと本学会ホームページ
でご案内いたします。
11 月 研究発表(2010 年 11 月 20 日)
[司 会]飯田 啓治朗(文理学部准教授)
[発表者]
1. 機能的構文論から見た there 構文
谷村 航(博士後期課程 2 年)
2. Hamlet 試論― Hamlet の苦しみについて―
堤 裕美子(佐野短期大学特任准教授)
12 月 2010 年度学術研究発表会・総会(2010 年 12 月
11 日)
詳細は年次大会プログラムをご覧下さい。
─ ─
12
英文学会通信
1 月 研究発表(2011 年 1 月 22 日)
[司 会]塚本 聡(文理学部教授)
[発表者]
1. 一條 祐哉(文理学部助教)
2. 板倉 亨(文理学部講師)
●研究発表者募集
当学会では、次年度の月例会・年次大会の発表者を
募集しています。申し込み希望者は、以下について事
務局までお知らせ下さい。なお、検討の結果、ご希望
に添えない場合がございます。
1. 氏名
2. 住所
3. 電話番号
4. 所属
5. 発表希望年月
6. 発表題目
7. 要旨(日本語 400 字以内、英語 200 語以内)
第 94 号
り次第お送りしています。この会員名簿は英文学科卒
業生名簿としての役割もしていることにお気付きの方
も多いことでしょう。先に触れましたように、「英文
学会通信」や「会員名簿」につきましても、会員の資
格を失った場合には郵送されません。
しかしながら、英文学会では、全卒業生のその後
の消息を把握しておきたいと思います。そこで、住
所変更など、ぜひとも「〒 156-8550 世田谷区桜上水
3-25-40 日本大学文理学部英文学科」あてに「ハガ
キ」でご連絡くださるようにお願いいたします。送ら
れてきました情報は、こちらのコンピューターファイ
ルに入れて、厳重に管理いたします。
●会費納入のお願い
2010 年 度 学 会 費( 研 究 会 員 4,000 円、 同 窓 会 員
1,000 円)を未納の方は、郵便振込で納入下さいます
ようお願いいたします。
口座番号:00140 - 3 - 27474
加入者名:日本大学英文学会
《新刊書案内》
本学会員による新刊書を下記の通りご報告します。
なお、学会員で研究書等を出版された方は事務局
(英文学科研究室)までお知らせください。新刊書案
内として随時掲載いたします。
A・ロバート・リー(著)、原公章・野呂有子(訳)、
『多文化アメリカ文学―黒人・先住・ラティーノ /ナ・
アジア系アメリカのフィクションを比較する』
(冨山房インターナショナル、2010 年 11 月)
●お詫び
「英文学会通信」第 93 号の《新刊書案内》コーナー
に関し、以下の通り訂正をさせていただきます。
(誤) (3)英語史研究会(編)Studies in the History of
English Language, 2006-2009(大阪洋書 2010
年 3 月)
(正) (3)英語史研究会(編)Studies in the History of
English Language, 2006-2009(大阪洋書 2010
年 3 月 ; 全 14 編中 2 編が理工学部准教授の佐
藤勝先生によるもの)
《事務局・研究室だより》
●卒業された同窓会員の皆様へ
本学会の構成が同窓会員、研究会員、および学生会
員よりなっていることは、すでにご存じのことと思い
ます。これまで、同窓会員は英文学科入学時に自動的
に入会し、 4 年間の会費(年額 1,000 円)を、また、卒
業時には 1 年間の会費を前納して頂いております。日
本大学英文学会会則により、会員は 3 年間会費未納の
場合には、その資格を喪失します。研究会員への移行
を望む方、または引き続き同窓会員を希望される方
は、振り込み用紙などを使って年会費をお支払いくだ
さい。もし 3 年間を過ぎても会費が払われない場合は、
その時点で自動的に退会となります。
本学会では会員名簿を 1 年に一度改訂し、出来上が
─ ─
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2010 年 11 月
日本大学英文学会
『英文学論叢』第 60 巻 原稿募集について
日本大学英文学会機関誌『英文学論叢』第 60 巻(2012 年 3 月発行予定)の原稿を募集いたします。
投稿希望の方は『英文学論叢』第 59 巻(2011 年 3 月発行予定)巻末の投稿規定に従って下記にお送
りください。
締切日 2011 年 9 月 30 日(金)
(必着)
宛 先 〒 156 8550 東京都世田谷区桜上水 3-25-40
日本大学文理学部英文学研究室内 日本大学英文学会
TEL 03-5317-9709 FAX 03-5317-9336
E-mail esanu@chs.nihon-u.ac.jp
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