〈政治思想研究 第 号〉 政治思想における言語・会話・討議 13 政治思想学会 風行社 編 まえがき いかにして人々の間に一定の秩序が形成されるのか、という問いは、政治思想にとって根幹をなす問題である。その 場合、歴史的にみても、また、今日においてもなお有力な秩序観とは、命令に違反すれば何らかの有効な制裁 (とりわけ 違反者の生命や財産を奪うという物理的な制裁)を加えることができる状況において、はじめて秩序が形成されるという見 方である。 しかしながら、強制力の行使だけで安定的な秩序形成が可能だと考えるなら、それはあまりにも一面的である。人間 とは言葉を用いる存在であり、言語──それが話し言葉か、書き言葉かは括弧に入れるとして──を用いた相互交流に よって自ら積極的に秩序を形成していく可能性を秘めている。たとえ異なる利害や意見をもつ者とであっても話し合い や説得や譲歩を重ね、また仲間として親密な関係を築くことで相互理解を深め、最終的に何らかの共通了解と合意に到 達する。とりわけ、民主政治にとって、こうした相互交流の場が、単に名目的にではなく、豊かな実質を伴うものとし て市民と市民の間に確保されていることがきわめて重要である。有権者や政治家が、自らの利害に頑なにとらわれ他人 の意見に耳を閉ざしたり、根拠の曖昧な「世論」やトレンドなるものに安易に追従したりという傾向が強まれば、議会 政治は形骸化してしまう。今日、討議 (熟議)デモクラシーに注目が集まる所以である。 他方、言語と政治という問題への考察を深めていくと、そもそも言語とは何か、人間が言語を用いるということの意 味は何か、という根底的な問いに突き当たる。こうした本質的な問いにまで進むことなく、ただ既存の図式にのっとっ て言語と政治を論じるだけでは、政治思想研究の本来の使命を果たしたとは言えなかろう。 『政治思想研究』第一三号が「政治思想における言語・会話・討議」という特集を組んだのは、まさにこうした問題 関心に発してのことである。その母体となったのは、特集と同じテーマの下で二〇一二年五月二六日、二七日に國學院 大学において開催された政治思想学会研究会である。研究会の報告者の中から五名の会員に、本号の特集のための論文 、思想史方法論からみるガーダマーの言語哲学 (加藤論文) 、初期 を執筆していただいた。江戸時代の言語論 (相原論文) 1 近代の会話と社交をめぐる思想史 (木村論文) 、議会における討議の意味の再考 (遠山論文) 、議会政治の枠におさまらな い討議 (熟議)の可能性の模索 (田村論文)と、いずれも、特集のテーマに真正面から取り組んだ力作である。 韓国政治思想学会からは、一本の論文をご寄稿いただいた。「デモクラシーと東アジアの未来」をテーマとして、ソ ウルの延世大学で開催された日韓国際学術会議 (二〇一二年七月六日、七日)における報告がもとになっている。会議の開 催から翻訳原稿の作成まで、厳しい時間的制約がある中で多くの関係各氏にご尽力いただいた。 公募論文については、多数の応募の中から厳正な査読をおこない、五本の論文を掲載する運びとなった。政治思想学 会研究奨励賞の対象論文は内三本である。若手からの積極的な応募が多数寄せられたことは心強い限りである。中堅・ ベテランの会員からの応募もさらに増え、質の高い専門学術誌として今後とも発展していくことが望まれる。 書評については、一二冊の著書をとりあげた。会員による学術的な単著であって、原則として二〇一一年から一二年 にかけて刊行されたものの中から、編集委員会において書評の対象となる研究書および書評者を選出した。日本におけ る政治思想研究の現時点での充実した成果を一望できるものになっていることを祈念している。 なお、本号より、学会誌のさらなる発展を期して、編集委員会の体制を見直し、編集副主任職を新たに設け (本年度は 、主任の職務の一部を分担する編成となった。歴代の編集主任がお一人で獅子奮迅とも言える貢献をなされてき 辻康夫) たことに、この機会を借りて改めて敬意を表したい。 本誌の刊行にあたって、財団法人櫻田会から出版助成を頂戴した。本誌創刊以来の貴重な継続的支援である。記して 心からの謝意を表する次第である。 編集の仕事に不慣れな主任にとって、刊行の実務を担ってくださった風行社の犬塚満氏の適切なサポートは誠にあり がたかった。古城毅氏には細々とした編集作業を手伝っていただいた。その他、本誌刊行のために様々な形でご協力い ただいたすべての方に厚く御礼申し上げる。 川 出 良 枝 編集主任 2 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 政治思想における言語・会話・討議 (『政治思想研究』第 号) 〈目 次〉 まえがき ………………………………………………………………………………………………………………………………………… 1 【特集】 文字・文法・文明 ──江戸時代の言語をめぐる構想と闘争 … ……………………………………………………………… 相原耕作 6 「解釈」を解釈する ──思想史方法論としての哲学的解釈学 …… …………………………………………………………… 加藤哲理 初期近代イングランドにおける会話・交際・社交 …… …………………………………………………………………… 木村俊道 妥協をめぐる政治思想 ──ヴィクトリア時代後期におけるデモクラシー・政党・政治的決定 … ……………………… 遠山隆淑 熟議民主主義は自由民主主義的か? ──「熟議システム」概念の射程 … ……………………………………………… 田村哲樹 【韓国政治思想学会からの寄稿】 一般意志の道徳性 ──ルソーの「定言命法」………………………………………………………………………………………呉 守雄 【公募論文】 ハイデガーからアレントへ ──公的領域の原型としての民族 … …………………………………………………… 小林正嗣 立憲の中国的論理とその源泉 …… …………………………………………………………………………………………………李 暁東 135 104 72 39 162 214 183 307 276 245 [政治思想学会研究奨励賞受賞論文] 近藤和貴 プラトン 『メネクセノス』 篇におけるソクラテスの葬送演説 ──帝国主義批判と弁論術の教育的使用について …… ロールズの政治的リベラリズムと宗教 ──公共的理性と宗教的な包括的教説との関係 … …………………………原田健二朗 なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか ──ロバート・フィルマーの思想的「変遷」と「一貫性」 … …… 古田拓也 3 13 『アリストテレス政治哲学の重層性』(荒木 勝) 重層性から核心へ … ……………………………………………………………………………………………………………… 半澤孝麿 ホッブズに潜在する複数の視座 …… …………………………………………………………………………………………梅田百合香 『ホッブズ 人為と自然──自由意志論争から政治思想へ』(川添美央子) 『トクヴィルの憂鬱──フランス・ロマン主義と〈世代〉の誕生』(髙山裕二) デモクラシーにおける政治・宗教・文学の空間 …… …………………………………………………………………………古城 毅 ヒュームの哲学と社会科学をどう架橋するか …………………………………………………………………………………犬塚 元 『ヒューム 希望の懐疑主義──ある社会科学の誕生』(坂本達哉) 『エルンスト・カッシーラーの哲学と政治──文化の形成と〈啓蒙〉の行方』(馬原潤二) 政治神話に抗する文化創造の政治 …………………………………………………………………………………………… 鏑木政彦 『来たるべきデモクラシー──暴力と排除に抗して』(山崎 望) 再帰的な分類の困難さ? … ……………………………………………………………………………………………………… 谷澤正嗣 4 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 【書評】 警察研究の比較思想史に向けて …… …………………………………………………………………………………………… 梅森直之 『震災と治安秩序構想──大正デモクラシー期の「善導」主義をめぐって』(宮地忠彦) 『大正大震災──忘却された断層』(尾原宏之) 明治と昭和の間に思想史的断層を造った「大正大震災」…… …………………………………………………………… 飯田泰三 自己を更新し続ける思想史 ……………………………………………………………………………………………………田頭慎一郎 『歴史という皮膚』(苅部 直) 340 『未完成の維新革命──学校・社会・宗教』(伊藤彌彦) 「一心不独立」の国 …… …………………………………………………………………………………………………………… 吉馴明子 342 338 344 346 348 350 352 354 356 『世俗と宗教のあいだ──チャールズ・テイラーの政治理論』(高田宏史) 世俗と宗教の対話──C・テイラーの場合 … …………………………………………………………………………………千葉 眞 『フェミニズムの政治学──ケアの倫理をグローバル社会へ』(岡野八代) 家族はどこに? …………………………………………………………………………………………………………………… 中村敏子 【二〇一二年度学会研究会報告】 二〇一二年度研究会企画について ………………………………………………………………………… 企画委員長 川出良枝 【シンポジウムⅠ】言語と政治 … 田真司 …………………………………………………………………………………… 司会 【シンポジウムⅡ】政治思想におけるコミュニケーション …… ……………………………………………… 司会 川出良枝 【シンポジウムⅢ】討議(熟議)デモクラシーと議会 ……………………………………………………… 司会 松田宏一郎 〔自由論題 分科会A〕 ……………………………………………………………………………………… 司会 齋藤純一 〔自由論題 分科会B〕 ……………………………………………………………………………………… 司会 山田央子 【国際シンポジウム(国際交流セッション)】イギリス理想主義と政治哲学……………………………司会 杉田 敦 執筆者紹介………………………………………………………………………………………………………………………… 政治思想学会規約………………………………………………………………………………………………………………… 論文公募のお知らせ……………………………………………………………………………………………………………… 政治思想学会研究奨励賞………………………………………………………………………………………………………… 執筆要領 …………………………………………………………………………………………………………………………………………… 二〇一二─二〇一三年度理事および監事 … ……………………………………………………………………………………………… 目次 5 358 360 372 371 370 368 366 364 362 381 380 379 378 377 374 文字・文法・文明 ● ──相原耕作 ──江戸時代の言語をめぐる構想と闘争 序 言語や文明に優劣はあるだろうか。ない、というのが良識ある現代人の答えであろう。しかし、一九世紀ヨーロッパ の近代言語学では、言語を孤立語・膠着語・屈折語に分類し、言語の進化の過程と重ね合わせた。ヨーロッパの言語は 最も進化した屈折語、中国語は最も進化の遅れた孤立語、日本語は中間の膠着語である。また、一九世紀の西洋産文明 論では、歴史は野蛮・半開・文明の段階を辿って進歩し、中国や日本は半開、西洋は文明に位置づけられた。いずれも 西洋中心主義の所産に過ぎないのかもしれない。しかし、言語と文明の優劣という発想は、かつての日本でもそれほど 奇異なものではなかったと思われる。 歴史上、殆どの期間を「後進国」として過ごしてきた日本は、先進国の文明を、優れた「文明」として認め、輸入し 続けてきた。その痕跡は、日本語という言語の中に刻みつけられている。近代以前は、中国から漢字・漢語を輸入し、 漢字から平仮名・片仮名を作り、文体にも影響を受けた。近代以降も、漢語による翻訳、片仮名表記、アルファベット の利用など、様々な形で西洋の言語を日本語に組み込んだ。言語は文明を伝えるメディアであり、先進的な文明を輸入 6 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 するためには先進的な言語を取り入れる必要があったのである。 しかも、言語は単なる手段ではない。言語と文明は結びついており、高度な文明を生みだした社会の文明的な言語は、 コトバ ワザ ココロ 未開で野蛮な社会の未開で野蛮な言語より優れていると考えるのは、かつてはそれほど不自然ではなかったと思われる。 う ひ やまぶみ(1) 江戸時代の国学者である本居宣長は、「大かた人は、言と事と心と、そのさま大抵相かなひて、似たる物」だと述べて (2) 。人の話す言葉、人の行為・行動、人の心のあり方には類似性・対応関係があるのだとすれば、言語 いる (『宇比山踏』) のあり方と文明のあり方には関連性があると考える余地が出てこよう。例えば、漢字は中華文明を象徴する優れた文字 (3) であった。明治の文明開化の時代にも、「文華燦然たる支那の文字」と表現されている (西村茂樹「開化の度に因て改文字 。 を発すべきの論」『明六雑誌』第一号) しかし、文明開化に相応しい文字は漢字だったのだろうか。『明六雑誌』第一号の巻頭を飾った論文は、西周 (一八二 九─一八九七)の「洋字を以て国語を書するの論」である。漢字ではなくローマ字で日本語を書くことを西周は提唱した。 (4) 西洋文明の導入を急ぐ洋学者の浅薄な議論に見えるかもしれないが、これに応答して、『明六雑誌』上で西村茂樹・清 水卯三郎・阪谷素らが、西とは異なる言語構想を展開している。 (5) この論争のなかで理解されることはなかったが、西周の議論の特徴は、文字と言語を明確に区別したうえで、文字改 革の先に日本語を文明的な言語に改造するための文法構想を抱いていた点にあると思われる。「文華燦然」たる「文明」 や言語を記す「文字」と異なり、 「文法」は目に見えない。「文法」を認識し、構築することは、そう簡単なことではない。 だが、西周に先立って、江戸時代の学者たちはこの困難な課題に取り組んでいた。 江戸時代には、主に、古典中国語・古典日本語・オランダ語をめぐって、儒学者・国学者・蘭学者による言語研究が 行われた。文字も音韻体系も文法体系も異なる三つの言語は、異なる文明を背負っていた。言語に関する構想は、自他 の文明の認識に関わる闘争でもあった。これはそれ自体として興味深いと同時に、西洋語のみならず儒学にも国学にも 通じていたと思われる西の言語構想を理解するうえでも、有益な示唆を与えてくれるであろう。 相原耕作【文字・文法・文明】 7 一 「中華の言語」と「夷狄の言語」 ──儒学者の言語論 1 「中華の言語」と「夷狄の言語」の違い まず、儒学者の中でも、言語に対して自覚的に取り組んだ古学派の議論を見てみよう。古学派は、日中間の言語の相 違や時代による言語の変化に自覚的であり、後世的注釈を排除して原点=原典回帰する点で国学者に影響を与えると同 時に、彼らの文献との向き合い方は、蘭学者にも影響を与えている。 「華夷の弁」(中華と夷狄の区別)からすれば、中国語は「中華の言語」、日本語は「夷狄の言語」である。「華夷の弁」 「夷狄の言語」という表現こそ使わないものの、 は朱子学者の偏見だとする伊藤東涯(一六七〇─一七三六)も、「中華の言語」 日本語を「国語」「方言」と表現し、一国・一地方でしか通用しない地域語と捉えるのに対し、中国語を時空を超える 普遍言語と捉える。 声音之道、唯漢土為得其正、蓋其体用先後之別、虚実主客之弁、詞約而義該、途同而帰殊、故通四方之言而不惑、 垂千載之後而不朽、此其所以可尚也、(声音ノ道、唯ダ漢土ノミ其ノ正ヲ得ト為ス、蓋シ其ノ体用先後ノ別、虚実主客ノ弁、 (6) 詞約ニシテ義該ネ、途同ジクシテ帰殊ナリ、故ニ四方ノ言ヲ通ジテ惑ハズ、千載ノ後ニ垂レテ朽チズ、此レ其ノ尚ブベキ所以ナリ、) (『用字格』「敘」) 序列は明白である。荻生徂徠(一六六六─一七二八) やその弟子の太宰春台(一六八〇─一七四七) は、より露骨に「中華の言語」 と「夷狄の言語」の対照性を描き出している。 両者の大きな違いは文字にある。中国伝統の文字学は、漢字を形音義の三点セット (文字の形=字形、文字の発音=字音、 8 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 文字の意味=字義)で捉える。特徴的なのは「義」で、漢字は表意文字・表語文字である。これに対し、日本語を含む「夷 (7) 狄の言語」の文字は表音文字であり、伊藤東涯も荻生徂徠も、夷狄の文字は「音」だけで「義」「意」がないと指摘し 。漢字だけが形音義を備えた完璧な文字なのであって、伝統的な ている (伊藤東涯『用字格』「凡例」、荻生徂徠『訓訳示蒙』) 文字学には文字と言語を同一視する傾向すらあった。 (8) また、太宰春台は、日本には漢字渡来以前の文字があったという説を「妖妄ノ説」としてきっぱりと否定し、日本が「無 。漢字を基に五十足らずの仮名が作られたものの、数万もある 文字」だったことを強調する (『倭読要領』「日本無文字説」) ハナハダ (9) テンタウ 漢字との優劣は明らかである。音韻構造の面でも、単純な日本語と異なって、中国語は四声を始めとする複雑な仕組み ( ( を備えており、 「 甚 精微」(『倭読要領』「倭音説」」「倭音正誤」)だとする。さらに、日本語の語順は「顚倒」している。「中 。「中華の言 華ノ外ハ、東夷西戎南蛮北狄、言語各殊ナレドモ、顚倒セズトイフコトナシ」(『倭読要領』「顚倒読害文義説」) 語」のみが正常で、「夷狄の言語」はみな逆さまだという認識なのである。 ( (存分に助字を操る大秀才)という言い回しがあった。 「之乎者也矣焉哉」 ある。中国には「之乎者也矣焉哉用得来的好秀才」 ( 「中華の言語」の正常な語順の背後には、どのような文法が隠れているのだろうか。それを解明する鍵が「助字」で 2 「助字」 ──「中華の言語」の文法 た言語だということになる。 も正常であるのに対し、 「夷狄の言語」は、文字は不完全で、数が少なく単純な表現しかできないうえに、ひっくり返っ 以上をまとめれば、「中華の言語」が、形音義を完備した文字を持ち、数が多く、複雑・精緻な表現が可能で、語順 (( は代表的な「助字」であり、大雑把に言って、「実字」(体言)と「虚字」(用言)以外の文字が「助字」である。この言 い回しから窺われるように、「助字」は文中での機能が重要だが、その用法に習熟することは困難であった。 伊藤東涯と太宰春台は、困難な「助字」の用法の解明に熱心に取り組んだ。しかし、中国語の文法構造の解明という 点では確たる成果を挙げることができなかった。「助字」の用法を追究するうちに、あちこちに「法」の裂け目を発見 相原耕作【文字・文法・文明】 9 (( ( ( してしまったのである。春台は、一定した「定法」を批判し、「古人ハ助字ヲ用ルニ活法アリテ一定セズ」と称賛した 、「一定」しない「活法」はむしろ「無法」の証明になりかねない。 が (『倭読要領』「倭読正誤」) 荻生徂徠も、『訓訳示蒙』では「助字」を中心とする「文理」の重要性を強調していた。しかし、やがて「助字」を 中心とする文法構造の究明を断念し、模倣・習熟と「断章取義」に活路を見出すようになる。それが古文辞学である。 ( ( 文法の詳細を解明できないのであれば、古の優れた詩文である古文辞をお手本として、古人同然になるまで模倣・習熟 に励むしかない。古文辞の「断章取義」はそのための重要な方法であった。 ( 。日本語を「夷狄の言語」と言って憚らない儒学者から発信された「て 要性を強調した (『倭読要領』「倭語正誤」「讀書法」) ( 字」と日本語の「てにをは」は同じようなものであるという当時の通念を否定して、日本語における「てにをは」の重 典の模倣・習熟に励んだことは、「断章取義」ではなく文法の解明へとつながった。さらに、太宰春台は、中国語の「助 よりも分かりやすい文法構造を持つ「夷狄の言語」の解明にこそ、有効であった。古文辞学をお手本に国学者が日本古 こから開けてくる。伊藤東涯や太宰春台の助字研究は用例を列挙する実証的なスタイルをとったが、これは「中華の言語」 いずれにせよ、古学者たちは古典中国語の文法構造を解明できなかったのだが、日本語の文法構造を解明する道がこ (( 批判し、古学者同様、原点=原典に帰ろうとする。しかし、歴史をいくら遡っても、外国の影響のない純粋な日本など 外来思想の流入は、日本人の思考様式と言語に変化をもたらした。こうした変化に無自覚な後世的な読みを国学者は 1 国学者のジレンマ 二 五十音図と「てにをは」 ──国学者の言語論 を受けながら、「中華の言語」への反撃を開始する。 にをは」論は、国学者に大きな刺激を与えたであろう。国学者は、儒学者の「夷狄の言語」論に反発すると同時に刺激 (( 10 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 (( 発見できないであろう。国学は、「外国の影響を受ける以前の古の理想世界」という妄想に基づく学問なのである。 こうした妄想に立つ場合、「中華の言語」に対する反撃として直ちに思い浮かぶのは漢字批判である。しかし、国学 者には大きなジレンマがあった。漢字で書かれた文献だけが理想の古への回路だったからである。漢字の向こうに大和 言葉を透視し、古の日本の理想の姿を再現しようとする矛盾を孕んだ困難な営みを、国学者は遂行する必要があった。 事態の深刻さに輪をかけていたのが、同音の文字を書き分ける仮名遣いの問題である。現在の通説によれば、仮名遣 いは日本語の音韻体系が変化したために生じた現象であり、上古には発音が異なっていたから文字も異なっていた。し かし、中世以来の標準であった定家仮名遣いは、万葉仮名で書かれた上古の文献の仮名遣いとは異なっていたから、上 古の文献を正確に読むことができないうえに、上古の仮名遣いが異様で無秩序なものに見えた。しかし、こうした困難 ( ( な状況のなかで言語と向き合ったことが、豊かな学問的成果を生み出し、日本語の優秀性、ひいては日本の優秀性を確 信させることになる。 2 五十音図 国学者の言語研究の重要な拠り所は五十音図である。五十音図を根拠に中国語を攻撃するには、表意文字・表語文字 ( 。 嚢底払』) ( は一音に、各別の語意となる」、テニヲハをちょっと変えるだけで意味を区別できるため、「精しく通じやす」い (『町人 が多いために単純な文字では相互に区別がつかないから、「筆画」の多い複雑な文字となる。しかも、日本語は「手に したがって、「訓語」は数の少ない簡単な文字で十分なのに、「韻語」は多くの文字がなければ意味が通じがたく、文字 詞を聞ぬれば則その語意心に通達す」るが、中国語は「文字を見て始て其意義を知る」ことのできる「韻語」である。 「文字を見ずといへ共、 七二四)は次のように主張した。日本語は、文字ではなく「詞」に意味のある「訓語」であり、 に対する表音文字の優越性を主張するのが一つの方法であろう。例えば、天文学者として有名な西川如見 (一六四八─一 (( ところが、国学者は必ずしもそのような戦略を採らなかった。表音文字の表意文字化・表語文字化を目指した国学者 相原耕作【文字・文法・文明】 11 (( ハ フ クニ コトタマ ノ タスクルクニ ( サ 12 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 たちがいたのである。これは中国の伝統的な文字学の踏襲とも言える。彼らは、五十音図を言語と同一視し、五十音図 に霊妙な意味を与え、漢字に匹敵する、あるいはそれ以上の表意的・表語的機能を五十音図から引き出そうとした。そ うした試みを、具体的に見てみよう。 3 契沖の五十音 まず、国学の方法の基礎を築いたとして評価される契沖 (一六四〇─一七〇一)である。契沖は真言宗の僧侶であり、 彼の語学説には、サンスクリット・梵字の研究である仏教系の悉曇学の知見が生かされていると同時に、真言密教の言 語観の影響が濃厚に見られる。 コトタマ ノ 契沖は、 「声字」が力を持つことを仏教の経典を引きながら説き、日本は「声韻最寥亮詳雅、能通華梵。故言有霊験、 キ 、「言霊之左 祝詛各従其所欲」(声韻最も寥亮・詳雅にして、能く華梵に通ず。故に言に霊験有て、祝詛各々其の欲する所に従ふ) 吉播布国」「事霊之所佐国」だとする。そして、悉曇学の知見を利用して五十音の生成を説明する。 取梵文配和語、其要有十四音。謂安以宇江遠為韻、加左太奈波末也良和為声体。阿雖在韻、兼声諸音本源。九声四 韻相交生三十六音。摠五十音以括天下声韻。(梵文を取て和語に配するに、其の要十四音有り。謂はく、アイウエヲを韻と ( 為し、カサタナハマヤラワを声体と為す。アは韻に在りと雖も、声を兼て諸音の本源なり。九声四韻相ひ交りて三十六音を生ず。 摠て五十音、以て天下の声韻を括れり。)(『和字正濫鈔』序) の声まで」に及ぶ、普遍的な音声である。また、漢字に限らず、 「声字の下に必らす義あり」。さらに、 「諸法」の「根本」 ず。上は仏神より、下は鬼畜に至るまで」また「唯有情のみにあらず、風の木にふれ、水の石に触るゝたぐひの、非情 は、真言密教の言語観の特色である。こうして生じた声や文字は、単なる記号ではない。五十音は、「唯人間のみなら ア行 (「韻」)とア段 (「声体」「声」)が掛け合わさって五十音が生じる。アに「諸音の本源」という特別な位置を与えるの (( ( ( にある「真如」を生じるのは「陀羅尼」であり、「陀羅尼」は「すなはち文字」である (『和字正濫鈔』) 。文字こそ根元的 ( 則に見えた古の仮名遣いの正しさを証明し、五十音図の秩序を確立した。 ( 。こうして、契沖は、無法 と「を」が入れ替わっている五十音図が普通だった)を正した (「お」と「を」の入れ替わりは未訂正) 「え」と「ゑ」、 「お」 真理を探究した結果、契沖は歴史的仮名遣いを発見し、五十音図のア行とワ行の乱れ (「い」と「ゐ」、 なのだ。このように、契沖にとって、五十音図の研究は仏教的世界観の表現であり、真理の探求なのであった。 (( ( 「上世淳朴而無文字。蓋待中華耶」(上世淳朴にして文字無し。蓋し中華を待つか)(『和字正濫鈔』序)とするが、それを認め ( 依拠することである。五十音図の悉曇起源説は当時も珍しくなかったが、悉曇学は外来の学問である。しかも、契沖は 契沖は五十音図の霊妙な働きの探求に貢献したが、国学者にとってはいくつか問題があった。まず、契沖が悉曇学に (( ( 定である。さらに、契沖の五十音図では「お」と「を」の所属問題が未解決であった。 4 賀茂真淵の「天つちのおのづからなるいつらの音」 ( ない。代わりに価値判断を転倒させる。中国語は人為的で、単純な日本語こそ天地自然に適った素晴らしい言語なのだ。 が数が多く複雑で精緻であるのに対して、日本語は数が少なく単純であるという儒学者の事実認定に、真淵は異を唱え 仏教的世界観に依拠する契沖と異なり、賀茂真淵 (一六九七─一七六九)は〈自然対人為〉の枠組に依拠する。中国語 ( 「学識」がないと歴史的仮名遣いが乱れるのなら甚だ不安 葉より以来、学識倶に降りて且つ意を致さず)(同前)と述べるが、 ( の誘惑は抗いがたいものがあった。また、歴史的仮名遣いの乱れについて、契沖は「中葉以来、学識倶降且不致意」(中 たくない国学者もいた。五十音図が悉曇起源で文字も外来というのでは飽き足らない国学者にとって、「神代文字」へ (( カレ コヱ これの日出る国はしも、人の心なほかれば、事少く、言もしたがひてすくなし。事も言も少なかれば、惑ふことな ( ( 相原耕作【文字・文法・文明】 13 (( (( く忘るゝ時なし。故天つちのおのづからなるいつらの音のみにしてたれり。なぞも人の作れるかたを待てものをな さめや。(『語意考 』) (( アメツチ カミロギ ( は天地自然にしたがって言葉を話していたのだから、五十音図が悉曇起源のはずがないとする。真淵によれば、日本の ( ( ノベコト ツヾメコト ウツシメグラシカヨフ ハブク 」であり、「いつらの音」は天地自然に適った「神祖」に起源がある五 古の言葉は「天地の神祖の教へ給ひしこと [言] 。 十音図なのだ (『語意考』) ( ( を駆使し、五十音図上で音を自由自在に動かしながら言葉の意味を説明する。例えば、「ち」は「つりばり」が五十音 。このように、真淵は五十音図を使って表音文字の背後に意味を見出す。 図上を動いて生まれた言葉である (『語意考』) 。助動詞「まし」が登場する余地はなく、文法現象は五十音図の表意的・表語的機能に還元される。 じである (『語意考』) ( ( 略、「しき」は「繁てふ言を下に添て、其言を強からしむる」もので、「うれしき」を「うれし」と「略きいふ」のと同 シゲキ 動詞「まし」〉ではない。真淵によれば、「みむ」の「む」が「ま」に転じて「みま」となり、下の「し」は「しき」の 真淵は文法的な現象もこれと同じスタイルで説明する。例えば、「みまし」(「見たい」の意)は〈「見る」の未然形+助 五十音図は意味を生み出す表意的・表語的機能を果たしているのである。 (( 14 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 「いつらの音」は「五十聯音」、「かた」は文字である。言も事も心も天地自然に適い、文字を用いずとも天地自然の五 十音で足りることこそ、素晴らしいのである。 真淵は、「中華の言語」の特殊性を逆手にとる。「天竺」は「五十字」、「おらんだ」は「二十五字」で事足りるのに、 ( 中国だけが「三万八千」とも言われる数多くの漢字を作る。「唐国のわづらはしく、あしき世の治らぬは、いはんかた イフサマ 。中華文明を象徴する文字は、 もさらなり」、「わづらはしきことをつくりて、代もをさまらず、ことも不便なり」(『国意考』) 中国の無秩序の象徴なのだ。 ( アメ ツチ 。しかも、天竺には「かた」があるが日本だけは「かた」がない。そこから五十音図の悉 じ理り」だとする (『国意考』) ( 一方、真淵は、天竺の「五十の声は天地の声」であり、「万のことを云様、五十音の通ふことなど」は古の日本の言葉と「同 (( 曇起源説も出てくるのであろうが、真淵はそれを否定し、「ことゝふは天地のちゝはゝの教」であり、日本の古の人々 (( 真淵は、神秘的な五十音図に従って音が伸縮自在に動くと考え、「延言」「約言」「 転 回 通 」「 略 言」といった手法 (( 日本語のあらゆる現象は五十音図がもたらすのだ。このような、五十音図を金科玉条とする真淵の語学説を起点として、 (( 五十音図の表意的・表語的機能を肥大化させる議論が広がってゆくことになる。 真淵にとっての難題は、日本の文字はいつ誕生したのか、という問題である。文字が人為の産物ならば、漢字渡来以 前に文字がなくても問題ないかもしれない。しかし、天地自然の五十音が神祖に始まり、漢字や悉曇学の渡来以前から あったのだとすれば、それを記す文字がないのでは不満も残る。真淵は、文字なしで成り立つのが天地自然に適った古 すめら み くに の日本の秩序だと称賛し、「字をもからで、よしもあしも、やすくいはれて、わづらひなし」と言いつつも、天竺のよ ( ( うに「 皇 御国も、いかなる字様かはありつらんを、かのからの字を伝へてより、あやまりて、かれにおほはれて、今、 むかしの詞のみのこれり」(『国意考』)とも述べる。「漢字以前の文字」への誘惑を、真淵は断ち切れないのであった。 ( ) 。同音の書き分けではなく、音が違うから文字が違うという発想の萌芽が見られる。これを十全に展開したのが 意考』 ( なお、真淵は、 「お」と「を」、 「い」と「ゐ」、 「え」と「ゑ」は、古には音の区別があったはずだと指摘している (『語 (( 真淵の弟子の本居宣長であり、必要以上に展開したのが宣長の没後門人である平田篤胤である。但し、宣長は五十音図 を金科玉条とする語学説には冷淡であった。五十音図の神秘化を推し進め、真淵の難題を軽々と乗り越える「神代文字」 の論を展開したのは、平田篤胤である。 5 平田篤胤の神代文字と五十音図 すめらおおみくに よろず もと み はしら み くに 平田篤胤 (一七七六─一八四三)の「転訛」の論理は、漢字文献に依拠しなければならない国学者のジレンマを解消す すくなびこなのかみ おおくにぬしのかみ おお な もちのかみ ( ( るコペルニクス的転回であった。「皇大御国」は世界で最初に生まれた「万の国」の「本つ御 柱 たる御国」であり、外 。したがって、日本から発したもの 国は「 少 彦名神」と「大国 主 神 」(大名 持 神 )が日本から渡って造った (『霊の真柱』) たか み む す び あめ かむ み むすびのかみ つち よみ かむ ろ ぎ かむ ろ みのみこと 「天地初発」から「天孫降臨」に至る神話を手掛かりに、天・地・泉 (それぞれ太陽・地球・月を指す)の生成を論じた『霊 胤は語学説にも適用して、外来の要素を自在に利用する。 が形を変えて外国に「転訛」していったのであり、「外来」とはそれが日本に戻ることなのである。こうした論理を篤 (( の真柱』で、篤胤は、天地を造った「高皇産霊・神皇産霊神」=「神魯企・神魯 美 命 」が、天孫降臨の際、自ら直接、 相原耕作【文字・文法・文明】 15 (( ( あまつ の り と ( ふとのりとごと ( 神話と相即的に言語の生成について語る。 ( ( ( ( ( かむ な ひ ふみ メ ヲ マグハヒ ひ ふみよそぢまりなヽこゑ アリカタ ( ( アラ また、篤胤によれば、五十音の生成の順序と五十音図の五段十行の配列は、天地の生成の順序と上下の序列にぴった に元から備わっていた。 五十音図が作られたのは応神天皇の時代であるが、五十音図に表現される「定格」は「天地を鎔造し給へる神の大御言」 ながらあらゆる言語が生まれてゆく。また、五十音の生成の様子に適った「神字」が作られ、さらに五十音図が作られた。 カム ナ わしたのが言語の起源であり、「天地自然の声音」たる五十音である。五十音には「音義」があり、それが「活用」し かれて行く一連の過程を、天地の生成者として目の当たりに目撃した「皇祖神等」が、その「形象」を「声」に「形」 ミ オ ヤ ガ ミ タチ 言語の生成から五十音図の形成に至る道筋は次の通りである。「天地初発」の際、「陰陽構合」から始まり、天地が分 (( 「皇 り合致している。そして、あらゆる言語は、こうして生まれた五十音を二つ組み合わせた「二言」で説明できるという。 (( 仮名と漢字の間を自在に往復しながら「音義」を説く。これは恣意的な語呂合わせにも見えるが、あらゆる言語は日本 利用した演繹的な推論によって説明可能となるのである。篤胤は、五十音を「活用」させながら適宜に漢字と組み合わせ、 生成とともに生まれた「五十音」の「音義」とその「活用」から明らかにできるから、あらゆる日本語は、五十音図を 千五百言」とその「活用」によって「古言解釈の定式」を立てることができて、基本となる「二言」の「音義」は天地 国の言語」も、「二言」を組み合わせた五十×五十の「二千五百言」が「転用蔓延して。千言万語と成れる物」であるから、「二 (( 16 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 天孫に伝えた「 天 祝詞の大 詔 事 」に、言語の起源を見出す。これは「古語の麗しく、世の人の声音も言語も雅にして、 ( ( 万の国に比類なき」ものであり、「皇国と同じ言語」が伝わって外国の言語となったはずで、「万の国の言語、元は、一 つなるべき理」だと述べている。 ( 神代文字に認定する。「日文」は、縦の五画 (「母」)と横の九画 (「父」)からなる、母音と子音を組み合わせた文字であ ( 『古史徴開題記』「神世文字の論」で「神世字」の存在を主張した篤胤は、『神字日文伝』で「日文 四 十 七 音」を真の (( (( 「諺文」こそ、神代文字を利用して朝鮮で作られたとした。 る。この造字法はハングル (「諺文」)に似ているが、篤胤は、 (( ハングルの造字法は、文字生成以前の言語の生成に関する考察へと篤胤を誘ったらしく、『古史本辞経』は、天地生成 (( 生まれであって、天地の生成とともに生まれた「皇国の言語」は、 「諸の外国にも。普ねく伝用せしめ」たものなのだ。 ( ( ( ( 皇国の「訓語」が中国で「音語」に訛ったのだから、漢字を使って皇国の言語を説明できるのであり、時には漢字の音 読みすら、日本の「古言」が伝わったものと見なされるのである。 また、天地初発に遡って五十音と音義の生成を構想した篤胤は、完璧な五十音図を手に入れた。通常の五十音図は、 ( ( 国学者もいた。本居宣長 (一七三〇─一八〇一)である。 ( 五十音図は漢字に優るとも劣らぬ表意的・表語的機能を獲得していったが、それとは異なる特異な語学説を展開した 6 本居宣長の「皇国ノ正音」と「てにをは」論 る。 ( のである。篤胤以降、このように肥大化した五十音図を様々に利用しながら、「音義言霊派」が展開してゆくことにな 外来の要素を排除する必要がなくなり、諺文や漢字や梵語を包摂し、文字学も悉曇学も飲み込んだ語学説が構想された 以上のように、篤胤の五十音図は、言語の生成の原理であり、天地・宇宙の反映である。そして、天地初発に遡れば たはずである。神代の五十音は五十音がきちんと分かれた完璧なものだったのだ。 義も活用も異なる。 「いと微」な差とはいえ、元々は異なる音で、「神字のみ用ひし世の古書には。決く其の仮字の差別有」っ ア行のイウエ、ヤ行のイエ、ワ行のウが重なるが、篤胤によれば、ア行ヤ行ワ行は異なる段階で生成した音であり、音 (( (( ( ( ( ノ 。他方、宣長は神代文字をきっぱりと否定し (『古 と呼び、中国語の「不正ノ音」に対置した (『漢字三音考』「皇国ノ正音」) ( 宣長は、 「お」と「を」の所属を正して秩序正しい五十音図を完成させると、完璧な日本語の音韻体系を「皇国ノ正音」 (( (( ノ ( ( 。五十音図があ コレヲ借用ルノミニコソアレ。彼図ニヨリテ此妙用アルニハアラズ」(『漢字三音考』「皇国ノ漢呉音ノ論」) リ ) 、実にあっさりと五十音図の悉曇起源説を肯定する。「彼図ハタマタマ此正音ノ妙用ニ符合セル故ニ。 事記伝』「文体の事」 (( るから日本語が機能するのではない。日本語の機能を説明するのに都合がいいから五十音図を利用するのである。 (( また、宣長は、天地自然が正の価値を持つとは考えない。「人ノ声音ハ其郷土ノ自然ニ出ル」から「正シキ地ハオノ 相原耕作【文字・文法・文明】 17 (( ( ( ヅカラ正シク」「正シカラザル地」では正しくない (『漢字三音考』「漢国ニテ漢音呉音ノ事」) 。日本の「正音」も中国の「不 正ノ音」も「自然」なのであって、五十音が素晴らしいのは、「自然」だからではなく「正音」だからなのだ。「正音」 の根拠を、宣長は五×十の五十音図に整理されるような秩序性に見出す。五十音図に乗る音は、「清朗」 「単直」 「純粋正雅」 ( ( ノ ( ( で乱れることのない、秩序ある音なのである。また、 「人ノ正音」は五十音図に「全備」しているから (『漢字三音考』「皇 クチ コトバ コヱ ワキタメ カク ( (( ナ ワキタメ リ ( ( 。こうして、古の日本語の秩序は強固なものとなった。 の「みだれ誤りたること一もなし」(『古事記伝』「仮字の事」) ツ は仮名遣いを厳密に実践するのは困難であるが、発音が異なるなら発音通りに書くだけだから、古の書物には仮名遣い に音が次第に「乱れて」「イウ」と発音するようになったために仮名遣いの問題が生じたのである。同音の書き分けで と「ゐ」、「え」と「ゑ」に限らない。例えば、「言ふ」は「イフ」と発音したから「言ふ」と書いた。ところが、後世 「い」 らその仮字の差別は有けるなり」、発音が違うから文字が違うのだとする。これは、真淵の指摘した「お」と「を」、 カ さらに、宣長は、古の仮名遣いについて、「みな恒に口にいふ語の音に、差別ありけるから、物に書にも、おのづか ツネ 国語が「精微」であることを強調した太宰春台に対する、痛烈な反撃である。 。中 とする外国の音は「溷雑不正ノ音」で「鳥獣万物ノ声」に近いとして秩序性を剝奪する (『漢字三音考』「皇国ノ正音」) ( が古の日本語には存在しなかったことを論証して「皇国ノ正音」の秩序性を確固たるものとすると同時に、中国を始め (( ( レ レ (『詞の玉緒』 ) があると考え、上下の呼応の法則として、一貫したものとして説明する。さらに、「てにをは」の「活用」 だまり」 ( 象を「てにをは」の「活用」と呼び、「てにをは」には係り結びの法則に典型的に見られる「本末をかなへあはするさ 以上のように、宣長の五十音と五十音図の見方は特異であるが、文法の論じ方も特異である。宣長は日本語の文法現 (( ( ( 。音の数は少なくても無限の 幾千万ノ言語ヲ成ストイヘドモ。足ザル事ナク尽ル事ナシ」(『漢字三音考』「皇国言語ノ事」) タラ という文法体系と「皇国ノ正音」という音韻体系とを関連づける。「用ル音ハ甚少ケレドモ。彼此相連ネテ活用スル故ニ。 (( 五十音図上で音を動かす立場とは異なる。宣長は、 「皇国ノ正音」が不動の秩序正しい音だから「てにをは」の「活用」 「活用」によって豊かな言語表現が可能となるのである。こうした議論は、文法現象を五十音図の霊妙な機能に還元し、 (( 18 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 (( ) 、五十音図からはみ出る音は「不正ノ音」である (『漢字三音考』「外国音正シカラザル事」) 。宣長は、 「不正ノ音」 国ノ正音」 (( か がい か の法則が成り立つと考える。「皇国ノ正音」は動かないことに意味があるのだ。宣長は、古の日本語の「音」と「仮字」 ( ( は「死物」であり、「死物の音、又死物の仮字をつらねて言語となりたる所に、活用はある」と主張する (『呵刈葭』上、 。「死物」である「皇国ノ正音」を前提に「てにをは」の「活用」の法則は成り立つのである。こうして、〈死 第十四條) 物─活用〉という独特の言語認識が生まれた。これは、少ない要素でも精緻で複雑な表現を可能とするメカニズムである。 そして、宣長は、漢字を表音文字として「死物」化することに徹して、 『古事記』に使われた漢字の意味に囚われずに、 漢字の背後にある古の言葉を読み取ろうとした。 上述のように、太宰春台は中国語の「助字」と日本語の「てにをは」の対応関係を否定し、 「定法」を批判して「活法」 を提示したが、これは意図せずして宣長に「中華の言語」を批判する論拠を提供したと思われる。宣長によれば、中国 語の「助字」には「てにをは」と違って法則性がなく、無秩序な「不正ノ音」では「活用」が成り立たないから、精密 ( ( な表現はできない。宣長は、「皇国ノ言ハ生言。異国ノ言ハ皆死言ノ如シ」(『漢字三音考』「漢国字多キニ過テ音足ザル事」) と極論する。文字を意味から切り離して五十音図の表音的機能を徹底し、文法論と組み合わせるという新しい言語構想 ( ( 日本語も音声を通じた言語学習はできなかったが、慣れ親しんだ文字と慣習的な発音を使って研究することができた。 ダ通詞と異なって、音声を通じた言語学習をする機会が限定されるなか、苦闘を重ねることになる。古典中国語や古典 国学者が儒学者の言語構想に反撃していたのと同じ頃、江戸で蘭学が興った。初期の江戸の蘭学者は、長崎のオラン 1 アルファベットという難問 三 蘭学者の苦闘 ──文字から文法へ によって、宣長は、「中華の言語」に対する完璧なる勝利を宣言したのであった。 (( しかし、蘭学者にとって、アルファベットは非常に奇妙な文字であり、文字の習得に労力を割かざるを得なかった。ア (( 相原耕作【文字・文法・文明】 19 (( ( ( ( ( ( ( 音することはない。漢字にも仮名にも存在しない奇妙な現象であり、文字の名称と形を覚えただけではアルファベット いう名称だが、単語のなかで「アー」と発音するとは限らない。bの名称は「ベー」だが、単語のなかで「ベー」と発 さらに、アルファベットは表音文字にしては複雑であった。まず、文字の名称と発音が一致しない。aは「アー」と 中国にもなかったから、特に注意が向けられている。 マ数字やアラビア数字があった。これらは表意文字というべきであろう。数字を表す特別の文字という発想は日本にも 体があるのと同様の現象だと蘭学者は捉えているが、見慣れぬ文字だけに習熟する必要があった。また、数字を表すロー まず、文字の数は二六ではなかった。大文字・小文字の他、様々な字体があった。漢字に楷書・行書・草書などの字 (( 20 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 ルファベットは如何なる意味で難問だったのだろうか。 ( 「アベセデ」は「我国ニテハ阿蘭陀伊呂波ト云」と青木昆陽 (一六九八─一七六九)が述べているように (『和蘭文字略考』 、アルファベットが表音文字であることは明らかに見える。数も二六字 (iとjを一つとして二五字と数える場合も 巻之一) ジ ( 俗語ノ差別ナシ、故ニ師ナクシテ天地ノ理ニモ通ズル也。其簡弁カクノゴトシ。(『和蘭天説』「凡例 」) ( ・「科斗蚊脚」(前野良沢『和蘭訳文略』)のアルファベットはかなり奇妙な文字に見えた。 体新書』凡例) (( 江漢がオランダ語を真面目に勉強しなかったからであろう。実際には、初期の江戸の蘭学者にとって、「文字曲釘」(『解 (( (( 表音文字は発音が分かるだけでは意味が分からないということを無視した、お気楽に過ぎる発言であるが、これは司馬 ( 彼国音ヲ以テ通ズルユヘニ、天理・地理ニ通暁セント欲セバ、其書ヲ視コト日本ノ仮名ヲ読ガゴトシ。嘗テ雅言・ 「迂遠〈マハリトヲシ〉」なことは必要ないとする。西洋の国々も「訓語」の地域である。 ウ エン ければ読むことが出来ず、「素読」ができても先生に意味を聞かなければ理解できないのに対し、「訓語」にはそういう 一体の漢字のみを「文字」と呼び、「仮名」のような「訓〈ヨミ〉ヲ以テ字トス」る場合と区別して、「文字」は学ばな クン 多い)と少なく、マスターするのは容易に見える。例えば司馬江漢 (一七三八または一七四七─一八一八)は、形音義三位 (( をマスターしたとは言えなかった。この奇妙な文字を連ねると単語ができる。杉田玄白 (一七三三─一八一七)は、「文字 を並べ、一語を認候事を「スペルド」と申候。日本の仮名づかひと同じ事にて御座候」(『和蘭医事問答』巻之上、 斎杉田 ( ( 先生答書)と述べているが、オランダ語の綴りは日本語の仮名遣いより遥かに複雑であった。なぜならば、同じ文字でも ( ( ( (( ( ( (( 語と語順が逆であるという捉え方は中国語の場合と同じであるし、「助語」は古典中国語の重要な要素である。名詞・動詞・ ( 青木昆陽は「其言語我国ノ言語ニ比スレバ甚ダ倒シ。且助語多クシテ、会得シ難シ」(『和蘭話訳』)と述べている。日本 ( 語より日本語に似ていると考えてもおかしくないが、初期の江戸の蘭学者は中国語になぞらえたようである。例えば、 中国語は形態変化が一切なく、表意文字・表語文字を使うから、表音文字を使い語形が変化するオランダ語は、中国 2 蘭文直読か蘭文訓読か 初歩を身につけたうえで、日本語とも中国語とも異なるオランダ語をどのようにして読んだらよいだろうか。 文字を習得し、綴りと発音に注意しながら単語を学び、語彙を増やすことは、重要とはいえオランダ語の初歩に止まる。 した。「洋字を以て国語を書する」のはオランダ語を習得するための手段だった。 して発音を記し、五十音図に類する表を作って綴りと発音を視覚的に捉える努力をし、日本語をローマ字で綴る練習を ( からである。こうした問題に習熟するために、蘭学者は、アルファベットの二字・三字の組み合わせを系統的に書き出 綴り方によって発音が変わる場合が多く、読まない文字すらあるなど、表音文字にしては綴りと発音の乖離が甚だしい (( のかもしれないが、その能力はなかった。ただ、古文辞学の立場を確立した徂徠は訓読も認めている。徂徠の語学書『訳 を主張したとされているから、初期の蘭学者もオランダ語を直読したと解したくなる。しかし、彼らは直読を目指した しばしば指摘されるように、荻生徂徠の古文辞学が蘭学者に影響を与えており、徂徠は漢文訓読を否定して漢文直読 様である。このように古典中国語とのアナロジーで捉えると、オランダ語をどのように読むことになるだろうか。 、古典中国語の場合と同 形容詞のような実質的な意味を持たないあらゆる単語に「助語」のレッテルを貼るのも (後述) (( 文筌蹄』の「筌蹄」とは、魚やウサギを捕らえるワナであり、目的が達成されたら捨てられる手段である。しかし、魚 相原耕作【文字・文法・文明】 21 (( ( 22 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 やウサギを捕らえる前に捨ててはならないのであって、直読できるようになるまでは訓読も必要な手段なのである。初 期の江戸の蘭学者たちも、目的を達する前に「筌蹄」を捨てるようなことはせず、訓読に頼り続けた。 ( 例えば、『訳文筌蹄』を踏襲したと思われるタイトルを持つ、前野良沢(一七二三─一八〇三)の『和蘭訳筌』が紹介する「蘭 化亭訳文式」は、漢文訓読ならぬ蘭文訓読である。単語の下に漢字・漢語で「訳字」を書き、意味の通る順番に訓点を レバ、顚倒セズシテモ発悟スルナリ」。そうすると、漢文の場合に「上ヨリ下ヘ順直ニ読ミ下シテ、其義通ズル」状態 と同様の「顚倒」を用いるのは、「旧染」ではあるけれどやむを得ない。しかし、「功ヲ積テ、助語ノ意ヲ自然ニ解シ得 迂遠に見えるが、文法的に理解できない以上、そうするより仕方ないのだろう。この段階で「支那ノ書ヲ和読スル」の に教えてもらった「訓訳ノ全文」を「幾遍トモ無ク熟読・暗誦スレバ、自然ニ氷釈シテ、其義通ズルモノナリ」とする。 受けても、「文章ノ語路、是マデ読ミ馴レタル支那ノ書籍ノ趣キニアラザレバ、初学ハ容易ニ暁リ難シ」、そこで、先生 示すが、その煩雑さは漢文訓読の比ではない。大槻玄沢 (一七五七─一八二七)によれば、先生に質問し、詳しく教えを しかし、「筌蹄」としての蘭文訓読も容易ではない。前野良沢は甲乙丙丁などの返り点を駆使して訳字を読む順番を 仕方がなかったのである。 語的に訳すには、漢字・漢語が便利なのだ。蘭文直読からは二重三重に遠い方法であるが、文法的に理解できない以上、 かなる品詞にもなりうるし、形態変化もないから、意味がよく分からず、文法的理解もできない段階で、とりあえず逐 も分からない段階では日本語の単語に置き換えることは不可能なのである。これに対して、漢字・漢語は文脈次第でい よって単語の形態が異なるうえ、用言は次につながる言葉との関係で活用形が異なるから、品詞も単語同士のつながり 興味深いのは、最初の段階で日本語を使わないことである。これは、恐らく日本語の特質に関わる。日本語は品詞に 有効だったのであろう。 正確な理解に到達できるのか、甚だ疑問であるが、文法的理解が及ばない段階では、このような方法が「筌蹄」として この方式は、文法的理解ぬきに、単語レベルの逐語訳をうまく並べ替えて文の理解につなげる方式であろう。どこまで 振ったうえで、訳文を示すのである。「助辞」には「訳字」をつけず「○」を付けるのは、漢文の置き字のようである。 (( ( ( になるのと同様、「却テ其義ヲ明白ニ解シ得ルコト」にもなる。「蘭語ヲ悉ク倭語・漢語トナシテ読ントスレバ、却テ其 、そうなるまでは訓読を用い、古文辞学の如く、ひた 義ヲ失フコト多」いから直読が望ましいのだが (『蘭学階梯』訳章) ( 会得スルコトナリ。(『蘭学階梯』助語) ( 乎ノ如ク、自ラ其義通ズベケレドモ、和語・漢語ヲ以テ一々切当〈アテ〉シ難シ。誦読数遍ニ及ベバ、自ラ其旨ヲ オ 然レドモ、前後文章ノ応接ニ随テ其意転ズルヲ以テ、一定ノ義ヲ得難シ。順直ニ読ミ下ストキハ、支那ノ焉・矣・也・ 助語ハ蘭語「リットウ ヲールド」ト云フ。其数ト其転意ト甚ダ多端ナリ。能クコレヲ会得セザレバ、其書貫通シ難シ。 蘭文理解の一つのカギになるらしい「助語」について、大槻玄沢はこう解説している。 3 「助語」と文法 すら模倣し習熟して、「自然ニ」分かるようになるまで努力するしかないのである。 (( ( ( 松村明氏は、「リットウ ヲールド」は冠詞のことだが、大槻玄沢が「助語」として扱っているものには「冠詞のほか、前 置詞・接続詞・副詞・一部の動詞など、かなりひろい範囲の語が含まれる」としている。「助語」を幅広く設定するの ( ( 。荻生徂徠は初期には「助語」(助字) シテ、卒ニハ大業成熟シテ、其功必大ヒナラン」と述べている (『蘭学階梯』学訓) ツイ ハ、類ニ触レテ自然ニ活法ヲ悟リ、何レノ書、何レノ説ト云フトモ、既ニ其要領ヲ得テ、日夜尋思スレバ、霊慧自ラ発 オ 階梯』に記した「学問ノ大要」をよく理解し、「務テ言辞数語ヲ記臆シ、助語ノ使用等ニ意ヲ用ヒ、読書ヲ倦ザルトキ は古典中国語の場合と同様であり、「支那ノ焉・矣・也・乎」は代表的な「助字」である。さらに、大槻玄沢は、『蘭学 (( キ ク シタガ ルイ フレ 大槻玄沢の「助語」に関する議論は古学派の古典中国語研究を忠実になぞるかのようであり、 「活法」に関わる表現も、 を重視していた。伊藤東涯や太宰春台は助字の「法」を解明しようとして苦しみ、春台は「活法」を提示するに至った。 (( 太宰春台『倭読要領』「倭読総説」の文言、「只要領ヲ得テ、其規矩ニ循ハヾ、類ニ触テ自然ニ活法ヲ悟ルベシ、…既ニ 相原耕作【文字・文法・文明】 23 (( ジン シ レイケイ オノヅカラ ツヰ テイ ( ( 要領ヲ得テ、日夜尋思スレバ、霊慧 自 発シテ、卒ニ大体ヲ得ルナリ」を見事に踏襲している。しかし、春台は中国 語の「助字」と日本語の「てにをは」の違いに自覚的であった。それにも関わらず、「助字」の概念を安直にオランダ 語に適用したことで、大槻玄沢はオランダ語の文法現象を文法現象として捉え損ねたのではないだろうか。 後年の大槻玄沢は、「後々ニハ、毎語ニ訳字ヲ施シ、順逆廻環ノ訓点ヲ為セシニモ及バザレドモ、心ニハ逆読顚倒ノ ( ( 意ヲナシテ、推シテ大意ヲ得シモノナリ。コレモ、草創ノ時ニハ優レシカナレドモ、実ニ靴ヲ隔テヽ痒ヲ掻クガ如キコ ト多カリシナリ」と述べている。「直読」しなければ「真ノ意味」は分からない。しかし、自分達がこれまで「彼書ヲ ( ( 推シテコレヲ解シ、中カニハ也矣焉ノ類、方言ノ訓ヲ施シガタキ字ハ、置キ字トテ読ムコトナクシテ、コレヲ解了シ、 。 其大意ヲ失ワザル如ク」にしてきたのとよく似ていたという (『蘭訳梯航』) ( ( 解した「読法」によって教えを受ければ、「其真法を得て、正訳も成就すへし」(『蘭学事始』)と称賛しており、玄沢の長 ( や馬場佐十郎 (一七八七─一八二二)らによって進められていた。杉田玄白は、彼らの「属文並に文章法格等の要」を理 ( しかし、蘭文訓読式とは異なる「正式」の文法学習が、オランダ通詞出身の中野柳圃 (志筑忠雄)(一七六〇─一八〇六) (( ( 。大槻玄沢も、この方法を「正法」「正式」と呼び、「即今都下 は馬場佐十郎より始まったとしている (「蘭学事始附記」) ( 「蘭学の真面目を得る」は中野柳圃を始めとし、 「此学の都下にて真面目を得る」 男、大槻玄幹 (一七八五─一八三七)は、 (( (( ( ( 。 及ばなかったようである (『蘭訳梯航』) ( ( 其要領ヲ得ガタカルベシ」、「未ダ学バザル所ナレバ、詳説スルコトヲ得ズ」と述べており、ついに詳細な文法学習には ノ旧法廃シテ、新法正式ニ一変セルナリ」と高く評価している。ところが玄沢自身は、「旧法ニ痼スルヲ以テ」「容易ニ (( 大槻玄沢は、『蘭訳梯航』でも太宰春台の『倭読要領』をお手本に蘭文解釈について説明している が、漢字を言語と (( なかったのではないだろうか。 同一視しがちで文法研究があまり発展しなかった古典中国語研究との類推でオランダ語に向かう限り、文法学習は進ま (( 24 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 (( 推解シテ、其助語等、其正式ヲモ知ラズシテ、仮リニ「テニヲハ」ヲ施シ、ソノ訳文セシ」は、漢文を「順逆廻環シ、 (( 四 言語と「文明」 1 儒学 言語に関する様々な構想を踏まえて、簡単に「文明」について述べておきたい。 儒学者にとって、形音義を備え、数万にも及ぶ、完璧な文字である漢字は、「中華の言語」としばしば同一視される ものであり、文明の象徴であった。また、中華文明の証は「礼」であり、夷狄よりも倫理的・道徳的に優れていると考 えられていた。 これに対し、「夷狄の言語」を使う無文字社会であった古の日本は、太宰春台によれば、「道」の無い、禽獣同然の野 蛮な世界であった。 候。和訓なき 日本に道といふこと無き証拠は仁義礼楽孝悌の字に和訓なく候。凡日本に元来ある事には必和訓有 之 レ は日本に元来此事無き故にて候。礼義といふこと無かりし故に、神代より人皇四十代の頃までは、天子も兄弟叔姪 夫婦になり給ひ候。其間に異国と通路して、中華の聖人の道此国に行はれて、天下の万事皆中華を学び候。それよ ( ( り此国の人礼義を知り、人倫の道を覚悟して、禽獣の行ひをなさず、今の世の賤き事までも、礼義に背く者を見て は畜類の如くに思ひ候は、聖人の教の及べるにて候。(『弁道書』) 「礼」という漢字はむろんのこと、それに対応する言葉すらなかった古の日本は、倫理・道徳の存在しない、野蛮その ものの世界であった。漢字を伴う中華文明の到来とともに、ようやく日本は野蛮な状態を抜けだし、人倫の道が行われ るようになっていったのである。 相原耕作【文字・文法・文明】 25 (( きるのだろうか。 ( この点、文法を「発見」した本居宣長は、日本語は中国語より精緻・精密だから素晴らしいのだと考えることができた。 反文明の立場に立つことを必要としなかった宣長は、 レ 又もろこしの国なとは、諸の戎の中にては殷富の国と聞えたれとも、皇国に比すれは猶おとれり、皇国は彼に比す れは、境域はこよなく小狭なれ共、田地甚多くして人民の多きこと、彼国のよく及ふ所にあらす、彼国なとは土地 ( ( こそ広大なれ、それに応じては山沢曠野多くして、皇国にくらぶれば田地甚すくなく、人民甚稀少也、…大かた戸 口稠密にして、殷富隆盛なること、宇内に於て皇国に及ふ国なし、(『呵刈葭』下、第二條) と主張する。日本は、中国どころか世界に例を見ないほどの繁栄を実現しているのである。 26 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 2 国学 古の日本を理想とする国学者はこれにどう対抗するのか。賀茂真淵や本居宣長は、「仁義」などの徳目に対応する言 ( 葉が古の日本になかったのは事実だが、それは言葉にするまでもなく「仁義」などの徳目が実現していたからで、あっ て当然の事柄にわざわざ名目を設けて教えなければならないのは、中国が乱れた国柄だからだ、と反撃している。 ( 。しかし、 する。「今鳥獣の目よりは、人こそわろけれ、かれに似ることなかれと、をしへぬべきもの」なのだ (『国意考』) ( 方が素晴らしいのだ。真淵は反文明の論理を徹底して、「人は万物のあしきものとかいふべき」という人間批判に到達 然対人為〉の枠組を使ってそれを敢行する。中華文明の象徴たる漢字は人為の典型であり、天地自然の五十音で足りる また、「文明」の点で日本が中国に適わないのであれば、価値判断を転倒するのも一つのやり方であろう。賀茂真淵は〈自 (( 現に中華文明の影響を受けて文明化してきた日本に暮らすものとして、反文明の論理をどこまで説得力をもって主張で (( 一方、平田篤胤は、日本は文明の発信地であり、帰着地でもあると主張した。日本から外国に「転訛」していっただ (( ( ( けでなく、賢しらな外国人が考え出した事物を日本に貢ぐことで「皇国の要」となることも多い。これも元を正せば「大 。篤胤は、漢字を否定するどころか、「神の御心」によって、さ 名持・少彦名神の御霊」の恵みなのである (『霊の真柱』) ( ( ナルコト殆ド支那ニ勝レル者アリ。(『和蘭訳文略』「総説」) ( フニ、其制作技術、実ニ西土ヨリ来ルモノアリ。況ヤ「ヲランド」ノ図書ニオケル、予ヲ以コレヲ見ルニ、其善美 彼ニ取ルモノ頗多シ。其余、邦国民用ニ利益アルモノ亦尠カラズ。且夫、支那ハ聖人教化ノ国ト称ス。而モ私ニ思 ランド」ハ「ヱウロパ」ノ一小国、大州ノ中、最モ西北ニ倚リテ、吾邦ト異域数万里、 夐 隔ルトイヘドモ、其術芸、 ハルカニ 字ナルノミ。是則礼楽・刑政等多ク、其法ヲ擬スルコトアルガ為ナルコト、予ガ贅スルコトヲ須ス。然ルニ、「ヲ 其国 (「アジヤ」の国々を指す:引用者注)各文字ヲ制ス。独吾邦、支那ノ文字ヲ用フ。今国字ト称スル者モ、亦其省 野良沢は、日本の言語状況にも触れながら次のように述べている。 蘭学者の場合は、日本ではなくオランダの学問が、「中華」ならぬ「支那」に勝ることを確信していた。例えば、前 3 蘭学 うるものであった。 。こうした発想は、維新期の国学者が文明開化を主張する論拠にもなり とすら推測する (『古史徴開題記』「神世文字の論」) ( かしらが得意な「漢国人」に漢字を作らせたうえで、それを日本に「貢奉らしめて、大御国の要」としたのではないか (( であるのに対して「支那」の学問は「疎」「疎漏」だというのである。但し、こうした優劣の判断は、儒学的な枠組を オランダと「支那」の学問の優劣をめぐって蘭学者が多用する言葉は「精密」である。オランダの学問が「精」 「精密」 (( ( ( 離脱することによってなされた訳ではない。杉田玄白が「和蘭実測究理の事共は驚入りし事はかりなり」(『蘭学事始』) 相原耕作【文字・文法・文明】 27 (( と表現しているように、「窮理」という儒学(朱子学)的な枠組に則っている。オランダの「窮理」の特徴は「実測」 「実験」 (( ミ ツク ツク ( マサ キワメ ソウサク ( ( ( アツ 。「我ガ居ル所 に象徴的に示されている。「地」が「一大球」である以上、「中土」など存在しない (杉田玄白『狂医之言』) ( こうした議論は中華文明を相対化する視点を持っていた。それは、中国のことを蘭学者が好んで「支那」と呼ぶこと (( ( 。 などと唱えるのは「何ノイワレナルゾヤ」(大槻玄沢『蘭学階梯』禦侮) ( ヲ自ラ尊称」して「中土・中原、中華・中国」などというだけの話であるのに、こちらから「支那ノ敖称ヲ以テ中華ノ国」 (( シ の最後で大槻玄沢が「彼ノ書ヲ読ムニ如クハナシ」と述べているように、蘭学者の「窮理」は、朱子学の窮理が専ら経 典を対象としているのと同じく、オランダの書物を読むことであった。 「和蘭実測究理の事」に驚嘆した杉田玄白らは、「若 28 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 に基づいていることであり、 「支那」の空疎な「窮理」より優れていることは事実によって確認できるという。例えば、 ( 、「質 「支那」の医書が「憶度附会」であるのに対してオランダの医書が正確であることは、「今直観之」(今直ちに之を観る) 。 之物」(之を物に質す)ことによって明らかであった (杉田玄白『狂医之言』) エラ 彼ノ書ヲ読ムニ如クハナシ。我方択ンデ其美ヲ取リ得バ、天下ノ功益鮮少ナラザルベキナリ。(『蘭学階梯』精詳) シ リ。…而レドモ、和蘭ハ其俗思ヒヲ喜ミ、且ツ其経歴スル所モ亦至テ広キコトナレバ、今万邦ノ美ヲ取ントナラバ、 コノ シテ以テ書ニ編シ、器ニ造リ、其理ヲ窮メ、其巧ヲ竭サント欲スルガ故ナリ。コレハ、和漢トモニ其趣キ同ジキナ キワ ラズ、凡テ天地・人物・事言ニ係ルノ善法・良術、取テ世ノ裨益 〈タスケ〉トナルベキモノハ、皆捜索 〈サグリモトメ〉 カヽ 、以テ常トスルモノハ、産物・器械ヲ求メテ射利ヲナサントノミナ タルナリ。彼ノ俗、四大洲方ノ互市 〈アキナイ〉 微妙ノ要論アルコト少カラズ。…其ノ土俗ノ機智・精巧、固ヨリ他ニ勝レルノ然ルノミナラズ、皆万邦ノ美ヲ聚メ モト ノ如キモ亦復タ然ナリ。…啻ニ医事ノミナラズ、天文・地理・測量・暦算等ノ諸術ニモ、其法、其説、精詳・簡便・ 凡テ彼方ノ国俗、人ノ知巧ノ及ブ所ハ、心ヲ潜メ、力ヲ竭シテ、千緒万端、其理ノ奥妙ヲ究ザルコトナシ。彼医術 ヒソ 「支那」とは異質なオランダの「窮理」の「精密」さについて、大槻玄沢は「国俗」によって説明している。 (( しかし、初期の江戸の蘭学者は、オランダの「窮理」に倣って自ら「窮理」を実践しようとはしなかった。右の引用 (( ( ( ( ( し直に彼国書を和解し見るならハ、格別の利益を得る事は必せり」(『蘭学事始』)と考えた。「真の医理は遠西阿蘭にある 。自ら「実験」によって「真理」を探求するのではなく、「実験」によって既に「真 ことを知りたり」(杉田玄白『形影夜話』) (( ( 。オランダの学問の「精密」さを伝える書物を「精密」に読むことができず、オランダの学 た調子である (『蘭学事始』) ( 知りなからも、強て解せす。唯意の達したる所計を挙置けるのミなり」「細蜜なる所は因より弁すへき様もなし」といっ むことは困難であった。杉田玄白の翻訳ぶりは、「精密の微義もあるへしと思へる所も、解しかたき所は、疎漏なりと したがって、何よりの急務はオランダ語で書かれた書物が読めるようになることであったが、当初はオランダ語を読 理」を明らかにしている書物を読み、翻訳しようとしたのであった。 (( ( (( ( 。「洋字を以て国語を書するの論」でも次のように主張している。 知啓蒙』自序) ( であることの関係について、「精微者本也因也浩大者末也果也」(精微は本なり因なり。浩大は末なり果なり)と指摘する (『致 の驚きと喜びは一段と深かったのではなかろうか。西周は、ヨーロッパの事物が「浩大」であることと学術が「精微」 ( しかし、それだけに、オランダ語の「文法」学習が進み、オランダ語を「精密」に理解できるようになったとき、そ 問題のはずである。だが、大槻玄沢に至ってもなおオランダ語の「精密」な理解はできなかった。 問の「精密」さを支えているであろうオランダ語を「精密」に理解できないのは、「精密」を売りにするだけに深刻な (( 僕かつて謂えらく、欧州の人種、今にして世界に冠たり。しこうしてこれを性理上に論ずれば、かの人種、物を観る、 いっそう細密、しこうしてその細小部分を積んで今日の大を致せり。天体の渺茫を察するも一林檎の地に落つるに あり。百万の衆を左右するも、一卒の支体を演習するにあり。汽船四海に横行するも蒸気膨脹の力にほかならず。 ( ( 電機四州に縦横するも紙鳶一張の微に過ぎざるがごとし。すなわち文芸、学術の世界に冠絶するも、アベセ二十六 字の前後相継ぐものに過ぎざるなり。 (( ヨーロッパ文明を根本で支えているのは学問の「精密」さであり、さらにその根本にあるのは「精密」な言語の存在である。 相原耕作【文字・文法・文明】 29 (( そして、言語の「精密」さを支えているのは、アルファベットという文字そのものではなく、「前後相継ぐ」文字の連なり方・ 連ね方であり、「精密」な「文法」の存在だったのではないだろうか。 結び 江戸時代の言語をめぐる構想と闘争についてまとめておきたい。 形音義三位一体の漢字を言語と同一視する傾向の下では、数が多いから精密で詳しいという論理に表音文字が対抗す るのは難しい。対抗するには、価値判断を転換するか、五十音図の表意性・表語性を肥大化させ、驚異的な造語能力を 主張するか、ということになる。 しかし、本居宣長は、文字と言語の同一視の傾向の中で見逃されてきた文法に目を向けて、文字や音声は少なくても 精密で詳しい表現が可能であることを示した。言語の意味を担うのは文字 (だけ)ではないのである。こうして宣長は、 表意性・表語性を重視する文字学的な見方を覆したが、文字と音声を切り離すことはしていない。日本語の音も仮名も 死物だとすることによって、むしろ、文字と音声は強固に結び付けられたというべきであろう。他方で、五十音図に関 する国学者の研究は、仮名で書くと区別できない母音と子音を分離して捉えるという注目すべき成果も生んだ。 一方、オランダ語の場合、アルファベットは表音文字であり、「義」を生み出す五十音図もなかった。しかも、単純 さではなく「精密」を売りとするのが蘭学であった。既存の言語構想に対抗するには、やはり文法論が必要であったと 思われる。しかし、蘭学者は、見慣れぬ文字に手こずったうえ、古典中国語研究の枠組に囚われて、文法論を発展させ るのに時間がかかった。他方で、アルファベットは表音文字としてあまりに不完全であったため、文字と音声が切り離 される可能性が開かれたように思われる。 以上を踏まえて、西周の「洋字を以て国語を書するの論」を簡単に検討しておきたい。 30 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 ( ( 西周が文法に着目していることを確認しておこう。まず、ローマ字導入の「利」の第一に「本邦の語学立つ」を挙げ、 ( ( ( ((( 構築する準備を整えたと考えられる。 ( ( を切り離すことは可能なのだ。こうした手続きを経て、西周は、ヨーロッパの文明的な言語に匹敵する日本語の文法を 」を「イカサマヲモシロイ」と発音する方が、綴りと発音の カサマヲモシロイ」と発音するよりも「 ikasama omosirosi 乖離は少ない。ヨーロッパの言語と比較すれば、この程度の乖離はむしろ穏当である。表音文字であっても文字と音声 」(イカサマヲモシロシ)と綴って「イカサマヲモシロイ」と発音し、「 kore nite yosi 」(コレニテヨシ)と綴って omosirosi ( ( 「コレデヨイ」と発音するといったことを提唱する。意味不明に見えるかもしれないが、「イカサマヲモシロシ」を「イ 改革の「次序」で、文法の前段に「第五 綴字の法を定む」 「第六 呼法を定む」を置いているのも注目される。西周は、 日本語の雅俗の調和を図るために「綴字(スペルリング)の法と呼法(フロナンシエシウン)の法とを立て」るとし、「 ikasama ( (( ((( 変化は、ヨーロッパの言語の語形変化に類するものとして捉えることが可能であろう。 」「 osa osi osu ose 」で aiue と変わるだけであるとする。ローマ に見えるが、ローマ字で書けば「 kaka kaki kaku kake 字を使えば動詞の活用を統一的に捉えることが可能となり、文法研究に資するのだ。しかも、このような僅かな語尾の ( 形変化は、仮名で書けば「カカカキカクカケ」「オサオシオスオセ」と、「カキクケ」「サシスセ」と大きく変わるよう する点にあったと思われる。やはりローマ字の導入を主張した南部義籌 (一八四〇─一九一七)は、「書く」「押す」の語 不便これより大なるはなし」と指摘しており、ローマ字を用いるメリットの一つは、日本語の文法現象を観察しやすく ( では、なぜローマ字を導入すると「語学」「国語の学」が立つのだろうか。西周は、「和字の制、子母音相合す。その スペクト)という文法上の重要問題に関わるものであろう。 ・法 (ア 「第七 屈曲の法を定む」「第八 働字の法ならびに時を定む」を挙げる。これは、動詞の語形変化、時制 (テンス) また、 「これによりて国語の学はじめて立つことを得べし」としている。さらに、改革を実施するための「次序」として、 (( ((( 西周は、日本語文法書である『ことばの いしずゑ』を残している。日本語の古典文法と西洋語の文法を折衷したよ うな議論であるが、名詞の格、数詞の用法、代名詞の用法などが詳しいのは、ヨーロッパの言語に特徴的な現象を日本 相原耕作【文字・文法・文明】 31 (( (1)『本居宣長全集』第一巻、筑摩書房、一九六八年、一七頁。 (2)但し、宣長がそう主張している訳ではない。なお、「文」という言葉の伝統的用法における含意については、河野有理『明六雑 誌の政治思想 阪谷素と「道理」の挑戦』、東京大学出版会、二〇一一年の第三章「文明─『明六雑誌』と「租税公共の政」」、特 に第二節「文字と文明」を参照。江戸から明治にかけての言語と文明の関係に関する議論については、 Matsuda Kōichirō, Social 『立教法学』六三、二〇〇三年、松田宏一郎「「文明」 「儒学」 「ダー Order and the Origin of Language in Tokugawa Political Thought, ウィニズム」」、『江戸の知識から明治の政治へ』、ぺりかん社、二〇〇八年を参照。 (3)山室信一・中野目徹(校注)『明六雑誌』上、岩波文庫、一九九九年、五四頁。 (4)西村茂樹「開化の度に因て改文字を発すべきの論」 (第一号)、清水卯三郎「平仮名の説」 (第七号)、阪谷素「質疑一則」 (第十号)。 西の論説も含めて、前掲『明六雑誌』上所収。文字と文明の関係についての論争は同時代的に繰り広げられている。河野前掲『明 六雑誌の政治思想』、イ・ヨンスク『「国語」という思想 近代日本の言語認識』、岩波書店、一九九六年、長志珠絵『近代日本と 32 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 語に当てはめようとしたのであろう。さらに、動詞の用法について、「ときと さまとの こと」について論じている が、これは、上記「次序」の第七・第八に挙げていた動詞の語形変化や時制・法についての記述であろう。「ときの な」 を過去・現在・未来の三つに分けたうえで、さらに「あさき けんざい」「ふかき けんざい」「あさき かこ」「ふか レフレツクシオン き かこ」「あさき みらい」「ふかき みらい」「かさなれる かこ」「かこみらい」の八つに分け、それぞれに当ては ( ( まる助動詞を配当している。これは、西洋語の文法を無理矢理、日本語に当てはめようとするものにも見える。しかし、 ( ) 。西洋語文法をモデルに日本語文法を構想することは決して不自然なことではなく、むしろ必要なこ 学会社創始ノ方法 」 ( 点で日本語は西洋語に似ており、「辞ノ区分ナトモ西洋ト悉ク一致セスト雖トモ、大率ハ頗ル相似タル所アル」(「日本文 西周によれば、「漢土ニテ字ニ就テ義ヲ立ルノ風ト異ナリテ、語音ニ因テ法ヲ立ツル 〔所謂用言ノ 変 化 〕ノ風」という ((( こうして、江戸時代の言語をめぐる構想と闘争は、西周において、日本語の文明化構想として結実したのであった。 とだったのであろう。 ((( 国語ナショナリズム』、吉川弘文館、一九九八年参照。 けられるが、それだけでは不十分なのではないか。 (5)西周のローマ字論を、「国字問題」の一環として、道具主義的言語観や音声中心主義の観点から考察する場合が多いように見受 (6)『漢語文典叢書』第五巻、汲古書院、一九七九年、二九一頁。 (7)前掲『漢語文典叢書』第五巻、二九二頁、『荻生徂徠全集』第二巻、みすず書房、一九七四年、四三八頁。 (8)『漢語文典叢書』第三巻、汲古書院、一九七九年、三八九頁。 )同前、三九三頁。 (9)同前、三九二頁・三九五頁。 ( ( ( ( )助字については、相原耕作「助字と古文辞学:荻生徂徠政治論序説」、 『東京都立大学法学会雑誌』四四─二、二〇〇四年参照。 )前掲『漢語文典叢書』第三巻、四三一頁。四二六頁・四三二頁も参照。 )古文辞学と徂徠学の関係についての筆者の見解は、相原耕作「古文辞学と徂徠学の政治思想─荻生徂徠『弁道』『弁名』に即し て─」、『法学会雑誌』四六─二、二〇〇六年、「古文辞学から徂徠学へ─「聖人命名説」と荻生徂徠の言語戦略」、政治思想学会編 )前掲『漢語文典叢書』第三巻、四一七頁・四三五頁。 ごとし」は中庸の勧めか?」、『季刊日本思想史』七九、二〇一二年を参照。 会雑誌』四八─二〜五一─二、二〇〇七〜二〇一一年、「荻生徂徠『論語徴』の古文辞学と政治論─「過ぎたるは猶ほ及ばざるが 『政治思想研究』七、二〇〇七年、「古文辞学と徂徠学─荻生徂徠『弁道』『弁名』の古文辞学的概念構成─」(一)〜(六)、『法学 ( )五十音図については、馬渕和夫『五十音図の話』、大修館書店、一九九三年参照。 )『日本思想大系 近世町人思想』、岩波書店、一九七五年、一六九─一七〇頁・一七一頁。 )『契沖全集』第十巻、岩波書店、一九七三年、一〇九─一一一頁。 )賀茂真淵と本居宣長ついては、相原耕作「本居宣長の言語論と秩序像」(一)〜(三)、『東京都立大学法学会雑誌』、三九─一 )同前、一一一頁。 )同前、一一〇頁。 )『和字正濫鈔』批判に反論した契沖『和字正濫通妨抄』参照。同前所収。 )同前、一一四─一一五頁。 59 ( ( ( ( ( ( ( ( 相原耕作【文字・文法・文明】 33 13 12 11 10 22 21 20 19 18 17 16 15 14 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( )同前、四一一頁。 )同前、四一二─四一三頁。 )同前、三八〇頁。 )同前、三九八─三九九頁。 )平田篤胤・子安宣邦(校注)『霊の真柱』、岩波文庫、一九九八年、一二頁・四七頁・四九─五〇頁・一〇二頁。 )同前、一二六─一二八頁。 )以下の記述は、『新修平田篤胤全集』第十五巻、名著出版、一九七八年、一九三─一九四頁・一九八頁・一八三─一八四頁・二 )平田篤胤・山田孝雄(校訂)『古史徴開題記』、岩波文庫、一九三六年、三四─三五頁・四八─七六頁。 一二頁などを参照。 )契沖は、『和字正濫鈔』で、母音と子音を組み合わせるために、漢字の反切を利用した新字を考案している。前掲『契沖全集』 第十巻、一一九─一二〇頁。 )以下の記述は、『新修平田篤胤全集』第七巻、名著出版、一九七七年、四九四─四九五頁・四八八頁・四九一頁・四二四─四二 五頁などを参照。 )同前、四三八─四四一頁。 )以下の記述は、同前、四五三頁・四七一─四七五頁。 )同前、四七二─四七三頁・五六〇頁。 )以下の記述は、同前、四八二─四八四頁。 )この点については、野口武彦「五十音図と言霊─音義と言語ナショナリズムの形成をめぐって─」、『江戸思想史の地形』、ぺり かん社、一九九三年参照。 34 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 〜四〇─一、一九九八〜一九九九年参照。 )『日本思想大系 近世神道論 前期国学』、岩波書店、一九七二年、三九五頁。 )同前、三八〇頁。 39 )同前、三九五─三九六頁。 )同前。 34 33 32 31 30 29 28 27 26 25 24 23 35 36 41 40 39 38 37 ( )本居宣長と激しい論争を繰り広げた上田秋成(一七三四─一八〇九)も、宣長とは違った意味で、特異な語学説を展開した国 学者である。『霊語通』で、秋成は、「自然の妙用」を強調して人為を徹底的に排し、「人巧の私物」に過ぎない五十音図の霊妙な 働きを認めず、正しい仮名遣いという発想も認めなかった。秋成は、文字ではなく「口舌」の「自然」に度外れた信頼を置いて、 一年所収。 )『本居宣長全集』第五巻、筑摩書房、一九七〇年、三八一頁。 )『本居宣長全集』第九巻、筑摩書房、一九六八年、一七頁。 )前掲『本居宣長全集』第五巻、三九五頁。 )前掲『本居宣長全集』第五巻、三八一─三八二頁。 の説を引きながら、それを批判する形で展開されている。前掲『漢語文典叢書』第三巻、三九一頁参照。 )同前、四〇八─四〇九頁。明示されていないが、この議論は、 「南京ノ音ハ、天下ノ正音」とする太宰春台『倭読要領』「倭音説」 セイイン 「音韻言語」が「国」を単位として「太古」より変化しないと考えた。『霊語通』は『上田秋成全集』第六巻、中央公論社、一九九 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( )同前、三八三─三八四頁。 )前掲『本居宣長全集』第九巻、二六頁。このことは、表音文字だからこそ、発音の変化によって表記と発音の乖離が発生する )同前、三八二頁。 )前掲『本居宣長全集』第五巻、一七頁。 ことを示唆する。 )同前、三八二頁。 )『本居宣長全集』第八巻、筑摩書房、一九七二年、三九六頁。 )但し、オランダ商館長の江戸参府の折りにはオランダ語のネイティヴ・スピーカーと接触できたし、オランダ通詞から学ぶこ )前掲『本居宣長全集』第五巻、三八八頁。 とも可能だった。 )『日本思想大系 洋学上』、岩波書店、一九七六年、三四頁。 )同前、四四八頁。 )杉田玄白『和蘭医事問答』では、オランダ語理解をめぐって、司馬江漢のお気楽さとは対照的な問答が行われている。同前、 64 ( ( ( ( 相原耕作【文字・文法・文明】 35 42 46 45 44 43 50 49 48 47 55 54 53 52 51 58 57 56 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( )例えば青木昆陽『和蘭文字略考』の「和蘭文字寄合」。同前、三九─四一頁。 )例えば前野良沢『和蘭訳筌』。同前、九四─九五頁。 )同前、一一頁。 )古典中国語では、助字・助辞・助語などは同じものを指すと考えてよい。 )前掲『洋学上』、一二〇─一二六頁。 )同前、三五九頁。 )同前、三六五頁。 )同前、三六四─三六五頁の頭注。 )同前、三六九頁。 クチ )前掲『漢語文典叢書』第三巻、三八九頁。 コヱ )太宰春台が「只口ニハ倭語ノ読ヲナストモ、目ニテ其文字ヲ看テ…中華ノ人ノ音ニテ順ニ読クダス心ニナリテ」 (『倭読要領』 「読 書法」)と主張するのに対し、本居宣長が「タトヒ口ニハ直読ニシテモ。心ニハ訓読セザレバ義通ゼズ」(『漢字三音考』「皇国ニシ テ漢字音ノ始」)と直読論を揶揄していたことを考えると、興味深い証言である。前掲『漢語文典叢書』第三巻、四三八頁、前掲『本 居宣長全集』第五巻、三八九頁。 )前掲『洋学上』、三八八─三九〇頁。『蘭学階梯』は一七八八年刊行、『蘭訳梯航』は一八一六年成立。なお、大槻玄沢は、荻生 徂徠や富士谷成章の用いた品詞分類用語を用い、「テニヲハ〈助声〉」にも言及している。 )松村明「近世のオランダ語学─昆陽以前の一、二の問題─」、前掲『洋学上』所収、片桐一男『阿蘭陀通詞の研究』、吉川弘文館、 一九八五年の第六章「阿蘭陀通詞のオランダ語学とその影響」、『杉本つとむ著作選集3 日本語研究の歴史』、八坂書房、一九九 八年の第六章「異文化摂取と対照言語研究─中野柳圃と蘭語学の樹立─」・第八章「国語学と蘭語学との交渉」参照。片桐氏によ ると、中野柳圃は「和学」に詳しかったらしい。杉本氏は、中野柳圃が本居宣長の文法論を参照したと推測している。オランダ語 36 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 一九三頁・二〇一頁。 )『日本思想大系 洋学下』、岩波書店、一九七二年、二一四頁・三二一頁。 )前掲『洋学上』、六九頁。「科斗」はオタマジャクシ。 65 )同前、二〇一頁。 72 71 70 69 68 67 66 65 64 63 62 61 60 59 73 74 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 文法の研究はオランダから輸入された文法書によって始まるが、国学者の文法研究との接点もあったようである。また、杉本氏は、 )杉田玄白・片桐一男(全訳注)『蘭学事始』、講談社学術文庫、二〇〇〇年、一三四頁。 荻生徂徠の言語研究など、漢語学とのつながりも指摘している。 )同前所収。二二〇頁。 )前掲『洋学上』、三八七頁・三九二頁。 )太宰春台『倭読要領』「読書法」を下敷きにした、「心」と「目」による読書法を説明している。前掲『洋学上』、三九六頁、前 掲『漢語文典叢書』第三巻、四三八─四三九頁。 )『日本倫理彙編』第六巻、金尾文淵堂、一九〇二年、二二三─二二四頁。 )賀茂真淵については『国意考』、本居宣長については『直毘霊』に議論がある。相原前掲「本居宣長の言語論と秩序像」(二)、 四六〇頁参照。 )前掲『前期国学』、三七九─三八〇頁。 )前掲『本居宣長全集』第八巻、四〇五─四〇六頁。 )前掲『霊の真柱』、四九─五〇頁・一〇二頁。 )前掲『古史徴開題記』、七五─七六頁。 )前掲『洋学上』、七四頁。 )前掲『蘭学事始』、一〇四頁。 相原耕作【文字・文法・文明】 )前掲『蘭学事始』、一二〇頁。 )前掲『洋学上』、二五七頁。荻生徂徠の『鈐録外書』に触発されてこのように述べていることが興味深い。真理は自分で発見す )前掲『蘭学事始』、一〇四頁。 )同前、三三九頁。 )同前、二三〇頁・二四〇頁。 )同前、三三二─三三三頁。 )前掲『洋学上』、二三一─二三二頁・二四〇頁。 るものではなく、古の先王のような誰か優れた先人が、既に発見しているものなのであろう。 37 ( ( ( ( ( ( ( ( ( 78 77 76 75 80 79 92 91 90 89 88 87 86 85 84 83 82 81 93 ( )この点、全く検討ができていない。今後の課題としたい。 )『西周全集』第一巻、宗高書房、一九六〇年、三八六─三八八頁。 )前掲『明六雑誌』上、五〇頁。 )以下は、同前、三七頁・四〇頁・五一頁。 )同前、三二頁。 )平井昌夫『國語國字問題の歴史』(復刻版)、三元社、一九九八年(元版は一九四九年)、一七八頁による。 )前掲『明六雑誌』上、五一頁。 )同前、四一─四五頁。 )『西周全集』第二巻、宗高書房、一九六一年所収。 )同前、六七七─六八〇頁。 )同前、五八二頁。 38 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 ( ( ( ( ( ( ( ( ( に修正を加えたものです。シンポジウムに関わった全ての方々に感謝致します。 *本稿は、二〇一二年度政治思想学会研究大会「政治思想における言語・会話・討議」のシンポジウムⅠ「言語と政治」の報告原稿 ( 104 103 102 101 100 99 98 97 96 95 94 「解釈」を解釈する ──思想史方法論としての哲学的解釈学 ──加藤哲理 ● 一 はじめに ──哲学者と歴史家の間で 私たちが苦心して練りあげるテクスト解釈は、いかなるときに正しいものとして賞賛され、またどういった場合に間 違ったものとして非難されるべきなのだろうか。私たちが寸暇を惜しんで難渋なテクストと格闘し続けることを自らに 強いるのは何のためなのだろうか。「職業としての政治思想史研究」への献身から目を醒まして、ふと我に返るとき、 学問的禁欲の背後に姿を隠していた、このような問いの深淵が顔を覗かせるのを経験したことのない思想史研究者はい ないであろう。 ) 」私たち研究者は正しいテクスト 本 論 稿 は、 こ の よ う な 問 い か け、 す な わ ち い か な る「 道 を 辿 っ て ( meta hodos ) 」の立場から一つの答えを与えることを探求するものである。 philosophische Hermeneutik 解 釈 へ と 導 か れ る の か と い う 方 法 論 的 な 問 い に 対 し て、 ハ ン ス = ゲ オ ル グ・ ガ ー ダ マ ー が 提 唱 し た「 哲 学 的 解 釈 学 ( クエンティン・スキナーによる問題提起以来、思想史研究者の間で方法論をめぐる論争が活発に行なわれてきたこと は指摘するまでもないだろう。やや安直な図式化を行なうことが許されるとすれば、自己の属する現代の関心へとひき つけて過去のテクストを解釈する立場と、異なった時代に属する他者としてテクストを解釈する立場──リチャード・ 39 (1) ローティの言葉を借りるならば「合理的再構成」と「歴史的再構成」という叙述法の二つのジャンル──の拮抗は、あ くまで堅実な歴史研究であることを保持しようとする政治思想史と、規範的意識をもって現代社会の諸問題に処方箋を 提供することを課題とする政治理論という二つの分野の対抗へと姿を変えて継続されていると考えることができよう。 私たちは自らが政治思想上の根本問題に解答を与えんとする哲学者であるべきなのか。それともあくまで過去の偉大な 思想家たちの真意を解明することに焦点を絞る歴史家であるべきなのか。このような問いは、政治思想史研究を志す全 ての人々にとって、今もなお容易に透過し難い関門となっているのである。 そして、このような問題構制にあって、哲学的読解にも歴史学的読解にも偏ることなく、私たちが生きる現在の地平 ) 」の実現を模索するというガー と先哲の歩んだ過去の地平を対話させることで新たな「地平の融合 ( Horizontschmerzung ダマーが呈示したテクスト解釈のモデルは、思想史・理論研究者の間で広く共有されている感覚──例えば優れた規範 (2) 理論家は同時に卓越した思想史家でもあるというような──を概念化したものであるということができるのかもしれな ) 』における以下のようなガーダマーの発言は、伝承された い。実際に、その主著『真理と方法 ( Wahrheit und Methode テクストに向き合う際に研究者が等しく則るべき公準に言葉を与えたものとして読解することも可能である。 伝統には、親密性と疎遠性の両極性が、現に働いているのであり、その両極性にこそ、解釈学の任務は基礎づけら 。ここにはまた緊張が存在する。その緊張は、伝承が私たちに対して持っている親密性と れているのである。〔…〕 (3) 疎遠性の間、つまりは歴史学的に考えられた隔たりある対象性と伝統への帰属性の間で戯れている。このような間 のうちにこそ解釈学の真の場があるのである。 このような「理解 ( Verstehen ) 」の構造の普遍的な性格を彼は主張するのであるが、この「間」の孕む緊張は研究者の誰 しもが経験するものであり、その意味では、確かに全ての思想史家はガーダマー流の解釈学を遂行しているということ もできる。 40 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 しかしながら、これだけでは何も語っていないに等しいだろう。本稿が思想史研究の道標となるようなテクスト解釈 の方法論の一つとして哲学的解釈学を主題化するのであれば、このような一見して常識的な事柄を述べているに過ぎな (4) いように思われる──それゆえその輪郭が明確に把握されないままに頻繁に援用される──ガーダマーの解釈学理論の 「概念史( Begriffgeschichte ) 」ないし「観 独自性を解明することで、先の方法論上の問いに答えなければならないはずである。 ) 」、「精神史 ( Geistesgeschichte ) 」、「問題史 ( Problemgeschichte ) 」など、思想史叙述の方法とし 念の歴史 ( history of ideas ) 」というガーダマーの哲学的解釈学を象徴す て挙げられる先例は数多く存在しているが、「活動史 ( Wirkungsgeschichte (5) る概念は、それらに対していかなる一鎚を加えることになったのか。その点がより厳密に究明されることが待たれてい るのである。 本稿はこのような問題の解明を目指すものであるが、そのために以下の二つの課題を設定している。第一にまず私た ちは、ガーダマーが生涯を通じて行なった他の理論家たちとの思想的交流を手がかりとしながら、彼の哲学的解釈学を 。そこではガーダマーの解釈学 基軸に据えて、「解釈」についての多様な立場を解釈するという作業を行なう (二と三) に潜在している、既存の政治思想史や規範理論の方法論に対する批判的可能性が論じられることになる。第二に、本稿 はそうしてガーダマーが振り下ろす批判の大鉈がテクスト解釈についてのガーダマー自身のいかなる態度から生じてい るのかを考察することによって、彼の哲学的解釈学自体からどのような政治思想史研究の方法論が生じうるかについて 。以上の二点を吟味することによって、思想史の方法論としてのガーダマーの解 検討することも射程範囲に含める (四) 釈学の独創性に光を当てることができれば、本稿の挑戦は成功したものとなるであろう。 二 二つの客観主義に対して 議論を進めていくに先立って、まずはガーダマーの哲学的解釈学の根本命題について簡潔に触れておくことにしよう。 ) 」、「適用 ( Applikation ) 」、「活動史」、「地平の融合」など多種多様な 『真理と方法』において彼は、「先行判断 ( Vorurteil 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 41 概念装置を操りながら自身の解釈学理論を披瀝している。その記述はお世辞にも体系的とは言えない代物であり簡単に 要約を許さないものであるが、その主張の骨髄を敢えて端的に把握しようとするのであれば、それは理解や解釈という ) 」ないし「歴史性 ( Geschichtlichkeit ) 」という言葉に尽きる。実際に彼は『真理と方法』執 行為の「有限性 ( Endlichkeit 筆の動機を以下のように表現している。 本書の問いは、人間の世界経験と生活実践の全体へと向けられている。これをカント的に表現するならば、その問 。それが描くのは、現存在の有限性 ( Endlichkeit )と いは、いかにして理解は可能となるかということである。〔…〕 (6) )を成している根源的運動性であり、ゆえに、それは現存在の世界経験の全体を包括して 歴史性 ( Geschichtlichkeit いる。 この二つの概念は、本稿の関心に即して敷衍するならば、自己が定位している「歴史」的な文脈──彼の言葉を借り ) 」──が与える「有限」な地平を超越した視点に研究者はどうあって るならば「解釈学的状況 ( hermeneutische Situation も立つことができない、という事実への自覚と反省を強く促すものである。 そして、最初に本稿が目指すのは、このガーダマーの駆使する有限性と歴史性の剃刀から、これまでの政治思想史研 究の方法に対して、いかなる批判的知見が導き出されるかを検討することである。それでは、まずは前世紀を代表する 政治哲学者の一人であるレオ・シュトラウスとガーダマーの交流を吟味することから始めてみよう。 1 哲学的解釈学と政治哲学の歴史 (7) 二十世紀前半のドイツを支配した精神史的気分とハイデガー哲学による洗礼──ガーダマーとシュトラウスという二 人の哲学者の間には、その思想形成の背景において共通するところが数多く存在している。それを反映するかのように、 事実と価値の峻別を基礎とする「科学」や「実証主義」の方法論の席巻のうちに近代の危機の要因を見出し、それに抗 42 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 (8) するために古典的政治哲学の現代における復権可能性を探求するという地点までは、両者は戦線を共有しているのであ る。 では一体二人はどこで袂を分かつことになるのだろうか。その岐路に立っているのは、やはり有限性と歴史性をめぐ る問題である。「最も根源的な歴史主義者」とシュトラウスが呼んだハイデガーの衣鉢を継承しながら、ガーダマーが 科学的な客観性に対する攻撃をあらゆる真理の歴史性や時間性の提唱にまで先鋭化させていくとき、シュトラウスは一 転して彼の批判者となるのである。 ) 」を自壊に至らしめたの 実際に、『真理と方法』をめぐる二人の文通の中で、シュトラウスは「歴史主義 ( historicism ) 」に対して深刻な懸 と同じ論理矛盾を哲学的解釈学のうちにも見てとり、それが招くことになる「相対主義 ( relativism (9) 念を表明している。すなわち、「全ての真理が有限で歴史的である」という解釈学の根本命題がそれ自身に適用される とき、解釈学自体が歴史上の一産物として相対化されることを免れることができなくなるのである。シュトラウスによ れば、その帰結は深刻なものである。というのも、結局のところ、解釈学がその立場を貫徹しようとするとき、それは 哲学者が探求するべき時間を超越した真理や規範の存在を否定することにつながり、現代を覆うニヒリズムに歯止めを ( かけるどころか、むしろそれに拍車を駆ける事態をもたらしてしまうからである。それに対してシュトラウスは、歴史 ( ) 」をその考察の対象としていた古典的な政治哲学の優位を対置する による被条件性を超越した「自然的正 ( natural right とができるのである。人間が遂行する理解や解釈は常に有限なものである。ゆえに無限に異なった解釈が永遠に存在し 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 ことによって、モダニティの危機への対抗策にしようと試みるのである。 ) 」のうちに踏 続ける。この有限と無限の相即する矛盾をあるがままに引き受け、「解釈学的循環 ( hermeneutischer Zirkel 43 ( る。シュトラウスはこの二つの命題の矛盾によって哲学的解釈学の根本的な非真理性を論証しようとするのであるが、 ( の認識が無条件的に妥当する」という命題が、そもそも次元を異にしていることを指摘することによって答えようとす このようなシュトラウスの主張に対し、ガーダマーは「あらゆる認識が歴史的に条件づけられている」という命題と「こ (( ガーダマーによれば、むしろこれらの命題を同時に認めることによってのみ、解釈者は自身の歴史性を真に自覚するこ (( ( 執着から生じてくるものであって、有限性の自覚が徹底されるならば消失するべきものなのである。だからこそガーダ 相対主義や歴史主義に対するシュトラウスの過度な嫌悪感は、超時間的な真理やそれを探求する営みとしての観想への そして、その問いに繰り返し異なった答えが与えられるならば、それで十分に相対主義もまた回避されうる。むしろ、 部で立てられるべきその都度の問いかけがあるのみなのである。 釈学によるならば、哲学者のみが探求の対象にしてきたような永遠の問題など存在せず、ただ解釈者が属する地平の内 (( 44 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 み止まることこそ、ガーダマーによれば正しいテクスト解釈の態度なのである。 逆に、哲学を生業とする人間が自らのテクスト解釈の歴史性に対して無反省でいることは、現代における新たな独断 論に繋がりかねない危険があるとガーダマーは応酬する。その点について、彼は以下のような言葉を残している。 一九五六年に出版された論文「歴史的意識の再生」において、「歴史主義とその敵対者」という表題の下、テオドール・ リットはクリューガーやレーヴィット (残念ながらレオ・シュトラウスではないが)との激しい論争を公にしているが、 〔…〕 、私の考えるところでは、歴史に対する哲学的な反感のうちに新たな独断論の危険を見て取ったとき、リット は正しかったのである。「行為を促された人に方向を示してくれる」確固とした永続的な尺度への要求は、倫理的 ─政治的判断の混乱が悪しき帰結につながったようなときには、いつでも強い説得力を持つものであり、正義や真 ( 実の国家への問いは人間の現存在にとっての基本的な要求でもある。にもかかわらず、重要なのは、その解明のた めに、そのような問いがどのように意図され設定されるべきかということなのである。 ( 哲学という営みの高貴さを基礎づけようとするシュトラウスの試みが不可能なものであることは明白である。哲学的解 ( 学的な問いかけ」と個別的で時間的な事柄に関わる「歴史的な問いかけ」を峻別し、前者のうちにのみ連綿と続く政治 されて初めて有意なものとなるのである。このような観点に従うのであれば、普遍的で永遠性をもった事柄に関わる「哲 最後に述べられているように、ガーダマーにとっては、あらゆる哲学的問いはそれが行なわれる歴史的文脈へと定位 (( マーは以下のように述べている。 いまや歴史性とは、真理を把握しようとする理性の要求への限界規定のみではなく、むしろ真理の認識にとっても 肯定的な意味を持っているのである。それによって、歴史的相対主義についてのいかなる論証も、全ての実際上の 基礎を失うのである。絶対的真理に対する基準を要求することが、抽象的かつ形而上学的な偶像として暴き出され、 ( ( その方法論上の意味を喪失する。歴史性によって、歴史的相対主義という亡霊が呼び起こされることはなくなるの である。 裏を返せば、そのような不安を払拭できない限りにおいて、なおもシュトラウスの方法論は、自らの帰属する地平を離 れたところに真理基準を求める客観主義の陥穽を免れていないということになる。 ) 」な言説と「秘教的( esoteric ) 」 ゆえにまた、最後に付言しておくならば、同様の観点からガーダマーは、「公教的( exoteric ( ( な言説を区別し、後者のうちに独り哲学者のみが発見しうるような永遠の真理を解読しようとするシュトラウスのテク スト解釈の手法に対しても懐疑的な評価を下している。彼の展開する技法の委細に本稿で立ち入ることはできないが、 スキナーらに代表されるいわゆる「ケンブリッジ・パラダイム」が政治思想史研究の方法論として一つの有力な潮流 2 哲学的解釈学と歴史学としての政治思想史 である。 への扉を開きうると考えている限り、やはりそこには自らの有限性や歴史性を忘却した哲学者の傲岸が見え隠れするの 結局のところガーダマーによれば、シュトラウスが何らかの方法を用いることでテクストに隠された歴史を超えた真理 (( ( ( を形成していることは論を俟たないだろう。それでは、厳密な方法論に依拠しながら思想史を歴史学として確立しよう とする彼らの野心に対しては、ガーダマーはどのような評価を下すのであろうか。 (( 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 45 (( ( に、度重なる洗練を経た後であっても、スキナーの基本的な準則は以下に言葉に集約されるように思われる。「批判に 応える」と表される論文の一節であるが、曰く、 46 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 思想家が駆使する概念や言語がそれの用いられる歴史的なコンテクストを離れては理解不可能であると考える点で、 ) 」という二十世紀の一つの大きな思想潮流の圏内にいる ガーダマーもスキナーもともに「言語論的転回 ( linguistic turn ことは確かである。スキナーがその方法論において、後期ヴィトゲンシュタインを祖とする日常言語学派のオースティ ンやその言語行為論の影響を強く受けていることはよく知られている。 しかしながら、むしろ本稿が目を向けねばならないのは、テクストの歴史性──とりわけコンテクスト概念──をめ ぐる両者の異同である。管見の限り、ガーダマーとスキナーの間に活発な思想的交流があった痕跡は見出すことができ ないが、ここではガーダマーがエミリオ・ベッティやE・D・ハーシュとの間で行なったテクスト解釈をめぐる論争を 手がかりに、ガーダマーとスキナーの距離を測定することに努めたい。 ) 」を忠実に再現することをテクスト解釈の真理基準に設定したことこ 過去に存在したはずの著者の「意図 ( intention そ伝統的な解釈学の根本的な欠陥であった。このような『真理と方法』におけるガーダマーの大胆な主張は、即座に方 法論上の反発を招くことになった。すなわち、著者の意図という客観的尺度を手放してしまえば、残されるのは主観的 解釈の氾濫と相対主義のみであるというわけである。 早い時期からこのような批判の急先鋒に立ったのがベッティとハーシュであるが、とりわけハーシュは、過去の時代 ) 」と「その意味の現代の状況に対する意義 ( significance ) 」の区別を看過してしまっ におけるテクストの「意味 ( meaning ( たことに、ガーダマー解釈学の難点があると指摘する。そしてハーシュは、時代の中で変化していく後者ではなく、変 わることのない前者を確実に把握することにテクスト解釈の客観性を基礎づけようとするのである。 ( コンテクスト確定の唯一の決定要因と見なしているわけではない。しかしながら、過去のテクストをあくまで過去の閉 ( ここで確かにハーシュとスキナーの立場は厳密に一致するものではない。またスキナーは必ずしも著者の意図のみを (( じられた歴史的文脈に即して読解することにテクスト解釈の正しさを求める態度は、双方に共通したものである。実際 (( 私は真理について一般的に論じているのではない。それぞれ異なった時代の人々は、その人たちが真理と考えたこ とが、実際にも真理であったとわれわれ自身が信ずるか否かにはかかわりなく、自らの観点から真なりと信ずる正 。こうした状況で 当な理由としていかなる理由を有していたのか──これについて私は論じているのである。〔…〕 われわれが期待できる最高のことは、当該の信条を、その説明をなす他の適切な諸信条の中におくことである。そ ( ( の結果として、われわれは間違いなく、なぜそのコンテクスト内で動いている人がわれわれ自身からすれば理解不 可能な命題に賛同するようになったのか、その理由を示すことが期待できる。 ( ( ( く 〔…〕あらゆる理解の様態に共通しているものを探求し、理解というものが所与の「対象」に対する主観的な態 いずれにしても私の試みの意味は、解釈についての一般理論やその方法についての様々な詳論を与えることではな に対してガーダマーは以下のような言葉を返している。 歴史家の態度と、それを現在へと「適用」しようとする哲学者の態度を区別することはできないのである。実際にベッティ ならば、どれほど方法論上の熱意と努力を投入したとしても、可能な限り過去を過去として再現的に記述しようとする スキナーの懸念のうちに、なおも学問的な実証性や客観性への固執を見出すことであろう。哲学的解釈学の立場による それでは、ガーダマーはこのような批判にどのように応答するだろうか。おそらくガーダマーであれば、このような 他ならないのである。 ( することによって、歴史学的な学問が成立しうる期待や可能性を全面的に退けようとするのは、懐疑主義を招くものに 存在した著者の意図や信条や行為との結びつきをテクストから払拭し、概念や言葉の意味連関や対話の中に一切を解消 このようなスキナーの立場からすれば、解釈学やさらにラディカルでポストモダン的な脱構築主義のように、過去に (( 度ではなく、活動史であること、つまりは理解される存在に帰属していることを示すことなのである。 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 47 (( (( ( ( 48 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 ガーダマーが述べる「活動史」とは、学問的な態度をもって対象として眺めうるような過去の歴史ではない。むしろ、 ) 」かけられ、歴史を自らのもの その概念に含意されているのは、研究に従事する者自身が、歴史から「働き ( Wirkung として継承しながら、同時に歴史に働きかけるものとして参与しているという事態なのである。このような前提に立つ ならば、ハーシュのごとく過去におけるテクストの意味を確定することとその現代的意義を問うことを、解釈する主体 の側の方法論的な工夫によって区別することは不可能であることになる。というのも、テクストが同時に私たちの地平 を構成するものでもある以上、それを解釈するという作業は、どれほど学問的な手続きを踏襲し、客観性の体裁を整え ていたとしても、必然的にその現在への「適用」という契機を含まざるを得ないからである。 要するに、哲学的解釈学が重要視するのは、歴史家が研究する客体の「歴史性」──あるテクストが過去の時代のコ ンテクストに位置づけられていること──ではなく、解釈者とテクストの両者の間に生じるコンテクストであり、双方 の出会いが常に現在における地平の融合にならざるを得ないという意味での歴史性なのである。 勿論のこと、当初からスキナーもまた思想史的研究のもつ哲学的な意義を否定していたわけではない。曰く、異質な ( 過去に触れることで自らの立場の偶然性を知ることを可能とする歴史叙述のもつ価値とは、「自己認識への鍵そのもの ( を学びとること」なのである。しかしながら、このガーダマーとの距離が最も縮まる地点におけるスキナーの反省は、 なおも淡白で不徹底なものにとどまっている。 に語るのである。 る自己自身の在り方を改めて問題視するような「メタ方法論」的な問いかけなのである。だからこそ、彼は以下のよう 歴史学者であることではない。むしろ解釈学者が遂行するべきは、過去に対してそうした態度をもって接近しようとす なのである。ガーダマーが研究者に一義的に要請するのは、過去を的確に対象化するための洗練された方法論をもった しろ、ここに露わになっているのは、研究者がその営みの第一歩において進んでいくべき方向性における決定的な相違 そして、このことを双方における議論の重心や相対的な問題関心の相違としてのみ片付けておくことはできない。む (( (( 確かに歴史記述や歴史研究の種類は数多いが、いかなる歴史学的な ( historische )関心も、活動史的な反省の意識的 〔…〕 。活動史的な反省の権勢から逃れようとするならば、 な実行のうちにその根拠をもつことは言うまでもないのだ。 それは歴史叙述や歴史研究を、究極的にどうでもいいものへと還元してしまうことになるだろう。解釈学的な問題 ( ( の普遍性は、あらゆる種類の歴史への関心の背後へと問いかけるものなのであり、というのも、それはそれぞれの「歴 史学的な問い」の根底にあるものに関わるからである。 ) 」へと置き換えていく政治哲学の継承としての政治思想史とも、スキナーのように、 knowledge ) 」を、永遠の「真理 このようにして、シュトラウスのように、歴史的世界に氾濫している多種多様な「意見 ( opinion ) 」についての「知識( truth ( 観主義」に囚われているということになる。一方において前者が、歴史学的な態度によって対象化された客体としての ( 場からすれば、二つながらにして、なおも解釈の正しさを自らの属する地平やコンテクストの外部に求めようとする「客 スキナーとシュトラウスという一見して鋭い対照を示しているかに見える二人の思想家の方法論は、ガーダマーの立 解釈学が相容れない性格を有することが明らかとなった。 方法論的な手練手管を用いて過去を過去として再構成することに努める歴史学としての政治思想史とも、ガーダマーの ( ければならないのである。 に従事する人々が真に歴史的であることを欲するのであれば、脚下を貫いている自己の存在の歴史性を即座に照顧しな 化することである。歴史学とは、そのような存在論的自覚の一つの派生態ないし亜種に過ぎないのであって、仮にそれ うな認識論を立脚地とした過去のテクストとの関係のあり方自体を根本的に疑い、自らの歴史性に対する無自覚を意識 ) 」な客観主義に囚われたままなのである。それに対して、やはりガーダマーが要求するのは、そのよ 史学的 ( historisch ) 」ではない──「歴 スキナーの思想史方法論は、どれほど微細に精緻化が進もうと、なおも──「歴史的 ( geschichtlich この言葉によるならば、そうして自らの歴史性や有限性についての透徹した哲学的反省へと眼差しを転回しない限り、 (( 過去の地平へと移入することを追求しようとし──このようなことはしばしば「概念史」や「観念史」、「精神史」にも 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 49 (( ( ( 妥当するだろう、他方において後者が、歴史的な地平を超越した普遍的な真理や価値理念のみをテクストのうちに読み 込もうとするとき、そこでは、ともに思想史研究を遂行する私たち自身の歴史性や有限性に対する哲学的反省が等閑に されているのである。 三 二つの規範的立場に対して 過去から伝承されたテクストを解釈する過程における現在への「適用」という契機に重きをおくという点で、ガーダ マーの解釈学理論は、むしろ純粋な歴史研究よりは政治理論の方法論に資するものであると考えることもできるかもし れない。本稿が次に問題にするのは、政治理論における規範的研究において行なわれているテクスト解釈の類型に対し て、哲学的解釈学の立場からいかなる批判的知見が導き出されうるかである。その際に参考になるのは、ガーダマーが 他の現代思想の代表的潮流との間で行なった交流である。まずは改めてハーバーマスとの論争に着目することから始め ることにしよう。 1 哲学的解釈学と批判理論 「討議 ( Diskurs ) 」の概念を基礎にして旺盛に政治理論を展開しているユルゲン・ハーバーマスとカール=オットー・ ( ( アーペルが、ともにガーダマーの哲学的解釈学の批判的継承を通じてその思想を形成していったことはよく知られてい るが、ここでの目的は、彼らの間の論争の委細に立ち入ることではなく、歴史性に対する両陣営の態度の違いから、テ ハーバーマスもアーペルも実証主義に対抗する武器を提供するものとしては、等しくガーダマーの哲学上の功績を評 ( ( 価している。哲学的解釈学が繰り返し強調してきた歴史性や有限性への認識は、社会科学において支配的である素朴な 科学的客観主義を打破するためには極めて有効な道具立てなのである。 (( 50 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 (( クスト解釈に関する哲学的解釈学と批判理論の隔絶を導き出すことである。 (( しかしながら、理解の歴史性を素朴な事実として強調するのみでは、社会科学の方法論としては不十分であるという のが、ハーバーマスとアーペルの批判の要旨である。研究者や理論家の行なう理解や解釈が歴史的文脈の拘束性から免 ( ( れられないという命題を絶対視することは、彼らの営為を歴史のうちへと無批判に埋没させ、継承された伝統を補強す るだけの保守主義か、あるいは相対主義を招来する危険があると二人は指摘するのである。 ( 批判的理解の規範的尺度として扱うべきということでもある。 ( る。このことは、批判的に価値判断を下す精神科学は、自身の合理性という前提を精神史の準目的として理解し、 づく討議のアプリオリが洞察されるようになり、また精神史のうちで事実として登場したかということがそれであ 学の任務であるとすれば、以下のことがそこで主題となるべきである。すなわち、いかにして科学的な合理性に基 人間の文化的進化をその進歩と退歩との価値評価という意味において批判的に再構成することが理解による精神科 ついてのアーペルの言葉を一つ引用してみよう。 ストに向き合う際の理論家の態度においても重要な機能を果たしていることである。例えば精神科学の担うべき役割に こでは避けるが、本稿との関連で重要なのは、ここで理論的に要請される価値理念が、同時にまた、過去の歴史やテク 程へと収めようとする。そこから案出されたコミュニケーション的合理性についての彼らの論証に深入りすることはこ んで、彼らはいかなる解釈行為においても当為として妥当しうるような普遍的な理念を再構成することを社会科学の射 目指すところは一つである。すなわち、歴史性という事実に立脚する地点に止まってしまった哲学的解釈学から一歩進 それに対して、「理想的発話状況」や「超越論的語用論」と用いる語彙に相違があるが、ハーバーマスとアーペルの (( ここで精神科学の任務とされているのは、過去の歴史に審判を下すことのできるような先験的な理念を根拠にしながら、 その普遍的規範の発展史として過去の歴史を批判的に再構成することである。このような態度に触れるとき、ピアジェ とコールバーグの道徳的な発展段階論をハーバーマスとアーペルがともに高く評価していることが自ずと想起される 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 51 (( ( ( が、それに対して、いずれにしても哲学的解釈学は自らのテクスト解釈の妥当性に究極的基礎づけを与えうる普遍的公 準を欠いているがゆえに、体系的な欠陥を抱えているということになる。 このような批判に対するガーダマーの応答は、再び歴史性と有限性という観点からなされるものである。すなわち、 彼によれば、何らかの道徳的規範や価値理念を手がかりにして、テクスト解釈から生じるべき真理を先取するようなや り方は、自らの歴史性に対する理論家の盲目を示すものに他ならないのである。そのような事態は、ハーバーマスとアー ( ( ペルがともに──あたかも神の言葉に特権的に耳を傾けることのできる天使のように──歴史を超越した視点から歴史 の 全 体 に 反 省 を 加 え る こ と が で き る 場 所 に 立 っ て い る と 錯 覚 し て い る こ と に 由 来 し て い る と ガ ー ダ マ ー は 批 判 す る。 哲 ( するものである」。 ( このあらゆる変移の中の恒常性こそ 〔…〕やはり哲学の諸問題が人間の精神にとって逃れがたい課題であることを証明 語っていた。すなわち「哲学史においては主要な諸問題のみならず、その主要な解決の方向もまた反復される。まさに いるといえよう。人間の歴史的発展を価値や規範の意識化と進歩として把握しながらヴィンデルバンドは以下のように バーマスやアーペルの態度は、かつて新カント派のヴィンデルバンドが体系化した「問題史」と同じ陥穽に落ち込んで 少し角度を変えるのであれば、何らかの超歴史的な価値理念とその展開として過去の歴史を再構成しようとするハー 過ぎないことに対する無自覚なのである。 クスト解釈の目的にまで投影されるとき、そこから垣間見えてくるのは、自らの信奉する規範が歴史的で有限なものに 学的解釈学の立場からすれば、現代の規範意識や価値理念が歴史から抽象されて普遍的規則となり、さらにはそれがテ (( な懐疑を投げかける。 して妥当か否かが、まず問われなければならないはずである。ゆえにガーダマーは、そのような問題史に対する根本的 現代において政治哲学上の関心を引きつけている問題を同一の永遠な価値をもった問題として設定すること自体が果た しかしながら、哲学的解釈学の立場からすれば、「自由」や「平等」であれ、「リベラリズム」や「デモクラシー」であれ、 (( 52 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 (( もし問題の同一性を空虚な抽象であると認識し問題設定における変遷を承認するならば、そのときにのみ問題史は 初めて歴史となるだろう。歴史上の解決の試みの変遷のうちにある問題の同一性を考えることのできるような歴史 ( ( 。歴史学上の近視眼によってのみ、私たちは問題を同じものとみなすことがで の外部の地点など存在しない。〔…〕 きるのであるが、問題の真の同一性が考えられるようなあらゆる視点を超えた視点など、完全な幻想なのである。 ( ( そもそも「問題史の弱点は、私たち自身の洞察の限界を露わにしてくれる批判的なパートナーとしてではなく、自ら (( ( 釈」をめぐってのものであった。 ( 年のパリでの出会いによって生じたガーダマーとデリダの間の論争は、そのシンポジウムの表題の通り「テクストと解 それではデリダ流の脱構築的なテクスト解釈に対しては、ガーダマーはいかなる態度を取るのであろうか。一九八一 2 哲学的解釈学と脱構築 生じてくるのである。 であると自認することによって、私たちが依拠している規範的立場を自明視しながらテクストに向き合うことによって のような態度は、ハーバーマスやアーペルがそうであったように、自らが啓蒙された意識として普遍的な理念の擁護者 の問題への洞察を確証するものとしてしか哲学の歴史を読解できないことにあるのであ る」。そして、結局のところそ (( デリダがガーダマーへ投げかけた疑念のうち、着目するべきはコンテクストの概念に関わるものである。デリダの理 解によれば、哲学的解釈学とは過去と現在の二つの地平の間の歴史的連続性を発見することでコンテクストを絶えず再 ( ( 構築していこうとする努力なのであるが、デリダが憂慮するのは、そのような営みに、その連関から排除されるような テクスト解釈の可能性を隠蔽する暴力が必然的に付随することである。 そのような哲学的解釈学の難点を克服するべく、デリダはハイデガーのニーチェ解釈に対する批判という婉曲的な仕 (( 方で自らの読解手法を示そうとする。ニーチェのテクストについて統一的な解釈を施そうというハイデガーの態度を論 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 53 (( ( ( ( ることによってしか可能とならないことを指摘することで応戦している。テクスト読解のなかで次々と異なった解釈が ( ( 産 出 さ れ る べ き こ と は 哲 学 的 解 釈 学 も 当 然 認 め る と こ ろ で あ る が、 そ れ で も な お 現 在 と 過 去 の 地 平 の 間 に 一 貫 性 が 存 在 しており、私たちがそこに帰属していることこそ理解や解釈の根本的な前提なのである。 ( イデガーのニーチェ批判を踏襲する。「事実など存在しない。ただ解釈があるだけである」。ニーチェの本来の意図はど ( て生成を実体化してしまったニーチェの思想圏内を脱しきれていないことによるのである──この点でガーダマーはハ のだろうか。ガーダマーの見立てによれば、それはデリダが結局のところ、形而上学批判を先鋭化することで、かえっ では、それにもかかわらずデリダがテクスト読解における差異やずれの創造に殊更に加担する態度を取るのは何故な (( (( するものとして自己目的化される事態が生じるのである。 54 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 難して彼はこう述べるのである。 ある人が唯一の名前を担わなくてはならないなどと誰が言ったのだろうか。ニーチェは確実にそんなことは言って ( 。ニーチェこそは、自身の名前を複数化し、複数の署名やアイデンティティや仮面によって戯れた はいない。〔…〕 数少ない人間の一人ではなかったのか。 ( (( このような非難に対してガーダマーは、デリダの志向する脱構築的な解釈そのものが歴史的なコンテクストに寄生す への方向性を欠いているがゆえにデリダの格好の攻撃対象となるのである。 ( ) 」 ことなのである。逆に、哲学的解釈学はこのようなコンテクストの断絶や解釈の多元化としての「散種 ( Dissemination クスト読解が目指すべきは、複数の異なった解釈や分裂を次々と創造することによって、隠されていた差異を救済する 去の思想家のうちに私たちの地平と融合しうるような一つの体系的な相貌を発見できたからではない。むしろ反対にテ このデリダの言葉に従えば、何らかのテクスト解釈が正しいのは、対話によってテクストとの間に合意を形成し、過 (( うあれ、この著名な言葉が金科玉条として礼賛されるとき、無数の解釈が生成され続けること自体が普遍的な価値を有 (( そして、このようなニーチェ的な解釈概念を継承することによって、結果としてデリダは歴史的文脈を無視した超越 的な規範として、メシア的に差異を救済する脱構築的なテクスト解釈の普遍性を称揚することになってしまうのである。 ガーダマーの見方によれば、ハーバーマスやアーペルを導いていたそれとは正反対ものであるとはいえ、過去のテクス トに対するデリダのそのような態度には、暗黙に転倒した普遍主義が働いていることになる。そして、そのような自ら の規範的関心が先行するかたちでテクストが解釈されるとき、そこで発生しているのは、またも解釈者の歴史性や有限 ( ( 性への無自覚という事態である。むしろガダマーにとって重要なのは、そのように差異を物語ること自体が、歴史性を 背負った解釈学的対話のコンテクストのうちでのみ意味をもちうるということなのである。逆に、あらゆる解釈は、そ れがどれほど創造的で興趣に富んだものであり、ラディカルな政治的変革に寄与するものであろうと、真摯な存在論的 探求から研究者の目を逸らしてしまうものであるならば、無意味であるということになる。 こうして二つの論争から浮かび上がったのは、過去の歴史から普遍的規範を批判的に再構成するものと、歴史に埋も れた異なった系譜を叙述することでコンテクストの偶然性を暴き抑圧された差異を救済しようとするもの、いずれのテ クスト解釈の態度からもガーダマーの哲学的解釈学は隔たった位置にあるということである。ここに挙げたのが極端化 された二つの類型であることは事実であるが、ガーダマーの観点によるならば、その双方は、一見して普遍と特殊とい う真逆の方向性を志向しているように見えながら、自身が擁護しようとする規範的立場の絶対性という視座からテクス ト解釈の目指すべき目的を先取することで、テクスト解釈者の有限性を忘却してしまっている点で変わりはないのであ る。 四 存在論としての政治思想史へ向けて ここまでの探求において、ガーダマーの哲学的解釈学に潜在していた破壊力が十分に明らかになったと思われる。し かし、ここで改めて私たちは問わねばならないだろう。あれでもなくこれでもない。この否定の道の向こう側に、果た 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 55 (( ( 56 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 して何が見えてくるのだろうか。頑固といえるまでの他の思想家に対する拒絶をガーダマーに貫かせることを可能とし ている核心は一体何なのだろうか。また、そのような批判的態度の根底にあるテクスト解釈についてのガーダマー自身 の規範的根拠はどこに求められるべきなのだろうか。この点が鮮明にならない限り本稿は無責任の誹りを免れえないだ ろう。 この問いに答えるために改めて私たちが出発点とするべきは、ガーダマーの解釈学が、テクスト読解のための技術論 であった伝統的解釈学とは異なり、理解や解釈という行為を人間の根源的な存在様式として捉えるハイデガーの存在論 的解釈学の系譜に位置しているということである。このような前提に立つならば、哲学的解釈学から思想史研究の方法 論を編み出そうとする私たちの試みは、ガーダマーの存在論的問いへと探求の射程を拡大していかねばならないことに なる。 ではガーダマーにおいて「存在する」とは何の謂いなのだろうか。「私たちの存在そのものとしての対話」というヘ ルダーリンの言葉をたびたび彼が引用するように、「言葉をもった動物」として人間が存在するということは、他でも ( なく対話として存在するということである。そして、彼が古典文献学者としての長年のプラトン研究から練り上げた知 ) 」という論理によって運動していく解釈学的循 見によるならば、対話として存在するということは「問答法 ( Dialektik とを限定する歴史的コンテクストを付与するものであると述べている。伝承されたテクストの総体である歴史の連関に では、その構造はいかなるものなのだろうか。まず彼は、研究者が出会う過去のテクストとは彼らが「問い」うるこ ) 」が常に働いているのである。 その対話の時空間においては「問いと答えの論理 ( Die Dialektik von Frage und Antwort ガーダマーによれば、テクストの理解や解釈は、いつでも解釈者とテクストの対話として遂行されている。そして、 1 問いと答えの論理 成している問答法の構造を明らかにすることから考察を始めなおすことにしよう。 環として存在するということと同義である。この点を確認して、まずはこのガーダマーの解釈学において言語の本質を (( 帰属することで、初めて私たちは何らかの問いに出会うことができるのである。 伝承されたテクストが解釈の対象であるということは、即ち、それが解釈者に対して問いを立てているということ ( ( を意味している。その限りにおいて、ある人に立てられる問いとの本質的な関係が解釈には常に含まれているので ある。テクストを理解しているということは、このような問いを理解しているということである。 ) 」として受け取られるべきであるとされていることは見逃されてはならない。この Frage ) 」 の 取 得 と 名 付 け る の で あ る が、 こ こ で テ ク ス ト が「 答 え こ の よ う な 事 態 を し て 彼 は「 問 い の 地 平 ( Fragehrizont ) 」ではなく「問い ( Antwort ( ( ることのない無限の循環のプロセスを形作っていくことになるのである。 ( ストとの対話から発生する答えが、いつでも歴史的で有限なものにとどまる以上、この問いと答えは交錯しながら終わ である」というガーダマーの言葉が示すとおり、解釈学的状況が刻一刻と異なったものとなり、そこで遂行されるテク ( また、この活動史の展開過程には、本質的に永遠に終わりは存在しない。「理解するとは常に異なって理解すること 積からなる活動史の一部を形成していくことになるのである。 のようにして、研究者自身が解釈学的対話の論理に従いながら新たな解釈を追求することで、テクストとその解釈の蓄 況において己自身のものとして引き受け、自らの手で新たな答えを出さねばならないということが含意されている。そ 概念には、解釈者自身がテクストの向き合っている「問い」を──抽象的な「問題」としてではなく──ある歴史的状 ( 行する対話者として、私たちは様々な形でテクストと邂逅するのである。 善き生とは何か、正しい政治秩序とは何か。私たちが抱くものとは異質な答えを持ちながら、それらの問いをともに遂 (( ガーダマーの哲学的解釈学の代名詞とも言われる「活動史」はこのようにして問答法の論理に従って運動するもので (( あり、また「地平の融合」はその円環のうちで絶え間なく発生し続けているものと考えられている。少し長くなるが、 彼自身の言葉をここに引用しておきたい。 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 57 (( 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ( ( 58 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 さて、解釈学的経験の構造のうちに見出された問いと答えの問答法 ( Die Dialektik von Frage und Antwort )は、活動 史的意識がどういった種類の意識であるのかを、より詳細に規定することを可能とする。というのも、私たちの示 〔…〕 。 した問いと答えの問答法は、理解における関係を、ある種の対話的な相互関係として、明らかにするからである。 0 その意識の遂行様式はテクストと解釈者を媒介する理解における地平の融合として叙述される。今や、以下の論究 を導いていく考えは、理解のうちで起こる地平の融合が、本来的に言語の所産である、ということなのである。 それでは、この問いと答えの間を循環していくテクスト解釈の運動のうちにあって理論家や研究者に求められるべき 2 問いのエートス を徹底して究明していくことになるはずである。 らかの方法や形而上学的理念によって超越することではなく、むしろ有限性と歴史性というその世界の根底で働く論理 ) 」として考えなければならないのである。また、「観想」とは、この出来事からなる「実践」の世界を何 事 ( Geschehen であれば、あくまでも自らの遂行する理解や解釈を「私たちの存在そのものである対話」の内部で生じる一つの「出来 しようとすることこそ、最も回避されるべきことなのである。そして、私たちが存在論上の自己錯誤に陥りたくないの 解釈学的対話の歴史的循環の外部に脱しようと試みたり、自身の規範的意識に即して一つの答えにそれを収斂させたり 入り込もうとしないからこそ、彼の批判の対象となったのである。ガーダマーによれば、何らかの方法論をもってこの かも同時にまた鮮明となる。本稿が取り上げたいくつかのテクスト解釈の方法論は、いずれもこの理解の循環に正しく このようにして問答法の構造が素描されるとき、先にガーダマーがいかなる根拠によって他の立場を拒絶していたの 逃れえないことも含まれることが明白となった。 れらの性質には、テクストを解釈する営みが言語性をもつこと、つまりは問答法という論理で進展する解釈学的循環を 有限性と歴史性こそが解釈学を導く根本命題であるとして、本稿は議論を進めてきたのであったが、ここに至って、そ (( 方法論上の態度とは具体的にいかなるものなのだろうか。テクストとの解釈学的対話が繰り返し行なわれさえすれば「何 ) 」であって、そこにはいかなる規範も存在しないのだろうか。あるいは、このようなテクスト でもあり ( anything goes との交流は誰しもが日常的に遂行しているものであり、とりわけ理論家のみに要求される特殊な態度などそこには不要 なのではないだろうか。ガーダマーの哲学的解釈学において、これらの問いかけに究極的な答えを与えてくれる存在は ソクラテスである。 問答法についてのガーダマーの議論をさらに追跡しながら、その点に迫っていくことにしよう。問いは答えよりも存 在論的に優位にある。『真理と方法』において、彼はそのように述べている。というのも、問うことのみが、私たちが 抱いている答えを繰り返し否定することによって、テクストを媒介にした新たな問いを解放し、問答法の循環を動かし ていく原理となりうるからである。曰く、 0 0 0 0 0 0 問答法とは、対話を導いていく術であり、ある人を支配してしまっている思い込みの不相応さを、問い続けていく ことの結果として、明らかにする技術に他ならない。ゆえに、ここにおいて問答法は否定的なものである。それは ( ( 思い込みに揺さぶりをかけるのである。しかし、そのような揺さぶりは、同時に浄化でもある。というのも、それ は事象への適切な眼差しを解放するのである。 人間が有限で歴史的な存在である限りにおいて、何らかの解釈上の答えに永遠に執着していることはできない。しかし、 それは避けるべきことではなく、むしろ歴史の変遷のなかで何度でも新たな問いが浮上してくることによって、解釈学 的循環は無限の広がりへと開かれていくのである。このような意味で問いは、人間存在の有限性と、それに相即するも のとしての歴史に潜在する真理の無限性という二つにして一つの存在の事実に基礎づけられている。そして、ガーダマー によれば、そのような問いを喚起することによって対話を先へと導き、かくなる真実に眼を開かせる術としての問答法 は、ソクラテスにおける「無知の知」に最も明確に結晶化しているのである。彼の言葉に耳を傾けよう。 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 59 (( ( を手にすることができず、常に無知にとどまり、絶えずそこへと向かっていく問いかけとしてのみしか存在できないと いう根源的な事実性を表すものとして解釈し直されることになる。そして、そのときに研究者が依拠するべき唯一の規 範とは、正しいテクスト解釈を確証する方法論ではなく、解釈学的対話という自らの本来的な存在様式に忠実であるこ ととしての「問いのエートス」であるということになる。 ) 」正しい解釈へと行き着くことができるのか。私たちは、このような問いをもっ いかなる「道を辿って ( meta hodos ) 」を辿ってである──その問いに対するガーダマー て本稿の探求を始めたのであった。ソクラテスの歩んだ「道 ( Weg の答えはいまやあまりにも明白となった。それはつまり、解釈を無限へと開いていく「問い」と、その都度与えられる 60 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 問 い と い う 論 理 上 の 形 式 と そ こ に 内 在 し て い る 否 定 性 は、 根 源 的 否 定 性 と し て の 無 知 の 知 ( dem Wissen des ( )において完成する。アポリアという最高度の否定性において、問うことの持っている真の優位を解明 Nichtwissens )だったのである。 したのが、かの有名なソクラテスによる無知の知 ( docta ignorantia ( いにある唯一の本来的な答えなのである。 ( 都度新たに善に向けて問うていく衝動を呼び覚ますものである。無知こそが、プラトンによると、ソクラテスの問 プラトンの描写においてソクラテスが導いていく対話には、アポリアというもう一つの目標があり、それは、その 根源的な無知を徹見するという、もう一つの到達地点が存在することを示唆している。 者には要請されることになる。実際に、ガーダマーはテクストと対話を続けていくこと以外に、解釈学的対話には己の 自己が何度も否定される経験を積み重ねていくことによって、無知の知という境地を体得していくことが、思想史研究 こうして、問答法的に進展していく活動史の流れのうちにありながら、異質なテクストとの対話を続け、それまでの (( ここでは哲学的解釈学の核心である理解の有限性や歴史性は、いかなる事象への問いにおいても人間は究極的な答え (( ( 有限な「答え」の間で展開していく活動史の論理に正しく則ることによってでもある。そこで解釈者に必要とされるのは、 その循環から抜け出るための方法論や普遍妥当的な答えを先験的に判別する基準を確立することではなく、新たな解釈 ( ( ) 」や、問答法を導く問いのエートスを、テクストとの対話の経験その が存在する可能性への「開かれた態度 ( Offenheit ものによって事上に磨錬していくことなのである。 ( そして、それは個々の研究者が──それが専門分化した現代の大学において過大な要求であるか否かはさておいても ──存在論的な自己究明の過程として思想史研究を実践していくことに他ならない。思想史研究が真に歴史的探求であ りうるのは、それが、歴史的世界に生きる人間が自らの存在の本来的な真実相を自覚していく道程の、一つの純化され 。そして、その徹底した自覚のプ た可能性であるときのみである (そのとき哲学か歴史かという不毛な二者択一は消滅する) ロセスとしてのテクスト解釈が最後に辿り着くべき地点、それが受肉したロゴスとしてのソクラテスとなることなので ある。では最後にガーダマーの言葉を引用して、ここまでの考察を締めくくることにしよう。 (( 無 知 の 知 と は、 普 遍 妥 当 的 な 科 学 的 命 題 を 立 て よ う と す る 研 究 者 の 態 度 で は な く、 倫 理 的 な 己 事 究 明 ( sittliche ( ( )と自己認識の模範なのであり、いずれにしてもそれは対話によってのみ築き上げられ、対話のう Selbsterforschung ちでのみ働くものである。重要なのは教説ではないということをプラトンははっきりと自覚していたのである。 五 おわりに ──解釈の葛藤を超えて ここで本稿の末尾にあたって、西洋におけるヒューマニズムの徹底した批判者であったハイデガーとは異なり、ガー (( ) 」など人文主義を導く根本概念を擁護することから『真理と方法』の叙述を始め Urteilskraft ダ マ ー が 人 文 主 義 の 伝 統 の 継 承 者 を 自 認 し て い た こ と に 触 れ て お く こ と に し た い。 ガ ー ダ マ ー は「 共 通 感 覚 ( sensus ) 」や「判断力 ( communis ) 」の概念である。 ているが、とりわけ注目したいのは「教養 ( Bildung 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 61 (( 0 0 0 0 0 0 0 ( ( 精神科学を学問たらしめているものは、近代科学の方法理念からではなく、むしろ教養概念の伝統から理解されう るのである。私たちが振り返ってみるべきは、人文主義の伝統なのである。 彼はこのように述べているが、ガーダマーの思想における教養概念の重要性に目を向けることによって、先に論じられ ( ( た存在論としての政治思想史が、同時にまた教養としての政治思想史としての側面をもつことが明らかになるであろう。 1 教養としての政治思想史 として思想史研究を捉えようとするガーダマーと、他者との邂逅による精神の「弁証法」的な現象のプロセスとして歴 ( ( 史を理解しようとするヘーゲルの間には多くの類似点が存在している。ヘーゲルと同じく「愚行の回廊」と揶揄される ような陳列的な学説史をガーダマーが拒否することは勿論であるが、それ以上に彼はまた、ヘーゲルが提唱した教養の 理念を非常に高く評価しているのである。曰く、 ( ( とともに精神科学も付け加えたいのである。というのも、精神の存在は、本質的に教養の理念と結びついているか らである。 「完成された教養」ということになる。理論家や思想史研究者に要求されるのは、学問的な方法論に通暁していること ではなく、テクストを題材として、「異質なもののうちに自らのものを認識し、そのうちに慣れ親しむ」という「精神 の根源的運動」を反復することによって、教養を形成していくことなのである。再び彼の言葉を借りるのであれば、 「精 62 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 (( しばしば「ヘーゲル主義者」に分類されることからもわかるように、「問答法」の実践による存在論的な自覚の過程 (( ヘーゲルはまた「哲学が存在するための条件は教養のうちにある」ということを見てとっていたが、私たちはそれ (( このようなガーダマーの信念に従うのであれば、哲学的解釈学に従事する人々が第一に体得することを目指すべきは、 (( 神科学が前提としているのは、学問的意識がすでに教養をもった意識となり、ゆえに学習したり模倣したりすることの ( ( 不可能な機知を手にしているということなのである。そのような機知だけが精神科学における判断の形成や認識の在り 方を基盤のように支えているのである」。 ( (( ( ている。 ( ) 」として称揚し 点にいつでも開かれたままでいる」こととしての教養を、ガーダマーは「普遍的感覚 ( allgemeiner Sinn 得することこそが、完成された教養なのである。そのようにして、いつでも「他者や自分とは異なったより普遍的な視 限性や歴史性や言語性──をありのままに受け入れることによって、テクストとの解釈学的対話へと開かれた態度を獲 をするとすれば、そのように無限に終わることのない解釈学的循環から脱出することができないこと──人間存在の有 意されるのは、全く逆に、この教養形成の過程に終わりはないということなのである。あるいは、矛盾を孕んだ言い方 ( 「普遍性へと自らを上昇させることとしての教養こそ人間の任務である」。このようにガーダマーが語るとき、そこに含 がある。というのも、ガーダマーにおける教養とは、ヘーゲルのように絶対知によって完結するものではないからである。 ただし、完成された教養というとき、そこにヘーゲルとは異なった意味が込められていることには注意しておく必要 (( このように考えるとき、ガーダマーの叙述するソクラテスは、問う人として求道者の風貌をもちながら、このような 伝統的な人文主義的教養の体現者でもあることが明らかになる。そしてまた、哲学的解釈学から帰結した存在論的な問 いかけとしての政治思想史は、同時に教養としての政治思想史という側面を持ちあわせていると言うこともできるだろ う。 2 複数のソクラテスを前に ところで、政治思想史というテクスト解釈の連鎖の始まりに、長くプラトンの対話篇が位置づけられてきたことにつ いて、多くの思想史研究者は異論を挟まないであろう。とすれば、ガーダマーの解釈学もそのプラトン読解に新たな一 頁を付け加えたものであるともいえるかもしれない。 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 63 (( ( ( についての一つの恣意的な世界像を読みこんでいるに過ぎないのではないか。そのような疑念が生じてこざるを得ない。 私たちは「職業としての思想史研究」を遂行するものとしての本分を超えて、自らの日常的営為の意味へと試みに問い をたてたのであった。しかし結局のところ、このような「神々の闘争」が不可避であるとするならば、やはり研究者に 求められるのは、そのような実存的問いに対する最低限の禁欲なのではないのだろうか。あるいは、この「解釈の葛藤」 を最終的に共約可能とするような普遍的尺度を示すことなどできないという、この禁欲の背後にあるニヒリズムを克服 することは現代社会においては、もはや不可能ごとなのではあるまいか。 しかし、ガーダマーの答えは否であろう。というのも、このような複数のソクラテスが存在してきた──そしてこれ からも存在していくだろう──という事態、各々の研究者の「問い」かけの中で、ソクラテスその人が絶えず相貌を改 めながら、歴史の中で一つの「答え」として繰り返し登場してくるという事実そのものが、伝統の近さと遠さ、問いと 答えの間で実践される無限なる循環としての解釈学的対話こそが、テクスト解釈が遂行されるべき真実の存在様式であ ること──そしてその論理を体現した姿こそ「真実の」ソクラテス像であること──を示唆しているからである。そして、 ) 」へのパトスとは、対象から距離を取ろうとする「客観性 ガーダマーにとって研究者に求められるべき「実在 ( Sache 64 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 このように考えるとき、ここで一種の困惑が生じてくる。というのも、先に論じた他の多くの思想家もまた独自のソ クラテス解釈を通して自身の哲学的立場を擁護しているのを私たちは知っているからである。アーペルにとってソクラ テスこそは西欧世界におけるコミュニケーション的合理性を初めて具現化した人物であったし、デリダが『パイドロス』 ( 篇の独創的な解釈を通してプラトン哲学自体の中からパロールとエクリチュールの関係の逆転を引き出してくる際の筆 致 の 鮮 や か さ を 想 起 す る こ と も で き る。 あ る い は シ ュ ト ラ ウ ス に と っ て ソ ク ラ テ ス こ そ 人 間 の 自 然 本 性 を 問 う た 初 め て ( たこと思い起こせば、彼においては敢えて主題化されないという逆説的な形でソクラテスに対する態度が顕在化されて の政治哲学者であったし、またスキナーが古代ギリシャから始まる既存の思想史叙述の「不倶戴天の敵」を自称してい (( このような複数のソクラテス像を前にするとき、ガーダマーもまた、ソクラテスという研究対象のうちに存在や真理 いると言えなくはないだろう。 (( ( ) 」への執着ではなく、どこまでもこの実在の真の姿へと自らを近づけていこうとする哲学と求道へのエロー Sachlichkeit スに求められるべきなのである──それは自らソクラテスのように善く生きること選ぶことに等しい。だからこそ、究 極的にガーダマーは、テクスト解釈を生業とする人々に対して、最後にはテクストそのものを捨てることすら要求する のである。 プラトンの対話篇は哲学的、詩人的芸術の偉大なる名手によって書き落とされた対話なのであるが、私たちがかの 有名な『第七書簡』によってプラトン自身から知らされるのは、彼が自身の真実の教えを文字で表現したものを後 に残さなかったし、そうすることも欲していなかったということなのである。プラトンは、模倣によって二重化さ れたもの、つまりは文字にされた対話を手段にして、思索が自らで言葉を発見していくような──それは決して答 ( ( えの与えられることのない任務ではあるが──言葉で話される対話へ突き抜けていかねばならない必然性の前に、 はっきりと私たちを立たせるのである。 ( ものに過ぎないにしても、邪道へと転落していく危険性を絶えず警戒しながら、その常識を常識として徹底して反省し 態度の均衡や思想史研究を通じた教養形成という、ほとんどの研究者が陰に陽に分かちもっている共通感覚に帰着する そして、このような一見してラディカルな訴えかけから生まれる姿勢が、結局は政治思想史と政治理論という二つの ある」。それが冒頭に掲げた問いに対して哲学的解釈学が与えうる唯一の解答である。 ( る。「あらゆるものが教養を前提とするとすれば、そこにあるのは手続や態度の問題ではなく、エートスの問題なので 正しいテクスト解釈の方法論ではなく、テクスト解釈を通して鍛えあげられた正しい生き方のみであるということにな ガーダマーが遺したこの言葉を真摯に受け止めるのであれば、思想史研究者によって学問的に継承されていくべきは、 (( 抜き、思想史研究者が踏み行なうべき正道と中庸を敢えて明確に意識化してみせたという点に、ガーダマーの哲学的解 釈学の独創性は認められるといえよう。 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 65 (( Hans-Georg Gadamer, Leo Strauss, Correspondence Concerning Wahrheit und Methode, in Independent Journal of Philosophy, 66 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 (1)R・ローティ『連帯と自由の哲学:二元論の幻想を超えて』、冨田恭彦訳、岩波書店、一九八八年、一〇五─一一八頁。 (2)近年の例として以下を挙げておく。松本礼二『トクヴィルで考える』、みすず書房、二〇一一年、二─五頁。過去の歴史的文脈 の一契機として古典を考証すると同時に、そのうちに歴史を超えた価値も発見するという、ここで松本が教示している中間的態度 は、思想史研究者に広く共有されている良識であろう。 (3) Hans-Georg Gadamer, Gesammelte Werke 1: Hermeneutik I: Wahrheit und Methode: Grundzüge einer philosophischen ( Paul Siebeck ) , 1999, S. 300 (轡田収他訳『真理と方法』、法政大学出版局、一九八六・二〇〇八・二 Hermeneutik, J. C. B. Mohr 〇一二年、四六三頁)こ. の箇所を政治思想史の叙述に援用したものとして、山岡龍一『西洋政治理論の伝統』、放送大学教育振興会、 二〇〇九年、二五─二六頁。その他にガーダマーの諸概念に方法論の文脈で言及したものとして小野紀明『精神史としての政治思 想史:近代的政治思想成立の認識論的基礎』、行人社、一九八八年、一六─一七頁がある。 (4)例えば藤原保信もまた、歴史を超えた価値の探求と過去の歴史的再構成という思想史研究の二つの方向性を媒介する第三の道 としての哲学的解釈学の可能性を示唆しているが、ガーダマーの思想に内在しながらその内容を明らかにするには到っていない。 Chris Lawn, Gadamer and the Dialogue between Philosophy and 藤原保信・白石正樹・渋谷浩編『政治思想史講義』、早稲田大学出版部、一九九一年、六─七頁。 (5)この点についての先行研究として以下の論文を挙げておく。 ( ) ’ Its History, in Andrzej Wierciński Ed. , Gadamer s Hermeneutics and the Art of Conversation, LIT Verlag, 2011, pp. 505-512. (6) Hans-Georg Gadamer, Gesammelte Werke 2: Hermeneutik II: Wahrheit und Methode: Ergänzungen, J. C .B. Mohr ( Paul ) , 1999, S. 439f. (邦訳 頁) . Siebeck (9) 治哲学論集』、石崎嘉彦訳、昭和堂、一九九二年、二三二─二七五頁を参照。 Cambridge University Press, 2009, pp. 13-40. (8)政治科学に対するシュトラウスの批判については、例えばレオ・シュトラウス『政治哲学とは何か:レオ・シュトラウスの政 (7)両者の個人的交流については以下のガーダマーの回想を参照。 Hans-Georg Gadamer, Gadamer on Strauss, in Interpretation, ) pp. 1-12.ま た 各 々 の 伝 記 的 生 涯 に つ い て は Jean Grondin, Hans-Georg Gadamer: Eine Biographie, J. C. Vol. 12, No.(1 1984 ( Paul Siebeck ) , 2000, Steven B. Smith, Leo Strauss: The Outline of a Life, in Cambridge Companion to Leo Strauss, B. Mohr xii ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ) p. 7. Vol.(2 1978 )このようなシュトラウスの問題意識については、レオ・シュトラウス『自然権と歴史』、塚崎智・石崎嘉彦訳、昭和堂、一九八 Leo Strauss, Persecution and the Art of Writing, The University of Chicago (邦訳八八九頁) . Gadamer, Gesammelte Werke 2, S. 416 八年、一三三─一七九頁を参照。 ) ) Ebenda, S. 423 (邦訳八九九頁) . )シュトラウス『政治哲学とは何か』、八三頁。 ) Gadamer, Gesammelte Werke 2, S. 103. )シュトラウスの独特のテクスト解釈については また飯島昇蔵「レオ・シュトラウスと政治哲学の歴史」、田中浩編『思想史学の現在と未来』所収、未來社、二〇〇九 Press, 1952. 年、一七七─一九七頁も参照。 )J・C・A・ポーコックやジョン・ダンなど他の代表的理論家とスキナーとの厳密な相違までを踏まえて議論を展開すること は残念ながら本稿の手に余る。彼らの間の看過すべきでない差異については以下を参照。堤林剣「ケンブリッジ・パラダイムの批 判的継承の可能性に関する一考察(一)(二・完)」、『法学研究』第七二巻・第十一号、第七三巻・第三号、一九九九年・二〇〇〇 年、四一─一〇二頁・三三─六七頁。さらに森直人「Q・スキナーとJ・C・A・ポーコック──方法論的比較」、『経済論叢別冊: 調査と研究』、第二五号、二〇〇二年、八五─九九頁。 ) Hirsch, E. D., Validity in Interpretation, Yale University Press, 1967, p. 255. ベ ッ テ ィ に つ い て は 以 下 の 著 作 を 参 照。 Emilio Betti, Allgemeine Auslegungslehre als Methodik der Gesiteswissenschaften, J. C. B. Mohr, 1967. )クエンティン・スキナー『思想史とは何か:意味とコンテクスト』、半澤孝麿・加藤節編訳、岩波書店、一九九九年、三三〇頁。 Masashi Sekiguchi, Conventions and Intentions: スキナーの方法論の発展の委細については以下の論稿を参照。関口正司「コンテクストを閉じるということ:クエンティン・ス キナーと政治思想史」、『法政研究』第六一巻、第三・四号、六五三─七二三頁。 The Problem of Closing Context in Quentin Skinner’s Methodology of the History of Political Thought, in International Journal of ( Research Center on Public Affairs for Sustainable Society, Chiba University ) , Vol. 2 pp. 29-37, 04/2006. Public Affairs )スキナー前掲書、三〇四頁。 )同上書、三三六─三三七頁。「作者の死」を容認するか否かの対立にスキナーとガーダマーの相違があることを指摘したものと 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 67 10 15 14 13 12 11 16 17 18 20 19 ( ( ( ( ( して、半澤孝麿「政治思想史研究におけるテクストの自律性の問題(一):Q・スキナーをめぐる方法論々争をめぐって」、『東京 早稲田大学出版部、一九九〇年、一八五頁。 )「概念史」や「観念史」もまた、それが概念や観念の間の歴史的連関をただ過去に存在したものとして素朴に研究しようとす xvi るときには同様の弊を免れ難い。ガーダマーの弟子でありドイツにおける概念史的研究の泰斗であるラインハルト・コゼレックと Hans-Georg Gadamer, Historik のやり取りがこの点については示唆的である。ハイデガーが『存在と時間』で使った実存論的範疇を「歴史学( Historik )」へと 応用しようとするコゼレックに対し、ガーダマーは、歴史家も含めて私たちが歴史のうちで自己を再認識していくプロセスとし ての理解の存在論こそ哲学的解釈学の考察対象であると述べることで関心の相違を表明している。 メルヴィン・リ und Hermeneutik, in Reinhart Koselleck, Zeitschichten: Studien zur Historik, SuhrkampVerlag, 2003, S. 119-127. ヒターの以下の端的な指摘も参照。「ハイデガーやガーダマーは哲学的に概念史の一種を実践しているが、彼らの言語への関心は 主として存在論的なものである」。 Melvin Richter, The History of Political and Social Concepts: A Critical Introductiuon, Oxford またディルタイ流の「精神史」についても同様のことが指摘できる。ガーダマーによればディルタイ University Press, 1995, p. 35. が「著者が自己自身を理解したよりもよく著者を理解すること」を解釈学上の格律として掲げるとき、結局ディルタイは現在から 68 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 都立大学法学会雑誌』第二九巻、第一号、一九八八年、四〇─四一頁。 ) Gadamer, Gesammelte Werke 2, S. 441 (邦訳一五頁) . )スキナー前掲書、一一九─一二一頁。 Kenneth B. McIntyre, Historicity as ) Gadamer, Gesammelte Werke 2, S. 442 (邦訳 頁) . )このような指摘については、山田正行「ハンス=ゲオルグ・ガーダマー」、小笠原弘親・飯島昇蔵編『政治思想史の方法』所収、 Methodology or Hermeneutics: Collingwood’s Influence on Skinner and Gadamer, in Journal of the History of Philosophy, Vol. 2, ) pp. 138-166. No.(2 2008 号、一九八一年、五七八─五七九頁。コリングウッドの二人への影響を比較した研究として ついているのである。佐々木毅「政治思想史の方法と解釈:Q・スキナーをめぐって」、『国家学会雑誌』第九十四巻、第七・八 グウッドの主張を全く継承していないように思われる」のであり、そのことがまたガーダマーに対するスキナーの無関心と結び ( )例えばガーダマーとスキナーはともにR・G・コリングウッドの「問いと答えの論理学( the logic of question and answer )」 を高く評価する点で共通するが、佐々木毅の指摘によれば、スキナーは「各世代は自らの仕方で歴史を書き改めるというコリン 23 22 21 25 24 26 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (邦訳三五四─三八七頁)を参照。 Gadamer, Gesammelte Werke 1, S. 222-246 過去への「感情移入」をテクスト解釈の方法論上の客観的規準にしようという願望から逃れえていないのである。ディルタイに対 する彼の批判については、 )以下の論文集に収録されている論文を参照。 Karl-Otto Apel et al., Hermeneutik und Ideologiekritik, Suhrkamp Verlag, 1971. Jürgen Habermas, Der Universalitätanspruch der Hermeneutik, in Hermeneutik und Ideologiekritik, S. 127ま た は Karl-Otto ) Apel, Szientistik, Hermeneutik, Ideologiekritik: Entwurf einer Wissenschaftslehre in erkenntnisanthropologischer Sicht, in Hermeneutik und Ideologiekritik, S. 32. ) Jürgen Habermas, Zu Gadamers ›Wahrheit und Methode‹, in Hermeneutik und Ideologiekritik, S. 48. ) Karl-Otto Apel, Das Selbsteinholungsprinzip der kritisch-rekonstruktiven Geistenswissenschaften, in Simone Dietz/Heiner ( Hrsg. ) , Sich im Denken orientieren: Für Herbert Schnädelbach, Suhrkamp Verlag, 1996, S. Hastedt/Geert Keil/Anke Thyen 28ff.. ) Jürgen Habermas, Moralbewußtsein und kommunikatives Handeln, Suhrkamp Verlag, 1983, S. 130-43 (三島憲一他訳『道徳意 識とコミュニケーション行為』、未來社、二〇〇〇年、一八九─二一〇頁) 及び . Karl-Otto Apel, Diskurs und Verantwortung: Das を参照。 Problem des Übergangs zur postkonventionellen Moral, Suhrkamp Verlag, 1992, S. 306-369 ) Gadamer, Gesammelte Werke 2, S. 266. )ヴィンデルバンド『一般哲學史』、井上忻次訳、第一書房、一九四一年、三三─三四頁。新カント派の方法論を基礎にした思想 (邦訳五八〇頁) . Gadamer, Gesammelte Werke 1, S. 381 史記述として古くは南原繁『政治理論史』、東京大学出版会、二〇〇七年がある。 ) ) Gadamer, Gesammelte Werke 2, S. 113. ) こ の 論 争 の 経 緯 は 以 下 に ま と め ら れ て 出 版 さ れ て い る。 Philippe Forget ( Hrsg. ) , Text und Interpretation, Wilhelm Fink (轡田収・三島憲一訳『テクストと解釈』、産業図書、一九九〇年) . Verlag, 1984 ) Jacques Derrida, Guter Wille zur Macht ( )I , in Text und Interpretation, S. ( 57邦訳九五─九七頁) . ( ) ( ) (邦訳一二六─一二八頁) . Jacques Derrida, Guter Wille zur Macht II , in Text und Interpretation, S. 72 ( )「散種」については以下を参照。 Jacques Derrida, Position, Les Éditions de Minuit, 1972, pp. 61-62 (高橋允昭訳『ポジション』、 青土社、一九八一年、六六─六七頁) . 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 69 28 27 30 29 31 33 32 36 35 34 39 38 37 Gadamer, Gesammelte Werke 10, S. 127. ) Hans-Georg Gadamer, Gesammelte Werke 10: Hermeneutik im Rückblick, 1999, J. C. B. Mohr ( Paul Siebeck ) , S. 137 を参照。 ) Hans-Georg Gadamer, Und dennoch: Macht des guten Willens, in Text und Interpretation, S. ( 61邦訳一〇三頁) . ) Ebenda, S. 158f.. )アリストテレスの実践哲学の継承者に位置づけられることの多いガーダマーであるが、むしろ彼の思想の独創性は、彼特有 ) のプラトン解釈にあるということは改めて強調しておかねばならない。例えば以下を参照。 Donatella Di Cesare, Gadamer: Ein philosophisches Porträt, Mohr Siebeck, 2009, S. 2. ) Gadamer, Gesammelte Werke 1, S. 375 (邦訳五七一頁) . ) Gadamer, Gesammelte Werke 10, S. 141. )例えば Hans-Georg Gadamer, Gesammelte Werke 8: Ästhetik und Poetik I: Kunst als Aussage, J. C. B. Mohr ( Paul Siebeck ) , を参照。 1999, S. 243f. ) Gadamer, Gesammelte Werke 1, S. 383 (邦訳五八二─五八三頁) . (邦訳七九七頁) . Ebenda, S. 468 ) 106. )晩年にガーダマーは以下のような言葉を残している。「〔対話という教育が現代の大学で可能かという問いに対して〕いい質問 ですね、ただしこう問いかけるべきでしょう。そもそも現代の大学は生き残ることができるのか、と。私にはよくわかりません。 私は五十年や六十年以上も活動的な教育経験を積み重ねてきました。そして私はこう言いたいです、哲学による真実の教育はいつ でも対話であると」。 Hans-Georg Gadamer, Interview: Hans-Georg Gadamer: “Without Poets There Is No Philosophy”, in Radical ) p. 27. Philosophy, No. ( 69 1995 )ハイデガーの存在論を政治思想史の方法論へ援用しようとする試みとしては、小野紀明「『精神史としての政治思想史』という ( Hans-Georg Gadamer, Gesammelte Werke 4: Neuere Philosophie II: Probleme Gestalten, J. C. Mohr ) , 1999, S. Paul Siebeck 方法をめぐって」、田中浩編『思想史学の現在と未来:現代世界─その思想と歴史(1)』所収、未來社、二〇〇九年、八九─九二頁。 ) 70 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ) Ebenda, S. 368 (邦訳五六〇頁) . ( ) Hans-Georg Gadamer, Gesammelte Werke 7: Griechische Philosophie III: Plato im Dialog, J. C. B. Mohr ( Paul Siebeck ) , 1999, S. ( 44 43 42 41 40 47 46 45 51 50 49 48 52 53 54 210. ( ) Gadamer, Gesammelte Werke 1, S. ( 23邦訳二四頁) . ( )例えば Gianni Vattimo, Vocazione e responsibilitá del filosofo, Il melangolo, 2000, pp. 53-60 (上村忠男訳『哲学者の使命とその 責任』、法政大学出版局、二〇一一年、一〇─二二頁) . )ヘーゲル『ヘーゲル全集十一:哲学史上巻』、武市健人訳、岩波書店、一九七四年、三七頁。 ( ( ( ( ( ( ( ) ) Ebenda, S. ( 20邦訳二〇頁) . Edenda, S. ( 20邦訳二〇頁) . Gadamer, Gesammelte Werke 1, S. ( 17邦訳一六頁)。 ) ) Ebenda, S. 22f. (邦訳二三─二四頁) . ) Karl-Otto Apel, Das Sokratische Gespräch und die gegenwärtige Transformation der Philosophie, in Dieter Krohn/Detlef ( ) Horster/Jürgen Heinen-Tenrich Hrsg. , Das Sokratische Gespräch: Ein Symposion, Junius Verlag, 1989, S. 55-77, Jacques ポストモダン的なプラトン解釈の多様性については Catherine H. Derrida, La dissemination, Les Éditions du Seuil, 1972, pp. 69-198. Zuckert, Postmodern Platos: Nietzsche, Heidegger, Gadamer, Strauss, Derrida, The University of Chicago Press, 1996. )レオ・シュトラウス『自然権と歴史』、一三三頁、スキナー前掲書、三五八頁。 ( ) Gadamer, Gesammelte Werke 10, S. 351f.. ( ) Gadamer, Gesammelte Werke 1, S. ( 22邦訳二三頁)そ . して、そのような教養の理念の護持のみが非政治的な学者の存在が担い うる唯一の政治的役割であるとガーダマーが考えていたことについては、以下の言葉から窺うことができる。「私は、非常に尊敬 しているこの賞の受賞者、カール・ヤスパースがそうしたように、政治的現実における出来事に対して、その都度明確に立場を取 Gadamer, ることへのいかなる特別な使命感ももっていない。むしろ私は確信しているのだ。考え、また考えることによって自由な判断力を 行使し、また他者のうちにその判断力を喚起することを学ぶことが、それ自体として卓越した政治的行為である、と」。 Gesammelte Werke 10, S. 331. 加藤哲理【「解釈」を解釈する】 71 56 55 62 61 60 59 58 57 65 64 63 ) . The Art of Prudence, London, 1702, p. 151 (’ Gracian, ‘Some maintain, that the true Art of Conversing, is to do it without Art 初期近代イングランドにおける会話・交際・社交 ──木村俊道 ● はじめに 政治という営為は、権力や理性や利益などによって一義的に決定されるものではなく、人と人との間で交わされるコ (1) ミュニケーションを通じて可能になる。本稿の目的は、このような観点から、ルネサンス期から一八世紀にかけての初 である。したがって、本稿の conversation 期近代ヨーロッパ、とりわけイングランドの政治思想の歴史を改めて振り返ることにある。 以下における考察の軸となる言葉は、「会話・交際・社交」を広く意味する をめぐって交わされた議論の一部を再現し、その歴史的な意義を明らかにすることに 課題の一つは、この conversation は言葉のみで成立するものではない。とくに同時代の宮廷社会を舞台とした conversation conversation (2) ある。ただし、 72 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 以前におけるヨー civilization といった語彙群にも併せて着目 courtesy, civility, politeness, manners, decency に お い て は、 表 情 や 仕 草 や 物 腰 な ど の 身 体 的・ 外 面 的 な 振 舞 い も 重 要 視 さ れ て い た。 そ れ ゆ え、 本 稿 で は、 他 者 と の を成立させる作法としての conversation (3) は文明と同義であり、一八世紀後半以降に流布する する。なかでも、シヴィリティ civility ロッパの文明や政治の原像を示していると考えられる。 このような初期近代のコミュニケーション空間に対する関心は、とりわけ近年においては、ハーバーマスの『公共性 の構造転換』によって促進された。とはいえ、彼が一八世紀のイングランドに見出した、新聞や雑誌、あるいはコーヒー・ (4) ハウスを媒介とした理性的な討論によって成立する市民的公共性 (公共圏)については、歴史研究の面からもすでに多く (5) の世界 の批判がなされている。それゆえ、本稿の第二の課題は、市民的公共性の観点からは見えてこない conversation の一端を描くことにある。そこで注目されるのは、同時代における政治と社交の中心であった「囲われた」空間として である。それはまた、ハーバーマスを含めた公共性をめぐる議論では注目されることが少ない、「私的な感 の宮廷 court (6) とも言えるだろう。 情」や「主観的なもの」を「仮面の下」に隠した代表的具現の「世界」 world (7) をめぐる政治思想の歴史的な意義を、とくに人文主義との関連に 本稿ではまた、これらの conversation, civility, court おいて理解したい。ここでまず思い起こされるのは、実践哲学の復権のなかで、かつてガダマーが着目した教養やコモン・ センス (共通感覚)などを主導概念とする人文主義の系譜である。もっとも、解釈学の観点から認識と真理の問題に取り 組んだガダマーの関心は、芸術や歴史や言語などを含む精神科学全体に向けられ、政治思想史における人文主義的伝統 (8) の意味が改めて問われることはなかった。これに対して、初期近代ヨーロッパの政治思想史研究においては、ポーコッ クやスキナーを中心とした市民的人文主義や共和主義の言説の研究が盛んに行われてきたことはよく知られている。 しかし、本稿で注目する人文主義は、マキァヴェッリの『ディスコルシ』ではなく、カスティリオーネの『宮廷人』 や、あるいはベイコンやヒュー からチェスターフィールドの『息子への手紙』に至る一連の「作法書」 courtesy books を通じて育まれたと考えられる、同時代の宮廷 (あるいは文明社会)を中心と ムをはじめとする一群の「エッセイ」 essay を可能にした教養やコモン・センス、 する人文主義である。以下で明らかになるように、初期近代における conversation 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 73 このような はどのようにすれば成立するのであろうか。 した場合、そこでの conversation という観点から改めて振り返れば、ヨーロッパにおける政治思想の歴史のなかに、国家や権 conversation (( 74 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 あるいはレトリックや思慮などをめぐる議論の蓄積は、むしろ、この宮廷の人文主義において豊かに見られるのではな を conversation いか。しかも、それはまた、ヨーロッパ諸国の宮廷を舞台とした君主や顧問官、外交使節といったアクターだけでなく、 たとえば「男性と女性」や「外国人」といった、ジェンダーやナショナリティを異にする「他者」との としての、いわば政治的教養であったのではないだろうか。 可能にする「技術」 art 一 ヨーロッパ思想史における政治とコミュニケーション もっとも、初期近代ヨーロッパの政治思想史は、他方でまた、デモクラシーや自由などの理念を中心とする近代政治 原理の成立に至る「前史」としても理解されてきた。しかし、それらの作業から抽出された個々の学説からは、たとえ ばホッブズやロックやルソーが、彼らが生きた時代のなかで、実際にどのような仕草で他者と会話し、交際し、あるい に対する深い関心から生まれたこともまた否定できない。たとえば conversation は相互に契約を結んでいたのかを想像することは必ずしも容易でない。 とはいえ、彼らの議論が、他者との によって「交際」 conversation を余儀なくされる人々と、いかにして「政治 ホッブズは、「世事」 business of the world (9) を保てるのかを考えた。しかし、これに対して、ロックの薫陶を受けつつもホッブズを批判したシャ 的な友好」 civil amity と骨を折ること」 フツベリによれば、「自分が狼であることを実際に発見した者が、そうした発見を伝えよう communicate ( ( 「ありのままの自己」を隠した社交界の偽善に対するルソーの批判はよく知られている。 はあり得ない。あるいはまた、 ( が今も昔も困難であることを物語っている。だとすれば、もし仮に、生まれや育 ウスの一節は、他者との conversation ちを異にするだけでなく、おそらく共約可能性の低い意見を有する彼らが、たとえば顧問官や外交使節として一堂に会 ( 彼の『学問芸術論』の表題頁に掲げられた、「この地で私は、人々に理解されないゆえに異邦人なのだ」とするオヴィディ (( や、あるいは学芸や技芸など studia humanitatis 力をめぐる原理的な考察とは異なる (あるいは、それらの議論が生み出され、受容され、批判されるといった一連の過程の前提と 、他者との会話や交際、そして社交を可能にする人文主義的教養 なる) に関する議論の系譜を見出すことができる。たとえばトマス・モアの『ユートピア』にも見られる を広く意味する art 一連の対話形式の作品は、その一つの起点がプラトンの問答法であることを物語る。しかし、それとともに見逃せない のは、イソクラテスやキケロによって展開されたレトリックの教養であろう。たとえば、イソクラテスによれば、「互 ( ( いに説得し、また欲するところのことについて自分自身に明らかにすることができるようになってはじめて、われわれ ( は、ルネサンスを経た初期近代ヨーロッパにおける「活動的生活」 conversation て表現できるという、まさにその一点こそ、われわれ人間が獣にまさる最大の点」なのである。 ( に不可欠な教養であることを強調した。彼によ ロもまた、同様の議論を繰り返し、レトリックが「人間性」 humanitas れば、フォルムや法廷や演壇や議事堂、そして談話において「互いに言葉を交わし、感じたこと、思ったことを言論によっ は野獣の生活から訣別したばかりでなく、集まって城市を建設し法律を立て技術を発明したのである」。そして、キケ (( ( ( 者の結びつきを強調する。すなわち、彼によれば、 「交際」は「人間に特有の利点」や「社会の紐帯」であるだけでなく、 の多様な展開を示唆する。あるいは、クラレンド が登場するが、このことは同時代の活動的生活における conversation ンとは逆に、同時期にイングランドに亡命したサン・テブルモンは、「学問と交際」を主題としたエッセイにおいて両 ( についての対話」には、宮廷人や法律家、兵士、カントリ・ジェントルマン、長老参事会員、主教といった多くの人物 後にモンペリエで記したエッセイのなかで、「助言と交際」を「第二の教育」として位置づける。しかも、彼の「教育 ( におけるエッセイ「助言について」のなかで、顧問会議における審議 て高く評価するとともに、『政治道徳論集』 1597 ( ( の心得を説いた。また、内乱期にフランスに亡命し、のちにチャールズ二世の顧問官となったクラレンドン伯は、失脚 において再生される。イングランドの例を挙げれば、たとえばジェイムズ一世の顧問官となるベイコンは、『学 vita activa のなかでレトリックを「活動的生活において有力」な「学芸のなかの学芸」 the arts of arts の一つとし 問の進歩』 1605 これらの古典的な教養に育まれた (( (( 学問を「実地に応用して洗練させる」がゆえに、「学識者を完全なジェントルマンへと仕立てることができる」のであ 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 75 (( (( ( ( る。 しかし、このような教養ある政治的アクターによる助言や対話が展開されたのは、ハーバーマスによって理想化され た、公論によって成立する市民的公共圏では必ずしもなかった。時代は下るが、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター には、「あるがままの」個人や市民ではなく、「光り輝くこと」が許された貴族を中心としたコミュニケー の修業時代』 1796 ションの世界を描いた以下のような一節がある。 「市民でも功績をあげることができる。必要にせまられれば、精神を陶冶することができる。しかし人品となると、 どうあがいてみてもなんともならない。もっとも高貴なひとびとともつき合う貴族にとっては、端正な態度を身に ( ( ( つけることが義務となる。〔……〕貴族は公的な人格だ。その身ごなしが洗練され、その声がよく透り、その態度全 体が冷静で沈着であればあるほど、彼はより完全になる」。 ( ハーバーマスは、このゲーテの一節に、それまでの宮廷社会を中心とした代表的具現の公共性の終末を見出した。し (( ( た中世以来の祝祭的な空間は、「もはや政治的意思疎通の行なわれる生活圏ではない」。しかしながら、以下で明らかに ( たことを示している。もっとも、市民的公共性に関心を向けるハーバーマスにとって、国王や貴族の威厳が可視化され た身体的な要素や、あるいは位章や風貌、挙措、話法などの「厳格な作法」によって成立する一種の演劇的な世界であっ かし、このことは逆に、初期近代における政治と社交の空間が、言葉による会話や討議だけではなく、「端正な態度」といっ (( 二 宮廷の人文主義 養や作法、あるいは役割演技を通じた社交によって可能になったように思われる。 なるように、初期近代ヨーロッパの政治はむしろ、カント的な理性の公的使用というよりは、宮廷を主な舞台とした教 (( 76 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 (( 1 宮廷という舞台 ( ( ポーコックの指摘にもあるように、初期近代ヨーロッパの政治思想は、たとえば自然法や自然権といった法学的な言 語や、あるいは王権神授説などをめぐる神学的な議論といった複数の言説によって成り立っている。しかし、そのなか ( (( ( 、(2) court や土地からの多数の人々」が集まる人間関係の結節点であった。とりわけ、イングランドにおいては、君主自身が「女 ( ルネサンスから初期近代にかけてのヨーロッパの宮廷は、祝典や記念行事、晩餐会や舞踏会などの機会に「多様な国 みたい。 はとくに、それらがジェンダーやナショナリティに関連した「他者」をめぐる緊張を孕んでいたことを併せて強調して 、(3)交際 conversation の観点から明らかにする。また、その際に、都市共和国のフィレンツェ シヴィリティ civility から一八世紀の大西洋圏へと受け継がれた (とされる)市民的人文主義や共和主義との異同に注目するとともに、本稿で フェラーラといった宮廷都市や、あるいは北方の君主国を中心に育まれた人文主義の特徴を、とくに(1)宮廷 る人文主義の政治思想を、体系的な学説や教義に還元することはできない。以下ではまず、ウルビーノやマントヴァや とも、古典や歴史の教養を基礎として、情況に応じたレトリックや思慮、あるいは作法といった実践的な知識を重視す 義である。ハーバーマスも指摘していたように、 「人文主義の教養世界は、まず宮廷生活に統合される」のである。もっ ( でも、「人間性」を涵養する古代以来の教養の伝統を、とくに会話や交際の作法において洗練させたのが宮廷の人文主 (( 性」や「外国人」である例が続いたことが注目される。しかも、定例議会や官僚制の発達が見られない当時、宮廷はま という言葉にも示され た、顧問官や外交使節などが日常的に出入りする政治的なセンターでもあった。「礼節」 courtesy では他者との交際の作法が高度に洗練される。エリアスによれば、 ているように、政治と社交が密接に関連する宮廷 court ( ( 宮廷は「人間の行動様式のモデルを鋳造する場所」であり、「ヨーロッパの様式を形づくる真の中心」となった。そして、 同時代においても実際に、たとえばサン・テブルモンによれば、「全王国の縮図」である宮廷は、「卓抜なものや上品な (( ものがすべて完全な形で見られる」場所とみなされた。彼によればまた、「最も優れた会話のマナーだけでなく、最も 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 77 (( ( ( 洗練されたモードや物腰、そして紳士的な態度」が、「宮廷という土壌から自然に育つ」のである。 これと同様に、クラレンドンの「教育についての対話」のなかでも、「宮廷は最善のマナーズを学ぶことができる場 所」とする見解が示される。しかも、外国からの使節を迎える宮廷では「外国人の言語やマナーズ」を身につける必要 ( ( があるため、ヨーロッパ諸国の宮廷や都市を巡って「資質や知識を改善」し、「マナーズや欠点を修正」する大陸旅行 ( ( ( ( は、たとえば一 Inns of Court の重要性が説かれるのである。もっとも、「教育についての対話」の登場人物が宮廷人だけでないことに示されるように、 会話や交際の舞台は、もちろん同時代の宮廷に限られない。とりわけ、ロンドンの法学院 ( ( についての一種の学園」とみなされた。 五世紀のフォーテスキューによって、「貴族を育て上げるあらゆる作法 morum しかし、「教育についての対話」によれば、コモン・ローだけでなく音楽やダンスを学ぶ場でもあった法学院は、同時 でもあった。宮廷という「囲われた」空間は、ヨーロッパやロンドンといった外の世 にまた、宮廷の「外苑」 suburbs 界にも開かれていたのである。 への奉仕に country 国への献身や徳の重要性を強調する「イングランド」の共和主義と少なからぬ緊張関係にあったと考えられる。それゆえ、 「教育についての対話」のなかでも、登場人物の法律家とカントリ・ジェントルマンはともに、故国 ( ( で充分であるとの見解を示した。しかし、たとえばサン・テブルモンによれば、「人 は「国内での養育」 inland breeding を喜ばせること」が学ばれる宮廷に対して、都会や共和国では「生活の切り盛りに追われるため」、他者への配慮は「後 回し」となる。そして、このような「他者」を意識する宮廷の人文主義を育んだテクストとして、「辺境」の「島国」であっ ( ( 、デッラ・カーサ『ガラテーオ』 1530 、グアッツォ『洗練された交際』 1558 ( ( であった。 法書」 courtesy books なかでも、ウルビーノやマントヴァを中心に活躍したカスティリオーネの『宮廷人』は、スペイン語やフランス語、 英語、ドイツ語などの各国語に翻訳され、一六世紀末までに一〇〇版を超えるなどヨーロッパ各地に流通した。彼はま (( (( 78 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 (( このような「ヨーロッパ」規準の宮廷という舞台で育まれた人文主義は、同じ古典古代を知的基盤としながらも、祖 (( (( (( (( やエラスムスの『少年礼儀作法論』 た「イングランド」でも繰り返し読まれたのが、カスティリオーネの『宮廷人』 1528 をはじめとする、「ヨーロッパ」の「作 1574 (( た、同時代のイタリアが列強に蹂躙されるなかで、マキァヴェッリと同様に外交使節を何度も務め、イングランドを含 むヨーロッパ諸国に派遣された経験を有している。しかし、 『君主論』や『ディスコルシ』において力量ある君主やロー マ型の拡大共和国を構想したマキァヴェッリとは異なり、カスティリオーネが『宮廷人』の舞台としたのは、「イタリ ア中でもっとも美しいといわれる」ウルビーノの宮殿であった。しかも、そこでのサロンを主宰したのは公妃エリザベッ ( ( タである。したがって、ウルビーノの宮廷はまた、女性を中心に秩序ある自由が保たれ、 「愉しい会話と品のよい冗談」 や「きわめて自由で、しかも心のこもった会話」が交わされた「歓喜の館」であったのである。 2 シヴィリティと徳 とは見えぬ arte を回避するとともに、相手や目的に応じて「何を行ない、何を言うか、 真の技」によって「わざとらしさ」 affettazione ( ( どこでそれをするか、誰の前でするか、いつするか」を考慮しなければならないのである。 「このことから大いに気品が生じる」。しかも、彼によればまた、「完全な宮廷人」は、このような「技 と「さりげなさ」 sprezzatura であった。カスティリオーネによれば、「さりげなさ」と において必要な「気品」 grazia は「技巧が表にあらわれないようにして、何の苦もなく、あたかも考えもせず言動がなされたように見せること」であり、 的な人文主義の言説である。そして、なかでも重視されたのが、 「その動作、身のこなし、態度、要するにすべての行動」 される。そこに見られるのは、「完全な宮廷人」や「愛のイデア」をめぐる、マキァヴェッリとは位相を異にする宮廷 『宮廷人』ではこうして、人文主義的な教養を身に付けた一九人の紳士と四人の貴婦人による洗練された会話が展開 (( に加え、とりわけルネサンス期以降は「シヴィリティ」 civility, civilitas, civilité, civilità の概念を通じて各国に courtesy ( ( 浸透した。また、ここで見逃せないのは、「礼儀」や「丁寧さ」を意味するシヴィリティが、野蛮や未開に対する「文 こ の よ う な「 技 と は 見 え ぬ 真 の 技 」 と し て の 宮 廷 の 作 法 は、 エ リ ア ス も 指 摘 す る よ う に、 中 世 以 来 の「 礼 節 」 (( によれば、シヴィリティには、「上品さ 明」と同義であったことである。サミュエル・ジョンソンの『英語辞典』 1755 、愛想の良さ、振舞いの華麗さ」、あるいは「適性の規則、上品さの実践」の他に、「野蛮からの自由、文明化 politeness 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 79 (( ( ( された状態」の意味が含まれていた。産業化を経て civilization の概念が定着する以前の初期近代ヨーロッパの文明は、 蒸気機関や電信などの産業技術の進歩ではなく、人間の身体的な振舞いを主な指標としていた。そして、一八世紀に至っ ( ( てもなお、このジョンソンが「行儀の良さについてこれまでに書かれた最善の書物」に挙げたのが、カスティリオーネ の『宮廷人』であったのである。 ( ( ラスムスの『少年礼儀作法論』である。この作品のなかで彼は、「自由学芸で精神を修練する者たちは、すべてのこと に対して卓越する」という人文主義の立場から、シヴィリティの習得を少年教育の一つの柱とした。彼によれば、シヴィ ( ればならない」というシヴィリティの規則を説いたのである。 ( 革が進行するなかで、異教徒であるトルコ人に対しても「敬意が払われなければならない人に対しては敬意を表しなけ 流儀を持つ者ではあっても、愛すべき仲間にしておくべき」である。そして、このような立場から彼は、他方で宗教改 のは「自分が誤ったことをまったく行なっていなくとも、他の人の過失を快く許すこと」であり、したがって「粗雑な リティは「好意を獲得したり、また人間の眼に光輝ある知性を宿らせようとすることに大変役立つ」。なかでも重要な (( ( 学の極めて粗野な一部門」として扱われていたのである。しかもまた、次章でも触れるように、徳と作法は「ジェンダー」 ( ことも意識されていた。エラスムスも言及していたように、外面的な礼儀作法はしばしば、徳と異なるだけでなく、 「哲 もっとも、これらの人文主義的な作法書のなかではまた、シヴィリティなどの作法が伝統的な徳論と緊張関係にある (( virtù は女性名詞であり、悪徳 vicio は男性名詞であるとして、女性の能力が男性よりも「劣らないどころか、優れている」と ( ( いう反論もなされたのである。 で「女性」的なものとして批判されたのである。それゆえ、たとえばカスティリオーネの『宮廷人』では逆に、徳 に示されるように、運命の女神を御し、あるいは祖国に奉仕する徳は「男性」的とされ、その一方で、宮廷の作法は「柔弱」 や「性」の観点からも対比された。すなわち、とりわけマキァヴェッリによって読み替えられた「力量」の概念に端的 (( 80 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 (( このようなシヴィリティによるヨーロッパの文明化を促進した教材として、『宮廷人』とともに広く読まれたのがエ (( こ の よ う に、 人 文 主 義 に お け る 徳 と 作 法 の 緊 張 は、 一 八 世 紀 の 文 明 社 会 に 至 る 前 に、 ル ネ サ ン ス 期 の 宮 廷 社 会 に (( comune お い て す で に 顕 在 化 し て い た。 こ う し た な か、 ロ ー マ 教 皇 庁 に 仕 え、 の ち に ベ ネ ヴ ェ ン ト 大 司 教 や ヴ ェ ネ ツ ィ ア 大 使となったデッラ カ ・ ー サ も ま た、『 ガ ラ テ ー オ 』 の な か で「 礼 儀 作 法 」 costumiを 主 題 と し、「 日 々 の 交 友 に当たって取るべき、また避けるべき態度」を論じた。それはまた、「他人と話を交わし、付き合ってゆ conversazione くうえで、どうすれば身だしなみ良く、楽しく折り目正しい人間でいられるか」を示すものであった。彼によれば、こ のような礼儀作法には中庸や節度が求められる。すなわち、「自分勝手な考えを捨て、交遊相手なり仕えるべき人が、 何を喜びとしてくれるか、それによってあなた自身の態度を控え、また処するようにしなければなりません」。さらに、 ( (( ( 大な徳性」の方は「ごく稀にしか」発揮されることがないのである。 ( ため、礼儀作法を「日に幾度となく用いる」ことになるからである。これに対して、「正義」や「堅忍不抜」といった「偉 た人と較べて、負けず劣らず役に立つ」。なぜなら、 「私たち誰もが日も夜も人々と付き合い、話を交わす必要が生じる」 批判する。すなわち、「身だしなみの良さ、礼儀作法、上品な言葉遣いを身に付けた人は、度量の広さや自負心を具え る礼儀作法の方が、「ごく稀にしか」発揮されない徳よりも「度数や頻度」の点で優ることを指摘し、伝統的な徳論を たしかに雅量や不動心や高潔などと比べると高く称賛される徳ではない。しかし、そのうえで彼は、日常的に用いられ もっとも、のちに「シヴィリティの偉大なマスター」とも呼ばれたデッラ・カーサによれば、これらの礼儀作法は、 ( にも、さらには黙っていても休息のときも、仕事のときも」節度を保つべきなのである。 ( 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 ( を可能にするための作法であったのである。 との日常的な conversation このような宮廷の人文主義と共和主義との緊張は、時代を下って、ヨーロッパ文明の中心であった「大陸」のモンテ 「身だしなみのよい人は、歩いていても立っていても、腰掛けていても、その一挙一動の態度に、服装や言葉遣いの端々 では、名誉とともに「上品 スキューやルソーの議論にも引き継がれた。たとえば、モンテスキューの『法の精神』 1748 81 (( とも英訳された『ガラテーオ』が目指したものは、 いる。しかし、繰り返し指摘すれば、のちに『洗練された宮廷人』 1663 危機を克服するための力量を強調したマキァヴェッリや、あるいは市民の徳を求める共和主義の言説とは異なり、他者 こうしたデッラ・カーサの判断には、ユートピアよりも現実を志向したマキァヴェッリと同様のリアリズムが働いて (( さ」 politesse が求められる君主政体と、祖国と平等を愛する政治的な徳を原理とする共和政体とが対比される。彼によ れば、礼儀正しさは人間の共同生活のために必要とされるが、そうした「上品さは宮廷で自然なものとなる」。しかし、 ( ( 人間が礼儀正しくするのは「自分を目立たたせたいとする」自尊心のためでもあり、それゆえ、宮廷では「借りものの 偉大さのために自分の固有の偉大さを棄てること」になる。あるいは、ルソーの『学問芸術論』によれば、ヨーロッパ ( (( ( なく、相互に依存する存在であることに求められるのである。 ( ばデッラ カ ・ ーサによれば、「人間誰しも荒野や隠遁地に身を隠して生きるようにはできておらず、街なかで他人と交わ りつつ暮らすようにできている」。すなわち、「優雅で好ましい身だしなみ」が必要とされる理由は、人間が孤立的では あるいは自由・独立・平等の個人ではなく、シヴィリティを通じて他者と共存する相互依存的な人間であった。たとえ 市民的人文主義や共和主義と共通の知的基盤を有している。しかし、そこで強調されるのは、徳ある市民や勇敢な兵士、 もっとも、先にも述べたように、宮廷の人文主義は、アリストテレスやキケロなどの古典や歴史に依拠する点において、 3 洗練された交際 なえずして、いっさいの徳をそなえているような外観」にすぎないのである。 ( しかし、彼にとってそれはまた、「ありのままの自己」を隠した「画一で偽りのヴェール」であり、「いかなる徳をもそ の文明は、学問と社交によって完成された「自然にして配慮ある態度」といった「上品さ」によって特徴づけられる。 (( ( (( conversazione, 「若者と年配者、貴族と庶民、主君と私人、学識者と無学者、市民と外国人、宗教者と俗人、男性と女性」、そして「夫 を初めて題名に用いたテクストとして注目される。しかも、他者によって成立する conversation の対象は、 conversation おのずと多様になる。すなわち、「交際の成果」を述べる第一巻に続けて、この作品の第二巻と第三巻の対象となったのは、 ( れた交際』においても確認できる。この作品はまた、会話と交際をともに意味し、身体的な作法を伴う の思想史的な意義は、マントヴァのゴ このような「あるがまま」の自己よりも他者の存在を重視する conversation ンザーガ家に仕えた宮廷人であり、フランスやローマに外交使節として派遣された経験もあるグアッツォの『洗練さ (( 82 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 ( ( と妻、父と子、兄弟、主人と使用人」といった「あらゆる人々」における「交際の流儀」であった。さらに、その第四 ( ( ( や「流儀」 maniere が必要とされたのである。 には、「洗練された生活を営む」ための「礼儀作法」 costumi そのうえでまず、『洗練された交際』の第一巻で強調されたのが、デッラ・カーサと同様に、孤独な生活と対比され ( の住民に限定されない。したがって、 「あらゆる種類の人々」に開かれた「交際」 città 「精神的な資質」に関わる「洗練された交際」 る不作法の矯正」が副題となったのである。しかも、グアッツォによれば、 ( ではジェントルマンを「洗練された交際にふさわしく成 ドにおいても、たとえばブリスケットの『文明的な生活』 1606 型させること」が目指され、あるいはデッラ・カーサの英訳版『洗練された宮廷人』では、「洗練された交際に潜在す が 活を営むこと」を意味した。同時代において広く用いられることになるこの概念は、初期近代における conversation 文明や礼儀の指標となり、ヨーロッパにおけるシヴィリティの所在を示していたことを物語る。それゆえ、イングラン ( は、「誠実かつ称賛される有徳な生 グアッツォによれば、作品の題名でもある「洗練された交際」 civil conversazione 巻では、カスティリオーネの『宮廷人』と同様に、六人の紳士と四人の貴婦人による理想的な社交が描かれたのである。 (( ( 教え、求め、相談し、取り引きし、助言し、訂正し、論争し、判断し、われわれの気持ちを表現する」ことで、「人々 グアッツォはさらに、他者との交際が「人間の完成」に必要なことを主張した。彼によれば、他者を相手に「物事を には獣か暴君の名がふさわしい」のである。 ( る。すなわち、「人間は社会的な動物であり、他者との行動をおのずと愛する」のであり、これとは逆に「孤独な人物 これに対してグアッツォは、ポリスを前提としたアリストテレスの議論を同時代の宮廷社会に読み替え、これに反論す も、このような宮廷生活は「苦難と隷従」に他ならないとして、孤独な生活を礼賛する議論も繰り返されてきた。しかし、 解し、適切な回答を用意し、人々の資質や自己の立場が要請する雰囲気に従う」ことが要請されるからである。もっと 議論されたのが宮廷である。なぜなら、「多様な国や土地からの多数の人々」が集まる宮廷では、「他者が話すことを理 る他者との交際の必要であった。しかも、このようなアリストテレス以来の活動的生活論が展開されるなかで、最初に (( の語源である都市 の対象は、 civil (( (( は互いに愛し合い、ともに繋がるようになる」。しかも、「人間は他者の役に立つように生まれた」のであり、「共通の 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 83 (( ( ( ために必要とされたのである。 ( との会話や助言」によって強化されるのであり、それゆえ、年齢の異なる顧問官を加えることが「永遠に知恵を獲得する」 きり述べることのできるような道へと導く」ことにあった。あるいは、クラレンドンによれば、君主の顧問官は「他者 リオーネによれば、「完全な宮廷人の目的」は、「君主の寵愛」を獲得して助言や諫言を行ない、「どんなことでも自由にはっ 謁見などとともに、その一つの重要な場面となるのが、君主に対する助言や顧問官による審議である。それゆえ、カスティ れらの社交の技術はもちろん、「君主と臣民」をアクターとする政治を成立させるためにも必要とされた。外交使節の (( が洗練されたと考えられる。そのうえで、以下では改めて、ヨーロッパの「辺境」 リティによる他者との conversation の「島国」であった、初期近代の「イングランド」における宮廷を舞台とした人文主義の展開を、ベイコンやヒューム、 このように、「ヨーロッパ」の作法書を通じて育まれた宮廷の人文主義においては、共和主義とは対照的な、シヴィ 1 交際の政治学 三 初期近代イングランドにおける会話・交際・社交 (( 84 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 利益」のために「互いに助け合わなければならない」。あるいはまた、「洗練された交際」において「多くの人々から助 言や非難や叱責を受ける」ことによって、「共通の意見に従うように同意し、自分にある不完全なところに気づくに至 ( る」。すなわち、 「人々は、他者の判断に従って自己を成型し、多くの事柄を行ない、そのままにし、変更し、訂正する」 のである。 が洗練された。たとえば、サン・ art of conversation において成功する「最大の秘密」は、「称賛を少なく傾聴を多くし」、「自分自身の理 テブルモンによれば、 conversation ( ( 性を常に、そして時には友人の理性を信じることなく、他者のそれをできる限り表出させること」にある。そして、こ こうして、宮廷の人文主義においては、他者を必要とする社交の技術 (( そしてチェスターフィールドを中心に明らかにする。また、その際にはとくに、ジェンダーやナショナリティの問題に 加えて、エッセイという形式にも関心を向けてみたい。 ここでまず、同時代における政治と社交の観点から注目されるのは、ベイコンが、諸学の現状を診断した『学問の進歩』 のなかで の重要性を指摘し、それを新たに政治学 civil knowledge のなかに組み入れたことであろう。 1605 conversation の知恵は「徳に劣り、思索の敵である」として「たいていの学者によって軽蔑されている」。 彼によれば、「振舞い」 behaviour や実務 business にも影響を及ぼすため、「こだわりすぎても しかし、それは言葉や行為の力、ひいては統治 government いけないが、それ以上に軽蔑してもいけない」。このことを彼は、「戸を開いていても顔つきを閉ざしていては役に立た ない」とするキケロのアフォリズムを用いて説明する。さらにまた、ベイコンはここで、リウィウスの『ローマ建国史』 ( ( の一節から、共和主義の歴史的な教訓ではなく、行儀の要点は「他人の自由を犯すことなしに自分の尊厳を保つこと」 にあるという洞察を導き出すのである。 の詳細については「これまで見事に扱われてい もっとも、ベイコンは一方で、「交際の知恵」 wisdom of conversation ( ( る」と判断して多くを語ってはいない。しかし、このことは逆に、イングランドにおける作法書の流通を物語っている。 (( ( の観点から見逃せないのが、ベイコンが『政治道徳論集』で採用した「エッ また、これらの作法書とともに、 conversation セイ」という形式である。当時の皇太子ヘンリに向けて書かれた献呈書簡によれば、この作品は、ベイコンの活動的生 る大使や使節に不可欠とされたのである。 ( によれば、 タリアから亡命し、のちにオックスフォード大学の欽定講座担当教授となったジェンティリの『使節論』 1585 アリストテレスやキケロなどとともに、カスティリオーネ、デッラ・カーサ、グアッツォを読むことは外国に派遣され 文明を受容するとともに、ヨーロッパ水準の洗練された交際を可能にすることを意味していた。しかも、この当時、イ は一五八一年に英訳され、それぞれ版を重ねた。それゆえ、これらの作法書の翻訳は、ルネサンスの人文主義と大陸の 実際に、『少年礼儀作法論』は一五三二年、『宮廷人』は一五六一年、『ガラテーオ』は一五七六年、『洗練された交際』 (( 活と観想的生活との「果実」であり、「書物」ではなく「経験」のなかに見つかるような、人生において「最もよく知 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 85 (( ( ( ( ( ( 『ジェントルマンの交際』 れない」規則を提示した。こうして、一八世紀においても、たとえばジョン・コンスタブルは、 ( ( するキケロの一節を表題頁に掲げるとともに、談論 返し引用したのである。 や身ぶり discourse などに関するベイコンのエッセイを繰り action は、ハーバーマスによって理想化された市民的公 もっとも、先にも述べたように、このような他者との conversation ( ( 共圏において洗練された訳では必ずしもなかった。むしろ、コーヒー・ハウスにおける論争は、会話を堕落させ、騒動 (( を引き起こすことが懸念されていた。しかも、男性を中心とするコーヒー・ハウスには、かつてのウルビーノの宮廷と (( 86 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 られている」 conversant 事柄を扱った「短い覚え書のようなもの」である。しかも、この『政治道徳論集』のなかで彼は、 が示すように、助言や礼儀といった人間交際に関する多くのエッ その原題 The Essayes or Counsels, Civill and Morall セイを執筆した。たとえば、「ものごとが忠告の論議にかけて揉まれなければ、それは運命の波に翻弄され、支離滅裂 になり、酔っぱらいの千鳥足のように、行ったり戻ったりするであろう」。あるいは、彼はまた、デッラ・カーサと同 ( は、評判を高める「不 様に、 「何か大きな徳を示す機会」は滅多にないが、これに対して「立派な動作の型」 good forms 断の推薦状のようなもの」という判断を示す。そして、このような「交際の知恵」を伝える「エッセイ」という形式は、 のちにクラレンドンやヒュームによっても採用されるのである。 ( 」を副題とする。また、ベイコンの影響が随所に見られるクレランドの『貴族の子弟教育論』 際における適正 decency では、 「洗練された交際」を主題とした第五巻において「交際において人を有徳にし、かつ洗練させるため」の「思 1607 ( に対する関心は、これらの作法書の翻訳やエッセイを通じて再生産され 人文主義的な教養を基調とする conversation た。たとえば、一七世紀を通して版を重ね、のちに少年時代のワシントンにも影響を与えたとされる『若者の振舞い』は「交 (( のなかで、「洗練された交際」を行為 慮」が示された。あるいはまた、匿名作者D・Aは『会話の技術のすべて』 1683 と議論の二つの側面に分け、とくに後者の会話について「コモン・センス」に基づいた「不変で、時代や場所に制限さ (( において、 「交際は、人生の大きな部分を占め、ほとんどすべての部分に影響を及ぼす」ゆえに、 「交際の適切な方法」 1738 に関する考察が「大きな重要性」を有していることを強調する。しかも、彼はまた、言論を「人間性」に固有のものと (( (( ( ( は異なり、女性の姿が見えなくなっている。これらの問題は、たとえば、同時代の誰よりも「訪問と集まりに時間を費 ( とにある。ところが、彼は一方でまた、「ウィット」と呼ばれる物書きたちが「仰々しい態度」で振舞い、自分の作品 ( る。彼によれば、会話の目的は「われわれの周りにいる人々を喜ばせ、切磋琢磨し、その利益をみずから享受する」こ やし」、「あらゆる場面における会話の改善や洗練」に努めたことを自負するジョナサン・スウィフトによって指摘され (( ( ( (( 言葉や行動において守るべき節度 と適正 modesty ( 」なのである。 decorum ( 広く読まれ、同時代に繰り返し英訳されたクールタンの『シヴィリティの規則』 (( ( によれば、それは「あらゆる人が 1671 の視線のなかで行われるすべての活動には、そこに居合わせたあらゆる人々に対して抱く敬 適正」として、 「世界 world 意が示されるべきである」という「シヴィリティの一般原理」が示された。これと同様に、ルイ一四世期のフランスで を可能にする技術とされたのがシヴィリティであった。たとえば、『若者の振舞い』では、「交際における conversation へと和らげる」役割が「女性」に求められたのである。そしてまた、「男性」的な徳とは異なり、このような他者との ( に忍び込んだ党派的 に持ち込むことを試みた『スペクテイター』の論説 ( 1711. 5.)5においても、「近年の conversation な激情」という、「たくさんの怒りや狂乱」から生まれた「男性的な悪徳」を抑え、「人類を穏やかにし、優しさや情愛 このように、初期近代イングランドにおける conversation は、コーヒー・ハウスの喧騒ではなく、たとえば「男性と 女性」といった他者との交際によって洗練された。それゆえ、「哲学」を「クラブや集会や茶会、そしてコーヒー・ハウス」 2 社交の技術 の会合」は「われわれを必ず正しい道へと導き、そこに留まらせてくれる」からである。 ( 判した。しかも、彼によれば、言語や会話の洗練には、他者としての女性の存在が不可欠である。なぜなら、「婦人と ( を「諸王国の運命」がかかった「人間性の最も高貴な成果」であるかのように語っていた当時のコーヒー・ハウスを批 (( によれば、シヴィリティとは、多くの人 あるいはまた、一七世紀末までに六版を数えたウォーカーの『教育論』 1672 間が集まる「都市」や「宮廷」において「第一に学習され、実践されなければならないもの」であった。しかも、その 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 87 (( (( ( ( ( ( や「マナーズ」 manners 、あるいは「コモン・センス」 common sense などの語彙群 紀においては「上品さ」 politeness や『諸相論』 1711 によれば、コ とともに繰り返し説かれた。たとえば、シャフツベリの『センスス・コムーニス』 1709 モン・センスとは「公共の福祉と共通の利益に関する感覚、共同体や社会に対する愛情、慈愛の本性、人間性、親切心」 ら生じる「シヴィリティの感覚」でもあった。彼によればまた、「上品さはすべて自由に負っている」のであり、「冗談 の自由」、「丁寧な言葉であらゆる疑問を呈することの自由」、そして「論者を攻撃せずにどんな議論にも検討を加え、 異議を唱えることの許容」が不可欠である。しかも、これらの「上品さ」や「技芸や洗練された嗜み」は、「つい最近 まで野蛮な状態にあった」イングランドではなく、「海外」の「宮廷や国家やアカデミー」などからもたらされた。そ ( ( れゆえに彼は、「可能な限り海外へ目を向けない」イングランドの教育を批判して、ヨーロッパへの大陸旅行を支持し たのである。 としてのシヴィリティを論じたのがヒュームであった。とくに「エッセイを書くことにつ 交の技術」 art of conversation 88 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 対象には、「日々の行為の繰り返しによって看過されている多くの事柄」に気づく「外国人」も含まれる。そのうえで彼は、 ( の経験から導かれるシヴィリティの要点を以下のようにまとめた。すなわち、 「行動や言動によっ 世間での conversation て、他者に対するどのような侮辱や軽蔑、攻撃、あるいは軽視も表に出さないこと」、「他者のためにあらゆる善き行な いをなし、常に親切であるよう心掛けていること」、 「他者からどのような侮辱や攻撃も受けないこと」である。さらに、 ( ならない」。そして、そのうえで彼は、「徳や思慮さえも、シヴィリティの要点に則っていなければ、あたかも外国語の 宗教論争に見られるような「感情の対立」は「思いつく限りすべての、シヴィリティの寛大さによって和らげなければ コンスタブルの『ジェントルマンの交際』によれば、「異なる意見を表明する自由」は交際の活性化に必要であるが、 (( このようなシヴィリティをはじめとする作法の必要は、ポーコックやクラインの指摘にもあるように、とくに一八世 ように一般に理解されることはない」とするベイコンの議論を引用したのである。 (( を意味する。そして、それはまた「人間に共通する諸権利や同じ人類の間に自然に存する平等に対する正しい感覚」か (( こうしたなか、エッセイ形式の『道徳・政治・文芸論集』において、学問と社交の世界を結びつけるとともに、「社 (( いて」 1742 のなかで彼が問題としたのは、「学者」 the learned の世界と「社交的な人々」 the conversable の世界との「分離」 である。なぜなら、「優雅な種類」の人間に適した会話は「歴史や詩や政治」、そして「哲学の諸原理」に関わるからであり、 他方でまた、「社交」の経験を欠いた学問や学芸は「粗野」に陥るからである。これに対して、両者の世界を結びつけ るうえで「エッセイほど有益なものはない」。したがって彼は、 『道徳・政治・文芸論集』において、 「学問」の国から「社 ( ( の国に派遣された「大使」の役割を演じ、「相互に大きく依存する二つの国家の良好な通信を促進する 交」 conversation こと」を「わたしの不断の義務」とする。しかも、ここで彼は、「社交の帝国」の「主権者」として、「すべての洗練さ 3 文明の世界 ( ては、「有徳な女性との交友ほど優れたものはない」のである。 ( て譲り、社会の日常的な事柄については優位を譲ること」を学んでいる。そして、このような「マナーズの学校」とし の行動すべてにおいて維持すべきことを教えてきている」。それゆえ、「上品な人物」は、「交際相手に対し敬意を払っ を「一層円滑で快適なものにするため」に発明されたのであり、悪徳に向 された礼儀作法は、人と人との conversation かう人間の傾向を「反対方向に向け」、「彼らが自然に抱きがちな感情とは異なる感情を抱いているという外観を、彼ら 譲り、人間の心に生得的なあの尊大さと傲慢を抑制し隠すようにさせる」からである。しかも、彼によればまた、洗練 交の技術」のなかでシヴィリティほど「人に喜ばれる」ものはない。なぜなら、それは「われわれ自身の性向を相手に のなかで、 に大使の秘書としてパリに滞在することにもなる彼は、エッセイ「技芸と学問の生成・発展について」 1742 「女性」を不可欠とする「社交の技術」としてのシヴィリティの必要を以下のように説いた。すなわち、彼によれば、 「社 ヒュームにとって、この当時、「社交の技術」を「ほぼ完成」させていたのはフランスであった。そのうえで、のち れた著述のはるかに優れた判定者」である「女性」を想定していたのである。 (( が人間性を向上させる文明社会 conversation こ う し て、 ヒ ュ ー ム は ま た、 エ ッ セ イ「 奢 侈 に つ い て 」 ( の ち に「 技 芸 の 洗 練 に つ い て 」 と 改 題 )の な か で、 技 芸 1752 の生活様式を描いた。すなわち、彼によれば、「洗 civil society と社交 arts 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 89 (( 練された技芸」が進歩するほど人間は「社交的」 social となる。なぜなら、学問と会話が豊かであれば、「孤独」で「野蛮」 な生活を送ることはありえないからである。このような文明の世界では、クラブや協会が設立され、男女は気軽に会合し、 」に加えて、「たがいに会話し、快楽と愉楽に寄与する 振舞いや気質が洗練される。人びとは、「知識や学芸 liberal arts ( ( という習慣そのものから人間性の高まりを感じないではいられない」のである。 ( (( ( 廷において最も自然な形で生じ」るのである。 ( 至る「長い従属・依存関係の連鎖」が存在するために、「態度や振舞いの洗練 は、君主政体と宮 politeness of manners とんどなされない傾向にある」からである。しかし、これに対して、「文明化された」君主国では、君主から小作人に 権力が民衆に由来する共和国では、全体が平準化され、構成員が相互に独立しているために「シヴィリティの洗練がほ が成長するが、文明化された君主国では他者との関係を強く意識した「洗練された技芸」 polite arts が発達する。 sciences ところが、その一方で、共和国においては「シヴィリティの洗練が一般に行われる傾向はまず見られない」。なぜなら、 の一つとして、君主国の宮廷が想定されていたことであろう。ヒュームによれば、議 論 が自由 な 共和国 で は「学問」 によって、そうであることがおのずと現れるものである」と述べたのである。 の良さ decency これに加えて、共和主義との対比という観点からも見逃せないのは、以上のような洗練された政治と社交のモデル ( において一般的に穏和である点を指摘しつつも、反ウォルポール政権の論陣を張ったボー 権党 (コート)が conversation と品 リングブルックを一例として、「教養ある人物は、どのような党派に属していても、その行儀の良さ good-breeding のなかで、教養や作法が党派対立を緩和させることを指摘した。すなわち、彼は政 また、「議会の独立について」 1741 よれば、「党争は宿怨を減じ、革命はより悲惨でなくなり、権威は苛酷さを減じ、騒乱はより稀になる」。しかも、彼は このように学問と社交が結びついた「文明化された時代」においては、統治の技術にも人間性が現れる。ヒュームに (( を意識しながら相互に連鎖していた。これに関連して、ヒュームの友人でもあっ 界がそれぞれ、「他者」との conversation のなかで、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』にも見られた、市民的公 たアダム・スミスは、『道徳感情論』 1759 このように、初期近代イングランドという文明の世界では、君主の宮廷を中心として、学問と社交、そして政治の世 (( 90 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 共圏とは対照的な代表的具現の世界を描いた。すなわち、「あらゆる言葉や動作が注目されている」君主や貴族は、「日 頃の振舞いのあらゆる情況を習慣的に考慮することを学び」、「最も的確で適切な仕方で、すべての細かな義務を遂行す ることを学習」する。しかも、他者の視線を常に意識した彼らの「雰囲気」や「マナー」や「物腰」は、 「自由」や「気 高さ」を伴うだけでなく、人々を権威に服従させるための「技術」でもあった。それゆえ、たとえばルイ一四世の「些 ( ( ( ( 細な嗜み」の前では、「知識、勤勉、武勇、慈恵」といったどんな徳も「ふるえ、赤面し、あらゆる威厳を失った」の である。 このような演劇的な宮廷の世界を、政治的な教養や技術を身につけるための「最善の学校」( 1748. 4. 15; 177)3として (( などを通じて、ルネサンス以来の宮廷の人文主義の伝統を具現した人物でもあっ 稿した論説や『息子への手紙』 1774 ( ( )によれば、シヴィリティの「真の定義」は「他者の自己愛のために た。たとえば、『ザ・ワールド』の論説 ( 55. 10. 30 使や王室長官、国務大臣といった要職を歴任した彼は、同時にまた、『コモン・センス』や『ザ・ワールド』などに寄 評価した人物の一人が、第四代チェスターフィールド伯であった。当時を代表する宮廷人の一人であり、ハーグ駐在大 (( ( conversation は「シヴィリティを何気なく、適切に、気品をもっ 自身の自己愛を犠牲にすること」であり、「行儀の良さ」 good-breeding て実行すること」に存する。しかも、この「行儀の良さ」は「徳」の不足を補い、「愛情」や「友情」に代わる社会の ( 紐帯となる。なぜなら、「行儀の良さ」は「人を結びつけ、引き寄せ、正しい自由を享受させると同時に、 における下品な放埓さを抑制する」からである。 り輝く」ために必要なコモン・センスを説く。なかでも、ジェントルマンにふさわしい「義務」や「ビジネス」として ) 18という観点から、ヨーロッパ各地の宮廷や都市を訪れていた彼の息子に対して、「完全なジェントルマン」として「光 )を試みた。彼はそこで、 「何事においてもマナーがすべてである」( 51. 3. を宮廷人のマナーと統合させること」( 48. 5. 10 た『息子への手紙』のなかで、ヒュームと同様に、「学問の世界」と「上品な世界」を結びつけ、「学者のすべての知識 チェスターフィールドはまた、死後に出版され、ドイツ語やフランス語にも翻訳されるなど当時のベストセラーになっ (( 想定されたのが「大使」と「議員」である。彼によれば、ヨーロッパの宮廷に派遣される大使には「世界の完全な知識」 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 91 (( ( ( ( (( ( ( チェスターフィールドにとって、以上のような政治と社交の拠点となるのが宮廷であった。もっとも、とりわけ共和 主義の言説において顕著に見られるように、宮廷は他方で、腐敗と堕落の温床として強い批判を浴びてきた。たとえば、 ( ( 前述のスミスによれば、宮廷では「堅固で男性的な諸徳」よりも「社交界の人と呼ばれるお門違いで馬鹿げた代物の、 外面的な気品や些細な嗜み」が称賛される。あるいは、プラトンやキケロ以来の、「上品な」対話形式を採用したリチャー ( ある。 ( の「市民」に求められるのは「男性」的な公共精神であり、「ヨーロッパ」の宮廷におけるシヴィリティではないので では、「ヨーロッパ」への大陸旅行を支持する登場人物「シャフツベリ」 ド・ハードの『外国旅行についての対話』 1764 に対して、同じく登場人物「ロック」が反論を加える。そして、この「ロック」によれば、祖国である「イングランド」 (( これに対して、チェスターフィールドも一方で、「すべての宮廷」において「女性」が影響力を有していることや ( 48. 9. ) 、 5フランスと比較して「わたしの生まれ故郷」が「おそらく行儀の良さの最も完全な拠点ではない」ことを認めていた。 しかし、彼が求めるのは、イングランドに固有の「男性」的な徳ではなく、あくまでも「悪徳や欺瞞の跳梁と跋扈を和 らげる」ための、ヨーロッパ水準の「行儀の良さ」であった。それはまた、「人や場所や事柄の無限の多様性に応じた ( ( 言葉や動作、そして容姿までも含んだ適切さ」によって、「暴力」や「情念」を抑制し、敵対する他者との交際を可能 にするための「モード」である。こうして彼は、「万人による万人の戦い」を回避し、女性や外国人とも共存するため の宮廷の政治学を、『息子への手紙』や『ザ・ワールド』のなかで繰り返し説いたのである。 (( 92 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 や「上品なマナーズ」に加えて、 「人を惹きつける態度」が「絶対に必要」である ( 51. 3. ) 。また、議会においては「科 25 ( 学アカデミーや王立協会、二つの大学を合わせたすべての学問」よりも、他者を説得するためのレトリックが重要にな ジョンソンによって「上院での最善の雄弁家」とも評されたチェスターフィールドによれば、「公 る( 51. 3. ) 1。 8 それゆえ、 (( の演説者が最も配慮すべき事柄」は「言葉の純正、文体の優美、文節の調和、心地よい発話、気品ある動作」なのである( 49. 。 12.) 5 (( (( 「宮廷は疑いなく行儀の良さの拠点であり、必ずそうでなければならない。でなければ、宮廷は虐殺と荒廃の場 と化すであろう。そこではすべての情念が最高度に沸き返っている。すべての者が、僅かな者しか入手できないも のを追い求め、多くの者が、ただ一人しか享受できないものを欲する。行儀の良さのみがそれらの行き過ぎを抑制 する。そこでは、敵同士による抱擁がなければ、互いに突き刺すことになる。そこでは、涙を隠すために、しばし ば微笑がなされる。そこでは、互いの相手を傷つけることが企てられている間に、相互に手を差し伸べることが公 ( における一般的な利益となるのである」。 social intercourse ( 言される。そして、そこではヘビの狡猾さがハトの穏和さを模倣する。たしかに、これらはすべて誠実さを犠牲に しているが、しかし、全体として見れば、社会の交際 をはじめとする洗練された作法によって可能になる。同時代のヨーロッパにおける政 civility ( ( ( る会合で最上席を与えられる」。そのなかには、おそらく同時代の「日本」や「琉球」も含まれる。なぜなら、ヨーロッ ( が成立する世界は、初期近代ヨーロッパの宮廷社会だけに限定されない。ヒュームによればま むろん、 conversation た、「すべての洗練された国」では、「外来者」や「外国人」は「最高のシヴィリティ」によってもてなされ、「あらゆ 度開かれた演劇的な宮廷を舞台として高度に発達したと考えられるのである。 であった。それゆえ、少なくとも顧問官や外交使節といった政治的アクターによるコミュ 治と文明の中心は宮廷 court ニケーションは、ハーバーマスによって理想化された市民的公共圏とは異なる、「ヨーロッパ」や「女性」にも一定程 はむしろ、シヴィリティ をめぐる人文主義的な教 の手紙』へと至る作法書や、ベイコンやヒュームのエッセイによって育まれた、 conversation 養の系譜を見出すことができる。そこで重視された他者との共存は、共和主義的な徳や、あるいは理性の公的使用より 以上のように、初期近代のイングランドには、カスティリオーネの『宮廷人』からチェスターフィールドの『息子へ おわりに (( パの視点から見た日本は、「偉大なシヴィリティ」(ウィリアム・アダムズ)によって統治された「シヴィリティと良きマナー (( 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 93 (( ( ( ( ( ズの学校」(ケンペル)でもあったからである。あるいはまた、琉球を訪れたベイジル・ホールは、そこで「上品さ」や「気 を見出した。 品ある振舞い」といった「文明的な諸国民」と同様の「交際の型」 form of intercourse しかしながら、他方でまた、一八世紀後半以降の「文明」の世界は大きく変容する。政治の中心は宮廷から内閣や議 ( ( の規 なる。これに関連して、たとえばアダム・スミスは、一七六三年の修辞学講義のなかで「いつも同じ儀礼 decorum 則」を守る上院と、「非常にいい加減なマナーや、しばしば野次や毒舌が大幅に許容」されている下院との違いを指摘 の新たな指標となる。また、自然科学の発達の一方で、それまでの人文 会へと移り、産業技術の進歩が文明 civilization や Bildung へと様変わりし、外面的なシヴィリティは後景に退くように 主義的な教養の伝統は、内面を重視する culture (( ( ( 独立について」の一節は後に削除され、一七七七年の最後の改訂版では「言論・出版の自由」の行き過ぎが懸念される ようになる。 ( (( 0 ような文明的な政治を支えた社交の精神は、日本と西洋との「外国交際」が再開された一九世紀の「開国」の時点です た。それはまた、「暴力」によらずに「会議」を成立させる「政治的精神」に照応するものでもあった。しかし、この の会話を出来るだけ普遍性があって、しかも豊饒なものにするための心構えを各人が不断に持っていること」と説明し 0 丸山眞男はかつて、ヨーロッパの日常生活を「作品」にまで高めた「社交的精神」について、それを「われわれ相互 ルのような「礼儀知らずの粗野な人間」を含めたのである。 ( を目的とした「社交界」 society は、本来、政治や国家とは「何の関係もない」。それゆえ、彼は「偉大な conversation 政治指導者」のなかに、クロムウェルのような「得体の知れない人物」や、ナポレオンのような「無愛想な者」、ウォルポー を身につけた貴族は「毎日のように、会社、鉄道、社債、 彼によれば、「マナー」や「気品」といった「芸術」 fine arts 株券」などに取り囲まれるようになった。宮廷を舞台とした政治と社交の歴史的な関連は「偶然」にすぎないのであり、 のなかで、宮廷が統治の さらに、一九世紀になると、たとえばウォルター・バジョットは、『イギリス国制論』 1867 ための「偉大な資格」を有することを他方で認めながらも、「偽装された共和国」における政治と社交の断絶を観察する。 (( 94 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 (( した。また、ヒュームの『道徳・政治・文学論集』においても、党派対立を緩和させる教養と作法に言及した「議会の (( ( ( でに、デモクラシーとナショナリズム、そして帝国主義の時代を迎えることになる「西」の世界で失われつつあったの である。 (1)本稿は、拙著『文明の作法─初期近代イングランドにおける政治と社交─』 (ミネルヴァ書房、二〇一〇年)で扱った内容や素材を、 本号の統一テーマに合わせて、新たに conversation の観点から再構成したものである。したがって、とくに第二章と第三章の記述 に少なからぬ重複がある。他方で、註は多くを割愛して最小限に留めた。本稿はまた、二〇一二年五月の政治思想学会における報 告を、その後の質疑などを踏まえ、とくにジェンダー、ナショナリティ、エッセイの観点を新たに加えて書き直したものでもある。 (2)その簡潔な見通しとして、 ‘ ’ Peter Burke, The Art of Conversation in Early Modern Europe , in his The Art of Conversation, ( eds. ) , What’s Left of Polity Press, 1993, pp. 89-122. L. E. Klein, ‘Enlightenment as Conversation’, in K. M. Baker and P. H. Reill Enlightenment? A Postmodern Question, Stanford University Press, 2001, pp. 148-192. (3)近年の代表的な研究例として、 Anna Bryson, From Courtesy to Civility: Changing Codes of Conduct in Early Modern England, ( ed. ) , Early Modern Civil Discourses, Palgrave Macmillan, 2003. Markku Peltonen, The Clarendon Press, 1998. Jennifer Richards Duel in Early Modern England: Civility, Politeness and Honour, Cambridge University Press, 2003; ‘Politeness and Whiggism, ) , pp. 391-414. 1688-1732’, The Historical Journal, Vol. 48, No.(2 2005 (4) 近 年 の 研 究 例 と し て、 ( eds. ) , The Politics of the Public Sphere in Early Modern England, Peter Lake and Steven Pincus 大野誠編『近代イギリスと公共圏』、昭和堂、二〇〇九年。 Manchester University Press, 2007. (5)「廷」も court も「囲われた」空間を意味する。樺山紘一『宮廷びとの生活術─本格派のヨーロッパ学入門─』、王国社、一九九七年、 一〇頁。他方でアレントもまた、「ただ囲い込みだけが政治的であった」として、ポリスなどの都市の原義が周りを取り囲む壁を 意味していたことに注意を向ける。アレント『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年、九三、一二六(注六四)頁。 講談社現代新書、一九九七年、第一章。 (6)ハーバーマス『公共性の構造転換』第二版、細谷貞雄・山田正行訳、未來社、一九九四年、ⅷ頁。阿部謹也『「教養」とは何か』、 (7)ガダマー『真理と方法Ⅰ』轡田収他訳、法政大学出版局、一九八六年、第一部第一章第一節。 (8)最新の学界展望として、竹澤祐丈「ハリントンを中心とする近世共和主義思想に関する研究動向とその展望」、『イギリス哲学 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 95 (( 44. )ルソー『学問芸術論』山路昭訳(『ルソー・コレクション 文明』、白水社、二〇一二年)一六、七頁。 ) , Michael Kiernan, Clarendon ed. )イソクラテス『弁論集1・2』小池澄夫訳、京都大学学術出版会、一九九八、二〇〇二年。『弁論集1』四一頁。『弁論集2』 二三六頁。 Francis Bacon, The Advancement of Learning, in his The Oxford Francis Bacon, vol. ( 4, )キケロー『弁論家について』(上)大西英文訳、岩波文庫、二〇〇五年、二六─二七頁。 ) Press, 2000, pp. 127, ( 59 ベ ー コ ン『 学 問 の 進 歩 』 服 部 英 次 郎・ 多 田 英 次 訳、 岩 波 文 庫、 一 九 七 四 年、 二 四 九、 一 二 一 頁 ) ; ‘Of ( ed. ) , Michael Kiernan, Counsell’, in his The Essayes or Counsels, Civill and Morall, in The Oxford Francis Bacon, vol. 15, London, 2nd ed., 1751, p. 137. ) Clarendon, Two Dialogues: Of the Want of Respect due to Age and concerning Education, 1751; Williams Andrews Clark Memorial Library, 1984. ) St. Evermont, ‘Of Study and Conversation’, in his The Works of Mr de St. Evremont, 2 vols, London, 1700, vol. 1, pp. 310, 313. )ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(中)山崎章甫訳、岩波文庫、二〇〇〇年、一四八─一五〇頁。 ) 同、 一 九 頁。 そ れ ゆ え、 ハ ー バ ー マ ス は 一 九 九 〇 年 新 版 の 序 言 の な か で、 役 割 演 技 の 公 共 性 を 強 調 す る セ ネ ッ ト を 次 の よ う )ハーバーマス『公共性の構造転換』二三─二六頁。 に批判する。「私的な感情や、一般的にいって主観的なものを、仮面の下に隠して公共の場に人が登場するのは、代表具現的公共 圏 の き わ め て 典 型 的 な 枠 組 に 属 す こ と で あ る 」。 同、 ⅷ 頁。 し か し な が ら、 セ ネ ッ ト に よ れ ば「 仮 面 を 被 る こ と 」 は「 シ ヴ ィ リ 96 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 研究』第三五号、二〇一二年、一二五─一三九頁。もっとも、本稿では「共和主義」の定義をめぐる錯綜した議論には立ち入らない。 ) Anthony Ashley Cooper, 3rd Earl of Shaftesbury, Sensus Communis, an Essay on the Freedom of Wit and Humour in a ( ed. ) , L. E. Klein, Cambridge University Press, 1999, p. Letter to a Friend, in his Characteristics of Men, Manners, Opinions, Times, (9) Thomas Hobbes, Leviathan, ( ed. ) , Richard Tuck, Cambridge University Press, 1991, p. 483 (水田洋訳『リヴァイアサン』 (四)、 岩波文庫、一九八五年、一五七─一五八頁) . ( ( ( ( ( ( ( ( ( (ベーコン『ベーコン随想集』渡辺義雄訳、岩波文庫、一九八三年、九五─一〇一頁) . Clarendon Press, 1985; 2000, pp. 63-68 ( ) Clarendon, ‘Of Counsel and Conversation’, in his The Miscellaneous Works of the Right Honorable Edward, Earl of Clarendon, ( 10 12 11 14 13 15 16 20 19 18 17 ティの真髄」であり、それは「純粋な社交性 を可能にする」。 Richard Sennett, The Fall of Public Man, 1974; Vintage sociability (北山克彦・高階悟訳『公共性の喪失』、晶文社、一九九一年、三六八頁) . Books, 1978, p. 264 ( ) Pocock, Virtue, Commerce, and History, Cambridge University Press, 1985 (田中秀夫訳『徳・商業・歴史』、みすず書房、一 九九三年)。 ( ( ( Stefano Guazzo, La civil conversazione, a cura di Amedeo Quondam, Modena, 1993, p.15; Steeven Guazzo, The Civile Conversation, )ハーバーマス『公共性の構造転換』二〇頁。 ) ( ed. ) , Sir Edward Sullivan, AMS Press, 1967, vol. 1, p. 17. 2 vols., )エリアス『文明化の過程』(下)波田節夫他訳、法政大学出版局、一九七八年、五─六頁。 ( ) St. Evremont, The Works, vol. 2, p. 426. 他にも、 James Howell, A Discourse concerning the Precedency of Kings, London, 1664, p. 47. ( ) Clarendon, Two Dialogues, pp. 327, 336, 340. 同時代の大陸旅行論については、木村『文明の作法』第三章。小林麻衣子「英国 人のグランドツアー─その起源と歴史的発展─」『文化観光 「観光」のリマスタリング』、慶應義塾大学アート・センター、二〇 ( 一〇年、三六─五〇頁。 )たとえば、 B. J. Shapiro, Political Communication and Political Culture in England, 1558-1688, Stanford University Press, 2012.と く に「 市 民 」 の シ ヴ ィ リ テ ィ に つ い て は、 Jonathan Barry, ‘Civility and Civic Culture in Early Modern England: The ( eds. ) , Civil Histories: Essays presented to Sir Meanings of Urban Freedom’, in Peter Burke, Brian Harrison, and Paul Slack (バーク他編『市民と礼儀─初期近代イギリス社会史─』木邨和彦訳、 Keith Thomas, Oxford University Press, 2000, pp. 181-196 牧歌舎、二〇〇八年、二三五─二五五頁) . Jennifer Richards, Rhetoric and Courtliness in Early Modern Literature, Cambridge University Press, 2003. Phil Withington, The Politics of Commonwealth: Citizens and Freemen in Early Modern England, あ る い は、「 完 全 な 市 民 」 を 論 じ た 同 時 代 の テ ク ス ト の 例 と し て、 William Scott, An Cambridge University Press, 2005, ch. 5. ( intro. ) , S. L. Thrupp, Baker Library, 1953. しかし、「すべての人を喜ばせる」ことを目的としたこの作品 Essay of Drapery 1635, の内容は、「徳」よりも「礼節」 を重視するなど、宮廷の人文主義と大きく異ならない( )。 courtesie pp. 29, 27 ( ) John Fortescue, De Laudibus Legum Anglie, ( ed. ) , S. B. Chrimes, 1942; Cambridge University Press, 2011, pp. 118-119 (北野 かほる・小山貞夫・直江眞一訳「イングランド法の礼賛について(三・完)」、『法学』第五四巻第一号、一九九〇年、一五四頁) . 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 97 21 23 22 25 24 26 27 28 ( ) Clarendon, Two Dialogues, p. 331. ) St. Evremont, The Works, vol. 2, p. 426. )より詳しくは、木村『文明の作法』第二章。 Peter Burke, The Fortunes of the Courtier, Polity Press, 1995, Appendix 1. )カスティリオーネ『カスティリオーネ宮廷人』清水純一他訳、東海大学出版会、一九八七年、二三、二九頁。この日本語版は ) Samuel Johnson, A Dictionary of the English Language, 1755; Yushodo, 1983. Zivilität との対訳版であるが、以下では邦訳の頁数を記す。なお、当時のウルビーノの宮廷については、 Il libro del Cortegiano, Venetia, 1528 下村寅太郎『ルネッサンス的人間像─ウルビーノの宮廷をめぐって─』、岩波新書、一九七五年。 )カスティリオーネ『カスティリオーネ宮廷人』八五、九一、二〇五頁。 )エリアス『文明化の過程』(上)赤井慧爾他訳、法政大学出版局、一九七七年、第二部第一章。ちなみに、ドイツ語の ) Samuel Johnson and James Boswell, A Journey to the Western Islands of Scotland and The Journal of a Tour to the Hebrides, は他と比べて定着しなかったとされる(一四一頁)。 ) 教育論』二瓶社、一九九四年)一四八頁) . v 子供の礼儀作法についての覚書』一四八、一八六、一七九頁) (『 Erasmus, De Civilitate, A2v, D3r, C6 . ) vた だ し、 こ こ で は『 子 供 の 礼 儀 作 法 に つ い て の 覚 書 』 一 四 八 頁 に 加 え、 ) Erasmus, De Civilitate, A2 . Desiderii Erasmi および Collected Works of Erasmus, Roterodami, Opera Omnia, Tomus I, 1703; Georg Olms Verlagsbuchhandlung, 1961, col. 1033 ( ed. ) , J. K. Sowards, University of Toronto Press, 1985, p. 273 に従った。 vol. 25, )カスティリオーネ『カスティリオーネ宮廷人』四一七頁。 ) Giovannni della Casa, Galateo: Ovvero de’ Costumi, a cure di Pietro Pancrazi, Fecice le Monnier, 1949, pp. 23, 26, 30, 167 (池田 廉訳『ガラテーオ』(池上俊一監修『原典 イタリア・ルネサンス人文主義』、名古屋大学出版会、二〇一〇年)八五九、八六一、 九〇九頁) . [ 1672 ] ; Menston: The Scolar Press, 1970, p. 228. Obadiah Walker, Of Education especially of Young Gentlemen, Oxford, 1673 ) 98 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ed. ) , Peter Levi, Penguin Classics, 1984, p. 327. ) Erasmus, De Civilitate Morvn Pverilium, London, 1532, A2 (v中城進訳『子供の礼儀作法についての覚書』(同訳『エラスムス ( 33 32 31 30 29 35 34 37 36 38 40 39 42 41 43 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ) Della Casa, Galateo, pp. 26-27 (『ガラテーオ』八六〇頁) . )モンテスキュー『法の精神』(上)野田良之他訳、岩波文庫、一九八九年、八九─九〇頁。 ) J. L. Lievsay, Stefano Guazzo and the English Renaissance 1575-1675, The University of North Carolina Press, 1961, p. 36. 『ガラテーオ』八六〇頁) . Della Casa, Galateo, p. ( 29 )ルソー『学問芸術論』一四─一六頁。 ) Guazzo, La civil conversazione, p. 40; The Civile Conversation, vol. 1, p. 56. Burke, ‘The Art of Conversation’, p. 95. ) Guazzo, La civil conversazione, pp. 77, 177; The Civile Conversation, vol. 1, p. 109; vol. 2, p. 1. ) ) Lodowick Bryskett, A Discovrse of Civill Life, 1606; Da Capo Press, 1971, p. 5. Della Casa, The Refin’d Courtier, or A Correction ( ) ] [ ] , London, 1663. of Several Indecencies crept into Civil Conversation, tr. , [ N athaniel W aker ) Guazzo, La civil conversazione, p. 40; The Civile Conversation, vol. 1, p. 56. ) ) ) St. Evremont, The Works , vol. 1, p. 318. Guazzo, La civil conversazione, pp. 27, 81; The Civile Conversation, vol. 1, pp. 35, 115-116. Guazzo, La civil conversazione, pp. 15, 17, 24; The Civile Conversation, vol. 1, pp. 17, 20, 30. ) 1820. ) Alberico Gentili, De Legationibus Libri Tres, vol.( ( Bk. 3, ch.)1 . 2, ) tr. , G. J. Laing, 1924; William S. Hein, 1995, p. 136 )エッセイを通じたベイコンとクラレンドンの関連を示すものとして、たとえば Essays by Lords Bacon and Clarendon, Boston, (『学問の進歩』三〇八頁) . Bacon, The Advancement of Learning, p. 158 ( )カスティリオーネ『カスティリオーネ宮廷人』六二一、六三一頁。 Clarendon, Two Dialogues, pp. 308-309. ( ) Bacon, The Advancement of Learning, pp. 157-158 (『学問の進歩』三〇六─三〇八頁)ベ . イコンと当時の宮廷社会については、 拙著『顧問官の政治学─フランシス・ベイコンとルネサンス期イングランド─』、木鐸社、二〇〇三年、第五章。 ( ( ( ( ) ( ) Anon, Youths Behaviour, or Decencie in Conversation amongst Men, tr. , Francis Hawkins, London, 7th impression, 1661. ( ed. ) , Charles Moore, Washington, George Washington’s Rules of Civility and Decent Behaviour in Company and Coversation, Boston, 1926. 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 99 48 47 46 45 44 51 50 49 57 56 55 54 53 52 60 59 58 61 ( ( ( ) ) , Max Molyneux, Scholar’s Facsimiles & Reprints, 1948, pp. James Cleland, The Institution of a Young Noble Man, vol.( 1, intro. D. A., The Whole Art of Converse: Containing Necessary Instructions for All Persons, of What Quality, and Condition Soever, クレランドは、ベイコンと同様に、「戸を開いていても顔つきを閉ざしていては役に立たない」ことを指摘し、振舞いが「精 163, 167. 神の衣装のようなもの」と述べる( p. 172 )。なお、両者の関連については、 pp. xli-xlvi. ) John Constable, The Conversation of Gentleman Considered in Most of the Ways, that Make Their Mutual Company Agreeable, 彼によれば、その規則は、「人々がわれわれに抱いている評価や愛情を損なうようなことは一切言わないこ London, 1683, pp. 3-5. と」、そして、「両方をともに増やす方向に寄与するであろう事柄を話すこと」にあった( p.)。 5 ) or Disagreeable, London, 1738, pp. iii, 85-87. )『スペクテイター』に代表される、当時のコーヒー・ハウスをめぐる議論については、たとえば、 Klein, ‘Coffeehouse Civility, ) , pp. 31-51. Brian 1660-1714: An Aspect of Post-Courtly Culture in England’, Huntington Library Quarterly, Vol. 59, No.( 1 1996 小林章夫『コーヒー・ Cowan, The Social Life of Coffee: The Emergence of the British Coffeehouse, Yale University Press, 2005. ハウス─ 世紀 ロンドン、都市の生活史─』、講談社学術文庫、二〇〇〇年。 18 ( ( ) , Herbert Davis with eds. Identity and Language in the Eighteenth Century, Routledge, 1996. Philip Carter, Men and the Emergence of Polite Society, Britain 1660-1800, Longman, 2001. ) Swift, ‘Hints towards an Essay on Conversation’, in his Prose Writings of Jonathan Swift, vol. ( 4, Louis Landa, Basil Blackwell, 1957, p. 92. ( ) Swift, ‘Hints towards an Essay on Conversation’, p. 90; Swift’s Polite Conversation, annotated by Eric Partridge, Andre Deutsch, ( ( ) Cowan, The Social Life of Coffee, ch. 8. しかも、「コーヒー・ハウスは男性的な社会規律の要所であった」( p. 244 )。このよ うな「ジェンダー」や「ナショナリティ」をめぐる同時代の言説については、 Michèle Cohen, Fashioning Masculinity: National ( 62 63 64 65 66 67 ) ’ ‘Gender, Conversation and the Public Sphere in Early Eighteenth-Century Swift, Swift s Polite Conversation, p. 28. Cf. Klein, ( eds. ) , Textuality and Sexuality: Reading Theories and Practices, Manchester England’, in Judith Still and Michael Worton 1963, p. 27. 68 University Press, 1993, pp. 100-115. ) The Spectator, vol.( ) , D. F. Bond, Clarendon Press, 1965, pp. ( ( no. ) 1, ed. 44 no. ) 10 , 242 57 . 69 70 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 100 ( ( ( ( ( ( Constable, The Conversation of Gentleman, pp. 34-35, 191. Pocock, Virtue, Commerce, and History, ch.( 2『徳・商業・歴史』第二章) , pp. 236-237. Klein, Shaftesbury and the Culture of ) Anon, Youth Behaviour, p. 1. Antoine de Courtin, The Rules of Civility; or, Certain Ways of Deportment Observed amongst ( ) All Persons of Quality upon Several Occasions, tr. , Anon, 1671; London, 1678, p. 1. ) Walker, Of Education, pp. 209-211. ) ) Politeness, Cambridge University Press, 1994. Jenny Davidson, Hypocrisy and the Politics of Politeness: Manners and Morals from Shaftesbury, Characteristics, pp. 48, 31, 33, 403-404. ( ed. ) , E. F. Miller, Liberty Fund, 1985, pp. 533David Hume, ‘Of Essay Writing’, in his Essays Moral, Political and Literary, Locke to Austen, Cambridge University Press, 2004. ) ) (田中敏弘訳『道徳・政治・文学論集』、名古屋大学出版会、二〇一一年、四三〇─四三一頁)坂 536 . 本達哉『ヒュームの文明社会』、 創文社、一九九五年、九九─一〇〇頁。同『ヒューム 希望の懐疑主義─ある社会科学の誕生─』、慶應義塾大学出版会、二〇一一年、 第四章。また、以下のヒューム論については、犬塚元『ディヴィッド・ヒュームの政治学』、東京大学出版会、二〇〇四年、第六章。 ( ) Hume, Political Essays, ( ed. ) , Knud Haakonssen, Cambridge University Press, 1994, pp. 53, 69-70, 73,( 『道徳・政治・文学論集』 75 八〇、一〇九、一一二─一一四頁) . ) ) ) , Bonamy Dobrée, London, 1932, vol. ed. 本文中に書簡の日付を記した。 3, p. 1134; vol. 6, p. 2944. )バジル・ウィリーによれば、『息子への手紙』は「一八世紀の真正なる作法書」であり、「ルネサンス期の行儀書の見事な継承」 ) 洋訳『道徳感情論』(上)、岩波文庫、二〇〇三年、一三七─一四〇頁) . ( Chesterfield, The Letters of Philip Dormer Stanhope 4th Earl of Chesterfield, 6 vols, Ibid., p. ( 70一〇九頁) . ( ed. ) , Knud Haakonssen, Cambridge University Press, 2002, pp. 65-66 (水田 Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments, ( ) (『道徳・政治・文学論集』二二三頁) Hume, Political Essays, pp. 107 . ( ) Ibid., pp. 109, 269, 271 (『道徳・政治・文学論集』二二四、三七─三八頁) た . だし、「議会の独立について」の引用部分が掲載 されたのは、一七四二年の第二版までである。 ( ( ( ( でもあった。 Basil Willey, The English Moralists, Chatto & Windus, 1964, pp. 277-278 (樋口欣三・佐藤全弘訳『イギリス精神の源 101 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 71 74 73 72 76 75 77 79 78 81 80 82 83 ( 流─モラリストの系譜─』、創元社、一九八〇年、三二四頁) . ) The World, no. 148 ( 1755. 10. 30 ) , reprinted in Adam Fitz-Adam, The World, vol. 3, New Edition, London, 1782, pp. 256-260; この論説は or in The British Essayists, vol. 24, with prefaces, historical and biographical by A. Chalmers, Boston, 1861, pp. 64-68. また、 Roger Coxon, Chesterfield and His Critics, London, 1925, pp. 247-250 にも収録されている。 ( ) Chesterfield, The Letters, vol. 3, p. 1148; vol. 4, pp. 1700, 1704, 1700. ウィリーはまた、『息子への手紙』について、「ヒュームの 諸原則が論理的に、また必然的にたどりつくべき種類の問題」を示しており、それらを「体系としてではなく、行動の基準や実践 84 ( ( ( ( ( ( ( ) ) ) Richard Hurd, Moral and Political Dialogues, 3rd. ed., 1765; Gregg International Publishers, 1972, vol. 1, pp. iv-xi; vol. 3, pp. The World, no. 148. Chesterfield, The Letters, vol. 4, p. 1383. 『道徳・政治・文学論集』一一三頁) . Hume, Political Essays, p. ( 74 149-150. ) Chesterfield, The Letters, vol. 4, p. 1210. The World, no. 148. ) ) ) Engelbertus Kaempfer, The History of Japan, giving an Account of the Ancient and Present State and Government of that 更生閣、一九二九年、 vol. 2, p. 446. Empire, London, 1727; 七頁)。 ( ) Anthony Farrington ( ed. ) , The English Factory in Japan 1613-1623, vol. 1, The British Library, 1991, p. 73; Thomas Rundall ( ) 田中丸栄子編『英和対訳 三浦按針 ed. , Memorials of the Empire of Japon: in the XVI and XVII Centuries, London, 1850, p. 32. 一一通の手紙』、長崎新聞社、二〇一〇年、五六頁。なお、この対訳版において civility は civil manner に現代語訳されている(四 ( Chesterfield, The Letters, vol. 4, p. 1454. 『道徳感情論』(上)、一六八頁) . Smith, The Theory of Moral Sentiments, p. ( 75 の目標として提示」したテクストとして評価した。 (『イギリス精神の源流』三一三頁) . Willey, The English Moralists, p. 269 ( ) James Boswell, The Life of Samuel Johnson, ( ed. ) , David Womersley, Penguin Classics, 2008, p. 346 (ボズウェル『サミュエル・ ジョンソン伝1』中野好之訳、みすず書房、一九八一年、五〇二頁) . 85 86 89 88 87 93 92 91 90 ) Basil Hall, Account of a Voyage of Discovery to the West Coast of Corea, and the Great Loo-Choo Island, London, 1818, pp. 158(春名徹訳『朝鮮・琉球航海記』、岩波文庫、一九八六年、二一二頁) ホ 159 . ールによればまた、「最下級の人々のマナーズさえ、 94 95 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 102 品が良く 七七頁)。 節度 genteel があった」のであり、「琉球の人々は著しく文明化 becoming されている」( civilized 一〇四、二 pp. 69, 213; ( ) Smith, Lectures on Rhetoric and Belles Letters, ( ed. ) , J. C. Bryce, 1983; Liberty Fund, 1985, p. 199 (水田洋・松原慶子訳『修辞学・ 文学講義』、名古屋大学出版会、二〇〇四年、三三九頁) . ( ) (『道徳・政治・文学論集』八頁) Hume, Political Essays, p. 3 . ( ) Walter Bagehot, The English Constitution, ( ed. ) , Paul Smith, Cambridge University Press, 2001, pp. 30, 69, 71, 43-44 (小松春 雄訳『イギリス憲政論』、中公クラシックス、二〇一一年、三二六、一一二、一一五、五七─五九頁) 遠 . 山隆淑『「ビジネス・ジェ ( )丸山眞男「肉体文学から肉体政治まで」 (杉田敦編『丸山眞男セレクション』、平凡社ライブラリー、二〇一〇年)一八八─一八九、 ントルマン」の政治学─W・バジョットとヴィクトリア時代の代議政治─』、風行社、二〇一一年。 二〇七頁。同「開国」(『忠誠と反逆─転形期日本の精神史的位相─』、ちくま学芸文庫、一九九八年)二三六頁。 103 木村俊道【初期近代イングランドにおける会話・交際・社交】 96 98 97 99 妥協をめぐる政治思想 ──ヴィクトリア時代後期におけるデモクラシー・政党・政治的決定 ──遠山隆淑 ● 一 はじめに ヴィクトリア時代後期においては、選挙法の改正 (一八六七、八四年)や秘密投票法の制定 (七二年)といった政治的 民主化の流れの中で、政治的決定過程に新たに参入しつつあった下層中流階級以下の民衆の意見を採り入れながら、地 (1) 主階級を中心とする既存の政治支配者層や知識人たちがいかに彼らを指導するか、という「知識人と民衆 ( brains and (2) ) 」問題が政治課題となった。この二者間関係の再編を重要な政治課題として引き受けた政治家や知識人を、H・S・ numbers ジョンズにならってリベラル (自由党支持層)に位置づける。このリベラルは、名望家支配の維持を原則として時代に適 合的な政治エリートの創出をめざすウィッグと、デモクラシーの実現を目的とするラディカルにわかれて論争した。本 稿では、この動きの中で有権者層を指導するための組織として急速に注目が集まった政党と政治エリートならびに民衆 とのあるべき関係に関する議論を検討する。その上で、多種多様な政治主体を抱えることとなった当時における、適切 ) 」概念に焦点を当て考察 な政治的決定方法をめぐる論争を、イギリスの伝統的な政治手法とされた「妥協 ( compromise することが本稿の目的である。その際、ラディカルとウィッグ双方の議論を採り上げるが、「妥協」概念に着目するように、 本稿においては、言うなれば「多数決」が政治的決定の根幹をなすラディカルのデモクラティックな議論ではなく、名 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 104 望家支配を志向するウィッグの政治的思考を解明することに重点が置かれる。 政治エリートと民衆の政治的関係について、リベラルは一つの共通理解を前提としていた。その理解とは、政治的リー ダーシップとフォロワーシップの政治的機能の相違に基づく政治エリートと有権者層の役割分担である。ただし、そう した役割分担の必要性は明確に意識されてはいたものの、リベラルの中でも、J・S・ミル (一八〇六─七三年)やJ・モー (3) リー (一八三八─一九二三年)といったラディカルの知識人とW・バジョット (一八二六─七七年)やH・メイン (一八二二 ─八八年)らウィッグの知識人とでは見解が異なる。すなわち、ラディカルは役割の相違の重要性を論じつつ、デモクラ シーの確立を終極的な目標に設定し、ウィッグは、そうした潮流に対抗すべく既存の政治エリートの立て直しを図った。 前者においては、膨大な数に上る有権者層をどのような方法で指導するのかという難問への回答が、後者の場合は、政 治的民主化という圧倒的な激流の中でどのようにエリートを復権させることが可能か、という難問の解決が課題となる。 第一節では、リーダーとフォロワーの関係についての、リベラル内部におけるこれら二系列間の論争に着目することで、 それぞれの立場の相違を明確にする。 第二節では、民衆の数を背景に個々の政治家に大きな影響力を行使しつつあった政党、特に「コーカス」に関するラ ディカルとウィッグの論争に焦点を合わせる。これにより「知識人と民衆」問題に直面して、当時の知識人たちが考え ) 」という概 た政治エリートと有権者層とのあるべき関係について、政治的な役割分担を明示する「独立 ( independence 念の検討を通じて明らかにする。J・バロウによれば、「独立から個性へ」と題して論じられているように、「独立」は、 (4) 一八世紀までの静態的な社会状態におけるカントリー側の「政治」的価値を示す用語であって、一九世紀には動態的「社 ) 」がこれに代わり重要視されるようになった。しかし、共和主義的な価値意識を多分 会」に適合的な「性格 ( character に含むこの言葉は、後で論じるように、個人主義的価値意識が急速に広まった当時においても、バーク的な国民代表観 の意味合いを保ちながら、様々な文献の中に散見される。この概念は、政党と政治家との理想的な関係のみならず、政 党組織が発達していく過程で、政党と有権者、さらにはあるべき有権者像の提示を通じた政治と国民との関係の考察に まで広がりを有するものであった。こうした意味で「独立」は、当時の政治的思考における鍵概念だと見なすことがで 105 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 きるため、リーダーとフォロワーの区別の思想的なあり方を解明する大きな手がかりとなる。近年、コーカスからの有 権者の独立については議論されている。これに対して、第二節で論じるように、本稿では、特にウィッグの立論に見ら れるような政治エリートの政党あるいはコーカスからの独立に関する議論に注目する。 第三節では、 「独立」によって相互に分断された諸集団を統合する方策としての「妥協」に関するラディカルとウィッ グの評価の相違を検討することを通じ、政治的決定方法のあり方をめぐる当時の論争を描く。政治における妥協の方策 (5) は、ウィッグ的思考において伝統的に高く評価されてきたが、「進歩」を重視する一九世紀には日和見主義的な弥縫策 (6) に過ぎないものとして、その政治的価値が失われてきたとされがちである。たしかに、討論を粘り強く継続すれば人々 は同じ結論、シュンペーター流に言えば「一般意志」なるものに到達しうると考えるラディカルは、理性主義的な観点 から妥協的方策には批判的であった。他方でウィッグによれば、多様な政治主体間の対立は、討論のみを通じて解消さ れるものではない。なぜなら、国民のすべての政治的立場を、理性の行使としての討論のアリーナに乗せることは不可 能だからである。そうした共約不可能な国民内部の断絶を国民的規模で解決しなければならないからこそ、政治は「妥協」 点を探る営みとして立ち現れざるをえないことになる。両陣営のこのような妥協観の相違を浮き彫りにすることによっ て、政治的決定のアリーナを理性的な討論空間に限定しないウィッグの政治的決定観を解明したい。 二 リーダーシップとフォロワーシップ 本節では、政治家や知識人たち政治エリートと、投票という方法を通じて国政に影響力を及ぼしつつあった有権者層 とのあるべき政治的関係をめぐって交わされたヴィクトリア時代後期のリベラルの議論を検討する。当時においては、 選挙権拡大に反対し、伝統的支配者層を中心にした政治支配の維持を支持する知識人たちのみならず、選挙制度の抜本 的な改革による普通選挙の実現を唱えたラディカルたちも、庶民院を中心に行われる討論を通じた政治的決定権の発動 と選挙権の行使が別次元の政治的行為であると考え、有権者層の政治的決定への介入について否定的な見解を示した。 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 106 このようなリーダーシップとフォロワーシップの政治的機能の区別を認識することの必要性について、たとえば第二次 (7) 選挙法改正後のラディカルの中心的な知識人であったF・ハリソン (一八三一─一九二三年)は次のように明確に論じて いる。 一方では支配する ( governing )という営為がある。しかし、有権者であるからという理由で、一つの階級が支配す (8) ) 、あるいは政府に対する間接的な承認を与えるこ ることはできないし、するべきでもない。投票すること ( electing とは、[支配することとは]別物であり、これにはまったく異なった資質が要求される。 (9) この議論に対しては、ハリソンの盟友であり、またJ・S・ミルの愛弟子で『フォートナイトリー・レビュー』の編集 者を務めたJ・モーリーも賛意を表している。リーダーシップとフォロワーシップの機能のこのような截然とした区別 とそれらの相互補完的な性質の認識は、これから述べるように、政治的立場を問わず、代議政治の適切な運営のための ( 107 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 自明の前提であった。 ( こうした区別が強調されることとなった理由としては、選挙権拡大を通じて、政治的知識や経験に乏しい民衆が、暴 力を背後に忍ばせた「数」を頼みに、政治的決定に介入することに対する知識人たちの危惧が主要なものである。実際、 ( れている。このように第二次改正以後、政党指導者と民衆が議会を通さずにコミュニケーションを図る新たな政治手法 ( を反映して、第二次改正後には、歴史に残るような有名な演説はすべて、議会外で行われるようになったことが指摘さ アン・キャンペーンに代表されるように、街頭で直接有権者にアピールする手法を重視しはじめていた。こうした状況 た特に第二次改正後には政党の全国組織化が進む中で、政党指導者たちは議会でではなく、グラッドストンのミドロジ 第二次選挙法改正の前後には、議会外の様々な政治勢力が庶民院や政権運営に対して強い影響力を持つこととなり、ま (( こうした状況を受けて、ヴィクトリア時代後期のリベラルの知識人たちは、政治的リーダーと有権者の機能の相違に が開発されつつあった。 (( 基づく役割分担の必要性を口をそろえて強調しながらも、選挙権の拡大を通じたデモクラシーの実現の可否をめぐって 鋭く対立していた。この対立は、膨大な数の有権者層がリーダーとフォロワーの従前の関係を維持するか否か、換言す れば、デモクラシー体制下でもリーダーシップが有効に機能するか否か、という問題に対する見通しの相違に基づいて いる。 リーダーとフォロワーの役割分担の維持のために有用だと当時の知識人たちが見なしたのが、社会的上位者に対する reverence ) 」であった。この概念は、バジョットの『イギ 下位者の敬意に基づく政治的服従の態度、すなわち「信従心 ( deference ) 』(一八六五─七年)における議論が特に有名であるが、論者によっては リス国制論 ( The English Constitution ( ( や も用いられて広く論じられている。たとえば、J・S・ミルは、『代議政治論』(一八六一年)において、政治 respect 0 0 ) 」を「閉鎖」 的平等を基盤とする「デモクラシー」が「社会に存在する崇敬の主要な学校 ( the principai school of reverence するという問題点を指摘した上で「複数投票制」の導入を主張している。 ( のに適した資質、あるいは政治権力 (を機能させるものではないことは確かだけれども)の究極の源泉である。 ( 最後に、活動的な習慣の保持と社会的な悲劇に対する具体的な知識が挙げられる。これらは、人間を調停者にする である。それは、第一に社会的な共感の力であり正義の感覚である。そして、無私の性質であり純粋な性格である。 才能ではない。才能という言葉で説明するのであれば、それはとてもありふれていて誰でもが持ちうるような才能 その [有権者に必要な]資質とは、道徳的なものであって知的なものではない。また、経験的なものであって特別な 国民である」という立場からさらなる改正の必要を訴えている。 いう理由に基づく。たとえば、先述したように「支配」と「投票」の区別を明示したハリソンは、「労働者階級こそが この場合には労働者階級が、政治的リーダーに対して、政治的知性のレベルで信従しているという事実が確認済みだと ラディカルは、デモクラシー下でのリーダーシップの継続について肯定的な評価を下した。この判断は、フォロワー、 (( (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 108 このように、ハリソンによれば、道徳面で優れた資質を持つ労働者階級に選挙権が与えられ、彼らの道徳心が国政の基 本方針となるべきであった。この議論に「支配」と「投票」の区別に関する先の主張を加味するなら、彼は労働者階級 が選挙権を得た場合にも、自らの道徳心に基づいてフォロワーとしての有権者の立場を貫くであろうと判断していたと 理解できる。 またモーリーは、第三次選挙法改正に至る論争の中でデモクラシー批判を通じて選挙権拡大反対論を唱えたメインの ) 』(一八八三─五年)に対する書評の中で、メインの労働者階級観を次のような観点から 『民衆統治 ( Popular Government 批判している。 ) 」と呼ぶとき、それは都市の職工 ( artisans )を意味している。こ サー・ヘンリー・メインが「乱暴者ども ( roughs の呼び方は、まったく適切ではないし、時代遅れである。というのも、[メインがそう呼んでいる]乱暴者や無骨者が、 )になったことは、今ではトーリー党員も自由党員もともに認めているから 市民にふさわしい人々 ( capable citizens ( が、リーダーに対する労働者階級の服従の根拠を、議論という理性的な性質の行為に求めていることである。地方のラ ディカルの政治的リーダーに対する民衆の服従の事実は、現代の歴史研究でも明らかにされている。たとえば、V・ハー トは、J・チェンバレンが指導した有名なバーミンガムの自由党における党指導者層に対する支持者たちの「信従」の 109 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 である。……マンチェスターでは、アーサー・バルフォア氏やサー・ヘンリー・ロスコー、……リーズでは、ブラ ( イト氏やランドルフ卿、あるいは他の大都市のそうした人物 [の演説]に、彼らは聞き耳を立てている。職工たちの 大集会は、主教区会議や貴族院よりも乱暴な集会であるということはまったくない。 ( まりにも有名である。 ( さらに当時のラディカルの理論的支柱であったミルが、デモクラシーの実現を終局的な政治目的に掲げていたことはあ (( ここで重要なことは、政治的リーダーたちの議論を落ち着いて聴いているという描写に表れているように、モーリー (( 様子を描いている。コーカス型政治システムの先駆けの役割を果たしたバーミンガム自由党を支持する民衆の行動は、 ( ( 指導に対する受動的な反応の形で現れ、政治改革を進める際に民衆サイドが主導権を握ることはなく、民衆は一貫して ) 」という立場を超えることはなかった。 「追随者 ( rank and file ( れるため、質の高い議会運営が可能だと判断した。このことに関連して、ミルは先述したようなデモクラシーによる敬 ( たそうであるからこそ、ラディカルのリーダーたちは、選挙権の大幅な拡大の後も、知的エリートによる指導が継続さ フォロワーのこうした服従は、リーダーの政治的「知性」や政治的「能力」に対する「信従心」に基づいており、ま (( ( (( ( による主権の強奪に……陥るからである。 ( ならその場合、彼らは狂乱状態に陥り、彼らの想像力は非現実的な危険を妄想して、選挙の試みは、結局は力任せ 現在イギリスで、無教養な大衆に、「さあ、あなたがたの支配者を選びなさい」などと言うことはできない。なぜ 他方でバジョットは、『イギリス国制論』において、労働者階級への選挙権付与に次のように反対している。 ) 」が重要であると論じている。 「選挙人の義務の明白な規則」として「知的優越に対する信従心 ( deference ( 意の消滅の問題性を指摘しているが、 「社会的地位」に向けられた伝統的敬意の衰退には好意的であり、これに代わって、 (( ( トは選挙権の拡大に反対した。 ( 消滅して、この階級はフォロワーとしての有権者の立場を超え、主権を奪い取る危険性があることを理由に、バジョッ このように、当時はまだ選挙権が与えられていなかった下層労働者階級にまで選挙権が拡大された場合には、信従心が (( よって、逆説的にリーダーたちが、「低級な知性から発せられる提案に」「神経質に聞き耳を立て」ることとなった。さ すなわち第一に、リーダーたちは「凡人たちに対する未曾有の支配力を持つ」ことになったが、そうした新たな関係に ) 」との関係が二重の意味で変化した。 民主化が進む中で、「政治的リーダー」と「政治的フォロワー ( political followers 『民衆統治』の著者H・メインもバジョットと同様の観点に立ち「デモクラシー」を批判している。メインによれば、 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 110 ( ( らに第二に、「フォロワーたち」が、「代表者たちの討論にいらだちを覚え」た結果、議会での討論を経由せずに政治的 決定に直接関与する傾向にある。メインとバジョットの議論に共通して見られるのは、労働者階級への選挙権の付与が リーダーとフォロワーの関係を破壊し、従前のフォロワーが政治的決定過程に介入することになるという見通しであり、 その帰結としての「低級な知性」による政治的決定権の独占に対する危惧であった。 バジョットやメインらウィッグが、デモクラシー下におけるリーダーシップの継続に悲観的な見解を示した理由は、 リーダー─フォロワー関係が理性的、合理的性質のものにより、すなわち、リーダーの政治的「能力」や議論の論理的 な正確さを根拠に成立するものというラディカルの立場に懐疑的であったことにある。たとえばメインによれば、人口 ) 研究に由来する「あらゆる政治経済学」とそれを一般化した「ダーウィン氏」の「最適者生存の原理」が「群衆( multitude によってあからさまに嫌悪されている」事実が示しているように、そもそも「民衆の意見 ( democratic opinion )と学問的 )との間には著しい対立が存在している」 。このように「デモクラシーと学問 ( science )とは正反対」 真理 ( scientific truth ( ( )の優越」による「デモクラシー」に対する指 の性質を有するのであるから、 「学識あるリーダーたち ( instructed leaders 導権の発揮に期待するのは誤りである、とメインは論じる。 0 0 0 0 0 ( ( (( …… ないが、宮廷や貴族は、大衆を支配する偉大な資質を持っている。すなわち、人目を惹きつける資質を持っている。 目の前に示された [高貴な人々の]生活がかけ離れていることを感じる。哲学者たちは、なにも見いだすことができ 楽のすてきな情景が目の前で展開されると、彼らはそれに圧倒される。彼らの想像力が、彼らを屈服させる。彼らは、 なりをした人々が、彼らの前を通っていく。高貴な男性たちの華麗な行列、美しい女性たちの壮麗な光景、富や享 実際、イギリス民衆の大多数は、……我々が、社会の劇場的見せ物と呼ぶものに信従しているのである。荘厳な身 0 同様にバジョットも、『イギリス国制論』において、信従心の非合理的性質を強調している。 (( 哲学者たちは、このような迷信を嘲笑するかもしれない。しかし、その結果には計り知れないものがある。 111 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 (( バジョットによれば、信従心とはこのように非理性的な性質を帯びたものであるため、 「たとえ率直な議論が効果的に、 公正に行われるようになったとしても、教養ある少数者の支配を、合理的に論証して納得させることはほとんど不可能」 だと断じざるをえない。だからこそ、バジョットは「大衆が無知であるが信従心を持っている場合」、選挙権を与える ( ( ことによって「この無知な階級にひとたび支配権を与えると永久に信従心は戻ってこない」と予測し、選挙権の大幅な 拡大を求める議論を強く批判したのである。 ( (( 政党のこうした変容は、前節で論じたようなリーダーとフォロワーの役割の明確化にどのようにかかわってくるのだろ ヴィクトリア時代後期のもっとも特徴的な政治状況の変化の一つに、政党の組織化と全国規模への拡大が挙げられる。 三 政党と独立 がどのように評価されたのかについて検討する。 た。次節では、こうした見解の相違がある中で、第二次選挙法改正後に進む政党の全国組織化、さらにコーカスの発達 獲得が政治支配者層への服従にはつながらず、むしろ従前のリーダー─フォロワー関係を破壊することになると力説し 的な立場のメインやバジョットらウィッグは、労働者階級の服従根拠が非理性的なものにあることを理由に、選挙権の 選挙権の大幅な拡大に知的エリートの指導に基づく政治改革の可能性を見いだした。これに対し、選挙権の拡大に否定 ( う見通しを立てた。その上で、モーリーがラディカルの知識人にフィロゾーフの役割を期待したように、ラディカルは 労働者階級の人々が、議論を通じた理性的な政治的関係に入るがゆえに、政治的優越者との信従関係が成立する、とい 立の可否という問題については、次のような対立軸が存在していた。一方ではラディカルは、選挙権の獲得を通じて、 明確に区別されなければならないことを指摘した。こうした共通了解の上で、選挙権の拡大を通じたデモクラシーの成 課題への対処に迫られる中で、政治的リーダーとフォロワーの政治的機能が異なること、その帰結として両者の役割が このように、ヴィクトリア時代後期の知識人たちは、数に基づき影響力を否応なく発揮する民衆の政治的扱いという (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 112 うか。本節では、「独立 ( independence ) 」という概念に着目することによって、政党と政治的リーダーやフォロワーそれ ぞれとの関係をめぐって展開された議論を検討する。 従来多くの研究では見落とされてきたことであるが、「古き腐敗」論と結びついた伝統的な政治批判ならびにその批 判と表裏をなす「独立」概念の重要視は、政党の全国組織化が進展する中で廃れてしまったのではまったくなかった。 むしろこれらは、政治的思考における中心的な概念を構成するものとして、実は一九世紀後半においても政治的立場を ( ( 超えて脈々と引き継がれ、宮廷や王権、パトロネージからの距離を強調する候補者たちの主張が有権者層に対する大き なアピール力を有していた。 政党については、特にヴィクトリア時代の後期に焦点を合わせるなら、政党組織の変容の中で、選挙マシーンとして その中心的役割を果たしつつあったコーカスをどのように評価するのかという問題をめぐり様々な議論が現れた。一八 )は、その中 七四年の総選挙の大敗を受けて自由党が整備を進めた全国自由党連盟 ( the National Liberal Federation: NLF 枢部が選挙運営を一手に担うコーカスの代表格に位置づけられる。しかし近年の研究が明らかにしているように、NL Fはごく少数の指導部がトップダウン方式で民衆を組織的に統轄していたのではなく、J・S・ミルが理想とした「ア テナイの民会」のような有権者個々人の自由な参加や討論のあり方をめざしていた。また実際の組織形態としても、N )とは財政基盤を共有していなかったため、財政面で脆弱であっ LF自体の収入は非常に乏しく、加えて院内幹事 ( whip ( ( たことから、全国各地の地方コーカスに影響力を行使することはできなかった。このように中央のコーカスに関しては、 その目的、組織のあり方ともに、自由党全体をすみずみまで支配する組織であったと見なすことはできない。 )な態度をとり続けたものの、労働者階級とコーカ 論じたように、一般の労働者/組合員個々人は追随的 ( rank and file カスの指導層でもあったことを意味する。そのため、特に強力な労働組合が存在する地域においては、もちろん前節で カスの形成と指導の役割は、主として地方の労働組合が担っていた。このことは、地方の労働組合の幹部が同時にコー しかし、地方のコーカスに目を転じれば、中央のそれとは様相を異にしていることが理解できる。地方におけるコー (( スとは相互補完的な関係にあり、コーカスは非常に大きな政治的影響力を発揮することができた。このように、コーカ 113 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 (( スは、ヴィクトリア時代後期には、その指導層が有権者層の投票行動の掌握を通じて候補者の選定や行動を意のままに ) 」であった、という一義的な解釈には無理がある。近年の研究成果をふまえれば、コーカスは、 操る「黒幕 ( wirepuller 地方の特殊事情にしたがって多様な形態をとっており、また中央 (NLF)においては、黒幕ではなくむしろ、古代から ( ( の「シヴィックな精神に基づいて恒常的に熟議するデモス、という理想の具体化」をめざしていたと解釈するのが実情 に近い。 ( (( ( 天的」に抱く「自称リベラルの人々の一部」によるものと断じざるをえない。また同コーカスに対しては、J・ブライ ( )の将来」に敵意を抱き「民衆に対する不信」を「先 した偏見に満ちており、「民衆による自治 ( popular self-govenment 民主的な組織である。そのため、「我が国の制度をアメリカ化する」組織だとする否定的なコーカス観は、実情を無視 コーカスとはこのように、 「民衆が自らの事柄をより現実に即して、より直接的に、より継続的に取り扱えるようにする」 )を与えている。 値を保ち続ける条件であり、……強力さの源泉をえるために必要な公開性 ( publicity ( て……大きな責任を負っている。代表委員会のすべての会議を報道する機関誌の存在は、委員会が影響力と存在価 一般党員による一年ごとの改選を行う [コーカスという]団体は、我が国の他のあらゆる代議機関よりも党員に対し 論じている。 併することにより誕生したが、その指導者J・チェンバレン (一八三六─一九一四年)は、コーカスについて次のように バーミンガムのコーカスであるバーミンガム自由党協会は、労働者改革連盟と聖ジョージ改革連盟が地方の自由党と合 コーカスをこの階級の、さらには国民全体の政治目的を実現させる公的性格の色濃い組織として擁護した。たとえば、 労働者階級を直接率いて政治改革を進める立場のリーダーは、コーカスと労働者階級との民主的な関係を強調して、 (( (( ( ( ト (一八一二─八九年)も「地域全体の代表」であり同市における自由党そのものだとして、その民主的性格を強調して いる。 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 114 しかしながら、コーカスの実情はどうあれ、「市民の独立」を基盤にした理性的で自由な討論の実現という共和主義 的な理念の広まりの中で、コーカスに対しては「黒幕」が政党や有権者を専制的に操るための選挙マシーンであるとい うイメージが先行して否定的な評価が主流をなした。H・リーヴ (一八一三─九五年)は、『エジンバラ・レビュー』にお いて、自由党が勝利した一八八五年一一月の選挙結果について次のような分析を行っている。 このたびの選挙が、自由党の候補者と自由主義的な見解とに圧倒的な支持を与えた主たる理由は、有権者の道義面 )にある。彼らは自らの選挙権に誇りを持ち、ほとんどの事例において、彼ら での独立 ( conscientious independence の支持をもっとも価値あるものとするように思われる候補者たちを選出することに熱心であった。彼らは大家門と いう魔力に影響されず、実直な性格を持ちしかるべき地位と教育を有する人々を代表者として選出するのに熱心で あった。政党でさえ、それは非常に強力なものではあるのだが、自らの影響力を利用することはできなかった。概 して、有権者たちは、独裁的な命令を発するような組織によるあらゆる恣意的な妨害を拒絶した。産業と知性の大 ( 115 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 集積地 [大都市]では、[有権者層という]これらの大きなそして知的な集団をコーカスの奴隷にすることは不可能で あることがわかった。彼らは、自らのために判断し行動することを心に決めた。……選挙結果は全体として、イギ リスの有権者にとって最高度に誇れるものである。もし、民衆統治が民主的な基礎の上に永続的な成功を勝ち取り )に支えられた現在の 続けるならば、[有権者という]自らの地位に責任を感じ、国を愛する気持ち ( patriotic motives ( 有権者のような人々によってであろう。この政党が勝つかあの政党が勝つか、という直近の選挙結果は選挙人団の )に比べればまったくもって重要ではない。 誠実さと独立の精神 ( the spirit of integrity and independence ( 対立候補がいかに政党の奴隷であるかを示すことが、選挙演説における常套句となっていた。 ( コーカスに対するこのような認識の中で、候補者たちは自らがいかに政党の束縛から自由で「独立」した候補者であり、 (( このように、有権者に対するコーカスの一方的な支配の関係が批判的に論じられたことに加えて、政治家個々人に対 (( するコーカスの影響力に対しても強い懸念が示された。この関係をめぐって提出された議論には二つのタイプがある。 第一のタイプは、ラディカルの知識人たちに看取できる議論である。たとえばミルは、政党やコーカスに対するまとまっ ( ( 「地方の名士 ( some た議論を残しているわけではないが、T・ヘア (一八〇六─九一年)の比例代表制を扱った著作の中で、 ) 」、「地方の半ダースのリーダーたち」の影響力の下で議員を選出しているような、すなわち、「当選できる local grandee ( ( )を有する何百もの有能な人々」を議会に送り込むことが可能になると論じ、同構想の実現に期待 independent thoughts を寄せている。 ( 現行の選挙制度を批判して、ヘアの構想により、地方に影響力を持たず「政党に対する忠誠心のない」、「独立した考え でも政党の方針に賛成票を投じる人としてロンドンのクラブから二大政党によって送り込まれた……人」であるような のは、地方において影響力を持っているか、あるいは金銭をばらまいて自らの道を切り拓く人、またはあらゆる状況下 (( ( (( 有権者層と政党からの政治的リーダーの「独立」であった。有権者と政党および庶民院議員の関係について、バジョッ ) 」の態度に基づく政党の穏健な政治姿勢である。そのために不可欠だとされたのが、 たちの「穏健さ/中庸( moderation 果たしうるためには、外すことのできない条件が存在するとバジョットは考える。その条件とは、政党が送り出す議員 ては、「政党がその核心」であり「固有のものであり、背骨、命」だと論じる。ただし、政党がそうした枢要な役割を 民衆と一体化したコーカスからの政治的リーダーの「独立」の重要性が説かれている。バジョットは、代議政治におい これに対し第二のタイプに分類できるウィッグの議論では、コーカスについて、民衆との緊密な関係が特に着目され、 からの脱却と同義であったということ、の二点である。 ていると考えていたこと、このような意味で、彼らにとって政党やコーカスからの「独立」は、伝統的な地主支配体制 の二点を指摘できる。すなわち、ミルやモーリーは、政党あるいはコーカスの指導者が旧来型の地主貴族から構成され る状況とに不満を表明している。すぐ後に述べるメインやバジョットとの対比でこれらの議論の特徴を挙げるなら、次 ( ) 」にしたがって政策が決定されるだけの「質の低い」政治が行われてい その結果として、政党の「緊急要請 ( exigency 同様にモーリーも、コーカスによる候補者の選定により、有能な人材の政界入りが制限されてしまっていることと、 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 116 ( ( トは『イギリス国制論』で次のように論じている。 ( )から構成されることとなるであろう。彼らは、イギリス全土からの 党に忠誠を誓った党派政治家 ( party politicians [ヘアの]プランが採用されれば、庶民院は政党の委員会によって選ばれ、その委員会の鎖につながれ、抑圧的な政 判している。 ) 」による議員の支配を強化するものだとして、ヘアの議論を詳細に吟味し批 こそが、「コーカス」や「黒幕 ( wirepuller 状況下ではさらに困難な営みとなる。バジョットは、ミルとは正反対に、全国から自由に選挙区を設定する比例代表制 ) 」に陥ることなく行われることは、コーカスの登場という 政党に基づく代議政治が「徒党政治 ( sectarian government 政治には決定的に重要であること、にもかかわらず、それが困難な課題であることを指摘している。 このようにバジョットは、有権者と政党の密接な関係を描き出し、それからの候補者あるいは議員の独立の維持が政党 なものであるはずがない。 ( 刺激され、ときにはつくり出されるであろう。そうした見解が穏健であるはずがなく、価値のある討論に従うよう す方策]が無に帰してしまうだろう。選挙民の感情が支配政党の感情となり、地方の政治活動家によって誘導され いかもしれない。しかし、放っておかない場合には、政党組織の弊害に対するあらゆる防御策 [穏健な姿勢を生み出 )が損なわれるおそれがあるのである。選挙民は、その集会を放っておかな やすい。つまり、独立性 ( independent 代表者による公的な集会 ( A representative public meeting )は、他の種類の公的な集会より以上に一つの欠点に陥り (( ) 」をそれぞれに代弁し、独特の個性を持ち、それゆえに穏健さを欠いている。[ヘアのプランの あらゆる「主義 ( ism ( ( 117 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 (( 採用によって我々は]穏健で分別のある人々からなる熟議の集会ではなく、あらゆる種類の暴力の雑多な集会を持つ ことになるであろう。 (( 議員個々人の「独立」や「穏健さ」に基づく議会政治の対照をなすものとしてバジョットが批判したコーカスによる「徒 ( ( 党政治」は、各政党全体が、フォロワーも含めて「現実」とは無関係に成立する「主義」や「理論」、「明確で融通の利 ) 」に染まってしまうことに特徴がある。バジョットによれば、そうした性格を持つ諸政党に かない政治的教条 ( creed ( による闘争の自己目的的な性格を指摘している。 ( 来的に貴族たちの仕事である。彼らが論争に参加するのは、そのスポーツそのものが好きだからである」と述べ、政党 ば、政党間の闘争は、純粋な権力獲得競争以外のなにものでもないということになる。メインは、「政党の論争は、本 の集団というよりはむしろ、相争う人間本性に起源を持つような性格の集団として特徴づけた。このような観点に立て ) 」あるいは「人類の原始的な好戦性」の「名残であり結果」であると論じ、政策や主義を同じくする人々 情 ( party feeling るにもかかわらず、政党ほどこれまで等閑視されてきたものはない。メインは、政党とは、人間本性に根ざす「党派感 ことになる、という予測が立てられている。メインによれば、デモクラシーが機能するためには「政党」が不可欠であ カス政治が成立すれば、政党は自らの教条すら喪失してしまい、むき出しの闘争心の衝突のみが政治の世界を支配する 教条を奉じる政党が勝ち残れば、現状の改善が図られる余地が皆無ではないと言える。しかし、メインの場合には、コー バジョットの場合には、各政党がそれぞれの「教条」の実現をめざして政治闘争を繰り広げるという意味では、妥当な メインが描き出すコーカス政治は、代議政治成立の可能性に関して、バジョットのそれよりもより一層悲観的である。 教条主義による政治に帰結する。 より行われる代議政治は、他の政党の議論に対する理解力も、理解しようとする姿勢すらも欠き、暴力を背後に隠した (( りの感情をあおり立てる」ことになる。その結果、純粋な闘争心に満たされることで、各政党の性格が似通ったものに 化して票の買収に走り、 「党派感情」という人間本性に訴えかけることで、政策や党の理念とは関係のない有権者の「怒 ) 」と 使に対して「無関心」になる。こうした状況の下、政党指導者は、有権者の支持獲得のため「黒幕 ( the Wire-puller 増大させる。デモクラシーとは、徹底的に細分化された権力が個々人に所有される統治形態であるため、民衆は権力行 メインによれば、デモクラシー体制下では、次のような経過をたどり、政党間の権力闘争はよりその権力追求志向を (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 118 ( ( なり、政党独自の政治目標や政策を欠くこととなるのである。 「独立」という言葉こそ使用されてはいないが、これまでの議論から、民衆の党派心を結合原理とする政党やコーカ スの登場によって、政党それ自体や政治的リーダーの民衆からの政治的独立が失われることに、メインがデモクラシー の問題性を見いだしていたことが看取できる。すなわちメインによれば、デモクラシーにおいては、政党やコーカスか らの有権者個々人の独立は成立せず、また政党指導者ですら有権者からの独立はおろか政党からの独立すら維持できな いため、党派心という政策的な内実を欠いたフォロワーたちの感情と一体化せざるをえなくなり、諸政党間の差異すら 失われる。このような事態が進行する結果、デモクラシー下の政党政治は、国政全体が政治目的の欠如した単なる権力 闘争の場と化すという危機的な状況に陥らざるをえないのである。 以上のように、政党からの「独立」は、選挙権が拡大されて、より多くの民衆が政治参加を果たし、政治家や議会、 政党などの政治的な関係が複雑化していくヴィクトリア時代後期においてもなお、代議政治が健全に運営されるために は欠くことのできない条件だと見なされていた。一方で、モーリーが反地主の立場からの民衆と知的エリートの同盟関 係を指摘したように、ラディカルは、伝統的な支配階級こそがコーカスの指導層であると見なし、彼ら地主貴族の利益 を追求する密室政治から脱却して市民による自由な討論に基づいた代議政治を実現するためには、コーカスからの独立 が重要であると主張した。ラディカルのこうした議論の前提には、前節で指摘したような政治的リーダーとしての知的 ( ( エリートとフォロワーとが理性的で自由な討論という共通の基盤に立って意見形成を行うべきであり、それは可能なこ とだという想定がある。他方で、メインやバジョットは、民主化の進展の中で、政党あるいはコーカスと民衆との一体 主張した。彼らのこのような議論は、民衆の合理性を欠いた行動により政治的リーダーたちによる政治的決定の作成過 程が浸食されることをあくまでも阻止しなければならないという危機感に基づくものであった。 このように、政党と独立という概念は、各知識人たちが想定する政治社会の対立軸を明らかにしてくれる。では、 「独 立」を重視する知識人たちは、そうした対立を前提としながらも、討論を不可欠の要素とする代議政治において、どの 119 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 (( 性を強調し、庶民院で有効な議論が確保されるためには、それらから政治的リーダーたちが独立することが不可欠だと (( ような過程を経て単一の政治的決定へとたどり着くことができると考えたのか。次節ではこの問題について考察する。 四 政治における妥協の価値 これまで検討してきたリーダーシップとフォロワーシップの役割分担、さらに政党/コーカスを媒介とした政治的 リーダーと有権者層とのあるべき関係に関する議論を下じきにして、本節では、あるべき政治的決定方法をめぐって交 ) 」という概念に焦点を当てて検討する。 わされたヴィクトリア時代後期の論争を、多様な政治主体間の「妥協( compromise 当時、 「妥協」は、伝統的なウィッグ政治を象徴する政治的決定方法だという評価が一般的であった。その中で、ラディ カルの知識人たちは、理性主義的立場から合理的推論の役割を軽視する「妥協」をその場しのぎの弥縫策にすぎない決 定法として批判した。これに対し、ウィッグの知識人たちは「妥協」を擁護した。彼らがその政治的有効性を主張した 理由は、政治的決定を理性的な討論空間に限定する一元的な政治的思考の危険性を強く意識して、討論だけでは決定に 到達できないと考え、政治的決定には、討論にのみ集約されないより多様な要素の検討が不可欠だと判断したからであっ た。 この検討課題に関して、ラディカルの立場の代表として考察するのは、モーリーの議論である。モーリーは、自らが ) 』を連載し、同年 編集者を務めた『フォートナイトリー・レビュー』において一八七四年に『妥協論 ( On Compromise 単行本にまとめ出版している。同書において彼は、政治的なものも含めて、あらゆる決定が行われる際に「妥協」とい ) 」の う方策が採用されることを哲学的見地から全面的に否定した。なぜなら妥協とは、「大いなる真理 ( the great truth 発見という多大な努力を要する営為から人々を遠ざけてしまうからである。 既存の状態に対する、あるいはすぐに実行可能であることに対する……無気力な信従から生じる不誠実または自己 )の結果である。……優柔不 幻想は、意見を形成し保持する際に真実をねじ曲げてしまうこと ( compromising truth 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 120 ( ( 断または信念の欠如は、行動と実現の領域における不当な妥協に属する悪徳である。……こうしたことが、[人々の] ふるまいや性格の深部に根をはっており、[イギリス社会全体の]現在の雰囲気の鍵になっている。 ( ( (( ( 峙させる」ことが目的であると説明している。また、ウィッグの顕著な特徴に「妥協」の政治手法を見いだしてそれを ( )──ウィッグのお歴々──の権力を破壊しトーリズムとラディカリズムを直接対 自由党における「穏健派 ( moderates 理論的な参謀の立場から、J・チェンバレンを支持していったのであるが、そのチェンバレンはモーリー宛書簡の中で、 うとする党派政治的でウィッグ的な色彩の濃い改革として同改革を批判するために、『妥協論』を連載した。その際彼は、 ( 具体的にはモーリーは、グラッドストン政権の教育改革を念頭において、特に、教育に対する国教会の関与を強めよ やそうした方法を必然的に生み出す政党政治は排除されなければならない、とモーリーは主張する。 来は、物理的法則の真理と同様の実証的基盤を持っているからである。だからこそ、政治的真理の探究を断念する妥協 ( 同じように認めるのではなく、我々はあらゆる第一原理の存在に疑いの目を向け沈黙してしまう」けれども、後者も本 )を る分野であることを認める用意があるが、道徳や政治学においては、これらの分野がそれ自体で有する論理 ( logos であり道徳的偽善以外のなにものでもない。なぜなら、「現今の人々は、自然科学は正確な推論と明確な結論が存在す ) 」が行われることとなる。モーリーによれば、その際政党の指導者たちが示す態度は、知的な不誠実 営 ( management 定を行う場合には、いくつものグループの譲歩の上で相争う利害の均衡をとる、という意味での「妥協」あるいは「経 このような観点からモーリーは、前節で検討したように政党政治を糾弾した。すなわち政党が中心になって政治的決 (( ( ( 述べ、「ウィッグをリベラルから判別する方法──一方は実際的、漸次的に妥協の用意があり、他方は哲学的方法で一 つの原理を練り上げる。一方は哲学をめざした政策であり、他方は政策を引き出す哲学である」と記述している。 以上の議論から、政治的決定は、理性的な討論を熱意をもって根気強く進めた結果発見されるであろう政治的「真理」 (( に基づくものでなければならない、という想定がモーリーにはあったことが看取できる。あるべき政治的決定方法に対 121 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 (( 批判するという観点から、アクトンも「ウィッグは妥協によって治められ、リベラルは観念による支配に着手する」と (( するこうした見方から、モーリーは、 「善き統治」を実現する政治的/知的真摯さに欠けた不十分きわまりない「妥協」 ( ( に満ちた当時のイギリス政治や社会的雰囲気全般を憂慮した。すなわち彼によれば、「討論」が、真理を引き出すため にではなく「民衆がそれを受け入れるように仕向けられた唯一のプロセスになってしまっている」のである。本稿のこ 質を有する。 ( ) 」だという意味で通常の君主制と同種の支配形態に属しており、双方ともに次のような特 た君主制 ( inverted Monarchy ( シー批判の観点から明らかにされている。彼によれば、デモクラシーは多数者という単一の団体が支配する「逆立ちし 自体の政治的有効性が直接論じられているわけではないが、妥協を否認するラディカルの政治観の危険性が、デモクラ 他方で、メインやバジョットにとって妥協は、政治的決定の要諦をなす方法であった。メインの場合には、妥協それ うモーリーの政治的決定観を彼の妥協批判から見いだすことができる。 立」の立場を維持しながらも、討論を基盤とする共通の政治空間において政治的決定が行われなければならない、とい を行う決定作成過程は、あらゆる人々に開かれた理性の行使という営為である。このような意味で、すべての有権者が「独 ては、もちろん知的エリートの役割であって、フォロワーとしての有権者一般の役割ではない。しかし、 「正確な推論」 れまでの議論から理解できるように、こうした真理を理性的推論を通じて発見することは、モーリーらラディカルにとっ (( ( このようにメインは、単一の原理に基礎をおく、換言すれば「ア・プリオリ」な原理を出発点にするがゆえの非妥協的 だという空想……に基づいて、旧来の原理を嫌悪する多くの人々から支持されるのである。 ( らゆる事柄が彼らが統轄する政治制度の中心原理に厳密に一致させられるよう厳命を下す。そして、理想的な改革 クラシー]は、絶対的に完全な状態として設立されると非常に破壊的になるのである。……新たな支配者たちは、あ )に基礎をおくより調和のとれた政治制度にはない特殊性がある。すなわち、それら [君主制とデモ 協 ( compromise )とデモクラシーという極端な支配形態には、立憲王政 ( Kingship )やアリストクラシーという妥 君主制 ( Monarchy (( (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 122 ( ( な性格をデモクラシーに見た。ただしメインによれば、デモクラシーという単一の決定権力による原理の追求は長続き ( ( ) 」諸集団の熾烈な対立の様相を呈し、一切の対話を拒否する民衆による政治目的を欠いた非妥協的見解の irreconcilable しない。なぜなら、前節までに論じたような民衆の反科学的偏見と「党派感情」の結果、デモクラシーは「非妥協的な ( 衝突は、「ニトログリセリンの爆弾とダイナマイト」の行使に帰結するからである。 ( ( 断を読み取ることができる。そうした政治的決定への到達について、政治的妥協論の視点から、より豊かな考察を行っ メインのこのような議論からは、一元的な原理に基づくデモクラシーは政治的決定に達することができないという判 (( 0 0 0 0 彼らは、いらいらしながら演説を聞いているため、どんな冗談にでもホッとして飛びつく。イングランド、スコッ はなく常に変わってしまう。ときには興奮することもあるが、ほとんどの場合活気がなく、半分はくたびれている。 ち、彼らは雑多な集団である。ときには大勢であったり、ときには少数であったりして、一時間ほどの間も一定で 断や不屈の意志が必要なのかに思いをいたすなら、現実の彼らとのギャップに、驚きが絶えないであろう。すなわ らないかに思いをいたすなら、さらには、この帝国の支配者には、どれほど広範な情報や、どれほどの卓越した判 構成要素を持っており、どれほど頻繁に心配事が変化し、政策を練るにもどれほど歴史的要因を考慮しなければな や利害、容貌や言語において異なっている。もし、我々が、イギリスとはどのような帝国であり、どれほど多様な )による支配である。そこ [庶民院]には、イギリス中から集められた六五八名の人間がいる。彼らは、本性 meeting は感じない。しかし、あらゆる奇妙な支配形態の中で、事実もっとも奇妙な支配形態とは、公衆の集会 ( a public 0 実 際、 我 々 は、 そ の よ う に [ 庶 民 院 に よ っ て ]支 配 さ れ る こ と に 慣 れ き っ て い る た め、 そ れ が 奇 妙 で あ る な ど と もなく、庶民院という「雑多な集団」が政治的決定を行えること自体が「奇妙なこと」だと考えざるをえない。 ているのがバジョットである。別のところで論じたように、バジョットにとっては、国家という巨大な集団は言うまで (( ( ( トランド、アイルランド、さらにはアジアやポリネシアやアメリカ大陸の大部分から構成されるイギリス帝国を支 配しているのは、このような人々なのである。 123 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 (( (( このような無規律な集団に結束をもたらすのが政党なのであるが、政党が「永続的に機能する」ためには、政治家個々 人が、民衆や黒幕といった専制的な決定者や「融通のきかない政治的信条」から「独 立 」して い ること が 不可欠で あ ) 」 practicality る。バジョットによれば、こうした信条は、 「党員に押しつけられ、常識ではありえないような質の低い結論 ( impossible )に達する」 。なぜなら、そのような信条は、多様な政治主体の存在を前提にして、 「実現可能性 ( conclusions をにらみながらつくり出されるものではないからである。その「構成要素」には、熟練労働者特有の見解も、また未熟 練労働者という非合理的要素も数え上げられなければならない。このような意味で、バジョットにとって考慮に入れる べき多様性は、理性的討論の中に集約される性質のものに限られない。このように彼は、政治的決定過程に含めるべき 要素の共約不可能性を強く意識していたがゆえに、「妥協」によってのみ結論を導き出すことが可能だと考えた。すな ) 」構成要素間の深い断絶ならびに、そうした意味における他者 わち、「独立」した政治主体が、「雑多な ( miscellaneous ) 」あるいは「実生活 ( real life ) 」と接 の厳格な他者性を前提に結論への到達をめざすことによってのみ、「現実 ( reality ( ( 続した「よく練られた理屈に合わない中庸の方策」あるいは「中道策」としての「妥協」が可能となり、単なる弥縫策 ) 」的視点に立つ包括性を有する政治的決定にたどり着くことができるのである。 とは異なる「経営 ( management ( た。むしろ「討論による政治」としての代議政治は、イギリスの政治的成功の要に位置づけられる。この点をふまえる ( ただし、妥協的方策を重視しながらも、バジョットは政治的決定過程における「討論」を不要なものとは見なさなかっ (( ( ( 全国一律の選挙資格に基づく選挙制度ではむしろ、選挙の過程で多数派の政治的利益のみが選抜され多様な利益が庶民 前には実際に行われていた、選挙区ごとに選挙権保持の資格が異なる多様な選挙制度の復活が必要となる。なぜなら、 民院の議題に採り上げる機能である。バジョットの判断では、この機能の確保には、第一次選挙法改正 (一八三二年)以 ) 」を掲げる。これは、「国民の全階級の感情、利益、意見、偏見、願望」を庶 として「表出機能 ( an expressive function 治支配者層による利益の独占を意味するものとは捉えなかったということである。バジョットは、庶民院の重要な機能 ならば、政治的決定は討論能力を有する政治エリートの専権事項となるが、重要なことは、バジョットがこのことを政 (( 院の議題から外れてしまうからである。比例代表制に対する彼の評価については、前節に示した通りである。このよう (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 124 にバジョットは、労働者階級の利益も含めていくつもの多種多様な利益を取り込んでこそ、十全な政治的決定に到達で きるのであり、そのためにもそうした諸要素を理解、受容し、議論形式に通訳して討論を行うことのできる政治的リー ダーに固有の役割が認められなければならないと考えた。 「妥協」による政治についてのこれまでの議論から、ヴィクトリア時代後期においては、二つの対立する代議政治像 ( ( がデモクラシーの当否をめぐる論争の中でせめぎ合っていたことが看取できる。J・バロウやH・S・ジョンズは、ヴィ ) 」の価値の決定的な重要性を強調しているが、本節の最後にこの概 クトリア時代の政治思想における「多様性 ( variety ( るのである。政治とは、このような意味で非合理性をも内包した多様な、バジョットの言葉を使えば「雑多な」政治主 体は対話空間のような共通のアリーナを持たない。つまり、多様な存在は、各々がそのまま共約不可能な状態で存在す 怠惰であり不誠実として排除されなければならない。他方、メインやバジョットらウィッグにおいては、多様な政治主 能であり、そうであるからこそ、そうした共約と討論という理性の行使を放棄する「妥協」的方策は、知的・政治的な ると言える。つまり、どのような政治的立場であっても、多様な政治主体のすべての立場は合理的な議論形式に共約可 いくべきだとラディカルは考える。そうした意味で、彼らが想定している政治空間は、理性を使用した討論の空間であ ( でに検討したモーリーの妥協批判に見られるように、政治主体の多様性は、討論を通じて「真理」へ向けて収斂させて ) 」への到達だと論じているように、またこれま 大限に駆使することにより発見される「より優れた真理 ( a better truth 作で政治における多様性の価値を説いたJ・S・ミルが『自由論』において、「討論」の効用とは、「人間の理性」を最 念に着目して、あるべき政治的決定方法に関するラディカルとウィッグ双方の議論を整理したい。たとえば、様々な著 (( 体間における決定形成の場であるがゆえに、「妥協」を通じてのみ政治的対立は解消へと向かい政治的決定が可能とな るのだと彼らは考えたのである。 125 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 (( 五 むすび ──改革と妥協、あるいは政治の目的 「妥協」をめぐって展開されたラディカルとウィッグの政治的思考の相違は、多数の民衆を政治支配の対象に組み込 まざるをえなくなったヴィクトリア時代後期において、政治的決定によって何を行おうとするのか、という問題に関す る知識人たちの回答の相違に帰着するように思われる。最後に、政治的決定によってめざされる現状の変更、 すなわち「改 革」という観点から全体の議論を考察したい。 政治的妥協を正面から否定したJ・モーリーにおける、めざすべき政治的方向性とは、政治的「真理」の発見とその 真理へと向けられた改革であり、彼によればそれこそが「進歩」である。そうした真理の発見は、これまでにも述べた ように、知的エリートを通じて行われる。このエリートは、「環境か偶然によって優れた洞察力を持った」「一人の人間 )だけによって、自らの欲求を明確化できない人々の欲求を か小さな集団」であり、彼らは「ただ明快な言葉 ( speech ) 」であ 明らかにする」。このような発見は、真理の発見であり、「ベイコン曰く、真理は時間の娘 ( the daughter of Time ( ( ) 」となる。このように、モーリーにとって政治改革とは、理性の使用によっ るがゆえに必然的に民衆の「到達点 ( goal てすべての民衆に自ずから認識されることとなる真理への到達を目標にすえ進められるべき営為である。既存の体制に の「改革そのものを喜ぶ群衆」を前に、政治家たちは改革のチキン・ゲームに乗り出す。なぜなら、民衆統治は「高度 的なるものに飛びつく民衆が主権を握る「デモクラシー」とは、改革が永続的に繰り返される政治体制を意味する。こ ) 」である。つまり、「科学」それ自体は忌避しつつも「科学的雰囲気 ( the scientific air ) 」の中で進歩 であり「熱狂 ( zeal ) 」 果に陥る、とメインは論じる。その際に、この衝突の推進力となるのは、政治的変革に対する民衆の「期待 ( expectation これに対し、デモクラシーは政治目的を欠いた民衆の党派心の衝突という、「真理」の追求とはおよそかけ離れた結 真理の発見者であるモーリーらラディカルの知識人のリーダーシップの潜在的な支持者なのである。 おける既得権益を持たないからこそ、民衆は「真理」を受け入れることができる。このような意味で、デモクラシーは、 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 126 に衆目の興味を引く」ものであるため、「公的討論の絶え間ない噴出、おびただしい数の政治的イベントと大勢の政治 ) 関係者たちが織りなす世界が壮観を呈し」、政治家たちは他の政党を出し抜くために、演説において「立法のお話 ( tale の長さ」を競うようになるからである。メインは、「人間の肉体はある高さの熱まで耐えることができるから、どのよ うな熱にも耐えることができると論じることはできないのと同様、昔いくつかの改革が成功したから、[今後も]あらゆ ( ( る改革が成功すると論じることもできない」と述べ、政治的民主化の中で改革の内容を不問に付し、ただ改革のみを追 い求める傾向が進む当時の政治状況を深く憂慮している。 バジョットも同様の観点から、「民衆統治」に警告を発している。バジョットによれば、当時の朝刊では議会の単調 で低調な様子が伝えられ、国民はそうした議会に不満を持っている。なぜそうした議会に人々は不満を抱くのか。その 原因は、民衆統治が「政治的業務の道具」であることを忘れ、「知的な興奮」ばかりを求める国民の政治観にある。むしろ、 世人が政治に期待しているような知性を高度に働かさなければならない機会とは、国家の危機を表すものであって、平 時においては「輝かしい大胆不敵 [な行為]の余地などない」。議会の退屈な様子に不平を鳴らす当時の世評を批判して、 )などではない」と断言した。 バジョットは「『議会』は偉大ではあるが、心躍るようなもの ( a cheerful thing このようにバジョットやメインは、民衆統治あるいはデモクラシーが、政治に劇的な変化や状況の好転を期待する傾 向があることを指摘し、その結果として政治的方向性の欠如した無目的な政治改革が進む当時の政治状況を批判した。 彼らによれば、こうした改革熱は、「ア・プリオリ」な単一原理からの演繹を通じて、政治社会は無限の改善が可能だと ) 」あるいは「現実 ( fact ) 」の多様であり、複雑な様相を無視している。現実世界のこのような性質を直視するな reality 想定するラディカルたちの紙上の空論に基づくものである。そうした議論は、政治が取り扱わなければならない「事実 ( ら、それら多様な要素をまとめ上げるという妥協的行為を通じて政治秩序をともかくも維持することの難しさを強く認 ) 」 識せざるをえない。政治とは、実は遅々とした改革や国民が知らないような腐敗の一掃といった地味な「業務( business )は、その卓越性、すなわち成功を意味する試金石」なのである。 であって、むしろ代議政治が「鈍重であること ( dullness ) 」という政治観を堅持し バジョットはこのように述べて、「憲政とはそうした [鈍重な]ものだ ( such is the Constitution 127 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 (( ( ど誰がなっても同じ」といった類の街頭インタビューの意見に端的に表れている我が国の政治不信は、このような政治 的役割意識の喪失に由来する問題だと言うこともできる。役割という区別を立てるからこそ、議会や政治家、有権者と しての国民それぞれが果たすべき責務や責任感が意識されることになり、それらの政治的な機能回復につながるのでは ないか。さらには、多種多様な利害や立場の超えがたい区別を前提にした、より妥当な政治的決定の導出が可能になる のではないか。このような意味で、「知識人と民衆」問題に直面して提出されたリベラルの知識人たち、特にバジョッ トやメインのデモクラシー批判や政治的決定をめぐる議論は、デモクラシーが当然視されるようになって久しい現代の 回研究大会「シンポジウムⅢ 討議(熟議)デモクラシーと議会」(於:國學院大學)の報告原稿(「ヴィ 我々には認識が困難な問題に鋭い切り口を与えてくれるのである。 ※本稿は、政治思想学会第 ポジウムの司会を務められた松田宏一郎先生、討論者として筆者に対し非常に有益で刺激的なコメントをくださった早川誠先生に特に 感謝申し上げたい。また、同報告に対して貴重な質問やコメントをくださったフロアの先生方にも感謝申し上げたい。 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 128 ( なければならないと主張している。 ( (( ていないかのような状況が出現している。先進諸国のポピュリズム現象に見られるような議会の機能不全や、「議員な ( ) 」が政治的決定において万能の力を発揮して、「政治的主導力 [リーダーシップ] 」には「なんらの余地も」残され populi ) 」としての「民の声 ( Vox リーらの見通しとは異なり、シュンペーターが八〇年前に論じているように、「神の声 ( Vox dei 二〇世紀前半にかけて生じた、言わば「妥協」原理から「多数決」原理への政治的決定のパラダイム転換の結果、モー て基本的人権としての参政権保持が一様に当然視されるようになる中で、急速に失われてしまった。一九世紀後半から プの政治的機能の相違、およびそれに基づくこれら二者の役割分担の認識は、二〇世紀に議会制デモクラシーが成立し 本稿で検討したような、ヴィクトリア時代のリベラルたちが自明の前提としていたリーダーシップとフォロワーシッ (( クトリア時代中葉における民衆・議会・政治的リーダーシップ──バジョットを中心に」)を全面的に書き改めたものである。同シン 19 (1) C. Kent, Brains and Numbers: Elitism, Comtism, and Democracy in Mid-Victorian England, University of Toronto Press, 1978, pp. xi, 20, 106, 127. (2) H. S. Jones, Victorian Political Thought, Macmillan, 2000, pp. 63-73. (3)H・S・ジョンズの整理にしたがい、ラディカルが人間本性や理性を政治的論証の出発点におき、そこからの演繹によってデ モクラシーの実現へ向けた改革の方向性を示す議論形式を採用し、これに対してウィッグは国制の歴史性の強調や理性的推論に対 Ibid., する懐疑からデモクラシーを批判するという立場を採ってきたとするなら、本稿全体の議論が明らかにしているように、J・S・ ミルとJ・モーリーらはラディカルに、メインとバジョットはウィッグの系列に属する知識人に位置づけることができる。 ch. 1, esp. pp. 11-3. (4) J. W. Burrow, Whigs and Liberals: Continuity and Change in English Political Thought, Clarendon Press, 1988, ch. 4, esp. pp. 88-100. (7) F. Harrison, Order and Progress, Longmans, Green and Co., 1875, pp. 150-1. C. Kent, Brains and Numbers, ch. 9, esp. pp. 137-9. ‘Grammers of Electoral Violence in Nineteenth-Century England and Ireland’, English Historical Review, Vol. 109, No. 432, 1994, 拙著『「ビジネス・ジェントルマン」の政治学──W・バジョットとヴィクトリア時代の代議政治──』風行社、二〇 pp. 597-620. 一一年、一五四─五頁。 ) H. C, G. Matthew, ‘Rhetoric and Politics in Great Britain, 1860-1950’, Politics and Social Change in Modern Britain: Essays Presented to A. F. Thompson, ed. by P. J. Waller, the Harvester Press, St Martin's Press, 1987, pp. 36-9. ) J. S. Mill, Considerations on Representative Government, Collected Works of John Stuart Mill, Vol. XIX, ed. by J. M. Robinson, 129 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 (5) J. Hamburger, Macaulay and the Whig Tradition, The University of Chicago Press, 1976, ch. 6. (6)シュムペーター/中山伊知郎・東畑精一訳『資本主義・社会主義・民主主義[新装版]』東洋経済新報社、一九九五年[ 1942 ]、 第二一章。 (8) (9) J. Morley, ‘Sir Henry Maine on Popular Government’, The Fortnightly Review, No. ( ) , 1886, pp. 164-5. 39 New Series )当時の民衆の暴力的性格については、 D. C. Richter, Riotous Victorians, Ohio University Press, 1981, pp. 63-71; K. T. Hoppen, ( ( ( 10 11 12 ( ( [ 1859 ] , p. 508. 水田洋訳『代議制統治論』岩波文庫、一九九七年、二九九─三〇〇頁。 University of Toronto Press, 1977 ) F. Harrison, Order and Progress, p. 151. 労働者階級の道徳性が「政治権力」を「機能させるものではない」という見解からも、 ハリソンが投票の資質と支配の資質とを区別していることを看取できる。 J. S. Mill, Considerations on Representative 権力を過剰に行使したい誘惑に駆られるという一般的な法則のために、代議体が行政の細目にますます干渉する傾向が強い。こ のことは、将来代議政治がさらされるであろう実際的な危険のうちの一つである」。 水田訳一三一頁。第二次選挙法改正に関わる論争では、上層労働者階級に選挙権を付与すべきだという見解が、 Government, p. 428. バジョットも含め大勢を占めた。その際特に強調されたのは、この階級が中流階級と同様に、自助、節制等の生活倫理を身につけ たリスペクタブルな人びとだと評価できるからというものであった。本稿の議論から、選挙権付与の要件としてのリスペクタブル ] , pp. 1978 には、有権者の立場を自覚しその権限を超えないという意味でのフォロワーシップの姿勢の保持という基準もあったと考えること ができる。 ) V. Hart, Distrust and Democracy: Political Distrust in Britain and America, Cambridge University Press, 2010 [ 171-2, 81-2. ) Ibid., p. 174. )バジョットのこうした見解には、第二次改正後にも変化は見られない。「新たな有権者層は、旧来の有権者層よりも、それ[政 ( ) 水田訳二九八─九頁。 J. S. Mill, Considerations on Representative Government, p. 508. ( ) W. Bagehot, The English Constitution, The Collected Works of Walter Bagehot, No. V, ed. by N. St John-Stevas, The Economist, [ 1865-7 ] , p. 369. 小松春雄訳「イギリス憲政論」、『バジョット ラスキ マッキーヴァー(世界の名著六〇)』中央公論社、一九 1974 七〇年、二七一頁。 ( ( ( ) J. Morley, ‘Sir Henry Maine on Popular Government’, pp. 163-4. ( ) J. S. Mill, Considerations on Representative Government, p. 406. 水田訳八四頁。J・S・ミルの場合には、有権者ではなく、 議 会 に よ る 行 政 へ の 不 適 切 な 介 入 と い う 点 か ら、 こ の 問 題 が 論 じ ら れ て い る。「 実 際、 最 高 の 権 力 を 持 つ 人 間 な ら 誰 で も、 そ の 13 15 14 16 19 18 17 の本質である」。 小松訳三〇七頁。バジョットからすれば、そもそも君主に宗教的 W. Bagehot, The English Constitution, p. 170. や地位]を漠とした象徴にして共通の飾り物にしている上流社会に対して同じように信従するであろうか。これが[目下の]問題 治支配者層による指導]を必要としている。彼らがその指導に服するであろうか、彼らは、富や地位に対して、そして、それら[富 20 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 130 ( ( な神秘性を見いだした結果として信従心を抱き、そのような存在としての君主のフォロワーであった労働者階級が、実務的な庶民 院を運営する支配階級に従うか否かという問題について否定的な結論を下さざるをえなかった。下層中流階級と上層労働者階級の [ 1885 ] , p. 38. H. Maine, Popular Government: Four Essays, John Murray, 1918 ) , Ibid., pp. 37-8. Cf. H. Labouchere, ‘A Democrat on the Coming Democracy’, The Fortnightly Review, No. ( 33 New Series 信従心と下層労働者階級の信従心それぞれの特徴については、拙著『「ビジネス・ジェントルマン」の政治学』第四─五章参照。 ) ) 1883, pp. 380-1. ( ) 小松訳二七八─八〇頁。 W. Bagehot, The English Constitution, pp. 378-80. ( ) Ibid., pp. 381-2, 二八二─三頁。第一次選挙法改正時の首相であったC・グレイの息子でウィッグの大物政治家H・G・グレイ(一 八〇二─九四年)も「善き統治の第一条件」として「時の経過がつくり出す臣民の崇敬( reverence )と信頼」に言及している。 H. ( この点について、 G. Grey, Parliamentary Government Considered with Reference to A Reform of Parliament, 1858, London, p. 123. P・スミスも、理性ではなく感情や想像力を重視するウィッグの特徴を挙げ、J・ラッセル(一七九二─一八七八年)が「王室に 対する崇敬( reverence )」や「古来からの貴族に対して向けられる敬意( respect )」の統治上の有効性を論じたことを指摘している。 [ 1867 ] , Introduction, p. xx. W. Bagehot, The English Constitution, ed. by P. Smith, Cambridge University Press, 2001 ) J. P. Von Arx, Progress and Pessimism: Religion, Politics, and History in Late Nineteenth Century Britain, Harvard University Press, 1985, pp. 138-9. ) J. Vernon, Politics and The People: A Study in English Political Culture c. 1815-1867, Cambridge University Press, 2009 Radicals and Collective Identities in the British Isles 1865-1931, ed. by idem, Cambridge University Press, 1996, p. 41. ) idem, Liberty, Retrenchment and Reform: Popular Liberalism in the Age of Gladstone, 1860-1880, Cambridge University ‘Liberalism and Direct Democracy: John Stuart Mill and the Model of Ancient Athens’, Citizenship and Community: Liberals, E. Biagini, British Democracy and Irish Nationalism 1876-1906, Cambridge University Press, 2007, pp. 172, 177-9, 184-90; idem, ] , pp. 174-6. 一八世紀末までのイギリスにおける政党観を検討した文献として次を参照。岸本広司・松園伸「政党」佐藤正志・ 1993 添谷育志編『政治概念のコンテクスト──近代イギリス政治思想史研究──』早稲田大学出版部、一九九九年。 ) [ ( ( ( Press, 1992, pp. 330-5; idem, Democracy and Irish Nationalism, p. 216; K. T. Hoppen, The Mid-Victorian Generation, 1846-1886, Clarendon Press, 1998, pp. 259-60. 131 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 22 21 24 23 25 26 27 28 ( ( ( ( ( ) ) ) ) H. Reeve, ‘Popular Government’, The Edinburgh Review, Vol. 163, 1886, pp. 272-3. R・マックウィリアム/松塚俊三訳『一九世紀イギリスの民衆と政治文化──ホ J. Vernon, Politics and The People, pp. 172-7. E. Biagini, Liberty, Retrenchment and Reform, pp. 334-5. Ibid., pp. 722, 40. ) , 1878, p. 721. J. Chamberlain, ‘The Caucus’, The Fortnightly Review, No. ( 24 New Series ) ブズボーム・トムスン・修正主義をこえて』昭和堂、二〇〇四年[ 1998 ]、八一─五頁。同/小島崇訳「民衆政治における公共圏 ──新聞・集会・パブが形作る労働者階級の公共圏──」大野誠編『近代イギリスと公共圏』昭和堂、二〇〇九年、二六八─七〇頁。 ) ) ) ) J. Morley, On Compromise, pp. 45-6. G. Himmerhalb, Lord Acton, Routledge and Kegan Paul, 1952, p. 209. Ibid., p. 152. J. P. Von Arx, Progress and Pessimism, p. 158. Ibid., p. 6. J. S. Mill, ‘Recent Writers on Reform’, Collected Works of John Stuart Mill, Vol. XIX, ed. by J. M. Robinson, University of ) ) 34 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ) ) ) ) ) Ibid., pp. 29-32. ) C. Kent, Brains and Numbers, pp. 127-8. [ 1874 ] , p. 45. J. Morley, On Compromise, Watts and Co., 1933 ) Ibid., p. 298. 小松訳一九一頁。 ) H. Maine, Popular Government, p. 101. 小松訳一八二─三頁。 Ibid., pp. 297-8. 小松訳一九〇─一頁。 Ibid., pp. 303-4. [ ] Toronto Press, 1977 1859 , p. 362. ( ) J. S. Mill, Considerations on Representative Government, p. 456. 水田訳八八─九頁。 ( ) J. P. Von Arx, Progress and Pessimism, p. 143. 小松訳一七九─八〇頁。 W. Bagehot, The English Constitution, pp. 295-6. ( 33 32 31 30 29 49 48 47 46 45 44 43 42 41 40 39 38 37 36 35 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 132 ( ) H. Maine, Popular Government, p. 59. と’ 表現している。 H. G. Grey, Parliamentary Government, pp. 68, 140-2. democracy ) Ibid., pp. 24-5. )拙著『「ビジネス・ジェントルマン」の政治学』一一七─三一頁。同書では、多様な意見や諸事実を一つの結論へとまとめ上げ シーの「均衡( )」の確保による政治的安定が強調される傾向が強いという点で、ウィッグの伝統的な見解を踏襲してい balance ることを看取できる。たとえば彼は、デモクラシーに「均衡を欠いた( unbalanced )」という形容詞を付加して、 ‘an unbalanced ( ) Ibid., p. 66. ( ) Ibid., pp. 172-7. 先にとり上げたグレイも同様に、デモクラシーに非妥協的で暴力的な性格を読み取り、諸政党の「妥協」によ る選挙法改正の必要を説いている。ただし、バジョットの妥協観と比較するなら、グレイの場合には、特に上流階級とデモクラ ( ( ( ( ( る政治家個人の政治的能力について検討したが、本稿では、多様な見解を持った諸集団間で一つの結論へと到達することを可能に 小松訳一七六─七頁。 W. Bagehot, The English Constitution, p. 293. する条件に焦点を合わせる。 ) ) 一八〇頁。 idem, ‘Mr. Macauley’, The Collected Works of Walter Bagehot, No. I, ed. by N. St John-Stevas, The Ibid., p. 296. [ 1859 ] , p. 412. Economist, 1965 ) idem, Physics and Politics, The Collected Works of Walter Bagehot, No. VII, ed. by N. St John-Stevas, The Economist, 1974 [ 1867-72 ] , ch. 5, esp. p. 126. 大道安次郎訳『自然科学と政治学』岩崎書店、一九四八年、二三三頁。 ( ) [ 1859 ] , ‘ idem, Parliamentary Reform’, The Collected Works of Walter Bagehot, No. VI, ed. by N. St John-Stevas, The Economist, 1974 選挙制度の多様性に関するウィッグの見解として、次の文献も参照。 H. G. Grey, Parliamentary Government, pp. pp. 194-6, 220-1. ] , pp. 23-4. J・S・ミル/ 1859 代議政治制度の役割を、政治的決定と民意の「つながり」だけではなく、それらの「切断」の機能にも求める非常に示 59-60, 124. 唆に富む文献として、次を参照。早川誠「代議制民主主義におけるつながりと切断」宇野重規編『政治の発見④ つながる──社 会的紐帯と政治学』風行社、二〇一〇年。 ( ) H. S. Jones, Victorian Political Thought, passim; J. W. Burrow, Whigs and Liberals, ch. 5. ) J. S. Mill, On Liberty and Other Writings, ed. by S. Collini, Cambridge University Press, 1989 [ 山岡洋一訳『自由論』光文社、二〇〇六年、五〇─四頁。 ( 133 遠山隆淑【妥協をめぐる政治思想】 52 51 50 54 53 56 55 57 58 60 59 ) ) W. Bagehot, ‘Dull Government’, The Collected Works of Walter Bagehot, No. VI, ed. by N. St John-Stevas, The Economist, 1974 H. Maine, Popular Government, pp. 129-30, 46-9. J. Morley, On Compromise, pp. 105-8. Cf. W. Bagehot, ( ( ) ( 63 62 61 ( 小松訳三一二頁。 The English Constitution, p. 173. [ 1856 ] , pp. 81-5. )シュムペーター/中山・東畑訳『資本主義・社会主義・民主主義』第二一章、四二四頁、第二二章、四四二頁。 64 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 134 熟議民主主義は自由民主主義的か? 「熟議システム」概念の射程 ──田村哲樹 ● 序論 遅くとも一九九〇年代以降の民主主義理論は、議会制/代表制民主主義をその主要な制度的特徴の一つとする自由民 (1) 」していくかという文脈の下にあった 主主義を受け容れた上で、それをどのように改革ないし「徹底化 (ラディカル化) (2) 「歴史の終焉」とともに「勝利」したはずの現実の自由民主主義が、様々 ように思われる。しかし、二〇〇〇年代には、 な困難に直面していることも指摘されるようになっている。そうだとすれば、民主主義理論もまた、その自由民主主義 との関係について再考する必要があるのではないだろうか。 )について、その自由民主主義との関係を このような問題関心の下に、本稿は、熟議民主主義 ( deliberative democracy 再考する。熟議民主主義と自由民主主義との関係については、相反する見解が存在する。一方で、熟議民主主義は、自 (3) 由民主主義批判の民主主義論であると言われる。それは、自由民主主義が、典型的には多数決や選挙を通じた選好の集 計を特徴とし、市民一人一人ではなく議会における代表を中心とした民主主義であることを批判してきた。他方で、熟 議民主主義は、自由民主主義を前提としているとも言われてきた。とりわけそれは、自由民主主義の制度である議会制 /代表制民主主義を否定するものではないと言われてきた。熟議民主主義論が注目する公共圏や「ミニ・パブリックス」 135 ( (8) 熟議民主主義は代表制民主主義を前提とするのかどうかについて、そして第二に、熟議民主主義は公/私区分を前提と するのかどうかについて検討する。その結果として、本稿は、熟議民主主義は自由民主主義を超える射程を持つと主張 するのである。 以下では、熟議民主主義研究におけるいくつかの代表的なアイデアを取り上げ、それらと自由民主主義との関係を考 、「ミニ・パブリックス」論 (二) 、 察する。取り上げられるアイデアは、ユルゲン・ハーバーマスの「複線モデル」(一) そして「熟議システム」論 (三、四)である。いずれも熟議民主主義を議会における熟議に限定しないで捉えようとする 点において、すなわち、熟議民主主義をより熟議「民主主義」的に捉えようとする点において共通している。しかし、 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 136 (4) は、議会制を否定するものとしてではなく、補完的なものとして理解されるべきなのである。 本稿が扱うのは、この問題である。すなわち、熟議民主主義は自由民主主義の枠内にとどまるのか、それとも、前者 (5) は後者を超える射程を持っていると考えるべきなのか、という問題である。そして、この問題に対する本稿の主張は、 熟議民主主義は自由民主主義を超える射程を持つ、というものである。すなわち、本稿は、自由民主主義の枠内で熟議 (6) 民主主義を理論的・経験的に考えるのではなく、むしろ、熟議民主主義の視座から、自由民主主義をあり得る「熟議シ ステム」の一つとして評価するべきなのではないかと考えるのである。 (7) ここで、本稿における「自由民主主義」の内容について述べておきたい。本稿で自由民主主義の特徴として取り上げ (9) るのは、次の二点である。一つは、政治勢力 (政党)間の競争とそれを制度的に支える代表制民主主義である。政党間 ( の競争という発想はもともと民主主義的ではなく自由主義に由来する発想であったが、平等な選挙権の保障を通じて「民 主化」された。あるいは、民主主義の原理が政党間競争という形で「自由主義化」された、と言ってもよい。もう一つは、 ( 的領域」の区別を前提としていたことを意味する。 ( る場合であっても、女性をめぐる問題は語られてこなかった。それは、民主主義論もまた、自由主義の「公的領域」と「私 公/私の区分である。キャロル・ペイトマンが指摘するように、代表制民主主義はもちろん、参加民主主義が論じられ (( 本稿では、以上の二つの自由民主主義の特徴との関係で、熟議民主主義の射程を考察する。すなわち、本稿は、第一に、 (( これらがどの程度自由民主主義を超える射程を有しているのかについては、やや立ち入った検討が必要である。たとえ ば、ミニ・パブリックスの事例の中には、必ずしも自由民主主義体制におけるそれではないものも含まれている。その ようなミニ・パブリックスについての研究の展開を、自由民主主義における熟議民主主義の構想である複線モデルの制 度的具体化として理解することは果たして適切であろうか。また、(後に述べるように)熟議システムの概念は、ミニ・パ ( ( ブリックス研究の不十分な点を乗り越えるために提起されてきた。しかし、この概念の射程が自由民主主義を超えると ころまで及ぶのかという論点は、ジョン・S・ドライゼクの研究を除いて取り上げられていない。そのため、多くの論 者において、熟議システム論が「複線モデル」の延長線上にある議論なのか、それとも後者を明確に超える理論的特徴 を持つのかは、なおも不明確である。これに対して本稿は、ドライゼクと同様に、熟議システム概念は自由民主主義を 超える射程を持つと論じる。しかし、同時に本稿は、ドライゼクの議論もまた、別の観点から見れば、依然として自由 民主主義の枠内に止まっていることを指摘する。すなわち、彼も、自由民主主義における「私的領域」、すなわち家族 /親密圏の領域を熟議システムの構成要素として考慮することができていないのである。 一 「複線モデル」と自由民主主義 よく知られているように、ハーバーマスの「複線モデル」の特徴は、議会における「決定志向の審議」または「意思形成(意 ( ( 」と、公共圏における「非公式の意見形成」とを機能的に区別した上で、両者の連関の必要性を規範的に論じる 思決定) ところにある。本節では、序論で述べた自由民主主義の諸特徴に照らした場合に、この複線モデルがどの程度自由民主 い。ただし、問題は、政党間競争を経験主義的に根拠づけようとする民主主義論によっては、競争の結果として形成さ れる多数派の決定が少数派によって妥当なものとして受け容れられるための正統性の規範的基準を提供することができ 137 田村哲樹【熟議民主主義は自由民主主義的か?】 (( まず、政党間競争と代表制民主主義についてである。複線モデルは、自由民主主義のこの特徴を否定するものではな 主義的であるかを考察する。 (( ( ( ( ( ( 義の外部における民主主義の独自の意義 (「意見形成」)を析出することで徹底化していこうとする試みだと言える。以前 の『コミュニケーション的行為の理論』における、国家行政と資本主義経済とから成る「システム」による「生活世界 (( ( (( 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 によって決まるのではなく、変化したコミュニケーション条件によって決まるのである。たしかに、この条件はそ 0 ミュニケーションのためにも維持されつづける。私的領域と公共圏の相違は、主題や関係にかんする確定した命題 0 日常実践に行き渡っている了解志向は、複雑に分岐した公共圏において隔たりを越えて行き交う 他者どうしのコ 0 間的構造が拡大され抽象化されるが、しかし破壊されることはないような形でつながっている。そのようにして、 ならず、隣人・職場の同僚・知人などの緩やかな人間関係にも──つながっている。つまり、単純な相互行為の空 公共圏のコミュニケーションの経路は、私的な生活領域に──つまり家族・友人関係といった親密な人間関係のみ この点に関してハーバーマスは明確に、「私的領域」と公共圏とのコミュニケーションはつながっていると述べる。 素に含めているかどうかが問題になる。 いるのであろうか。具体的には、ハーバーマスが、「私的領域」としての家族や親密圏までをも、複線モデルの構成要 次に、本稿で注目する自由民主主義の第二の特徴である公/私区分は、複線モデルにおいて、どのように理解されて 線モデルがあくまでも自由民主主義の枠内にあることをも意味している。 ない改革の可能性があることを理論的に表現したものであることがより明らかになる。しかし、同時にこのことは、複 ( の植民地化」の議論と比較するならば、複線モデルが、自由民主主義の枠内においても、「生活世界の防衛」に止まら (( )に相違がある。一方では親密性を保証し、他方では公開性を保証する。だがそれは の接近可能性 ( Zugänglichkeit 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 138 ( ない、ということである。したがって、議会における「意思形成」は、正統性を獲得するために、公共圏における「意 ( (( このようなハーバーマスの複線モデルは、自由民主主義を前提としつつ、その「民主主義」の側面を、代表制民主主 ンの流れによって制御されていなければならない」のである。 ( 見形成」と接続されなければならない。すなわち、 「拘束力ある決定は、これが正統的であるためには、コミュニケーショ (( ( ( 私的領域と公共圏とを分断するのではなく、一方の領域から他方の領域への主題の流れだけを調節するのである。 なぜなら公共圏は、生活史を反映する社会的問題状況の私的処理からの刺激によって作用するからである。 すなわち、 「私的領域」は、公共圏における「意見形成」および「意思形成 (決定) 」のための討議 (熟議)へと「問題」 を提供するという形でつながっている。「私的領域」と公共圏との相違は、コミュニケーションの条件が親密性を保障 するか、それとも公開性を保障するかの違いだけである。 ここから言えるのは、次のようなことである。第一に、ハーバーマスの複線モデルにおいて、「私的領域」はその構 成要素から除外されてはいない、ということである。この点で、このモデルは自由民主主義の公/私区分を部分的に乗 り越えている、ということができる。ハーバーマスが「私的領域」をその熟議民主主義の構想から排除していないこと は、後に述べる熟議システム論の評価にとっても、重要なポイントである。しかし、第二に、このモデルにおいて、 「私 的領域」における熟議民主主義がどの程度真剣に考慮されているのかは、なお不明確である。確かに、ハーバーマスは、 「私的領域」を公共的に討議 (熟議)されるべき「問題」の発生する重要な場所と見なしている。また、彼は、法パラダ ( ( イムの再考にあたって、フェミニズムからの問題提起を真剣に受け止めようともしている。そこで彼は、フェミニズム が提起した問題に関する「公共的な討議」の必要性も主張している。しかしそれでもなお、ハーバーマスが「私的領域」 彼は「私的領域」におけるコミュニケーションを公共圏におけるコミュニケーションと区別するために、最終的には前 者を「親密性の保証」によって特徴づけている。しかし、「私的領域」において熟議が行われる場合には、「親密性」は その条件ではなく、熟議の対象であろう。すなわち、 「親密性」の下に自明とされてきた行為や発言を問い直すところに、 「私的領域」における熟議の意義は存在するのである。以上を踏まえると、複線モデルは、公/私区分を乗り越える射 程を有しているにもかかわらず、その含意は十分に展開するまでには至っていない、ということができる。 139 田村哲樹【熟議民主主義は自由民主主義的か?】 (( における討議 (熟議)をどのようなものとして考えているのかは、明確ではない。しかも、上記の引用からもわかる通り、 (( 二 ミニ・パブリックスと自由民主主義 ( ( 「ミニ・パブリックス」とは、自薦 (自己選出)または無作為抽出によって選ばれた比較的少人数の市民によって構成 ( ( される、熟議のためのフォーラムの総称である。公共圏に形成される具体的な熟議の制度に関心を持つため、ミニ・パ ( ( ブリックス研究の興隆は、熟議民主主義論における「制度的転回」を主導したとも言われる。また、ミニ・パブリック ( ( ス研究は、政治理論としての熟議民主主義論と経験的・実証的研究との共同作業の進展に寄与した。その具体的な諸形 ( 解が分かれる。本稿の関心に照らして重要なことは、次のことである。すなわち、ミニ・パブリックスを複線モデルと ( ることを意味し得るからである。もっとも、この違いを肯定的に評価するか、否定的に評価するかは、論者によって見 て熟議を捉えようとするのに対して、ミニ・パブリックス論は、特定の個別のフォーラムに熟議の場を限定して理解す 」までを含め いを主張する見解もあり得る。なぜなら、複線モデルが「私的領域」から国家における「意思形成 (決定) ルの構想をさらに発展させ精緻化するものということになる。しかし他方で、ミニ・パブリックスと複線モデルとの違 形成」の具体的な制度像を提供する、という理解があり得る。この見解によれば、ミニ・パブリックス論は、複線モデ 考えることから始めたい。一方で、ミニ・パブリックスは、複線モデルではなお不明確であった公共圏における「意見 ミニ・パブリックスと自由民主主義との関係を考える際に、ここでは、ミニ・パブリックスと複線モデルとの関係を クスをどのように評価することができるかという論点に焦点を絞りたい。 態についての理論的考察や具体的紹介は他の文献に譲ることとし、以下では、自由民主主義との関係で、ミニ・パブリッ (( (( (( (( ミニ・パブリックス論が自由民主主義を超える射程を持ち得ることを指摘した上で、しかし、実態としてのミニ・パブリッ その結果として、前者の射程をなおも自由民主主義の枠内にとどめてしまう可能性があるということである。以下では、 りとなり得るということである。逆に言えば、ミニ・パブリックス論を複線モデルの制度的精緻化として捉えるならば、 の違いにおいて理解することは、熟議民主主義を自由民主主義の射程を超えるものとして理解するための一つの手掛か (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 140 クスに注目するだけでは、その射程を理論的に表現することには至らないことを述べる。 自由民主主義との関係でミニ・パブリックス研究を眺めた場合に興味深いことは、 その具体的事例が先進国以外の諸国・ ( ( 諸地域においても見られることである。たとえば、しばしば言及される「参加型予算」は、ブラジルのポルト・アレグ レの事例である。あるいは、中国の地方自治体における熟議の事例も研究されている。ドライゼクあるいは篠原一が指 ( ( 0 0 0 ( 0 くことが重要である。すなわち、もしも熟議システム概念の射程をミクロ (としてのミニ・パブリックス)とマクロ (とし ただし、自由民主主義と熟議民主主義との関係を再考するという本稿の目的に照らした場合、次のことを認識してお パブリックスの比較研究が可能になる。 外的な現象としてではなく、それが異なる政体の下でどのような効果あるいは影響を持つかという観点からの、ミニ・ 作用の中で見るという指針を提示している。このような指針に依拠することで、ミニ・パブリックスを偶然的または例 ( う。この点について、既にドライゼクなどは、ミニ・パブリックスの効果や影響をよりマクロな政治システムとの相互 な政体との関係で──ただし、複線モデルのように自由民主主義を前提とはしないで──理論的に考察する試みであろ そこで必要なことは、ハーバーマスの複線モデルがそうであったように、ミニ・パブリックスをもう一度よりマクロ 射程を持つかという論点に関する理論的要素が含まれているわけではないのである。 れないからである。言い換えれば、ミニ・パブリックスという概念そのものに、熟議民主主義が自由民主主義を超える 主主義が自由民主主義を超え得ることが理論的に示されたとは言えない。それは偶然の、または例外的な出来事かもし 0 もっとも、ミニ・パブリックスが自由民主主義的ではない政体においても設計され得るという事実によって、熟議民 0 からこそ、自由民主主義的ではない政体において設計される可能性があると言うこともできるのである。 民主的な正統性や効用について疑義が唱えられることも多い。しかし、逆に言えば、そのような小規模なフォーラムだ ( も適切ではないということを示唆している。確かに、ミニ・パブリックスは小規模なフォーラムであるがゆえに、その ( 摘するように、このことは、ミニ・パブリックスを「先進自由民主主義諸国の特質」としてのみ理解することは必ずし (( ての政体)との相互作用を見るという指針のみにおいて理解するならば、自由民主主義と熟議民主主義との関係を問い直 141 田村哲樹【熟議民主主義は自由民主主義的か?】 (( (( (( すことに結びつくとは限らないということである。ミニ・パブリックスをよりマクロな次元との関係で見ることは、確 ( ( かに、熟議民主主義をミニ・パブリックスだけに還元し、それを唯一の正しい熟議の場として理解することの回避に役 ( ( 立つ。しかし、熟議システム概念のより積極的な意義は、この概念を用いることによって、マクロレベルにおいて、自 由民主主義を熟議民主主義の下位類型として理解することが可能となる点に求められるべきである。最終節で論じられ るのは、この問題である。 三 熟議システム論の射程 1概観 ( ( (( の一部分と見なされる。ここで「システム」とは、「区別・識別可能だが、ある程度相互依存している諸要素の集合体」 ( れらの全体としての相互作用を把握しようとするところにある。そこでは、個々の熟議のフォーラムは、あくまで全体 ( 熟議システム論の問題関心は、議会であれ、ミニ・パブリックスであれ、個別の熟議の制度やプロセスではなく、そ (( (( ( ( (( らしたのではないかとの批判も存在する。確かに、個別のミニ・パブリックスだけを見ていると、そこにうまく適合し ( らすような相互依存関係」が求められる。ミニ・パブリックス研究に対しては、熟議「民主主義」の側面の軽視をもた ( のことである。そこでは、諸要素間の分業とともに、「ある構成要素における変化が他の構成要素における変化をもた (( ( ( 民主主義の基準を適用することも可能になる。たとえば、マンスブリッジらは、熟議システムの三つの機能、すなわち ( れることは難しい。これに対して、熟議システムの概念を用いるならば、異なる場所やアクターに異なるタイプの熟議 ( ニ・パブリックスをその核心的な制度と見るならば、熟議民主主義論が利益アドヴォカシーや社会運動などを考慮に入 ないアクターや主張の意義を、熟議民主主義論が見落とすことにもつながりかねない。たとえば、無作為抽出方式のミ (( 「認知的機能」(事実と論理によって適切に裏付けられ、妥当な理由の実質的で有意味な考慮の結果であるような選好・意見・決定を (( (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 142 ( ( 生み出すこと) 、 「倫理的機能」(相互尊重の促進) 、および「民主的機能」(平等の観点からの包括的な政治過程の実現)について、 これら全てが熟議システムの全ての構成要素において実現される必要はないと述べている。さらに、個別に見れば必ず ( (( ( ( ( ジらの論文も例外ではない。 しかしながら、熟議システムの射程が自由民主主義の枠内に止まる必然性があるかという問題については、なお検討 ( 制下における熟議システム」を想定している。この点については、この概念についての最新の論考であるマンスブリッ ( 実は、ドライゼクが指摘するように、熟議システム論的立場を採る多くの論者の議論は、事実上、「自由民主主義体 ということである。すなわち、熟議システム論は自由民主主義を超える射程を有するのだろうか。 本稿にとっての関心は、以上のような熟議システム論を自由民主主義との関係でどのように評価することができるか、 2 自由民主主義との関係 有用な機能を遂行するかもしれないのである。 ( 当該「システム」のそれぞれの要素が完全に熟議的あるいは民主的ではなくとも、全体としての「システム」において ア──についても、「システム」全体としての熟議の質を高めるかどうかという観点から接近することが可能になる。 ( しも「熟議的」とは言えないかもしれないような諸要素──具体的には、専門家、圧力活動と抗議活動、党派的なメディ (( 解することができると主張する。第一に、自由民主主義を下位類型の一つとするような政体類型化のための枠組として の熟議システムという意味においてである。すなわち、熟議システムの視座から、自由民主主義を含む諸政体を類型化 することができるのである。その際、本稿が述べようとするのは、自由民主主義の議会あるいは代表制民主主義を他の 制度で置き換えるべきだ、ということではない。そうではなく、熟議民主主義の観点から、代表制民主主義およびその 他の民主主義の諸制度を評価することができるならば、熟議民主主義と自由民主主義の関係を、前者を後者の枠内で理 解するのとは異なる形で捉えることができる、ということである。第二に、公/私区分の再考に関して、熟議システム 143 田村哲樹【熟議民主主義は自由民主主義的か?】 (( (( の余地がある。そして、本稿は、熟議システム論を、次の二つの意味で自由民主主義を超える射程を持つ概念として理 (( の概念によって、「私的領域」としての家族/親密圏をも熟議民主主義の場の一つとして把握することが可能になると いう意味においてである。以下で順に述べよう。 ( ( 3 熟議システムの一類型としての自由民主主義 最初に二〇〇九年刊行の論文において体系的に展開されたドライゼクの熟議システム論は、他の論者たちのそれと比 ( ( (( (( ( (( ( (( ( (( 空間」に影響力を及ぼすことができるような諸手段のことである。具体的には、アクティヴィストによるキャンペーン、 ) 」である。これは、それを通じて、「公共空間」における熟議が「決定権限を付与された 第三は、「伝導 ( transmission 公式の制度だけではなく、集合的決定を創出する非公式のネットワークもこれに当てはまる。 ( 議の場である。たとえば、立法府、コーポラティズム的な制度、内閣、憲法裁判所などがここに含まれる。とはいえ、 ) 」がある。これは、集合的決定創出のための制度における熟 第二に、「決定権限を付与された空間 ( empowered space ) 、様々な設計された市民フォーラム (ミニ・パブリックス)が含まれる。 する物理的な場所、公聴会 ( public hearing 場する。その場所には、インターネット上のフォーラム、カフェ・教室・バー・公共広場などの人々が集まって議論を 特定の政策の実現を図る人々、アクティヴィスト、メディアのコメンテイター、社会運動、政治家、一般市民などが登 ) 」である。ここでは、自由で広範なコミュニケーションが展開される。そこでは、 その第一は、 「公共空間 ( public space システムの構成要素を抽象化することである。彼は、熟議システムの構成要素として、次の六つを挙げている。 ( 問題は、そのためにはどのような理論的工夫が必要かという点である。この点についてのドライゼクの回答は、熟議 の移行・定着の途上にある新興諸国にも適用可能なものとして構想することができるものなのである。 ( する。すなわち、彼にとって熟議システムの概念は、自由民主主義の先進諸国だけではなく、権威主義から民主主義へ 市民フォーラム・選挙を含まない場合を含む、広範な制度状況に適用可能にするべく一般化することができる」と主張 ( 「熟議システムの基本的アイデアは、立法府・政党・ の制度的特徴に結びつけられていた」。これに対して、ドライゼクは、 ( べて独特の位置を占める。既に述べたように、熟議システムに関する他の論者たちの議論は、「先進自由民主主義諸国 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 144 目的のために公衆を惹きつけるように設計されたレトリックやその他のパフォーマンス、論拠・新たなアイデア・しば しば社会運動によって探求されるような類のそれらと関連した文化変動の形成、「公共空間」および「決定権限を付与 された空間」における諸アクターの間の人的な結びつきなどである。「伝導」は、「政策提言」「批判」「疑義」「支持」 の四つのいずれか、または、これらの組み合わせという形態をとるであろう。 第四に、「アカウンタビリティ」がある。これによって、「決定権限を付与された空間」は「公共空間」に答える。それは、 熟議による正統性創出を確保するために必要である。「自由民主主義的な国家」では、選挙におけるキャンペーンが重 要なアカウンタビリティのためのメカニズムである。しかし、アカウンタビリティは、「端的に、決定や行動を正当化 ( ( する説明を与えるために求められるものを意味し得るのであって、選挙キャンペーンに必然的に言及することがなくと も発生し得る」。 ) 」である。これは、「熟議システムそのものがどのように組織化 第五に挙げられるのは、「メタ熟議 ( meta-deliberation ( ( されるべきかについての熟議」のことである。健全な熟議システムには、「自己点検、および、もし必要ならば自己変 容のための能力」が必要なのである。「メタ熟議」は、熟議システムの六つの特徴の中で「とりわけ重要」である。な ( (( 義が与えられているという点である。それは、次のことを示唆する。すなわち、ある熟議システムの中に、自由民主主 が特定の具体的な制度等の名称をそのまま概念化したものではなく、想定される制度等の機能に即して抽象化された定 以上、ドライゼクの熟議システム論における構成要素をやや詳細に紹介した。彼の概念化の最大のポイントは、それ 会越しの命令によって支配する大統領の決定には影響力を持つことができないということがあるかもしれない。 度のことである。たとえば、「決定権限を付与された空間」としての議会は、それが熟議的な場となったとしても、議 ) 」である。これは、ここまでで述べた五つの要素が集合的決定の内容を決める程 最後に、「決定確定性 ( decisiveness 化させる、当該システムの反省能力を表現したもの」だからである。 ( ぜなら、それは、「それ自体の欠点を熟議し、その結果として、時が経つにつれてそれ自体の熟議的・民主的能力を深 (( 義においては標準的な制度である議会や競争的な選挙制度が存在しないからといって、そのことから直ちに、当該政体 145 田村哲樹【熟議民主主義は自由民主主義的か?】 (( ( ( が熟議民主主義的ではないと言うことはできない、ということである。ドライゼクによれば、「多くの異なる種類の熟 ( ( 議システムがあり得るのであって、それぞれの熟議システムはそれぞれ異なる種類の構成要素を持ってい る」。ある政 体は、自由民主主義的なそれとは異なる熟議システムを持っているかもしれない。「自由民主主義的な」熟議システム (( )」と「低開発国型( communist variant ( ( )」とに)区別した。 「われわれ西側では独自な政治体 underdeveloped variant (( ( ( 主義と資本主義との「密接な対応関係」を強調していることからも窺うことができる。とはいえ、重要なことは、彼が、 ( されていた見解であろう。マクファーソン自身もまた、社会主義にある程度の共感を抱いていたことは、彼が自由民主 主義体制においてこそ「真の民主主義」が実現するという見解は、ある時期までの左派の人々の間では、ある程度共有 と同一視するべきではないという見解そのものは、マクファーソンの独自の見解というわけではない。社会主義/共産 をさして言う場合には、自由民主主義 ( liberal-democracy )と言わなければならない」 。民主主義を資本主義体制下のそれ ( ) ていただけでなく、今日でも西側以外の全世界では別な意味をもっている。われわれが自由民主主義 ( liberal-democracy のために、民主主義という名称を独占するわけにはいかないのである。この名称はこれまでに非常にちがった意味をもっ 制をつくりあげている。それは自由主義国家と民主主義選挙権との結合したものである。しかし、われわれはこの体制 産主義型( ) 」と「非自由主義的民主主義( non-liberal democracy ) 」とに(さらに後者を「共 民主主義を、「自由民主主義( liberal-democracy 主義との関係についての議論を想起させる。マクファーソンは、 「自由主義」と「民主主義」とを明確に区別した上で、 このようなドライゼクの熟議システム論は、かつてのクロフォード・B・マクファーソンによる民主主義と自由民主 うとしているのである。 で熟議システムを考えるのではない。そうではなく、自由民主主義を熟議システムのあり得る類型の一つとして捉えよ とともに、「非自由民主主義的な」熟議システムも考えることができるのである。ドライゼクは、自由民主主義の枠内 (( (( 永久にそうであるべき必要はない」と述べ、「自己発展への平等な権利」を中心とした、より規範的に望ましい「自由 そ彼は、「自由主義的立場は、歴史的には資本主義的想定を受け容れた上に成り立つものと考えられてきたけれども、 自由民主主義を「虚偽の民主主義」とするのではなく、あくまで民主主義の類型の一つと見ている点である。だからこ (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 146 ( ( ( ( 民主主義のモデル」の探求も行っているのである。この類型論的発想が、マクファーソンの議論が古びたものとならな ( (( ( ( ) 」をも熟議システムの構成要素として捉 議論のポイントは、家族/親密圏における「日常的な話し合い ( everyday talk このような評価は、必ずしも不当なものではない。なぜなら、熟議システム概念を最初に提起したマンスブリッジの 自由民主主義のもう一つの境界───すなわち公/私区分──を超えるものではないことを示唆している。 されている。しかし、家族や親密圏については述べられていない。このことは、ドライゼクの熟議システム論の射程が、 ( ) 」がさらに具体的に例示 が集まり話し合う物理的空間」を挙げており、「カフェ、教室、バー、公共広場 ( public square ついて言及している箇所は、ほとんど存在しない。たとえば、彼は、熟議システムにおける「公共空間」の例として、「人々 る。しかしながら、熟議システムに関する彼の叙述において、自由民主主義における「私的領域」たる家族/親密圏に ドライゼクが、議会を政治の中心的な場として考えるタイプの自由民主主義の構想とは袂を分かっていることを意味す である。確かに彼は、熟議民主主義論者の中でも、非制度的な公共圏を最も重視する論者の一人である。このことは、 しかし、そのドライゼクの議論も、自由民主主義における公/私区分の乗り越えという観点から見ると、なお不十分 イゼクが自由民主主義を相対化する視点を提供していることの独自性が明確になる。 関心を持つ研究者であってもその関心が必ずしも自由民主主義の相対化につながっていないことを念頭に置くと、ドラ 民主主義の下での熟議民主主義に関心を持っていること、および、非自由民主主義体制におけるミニ・パブリックスに 主主義を前提として捉える必然性はないことを明らかにした。熟議システム論的な発想を提起する論者の多くが、自由 ドライゼクの議論は、熟議システムの諸要素を抽象化して概念化することによって、熟議民主主義が必ずしも自由民 4 熟議システムの要素としての「私的領域」 ──家族/親密圏における熟議 い理由の一つであり、ドライゼクの熟議システム論との共通点である。 (( えるべき、というものだったからである。マンスブリッジによれば、 147 田村哲樹【熟議民主主義は自由民主主義的か?】 (( (( それ 〔日常的な話し合い〕は、いつも自覚的、反省的、あるいはよく考えられたものであるとは限らない。しかし、 ( ( 常に熟慮されたものではないとしても、日常的な話し合いは、それにもかかわらず、市民が何らかの意味で自らを 統治しているのであれば民主主義がそれを必要とするような、完全な熟議システムの重要な要素なのである。 ( ることがあり得るとの知見は重要である。しかし、同時に重要なことは、熟議を困難にする「私的領域」の構造的特徴 ( 話し合い」を通じて「非アクティヴィスト」が他者の行動や信念を変化させ、既存のルール・仕組み・習慣を変化させ なコミュニケーションの困難性について、十分な考察を行っていない。確かに、家族や親密圏においても、「日常的な ただし、マンスブリッジの議論も、以下の二点でなお不十分である。第一に、彼女は、「私的領域」における熟議的 民主主義の境界線をも乗り越える射程を有していると言える。 を熟議システムの正当な構成要素として位置づけている。このようにして、熟議システム論は、公/私区分という自由 治」や民主主義がどのようなものなのかは、必ずしも明確ではなかった。これに対して、マンスブリッジは、 「私的領域」 た。ただし、彼においては、 「私的領域」は最終的には親密性の論理に還元される傾向があるために、そこにおける「政 第一節で見たように、ハーバーマスの複線モデルにおいても、「私的領域」はその構成要素から除外されていなかっ (( ( 難が存在する。「私的領域」における熟議民主主義の実現のためには、そのような構造的な諸困難を把握した上で、そ ( を把握することである。「私的領域」には、それが「親密な」非制度的な関係であるがゆえの、熟議実施のための諸困 (( ( (( 「公共空間」と「決定権限を付与された空間」は、それぞれ別の物理的位置を占めるものとして観念されている。 で見たドライゼクの場合にも、熟議システムの構成要素は、機能的に特定の空間・場所に割り振られている。具体的には、 ジは、「システム」の用語の定義において諸要素間の相互依存とともにその「分業」に焦点を当てている。また本節3 ( 構成要素に特定の一つの役割が割り振られる傾向があるように思われる点である。本節1で述べたように、マンスブリッ 第二に、これは必ずしも彼女の議論だけの問題ではないが、熟議システム論においては、熟議システムのそれぞれの れをどのように克服するかについての考察を深める必要がある。 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 148 しかしながら、このように諸要素を空間的な「分業」によって捉えることは、 「システム」の像として妥当であろうか。 むしろ、たとえば家族や親密圏を、次のような二つの性質を持ち得るものとして考えることができるのではないだろう か。すなわち、それを、一方で、より上位の「決定権限を付与された空間」に「伝導」されるべき意見が形成される「公 共空間」であるとともに、他方で、それ自体が家族や親密圏において日々生じる諸事項──家事や子育ての分担であれ、 様々なライフプランの策定であれ──に関する「集合的決定」を行う、それ自体が「決定権限を付与された空間」でも ( ( ( ( あるものとして理解することができるのではないだろうか。前者を「家族/親密圏〈からの〉熟議」、後者を「家族/ ( なぜなら、「集合的に拘束する決定」を行うのは、後者のみだからである。確かに「日常的な話し合い」は、これまで ( とに消極的である。マンスブリッジによれば、 「日常的な話し合い」は、政府レベルの合議体による意思決定とは異なる。 ムにおける日常的な話し合い」においては、彼女は、「日常的な話し合い」に「集合的決定」という役割を付与するこ い」における熟議の性質についての彼女の理解が変化してきていることがわかる。一九九九年刊行の論文「熟議システ 熟議システムをこのように捉え直した上で、あらためてマンスブリッジの議論を点検してみると、「日常的な話し合 親密圏〈をめぐる〉熟議」と呼んでもよい。一つの場所・空間に一つの機能を割り振る必然性はないのである。 (( ( する決定」という概念規定を与えることを、慎重に回避する姿勢である。 ( それでもなお、マンスブリッジの議論から窺われるのは、このような「日常的な話し合い」そのものに「集合的に拘束 者の行動や信念を変化させることができる。「日常的な話し合い」において、「政治的なるもの」が表出しているのである。 に行われてきた「集合的決定」について、それを「公衆がある集合体として議論すべきこと」として「政治化」し、他 (( 、一定の範囲の人々に ない。しかし、制度化の程度の差はあっても (それゆえ、その手続および拘束の程度に差があっても) 変化をもたらすような「日常的な話し合い」は、議会を含む諸制度のように公式の決定手続に則って行われるものでは 汲みつくすことができていないことを意味するように思われる。確かに、家族や親密圏における既存の行動やルールの このようなマンスブリッジの姿勢は、この時期の彼女が公/私区分を超える熟議システム論のポテンシャルを十分に (( 関わる意思決定が行われるという点では、「日常的な話し合い」が行われる家族/親密圏を、「公共空間」であるととも 149 田村哲樹【熟議民主主義は自由民主主義的か?】 (( ( ( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 150 ( に多層的な「決定権限を付与された空間」の一つでもあるような場として捉えることも可能なのである。 ( ( (( すなわち、この引用箇所では、「日常的な話し合い」そのものが「決定」を含むものであり、「価値の権威的配分」の が生まれているのである。 ( た確信に基づいて調整を行う時、社会そのものが「決定した」と言って差し支えなく、新たな「価値の権威的配分」 と決定する。多くの人々が日常的な話し合いに関わり、それまで抱いていた考えを更新し、新たな一時的に確定し たことは正しいとか、昨日自分たちが考えたことは新しい事実あるいは洞察を考慮に入れたものではなかったなど る隣人の考え方は間違っているとか、一番最近の「オプラ・ウィンフリー・ショー」に出演したゲストが言ってい 日常的な話し合いにおいて、人々は問題を慎重に検討するとともにそれについて決定を行う。人々は、中絶に関す しかし、ここで注目したいのは、そのすぐ後の箇所では、次のようにも述べられていることである。 合い」はそれに影響を及ぼし得る)ということだと考えることもできるからである。 集合的決定そのものは、「日常的な話し合い」の外部で、典型的には「政府」によって行われている (が、「日常的な話し るようになったかどうかを判断するのは難しい。なぜなら、彼女が述べていることは、「価値の権威的配分」をめぐる 的な話し合い」をこのように理解する限りでは、彼女が「日常的な話し合い」に「集合的決定」という役割をも付与す とも、「価値の権威的配分」に関わる──その意味で「政治」に関わる──問題があると言うのである。ただし、「日常 ( 響を及ぼすと述べている。マンスブリッジは、直接に「地域的、国家的、国際的な問題としての公共的問題」ではなく ( は一般的な関心事であって、広く公衆が議論し考えるべきことであるがゆえに、「価値の権威的配分」(イーストン)に影 セクシュアル・ハラスメントや職場における解雇の不安などについての「日常的な話し合い」について、これらの問題 出されることに気づく。ただし、どこが「異なる」のかは、やや慎重な検討を要する。たとえば、マンスブリッジは、 この点を踏まえて、二〇〇七年刊行のマンスブリッジの別の論考を見てみると、一九九九年論文とは異なる記述も見 (( (( (( 変更をもたらすものであると述べられているのである。この引用箇所でも、マンスブリッジはあくまで、個別の「日常 的な話し合い」における「決定」の効果を、当該「日常的な話し合い」の単位──たとえば、家族、友人関係、職場な ど──そのものへの効果というよりも、よりマクロなレベルの「社会」への効果において考えているように思われる。 「価値の権威的配分」も、家族や親密圏をその単位と見なすこともあり得るということではなく、やはり、マクロな「社 会」全体のレベルに関わることとして想定されているようにも見える。しかしながら、マンスブリッジがより近年の論 ( ( 考で「日常的な話し合い」に「決定」の要素も含まれていることを明確化したことは、熟議システム概念を単なる「分業」 ではない形で理解する方向性を示唆していると言うことができるだろう。 結論 本稿の問いは、熟議民主主義は自由民主主義を超える射程を持つのかであった。この問いに答えるために、本稿では、 複線モデル、ミニ・パブリックス論、そして熟議システム論を取り上げ、それらと自由民主主義との関係を考察した。 その結果は、熟議システム論は、政党間競争と代表制民主主義、および、公/私区分という自由民主主義の二つの特徴 を必ずしも前提としない、というものであった。熟議システムは、自由民主主義の枠内で考えられるべきものではなく、 後者を前者の類型の一つ──自由民主主義的な熟議システム──として捉えるべきなのである。したがって本稿は、熟 議システム論として構想された熟議民主主義は、自由民主主義を超える射程を持つと主張した。 ただし、本稿は、自由民主主義に代わる政体の方が望ましいと主張するものではない。そうではなく、本稿の示唆は、 自由民主主義的ではない政体を、自由民主主義的ではないことを理由として、「不十分な」「問題のある」政体として見 ることには慎重でなければならない、ということである。とはいえ、冒頭で述べたように、同時に本稿は、民主主義理 ( ( 論を論じる文脈を、自由民主主義の枠組を超えて拡張するべきことをも示唆している。このような発想は、グローバル・ デモクラシー論やトランス・ナショナルデモクラシー論の文脈では比較的周知のものかもしれない。しかし、「民主化」 151 田村哲樹【熟議民主主義は自由民主主義的か?】 (( (( を含むよりナショナルなレベルやサブ・ナショナルなレベルについても、民主主義理論を論じる文脈は拡張されてもよ い。本稿は、そのための手がかりの一つを提供するものである。 (1)もっとも、この動向は一九九〇年代以前から、たとえば左派の民主主義理論における「自由」の再評価や「市民社会」評価と いう形で始まっていたというべきであろう。 (2)さしあたり、文献の情報も含めて以下の文献を参照。 C. Offe, “Crisis and Innovation of Liberal Democracy: Can Deliberation ) pp. 457-458 (鈴木宗徳訳「リベラル・デモクラシーの危機 Be Institutionalised?” Czech Sociological Review, Vol. 47, No.(3 2011 と刷新──熟議は制度化できるか」舩橋晴俊・壽福眞美編著『規範理論の探求と公共圏の可能性』法政大学出版局、二〇一二年、 五五─五七頁) な . お、本論文の英語版と日本語版の内容は基本的に同一であるが、細かい表現等において若干の違いがあるようで ある。 S. Chambers, “Deliberative Democratic Theory,” Annual Review of Political (3) J. S. Dryzek ( 2000 ) Deliberative Democracy and Beyond: Liberals, Critics, Contestations, Oxford University Press, 2000. 篠原 一『歴史政治学とデモクラシー』岩波書店、二〇〇七年。 (4)こうした指摘について、たとえば、以下を参照。 )山 Science, Vol.( 6 2003 . 田陽「熟議民主主義と『公共圏』」『相関社会科学』第一九号、二〇〇九年。 (5)近年の研究との関係では、本稿は、熟議民主主義を自由民主主義とは異なる民主主義モデルとして捉える、クリストファー・ ホ ブ ソ ン と 同 じ 立 場 を と る。 C. Hobson, “Liberal Democracy and Beyond: Extending the Sequencing Debate,” International J. S. Dryzek, “Democratization as Deliberative Capacity Building,” Comparative Political Studies, ( published online 22 March 2012 )た )」を Political Science Review, . だし、彼の主たる関心は、「社会民主主義( social democracy 自由民主主義とは異なる民主主義モデルとして位置づけることにあるように思われる。そのため、熟議民主主義についての記述は、 ジ ョ ン・ ド ラ イ ゼ ク の 論 文、 )の紹介のみにとどまっている。 Hobson, “Liberal Democracy and Beyond,” pp. 9-10. また、山田陽は、ジョシュ Vol. 42, No.( 11 2009 ア・コーエンの初期の議論などが「社会主義的な熟議民主主義」理解を提起していることを指摘しており、本稿とは異なる観点か らではあるが、熟議民主主義と自由民主主義との関係を再検討する視点を提供している。山田陽「熟議民主主義と政治的平等」宇 野重規・井上彰・山崎望編『実践する政治哲学』ナカニシヤ出版、二〇一二年、二七二─二七五頁。 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 152 (6)しばしば指摘されるように、自由民主主義は、自由主義と民主主義という二つの異なる原理が接合された政治原理である。「自 由民主主義」における自由主義的要素と民主主義的要素との違いについての今では古典的な著作として、 C. B. Macpherson, The (粟田賢三訳『現代世界の民主主義』岩波新書、一九六七年)を参照。また、マ Real World of Democracy, Clarendon Press, 1966 クファーソンと同じく自由主義と民主主義との区別に注意を促す近年の著作として、 F. Zakaria, The Future of Freedom: Illiberal も参照。ただし、ザカリアの主張は、自由主義にとっての民主 Democracy at Home and Abroad, W. W. Norton & Company, 2003 主義の問題性を指摘するもので、マクファーソンの議論とは異なっている。すなわち、ザカリアは、近年の主に非西欧諸国におけ る「選挙と権威主義の混合」を「非自由主義的民主主義( illiberal democracy )」と呼び、そこにおいて、民主主義によって自由主 義の諸価値(法の支配、権力分立、基本的諸自由の擁護)が侵害されていることに警鐘を鳴らしている。 0 0 の実質的な範囲が厳しく制限され、市民の政治的・市民的自由に対する政府の干渉が実効的に妨害されている程度に応じて、『リ Dryzek, “Democratization as Deliberative Capacity Building”; J. S. Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, 153 田村哲樹【熟議民主主義は自由民主主義的か?】 (7)自由民主主義のその他の重要な特徴として、「法の支配」あるいは「立憲主義」がある。「民主主義は、可能な民主的意思決定 ベラル』である」( Offe, “Crisis and Innovation of Liberal Democracy,” p. 453 〔邦訳、五一頁〕な . お、訳文は英語版に拠っている)。 民主主義と立憲主義との緊張関係はしばしば議論されてきた論点であるが、本稿では、この問題を扱わない。その理由は、本稿の 関心は、自由主義そのものと民主主義との関係ではなく、民主主義の異なる類型の可能性についての探求にあるからである。 (8)差し当たり、以下の諸文献を参照。 S. Alonso, J. Keane and W. Merkel, “Editors’ Introduction: Rethinking the Future of ( eds. ) , The Future of Representative Democracy, Cambridge Representative Democracy, ” in Alonso, Keane and Merkel University Press, 2011, pp. 5-7; J. S. Dryzek and P. Dunleavy, Theories of the Democratic State, Palgrave Macmillan, 2009, pp. 18-19; D. Held, Models of Democracy, 3rd Edition, Polity, 2006, p. 4; Macpherson, The Real Worlds of Democracy, 1966; C. Offe, “Competitive Party Democracy and Keynesian Welfare State,” in Offe, Contradictions of the Welfare State, The MIT Press, 1984 (「競争的政党民主制とケインズ主義的福祉国家」寿福真美監訳『後期資本制社会システム──資本制的民主制の諸制度』法政大学 ) ) Offe, “Competitive Party Democracy and Keynesian Welfare State.” ( 1989 ) The Disorder of Women: Democracy, Feminism and Political Theory, Stanford University Press, pp. 8-9. C. Pateman 出版局、一九八八年) ; Offe, “Crisis and Innovation of Liberal Democracy,” pp. 454-456 (邦訳、五二─五四頁) . Macpherson, The Real World of Democracy, pp. 5,(9邦訳、一〇─一一、二一頁) . ) (9) ( ( ( 12 11 10 ( ( ( ( ( ( ( ( ( Oxford University Press, 2010. ) J. Habermas, Faktizität und Geltung: Beiträage zur Diskurstheorie des Rechts und des demokratischen Rechtsstaats, Suhrkamp, (河上倫逸・耳野健二訳『事実性と妥当性──法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究[上][下]』未來社、二〇〇二 1992 ) 年、二〇〇三年)なお、田村哲樹『熟議の理由──民主主義の政治理論』勁草書房、二〇〇八年、一二三─一二五頁も参照。 . (邦訳、[下]一三─一九頁) . Habermas, Faktizität und Geltung, S. 352-358 13 (邦訳、[下]八六頁。ただし、訳語は一部変更した) . Habermas, Faktizität und Geltung, S. 432 )「完全に世俗化された政治という時代状況の下では、法治国家は徹底した民主主義がなくては構築することも維持することもで ) 論(下)』未來社、一九八七年) . )『コミュニケイション的行為の理論』から『事実性と妥当性』へのハーバーマスの変化(と継続)の簡潔な説明として、以下の (河上倫逸他訳『コミュニケイション的行為の理 J. Habermas, Theorie des kommunikativen Handelns, Bd. 2, Suhrkamp, 1981 とを示している。 由主義的な」特徴の一つである「法の支配」を徹底化していくことがその「民主主義」的側面の徹底化につながると考えているこ 日暮雅夫編著『批判的社会理論の現在』晃洋書房、二〇〇三年、三六頁、を参照。このことは、ハーバーマスが、自由民主主義の「自 活世界」介入の経路としての法理解とは異なる、法の理解である。この点について、永井彰「ハーバーマスの近代国家論」永井彰・ 媒体〔メディア〕」( 〔邦訳、[上]一八三頁〕 訳語は一部変更)としての重要な役割を与 Habermas, Faktizität und Geltung, S. 187 . えている。これは、一九八一年に刊行された『コミュニケイション的行為の理論』における「システム」 (国家行政)の側からの「生 ルを支える「法」にも、「社会全体を包括するコミュニケーション循環のなかでの、システムと生活世界との間の変換機」 ( Habermas, 〔邦訳、[上]一〇六頁〕 訳 Faktizität und Geltung, S. 106 . 語は一部変更)、「コミュニケーション的権力を行政権力へと転化させる きない」( Habermas, Faktizität und Geltung, S. 13 〔邦訳、[上]一三頁〕 訳 . 語は一部変更)。ただし、ハーバーマスは、複線モデ ) 16 15 14 17 ) ) (邦訳、[下]一五四─一六四頁) . Habermas, Faktizität und Geltung, S. 504-515 田村哲樹「熟議による構成、熟議の構成──ミニ・パブリッ Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, p. 6. (邦訳、[下]九六頁。 傍点は原文イタリック。訳は一部変更) . Habermas, Faktizität und Geltung, S. 442-43 永井・日暮編著『批判的社会理論の現在』、二〇〇三年。 論文を参照。水上英徳「社会国家プロジェクトのリフレクティヴな継続──ハーバーマスによる手続き主義的法パラダイムの提起」 18 ) 21 20 19 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 154 クス論を中心に」小野耕二編著『構成主義的政治理論と比較政治』ミネルヴァ書房、二〇〇九年。 ( ) Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, pp. 6-7. ( ) Cf. Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, pp. 8-10. なお、熟議民主主義の「経験的転回」は、ミニ・ パブリックス研究のみによってもたらされたというわけではないが、それが相対的に、経験的に研究しやすい対象だったというこ ( とは言えるだろう( Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, p.)。 9 )ミニ・パブリックスの多様な諸形態の理論的整理として A. Fung, “Minipublics: Deliberative Designs and Their Consequences,” ( ed. ) , Can the People Govern? Deliberation, Participation and Democracy, Palgrave Macmillan, 2007 を参照。 in S. W. Rosenberg その他のミニ・パブリックスをめぐる理論的問題の考察として、以下の諸研究をも参照。 J. S. Fishkin, When the People Speak: (曽根泰教監修、岩木貴子翻訳『人々の声が響き Deliberative Democracy and Public Consultation, Oxford University Press, 2009 合うとき──熟議空間と民主主義』早川書房、二〇一一年) 田 . 村前掲「熟議による構成、熟議の構成」。田畑真一「熟議デモクラ シーにおけるミニ・パブリックスの位置づけ──インフォーマルな次元での熟議の制度化」須賀晃一・齋藤純一編『政治経済学の 規範理論』勁草書房、二〇一一年。様々な具体的な事例の紹介・分析としては、以下の諸研究を参照。 A. Fung and E. O. Wright S. Chambers, “Rhetoric and the Public Sphere: Has Deliberative Democracy Abandoned )ミニ・パブリックスへの関心の高まりへの否定的な見解として、シモーネ・チェンバースは、それを熟議民主主義が「大衆」 行社、二〇一〇年、井手弘子「市民同士の熟議/対話──日本における市民討議会の実証研究」田村編『語る』、二〇一〇年、を参照。 九年、尾内隆之「市民が専門知に向き合うとき──科学技術をめぐる熟議/対話」田村哲樹編『語る──熟議/対話の政治学』風 特に日本における諸事例の Deliberative Democracy: The British Columbia Citizens’ Assembly, Cambridge University Press, 2008. 紹介・分析として、篠藤明徳・吉田純夫・小針憲一『自治を拓く市民討議会──広がる参画・事例と方法』イマジン出版、二〇〇 ( ) 篠原一編『討議デモク eds. , Deeping Democracy: Institutional Innovations in Empowered Participatory Governance, Verso, 2003. ラシーの挑戦──ミニ・パブリックスが拓く新しい政治』岩波書店、二〇一二年。 M. E. Warren and H. Pearse ( eds. ) , Designing ( を放棄したことの表れと見なしている。 )他 Mass Democracy?” Political Theory, Vol. 37, No.(3 2009 . 方、鈴木宗徳は、熟議の意義を十全に実現するためには、比較的制 度化され理想的な熟議の状況を実現しやすいと考えられるミニ・パブリックスを、より広範な公共圏といったん分離して理解する ことが重要であると主張している。鈴木宗徳「公共性と熟議民主主義を分離・再接続する──『ミニ・パブリックス』の可能性」 舩橋晴俊・壽福眞美編著『規範理論の探求と公共圏の可能性』法政大学出版局、二〇一二年。鈴木の言わんとすることは理解でき 155 田村哲樹【熟議民主主義は自由民主主義的か?】 23 22 24 25 ( ( ( ( ( る。とはいえ、私には、アンドレ・ベクティガーたちが整理しているように、熟議民主主義の理論潮流には、もともと比較的厳密 A. Bächtiger, S. Niemeyer, M. Neblo, M. に「合理的な熟議」を定義するタイプの理論(彼らの言う「熟議タイプⅠ」)と、もう少しゆるやかに熟議を定義するタイプの理 論(彼らの言う「熟議タイプⅡ」)とがあったと捉える方が適切であるように思われる。 R. Steenbergen and J. Steiner, “Disentangling Diversity in Deliberative Democracy: Competing Theories, Their Blind Spots and ) . Complementarities,” Journal of Political Philosophy, Vol. 18, No.( 1 2010 ) Fishkin, When the People Speak; E. J. Leib and B. He ( eds. ) , The Search for Deliberative Democracy in China, Palgrave 他方、バオガン・ホーアとマーク・ウォーレ Fishkin, When the People Speak, p. 110. ) . Development,” Perspectives on Politics, Vol. 9, No.(2 2011 ( ) Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, pp. 138-139. また、篠原は、「しかし代議制デモクラシーが欠如 しているところで、まさにそれゆえに、種々の討議制度が設けられ、そこから代議制を含む討議デモクラシーが発達していくとい (たとえば「指令権威主義( command authoritarianism )」)もあり得るし、長期的には、「熟議権威主義」がより民主主義的に変 化していく可能性も存在する。 B. He and M. E. Warren, “Authoritarian Deliberation: The Deliberative Turn In Chinese Political ンは、「熟議」と「民主主義」とを区別し、中国の事例は現状では「熟議権威主義( deliberative authoritarianism )」ないし「権威 主義的熟議( authoritarian deliberation )」という類型に当てはまると述べている。なお、彼らによれば、熟議的ではない権威主義 た」ことに注目すべきであると述べている。 自治体における熟議(討論(熟議)型世論調査)が、 「あらかじめ決められた結論に落ち着くどころか、役人を驚かせる結果となっ ただし、中国における熟議民主主義をどのように理解するべきかについては、なお慎重な検討が必要と思われる。 Macmillan, 2006. 一方で、ジェイムズ・F・フィシュキンは、事例が少ないため「確かな答えを出すことはできない」との留保つきで、中国の地方 26 )田村「熟議による構成、熟議の構成」。以下も参照。 J. S. Dryzek and C. M. Hendriks, “Fostering Deliberation in the Forum ( eds. ) , The Argumentative Turn Revisited: Public Policy as Communicative Practice, and Beyond,” in F. Fischer and H. Gottweis うことは十分考えられること」であると述べている(篠原『歴史政治学とデモクラシー』、三一九頁)。 27 Duke University Press, 2012. ) Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, Chapter 8. 28 Dryzek and Hendriks, “Fostering Deliberation in the Forum and Beyond,” p. 33. )誤解のないように述べておくと、この点を認識しているのがドライゼクであり、彼の熟議システム概念使用の最も重要な意義 ) 31 30 29 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 156 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( はこの点に求められる、というのが私の評価である。 ) J. Mansbridge, J. Bohman, S. Chambers, T. Christiano, A. Fung, J. Parkinson, D. F. Thompson, and M. E. Warren, “A Systemic ( eds. ) , Deliberative Systems: Deliberative Democracy at Approach to Deliberative Democracy,” in J. Parkinson and J. Mansbridge the Large Scale, Cambridge University Press. 2012, pp. 1-2. ) Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, p. 7. ) ) Chambers, “Rhetoric and the Public Sphere.” Mansbridge et al., “A Systemic Approach to Deliberative Democracy,” p. 4. ) Cf. C. Hendriks, “Integrated Deliberation: Reconciling Civil Society’s Dual Role in Deliberative Democracy,” Political Studies, ) ; C. Hendriks, The Politics of Public Deliberation: Citizen Engagement and Interest Advocacy, Palgrave Vol. 54, No.( 3 2006 Macmillan, 2011. ) Cf. Bächtiger et al., “Disentangling Diversity in Deliberative Democracy”; Hendriks, “Integrated Deliberation”; Hendriks, The Mansbridge et al., “A Systemic Approach to Deliberative Democracy,” p. 4. Politics of Public Deliberation, p. 14, chap. 2. ) Mansbridge et al., “A Systemic Approach to Deliberative Democracy,” p. 13. ) ) J. Parkinson, Deliberating in the Real World, Oxford University Press, 2006, p. コ 7. ミュニケーションの様式の観点からは、熟 議システム概念の使用によって、理性的論証以外のコミュニケーション様式(レトリックや物語など)を考慮に入れやすくなる ことも指摘されている。 ) ; “ J. S. Dryzek, Rhetoric in Democracy: A Systemic Appreciation,” Political Theory, Vol. 38, No.(3 2010 ” どを参照。たとえば、ドライゼクのレトリック分析にお Bächtiger et al., “Disentangling Diversity in Deliberative Democracyな ) ) ) Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, p. 8. Dryzek, “Democratization as Deliberative Capacity Building.” Mansbridge et al., “A Systemic Approach to Deliberative Democracy.” Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, p. 8. いては、「結束( bonding )」のためのレトリックも、抑圧された集団のエンパワーメントをもたらすのであれば、熟議システム論 的には正当化できると述べられている。 ) 157 田村哲樹【熟議民主主義は自由民主主義的か?】 32 36 35 34 33 37 40 39 38 44 43 42 41 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ) Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, pp. 8, 10-11. )熟議民主主義論に限らず、民主化論と(規範的)民主主義理論との関係は興味深い論点であるが、十分な研究が行われている ( ) なお、二〇一〇年刊行のこの著作において、二〇〇 Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, pp. 11-12. 九年の論文( Dryzek, “Democratization as Deliberative Capacity Building,” pp. 1385-1386 )では含まれていなかった「メタ熟議」 が追加された。 とは言えない。 Hobson, “Liberal Democracy and Beyondの ” ほか、飯田文雄「現代規範的民主主義理論と民主化理論の間」『神戸 法学年報』第二五号、二〇〇九年、も参照。 46 45 )ここでドライゼクが非公式のネットワークをも「決定権限を付与された空間」に含めていることは興味深い。ただし、それで 47 ) ) ) Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, p. 138. Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, p. 12. Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, pp. 11-12. テムにおける「集合的決定」は多層的なものとして理解されるべきである。 の理由』、第五章、田村哲樹「親密圏における熟議/対話の可能性」田村編『語る』、二〇一〇年、を参照。したがって、熟議シス は、たとえば「公共空間」そのもので、あるいは「私的領域」そのものにおいて行われる「集合的決定」も存在する。田村『熟議 も彼が「集合的決定」を「公共空間」から「伝導」される空間に限定して捉えているように見える点は、私見とは異なる。私見で 48 ) ) Macpherson, The Real World of Democracy, p. ( 12邦訳、二九頁。訳語は一部変更) . Macpherson, The Real World of Democracy, p.(4邦訳、九頁) . Macpherson, The Real World of Democracy. 化」は、「メタ熟議」の要素を欠いた実践と言い得る。 Cf. Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, p. 138. かもしれないからである。その点を考慮に入れず、従来通りの自由民主主義的な諸制度を単純に適用しようとするタイプの「民主 うことになるだろう。なぜなら、当該政体には、「自由民主主義的な」熟議システムとは異なるタイプの熟議システムが存在する 選挙制度の移植がうまくいかないからといって、そのことをもって直ちに当該政体を「非民主的」とすることは適切ではないとい ) Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, p. 13. )ゆえに、ドライゼク的な熟議システム論の立場からは、たとえば非自由民主主義国の「民主化」において、自由民主主義的な議会・ 53 52 51 50 49 ) 56 55 54 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 158 ( ) C. B. Macpherson, The Life and Times of Liberal Democracy, Oxford University Press, 1977, p.(2田口富久治訳『自由民主主 義は生き残れるか』岩波新書、一九七八年、三頁) . )実際、マクファーソンの議論はその後、デヴィッド・ヘルドによる、より詳細な「民主主義の諸モデル」の析出へと継承され ている( cf. Held, Models of Democracy, p. 6, note)5。ヘルドにおける「モデル」の用語の使用そのものは、『現代世界の民主主義』 )ではなく、『自由民主主義は生き残れるか』( Macpherson, The Life and Times of Macpherson, The Real World of Democracy ) ) and Disagreement, Oxford University Press, 1999. ) Mansbridge, “Everyday Talk in the Deliberative System,” p. 211. Dryzek, Foundations and Frontiers of Deliberative Governance, p. 11. ( ed. ) , Deliberative Politics: Essays on Democracy J. Mansbridge, “Everyday Talk in the Deliberative System,” in S. Macedo 民主主義を再考することも重要であると考えている。 識した上で、本稿は、今日マクファーソンと熟議民主主義との関係を考える場合には、彼の(非)自由民主主義論に照らして熟議 第一章を参照)。これは、熟議民主主義が熟議「民主主義」であることの意味を考える場合には、重要な視点である。この点を認 )からの示唆に基づいている。なお、マクファーソンの議論は、その(自由民主主義の望ましい「モデル」と Liberal Democracy しての)参加民主主義論と熟議民主主義との関係という文脈で論じられることがある(たとえば、篠原『歴史政治学とデモクラシー』、 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ) Mansbridge, “Everyday Talk in the Deliberative System,” pp. 217-218. )田村「親密圏における熟議/対話の可能性」、六一─六四頁。 ) Mansbridge et al., “A Systemic Approach to Deliberative Democracy”. )田村「親密圏における熟議/対話の可能性」、四八─五五頁、において、この区別を提示した。 )このような本稿の立場からすれば、ナショナルな領域性を超えた様々な「権力モニタリングのメカニズム」のネットワークを 展望するジョン・キーンの「モニタリー民主主義」の構想も、依然として集合的決定とそのモニタリングを別々の制度・アクター に 割 り 振 っ て い る 点 で、 民 主 主 義 の 構 想 と し て 同 様 の 問 題 を 抱 え て い る よ う に 思 わ れ る。 J. Keane, “Monitory Democracy?” in Cf. Mansbridge, “Everyday Talk in the Deliberative System,” pp. 214-215, 217. ( eds. ) , The Future of Representative Democracy, 2011. Alonso, Keane and Merkel ) Mansbridge, “Everyday Talk in the Deliberative System,” p. 212. ) 159 田村哲樹【熟議民主主義は自由民主主義的か?】 57 58 60 59 66 65 64 63 62 61 68 67 ( )この場合、家族や親密圏が「私的な」領域であるのは、それが相対的に「公開性( publicity )」を欠いているという意味におい てであろう。ただし、「公開性」が常に熟議の不可欠な条件であるかどうかについては、なお検討の余地がある。 S. Chambers, “Behind ( )を参照の Closed Doors: Publicity, Secrecy, and the Quality of Deliberation,” Journal of Political Philosophy, Vol. 12, No.(4 2004 こと。また、その「親密性」は、 「意見形成」や「意思決定」のための「日常的な話し合い」が行われている場合には、部分的に、 またはかなりの程度、失われていると見るべきである。「親密圏」とされる空間は、他の空間と比べるならば「親密な」状態が比 較的よく生じる空間かもしれないが、「政治化」した場合には同じ空間が異なる特徴を帯びることになると考えるべきである。 ( ed. ) , Can the People Govern? J. Mansbridge, “‘Deliberative Democracy’ or ‘Democratic Deliberation’?” in S. W. Rosenberg ) Mansbridge, Deliberation, Participation and Democracy, Palgrave Macmillan, 2007. ) こ の 場 合 の「 価 値 の 権 威 的 配 分 」 の 対 象 に は、 物 質 的 利 益 だ け で は な く、「 非 公 式 の 規 範 」 も 含 ま れ て い る。 70 ( ( “‘Deliberative Democracy’ or ‘Democratic Deliberation’?” p. 266. ( ) Mansbridge, “‘Deliberative Democracy’ or ‘Democratic Deliberation’?” p. 267. なお、「オプラ・ウィンフリー・ショー」とは、 アメリカで放映されていた人気トーク番組の番組名である。 ( 69 71 )二〇一二年に刊行されたマンスブリッジが筆頭執筆者の論文では、恐らくは二〇〇七年論文における「社会的権威」について 72 ステムの方にあるように思われる。後者に関して、たとえば、 Mansbridge et al., “A )を参照のこと。また、EUについて、「民主主義の赤字」ではなく「民主主義 Ethics & International Affairs, Vol. 25, No.(2 2011 の多様化」と言えるのではないかと問題提起する、小川有美「EUが変える政治空間──『民主主義の赤字』か『民主主義の多様化』 J. S. Dryzek, “Global Democratization: Soup, Society, or System?” )ドライゼクの関心も、どちらかといえば、非自由民主主義的な諸国の国内レベルの熟議システムよりも、グローバルな熟議シ 会」全体の次元が想定されているように思われる。 この議論は、「集合的決定」を国家以外の場所でも行われるものとして理 Systemic Approach to Deliberative Democracy,” pp. 8-9. 解しようとする──その意味で「分業」を乗り越える──試みとして評価できる。しかし、その単位としては、やはりマクロな「社 きるとされる。「社会的決定」は、「緩やかな社会的意味において」であるとはいえ、「拘束的」でもある。 方を変化させ、そのような変化について賛否両論を巻き起こすような場合には、多くの人々が「決定」を行ったと解することがで の議論を発展させる形で、「社会的決定( societal decisions )」について論じられている。それは、「観察者がそこで決定が行われ たと言うことができるような明確な時点を持っているわけではない」。しかし、「非公式の議論」が社会における規範や実践のあり 73 74 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 160 か」田村哲樹・堀江孝司編『模索する政治──代表制民主主義と福祉国家のゆくえ』ナカニシヤ出版、二〇一一年、も参照のこと。 〈付記〉本稿は、科学研究費補助金(基盤研究(C)。研究課題番号:二四五三〇一三二)による研究成果の一部である。 161 田村哲樹【熟議民主主義は自由民主主義的か?】 一般意志の道徳性 ──呉 守雄 (訳:李 承宰) ● 一 問題提起 ──ルソーの「定言命法」 (1) ルソー ( Jean-Jacques Rousseau )の『社会契約論』でもっとも中心的な概念は社会契約説と一般意志といえる。およそ 学者たちは社会契約説と一般意志に関するかつての思想家の論議と関連づけて解する傾向を見せている。遠くはプラト ) 、ロック ( Nicolas Malebranche ) 、モンテスキュー ( John Locke (3) Denis )と common mind ) 、ディドロ ( Montesquieu ) 、パウロ ( Paul ) 、アウグスティヌス ( Aurelius Augustinus ) 、近くはホッブス ( Thomas Hobbes ) 、パスカル ( Blaise ン ( Plato ) 、マルブランシュ ( Pascal (2) )などと関連づける。内容においては一般意志を神の意志と関連づけて理解したり、共通精神 ( Diderot (4) して理解しようとする試みもあった。しかし、プラトンの形而上学を基盤として理解する傾向が支配的であったという 評価もある。 )によると、ルソーの一般意志を理解する傾向には二つの立場がある。正義そのもの ウィリアムズ ( David L. Williams 自体と同意に基礎した一般意志の中でどれに優先性をおくのかによって、第一に、支配的立場として、同意に基づいた ) 」として、自然法や超越的観念に対す 一般意志は、「よく討論された一般意志 ( the well-discussed notion of the general will )として理解する傾向である。この立場ではルソーの一般意志はホッブスの る合意による代替物 ( conventional substitute 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 162 (5) 思想の再現、または自然法の代替物として理解されている。 (6) 第二に、一般意志と正義を連携させて理解する傾向で、比較的に少ないほうであるが、この場合、ルソーの独創性を 強調する立場に近づく。ルソーの一般意志のもつ独創性は二つの側面から考えることができる。一つは、ルソーの思想 にしめる一般意志の重要性で、もう一つはルソーの一般意志の概念自体がもつ独創性を強調することである。ルソーの 政治思想において一般意志がもつ重要性に関して学者の間では異見がないようにみえる。特に、「一般意志の概念は彼 (7) が言おうとする全てを表している。それは最も本質的な個人の道徳的能力を公共的参加経験の領域として置き換えてい )の主張は疑問の余地がないものとして受け入れられている。 るからである」というジュディス・シュクラー( Judith Shklar 他方、本稿が意図しているように、ルソーの一般意志の概念がもつ差別性を強調することは解釈上の論争を呼び起こし える。 一般意志はもちろんのこと、ルソーの思想全般に関する評価も多様で論争の種である。フランス革命と人権宣言にもっ (8) とも大きな影響を与えた思想家であり、近代の人民主権と自由民主主義に思想的な土台を築いた思想家という評価があ (9) ( ( る一方、ルソーの政治思想は、未解決の矛盾と全体主義への親和性をもっているという主張も相変わらず提起されてい る。 人間の本性に内在した矛盾は、自己愛と、社会状態で他人との交流が深化することにつれて自己愛から現れる「自身 ) 、同情の肯定的また が選り好まれることを望む」「自身の優越さを確認しようとする」心である自己偏愛 ( amour propre は否定的発現、そして正しい理性と誤った理性の間で構成されうる相互結合によって発生する。つまり、社会状態で全 ( ( 型:E型の人間)と、自己偏愛──同情の否定的発現 ての人間は、自己愛──同情の肯定的発現──正しい理性 ( Emile 型:B型の人間)の相反した結合の間で葛藤し、同時に社会の中で自身の利益と他人の利益の ──誤った理性 ( Bourgeois (( ( ( ( ( )人間をE型人間ではなく、B型人間とみなす際、一般意志の絶対性と道徳性は疑われることが寧ろ Social Contract, 46 (( このような矛盾を受け入れると、そして実際に『社会契約論』でルソーが想定している対象として、 「ありのままの」 間で、いずれかを選択するか、或は両者を調和させることが求められる葛藤的な状況に置かれている。 ( 163 呉守雄【一般意志の道徳性】 (( (( 当然のようにみえる。仮に一般意志の発見が可能で、絶対性と道徳性が疑われないとしても、果たしてB型人間が一般 意志に従おうとする自発的な義務を持つことが可能なのか、そうではない場合、B型人間に対して一般意志に服従する ように国家が強制することが果たして正当なのかに関する懸念は解消されない。 このように、ルソーが分析した人間の本性とその社会的様態の葛藤的状況は、一般意志とは何か、果たしてあるのか、 どうやってそれがわかるのか、一般意志による支配が果たして民主主義と両立するのかという問題に対して懐疑的な立 ( ( 場の強固な根拠になっている。しかし、おそらくこれは既存の研究で表れるアプローチまたは観点から起因する限界か ( ( もしれない。なぜならば、多くの研究者はルソーの『社会契約論』と一般意志を主に政治的観点から分析を行ったが、 (( ) 、ある特定の個人、または集団の特定な習慣がより広く、多くの人々に受け入れられて社会的レベルで繰り返 habitude ( (( の妥当性および善悪によって社会秩序の正当さと善良さが決定される。魂に形成される観念と感情を本質とする点にお このように観念と感情は、習慣、礼節、慣行、慣習を含む道徳規範 ( morale )の本質を成し、まさにその観念と感情 )と呼ぶようになる。 を慣習 ( coutume ( ) 、そしてそのような慣行が長い間守られる際、それ し・再生される一般性を獲得するようになったものを慣行 ( usages ( を 形 成 し、 こ れ が 外 的 に 現 れ る 方 式 を 礼 節 ( maniéres ) 、その方式が個人的なレベルで繰り返して現れるものを習慣 ──言葉にせよ行為にせよ──によって生成、変化、消滅するという。観念と感情の交流は人間の魂の中に道徳 ( moeurs ) ルソーによると、人間関係は基本的に理性と感覚を通して外部対象 (人、モノ)に対して形成した観念と感情の交流 には道徳の観点から解釈を試みる努力が必要であるといえる。 )というルソーの断言を真剣に考慮すると、彼の一般意志をより適切に理解するため ることができない」( Emile, 235-236 )を分けて研究することを望む人は、両者のいずれも理解す 研究されるべきである。政治学と道徳 ( politique et la morale 問体系において当然のことかもしれない。しかし、「社会は人間を通して研究されるべきであり、人間は社会を通して 治的なもの」であるべきであるという研究者の自己規制が挙げられ、このような自己規制は現在のように分化された学 他の観点、特に、道徳の観点というアプローチを欠いているからである。その理由として、政治思想の研究対象は「政 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 164 いて道徳は魂の性格を表す。人間は、道徳的交流によって一定な関係を形成し、また、その関係の性格と特徴を付ける )であり、人間関係は基本的に道徳関係であるといえる。そのため、人間とそ という点において道徳的存在 ( étre moral )を意味するといえる。したがって、本稿におけ spiritualité )とは、道徳 ( moeurs )が盛り込む観念と感情における正義と善 ( righteousness と の関係に付与される道徳性 ( moralité )を追求しようとするある種の性格または精神性 ( goodness る道徳の観点とは、観念と感情が如何に形成されるのかによって人間関係はもちろんのこと、社会におけるすべての関 係の正義と善とが決定されるということを証明しようとする観点である。 このような道徳の観点から、本研究はルソーの著作、特に、『社会契約論』と『エミール』における一般意志の内容 をより明らかにすることを目的とする。そのため、第一に、意志とは何か、第二に、普遍意志とは何か、第三に、一般 意志とは何か、第四に、普遍意志と一般意志はどのように確定されるのかという四つの問題を中心に議論を展開する。 その過程の中で、本稿は「正義」または「同意」に焦点を当てる立場が正しいとか、ルソーの一般意志は神の意志ま たは一般精神やプラトンの形而上学の観点から解釈すべきであるということを意図しない。寧ろ、ルソーの一般意志の 概念に対するやや大胆な解釈を試み、新しい解釈を提示する。大胆な解釈は既存の多くの研究者から批判されるであろ うし、そのため、大きな負担になるのも事実であるが、仮にルソー研究者にとって考慮する価値のある新しい解釈が提 供できるのであれば、それが成功にせよ失敗にせよ、この研究の目的は十分達成できたといえる。 二 意志と人間の本性 ルソーは、人間の本性に自己愛、同情、理性だけを明示しているが、想像力、悟性、完全可能性などのような能力も また人間の本性に潜在しているとみなす。そうであれば、果たして意志とは何か、人間の本性においてどう位置づけら れるのか、また他の能力とどういう関係なのか。 意志に関する最初の言及はルソーが『学問芸術論』で「誤謬は無限な組み合わせをもつが、真理はひたすら一つの存 165 呉守雄【一般意志の道徳性】 在様式をもつ。果たして誰がそれを真剣に追求するのか。更に、最善の意志 ( la meilleure volonté, P3. ) 18を持っていると )といい、当時 はいえ、どのような基準によって真理を認識していると確信することができるのか」( First Discourse, 15 までの学問研究を批判する部分から見出せる。しかし、深化した論議は『人間不平等起源論』で人間と動物を区別する 際に初めて試みられる。程度の差はあるが、すべての人間と動物が感覚と理性を持っていると主張するルソーは、両者 において最も重要な違いを自由の有無から見出す。彼によると、動物は自然に順応する存在である反面、人間は「順応 )によって、他方では自由行為 するのではなく、自然の動きに協力するものであり、それは一方で本能 ( instinct, P3. 141 )からであるという。 によって選択したり拒否したりする」( choisit ou rejette, P3. 141 人間は、選択したり拒否したりする自由な行為を通して、自然の動きに逆らうあまりしかるべき限度をこえた状態 )が感覚を変質させ、自然が沈黙する際にも意志 ( volonté )が持続的に作 に陥る場合もあるが、それは「精神 ( l ’ Esprit )は主にこの自由に対する意識 ( la 動」するからである。それにも拘わらず、ルソーは人間の「魂の精神性 ( spiritualité )の中で現れる」とみなす。つまり、選択したり拒否する自由に対する意識、正に「こ conscience de cette liberté, P3. 142 )純粋な精神的作動が見出されるということである ( Second の力に対する感情から」( le sentiment de cette puissance, P3. 142 ここで人間が自然の動きに協力することは、まず、本能のためであるということがわかる。人間の霊魂において最初 ) 。 Discourse, 148 )というルソーの言葉を考慮すると、二つの原 の単純な作動は理性がある以前に二つの原理による ( Second Discourse, 132 理に該当する自身の安寧と保全に対する熱烈な関心と同情を本能とみなすことができる。この二つにより、生命の保全 のための自然的必要 (食べ物、休憩、性欲)を選択したり、拒否したりする意思が働けるということである。 このように本能によって動かされる意志は動物でも持つことができる。しかし、「精神が感覚を変質させて」このよ うな本能が沈黙する際にも持続的に作動するということは、人間のもつ意志は本能と異なるものであるということを意 )に逆らうことがで 味する。人間の霊魂が本能だけによって作動すれば、人間は動物と違うところがなく、自然 ( nature )と同一であり、行為もまた本性から離れることができな きないからである。そのため、動物の本能はその本性 ( nature 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 166 い反面、人間の本能はその本性の一部を構成し、他の能力を通して本能から離れる行為ができる可能性を持つ。 人間本性の能力と意志の関係に対するルソーの説明は次の引用文によくあらわれている。 )により、そこで我々とその物事の間で見出される適合性 ( agréables ou déplaisantes )により、そして最後 convenance )を持つや否やその意識を生じさせる物事を、最初はそれが我々に快楽を与えるのか否か conscience de nos sensations 感覚を持って生まれ、出生から我々をめぐる物事によって多様な方式で影響される。我々は感覚知覚に対する意識( la ( )の観念に基づいて下した判断によって、追求し には理性がもたらす幸福または完全さ ( de bonheur ou de perfection )する。このような性向は、我々が感覚をより巧みに使用するようになって啓 たり避けたり ( à rechercher ou à fuir 。 Emile, ) 39 )によって制限され、我々の意見 ( par nos 蒙されるにつれ、拡張かつ強化されるが、我々の習慣 ( par nos l’habitudes )によって変質する ( opinions, P4. 248 即ち、感覚は楽しみと適合性の感情を通して本能と意志を媒介し、また理性は幸福または完全性に対する観念を通して 意志に影響を与えることができるということである。これは人間の本性に本能以外に、このような判断を可能にする感 情と理性によって啓蒙されたある種の「精神」が含まれるということを意味する。そして社会の状態で習得した習慣と 意見が意志の作動を変質させることができるということは、習慣が外部の対象に対して反復的に現れる行動様式であり、 意見を外部の対象に対して形成した観念と感情の複合体であり、言語を媒介に交流した結果または過程の中にあるもの とすれば、習慣と意見は精神に形成された観念と感情が外部に現れたもので、意志の作動に大きな影響を及ぼすという ことを意味する。 こ の よ う に、 意 志 は 選 択 し た り、 拒 否 し た り す る こ と に よ り、 自 由、 つ ま り 力 を 派 生 さ せ る が、 こ れ に 対 す る は感情であり、純粋な精神的作動ということがわかる。そして意志は人間本性に与えられた一つの能力とし conscience て、感覚の媒介として本能から起因して作動されるが、理性を媒介にして作動される精神活動の一つであるとみなせる。 167 呉守雄【一般意志の道徳性】 より具体的にいうと、意志は快楽および適合性に対する conscience により、そして幸福と完璧に対する理性による判断 によって動かされつつも、同時に、そのような判断の正しさと良さの可否に関係なく作動する独立的精神活動というこ とである。それで意志が正しさと良さの観念と感情に従うか否かは、習慣と意志をどう形成するのかによるものであり、 人間が動物になるか、もしくは神のようなより完全な存在になるかを決定するようになるのである。 三 自然状態と普遍意志 ──超越的知性と定言命法A デカルトと異なってルソーは、「私は存在する、そしてそれを感じさせる感覚を持っている」が故に基本的に人間を 感覚的かつ受動的存在としてみなしている。しかし、理性が次第に発達した際、能動的かつ知的存在になることもまた ) 。ルソーはこのような前提を自分に移入しながら宇宙に対する考察を試みる。彼によると、宇 認めている ( Emile, 272 ) 。全ての物体において運動は転移的 ( Emile, 270 )運動と自意または自発的運動という二つの運動がある。 communiqué )で満ちていて、このような物質が個別的な存在の中で結合されたのが物体 ( des corps, P4. 571 )である 宙は物質 ( matiére ( 前者の原因は外部にあるが、後者の原因は内部にある。しかし、この全ての運動の根本的原因は、他ではない意志である。 ルソーは「自分が腕を動かしたいときに動かすのは、自分の意志以外に他の直接的原因を持たない……仮に人々の行 )を想像するのは難しいことであ 動や地球上の全てのものに自意性がなければ、全ての運動の最初の原因」( Emile, 272 るという。更に、彼は「相互間で作動される自然の力の作用と反作用を結果から結果を通して観察するほど、最初の原 因として、常にある意志へ戻るべきであることを悟る……私はそのため、意志が宇宙を動かし、自然に生命を与えると ( ( )( Emile, 273 ) 、「故に私は世界は一つの強力で賢 信じ」( Je crois donc qu’une volonté meut l’univers et anime la nature, P4. 576 )とし、宇宙の全ての存在の原因として唯一の普遍意志がある 明な意志によって支配されていると信じる」( Emile, 276 という主張を披瀝する。 ルソーにおいて普遍意志は全ての物体とその関係にある秩序を与え、その秩序は全体の調和との一致を志向するもの (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 168 ( )ものとしてみなされ、自然を混同と無秩序を Emile, 278 ( としてみなされる ( Emile, 276 ) 。そのため、彼にとって「自然の光景は私にひたすら調和と比例均衡のみを見せる」( Le )( tableau de la nature ne m’offroit qu’harmonie et proportions, P4. 583 見せる人類の典型にすべきであるという主張が可能だったのである。 そうであれば、普遍意志が宇宙に与えた秩序として調和と比例均衡というものはどうわかるのか。ルソーによると、 世界にある「秩序があると判断することは世界の部分を比較し、その関係を研究し、その調和を探ってみることだけで ) 。なぜならば、彼は「仮に動く物質が私に意志を見せるとすると、ある法則によって動いた物 十分である」( Emile, 275 )を見せたの」( Emile, 275 )であり、 「同じ体系によって秩序が付与されない、そして 質は私に知性 ( intelligence, P4. 578 )と信じるからである。 同じ目的つまり、その成り立った秩序の中で全体の保全に寄与しないものはない」( Emile, 277 自然に生命を付与した普遍意志はまた、人間本性の原因であるため、感覚はその原因である普遍意志を感じ、それに である。そのため、ルソーは「あらゆる種類の特集な目的、手段、秩序のある関係を比較 対する感情は正に conscience 。如何なる健康な精神がその証拠を背くことが してみよう。そして我々の内面の感情に耳を澄まそう (以下:定言命法A) )を先入見のない視線に明らかに現れている できるのか。知覚され得る秩序が超越的な知性 ( suprême intelligence, P4. 579 )と言っているのである。 のではないか」( Emile, 275 のみならず、理性からの助 しかし、ルソーは調和と比例均衡を表す超越的な知性を知るのにそれを感じる conscience けも必要であることを認めている。「人間の悟性は情念からの助けを受けており、情念も悟性から多大な助けを受けて )されるものであるため、普遍意志に対する いる。我々の理性は、この両者の活動によって完成」( Second Discourse, 149 理解 (悟性)を完全にするためには他の能力からの助けを必要とする。そのため、ルソーは「私は自分の意志に対する 感情によって意志を知り、悟性も同一である。如何なる原因が私の意志を決定するのかと聞かれたら、私は如何なる原 因が私の判断を決定するのかと問い返す。この二つの原因は単に一つのものであることは明らかであるからである。そ して仮に誰かが、人間がその判断力において能動的と理解すれば、そしてその悟性とは比較し判断する力そのものであ ることを理解すれば、その人はその自由とはただ一つの同様の力、または、判断力から派生したものであることが解る 169 呉守雄【一般意志の道徳性】 (( のであろう。 その人は自分が正しいことを判断する際、善を選択し、間違ったことを判断すると、悪を選択する。…… ( によるが、理性と悟性の相互作用を通 conscience )という。要するに、自由を派生させる意志と判断の あらゆる行為の原則は自由な存在の意志の中にある」( Emile, 280 ( 共通した原因は正に超越的な知性であり、それを理解することはまず してより完全なものになれるということである。 ( る。したがって仮に、自然状態の自然人が五感と五感によって形成された共通感覚、つまり、内的な感覚知覚 (または観念) ( てあらゆる人々により共通的で、あらゆる物事の見かけを結合させることによって人間に物事の本性を教えるからであ は常に普遍意志に符合するとみなせる。人間は五感によっ るため、これらが形成した楽しみと適合性に対する conscience )の中に形成される共通感覚 ( sens commun, P4. 417 )を持っており、この共通感覚は他の感覚と比べ て頭脳 ( le cerveau 理性よりは感覚に依存する自然状態の自然人は、超越的な知性が見せる全体の調和と比例均衡を感覚を通して感じ得 (( のであろう。 に相互作用すれば、普遍意志に対する (( の形成と共有が可能であるということは社会状態においても同一であ conscience )──だけではなく、理性によって啓蒙された真の魂の感情である て形成された純粋な道徳的存在 ( êtres moraux, P4. 522 は理性の誤った使用によって、逆にその声を失う場合もあるか ることを保証するものではない。社会状態で conscience )が単に抽象的単語──悟性によっ らである。ルソーが社会状態に入る青年期、エミールに「私は正義と善( justice et bonté 自然人の間で超越的知性により近い 四 社会状態と一般意志 ──状況的強制と定言命法B は超越的知性により近く形成され、その共有の可能性はより高くなる conscience が形成され、 すれば、これらの相互間には比例均衡と調和を見せる超越的知性、それを表す普遍意志に対する conscience ( ( 共有される可能性が高いであろう。もちろん、これらの理性が「定言命法A」に従うことの優先性を認識し、悟性と共 に従うと、そして一人で独立して暮らしている自然人ではなく、ある程度、群集を成して暮らしている自然人であると (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 170 ことを見せるもの」( Emile, 235 )というのは、 「有りのまま」の人々が作り出した社会状態には、既に理性が感覚を変質 )があり、そ させて作り出した多くの道徳的かつ形而上学的観念によって維持されている道徳秩序 ( l’ordre moral, P4. 522 によっても承認され得る真の観念)を区別 ういう観念の中で、正義と良さに対する正しい観念 (理性のみならず、 conscience することがとても難しいからである。 社会契約をしなければならない状況に進入した人間たちがE型ではなく、B型の人間であれば、彼らが正しさと良さ に対する正しい観念を形成して区別できるとはみなしがたい。論理的に考えてみる際、仮にE型の人間であれば、「生 )におかれる状況をもたらすこともないからである。 活様式を変えなければ、人類が死滅する状況」( Social Contract, 52 したがって「有りのままの」B型の人間の場合が正に「精神が感覚を変質させた」時であり、社会で習得した習慣と意 見によって「定言命法A」が変質された時であり、その結果は、人間の本性と社会的実現様態すべてにおいて葛藤的状 況をもたらすものとして表れる。「共同の利益への自然的感情と、全てを私に関係付ける理性の間で、絶えず葛藤しな )漂流 がら、……私はこの持続的反転──悪を行いながら善を愛し、常に自分自身と葛藤する──の中で」( Emlie, 291 する生におかれるようになるということである。あるゆる人々が、このような状態、つまり、「理性がその持続的発展 ) 。そしてその他の基礎というのは、正に社会契約という人為的協約であり、これのためにはB Second Discourse, 132-133 によって本性を蚕食した際には、理性はこのような規則 (自然権の規則)を他の基礎の上に改めて立てなければならない」 ( 型の人間たちが自分に理性を正しく使うことに対する自発的な強制を加えることが要求される。そうではない場合、人 類はこれ以上存続することが難しくなる状況から逃れないからである。 自然状態から社会状態への移動は、その行為において本能を正義に代替し、以前に不足していたその行動に道徳を 与え、人間にとても注目すべき変化をもたらす。専らこの時、義務の声が肉体的衝動を代替し、権利が欲求を代替し、 ようやく、それまで自分だけを考慮していた人間は他の原則に基礎して行動するように、そしてその性向に注意を 。 払う前に、先に自分の理性と議論するように強制される自分を見出すようになる ( Social Contract, ) 56 171 呉守雄【一般意志の道徳性】 要するに、自然権の規則を他の基礎の上に立てることにより、人類の死滅を避けるべきであるという状況的かつ自発 的強制を認識した人間たちが、理性の案内によって社会契約行為を行えば、人間に内在している内的葛藤とそれが発現 されて作り出す社会的葛藤を解決することができるということである。そしてルソーが提示した、社会契約を通して解 決すべき根本的な問題は次のようである。 あらゆる共同の力で個人と各連合者の利益 ( les biens, P3. 360:良さまたは財産)を防御して保護し、それによって各々 (以 は全体に結合されても、一途に自身だけに服従し、前のように自由に残れる連合形態を探せ ( Social Contract, ) 53 。 下、「定言命法B」) 「定言命法B」を述べた後に、直ちにルソーは「一般意志の最高の案内により、自身 ( his person )と自身のあらゆる力 )社会契約行為を要請する。そして社会契約を通して「我々は各構成員を全体 を共同体に譲渡する」( Social Contract, 53 )を作 の個別部分として受け入れ」単一性と共同自我、生命、そして意志が付与された道徳的集合体 ( un corps, P3. 361 )という名を持ち、今は共和国または、政治体」( République et るようになるが、この集合体は「以前には都市国家 ( cité )と呼ばれる。 Social Contract, 53-54 更に、集合体をつくった社会契約は、その行為に参加する構成員に同等な権利を付与するが、「正にこのような契約 )( corps politique, P3. 362 の本性により、一般意志のあらゆる認証された行為といわれる主権のあらゆる行為は、全ての市民に平等に恩恵を与え、 義務を賦課する。……協約はその基礎に社会契約をもつため、合法的であり、全ての人々に共通的であるため公正であり、 )以外に他のものを持たないため有用であり、保障策として公共の力と最高の権力を持っ 一般的善 ( le bien général, P3. 375 ているため堅固である。臣民が一筋にこのような協約だけに服従する限り、彼らは彼ら自身の意志だけに服従すること になる」( Social Contract, ) 63と説明する。 この陳述は「定言命法B」が二つの目的を志向しているため可能となる。第一の目的は、皆が共通的に追求する利益で、 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 172 構成員全体の共同利益 ( l’intérêt commun, P3. 363 )であり、第二の目的は、構成員の中である個人や集団に従属されない ( ( ようにする、同時に、共同の力を構成する共同自由である。そのため、「定言命法B」が盛り込んでいる共同利益と共 )を構成し、したがって一般意志は公共善を追求せざるを得なく、 「常に正しく常 同自由は公共善 ( la bien public, P4. 599 ( 意志が、あらゆる存在の意志の総合である全体意志とは異なるように、政治体を生じさせた唯一の一般意志は構成員の 係しなければ、一般的または普遍的になれないからである。また、宇宙のあらゆる存在の意志の原因である唯一の普遍 同じように、個別意志は普遍意志と一般意志との関係において全て個別的なものであり、必ず、政治体という全体に関 政治体は構成員との関係においては全体としてみなされ得るが、宇宙という全体の関係においては個別的なものであり、 「定言命法B」を選択することによって生じる社会人の一般意志は、自然状態の自然人が従う普遍意志とは異なる。 自由な状態に陥るようになるからである。 ( 社会契約は何の効果も持たなくなり、そうなると、人類は存続することが不可能な状態に陥り、存続できるとしても不 うではない場合、 「定言命法B」によって生じる政治体の一員、つまり、人民になることを拒否したことに当たるため、 して求めるべきであり、連合形態に関する選択をする際に「定言命法B」を基準とすることが強制されるといえる。そ 目的が公共善の実現ということが明らかになる。そのため、社会契約に参加する構成員は必ず、「定言命法B」を理解 らない社会契約の根源となり、政治体もまた「定言命法B」に符合するように構成された連合形態、つまり、政治体の このような観点からすると、「定言命法B」は各人が自分自身と自分自身のあらゆる力を共同体に譲渡しなければな よりよく理解できるということである。 を「「定言命法B」に符合するように」と解釈する際、ルソーの一般意志に対する説明が論理的体系を整えるようになり、 「一般意志の最高の案内により」 に公的有用性を志向する傾向」( Social Contract, ) 61を持たざる得なくなる。強調するが、 (( 意志の総合である全体意志とは異なるというルソーの断言が理解できる。 173 呉守雄【一般意志の道徳性】 (( 五 定言命法A、Bと共同審議 『社会契約論』は全体と全体の関係を規律する政治体の法だけを対象としている( Social Contract, ) 77という点において、 )法は憲法を対象としているといえる。憲法は「定言命法B」を、より具体 政治体の根幹となり得る ( Social Contract, 46 的に共同的利益と共同的自由を実現するものとしてみなされる法と制度に関する事項で構成される。ルソーが『社会契 )はこのような事項に関するものであり、この過程で共同 約論』でいう人民の共同審議 ( délibérations communes, P3. 374 利益と共同自由に関する人民の習慣と意見が反映されるとみなしている。このような共同審議の過程において「定言命 法B」が最高基準になる際、人民は善と正義、幸福と完全さに対するより正しい観念と感情を形成することが可能になり、 ( ( 反映することもできる。そうすると、構成員の個別意志は自分に善をもたらすものであろうとみなされる自由を追求し ながらも、同時に、共同の利益と共同の自由を追求するようになり、更に、政治体を通して人民は自分たちをより完全 な存在にすることができるからである。 情報が提供された国民が審議する際に、市民たちは市民の間で意思疎通を持たなければ、一般意志は常に小さい差を持 ここで余るものと足りないものとは公共善に対する構成員の観念と感情の差であるといえる。ルソーが「仮に十分に 余るものと足りないものを相殺してその差の合計として残るものを一般意志としてみなそうと語っているのである。 ) 、 することは投票者の数ではなく、彼らを結合させる共同利益であることが理解されるべきであり」( Social Contract, 63 )と認める理由である。 そのため、ルソーはこのような人民の間で一般意志を理解するため、 「意志を一般化 Contract, 55 ソーが「実際に、各個人は、彼が市民として持つ一般意志と異なる個別意志を、人間として、持つことができる」( Social による快楽を判別し、それに一致するものを求める理性的判断に従う傾向がなくなるというわけではない。これが、ル )に向かう傾向」( Social Contract, ) 、つまり、自分の本性 (本能と精神) 別意志がその本性上の選好 ( préférences, P3. 368 59 しかし、状況的かつ自発的強制によって「定言命法B」を選択したとしても、「有りのまま」のB型人間として彼らの「個 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 174 つ大多数の国民から現れ、そして、その審議はいつも正しい」( Social Contract, 61 )と信じることは、市民たちの間での 審議が長ければ長いほど、それは個人の習慣と意見がより多様になるか、お互いに相反していることを意味していると みなしたからである。また、同時に市民たちの理性が正しく作動せず、「定言命法A」が変質されたことと違いがない とみなしたからである。 しかし、ルソーが「一般意志が十分に表明されるには国家内に部分的な党派が存在してはならぬ、各市民は独自的な )と主張するのは、共同審議は共同審議における意見の差自体を否定 意見を持たなければならない」( Social Contract, 61 ( ( することではない。党派と共に生じる意見の対立は国家にとって有害であるが、市民たちの間の意見の対立は有益であ るとみなすからである。意見を異にする市民たちにおける「会合で調和が多ければ多いほど、つまり、満場一致の支持 が得られる意見に近づいていけばいくほど、一般意志はより支配的になるが、長い討論、分裂、そして騒動は個別意志 )という点からして共同審議で個別意志が一般意志を代替すること の優勢と国家の衰退をもたらす」( Social Contract, 109 を警戒しなければならないと指摘するのである。 したがって国家を維持するため、人民が「定言命法B」に対する意志を失わないようにし、正しい習慣と意見を形成し、 これをお互いに交換する共同審議の状態を恒常的に維持することが重要となる。ルソーが「道徳、慣習、そして特に、我々 )を国家の真の憲法であり、市民たちの心 の政治理論家たちに知られていない法の一部である意見」( Social Contract, 77 に刻まれた真の法であるとみなすことは正にこの理由からである。 市民の心に刻まれた真の法は他ではなく、自然状態の自然人の良心に刻まれた法として捉えることができる。ルソー は「自然と秩序の永遠な法は存在する。賢明な人々において自然法は実定法に取って代わる。自然法は良心と理性によっ )と語っている。 て人間の心に書かれている。人間は自由になるため、この法に従属しなければならない」( Emile, 473 このような言明は、正しい習慣と意見を形成して維持するためには、人々の心の中で変質した「定言命法A」を自然状 態の自然人のものとして回復させること、いわゆる「自然に戻れ」を前提するべきであることを意味する。 国家を構成する人間はB型の人間であるため、彼らが自ら「定言命法A」に従うと期待することは難しい。そのため、 175 呉守雄【一般意志の道徳性】 (( ルソーは賢明な立法者と検閲官を要請する。立法者は人民の判断へ「ありのままの対象を見せなければならない。また、 時々それが追求する善の経路を見せることにより、個別意志の誘惑に反して保護されるということとして……表れなけ ればならない……つまり、これらは彼らの意志を理性に従うようにする義務を賦課し、彼らが望んでいることが何なの ( ( )義務を持つようになる。そのため、これらが人々の意見と彼らの道徳を改 かを解るように教える」( Social Contract, 67 )のである。 革することは彼らを純化させることになる」( Social Contract, 123 第一に、ルソーの思想において、意志は選択したり拒否したりすることで、自由つまり力を派生させる人間の本性に の問いを中心に論理を展開した。そして結論的に、その問いに対する答えは次のようなものである。 本稿は、序論で道徳の観点からルソーの一般意志を理解することが目的であることを明らかにした。そのため、四つ 結論 うに、そしてある国家の市民が世界市民となり得る可能性を開けておくことにあたる。 ことは、一般意志が普遍意志により近く、政治体が美しくて秩序付けられた宇宙という「コスモス」により符合するよ 持続的な市民の充員によって可能になる点において、「定言命法A」と「定言命法B」が調和を成した市民を教育する の人間の養成が目的である。最初の社会契約によって形成される憲法と国家の立法精神を維持することは世代を超えて しかし『エミール』は、「定言命法A」と「定言命法B」が調和を成した、自然性を留めておいた市民、つまり、E型 立法者と検閲官の役割は「定言命法A」が蚕食されたB型の人間を対象に「定言命法B」を従わせることが目的である。 ) 、つまり、「定言命法B」を忘れさせない道徳と意見を維持することであるといえる。 立法精神( l’esprit de l’institution, P3. 394 与される。つまり、立法者と監察官の任務は政治法に関係した人民の道徳と意見を探ることであり、同時に人民をして )する任務が付 ことにより、時には意見が不確実な際に、意見を決定することによって道徳を維持」( Social Contract, 124 また、検閲官には共同審議で「意見が堕落することを防ぐことにより、賢明な適用を通して意見の正しさを維持する (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 176 付与された一つの能力として、感覚と理性とは独立的に作動するが、感覚の媒介による快楽および適切性を、本能に起 によって作動させたり、また、理性を媒介とした幸福と完全性に対する判断によって動かしたりする。 因する conscience したがって意志がどの感情とどの観念に従うのかによって人間の社会的実現様態に対する評価が変わりうる。 第二に、普遍意志は宇宙とあらゆる存在の原因として神の意志と同じようなものであり、あらゆる物体とその関係に を通して、つまり、 「定 調和と比例均衡を付与して秩序を成す超越的知性とも同じである。自然状態の人間は conscience 言命法A」に従うことにより、普遍意志とそれが表す超越的知性を感じ得る存在としてみなされる。 第三に、一般意志は社会状態を前提とする意志で「定言命法B」に対する意志である。しかし、一般意志は構成員が、 普遍意志が表す調和と比例均衡に対する正しい観念と感情を形成する際、つまり、「定言命法A」に従う際、普遍意志 にアプローチできる可能性を内包している。また、一般意志は「定言命法B」に対する意志として、具体的に、「定言 を通して普遍意志がわかり、 conscience 命法B」が盛り込んでいる共同利益と共同自由に対する全ての構成員の意志であるといえる。これは社会契約と政治体 を構成するにあたって必ず守って従わなければならない最高の基準となる 最後に、普遍意志と一般意志はどうやってわかるのか。自然状態の自然人は が蚕食された状態であるため、 また相互間で共有することもできるが、社会状態に進入するB型の人間たちは conscience 彼らには状況的強制と共に「定言命法B」を理解して従うように、彼らが自発的に自らを理性にしたがうよう強制しな ければならない。おそらくは、これが、ルソーが社会契約論を執筆するようになった動機かもしれない。また、立法者 と検閲官の助けを必要とした理由かもしれない。状況的強制、理性的強制、そして立法者と検閲官を通して、人々をし てその自分の理性を通して「定言命法B」を理解させ、社会で習得した習慣と意見に対する判断において最高の基準に させる際に、一般意志は、共同審議を通すにせよ、しないにせよ、見出される。 しかし、B型の人間が全部同じ程度の「定言命法B」に対する意志を持つことを期待するのは難しい。彼は既に幸福 と完全さに対する多様な観念にさらされ、それに従う行動が習慣になっている人々であるからである。したがって、社 会の構成員が全体と全体の関係に関して選択しなければならない際に、多様で多くの観念と感情から常に「定言命法B」 177 呉守雄【一般意志の道徳性】 を基準にしてそれに符合する観念と感情つまり、道徳、慣習、特に、意見を形成するようにすることが何より重要なこ とであるといえる。これは、即ち、人民をして「定言命法B」を理解して従う理性を持たせ、「定言命法A」を失わな いようにする作業であるといえる。 そ し て 仮 に 一 つ の 政 治 体 で「 定 言 命 法 B 」 に 従 い な が ら も、 同 時 に「 定 言 命 法 A 」 と 調 和 を 成 せ る の で あ れ ば、 そ ういう人民は、市民はもちろんのこと、世界市民になる可能性を持つようになる。そのような可能性は、『エミール』 が み せ る よ う に、 教 育 に よ っ て E 型 の 人 間 を 養 成 す る こ と に よ り 増 加 し 得 る。 既 に 堕 落 し た 人 間 の 本 性 を 変 化 さ せ て 道 徳 を 付 与 し、 更 に 政 治 体 が コ ス モ ス と 調 和 を 成 せ る よ う に す る、 そ れ に よ り 人 間 を 神 の よ う な 存 在 に な る よ う に 案 Victor 内 す る 教 育 は ル ソ ー の よ う な 偉 大 な 哲 学 者 ── ま た は そ れ ほ ど で は な く て も 今 日 の 政 治 学 者 ── の 義 務 で あ る と い え る。 (1)本稿で主に用いたルソーの著書は次のようである。『学問芸術論』と『人間不平等起源論』はヴィクター・グレヴィッチ( )が編集した The First and Second Discourses and The Essay on the Origin of Language ( New York: Harper & Row, Gourevitch )、『社会契約論』はロジャー・マスターズ( Roger D. Masters )が編集した On the Social Contract with Geneva Manuscript 1986 ( New York: St. Martin’s Press, 1978 )、『 エ ミ ー ル 』 は ア ラ ン・ ブ ル ー ム( Allan Bloom )が翻訳した and Political Economy ( New York: Basic Books Inc., 1979 ) を 用 い た。 こ れ 以 外 に 主 要 概 念 の 場 合、 ベ ル ナ ル・ ガ ニ ュ バ ン Emile or On Education ( Patrick Riley, The General Will Before Rousseau: The Transformation of the Divine into the Civic Princeton, NJ: Princeton ( )とマルセル・レイモン( )が編集したフランス語版の全集 Oeuvres Complètes, Vol I-V ( Paris: Bernard Gagnebin Marcel Raymond )を用い、 P1-4 の方式で表記した。ルソーの用いた原語を示す場合はイタリック Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade, 1959-1995 表記にした。 (2) ) . University Press, 1986 (3) Eric Stencil, “Malebranche and the General Will of God”, British Journal of the History of Philosophy, Vol. 19, No. 6, 2011, 1107-1129. 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 178 )、 マ ス タ ー ズ( Arthur Melzer ) な ど を、 第 Roger Masters Arthur M. Melzer, “Moral Realism: Replacing Natural Law with the General Will”, in Rousseau and Law, Thom Brooks ed., (4) David Lay Williams, “Spinoza and the General Will”, The Journal of Politics, Vol. 72, No. 2, 2010, 341-356. ウィリアムズは一般 意志の起源に関する説明は通常プラトンの形而上学に基づいていると主張する。 (5) Hants: Ashgate Publishing Limited, 2005. ( 6) ウ ィ リ ア ム ズ に よ る と、 第 一 の 立 場 に ア ー サ ー・ メ ル ツ ァ ー( 二の立場にジェイムス・ミラー( James Miller )、アラン・ブルーム( Allan Bloom )が含まれるという。そしてウィリアムズは 第二の立場から論議を展開する。 David Lay Williams, “Justice and the General Will: Affirming Rousseau’s Ancient Orientation”, パ ト リ ッ ク・ ラ イ リ ー は “Rousseau’s General Will: Freedom of a Journal of the History of Ideas. Vol. 66, No. 3, 2005, 383-384. でルソーの一般意志が持つ独創性を強調している。 Particular Kind”, Political Studies, XXXIX, 1991, 55-74 (7) Patrick Riley, “Rousseau’s General Will: Freedom of a Particular Kind”, 56 から再引用。 (8)ハバマスの評価に関しては Jürgen Habermas 著、ホンユンギ、イジョンウォン訳、『理論と実践』(ソウル:鍾路書籍、一九八 九)、八九─一〇〇頁、カント、コンドルセ、ダルジャンソンの評価に関してはカッシーラー著、ユチョル訳、 『ルソー、カント、ゲー テ』(ソウル:ソグァン社、一九九六)、一八頁、チェミョングァン訳、 『国家の神話』(ソウル:ソグァン者、一九八八)、二二一頁、 人間の不幸の原因となる欲望と状態の間の、義務と性向の間の、本性と社会制度そして人間と市民の間での矛盾を克服し、人間、 supreme 社会が各々そしてお互いが統一性をなすことによって幸福を得ることができるとみなすからである。 Arthur M. Melzer, “Rousseau )、最高の権力( indestructible and the Problem of Bourgeois Society”, The American Political Science Review, Vol. 74, No. 4, 1980, 1018-1033. )これに関する議論は、キムヨンミン、『ルソーの政治哲学』、一四〇─一四三頁参照。 )ここで意味する一般意志の絶対意志とは、『社会契約論』でルソーが言及した破壊されない( 179 呉守雄【一般意志の道徳性】 パクワンギュ訳、『啓蒙主義の哲学』(ソウル:ミンウム社、一九九五)、三三八頁参照。 )ルソーは人間の本性に自身を保全( self ‐ preservation )しようとする( amour de soi, 自己愛)、同情( pity )、理性があると前提する。 )メルツァーは、ルソー解釈においてブルジョア社会に対するルソーの批判と解法をより重要にみなすべきであると主張する。 (9) ( New York: State University of New York, 1995 ) , Julia Simon, Mass Enlightenment: Critical Studies in Rousseau and Diderot パクホソン編訳、 『ルソー思想の理解』(パジュ:インガンサラン、二〇〇九)、一二、一三、一五頁、パクヒョク、 2012 、 「意 44-69; 志の政治から意見の政治へ:ルソーに対するアーレントの批判」『政治思想研究』第一八集第一号参照。 ( ( ( ( 11 10 13 12 ( ( ( ( ( Melissa Schwartzberg, “Rousseau on Fundamental )であること意味し、道徳性とは、一般意志が善( goodness )と正義を盛り込んだことを意味する。 power )ここで意味する政治的観点とは、政府と派閥、個人間の「力」の関係による法と制度の決定及び変化に焦点を当てることを意 味する。一般意志の規範形成的な力と授権的な力に焦点をあてている研究は 参照。 law”, in Rousseau and Law, Thom Brooks ed., Hants: Ashgate Publishing Limited, 2005, 175-191 ) 道 徳 の レ ベ ル で ル ソ ー を 解 釈 し よ う と 試 み た 研 究 と し て Charles William Hendel, Jean-Jacques Rousseau: Moralist ( New )が挙げられる。 Haven: Yale university Press, 1930 )オスウン、『ルソーの道徳と法:概念と関係』、五─一二頁参照。 )ルソーは普遍意志を神の観念と結合させている。「志があって強いこの存在、それ自体で能動的存在、それが何であろうが、 宇宙を動かしてあらゆる物事に秩序を付与する存在、私は神と呼ぶ、私はこの名に私が結集させた知性、力、そして意志の観念を 結合し、必然的な結果である善( bonté, P4. 581 )の観念を結合」( Emile, 277 )させる。更に、正義の観念もまた、神の観念に結 合させる。「正義と真理の源泉である神、寛大で良きあなたを確信し、私の心の至高の願いは、あなたの意志が実現されることで Emile, Patrick Riley, す。私の意志をあなたの意志に結合させながら、私はあなたが行っていることを行い、あなたの正しさの中で沈黙します」( )。ライリーによると、一般意志はそもそも政治言語ではなく、神の意志を意味する宗教的言語であったという( 294 いうことを認識していたため、一般意志を政治言語へ転換させたと解釈するほうが正しいといえる。 The General Will Before Rousseau,) 4。こう見ると、ルソーの一般意志を神の意志と関連づけて理解するのが当然であるかもし れない。しかし、ルソーは一般意志と普遍意志が一致し得るし、またそうなるべきであるが、そうならない可能性がより大きいと ( ) “l’harmonie et l’accord du tout ( P4. 580 )と ” 比べると、比例均衡は、部分間の関係に付与された秩序として各部分が各々に符合 する比例に関与する際に、全体が到達する状態といえる。したがって比例均衡との一致( l’accord du tout )を同一の意味として捉 ( 14 15 17 16 ) デ ィ ド ロ は『 百 科 全 書 』 の「 自 然 権 」 で 一 般 意 志 を「 感 情 の 沈 黙 の 中 で 思 考 す る 悟 性 の 純 粋 な 作 動 」 と し て み な す 一 方、 ル えることができるのであろう。 18 ) , 17- 21; キムヨンミン『ルソーの政治哲学』(パジュ:インガンサラン、二〇〇四)、一五三─一六四頁。 Press, 1992 ) 共 通 感 覚 は 五 感 に よ っ て 精 神 に 形 成 し た 感 覚 知 覚( ま た は 観 念 )( perceptions ou idées, P4. 417 ) に 該 当 し、 こ れ が 正 に ソーはそれのみならず、感覚(感情)によっても作動され得ると主張する。 “Droit Naturel” in Encyclopédie, Vol. 5, Denis Diderot, ( Cambridge: Cambridge University in Denis Diderot: Political Writings, Trans. and ed. by John Hope Mason & Robert Wokler 19 20 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 180 ( ( ( ( な感覚知覚を比較して単純観念、さらに、複合観念へ混合する過程において想像力の作動を統制するか否かによって誤謬の発生が である。また、比較する能力である理性は感覚理性と知的理性、二つにわけることができる。この二つの理性が作動す conscience ることによって単純観念と複合観念を形成する( Emile, 157-158 )。感覚知覚が誤謬をおかす可能性はほぼないが、理性がこのよう 決定される。つまり、理性を正しく使うかどうかは想像力を統制するか否かによって、物事の実質的な関係を把握して真の意見を もつか、或は、想像的関係として捉えて儚い意見、先入見または偏見を持つかによるのである。 ) Consceince に対するルソーの信はこのような論理から理解できる。そのため、彼は語る。「その目的のため、私は(エミール)、 貴方が我々の自然的感情から習得された観念を区別できるようにしようとする。我々は知る前に感じるからである。そして我々は 我々にとって良いものを望んでいることを、そして我々にとって害になるものを避けることを教われなかったが、自然からその意 志を得るため、正にその事実によって良さに対する愛と害になるものに対する憎悪は我々自身に対する愛ほど自然らしいものであ 、「国家と公共善/共同善:全体善と個別善の間のマキャベリ」『政治思 2012 る。 Conscience の活動は判断ではなく、感情である。全ての観念が我部から入ってきたとしても、それらを判断する感情は我々 の中にあり、我々が追求したり、避けたりする物事と我々の関係が適切なのかどうかを知ることはこの感情による」( Emile, 289)。 290 )共同善と公共善の区別に対してはキムキョンヒ、 想研究』、第一八集第一号、三三─五二頁参照。 )ルソーの「自由であるよう強制される」( Social Contract, ) 55という有名な語句がこういう意味から理解されれば、全体主義 的傾向に対する懸念から離れるようになるのであろう。自由であるように強制することは「定言命法B」を拒否した人からして政 )ルソーが愛国心を同胞市民に対する愛として捉えていることに関してこの文脈から理解できる。つまり、「定言命法B」に対す 治体の中で生存できるようにすることである。 る意志を持つ同胞に対する愛は、直ちに、社会契約の効果を高めることによって政治体を健康にする人に対する愛と同一であるた めである。ルソーの愛国心に対してはキムヨンミン、『ルソーの政治哲学』一六八─一九一頁参照。 ( )ルソーは脚注においてマキャベリに言及する( Social Contract, ) 。マキャベリの陳述は、まるで国家に貧富が拡がる際に、 61 国家は一つではなく、いくつかの国家であり、そのような国家は力が弱いというプラトンのような言及を思い出させる。 Republic, ( 421d-423a. )これは人民が誤った判断を規律することになる。同時に、立法者は「習俗について判定を下す者は名誉について判定を下すの 181 呉守雄【一般意志の道徳性】 21 22 23 24 25 26 であり、名誉について判決する者は世論をその法としている」( ければならない。 )のと同じように、人民の意見に耳を傾けな Social Contract, 123 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 182 ハイデガーからアレントへ ──公的領域の原型としての民族 はじめに 小林正嗣 「お気づきになるでしょうが、この本には献辞がありません。もしもわたしたちのあいだが尋常であったなら、 ──わたしの言っているのはあいだであって、あなたでもわたしでもありません──、あなたに献呈していいかど (1) うか、お尋ねしたことでしょう。これは最初のフライブルクの日々から直接に生まれた本で、あらゆる点でほとん どすべてをあなたに負うているのですから。」 (2) これは、ハンナ・アレントからマルティン・ハイデガーに送られた一九六〇年一〇月二八日の手紙の一文である。こ の本とは『人間の条件』のことであり、同書をハイデガーに献呈する際に書かれたのが、この手紙である。手紙の中で アレントが自著について、「あらゆる点でほとんどすべてをあなたに負うている」と書いていることに注目したい。 一九二四年のマールブルク大学における教師ハイデガーと学生アレントの間に存在する師弟関係を思えば、アレント の発言は当然のことと言えそうである。しかしながら、以下の点を考慮すると、アレントの発言は、容易には受け容れ られないものとなる。すなわち、第一に、両者の間の師弟関係は、間もなく不倫という形での恋愛関係となり、翌一九 183 二五年、アレントがカール・ヤスパースのいるハイデルベルク大学へ赴くことにより解消されるということである。二 人の間で交わされる手紙も、ハイデガーがナチス政権下でフライブルク大学の学長に就任し、アレントがフランスに亡 (3) 命する一九三三年を最後に、一九五〇年まで途絶えることになる。そして、第二に、アレントが一九四六年に「実存哲 学とは何か」という論文の中で、ハイデガーの哲学を、およそ自身の思想とは相容れないものとして痛烈に批判してい ることである。 人間的にも学問的にもハイデガーと決別したアレントが、なぜ、自らの著書がハイデガーに拠っているとする一文を (4) 書いているのであろうか。この疑問を導入的問いとして、本稿は、ハイデガーとアレントの思想的関係を解明すること を主題とする。以下に、本稿の構成を示しておく。 一では、アレントがハイデガーをどのように解釈したのかについて、 「実存哲学とは何か」を素材として検討する。「実 存哲学とは何か」は、一九三三年にハイデガーと決別したアレントが、初めて彼の哲学を真正面から論じた論文である。 ここでは、アレントがハイデガー哲学を、他者との結びつきを断ち切った単独者を理想とする思想である、と批判的に 解釈していることを確認する。 二では、ハイデガーとアレントの思想的関係を分析した先行研究を整理する。先行研究の多くは、一で確認されるア レントのハイデガー解釈を前提としている。つまり、アレントはハイデガー哲学を徹底的に批判しそれを克服し乗り越 える形で自らの思想を構築している、と捉えられるのである。 それでは、ハイデガー哲学を批判し乗り越えた思想として理解されるアレントの思想とはいかなるものなのであろう か。三では、アレントの『人間の条件』を、公的領域と活動の二概念を中心に分析する。ここでは、公的領域が、活動によっ て他者に対して自らの唯一性を出現させる空間であることが確認される。一と二を踏まえてまとめると、アレントの思 想は、他者との関係を断ち切った単独者を志向するハイデガー哲学を批判し、他者の存在を前提とした公的領域という 考え方を提示していると理解されるのである。 ハイデガーの哲学を批判し、その難点を克服する形で新たな考え方を提起したということであれば、「あらゆる点で 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 184 ほとんどすべてをあなたに負うている」というアレントの発言には違和感を感じざるを得ない。文面を字義通りに理解 (5) するのであれば、基本的な考え方を継承しそこに新たな知見を加えたと考える方が自然だからである。このような観点 から、ハイデガーの『存在と時間』を検討するのが四である。ここでは、民族概念に焦点を当てて分析することによって、 ハイデガーの哲学が、アレントが解釈したような単独者を目指すものではなく、むしろ、他者と共にある共存在を前提 とした民族共同体を志向するものであることを明らかにする。 五では、結論として、三と四の分析を踏まえて、アレントとハイデガーの思想の関係性を検討する。ここでは、アレ ントの公的領域とハイデガーの民族には大きな共通性が存在することを主張する。 そして最後に、本稿の導入的問いに対する筆者なりの回答を示す。その問いとは、アレントが『人間の条件』について「あ らゆる点でほとんどすべてをあなたに負うている」と述べていることの真意は何か、ということであった。ここでは、 アレントがハイデガー哲学を解釈し直し、それを順接的に継承することによって『人間の条件』を構想執筆した可能性 があることを、いくつかの手紙を参照しつつ示したいと思う。 一 アレントのハイデガー解釈 本章では、一九四六年の論文「実存哲学とは何か」を素材として、アレントがハイデガーをどのように理解したのか を検討する。同論文は、両者が決別してから一〇余年の年月を経て、アレントが初めてハイデガーについて論じた作品 である。同論文におけるハイデガー哲学に対するアレントの解釈は極めて批判的である。以下で確認していこう。 (6) アレントによれば、実存哲学は、「ものの何であるか」が「ものがあること」を説明し得ないという自覚をもって始まる。 つまり、ものの本質をどれだけ探求しようとも、ものの実存にはたどりつけないという自覚である。現代の実存哲学の 先駆者であるキルケゴールの出発点が、まさにこの本質と実存の乖離の自覚であった。すなわち、理性によって完全に 説明し尽くされた世界の中で、私が実存しているという純然たる事実が把握され得ないという感覚が、彼の出発点となっ 185 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 ( ( になる。アレントは、ハイデガーの現存在分析を以下のように理解する。 現存在は端的に存在するのではなく、対象に気遣いを向けつつ存在している。このような在り方をする現存在を世界 内存在という。しかしながら現存在は、世界内存在として存在する時は自ら自身となることはできない。世界内存在と しての現存在は、世界へと頽落している様態だからである。したがって、現存在が真に自ら自身となることができるのは、 ( ( ( ( 世界から退去することによってのみである。世界からの退去とは、死を意味する。すなわち、「自ら自身を世界の外へ と引き離す死にあってのみ、人間は自ら自身であるという確信を得る」のである。 (( ( ( ( ての仲間から根底的に分離したところにある。つまり、「人間の存在の特性は、彼がそうではないところのもの、すな ( 以上のように、自らの最も本質的な特性は、無としての死を経験することにおいて、世界から自らを解き放ち、すべ (( ( ( わち彼の無によって本質的に規定される」ということである。それゆえに、アレントによれば、「死によって条件づけ (( られた現存在の分析によってハイデガーが厳密に論じるのは、存在の意味とは無であるということである」。 (( そが本質と存在が一致する存在者であった。それゆえにハイデガーは、人間を分析の対象とし、その本質を、死によっ 以上がアレントによるハイデガー解釈である。簡潔にまとめておこう。存在を探究するハイデガーにとって、人間こ (( てあらゆるものから分離された無として規定されるとした。したがって、ハイデガーにとって、存在の意味とは無とい 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 186 (7) ている。実存哲学をこのように捉えた時、人間存在の分析を用いて存在の意味それ自体を解き明かそうとするハイデガー の哲学もまた、実存哲学として位置づけられることになる。 (8) 存在を問うことを課題とするハイデガーは、『存在と時間』において、まず、人間の分析に着手する。その理由をア (9) レントは、以下の点に見ている。すなわち、人間は「本質と実存とが同一であるような存在者」だからである。つまり「人 ( 間は彼が存在することを本質としている」のである。アレントは、ハイデガーのこの主張を「人間を『存在の主』たら しめようとする企て」であると捉えている。伝統的な形而上学において本質と実存が同一であるような存在者は、ただ ( 神のみであり、それゆえ、ハイデガーの試みは、「伝統的な存在論において神が占めていたそのまさに同じ位置に人間 (( を据えるもの」だったのである。それゆえに、ハイデガーの存在論は、人間を現存在と呼び、その本質を分析すること (( うことになるのである。 それでは、アレント自身は、人間の存在すなわち実存をどのようなものとして捉えていたのであろうか。アレントは、 実存を、その本性からして、孤立したものではないと考えている。この考え方の前提には、他者を自らの存在にとって ( ( の障害と捉えるハイデガーに対する批判がある。つまり、アレントは、「実存は、彼らすべてに共通の世界に住まう人 ( ( 間たちが分かち合う生のうちでのみ展開しうる」と考えるのである。それゆえ、アレントにとって「実存の本質は、もっ ぱら他者の実存とのコミュニケーションに、そして他者の実存を知ることにある」のである。 以上、「実存哲学とは何か」を素材として、アレントがハイデガーをどのように理解したかを確認してきた。本章に おいて重要な点は三点ある。それらは、次章以降の分析へとつながるものである。順に示そう。 第一に、ハイデガーとアレントの思想的関係を分析する研究の多くが、この論文における両者の関係を基礎としてい るということである。すなわちアレントは、ハイデガーの哲学を徹底的に批判し、それを乗り越える形で自らの思想を 形成しているという解釈である。この点については二で検討する。第二に、実存の本質を他者とのコミュニケーション と捉えるアレントの考えが、 『人間の条件』における活動概念へとつながっていくという点である。この点については、 ( ( 三で検討する。第三に、本来的現存在を他者から切り離された単独者であると捉えるアレントのハイデガー解釈が、ハ イデガー研究における一潮流を作っているということである。このアレントのハイデガー解釈の妥当性については、四 における『存在と時間』の分析の際に検討する。 二 先行研究の整理 本章では、ハイデガーとアレントの思想的関係を分析した研究として、ヴィラ、フォルラート、梅木の研究を検討する。 (( 三者は、アレントがハイデガー哲学を批判し、それを克服する形で自らの思想を形成したと理解する点で共通している。 順に確認していこう。 187 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 (( (( ( ( ( 様である。すなわち、「自己の最も本質的な特性は、その絶対的な自己中心性、それがすべての仲間から根底的に分離 ( ( していることである」の箇所を引用し、ハイデガーの純正な自己は世界からも周囲の人間からも事実上の孤立を要求さ ( ( このようなハイデガーに対するアレントの批判的評価は、一九五〇年を境に変化し始める。すなわち、ハイデガーが 現存在を他者と共にある存在、すなわち本質的に世界内存在であると捉えた分析を評価し始めるのである。つまり、西 ( のである。 ( 上げる根本的要因であると主張した。その際に、現存在を世界内存在と捉えるハイデガーの分析が価値あるものとなる 抹消される傾向にあった。そのことに批判的なアレントは、逆に、世界性と人間の複数性を政治的経験そのものを作り 洋政治哲学において、人間の複数性および人間の自発性は、正義に基づく社会を実現するために障害になると見なされ、 (( ラはそのようには考えない。なぜなら、アレントが価値を見出す世界内存在という概念はハイデガー自身にとっては否 ( ( 定的なものだからである。つまり、ハイデガーは世界内性という概念を切り開いたが、あくまでそれは非本来的なもの であり、それゆえに公共的世界は日常的現存在が住まう非本来的領域なのである。 ( ( ( 示の空間として捉え直した。つまり公的領域こそが本来的開示性に格好の場所であり、そこでこそ現存在の「現」が露 ( それに対しアレントは、公的領域を、政治的な行動と言論を通じて人間存在が独自のアイデンティティを獲得する開 (( わになる領域だと考えるのである。このように、アレントは、一九五〇年以前には、本来的自己が他者および世界から (( (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 188 ( ヴィラは、ハイデガーに対するアレントの批判的見解が、一九五〇年を境にどのように変化したかを検討している。 ( えるわけではなく、むしろ、実体と、深さと、力をさらに増大させて変化を遂げている」。 ( ヴィラの主張を先取りしておくと、以下の通りである。すなわち、「その批判的な姿勢は、一九五〇年以後になって消 (( 「実存哲学とは何か」におけるアレントのハイデガー解釈についてのヴィラの理解は、前章における本稿のそれと同 (( れていると捉える。このハイデガー解釈が批判的であるのは、アレント自身は実存について、他者との間のコミュニケー (( ションが重要であると考えているからである。 (( それではアレントは、ハイデガー哲学に対する批判的態度を改め、それを受容するようになったのであろうか。ヴィ (( 切り離されていることを批判し、一九五〇年以後には、世界性概念を評価しつつも、それがハイデガー自身にとっては 非本来的なものとして理解されていることを批判し、その上で自らの思想を構築したのである。 ( ( フォルラートもまた、ヴィラと同様の立場であるといえる。フォルラートの立場は「ハンナ・アレントの政治的思索 がハイデガーの哲学に関わるとき、そこでは離反という動機が中心になっている」というものである。つまり、アレン ( (( ( ( (( ( あるものをあるものとして存在させることになるからである。 ( て道具としての存在者に出会い、あるいはその連関に溶け込んでいる様態から脱すること、すなわち没関心性こそが、 没関心性は、存在を探究するハイデガーの哲学においても重要なものとなる。なぜなら、日常的な配慮的交渉におい 言論と活動によって人間の卓越を競い合って示す公的領域を区別するのは、私的な利害関心の有無」なのである。 ( のとなる。つまり、 「人間の必要を満たしその生存を確保するためにある私的領域と、そうした利害関係から解き放たれ、 であるといえる。アレントの政治哲学では、没関心性は私的な自己利害からの離脱を意味し、公的領域を基礎づけるも また、「没関心性」という概念に焦点を当てて、ハイデガーとアレントの思想的関係を検討する梅木も、同様の立場 である。 る。このように、フォルラートもまた、アレントの思想を、ハイデガー哲学の批判の上に成り立つものと捉えているの ( ガーを批判し、その上で、複数性と差異こそが世界のまったき現れの本質的な構成要素をなしていると主張するのであ アレントは、現れるということが複数性や差異という契機をともなっていることを指摘し損ねているという点でハイデ る。そのアレントは、ハイデガーの哲学を、多様に現れる複数的な世界からの撤退として特徴づけるのである。すなわち、 ( トの思想は世界が複数の人間にとって多様に現れるという着想から出発し、世界の現象性と人間の複数性に立脚してい (( ( への跳躍として、問題とした」のであるが、まさにここにこそ、両者を分かつ争点が存在している、と梅木は主張する。 ( このように「没関心性」を、「ハイデガーは非本来性から本来性への移行として、アレントは私的領域から公的領域 (( つまり、ハイデガーにとって非本来的な存在様態から本来性への移行は「死」を想うことによってもたらされるのであ (( るが、それは日常生活から単独で切り離され、世界や他者への関心も消滅するような出来事なのである。アレントはこ 189 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 (( の点を、世界から引き退くことによってしか世界を考察することのできない哲学的思考の限界であるとして問題にする。 ( ( そして、公共性を本来性からの頽落として捉えるハイデガーを批判して、アレントは、人間の輝く出現を、ただ複数の ( ( 他者と織りなす言論と活動の網の目、すなわち公共空間においてのみ可能であると主張するのである。このように、梅 木もまた、アレントの思想を、ハイデガーの批判の上に成り立つものとして理解するのである。 (( および「活動」の概念に焦点を当てて検討していきたい。 を全体的に分析することはここではできないので、ハイデガー批判を基礎として形成されたと考えられる「公的領域」 これらの検討を踏まえ、本章では、『人間の条件』を素材として、アレントの思想を確認していく。むろん『人間の条件』 に基づく世界こそが重要であるという自らの思想を展開していると解釈する諸研究を確認した。 におけるアレントのハイデガー解釈にのっとり、アレントはハイデガーの哲学を単独者志向的であると批判し、複数性 二では、ハイデガーとアレントの思想的関係を分析する先行研究を検討してきた。そこでは、「実存哲学とは何か」 した。 アレントが、ハイデガーの哲学において本来的現存在は他者から切り離された単独者であると解釈していることを確認 一では「実存哲学とは何か」を素材として、アレントがハイデガーをどのように理解したかを検討した。そこでは、 三 アレントにおける公的領域と活動 。それでは、以下において詳述していこう。 前提とした共存在を志向するものであるということである (四において論じる) 存哲学とは何か」で解釈されたような世界や他者から切り離された単独者を志向するものではなく、他者との関係性を 。さらに、ハイデガーの『存在と時間』が、 「実 イデガー解釈を誤りであったと認めていることである (三において論じる) 的領域」、「活動」という概念を展開する『人間の条件』を執筆する段階では、「実存哲学とは何か」における自らのハ 以上の三者の分析に対し、本稿は、以下の論述を通じて異を唱えたいと考えている。すなわち、まず、 「複数性」、 「公 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 190 ( ( アレントがタイトルに掲げている「人間の条件」とは、「人間が地上の生命を得た際の根本的な条件」を意味している。 ( 生産物とは、生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物なのである。また仕事とは、人間存在の非自然性に対 ( 働、仕事、活動である。これらのうち労働とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。つまり、労働の 生命それ自体、世界性、複数性に対応する活動的生活として、人間の基本的な活動力を三つ挙げている。すなわち、労 そのような条件として、具体的に、生命それ自体、出生と可死性、世界性、複数性、地球が挙げられる。これらのうち、 (( ( (( ( ( (( ( 活動が、無意味性という苦境に対し、有意味な物語を生産するのである。 ( なわち地球上に生き世界に住むのが一人の人間ではなく、複数の人間であるという事実に対応している。そして、この 活動とは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力である。それゆえ活動は複数性す 開する能力が活動である。 手 段 と 目 的 の カ テ ゴ リ ー に よ っ て 決 定 さ れ る 世 界 に お け る 有 効 な 標 準 を 発 見 す る こ と の 不 可 能 性 で あ る。 こ の 苦 境 を 打 ( しかしながら、仕事をする人間もまた苦境に立たされている。すなわち、すべての価値の低落による無意味性、また れるのである。 ( そが、仕事の能力である。つまり、耐久性と永続性を備える世界を建設することによって労働の苦痛と困難から救済さ イクルに閉じ込められ、労働と消費の必要に永久に従属するという苦境に立たされている。この苦境から脱する能力こ ここで、労働と仕事の関係について確認しておこう。アレントによれば、労働をする人間は、生命過程の反復的なサ の生命を超えて永続する世界そのものに対応しており、その生産物である工作物は永続性と耐久性を持つものである。 ( 応する活動力である。すなわち、仕事は、自然環境とは異なる「人工的」世界を作り出すものである。つまり、仕事は個々 (( ( ( おいてはまったく不可能である。独居にあるということは活動能力が奪われていることに等しい。活動と言論が行われ すなわち複数性を前提としている。アレントは、次のように述べている。すなわち、「活動は、製作と違って、独居に 活動が複数性という条件に対応していることから分かるように、活動は単独では成立しえず、他者が存在すること、 (( るためには、その周囲に他人がいなければならない」。このように、アレントは活動を言論と密接な関連を持つものと 191 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 (( (( して理解している。また、 「言論なき活動がもはや活動ではないというのは、そこにはもはや活動者がいないからである。 ( ( 活動者すなわち行為者は、彼が同時に言葉の話し手である場合にのみ可能なのである。彼が始める活動は、言葉によっ てこそ、人間に理解できるようになるのである」。つまり、活動は、言葉によって他者に理解できるように暴露される ことを意味しているのである。 ( (( ( (( ( (( ( ( ( ( とや私たちの後にやってくる人びととも共有しているもの」なのである。 ( ( 以上において、『人間の条件』におけるアレントの思想を、活動と公的領域に焦点を当てて確認してきた。複数性を (( (( (( 的領域は、「過去の方向においても、未来の方向においても、私たちの一生を超越して」おり、「以前にそこにいた人び ( 人間の不死は維持できないにせよ、少なくとも人間の相対的永続は維持する空間であった」と述べている。つまり、公 ( 「ポリスは、なによりもまず、個体の生命の空虚さにたいするギリシア人の保証であり、この空虚さを防ぎ、死すべき 死すべき人間の一生を超えるものにするのである。公的領域のモデルである古代ギリシアのポリスについてアレントは、 (( (( うのは、最も一般的には、 『創始する』、 『始める』という意味であ」り、この「新しいことを始める能力」が、公的領域を、 ( 死ななければならない。「この法則に干渉するのが活動の能力である」とアレントは述べる。つまり「『活動する』とい ( また、公的領域においては、永続性という特徴が重要なものとなる。人間は可死性という法則から逃れることはできず、 レントにとって公的領域とは、活動によって私が他者の目に現れ、他者が私の目に現れる「出現の空間」なのである。 と呼んだ光輝く明るさが必要である。そして、このような明るさは、公的領域にだけ存在する」のである。つまり、ア ( にその行為者をも暴露するという固有の傾向をもっている。だから活動が完全に姿を現すのには、私たちがかつて栄光 そして、この活動し語る人々の間に現れる「出現の空間」こそが公的領域である。すなわち、「活動は、行為ととも つまり人格的アイデンティティは語る言葉と行う行為によって現れると主張するのである。 ( アレントは、「その人が何であるか」つまり肉体的アイデンティティは活動がなくても現れるが、「その人が何者であるか」 かを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現す」のである。 ( 他者に暴露されるというのは、活動の重要な要素である。つまり、「人々は活動と言論において、自分がだれである (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 192 前提とし、活動と言論を通じた他者との関係性の中で、自己の人格的アイデンティティが現れるというアレントの主張 が確認された。また、独居においては活動は不可能であるという主張には、「実存哲学とは何か」においてハイデガー 哲学における単独者志向を批判的に解釈していたアレントの考えが見受けられる。 ここで、本稿冒頭の手紙を振り返りたい。アレントは、 『人間の条件』をハイデガーに献本する際に送った手紙で、 「ほ とんどすべてをあなたに負うている」と書いている。ハイデガー哲学を批判し自らの思想を展開するアレントがそのよ うに書くのはなぜなのだろう。たとえば、次のように考えられるかもしれない。アレントは、ちょうどハイデガーが『存 在と時間』を執筆している時に、彼のもとで学んでいた。したがって、誰よりも的確に『存在と時間』を理解している という自負を持ち、それゆえに同書の持つ難点をも見抜いた。そして深い信頼関係に基づき、臆することなくその難点 を徹底的に批判し自らの主張を作り上げた。以上のことを「ほとんどすべてを負うている」と表現したという考え方で ある。 ( 193 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 しかし、その可能性は低いと思われる。なぜならアレントは、「実存哲学とは何か」における自らのハイデガー解釈 に自信を持っていないからである。同論文を称賛し、ハイデガー解釈についていくつかの質問をしてきた人物に対し、 アレントは、 「私は、実存主義についての小論について、あなたに注意を促さなくてはなりません。とりわけハイデガー ( の部分については、単に全体として不適切なだけではなく、一部については全くの間違いであります。だから、どうぞ、 それについては忘れてください」と述べているのである。 継いでいるということである。つまり、そもそもハイデガーにおける本来的自己は、アレントが「実存哲学とは何か」 間の条件』におけるアレントの思想は、ハイデガー哲学の批判の上に成り立っているのではなく、それを順接的に引き 筆者は、アレントの「ほとんどすべてを負うている」という表現を、字義通りに理解したいと考える。すなわち、 『人 に基づく自己の主張の形成を「ほとんどすべてを負うている」と表現したとは考えにくいであろう。 自身のハイデガー解釈に確固たる自信を持っていないことは確かである。それゆえに、先に挙げたような徹底的な批判 アレントは、自身のハイデガー解釈のどこが間違っていると考えたのかについては具体的に述べていない。しかし、 (( で解釈したような他者から切り離された単独者ではなく、むしろ他者との関係性を前提とした自己なのである。このよ うな観点から、次章においてハイデガーの哲学を検討していく。 四 ハイデガーにおける民族 本章では、ハイデガーの哲学を、『存在と時間』を素材として検討する。とはいえ、『存在と時間』の全体像を示すことは、 本稿の課題ではない。ここでの検討は、アレントのハイデガー論を随時参照しながら行っていきたい。つまり、アレン ト自身が解釈を誤ったと告白している「実存哲学とは何か」におけるハイデガー論を参考とし、その問題点を四点にわ たって確認しつつ、『存在と時間』を検討していくこととしたい。 ( ( アレントも述べているように、ハイデガーの哲学の根本には、「ものの何であるかはものがあることをけっして説明 しえないという自覚」がある。つまり、ハイデガー哲学は、我々の認識が認識対象物にいかにして一致しうるかを問う ( ( たらしめようとする企てであると理解している。 ( る。このようなハイデガーの考え方を、アレントは、神が占めていた地位に人間を据えることであり、人間を「存在の主」 ( 質と実存とが同一であるような存在者であること、つまり、人間は存在することを本質としているという点に見てい ハイデガーは、『存在と時間』において、人間を現存在と名づけ分析している。その理由を、アレントは、人間が本 題としているのである。 のではなく、そもそもなぜそれは存在するのか、それをそれたらしめている存在とは何であるのかを問うことを根本課 (( ( ( ( ( (( かしながら、ハイデガーの言う「実存」とは、自らの哲学において探求される「存在」と同意ではないのである。以下 いる。それゆえに、ハイデガーにとって人間は本質と存在が一致している存在者であると解釈してしまうのである。し ひそんでいる」と述べている。ここでアレントは、「『実存』という言葉は端的に人間の存在を指している」と理解して (( このようなアレントの理解が、第一の問題点である。確かにハイデガーは、「現存在の『本質』はその実存のうちに (( (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 194 で敷衍しよう。 ハイデガーは、『存在と時間』において現存在を分析対象としている。それは、現存在において存在と本質が一致し ( ( ているからではない。そうではなく、現存在が存在了解内容を持っているからである。ハイデガーは、「現存在は、存 在しつつ存在といったようなものを了解しているという仕方において、存在している」と述べている。つまり、現存在 だけが、唯一、存在とは何かという問いを持ち、それを了解する存在者なのである。それゆえにハイデガーは、存在を 探究するにあたり、存在を了解する唯一の存在者である現存在の分析を試みるのである。そして、このような存在を問 い了解する現存在の在り方を、ハイデガーは実存と呼んでいるのである。したがって、ハイデガーは、人間を神と同じ 地位に据え「存在の主」たらしめようなどという企てを、最初から持っていないのである。 では、現存在はいかにして存在を了解するのであろうか。アレントも述べているように、それは気遣いによってであ ( ( る。すなわち、「現存在は、それが端的に存在するということではなく、むしろ、自らの存在においてその主要な関心 が存在それ自体にあるということによって特徴づけられる。そうした根本的な構造は『気遣い』と呼ばれる」。つまり、 現存在は単に存在するのではなく、存在に気遣いを向けつつ存在するのである。 ( ( (( それゆえ、 「現存在が真に自ら自身となることができるのは世界内存在から自らに退去しうる」時においてのみである。 ( 人間は世界内存在としては、自ら自身たることなく、むしろこのような彼の存在のうちへと『投げ込まれて』いる」。 ( 在り方と解釈する。すなわち、 「ハイデガーの哲学の枠組みのなかでは、人間は次のような仕方で『頽落』へといたる。 しかしアレントは、現存在が気遣いをもって世界の内に存在する在り方つまり世界内存在としての現存在を頽落した (( ( ( ( ( つまり、「自己の最も本質的な特性は、その絶対的な自己中心性、それがすべての仲間から根底的に分離していること (( び他者から切り離された単独者としての在り方こそが本来的な在り方であると解釈している。ここに第二の問題点があ このようにアレントは、気遣いを備えた世界内存在としての在り方を頽落した様態として捉え、そのような世界およ (( る。確かに『存在と時間』には、アレントのこのような解釈を可能にするような言述がある。以下でそれらを確認し、 195 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 (( である」。それが可能となるのは、「自ら自身を世界の外へと引き離す死にあってのみ」である。 (( それでもなおそのような解釈には問題があることを示していこう。 ( ( まず、ハイデガーは、「現存在は、本来的な自己存在しうることとしてのおのれ自身から、さしあたってつねにすで に脱落してしまって、『世界』に頽落してしまっている」と述べている。ここから、世界へと関わる現存在としての在 ( ( 身近に出会われる世界の内に配慮的に気遣いつつ没入することとしてわれわれが識別しているような、そうした存在様 ちへと分散して気散じしており、おのれをまず見出さなければならない。こうした気散じが性格づけているのは、最も さらに、ハイデガーは次のようにも述べている。すなわち、「世人自己としてはそのときどきの現存在は、世人のう り方である世界内存在は頽落した在り方であると理解できる。 (( ( (( ( うこと、このことである」。ここからは、死が現存在を単独化し、その時には気遣いも他者と共にある共存在も意味を ( るときには、配慮的に気遣われたもののもとでのすべての存在および他者と共なる共存在は、何の役にも立たないとい 一つの仕方なのである。この単独化があらわにするのは、最も固有な存在しうることへとかかわりゆくことが問題であ 解された死の没交渉性は、現存在を現存在自身へと単独化するのである。この単独化は『現』を実存のために開示する な現存在に無差別に『属している』だけなのではなく、死は、現存在を単独の現存在として要求する。先駆において了 そして、この「死」が現存在を単独化することもまた、ハイデガーは述べている。すなわち、「死は、おのれに固有 ることが、本来的実存への可能性を開くのである。 れば、本来的実存の可能性であることが立証される」と述べている。つまり、自らが死すべき存在であることを自覚す ( ことを了解することを先駆と呼び、「先駆とは、最も固有な最も極端な存在しうることを了解しうる可能性、言いかえ そして、そのような頽落から脱却するために、ハイデガーは死に着目している。自らが「死へと関わる存在」である 頽落した世人なのである。 式の『主体』なのである」。つまり、現存在が世界の内で気遣いをもって他者や存在物に関わる世界内存在という在り方は、 (( これらのハイデガーの言述を見る限り、本来的現存在は世界および他者から切り離された単独者であるというアレン なさなくなることが読み取れる。 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 196 トの解釈は的確であるように思える。しかし、これらの言述から即そのような解釈を導き出すことは早計である。なぜ ならハイデガーは、上記の記述を覆すようなことも述べているからである。以下で、前言を打ち消す発言を確認しよう。 死が現存在を単独化することを述べた先の引用文の直後で、ハイデガーは、次のように言っている。すなわち、「け れども、配慮的な気遣いおよび顧慮的な気遣いは役に立たないとはいっても、それは、現存在のこれら二つの在り方が 本来的な自己存在から切り離されることを、断じて意味しはしない。現存在機構の本質上の構造として、それら二つの 在り方は、実存一般の可能性の条件に共に属しているのである。現存在が本来的におのれ自身であるのは、配慮的に気 遣いつつ何かのもとに存在し、顧慮的に気遣いつつ誰かと共に存在しているような、そのようなものとしておのれを、 ( ( 第一次的におのれの最も固有な存在しうることをめがけて企投し、世人自己の可能性をめがけて企投しないかぎりにお いてだけなのである」。つまり、本来的自己は依然として、気遣いをもって世界へと関わる在り方であり、すなわち、 何かと共に、誰かと共に存在する共存在なのである。 また本来的自己を導き出す契機となる決意性についても、ハイデガーは次のように述べる。すなわち、「決意性は、 本来的な自己存在として、現存在をその世界から引き離したり、現存在を宙に浮いた自我へと孤立させたりしない。決 意性がどうしてそんなことをもするわけがあろうか──なんとしても決意性は、本来的開示性として、世界内存在とし て以外には決して存在することはできないからである。決意性は、自己を、まさしく道具的存在者のもとでのそのとき ( ( どきの配慮的に気遣いつつある存在のなかへと引き入れ、また自己を、他者と共なる顧慮的に気遣いつつある共存在の なかへと押しやるのである」。 在を二様に理解することにあると考えられる。つまり、アレントのように世界内存在を頽落した非本来的様態と一様に それでは、一見矛盾する単独者と共存在という両概念の記述をいかに理解すればよいのであろうか。その鍵は世界内存 ことは適切ではないであろう。しかし、また、本来的現存在を単純に共存在として理解することも適切とはいえない。 これらのハイデガーの言述を考慮すると、本来的な現存在を、単純に世界から引き離され孤立化した単独者と考える (( 捉えてしまうと、本来的様態が、即、世界からの脱却になってしまう。しかしながら、世界内存在が一様に頽落した様 197 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 (( 態なのではなく、本来的な様態もまた世界内存在であると考えるのである。すなわち、世界内存在のうち、頽落した世 人としての様態が非本来的様態であり、自らが死へと関わる存在であることを自覚し単独者としての自己を経ることに ( ( よってそこから脱却し、世界内存在としての本来的な共存在の様態へと至るのである。このように理解すれば、単独者 と共存在の対立的な両概念を矛盾することなく理解することができよう。 ( ( 時間性概念を、存在の意味に対する答えであると指摘しながらも、それが暫定的であり理解しにくいものであるとして、 あるのであろうか。その答えは時間性である。つまり、両者は、異なる時間性の内に存在しているのである。アレントは、 しかしながら、ここで疑問が生じる。非本来的様態も本来的様態も世界内存在であるとすれば、両者の差異はどこに (( ( (( ( ( 伸び拡がりが注意されずにいたのである」。 (( ( ( ( び拡げるという種別的な動性を、われわれは現存在の生起と名づける」。そして、「歴史とは実存しつつある現存在の時 ( 来的時間を提起しているのであるが、先にハイデガーの言述を確認しておこう。まず、「伸び拡げられつつおのれを伸 このようにハイデガーは、まず伸び拡がりという概念の重要性を指摘する。さらに、生起と歴史の二概念を用いて本 (( (( 消滅する諸体験という刹那的現実性の総計として実存するのではない」にもかかわらず、「生誕と死との間の現存在の ( いるということ、このことを軽視してきたのではなかろうか」。つまり、本来、「現存在は、次々と継起的に来着しては ( 然的な結果として』、現存在が、その日暮しをしつつ、その日その日の連続のなかで、『時間的に』おのれを伸び拡げて 省的に次のように述べる。すなわち、「これまでわれわれは、たえず現存在を或る種の状態や状況に停止させ、『その必 以後を未来として理解する時間概念である。このような時間概念の内で現存在を理解することに対し、ハイデガーは反 らなる一本の直線として時間を捉え、今を基点に時間を二分し、もはや今ではない以前を過去として、まだ今ではない 通俗的時間概念とは、「始めもなければ終わりもない純然たる今の連続としての時間」である。つまり、連続する今か ( それでは、本来的時間概念とはいかなるものであろうか。まずは、対概念となる通俗的時間概念を確認しておこう。 ントは、本来的な現存在が本来的な時間概念の内に存在する世界内存在であるということを見落としているのである。 詳細な検討をしていない。ここに、アレントのハイデガー解釈における第三の問題点がある。つまり、それゆえにアレ (( (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 198 ( ( 間の内で生ずる種別的な生起のことであって、しかもそのさい、相互共存在のうちで『過去となって』いながら、同時 に『伝承されて』いて、さらに影響をおよぼしつつある生起が、強調された意味において歴史とみなされている」。つまり、 ( ( になった」。アレントが『存在と時間』における民族をこのように理解していることが四つ目の問題点である。すなわち、 ( らが共有すべき共同の拠って立つ基盤を与えるべく、『民族』や『大地』といった神話的で混乱した概念を用いるよう 下のように述べている。すなわち、「後にハイデガーは、いわば事後的な考えから、彼の描いた孤立した自己たちに彼 て、この歴史的存在としての現存在が民族を成就するのである。アレントは『存在と時間』における民族について、以 このような本来的時間概念の内で自らを伸び拡げて存在する現存在のことをハイデガーは、歴史的存在と呼ぶ。そし り、 過去は絶えず現在に影響を及ぼし続けるものであり、 未来は現在がそこへと向かって引き渡されていく先なのである。 現在を基点に過去と未来が分離していたのに対して、本来的時間概念においては三者が有機的に結びついている。つま 以上のことをまとめて、本来的時間がいかなるものであるのかを示しておこう。通俗的時間概念においては今という ここでは歴史は、 『過去』、 『現在』、および『未来』を貫通する事件連関ないしは『作用連関』を意味している」のである。 ( る。つまり、 「歴史を持つものは、 『画期的な時代を作りつつ』、 『現在的』でありながら、何らかの『未来』を規定する。 先に、歴史は、過去のことでありながら現在に影響を及ぼすものとして捉えられた。しかし、それだけではないのであ は、伸び拡がりにはもう一つ、死の方向への伸び拡がりもあると主張していた。この考えは、歴史概念にも反映される。 ところで、以上の説明に見られる伸び拡がりは、生誕の方向への伸び拡がりに限られていた。しかしながら、ハイデガー 歴史概念なのである。そして、このような出来事の生起を現存在の側から理解したものが伸び拡がりである。 ( ( 現在と過去を切断して捉え、現在へと及ぼす影響を持たないものとして理解される歴史は、通俗的時間概念に基づいた 過去のことでありながら現在に影響を及ぼす種々の出来事の生起が、本来的な意味における歴史である。逆に言えば、 (( (( れる概念なのである。以下で、この点を確認していこう。 先に確認したように、本来的時間とは、過去を現在を規定するものとして、未来を現在が引き渡される先として、三 199 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 (( 民族は事後的な考えから用いられた混乱した概念などでは決してなく、『存在と時間』において論理必然的に導き出さ (( 者を結びつけて捉える時間のことであった。この本来的時間において現存在は、歴史的現存在として自らを伸び拡げつ つ存在している。つまり歴史的現存在は過去から相続された可能性をおのれ自身に伝承し、それを未来へと引き継いで いくのである。ハイデガーは、この相続され引き継いでいく可能性のことを宿命と呼ぶ。すなわち、宿命とは、「本来 的な決意性のうちにひそんでいる現存在の根源的な生起のことなのであって、このような生起のうちで現存在は、死に ( ( 向かって自由でありつつ、相続されたものであるにもかかわらず選びとられた可能性において、おのれをおのれ自身に 伝承するのである」。ハイデガーの宿命概念を理解する上で重要となるのは、それが選び取られるものであるという点 ( (( び世界から切り離されているため、そこからはいかなる共同体も導き出し得ない。さらに単独者としての本来的現存在 アレントの解釈によれば、ハイデガー哲学において本来的現存在は単独者として規定される。単独者として他者およ 簡潔に振り返っておこう。 ント自身がその誤りを認める解釈を言わば負の補助線として、そこからの距離をはかりながら『存在と時間』を分析した。 以上、本章では、『存在と時間』を「実存哲学とは何か」におけるアレントの解釈を参照しつつ検討してきた。アレ 民族と呼ぶのである。 に共有される宿命を、ハイデガーは運命と名づける。ここに宿命を共にする運命共同体が生まれ、ハイデガーはそれを そのような現存在は、本質上共存在であるため、同じ可能性を選び取る現存在は宿命を共にすることになる。そのよう 拡げる歴史的現存在は、宿命的現存在として、自らを投企するべき可能性を、受け継がれる諸可能性の中から選び取る。 の運命でもってわれわれが表示するのは、共同体の、民族の生起なのである」。つまり、本来的時間の内で自らを伸び ( 者と共なる共存在において実存するかぎり、そうした現存在の生起は、共生起であって運命として規定されている。こ そして、この宿命が民族を創出するのである。すなわち、「だが、宿命的な現存在は、世界内存在として、本質上他 る。 響を持つものとして相続される様々な諸可能性の中から自らを投企するべく選び取る可能性のことを宿命と呼ぶのであ である。つまり、ハイデガーは、自らの意志にかかわりなく生じる種々の規定要因を宿命と呼ぶのではなく、現在に影 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 200 は、その本質を無としての死によって条件づけられている。現存在の本質こそが存在であるがゆえに、存在の意味とは 無であるということになる。 以上のアレントの解釈に対して本稿が提示する解釈は以下の通りである。ハイデガー哲学において本来的現存在は共 存在として規定される。共存在として他者と共にある世界内存在であるため、そこから民族という共同体が導き出され る。さらに現存在こそが存在の意味を了解する存在者であるがゆえに、存在の意味とは民族において現存在の気遣いを 通じて了解されるものである。 これまでの分析を以上のように整理した時、『人間の条件』の中で展開されるアレントの思想と『存在と時間』の中 で展開されるハイデガーの思想に、大きな類似性が見出される。次章において、両者の思想の間に存在する類似性を明 らかにしていこう。 ( 201 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 五 アレントの思想とハイデガーの思想の共通性 本章では、三と四の分析に基づいて、アレントとハイデガーの思想的共通性を明らかにする。ここで注目する概念は『人 間の条件』における公的領域と『存在と時間』における民族である。以下で両者の共通性を三点にわたって提示する。 第一に、公的領域と民族は共に、存在が開示される空間を意味している。アレントにおいて人間の持つ唯一性、ユニー ( クな差異性は、言論と活動を通じて明らかとなる。すなわち、 「人々は活動と言論において、自分がだれであるかを示し、 そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現す」のである。そして、 ( このような明るさは、公的領域にだけ存在する」のである。 ( をもっている。だから活動が完全に姿を現すのには、私たちがかつて栄光と呼んだ光輝く明るさが必要である。そして、 この活動が行われる場が公的領域である。つまり、「活動は、行為とともにその行為者をも暴露するという固有の傾向 (( ハイデガーにおいても、民族は存在が開示される空間を意味している。ハイデガーにとって、存在は存在者を通じて (( 現れ、現存在によって了解される。その存在了解は、現存在が本来的な在り方をする時に可能となる。この本来的現存 在は、 歴史的現存在として民族を創出する。 それゆえに存在は本来的現存在が創り出す民族において開示されるのである。 第二に、存在は他者に対して現れると考えられている。アレントにとって、人格的アイデンティティは、活動を通じ て現れるのであるが、この活動は単独では成立しえず、複数性を前提としている。すなわち、 「活動は、製作と違って、 ( ( 独居においてはまったく不可能である。独居にあるということは活動能力が奪われていることに等しい。活動と言論が 行われるためには、その周囲に他人がいなければならない」のである。 ( (( ( (( ( によって構成される共同体が民族なのである。 ( 来が有機的に結びついた時間概念の中で、選び取った可能性を引き継ぎ伝承していくことで過去と現在と未来の現存在 より、過去は現在に影響を及ぼし続けるものとなり、未来は現在が引き渡される先となる。このように過去と現在と未 その性質を生起として特徴づけた。生起とは、現存在の一生を生誕と死の二方向へ伸び拡げることを意味した。それに ハイデガーの民族の前提となる時間概念もまた同様の性質を持つといえる。ハイデガーはそれを本来的時間と呼び、 にいた人びとや私たちの後にやってくる人びととも共有しているもの」なのである。 ( である。それゆえに、公的領域は、「私たちが現に一緒に住んでいる人びととも共有しているだけでなく、以前にそこ である。その基礎となる時間は「過去の方向においても、未来の方向においても、私たちの一生を超越している」時間 分が持っているあるもの、あるいは他者と共有しているあるものを、地上における自分の生命よりも永続させ」る空間 ( 第三に、両者が基礎とする時間概念の共通性である。アレントにとって公的領域とは、始めるという活動によって、 「自 れゆえに、他者に対して現れる自己の存在は、他者から自己に向けられる顧慮的な気遣いを通じて了解されるのである。 において、存在者の存在は気遣いによって了解される。とりわけ人間の存在は顧慮的な気遣いによって了解される。そ 同様にハイデガーもまた、存在は他者に対して現れ、他者によって了解されることになる。つまり、ハイデガー哲学 (( 以下の通りである。従来、ハイデガーとアレントの思想には、後者による前者の批判的関係が指摘されてきた。しかし 以上、三点にわたって、アレントとハイデガーの思想の共通性を示した。これらを踏まえて提示される本稿の主張は (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 202 ( ( ながら、民族と公的領域に焦点を当てる時、そこには懸隔性よりはむしろ共通性が存在するのである。 むすびにかえて 本稿では、アレントの公的領域概念とハイデガーの民族概念に焦点を当て、両者の間に大きな共通性が見出されるこ とを主張した。最後に、冒頭に掲げた疑問に対する筆者なりの回答を提示したいと思う。 その疑問とは、なぜアレントはハイデガー哲学を痛烈に批判しているにもかかわらず、『人間の条件』について「あ らゆる点でほとんどすべてをあなたに負うている」と述べているのか、である。筆者の回答は、アレントはハイデガー 哲学を順接的に継承する形で『人間の条件』を執筆したから、というものである。この回答が説得力を持つためには、 アレントが「実存哲学とは何か」における自らの解釈の誤りを認め、ハイデガー哲学を再解釈し、新たな解釈に基づい て『人間の条件』を執筆した、ということが示されねばならない。最後に、一部は状況証拠にとどまることになるが、 これらの論拠を示したいと思う。 本論でも示したように、アレントが「実存哲学とは何か」における自らの解釈の誤りを認めていることは確実である。 ( ( すなわち、アレントは、同論文についての質問に対し、「とりわけハイデガーの部分については、単に不適切なだけで はなく、一部については全くの間違いであります。だから、どうぞ、それについては忘れてください」という返事を書 いている。この手紙は一九五五年に書かれており、アレントは、一九五八年の『人間の条件』の公刊時まで、ハイデガー 哲学に対する批判的解釈を持ち続けていたわけではないのである。 アレントがハイデガー哲学を再解釈することになったのは、一九五〇年に彼との交流が再開したことによるものと思 われる。一九五〇年二月に再会を果たしたのちの五月に、ハイデガーは、これまでの研究を振り返る内容の手紙をアレ ントに書いている。そこでは、現存在と存在との関連の追求による存在の究明という自らの主題が、現存在の分析にお いて、主観論の側への転落の危険を持っていたと述べている。そして、自らの試みが「ようやく成功したのは一九三五 203 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 (( (( ( ( ( れたアレントは、そのうちの一つとして、「人間の諸活動を分析すること。つまり根本的な相違があるのに、通常は観 想的生活から見てひとまとめに活動的生活のうちに放り込まれてきた、労働─仕事─活動、という諸活動」と答えている。 ( (( ( しては反芻しています」と書いていることに注目したい。つまりハイデガーが自らの探求が成功したと考えた『論理学』 ( と書いているのを受けて、「『論理学』をとても楽しみに待っております。言葉についてのあの会話は、たびたび思い出 長辞任後にやった三四年夏学期の講義、言葉の本質への問いとしての『論理学』(の刊行準備)に取りかかれるだろう」 ( まさにこの手紙が、『人間の条件』の構想執筆時に書かれたものであることが分かる。そして前の手紙でハイデガーが「学 (( では、ハイデガーの一連の著作に触れることによって、アレントは、ハイデガー哲学について、いかなる解釈を持つ ( ( ようになったのであろうか。それについては、同手紙の最後に示唆的な一文が書かれている。すなわち、とあるハイデガー の講演について「九月にある政治学会での研究報告のために使わせていただこうと思います」。この報告とは、一九五 は最後に、同報告から、アレントのハイデガー解釈にいかなる変化が生じたのかを確認したいと思う。 四年に開かれた政治学会におけるアレントの報告「近年のヨーロッパ哲学思想における政治への関心」である。それで (( 同報告の中でアレントは、「人間を単数として扱うのが哲学の本性であるのに対して、政治は、人びとが複数の者と 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 204 ( 年になってからで、その前年に学長職から自分を内面的に解放して徐々にまた元気をとりもどしていたときでした」と 述懐している。 ( を具体的に論じている講義である。そして、この手紙を読んだことがアレントにとって、ハイデガーの再解釈を行わせ ( ルダーリンの讃歌──「ゲルマーニエン」と「ライン」』はいずれも、『存在と時間』の論理を踏襲しながら、民族概念 ていることは実に興味深い。ハイデガーが学長職の辞任後に担当した講義『言葉の本質への問いとしての論理学』と『ヘ 『存在と時間』における中心的課題であった現存在の分析に成功したのが学長職辞任後の一九三五年であると明示し (( そのことを示唆する手紙として、一九五四年のアレントからハイデガーにあてた手紙がある。現在の研究内容を問わ るきっかけとなった可能性は十分あるであろうと推測されるのである。 (( 講義について二人で議論したことを、この時期のアレントは何度も思い返しているのである。 (( ( ( ( ( して存在するのでなければ考えることさえできない」と主張する。「実存哲学とは何か」では、まさにこの人間を単数 として扱う哲学者の代表としてハイデガーが批判的に名指しされていたのであるが、ここでは、むしろハイデガーが逆 ( ( の意味で引き合いに出される。すなわち、 「ハイデガーの『世界』概念、多くの意味で彼の哲学の中心にあるこの概念は、 いま述べた哲学の困難を抜けだす一歩をしるすかもしれない」と。また、「実存哲学とは何か」においては、そのよう ( べき者たち」の「者たち」という複数形の使用に着目している。つまりアレントは、ハイデガー哲学の解釈において、「死 ( 在に複数性を見出しうるかもしれないと考え始めているのである。すなわち、アレントは、ハイデガーが用いる「死す れていた。しかし、同報告においては、やや様相が異なる。つまり、アレントは、ハイデガー哲学における本来的現存 な世界概念は頽落した日常的様態であって、そこから脱却し単独者となることが本来的であるとされている、と解釈さ ((( (大島かお Hannah Arendt/ Martin Heidegger, Briefe 1925 bis 1975 und andere Zeugnisse, Vittorio Klostermann, 1999, S. 149 り・木田元訳『アーレント=ハイデガー往復書簡』みすず書房、二〇〇三年、一二一─一二二頁)強 . 調は原文ではイタリック。 (2) Hannah Arendt, The Human Condition, Chicago University Press, 1958 (志水速雄訳 『人間の条件』 ちくま学芸文庫、 一九九四年) . (1) 同書について「ほとんどすべてをあなたに負うている」と述べているのである。 至った。この過程から多くの示唆を得ながら『人間の条件』を構想執筆したがゆえに、アレントはハイデガーに対して、 にハイデガー哲学の再解釈を行う中で、ハイデガーにおける本来的現存在が単独者ではなく共存在であると理解するに は、ハイデガーとの交流を再開する中で、ハイデガー哲学の意図するところを直接に聞きうる機会を得た。それを契機 以上、様々な論拠を提示してきたが、それらから一つの可能性を示し、本稿を閉じたいと思う。すなわち、アレント すべき」に焦点を当て批判することから、「者たち」に焦点を当て複数性を評価することへと移行しているのである。 ((( (3) Hannah Arendt, “What is Existenz Philosophy?”, Partisan Review vol. 18, no. 1, 1946 (ハンナ・アレント「実存哲学とは何か」、 齋藤純一・山田正行・矢野久美子訳『アーレント政治思想集成1──組織的な罪と普遍的な責任』みすず書房、二〇〇二年)な . お、 同論文には、ドイツ語版も存在する。両論文は、叙述が異なる個所があるため、ドイツ語版の叙述を用いる時には、以下の文献を 205 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 (( (( 参照する。 Hannah Arendt, Was ist Existenz-Philosophie?, Auton Hain, 1990. ( 4) デ ィ ー タ・ ト ー メ は、 ア レ ン ト と ハ イ デ ガ ー の 関 係 を 四 つ の 局 面 に 区 切 っ て い る( Dieter Thomä, “Heidegger und Hannah ( Herg. ) , Heidegger-Handbuch: Leben-Werk-Wirkung, J. B. Metzler, 2003, S. 397-402 )。第一 Arendt : Liebe zur Welt”, in Thomä 段階は、学生アレントが博士論文に取り組む修業時代である。第二段階は、一九三三年の亡命によるハイデガーとの別離期で、そ れは「実存哲学とは何か」で頂点に達する。第三段階は、ハイデガーとの再会が果たされる哲学的に成果豊かな段階で、その主要 著作は『人間の条件』である。最後に第四段階は、二人を巻き込んだ関係がもはや気を揉むものではなくなる段階であり、ハイデ ガーの八〇歳の誕生日に向けた文章や未完の作品『精神の生活』が書かれる時期である。 本稿は半世紀にわたる二人の関係の全てを分析の対象とすることはできず、トーメの区分に従えば、離別し批判的意識を高めて (原佑訳『世界の名著 Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer Verlag, Tübingen, 1993 ハイデガー』中央公論社、 いた第二段階から、再会を果たし哲学的成果をあげる第三段階へと転じていく一〇余年の時期に焦点を定めている。 (5) 一九八〇年)『.存在と時間』において民族が用いられるのは唯一度である。それにもかかわらず本稿が民族に焦点を当てるのは、 存在の意味を問う同書において、民族は「存在が現れる空間」という極めて重要な意味を持つ概念であるからである。この点につ 74 いては、小林正嗣『マルティン・ハイデガーの哲学と政治──民族における存在の現れ』(風行社、二〇一一年)の第一部を参照 邦訳、二二六─二二七頁。 Arendt, “What is Existenz Philosophy?”, pp. 37-38. されたい。 (7) (6) ) ) ) ) ) 邦訳、二四五頁。 Ibid., p. 50. 邦訳、二四四─二四五頁。強調は原文ではイタリック。 Ibid., p. 50. 邦訳、二四一頁。 Arendt, Was ist Existenz-Philosophie?, S. 31. 邦訳、二四三頁。 Arendt, “What is Existenz Philosophy?”, p. 49. 邦訳、二四二─二四三頁。 Ibid., pp. 48-49. 邦訳、二四〇頁。強調は原文ではイタリック。 Ibid., p. 47. 邦訳、二四一頁。 Ibid., p. 48. 邦訳、二三四頁。 Ibid., pp. 42-43. 邦訳、二四〇頁。 Ibid., p. 47. ) (9) (8) ( ( ( ( ( ( 15 14 13 12 11 10 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 206 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ) ) 邦訳、二三九頁。 Ibid., p. 46. 邦訳、二五三頁。 Ibid., p. 55. ) Ibid., p. 55. 邦訳、二五三頁。ただし、一部改訳している。以下、同様の場合がある。 )ハイデガー研究におけるアレントの解釈の位置づけについては、小林前掲『マルティン・ハイデガーの哲学と政治』の第一章 第一節を参照されたい。 ) 一 九 五 〇 年 と は、 戦 後 ア レ ン ト が ハ イ デ ガ ー と 再 会 す る 年 を 意 味 し て い る。 ア レ ン ト 自 身 が「 全 人 生 を 確 認 し て く れ る も の となりました( Arendt/ Heidegger, Briefe 1925 bis 1975 und andere Zeugnisse, S. 75. 邦訳、五八頁)」と称した再会について、 ウォーリンは、「この再会はアレントを、ハイデガーのもっとも辛辣な批判者からもっとも忠実な擁護者に変えた( Richard Wolin, 村 Heidegger’s Children: Hannah Arendt, Karl Löwith, Hans Jonas, and Herbert Marcuse, Princeton University Press, 2011, p. 49. 岡晋一・小須田健・平田裕之訳『ハイデガーの子どもたち──アーレント/レーヴィット/ヨーナス/マルクーゼ』新書舘、二〇 〇四年、八九頁)」と述べている。ヴィラの研究は、このようなアレントは師ハイデガーの思想に対し批判的距離を保てなくなっ たという考え方に対し異議を申し立てることを狙いとしていると言える( Dana R Villa, Politics, Philosophy, Terror: Essays on 伊藤誓・磯山甚一訳『政治・哲学・恐怖──ハンナ・ア the Thought of Hannah Arendt, Princeton University Press, 1999, p. 62. レントの思想』法政大学出版局、二〇〇四年、九四頁)。 また、アレントにとってのハイデガー像を、二人の出会いから五〇年にわたり全体的に検討した研究として川崎修「ハンナ・ア レントはハイデガーをどう読んだか」(『思想』、第七八〇号、岩波書店、一九八九年)がある。本稿が分析する時期に限定して主 張を確認すると、後年においては、「実存哲学とは何か」における「ハイデガーに対する対決的な非難の調子は見られなくな(同上、 五七頁)」り、世界を複数の個人が相互に行為しあう場として捉えるアレント独自の政治理論は、ハイデガーが行わなかった思索 ) 邦訳、九六頁。 Villa, Politics, Philosophy, Terror, p. 63. であり、彼女がハイデガーに向けた批判の積極的な成果であると川崎は捉えている(同上、七九─八〇頁)。 ) 邦訳、一一八頁。 Ibid., Terror, p. 76. 邦訳、一一四頁。 Ibid., p. 74. 邦訳、二四五頁。 Arendt, “What is Existenz Philosophy?”, p. 50. 邦訳、一〇一頁。 Villa, Politics, Philosophy, Terror, p. 66. ) ) ) 207 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 19 18 17 16 20 25 24 23 22 21 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ) ) 邦訳、一一九頁。 Ibid., p. 77. ) , Heidegger Hg. 邦訳、一二〇頁。 Ibid., p. 78. (青木隆嘉訳『アレン Dana R Villa, Arendt and Heidegger: The Fate of the Political, Princeton University Press, 1996, p. 130 邦訳、四七八頁。 Ebd., S. 360. )同上、四六頁。 )同上、四六頁。 )同上、四七頁。 )更なる研究として していることを挙げている。すなわち、日常的世界が非本来的だとされていること、個体性が根本的にコミュニケーションと表現 (仏語版原著 1992 )がある。しかしながらタミニオーは、アレントがハイデガーの知的模倣者に過ぎないと New York Press, 1997 いっているわけではない。タミニオーは、「実存哲学とは何か」においてアレントが以下の三点についてハイデガーを痛切に批判 Jacques Taminiaux, The Thracian Maid and the Professional Thinker: Arendt and Heidegger, trans. By Michael Gendre, State of のが同研究の立場である( Ibid., p. 202 )。 ま た、 ハ イ デ ガ ー か ら ア レ ン ト へ の 影 響 を『 存 在 と 時 間 』 以 前 の 一 九 二 四 年 の『 ソ フ ィ ス テ ー ス 』 講 義 に 見 る 研 究 と し て )。このようにハイデガーを非難することで、アレントはハイデガーからの知的独立を宣言し、 Ibid., pp. 188-189 政治哲学者としての彼女独自の立場を確立し、啓蒙主義的ヒューマニズムへの要素を基礎的存在論に戻すことを試みているという に批判してきた( がある。同研究によれば、アレントは存在を「自ら開示するもの」と捉え Humanism”, The Review of Politics, vol. 46, No. 2, 1984 るハイデガーの理解を受け継いでいるものの、人間的事象の世界からの断固たる分離を主張する彼の考え方には終始一貫して強烈 Lewis P. Hinchman & Sandra K. Hinchman, “In Heidegger’s Shadow: Hannah Arendt’s Phenomenological ) Ebd., S. 361. 邦訳、四七九頁。 )梅木達郎「輝ける複数性──ハイデガーからアーレントへ」『思想』、第九五八号、岩波書店、二〇〇四年、四〇頁。 ) (エルンスト・フォルラート「ハンナ・アーレントとマルティン・ und die praktische Philosophie, Suhrkamp Verlag, 1988, S. 358 ハイデガー」、下村鍈二・竹市明弘・宮原勇監訳『ハイデガーと実践哲学』法政大学出版局、二〇〇一年、四七六頁) . ) トとハイデガー──政治的なものの運命』法政大学出版局、二〇〇四年、二一六頁) . ( Ernst Vollrath, “Hannah Arendt und Martin Heidegger”, in Annemarie Gethmann-Siefert und Otto Pöggeler ) 28 27 26 29 36 35 34 33 32 31 30 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 208 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 邦訳、一九頁。 Arendt, The Human Condition, p. 7. に敵対していること、公共性が世人の支配する日常性として捉えられていることの三点である( ) ) 邦訳、三八四頁。 Ibid., p. 246. 邦訳、二八八頁。 Ibid., p. 177. 邦訳、二九一─二九二頁。 Ibid., p. 179. 邦訳、二九三頁。 Ibid., p. 180. 邦訳、二九〇頁。 Ibid., pp. 178-179. 邦訳、二九一頁。 Ibid., p. 179. 邦訳、二〇、三七〇頁。 Ibid., pp. 7, 236. 邦訳、三〇四頁。 Ibid., p. 188. 邦訳、三七〇頁。 Ibid., p. 236. 邦訳、三七〇頁。 Ibid., p. 236. 邦訳、一九─二四頁。 Ibid., pp. 7-11. 邦訳、七─八頁。 Ibid., pp. 19-20. ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) 邦訳、二四〇頁。 Ibid., p. 47. 邦訳、二四一頁。 Ibid., p. 48. 邦訳、二二六頁。 Arendt, “What is Existenz Philosophy?”, p. 37. ) )。 Ibid., pp. 13-19 209 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 ( ( ) ) 邦訳、八四頁。 Ibid., p. 56. 邦訳、八二頁。 Ibid., p. 55. ( ) Ibid., p. 55. 邦訳、八二頁。「始まり」の概念に着目し、アレントにおける政治体の根底にある時間性を分析した研究に森川輝一『〈始 まり〉のアーレント──「出生」の思想の誕生』 (岩波書店、二〇一〇年)の第五章がある。アレントの「活動」概念は「始めること」 ( ( ( ( ) Hannah Arendt, The papers of Hannah Arendt ( Library of Congress ) , No. 009466. 一九五五年にカルビン・シュラークにあて た手紙である。この手紙の存在については川崎前掲「ハンナ・アレントはハイデガーをどう読んだか」から教示を受けている。 と「引き継ぎ、成就すること」という時間的原理から解明されなければならないという主張は重要である(同上、三五〇頁)。 ( ( 52 51 50 49 48 47 46 45 44 43 42 41 40 39 38 37 53 56 55 54 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) 邦訳、一二一頁。強調は原文ではイタリック。 Heidegger, Sein und Zeit, S. 42. 邦訳、二二一頁。 Arendt, “What is Existenz Philosophy?”, p. 34. 邦訳、八七頁。強調は原文ではイタリック。 Heidegger, Sein und Zeit, S. 17. 邦訳、二四二頁。強調は原文ではイタリック。 Arendt, “What is Existenz Philosophy?”, p. 48. 邦訳、二四四頁。 Ibid., p. 50. 邦訳、二四三頁。 Ibid., p. 49. 邦訳、二四五頁。 Ibid., p. 50. 邦訳、二四三頁。 Ibid., p. 49. 邦訳、三〇九頁。 Heidegger, Sein und Zeit, S. 175. 邦訳、二四四頁。強調は原文ではイタリック。 Ebd., S. 129. 邦訳、四二七頁。強調は原文ではイタリック。 Ebd., S. 263. 邦訳、四二八頁。 Ebd., S. 263. 邦訳、四二八─四二九頁。 Ebd., S. 263. 邦訳、四七七頁。 Ebd., S. 298. )根拠としてハイデガーが気遣いに多様な仕方があると述べていること( Ebd., S. 66-67. 邦訳、一五五頁)また気遣いを頽落と結 邦訳、二四四、三三一─三三二頁)が挙げられる。 Ebd., S. 129, 192. 邦訳、五七六頁。強調は原文ではイタリック。 Ebd., S. 371. 邦訳、五七九頁。 Ebd., S. 374. 邦訳、二三九頁。 Arendt, “What is Existenz Philosophy?”, p. 46. 邦訳、五一九頁。 Heidegger, Sein und Zeit, S. 329. びつけて捉える時に「没入する」という形容を付していること( ) ) ) ) ) Ebd., S. 373. 邦訳、五七八頁。強調は原文ではイタリック。先に死の概念がハイデガー哲学にとって本来的現存在を導き出す重 要な概念であることを確認した。この本来的時間性においては、死とともに生誕が重要な役割を果たすことに注意しておきたい。 「終わり」としての死と「始め」としての生誕との間の存在者として、初めて現存在はその全体性を示すことになるのである( Ebd., 邦訳、五七八頁)。アレントにおける出生による始まりが、死すべき人間の一生を超えていくものとなることと同様に、 S. 372-373. ( 71 70 69 68 67 66 65 64 63 62 61 60 59 58 57 76 75 74 73 72 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 210 ( ( ( ハイデガーにおいても、一生が生誕と死によって区切られていることを自覚することが、その有限の生を伸び拡げていく生起を生 ) 邦訳、五八〇頁。 Ebd., S. 375. じさせると考えられている。 ) 邦訳、五八六頁。 Ebd., S. 379. 邦訳、五八五頁。 Ebd., S. 378-379. ) ) 邦訳、五九二頁。強調は原文ではイタリック。 Heidegger, Sein und Zeit, S. 384. 八五頁)。 ( ) Ebd., S. 378-379. 邦訳、五八五頁。 ( ) Arendt, “What is Existenz Philosophy?”, p. 51. 邦訳、二四六頁。川崎は、世人と異なる民族という共同性のあり方を示唆する 運命の議論にアレントが一切言及していないことを指摘している(川崎前掲「ハンナ・アレントはハイデガーをどう読んだか」、 ( ) 邦訳、二九三頁。 Arendt, The Human Condition, p. 180. 指摘している。 いであろう(伊藤洋典『ハンナ・アレントと国民国家の世紀』木鐸社、二〇〇一年、一三五頁)」と述べ、両者の論理的同型性を ところの地平とでもいうべき共同性が現われるという論理は、アレントとハイデガーに共通してみられるものであるといってもよ ( ) Ebd., S. 384. 邦訳、五九三頁。 ( ) Arendt, The Human Condition, p. 179. 邦訳、二九一頁。伊藤洋典はアレントの「活動」と「現われの空間」およびハイデガー の「世界」と「作品」の概念に注目し、「まさに個体性が現われてくるところで、その個体性そのものによってそれらが現われる ( ) 邦訳、八二─八三頁。 Arendt, The Human Condition, p. 55. 体していくことである(同上、二〇頁)」ため、両者の間には決定的な相違があると小野は主張している。 』理想社、二〇〇六年、一五頁)」と述べている。しかしながら、現存在の本質的な在り方を単独者と共同存在の両義性と XXI 捉えるハイデガーにとって政治は「安定した秩序の構築とその維持という営みとはまさに対極に立っており、逆に秩序を不断に解 集 ろう(小野紀明「ハイデガーとアーレント──『人間の条件』第二四、二五節の読解」実存思想協会編『実存と政治 実存思想論 ( ) Ibid., p. 188. 邦訳、三〇四頁。アレントのテキストの中に隠されているハイデガーの影を探り当てることを試みる小野紀明は、 「そもそも他者の前に現れることそのものを政治と考えるアーレントの特異な政治概念にハイデガーの影響を見ることは可能であ ( 211 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 81 80 79 78 77 84 83 82 86 85 87 ( ) Ibid., p. 55. 邦訳、八二頁。「死への先駆」を重要視するハイデガーに対して、アレントは過去への遡行と未来の予期を協働させ ることで別様の時間性の時熟の形を提起したと主張する研究として、森一郎『死と誕生──ハイデガー・九鬼周造・アーレント』(東 ( ( ( ( ( )この点に着目した先行研究として、川崎修「アレントを導入する」(『現代思想』第二五巻第八号、青土社、一九九七年)がある。 トの時間性概念が構築されていることを図解する第二部第二章第六節の分析は重要である。 京大学出版会、二〇〇八年)がある。ハイデガーの時間性概念を継承しつつ、そこに複数性と偶然性の要素を加えることでアレン 88 )後年アレントは、『精神の生活』の中で、ハイデガーに対して批判的な評価を示している。その批判は「意志しない意志」とい 類似性を見出している(同上、一二四─一二五頁)。 ハイデガーの民族を共同体の運命を被投性として引き受けそれを未来に投企することによって形成されるものと捉え、両者の間に 川崎は、アレントの公的領域を過去のプロジェクトを引き受けそれを未来にプロジェクトすることによって形成されるものと捉え、 89 ) )ハイデガー哲学における民族概念の一貫性については、小林前掲『マルティン・ハイデガーの哲学と政治』の第二部と第三部 と述べている(森川前掲『〈始まり〉のアーレント』、二六三─二六四頁)。 ) Arendt/ Heidegger, Briefe 1925 bis 1975 und andere Zeugnisse, S. 104. 邦訳、八三頁。 森川もまた、この書簡に注目している。 その上で、一九五〇年秋以降に、アレントがハイデガーの著作に新たな視座からアプローチすることになったことは明らかである ( Library of Congress ) , No. 009466. Hannah Arendt, The papers of Hannah Arendt 的契機が内包されているか否かについては、稿を改めて検討したいと考えている。 治的活動能力として意志に着目し分析しているのである。なお、民族を導き出すハイデガーの哲学に、共同性を構築していく政治 を示している。すなわち、アレントは、ハイデガーには政治的協同性の論理が希薄であると考え、公的領域を形成維持していく政 は、「存在が現れる空間」として民族と公的領域の共通性を主張する本稿に対し、それでもなお両者の間に相違点が存在すること 象としたハイデガーの前期思想ではなく、いわゆる転回以後の後期思想に対するものである。しかしながら、アレントのこの批判 う言葉に象徴されるように、ハイデガーが意志に積極的役割を見出していないことに向けられている。この批判は、本稿が分析対 90 92 91 に言語、文化、伝統などの同質性に基づいた民族でもなく、各自が能動的に選び取った使命の共有に基づくハイデガー独自の民族 る。それがナチズムの提唱するような人種、血統に基づいたものでないことは、一九三四年の講義にて明確に示されている。さら 本稿が、民族と公的領域の共通性を指摘するのは、ハイデガーの民族概念が、一般的な民族とは異なる特異なものであるからであ を参照されたい。また、『全体主義の起原』に象徴されるように、アレントは民族概念に批判的な態度を示している。それでもなお、 93 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 212 ) ) Ebd., S. 147. 邦訳、一一九頁。 ) Hannah Arendt, “Concern with Politics in Recent European Philosophical Thought”, in Jerome Kohn ( 邦訳、二五三頁。 Arendt, “What is Existenz Philosophy?”, p. 55. 邦訳、二九八頁。 Arendt, “Concern with Politics in Recent European Philosophical Thought”, p. 443. )「とはいえ、ハイデガー自身が、この点に関して自らの意味するところをけっして明確にしていない以上、彼が複数形を用いた ) ) (ハンナ・アレント「近年のヨーロッパ哲学思想における政治への関心」、 Understanding 1930-1954, Harcourt Brace, 1994, p. 443 齋藤純一・山田正行・矢野久美子訳『アーレント政治思想集成2──理解と政治』みすず書房、二〇〇二年、二九八頁) . ) , Essays in ed. なのである。前者については小林前掲『マルティン・ハイデガーの哲学と政治』の第二部を、後者については同書の第一部を参照 されたい。 ( ) 邦訳、一一八頁。 Arendt/ Heidegger, Briefe 1925 bis 1975 und andere Zeugnisse, S. 145-146. ( ) Ebd., S. 142. 邦訳、一一五頁。括弧内は筆者による。 邦訳、一一九頁。 Ebd., S. 147. ( ( ( ( ( ( ことに多大な意義を読み込むことは行きすぎかもしれない( Ibid., p. 443. 邦訳、二九八頁)」と述べてもいる。 213 小林正嗣【ハイデガーからアレントへ】 98 97 96 95 94 101 100 99 立憲の中国的論理とその源泉 一 議会の役割における「制限」と「調和」 1 三権分立論と有機体論 李 暁東 一七八九年のフランスの人権宣言第一六条が、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、 (1) 憲法をもつものではない」と謳っているように、権力分立は、権利保障とともに立憲的・近代的意味の「憲法」の古典 (2) 的定義を提供した。権力分立論は、政治権力及びそれを行使する人間や機関に対する懐疑から、権力が濫用されないよ うに創出された「消極的」組織原理である。そして、この原理を制度的に最も象徴しているのは議会である。君主の権 力を制限する機関として形成し発達をしてきた議会は、現在でも権力分立の原理を体現する核心的な機関として、「消 極的」な性格が強い。 (3) 権力分立論を厳格な政治的組織原理として最初に唱えたのは、モンテスキューの三権分立論である。「およそ権力を (4) 有する人間がそれを濫用しがちなことは万代不易の経験である。彼は制限に出会うまで進む」と考えるモンテスキュー は、人々の「政治的自由」を国家権力から守るために、権力の分離を主張し、権力をそれぞれ独立した機関に担わせな 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 214 ければならないと考えた。すべての国家体制や憲法が自由の保障に仕えるものでなければならないのである。 モンテスキューは、立法、執行、司法の三権分立を主張するにとどまらず、さらに、分立された権力が相互に抑制しあい、 各権力間の「力の均衡」を説いた。つまり、権力の制限と相互牽制によって、「力の均衡」を保ち国民の自由を守ると いう目的を達成する、ということである。それは言わば、権力の「制限」と相互「牽制」による均衡にほかならない。 一方、以上の権力に対する「制限」を重んじる立場に対して、権力間の「調和」を重視する議論もある。カール・シュ ミットは、一九世紀ドイツの自由主義を「均衡」の「機械論的観念」から「有機体的な媒介の学説」にまで発展した過 程としてとらえ、ブルンチュリを取りあげている。シュミットによれば、ドイツの自由主義思想は、 「特殊ドイツ的な『有 (5) 機体的』思考と一体となり、均衡の機械論的観念を克服するに至った。だがまた、こうした有機体的思考の助けによっ てこそ、議会主義の理念をなおも保持することができた」のである。すなわち、有機体論は、一方では、原子論的、機 械論的観念と対峙しつつも、他方では、立憲主義の理念を保持し続けていたということである。ブルンチュリの思想に ( (9) (6) 215 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 おいて、前者の「機械論的観念」の克服は、言わば、反自然法、反国民主権という保守主義と、一方の後者の「議会主 義の理念」の保持は、反君主主権という自由主義と、それぞれ対応している、ともいえよう。 (7) ブルンチュリにとって、国家は一つの有機体であり、国家は、国家を構成する諸要素が機械の一部としてではなく、 「国 「道 家の機関」として身体を構成する各部分のように調和を作り出す「有機的」全体として存在している。彼によれば、 (8) 徳的な有機体といったものである国家は、単なる冷たい論理の産物ではないし、国法は、思弁的な原理の寄せ集めでは ない」。ブルンチュリは国家有機体論の立場から「哲学的な方法にかたむいている」モンテスキューの法理論を批判した。 その代わりに、彼は有機体論の視角から国会を捉えて、「議会の個々の構成部分には、他の部分とはなれて法をつくる ( 権威も力もない。それらは、あい結合して一体となった場合にのみ、つまり、不可分の統一的な国家機関としてのみ、 立法権を有する」のであるという見解を示した。 らなっているものであり、議会は各権力間が「あい結合して一体」となるものである。先のモンテスキューにおける権 )の間の調和か このように、ブルンチュリにとって、有機体としての国家は、君主と議会を含めた各々の機関 ( organ (( 力「制限」と相互「牽制」による均衡に対して、ここでは権力間の「調和」が強調されている。 もちろん、権力に対する牽制と権力間の調和とは、一見、矛盾のように見えるが、両者は相容れないものではない。 「衆 モンテスキューは三権分立と権力間の相互牽制を説いたが、同時に、 「これら三つの権力 (立法府を構成する「貴族院」、 ( ( 議院」と執行権を握る君主を指す─筆者注)は、休止または無活動の状態になることがあろう。しかし、これらの権力は事 物の必然的な運動によって進行を強制されるので、協調して進行せざるを得ないであろう」とも述べていることからわ ( ( ( 見のもつ真理性と正当性とを信ずるように相手を説得すること」であり、そしてまさにそれ故に、「相手に説得される ( トが指摘しているように、本来、議会主義の本質は「討論による政治」であり、「討論」とは、「合理的な主張を以て意 しかし、例えば、「意見の闘争」から「利害の闘争」に堕落した近代議会主義の危機の問題性を鋭く突いたシュミッ にして逆に権力との緊張を欠くものとして捉えられ、ネガティブに考えられがちである。 強く意識され、権力に対する「制限」と「牽制」こそが立憲政治の本質だと強調されるなかで、一方の「調和」は、往々 和」とは、そもそも必ずしも両立しえないものではなかったはずである。しかし、「自由」と「権力」との間の緊張が 場合、彼の国家有機体論が立憲主義的制限政体を前提にしていたことは疑えない。その意味では、「制限」や「牽制」と「調 されるという仕組みを構想していたため、やはり身分間の利益の調和を目指したものと言える。逆に、ブルンチュリの かるように、モンテスキューは、身分制社会における諸身分に権力を分散させ、相互の協働によってのみ権力行使がな (( という心構えをもつこと」が必要である。つまり、討論や説得による意見のぶつかり合いは、その意見のもつ真理性と (( う対照的な特徴が含まれており、それらは近代西欧の影響を受けつつ、それぞれ独自の展開をしていたからである。 うえで重要なキーワードになる。なぜなら、近代日本と中国の知識人たちの立憲政治観にも、「制限」と「調和」とい 以上のような、近代立憲主義における「制限」と「調和」とは、近代の日本や中国の立憲政治に対する受容を考える 和」こそが目的だと言わなければならないかもしれない。 その意味では、権力の制限や、牽制自体が目的ではなく、逆に、「討論」をくぐったあとの分立した多元的「力」の間の「調 正当性を明らかにするためのものであり、言い換えれば、対立は最終的に一致と「調和」を目的とするものだとも言える。 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 216 ( ( 筆者は、これまで、近代中国の厳復や梁啓超ら啓蒙知識人たちの国会観に見られる中国の独自の論理を考察してき た。『法の精神』を中国に紹介した厳復はモンテスキューの静止的な風土決定論を拒否しつつも、立憲という「普遍」 的法制度の「精神」を中国的な論理で理解しようとした。この場合、筆者は厳復らの主張における中国の独自の論理を ただ「特殊」なものとしてよりも、むしろ「普遍」をより豊かにするモメントを内包しうるものとして考えたい。本稿は、 厳復をはじめとした近代中国知識人の国会観を中心に、そのなかに通底している独自の論理を、その源に遡りながら辿 ろうとするものである。 2 「権力制限」と「上下一心」 西欧で「議会主義の世紀」と呼ばれる一九世紀の半ばごろに、議会制が「ウェスタン・インパクト」によって東アジ アに伝わった。近代の日本や中国において、西洋の議会制度は西洋の「富強」の本として注目され、紹介された。そこ ( ( で紹介された西洋の議会のイメージが初歩的ではあったが、議会制度によって表された権力の分立という「消極的」な 性格はよく伝わっている。 パ ー ラ メント ( ( (( も おのれ の ( 税に関する紹介では、権力分立の実態がより正確に紹介されている。 ( 会は国の「大事」を議論する場であり、国王の決定も、議会での「公議」を経なければならないのである。さらに、徴 に紹介されている。「国中に大事あらば、王及び官民は倶に巴厘 満 衙門に至り、公議すなわち行わる」。「巴厘満」=議 とも 例えば、日本の佐久間象山や、吉田松陰らに影響を与えた魏源の『海国図志』には、イギリスの議会制度が次のよう (( とらわ しばら さん 餉を欲すれば、則ち必ず紳士、允して従う。倘し紳士、允さざれば、即ち国民を銭糧を納めしむるを得ず。若し紳士、 ゆる 男の如きが、会議の主たり。且つ城邑の居民、各おの忠義の士一二を選び、京の会議に赴く。国王、若し徴税、納 設し大事あらば、会して議し、各おの己の見を抒ぶ。其の国中の尊き者、五爵と曰い、中国の公、侯、伯、子、 (( 私見に執るれば、則ち暫く其の会を散じ、而して別に賢士を択ぶ。如し時を按じ変通の事あらば、則ち庶民は其の 217 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 (( しか すなわ ( もうしあげ や 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 218 つつ 要なる者を択び、敬しんで五爵、郷紳の会に 禀 る。大衆可なれば則ち之を可とし、大衆否なれば則ち之を否とす。 議会は貴族だけでなく、一般住民の利益をも代表しており、とくに、「紳士」の承諾がなければ徴税できない、と国 王の権力が議会によって制限されている様子が伝えられている。 ( い さらに、『海国図志』のなかにも取り入れられた徐継畬の『瀛環志略』(一八四八年)のなかでも、同じようにイギリス わか 議会の「牽制」の役割を明確に認識している。 お の 的な「天」や、「天命」を通じてではなく、現実にある議会での議論を通じて明確な形で表出されるという近代的な制 や思想を保障する制度は確立されていなかった。その意味では、「民」の意志が従来の民本思想に見られるように抽象 はや君主としての正当性をもたないと唱えられているが、それらはあくまで価値意識の次元にとどまり、そうした意識 中国の伝統的民本思想において、「民貴君軽」の思想があり、君主が民意を大事にして「仁政」を行なわなければ、も イギリスをはじめとした西欧諸国における議会制度は、日中の知識人たちに大きなインパクトを与えたに違いない。 対する「民権」の強さへの認識を示している。 ち之を否とす」や、「必ず郷紳大衆の允諾して後ち行う。否らざれば則ち、其の事、寝むは論なし」は、さらに王権に する議会が王権を制限する機関であることは明確に認識されている。「大衆可なれば則ち之を可とし、大衆否なれば則 以上のように、議会の訳語は、 「巴厘満」、 「公会所」など、それぞれ異なっているが、国の「大事」について「公議」 允諾して後ち行う。否らざれば則ち、其の事、寝むは論なし。 いんだく 房に告げ、衆を聚めて公議し、参ずるに条例を以てし、其の可否を決す。輾転して郷紳房に告げ、必ず郷紳大衆の あつ 之れに処る。郷紳房は、庶民より推択し、才識学術ある者、之れに処る。国に大事あれば、王は相に諭し、相は爵 こ 都城に公会所あり。内は両所に分つ。一は爵房と曰い、一は郷紳房と曰う。爵房は、爵位ある貴人、及び耶蘇教師、 (( 度は、自分たちの伝統のなかになかった装置として、知識人たちに大きな衝撃を与えたに違いない。しかし、一方で、 まさに、 「天視るは我が民の視るに自い、天聴くは我が民の聴くに自う」という伝統的民本思想の背景があったからこそ、 日中の知識人たちが近代的議会制度の役割を理解しその魅力を感じて導入する必要性を唱えるようになったのは、あま り時間を要しなかった (日本で初めて議会制の導入を唱えた加藤弘之も、「民本思想」という言葉こそ用いていなかったが、その国 。 会論や民権論に伝統的民本思想の影響が顕著に見受けられる) しかし、興味深いことに、日中の知識人たちが実際に近代的議会制度の導入を唱えるときに、議会は、君権を制限す るという「消極的原理」からその必要性が強調されたのではなく、むしろ逆だった。 まず、日本の場合、例えば、いち早く西洋のような議会制度の設立を唱えた加藤弘之は、 『隣草』(一八六一年)のなかで、 隣国の清朝が直面した危機について論じ、その危機に対応するために、武備を整えるだけではなく、さらに 武 「 備の精 神 = 」 「人和」を伴わなければならないことを説いて、「武備を厳にして外邦の侮を禦んと欲せば、先づ人和を得るを以 ( ( て其大本と為さずしては叶はざるなり」と主張した。そして、「人和」を得るために、まず「公会」を設立すべきだという。 加藤は、世界各国の政体を「君主握権・上下分権・豪族専権・万民同権」の四政体に分け、「上下分権」と「万民同権」 ( ( の政体は「光明正大」の政体だとした。そして、「上下分権」を紹介するときに、それは「確乎たる大律を設け又公会 と云へる者を置て王権を殺ぐ者」だと述べ、王権を制限するという議会の役割を明確に認識している。 ( ( に上下分権の政体を立て公会を設けて専ら光明寛大の政治を施すべきなり。然るときは下民大に帝の仁徳に懐きて上下 「公 の志情右の如く和合し、海内の人和も右の如く全く斉はんこと疑ふべからず」と述べている。つまり、加藤弘之は、 ( ( る。議会開設の必要性について、鄭観応は、「議院がないと、君民の間は勢い阻隔することが多くなり、志したことは 中国における初期の議会論も同じような性格が見られる。例えば初期の代表的なものとして鄭観応の主張が挙げられ 会」=議会を設立することによって、「君権」を牽制することよりも、君民の「志情」の和合に期待したのである。 (( 必ず背違し、力は権限によって分かたれる」と述べている。彼はむしろ「力が分かたれる」ことを危惧して、議会を通 219 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 (( ところが、「公会」設立の目的は、「王権を殺ぐ」よりも、むしろ「人和」の形成にあると強調される。加藤は、「速 (( (( して君民の間の「阻隔」をなくそうとしたのである。鄭は、 「欧米各国はみな議院を設け、ことを行なうに当たっては、 ( ( つねに衆人にはかって、その同意を得る。民が不便だとするものは、必ずしも行なわず、民が不可だとするものは、強 行することができず、朝野上下、徳を同じくし心を同じくしている」と述べ、政治権力を制限する議会の役割を認識し ( となる」ことに期待した。 ( ている。しかし、彼もやはり議院の設立によって、「君民あい和し、情誼は互いに通じ合う。……上下一心、君民一体 (( ( (( (1)「君民一体・上下一心」の性格は過渡的なものか 1 自然法と有機体論の歪曲 二 「即自的同一性」と「通」論 の論理と、立憲政治観の性格を明らかにしたい。 しつつ、近代の知識人たちの立憲思想と、伝統的な民本思想や『易』の思想との関連を考察して、彼らにおける議会論 ない。では、知識人たちの主張に見られるこのような両面をどのようにとらえればよいのか。以下、従来の研究を検討 内包していた。もちろん、それらを近代立憲思想に見られる「制限」と「調和」の要素と安易に同一視することができ 役割を重視した。彼らの議会認識には、君権を制限することと、「上下一心」という調和状態を創出することの両面を 言い換えれば、議会の「消極的原理」を認識しつつも、他方では、「上下一心」の議会を求め、議会による「調和」の このように、近代議会の観念を摂取した初期の日中両国の知識人たちは、一方では、議会制度による君権制限の役割、 の論調ときわめて近似していることは明らかである。 王韜、陳熾、何啓、胡礼垣らの中国知識人の議会論にも広く見られるものであった。それらが加藤弘之の初期の議会論 ( このような、君民間の「阻隔」を無くし「上下一心・君民一体」の議院を設立するという主張が、同時代の馮桂芬や、 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 220 近代初期日中両国の議会論にみられる「君民一体・上下一心」の特徴に注目した研究は、まず許介麟氏の研究が挙げ られる。許氏は、「君民一体・上下一心」の国会を唱えた背景として、とりわけ「外圧」と、国内の混乱という危機に 立ち向かうために、国を挙げて取り組んでいくという要請があったということを指摘した一方、そのような性格をもつ ( ( 議会が、「もっぱら支配関係の片方である統治者の善政いわば権力集中の契機に重点が置かれ、反面支配の対象とされ る人民大衆の政治的参加にまで拡大してゆくいわば権力基盤拡大の論理は乏しい」と指摘した。 この指摘は間違いではないが、そのような解釈に従えば、「上下一心」の性格をもつ議会制度が、あくまでも緊迫し た政治的状況に応えるためのものであり、または、西洋の近代的議会制度に対する認識の深化過程のなかでの一時的で、 過渡的な性格を持つものだということになる。しかし、西欧の近代的議会制度が経験した歴史を考えれば、参政権拡大 問題はやはりひとつの過程を必要としたし、また、「外圧」問題は、たしかに日中の初期議会論における「上下一心」 の性格を形づくった重要な理由であったが、問題は、例えば日本の場合、「外圧」という背景が圧倒的に重要な要素で あった幕末期と異なって、明治憲法が成立したあと、「外圧」がもはやあまり問題にならなかったし、近代的立憲制に 対する理解も深まったにもかかわらず、天皇への「同一性」がやはり強調されていたという点である。「五箇条の御誓 文」における「上下心を一にして盛に経綸を行ふ」ことをはじめ、明治七年に提出された民選議院建白書のなかに、 「斯 ( ( 議院を立、天下の公論を伸張し、人民の通義権理を立て、天下の元気を鼓舞し、以て上下親近し、君臣相愛し、我帝国 を維持振起し、幸福安全を保護せんことを欲して也」と述べられており、さらに、上杉慎吉に至っては、「衆議院は明 ( ( ぐるの重要なる働を為す」と述べている。「上下一心」の性格は過渡的なものではなく、明治憲法が制定されたあとも、 他方、中国の場合でも、以下で考察するように、日本の場合と異なった論理によるものだったが、やはり「調和」的 な性格をもつ国会が追求されていた。 では、以上のような「上下一心」の「調和」的性格を、どのように捉えることができるのだろうか。 221 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 (( 治大帝のたまはせられたる、国民が聖意を奉体し、大業を奨順し、共に負担を分つの橋渡しとなり、君民一致の実を挙 (( 天皇制国家を正当化する表現として頻繁に用いられていたのである。 (( (2)日本における「調和」論──加藤弘之の場合 まず、日本の場合、この問題にメスを入れたのは石田雄氏の研究である。石田氏は加藤弘之の「隣草」から「国体新 論」にかけての「転向」前の著作を取りあげて、加藤弘之は天賦人権説を唱えながらも、彼における自然法思想があく ( ( までも「安民」という視点から支配者に向かって説くものであったという特徴に注目した。石田氏はそれを評して、 「わ れわれは彼の初期における絢爛たる天賦人権説の中に、すでに将来の転換を予期させるものを見ることができる」と述 ( ( を持つ社会有機体論と結合することによって、日本における「家族国家」観を形成させたことに至った。 ( 的自然秩序思想によって歪められていた。そして、温存していた儒教主義が、さらに近代的自然法思想と対蹠的な性格 ( 石田氏によれば、日本における近代自然法思想の受容は、自然も社会もともに自然的秩序という「天人合一」の儒教 るような「家族国家」観につながっていったからである。 べた。加藤弘之における「安民」の視点は、やがて「転向」後の加藤弘之によって「我が族父統治の政体」と表現され (( ( 分けて説明している。すなわち、後者の「近代的有機体説」は、個人の存在から出発して「下」から団体を基礎づける ( その場合、石田氏は有機体論を「前期的有機体説」(「無意識的有機体説」)と「近代的有機体説」(意識的有機体説)とに (( (( ( ( 調和」を唱えるトマス・アクィナスの理論と親和性をもつものであったのである。 (( ( 加藤弘之は『真政大意』(一八七〇年)あたりから本格的にブルンチュリを受容し始めたとされている。だとすると、『隣 ( 序と観念された。そして、儒教主義における有機体的秩序はまさに「現世の政治的秩序と神の支配する普遍的秩序との のに対して、前者の有機体説は、例えば、カトリシズム的有機体説に見られるように、秩序は神の摂理による自然的秩 (( ており、したがって、有機体の比喩もそれに対する観念として、「抽象化された国家像」として立ちあらわれる。しかし、「転 すなわち、本来、例えばシュミットが指摘したように、近代的有機体論は、国家が装置であるという観念を前提にし リのそれとは明らかにずれていた。 しかし、石田氏によれば、ブルンチュリの有機体論を初めて日本に紹介した加藤弘之が理解した有機体論と、ブルンチュ 草』の中で展開された伝統的民本思想を背景にした「人和」論はここからブルンチュリの有機体論と合流したことになる。 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 222 ( ( 向」後の加藤のなかで、有機体は日本社会の家族的構成と結びついて実体化し、あたかも自然の存在としての「家族国家」 の観念を形成する一つの発条になったのである。 ( ( ( ( (( いてである、と限定したことである。石田氏はさらに、「思想史的に言えば、カトリシズムにおいて絶対者としての神 有機体 (無意識的有機体)論に属するということを指摘したとき、それはもっぱら近代自然法論との対比という意味にお ただし、注意すべきは、石田氏が儒教倫理とカトリシズムの有機体観との親近性に注目し、両者はともに「前期的」 2 「上下」と「循環」 容も歪められた (有機体の実体化)のである。 、有機体論の受 儒教主義の温存により、近代日本の自然法思想の摂取が歪められ (自然と倫理、存在と規範が一元化された) ( 石田氏の分析は、近代日本の天皇制を支える「家族国家」観における伝統的儒教主義的性格を鮮やかにあぶりだした。 ることは容易に想像できよう。 このような議会の性格をたどれば、加藤弘之が最初に打ち出した「君民一体・上下一心」の「公会」に遡ることができ 会も伝統的な国民的同調性を媒介する一つの (唯一のではない)補助的」機関として位置づけられたのである。そして、 ( であった。議会の性格に関していえば、このような「即自的同一性」の温存によって、「近代的形成の形式をとった議 ( 緊張」がなく、その「同一性」とは、「父子相愛の情誼」という「自然」力を強調する「『天皇帰一』の即自的同一性」 ( 「封建的多元性と国民的統一性、あるいは封建的特権の国民的自由への拡大と強力な中央集権国家への権力集中という しろそれへの拒否を特徴とする伝統的な「即自的同一性」であった。このような伝統的な「即自的同一性」は、もはや 討論の可能性の基盤をなし、したがって多様性と独自性を認めるような「国民的等質性」(E・バーカー)ではなく、む のような、市民的自由と権力装置としての国家との対置及び両者間の緊張関係が欠けたために、デモクラシーを支える この「家族国家」の特徴の一つとして、石田氏は「即自的同一性」を挙げている。こうした「同一性」は、近代西洋 (( が存在するのと儒教においてあくまで非人格的な理又は道が考えられているのとでは決定的相違があることを看過して 223 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 (( (( (( ( という実体としての有機体論が成立し、現秩序を固定するという役割を果たすことになった。 しかし、加藤の文脈と異なって、儒教における自然的秩序を、その本来の論理からすれば、単線的な「上から下へ」 という表現は必ずしも正確ではないと思われる。 儒教的自然的秩序のなかに、絶対的な「非人格的な理や道」はよく「天」や「天命」として表象される。「天人合一」 の自然観のなかで、「天」の意志は、「天視るは我が民の視るに自い、天聴くは我が民の聴くに自う」という言葉によっ て示されているように、「下」の民の民意の表れでもある。したがって、「天命」を受けて民を支配する「天子」は、同 時におのずから「天命」の表れでもある「民意」によって拘束されている。伝統的な儒教的「王土・王臣」論は、「朕 は国家なり」のような西洋絶対主義にはならない理由もまさにそこにあった。したがって、儒教におけるこのような有 機的な構造は、単に「上から下へ」という図式で表現できず、むしろ、「天─君─民─天」という一種の循環構造とし ( ( て理解したほうがより正確であろう。このような循環構造のなかで、無道の君主を「一夫」(『孟子』)と看做し、その君 主としての正当性を否定するという易姓革命の思想が正当化される。 ( が後者を否定することによって、彼の中に残存していた儒教が上述の循環のモメントを失い、結局、直線的な上下構造 上下の君臣関係を固定し、他方では、上下関係をひっくり返す、というアンビバレントな論理が共存していたが、加藤 一方で、 「天孫」が天降りの存在を理由に易姓革命の可能性が否定された。本来、儒教的循環構造のなかでは、一方では、 ( 加藤のなかにおいて、君主が「蒭蕘に諮詢」する制度や、「兼聴」する制度を讃える伝統的民本思想が温存されていたが、 (( (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 224 ( はならない」と付け加えている。 ( (( 之の場合、「族父」である「天皇」が「理又は道」にとって代わる超越的な存在として絶対化されたなかで、「上から下へ」 後には、そうした個人から出発して団体を基礎づけなければならないからである」と指摘した。それに対して、加藤弘 ( の方向の相違をみなければならない。なぜならば一旦自然法思想によって原子論的な個人が有機的秩序から解放された 体論と……スペンサー等の有機体論との間には、ギールケのように類型化していえば、 『上から下へ』と『下から上へ』 にもかかわらず、近代日本の状況を念頭においていたためか、石田氏はギールケの類型化を借りて、「『前期的』有機 (( しか残らなくなった。 このような「上・下」構造と「循環」構造との違いを区別することは重要である。なぜなら、「上・下」構造のなか で唱えられた「上下一心」は、実体的超越的絶対者の下での「上下一心」でしかなく、石田氏が指摘した「即自的同一 性」を意味するものにほかならなかったが、それに対して、「循環」構造のなかにおける「上下一心」が何よりも表し ているのは、塞がることなく「通」という調和のとれた状態を意味している。この場合、「相通ずる」ことは「上意下 達」という一方通行的なものではなく、むしろ一つの有機体の良性循環を保つ意味での「通」であった。それは「上下 が相交わる」という相互作用によってもたらされたものだった。のみならず、この循環的な「通」において、「上・下」 の関係は相対的なものにすぎず、交代することが自然だとされている。 このような価値意識のなかにあった中国の知識人たちにとって、議会は君権を制限する機関であったと同時に、究極 的には政治社会全体が「通」である状態にするために調整するための機関であった。このような「通」によって創出さ 225 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 れた「調和」は、石田氏が言うところの「即自的同一性」とは異質なものであった。 ( そして、以上のような儒教における「循環」──「通」の論理を明らかにするために、さらに『易』に遡らなければ ならない。 三 『易』と民本思想 1 『易』における「泰・否」 ( まず、前出の鄭観応の議会論に、次のような一節がある。 けだし上下が交われば、すなわち 〔『易』にいう〕泰 〔時運の亨通すること〕であり、交わらなければ否 〔抑塞すること〕 (( である。天は民を生じ、その君を立てるが、「君はちょうど舟のようなものであり、民は水のようなものである。 。かの古えより、盛衰治乱の要は、 水は舟をのせることができるが、また舟をくつがえすこともできる」〔『荀子』哀公〕 総じていえば、これにつきる。まして今日、天下の大勢は、列国が通商し、それを拒絶しがたい勢いである。そう だとすると、〔万国〕公法によって規正せざるをえないが、公法を依拠するに足るものとするためには、まず議院を 設立し、民情を上達させなければならない。そうしてこそはじめて国威を拡張し、外侮を防ぐことができるのである。 ここでは、鄭観応は明らかに民本思想の論理をもってその議会論を展開している。君と民をそれぞれ船と水に譬える という荀子から借用した表現は、支配者を戒める言葉としてあまりにも有名である。ここで語られている民本思想が君 主に対する説法であり、君主の視点から語ったものだったことは否めない。この点は民本思想の根本的欠陥としてよく 指摘されているところでもある。 しかし同時に注目すべきは、このような君民「相通ずる」という主張が、「上下が交わる」「泰」と、その逆のことを 意味する「否」のなかで語られていることである。このことは、民本思想がただ君主の善意によって一方的に施された ものではなく、それはさらに『易』のなかに位置づける必要があることを示している。そもそも、「泰・否」は『易』 における一対の卦であり、それはもっぱら政治社会における「上下相通」の場合に用いられていたものではなく、広く いえば、古来中国人の宇宙観をあらわしたものである。「泰・否」の源は儒教経典の「五経」の一つ、『易』に遡らなけ ればならない。 殷と周の間にできたとされる『周易』は、 「経」と「伝」からなっている。「経」は「卦形」 ・ 「卦名」と「卦辞」 ・ 「爻辞」 の本文からなり、「伝」は戦国時代にできたとされ、後世の者がそれぞれの立場から「経」の意味を解くのを内容とし ( ( たものである。「伝」は全部で一〇篇あるため、「十翼」とも呼ばれている。『易』は、上古の伏羲が八卦を画し、中古 ( ( の文王が卦辞、爻辞、近古の孔子が「十翼」を作ったと伝えられており、聖人らによって作られたこの書物は儒教の経 典の一つと数えられ、後漢時代にさらに五経の首として、経書の経書という地位を確立するに至った。 (( (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 226 『易』における繋辞上伝に、「易に太極あり、これ両儀を生ず。両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」と述べられて いるように、『易』は宇宙万物に説明を与えたものである。宇宙の根源である「太極」が「両儀」──「陽」と「陰」 ──に分化して、宇宙万物はすべて「陽」と「陰」の組み合わせによって表現される。「陰陽は、一切の事物の現象の ( ( 性体及びその作用についての二つの属性を現わすものである。一切のものはあるいは陰となりあるいは陽となって無休 の変化作用をなすとともに、その変化の中に一定不易の法則を蔵している」のである。そして、「陰・陽」から生まれ ( ふさ たん あら てい よろ な ( ( (( ( う現象を説明する原理でもあった。陽が極まれば陰に転じ、陰が極まれば陽になる、という循環的な交代原理のなかで、 ( の生成を説明する原理であると同時に、昼夜、寒暑の交代のような、対立するものが交代する、交互に現れてくるとい さらに、「陰・陽」は万物生成の原理だけでなく、交代の原理でもある。山田慶児氏の説明によれば、陰陽論は、物 ずることは、天地、万物の間の「交通」と同じだということである。 ここでは、天地自然と政治社会における「上下」の「君臣」関係とが直結されており、「上下」 ・ 「君臣」間が「相通」 「則ち是れ天地交はらずして万物通ぜざるなり。上下交はらずして天下邦无きなり」ということである。 彖伝によれば、 たん 上下交はりて其の志同じきなり」。一方、「否」とは、「之を否ぐは人に匪ず。君子の貞に利しからず。大往き小来る」であり、 ( 『易』に曰く、「泰」とは、「小往き大来る。吉にして亨」であり、 彖伝によれば、「則ち是れ天地交はりて万物通ずるなり。 卦」とに対する解釈として用いられている。 「泰・否」は、すなわち「六十四卦」に含まれている一対の卦である。そして、「通」と「塞」は、それぞれ「泰卦」と「否 た「八卦」はさらに「六十四卦」に分化し、それらの卦の重なりによって、宇宙と人生との一切の道が表現される。 (( ( ( 氏によれば、「中国の自然学は、不断に万物を生み出す『生生』の造化の働きを気の本質として、あらかじめ前提して いる。気とは造化の働きをする基底的存在である、と定義してもい い」。そもそも、陰陽は気である。清・軽・陽の気 ( ( が上昇し、濁・重・陰の気が下降して、両者相交わることによって万物生成することになる。 (( 興味深いことに、「天・乾、陽・剛」をあらわす陽爻 (「|」)と、「地・坤、陰・柔」をあらわす陰爻(「 」)との組み 227 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 (( 当然のことながら、「陰」と「陽」とはそれぞれ固定されたものではなく、流動的、ダイナミックなものである。山田 (( (( -- 合わせによってできた「卦」のなかで、「泰卦」の場合は、三つの「陽爻」からなる「乾」(≡)が下に位置しており、 逆に三つの「陰爻」からなる「坤」( )が上になっている。このような状態で、上向く「天・乾、陽・剛」の「気」と、 ( したが として『書経』に民本思想の源を求めている。記述の量からすれば、たしかにその通りだったかもしれない。しかし、 ( るかな。」という易姓革命を正当化する有名なくだり以外に、政治思想に関する記述が少ない。そのため、梁啓超は主 『易』において、よく引用されている「天地 革 まりて四時成る。湯武命を革め、天に順いて人に応ず。革の時大いな あらた が理想とされていた。このような「通」による中節、調和が、中国の伝統的自然法思想の核心をなしていると言ってよい。 いう中国医学の観念を生み出し、道徳の面では、 「中庸」「中節」が唱えられ、そして、政治社会においては、 「政通人和」 四季の循環と調和を意味し、人体に関しては、「通じざれば則ち痛み、通ずれば則ち痛まず(不通則痛、通則不痛)」と り、相通ずるという調和の状態が重要視されている。このような「交」 ・ 「通」による調和は、自然界においては、寒暑、 て秩序を創出するが、そのような「上・下」関係は固定されておらず、交代の原理に基づいている。そこでは、相交わ 要するに、『易』において、「太極」から生じた「陽・陰」がそれぞれ「乾・坤」=「天・地」=「上・下」に対応し 臣」関係をそのまま「上・下」という秩序で固定すれば、交わらなくなり、「否」ということになる。 逆に、卑しい存在である庶民が「上」に位置するとき、初めて「相通ずる」という「泰」であると言える。逆に、「君・ 方向が相反し、相交わることができない。そして、このような図式を政治社会に対応させると、尊い君主が「下」に位置し、 卦からなっているが、「泰卦」の場合とはちょうど逆に、「乾」が上に位置し、「坤」が下に位置するため、「気」の向く 下向く「地・坤、陰・柔」の「気」が相交わり、相通ずることになる。それに対して、「否卦」はやはり「乾」卦と「坤」 ≡≡ いうことである。したがって、このような伝統的な価値意識のなかで、「上・下」関係は、けっして一方通行的なもの であるのと同様に、易姓革命をはじめとする民本思想もまたアプリオリに存在する天地の自然であり正当なものだ、と 化し、体系化したからである。つまり、『易』において、「君・臣」間の「上・下」、「尊・卑」関係はアプリオリな存在 ぜなら、天、地、人の宇宙万物に説明を与える『易』は、革命を含む民本思想を天地と同じような自然な理として正当 民本思想が『易』のなかにおける宇宙万物の摂理の一部分として位置づけられていること自体は重要な意義をもつ。な (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 228 ではなく、それは交わりや、交代のなかで相対化されており、逆に、「下剋上」という易姓革命がこの交代原理を反映 したものとして正当化されている。これは「天─君─民─天」という循環が成立した所以でもある。 易姓革命をはじめとした民本思想が、無道の君主を倒す行為に正当性を賦与した思想であるが、易姓革命をはじめと した民本思想に正当性、そして、正統性を賦与したのは『易』にほかならなかった。 そして、それは君権制限の重要な思想的資源として歴代の中国の知識人たちによって盛んに動員されたのである。 2 君権制限の思想的資源としての『易』 (1)君権を制限する「天人相関」説 自然と政治社会とを直結させ自然における陰陽の交代原理を活用して、君権に対する制限の理論を創りだした最初の 儒者は董仲舒であった。 ( さず 229 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 董仲舒は言うまでもなく、漢の武帝の時代に儒教を支配的イデオロギーとして「独尊」の地位を確立させた人物であっ た。その代表作『春秋繁露』のなかで、彼は独自の「天人相與」の政治思想を展開した。彼の解釈によれば、王=君主 ( は、その字の通り、横の三画は天、地、人を表し、縦の一画はそれらを通じさせることを意味するものであり、「王」 そこな の意志は代わりに「災異」によって体現されていた。 意」の形で現出するのに対して、董仲舒にあって、 「民意」のモメントが消えており、君主の正統性の源としての「天」 想でも、董仲舒の主張と先秦時代の民本思想と異なっているのは、先秦の儒教において、 「天」の意志がどこまでも「民 これを予ける。其の悪が民を賊い害することができる者は、天、これを奪う」(同上」)のである。しかし、同じ民本思 さず を大事にすることができるか否かにかかっている。すなわち、 「故に、其の徳が民を安楽にすることができる者は、天、 り、王の正統性は「天」の意志より与えられたものだと主張している。そして、君主が正統性を有するには、やはり民 たものである。王が討伐されたのは、皆天によって奪われたものである」(「堯舜不擅移湯武不専殺第二十五」)と述べてお 。董仲舒は、「王という者は天によって予けられ はまさに天、地、人三者を通じさせる存在である (「王道通三第四十四」) (( 董仲舒は、「天と人は一つである。……天と同じくする者は大治になり、天と異なる者は大乱になる」(「陰陽義第四十九」) とのべ、陰陽思想を人間社会に直結した。そして、「天地の常道は、一陰一陽である。陽なる者は天の徳であり、陰な おさ る者は天の刑である」(同上)とした彼は、一方、「夫れ、徳は和より大きいものはなし、而して道は中より正しいもの はなし」。「是故、中と和を以て天下を理められる者は、其の徳は大いに盛んである」(「循天之道第七十七」)と説き、陰陽 の均衡がとれた状態である「中」や「和」を理想とした。他方、逆に自然における「災異」は政治社会の乱れに対する「天」 の罰を意味する。それは君主への警告ないしその正統性を否定するものだと主張した。董仲舒はこのように自然の「災異」 を「天」の意志と「天子」に対する絶対的な命令に擬して、君主の権力を牽制しようとしたのである。 ( ( もちろん、このような牽強付会な解釈によって、先秦時代の儒教思想における人為的な「天」が抽象化され、神秘的 なものへと化したことは否めない。董仲舒の「災異」説と比べて、先秦民本思想における「民意」は確かにより具体的 ( ( しかし、『易』の背景をもちつつも、民本思想を神秘的な「災異」説によらなかっただけでなく、超越的な「天」に (2)『易』から捉える『明夷待訪録』 員された恰好な思想的資源となったのである。 ている陰陽の思想は、このように董仲舒によって、君主の権力を牽制するという現実の政治的課題に対処するために動 異」とは本質的に異なるものだが、君主に対する絶対的な制限として働くという点では同じである。『易』の根幹にもなっ (( (( 「作為」としての憲法という制度と神秘的な「災 ている点に於て、後世の憲法に類似する機能を営む」とまで言われている。 ( 限の思想をより確かなものにしようとしたものであった。このような「災異」説は「直接君主権を対象として設けられ ( の刑」という拘束力を持つ。董仲舒の「天人相與」説は、神秘的な陰陽思想を政治的に利用して、儒教における君権制 それに対して、抽象的な「天」の意志の表象としての自然「災異」は、董の時代において、君主に対して絶対的な「天 表することができるかが曖昧であるため、 「民意」は往々にして強者や勝者による自己正当化の論理として用いられる。 であり、その意味では王権神授説と区別される。しかし、視点を変えてみれば、民本思想において、誰が「民意」を代 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 230 さえよらずに、もっぱら現実の政治社会の次元で民本思想の論理を展開した者もいる。それは「中国のルソー」(梁啓超) と呼ばれている明末清初の思想家黄宗羲であった。彼は君主の権力に対する制限を制度面から構想したのである。 黄宗羲はその代表作の『明夷待訪録』の中で、伝統的民本思想をそれまでの儒教の歴史のなかで見られなかったラジ カルな形で唱えた。彼は、君主について、「むかしは天下を主とし、君主を従とした。およそ君主が一生かかって経営 ( ( したのは、天下のためであったのである。いまや君主を主とし、天下を従としている。およそ天下がいずことして安ら かを得られないのは、君主のためなのである」、「してみると天下の大害をなすものは君主なのだ」(「原君」)と述べて、 易姓革命を行った周武王を聖人とし、易姓革命を正当化した孟子の言葉を聖人の言葉とした。一方、臣下について、 「わ れわれ (臣下──筆者注)が出ていってつかえるのは、天下のためであって、君主のためではないのである。万民のため であって、一姓のためではないのである」(原臣)などの言葉はあまりにも有名である。 そのような立場から、黄宗羲は、「天下を治める手段がみな学校で決められる」(「学校」)という議会を想わせるよう な「学校」制度を構想した。彼からすれば、 「天子の是とすることは、いまだ必ずしも是でなく、天子の非とすることは、 いまだ必ずしも非でないから、天子もまたかくてあえてみずから是非を決定しないで、その是非決定を学校に公開」(「学 校」)すべきである。彼の主張するところでは、学校の学長の地位は宰相に等しく、天子は宰相以下を範として、学長が 講義し、天子以下は弟子の列につく。政治に欠陥があれば、学長が直言する。他方、地方においては郡県の学校で学監 が講義をして、郡県の官は弟子の列につく。そして師弟で討論をし、その官の政治の欠点を指摘する。これらが学校の 場において行なわれるというのである。 このように、黄宗羲は伝統的民本思想を極致まで説いただけでなく、価値理念としての民本思想を董仲舒のような神 秘的方法を用いずに、制度の次元で構想したのである。 では、黄宗羲はなぜそこまでラジカルな主張を展開することができたのだろうか。その理由はやはり『易』との関連 ( ( で考えなければならない。黄宗羲は実は『易』研究の大家であった。彼は『明夷待訪録』を著す前年に『易学象数論』 231 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 (( を著しており。この『易』の研究書は『四庫全書』にも収録されている。さらに、より重要なのは、『明夷待訪録』で (( ( ( は黄宗羲が初めから『易』を強く意識していたといってよい。そもそも、『明夷待訪録』という題名における「明夷」 とは元来、卦名であり、それは、 「明、地中に入る」という意味である。この書物は、黄宗羲がその「序」でみずから語っ ( ( ( ( (( ( (( や ( ( た。黄宗羲によれば、天地の間に満ちているものは「気」のみである。「気は本と一なり。而して、一動一静、一往一来、 も などの黄宗羲のほか著作においても、 「易」が盛んに取りあげられており、 『易』の思想は黄宗羲の哲学を貫くものであっ 『易』は黄宗羲にとって、宇宙万物の「道」を明らかにするものにほかならなかった。『易学象数論』だけでなく、『明儒学案』 黄宗羲は、 「易、聖人の書なり。斯道の変易を明らかにする所以にして、往くとして在らざる無きなり」と述べており、 ( 壮」との間において捉えて、初めて著者の黄宗羲の真意をよりよく理解することができると思われるからである。 『明夷待訪録』の書名及び「序」における「易」への言及の重要性を見落としてはならない。この書物を「明夷」と「大 ものである。 、来るべき「大壮」の時代に期待して提言した に天地大法の教えを請われた箕子に擬し、明君の来訪を待って (「待訪」) (( たように、転換期の前の「明夷」という暗黒時代のなかで著したものであり、黄宗羲はみずからを聖王とされる周武王 (( ( ( かいれい た こ 一闔一闢、一昇一降、循環して已む無し」。そして、彼の哲学はおのずと彼の政治思想に通ずるものだった。彼は次の ように述べている。 けだ (( いわゆ あ ほと まれ い しか すな にく あた 黄宗羲にとって、政治社会の法則もまた宇宙の法則の一環であり、彼における民本思想も儒教的自然法思想によって 悪む、此れを之民の父母と謂う」。此れ、所謂る人と同じき、所謂る節に中るなり。 こ 即ち是れ和、人と同じければ即ち是れ節に中る。大学に曰わく:「民の好むところ之を好み、民の悪むところ之を こ 之を和と謂う」。孟子曰わく、「其の平旦の気、好悪、人と相い近き者は幾んど希なり」。然らば則ち、節に中れば い 「発して皆な節に中る、 一団の太和の気のみ。人人、此の太和の気を有す、特だ、乖戻を以て之を失う。中庸に曰わく、 た 蓋し、天下の物は、和すれば則ち生じ、乖戻すれば則ち生ぜず。此れ疑い無きなり。乾元の生生も亦、只だ此の (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 232 担保され、正当化されているのである。 『明夷待訪録』は、黄宗羲が「明夷」のなかで、やがて迎えることになる「大壮」のあるべき姿を描いたものである。 彼は天下を私し天下に大害を為した君主を批判し、それに対する制限を「宰相」や、「学校」の設置など、制度の面で 構想した。彼の一連の制度的構想は、君権を制限して「通」の政治を実現するための手段であった。 同じく明末清初の代表的な知識人であった顧炎武は黄宗羲への手紙の中でこの書物を読んだ感想を綴った。「天下の 政治については、その知識を持つものは、その時に会うとは限っていず、またその時に会ったものは、あるいはその知 識をもたないこともあります。いにしえの君子が書物をあらわして後世に期待をかけたのもこのためでありまして、王 ( ( 者のあらわれることがあれば、これを得て師となし、かくて『易経』の『窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通じ、 通ずればすなわち久しくなる』ことでありましょう」と述べた。黄宗羲と「通」の理想を共有した顧炎武は黄宗羲の良 い理解者であったのである。 『明夷待訪録』は民本思想を「天」などの超越的なモメントによらずにラジカルに展開したが故に、後世によって革 命的な書物だと評価され、とくに清末の啓蒙知識人たちに大々的に取り上げられた。しかし、もし黄宗羲の「君、臣」 論や、「学校」論を『易』の枠組みで捉えれば、それらは中国の伝統的自然法思想の論理のなかから自然に導き出され るものだったと言わなければならない。『易』によって体現される伝統的自然法思想は初めから「上・下」、「君・臣」 関係の相対性を自然の摂理として規定した。それは黄宗羲の革命的な主張を支えていた。したがって、『易』の思想的 ( ( 背景のなかで『明夷待訪録』における黄宗羲の主張を捉えれば、この書物は革命的どころか、むしろ儒教的伝統の正統 を忠実に継承した書物だったと言わなければならない。その意味では、黄宗羲は「正統を歩む革命家」であったのである。 さて、清末の鄭観応らによる初期の議会論は、二〇世紀初頭になって、ようやく現実に変わろうとした。一九〇六年に、 233 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 (( 四 「扶治」機関としての議会 ──厳復の議会論 (( それまでの清朝政府による「新政」改革の進展と世論の後押しで、「予備立憲」の詔勅が発布され、立憲制への過渡は 準備過程に入った。そして、「予備立憲」が始まって間もなく、国会開設の世論がたちまち形成され、国会速開請願運 動が大きな潮流になった。この時期の議会論は一〇年前の一九世紀末と比べて、量的に大きく増えただけでなく、西洋 に対する理解が質的にも前より高いレベルに達した。では、この時期の議会論に、今まで見てきた董仲舒、黄宗羲の政 治論から鄭観応の議会論までへとつながる「通」の性格がまだ残されていたのか。もしまだ残っていたとすれば、それ はどのような形で反映されていたのであろうか。以下、この時期の最も代表的な議論のひとつである厳復の議会論の性 ( ( 格を、彼のモンテスキューの『法の精神』とシーリーの『政治学概論』に対する翻訳を中心に見ることにしたい。 ( いるのは、大半英国の哲学者ロックの『民政論』に基づいている」というコメントを加え、モンテスキューの権力分立 ( 『法の精神』における「イギリスの国制について」(第二部第五章)という章の冒頭で、厳復は、「この章で述べられて に翻訳しながら、厳復は随所コメント (按語)を入れているため、そこから厳復の考えを読み取ることができる。 スキューの大著を長期間かけて訳出したことは、本書に対する厳復の持続的な関心を示している。『法の精神』を忠実 厳復は、一九〇四年から一九〇九年にかけて、モンテスキューの『法の精神』(『法意』)の翻訳に取り組んだ。モンテ (( ( (( うな法を用いれば、国は決して進化することができない。そのため、厳復は、改革は何よりもまず官僚制の改革から始 な専制国において、「法を立てたのは、奸を塞ぐことは九を占めるのに対し、国や民に利することは一だった」。このよ 官僚制度における「抑止、制限」の性格にむしろ不信感をあらわにしている。すなわち、厳復からすれば、中国のよう 均衡の側面を必ずしも重視しなかった。それどころか、同章における他の箇所で、厳復は中国の場合に触れて、中国の それにもかかわらず、モンテスキューとロックとの共通性に注目した厳復は、モンテスキューにおける権力の抑制・ モンテスキューの「分立」論のほうは、「分離」だけでなく、さらに「抑制」の性格をもっているのである。 の分離を主張するに止まるのに対し、モンテスキューはさらに各権力の抑制・均衡の必要を説く」と指摘しているように、 ( クとモンテスキューの権力分立論の違いを考察した清宮四郎が、「ロックは権力の過度の集中を防ぐためにたんに権力 論がJ・ロックの『統治二論』に基づいていると指摘して、両者を同一のものとして捉えている。しかし、例えば、ロッ (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 234 ( ( まり、「行われることは、国家に利するもので七を占めさせ、奸を塞ぐものでその三を占めさせること」を旨としなけ ればならないと主張した。中国の現実にもとづいて考えた厳復は権力に対する「抑制」、「牽制」をむしろネガティブに とらえていた。 そもそも、厳復がモンテスキューを翻訳したのは、西洋の「富強」の本である非人格的な「法の支配」ということへ の強い関心からだった。シュウォルツが指摘しているように、「厳復の法に対する関心は、変革の一手段としての法を ( ( 越えるものであった。すなわち、彼は、西洋の法体系と法的世界観を、西洋のプロメテウス的な爆発を生み出した、あ ( ( ( シーリーの『政治学概論』を訳出している。前者の『社会通史』は、シュウォルツによれば、それは「『法の精神』に ( 実は、 『法の精神』を翻訳する期間中、厳復はさらに二つの重要な著作、エドワード・ジェンクスの『社会通史』とJ・ を展開した。 ける「牽制」のモメントに違和感をもった厳復は、モンテスキューよりも、J・シーリーの理論を借りて自分の国会論 の諸要素の総合体に不可欠な一成分と見なし、それに強く心を奪われていた」のである。しかし一方、三権分立論にお (( 対する一種の補遺であった」。シーリーの『政治学概論』について、シュウォルツは触れていないが、実は、それも同 (( 修正的な「補遺」を行なおうとしたにほかならなかった。 (憲政両権)とが実は分立されていないからである。厳復がシーリーの理論を用いたのはモンテスキューの三権分立論に の三権分立論が現実に合っていないと批判した。なぜなら、彼からすれば、イギリスにおける「立法権」と「執行権」 著されたこの二つの論説のなかで、厳復は、シーリーの説に則って、イギリスの国制をモデルに論じたモンテスキュー る「続論英国憲政両権未嘗分立」のなかに隠されている。両論説のタイトルから窺えるように、シーリーの著作を元に 」及びその続論であ その答えは厳復の論説「論英国憲政両権未嘗分立 (英国の憲政両権の未だ嘗て分立せざることを論ず) たのだろうか。 様に厳復が『法の精神』に対する「補遺」のために翻訳したものだと考えられる。では、それは何に対する「補遺」であっ (( 『 政 治 講 義 』 の な か で、 シ ー リ ー の 主 張 を 踏 襲 し た 厳 復 の 議 会 観 が 明 確 に 打 ち 出 さ れ て い る。 厳 復 か ら す れ ば、 一 235 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 (( ( ( ( ( )である。いうまでもなく、このような「扶治」機関とは、議会である。厳復によれば、 「立憲の国会は……要は organ ( ( 、破壊したりして、もってその天職とするのみ」である。 現政府を建造したり、助けたり (扶持) 厳復からすれば、イギリスの議院はまさに「政府を成り立たせ、または毀す機関」であった。それは決してモンテス (( ( だけで、各々の服従や反対の意を示すだけである」。執行権をもつ内閣が立法の過程でも主導権を握るということである。 ( 義上は行政だが、その立法の権が、実際、立法の名義を持つ議院よりも大きい。議院は立法について、それを議論する キューの三権分立論に沿って理解されるような立法権を代表する機関ではなかった。厳復によれば、「英国の閣部は名 (( ( に存する。それはすなわち政府を擁立し、あるいは改廃する権力である。このような権力は政治を執行することに近い ( ──厳復注) それに対して、議院のもっとも大きな権力は、行政を監督することにあり、議院の役割は、実は「禁制」( veto (( ( ( とで、「閣部 (内閣)と議院は、職分が分けられているようだが、実際に国家の政治においては、はじめから境界という ものがなかった」。イギリスの立憲制度は、立法と行政の権が混同されないように厳しく規定されているが、以上で見 ( (( ( きないところがある」と評した。 ( 行政と立法とがにらみ合い、結局大きな混乱が引き起こされたことから、厳復は「モンテスキューの説は確かに通用で に束縛する (相軛)ことにはならないのである。逆に、モンテスキューの三権分立論にこだわったフランスの憲政が当初、 ( たような「憲政両権」の相互浸透という調節の方法 (調剤之術)によって、立法、行政両権が相交通し、相資して、互い (( た。そのような違和感は、彼がシーリーのイギリス憲政論に出会ったことによって初めて解消されたことができた。 厳復はたしかに『法の精神』におけるモンテスキューの三権分立論を忠実に訳出したが、同時にそれに違和感をもっ (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 236 ( )である。こ government-making power 国のなかで、「治者」( the governmen ) 、 )だけでなく、その間にさらに「扶治」( the governmentt「受治」( the governed ( 「扶治」とは、政府を「建立、維持、破壊する権力」( yがある。 supporting bod) (( のようなパワーはどの国にも存在するが、中国のような専制国に欠けているのは、「扶治」の機関 ( government-making (( つまり、イギリスにおいて、立法権と行政権とが実は分立されていないのである。厳復からすれば、議院内閣制のも ものである。 (( 厳復にとって、シーリー著作の翻訳はモンテスキューの三権分立論に対する欠かせない「補遺」であったのである。 以上のように、厳復は中国の官僚制に見られるような、国に利するか否かを考えずに、もっぱら相互牽制を旨とする 性格に対する不信感から、モンテスキューの三権分立論よりも、シーリーの理論に同調した。しかし、シーリーの主張 に対する厳復の共感の理由はそれにとどまらなかった。彼は同時にシーリーの主張を自らが直面した政治的現実に直接 に応えるものとして捉えた。 ( ( シーリーは、「政治的自由」をあくまでも量的に捉えており、それを政府による権力行使の程度、法令の量と反比例 を成しているものと考えている。そして、国民の「政治的自由」の量と、それと反比例を成している政府の権限とは、 その国が受けた外来の圧力の如何によって決められる、と指摘している。 シーリーの理論に強く共感した厳復は、 「わが国においては、盛強の日があるなら、おそらく政府の権柄が日々拡張さ ( ( ( れ、民の有する自由はますます少なくなるだろう。それは政府が無責任から有責任に転じたことによるもので、必至の ( ことである。そうでなければ盛強の日が来ないからである」。厳復にとって、中国は、政府が政府としての責任( responsibility )を放棄する「放任政体」にほかならなかったのである。そのため、彼は権力間の相互牽制を唱える三権 of government (( 任のある政府」に改造するために、速やかに国会を開設すべきだという主張は、清末にいち早く「国会速開」論を打ち 以上の厳復の主張は、その後の国会速開請願運動によって受け継がれた。「放任政体」における無責任の政府を「責 創出するためにサポート (扶治)する機関でもあったのである。 という側面であった。「扶治」機関としての議会は、単に政府の権力を制限する役割を果たすだけでなく、強い政府を 分立論に同意できなかった。イギリスの憲政が厳復の目に映ったのは、むしろその相通じ相資する権力間の協働と調和 (( 出した楊度によって唱えられ、それがさらに梁啓超へと繋がり、結局、清末国会速開請願運動を支える論理となった。 237 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 (( 五 結び 近代西洋の立憲政治を受容する過程で、近代日中の知識人たちは斬新な近代的議会制度を理解するために、おのずか ら民本思想という伝統的思想資源を動員した。しかし、民本思想は知識人たちにとって、単に近代的議会制を理解し摂 取するための手段にとどまらなかった。彼らの多くは、近代的議会制は君権を制限する制度として、まさに民本思想の 制度的体現だと考えていた。 近代日中両国の初期の議会論に見られる「人和」のための国会、「上下」が相通じるための国会という性格は、例え ば、加藤弘之の例で見られるように、 「安民」という「上」からの視点から抜け出していないことを意味しており、また、 「上下一心」や、「上下相通ずる」構想は、権力の濫用を防ぐという議会制度の精神を十分に理解しておらず、政治権力 との緊張を欠いたものとして問題視されてきた。たとえば、加藤弘之の思想が引きずっているこのような伝統的側面は、 結局、「即自的同一性」として収斂し、近代日本の「家族国家観」の形成に寄与したことになった。 しかし、加藤弘之が抱えている問題点を直ちに伝統的民本思想の問題点として置き換えることはできない。 「民貴君軽」 を唱える民本思想は、『易』によって表象される中国伝統的自然法思想のなかで、自然万物の摂理の一部分として位置 づけられており、儒教思想において正統の地位を得ている。黄宗羲の『明夷待訪録』における革命的とも言える政治論は、 そのような民本思想の正統性を最大限に発揮した主張にほかならなかった。 同様に、厳復は、ルソーの『民約論』のなかで述べられていることは、すでに孟子が語ったものであったとして、 「古 ( ( 今民権を唱道するもののなかに、『民為重、社稷次之、君為軽』という三つの言葉よりも重い言葉があるのか。おそら く無かっただろう」と述べたのも、以上のような伝統的自然法思想のなかで理解することができよう。このような「民権」 伝統的自然法思想のなかで、「泰・通・和」が理想的な状態だとされている。ただし、このような状態はけっして「上」 は同時に、厳復が唱える「扶治」機関としての議会を性格づけたものであった。 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 238 から「下」へ、という一方通行的なものではなく、それは「循環」と「交代」というダイナミックスのなかで形成され たものである。このような「泰・通・和」の理想のなかに、君主や君権を相対的なものとして捉え、それを制限しつつ 民意を大事にするという観念が初めから埋め込まれていたのである。近代中国の知識人たちが政治権力を「制限」する 重要さを認識しつつも、 「調和」を重視したのは、 「外圧」という外的要因のみならず、根本的にやはり彼らにおける「調 和」の観念が伝統的自然法思想を反映しているからだと言ってよい。中国の知識人たちにとって、「制限」と「調和」 の役割を同時に担う「扶治」機関としての近代的議会制度は、民本思想の表出と実践を制度的に保障する装置にほかな らなかった。知識人たちにとって、それこそが立憲政治の最大の意義であったのである。 (1)樋口陽一『憲法Ⅰ』青林書院、一九九八年、二二頁参照。 る懐疑的態度、④政治的中立性、とまとめている(同氏『権力分立制の研究』復刊版、有斐閣、一九九九年、二─五頁参照)。 (2)清宮四郎氏は、権力分立の特性を、①自由主義的な政治組織原理、②消極的に権力の濫用を防止する原理、③国家権力に対す (3)モンテスキュー著、野田良之他訳『法の精神』上、岩波書店、一九八九年、二八九頁。 (4)モンテスキューは、政治的自由を「国家、すなわち、法律が存在する社会においては、自由とは人が望むべきことをなしうること、 そして、望むべきでないことをなすべく強制されないことにのみ存しうる」、「法律の許すすべてをなす権利」だと定義している(『法 の精神』、前掲、二八八─二八九頁)。 (5)カール・シュミット著、稲葉素之訳『現代議会主義の精神史的地位』みすず書房、二〇〇〇年、六四頁。 (6)蠟山政道『日本における近代政治学の発達』新泉社、一九六八年、第二章、安世舟「明治初期におけるドイツ国家思想の受容 に関する一考察──ブルンチュリと加藤弘之を中心として」、『年報政治学・日本における西欧政治思想』岩波書店、一九七五年、 そして、石田雄『日本近代思想史における法と政治』岩波書店、一九七六年、第五章、などを参照されたい。 (7)ブルンチュリの学説に関する研究は、とくに前掲の安世舟氏の研究と、山田央子「ブルンチュリと近代日本政治思想──「国民」 )新訳」、『青山法学論集』第十七巻第一号、一九七五年、一二 Allgemeines Staatsrecht 観念の成立とその受容」上・下、 『東京都立大学法学会雑誌』第三十二巻第二号、三十三巻第一号、一九九一、二年、を参照されたい。 (8)西村克彦「ブルンチュリ『国法汎論』( 239 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 六頁、参照。なお、加藤弘之の訳文は、明治文化研究会編、イ、カ、ブルンチュリ著、加藤弘之・平田東助訳(明治文化全集補巻・ )モンテスキュー『法の精神』上、前掲、三〇四頁。 相合し、協力同心、共に一体となりて、始めて此権を得る者なり」、前掲、一六頁。 )西村前掲、一〇七頁。ちなみに、加藤の訳文は、「抑々巴力門の各部は決して独立して制法の権を有する者にあらず、君主両院 パルレメント 二)『国法汎論』首巻、日本評論社、一九七一年、二三頁、を参照されたい。 (9)西村前掲、一三〇頁、加藤の訳文は、前掲、二五頁。 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 10 )同右。 的明晰さにまで高められる(四九頁参照)。 きにのみ、自由主義的な合理主義にとって特徴的な二つの政治的要求──公開性と権力分立──が初めて正当な意義をもち、科学 )カール・シュミット、前掲書、九頁。なお、シュミットによれば、このような「討論」の中心的な地位が正当に認識されると 12 11 )魏源編『海国図志・三』岳麓書社、一四〇四頁。 九─三七〇頁、参照)。 初期立憲思想の比較研究──特に加藤弘之と康有為の政治思想の比較を中心にして」、『国家学会雑誌』第八三巻第五・六号、三六 その後の一、二年間の間に、二〇種もの訓点翻刻本や、和訳本が相次いで出されたといわれている(許介麟「日本と中国における )一八四七年に六〇巻本で刊行され、一八五二年に百巻本に増補された同書は、一八五四年前後、六〇巻本が日本に伝えられた。 )拙著『近代中国の立憲構想──厳復・楊度・梁啓超と明治啓蒙思想』法政大学出版局、二〇〇五年、を参照されたい。 15 14 13 )同右。 変法運動』岩波書店、二〇一〇年、一二四頁。 )野村浩一訳、村田雄二郎改訳、鄭観応「盛世危言」、村田雄二郎責任編集(新編原典中国近代思想史2) 『万国公法の時代──洋務・ )同右、一〇頁。 )同右、六頁。 )加藤弘之「隣草」、『政治篇』(『明治文化全集・第三巻』)日本評論社、一九二七年、四頁。 )同右、一四六三頁。 )同右、一四二五頁。 22 21 20 19 18 17 16 23 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 240 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( )同右、一二七頁。 )詳しくは、許介麟前掲論文、『国家学会雑誌』第八三巻第五・六号─一一・一二号、第八四巻第一・二号、一九七〇─一九七一 年、第三章第一節を参照。 )許介麟前掲論文、『国家学会雑誌』第八三巻第九・一〇号、一九七〇年、八五頁。 )江村栄一校注(日本近代思想大系九)『憲法構想』岩波書店、一九八九年、六九頁(ただし、片仮名は平仮名になおした)。 )上杉慎吉『憲法読本』日本評論社、一九二八年、九〇頁。 )石田雄『明治政治思想史研究』未來社、一九五四年、七一頁。 )同右、六九、九〇頁を参照。 )同右、九一頁。 )同右、九二頁、及び、同『日本近代思想史における法と政治』、前掲、一七二頁参照。 )石田雄『明治政治思想史研究』、前掲、九二頁。 )安世舟氏は、 『真政大意』、 『国体新論』、 『国法汎論』の三冊をブルンチュリの『一般国法学』の全訳と見ている(安氏前掲論文、 )石田雄『日本近代思想史における法と政治』、前掲、一七三頁。 一四〇頁)。 )同右、一九二頁。 )同右、一七八、二〇九頁。 )同右、一六三頁。 )石田雄『明治政治思想史研究』、前掲、六九頁。 )同右、九二頁。 )同右。 )加藤弘之「真政大意」、(日本の名著三四)『西周・加藤弘之』中央公論社、一九八四年、三六〇頁。 )同右、三五七頁。 )鄭観応「盛世危言」、前掲、一二六頁。 )梁啓超によれば、易は孔子の哲学理論をまとめたものである。孔子は晩年に易を研究し、彖伝、象伝、繋辞伝、文言伝を著した。 241 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 25 24 34 33 32 31 30 29 28 27 26 45 44 43 42 41 40 39 38 37 36 35 )今井宇三郎、(新釈漢文大系二三)『易経・上』明治書院、一九八七年、「解題」参照。 一九八九年、二七─二八頁)。 )高田真治・後藤基巳訳『易経』(上)、岩波書店、一九六九年、三九頁。 )今井宇三郎前掲書、三一六頁。 )同右、三三〇─三三一頁。 )山田慶児『中国医学の思想的風土』潮出版社、一九九五年、一〇七頁。 )陽(−)の二爻は易の基本観 「易経が一つの系統的な哲学となったのは孔子より始まった」としている(梁啓超「孔子」『飲氷室合集・専集三十六』中華書局、 ( ( ( ( ( )爻とは効い交わるの意。天地の現象に効って互いに交わり、またほかに変ずるの意味。陰( なら )山田慶児『朱子の自然学』岩波書店、一九七八年、三五一頁。 )梁啓超「先秦政治思想史」、『飲氷室合集・専集五十』前掲、一七頁。 念であり、これを重ねること三にして、八卦を成す。さらに八卦の組み合わせで六爻からなる六十四卦ができる。 -- ( ( ( ( ( ( ( ( 52 51 50 49 48 47 46 )その意味では、重澤俊郎が「董仲舒に在っては災異は飽くまで君主に対する警告なるを以て、必ず過去の行為に連関して解釈 陽五行之来歴」『飲氷室合集・文集三十六』前掲、を参照されたい)。 でもそれを表象するためのものであり、「孔子の『二元哲学』における一種の記号に過ぎない」(五二頁)としている(梁啓超「陰 ば、孔子の哲学からすれば、宇宙に二種類の力がある。「陰・陽」は「剛・柔」、「動・静」、「消・息」などと同じように、あくま ている。さらに、梁啓超は「迷信」としての陰陽と孔子の『易』に関する研究とを厳格に区別している。すなわち、梁啓超によれ ており、董は「二千年来の迷信の大本営」(四七頁)であり、陰陽五行に道を開いた罪責を負わなければならない一人だと批判し )梁啓超は、董仲舒の『春秋繁露』に精緻で深い哲理が多く含まれているとしつつも、その理論が陰陽家から大きな影響を受け )董仲舒『春秋繁露』中華書局、二〇一一年、以下同。 55 54 53 )重澤俊郎前掲書、一九一─一九二頁。同じような見解は、さらに、金耀基『中国民本思想史』台湾商務印書館、一九九三年、第四章、 と指摘したのは重要である(重澤俊郎『周漢思想研究』弘文堂書房、一九四三年、一九八─二〇〇頁参照)。 せられ、将来発生すべき社会的自体に対する暗示的意味は毛頭無い」、したがって、後世の吉凶を予言する「讖緯」説と区別される、 56 )沈善洪主編・呉光執行主編、黄宗羲「明夷待訪録」、『黄宗羲全集』第一冊、浙江古籍出版社、二〇〇五年。なお、訳は、西田 を参照されたい。 57 58 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 242 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 太一郎訳、黄宗羲『明夷待訪録──中国近代思想の萌芽』平凡社、一九六四年、に従った、以下同じ。 )銭穆『中国近三百年学術史』商務印書館、一九九七年、「年表」八〇五─八〇六頁参照。 さか )今井宇三郎『易経』中(新釈漢文大系二三)、明治書院、七三五頁。 )黄宗羲「明夷待訪録」、前掲、一頁。黄宗羲はその後二〇年で、 「大壮」の転換期に入り、初めての治世になるということになっ )「大壮」、卦名。すなわち、「大なる者壮んなるなり。剛にして以て動く、故に壮んなり」(今井宇三郎前掲書、六九八頁)。 )黄宗羲「宋元学案・巻八十六・東発学案」、『黄宗羲全集』第六冊、前掲、四〇五頁。 ていると見ていた。 )黄宗羲「明儒学案・巻四十七」、『黄宗羲全集』第八冊、前掲、四〇八頁。 )黄宗羲「明儒学案・巻二十六」、『黄宗羲全集』第七冊、前掲、七〇五頁。 )黄宗羲『明夷待訪録──中国近代思想の萌芽』、前掲、四頁。 )ちなみに、筆者といくらか理由は異なるが、ベンジャミン・シュウォルツは、顧炎武や、黄宗羲を「オーソドックスな儒教の 政治経済思想」を堅持している思想家として捉えている。彼らは、三代の「封建的ユートピア」を回想し、また、中央集権の結果、 有徳の官吏のイニシアティブを許す余地が無くなったことに不満を持ち、「実践的経世」を唱えた(B・I・シュウォルツ著、平 野健一郎訳『中国の近代化と知識人──厳復と西洋』東京大学出版会、一九七八年、一五頁、参照)。 )厳復が翻訳した『法意』は商務印書館が出版したものであり、七冊からなっている。王栻によれば、最初の三冊は一九〇四年 に刊行され、その後の一九〇五年、一九〇六年、一九〇七年、一九〇九年に一冊ずつ刊行された(王栻『厳復伝』上海人民出版社、 )厳復『法意』上、『厳復合集・一三』財団法人辜公亮文教基金会、一九九八年、二七二頁。 一九七五年、一〇二頁)。 )清宮四郎前掲書、七五頁。 )以上、厳復『法意』上、前掲、二七八頁。 )シュウォルツ前掲書、一四八頁。 ( ) Sir John R. Seeley, Introduction to Political Science, London: Macmillan and CO. Limited, 1896. 厳復の『政治講義』と、「論英 国憲政両権未嘗分立」、「続論英国憲政両権未嘗分立」が、いずれもシーリーのこの著作を底本にしていることは、近年、判明した (戚学民「厳復『政治講義』文本遡源」、『歴史研究』、二〇〇四年第二期を参照)。 243 李暁東【立憲の中国的論理とその源泉】 62 61 60 59 67 66 65 64 63 68 73 72 71 70 69 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( )その理由について、シュウォルツは、ジェンクスの単線的な進化論が厳復にとって、「モンテスキューの分析の静的で、『非進 )シーリーの原著における対応した言葉である。以下同。 歩的な』性格を補正する機能を営むものであった」と説明している(シュウォルツ前掲書、一七二頁)。 74 )厳復『政治講義』、前掲、六八頁。 み換え』」、『総合政策論叢』第一八号、島根県立大学総合政策学会、二〇一〇年、を参照されたい。 東京大学出版会、一九九六年、拙稿「近代中国の『自由主義』──厳復のJ・S・ミルとJ・R・シーリーの『自由』に対する『読 )「自由」を量でとらえることに注目した研究は、佐藤慎一「補論2 厳復の『政治講義』と専制論」、 『近代中国の知識人と文明』 )同右、四六〇頁。 )同右、四六一頁。 )同右、四六六頁。 )同右、四六八頁。 )同右、四六七頁。 )厳復「論英国憲政両権未嘗分立」、『厳復文集編年(二)』、前掲、四七〇頁。 )同右。 )厳復『政治講義』、『厳復合集・六』、前掲、一〇〇頁、以下同。 84 83 82 81 80 79 78 77 76 75 )厳復「憲法大義」、『厳復文集編年(二)』、前掲、四七五頁。 )同右、六五頁。 87 86 85 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 244 [政治思想学会研究奨励賞受賞論文] プラトン 『メネクセノス』 篇における ソクラテスの葬送演説 ──帝国主義批判と弁論術の教育的使用について 一 序論 ──葬送演説と対話篇『メネクセノス』 近藤和貴 プラトンの多くの対話篇において弁論術の批判者として登場するソクラテスが、なぜ『メネクセノス』では戦没者の ための葬送演説を行うのだろうか。本稿の目的は、トゥキュディデス『歴史』との比較を通じて、第一に、『メネクセノス』 におけるソクラテス演説が『歴史』に記録されたペリクレス演説の批判である点、第二に、それが聴き手である若者の 教育を意図していた点を立証することである。 そもそも、ソクラテスが行った葬送演説 ( ej p itav f io~ lov g) o~とはどのような弁論なのであろうか。トゥキュディデスに よれば、ペロポネソス戦争の期間中 (前四三一─四〇四年)アテナイ人たちは「父祖伝来の慣習」( pavtrio~ novm) o~に従って 。公費を用いて大規模に営まれるこの厳粛な儀式のクライマックスは、 「見 戦没者のための葬儀を時折行っていた ( 2. ) 34 )において最も傑出した人物による葬送演説であった。この演説の役割は、まずもって 識」( gnwv m)hと「名誉」( aj xiv w si~ 公衆を前にして死者たちの勇敢な死を称え、彼らの偉大な業績を記憶に残すことである。しかしそれ以上に重要なこと に、この演説は死者だけでなく生き残った市民たちにも向けられていた。戦時下において市民を鼓舞することこそが葬 送演説の重要な政治的機能でもあったのである。演説者は都市の高貴な起源、優れた国制、そして数々の偉業を説き起 245 こし、そのような都市のために死を賭して戦った先祖を称えることによって、アテナイの偉大さを市民たちに向けて再 (1) 構築していく。演説によって作られた「現実よりもより真実な」イメージを抱き、市民たち、とりわけ若者たちは戦争 参加へと強く動機づけられたのである。このような葬送演説の中に、私たちは、戦時下アテナイが理想とした政治体制、 さらには政治的指導者が市民を戦争へと導いたレトリックをも見ることができる。 プラトンの『メネクセノス』においてソクラテスは一つの完結した葬送演説を披露しているが、この事実は同対話篇 ) 、プラトンの全著作を通じて、通常ソクラテスは弁論術とその教師であるソフィストの批判 269c-274b の解釈を著しく困難にしている。というのも、「真の弁論術」という例外が指摘されることはあるものの (『ゴルギアス』 『パイドロス』 517a; 者として描かれているからである。例えば、『ゴルギアス』の中でソクラテスは、弁論術を、真理に関心がなく聴衆の ) 。プラトン研究において、真理と徳を追求するソクラテ 嗜好におもねるだけの迎合に過ぎないと批判している ( 463a-b スにとって最大の論敵がソフィストであり、彼の哲学の対極に位置するのが弁論術であるとする理解は半ば常識ですら ある。ソクラテス哲学に関するこうした共通理解に基づくならば、『メネクセノス』においてそのソクラテスが葬送演 説を、しかも極めてよくできた演説を行っていることは衝撃でさえある。さらに都合の悪いことには、演説の中で彼は アテナイの国制と対外政策を称賛しているが、そこには事実の歪曲が散見される。彼は政治的、歴史的事実を意図的に 修正している。ソクラテスは、他の対話篇において彼自身が強く非難した弁論術の悪弊、すなわち、聴衆を喜ばせるた めの迎合や非真理の言明に自ら与っているようにさえ見える。一方で弁論術を批判し他方でそれを行使するという明白 (2) な矛盾に直面したならば、研究者たちが『メネクセノス』を解決困難な「パズル」になぞらえ、すべての対話篇の中で「最 も謎めいたもの」と評したのも無理からぬことであろう。本対話篇は『国家』や『法律』といったプラトンの代表的な (3) 対話篇と同じく政治性の高い著作であるにもかかわらず、標準的なプラトン像から外れているために、これまで真剣な 研究対象となることは極めて少なかったのである。 こうした解釈困難な対話篇を読み解くため、本稿では、 『メネクセノス』自体が提供する二つの手掛かりに注目する。 第一に、『メネクセノス』における葬送演説は、ペロポネソス戦争一年目に行われ、トゥキュディデス『歴史』に記録 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 246 (4) されたペリクレスの葬送演説への批判である。ソクラテスの演説がペリクレスの批判であることは、ソクラテス自身が 明示している。彼によれば、ペリクレスが弁論家として大成したのは妻アスパシアの教育の成果であり、有名な葬送演 説も彼女が提供したものに他ならない。さらにソクラテスが『メネクセノス』で披露する演説は、アスパシアが起草し ) 。したがってソク たこの葬送演説のうち、ペリクレスが演説する際に採用されなかった残りの部分である ( 235e3-236b6 ラテス演説は、繁栄の絶頂にあったアテナイ帝国を賛美した当時随一の政治家ペリクレスが行った演説のいわばネガで あり、実際後に議論するように、両者の演説は鋭い対照をなしている。ソクラテスはペリクレスとの比較を促すことに よって、ペリクレス的な帝国とは異なる、優れた都市を想像する別様な方法を提案している。本稿では両者の比較を通 じて、哲学者としてのソクラテスが政治家ペリクレスの政治観をどのように反転させたのかを検討する。 第二の着眼点は、ソクラテス演説の名宛人と彼への教育である。先行研究において、ソクラテス演説がどのような教 説を含んでいるのかは解釈上の難問であった。というのも、ソクラテスが何らかのペリクレス批判を行っていることが 了解されても、彼の弁論術への態度は喜劇的もしくは嘲笑的ですらあるからである。実際、ソクラテスはペリクレスが アスパシアに操作されていたという喜劇好みのスキャンダルを暴露するばかりか、自らが演説することを「子供じみて )と言い、演説を裸踊りにたとえてさえいる ( 236c9, 236d1 ) 。このような問題を受けて、ドッズは『メネク いる」( paivzein セノス』は葬送演説の諷刺に過ぎず、そのレトリックを誇張して模倣しつつ、それが導いたアテナイの対外政策をアイ (5) ロニカルに批判したものであると論じている。彼の解釈では、弁論術の悪しき特徴を極端に描いたソクラテス演説には そもそも真剣な教説は含まれない。 他方、カーンにとって、ソクラテス演説は諷刺ではなく徳の涵養を説く真剣なもの (6) である。彼の主張では、プラトンはこの演説を通じて、アテナイ市民たちが「より高度な歴史」をもつにふさわしいこ とを示し、彼らをより善き政治へと導いている。 (7) ところが、これらの先行研究はソクラテスの演説に注目するあまり『メネクセノス』が対話篇であるという事実を看 過しているばかりか、彼の演説が一人の若者に対してなされているという事実をほとんど考慮していない。これに対し て本稿では、ソクラテスの演説はメネクセノスを教え導くためになされており、彼の喜劇的な態度も彼の教育的意図に 247 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 沿って説明できると主張する。この著作においてメネクセノスは、政治的な野心をもつだけでなく、哲学に耳を傾ける ことのできる若者として描かれている。ソクラテスによる弁論術の例外的な使用は、政治的立身出世のために弁論術に 傾倒する若者の関心に歩み寄り、その内容に手を加えながら演説を聴かせることによって、聴き手により節度ある政治 観を教示し、さらに彼を哲学的に有徳な生へと引き寄せるために採用された巧みな手段である。この観点からすると、 ソクラテスの喜劇的な態度は、演説者自身を弁論術への直接的なコミットメントから引き離し、弁論術本来の大衆の説 得という目的とは異なる教育的目的で使用することを可能にしていると解釈できる。弁論術から喜劇的な距離を保つこ (8) とでソクラテスは、弁論術を使用しながら、同時にペリクレス的な政治観や生き方よりも、あるいは政治的なものその ものよりも高次の視点があることを示唆することができる。本稿では、ソクラテス演説の名宛人を考慮に入れることに よって、ソクラテスの教育の内容および方法を検証する。また、このような演説の使用がソフィスト的な弁論術の欠点 を免れた「真の弁論術」でありうるかどうかは結論において考察される。 このように本稿では、ソクラテスの演説がペリクレスへの批判であるとの立場から、ソクラテスがメネクセノスを教 育する意図をもって彼に演説を聞かせていたことを論証し、その教育内容を明らかにする。以下では、まず、ソクラテ スが自らの演説を何と対照させようとしていたのかを理解するために、トゥキュディデス『歴史』にあるペリクレス演 説を概観し、その後、それと比較するかたちで『メネクセノス』の分析を行う。 二 ペリクレスの葬送演説 ──アテナイ帝国賛美と非道徳性 本節ではペリクレスの葬送演説を概観する。その要点を先取りするならば、彼の演説は道徳性なきアテナイ帝国を賛 (9) ( ( 美したものであり、都市のための戦死こそが個人に最大の幸福 (死後の名声)をもたらすと訴えることによって、市民に 戦死者を模倣するよう勧めるものである。 ペリクレスはまず、演説の主題を死者の称賛ではなく、都市そのものの賛美に設定する。葬送演説という慣習そのも (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 248 のに疑義を呈しながら彼が語り始めるのは、自らが演説者として直面している困難である。一方において、死者を知っ ている者たちは、彼らに好意を抱いているため、死者へのどんな賛美も不十分だと感じてしまう。他方、死者を知らな 。 い者たちは、死者の偉業を聞いても、嫉妬心から反発しそれを誇張と受け取ってしまう ( 2. 35.) 2 こうした困難の中、 ( ( ( ( 最初に祖先と父の世代を褒め称えることがふさわしいと認める。しかしながら、彼は先祖の偉業をわずか数行で片づけ、 今の世代こそが最高の名誉を与えられるにふさわしいと断言する。その理由は、彼の世代こそがアテナイ帝国のほとん ) 。ペリクレスが賛美するのは現在の都市の帝国的偉業に限定され、帝国の偉 どの部分を獲得したからである ( 2. 36. 1-3 ) 。彼が主に賛辞を捧げるアテナ 大さはその拡張、もしくは他の諸都市を支配する力の総量によってはかられる ( cf. 2. 16 イの国制 ( politeiv)aや生活様式 ( trovp) o~も、それらが帝国拡大を可能にしたがゆえに称賛に値するのである。 一見したところペリクレスは、アテナイの国制・生活様式の賛美において、私生活の豊かさを最も評価しているよう ) 。しかし、 に見える。もちろん彼は、他都市の模範となるような政治制度としてのデモクラシーも賛美している ( 2. 37 これと同等に、あるいはそれ以上に彼が強調するのは帝国とその拡大がもたらした私的享楽である。アテナイが多くの 都市を支配し裕福になったことで、市民たちは様々な教義や儀式を楽しみ、豪華な邸宅に住み、さらには他都市から運 ) 。デモクラシーの帝国 ばれる産物をあたかも自国のものであるかのように手に入れることができるようになった ( 2. 38 に住む利点の一つは、公的な場における平等な政治参加のみならず、私的生における快楽の充足である。軍事的な偉大 さの観点からしても、アテナイにおいてそれは容易な訓練と慣習によって培われた勇気のみで達成されるがゆえに、厳 ( ) 9 3。 249 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 彼が到達した解決策は、死者と生者が共通して依って立つ都市そのものを称賛することである。都市は死者の行為を偉 (( ペリクレスが都市を賛美する際の基準は、彼の現役世代重視の姿勢から読み取れる。ペリクレスは、葬送演説では、 の主題を個々の死者の偉業ではなく、それを超える都市そのものへと巧みに設定していく。 大にする源であり、生者の生の基盤である。演説の困難さを梃にして、ペリクレスは聴衆の同情を得ると同時に、演説 (( しい軍事訓練を強いて私的生の余地を残さないスパルタよりも、両者を併せもつアテナイの方が優れているのである ( 2. ( (( ( ( しかしながら、ペリクレスがどれほどアテナイにおける私的享楽と生の容易さを強調しようとも、彼のアテナイ賛美 は決して個人主義的な生を推奨するものではない。私的快楽は享受してしかるべきものであるけれども、真に称賛に値 ( (( ( (( ( ( ( (( (( ( 。 づいて自国の独善性に居直り住民を虐殺したメロス島での出来事はその好例であろう ( 5. 84-114, 11) 6 道徳なき支配の ( 、 者が支配するのは世の常である」と力による正義を正当化したアテナイ大使の演説や ( 1. 73-7) 8 こ の よ う な価 値 観 に 基 ( 帝国の非道徳性というペリクレスの見解は、アテナイの対外政策の実像をそのまま映し出すものでもある。例えば、「強 して価値をもつのである。 。 陸海に打ち立てたからである ( 2. 41.) 4 ペリクレスにとって勝利と拡大は、たとえ悪行であったとしても、それ自体と 遂行したがためではない。むしろ、彼がその軍事的成果を褒めるのは、都市が「悪と善双方における永久の記念碑」を ) 。都市の行いに関しても、ペリクレスがアテナイを称賛するのは、それが正しい戦争を ならないからである ( 2. 42. 2-3 的な死によって帳消しになるのであり、都市のためになされた勇敢な行為は私的な悪行よりも優先的に扱われなければ いて死にさえすれば最大の名誉を受けることができると断言している。なぜなら、ペリクレスにとって私的な悪行は公 道徳性を認めてさえいるからである。まず、帝国に貢献する個人について、彼は道徳的に劣った者でさえも、戦場にお ここで私たちは、ペリクレスが称える帝国の道徳的性格に注意しておく必要がある。ペリクレスは事実上、帝国の非 は個人が都市へ完全に吸収されることによってのみ成立するのである。 ( 演説の中に都市の政治・軍事的達成と個人の幸福との完全なる調和を見て取ることは可能であろう。ただし、その調和 ( ) 。ここにおいて、ペリクレスの それは名誉 ( dov x)aというかたちをとり、市民たちの中で永遠に残る記憶となる ( 2. 43 )である。 わち生命を都市のために放棄することこそ最大の賛辞に値し、これこそが人間にとっての最大の幸福 ( eujdaivmwn 。 するのは、私的快楽を知りつつもそれを都市のために放棄できる人物である ( 2. 40. 3, 42.) 4 最高度に私的なもの、すな (( このように帝国の偉大さを明確にし、それがために死した戦士たちを称賛した後、ペリクレスは最後に生き残った者 ) 。 アテナイ帝国主義あるいは僭主制の縮図であり、その雄弁な賛美でもある ( 2. 63; cf. 1. 118 必然性と力の政治の正当化こそアテナイ帝国の原理であり、ペリクレスはこの政治観を受け入れている。彼の演説は、 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 250 たちに勧告を行う ( 2. 44-45 ) 。彼は、子を失った親に対しては死者の名誉に慰められつつ新しい子を作り都市の防衛に貢 献することを、死者の兄弟と子に対しては死者を手本として善き戦士となることを勧告する。ペリクレスは、市民の戦 死を悼み称えることを通じて、生者にこれまでよりいっそう都市に身を捧げるよう要求するのである。最後にペリクレ スは未亡人に言葉をかける。しかし、軍事的かつ男性的な都市を信奉する彼にとって女性は政治的にそれほど重要では ない。彼にとって女性の徳とは目立たないことであり、それに応じて、女性についての言及は彼の演説の中で最も目立 たないものになっている。 以上、ペリクレスの葬送演説の概要を見てきた。彼の演説は、アテナイにおける当時最も優れた政治家が、ギリシア 。ここで賛美されるアテナイは、 最大の都市が最大の戦争に臨もうとする際、その偉大さを賛美したものである( 1. 1, 1. ) 23 道徳規範なき帝国であり、帝国の維持拡大のための戦死こそを最高の誉れとする軍事都市であった。 三 『メネクセノス』の構造とソクラテスの葬送演説 プラトンはペリクレスの帝国主義的政治観にどのように対峙したのであろうか。本節では、まず対話篇『メネクセノス』 の構造を確認した後、ソクラテスの演説を分析することを通じて、彼がどのようにしてペリクレス演説の内容と目的を 転倒させているのか検証する。 1 場面設定 まずは『メネクセノス』の冒頭部分 ( 234a1-236d3 )から、対話篇の場面設定を読み解くことにしよう。 従来の『メネクセノス』研究においては、作品の大半を占めるソクラテスの葬送演説に注目が集まり、場面設定に関 しては、彼の演説がアスパシア作のものであるという点を除いて詳しく分析されることは稀であった。その結果、ソク ラテスの演説のみが対話篇から抽出されて、ペリクレス演説と直接的に比較されたり、あるいはプラトンの政治的見解 251 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 ( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 252 ( を示す独立したパンフレットとして解釈されたりする傾向があった。確かに、ソクラテスが葬送演説を行うという対話 ) 。 たのである ( 234a1-b7 行われる戦没者の国葬に向けて葬送演説者の選考が行われることになっており、メネクセノスはその様子を見物に行っ スはこの解釈を否定するが、彼が政治に関心をもっていることは審議院に行った理由から明白である。審議院では近々 )と計画しているからである。メネクセノ し続けているのを絶やさぬように、いよいよ年長者たちを支配しよう ( a[rcein )と哲学 ( filosofiv) )~を輩出 らがすでに教育 ( paivdeusi~ aを修了したと信じており、彼の家族が政治の世話人 ( ejpimelhthv からやってきてソクラテスと出くわす。ソクラテスが冗談交じりに解釈するところでは、彼が審議院へ行ったのは、自 ) メネクセノスはまずもって政治に関心をもつ若者である。冒頭、メネクセノスはアゴラにある審議院 ( bouleuthv rion 点である。メネクセノスはどのような人物であり、ソクラテスとどのような関係にあるのだろうか。 ソクラテスの置かれた状況を考える際、最も重要な要素は彼がメネクセノスという一人の若者と相対しているという るとともに、それが内容と目的においてペリクレスの演説とは真逆の方向性を与えられていることを明らかにする。 会う場面から彼が演説を始める直前までの部分を丁寧に読解することによって、彼が演説をするに至った経緯を確認す 『メネクセノス』の場面設定は作品の冒頭部から読み解くことができる。以下では、ソクラテスとメネクセノスが出 いう対話篇を書くという行為を通じて、場面状況に照らして演説を理解するよう読者に促しているのである。 れを辿ることによってのみ演説の意図を解明することができる。プラトンは、単なる演説ではなく『メネクセノス』と いる。誰に対して、どのような演説を、どのような目的で語るかは対話篇の場面設定によって決定されているため、そ として提示されているのではなく、対話篇が作り出す個別具体的な環境の中で対話相手との会話の一部として語られて というドラマの中では、彼の葬送演説は一個の独立した演説として、もしくはプラトンの政治論を客観的に述べたもの 人物であり、彼は周囲の環境や登場人物たちとの関係の中に置かれ、それに応じて自身の行動を選択している。対話篇 しかしながら、他の多くの対話篇と同じように、『メネクセノス』という作品内部においてソクラテスは一人の登場 篇の謎めいた性格を考えると、演説のみに解釈が集中するのは当然のことと言えるかもしれない。 (( 政治的決定が民会での議論を経てなされるアテナイ・デモクラシーにおいて、弁論術は人々を説得し政治を動かす上 ( ( で最も有効な手段であった。そのため野心のある若者、とくに家柄のよい者たちは、政治の世界で一角の人物になるた めに熱心に弁論術を学んだのである。政治的野心のあるメネクセノスは、立身出世を狙う他の若者たちと同様に弁論術 に関心があり、さらに優れた弁論家に憧れをもっているがために、傑出した弁論家を選ぶ選挙に心を奪われ、審議院に 出向いて見物してきたのである。彼がどれだけこの選挙に夢中であったかは、わざわざソクラテスに向って誰が選ばれ ) 。彼は優れた政治家・弁論家に詳しいだけでなく、選挙結果を るか名前まで挙げている点にあらわれている ( 234b9-10 自ら予測し、それを他者に披露したいのである。彼は、ソクラテスに政治的野心を揶揄されるだけの関心と興奮を政治 に抱いていた。このように、メネクセノスが審議院からやって来たことそれ自体が彼の人物像を表現する豊かな舞台装 置となっている。 こうしたメネクセノスの政治的な性格はソクラテスとは対照的である。ソクラテスは葬送演説者の選考があることを ) 、メネクセノスの政治的野心をからかうばかりか ( 234a4-b2 ) 、さらに 知っていながら見物には行かなかったし ( 236b2-3 ) 。メネクセノスは、 は後に見るように、彼の最大の関心事である弁論術の価値に疑問を投げかけさえする ( 234c1-235d8 政治的領域においてソクラテスと関心を共有し行動を共にする人物ではない。にもかかわらず、メネクセノスはソクラ テスと私的な交流をもち、非常に親密な関係にある。なぜ、どのような意味でメネクセノスはソクラテスに近しいので あろうか。 ソクラテスに自身の政治的野心をからかわれた際、メネクセノスは次のように述べている。 )ことを許し助言するならば、私は熱心にそうするでしょう。しか もしあなたが、ソクラテス、支配する ( a[rcein ) 。 しそうでないならば、私はそういたしません ( 234b3-4 メネクセノスはここでソクラテスの自分への影響力に言及している。これは例えば、哲学者ソクラテスに魅力を感じな 253 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 (( がらも、逃げるようにして政治の世界へと突き進み悲劇的な最期を遂げたアルキビアデスとは対照的な態度である。『饗 宴』での発言によれば、政治的野心にあふれるアルキビアデスは、ソクラテスに自分の未熟さを非難されることを恐れ、 ) 。メネクセノスはアルキビアデスと違い、ソクラテ セイレーンから逃げるように耳をふさいで彼から逃げ出した ( 216a スの傍らに留まり耳を傾け続ける。メネクセノスがどれだけソクラテスの哲学に惹かれ、彼を理解しているのかはこの 文脈からは判断できない。しかし少なくとも、彼が哲学者ソクラテスの教育能力を認め、それに従う意向を垣間見せて いることは確かであろう。彼が「支配」するかしないかは、ある程度はソクラテスにかかっているのである。 このようなメネクセノスのソクラテスへの態度は、長年の交流を経て培われたものである。対話篇『リュシス』では 少年メネクセノスとソクラテスが友愛について哲学的対話を繰り広げる場面が描かれているが、その時すでに二人は、 ) 。青年になったメネク ソクラテスがメネクセノスの「論争好き」な性格を知っているほど親しい関係にあった ( 211b-c セノスが描かれる『メネクセノス』においても、両者の親密さは会話の様々な個所に示唆されている。例えば、ソクラ ) 、ソクラテスがアスパシアの作として テスの弁論術批判を、メネクセノスは「いつも」( aj) e ivのことと受け取り ( 234c6 ) 。メネクセノスは政治と弁論術に熱中しているものの、同時に哲学者ソクラテスの能力と影響力を軽 236c5-7, 249d12-e2 披露する葬送演説についても──おそらく彼の能力を知っているからであろう──彼自身の作ではないかと疑っている ( 視せず、彼との交流を長年にわたって続けている。メネクセノスは、まさに政治と哲学の間にいる若者である。 他方、ソクラテスの側もメネクセノスに明らかに好意を抱いている。彼が冒頭メネクセノスに自ら声をかけて会話を 始めているのも彼の親しさの現れではあるが、その親しさは長い付き合いからメネクセノスの家系や性格を知っている という程度にとどまらない。ソクラテスはメネクセノスに対しては彼が傾倒する政治や弁論術に対して軽口を言えるだ )に熱心であり、裸踊りをすることさえ けの近さにあるし、重要なことに、ソクラテスは彼を喜ばせること ( cariv z esqai ) 。二人の親しい関係が成り立っているのは、どちらかの一方的な好意によるものではない。ブリュ 厭わない ( 236c5-d2 ( ( エルが評したように、『メネクセノス』は「老人と若者の生涯にわたる友情についての魅力的なエピソード」を収めて いるのである。 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 254 冒頭部で示される、このようなメネクセノスの政治的関心と哲学への開かれた態度、そして二人の親しい関係が会話 を方向付けていく。では、二人の会話はどのような経緯でソクラテスの葬送演説へと至るのであろうか。葬送演説者の 選考に夢中になっているメネクセノスに対して、ソクラテスは弁論術とその効果について率直に自分の考えを述べる。 それによるならば、葬送演説は素晴らしい効果をもっており、戦死者について当人の手柄であることもないことも褒め 。その上、都市そのもの、祖先たち、そして市民たち自身をも称える 称え魔術のように聞く人々を魅了する ( gohteuv e) in ので、ソクラテスはすっかり魅了され、自分が素晴らしい都市に住んでいると思い感激してしまう。彼はあたかも幸福 ) 。 者たちの島にいるような錯覚にとらわれ、四、五日経ってやっと我に返るのである ( 234c1-235c5 ただし、演説によって魔術をかけられていると言っても、ソクラテスはペリクレスが期待したような、ただ演説に魅 了され、行動を促される市民ではない。ソクラテスは演説の魔術的効果を冷静に分析することができているからである。 )外国人と一緒に行くソクラテスは、魔術を魔術として認識できるため、 重大な国家的行事に「たいていいつも」( 235b3 弁論術やその魔術の対象たる都市や市民から距離を置ける立場にあり、その効果を客観的に表現することができる。ソ クラテスにとって、弁論術は尊敬の対象でないばかりか、その実践も優れた能力を必要とするものではない。たとえ今 回演説が即興で行われなければならないとしても、葬送演説は容易でさえある。演説者は事前にいくつか演説のストッ クをもっているだけでなく、アテナイ人の前でアテナイ人を褒め称え喝采を得ることはそもそも難しいことではないか ) 。ソクラテスにとって葬送演説は魔術的な効果をもつものの、決して高尚かつ高度な技術ではない。 らである ( 235c7-d8 彼は弁論術からその外見的な偉大さをはぎ取っていく。 )ソクラテスに対して、弁論術に憧れるメネクセノスはソクラテスに挑戦する。メ 弁論術を「からかう」( prospaiv z ein ネクセノスにとって、演説者は優れた技術を身につけた立派な人物でなければならず、葬送演説は即興で人を魅了する こ と が で き る よ う な 安 直 な も の で あ っ て は な ら な い。 そ こ で メ ネ ク セ ノ ス は、 ソ ク ラ テ ス 発 言 の 言 葉 尻 を 捉 え、 な ら ば ソ ク ラ テ ス 自 身 が 選 ば れ た と し た ら 即 興 で 演 説 が で き る の か と 詰 め 寄 る。 ソ ク ラ テ ス は 可 能 で あ る と 応 じ、 こ こ か ら 彼 の 葬 送 演 説 が 始 ま る。 こ こ ま で 会 話 が 進 行 す る た め に は、 メ ネ ク セ ノ ス の 弁 論 術 へ の 関 心、 ソ ク ラ テ ス の 弁 論 術 255 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 批 判、 そ し て 年 下 の メ ネ ク セ ノ ス が ソ ク ラ テ ス に 挑 戦 で き る だ け の 両 者 の 親 し さ が 必 要 で あ っ た。 こ れ ら が 巧 妙 に 交 錯 す る こ と に よ っ て、 ソ ク ラ テ ス は つ い に 葬 送 演 説 を 披 露 す る に 至 る。 彼 の 演 説 は ま さ に 二 人 の 関 係 と 対 話 の 産 物 な のである。 ここで注意しなければならないのは、ソクラテスが行う演説が彼自身の手によるものでなく、彼の弁論術の師アスパ ( ( シアから聞いたものであるという点である。アスパシアはミレトス出身の娼婦であり、ペリクレスの内縁の妻でもある。 彼女が政治的能力、とりわけ弁論の能力において傑出していたことは有名であった。弁論の教師アスパシアは、メネク ( ネクセノス』を『歴史』におけるペリクレス演説に批判的に結びつけている。ペリクレス演説に対するソクラテスの態 ( ソクラテスがアスパシア作の演説を持ち出すことには以下の二つの効果がある。第 一 に、アス パ シアの存 在は『メ ) 。 作であり、昨日彼が聞くに及んだのはペリクレスの演説に採用されなかった残りの部分である ( 235e3-236b6 の手本を見せており、ソクラテスはそこに居合わせていた。彼によれば、ペリクレスの有名な葬送演説はアスパシアの セノスと同じように演説者の選挙があることを知っていたため、この対話の前日、自らの生徒たちを前にして葬送演説 (( ( あったことを暴露してしまう。そこには、ペリクレス演説が行われた際の政治的高揚感や危機の認識、そして国葬とい ( 性であるアスパシアから教わっていたこと、さらに彼の高名なアテナイ賛美の演説を起草したのも外国人である彼女で 度はまずもって喜劇的である。ソクラテスは、当時尊敬を集めていた偉大な指導者ペリクレスが、その政治的技能を女 (( 演説は、どれほどペリクレスに批判的であり、その観点が彼の哲学の一般的傾向に沿っていようとも、ソクラテス自身 アスパシアを持ち出すことの第二の効果は、ソクラテスを彼自身が語る演説から引き離すことである。ソクラテスの クレスへの批判的態度を明示し、さらに、その価値観の反転を準備するものであると言えよう。 するように、ソクラテスはペリクレスの見解を反転、修正していく。アスパシア演説の再現は、ソクラテスによるペリ レスの政治観、道徳観とは反対の要素、少なくとも異なる要素が含まれていることを示唆している。実際、次節で検討 いる。さらに、ここでのアスパシア演説がペリクレス演説に採用されなかったものであるという事実は、そこにペリク う場にふさわしい荘厳さは皆無である。葬送演説一般と同じように、ソクラテスはペリクレス演説をも「からかって」 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 256 ( ( が作ったものではない。非政治的であり、弁論術に批判的であったソクラテスは、弁論家と同じような仕方で弁論術に コミットすることはない。彼が弁論術を学んでいたことは確かであるが、アスパシアやメネクセノスと同じ動機で、つ まり弁論術を用いて政治を動かすつもりで学んでいたわけではない。アスパシアは政治的な関心から葬送演説のやり方 を教えたのに対し、ソクラテスはそのような関心をもっていないばかりか、アスパシアの意に反してその教えをメネク ) 。自らが演説を語ることを「子供の遊び」や「裸踊り」にたとえるソクラテス セノスに暴露してしまっている ( 236c3-4 は、決して弁論術のよき生徒ではなかった。彼は、少なくとも表向きは、たまたま聞いた演説を親しい友人に披露した に過ぎないのである。 では、弁論術に深くコミットしないソクラテスが葬送演説を語る理由は何なのか。ソクラテスはメネクセノスの挑戦 から逃げることもできたし、アスパシアの演説を語り聞かせるにしても、その一部のみにとどめることもできたはずで ある。ソクラテスがわざわざ長い演説をすべて語って聞かせるのは、裸踊りさえ厭わない彼が、弁論好きであり、演説 ) 。しかし、ソクラ を聞かせるようせがむメネクセノスを喜ばせることを第一に考えているからである ( 236c5-d2, 2493-5 テスの演説がメネクセノスを喜ばせるだけのものでないことは、これまで見てきた対話篇の構造から明らかであろう。 なぜなら、ソクラテスの演説は、野心的な若者に、アテナイの現状を追認したペリクレスの帝国主義とは異なる政治観 を聞かせ、同時に、その演説が優れていればいるほど葬送演説が容易であるとする自身の主張を証明することになるか らである。メネクセノスが演説に魅せられたならば、そのこと自体が彼の政治観の変化、そして彼にとっての弁論術の 価値の低下を意味するのである。この点、アスパシアを用いることは、演説の質を担保するだけでなく、ペリクレスと ( ( いうメネクセノスにとっての英雄の信用を貶めることにもつながっている。この極めて巧妙な仕掛けを用いた演説は、 「 支 配 」 す る か ど う か の 瀬 戸 際 に い る 若 者 に 対 す る 一 種 の 教 育 と 見 做 し て も よ い で あ ろ う。 ア ス パ シ ア と い う ア テ ナ イ の政治的常識からすると問題のある人物を起草者とする演説は、ソクラテスの編集と権威とを媒介にして、若者メネク (( セノスに対してその価値観を揺さぶるほどのインパクトを与えるのである。 以上みてきたように、『メネクセノス』の冒頭部からは、ソクラテス演説がペリクレスのそれとは対照的なものであ 257 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 (( ることが理解された。ペリクレスの演説がアテナイ帝国主義の賛美を目指す荘厳かつ公的なものであるのに対し、ソク ラテスの演説は喜劇的な精神でなされた前者への批判であり、しかもたった一人の若者に向けられる私的かつ教育的な ものであった。プラトンは対話篇の場面設定を利用して、ソクラテスの演説が始まる前に、演説に対してすでにこのよ うな意味づけを行っているのである。 2 ソクラテスの葬送演説 ──母性と徳の系譜 ここでは、ソクラテスの演説内容を分析し、彼がどのようにペリクレス演説を転倒させ、それを通じてメネクセノス ) 、 にどのようなメッセージを与えようとしたのかを検討する。ここでは主に、 (1)アテナイ国土と国制論 ( 237b2-239a4 ) 、(3)生者への勧告 ( 246a5-248d6 )を分析対象とする。 (2)アテナイ史 ( 239a5-246a4 (1)アテナイ国土と国制論 ソクラテス演説の導入部からは、彼の演説とペリクレスのそれとの重大な相違点を見出すことができる。ここでは、 演説の内容に密接に関係する二つの相違点に注目する。まず、ソクラテスの演説はより伝統的であり、ペリクレスのよ うな慣習への批判的な態度が見られない。ペリクレスは導入部において、葬送演説という慣習そのものへの懐疑を表明 していた。彼は、死者を称えるには行為、すなわち葬儀のみで十分であると言い、 「演説を慣習に加えた者」だけでなく、 。 これまでそれを称えてきた「多くの者たち」にも疑問を呈していた ( 2. 35.) 1 大胆にも彼は、国葬のクライマックスた ( ( る葬送演説の始まりにおいて、その葬送演説の意義自体を疑うのである。こうした彼の態度は、常に新しいものを求め 。 るアテナイ精神を反映した極めてアテナイ的なものであるとも考えられる ( 1. 70; cf. 2. 1) 6 もちろん、ペリクレスは慣 ( ( な対照をなしている。ソクラテスの演説には慣習への否定的な見解や進取の精神は全く見られない。むしろ、彼の演説 習を完全に否定するのではなく、最終的にはそれに従っているのではあるが、彼の伝統への態度はソクラテスとは明確 (( は そ の 内 容 と ス タ イ ル に お い て ペ リ ク レ ス よ り も ず っ と 保 守 的 で あ る。 ソ ク ラ テ ス 演 説 の 最 初 の 特 徴 は 伝 統 の 尊 重 と そ (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 258 れへの従属である。 次に、ペリクレスとの違いとして、ソクラテスの演説に真実との緊張関係がないことが挙げられる。ペリクレスは、 葬送演説に懐疑的になる根拠として、その困難さを挙げていた。死者への称賛は不満や嫉妬を招くため、その真実性が 。 信用されることを保証されていない ( 2. 35.) 2 これに対して、ソクラテスはそのような憂慮なしに演説を始めている。 彼によれば、「行為がみごとに成し遂げられた時、美しく語られた言葉によって、聞く者たちに、行為を為した人々に ) 。ソクラテスにとって演説に困難はなく、死者たちの行為と演説は真実性を介 対する追憶と敬意が生まれる」( 236e1-3 して調和している。 この二つの相違点は単なる導入部における語り口や態度のみならず、彼らの演説本論におけるトピック選択にも密 接に関係している。ペリクレス演説において、慣習の軽視は、彼が「現在の」帝国としてのアテナイを称賛することに つながっていた。彼は、葬送演説の伝統的主題であるアテナイの来歴を数行で片づけ、すぐに現在の世代への称賛へと 移ってしまう。彼にとっては葬送演説という伝統も、都市の古き姿や祖先の偉業も重要ではない。ペリクレスにとって、 価値は常に新しいものや「われわれ」に置かれている。それに加えて、彼にとって演説が抱える困難を乗り越える手段 は、死者の偉大さそのものではなく、死者と生者の共通基盤である都市自体を称えることにある。すなわち、「過去の 軽視」も「演説の困難さの克服」も、どちらも「現在のわれわれが成し遂げた帝国という偉業」へと収斂していくので ある。対照的に、アスパシア演説がペリクレス演説の残り物であることに示唆されていたように、ソクラテスはこのよ うなペリクレスの論点を採用していない。ソクラテスは死者の偉大さを褒め称えるが、その偉大さは彼らの生まれの善 ) 、つまりは、彼らが受けた養育 ( trofhv )と教育 ( paideiv) 、 さ ( eujgevneia a それらを可能にした都市そのものの在り方、さ ) 。ソクラテスの演説は死者たちの善性の根拠を、現在の都市では らには都市が誕生した由来に依存している ( 237a6-b2 なく、都市の生成と系譜に見出していく。そこでは現在の帝国アテナイの偉大さは直接的な賞賛の対象にならず、ペリ クレスが避けたところの古き善き伝統こそがその対象になる。 ソクラテスによれば、死者たちの生まれの善さは祖先のそれに負い、祖先のそれは母なる大地 ( mhv t hr hJ cwv r) aの善さ 259 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 に負っている。こうした過去遡及的演説については、ペリクレスとの比較の観点から、重要な点を二つ挙げることがで ( ( きる。第一は、神への言及である。ペリクレスが神的なものに言及したのは、アテナイ帝国が市民たちにもたらす享楽 を語る際のみであった。そこでは、信仰ではなく祭典のみが問題となり、神は他の競技や邸宅の美しさ、食料品の輸入 した男性たちによってもたらされたのではない。アテナイはその起源において女性的で有徳であった。これこそがその )者たちであるとされている ( 237d7-e1 ) 。アテナイの偉大さは、戦争を通じて他国を征服 正義と神々を認める ( nomiv z ein ように、極めて目立たない個所で短く触れられるのみである。むしろ、このような生成を経て生まれてくる人間たちは、 )との記述もあるが、それはペリクレス演説における女性の扱いと同じ のための「武器の獲得と使用を教えた」( 238b5-6 神、女性性、そして生成を強調するソクラテスの演説には、戦争や物質的なものへの執着は見られない。神々が防衛 いう事実の中にすでに予示されていたとも言えるであろう。 である。こうした男性中心的な価値の反転は、ソクラテスがアスパシアをペリクレスへの対抗表象として用いていると ) 。 5 戦争での偉業も、勇敢な死も、都市の偉大さも、すべて女性あるいは母なる大地がなければはじめから存在しないの 男性は女性にその存在を負っているが、人間の女性が子を産むのは人間を生み出した大地を模倣するからである ( 238a4- ている。ペリクレスとは逆に、彼はすべての人間たちの善の源は母なる大地の偉大さにあるとする。そもそもすべての aj n dreiv) aを必要とする戦争こそがすべての善きものの源であるからである。これに対してソクラテスは女性性を強調し こ の よ う な 男 性 賛 美 と 女 性 蔑 視 は 当 然 の こ と と も 言 え る か も し れ な い。 勇 敢 さ (ギリシア語では「男らしさ」を含意する 。 扱い方が端的に現れていた ( 2. 45.) 2 他国を軍事的に征服し支配することを至上命題とする帝国主義の賛美において、 い地位しか与えられていなかった。末尾にほんのわずか、女性の徳は目立たぬことである、と触れることに彼の女性の 第二は、女性性、特に母性の強調である。ペリクレス演説では、戦争で勇気を発揮した男たちに比べて、女性には低 として、神に愛でられていることが挙げられている。 は常に物質的なものと結びついている。これに対してソクラテスの演説では、アテナイ国土がもつ偉大さの第一の理由 ) 。ペリクレスは政治家としては敬虔であったわけではなく、彼の神への言及 などと同列に語られていた ( 2. 38; cf. 2. 13 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 260 偉大さの源である。 大地の偉大さに続いてソクラテスは国制 ( politeiv)aの偉大さを称える。国制の善し悪しによっても人間が善くなるか どうか左右されるからである。ここでのソクラテスの国制論は、上記の母なる大地の記述に基づいている。アテナイが 他国のように人々の間に主人と奴隷の区別がある不平等な制度、すなわち僭主制や寡頭制にはならないのは、同じ母な ) 。法の下の平等が守られるこうした る大地から生まれ出た人々の間に法の平等が存在しているからである ( 238e1-239a4 統治形態は、確かに民主制と呼ばれてはいる。しかしソクラテスによれば、それは真実のところ民衆によって選ばれた「王 )~によって統治される優秀者支配である。王たちは、「賢者」( sofov )~であるかもしくは「善き者」( ajgaqov )~ たち」( basilh` であると見做されたがゆえに選ばれ職務に当たる。優れた人々が統治を行い、制度を整え、そのような都市に住むこと ) 。ソクラテスの国制論はアテナイを徳の方へと引き寄せ によって、人々は善き人間へと養育されるのである ( 238c7-d8 て解釈している。 ペリクレスとの違いは明らかであろう。ペリクレスが語った都市はデモクラシーとしてのアテナイであった。彼も平 等には言及していたけれども、それは優秀者支配というよりも貧しき者による多数者支配であり、力点は、軍事教練に ) 。他方、ソクラテスによって描かれる国制は、「当 関してでさえ、私的生における自由と享楽に置かれていた ( 2. 37-39 時から」( tov) t eあった高貴なものであり、決して帝国がもたらす物質的享楽を肯定したり促進したりはしない。そこで は徳という優秀性による支配が伝統的に、今も行われている。 もちろん、ソクラテスのアテナイ描写がどれだけ正確なのかと問うことも可能であろう。神話的であり、かつデモク ラシーをアリストクラシーに改変してしまうソクラテスは、魔術的効果を生むための虚偽の言明に関与しているとも言 えるからである。しかしそれがどのように改変されているのかを見ること、さらにはそれがメネクセノスに向けられて いるという事実に注意することも重要であろう。ソクラテスが褒め称えるのは、男らしさが希釈された女性性に導かれ たアテナイである。そこでは戦争における死よりも生や誕生が重視され、私的享楽よりも敬虔さ、帝国拡大にまつわる 勇敢さよりも正義と善性が強調されている。ソクラテスはペリクレス演説の転倒によって、何が政治的に、あるいは人 261 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 間として称えられるべきかの基準を変えてしまっている。政治的野心をもつメネクセノスは、偉大な雄弁家ペリクレス とは異なる価値観、すなわち帝国主義や物質的豊かさを超える価値観こそが政治的に優れている、とする卓越した演説 に直面させられるのである。ソクラテスはたとえ事実としての正確さを欠いていようとも、魂への道徳的影響において 優れたものを示そうとしている。 (2)アテナイ史──自由のための戦争 母なる大地とそこから生まれ出る国制について語った後、ソクラテスは予告通り ( 237a6-b2 )アテナイ人たちの過去の 偉業について記述を始める。ソクラテスの語る歴史は、おおよそペルシア戦争からコリントス戦争まで、約百年にわた るアテナイの戦争史を扱っている。現在の帝国の偉大さに重きを置き過去の出来事にほとんど言及しなかったペリクレ スに比べて、ソクラテスはこのアテナイ史に演説の大半を割いている。では、ソクラテスはどのようにアテナイの歴史 的偉業を描写したのであろうか。 ソクラテスのアテナイ史がもつ最も顕著な特徴は、歴史の修正である。葬送演説の中で歴史を語るソクラテスには、 事実としての正確さや客観性を重視しようとする姿勢は全くみられない。むしろ、アテナイを称賛するために、彼はそ の偉大さを曇らせるような要素にはそもそも言及しないか、もしくは半ば強引に解釈を施している。例えば、ペルシア 戦争におけるマラトンの戦いの記述では、プラタイア人の援軍に触れられていないためあたかもアテナイ人が単独でペ ( ( ) 、テルモピュライにおけるスパルタ軍の奮闘は完全に無視さ ルシア軍を撃退したかのように語られているし ( 240c2-d1 れている。しかしながら、ソクラテスの歴史修正は、こうした小規模なレベルでの事実の欠落にとどまらず、事実の改変・ ( 、 謀な試みではなく、レオンティノイ人たちの自由を守るためであったとされているし ( 242e4-243a) 7 ペロポネソス戦争 ( 歪曲と言いうるようなレベルにまで達している。アテナイを敗北へと導いたシケリアへの遠征は、獲得欲に導かれた無 (( )出来事であっ て内乱が運命ならば、いかなる都市も異なる仕方でこの病にかかることを祈るものでないような」( 243e2-4 後のアテナイの内乱は、実際には市民たちに大きな災厄をもたらしたにもかかわらず、極めて穏健な、 「もし人間にとっ (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 262 ( ( たと評価している。さらには、コリントス戦争の記述において、実際はペルシア王と手を結び彼の恩恵を受けながら行 ( ( 動したアテナイが、あたかもペルシアと敵対していたかのように表現されていることも、ソクラテスによる歴史歪曲の 。 一例に加えることができるであろう ( 244d1-246a) 4 ( (( ( ここに見出すことができるからである。 ( いう点に注目することによって彼の演説における政治的価値観を知ることができるからであり、ペリクレスとの違いも アテナイ史を語りながらその偉業を称えるのであるが、どのような出来事が偉業であって何がそれを偉業にするのかと れども、彼がどのような方針に従ってそれを修正しているのか検証することも重要であろう。なぜなら、ソクラテスは に見るようにソクラテスは明らかにそうしてはいない。確かにソクラテスが歴史を修正していることは事実ではあるけ しろ帝国主義的な点を強調した方が弁論術の非道徳性を暴露するという点でより効果的であったかもしれないのに、次 リクレスと同じ政治的観点、すなわち、アテナイ帝国主義の称揚のために演説を組み立ててもよかったはずである。む しかしながら、このような解釈には重大な瑕疵がある。というのも、弁論術の欠点を暴露するだけであるならば、ペ ルギアス』等の対話篇における弁論術批判と軌を一にしているとされる。 ( 弁論術が真理に無頓着なことを暴露的に批判しているのである。この点において、 『メネクセノス』の演説の意図は、 『ゴ は大小関わらず歴史の修正は必ず含まれていなければならず、ソクラテスは明白な修正・歪曲を演説に入れることで、 に表現し、それを戯画化したものであると解釈している。つまり、都市の偉大さを称賛しなければならない葬送演説に はありえないはずであろう。そこで多くの論者たちは、ソクラテスの歴史記述は、弁論術の好ましからざる特徴を極端 ス哲学の核心が真理の探究であるならば、事実の改変は、たとえそれが歴史記述であってさえ、哲学の営みそのもので 見做すわけにはいかない。では、ソクラテスはなぜ、修正を施したアテナイ史を提出しているのであろうか。ソクラテ このように歪曲の多いソクラテスのアテナイ史を史実そのもの、あるいは史実を再構成するための信頼に足る証言と (( アテナイ史に通底するソクラテスの政治的価値基準がどこにあるのかを知る際に重要なのは、それがこれまで語られ (( てきた母なる大地論、および国制論の延長にあるという点である。アテナイ人たちの偉業は、彼らが過去から独立して 263 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 (( 得たものではなく、大地と国制が可能にしたところの彼らの善き生まれ、養育、教育にこそ由来している。ソクラテス が言うように、まさに「この人々の父たちも、我々の父たちも、そしてこの人々自身も、全き自由のうちに育てられ、 ) 。 また、立派な生をうけたがために 〔…〕多くの立派な業績を、すべての人間たちの前にみせつけた」のである ( 239a5-b1 ソクラテスは、彼らにふさわしい偉業をあたかも歴史的事実であるかのように記述していく。では、その特徴は何なのか。 ペリクレスとの違いを中心に相互に関連する三点を見ていくことにしよう。 第一は、戦争の目的である。ペリクレスにとっては、戦争そのもの、もしくは都市の勢力の拡大こそが善であり、そ れに命を懸けて貢献すれば、たとえ不道徳な人間であっても偉大かつ幸福な人間になれるとされていた。これに対して ソクラテスは、アテナイ史の冒頭で次のように述べている。「彼らはこの自由のためには、ギリシア人のためにギリシ ) 。ソクラテスによれば、自由のうち ア人と戦い、全ギリシア人のために異民族と戦わねばならないと考えた」( 239b1-3 に生まれ育てられたアテナイ人たちは自由の徒であり、彼らにとって戦争は常に自由を擁護するための戦争である。こ こには、ペリクレス演説にはない、都市の対外政策における道徳的基準が存在する。つまり、ソクラテスのアテナイ史 ( ( においては、都市の拡大そのものが目的なのではなく、都市を超え、都市そのものを判定する自由という基準が提示さ れている。アテナイが偉大なのはアテナイ人たちがこの基準に則って戦争を行ったからである。実際ソクラテスの歴史 ) 、ペロポネソス戦争もギリシア人の自由のために他のギリシア人と戦われたとされている ( 240d7-e3 ( (( ( (( ) 。シケリ 242b5-c2 ) 、ペロポネソス戦争の原因もアテナイ帝国拡大に対するスパルタの 大の歴史そのものであり ( 1. 89-93, 97-100; cf. 1. 68-71 史記述において、ペルシア戦争後のアテナイ史、いわゆる「五十年史」は、他の都市への支配の強化、すなわち帝国拡 て、その中では自由と解放の精神に反する、力による不当な支配である帝国には言及されない。トゥキュディデスの歴 ( 第二は、帝国的要素の抹消である。ソクラテスの歴史の中では、アテナイ人たちは自由のための戦士である。したがっ 基準の存在によって理解できる。 ( ア遠征が奇妙にもレオンティノイ人の自由を守るための戦争と解釈されていたことも、戦争の善悪をはかるこのような ( 改変は、この基準に沿う形でなされている。ペルシア戦争を戦った者たちは「自由の父」( pathv r th` ~ ej l euqeriv a)~とされ (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 264 恐怖と他の諸都市の不満にあった ( 1. 23; cf. 1. 88 ) 。ペリクレスの葬送演説においても、帝国拡大は前の世代の優れた偉 業であり、 「われわれ」の世代が最も優れているのも帝国支配を最も強化したからであった。ソクラテスの歴史からは、 こうした不当かつ偉大なる帝国についての半ば常識的な事実が抜け落ちている。そこにはペルシア戦争後のアテナイの ( 265 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 勢力拡大の様子は描かれず、ペロポネソス戦争の原因はアテナイ帝国の拡大にあるのではなく、他国の嫉妬によるもの ) 。さらには、ペリクレスのように帝国の豊かさを喧伝する姿勢もソクラテスには見られない。こ とされている ( 242a2-4 のようなソクラテスのアテナイ史を、単に「歴史的事実を改変している」と評価しただけでは不十分であろう。より正 確には、ソクラテスは、自由のために戦うアテナイ人を帝国主義への言及なしに褒め称えているのである。 第三は、ギリシア諸都市との友好関係である。コリントス戦争における反ペルシア的・親ギリシア的な記述は、上記 のような自由の尊重と非帝国主義的な傾向から理解できる。史実では、コリントス戦争においては、アテナイがペルシ アと同盟を結びスパルタと戦ったとされている。しかしソクラテスの記述では、そもそも生粋のギリシア人であるアテ ナイ人は反ペルシア主義を採っており、戦争においてペルシアを助けたのも都市としての意志ではなく、弱者となった ) 。サルケヴァー ペルシアが助けを求めた際に個人が救済に赴くことを妨げなかったためであると言われている ( 245a4-7 ( はコリントス戦争の記述において、アテナイの同盟国 (ペルシア)と敵国 (スパルタ)がほとんど入れ替わっている、と さえ解釈している。少なくともここでは、アテナイとペルシアとの協調関係、およびアテナイと他のギリシア諸都市と テナイは、ギリシア諸都市を支配する帝国でもなければ、それを確立する意図さえもっていない。 手を結び同族を攻撃する、あるいは支配しようとする事実への言及を回避する傾向があるからである。ソクラテスのア ギリシア主義を、反帝国主義であるとも解釈することができるだろう。ソクラテスの反帝国主義的な記述は、異民族と ) 。確かに自由の享受はギリシア人に限られ、それは決して普遍的なものではない。しかしこの親 ある ( 239b1-3, 242a4-6 たちが守るのは、たとえ意に反してギリシア人と戦うときであっても、常にギリシア人であって異民族ではないからで 守られるべき対象が自国と他のギリシア人であるという点にその原因をみることができる。自由に生まれたアテナイ人 の敵対関係が希釈されていることは間違いないであろう。こうした修正については、ソクラテスのアテナイ史で自由を (( 以上見てきたように、ソクラテスの歴史記述では、一定の方針のもとに事実の改変がなされている。ソクラテスは、 アテナイの神話的、自然的起源からアテナイ人たちが守るべき道徳的規準、すなわち自由の擁護を導き出し、歴史記述 の真理性に無頓着な弁論術の特性を生かしながら、帝国主義なき、いわば道徳的なアテナイ史を作り上げている。帝国 という事実を無条件に肯定した上でその成果と恩恵を大いに称え、その事実に合致した形で道徳的規準を半ば放棄した ( ( ペリクレスに比べるならば、ソクラテスの歴史記述はまさに彼の逆を行っていると言える。なぜならそれは、道徳的規 準を確立しながら、それに合わせて歴史を修正していくからである。 への影響を考察の対象に加えるならば、「いかに生きるべきか」を勧告として力強く語ったこの末尾の部分は、その教 らば当然であるとも言えるかもしれない。しかしながら、演説が意図する聴衆への、この対話篇の場合はメネクセノス 末尾に位置する生者への勧告にはほとんど注目が集まらなかった。こうした傾向は、彼の顕著な歴史改変を考慮するな 従来の『メネクセノス』研究においては、ソクラテスによる歴史記述の意味を探求することに精力が注がれ、演説の 都市に生まれた者として、立派な生を生きるようにと激励がなされる。 戦争で父や子を失った市民たちに対して、偉大なる戦士に連なる者として、さらにはそのような戦士を育んだ偉大なる 死者の営みを称えた後ソクラテスは、ペリクレスと同じように生き残った者たちへの勧告へと移っていく。ここでは、 (3)生者への勧告──徳と幸福の一致 る。 果的に生み出す弁論術の魔術的効果を用いながらソクラテスがアテナイ史を通じて行うのは、まさに政治の道徳化であ それに貢献することが個人の偉大さであるという考えはソクラテスにはない。「そうであるように思われる」ものを効 るべきか、という政治の善し悪しを判定する視座である。ペリクレスのように、都市の行為はそれが何であっても正しく、 説のようにアテナイ人の偉業を褒め称える。しかし、同時にそこに込められているのは、何を基準にして政治がなされ ソクラテスがメネクセノスに語り聞かせ、魅了するのはこのような歴史である。確かにソクラテスは、通常の葬送演 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 266 育的な効果において重大な意味をもつ。序論で述べたように、葬送演説は、ペリクレス演説がそうであったように、死 者の過去の行為を賛美するためになされるのみならず、今を生きる者たちに向かって将来の行為の指針を示すためのも のでもあるからである。 ソクラテスによる勧告の特徴を明確にするために、まずはペリクレス演説を簡単に振り返っておこう。ペリクレスの 勧告は、子を失った親には新たな子をもうけて差し出すように、若者には戦争に行くことによって名誉ある死を遂げる よう促すものであった。総じて、ペリクレスの勧告は軍事的な生こそが徳の頂点であり、公的な偉大さに与ることこそ ) 。 が人間にとっての最高度に幸福な営みであるとしていた ( 2. 43-45 葬送演説という形式に従うソクラテスは、戦死した者たちを称え、生者たちには、その行いを真似るようにとの勧告 を行わざるを得ない。しかしながら、ソクラテスの勧告ではペリクレスが最大限に強調していた軍事的な徳は後衛へと 退いて行く。ソクラテスによれば、死者の子孫たちは「ちょうど戦争におけるように」祖先の戦列を放棄してはならず、 ) 。ここでは、戦争における徳 (勇気)はもはや比喩でしかない。その上、ソクラテスは、 悪徳に屈してはならない ( 246b4-5 ) 。ソクラテスが事 この軍事的な勧告を「すべての者」( pa`~ ajnh`)rが為すべきことと呼び、短く切り上げてしまう ( 246b2 ) 。この「私」が伝えるべきこととは、死者たちが生前、命の危険にさ 246c2 実上行う勧告は、この「すべての者」がなすべきこととは区別されるところの「この状況で私が語るに正しいこと」( ej n dev tw`Û parovnti divkaiov~ eijmi eijpei`n ἃ. .) . である ( らされようとしている時に、後に残された者たちに伝えるようにと託したメッセージである。「すべての者」が為すべ き勧告が軍事色を帯びたものであるならば、この「私」が伝えるべきメッセージは、ペリクレスと同じように死者の子 と親へのメッセージからなるものの、軍事的なものから距離を置いた徳の勧告となっている。 最初にソクラテスは戦争で父を失った息子たちに勧告を行うが、それはもはや父の勇敢さを真似、死をもって都市に 仕えよ、とする激励ではない。むしろ、彼の勧告は、戦争以外の生全般における徳の勧めとなっている。ソクラテスの )も恥 説くところでは、「もし、何か他のことを為すのであっても、徳を欠いたならばどんな所有物も事業 ( ejpithdeuvmata ) 。富は徳がなければ所有者 ずべき悪しきものになってしまうことを知り、徳をもって為さなければならない」( 246e1-2 267 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 に高貴さを与えず、肉体的な美や強さも悪徳と共にあるならばむしろそれが不釣合いであることを明示してしまう。知 識でさえも、他の徳を欠いているならば、知恵ではなく狡知となってしまう。こうした徳の勧めにおいて、死者との競 争は、勇敢さを巡って「善き死」を目指す軍事的なものではなく、より日常的な徳を巡って「善き生」を目指す平和的 なものとなっている。この競争における勝利が幸福と呼ばれるが、それはもちろん帝国のための戦死ではなく、有徳な ) 。勇ましい口調で語りながらも、ソクラテスの勧告は決して都市の英雄を生み 生を送ることを意味している ( 247a2-b4 出すものではない。 ソクラテスが語る徳の起源は、これまでの演説でそうであったように、過去の人々の有徳さにある。祖先はそもそも 伝統的にソクラテスの言う意味で有徳であったのみならず、模範となるべき死者たちが偉大な死を遂げたのは、都市の 勢力の拡大や帝国的な支配の強化に貢献したからではなく、 「我々の父と祖先全体を辱めること」がないように振る舞っ )からである。ソクラテスが語るアテナイにおいては、母なる大地に由来する善き養育と教育は代々受け継がれ、 246d5-6 ) 。というのも、 「我々は、一族 ( touv~ auJtou` )を辱める者にとって生は生きるに値しないと信じる」 たためである ( 246d4-5 ( それが最高の価値となっている。都市を最重視し、私的なもの、とりわけ家族を軽視したペリクレスと比べるならば、 ( ( 家族や血族に重きを置いたソクラテスの演説の中では、家族の都市化・帝国化とは逆の、都市の家族化が起こっている と言っても過言ではない。都市も市民もその起源は母なる大地であり、とりわけ市民は一つの家族であるからである。 ここでは、優れた人間、有徳な人間とは、家族から受け継いだ優秀性を正しく継承する人間に他ならない。 ( 。 うした父たちの系譜があるためである ( 234a1-b) 2 メネクセノスにとって家族は、かつては庇護者であったし、少なく ( テスが揶揄しているように、メネクセノスの家は多くの政治家を輩出しており、彼が政治の世界に関心をもつのも、そ ) 。さらに、『メネクセノス』の冒頭部でソクラ クセノスは完全に家族の保護のもとに生活していた ( 223a-b; cf. 207d-210a ものであろう。ブリュエルが指摘しているように、『リュシス』でソクラテスと対話をした際、まだ年少であったメネ こうした都市の家族性を強調する勧告の仕方は、家族や先祖に配慮を見せるメネクセノスに対しては極めて効果的な (( とも現在でも生の選択をする際の指針である。こうした家族観をもつメネクセノスへ、ソクラテスは家族的価値を中心 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 268 とした徳の勧めを語っている。こうしたソクラテス的勧告は、戦争や帝国的価値を反転させるものではあるけれども、 財産や名誉といった、いわゆる伝統的な名家がもつ諸価値を否定するものではない。家族と家の伝統を重視するメネク セノスに向けられたソクラテスの勧告は、家族を媒介にして、徳を戦争から平和な日常へと引き戻すものと言えるであ ( 269 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 ろう。ソクラテスの演説の聴き手を考えた際、彼の徳の勧めはまさに相手に即してなされているのである。 しかしながら、ソクラテスの勧告は単に家族的で穏健なものにとどまらず、目立たない形ではあるが、よりラディカ ルな生の在り方をも提示している。子を亡くした親たちに伝えるべき言葉を述べる中で、ソクラテスは息子たちを失っ )という格言である ( 247e5 ) 。 た悲しみに耐えるよう訴える。ここで彼が引用するのは、「度を超すなかれ」( mhdev n a[ g an 彼が解釈するところでは、それは「幸福をもたらすあらゆるものを自分自身に依存させており 〔…〕他者に依拠しない )のであって、彼らこそ、節度、勇気、慎 者 〔…〕そうした者にとってこそ生の最善の準備が整っている」( 247e6-248a8 慮を備えた人物である、ということを意味している。幸福を自分の身に依拠させるならば、悲しみも度を越すことがな い。こうした解釈は、コリンズが言うように、ペリクレス的な都市への従属のみならず、ソクラテスが先に述べた都市 の家族的、伝統的、そして神的な起源からも離れていく。ここで語られるのは、祖先を導き手とした徳の涵養ではなく、 可能な限り独立した人間になることである。確かに、ソクラテスの勧告は都市や家族から完全に独立した隠遁生活を推 奨するものではなく、ただそれらに依存せず、幸福の根拠を自らに置く生に過ぎない。しかし、これは十分にラディカ ル な も の と 言 え る だ ろ う。 ク セ ノ フ ォ ン の『 弁 明 』 に お い て ソ ク ラ テ ス が、 ペ ロ ポ ネ ソ ス 戦 争 に 敗 北 し ア テ ナ イ が ス ) 、この パルタに攻囲された際にも、自分はそれまでと変わらず幸福であったと喝破したことを思い起こすならば ( 18 ( 勧告は都市の一般的な規範から距離を置くという意味で確かに「ソクラテス的」でさえあり、「哲学的」な響きさえもっ て い る。 ソ ク ラ テ ス は 演 説 の 末 尾、 目 立 た な い 形 で 伝 統 的 な 徳 を 超 え る ソ ク ラ ス 的、 哲 学 的 な 徳 の 勧 め を 忍 び 込 ま せ 論があるかもしれない。しかし重要なのは、このメッセージが「私たち」が父に伝えるべきこととされている点であろ こうしたラディカルな徳の勧めは父親たちに勧められているのであって聴衆に直接訴えているのではない、とする反 ている。 (( ( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 270 ( う。ラディカルな徳のメッセージは一度聴衆によって受け止め吸収され、その後家族に伝えられるべきものである。メ ) 。ソクラテスの教育の要が弁論術の魔術的効果を利用しその中身を変更することにあっ に感謝をささげている( 249d2-e2 クセノスは演説の出来栄えを褒め称え、ソクラテスに促される形でアスパシアに感謝を、そして自ら進んでソクラテス このようなソクラテスの教育の成果は、対話篇末尾において示唆されている。ソクラテスの演説が終わった後、メネ もつように促すであろう。 的出世を望むメネクセノスに対して、ソクラテスの演説は、彼の政治観を節度あるものにし、より哲学に近い幸福感を と見做す。第二に、ソクラテスはこうした演説をメネクセノスという一人の若者に聞かせていた。弁論術に憧れ、政治 な政治観とそれに貢献することをよしとする幸福論を反転させ、自由を目的とする政治とより平和的に有徳な生を幸福 なった。第一に、ソクラテスの演説はペリクレスへの喜劇的な批判であった。ソクラテスは、ペリクレスの帝国主義的 これまでの議論で、ソクラテスの葬送演説が、内容と目的双方においてペリクレス演説の転倒であることが明らかに 四 結論 徳な生へと引き寄せ、さらにより哲学的な生へと導くための端緒を開いているように思われる。 はあるが示唆されていた。ソクラテスは、まずメネクセノスの好みの例を用いて彼を帝国主義から世俗的な意味での有 レス的でもなければこれまで語られてきた伝統的・家族的でもない、それらに依存しない生の在り方も目立たない形で 価値が強調され、メネクセノスの教育を考える際には極めて効果的な語り口が採用されていた。他方ここでは、ペリク ソクラテスの演説は帝国主義に貢献する戦死ではなく、日常的かつ平和的な徳を幸福と呼んでいた。そこでは家族的な 以上、ソクラテスの生者への勧告を検討してきた。その特徴をペリクレスとの違いを中心に要約するならば、まず、 的なものとつなげながら示唆している。 ネクセノスに向けた演説の中、家族的な徳の勧めを中心としながらも、ソクラテスはそれを超える徳の方向性を、家族 (( たならば、メネクセノスが演説に魅了されたこと自体が教育の成果を示すものと言えるだろう。メネクセノスは、自覚 的かどうかに関わらず、帝国主義的ではない新しい価値観に引き寄せられ、さらに「演説が容易である」ことを証明す るために行ったソクラテス演説を賛美することによって弁論術そのものからも解放され始めている。さらに、対話篇の 末尾はこれ以上のこと、具体的には彼らの将来の営みを予告してもいる。対話篇は、ソクラテスがメネクセノスに対し て今後もこのような対話、すなわち、アスパシアの政治演説を私的に聞かせることを約束し、メネクセノスもそのよう ) 。この最後の言葉の重要性は、対話篇冒頭部と比較 な秘密の教えへの期待を表明して終わっているからである ( 249e3-7 することによって明らかになる。対話篇冒頭、政治的野心にあふれ弁論術に憧れるメネクセノスはアゴラで行われた葬 ) 。ソクラテスとの対話、そして何より 送演説者の選挙を見物し、その帰りにソクラテスに偶然出会っていた ( 234a1-b10 ソクラテスが語るアスパシアの演説に魅了されることによって、メネクセノスは今後、政治演説の領域においてもソク ラテスの影響下に留まることになるかもしれない。もちろん、ソクラテスがメネクセノスに聞かせる演説は、その内容 において哲学的な色彩を帯びたものになるであろう。このようなソクラテス的教育が彼の将来にどれほどの影響を与え ) 、 たかを推測することは難しい。しかし、メネクセノスが『パイドン』の登場人物に数え上げられているという事実( 59b すなわち、都市に有害な人物として死刑を宣告されたソクラテスの臨終の場面に彼が居合わせていたという事実は、ソ クラテス的教育の一つの帰結を表現するものである。 『メネクセノス』は、政治的に野心的な若者がソクラテスの哲学サー クルの一員になるプロセスを描いたものではないだろうか。もし、『パイドロス』や『ゴルギアス』で言及されている「真 の弁論術」が聴き手の魂の分析を前提とし、その者の魂に即した形でそれを善くするための教育に関わるものであるの ならば、『メネクセノス』におけるソクラテスの演説は、少なくともその使用法において「真の弁論術」の実例と言う ことができるかもしれない。 こうした議論は、マイナーな対話篇に新しい解釈を施す以上の意義をもっている。なぜなら、通常のプラトン理解と は異なり、『メネクセノス』では理想的哲人政治か堕落した現実の政治か、あるいは哲学か弁論術か、といった厳密な 二分法は影をひそめ、特定の都市の政策を批判することを通じたより善い現実政治のあり方、さらには哲学と政治の間 271 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 で惑う若者への弁論術を通じた政治・哲学教育が提示されているからである。『メネクセノス』にはプラトン政治哲学 の一般的理解に修正を迫るほどの、現実的な政治と野心的な若者に直面したソクラテスによる極めて柔軟な政治論と教 育法を見出すことができるのである。 (1) Nicole Loraux, The Inventions of Athens: The Funeral Oration in the Classical City, Harvard University Press, 1986, p. 177. (2) ) p. 221; ’ Charles Kahn, Plato s Funeral Oration: The Motive of the Menexenus, in Classical Philosophy, Vol. 58, No.( 4 1963 ( 1974 ) p. 503; A. E. Taylor, Plato: The Man and his Work, Herold Stern, Plato’s Funeral Oration, in New Scholasticum, No. 48 Methuen, 1926, p. 41; Gregory Vlastos, Platonic Studies, Princeton University Press, 1973, p. 188. Cf. Susan Collins and David Stauffer, Plato’s Menexenus and Pericles’ Funeral Oration: Empire and the End of Politics, Focus Publishing, 1999, pp. 1-2. (3) ’ Stephen Salkever, Socrates Aspasian Oration: The Play of Philosophy and Politics in Plato’s Menexenus, in The American ) p. 134. 『メネクセノス』が偽作扱いされることが多いのも、内容的に「プラトン・ Political Science Review, Vol. 87, No.( 1 1993 ソクラテス的」でないからである。 Ibid., p. 141. (4)『 歴 史 』 と『 メ ネ ク セ ノ ス 』 の つ な が り に 関 し て は 以 下 の 文 献 を 参 照。 Christopher Bruell, On the Socratic Education: An Introduction to the Shorter Platonic Dialogues, Rowman & Littlefield, 1999, p. 204; Kahn, op. cit., p. 220; Sara Monson, ) Remembering Pericles: The Political and Theoretical Import of Plato’s Menexenus, in Political Theory, Vol. 26, No.(4 1998 ) p. 233. Cf. M. pp. 491-492; Bruce Rosenstock, Socrates as Revenant: A Reading of the Menexenus, in Phoenix, Vol. 48, No.( 4 1994 cit., p. 43;Vlastos, op. cit., pp. 191-192. ) p. 211. Henderson, Plato’s Menexenus and the Distortion of History, in Acta Classica, No. ( 18 1975 (5) E. R. Dodds, Plato: Gorgias, Clarendon Press, 1959, pp. 23-24. Cf. Lucinda Coventry, Philosophy and Rhetoric in the Menexenus, ( 1989 ) pp. 1-4; Henderson, op. cit., pp. 39, 45-46; Rosenstock, op. cit., p. 344; Taylor, op. in The Journal of Hellenic Studies, Vol. 109 (6) Kahn, op. cit., pp. 224-232. Cf. Monson, op. cit., pp. 502-503, 508; Stern, op. cit., p. 508. ( 7) 例 外 と し て、 以 下 の 文 献 を 参 照。 Bruell, op. cit.; Arlene Saxonhouse, Fear of Diversity: The Birth of Political Science in Ancient Greek Thought, The University of Chicago Press, 1992. 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 272 (8) Bruell, op. cit., p. 202; Loraux, op. cit., pp. 304-327. ) ) ) ) Collins, op. cit., p. 18; A. W. Gomme, A Historical Commentary on Thucydides, Clarendon Press, 1966, p. 126; Romilly, op. cit., Saxonhouse, op. cit., p. 469. Walter Conner, Thucydides, Princeton University Press, 1987, p. 69; Orwin, op. cit., pp. 18-19. Donald Kagan, Pericles of Athens and the Birth of Democracy, The Free Press, 1991, pp. 145-148; Clifford Orwin, The Ziolkowski, op. cit., pp. 60-61. Humanity of Thucydides, Princeton University Press, 1994, pp. 16-17; Romilly, op. cit., p. 146; Rustin, op. cit., p. 149. ) Saxonhouse, op. cit., pp. 469-470. ) pp. 108-111, 130-140. ) Cf. Leo Strauss, The City and Man, The University of Chicago Press, 1964, pp. 170-174, 210-211. ) ) Kahn, op. cit., pp. 220-232; Stern, op. cit., p. 508. 『プロタゴラス』 310a-314c, 316b. Cf. Simon Hornblower, A Commentary on Thucydides, Vol. 1. Clarendon Press, 1991, p. 294; Strauss, op. cit., p. 192. ) Henderson, op. cit., p. 26; Kahn, op. cit., p. 221. ) Bruell, op. cit., p. 201. )プルタルコス「ペリクレス」4、『英雄伝』。 ) ) Loraux, op. cit., p. 323. )ただし、演説が対話篇の場面状況に合わせて編集されている可能性は否定できない。 273 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 (9)ロミリーによれば、ギリシア語に「帝国」にあたる語はないが、そのアイデアは「支配」を意味する ajrchv に含意されている。 本稿では、 Jacqueline de Romilly, Thucydides and Athenian Imperialism, Basil Blackwell, 1963, p. 13. Cf. Loraux, op. cit., pp. 83-88. 「帝国」を、軍事的拡大主義を標榜し他の諸都市を支配する都市の意で用いる。 ( ) John Ziolkowski, Thucydides and the Tradition of Funeral Speeches at Athens, The Ayer Company, 1981, p. 71. ( )演説の末尾で、ペリクレスはこことは逆に、死者に嫉妬は向けられないと語っている( 2. ) 。冒頭の表現は主題を設定するた 45 めの誇張であろう。 Cf. J. S. Rustin, Thucydides: The Peloponnesian War Book 2, Cambridge University Press, 1989, p, 141. ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 13 12 11 10 17 16 15 14 26 25 24 23 22 21 20 19 18 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ) ) ) ) Orwin, op. cit., p. 20; Gomme, op. cit., p. 116; Strauss, op. cit., p. 161. Ziolkowski, op. cit., pp. 10-12, 180-188. Strauss, op. cit., p, 152. Cf. Bruell, op. cit., p. 207; Saxonhouse, op. cit., p. 116. 6. 1-32. ) Henderson, op. cit., p. 42; Stern, op. cit., p. 500. Salkever, op. cit., p. 138. 『歴史』 Collins, op. cit., p. 8; Henderson, op. cit., p. 41; ) ) ) Tom Griffith, Plato: Gorgias, Menexenus, Protagoras, Cambridge University Press, 2010, pp. xxi-xxii; Henderson, op. cit., p. 43; なお、他の修正点については、 Henderson, op. Kahn, op. cit., pp. 225, 227-228; Monson, op. cit., p. 494; Salkever, op. cit., pp. 138-139. を見よ。 cit., p. 41; Salkever, op. cit., p. 139 ) Covert, op. cit., p. 11; Dodds, op. cit., pp. 23-24; Griffith, op. cit., p. xxiii; Monson, op. cit., p. 494; Vlastos, op. cit., p. 190. )通説のもう一つの欠点は、メネクセノスの反応を考慮していないことである。彼はソクラテスの演説を聞いた後、弁論術の欠 を参照。 242b, 244d, 245a 点に気づくどころか、それを称賛しさえしている( 249d10-e2 )。ソクラテスの演説は、少なくとも目の前の友人を弁論術の魔術か Collins, op. cit., pp. 9-10; Salkever, op. cit., p. 39. その他、自由のための戦争については、 Henderson, op. cit., p. 41. らただちに解放するには不十分であった。 ) ) Collins, op. cit., pp. 7-8; Griffith, op. cit., p. xxi; Henderson, op. cit., p. 40; Kahn, op. cit., p. 225; Monson, op. cit., p. 494; Rosenstock, op. cit., p. 335. ) Salkever, op. cit., pp. 138-139. ( ) ( 34 33 32 31 30 29 28 27 36 35 39 38 37 ) ) Salkever, op. cit., p. 140; Saxonhouse, op. cit., pp. 117-118. Bruell, op. cit., p. 208. )が、親へのそれは三人称になっている( 247c5-d4 )。親は「私たち」の親であり、 246d1, d3, d8-e3 Bruell, op. cit., pp. 208-209. ) Collins, op. cit., pp. 15-16. )子への勧告は二人称で語られる( ) 45 44 43 42 41 40 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 274 勧告は「私たち」が親へと伝えねばならない。 〔謝辞〕本研究はJSPS科研費24830093の助成を受けたものです。 275 近藤和貴【プラトン『メネクセノス』篇におけるソクラテスの葬送演説】 [政治思想学会研究奨励賞受賞論文] ロールズの政治的リベラリズムと宗教 ──公共的理性と宗教的な包括的教説との関係 一 はじめに 原田健二朗 「 信 仰 を 持 つ 人 々 あ る い は 非 宗 教 的 (世俗的)な 信 念 を 持 つ 人 々 が、 そ の 下 で は 自 ら の 包 括 的 教 説 が 隆 盛 を み ず、 そ れ ど こ ろ か 衰 退 す る か も し れ な い 立 憲 的 レ ジ ー ム を 支 持 す る な ど と い う こ と が、 ど の よ う に し て 可 能 な の か 」( IPRR ) 。これは、ジョン・ロールズが一九九七年の論文「公共的理性の観念・再考」において繰り返し述べた、その政治 781 的リベラリズム構想における基底的な問題意識である。翌年になされたリベラル・カトリック系雑誌『コモンウィール』 とのインタビューでも、彼は「九〇ないし九五パーセントの国民が宗教を奉じている」アメリカの政治生活の中で、 「す べての宗教的および世俗的教説が、道理に適った公正で効率的な政府を運営するためにどのように協力することができ ) 。 るのか」との問題意識を力説している ( CP 616 周知のように、『正義論』以降『政治的リベラリズム』にいたるロールズは、宥和不可能な複数の宗教的、道徳的、 哲学的な包括的教説からなる「道理に適った多元主義」の下で、いかに「正義の政治的構想」を通じた人々の重合的コ )が達成されるかを問題とした。この多元主義の事実は「近代デモクラシーの公共的 ンセンサス ( overlapp ing consensus 文化がもつ永続的特徴」であり、まさに基本的な権利と自由の保証からなる「リベラルな構想が促す政治文化の特質」 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 276 とされた ( CP 425; PL 36, 143; IPRR 766 ) 。民主的社会の市民は包括的信条によっては相互の合意にたどりつけないことを ) 」、「人間本性論を脇に置き ( put aside ) 」、「包括的 知っており、「宗教と哲学に関する最も根深い論争を迂回し ( bypass ) 」ことが、社会の安定性を創出する唯一可能な道とされた ( PL 152; IPRR 800 ) 。 教説を回避する ( avoid こうした政治的リベラリズムの戦略に対しては、リベラリズムの哲学的正当化を放棄した「後退」であるとの批判と ともに、リベラリズムの「価値中立性」を問題視するコミュニタリアンや倫理・宗教学者からの批判が向けられている。 たしかにロールズは、自らの「公正としての正義」の構想、リベラルな社会の安定性を、歴史的な民主社会の公共文化 )規範に求めた。そのことは、 「九〇/九五パーセントが何らかの宗教を奉じている」アメリカ人の、 に内在する ( implicit )に期待することでもある ( PL 13, 143; CP 民主的公共性に対する誠実なコミットメント、適理的な支持 ( reasoned support ) 。ロールズによれば、多くの市民は真理や価値に関する何らかの包括的見解を抱いており、「彼らがすべて、それが 616 何であれ自らの包括的見解の観点から、政治的構想を正当ないし道理に適ったものとして受容できることを期待する」 (1) ) 。公共的理性の基準を満たせない宗教的見解は存在するものの、「十分に秩序立った社会の中で長 必要がある ( PL 150 。 く存続してきた包括的教説は、全てあるいは多くのケースにおいて、そうではないと期待せねばならない」( PL 25) 3 )論が、宗教といかに関わり合うか 本論文は、ロールズの政治的リベラリズムにおける「公共的理性」( public reason という限定的な問題を扱う。ロールズにおける宗教の問題は (特に日本では)決して議論の盛んな分野ではなく、多くの 政治哲学研究者にとってイレレヴァントに見えるかもしれない。しかし近年『ロールズと宗教』、『宗教と応用哲学にお (2) けるロールズ的探求』等の著作を著している哲学者D・ドンブロフスキーによれば、「ロールズは政治と宗教の関係に 確かに関心を抱いており、その関係こそが、リベラリズムが何世紀もの間解決しようとした問題の中核にあ る」。C・ (3) )の問題性が指摘され、宗教をめぐる様々 テイラー、W・コノリー、J・ハーバーマスらにより西洋的世俗主義 ( secularism な政治的問題が噴出する「ポスト世俗化」とも形容される今日において、現代リベラリズムの定礎者の一人、ロールズ (4) における宗教との複雑な関係──その政治理論に即してのみならず、哲学者個人の内面としても──を反省することが 本稿の課題である。 277 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 (5) 次節では、ロールズ自身のキリスト教信仰の遍歴を述べ、第三節では宗教に関わる局面に絞ってその「公共的理性」 論を概観する。第四節では、彼の構想する社会の中で宗教がどのような役割を果たすものと位置づけられているかを探 る。本稿の仮説は、ロールズは、自身は基本的には放棄した宗教が多元的社会において保持する影響力をなお無視しえず、 宗教者が市民として持つべき政治的アイデンティティ、エートスの問題にも応じようとしたという点である。ロールズ は、その多くの批判者が指摘するような単純な「宗教排除」論、あるいは宗教の「私事化」を意図しておらず、他者へ の寛容の原理と両立しうる宗教の政治的参画──リーズナブルで公共的な正当化理由の提示──をむしろ歓迎し、それ を可能とする宗教の自己刷新のための政治的提議を積極的に行っていると考えられる。 二 リベラル・ロールズの信仰遍歴 ──超越から内在へ ロールズは父がメソディスト、母が監督派 (聖公会)という「一般的にみて宗教的な家庭」( BI 261 )に生まれるも、入 学した監督派高教会系の私立寄宿学校の厳格さに反発し、宗教への関心を失った。しかし進学先のプリンストン大学で のノーマン・マルコム (ウィトゲンシュタインの高弟)の講義に触発されて悪と宗教の問題に関心を深め、一九四二年には (6) アウグスティヌス、アクィナス、ルターらの原典を駆使した卒業論文、 『罪と信仰の意味に関する束の間の探究──コミュ ニティの概念に基づく一解釈』を著した。この論文は、当時の欧米キリスト教界で台頭していたK・バルト、E・ブル )神学の雰囲気の中で」書かれたものであり、ヘレニズムや自然主義の哲学的影響 ンナーらの「新正統派 ( neo-orthodox ) で人間中心主義化されたキリスト教、神を無人格的な「一者」と捉える神秘主義、ペラギウス主義的な「功績」( merit 説への批判を含んでいた。人間の罪の根源たるエゴティズムは、究極的には、「自らの保持し享受するものの総体が神 )であること」 、すなわち「被贈与性 ( givenness )の認識」をもたらす信仰の「回心」( conversion )に からの贈り物 ( gift )を理解し、利己主義の罪がコミュニ より克服される。神への信仰こそが、「人々が自らの共同的本性 ( communal nature ) 。 ティを破壊することを知る」ための契機をなす ( BI 238 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 278 それ [=人間の営みに先行する神の業]により、われわれは閉鎖性から開放性へと引き寄せられる。善行を自らに固 )がそもそも可能であるということ自体が、 有のものと主張することはできない。なぜなら、かれの善性 ( goodness ) 。 誰かがそれを与えたことを前提とするからである ( BI 240-241 このような青年期ロールズの見解の背景には当然、「キリスト者が神とよび、イエス・キリストの内に自らを啓示す ) 。しかし、兵役後を待って神学校への入学さえ検討していた彼は、第二次世 る存在がいる」との信念が存した ( BI 111 ) 界大戦の与えた衝撃により信仰を失うこととなった。一九九〇年代に書かれた「私の宗教について」( On My Religion と題するメモに示されたその三つの理由は、ルター派の従軍牧師が神を持ち出して戦闘行為を正当化した説教、偶然の 状況が引き起こした同僚の戦死、そしてホロコーストの事実である。 神が何百万ものユダヤ人をヒトラーから救えないのに、私、家族、祖国、あるいは私が気にかける他の物事を助 けてくれと、どうして神に祈願などできるのか。リンカーンが南北戦争を、南北ともに負うべき奴隷制の罪に対す る神の裁きだと述べた時、神は正義に即して行動していると考えられた。しかしホロコーストはそのようには解さ れない。そう解そうとすることは忌まわしく不道徳なことである。歴史を神の意志の表れと解するためには、神の 意志が、われわれの知る最も基本的な正義の観念と一致していなければならない。……このようにして私は、神の ) 。 意志の至高性という観念を、忌まわしく邪悪なものとして拒絶するようになった ( BI 263 神を人間を罪から救い、コミュニティを再生する善なる存在だと信じていた彼は、これ以降、「神の義」への信仰が (7) )の失敗──世界における「人間の正義」の実現に、自らの道徳的信念を傾け 存立しえない──まさに神義論 ( theodicy ることとなった。 ただしロールズは常にキリスト教を、人間性の欠陥、偶然のもたらす各人の能力の不平等性、なお平等な尊厳に値す 279 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 る不可侵の人格、といった道徳的関心から評価を下していた。信仰喪失前の論文では、「[キリストの]復活の教義は、わ )と個別性 ( particularity )において復活すること、すなわち救済が全人格の完全な再生 れわれが完全な人格 ( personality ) 。一方で彼は後の一 であること」を示しており、「救済は人格をコミュニティへと統合するもの」と述べられた ( BI 126 ) 」の 九九八年のインタビューで、自身の力説する「人格の尊厳」への信念が、「聖書における個人の神聖性 ( sacredness ) 。コー ような宗教的色彩を帯びるものだと指摘されたとしても、「それで結構。私は否定しない」とも述べている( CP 621 エンとネーゲルによれば、『罪と信仰』論文から『正義論』へと通ずるものは、この不可譲の人格の重要性、複数の多 様な個人からなる社会の形成、差別や階層性に基づく不平等な社会原理の否定であり、宗教や生得的条件に由来する人 )と「功績」( merit )への批判がロールズに終生一貫してある ( BI) 。 間の「傲慢」( pride 7 学部論文で彼は、「教会外の人々 を異端視する」ローマ教会、絶対的信条(特に二重予定説)への盲信に起因する「傲慢への傾向を持つ」カルヴィニストを、 ) 。 「悪しき」閉鎖的集団として批判している ( BI 197-198 最終的に彼は一九九七年の宗教メモにおいて、以下のような見解を示すにいたった。 ) にとって有害な影響を持つ。キリスト教は孤独な宗教( solitary religion ) である。 キリスト教は人間の性格( character すなわち、誰かが救われ誰かが劫罰を受けるのであり、われわれは自然に、その他の事柄が問題にならなくなるほ ) 。 どまでに、自己の救済に執着するようになる ( BI 265 このような信仰を真なるものとして要求し、永遠の救済の条件として恩恵の手段(サクラメント)に関する権威を行使し、 他者の改宗を重要視するキリスト教会は、ロールズにとって自由の抑圧の契機と不可分である。従軍からの復学後、中 世の異端審問の歴史に関心を抱いたという彼は、ギリシア・ローマの(世俗的)市民宗教とは決定的に異なる、「権威主義的、 。 救済主義的、教条主義的、拡張主義的」宗教としてのキリスト教の登場のインパクトを強調する ( PL xxv; LHMP) 7 そ して中世からホロコーストにいたる宗教の名の下の暴力、抑圧の歴史を念頭に置き、超越的事物に根拠を置く正統的信 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 280 (8) 仰 (とりわけ教会組織の権威)への疑念、警戒を終生保持した。彼は「キリスト教の何世紀にもわたる反ユダヤ主義なし にはホロコーストは起こらなかっただろう」とも述べている。 ロールズによれば、 「秩序立った社会の観念は、宗教的寛容の観念を拡大したもの」であり、宗教的自由と寛容が「私 (9) の道徳的・政治的見解における固い主張となり、それは国家と教会の分離の制度により実現した立憲的デモクラシーに )。棄教後のロールズは宗教を専らその社会的・政治的 関する私の見方の基本的な政治的要素になった」( CP 235; BI 265 影響の観点から捉えることとなり、ゆえに信仰にとって最も重要な問題は教義ではなく寛容と不寛容の問題となる。デ モクラシーと宗教的教説の衝突が緩和され、立憲的民主社会における理に適った正義の諸原理の範囲内に抑えられるの ( ( 281 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 ) 、信仰の自由を相互に保証し合うシステムの承認が全宗教者に求められる。 は「寛容の観念のおかげ」であり ( IPRR 804 政治的リベラリズムの成立背景として、ロールズは常に一六─七世紀のカトリック・プロテスタント間の宗教戦争を 想定し、非教権主義的、個人主義的なエートスを養い、リベラルな近代社会に適応しえたある種のプロテスタント・キ リスト教に (宗教的でなく政治的な)シンパシーを寄せている。(彼が青年期に傾倒した新正統派神学は近代自由主義神学への批 。「教会から独立した道徳的知識を正当化しようとした」一七、一八世紀ヨーロッパの思想 判の上に成り立つものだったが) 家をたどる『道徳哲学史講義』の中で、グロティウス、プーフェンドルフ、ホッブズ、ロック、カント、ヘーゲルは「い 。 ずれもプロテスタント」である事実を彼は指摘している ( LHMP) 8 彼はまた、宗教的対話を理性的に描き、寛容を政 治的必要性のみならず宗教的根拠から唱えたという点で、「ボダンの『七賢人の対話』に示された考えほど、宗教に関 ) 。特定の宗教的価値から中立的な政治的リベラリズムの先駆と する文章で私を驚かせたものはない」と述べる ( BI 266 、政治と宗教の関係を考察 して、ロールズはホッブズの「自足的な世俗的道徳体系」の意義を強調し (『政治哲学史講義』) 。 する上では、超自然的な「聖職者の宗教」を批判したルソーを評価している ( CP ) 91 ( 信仰に基づく非政治的、超越的な観点からの現世的当為の要求は、「そのまま放置すれば、相互に排他的な神々の闘 ( 争と政治的抑圧を必ず生み出す」とする、いわば「宗教戦争テーゼ」が政治的リベラリズムの背景にあることは、それ (( を誇張と批判する数々の論者から指摘されてきた。しかしロールズは、たとえそれがアナクロニズムと批判されようと (( も、なお神の名の下に正当化されてきた歴史的な不正義、戦争、全体主義、ホロコーストの事実を突きつける。彼は寛 容の政治的制度化の観点から近代における信仰の条件を見直し、宗教と政治の双方の要請が、「宥和不可能な多元主義 の事実」によって特徴づけられる現代の民主社会の中でいかに調和しうるかを問題とした。 ロールズ個人における信仰の所在はより複雑な問題である。既述のように、ロールズは社会を破壊する人間の罪と傲 慢、個人の左右できない運命的境遇 (貧富の差、戦争や死)の不条理性、正義に適う公正なコミュニティの再生、という ( ( 観点から神と人間の協働可能性を追求し、それを最終的に断念した。彼はその後、「神でさえ救えない」不平等で偶然 的な生の諸条件の影響を最小化する、人間 (のみ)による現世社会の構築を生涯の課題とした。生まれつきの自然的才 ( (( ( 尊厳が平等に尊重される理性的な社会の実現──は「内在的世界」において残っている。 ( ) 。神の超越的人格性への信仰は失われたとしても、彼のかつての信仰を動機づけた道徳的信念──すなわち人間の 587 )において是認することのできる、何らかの思考と感覚である」と述べている ( TJ 理性的人間が世界内 ( within the world )の観点とは、どこか世界を超えた場所や超越者からの観点ではなく、 ルズ自身は『正義論』の結論部で、 「永遠 ( eternity 的に再構成されたその平等主義的な実践道徳、すなわち現世を対象とする正義の理論へと「世俗的に変換」された。ロー ( の関係に関する神学的探求、「社会の中の個人」の観念、また個人の平等な尊厳や人権等に関する宗教道徳は、義務論 俗的翻訳」論に引き寄せつつ共感的に論じている。彼の理解によれば、初期ロールズにおける神と人間、個人と他者と ハーバーマスは『罪と信仰』に対する書評論文の中で、ロールズの信仰の変遷を、近年の持論である宗教的言語の「世 ての神学的な「功徳」批判と道徳的動機を一にしている。 )に即した富の分配 (能力主義)に基づく社会構成に対するロールズの「否」( TJ 310 )は、かつ 道徳的功罪 ( moral desert )に対処できる。 初状態」の下で平等の正義原理に合意することによって、現在の境遇の恣意性、不随意性 ( contingency 、仮想的な「原 能は各人ではなく社会の「共通資本」に属し、人々は人種や宗教、性別に関する予断なく (無知のヴェール) (( の道徳的・政治的価値に合致しうるかという問い──すなわち神にも人間にも共通する理性の普遍性──をなお追求し 「理性」が、いかにわれわれ人間の理性ならびに正義 ロールズは前述の一九九七年のメモで、神の (意志とは異なる) (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 282 ていた。神の理性は、もし存在するとすれば、人間理性を遥かに超える力を備えているだろう。しかし、 神の存在は、その力がどれほど強大だとしても、理性の本質的な基準 ( essential canons of reason )を左右しない。 )に また実践理性の判断の内容は、人間存在が社会の中で互いにどう関わるかについての社会的諸事実 ( social facts )に関する基本的な判断は、それが神の理性と人間の理性のどちらの産物であろうと、不変のはずで reasonableness 依存する。神の実践理性も、われわれの理性と同様に、こうした [社会的]諸事実と関連づけられる。……適理性 ( 教的多元性を強く意識した問題設定を据えた。そして、立憲政体の安定的存続と正義の政治的構想へのコミットメント 283 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 ) 。 ある ( BI 268 )を圧倒する力を理解して worldly constraints ロールズの弟子ネーゲルは、「ロールズの著作は完全に世俗的だが、彼は宗教的心性を持ち、超越への熱望 ( aspiration ( ( )の有する力とともに危険性、そしてそれが現世的な制約 ( of transcendence )を失ったとだけ記しており、決して「無神論者」であると いた」と述べている。ロールズは「正統的信仰」( orthodoxy ( (( 既存の宗教に対する外的、「政治的」な態度を維持するロールズは、『政治的リベラリズム』において、現代社会の宗 1 公共的理性と宗教的教説との関係 三 ロールズの公共的理性論と宗教 者ないし無神論者であると公言してその曖昧さを取り除ける」わけでもなかった。 ( 統には負っていない中では、その信仰の形態は曖昧なままに留まらざるをえなかった。そして彼は、「自らは不可知論 ) 。彼が何らかの有神論的心情を有していた可能性は否定できないが、それが特定の教派や伝 は公言していない ( BI 261 (( を期待された「信仰ある市民」( citizens of faith )および非宗教的な信念の持ち主にとって最も問題となるのは、公共的理 性論にほかならない。「憲法上の必須事項と基本的な正義の問題」に関する公共的討議においては、正義の政治的構想 ──基本的な権利、自由、機会のリストの優先性を認め、それを用いるための手段が市民に保証されていること──に より骨格が与えられ、人々が道理に適うものとして是認しうる公共的な正当化理由を提示せよ、というのがその当為で ある。 市民は、最も道理に適った正義の政治的構想──他者も自由で平等な市民として妥当なものと是認するであろう と期待することが道理に適うような、そうした政治的諸価値を表す構想──と自身が誠実にみなす枠組の中で熟議 ) 。 を行うとき、公共的理性に参画している ( IPRR 773 また、 憲法的精髄と基本的正義の問題に関する討議においては、われわれは包括的な宗教的および哲学的教説に訴えて はなら……ない。正義の原理と、その憲法的精髄と基本的正義への適用に対するわれわれの是認を根拠づける推論 の知識と方法は、可能な限り、市民一般に現在までに広く受け入れられ通用している、簡明な真理に依拠すべきで ) 。 ある ( PL 224-225 公共的理性の適用範囲は行政府、立法府、司法府での公的言説のみならず、公職への立候補者とその選挙責任者の政 治的言説、前述の根本問題に関する市民の投票行動を含み、「公共的政治フォーラム」における熟議のマナーを規律す )の基準に適う市民的義務、 reciprocity で’ あり、これを実践 ‘duty of civility ) 。互いを社会の協同システムにおける対等な存在と捉え、理に適うものと他者が受容しうる事柄 (の る ( IPRR 767-769 「互恵性」( み)を提議し正当化することが、 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 284 ( ( する態度が「民主的シティズンシップ」とされる。万人が立法者、公権力の担当者、また裁判官である「かのように」( as )。 IPRR 769, 797 ロールズは、公共的理性の制約の程度は歴史的条件に依存するとし、すでに市民が正義の政治的価値を奉じ、秩序あ ) if熟慮する、市民としての強い規範が要請される ( ──では、 「市民の奉ずる包括的教説は公共的理由に導入されてはならない」 る社会が成立している状況── good times )が適用されるとする。しかし正義の原理や憲法問題につき深刻な対立がいまだ存 という非開放的見解 ( exclusive view ──には、「市民は公共的理性の理念を強化する限りにおいて、包括的教説に基づく政 在する場合── less good times ) 。包括的教説を持つ人々 治的価値の基礎とみなすものを提示することが認められる」とする (包摂的見解 inclusive view が、いかにしてある政治的価値を是認するのかを公的な場で提示する方が、市民間の相互信頼が増すとされるからであ ) 。さらに一九九七年の「公共的理性の観念・再考」論文では、公共的政治文化に関する「広い見解」( wide る ( PL 247ff. ) 、道理に適った宗教的ないし非宗教的な包 proviso ) と呼ばれるものを提示する。すなわち包括的教説を持つ市民は、ある政策や原理を支持する適切な政治的理由を、「や view )提示する限り」(=いわゆる付帯条件 がて適当な時点で ( in due course )政治的討議に持ち込むことが許される ( IPRR 776, 783-784 ) 。 括的教説を「いつでも」( at any time 黒人差別に憤慨し、リンカーンの長年の「ファン」でもあったロールズは、次のように一九世紀の奴隷制廃止論者お よび公民権運動におけるキング牧師の言説と、公共的理性との適合性を主張する。すなわち、正義原理の適用に関する が適用される──黒人差別撤廃以前のアメリカにおいて、リンカーン 深刻な亀裂が存在した──よって inclusive view やキングは「神の法」、「神罰」等の宗教的言語を用いつつ、万人の自由と平等という政治的価値を支持し、公共的理性 ( )。通常、人々は包括的教説に基づく理由と公共的理 PL 249-250 ( の尊重される秩序立った社会の実現を目指していた。彼らの包括的な宗教的教説に基づく「非公共的理性」( nonpublic )も、 「公共的理性の明白な結論を支持していた」( reason つ包括的教説を持ち出すことが必要だと考えたかもしれない。彼らは奴隷制や差別を正当化してきたキリスト教内の一 解釈にも反論せねばならず、当時の多くの市民も、彼らの用いた宗教的言語の示唆する政治的含意を容易に理解できた 285 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 (( 由とを区別しないかもしれないが、リンカーンやキングは当時の環境においては、自らの奉ずる政治的価値の拠って立 (( からである。 ( ( こうした歴史的条件下では、リンカーンやキングが公共的理性の強化のために宗教的見解を持ち出した行動は、「ア 。 ンリーズナブルではなかった」とロールズは考える ( PL 25) 1 彼はまさに奴隷制廃止と公民権運動の事例を組み入れる )是認し、 「正しい理由」による安定性 ( stability for the right 一正当なコンセンサスとして、心底から ( wholeh eartedly )として渋々受容するのではなく、多様な教説の対立を調停する唯 正義の政治的価値を単なる暫定協約 ( modus vivendi 法の正当性と化せば、包括的教説を根拠にして法に従わない市民が続出してしまう。宗教的市民は民主的政府の権威、 ) 。宗教や形而上学等の「非公共的理由」が 説間の分裂と敵意がやがて自己主張を始めることは必至である」( IPRR 803 (’自立的)な正義の政治的構想の領域である。ロールズによれば、民主的社会が成熟すれば公共 されない ‘ freestanding 的理性が不要となるのではない。市民の公共的理性に対する忠誠と公民としての義務が維持されねば、「諸 [包括的]教 修正を経た公共的理性に関する最終的な「広い見解」においても前提とされるのは、包括的教説によっては決して侵 ) 。 疇ではないと彼は言い切る ( CP 618 )の範 構想の中核をなしており、安楽死を含め自己の生を自律的に決定する自由の問題は、 「宗教的権利」( religious right )を侵害するか否かの問題」とされる ( IPRR 780 )。この市民権の具体化の問題こそが正義の政治的 民的権利 ( civil rights それが宗教的罪であるか、人間の善き生とどう関わるか等の問題ではなく、その立法が「自由で平等な民主的市民の市 がなくとも、なぜそれが潜在的な不正義であるのかを説明せねばならない。あるいは同性愛関係の法的地位の問題は、 点から参画することが求められる。たとえば医師による自殺幇助 (安楽死)に反対する人は、神の罰や来世に関する考慮 宗教者は憲法と正義の基本問題に関する討議に、自らの信仰を共有しない市民にも向けた、適理的な政治的価値の観 2 政治的構想と非政治的(宗教的)価値 ) 。 している ( PL 247 ために、A・ガットマンとL・ソーラムに説得されて、公共的理性に関する「包摂的見解」を認めるようになったと記 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 286 )を実現せねばならない ( reasons ) 。 IPRR 781 「背景文化」( background culture )では 正義の政治的構想は、教会など数々の自発的結社を含む (非政治的で非公共的な) なく、民主社会の公共的政治文化に内包される基本理念から導出される。たとえば「自由で平等な市民」、「公正な協同 )な理由をなしており、「[政治的] システムとしての社会」などの観念である。公共的理由はそれ自体で「完全」( complete 諸価値の順序化は政治的構想自体の中にある構造と特徴の見地からなされるもので、市民の包括的教説から第一に生ず ) 。よって宗教的市民は、「自らの奉ずる包括的教説あるいはその一部から直接に、政治的原 るものではない」( IPRR 777 理および価値へと議論を進めてはならない」。政治的諸価値は、「包括的教説により舞台裏からこっそり改竄される操り ( 287 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 ) 」と化してはならない ( IPRR 777-778 ) 。先述の「付帯条件」が充たされる場合には、宗教的教説が持ち出 人形 ( puppets されたとしても、それ自体として完結した公共的理性の性質は変化しない。このように「正義の政治的構想」への包括 的教説の「侵入」を一切認めないロールズには、市民の自由、平等、寛容の原理に背く不正義を世界にもたらした宗教 的正統──彼にとってはキリスト教一神論──に対する強い警戒がうかがえる。 「支持」できるに過ぎず、 諸包括的教説はフリースタンディングな政治的構想を、様々な (内在的)理由から「是認」、 それらが奉ずる何らかの政治的理念は、ロールズの考える (正義の)政治的構想の範疇にはない。彼は、政治的構想とは 包括的な道徳信条よりは狭い、憲法原理や基本的正義、プロパティの制度といった領域に限り自己完結的、不変的なも )ために、自立 ( self-standing ) のと認める。しかしそれは、 「多くの包括的立場にその一部分として適合していく ( fit into している」必要があるからである ( CP 617 ) 。彼の考える政治的構想こそが包括的諸立場によって受容、包摂、承認され るべきなのであり、その逆ではないのである。 ( ロールズは、一群の正義の政治的構想により定義される公共的理由の内容は、唯一絶対の形態において全ての問題を 解決しうるものではなく、不断に再定義されるべきものとことわる。「政治的リベラリズムは、公共的理由を一つの望 なければ、「諸々の集団や社会変化から生じる利害関心の要求は抑圧されてしまい、適切な政治的発言の機会を得られ )で固定してしまうのではない」 。こうした変化が生じ ましい正義の政治的構想の形において、一度きり ( once and for all (( なくなってしまうからである」( IPRR 774-775 ) 。ただしなお、ある局面で正義の原理と特定の包括的教説との不一致が生 じた場合、ロールズによれば、 ) 、あるいは改 彼ら [諸市民]は、正義の諸原理を拒絶するのではなく自らの [包括的]教説を適応させる ( adjust )であろう。……そうした適応ないし改変は、政治的構想が包括的見解をそれと一致するように形づ 変する ( revise )中で、やがてゆっくり生ずるものである ( PL 160, note ) 。 くる ( shape 25 宗教を、対等な人格性を前提とする共同社会における対他関係の構築の観点からとらえるロールズは、相互に対立し つつも道理に適う包括的教説はすべて、立憲政体の政治的権威を承認できると力説する。公共的理性は、宗教的か世俗 的かを問わず、いずれの包括的教説も排撃しない独立した「中立」の立場から、全市民を重合的コンセンサスに招いて いる。各宗教伝統に基づく政治的価値は、フォーマルな政治的意思決定プロセス以前の「背景文化」、「市民社会」にお いては自由に討議することができるが、社会全体を通ずる公的正当性はもはや持たないことを、市民が公共的理性の実 践を通じて学習せねばならない。 さらに公共的理性の理念は、「他人の意見を聞き、[相手の意見への]理に適った適応ないし変化を自らの考えの中に受 ) 」を意味する ( PL 253 ) 。公共的理性は、市民が多元主義的環境の中で自らの意見の け入れようとする意欲 ( willingness 可謬性および可変性を受け容れ、公正かつ適理的に正当化された法の権威に自由に従うための、内発的な義務である。 ( ( )の ロールズによれば、「互恵性」の要件は、立憲的民主政体における政治的関係の性質を「市民的友情 ( civic friendship )──すな 関係として規定する」役割を持っている。この立憲政体を動かす社会的協同の「偉大なる徳」( great virtues )とされる ( PL 157 ) 。 共善」( public good ) 」であり「公 わち寛容、他者に歩み寄ろうとする姿勢、適理性、公正の感覚──は、 「社会の政治的資産 ( political capital (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 288 四 宗教の公共性に向けて ──政治的リベラリズムの「宗教」論 1 民主的社会における宗教 ロールズの宗教に対する疑念は、来世的、超越的世界観に基づく包括的な要求の、 「政治的構想」に対する侵入への徹 ( ( ) 底した拒否として示される。彼曰く、重合的コンセンサスは、「政治的構想から政治を超えたもの ( beyond the political を排除する」ことによって、「あらゆる理に適った教説が政治的構想を是認することを邪魔しない」。彼の構想する公共 )価値に関する議論は参入しえない。救済や永遠の生といった超 的政治文化の中に、包括的教説の非政治的 ( nonpolitical )と彼は仮称する──が、道理に適った政治的価値を覆す ( override )ならばその 越的な価値──「神の直観」( Visio Dei 教説はアンリーズナブルな教説であり、覆さない教説ならば、それはリーズナブルな教説に値する。こうした振り分けが、 )という観念がもたらす一つの帰結」 「政治的リベラリズムにおいて示される、政治的に道理に適う ( politically reasonable ) 。こうした論法で、ロールズは宗教的理由の持つ「政治的価値」の公的適用性を否定していく。 とされる ( IPRR 802 (’審議上の抑制)につ ロールズの公共的理性論は、とりわけ宗教者に対する表現の自由の規制、 ‘deliberative restraint ( ( ながるとの批判が、主にアメリカにおける神学者、宗教学者から寄せられてきた。ロールズを早くから批判したカルヴァ ) 、統合 ( integrity ( ( )を追求すべきというのが彼らの信念である。……彼らにとって宗教は、自らの社会的 integration 289 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 (( ン派神学者N・ウォルターストーフによれば、多くの宗教的市民にとって、正義の根本的問題における決定はその宗教 (( ) 、一貫性 彼らはそれを、そうするかしないかのオプションとみなしていない。自らの生の中で全体性 ( wholeness 的信念に基づいている。 ( )と無関係ではありえない。 および政治的な実存 ( existence (( 自らの人格的実存において宗教と政治は不可分と考える「宗教的統合論者」( religious integralists )は、そもそもロール ( ( ズの審議的枠組を承認しない。「ロールズのリベラリズムは、キリスト者 (および他の宗教者)に対して、文化的ゲットー ( ( に退却するか、包括的教説を留保して政治生活に参加するかの選択を突き付けている」との批判もある。双方の対立が いかに克服されるかの理論的探求は (重要ではあるが)別稿の課題とし、本節はさらに、あくまでロールズの意図において、 (( ( 志向している。 ( を提議しないならば)その態度の見直し、自己刷新を明らかに促しており、その上で彼らとの一定の相互理解の可能性も である。またロールズは、重要な論敵であった宗教的統合論者に対して、(もし彼らが「他者にとって理に適う」公共的理由 しば散見される、重要なニュアンスを見落とした誤解や誇張をまず正した上で、適切な批判を展開する必要があるから 公共的理性の下で諸宗教がどのような行動を促されるのかの理解を追究したい。宗教的視点からのロールズ批判にしば (( べる。 ) 、ということが極めて重要である ( comprehensive ) 。 PL 159 ) 、そしてそれが完全には包括的ではない ( not being fully われわれの包括的教説における何らかの緩み ( looseness 包括主義的な宗教を外的世界、他者への視点とどう関係づけるべきかという問いに関し、ロールズは以下のように述 自由に実践できないという相互依存的、互恵的状況が全宗教者を政治的に規律する。 ) 。他者の自由と寛容を認める正義のレジームの下でしか、自らの信仰を ことを認識することにあると述べる ( IPRR 782 認する以外には、他の道理を弁えた自由で平等な市民の平等な自由と一致する形で、自らの自由を確保する方法はない」 憲政体を支持できるのか」との問いに戻れば、ロールズは「その答えはいまや、道理に適った立憲的デモクラシーを是 る局面においては、それを保持する市民の行動を大いに規範づけると言える。冒頭に述べた、「宗教的市民がいかに立 政治的リベラリズムはいかなる特定の世界観、形而上学的な価値にも関わらないが、それが政治秩序に (外的に)関わ (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 290 多くの人々の宗教的、哲学的、道徳的教説は完全には全般的 ( general ) 、包括的と見なされているわけではなく、 そうした教説の視点は多様な度合を認めている。そこには、リベラルな正義の諸原理がそうした (部分的に)包括的 )結合できる、いわば多くのずれ ( slippage ) 、多くの方法が存在する ( PL 160 ) 。 な諸見解と緩やかに ( loosely ロールズは明白に、政治生活を百パーセント信仰のみによって秩序づけようとする──そしてまた「正義」の政治的 構想に反する──教条主義的立場を「道理に適った」宗教とは認めず、自足的な政治的構想に同意できる何らかの余地、 弛緩を宗教の内に認めることを政治的に要求している。「自らの宗教の覇権を確立するために憲法を改正したり、その影 響力や成功を保証するために自らの責務に留保を設けたりする望みを、われわれは未来永劫断念せねばならない」( IPRR ) 。真の公共性に値する包括的教説には、理性において自由に他人と意見を交わし、 「自分の利益に適わない場合でも、 782 )──が求 他人がそれを受け入れるならば」ある結論を決断する責務──すなわち「判断の負荷」( burdens of judgment ) 。公共的理性は、万人が対等な視座に立った上で他者に譲歩し、自らの意見をそれに適応させる「意 められる ( IPRR 805 欲」を促すのだった。 2 寛容と良心の自由の原理による宗教の「規制」 ロールズは、デモクラシーにおける公共的理性の熟議的責務を拒否する「原理主義的な宗教や独裁的および専制的支 配者」に対しては、その包括的価値の当否とは無関係に、「そうした教説は政治的にアンリーズナブルである、とだけ ) 。彼が引用するように、寛容論の先駆者ボダンも「宗教において罰せられるべきなのは、 言う」べきとする ( IPRR 806 )ではなく [外的]行動 ( deeds )である」と考えた ( BI 269 ) 。ただし、公共的理性はいかなる包括的教説も 信仰 ( beliefs ) 、結果として民主社会における宗教のあり方、また特定の 価値判断としては「批判も攻撃もしない」一方で ( IPRR 766 形態の宗教の盛衰をも左右すると考えられる。神からの命令と自らが信ずる統合的世界観を、(正義の政治的要請と対立し 「妥協」ないし改変させられない教説は、公共的理性の遵守される民主社会においては存続可能性を失わざるを た際に) 291 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 ( ( えない。ソーラムが解説するように、公共的理性の規範は人々を近代的多元主義の現実に対峙させ、宗教等に起因する 不寛容、たとえば人種差別的、性差別主義的、ホモフォビア的発言を排除する効果をもたらす。J・オーウェンはマシー ( 社会の中で表される条件を変化させるという点で、宗教者に何らかの変容を強いるものだとする。マシードによれば、 ( )を引用しつつ、政治的リベラリズムは特定の信仰の内容の是非には関わらないが、その信仰が公共 ド ( Stephen Macedo (( ( )のシステムをもたらす。 psychological taxation ( 時 間 を か け て、 何 ら か の 固 い 信 仰 と 実 践 を 駆 逐 す る の に 十 分 な、[ 宗 教 者 に と っ て ]不 平 等 な 心 理 的 負 荷 ( unequal しい発言と推論のあり方に対する、時として捉えがたい幅広い期待を通じてな さ れるの で あり、一 挙 にではな く リ ベ ラ リ ズ ム は [ あ る 種 の ]宗 教 的 発 言 を 封 じ る。 そ れ は 直 接 の 検 閲、 国 家 に よ る 厳 格 な 抑 圧 で は な く、 望 ま (( ( めに衰退するとの考えである。ただしロールズはこのような帰結を必ずしも望んでいるわけではない。むしろ可能な限 ( 退するということもありえよう。原理主義的宗教は、その教義のゆえではなく、政治的説得性と実現可能性を失うがた 推進を企図する宗教、国教制的志向ないしテオクラシー的熱情を持つ宗教の「居場所」はなく、信者を失い長期的に衰 ) 。ロールズ的な公共的理性が遵守される民主社会では、公権力を通じて信仰の らかの包括的教説である ( IPRR 781-782 原理に対する忠誠が限定的であり」、「自らの影響力を保持するためには正統な民主的法に逆らうことに躊躇しない」何 ロールズの論駁ないし説得対象は明らかに、「自らの宗教の影響力や信者数が衰退することを受け容れず」、「憲法的 (( 組が課せられる。 ( イデンティティの分裂も強いられない。多元的環境における宗教者には、自らの信仰実践のための新たな自己理解の枠 ( 民は自らの包括的教説の妥協や修正、自らの宗教的自由の制限を迫られることはな」く、宗教的統合論者の懸念するア せよ、と訴えかけていると考えられる。「他者を平等かつ自由な存在と考える限り、リベラルな社会において宗教的市 り多くの宗教がその信仰を危機に晒させないためには、リーズナブルな政治的構想を (包括的信念の一部としてでも)是認 (( (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 292 ロールズは初期の論文「憲法上の自由と正義の概念」(一九六三年)の中で、宗教に関して次のように述べていた。 良心の平等な自由が、平等な自由という原初状態 ( original position )から承認される唯一の原理である。……これ )と両立する唯一の原理である。……正義の諸原理、および特に (第一の[正義] は共同性の感覚 ( sense of community 原理の特別な事例としての)良心の平等な自由は、宗教の概念を考慮すれば、共同性の感覚と相容れる、宗教的寛容 。 の問題における唯一可能な原理である ( CP ) 88 ( 293 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 彼はこの良心の自由としての「正義」を基準として、それに違反する何らかの宗教団体に政治権力が「介入」する余 )と呼ばれる領域にも、最も基本的な政治的正義 地を認める。教会や家族などの私的結社、「聖域権」( right of sanctuary )による規制が及ぶ。たとえば宗教的諸結社は、 「加入の選択の自由が成員に与え に関わる限り、公共秩序 ( public order ( CP ) 。 「再考」論文においても、「宗 られている限りにおいて、成員の望むように組織され、内部規律を持つことができる」 89 教上の信念や禁止命令が、信教の自由や良心の自由を含む憲法上の必須の諸自由と一致する限り、公共的理性はそれら ) 。また「公共的理性は、……市民の包括的教説が民主的政体と両立する限りにおいて、 を侵害しない」とされる( IPRR 803 )しない」( IPRR 807 ) 。これらが示唆するのは、上記の諸条件が充たされない場合、宗教 これらの教説に干渉 ( trespass は無制約の自由を持ちえず、正当に「侵害」、「干渉」されるということである。政治的リベラリズムは、民主的政体と 他者の自由を是認するよう各包括的宗教の自己改革を積極的に迫る、ということが公共的理性の含意である。 この要件が充たされる限りでは、教会の司教や枢機卿が選挙で選出されたり、その職務への報酬が「格差原理」によっ ) 。しかし、成熟した多元的な社会に晒されるうちに、 て規定されたりするよう外部から規制されることはない ( IPRR 789 ( 結果的に、たとえば「アメリカのカトリック司教団がヴァチカンよりも民主的に運営される」ようになるということも ありうる。(ロールズの宗教に関する記述は、それが宗教に外的、間接的に関わるものなのか、あるいは内的、直接に関わるものなの 。 か判然としない部分が多いものの) (( ロールズの原初状態においては、どの宗派の宗教的真理の解釈も他の市民に対する拘束力を持たず、各人が自ら宗教 ) 。「人々は平等な市民という地位において各宗派に加入するのであり、この観点 を解する平等な権利を有する ( TJ 217 。 から人々を互いに見る」のである ( CP ) 93 われわれは全ての市民に向けて理由を述べる時、人々を社会的に位置づけられ、あるいは他の形でルーツを持つ もの……として見ているわけではない。われわれは各人ないし各集団の利害に訴えかけているわけでもない。…… ) 。 むしろわれわれは人々を、道理を弁えかつ合理的な、自由かつ平等な市民……と見なしている ( IPRR 800 各人が属する共同体、信仰、人種などの与件を遮断した「原初状態」において、市民に期待される至高の原理は、平 等な諸人格の間の公正、正義としての自由である。ロールズがその市民宗教を理想化したギリシア・ローマ時代にそう ( ( であったように、人間は宗教や家族などの (前政治的、非政治的)属性の持ち主である前に、「第一義的に平等な市民」、 。 政治共同体の成員とされる ( IPRR 79) 1 正義の政治的構想が、あらゆる家族、教会等の自発的結社をオーバーライドす ( whole )な教説を奉ずる市民は、デモクラシーにおける partially comprehensive (( ) 。 145-146, 155 社会的協同を可能とするリーズナブルな諸条件を求め、 「非政治的価値」に対する「政治的価値」の優先性を認める ( PL )を公的に追求しない「部分的に包括的」( truth に)包括的な立場が、ロールズが民主社会における宗教に望むシヴィックなエートスの要請である。全体的真理 ( ( 、’ ‘slippage を’ 内包し、他者を自由かつ対等な存在と見、そ 以上述べた、他の意見に適応ないし妥協できる ‘looseness れ自体として「完全」な公共的理性の要件、フリースタンディングな正義の政治的構想を是認できる何らかの (部分的 ) 。 る上位原理であり、「正義の原理から免除される私的領域などない」とも彼は言う ( IPRR 791 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 294 3 宗教の公共的参加の可能性 ロールズは「適切に」解釈された宗教を論ずるにあたり、政治的のみならず宗教者にとって内在的な理由を (仮説的な 「それが神がわれわれの自由 がら)持ち出すことも忘れない。すなわち、宗教的市民は立憲的レジームを支持する上で、 )だから」として自らを納得させることもありうる ( IPRR 782 ) 。あるいは、 に課した制約 ( limits もし神が、(公正としての正義の概念により示された)正義を人々の間に求め、自由な社会における人々の信仰を望む ( 義的」 、「リベラル」 な解釈──たとえば復活や処女降誕など超自然的教義の否定──を要求しているわけではないだろう。 いずれにせよロールズは、あらゆる宗教は (リーズナブルな政治的構想を保持する限り)平等に政治参加するポテンシャ 295 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 )の承認は間違いなく認めら ならば、宗教的義務は絶対的な性質を持つものだとしても、平等な自由 ( equal liberty )からも れるだろう。このようにして、正義から導出される良心の自由の擁護は、神学的根拠 ( theological grounds 。 支持されうる ( CP ) 87 このような「神の意図」に引照した説明が、ロールズの理論にとって非本質的、付随的なものに留まるのか、あるい は自らの宗教は決して妥協の余地を含まないと信ずる宗教者へのより真摯な説得なのかは不明である。ただし彼は「再 ( 考」論文において、イスラムのシャリア解釈史、戦後米国のリベラル・カトリック神学者J・C・マレー等に言及しつつ、 宗教者自身が内発的に立憲デモクラシー、寛容の原理を承認できる神学的論理を評価している。ロールズが既存の宗教 ( い。第二節で述べたように、彼は主意主義的教義に反対する理性主義的な神理解に近づいていた。ただし、「リベラル ( 「理性的信仰」( reasonable faith )が彼の志向に近いものと言えなくもな 件を包摂した「可謬的宗教」、ないし (カント的) 、そうした近代的条 的正統を放棄しつつも、何らかの宗教的心情を保持していたならば (ハーバーマスやネーゲルの理解) (( )に彼が適理性 ( reasonableness )を求める際、それが必ずしも教義上の「合理主 ではないかもしれない」宗教 ( IPRR 807 (( ( 0 0 0 0 0 ルを持ち、民主的社会に包摂されうることを、自律的な正義の政治的領域を守りつつ説得しようとしている。ロールズ ( )な参加ではない」とする。ウォルターストーフら宗教的統合論者の議論に戻れば、ロールズは、包括的世 unrestricted )に参加できるが、それは決して無制約 を敷衍するドンブロフスキーは、「宗教者は政治的討議と意思決定に完全 ( full ( ( (( ( )とは異なり、宗教のみならず非宗教的、世俗的な教説も規制すると言うが、聖典や神の意志の解釈に基づき他 reason ( ( secular 感じるのは必ずしも不当ではない──むしろ当然の負荷──とも言える。ロールズは、公共的理性は「世俗的理性」 ( そのために、多元主義的な環境、異質な他者との妥協や協調に慣れていないある種の宗教が、特に不満、不公平感を で保証するための前提である。 公正な社会的協同の条件、リーズナブルな正義の政治的価値の是認が、自らの善き生と信仰の探求をより良く社会の中 て統御しようとする立場が、多元的社会ではもはや存立しえないことを警告し、新たな生き方を促しているとも言える。 。そのことは同時に、政治生活を含めた自らの生をすべて宗教によっ 論は、宗教者の無条件のフリースピーチの要求を排除する) 対他関係を対話を通じてマネージしようとする、より高次の自由を宗教に求めている。(したがってロールズの公共的理性 ない「自由」は、決して宗教に認めないだろう。自らの立場を相手にとって受容可能な結論に一致させるよう自己刷新し、 界観の共有を他人に求める「自由」、万人に理解可能な公共的言語で語らないことによって他者の人格の平等性を認め (( ( 実施されることをリベラル派が望むべき、極めて重要かつ正当な政治的課題である。 ( ──少なくとも、全ての宗教を共通の政治的価値と徳の是認へと促すという意味において──は、何らかの方法で )を創出すること 宗教的共同体もその文化の重要な一部をなす。……何らかの宗教的同質性 ( religious homogeneity )のシヴィック・カルチャーを必要とし、 「正しい種類」の 近代リベラルデモクラシーは正しい種類 ( right sort 治的リベラリズムを発展させるマシードによれば、 者の改宗、万人の救済を志向する啓示的諸宗教が、より重いハンディを負わされることは否めない。ロールズに倣い政 (( (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 296 マシードの理解によれば、政治的リベラリズムは厳密な意味ですべての価値に対して寛容、中立的ではありえず、自 ( ( 由、繁栄、平和といった価値を基準に人々に批判的思考と自律を求め、ある種の生活様式を公的に推進する。いわゆる ‘transformative liberalismの ’ 構想である。たとえば原理主義者やアーミッシュ等のセクトに対しては、その宗教的アイ 判決、一九八七年の Mozert v. Hawkins 判決で問題と デンティティの一元的な適用を認めず、(一九七二年の Wisconsin v. Yoder なったように)その子供を公教育という多元的環境に晒させることで批判的思考、リベラルな徳を養わせるべきと考える。 政治的リベラリズムは宗教的教義の真理性には関わらないが、それが公共社会、他者関係に関わる限りにおいて宗教を ( ( 制限できる。それは宗教者に、自由で多元的な社会に生きるための「代償」を教え、包括的教説を脇に置き、公共的理 ( 性のテストに適う事柄にフォーカスさせるための「取引」(バーゲン)を提起する。それによって、マシードによれば、「政 ( 治的リベラリズムは道徳的絶対性を求める闘争を拡散させる」との目的を完遂できる。 ( 教会や聖典の権威を奉じつつも立憲的民主政体を是認し、公共的理性と調和することができる、というものである。リ ( けば」、 「第二ヴァチカン公会議以降のカトリシズム、そしてプロテスタンティズム、ユダヤ教、イスラム教の多く」は、 ただしロールズは、こうした理解ほど宗教に対して制約的たることを意図していな い。彼の認識は、「原理主義を除 (( (( 参画の可能性は排除されない。万人の合意を期待しえない宗教的次元での説得──それは究極的には改宗に結びつきか 性間の結婚の観念──の擁護者、同性婚反対者、また福音書を根拠に社会経済政策を唱える人々にも、必ずしも政治的 さらに、中絶権に反対するカトリック、何らかの宗教的伝統を反映しているかもしれない諸制度──一夫一妻制や異 ロールズの政治的議論の基底としての歴史認識にある。 ク教会、また公民権運動のようにリベラルで公正な社会の構築を目指した黒人教会などプロテスタント諸派の存在が、 の発展史は不可欠だった。すなわち、二〇世紀後半に信教の自由、人権の原理を認め「現代的改革」を果たしたカトリッ ベラリズムの「歴史的理解」に傾斜した後期ロールズにとって、宗教戦争以後近代社会に適応してきた欧米キリスト教 (( 0 ) 、 intelligible/accessible ねない──を排除し、「社会の公共利益」の観点から適切な政治的理由を提供する限りにおいてである ( IPRR 786, 794, 0 ) 。公共的理性では、実際に万人が同意しているか否かではなく、万人にとって理解可能 ( 798-799 297 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 (( 0 0 ( のである。 )とトクヴィルを こうした「宗教」理解の下で、ロールズは「宗教とデモクラシーの間に衝突はない」( IPRR 803-804 持ち出して主張することができる。 国家と教会の分離の理由は、特にそれが宗教を国家から守り、国家を宗教から守ることにある。……国家と教会 )を保護するためにあると考えるのも大きな間違いである。もちろん の分離が、第一に世俗的文化 ( secular culture それは世俗的文化を保護しているが、同じくらい全ての宗教を保護しているのである。……信仰を持つ市民の中に は、国家と教会の分離は宗教に対して敵対的である……とみなす者もいた。しかし彼らはそうすることで、この国 )の源泉を捉え損ね、トクヴィルが言うように、政治権力上の一時的な利 における宗教の力強さ ( strength of religion ) 。 益と引き替えに、それを危機に晒そうとしていると私には思われる ( IPRR 795-797 国家と教会が分離され、宗教的でなく公共的理性の支配する政治文化の中でこそ、宗教は外的圧力や強制の恐れなく、 自由な社会参加を享受できる。政治的リベラリズムは、多様な宗教、哲学、道徳観の競合を前提に人々の自由な信仰、 道徳的生の追求を可能とする──まさに「全ての宗教を保護する」──ための、社会的協同の構想だった。政治的な構 想は包括的とは見なされず、限定的な範囲にのみ関わるもので、諸個人の最も深い宗教的、倫理的な価値は包括的教説 のために取っておかれる。これが『正義論』以降のロールズがいたった認識であり、哲学的リベラルの批判する「後退」、 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 298 ( 共有可能 ( sharable )なものと「期待」しうる政治的理由であるかが問われる。 ( 込みは克服されるかもしれない。競合し合う多くの、特に伝統的な宗教や教派に属する市民が、他者の立場との交換可 ( 化を試みてみるべきだし、十分それは可能であると主張する。僅かな想像力の発揮で、宗教者の公共的理性に対する尻 ドンブロフスキーは、たとえば宗教をベースに人種差別の根絶を訴える市民運動家は、宗教的信念以外の公共的正当 (( 能性を想起して「理由」を提示し合い、民主的に正当化された法に誠実に従うような政治文化は決して不可能ではない (( ( ( 「妥協」である。そしてまた、「啓蒙主義的リベラリズムが [価値の点から]攻撃し」、ロールズ自身も青年期に喪失した「正 )が、リベラルな公共文化にとって「保護に値する宗教」たりうるかは、宗教者の真摯な政 統的キリスト教」( IPRR 804 治的および道徳的応答にかかっている。 五 おわりに 本稿は、民主的社会における宗教のあり方に関する、政治的リベラル派からの一つの構想を述べ (当然非リベラル派か 、宗教側が建設的に関与できる諸論点を探ってきた。ただし本稿の意図はロールズの擁護ではなく、 らの構想もありうる) 彼の宗教理解、およびその政治理論の宗教へのインプリケーションを可能な限り抽出することである。本節では最後に、 これらに関する幾つかの限界、不足点を指摘することで、今後の課題を示しておきたい。 第一に、ロールズの個人的経験にも由来する「宗教」理解──すなわち、超越的な神への信仰に基づく政治的主張は ( ( 潜在的な危険性を持ち、諸信仰者は互いに宥和不可能なまでに抗争しているとの理解──は、そもそも一面的であり、 カリカチュアであるとの批判がある。ロールズは宗教的理由の支配を不寛容、暴力の温床、政治的分裂要因としたが、ウォ ( (( ロールズとの建設的対話を実践してきたハーバーマスは、宗教的市民が世俗的知識や近代科学に適応するのみならず、 構成されることはなかったかもしれない。 の内在的推進者たりうる可能性が適切に評価されていれば、ロールズの政治的戦略は、これほど宗教に対して制約的に )を充たしうる事例である。しかし宗教自身が正義、自由、平和 が慎重に認めた公共的理性の包摂的見解 ( inclusive view 教環境団体は「神の創造物の保護」への信念に基づいて地球環境保護の必要性を唱える。もとよりこれらは、ロールズ ( の正義」への信念に基づいて、アフリカ系アメリカ人の不平等の是正策をケネディ大統領に公開書簡で訴え、キリスト ルターストーフやワイスマンら宗教論者は以下の反証事例を提起する。すなわち、ユダヤ教神学者A・J・ヘシェルは「神 (( 世俗的市民もまた宗教の知的ポテンシャルを正当に評価することによる、「相補的学習プロセス」に基づく新たな公共 299 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 (( ( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 300 ( 的討議空間を近年唱えている。彼が、ヨーロッパ文明の理性的諸価値の源泉、定礎者としてのユダヤ=キリスト教的伝 ( (( 教の亀裂の修復を実現できるか否かは、受け止め側──すなわち「アメリカ人の九〇/九五パーセントをなす」宗教者 生み、逆に原理主義を助長しかねないと警告する。ロールズが、その訴え通りにデモクラシーと宗教の両立、世俗と宗 ( れる。M・サンデルは、宗教等の価値からの中立性を過度に志向する (世俗的)政治空間は、道徳的枯渇と精神的真空を される点、またその制約的な要件が、宗教に主流社会に対するルサンチマンを植え付けかねないという逆効果も指摘さ 第三に、ロールズの公共的理性論を (キリスト教に限っても)宗教論者の全てが受け入れてはおらず、萎縮効果が懸念 れる。 厳格な線引きの下で、ある発言が「アンリーズナブル」であると公共空間の中で断罪される道徳的スティグマも懸念さ 方で根深い。非理性的・非言語的コミュニケーションへの考慮も少なく、「リーズナブル」と「アンリーズナブル」の についての考慮は中心的ではない。ムスリムが西洋キリスト教的な聖俗の分離の思考に適応できるかという問題は、一 の枠組では、自らの不正義状況の改善を求めてキリスト教以外のマイノリティ宗教がどのように公共的に実践すべきか また、カトリックやプロテスタントなど既存の「正統的キリスト教」との対決を強く意識したと考えられるロールズ 。 宗教の公共空間への侵入を僅かでも許せば、公共政策の正当性に転用されると危惧するであろうが) スペクト」、「シティズンシップ」の要件を構想する論者 (J・スタウトやP・ワイスマン)もいる。(ロールズはなお、道徳や ) 、他者への「リ に過ぎ、創造的コンフリクトを恐れている。ロールズよりは厳格でない審議上の「相互性」( reciprocity れば、ロールズは互いの信念に関する率直な討議から生じうる何らかの共感、合意、立場の変容可能性に対して悲観的 コストが重いとの指摘もある。コノリーのような「深い多元主義者」あるいは闘技的ラディカル・デモクラットからす きとする戦略もありうる。 ロールズの議論では、全宗教者が公共的理性の規範に「教化」、「馴化」されるまでにかかる 宗教的、哲学的、道徳的立場をオープンな討議空間へと包摂することによって、政治社会の安定性を長期的に創出すべ 第二に、深い多元性が存在するからこそ、公共圏を各包括的教説から中立的、純粋無垢なものとせず、むしろ多様な 統という、ロールズとは異なる宗教理解を前提としていることは明らかである。 (( ( ( ──にも依存する。ここでは詳論できないが、ロールズは中絶に関する公共的理性の解釈例を当初示したものの、誤解 ) 。反中絶派というアメリカ政 を避けるために一九九七年の論文でこれに留保を付した ( PL 243, note 32; IPRR 798, note 80 治における実際の宗教勢力を十分説得できるか否かも、公共的理性の成功に関する一つの試金石となろう。 いずれにせよロールズは、宗教の持つ政治的影響──ネガティブであれポジティブであれ──に対してセンシティブ であり続けたリベラルな哲学者だった。そして二〇世紀の全体主義と世界大戦を経験した彼は、宗教戦争を経験したホッ ブズ、ロック以来の遺産に付加し、リベラリズムの新たな正当性理解を示した。すなわち、国家と教会の制度的分離の みならず、宗教的理由と公共的理由の言説上の分離の上に立ち、信教の自由の保証という憲法理念をより高いレベルで )を示した ( PL 217 ) 。それはあくまで憲法や法 実践するための、政治的討議と意思決定における道徳的義務 ( moral duty 律には書き込まれることはない非制度的な、民主社会の市民が内発的に実践すべき公共的徳として解されよう。それが 成就させるのは、ロールズの考える合衆国憲法修正第一条──国教禁止条項と宗教の自由活動条項──の理想、すなわ ) 。 ち宗教的多様性の自由な開花である ( IPRR 796-797 ) , pp. 765-807 (訳出の際には中山 1997 本文中におけるロールズの著作からの引用については、以下に示す略記とともに頁数を記した。 TJ: A Theory of Justice, Harvard University Press, 1971. PL: Political Liberalism, Columbia University Press, 1993. IPRR: ‘The Idea of Public Reason Revisited’, The University of Chicago Law Review, 64:( 3 竜一訳『万民の法』所収、岩波書店、二〇〇六年を参考にした) . CP: Collected Papers, ed. by Samuel Freeman, Harvard University Press, 1999. LHMP: Lectures on the History of Moral Philosophy, ed. by Barbara Herman, Harvard University Press, 2000. BI: A Brief Inquiry into the Meaning of Sin and Faith: with “On My Religion”, ed. by Thomas Nagel, Harvard University Press, 2009. 301 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 (( 倫理が、宗教と内在的に結びついた「道徳的」理論に対抗できる十分な実質を備えているかという問題に集中した。最終的に彼は、 (1)なおハーバーマスも次のように述べている。「ロールズは『正義論』出版以後の二〇年間、われわれの共通の実践理性に基づく 正義のリベラルな構想は、宗教的および形而上学的コンテクストの中で支持されることによって初めて、政治共同体の中で実現 すると結論づけた」( Jürgen Habermas, ‘The ‘Good Life’- A ‘Detestable Phrase’: The Significance of the Young Rawls’s Religious )。 Ethics for His Political Theory’, European Journal of Philosophy, 18: 3, 2010, p. 450 (2) Daniel A. Dombrowski, Rawls and Religion: The Case for Political Liberalism, State University of New York Press, 2001, p. Charles Taylor, A Secular Age, Harvard University Press, 2007; William E. Connolly, Why I Am Not a Secularist, University vii. Daniel A. Dombrowski, Rawlsian Explorations in Religion and Applied Philosophy, Pennsylvania State University Press, 2011 も参照。 (3) ユルゲン・ハーバーマス、ヨーゼフ・ラッツィンガー『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』三島憲一訳、 of Minnesota Press, 1999. 岩波書店、二〇〇七年。 (4)ロールズおよびハーバーマスに即し、公共空間における宗教的言説の位置について簡潔に整理したものとして、齋藤純一「憲 法と公共性──ロールズとハーバーマスの政治的統合をめぐって」杉田敦編『岩波講座 憲法三 ネーションと市民』岩波書店、 二〇〇七年、特に一二〇─一二二頁。 (5)本稿は「包括的教説」について、(もとより非宗教的・世俗的形態も含むが)主にその宗教的形態を念頭に置いて読解すること とする。 (6)没後発見され、二〇〇九年にハーバード大学出版局から公刊されたこの論文について、ロールズは学者となった以後一度も言 及しておらず、正義理論、政治的リベラリズムの構想へとつながっていく彼の学術論文の一部として捉えるべきか否かという議論 は存在する。 神島裕子訳『正義論』改訂版、紀伊國屋書店、二〇一〇年、七八三頁。 (7)川本隆史氏は「神の正義(裁き)」から「社会の正義(まともさ)」への転換、と位置づける。「訳者あとがき」川本・福間聡・ John Rawls, The Law of Peoples: With “The Idea of Public Reason Revisited”, Harvard University Press, 1999, p. 22. (9)ロールズは寛容の観念を、制度化された信教の自由や権利としての「純粋に政治的」な寛容と、包括的教説の内側から表現さ (8) 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 302 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( れた非政治的な寛容とに二分する( IPRR 783 )。 )アウディによれば、「強制に関わる問題において、宗教的考慮が世俗的考慮によって適切にバランスされねば、特別な問題が生 ずる。つまり社会的統制を求める神々の闘争( )である。こうした非妥協的な絶対的主張は容易に死と破壊を帰結す clash of Gods る」( Robert Audi, Religious Commitment and Secular Reason, Cambridge University Press, 2000, p. 103 )。 ) ‘“ William T. Cavanaugh, A Fire Strong Enough to Consume the House”: The Wars of Religion and the Rise of the State’, ) , pp. 397-420; Ronald S. Beiner, Civil Religion: A Dialogue in the History of Political Philosophy, Modern Theology, 11:( 4 1995 Habermas, ‘The ‘Good Life’- Cambridge University Press, 2011, pp. 283ff. ) Eric Gregory, ‘Before the Original Position: The Neo-Orthodox Theology of the Young John Rawls’, Journal of Religious ) , p. 196. Ethics, 35:( 2 2007 )ロールズ自身の意図は別にして、この理解は、彼の道徳的関心の一貫性を示す点では意義がある。 John Rawls, Lectures on A ‘Detestable Phrase’’, pp. 443-454. )国教会主教であるバトラーに関する講義に示されたロールズの道徳的関心──正義の原理を是認する動機としての人間の道 徳 的 心 理、 利 己 主 義 へ の 反 駁、 反 原 子 論 的 前 提 な ど ── に も、 こ の こ と は 反 映 さ れ て い る と 言 え る。 (『ロールズ政治 the History of Political Philosophy, ed. by Samuel Freeman, Belknap Press of Harvard University Press, 2007 哲学史講義Ⅱ』齋藤純一ほか訳、岩波書店、二〇一一年) ま . たロールズの宗教的信念と道徳的動機との関連については、 Samuel Freeman, Rawls, Routledge, 2007, pp. 8-12. ) Thomas Nagel, Concealment and Exposure: and Other Essays, Oxford University Press, 2002, p. 76. )ではなく「社会的」( private )な理由とする( social PL ) Dombrowski, Rawlsian Explorations, pp. 122-123. )なお公共的理由の構成要素は、「常識( common sense )に基づき現在受け入れられている一般的な信念や推論」、「反論の余地 のない科学的知見」を含む( PL 224 )。 )なおロールズは、包括的教説に基づく「非公共的理由」を「私的」( )を充たしていると考えていたかは分からない。しか proviso )。 220 )「再考」論文では、奴隷制反対論者や公民権運動参加者は、基本的な憲法的諸価値と正義の政治的構想を支持するものとして、 当然正当化される。「奴隷制廃止論者やキングが、自らが付帯条件( 303 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 10 11 12 13 14 17 16 15 18 19 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( John Rawls, Political Liberalism, paperback ed., Columbia University Press, 1996, pp. lii-liii. 0 ) Rawls, Political Liberalism, paperback ed., p. li. 0 0 0 0 0 0 0 0 しどちらにせよ、彼らはそうできたに違いない( )。そして彼らが公共的理性の観念を知り、受け入れていたなら、そ could have うしていただろう( would have )」( IPRR 785-786, note ) 。これが、実際にリンカーンやキングが公共的理性を充たそうとして 54 いたか否かの意図を無視した遡及的、後付け解釈ではないかとの問題にはここでは立ち入らない。 ) ) Rawls, Political Liberalism, paperback ed., p. 389. ただし、憲法と正義の基本原理に関わらない他の社会的・経済的問題に関し ては、「この政治的構想とその原理が示す諸価値を超えて、非政治的価値を導入することがしばしばリーズナブルである」とされ る( PL 230 )。 )日本ではコミュニタリアンに比して広く知られていない宗教的なロールズ批判者には、ポール・ワイスマン、クリストファー・ ) Robert Audi and Nicholas Wolterstorff, Religion in the Public Sphere, Rowman & Littlefield, 1997, p. 105. ( eds. ) , Religious Voices in Public Places, Oxford University Press, Linda Hogan, ‘Introduction’, in Nigel Biggar and Hogan エバール、ジェフリー・スタウト、マイケル・ペリー、スティーヴン・カーター、スタンフォード・レヴィンソンらがいる。 ) 2009, pp. 13-14. )これに関する日本語論文として、木部尚志「信仰の論理と公共的理性の相克──ロールズの公共的理性論の批判的考察」『早稲 )ロールズは「再考」論文では多くの批判に応答し、主にカトリック穏健派やその「共通善」思想にも一定の理解を示している。 田政治経済学雑誌』三八一/三八二号、二〇一一年、四二─五七頁。 )もとよりこのような宗教における内面的教義と外面的行動が、それほど容易に峻別できるかという問題は残る。 ) , p. 72. ただし後 1998 ) L. B. Solum, ‘Constructing an Ideal of Public Reason’, San Diego Law Review, 30:(4 1993 ) , p. 752. ) J. Judd Owen, Religion and the Demise of Liberal Rationalism: The Foundational Crisis of the Separation of Church and State, The University of Chicago Press, 2001, pp. 97-128. ( ) Stephen Macedo, ‘Transformative Constitutionalism and the Case of Religion’, Political Theory, 26:( 1 述するように、本稿はロールズとマシードの政治的リベラリズム観を同一視しているわけではない。 ( 22 21 20 23 25 24 26 29 28 27 30 ) Mark Jensen, ‘The Integralist Objection to Political Liberalism’, Social Theory & Practice, 31:(2 2005 ) , pp. 169-170. マシード の 理 解 に よ れ ば、 適 切 な 政 治 的 価 値 を 提 起 し さ え す れ ば、 原 理 主 義 者 も 公 共 社 会 か ら 排 除 さ れ な い( 自 ら の 原 理 を 貫 徹 し え な 32 31 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 304 ( ( ( ( ( ( Stephen Macedo, ‘Liberal Civic Education and Religious Fundamentalism: The Case of God v. John Rawls?’, い 宗 教 は、 厳 密 に は「 原 理 」 主 義 と は 言 え な い も の の )。 た だ し ロ ー ル ズ は 後 述 の よ う に、 原 理( 根 本 ) 主 義 者 の 政 治 的 包 摂 を 懐疑的に見ていた。 ) , pp. 479-480. Ethics, 105:( 3 1995 ) Dombrowski, Rawls and Religion, p. 112. )ロールズはギリシアの宗教を、聖職者階級が存在せず、不死や永遠の救済といった事柄が重視されず、人々がポリスの信頼に 足る善き市民であることを第一に問題とする「市民的宗教」( civic religion )として評価する( PL xxiii )。 )なお、こうした可謬性をその内に取り込み、「部分的に包括的」と言われる教説は、厳密には「包括的教説」とは言えないであ ろう。したがって可謬性と多元性、自己批判的理性( self-critical rationality )の要件により特徴づけられる、ペリーの提示する「宗 教」は、公共的理性の要件により排除される「宗教」には該当しない。 Michael J. Perry, Love and Power: The Role of Religion and Morality in American Politics, Oxford University Press, 1991. )第二ヴァチカン公会議における「信教の自由に関する教令」 (一九六五年)を起草したマレーは、以下のように述べた。「カトリッ クが少数派である場合には教会の自由を、カトリックが多数派の場合には教会の特権と他宗教への不寛容を唱えるような二枚舌に Dombrowski, Rawls and Religion, pp. 159-160. よって、教会が世俗世界と関わるようなことはもはやなくなった」( IPRR 796, note ) 。 75 )ロールズ的公共理性の支配する社会に最も適合的な宗教の形態は、政治的支配への願望を放棄し内面的事柄に集中する、神秘 Dombrowski, Rawls and Religion, p. 43. 主義的、「スピリチュアル」なそれではないかとの議論もある。 ) ) ローティはさらに、宗教者は信仰の自由が保証される「トレード」と Macedo, ‘The Case of God v. John Rawls?’, pp. 482, 496. ) Macedo, ‘Transformative Constitutionalism and the Case of Religion’, pp. 64-65. )こうした理解に関して、政治的リベラリズムは実は隠れた包括的リベラリズムではないのかと批判する宗教論者も存在する。 ありうる。 ランス型の政教分離(ライシテ)、すなわち公共空間との関係でより制約的な宗教理解に近づけているのではないか、との批判も ( ) ‘ ’ Jensen, The Integralist Objection to Political Liberalism , p. 169. ( )より宗教的教説に対して制約的な、「世俗的理由付け( )」と「世俗的動機( secular motivation )」の二要件を secular rationale 提示するアウディに対するロールズの両義的評価については、 IPRR 779-780, note 40. また、ロールズはアメリカの政教分離をフ ( ( ( 305 原田健二朗【ロールズの政治的リベラリズムと宗教】 34 33 35 36 37 40 39 38 43 42 41 ( ( ( ( ( ( ( ( ( して、宗教の私事化、宗教的言説の公的制約という「代償」を引き受けねばならないとの近代リベラリズム理解を示すが( Richard )、これにロールズが賛同するかは不明である。 Rorty, ‘Religion as Conversation-stopper’, Common Knowledge, 3: 1, 1999, pp. 1-6 )したがってロールズはマシードや他の政治的リベラル派の世俗的バイアスを否定する。 Veit Bader, Secularism or Democracy? Associational Governance of Religious Diversity, Amsterdam University Press, 2007, p. ) John Rawls, Political Liberalism, expanded ed., Columbia University Press, 2005, p. 438. ただしヴァチカン会議以前の伝統的カ トリックや、(自由主義的でない)福音派プロテスタントにとって両立が困難なのかとの疑問は残る。 ) 116. ) Dombrowski, Rawls and Religion, p. 123. )一九九九年の『万民の法』ではさらに、アメリカ国内やキリスト教にとどまらない、非リベラルな政教一致体制を含むグロー バルな宗教的多様性の問題を探究しようとした。 )ウォルドロンによる批判については、 Jeremy Waldron, God, Locke and Equality, Cambridge University Press, 2002, p. 20. ( eds. ) , Natural Law and Public Paul J. Weithman, ‘Citizenship and Public Reason’, in Robert P. George and Christopher Wolfe ) またベイナーによ Reason, Georgetown University Press, 2000, p. 158; Audi and Wolterstorff, Religion in the Public Sphere, p. 112. れば、米国オバマ大統領候補が二〇〇七年に「私の環境保護に対するコミットメントはイエス・キリストとの関係において形成さ れた」と宗教リーダーらとの会合で述べたことは、ロールズ的シティズンシップ義務の違反と解されよう。 Beiner, Civil Religion, p. 283. ) Jürgen Habermas, ‘Religion in the Public Sphere’, European Journal of Philosophy, 14:(1 2006 ) , pp. 1-25. )「原理主義はリベラルが踏み込むのを恐れるところに飛び込んでくる」( Michael Sandel, Public Philosophy: Essays in Morality Sandel, Public Philosophy, pp. 226ff. )。 and Politics, Harvard University Press, 2005, p. 246 )中絶に関するいかなる政治的判断も、何らかの道徳的考慮を棚上げできないとして政治的リベラリズムを批判するサンデルの 議論は、 記して感謝の意を表したい。 *本稿の執筆に際し大澤津氏より有益なコメントをいただいた。また二人の匿名レフェリーの方々からも貴重なコメントを頂戴した。 ( 45 44 46 48 47 50 49 52 51 53 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 306 [政治思想学会研究奨励賞受賞論文] なぜ『パトリアーカ』は 出版されなかったのか ──ロバート・フィルマーの思想的「変遷」と「一貫性」 一 はじめに 古田拓也 ロバート・フィルマー (一五八八─一六五三)の『パトリアーカ』は、彼の死後一六八〇年に初めて出版された。その 序文として使われたのは、彼の友人ピーター・ヘイリンの著作の抜粋であった。それによれば、 もし彼がパトリアーカと呼ばれる優れた論考が公になることを望んだのであれば、政治を教える偉大な人々に、他 (1) のあらゆるものが不必要になるほどの満足を与えることができたであろう。しかし彼はこの優れた小論を出版し、 国民を喜ばせるのは彼の生きている間にはふさわしくないと考えたのであった。 では、なぜフィルマーは生前『パトリアーカ』の出版を「ふさわしくない」と考えたのだろうか。ヘイリンはその理由 を記してはいない。だが近年興味深い指摘がなされている。実はフィルマーは、一六三二年以前に『パトリアーカ』の (2) 出版許可を求めたことがあったのである。これを許可するか否かの決定はチャールズ一世に委ねられたが、結局出版は 『パトリアーカ』の出版を「ふさわしくない」と考えたのは、フィルマー 許可されなかった。これは決定的な回答に思える。 307 ではなく、チャールズ一世だったのである。しかし、それではなぜ内乱後に再度そのような試みを行わなかったのか。 言葉を換えて言えば、なぜ内乱後に『パトリアーカ』は出版されなかったのか。 (3) 本稿は、フィルマー思想の「一貫性」と「変遷」を同時にとらえることを通じて、この問いに対して一つの思想史的 (4) 回答を与えることを目的としている。これまでの研究は、彼の最後の政治パンフレット『服従指針』を除いて、フィルマー (5) の思想は「基本的な点では」変化していない、つまり「一貫」したものであったという前提をとってきた。これが摂理 主義的な王権神授説とアダムの権利──フィルマーの権力正当化論と権力の特質の理解──を指して言われているので あれば、それ自体は間違っていない。だがそれだけに注目するなら、『パトリアーカ』が内乱後出版されなかった決定 的な理由を捉えそこなうことになる。 これまでの研究で見落とされてきたのは、ある次元での一貫性の保持が、別の次元での非一貫性を生み出す酵母とも なりうるという事実である。この「非一貫性」が生じた原因を、政治状況とのかかわりの中で分析することで、『パト リアーカ』が出版されなかった理由をはじめて理解することができる。逆説的な表現になるが、フィルマーは確かにあ る次元では「一貫」していたが、その「一貫性」を保持していたがために、政治的状況の変化に伴って、 『パトリアーカ』 は出版されなかったのである。逆に、内乱後に『パトリアーカ』での意図を正確に伝えようとすれば、その著作内容を 変えざるを得なかった。その結果、別の次元で「非一貫性」が生じたのである。 よって、フィルマーの「変遷」を理解するためには、テクストだけに注目するのではなく、それぞれの著作が出版さ れたコンテクスト、『パトリアーカ』が出版されていたとしたらそこで読まれたであろうコンテクストにも注意を払う 0 0 0 0 必要がある。『パトリアーカ』でのフィルマーの理論は、イングランドの相対的に安定した王制の存在を前提として組 み立てられている。しかしその後の内乱の発生によってまず安定が失われ、共和政府の成立によって王制が失われてし まった。このような政治史上の変転は、彼が前提としていたものが一つずつ失われてゆく過程であった。フィルマーが 始めから終わりまでイングランドの絶対王制を擁護しようとしていたのだとしても、『パトリアーカ』で前提としてい たものの喪失が、別の時期にはこの著作にまったく別の意味を付与することになってしまう。だからこそ、この過程に 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 308 対応して、『パトリアーカ』ではなく、一六四八年に『アナーキー』が、さらに王の処刑後一六五二年に『アリストテ レス論考』が出版されたのである。 以下では、まず内乱前の『パトリアーカ』がどのように読まれる可能性があったのかをアルジャーノン・シドニーと エドマンド・ブーンのパンフレットによって明らかにする。次にそのような複数の解釈を可能にする『パトリアーカ』 の理論構造──これは同時に後の「変遷」を規定することになった王権神授説とアダムの権利と深く関わっている── を議論する。その後、一六四八年に出版された『アナーキー』、一六五二年に出版された『アリストテレス論考』を主 に取り上げつつ、そこで述べられる「権力の制限」と「政体の種類」についての見解の「変遷」に注目することで、以 上概略として述べてきたことを具体的に検討していきたい。それによって、なぜ『パトリアーカ』は出版されなかった のかという問いに一つの思想史的回答を与えることができるだろう。 二 シドニーとブーン 一六八三年十二月七日、この日アルジャーノン・シドニーは処刑台の上にいた。「ライ・ハウス陰謀事件」との関わ りが疑われ、大逆罪が言い渡されたのである。慣習に則って彼に最後の演説の機会が与えられた。演説は無実の主張か (6) ら始まった。曰く、私が陰謀に関わったという証拠は何一つない。あるとすれば「最近、サー・ロバート・フィルマー の手による、『パトリアーカ』と題された書物を目にする機会をえた」という一文からはじまる『統治論』の草稿が、 (7) 私のクローゼットから見つかったと言われていることだけである。だが、これとて私の手になるものだという証拠はまっ たくない。 シドニーは『統治論』の著者が自分であることを最後まで明示的には認めなかった。しかし、「私がそれを書いたと みなされたとしても、さして事情が変わるわけではない」。フィルマーの政治論はまったく馬鹿げており、知性ある人 間は皆これを「人民にとってだけでなく、為政者にも危険である」とみなしている。シドニーは、この最後の演説にお 309 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 (8) いて、今一度フィルマーを批判し、自身の思想を公表するつもりでいた。そうである以上、もはや著者が誰かなどは取 るに足らぬ問題なのである。 シドニーによれば、フィルマーが『パトリアーカ』で言っているのは、次のようなことである。 人は神と自然の法に由来する必然の下に 〔生まれながらの自由をもたず〕生まれ、宣誓にもいかなる法にも縛られない 絶対的な王の統治に服従せねばならぬ。この権力をもつ者は、神の創造によってその地位に就いたのか、あるいは (9) 選挙によって、相続によって、簒奪またはその他の手段によって就いたのかを問わず、その 〔統治の〕権利を有して ( いる。そして、彼の意志には誰であれ逆らってはならず、臣民の身体と財産はその意志の下に置かれねばならぬ(〔 〕 。 内は引用者による補足、以下同様) ( このシドニーの演説は彼の処刑後出版された。するとたちまち評判となり、すぐさま三度版を重ねた。だが引き起こし ( フィルマー擁護』が著され、出版されることとなった。ブーンはこのパンフレットの中で、シドニーの主張を一つ一つ ( たのは無論賞賛だけではない。翌年には批判として、「王党派」であるエドマンド・ブーンによって『サー・ロバート・ (( ( シドニーは、「神はそれぞれの国民に、それぞれの国民が最善だと思う統治体を作り上げる自由を残した」と主張す る。しかるにフィルマーは、絶対王政だけが神の意志に適ったものであり、それ以外の政体は神の意志に反すると根拠 ( 取り上げ、反論を加えてゆく。まずは、「政体の種類」に関する両者の対照的な解釈を取り上げよう。 (( ない。シドニーの批判は、フィルマーが君主制を好んでいるという事実から、理性ではなく「感情によって引き出され や自然の法に反しているとして批判した」箇所は、シドニーがどれほど非難しようとも、フィルマーの中には見当たら どの政体よりも好んでいる。最も安全で便宜にかなったものだとも考えている。だが、「彼が貴族制や民主制を神の法 みなされるべきだが、だからといってその他の形態が不正だということにはならない」。確かにフィルマーは君主制を もなく論じている、とシドニーは批判する。ブーンはこれに反論した。フィルマーにとって、「君主制は最善のものと (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 310 ( ( た結論」に過ぎない。 さらに両者の争点は「権力の制限」の解釈にも及ぶ。シドニーにとって、フィルマーが擁護しているのは、いかなる 法にも宣誓にも縛られない王である。しかしいかなる法にも縛られない王とは暴君と何ら変わりはない。つまりフィル マーの理論とは、暴君を擁護する議論以外の何物でもないのである。これもまたブーンの反論の対象となる。確かに、フィ ルマーの君主は臣民からの処罰を受けることはないかもしれない。だが臣民にとって「処罰だけが唯一の動機であると き、服従は弱く、不規則かつ不安定で、大抵の場合長続きしない」ということからも分かる通り、処罰だけが自然法や ( ( その他の法を守る動機となるわけではない。フィルマーの君主も「自身の利益、神への恐れ、そして良心」によって縛 られており、自然法や宣誓に背いても構わないというわけではない。フィルマーもまた、これらによる君主の権力の制 0 0 0 0 0 0 0 ( (( ( 版している。彼にとって、フィルマーとは『パトリアーカ』の著者であり、それだけの著者であった。 ( は翌一六八五年、次はジェームズ・ティレルへの反論として、かなり長い序文を付して、『パトリアーカ』の新版を出 この大仰なフィルマー賛美から読み取れるのは、ブーンが『パトリアーカ』のみを考察対象としていることである。彼 。 以下同様) 糸が張り巡らされており、読者は 〔彼の本を読む〕苦労が十分に報われたと感じることだろう (傍点原文イタリック、 ( たであろうほどには完全なものとなってはいない。だがこのあらゆる部分に、学識、真理、穏健さ、忠誠、慎慮の これは死後に出版された断片であり、かの学識ある紳士の最後の手が入っていないため完成しておらず、彼ができ 0 を直接読むことを勧め、次のように述べた。 このようにブーンはシドニーの解釈に対する批判を一通り終えた後、このパンフレットの末尾で、読者にフィルマー 限を認めており、暴君を認めているわけではないのだとブーンは主張する。 (( (( 同じことはシドニーにも言える。ロックやティレルが『パトリアーカ』だけではなく、フィルマーの様々な著作に言 311 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 (( 及し、批判を加えているのに対して、シドニーは文字通り『パトリアーカ』だけを論じている。彼の『統治論』のどこ を見ても、『パトリアーカ』以外を読んだ形跡はないし、処刑台演説においてもそうである。すると、同じ著作を読ん だにも関わらず、シドニーとブーンはまったく違ったフィルマー像を抱くに至ったということになる。なぜそんなこと になったのか。 三 『パトリアーカ』 私は両者の違いをどちらの解釈が正しかったのかという問題として議論するつもりはない。むしろ、どちらの解釈に もそれぞれ理があり、このことが『パトリアーカ』が出版されなかった理由の一つであると主張するために二人のパン フレットを取り上げたのである。『パトリアーカ』の理論構造を辿りつつそのことを示したいと思う。 まずはフィルマーの驚くべき言明を出発点にするのがよいだろう。フィルマーによれば、 世界中のあらゆる王国あるいはコモンウェルスにおいて、君主が人民の至高の父であるのか、単にその真の後継者 であるのか、あるいは簒奪によって王位についたのか、貴族や人民の選挙によって王位についたのか、それとは何 か別の方法によって王位についたのか、またコモンウェルスを統治しているのが少数者なのか、それとも群衆なの か、といったこととは無関係に、一人の内に、または多数者の内に、あるいは全員の内に存在しているのは、唯一 。 正しく自然な至高の父の権威なのである ( PA: ) 11 これまで歴史上には民主制もあっただろうし、貴族制もあっただろう。だがそこにもまた君主制と同じく、「至高の父 の権威」が存在していた。イングランドに限らずあらゆる政治共同体において、統治者がもっているのは、この至高の 父たるアダムの権利である。ブーンはこのような議論を念頭におきつつ、フィルマーは君主制だけが正当だと言ってい 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 312 るわけではないと主張したのである。 ならばブーンが正しかったのか。だがシドニーの解釈が間違っているとも言い切れない。確かにフィルマーはここで、 民主制でも貴族制でも、そこには至高の父の権利が存在していると述べている。しかしそれとは逆に、シドニーが批判 するように、フィルマーが王制以外は正当ではないと論じているように読める箇所は存在している。『パトリアーカ』 においても、統治形態もまた神が定めたものであると述べているのである。フィルマーはそれによって、人民が統治形 態を決する自由をもたないと主張しているのだが、これが神のアダムへの命令という文脈で論じられているため、シド 0 0 0 0 ( ( ( が考えるような反乱の誘導ではなく、単にこれまでの歴史的事実の記述と受け取られただろう。一六三二年以前に『パ (( トリアーカ』を書いていたフィルマーは、これが実践的に危険な言説であるとは考えなかったのである。 313 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 ニーがそれを絶対王政を指すものと読んだとしても不思議ではない。 加えて、シドニーが同時に批判していたのは、フィルマーが、この引用部の前半に見られるように、王位に就く道筋 として選挙、世襲、簒奪など、ほとんどあらゆる手段を認めてしまっていることである。王位に就くまでの道筋がどう ) 。だがこの主張を であろうと、君主は「普遍的な父という王の特権を神から受け取る」とフィルマーは考えた ( PA: 11 ( 押し進めてゆけば、論理的には、反乱もまた成功すれば正当であり、簒奪もまた神の祝福であると認めざるをえなくなる。 0 『パ 「王位を破壊することができる人々に、このような報酬までつけたならば、誰一人安全ではいられない」。だからこそ、 。 トリアーカ』は「人民にとってだけでなく、為政者にも危険」なのである (傍点引用者) ( していなかった。この時点でフィルマーは簒奪が実際に起こるとは想像すらしていなかった。たとえ簒奪でも選挙でも ( しかし、フィルマーが『パトリアーカ』を書いたとき、イングランドにおいて誰が君主であるべきかという問題は存在 「こんな説が受け入れられた日には、人々はこぞって王位の破壊に向かうだろう」と言ったのは正しかったかもしれない。 。確かに、シドニーが演説をしたとき、 的にもおそらく正しいだろう (名誉革命まで想像を広げると、さらに正しく思えてくる) このシドニーの指摘は理論的にも、そして空位期と王政復古、その後の排除法危機の後ということを考えれば、実践 (( よいと言ったとしても、王はチャールズ一世以外あり得ないという前提が共有されている限り、この原理も、シドニー (( ( しかも、王位への手段を問わない神による権力の正当化は、彼の政治理論に必要不可欠な要素でもある。『パトリアー ( ( ( カ』における彼の主たる論敵は、スアレスやベラルミーノといったいわゆるスコラ学派に属するカトリック思想家であっ (( ( 余地もなくなるだろう。 ( ことを証明できれば、アダム以外の人間は自由に生まれついてはいないことになり、政治権力に人民の同意が介在する たと理解すればよい。つまりアダムは父権と主権 (正確に言えば、父権=主権)をもち、「父であると同時に王」であった し、政治権力は父の権力と同じであると理解すればよい。アダムは父としての権力だけでなく、政治的権力も有してい ことになった。もし父の権力との関係において家族の成員は自由ではないとするなら、政治共同体も家族であると理解 このようなスアレスの議論は、逆にいかにすれば人民の自由を否定できるのかという手掛かりをフィルマーに与える (( (( 民は自由に生まれついたと主張することができた。 ( れたからである」。このように論じることで、スアレスは父の権利との関係では子の自由を否定しつつ、政治的には人 ( なら政治共同体は「アダムの創造や、彼の意志によって生まれたのではなく、そこに集まった人々の意志によって生ま ていたものの、家族が寄り集まることで生まれた政治共同体のなかでは、特別な権力をもっていないと主張した。なぜ )と政治的権力を区別した上で、アダムは家庭内では父として権力をもっ スアレスは家族の中の父の権力 ( patria potestas る種の権力をもっており、家族の中ではアダム以外の成員は彼の支配下にあり、自由ではなかったことを認める。だが だろうか。フィルマーの論敵、スアレスは人民の生来の自由をアダムにまで遡って論じていた。スアレスはアダムもあ ればよい。だが人類には長い歴史がある。どこまで遡ればよいだろうか。あるいは人はいつから自由ではなくなったの この危険な結論を避けるにはどうすればよいのか。フィルマーの答えは簡潔明瞭である。人民の生来の自由を否定す 。 られるという「害多く危険な結論」である ( PA:) 6 ころは人民の同意による統治であり、同意による統治の行き着くところは、あらゆる統治が群衆の恣意的判断にゆだね る。フィルマーは、この人民の生まれながらの自由という観念が政治的に危険であると考えた。この観念の行き着くと た。彼らがカトリックだから論敵になったわけではない。彼らが人民は生まれながらに自由であると主張したからであ (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 314 もちろん、アダムが「父であると同時に王」であると言うだけでは不十分である。それだけではアダムの死後に「子 供たち」は自由になったと主張することが可能になってしまう。そこで、この「アダムの権利」はアダムの死後も統治 。ここでようやくフィルマー 者に受け継がれて「世界の終りまでずっと続いてゆく」と主張せねばならなかった( PA: ) 11 が無差別的な手段の正当化を行った理由を理解することができる。アダムの権利を断絶させないためには、世襲、選挙、 簒奪といった「継承」を全て乗り越えてアダムの権利が現在まで続いていると言えなければならない。逆に言えば、あ ( ( らゆる「継承」方法を正当化しえない限り、アダムの権利の連続性は保障できないのである。まさにこの保障の上にフィ ルマーの第一の目的である人民の生来の自由の否定が賭けられている以上、たとえ「詭弁」だとしても、摂理を政治的 に利用した手段の無差別的正当化を彼の理論から切り離すことはできないのである。これが、彼の理論「変遷」を規定 することになる王権神授説である。繰り返しになるが、この「アダムの権利」とそれを与える王権神授説が重要なのは、 それなしには「人民の生まれながらの自由」を認めることとなってしまうからである。そしてこれを認めることは、彼 ( ( にとっては、あらゆる統治を人民の勝手な判断に委ねるという危険な結論を意味していたがゆえに、彼はこれを最後ま で批判し続け、その対応物である「アダムの権利」の議論を最後までもち続けたのである。 構造、つまり人民の生まれながらの自由を永続的なアダムの権利によって否定するという構造と密接に関係している。 君主制におけるあらゆる「継承」を通じて、アダムの権利が後代に伝わっていかねばならないのと同様に、この権利は 民主制や貴族制といった政体の違いも乗り越えて後代に伝わっていかねばならない。だからブーンが主張したように、 フィルマーは民主制や貴族制の存在を認めているし、また認めざるをえないのである。 だが他方で、この「普遍的」な理論が構築されたのは、特殊イングランドの君主の権力を擁護するためである。無論、 ( ( 反イエズス会という面だけ見れば、フランスにもフィルマーと同じように、イエズス会に対する反対者は存在したし、 また理論の共通性が指摘されることもある。しかしこれはそれぞれの著者が、イエズス会に反対して、フランスの為に、 315 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 (( フィルマーの「政体の種類」の議論について、シドニーとブーンの解釈が割れる原因は、まさにこのような彼の理論 (( イングランドの為に、反論を書き上げることがありうるということの否定には、もちろんならない。フィルマーの望みは、 (( 「イングランドの人民が、天の下のどの国民にも劣らぬ諸特権を享受することを許され、そして実際にそうすることで ある」。これは君主制の下でこそ十分に果たされるのであり、君主制の下で「諸特権」を享受すること、「それこそがこ 。 の王国のマグナ・カルタである」( PA:) 4 逆にスアレスやベラルミーノの説く生まれながらの自由の主張は、君主制の下でなら享受できるはずの「自由を破壊 するための自由」( PA:)4である。そのような自由は、王権を「人民の恣意的選択に服させること」にしかならない ( PA: natural )が可 liberties )でも生まれながらの自由 ( free state )である。自由な君主制の下でこそ臣民の諸特権・自由 ( free monarchy ) 。イングランド人が諸特権を保持し続けるために必要なのは、自由国家 ( 35 )でもなく、自由な君主制 ( liberty 能となる。フィルマーは、生来の自由という危険な自由から、君主制の下での自由、つまり彼の言うイングランドの「マ グナ・カルタ」を守ろうとしているのである。この目的を果たすためには、つまり君主制の権威を高めるためには、シ ドニーがそう解釈したように、君主制だけが神に嘉された正当な政体であると主張する (あるいはそう読めるように書く) のは確かに戦略的には有効である。 しかし、繰り返しになるが、イングランドの君主制は、これまであまた存在した統治の一つであり、それゆえあまた 存在した統治者 (民主制においても貴族制においても)全てが有していた「アダムの権利」によって基礎づけられている。 この権利は神の「摂理」によって与えられているがゆえに、理論的には君主制だけを神が認めた制度だと言うことはで きない。要するに、君主制の権威を神の権威によって高めようとする(シドニーが見て取った)試みは、アダムの権利によっ て、イングランドを含めて、歴史上存在してきた主権を説明しようとする試みと潜在的な緊張関係にあるのである。 しかもこのアダムの権利とはいかなるものかという点まで論が至ると、『パトリアーカ』はそれほど明確な説明を提 供してくれるわけではない。フィルマー曰く、アダムとその後継者たる族長たちがもっていた権力は「創造以来のあら ゆる君主の絶対的支配権と同じく無辺無尽のものであった」。生殺与奪の権限、戦争と講和の権利をアダムは既に有し 。 『パトリアーカ』第一部、第二部を通じて、アダムの権利が具体的な議論の対象となっ ていたのである ( PA:) 7 だが、 ているのはここだけである。第三部において、議会との関係での王の絶対性は歴史的国制論を通じて詳述されるもの 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 316 ( ( の、それ以外の点で、アダムの権利 (フィルマー的主権論)の特質それ自体はそれほど明確に分析の対象とはなっていない。 ) 、ウルピアヌスの有名なテク 無論、王権の擁護をしていないという意味ではない。混合政体に反対したり ( PA: 31-2 、聖書のサムエル記に王権に有利な形の解釈を加えてみたり( PA: スト(「王は法から解放されている」)を引用したり( PA: ) 45 )と、彼が王の権力を様々な角度から補強しようとしているのは確かである。しかし、 『パトリアーカ』の中心が人民 66 の生来の自由への反論であるがために、主権者のもつべき権力それ自体の分析、つまり主権論としての「アダムの権利」 の分析は、この作品においては副次的なものとなっている。「時効」によって保障された臣民の権利という考え方を排 ( ( している以上、フィルマーは、人民は生来自由ではないと証明できれば、統治権の擁護は十分果たされると考えること ができた。臣民の「自由」や「特権」は「時効」によって臣民に与えられるのではなく、王の恩恵によって与えられる ( )」である( PA: 49 )) 。 適用されることはなかったのである。(『パトリアーカ』で「絶対的」と並置されたのは、「無辺の( indefinite ( ) 」という単語が、肯定的に王に 加えて、内乱後の諸著作とは違って、『パトリアーカ』においては、「恣意的 ( arbitrary ) 、父の自然法によって王もまた義務付けられていると述べるなど、権力の「限定」についても語ることができた。 41-2 法に従って統治するのを止めれば、王は王でなく、暴君になるという趣旨のジェームズ一世の言葉を肯定的に引用し ( PA: フィルマーは一方で、人民による制限を受けることなく、議会からも独立した絶対権力を語ることができた。だが他方で、 このような理論の構造のために、 「権力の制限」に関しても、ブーンとシドニーの解釈が割れることとなったのである。 いは制限されうるのかという問いを直接探求する必要はなかったのである。 うであるがために、フィルマーはここでは統治者の権力の本性はいかなるものなのか、どの範囲にまで及ぶのか、ある がゆえに自由ではなく、自由を口実とした「同意による統治」はありえない、という理論構成をとることができた。そ 統治権をもっており、それゆえ王は臣民の父とみなされるべきであり、あらゆる臣民はこの「父」の支配下に生まれる とすれば、それを王への抵抗の拠点にすることはできない。これによって『パトリアーカ』は、統治者はアダムと同じ (( もちろん、暴君だから従わなくてもよいという議論は決してしない。だが、絶対権力の「限定」を語り、「絶対的」と (( 「恣意的」を並置することがないという意味で、『パトリアーカ』における彼の権力論は当時の王党派一般の言語慣習と 317 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 (( ( では、フィルマーにとって制限・混合王制とは何か。フィルマーの結論はすでに『アナーキー』と略記してきた作品 たのである。 り『パトリアーカ』では副次的地位に置かれていた王権の性質の分析が、ここでは最重要課題として現われることになっ 治者がもつ「主権」とは何か、どのような性質をもたねばならないのかという問題に直接取り組むこととなった。つま (( の正式なタイトル──『制限王制または混合王制のアナーキー、あるいは人民の自然的・本来的自由と、王のもつ力の 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 318 ( 共通する点をもっていた。この制限的側面こそ、ブーンが強調していたことであり、シドニーが無視したものであった。 ( )、フィルマーはこれに答えようとする。そしてその中で、君主制とは何か、そして統 ハントン批判を通じて ( AN: 133-4 ( た。だが、制限王制とは何か、混合王制とは何か。これについて論じた「初めての、そして唯一の人物である」フィリップ・ フィルマーの見るところ、イングランドは制限王制であり、また混合王制であるという言説が内乱期には広がってい 四 一 六四八年、『アナーキー』 においてである。 して、先に述べていた「政体の種類」に関わる緊張関係がはっきりと矛盾として表に現われてくるのもまた、『アナーキー』 である。だが、それだけではない。内乱を受けて、王権の絶対性を精緻化し、さらに強調せねばならなくなった結果と からである。『アナーキー』はこの「権力の制限」に関わる点を直接議論の対象とし、誤解の余地なく精緻化した作品 ということである。それは、フィルマーが内乱後の作品で排除したのは、まさにこのように解釈される可能性であった だが、ここで重要なのは『パトリアーカ』をシドニーのようにではなく、ブーンのように解釈することも十分可能だ の方が説得的であるようにみえる。 ないというフィルマーの命題、また彼の様々な面からの王権の擁護に注目すれば、ブーンの解釈よりはシドニーの解釈 シドニーが完全に間違っていると言いたいわけではない。歴史的国制論による絶対王権の主張や、人民は生来自由では (( 0 0 0 権利、そしてこの王国とその他の王国の君主制の諸基礎についての簡潔な検証。これまで決して論じられなかったが、 今日最も必要な問い』──から明らかになっている。タイトルが雄弁に物語っているように、この作品での彼の結論は、 王権が制限されたり他のものと混合されたりすることがあり得るという議論それ自体が、内乱というアナーキーを引き 0 0 0 ) 。しかも 起こす原因である、より正確に言えば、制限王制や混合王制はアナーキーであるということである ( AN: 150 0 0 0 これは単なる理論的批判ではない。制限王制はアナーキーであるというフィルマーの断定は、理論的にそうであるとい うことと同時に、現実にそうなったという時代診断でもある。だからこそ、「今日最も必要な問い」なのである。 ( 319 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 フィルマーが制限王制をアナーキーとみなす理由は、そこに裁定者が欠如していることである。君主が制限されてい ( るとしよう。この場合、制限を超えたらどうなるのか、制限を超えたか否かを判断するのは誰なのか。制限王制を論じ る場合、こういった問題が不可避的に現われてくる。フィルマーは同じ問いを繰り返す。「誰が判断するのか」、「誰が では使われたことのない言葉であった。この新たな言葉の導入が、彼の擁護しようとしているものが、今や「秩序」そ 着く先は「アナーキー」である。このタイトルにも掲げられている「アナーキー」という言葉も、実は『パトリアーカ』 だが『アナーキー』では、この「秩序」を前提とすることができなくなった。「裁定者」が人民であるならば、行き 議論の前提であった。 ために、有害なものなのである。そして、この諸特権の基礎となる「秩序」自体は、『パトリアーカ』の基礎であり、 きたであろうイングランド人の諸特権であった。生まれながらの自由という言説は、この諸特権を掘り崩す危険がある キー』の距離を明らかにしている。『パトリアーカ』で彼が擁護しようとしていたのは、それまで伝統的に享受されて 。 険な結論である」とフィルマーは述べていた ( PA:) 6 同じ問いに対する多少違った答えが、『パトリアーカ』と『アナー この「裁定者は誰か」という問いは、『パトリアーカ』での問いでもあった。もしそれが人民であるなら、「害多く危 ) 。 だから結局のところ「彼が公にしたのは、君主制についての論考ではなく、アナーキーの論考であった」( AN: 150 絶対王制である。その中間は存在しない。ハントンにとって、その裁定者は最終的には個々の臣民の良心しかありえない。 裁定者となるのか」。もし人民が裁定者であるならば、それは人民政体であり、もし王が裁定者であるならば、それは (( れ自体になったことを示している。それを守るために必要なのは、ハントンの説く制限王制ではなく、絶対王制である。 これは『パトリアーカ』での解決策と、言葉の上ではまったく同じである。だが、今度は違った問いに対する同じ答えが、 『パトリアーカ』と『アナーキー』の距離を明らかにしている。 先に見たように、ブーンは『パトリアーカ』の中で、ある種の権力制限論が説かれていると理解していた。それゆえ ( ( に、ブーンの『パトリアーカ』解釈は、フィルマーの政治思想を穏健化し、「飼いならそう」としたものであると言わ れる。だが『アナーキー』でフィルマーが行っているのは、そのように読まれる可能性の完全な排除である。最もそれ ( ねばならない」と (フィルマーの知人、ロジャー・トワイズデンのように)反論することもできる。おそらくフィルマーも不 ( もっともこれらの論拠は非常に弱いものに思える。これに対して「言葉は一般に通用している意味によって理解され ) 。 8 にあたる言葉や概念は、ヘブライ語には存在せず、近年王制の価値を貶めるために発明されたものに過ぎない ( AN: 147- 「暴君」とならねばならない。ならば君主を暴君と呼んでその価値を貶めるのは筋違いである。実際、英語での「暴君」 など存在しないと論じるようになった。君主が必然的に無制限の権力をもたねばならないとするなら、あらゆる君主は が分かり易いのは彼の「暴君」論である。かつてフィルマーは暴君の存在を認めていた。だがここにおいて彼は「暴君」 (( これによって、「恣意的」権力を批判する理由もなくなった。主権とはそういうものなのであって、これを否定して ) 。 しえないのである ( AP: 253-4 益を受けている」ことになる。そのため、人民のためとならない王など存在せず、それゆえ暴君などという概念は存在 めだとしても、臣民の利益を無視しえないのならば、「最悪の王の下であっても、(…)人民一般はその統治によって利 ) 。彼はこの議論を、『アリストテレス論考』において、暴君不在論へと転換した。あらゆる王が、自身の身を守るた 31 君は、臣民の財を守り生命を保つ」ことを望むと論じていた。そうしなければ、自分の身が危うくなるからである ( PA: 暴君不在論を支える議論はより洗練されたものになっている。かつて『パトリアーカ』でフィルマーは、「あらゆる暴 十分だと感じていたのだろう。『アナーキー』の後の作品では、この「暴君」不在論の立場に変更はないものの、この (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 320 も仕方がない ( AN: 132 ) 。王は絶対的かつ恣意的権力をもつのである。結果として、『パトリアーカ』で彼が想定してい ( ( たかもしれない王権の像、あるいは後の人間がそう読むことができる王権の像は、同時代の王党派の言説と合わせて批 判の対象となった。いかなる制限 (あるいは制限を思わせるような言説)であっても、君主制を解体する致命的要因となる とフィルマーは考えるようになった。君主制がありうるとすれば、それは全て「絶対的」なものでなければならない。 これは確かに『パトリアーカ』の立場でもある。だがその時は、あらゆる「制限」が「絶対的」権力と両立しないと ( ( は考えていなかった。我々がそれに矛盾を感じたとしても、この二つの言葉が同時に適用されることは当時特に珍しい ( (( 、「一時的には民主的」であったことも認めざるをえなかった。たとえすぐ滅びたのだとしても、ここでロー を忘れないが) )と認めざるを得なかったし (ただし、すぐ滅びたと付け加えるの よって、奇蹟的に栄光に包まれ保持されていた」( PA: 26 れが必然的に君主制でなければならないと明示的に述べはしなかった。ローマの共和政体は「それ自身を超える摂理に 。 治形態は人間の選択にまかされているという、「新規の広くみられる区別」を攻撃していた ( PA:) 7 だがその時は、そ ) 。確かに彼は『パトリアーカ』においても、同じ根拠に基づいて、権力一般は神の定めたものであるが、特定の政 139 以外の政体を、「神の定めに背いた」ものとして批判し、君主制以外の権力は「不法であると宣言すべきである」( AN: ぜなら、アダムが神から受け取ったのは、単なる権力ではなく、君主的権力だったからである。よって、我々は君主制 )と宣言する。ここで言われている統治形態とは君主制のことである ( AN: 144 ) 。な て神が定めたことである」( AN: 144 は、『アナーキー』の中で、「統治の権力や権利だけでなく、統治権力の形態、そしてその権力をもつ人間、これらは全 る。これは、 「権力の制限」だけではなく、 「政体の種類」に関するフィルマーの理論についてもあてはまる。フィルマー それは同時にブーンのフィルマー解釈ではなく、シドニーの解釈がより説得力をもつようになったということでもあ カ』への決別の宣言でもある。 矛盾だと感じるようになったのである。『アナーキー』は同時代の王党派からの「独立宣言」であるとともに、『パトリアー ( ことではなかったし、実際多くの王党派もこの言語慣習に従っていた。だが主権の分析を通じて、フィルマーはこれを (( マの政体それ自体が不正であると主張しているわけではない。しかし、『パトリアーカ』ではなく、『アナーキー』の説 321 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 (( 明に従うなら、共和制ローマは神の意志に逆らった政体だということになるだろう。 では、当時のヴェネツィアやオランダはどうなるのだろうか。これらの国も神の意志に反しているだろうか。フィル マーは一応の答えを用意していた。しかしそれは単なる問題の回避でしかない。「君主制の下に暮らしている人々が、 自分たちの政体を神の定めであると正当化できるのならば」たとえ別の政体の下で暮らす人々が同じようには正当化で きなかったとしても、遠慮なく「自分達の政体が正しいものであると主張」すればよい。他国がどんな政体を取ってい ようと、イングランド人は神の定めた政体の下にいる。「他人には勝手に自分たちの正当化をさせておけばよい」( AN: このようにして、シドニーの『パトリアーカ』解釈に合わせるかのように理論を「変化」させたがために、前節で述 ) 。彼は、他の国を考察の外に置くことで、イングランドの絶対君主制を擁護しようとしているのである。 139 べたフィルマーの理論内部での緊張関係がここで顕在化することになった。君主制以外を神の意志に反するものと性格 づけることで、フィルマーはイングランドのような君主制だけが正当な統治であると主張する。だがこのようにして君 主制を正当化することは、戦略的には有用であったとしても、彼の理論の中では矛盾を引き起こしてしまう。君主制は これまで存在していた統治形態の一つに過ぎない。だが理論上アダムの権利 (フィルマー的主権)が存在しているのは決 して君主制だけではない。というのも、彼本人の言に従えば「法を作る権力なしに統治された人民などこれまで存在し ) 、 「統治権力なしの政治社会 ( civil society )など想像もできない」 なかったし、そもそも存在するはずがない」し ( AN: 132 ) 。 からである ( AN: 145 しかも、ボダンが論じたような法的な主権者とフィルマーのアダムの権利保持者が違うのは、後者が神に認められた ( ( という以外の正当性をもたないということである。さらに、フィルマーにとって神が認めたか否かの判断基準は、事実 として統治を行っているということ以外に存在しない。彼はここで剣の刃渡りを行っている。神が認めた結果としてア おこす。 しい政体であると主張したい。だがそれを擁護する方法として導入した「神の意志」が、彼の元々の理論構造と摩擦を ダムの権利をもっているはずの民主制や貴族制が、実は神の意志に反していると言っているのである。君主制だけが正 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 322 これを避ける一つの方法は、神の意志に「消極的是認」と「積極的意志」という区別をつけることであろう。神は悪 が栄えることを「消極的に」認めることもあるが、それは神が「積極的に」その存在を嘉し、正当なものとしたという ( ( ことにはならない。このような議論は、共和政期のエンゲイジメント論争の中で、摂理主義的共和政府支持者を批判す ( ( ( ( る文脈でしばしば用いられた。また、直接政治的に利用されることはなかったとしても、そのような区別の存在自体は すでに伝統に属する事柄であった。だがフィルマーはこの区別を前提とはしていない。もっとも彼の言葉の用い方を見 ( 思える。共和政府への服従を勧めたアルベルトゥス・ウォレンは、この時期にフィルマーを思わせる調子で、「問題は、 ( にアナーキーは存在していない。ならば新たに成立した共和政府に従ってはならない理由もまた存在していないように イングランドの「制限・混合王制」は清算され、主権を有する議会によって統治される共和国が誕生した。もはやここ 一六四九年の王の処刑と共和政府の成立は、フィルマーにとっての問題を一挙に解決してしまったかのように見える。 五 共和政府の成立 この矛盾は「摂理」の方面からではなく、別の方面から解決されねばならないものであった。 「積極的」の違いによって、アダムの権利の道徳的価値の差が生じているわけではない。そうであるから、彼にとって、 、「消極的」 るかぎり、いかなる区別も念頭においていないというわけではない。だが彼の議論の中で (全著作を通じて) (( ( ばならない。だから、真の問題はその権力が「誰の手にあるべきなのかということだ」。そして、いまやその権力は共 ( 我々やその他国民が恣意的権力によって統治されるべきか否かではない」と断定した。恣意的権力はどこかに存在せね (( たものを明らかにしている。フィルマーも、唯一の問題は恣意的権力が誰の手にあるのかということだと主張していた。 だが、このウォレンとフィルマーの問題提起の中に見られる類似と相違が、『アナーキー』において前提とされてい 和政府にあるのだから、我々は共和政府に従うべきなのだ、と議論を続けたのである。 (( だが、そこで言われていたのは、(ウォレンとは違って)あくまで政体の問題──「誰がそれをもつべきなのか、一人なの 323 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 (( (( か多数者なのか」──であった( AN: 132 ) 。そして君主制以外は、神の意志に反した不当な政体であると論じていた。フィ ルマーが要求していたのは確かに「秩序」の回復であったのだが、それをなす主体は君主であるというのが彼の議論の 前提となっていた。つまり単なる「秩序」ではなく、君主による秩序の回復が彼の目指したものだったのである。 王の処刑はフィルマーにこの前提と目的を再考させることになった。彼の目指していたものが同時に得られる可能性 が潰えたのである。この時点で、君主制を復活させることと秩序を実現することは、事実上、牴牾する要求である。亡 命中のチャールズ二世を呼び戻せば、ほぼ不可避的にもう一度内乱を招くことになるだろう。今ここにある一応の秩序 0 0 0 0 0 を維持しようと思うなら、共和政府に忠誠を誓うことが最善の道だということになるだろう。この難問に対して、彼は 最終的に、一六五二年出版の『服従指針』において、簒奪者が「真の統治者」を害することが無い限りという条件付きで、 ( これは確かに君主制の回復を期待しつつ、現状の秩序を肯定するという意味で、両者を調停しうる一つの回答であ 「簒奪者」への服従を勧めるという答えを出すことになった。 ( る。だがこの回答が意味をもちうるとすれば、その前提として不当な簒奪者と正当な統治者の区別をつけることができ ( (( 盾」を自覚していたかすら定かではない。だが王の処刑と共和政府の成立とともに、今やこれが自分たちの問題になっ に対して、 「他人には勝手に自分たちの正当化をさせておけばよい」と言っていた。この時、彼が先に述べたような「矛 その著者にとって矛盾を「解決」する必要性は存在しない。『アナーキー』でフィルマーは君主制以外の統治下にある人々 ( 意義をもたない、あるいはその理論家が我々にとって必要であると思うような一貫性をはじめから目指していない場合、 としても解決せねばならなくなった。我々にとって理論的解決を要求するようにみえる問題であっても、それが実践的 しかし、だからこそ、彼は自身が『アナーキー』で抱えていた難問──アダムの権利と神の意志の緊張関係──を何 す有力な根拠になりうるだろう。 はないように思えるかもしれない。神は君主制のみを正当な政体と認めたという主張は、確かに共和政府を不当とみな シドニーのフィルマー解釈が説得力をもつようになった変化であるとすれば、正当と不当の区別をつけることも困難で なければならない。『パトリアーカ』から『アナーキー』へのフィルマーの「変遷」が、ブーンのフィルマー解釈ではなく、 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 324 0 0 0 てしまったのである。そしてこれがフィルマーにかつての「矛盾」を自覚させる契機となり、これを解決する実践的意 義を与えることになった。 『アナーキー』での「矛 つまり、現実の政治状況に対して適切な応答を作り上げるという試みは、彼にとって同時に、 盾」を解決する試みでもあったのである。これがなされたのが、『アリストテレス論考』である。 六 一 六五二年、『アリストテレス論考』 フィルマーは、『アリストテレス論考』を、アリストテレスの考えと称して、六つの否定的命題を提示して締めくくった。 一、君主制以外の統治形態は存在しない。二、家父長的でない君主制は存在しない。三、絶対的あるいは恣意的で ない君主制は存在しない。四、貴族制や民主制といったものは存在しない。五、専制などという統治形態は存在し ) 。 ない。六、人間は自由に生まれついてはいない ( AP: 281 この六つの命題を、これまでの著作と比べてみよう。人民の自由に対する考え方や君主の権力の特質に関する見解は『パ トリアーカ』から、そして権力の絶対性や専制に関する考え方は『アナーキー』から変化していない (ただし、「暴君」論 。ここで注目すべきは、「君主制以外の統治形態は存在しない」と「貴族制や民主制といったもの はより洗練されている) は存在しない」という二つの命題である。 この統治形態についての考え方も、一見それまでと変わっていないかにみえる。だが、実はここでの議論と『アナー キー』までの議論には大きな違いがある。彼は『アナーキー』において、統治者の数によって政体を君主制、貴族制、 民主制に分けた上で、君主制だけが神に認められた制度であると主張していたものの、一度として君主制以外の政体の 存在を否定したことはなかった。しかし『アリストテレス論考』に至って、民主制や貴族制が神の意志に反すると言わ 325 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 0 0 0 0 0 0 0 0 ) 。 AP: 256 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 326 0 れるのではなく、民主制や貴族制は存在しないと言われるのである。前節と同じことを、もう一度ここでフィルマーに 質問してみよう。ならば、かつての共和政期ローマはどうなるのか。同時代のヴェネツィアやオランダはどうなるのか。 ) 。ロックではなく、フィルマーを市民社会論の先駆者 AP: 256 )の中で共に暮らし、お互いを助け合い、しかもいかなる統治形態 ( any これに答えて彼は言う、「人民は社会 ( society )の下にもいないことも可能である」( form of government ) など想像もできない」 ( AN: と考えるべきだろうか。だが『アナーキー』においては、「統治権力なしの政治社会( civil society 0 )と言われていた。しかもそれは堕落以前の人間を論じた文脈で言われていたのである。フィルマーによれば、天使 145 0 ( が神に服従しているのと同じく、罪を犯す以前にも、イヴはアダムに服従していた。確かにその頃には悪を処罰する「強 ( 制的権力( coactive power ) 」は存在していなかったが、善へと導く「指導的権力( directive power ) 」は存在していたのである。 だから統治は「罪によってもたらされた」というのは間違いである。 「神に対しては宗教、人に対しては平和」が保たれた状態の下で生きることであるとする ( テレスとは違って) いう区分を彼の意図に適合する形で利用することができるようになった。フィルマーは「善く有徳に」とは、(アリスト 結果として、彼はアリストテレスの「統治とは単に生きるためのものではなく、善く有徳に生きる」ことである、と い。もしそうであれば、統治無くとも共同で「ただ生きる」ことは可能となるだろう。 統治の存在の意味を再考するに至ったと言ってもよいだろう。共通の権力による統治が無くとも、戦争状態にはならな ) 。これは、ホッブズ批判としては浅薄だという印象は免れない。だが、この批判をきっかけとして、フィルマーは 188 ないほど十分な食料も土地もあるのだから、「真に自然な状態の下で、戦争に至る絶対的必然性があるわけではない」( OG: たしかにホッブズの言う通りかもしれない。だが、「神はそんなにけちけちした存在ではない」。世界には、争う必要も ) 。世界に食料や土地が絶対的に不足しているなら、 それが必ず戦争状態にならねばならない理由はないと言う ( OG: 188 の議論である。フィルマーは、『統治起源論』において、ホッブズの自然状態論を批判し、そんな状態が存在するとしても、 になったのだろうか。それを可能にしたのは、消極的にはホッブズ批判を通じて得た着想、積極的にはアリストテレス 堕落以前ですら統治が存在すると言われていたにもかかわらず、なぜ、統治無くしても社会があり得ると言えるよう (( そしてローマ、オランダ、ヴェネツィアはこの条件を満たしていないがために、そこには共同生活は存在しているが、 )もオランダ ( AP: 271 )も絶えず戦争を繰り返し、人々はとて 統治が存在しないと言われるのである。ローマ ( AP: 263 も敬虔とは言えない生活を送っている。ヴェネツィアも一見平和に見えるが、それは外見だけのことで、内実を見れば、 ヴェネツィア人が恐怖と猜疑心にさいなまれつつ生きていることが分かる。「このような惨めな恐怖が続くところで、 ) 。だからこそ、これらの国には「統治」が存在していないのである。 平和の内に生きているとは言えまい」( AP: 273 ( ( 。 このアリストテレスを利用した議論を、ホッブズの代表理論を曲解した議論が支えている (驚くべき組み合わせである) フィルマーとホッブズの問題意識と、その結論の類似性はしばしば指摘されてきた。フィルマーは「主権者の権利を論 ) 。他方、共 じているホッブズ氏の『市民論』と『リヴァイアサン』を読んで少なからぬ満足を得た」のである ( OG: 184 通性をもちつつも、フィルマーがホッブズの理論構成を批判したこともまたよく知られている。その批判の中心は、ホッ ブズの自然権論を、ホッブズ本人も認める家父長的主権論という「土台」に取り替えて初めて、その上に建つ「絶対主義」 が安定するというフィルマーの考えであったと理解されている。これ自体は完全に正しいのだが、結果として両者は批 判した者とされた者という関係でのみ理解されてきた。だがそれによって、フィルマーがホッブズからどのような影響 を受けたのか、さらにホッブズ批判を通じて何を得たのかという点は等閑視されてきた。本論文全体に関わる要点とし ( ( てここで主張したいのは、まさにホッブズを利用することによって、フィルマーの「政体の種類」に関する考えがもう 一度変化したということである。 フィルマーは、『統治起源論』の中で、ホッブズの「代表」についての議論に、次のようなコメントを加えた。 )と定義しているからである。そして、人間の合議体、つまり「すべ 彼はコモンウェルスを一つの人格 ( one person ての人間が一つの同じ人格に真に結合したもの」について、このように結合した群衆のことを、彼はコモンウェル スと名付ける。彼は群衆を一つの人格へと作り変えることで、「リヴァイアサン」つまり高慢な子供たちの王を生 327 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 (( ホッブズ氏は、存在する統治形態はただ一つであり、それは君主制であると考えていたように思える。というのも、 (( み出す。そして、彼はコモンウェルスという人格は一人の君主であると結論を下すのである ( OG: 193 ) 。 これを読む限りでは、国家論を政体論に還元してしまう形で、フィルマーがホッブズを (意識的か否かはともかく)誤解 しているのか、それとも正確に理解した上で、(『リヴァイアサン』の扉絵を思い出しつつ)彼なりの表現をしているのか、 どちらとも決め難いものがある。だが『アリストテレス論考』に目を向けると、フィルマーはこれと対応する形で、し かも今度は自身の積極的な議論として、ホッブズ的「君主制論」を展開している。フィルマーによれば、 統治されるとは他者の意志あるいは命令に従うことに他ならない。人間の内にある意志が統治するのである。通常 複数人の意志は、大抵の場合一致せず、多くの場合相反している別々の目的や利益に従ってバラバラになっている。 しかし合議体の多数者の意志が結合し、一つの意志に一致したのならば、人間の数の観点からみればそれは民主制 とか貴族制とか呼ばれるが、そこには多くの意志が一つになった君主制が存在するのである。統治するのは、多く ) 。 の身体ではなく、群衆の一つの意志あるいは一つの魂である ( AP: 254 一見すると、ホッブズの議論をそのまま利用したかにみえる。それゆえ、民主制や貴族制も主権をもつ限りにおいて「君 主制」と表現され、認められているかに思える。だが議論が進むにつれて、フィルマーの「君主制論」はホッブズのそ れとはまったく違うものであることが明らかになってゆく。 フィルマーがここで行っているのは、文字通りの君主制以外の否定なのである。いわゆる貴族制や民主制の場合にも、 一時的には一つの意志ができあがることがある。だがフィルマーが理解できなかった (あるいはする気がなかった)のは、 合議体が全体として、統一した意志をもち続けるという擬制である。「統治されるとは他人の意志または命令に従うこ 0 0 0 0 0 とに他ならない」。だからフィルマーにとって、合議体の中で少数派になってしまった人々は、統治しているのではなく、 統治されているのである。複数の「意志」からなる合議体が一つの意志をもつというのは、キリストの中に一つの意志 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 328 しか認めない単意論者の言い分と同じことである ( AP: 255 ) 。そして、議題によって当然、合議体の構成員はそれぞれ賛 成したり反対したりする。そのため、それぞれの議題がもち上がった時、統治者と被治者は変化する。変化するが故に、 一つの統治、一つの「君主制」が続くのは、一つの議題に関して意見が一致している間だけである。だから、合議体によっ ( ( て「統治」されている人々は、実は、 「いかなる時も、自分が何らかの統治形態の下にいるとは言えない。というのも、 )。 一語が発せられるより短い時間に、全ての統治は始まりそして終わるからである」( AP: 255 彼は『アリストテレス論考』の始めに、「一つの統治体として統一され、共通の法によって治められた広大な領土をもっ ) 。しか た王国が、これまで一度に何らかの種類の人民政体へと移行したことを我々は見たことがない」と言う ( AP: 236 し、フィルマーが見たのは、イングランドという王の下で統一された王国が、王の処刑とともに、共和政府という人民 政体へと移行したことではなかったのか。実は、そうではない。理由は上述の通りである。新たに設立された共和政府 は人民政体ではなく、そして当然のことながら君主制でもない──後者はもはや存在せず、前者はそもそも存在しない。 では、何になったのか。彼によれば、君主制の崩壊とともに訪れるのは、「軍人支配」である。軍人支配下においても 一定の秩序は保たれているかもしれない。しかしこれはあくまで統治のない社会に過ぎず、そして統治のない社会であ るからには、その社会において神に認められた真正なアダムの権利は存在しない。 このように主張することで、フィルマーは『アナーキー』での難問を解決することができた。彼はかつて、君主制の みを神の認めた政体としていた。だが、それによって、彼のアダムの権利という理論が危機にさらされることとなった。 しかし『アリストテレス論考』のように、存在しうる政体を君主制に限定すれば、アダムの権利をもっているのは君主 制のみであると主張することができる。そうである以上、新たに成立した「軍人支配」は、たとえ秩序を回復させたの だとしても、それによって正当な統治とみなされることはない。 これは先に述べたように、自身の理論的難点の克服に留まるものではない。統治の正当性の基準を、あるいは神が統 治権を与えたか否かの基準を、実際に統治しているという事実だけに求めるとすれば、新たな政府に対して、不当であ るが条件付きで服従すべきだという主張には何の意味もない。だが、『アナーキー』で目指されていた王による秩序の 329 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 (( 回復が困難になった時、この二つを同時に実現はできないとしても、何とかして調停しようとする試みに必要とされた のは、まさにその主張を意味あらしめることだったのである。それを可能にしたのが、一六五二年の『アリストテレス 論考』であった。 翌一六五三年、フィルマーはその生涯を閉じた。クロムウェルが「護国卿」に就任したのは、その年の暮れであった。 七 結論 なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか。内乱勃発後、王の処刑以前の時点で (『アナーキー』が出版された頃に) これが出版されたとしたら、フィルマーにとっての論敵、つまり議会派であれ王党派であれ「制限王制」論者との距離 を見失わせるものとなっただろう。王の処刑後、共和政期に『パトリアーカ』を出版しえない理由も明らかだろう。安 ( ( 定した王制を前提した上で、王を擁護することを目指していた『パトリアーカ』は、この時期に出版されたとしたら、 逆に完全なる共和政府支持のパンフレットと受け入れられたに違いない。だからこそ、『パトリアーカ』は終に出版さ れることはなかったのである。 ( (( そのため、これまで述べてきたような解釈は、フィルマーの思想には「変化がなかった」とする解釈と少なくとも言 ということにならざるをえない。 いは常識と両立可能なものにすることができるかどうか、 是非試してみていただきたい」 ( ロバートの言っていることを、理解可能なものにすることができるかどうか、また、それ自体首尾一貫したもの、ある 性を見出すことも可能である。他方全著作を合わせて、ロックのように批判的に読めば、 「もてる全技量を用いて、サー・ では論じられなかった点を含めて、シドニーとブーンの解釈を適宜合わせて読めば、『服従指針』との間ですら、一貫 あったことになる。逆に、ブーンのように読めば、『アナーキー』との間ですら矛盾を見ることもできる。また、ここ それとも「変遷」したのだろうか。『パトリアーカ』をシドニーのように読めば、『服従指針』を除いてそこに一貫性が では、 『パトリアーカ』から『アリストテレス論考』にかけてのフィルマーの思想には「一貫性」があるのだろうか、 (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 330 語上は両立しうる。フィルマーの意図は、確かにはじめから終わりまで、人民の生来の自由論を反駁し、王とその権力 を擁護することにあった。そしてこの主張の基礎にあるのは、彼の王権神授説とアダムの権利という二つの原理だとい うのも正しい。だがそうだとしても、その意図と原理の一貫性を保持していたがために、彼はコンテクストに合わせて、 テクストの内容を変えざるをえなかったのである。 だがテクストの内容が変わっていったにも関わらず、彼は確かにアダムの権利を信じつづけたという意味で「家父長 論者」であり、その権利が神によって人間の制度との媒介なく与えられると考えたという意味で「王権神授説」論者で ( 331 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 あり、統治者の権力の至高性を疑わなかったという意味で「絶対主義者」であり、かつ意図としては「君主制論者」であっ ( た。レッテルは整理のためには不可欠である。だがフィルマーの政治思想の検討を通じて明らかになったのは、彼の場 合ですら、これらのレッテルは意味の限定なしには適用しえないものだということである。逆に言えば、ここで並べた 権力の簒奪の正当化にも、民主制の正当化にも利用しうる理論──は、政治的に最も安定した時期に提示されたという するというのは確かに正しいかもしれない。だが、フィルマーの場合、最も「危険」な理論──王の権力の制限にも、 もう一つは、政治状況と政治思想の関係である。政治状況の変転が、それに応答しうるラディカルな政治思想を要請 になる。 そしてテクストとコンテクストを関連づけない限り、この単純な二元論では捉えきれない問題が多く残ってしまうこと の内容だけから判断することはできないということである。逆に言えば、どの次元の一貫性なのかを明確にしない限り、 の中で切り離しがたく結びつくことがあるということ、そしてまた思想が「一貫」しているか否かを、複数のテクスト ある。だがこれまで述べてきたことから明らかなのは、「一貫性」と「非一貫性」は次元を異にしつつ、一人の思想家 述べた「一貫性」についてである。時にある思想家について「一貫性」がある、ない、という二元論で語られることが 以上のフィルマーについての議論を通じて、さらに二つのことを再確認することができるだろう。一つは、はじめに ることに繋がるということである。 諸概念は、実は一見したところよりも複雑な意味を内包しており、フィルマーを通じてこれらの概念の複雑さを認識す (( ことを注記しておくのは意味あることであろう。体制を破壊する可能性を含んだ「危険」な思想が (あるいはその逆の思 、真にそのようなものであるか否かは、そこで問われることのなかった前提を理解することなしには判断できない。 想が) 政治的に安定した時期に生み出された思想が、そのような前提を除外した上で理論的に再構成された場合、その安定を 掘り崩すかにしか見えない思想、その意味で「危険」な思想に見えることも十分にあり得る。シドニーは (おそらくチャー 『パトリアーカ』の前提をフィルマーと共有できなかったがために、この作品があらゆる統治体にとって危 ルズ一世も) 険であるとみなしたのである。内乱前、チャールズ一世は『パトリアーカ』の出版を許可しなかった。内乱後、コンテ ( ( クストの変化によって、『パトリアーカ』は出版できなかった。この意味で、確かにここでも「コンテクストが王であ )」 。 る ( context is king のような形で参照箇所を示す。この場合は、 版の である。以下同様。 Sommerville p. 1 は、『アナーキー』( AN: )。 The Anarchy of a Limited or Mixed Monarchy, 1648 は、『統治起源論』( OG: )。 Observations Concerning the Originall of Government, 1652 は『アリストテレス論考』( Observations upon Aristotles Politiques touching Forms of Government, 1652 )。 AP: は、『服従指針』( DO: )。 Directions for Obedience to Government in dangerous or doubtful Times, 1652 の 序 文 を 参 照。 こ れ は、 Patriarcha, or, The Natural Power of Kings by the learned Sir Robert Filmer, 1680, London (ただしミスプリントによって、原著では p. 387 となっている)の再録である。 Heylyn, Certamen Epistolare, 1659, London, p. 208 (2) Cesare Cuttica, ‘Reputation versus Context in the interpretation of Sir Robert Filmer’s Patriarcha’, History of Political Peter は、 『パトリアーカ』として言及し、 ( PA:)1 Patriarcha, The Naturall Power of Kinges against the Unnatural Liberty of the People も参照したが、引用は全て Patriarcha and Other Political Works of Sir Robert Filmer, Oxford: Blackwell, 1949 ら行う。その際、どの作品を引用しているかを分かり易くするために、以下のように表記する。 ( 1) フ ィ ル マ ー の 作 品 の 参 照 箇 所 は、 本 文 中 で そ の 個 所 を 明 示 す る。 本 稿 で 利 用 し て い る の は、 Johann P. Sommerville 編集 の で あ る 。 が 編 集 し た 、 Robert Filmer, Patriarcha and Other Writings, Cambridge: CUP, 1991 Peter Laslett Robert Filmer, 版か Sommerville (( 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 332 クティカは、ブリティッシュ・ライブラリー所蔵の、 Thought, Vol. 33, No. 2, 2012, pp. 233-4. Reasons for refusing a license to Sir Robert Filmer’s Patriarcha of G. R. Weckherlin, London 8 February 1632, British Library, Mss, Add. 72439, fol.を 8 典拠にして いるが、未見。 (3)残念ながら今のところこれに答えるための伝記的資料は存在しない(もっとも存在していても、なぜXしなかったのかという 0 0 0 0 問いに完全な答えを与えることはほぼ不可能であるが)。そのため本稿では、『パトリアーカ』とその後の作品を比較検討し、その 想史的回答」なのである。 Gordon 「非一貫性」を明らかにすることで、フィルマーが『パトリアーカ』を出版しない積極的な理由があったことを示す。その意味で「思 また、 Johann P. Sommerville, ‘Introduction’, to Robert Filmer, Patriarcha and other Writings, Cambridge: CUP, 1991. (6) Algernon Sidney, The Very Copy of a Paper delivered to the Sheriffs upon the Scaffold on Tower-hill, London, 1683, p. 1. Algernon Sidney, Discourses concerning government, London, 1689, p. 3. 333 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 (4) J. Schochet, Patriarchalism in Political Thought, New York: Basic Books, 1975, pp. 117-9. Daly, Sir Robert Filmer and English など。なお、本稿は「変遷」を重視するため、それが明らか Political Thought, Toronto: University of Toronto Press, 1979, p. 15 な『服従指針』を詳細に議論することはない。 (5)これらについての詳細は、古田拓也「国家なき主権論──ロバート・フィルマーにおける神と父」『法学政治学論究』、第九二号、 二〇一二年、を参照。ただし、彼の思想の中心に摂理主義的な王権神授説が存在するという理由で、彼が摂理の考察からその政治 思想を導き出したのだと主張するつもりはない。その逆に、フィルマーは彼の政治的目的とそのために有益な「アダムの権利」と いう概念を採用したがために、統治の正当性を、不可避的に最も単純な意味での「摂理」に訴えざるをえなくなったというのが私 の主張である。ある思想家に中心原理があると言うことと、その中心原理からその政治思想が生み出されたと言うのは、まったく 別の話なのである。この点について、フィルマーと、「摂理」という概念を真に深く考察することによってその政治思想を導き出 したジョセフ・ド・メーストルを比較せよ。(メーストルの摂理観とその政治思想に関しては、川上洋平『ジョセフ・ド・メース (7) Sidney, The Very Copy, p. 2. トルの思想世界における政治と摂理』、慶應義塾大学博士論文、二〇一一年、を参照)。 (8) Jonathan Scott, Algernon Sidney and the Restoration Crisis 1677–1683, Cambridge: CUP, 1991, p. 343. Sidney, The Very Copy, p. 2. ) (9) ( 10 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ) ブ ー ン 本 人 の 思 想 と 行 動 に つ い て は、 Mark Goldie, ‘Edmund Bohun and Jus Gentium in the Revolution Debate’, Historical を参照。 Journal, 20, 1977, pp. 569-86 ) Sidney, The Very Copy, p. 2. ) ) Bohun, Defence, pp. 5-6. … of Algernon Sidney, London, 1684, p. 5. Edmund Bohun, A Defence of Sir Robert Filmer, Against the Mistakes ) Johann P. Sommerville, ‘History and Theory: The Norman を参照。 Conquest in Early Stuart Political Thought’, Political Studies, Vol. 34, No. 2, 1986, pp. 249-52 ) Cesare Cuttica, ‘Anti-Jesuit patriotic absolutism: Robert Filmer and French ideas ( c. 1580–1630 ) ’, Renaissance Studies, Vol. は 多 く の 高 名 な 研 究 者 が 参 加 し て い る が、 簡 潔 な ま と め と し て は、 Daly, Robert Filmer, p. 42. )無論、「事実として」征服があったという主張も、それだけで一つの政治的言説である。この「ノルマン征服」を巡る論争に ) Sidney, The Very Copy, p. 2. ( ) Bohun, Defence, p. 16. ( ) Daly, Robert Filmer, p. 131. ただし、ここでデイリーはブーンが『パトリアーカ』以外の作品をまったく知らなかったと書いて いる。私はそうではなく、知っていたが彼自身の目的を達するために意図的に利用しなかったのだと考えている。 ( 11 16 15 14 13 12 19 18 17 ) ) , Oxford: Clarendon Press, 1944, p. 374. and trans. ) Brian Tierney, The Idea of Natural Rights, Atlanta: Scholars Press, 1997, pp. 309-10. また、 Cuttica, ‘Sir Robert Filmer’s Patriarcha’, pp. 235-6. Filmer, Patriarcha, pp. 2-3. ( ed. Francisco Suárez, Selections from three works of Francisco Suárez, Gwladys L. Williams, Ammi Brown and John Waldron 25, No. 4, 2011, p. 562, J. P. Sommerville, ‘From Suarez to Filmer’, The Historical Journal, Vol. 25, No. 3, 1982, p. 525. ) 20 22 21 等)。逆に言えば「生まれながらの自由」批判が最後まで彼の重要テーマであったということ Originall of Government, pp. 202-3 である。一言で述べるなら、それは「生まれながらの自由と統治の間に横たわる懸隔の論証」である( Schochet, Patriarchalism, p. 一六五二年の著作にいたるまで繰り返し、契約説批判を通じて「証明」している( Patriarcha, pp. 19-21, Anarchy, pp. 140-2, The )丸山眞男「ジョン・ロックと近代政治原理」『丸山眞男集 第四巻』、岩波書店、一九九九年、一八五頁。 )本稿ではほとんど触れられなかったが、フィルマーは「生まれながらの自由」が不可能である理由を、『パトリアーカ』から 25 24 23 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 334 ( ( ( ( ( ( ( ( )。 123 ) Cuttica ‘Anti-Jesuit Patriotic absolutism’, p. 79. )フィルマーの歴史的国制論による王権擁護論はこれまでほとんど研究対象となってこなかった。例外は J. G. A. Pocock, The [ 1957 ] , Cambridge: CUP, pp. 151-62 である。なお、 『パ Ancient Constitution and the Feudal Law: A Reissue with Retrospect, 1987 トリアーカ』第三部と「権利請願」との関係については、 Cuttica, ‘Sir Robert Filmer’s Patriarcha’, pp. 251-4 を見よ。 )生来の自由に関わらず、王党派の多くは「時効」によって奪い去ることのできない諸特権が臣民に与えられていると考えていた。 ブーンもフィルマーがそう考えているとみなしていた( )。 Bohun, Defence, p. 5 となっており、 irregular が線で消されている( Patriarcha and Other absolute and irregular )『パトリアーカ』の別の草稿では の、サマヴィルによる草稿ごとの比較を参照)。 absolute と並置する形容詞に意識的であった証拠である。 Writings, p. 300 ) 王 党 派 や、 彼 ら と フ ィ ル マ ー 思 想 と の 関 係 に つ い て は、 Perez Zagorin, A History of Political Thought in the English Revolution, London: Routledge, 1954, pp. 189-202. J. W. Allen, English Political Thought, 1603-1660, London: Methuen, 1938, pp. 483-97. John Sanderson, ‘But the People’s Creatures’: The Philosophical basis of the English Civil War, Manchester: Manchester 等を参照。 University Press, 1989, pp. 38-72 )ハントンに関しては、 Philip Hunton, A Treatise of Monarchy, Ian Gardner ( ed. ) , Bristol: Thoemmes Press, 2000 に付された や’ 、田中浩『ホッブズ研究序説 改訂増補版』、御茶の水書房、一九九四年、付録Ⅱを参照。ハントンに対するフィルマー ‘Introduction の具体的な批判については、野嶌一郎「サー・ロバート・フィルマーの制限・混合王政論批判」『姫路獨協大学外国語学部紀要』、 )これはもちろん誇張を含んでいる。同時代の多くの王党派は、この問いに答える必要はないと考えていた。彼らにとって重要 一一号、一九九八年、七二─八七頁。 なのは、起こり得る対立ではなく、そこにあるべき調和であった。( J. W. Daly, ‘John Bramhall and the Theoretical Problems of )要するに、もしXになったらどうなるのかという Royalist Moderation’, Journal of British Studies, Vol. 11, No. 1, 1971, pp. 33, 38. 問いは、ある立場にとっては重要でも、別の立場によってはまったく無意味になるということである(世界が明日亡びたらどうな るのかという問いは、政治学的にどのような意味をもつだろうか。これに対しては、そうならないように方策を考えると答えるよ Daly, Robert Filmer, p. 129. り他ないだろう)。 ) 335 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 27 26 28 29 30 31 32 33 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ) ( ed. ) , London: Camden Sir Roger Twysden, Certaine considerations upon the government of England, John Mitchell Kemble Society, 1849, p. 17. Daly, Robert Filmer, p. 48. )フィルマーと内乱期の王党派の違いは、 Daly, ‘Royalist Moderation’, p. 41 が最も簡潔にまとめている。なお、内乱前の「絶対 主義」についての対立する説明、そしてそれゆえ対立するフィルマーの位置づけについては、 Glenn Burgess, Absolute Monarchy と ‘ ’, in The Cambridge and the Stuart Constitution, New Haven: Yale University Press, 1996, pp. 218-9 Absolutism and Royalism ( ed. ) , Cambridge: CUP, 1991, pp. 358-9 をそれぞれ参照。 History of Political Thought 1450-1700, J. H. Burns and Mark Goldie ) Daly, ‘Royalist Moderation’, p. 43. [ 1972 ] , ‘Conquest and consent: Hobbes and the engagement controversy’, in Visions of Politics, Vol. 3, 2002, Quentin Skinner, ) Daly, Robert Filmer, p. 52. )古田「国家なき主権論」、三五二─三五五頁。 ) 0 0 0 Cambridge: CUP, p. 293. )例えば、カルヴァンの『キリスト教綱要』の第一巻一八章は、この区別の否定に向けられている。(ジャン・カルヴァン、渡辺 信夫訳『キリスト教綱要Ⅰ』、新教出版社、一九六六年、二六四─二七四頁。) Albertus Warren, Eight reasons categorical, 1653, London, p. 5. ) Daly, Robert Filmer, p. 118. )ウォレンについては、 Quentin Skinner, ‘Hobbes’s theory of political obligation’, in Visions of Politics, Vol. 3, p. 276. ) )この区分については、野嶌一郎「フィルマー主権論における家父長論の意義」『史学研究』、一九三号、六一頁も参照。 ( ) Shochet, Patriarchalism, p. 119. ( ) Quentin Skinner, ‘Meaning and understanding in the history of ideas’, in Visions of Politics, Vol. 1, 2002, p. 68. 〔半澤孝麿・加 藤節訳『思想史とは何か』、岩波書店、一九九九年、六六─六七頁。〕 ( 34 35 39 38 37 36 40 45 44 43 42 41 Routledge, 2011, pp. 107-8. )ホッブズ本人の「人格」理論と「代表」理論については、 [ 1999 ] ‘Hobbes and purely artificial person of the Quentin Skinner, ) 多 く の 研 究 者 は、 こ の 二 人 の 対 比 か ら 出 発 し て、 ホ ッ ブ ズ 理 論 の 解 明 に 向 か う。 最 近 の 例 を 一 つ だ け 挙 げ れ ば、 Timothy ( ed. ) , London: Stanton, ‘Hobbes’s Redefinition of the Commonwealth’, in Causation and Modern Philosophy, T. Stoneham, K. Allen 47 46 48 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 336 ( ( state’, in Visions of Politics, Vol. 3, chap.を 6 参照。 )もちろん、以上のようなフィルマーの議論を、ショーセットのように、自然的な平等と不平等な統治の間の緊張関係を、多数 決によって解決することへの批判と理解することも、またより単純に同時代の共和主義への批判と理解することも正しいだろう。 私がここで述べているのは単に、この作品にはそれに尽きぬ意義があるということである。( Schochet, Patriarchalism, p. 130. ) )それは特に、摂理によって共和制支持の論陣を張ったフランシス・ラウスの議論との類似のためである。ラウスの摂理主義に ついては、 Quentin Skinner, ‘Conquest and consent’, pp. 291-2 や、加藤喜代志「共和制初期の『エンゲイジメント論争』におけるホッ ブズとニーダム」宮本憲一ほか編『市民社会の思想』、御茶の水書房、一九八九年、一〇頁。 ( ) John Locke, Two Treatises of Government, Peter Laslett ( ed. ) , Cambridge: CUP, 1988, preface, p. 138. 〔加藤節訳『統治二論』、 岩波書店、二〇〇七年、四頁。〕 ( ( )より重要視される思想家、例えばホッブズやバークの場合は、この問題は常に認識されている。ホッブズは契約論者であり、バー クは保守主義者である。だが彼らの場合、必ず「どのような意味でそうなのか」が次に問われる。フィルマーは家父長論者である、 と言われた場合と比較せよ。 ) ‘Foundations and moments’ in Rethinking the Foundations of Modern Political Thought, Annabel Brett and J. G. A. Pocock, ( ed. ) , Cambridge: CUP, 2006, p. 37. James Tully 337 古田拓也【なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか】 49 50 51 52 53 ◆書評 明治と昭和の間に思想史的断層を 造った「大正大震災」 ── 飯田泰三 ● 尾原宏之『大正大震災──忘却された断層』 (白 水社、二〇一二年) 本書は一見したところでは、二〇一一年三月一一日に起こった かったということにも起因しよう。また「戦後民主主義」の先駆 としての「大正デモクラシー」というイメージがかつてはあった が、その後、戦後民主主義の成果とも否定過程ともいえる「高度 成長」が終焉し、それにともなって「進歩派」ないし「左翼」が 無残に退潮したことによって、戦後民主主義ともども「大正デモ クラシー」も「あまり思い出したくない」存在と化したことにも よろう。 その意味では「大正」は、「明治」 「昭和」と並列されるよりは、 岡義武がかつて言った意味での「転換期」として位置づけられる のが適当なのであろう。本書は、その「転換期の大正」を象徴す ると著者が見る「大正大震災」をめぐる諸相を思想史的に解明し、 稲田大学軍事研究団」事件の意味するもの、⑤「大阪遷都論」を 造」への潮流、 ③「自警団」による朝鮮人虐殺事件の評価、 ④「早 本書で取り上げられたテーマは、 ①「天譴論」をめぐって、 ②「改 その「忘却された断層」をあぶりだそうとする試みである。 える。しかしながら、本書の序章末尾にあるように、本書はあく めぐって、 ⑥ 後藤新平の「帝都大復興計画」をめぐって、 等である。 東日本大震災を受けて刊行された「際物的」出版物であるかに見 まで 「関東大震災を思想史的事件として再定位しようとする試み」 それらはいずれもきわめて興味深い事例の紹介・分析となってお たとえば、尖鋭的な知識青年たちがマルクス主義に向かい、他 として書かれた。そして「この立場からもう一度震災と大正とい 方、大衆がいわゆる天皇制ファシズムに向かうという昭和初期の う時代を捉え直した時に、明治・大正・昭和という歴史の流れの それにしても現在の時点から振り返るとき、明治・大正・昭和 構図は、この震災の前後から姿を現わしてくる。 「 社会科学 」と り、まさに「転換期の大正」が持っていたさまざまの方向性と可 とつづく日本近現代史の中で、 「 大正 」の影が薄いことにあらた いう言葉がマルクス主義の代名詞として登場し、各地の大学や高 能性について考えさせてくれる。 めて気付かざるをえない。それは、大正という年号の付いた年月 中で「大正大震災」がいかに巨大な断層となっているか」が見え が一五年間にすぎず、明治の四五年間あるいは昭和の六四年間に 等学校に「社研」が出来るのもこの頃である。それは、一九一九 てくるはずだと言う。 比 べ、さ ら に 平 成 の 今 日 ま で の 二 四 年 間 に 比 べ て も、格 段 に 短 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 338 派社会主義」 「国家社会主義」 「修正派社会主義」 「ギルド社会主義」 治的デモクラシー」 「ソーシャル・デモクラシー」 「正統マルクス (大正八)年に始まる「社会改造」の動きが当初持っていた、 「政 郎・石川三四郎・中西伊之助・渋谷定輔らにより一九二五年結成) ジア主義」の動きにつらなる。前者は、 「農民自治会」 (下中弥三 洋」志向は、昭和期に入る頃から顕著になる「農本主義」や「ア 「無政府主義またはアナルコ・サンディカリズム」 「 ソリダリテ 完訳者となった高畠素之が、 die Masse の訳語に大衆(元、 仏教語) をあて、 「大衆社」を興して週刊新聞『大衆運動』を発刊したの 「大衆」という言葉の登場もこの頃である。 『資本論』の最初の 斂していったということでもあった。 たことを考えると、ここには「日本ファシズム」の持っていた或 れを生みだした地域が東京周縁の地方都市ないし農村地帯であっ 根幹にした。本書が指摘するごとく、 かの震災時の「殺人自警団」 夫らにより一九三一年結成)に見られるように、 「 農村自治 」を 「日本村治派同盟」 (加藤一夫・風見章・辻潤・武者小路実篤・ ・ や、 権藤成卿・橘孝三郎・高須芳次郎・土田杏村・室伏高信・小野武 が一九二一年である。しかし高畠は次第に「国家社会主義」に傾 「帝都復興完成の年」と呼ばれていた一九二九(昭和四)年は、 るリアリティーが示唆されているかもしれない。 ソシアル」等々の拡がりが、ボルシェビズム派マルクス主義へ収 斜してゆき、ついには「無産愛国主義」を主張するにいたる(一 り上げられている生田長江は、 この一九二三年に評論集 『ブルジョ 本書でいわば徹底した「天譴論者」として内村鑑三と並んで取 向かう動きのかたわら、「モダン日本」 が喧伝された年だった。 「モ 殺事件の責任を取っての田中義一内閣の総辞職等、ファッショへ 年だが、四・一六の共産党員大検挙、山本宣治の暗殺、張作霖爆 一〇月二四日にニューヨーク株式が大暴落し世界恐慌が始まった が、 「隣保相助ける自治精神の芽生え」を持ったものであり、そ 九二八年一二月病没) 。 アは幸福であるか』を刊行したのち、本書紹介のように一九二五 二年後の一九三一年に始まる満州事変→日中戦争→太平洋戦争 年刊の『超近代派宣言』で、 「商業主義よりも重農主義を、都会 →敗戦というその後のプロセスを見るとき、 内村鑑三が言った 「ソ ボ」と「モガ」が銀座を闊歩し、「エロ・グロ・ナンセンス」が流行っ るべき事物』およびシュペングラーの『西洋の没落』から受けた ドムとゴモラ」の世界を襲った「天譴」としてのカタストロフと た時代である。 衝撃のもと、この一九二三年に『文明の没落』を刊行している。 いう「大正大震災」像が、まさに預言的意味を持ってわれわれに よりも村落を、文明よりも文化を、西洋よりも東洋を」と書く。 そして翌年、 『土に帰る──文明の没落 第二巻』を著し、両書は 室伏高信も、 一九二一年の渡欧時に入手してきたラーテナウの 『来 ベストセラーになる。その「文明の没落 第三巻」が『大衆時代 とは別の「ユートピア」を持ちうるのだろうか? 迫ってくるかにも思える。──われわれは、内村の言う「終末」 両者に共通する「近代」批判と結びついた「農村」志向と「東 の解剖』 (一九二八年)である。 339 飯田泰三【書評/尾原宏之『大正大震災』 】 ◆書評 警察研究の比較思想史に向けて ── 梅森直之 ● 宮地忠彦『震災と治安秩序構想──大正デモク ラシー期の「善導」主義をめぐって』 (クレイン、 二〇一二年) 本書の問いの原点は、一九二三年の関東大震災を契機として生 じた、朝鮮人に対する虐殺・暴力事件をどのように理解するかに ある。震災下に生じた自警団による朝鮮人虐殺事件は、現在も史 実の掘り起こしが進められている重要な研究分野であるが、本書 の第一義的な問題関心は、事件そのものの史実的解明には向けら れてはいない。むしろ本書の関心は、震災下の自警団の暴力事件 を通じて露呈した社会統治論の輪郭を浮き彫りにし、その統治論 の来歴を批判的に検討することに向けられている。 “ 「善導」 主義” とは、著者によって名指された、大正デモクラシー期の日本にお いて主流となった社会統治の理論と実践のかたちである。本書の 理論的達成は、 「善導」主義の生成と展開を、資本主義と植民地 や近年の植民地研究の方法や視角も取り入れながら、 「 「大正デモ てきた実証主義的な警察研究の伝統を受け継ぎつつ、比較思想史 る。本書は、これまでもっぱら日本史学や法制史の分野で行われ 徴的な警察思想・実践の特質を彫琢しようとする試みも盛んであ や朝鮮などの旧植民地をも視野におさめることで、近代日本に特 見られる。また近年においては、単に日本本国のみならず、台湾 ジェントであることに関しては、海外の研究者の間で広く合意が 討した第三章、治安維持法制定と「厳罰」主義派の台頭によって 東京、神奈川、埼玉、群馬、千葉のそれぞれのケースについて検 震災下の「善導」主義政策の展開と「朝鮮人問題」への対応を、 鮮人に対する「善導」主義的政策の形成と展開を分析した第二章、 展によってもたらされる社会的緊張を背景に、警察の内地在留朝 する朝鮮人労働者の増加や三・一運動に代表される独立運動の進 の形成と展開を明らかにした第一章、韓国併合以後、内地に流入 たる社会情勢の変化を背景に、警察における「善導」主義的政策 本書は、課題と視角を論じた序章、日露戦争期から米騒動にい 主義と近代国家形成の結節点として、文化論的説明を徹底して排 クラシー」期の警察によって立案・実施され、関東大震災を契機 特徴づけられるポスト震災期の「善導」主義の変容を論じた第四 しつつ、動態的かつ構造的に分析した点に求められる。 に変容していった治安維持政策を、当時の「学士官僚」の打ち出 章に、 全体の議論を要約した終章よりなる。第一章と第二章では、 「優秀な」秩序維持機能を評価するにせよ、 「過剰な」取締を批 した秩序構想あるいは治安維持方針に注目しながら検討する」( )7 判するにせよ、警察が現代の日本社会を特徴づける主要なエー ことで、日本の警察研究に新しい地平を開いた力作である。 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 340 日本人と内地在留朝鮮人という異なる空間・対象を越境する運動 しつつ、 「善導」主義の形成と展開を、日本本国と植民地朝鮮、 り」とした指導下で作られ、震災下の自警団と異なり、その綿密 九年一月に「警防団令」が制定され、警防団は、警察の「がっち して犯罪を防止するような気風」という説明がみられる( 224 ) 。 そして「善導」主義以後に関しては、 「日中戦争突入後の一九三 代表的な「学士」警察官僚である松井茂の思想と行動を補助線と 性のうちに描き出す視座が新鮮である。第三章に関しては、震災 な統制が可能になった」という記述がある( て、朝鮮人に対する自警団の殺戮・暴力事件そのものが矮小化・ の対応に存在したことを明らかにし、同時にそれへの対応を通じ され、かつ同時代の「厳罰」主義との比較・対抗において析出さ 以前の「威圧」的姿勢ならびにそれ以後の「綿密な統制」と対比 節化することでおこなわれる。すなわち「善導」主義とは、それ 主義に対抗したアクターの思想と行動を、 「 厳罰 」主義として分 ) 。ふたつめは構 231 造的な視座であり、これは、大正デモクラシー期において「善導」 下の警察によって把握された「朝鮮人問題」の核心が、朝鮮人に 隠蔽されてゆくプロセスの分析が興味深い。全体の議論を通じて よる「暴動」にではなく、むしろ「不逞鮮人」にまつわる流言へ 本書は、震災下において発生した朝鮮人に対する自警団の暴力行 れる関係概念である。 ここで問題となるのは、「善導」主義の対抗概念であった「厳罰」 為を、大正デモクラシー期の治安維持構想において主流の位置を 主義の意味づけである。大正デモクラシー期を通じて「善導」主 占めてきた「善導」主義の失敗を象徴する事件として意味づけ、 義と対抗関係にあった「厳罰」主義は、それ以前の「威圧」主義 治安維持法の制定に主導的役割を演じた平沼騏一郎ら司法省検事 その「失敗」の根本的要因を、 「不逞」と「善良」の境界が流動 局を中心とする人脈の「厳罰」主義にもまた、けっして前時代的 化せざるをえない韓国併合後の植民地情況の進展のうちに求めて 比較思想史的問題関心のなかに本書の「善導」主義を位置づけ な「威圧」主義には還元されない「近代」性の刻印が見いだされ ならびにそれ以後の「統制」主義と、いかなる関係性のうちに把 るとき、興味深い問いのひとつは、そもそも「善導」主義とは、 るはずである。この意味において、 「厳罰」派人脈の、思想と行 握されるべきか。社会主義思想に対する社会防衛論的発想を色濃 何に対する概念なのかということである。著者は、この問いに対 動のさらなる検討は、本書の主題である「善導」主義概念の明確 ゆく。こうしたグローバルな問題構成により本書は、当該時期の して、ふたつの視座から解答を与えている。ひとつは歴史的な視 化に資するとともに、その変容の向こうに、日本ファシズムの特 治安維持構想に関する実証的かつミクロな分析を、構造的かつマ 座であり、これは、 「 善導 」主義をそれ以前と以後に主流であっ 質を見通すための重要なステップになりうるのではないか。 く持ち、一九一一年の大逆事件のフレームアップと一九二五年の た治安維持構想と対比することでおこなわれる。 「 善導 」主義以 クロな比較思想史的問題関心と接合することに成功している。 前に関しては、 「薩摩閥を中心とした旧来の警察の、公衆を威圧 341 梅森直之【書評/宮地忠彦『震災と治安秩序構想』 】 ◆書評 自己を更新し続ける思想史 ── 田頭慎一郎 基盤とした横井小楠と元田永孚である。彼らはともに、進行する 国内外の社会秩序の変化に対応するため、自己の思想を更新して いく。しかし、それは単に時代の変化に追随するのではなく、彼 らが理想とする「善教仁政」を目的として残しつつ、その実現手 段を転換していったことが明らかにされている。 小楠は、 「自己利益を求め競争する市場社会の行動様式が一般 著者は本書以前に四冊、本書以後にも二冊の単著を公刊してい 時期に実際に洋行した伊藤博文などにも見られ、特段珍しいこと た西洋諸国を「三代の世」が実現されている地とする理解は、同 代の世」の「仁政」を可能とする。産業政策によって豊かになっ ● 化する「利欲世界」へと、現実世界は変貌した」 ( 一七五頁 )こ とを前提に、それを特徴づける商業と交通の発達を利用すること で、 「仁政」につなげる構想をもった。小楠によれば、奢侈が「気 るが、本書は著者初の「硬派」 ( 二八三頁 )な既発表論文十本が ではない。しかし、著者が小楠に着目した点は、 「 仁政 」を構成 苅部直 『歴史という皮膚』(岩波書店、 二〇一一年) 習」となっている以上、後戻りはできず、また西洋諸国で行なわ 加筆再編された論文集である。収録論文は、主に二〇〇〇年代に れている富国策こそが、 重税を賦課せずに民の生活を保護する 「三 書かれたものであるが、本書最後に収録された「 「 利欲世界 」と する各人に価値観、出身母体、立場、習慣などそれぞれにしみつ ているところである。つまり、小楠において明確な理想状態が設 いた「気習」があることを前提に、めざすべき政治秩序を構想し 定されつつも、現にある多様な価値観、また他者性を前提に政治 め、便宜上順に「第一章」〜「第十章」と呼ぶ)のみは、一九九 一年に発表されたもので、著者の修士論文を元にしている。しか 「公共之政」 」 (以下、 「第十章」 。本書は各論文に章立てがないた し、この論文は単に未収録論文であったにとどまらず、本書全体 しかし、同様に朱子学由来の「仁政」をめざした元田永孚にな 秩序が構想されているのである。それを公的に実現する手段は、 ると変容する。国内の党派分裂、帝国主義化する国際情勢、経済 為政者も含めて「天下」と共に「討論」することであった。 第十章で対象となるのは、 「政治社会の構成員が、たがいに仁 のテーマや思想史研究の方法を示した作品でもある。この書評で 愛を及ぼしあい、全体の相互調和を達成している姿が、 「 理 」の 発展のすえに国内の分裂が起きている西洋諸国の現実が知られ始 は、まず第十章から見ていくことにする。 実現としての「公」のあり方」 ( 一七五頁 )という朱子学を思想 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 342 偏無党ノ王道」が布かれることで、 「民」を「真ノ自由」へと強 めたからである。元田は、「公論」 を体現した 「有徳君主」 による 「無 前提に皇室制度の考察をし続ける必要がある。しかし、著者は、 このような皇室に対する「何らかの特殊な感情」 ( 一一九頁 )を 化していった。しかし、 「天皇をめぐる意識はあいまいに漂った その「感情」が、 「血と土」といった要因によって、皇室制度へ 状態であるのに、あるいはそのゆえにむしろ、暴力を背景にした と強く結びつき、 「感情」が「信仰」へと発展して、他を排除す つ、元田にみられる他者性の排除の危険が伴う「普遍主義」を回 社会のタブーが、 一九九〇年代を通過して厳然と生き続けている」 制する秩序を構想した。ここでは、もはや小楠にあった他者感覚 避しながら、小楠が構想した異質な他者を前提に寛容な「公共之 (一四〇頁)と指摘するように、皇室への無関心から、 「突如とし は摩滅している。各人の「気習」を如何に調和状態へと導くかで 政」の可能性を追求した人びとである。すなわち、多様な宗教や ての激しい一体化」という精神状況が生じる可能性にも目を向け るような不寛容が生じることを強く警戒する。もっとも、こうし 文化を超えた「和親」に務めるフリーメイソンリーに共感した吉 ていかなければならない。その中において、久野収の「多民族国 た「血縁」による皇室への特別な「感情」は、戦後を通して希薄 野作造(第二章) 、理解しがたい他者との交流に自由観の基盤を 家のシンボル」としての天皇という提案を高く評価している。天 本書に登場する主人公たちは、各人が「理想主義」を志向しつ 形成した九鬼周造(第三章) 、多文化がゆるやかに共存する東亜 皇論も多様な価値観を包摂する「公共之政」のために更新してい はなく、普遍的な「公」の名の下に調和が強いられるのである。 新秩序を構想した中村哲(第四章) 、ネイションを少数文化や異 に陥りやすいナショナリズムを否定するのではなく、 「飼い慣ら ぐる議論という、まさに「血筋」の問題から表出した。これらは はじめた。しかも、そのきっかけは皇統の「男系」 「 女系 」をめ ナショナリズムの中から、二〇〇〇年代に「天皇論」があらわれ しかし、皇室に対する関心の希薄さが特徴とされた九〇年代の くのである。 文化に開かれたものに再定義した南原繁(第五章)たちである。 しかし、著者は、単に多文化に寛容な政治構想を叙述したので し方」を提示するところに、著者の論考の鋭さがある。そして、 一般に普及したものかどうか疑問ではあるが、無関心という「皮 はない。各人の「気習」に注意を怠らない。とりわけ、他者排除 本書において、第六章と第八章が副題に「天皇論」を掲げてい 日本思想の文脈において、天皇の存在がクローズアップされる。 膚」の内側で脈打つ「血」の問題の根深さはみられるであろう。 日本思想の文脈の中で、自己と他者の相違を自覚しつつ、共生 そうした意味でも、本書が提示した議論は示唆に富んでいる。 の秩序を形成する。本書は、 その可能性の考察へと導いてくれる。 るのでいうまでもないが、第九章の福澤論を除いて、天皇やその と関連する。例えば、 「 天皇制 」批判に転じた中村哲が王権神話 神話との関係が論じられる。それは、日本思想における「気習」 をライフワークとした姿に、根深い「気習」が見られるように。 343 田頭慎一郎【書評/苅部直『歴史という皮膚』 】 ◆書評 一 「 心不独立 の 」国 ── 吉馴明子 とした。これが「官民調和」の理由であったと述べる。しかし、 この構想は革命の徹底を求める民権派からは反発され、皇道主義 を採用した政府側からも見放されて雲散霧消した。しかも、十四 年の政変で追い落とされたダメージを軽く装ったために、プロシ ア風外見的立憲制国家への進路変更の持つ重大な意味を見誤り、 功したのである。この過程を我々の目の前にはっきりと描いて見 ルであった。 「井上毅の気配り通り《冥々の間》に人心操作に成 ● しかし、六章では、十四年の政変直後に現れた「言論封じの風 国民国家形成のイリュージョンにしがみつくことになったとする。 潮」には敏感で、福澤がその危険性を警告し続けたことについて 述べている。それは、福澤が「文明社会」の形成を維新革命のも 維新革命によって日本は果たして近代国家を実現することがで せてくれるのが、第Ⅰ部学校、特に第三章中等学校の形成と展開 伊藤彌彦『未完成の維新革命──学校・社会・ 宗教』(萌書房、二〇一一年) きたのか。伊藤彌彦はこの課題を政治史から教育史にまで広げて である。 伊藤は言う 「明治十四年の政変」 は明治維新におけるテルミドー う一つの柱に立てていたからに他ならない。 研究生活に入った時から追求してきた。 この問いに対する結論が、 命主導者の地位から追い落とされたことが明らかにされたが、本 徳知体制への籠絡に成功した井上毅によって、福澤諭吉が維新革 一九九九年に刊行された『維新と人心』では、 「 人心 」の天皇 自由に規制緩和し、学士院を創設して高等教育を政治権力から独 吸収する装置が出来上ったとする。第二章では、この学制をより 可能にして門閥秩序を解体し、優秀な人材を磁石のように国家に て地方の漢学塾の伝統を断ち切り、 「 下から上への社会移動 」を 主義と結びついた機会均等」を基本精神としており、これによっ が、 「富私報国、旧学打破、欧米モデル、教育の国家統制、能力 その前史として第一章では、 明治維新早々に発布された「学制」 維新革命は「未完成」である。それどころか、日本は「政治宗教 の国」となった。それはどのような事由によるのか、これを第Ⅰ 書第五、六章ではもう一度福澤を主役としてこの過程を描き直し 立させようとした田中不二麿の仕事について述べる。 部学校、第Ⅱ部社会・宗教の二部構成で展開した。 ている。すなわち第五章では、福澤は維新革命のソフトランディ この田中が「自由教育令」に託した望みが、一八八〇年、森有 ングを目標に、 「薩長政権を維新革命の推進集団として認知し、 彼らの主導の下で」民権勢も協力して、国民国家を実現するべし 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 344 礼の文相就任により覆されてしまったことを第三章で明らかにす である。田口を受け継いだはずの徳富蘇峰は、 平 「 民主義 語教育に用ひ」 「就業教育」を充実して、 “旧魂実才”の中等人民 抗しようとした。さらに、井上毅が文相に着任すると、 「意を国 身・和漢文を強化して、自由民権青年を作り出した西欧思想に対 化したことも見落とすべきではなかろう。井上は、 「法律上宗旨 あった。本書では 打 「 ち上げ花火」として処理された内村不敬事 件で、宗教は心の内、道徳は伝統的習俗に従えという主張が一般 る国家であった。宗教領域でも政策の基本を定めたのは井上毅で 徹できなかったかを、 「教 の 」 なかの「宗教」面から概括する。 戦前日本を貫いていたのは神道国教体制、宗教を政治的に利用す 最後の第七章 政治宗教の国・日本」では、 政教一致を伝統 「 「 とする儒教文化圏 の 」 日本が、いかなる意味で 政 「 教分離 」を貫 田舎 」「 る。森は中学を天皇制国家体制に接合すべく強引に「国家化」し 紳士 を 」以て 中 「等社会 に 」よる社会変革を語った。しかし彼は“中 等社会の堕落”という現実に、 平 「 民社会 に 」 拠ることを諦め「日 本」に身を委ねる者となる。 た。一府県一中学という形で公立名門中学ができることで、不況 も重なって民間私立中学校が淘汰された。一八七九年には七八四 校にも達していた中学は八四年には一二三校、特に私立中学は六 七七から二校へと激減した。私立中学の激減は、国民自らの手に を作ることを目指した。明治十四年の政変に先だって、教育は一 よる教育の可能性の否定を意味する。またカリキュラム面では修 足先に天皇制体制へと組み替えられ、一九〇〇年頃までに確実に ズ」とした。この原則の持つ意味が表に出たのが一八九九年の文 ノ自由ヲ公布ストモ行政上認可教ト不認可教トノ別ナカルベカラ 第四章では、 『東京経済雑誌』の編集者、 『日本開化小史』の著 民教育理念に収束しえない宗教教育を、学校教育から除外するシ 社会に定着したと伊藤は述べている。 者田口卯吉を、この時代を 改 「 革者流 に 」 生きたサンプルとして 取り上げ、その経済論や文明史論を政治思想史の観点から紹介し ステム」 であった。この原則が緩和された時期もあった。しかし、 キリスト教側の教育現場で「 道徳的 」な有効性を示したいとす 部省訓令一二号であった。それは、キリスト教を初め「天皇制国 ている。詳しくは本論に譲るとして、この時期の論客として伊藤 社史、新島襄研究というサイドワークもある。キリスト教が「保 スト教の国家への協力/従属へは一直線である。伊藤には、同志 る願いから、宗教教育は、 国 「 民道徳に適合する」教え、 宗 「教 的情操」に衣替えされてしまった。ここから戦時下におけるキリ 制を撃破したこと、②西欧文明とのギャップを 平 「 民開化 と 」い う考えを入れることによって、日本社会の問題として捉えること が田口を評価するのは、① 保 「 生避死 原 」 理によって人間の活動、 歴史の進化を功利主義的、実証主義的に把握し、身分制社会の遺 を可能にしたこと、③さらに徹底した実証主義的態度を貫くこと は重い。 守したのは教団組織なのか教理・信仰なのか」という伊藤の問い によって、かたや 天 「 祖天神 に 」 よる天皇の統治という考え方を 斥け、同時に社会進化を“優勝劣敗”的に捉えるのを斥けたこと 345 吉馴明子【書評/伊藤彌彦『未完成の維新革命』 】 ◆書評 重層性から核心へ ── 半澤孝麿 関わる諸作品も視野に入れて、まず前半の諸章でロゴス(言、理 性) 、アルケー(始まり、原理、統治) 、ト・コイノン(公的なも の)ディカイオン(正) 、クテーシス(所有) 、フロネーシス(知 慮) 、ヌース(直知)等、中心語彙の検討を行う。そして、この 作業を踏まえ、本書の中心と見られる「国家論の構造」の章を経 て国際秩序論にまで進んで行くが、そこで用いられる諸概念の中 も、ラテン語訳とその現代諸国語訳に安易に依存せず、自ら直接 かった著者二十五年の苦闘の軌跡である。その知的誠実は何より ロッパ古典学の膨大な蓄積、本書はそのすべてに正面から立ち向 だったギリシア語の陰翳を理解する困難、さらに先行するヨー 性とは異なり、はるかに限局された古代地中海都市文明の言葉 た文脈の不分明、広大な世界の共通言語となったラテン語の明晰 になる最初の労作である。テクストそのものの不確定性、書かれ 皆無に等しかった。本書は、この欠落を埋めるべく政治学者の手 読文献である。にもかかわらず従来わが国ではその包括的研究は アリストテレス『政治学』は、すべての政治思想史研究者の必 正議論の視角から書かれた作品である」という言明が示唆するよ を主題としながら、同時に、 「 『政治学』は全体として規範論的な 念と経験的現実との対応関係における「重層性」の意味論的分析 評者の見るところ本書は、一方アリストテレスの駆使する諸概 は言い難い本書の基本的枠組みを、評者なりに抽出してみたい。 起するためであろう。以下、論題の広大さだけからしても平易と 近代政治思想史に対して持った圧倒的な形成力に読者の注意を喚 パラダイム〉 ( と で も 呼 ぶ べ き も の )を 通 し て ア リ ス ト テ レ ス が 論じている。それも、 従来正当に認識されて来なかった〈トマス・ 題された終章でも、もっぱらトマスによるアリストテレス継受を 戦と読める。著者は「アリストテレス政治哲学の現代的意義」と 創出するアメリカ流「再構成」 (F・ミラー)の実用主義への挑 ● に重層性を読み込む作業は止むことはない。それを貫く方法意識 は、テクストの意味についての問いへの答えもまたテクストの中 に探索する、という徹底したテクスト内在主義である。 「重層性」 という表題自体が、現代の思想史研究を支配してきた対象の単一 にギリシア語彙の邦訳を模索し直す姿勢に示されている。著者は 荒木勝『アリストテレス政治哲学の重層性』 (創 文社、二〇一一年) 『政治学』を中心に、 二つの『倫理学』はもとより、『形而上学』 、『魂 うに、その「政治哲学」の核心の究明を目指す、という二重の課 概念への流し込みや、抽象的概念を外挿して勝手に問いと答えを について』 、 『弁論術』 、 『アテナイ人の国制』その他、実践倫理に 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 346 スにおける、 「正」に裏付けられた秩序の実現たる「無条件的な わゆる国制論)の位置付けにも一定の留保を付し、アリストテレ 縦軸に眼を移せば、 見逃せないのは、 世に名高い中間国家論(い に重層化するかに見えるのもそれと無縁ではないかもしれない。 とはいかないのではないだろうか。 「 重層 」の意味それ自体が時 個々に同定するのは、 「 ヌース 」の直知性をもってしても一義的 本的には同意するにしても、分節された意味を再統合する原理を ぞれの「言」の中心的意味が見出される、という著者の言明に基 は認識において対象を分節化すると同時に統合もし、そこにそれ も見逃されていない。ただ、 一つだけ感想を述べれば、 ロゴス (言) 疇でありながら、また実践倫理の言葉でもあるという周知の事例 ん、一つの言葉がプシュケー論のように第一義的には自然学の範 分類の下に連続二六に細分されることなど、示唆に富む。もちろ 含むという指摘、有名な政体六分類論が著者によれば、二つの大 統治という二つの概念が、実はそれぞれ異なると同時に連続をも ら例示すれば、多く原理的対立とされてきた市民的統治と奴隷的 の分析を試みた際、文字通り同じ困難を味わった。本書の分析か 者の主張には十分な説得力がある。評者もかつて 「フィリア」(愛) の日本語で再現する困難を考える時、重層性分析を主題化する著 他方でそこに絶えず目的論的な普遍を見るアリストテレスを現代 一方で分類に徹して事物の究極の「個」の「本質」を描きながら、 それらに統一を与える縦軸であろう。まず横軸について言えば、 題構造を持っている。前者を本書の複数の横軸とすれば、後者は 育論の最大の特徴だったことも事実である。 とも十七世紀までヨーロッパ政治思想の形式を支配した、君主教 主義とマキアヴェリズムとの紛れもない〈重層〉は、以後少なく く著者の禁欲はそれを許さないのかもしれない。だが、高い理想 ア王権への配慮を垣間見る思いがするが、テクスト内在主義を貫 た繰り返されている。評者はそこに、アリストテレスのマケドニ 徹な組織論、政策論、市民の心理的・肉体的操縦などの提言もま なく、 「立法者」に向けられた、善き共同的生の実現のための冷 これと対照的に、確かに『政治学』においては、中庸論だけでは の「国制」論は、 共和政的な政治イメージと親和的と思われるが、 へと向かう人間の理性的選択能力に訴える『ニコマコス倫理学』 ある。しかし、この解釈には賛否両論があるかもしれない。卓越 一人の統治者こそあらまほし」 ( 『形而上学』第十二巻第十章)で をえない」ことを強調する。まさに「多数者の統治は善ならず、 隷主的統治の対極に立つ、自由人による自由人の統治とならざる 程であったと捉えられて」おり、したがって「正当な王政は、奴 あり、 「 家から国家への移行はいわば連続的断続ともいうべき過 したこと、そして、家長の父親的統治と王政とは強い類縁関係に 政治的権威の一元化傾向に対する大いなる関心」が本質的に存在 政治学の中には「市民参加、政治的複数主義、法治主義と並んで、 めには指導者の強い意欲と組織力が必須と考えていたこと、彼の は、アテナイの歴史をよく知るアリストテレスが、国家形成のた い意志である。ここで著者の議論は明快かつ挑戦的である。著者 意味での最善の国家体制」の原理と姿を見出そうとする著者の強 347 半澤孝麿【書評/荒木勝『アリストテレス政治哲学の重層性』 】 ◆書評 ホッブズに潜在する複数の視座 ── 梅田百合香 ホッブズとブラモールの自由意志論争を分析し、ここからホッブ ズの内にある相矛盾する三つの視座(神の視点、審判者の視点、 行為者の視点)を析出する。次にこの三つの視座を手がかりに、 三章では『物体論』をもとに原因概念を、四章では情念論を考察 し、ホッブズの思想の中にある三つの異質な自然像(物的自然、 規範的自然、 人間的自然)を抽出する。そして最後の五章では『リ り主権者による国家の制作の一方性を指し、 「 自然 」は契約説つ 自然」はこの二つの側面を含意しており、 「 人為 」は制作学つま 学に制作学と契約説の二つの側面を見出す。タイトルの「人為と 位置にあることを明らかにしようとする。著者はホッブズの政治 の関係を問うことにより、ホッブズが哲学史上近代への過渡期的 転換にあるとし、 ホッブズの政治思想における「人為」と「自然」 と「自然」の変容、すなわち目的論的自然から機械論的自然への 本書は、中世から近代への移り変わりは「人為」の原理の台頭 ブリッジ学派への野心的な挑戦である。著者は歴史的文脈を重視 研究史との関係でもう一つ印象的なのは、方法論におけるケン 由・必然・偶然に関する諸問題』や『物体論』に重点を置いている。 作に中心を置くのではなく、 人間論や物体論が展開されている 『自 両者の結びつきを見て取るのである。本書の分析は、政治的諸著 これと類似した緊張関係が政治哲学にも見られるという意味で、 然哲学は異質な二つの自然像という緊張関係を抱えているとし、 たうえで政治哲学との関連を見るものではない。反対に、その自 めるが、しかしそれはホッブズの自然哲学を体系的な哲学と捉え かという有名な論点がある。本書は両者の間に弱い結びつきを認 ● ヴァイアサン』に焦点を当て、 三つの自然像を分析枠組として「人 為」と「自然」の関係を検討し、一方でホッブズの政治思想にお ける制作学の優越性と、他方で相矛盾する複数の自然像に中世的 まり人間間の相互性を表象し制作の一方性に一定の制約を加える するスキナーをはじめとしたケンブリッジ学派を「顕微鏡で分析 川添美央子『ホッブズ 人為と自然──自由意 志論争から政治思想へ』(創文社、二〇一〇年) 枠組を示している。また副題にあるように、本書は自由意志論争 するかのごとき」アプローチとして批判する。そして、より長期 研究史上、ホッブズの自然哲学と政治哲学は連関しているか否 思考の残滓を読み取るのである。 から読み取りうるホッブズの矛盾を軸に立論されており、これが 的な思想史的文脈のなかに思想家を位置づける 「望遠鏡での観察」 本書の大きな特徴となっている。 一章、二章では『自由・必然・偶然に関する諸問題』を中心に 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 348 献をなすものであり、画期的な労作だといえる。 論に関する研究が依然手薄な日本のホッブズ研究に対し大きな貢 密な読解と大胆な問題提起を展開する本書は、自由意志論や物体 効であると主張する。このように、明解な分析枠組に基づいた緻 プローチのほうが、時代を越えた普遍的問題を考えるうえでは有 を取り入れた、ザルカを筆頭とする大陸ヨーロッパの哲学史的ア が著者は、機械論的哲学の視点をいったん「神の視点」と言い換 でものを見る視点とされる第二と第三の視座と区別する。ところ の第一の視点は「神の視点」に言い換えうるとして、人間の次元 の視点であるが、著者は全てを必然性の下で見る機械論的決定論 に至るまでの過程に着目する視点である。この三つの視点は人間 ら眺める視点。第三の視座とは行為の当事者の立場に立ち、行為 しかし、必然性に支配される物体へのホッブズの眼差しは、行 えうるとした後は、第一の視座が人間の視点でもありうるという 為者である人間が行為の長い因果連関の過程を遡及したその先に 当初にはあった見方を完全に消し去ってしまう。そしてこの「神 意志論者のブラモールや「自然の働きへの信頼」を有するデカル 神とのつながりを発見する視点ともいうことができる。ホッブズ 本書が読者に与える最も大きなインパクトは、その独特の叙述 トやスピノザの論理に即して、ホッブズの矛盾を抉り出すという には、因果連関のプロセスを、第一原因たる神の側から見て叙述 の仕方─対立者に立脚したホッブズの論理的亀裂の追究─であろ 議論の組み立て方となって現れる。思想家の中に無意識に混在す する場合と、行為という結果を現出する人間の側から遡及して見 の視点」 と残り二つの人間の次元の視点との不一致を根拠として、 る複数の課題を解明するために、本人の意図とはあえて距離を置 て叙述する場合があり、これを「神の視点」と命名して一方の側 三つの異質な自然像を導出していく。 いて矛盾点を積極的に抽出するという方法は、一つの有意義なア だけに限定する必然的な理由はない。元々有していた側面を捨象 う。本書は「明示的に言語化された意図からは一旦距離を取るこ プローチであると思われる。しかし、この批判的分析の手法はし して矛盾をつくのは、読解の仕方としてフェアではなかろう。こ と」を分析の厳格な方針とする。それは対立者の側、つまり自由 ばしば、ホッブズの意図と距離を取ろうとして対立者の側に軸足 こうしたリスクと隣り合わせであっても、ホッブズを徹底的に追 を置くあまりに、著者自身が対立者の論理に強く引っ張られてし い詰めていくその論法は、隠れた課題を解明せんとする著者の強 の捨象は、著者が著者の「意図」を超えて自由意志論側に軸足を 対立者の批判に即しながらホッブズを論難するという叙述の仕 烈な問題意識を滲み出しており、本書の魅力にもなっているので 深く置きすぎたことから生じているのではないだろうか。 しかし、 方は、本書の分析の基礎をなす三つの視座の導出においてとくに ある。 まっているような印象を与える。このことは本書の論証に疑念を 顕著である。第一の視座とは人間を物体と捉える機械論的決定論 抱かせる結果をもたらしかねない。 の視点。第二の視座とは行為者の行為を事後的に第三者の立場か 349 梅田百合香【書評/川添美央子『ホッブズ 人為と自然』 】 ◆書評 デモクラシーにおける政治・宗教・ 文学の空間 ── 古 城 毅 ● 髙山裕二『トクヴィルの憂鬱──フランス・ロ マン主義と〈世代〉の誕生』(白水社、二〇一一年) 分は何者でもない」という怖れに強く苛まれ、 「憂鬱(メランコ リー) 」にしばしば陥った。そして、 そこから脱するために、 当時、 才能ある若者に対して比較的開かれていた文学・ジャーナリズム の世界に活躍の場を求めた。それは、同人誌よりも開かれた読者 層をもつ一方、大衆商業誌とは異なり、政治・社会・文化に関す る幅広い情報を提供するような雑誌・新聞が林立する世界であっ た。しかし、彼らの不安は、そこでの「立身出世」によっては十 分に解消されなかった。そのため、伝統的な宗教に代わる絶対性 を求めて、まずは歴史哲学や抒情詩に傾倒し、やがて汎神論的な これに対して、貴族の家に生まれ、かつジャンセニズムの影響 社会構想を奉じるようになった。 を強く受けたトクヴィルは、 「ロマン主義世代」と「憂鬱」を共 ことを自覚する一方、汎神論には向かわず、懐疑に苦しみながら 有しつつも、 異なる道を歩んだとされる。すなわち、 七月革命(一 も、 社会の外部にあくまでも神を仮構しようとした。その一因は、 本書は、身分制から平等原理への移行期であった一九世紀前半 まず第一部と第二部において「ロマン主義世代」とトクヴィル トクヴィルが遅くとも『アメリカのデモクラシー』第二巻(一八 のフランスを生きたトクヴィルを、彼と同世代の思想家・文学者 の相違が浮き彫りにされる。著者によれば、「ロマン主義世代」 は、 四〇)の時点で時代認識を改めたことにある。すなわち、彼は、 八三〇)の直後にアメリカ合衆国を訪れたトクヴィルは、彼の地 身分制および伝統的宗教が一時的に消滅したフランス革命期、あ 七月王政(一八三〇─一八四八)の支配的趨勢は、身分制の消滅 の荒野において、自分がシャトーブリアン流の孤独には満足でき るいはその直後に生を享け、ナポレオンの雄姿に憧れて育ち、復 に伴う社会的ダイナミズムの増大ではなく、平等化に伴う、無関 たち──バルザック、ユゴー、ラマルチーヌ、ルルーら「ロマン 古王政(一八一四─一八三〇)という過渡期──身分特権が原則 心の一般化や欲望の卑小化であり、そうした趨勢こそが汎神論を 主義世代」──と比較し、彼らが提示した社会構想──政治・宗 的に無くなり、かつ信仰が揺らぐ一方、貴族層およびカトリック ず、他者からの評価を渇望する「ロマン主義世代」の一員である 教会の力が残存した時期──に青年となった世代である。 彼らは、 生みだすのだと考えた。それゆえ、この傾向と闘うためには、定 教・文学の独特な連関──を理解しようとする労作である。 ナポレオンの如き偉業を達成したいという大望を抱く一方で、「自 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 350 点・権威としての唯一神の下で、個々人が活発に理性を行使しな 義世代」のそれと比較しつつ、繊細な筆致で極めて魅力的に描い と活動への情熱を失わないトクヴィルの思想の軌跡を「ロマン主 とを指摘する。無関心、財欲、 「 憂鬱 」が一般化しやすい平等社 公衆が大きな役割を果たすような政治を標榜するようになったこ ていたアメリカ的な自治重視の政治に代えて、メディアを介して 様な論題を扱う雑誌・新聞が豊かに流通していたが、旧秩序の残 あった一八二〇年代のフランスでは、商業性を帯びながらも、多 榜するようになったことの含意である。平等社会への移行期で 点を挙げたい。第一に、後年トクヴィルが公論重視型の政治を標 その上で、本書が評者に喚起した諸々の関心のうち、主要な四 読者をいざなう、本格的な研究書の登場を深く喜びたい。 た点にある。不安と希望が交錯する一九世紀前半のフランスへと ければならないと主張するようになった。 以上のような思想地図を描いた上で著者は、第三部において、 会では、神への信仰と並んで、名誉を求める政治家と、政治に関 滓が七月革命によって除去されると、これらはかえって衰微し、 七月王政後半期に野党政治家となったトクヴィルが、従来支持し 心を寄せる公衆とによって成り立つ政治空間が必要であると考え クヴィルが当時のカトリック、プロテスタント双方に対して違和 たからである。そのため、この時期のトクヴィルは、復古王政期 感を抱いていたことを指摘する ) 。第三に、このようにトクヴィ 大衆商業誌が主流になったとされる。それでは、トクヴィルは活 しかし結局、 「ロマン主義世代」もトクヴィルも、政治的には ルの政治構想を捉える時、翻って、従来彼の特徴と考えられてい 発な言論空間の再生に向けた戦略をどの程度持っていたのだろう 敗者となった。二月革命が暗転し、 ルイ・ボナパルトの簒奪によっ た自治論・アメリカ論、およびこれに着想を得た後代の大衆社会 のそれに類似したジャーナリズムの世界を再興しようとしたり、 て第二帝政が成立したからである。それでも、トクヴィルは遺作 論や参加民主主義論はどのように再解釈されるべきなのだろう 無関心に陥った国民の自尊心を呼び覚ますために対外的な強硬路 『旧体制と革命』において、保守化するどころか、フランス革命 か。最後に、このような政治構想と強硬なナショナリズムの連関 か。第二に、そのような空間を支えるべき、晩年のトクヴィルの 初期に一瞬煌めいたフランス人の自由への情熱を──七月革命へ をトクヴィルが示唆している点はどのように受け止められるべき 宗教秩序構想とは、いかなるものだったのだろうか(著者は、ト と突き進んだ一八二〇年代の「ロマン主義世代」の活気と重ね合 だろうか。これらはみな極めてアクチュアルな問題のように思わ 線を支持したり、産業化に伴う貧困問題に対して、社会主義者と わせるようにして──讃え、より良い未来の到来を信じた。そう は別様に取り組もうとしたりした。 著者は強調する(これはもちろん、フランソワ・フュレ的なフラ れ、該博な知識を有する著者による、更なる論考を待望したい。 以上のように、本書の特徴は、 「憂鬱」に沈みながらも、思索 ンス革命・トクヴィル解釈への批判である) 。 351 古城毅【書評/髙山裕二『トクヴィルの憂鬱』 】 ◆書評 ヒュームの哲学と社会科学を どう架橋するか ── 犬塚 元 八二年以降の既発表論文から成るが、著者は、この間の内外の成 二冊を「相互補完的」と自ら説明するように、坂本のヒューム 果を組み込みながら丹念に修正して一冊にまとめてあげている。 像は、その基本において揺るぎなく同一であり、近代商業社会の 分析者にして擁護者である。 「文明社会論」から「ヒューム社会 科学の形成と展望」に焦点を移した本書は、経済思想にとどまら ない諸相に注目するとともに、ヒュームやスミスをめぐる解釈を その学問性を強調して、坂本はこの思想史研究の「遺産」 「伝統」 ● 糸口に、日本の社会科学における西欧思想史研究も吟味する(第 九章) 。それは、今日の方法論的観点からはともすればナイーヴ と却下されかねない、戦後の「市民社会論的思想史研究」の再評 を理解する。禁欲的な歴史研究ながらも、鋭敏な問題意識を随所 坂本達哉『ヒューム 希望の懐疑主義──ある 社 会 科 学 の 誕 生 』( 慶 應 義 塾 大 学 出 版 会、 二 〇 一一年) 二〇一一年は、一八世紀思想が多く話題になった。大震災の経 価作業である。同時代的な問題意識の存在を認めつつも、しかし 験は、一七五五年のリスボン大地震が啓蒙思想に与えた衝撃に関 に隠さない本書は、この「遺産」を十全に継承している。 世界は可能なうちで最善で、われわれの経験する苦しみや悪は、 含まれる国際水準の成果であり、ヒュームの「覚え書き」の執筆 三点について本書の特色や独自性を指摘できる。第一は、ここに 論文集としての本書には様々な議論が含まれるが、少なくとも 心を向けた。悲惨な震災ゆえに、ヴォルテールの『カンディード 神の予定した因果連関のシステムのなかでは大きな善と結びつい て曖昧となった分析概念からは離れて、問いと解答と根拠を自ら または最善説』は、神の善性や全能性を疑う。神の創造したこの ている。 「最善説 optimism 」として結実したライプニッツのこう した弁神論を──ジェノサイドののちにレヴィナスが弁神論の終 の言葉で明確に語る本章は、方法も内容も最先端に位置する。 ともに本書を得た。サントリー学芸賞と日本学士院賞を受賞した が国内外で相次いだ。われわれは、 『 思想 』のヒューム特集号と さらに生誕三〇〇年ゆえに、ヒュームをめぐる学術集会や出版 て共和主義概念を定式化して、アリストテレスからヒュームまで 本はここで、「徳の支配」 「法の支配」 「人民の支配」の三原理によっ のは、ヒュームを共和主義の系譜に位置づける第七章である。坂 第二の特色は、政治思想への分析の拡張であり、独自性を誇る 年代をめぐる文献学的考察が白眉である(第五章) 。使い古され 焉を宣告したのと同じ理由から──ヴォルテールは退ける。 前著『ヒュームの文明社会』 (一九九五年)に続く本書は、一九 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 352 思想そのものとも言える。 本章は、 西洋政治思想史におけるヒュー 法を通じて析出される系譜は、共和主義というよりは西洋の政治 た」として、分析概念が操作されるからである。しかし、この方 幅に修正することにより、多様な種類の共和主義的言説がなされ やロックが含まれるのは、上記三原理の「一部あるいは全部を大 の展開を論じる。異色なことに、この共和主義思想史にホッブズ づく限り、奇跡もデザイン論証も疑わしい、というのである。 続けて啓示・自然宗教を懐疑に晒す。人間の因果推論能力にもと 推論を批判する立脚点となる。ヒュームはこの観点を応用して、 認識論的転回は、人間の因果推論能力を吟味して、不適切な因果 精神活動の産物として捉えた点にある。因果論におけるこうした の独自性は、因果関係を対象間の関係でなく、経験にもとづいた 因果理論は、初発から「道徳学」やとりわけ「政治学」の方法論 架橋するか、という難問に解答した第一章である。 「ヒュームの 最も野心的な第三の独創は、ヒュームの哲学と社会科学をどう ことは、自然秩序にも社会秩序にも因果連関の体系的構造が存在 会科学との双方に適用可能な因果理論」を構築したにせよ、この 慎重に区別せねばならない。つまり、ヒュームが「自然科学と社 第四に、因果法則と、秩序全体を貫く因果連関の体系的構造とは、 を導くデザイン論証に対するヒュームの批判をふまえるならば、 世界の秩序という「結果」から神の存在や計画という「原因」 的基礎として構想され」 、 「自然科学と社会科学との双方に適用可 ムの位置をめぐる解釈として読解したほうが実り多い。 能な因果理論」によって、 「 自然科学をモデルとする社会と歴史 説明は哲学・歴史学・政治学などの学問の本質的属性であり、過 の歴史叙述や政治学に共通した属性である。ヒューム自身、因果 への着目)は、トュキュディデスが端的に示すように、古代以来 における因果法則性の発見」 (さらに、人間本性や「隠れた原因」 の社会科学的意義について考えてみよう。第一に、 「社会と歴史 因果論の社会科学的意義の解明のためには、彼の歴史叙述や宗教 テールと連帯したからである。以上四点を換言すれば、ヒューム プニッツの「最善説」を批判する、という点でヒュームはヴォル しみを指摘し、神の計画した因果連関の体系の存在を疑い、ライ ヒュームの時代に optimism は「最善説」をもっぱら意味した。 しかもそれはヒュームとは相性が悪い。この世にあまねく悪や苦 英文表題 もとより本書は、こうしたナイーヴさと無縁である。しかし、 する、と考えたことを意味するわけではない。 去もそうだったと指摘する。第二に、それゆえ真に問われるべき 論の分析を回避できないということである。卓越した思想史家で 刺激的な解釈である。この問題提起を受けて、ヒューム因果論 における因果法則性の発見」がなされた、というのである。 は、因果論一般でなくヒューム固有の因果論がいかなる意味で彼 ずである。 ある著者に、次にこれを期待しているのは、評者に限られないは は、誤解を招きかねない。 Hume’s sceptical optimism の社会科学の「方法論的基礎」か、との点である。 第三に、ヒューム固有の因果論は、少なくとも彼の宗教批判の 「方法論的基礎」であった。いうまでもなく、ヒュームの因果論 353 犬塚元【書評/坂本達哉『ヒューム 希望の懐疑主義』 】 ◆書評 政治神話に抗する文化創造の政治 ── 鏑木政彦 理が音も立てずに消えさってしまっている代物」と評し、その実 践性の欠如を批判したが、同じような批判はその後もあとをたた ないという。それに対して著者は、カッシーラーの「シンボル形 式の哲学」 における哲学と政治の結びつきを丹念に解明してゆく。 シンボル形式とは、認識におけるカテゴリーのように、各々の文 化的領域において作用する普遍的な形式であり、シンボル形式の しれなさを掴もうとする知的な応答なのであろう。本書もまたそ れてきた従来の政治学では捉え難い「政治的なもの」の、得体の いで出版されている。おそらくこれは、国民国家を中心に構想さ れることのなかった思想家の「政治思想」を論じる研究書が相次 近年、従来の「政治思想史」の教科書では必ずしも取り上げら の文化的形態の自発的な展開を促して、文化の貧困化を阻止し、 秩序をもたらす企てであり、ここで政治に要求されるのは、各々 は、シンボルを操る動物としての人間が、文化的な営みに一定の を読み解こうとする。シンボル形式の哲学から理解される政治と 平を開き、そこからカッシーラー哲学の政治に対する規範的意義 置づけ、それによって政治を「文化の文法」のもとに理解する地 者は、言語や神話と同様に政治をもシンボル的な思考の所産に位 ● 哲学は、多様なシンボル形式の自発的な展開によって構築される 文化的世界の批判的基礎付けを目的とする。それは、カントが道 徳において人間の自由を根拠づけたように、文化において人間の うした試みの一冊であり、 その研究対象は『実体概念と関数概念』 文化創造的な秩序を構築することである。このように、シンボル 馬原潤二『エルンスト・カッシーラーの哲学と 政治──文化の形成と〈啓蒙〉の行方』 (風行社、 二〇一一年) などで日本でも馴染み深いエルンスト・カッシーラー(一八七四 カッシーラーにおける哲学と政治の関係を究明しようとする著 自由を基礎づけようとする〈啓蒙〉の哲学であった。 〜一九四五)の哲学である。本書の全体を通じて明らかにされる ところが、このような規範を踏み外し、政治が文化破壊者とし 形式の哲学の枠組みにおいて政治を文化の中に位置づけること て立ち現れる事態にカッシーラーは直面した。言うまでもなくナ で、政治は文化創造という固有の規範を与えられるのである。 カッシーラー哲学については、その政治性を認めない解釈が一 のは、政治とは関わりがないように見えるカッシーラー哲学の中 般的であった。たとえば、もともとカッシーラーのもとで博士論 チズムの登場である。ナチズムにおいて姿を現した文化破壊者と に含蓄されている政治的思考である。 文を仕上げたレオ・シュトラウスは、カッシーラーの哲学を「倫 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 354 情から身を引き離し、 「われ」と「なんぢ」の関係を再構築する 自己自身との対話」である。なぜなら、それこそが政治神話の激 り戻すために、著者がカッシーラーから説き起こすのは、 「魂の ではなく、人間を襲う運命となる。運命となった政治を人間に取 展開としての自由を生きることはできない。そこでは政治は自由 政治神話が支配するところ、人間は多様なシンボル形式の自発的 根底にある神話的思考とを結びつけた、政治神話の支配にある。 しての政治の本質は、近代の成果である技術的思考と人間精神の んぢ」の関係の再構築とも重なる契機といえるだろう。 ラーがマキャヴェリの中に見出したものは前述の「われ」と「な キャヴェリの思想の中に見出したと考えるからである。カッシー 政治神話の支配から脱するための手がかりを、カッシーラーがマ キャヴェリ解釈を重視するのは、現代の政治的危機の原因である 政治に関する考察の到達点に達したと評価される。著者がそのマ 先で書いた『国家の神話』のマキャヴェリ読解において、哲学と れる。以上の転換点を経て、カッシーラーの精神史研究は、亡命 カッシーラーの哲学と政治をつなぐもう一つの道は精神史であ いて、カッシーラーを学ぶことは政治理論にとっても意味ある仕 さまざまな「文化」が重大な政治的作用を及ぼしている現代にお 政治的思考を解明した力作である。とりわけ、宗教や歴史などの 本書はこれまで明らかにされてこなかったカッシーラー哲学の る。著者によれば、精神史における哲学と政治の結びつきの出発 手がかりを与えるからである。 点は、第一次世界大戦に対する応答の意味をもつ『自由と形式』 事といえるだろう。本書はそのための格好の指南書といえる。 他方、文化的な位相から政治をみる文化哲学の立場にとどまら と『カントの生涯と学説』において提示された「カントを踏まえ てのゲーテへの道」という構想に認められる。単調な概念図式の ず、政治的な位相から文化をみるという視点からカッシーラーの ともに根源になっている」という現代ドイツの政治学者フォル 文化哲学を捉え直す余地は、本書をもってもなお残されていると カー・ゲルハルトの言葉を引用して、文化の根源としての政治に 硬化から抜け出して、多様性における統一を目指すカッシーラー つづいて著者は、二〇年代後半から三〇年代におけるカッシー 眼を向けている。しかし、著者が決して深入りはしない『自由と の態度は、 「一九一四年の理念」を唱えたドイツ・ナショナリズ ラーの自然法論に関わる論考や講演を、共和国擁護という具体的 形式』に対するトレルチの批評や、 『 国家の神話 』で批判された いえるのかもしれない。たしかに著者は「政治とは人間文化の本 な政治的課題に関与するにいたった転換点として位置づける。非 ハイデッガーの思考が問題としていたのもこの根源ではなかった 質的な構成要素であり、シンボルを作り出す人間の表現であると 政治的な相貌をとった第一次大戦期の思想史研究がシンボル形式 だろうか。著者の今後の仕事を楽しみに待ちたいと思う。 ムに対する知的な抵抗であるとともに、 『 シンボル形式の哲学』 の哲学を生み出すきっかけとみなされたのに対して、この時期の を生み出すきっかけと位置づけられる。 自然法論はシンボル形式の哲学の実践的展開の意義をもつと評さ 355 鏑木政彦【書評/馬原潤二『エルンスト・カッシーラーの哲学と政治』 】 ◆書評 再帰的な分類の困難さ? ── 谷澤正嗣 つまり『集団』を単位とした敵対性の契機であり、 それは敵対性、 集団を形成する境界線、 集団の連続性という三要素から成り立つ」 と説明される(三一頁) 。 「政治的なものⅠ」は「国際/国内」および「公/私」という 二つの認識枠組によって形成されてきた。前者は世界を国際政治 と国内政治に分化する。後者は世界を政治が展開する公的領域と な境界線ないし対立軸にかかわるものと思われた。第三章の前半 ● 非政治的領域たる私的領域に区分する(二三─二五頁) 。ようす るに「政治的なものⅠ」は、 「 政治とは何か 」という問いに答え を与える際の、いわば太い境界線にかかわると評者は理解した。 他方で「政治的なものⅡ」は、より個別的な文脈で「何が政治 を通じて著者は、 戦後ヨーロッパの政治史を概観しながら、 クリー 山崎望『来たるべきデモクラシー──暴力と排 除に抗して』(有信堂、二〇一二年) 読者に緊張を強いる著作である。その理由の一端は、政治理論 的争点となっているのか」という問いに答えを与える際の、細密 や政治思想史に加えて、社会学、比較政治学、国際関係論などの ヴィッジ間の対立をまず「政治的なものⅡ」の例としてあげ、ネ よってその対立が「脱埋め込み」され、さらに「再埋め込み」さ オリベラリズム、新しい社会運動、第三の道などの新しい動向に れる過程を、 「 『政治的なものⅡ』の変遷」として描いているよう 膨大な文献を参照しながら、著者独自の視点に立ってそれらを徹 序と第一章では、ギデンズとベックを参照しながら、 「再帰的 底的に分節化し分類するというスタイルにある。 近代化論」の視点が導入され、現代が「第二の近代」の段階にい 公/私の区分のうえに、クリーヴィッジ政治と国家間戦争という に見えたからである(三七─四九頁) 。ほかにも「国際/国内と 第二章では、第二の近代が直ちに論じられるのではなく、 「第 たったという認識が示される。 『政治的なものⅡ』を配置してきた『第一の近代』 」のような記述 著者によれば、 「政治的なものⅠ」とは「政治の存立空間、政治 国民国家の変容を分析するという観点から、主権、生権力、承認 ところが、第三章の後半では、国際政治における領域主権国家、 も見られる(二二六頁。一〇一頁、二一八頁なども参照) 。 一の近代」の世界秩序が確認される。その際に導入されるのが、 が見いだされるアリーナである」 (二三頁)のに対して、 「政治的 する権力の三つの権力の分類が導入される。率直に告白して、評 「政治的なものⅠ」と「政治的なものⅡ」という独特の区分である。 なものⅡ」とは「政治の世界において『友と敵』を分化する契機、 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 356 り返し、離合集散し」ながら「政治的なものⅡ」を構成する際の する権力とは、 「 多元的で流動的な主体が相互に強調と対立を繰 (三一頁。八六頁も参照)とされる一方で、主権、生権力、承認 きなかった。たとえば主権が 「 『政治的なものⅡ』 の一形態である」 三つの権力の間の区分がどのように関連するのか最後まで理解で 者には、「政治的なものⅠ」 および 「政治的なものⅡ」 の間の区分と、 議論が必要以上に錯綜している感を与えかねないようも思われる。 ア、空間的観点と時間的観点といった分類枠組が先行しすぎて、 後半は、 先にも触れた権力をめぐる三つの分類、 デモスとクラティ 一四頁における代表制をめぐる議論など) 。し か し な が ら 第 七 章 ける「政治的なものⅠ」の再埋め込みに関する議論、二一〇─二 細で、有益な指摘に富んでいる(たとえば一五七─一六六頁にお らの疎外(消滅) 」 、 「 『政治的なもの』への疎外(昂進) 」という からの自由」 、 「 『政治的なもの』への自由」 、 「 『政治的なもの』か 近代における自由と疎外の問題が取り上げられ、「 『政治的なもの』 め込みが、いつかの類型に分けて論じられる。第五章では第二の られてゆく。第四章では「政治的なものⅠ」の脱埋め込みと再埋 いずれにせよ、これらの区分に、さらに多くの区分が付け加え 的なもの」を取り戻すことであり、第二に「政治的なもの」の昂 の消滅を回避すべく、政治に多元的かつ流動的なかたちの「政治 二の近代』において、求められるべきは第一に「政治的なもの」 時間的永続性などを前提とはできないことが可視化している『第 両義性の政治が求められることになるであろう。空間的閉鎖性や りも「両義性」である。 「 『来たるべきデモクラシー』においては、 ない(二三一頁) 。第八章と終章で著者が強調するのは、決断よ とならざるをえないと述べる一方で、自身の決断を明示してはい 著者は四つのデモクラシー論のいずれかに与することは 「決断」 四つの類型が得られる。 「政治的なもの」の「融解」が、自由の 進を回避する、デモクラシーの核にあるとされる、平等の契機に 「焦点」であるとする箇所もある(八三頁) 。 可能性と、自由に関するリスクとをともに生み出している、とい つの暴力、すなわち「再帰的伝統化」と「サバルタン化」の問題 るのは、これら四つのデモクラシー論が、第二の近代における二 主義論(ネグリ)の四つが比較検討される。比較の際の指針とな ドライゼック、ボーマンら) 、闘技民主主義論(ムフ) 、絶対民主 い。 で誰もが当惑せざるをえないこと)を象徴しているのかもしれな は、 「第二の近代」の困難(引き直され続ける無数の境界線の前 認へ到達しているという印象も受けた。ある意味で本書の難しさ ば脱構築的あるいは再帰的に、両義性すなわち区分の曖昧さの確 意する。他方で、本書自体が、数々の区分を導入しながら、言わ 両義性に耐えることの意義を強調する本書の結論には評者も同 基づく脱構築の契機を導入することである」 (二二七頁) 。 う認識が示されている。 第六章以降は現代のデモクラシー論へと話題が転換し、リベラ にどのように取り組んでいるか、という明快なものである(一三 ルナショナリズム論(ミラー) 、熟議民主主義論(ハーバーマス、 八─一四一頁、一六七頁) 。第六章と第七章の議論はとりわけ詳 357 谷澤正嗣【書評/山崎望『来たるべきデモクラシー』 】 ◆書評 世俗と宗教の対話 ── 千葉 眞 ──C・テイラーの場合 宗教の問題を多様な視点から考察してきた。彼の「世俗の時代」 としての現代の理解は、こうした近年の「世俗化論」の見直しの 議論においてはどのような位置づけを与えられるであろうか。こ れはすこぶる興味深い問題である。というのも、テイラーの一連 の議論は、 一面、 従来の「世俗化」論をかなりの部分継承しており、 ぱら(1)生の諸領域の分化と専門化の趨勢を説明し、 各領域(政 ( privatization )を主張するものと理解されてきた。例えば、マッ クス・ウェーバーの「世界宗教の経済倫理──中間考察」は、 もっ 化、 (2)社会における宗教の影響力の低下、 (3)宗教の私事化 論 は、 大 き な 枠 組 み に お い て は( 1) 生 の 諸 領 域 の 分 化 と 専 門 研 究 の 最 前 線 に 位 置 づ け ら れ つ つ あ る。近 代 社 会 の「 世 俗 化 」 近代社会の「世俗化」論の見直しの主題が、今日、政治理論 コノリーとの興味ぶかい比較検討と対論の試みを行っている。本 に関して、マイケル・サンデル、タラル・アサド、ウィリアム・ 明らかにするために、多元主義、世俗主義と暴力といったテーマ ている。本書で高田氏は、テイラーの「世俗と宗教」論の特質を 教にかかわる近年の諸著作を取り上げ、彼のカソリック的多元主 う。本書で著者は、 『世俗の時代』 (二○○七年)など、世俗と宗 はテイラー政治理論との高田氏の格闘の軌跡を見ることもできよ 浩瀚な議論を位置づけようと試みたすぐれた作品である。ここに ● こうした状況のなかで、テイラーにおける世俗と宗教の問題を しかし他面、「世俗化」 論の再解釈や修正を施しているからである。 正面から考察した刺激的で興味ぶかい著作が刊行された。高田宏 史著『世俗と宗教のあいだ──チャールズ・テイラーの政治理論』 である。 本書は膨大な一次資料と二次資料を駆使しつつ、 テイラー 治、経済、宗教、芸術、科学技術など)がその独自の法則性によっ 書評では紙数の制限もあり、これらの興味深い対話の試みには直 高田宏史『世俗と宗教のあいだ──チャールズ・ テイラーの政治理論』(風行社、二○一一年) て展開されていくことを主張した作品であった。 「 世俗化 」論の 政治理論の全体像のなかに近年の「世俗と宗教」にかかわる彼の この部分は、ほぼすべての論者が受容していると思われる。むし 接には触れずに、以下、二点についてのみ取り上げてみたい。 に関するテイラーの議論に注目している。この周知の三類型のう 第一点として高田氏は、社会における宗教のあり方の三つの型 義、アガペー(博愛)論、世俗主義批判などについて分析を施し ろ今日、批判と論争の対象になっているのは、 (2)宗教の影響 力の低下のテーゼおよび(3)宗教の私事化のテーゼである。 チャールズ・テイラーは、近年のいくつかの書物で近代社会と 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 358 会関係であり、政治権力と宗教権力が制度的にも慣習的にも相補 ち第一のものは、フランスのアンシャン・レジーム型の宗教─社 六─一七四頁、二四四─二七九頁、参照) 。 自で説得的な説明と解釈を示している(一二二─一四○頁、一六 ラーのカソリック的多元主義やアガペー論の再検討との関連で独 第二点として、テイラーの政治理論が自ら対峙しようとする現 的でヒエラルヒーの関係にある公定宗教の体制であり、テイラー はこれを「旧・デュルケーム型」と呼んだ。第二の類型は「新・ しかし、一九六○年代を境目に、これら二つの「新・旧・デュ およびリベラルな世俗主義に対するテイラーのオルタナティヴ 頁、一八七─一九一頁、参照) 。著者によれば、 「排他的人間主義」 前提に対するテイラーの批判とも関連してくる(一六六─一八二 代における「排他的人間主義」とそれへの彼の批判について、本 ルケーム型」に対して「表出的個人主義」や「本来性の倫理」に は、 「自由な行為者の尊厳」と「差異を横断する統一性」として 書はかなりの頁数をさいている。テイラーの説明によれば、 「排 基づく宗教者個々人の「信仰の個人化や表出化」が顕著に見られ のカソリック的多元主義に基礎づけられたデモクラシーである。 デュルケーム型」の宗教─社会関係であり、一九世紀初頭から一 るようになっていく。そこでは自分の本来のアイデンティティー ここで興味深いのは、テイラーのデモクラシー論は、 「批判的応 九六○年代まで(テイラーはこの時代を「動員の時代」と呼ぶ) の探求、自分探し、社会における自分独自の位置づけの探求との 答性」ならびに「アゴーン的敬意」に裏づけられたコノリーのデ 他的人間主義」とは、超越的なものとその価値を人間の生の内部 関連で、 「信仰」が定義され理解されるようになる。テイラーは、 モクラシー論──「深い多元主義」でもある──に内実において から排除し放遂してしまう自我中心主義である。この「排他的人 現代におけるこうした三番目の宗教─社会関係を「ポスト・デュ 驚くほど接近するとの著者の指摘である(二四四─二六五頁、参 に支配的であった類型で、その特色は契約団体(アソシエーショ ルケーム型」と名づけている。この現代の宗教状況においては、 照) 。だが、評者の印象ではテイラー自身、宗教とデモクラシー ン)としての教会の社会への滲透であり、それは教派主義という 多種多様な信仰のかたちが模索されるところに大きな特色があ の関係の問題についてまだ最後の言葉を語っていないようにも見 間主義」批判は、リベラリズムの世俗主義的およびアトミズム的 り、それは単線的な「世俗化」の昂進としては理解できない面が 形態を採ることが多かった。 ある。著者は、こうしたテイラーの試みを彼の政治理論全体の枠 える。 るところ多大であると考える。 界における世俗と宗教の問題を究明しようとする読者にも裨益す 本書は、テイラー研究に関心を寄せる読者のみならず、現代世 組みのなかに位置づけ、この主題に関して手堅い分析と考察を施 問題性を鋭く究明すると同時に、信仰の不断の変容と多様化を積 している。テイラーはさらに、現代における世俗主義や無神論の 極的に位置づけようとしているが、著者はこうした試みを、テイ 359 千葉眞【書評/高田宏史『世俗と宗教のあいだ』 】 ◆書評 家族はどこに? ── 中村敏子 ● 岡野八代『フェミニズムの政治学──ケアの倫 理 を グ ロ ー バ ル 社 会 へ 』( み す ず 書 房、 二 〇 一 二年) 本書は、フェミニズムが批判してきた公私二元論を「ケア」と いう概念により乗り越え、新しい社会構想を提示しようとする力 り、 人間の「作為」すなわち契約によって説明されたからである。 その点では経済的な領域も同様である。筆者も批判する「自由な 主体」として男性が国家・社会を形成するとされたのに対し、女 性は生物として子供を産む肉体を持つがゆえに「自然」の存在と され、そのような自然の絆からなる家族に属するとされたのであ Susan る。そ れ が フ ェ ミ ニ ズ ム に お い て 論 じ ら れ る「 私 的 領 域 」の 意 味 で あ る。 ( Carole Pateman, The Disorder of Women や な ど を 参 照 )こ の 生 物 M.Okin, Justice, Gender, and the Family としての自然とされた束縛を如何に越えるかをめぐってフェミニ ズムは苦闘してきた。その極限としてラジカル・フェミニズムは、 人工生殖によって生物としての自然の拘束を断ち切ることを主張 しかし、本書における「私的領域」の意味ははっきりしない。 した程であった。 その表現はさまざまである。批判的には、 「身体的必要を満たす そして「ケア」の議論の出発点である家族も、 「家族的なるもの」 私的領域」「他者の存在しない空虚な私的領域」 などと表現される。 と表現されたり、また家族は「生物学的な血縁者に限らない」と 作である。ここではそのような筆者の意図を評価しつつも、基本 まず評者が最も大きな問題だと感じたのは、本書における「私 的な概念に関していくつか疑問を抱いた点を書いてみたい。 的領域」という概念が曖昧な点である。近代国家の成立により人 まで述べられる。 である。この場合の「私的領域」とは家族を意味する。これはそ 然」の生物としての拘束から解放され、そこに属すか属さないか 的意味はなくなってしまうだろう。なぜなら、女性はもはや「自 つ家族ではないとしたら、これを女性の問題として論ずる思想史 もし筆者の対象とする「私的領域」が生物学的なつながりを持 間の生活は「公」と「私」という領域に分けられ、女性は私的領 れまで「私的領域」として経済の領域を意味してきた議論からの を自分の自由な意志により選択できる存在になるからである。 域に属するものとされたことは、今やフェミニズムの古典的理論 なぜ女性が「私的領域」に閉じこめられたのかといえば、国家 「ケア」概念はしかし、母と子が存在する集団を前提として論 大きな転換であり、フェミニズムの成果として考えられている。 の形成が生物としての「自然なつながり」からなる家族とは異な 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 360 開が可能になると論じられる。そして、そのような「多様で異質 じられ、 「 ケア 」概念により母子間の愛情を基軸とした関係の展 方があり、そもそも原初的には人に依存して生きてきたのだから る。その背景には人間は弱く傷つきやすい存在であるという考え 関係にも「主体」ではなく「ケア」という概念を対置しようとす もちろん人間がときどきは傷つき、他者に依存するということ と論じられる。強く独立した個人というのではなく、人間は相互 は認めるとしても、常に傷つき弱い存在であるわけでもない。現 な他者とともに継続的な関係性を築こうとする」ときの思考様式 る。政治思想史においても、アウグスティヌスやロックの論ずる 在の「主体」概念に問題があるとしても、大人同士の関係をも相 は「母的思考」と呼ばれる。この「母的思考」が平和を求める政 ように、神や父が弱者に対して示す配慮であった。それゆえ常に 互依存の「ケア」という概念に置き換えることは妥当だろうか。 に依存しあう存在だというところから社会の構成を考えるという 権力を背景に持つ。現実に力の差がある者同士の関係において、 評者はこのような主張から、福沢諭吉が江戸時代の人間関係を批 のが、 「ケア」の倫理の主張のようである。 母は「 ケア 」という行為により愛情に基づく関係性を築くとい 判して言った「相依り相依られ」という言葉を連想してしまう。 「 ケア 」とは通常弱者に対する配慮や世話を意味する概念であ う肯定的な作用により鍛えられるかもしれないが、それが子供に 治へとつながると筆者は論じる。 とって愛の状態を保障するとは限らない。そして、 愛の権力に 「憎 評者からみると、それが望ましい社会とは思えないのである。 全 体 を 通 し て も う ひ と つ 気 に な っ た 点 は、筆 者 の 論 ず る 家 族 悪」が返されることもありえよう。おそらく筆者は自由な主体に 替わって女性が活動する原理として「ケア」を掲げているので、 あるがゆえに、その内容は社会や文化によって異なる。筆者の考 なのかということである。家族は、人間にとって基本的な関係で える家族とはどのような人間関係を意味しているのであろうか。 (的?)関係そして「ケア」の内容が、具体的にどのようなもの 二元論は、愛情や母という役割も、自然のものとして女性に帰属 しかし、最初に述べたようなフェミニズムが批判してきた公私 させてきた。本書のように母という役割を前提とした「ケア」概 はどのように表現される内容なのであろうか。そのような前提と 「ケア」という言葉で筆者が意味しようとしたことは、日本語で 実際に行なわれるケアの問題を扱っているのではないのだろう。 念の主張は、女性を母性=「自然」とみる議論につながらないだ 精緻な理論を組み立てていかれることを期待したい。 ともあれ、今後の研究において、筆者が詳細な現状分析により なる説明を、丁寧に行なうことが求められる。 ろうか。突き詰めてみれば、子供は生まれてしまえば別人格であ り、 母がケアする必然性は存在しない。それゆえ、 もし筆者がフェ ミニズムの立場から公私二元論の克服をめざすのであれば、この こうした弱者に対するケアの議論とともに、筆者は大人同士の ような議論には注意が必要だろう。 361 中村敏子【書評/岡野八代『フェミニズムの政治学』 】 二〇一二年度学会研究会報告 ◇二〇一二年度研究会企画について 観の変奏と変容の過程を、初期近代のコミュニケーション空間の 分析を起点に、現代の討議(熟議)デモクラシー論まで追跡する ということであった。 だが、言語という根源的なテーマはこうした枠組みに収まりき るものではなく、目を江戸期の日本に転じれば、西洋流のものと はおよそ異なる言語観に遭遇する。他方、二〇世紀の「言語論的 転回」を経たわれわれは、言語が人間の認識活動を支え、それを 規定していることを無視することができない。言語とは無色透明 きおい、まさに言語を用いた行為の一つであるわれわれの研究活 治性を帯びたものなのである。こうした見方をつきつめれば、い な媒体ではなく、それ自体が一定の力をもつもの、その意味で政 二〇一二年度政治思想学会研究会(第一九回)は、 五月二六日、 企画委員長 川出良枝 (東京大学) 二七日の二日間、國學院大學渋谷キャンパスにて、 「政治思想に 動の土台をなす学問方法論への反省にも進まざるを得ない。 それゆえ、言語を論じる以上、言語を用いる活動としての政治 おける言語・会話・討議」を統一テーマとして開催された。依頼 を検討するのみではなく、言語そのものが潜在的にはらむ政治性 企画は三つのセッションからなり、自由論題では五名の会員が二 にも分析のメスを入れる必要がある。これが企画を担当した三名 (川出・松田宏一郎・ 田真司)の狙いであった。 シンポジウムⅠ「言語と政治」では、言語哲学・言語理論の政 つの分科会において報告・討論を行った。また、杉田敦会員のご 言語は、一般に政治と呼ばれる活動において、重要な位置を占 治的意義を、言語理論の強い影響下で発展した政治思想史方法 尽力により、 国際交流セッション「イギリス理想主義と政治哲学」 める。アリストテレスによれば、国家とは、ロゴス(言語・理性) を設けることもできた。 によって明らかにされる善・悪、正・不正についての共通の理解 論も含めて多角的に検討した。ハンス ゲ = オルグ ガ ・ ーダマーの 「哲学的解釈学」 、特に解釈学的循環の特質と可能性はいかなるも 化したが、そこでも政治的なるものと言語との本質的なつながり 動」を、またハバーマスが「コミュニケーション的行為」を概念 ポリスとを密接に結びつける政治観に鼓舞され、アレントが「活 か。言語そのものに切り込むのが本セッションの課題であった。 キナーの政治思想史方法論は今日の時点でどのように総括できる 本語の五十音図の理論の政治的意味とは何か。クエンティン・ス のか。古典中国語に対抗すべく、江戸期の国学者が練り上げた日 を元に形成された共同体である。古代ギリシアに発するロゴスと が再確認されたと言えよう。企画の一つの課題は、こうした政治 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 362 シンポジウムⅡ「政治思想におけるコミュニケーション空間」 では、社交の場や公論形成の土台となるコミュニケーション空間 が歴史的にどのように変容したかを追跡した。初期近代のヨー ロッパのサロン文化、明治維新後の『明六雑誌』による「啓蒙」 のプロジェクト、ハバーマスが定式化した市民的公共性の発展・ 変質・復興の過程をいわば定点観測の地点とし、 言語コミュニケー シンポジウムⅢ「討議(熟議)デモクラシーと議会」において ションの政治的可能性を探った。 は、デモクラシーと討議の関係を議会での討議、議会外での討議 という対比の下で検討した。まず、規範理論的見地から、熟議デ モクラシーとは、既存の自由民主主義的な議会制・代表制の枠を 越える可能性をもつべきであるという提言がなされた。他方、本 来、討議の場として予定されていた議会について、ヴィクトリア 時代の英国、 明治期の日本の議会観がそれぞれ詳細に検討された。 本年度の研究会もまた、報告者・司会者・討論者、事務局・ホー ムページ委員等、実に多くの方々の多大なるご協力をえて成功裏 に終えることができた。とりわけ、開催校の國學院大學の皆様の ゆきとどいた心遣いにあらためて心より御礼申し上げる。 363 【2012 年度学会研究会報告】 【シンポジウムⅠ】 言語と政治 司会 田真司 (國學院大學) マーの批判が検討され、さらに、ユルゲン・ハーバーマスらの批 判理論とジャック・デリダの脱構築主義的テクスト解釈という二 つの規範的な立場からのガーダマーに対する批判が取り上げら れ、これらの議論がいずれも客観主義と普遍主義に依拠するもの であることが指摘された。そして、解釈を多に開くものとしての の論理に正しく則ることがガーダマーの解釈学が示唆する思想史 「問い」と一へ集めるものとしての「答え」の間の解釈学的循環 相原会員の報告は、江戸期日本における言語をめぐる議論を分 研究の方法論であり、そこでは新たな解釈可能性への「開かれて 析し、言語と文明との関係を考察するものであった。古学派の儒 いる態度」や、問答法をさらに動かしていくソクラテス的な問い 方法論としての解釈学」 、相原耕作会員(神奈川大学非常勤講師) 学者の言語論においては、形音義三位一体という漢字の言語的な このセッションでは、統一テーマである『政治思想における言 による「文字・文法・文明──江戸時代の言語をめぐる構想と闘 優越性から、複雑・精密な表現が可能である「中華の言語」とし 語・会話・討議』に基づき、特に政治思想と言語との関係に焦点 争」 、関口正司会員(九州大学)による「クェンティン・スキナー ての古典中国語が「夷狄の言語」である日本語よりも優れている のエートスを、テクストとの対話の経験そのものによって養うこ の政治思想史論をふりかえる」であった。報告後、討論者である と論じられる一方で、 「 助字 」の用法の非法則性という困難を抱 とが解釈者に要請されていることが論じられた。 中田喜万会員(学習院大学)と山岡龍一会員(放送大学)からの を当てた報告と討論が行われた。報告者および報告タイトルは、 コメントと、それに対する報告者の応答が行われ、その後、会場 えていたことが指摘された。これに対して、国学者は五十音図の 加藤哲理会員(京都大学)による「 『 解釈 』を解釈する︱思想史 からの質疑応答が行われた。 ることで、古典日本語の優位性を明らかにしようとしたが、本居 トラウスの「政治哲学」とクエンティン・スキナーの「歴史学と 基底である理解や解釈の有限性と歴史性の観点から、レオ・シュ な知見を見いだそうとするものであった。ガーダマーの解釈学の アルファベットという異質な文字体系に出会うことで、文字と音 現が生み出されることを主張したこと、また、江戸期の蘭学者が、 と法則のある「てにをは」の組み合わせによって、精緻な言語表 宣長は、五十音図の神聖性を否定し、秩序正しい「皇国ノ正音」 表意的・表語的機能を肥大化させ、その自然性と神聖性を主張す 加藤会員の報告は、ハンス ゲ = オルグ ガ ・ ーダマーの「哲学的 解釈学」の立場から、政治思想研究における方法論に関する新た しての政治思想」という二つの客観主義的方法論に対するガーダ 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 364 政治秩序構築の固有のメカニズムの形成に目を向けることが可能 が、 言語固有のメカニズムを言語内在的に理解することによって、 方で、形音義三位一体的な発想を突き崩すことのできた本居宣長 たことが論じられた。そして、こうした言語理解を踏まえて、一 枠組で理解した結果、その文法的理解には容易に到達し得なかっ 声とを切り離す可能性を開く一方で、オランダ語を古典中国語の あった。 把握の問題、政治思想史におけるカノンの問題に関する指摘が て、歴史的テクストの今日的意義の問題、信条のネットワークの コンテクスト主義者スキナーという理解が生み出した問題点とし スキナーのホッブス読解にも反映していることに触れられた後、 の場合には解決されていることが論じられた。こうした方法論が ワークと整合していることを確認する、という方法で、スキナー これらの報告に関して、中田喜万会員からは、加藤報告に対し になったこと、他方で、ヨーロッパ文明を支える学問の精密さの 基礎にある言語の精密さが、オランダ語の文法的理解が進むにつ 関口会員の報告は、クエンティン・スキナーの政治思想方法論 におけるレトリックの問題という観点から整理し直した上で、そ れた。また、山岡龍一会員からは、政治と言語の問題を政治思想 き言葉の相違に関する問題をそれぞれ中心とする問題提起が行わ てテクスト解釈の「正しさ」をめぐる問題、相原報告に対して宣 に焦点を当て、それに対する誤解をただすとともに、スキナー自 の観点から、各報告に対して個別的な質問が発せられた。いずれ 長と蘭学者の異同に関する問題、関口報告に対して話し言葉と書 身の方法論の含意を改めて明確化することで、その意味を再検討 も、報告の本質的な部分と、本セッションの中核に関わる問題提 れて解明されていき、それが西周の日本語ローマ字表記論という するものであった。スキナーは、過去のテクストの理解には歴史 起や質問であり、 報告者からもかなり踏み込んだ応答が行われた。 文明化構想と結びついていたことが論じられた。 的コンテクストの理解が不可欠であると主張しているが、それは 本セッション全体としてみると、 政治と言語の関わりに関して、 テクスト理解の必要条件であって十分条件ではないこと、すなわ 政治思想、政治思想解釈および政治そのものという三つの側面か また会場からもいくつかの重要な質問が寄せられ、時間的には必 る言語的なコンテクストであって、言語的なコンテクストは言語 ら光が当てられ、それらの複合的な関係の一端を明らかにしえた ずしも十分ではなかったものの、報告者からの応答があった。 行為を因果的かつ一義的に決定していないことが指摘された。そ という点で、意義深いものであったといえるであろう。 ち、 スキナーが重視したのは、 テクストの発語内行為が伝えるメッ して、そのことから帰結する、発語内行為の確定の問題と重層的 セージという意味でのテクストの意味に対して非因果的に関係す に並存する種々のコンテクストの選択の問題が、著者の信条の ネットワークを踏まえてコンテクストを選択し、そのコンテクス トによって発語内的行為の候補を絞り込み、それが信条のネット 365 【2012 年度学会研究会報告】 【シンポジウムⅡ】 政治思想におけるコミュニケーション および会場から質問が提出された。 木村会員によれば、ルネサンスから一八世紀までのヨーロッパ においては、宮廷や外交を主たる舞台とする政治において不可欠 な能力としての礼節、シヴィリティ、マナー等を重視するタイプ の人文主義が有力な思想潮流として存在した。これは、ハバーマ スが描いた近代の市民的公共性とも、ポーコック的な政治的人文 様式が根本的に変化した結果、この種の人文主義の伝統は見失わ 宮廷から議会に移り、さらに産業社会の到来によって人々の行動 主義とも異なるものである。だが、一九世紀以降、政治の中心が 本シンポジウムでは、本大会の共通論題「政治思想における言 司会 川出良枝 (東京大学) 語・会話・討議」に即する形で、政治におけるコミュニケーショ 議・衝突が必要であるというサンデルの主張を紹介する一方で、 れたという。木村会員は、デモクラシーには時として荒々しい討 まず、木村俊道会員(九州大学)による「初期近代イングラン 政治の質や社会構造が変化した今日においてもなお、礼節に基づ ンを主題とする三つの報告がなされた。 ドにおける会話・交際・社交」は、初期近代ヨーロッパにおける、 ではないかと示唆した。 治初期の代表的な知識人グループであり、参加者の思想的多様性 は「啓蒙」か?──彼らの「会話」の新しい聴き方──」は、明 治との関係について問いかけがなされた。それらに対し、木村会 た。石川敬史会員からは礼節によるコミュニケーションと民主政 見表明を排除・抑圧しやすいのではないかという疑問が提起され ション論は他者を操作する傾向を有し、さらには「無作法」な意 木村会員に対して、 有賀会員からは、 礼節に基づくコミュニケー くコミュニケーションを新しい形式の下で再興する必要があるの 会話・交際・社交を広く意味する conversation という概念に着目 し、そこで成立した特有のコミュニケーションの意義を明らかに と自由なコミュニケーションを特徴とした明六社を取り上げ、知 した。次いで河野有理会員(首都大学東京)による「 『明六雑誌』 的集団の思想および社会的役割を捉える方法について論じた。最 員からは問題点や限界は十分理解した上で、なお、こうした礼節 ある会話の作法が現代的意義をもち得るのではないかという応答 後に、山田陽会員(東京大学大学院博士課程)による「市民的公 共性・個人化社会・熟議民主主義」は、現代における代表的な政 がなされた。 彙を用いて明六社を論じた従来の諸研究に疑問を投じた。西洋の 河野会員は、 「啓蒙」 、 「御用知識人」 、 「 漸進主義 」といった語 治的コミュニケーション論である熟議民主主義論を取り上げ、現 代社会の構造変化の中、それがいかなる困難性と可能性をもつか を検討した。三報告の終了後、 討論者の有賀誠会員(防衛大学校) 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 366 た観を呈するからである。河野会員によれば、明六社に参加した 歴史的概念や後世の歴史図式を明治初期の日本に無理に押し付け を表明する一方、後者については、それが悪しき政治工学に堕す な平等を確保する仕組みなしに民主的正当性をもちうるのか疑問 ることを是認する議論)である。山田会員は、前者が社会経済的 これに対して有賀会員からは、 「選択アーキテクチャ」論は主 る可能性を指摘し、新たな熟議民主主義論の必要を説く。 体性・自律性といった熟議民主主義の前提自体に疑問を投げかけ、 知識人たちは、江戸時代までの豊かな議論の蓄積を踏まえつつ、 議論を展開した。したがって、彼らの議論の本旨、および明六社 開国・明治初期の社会的・思想的な新状況に正対して各人各様の の社会的役割を把握するためには、曖昧なレッテルや図式に頼ら 他方、熟議民主主義は社会経済的な平等そのものを討議の対象に が多いのでないかという質問が出された。フロアからは、熟議民 してしまう以上、熟議民主主義による共同性再興の試みには課題 主主義についてのより積極的な議論が提起され、また、熟議と専 ず、思想的伝統、各論者の個性、ならびに主題の多様性に留意し 報告に対し有賀会員からは、明六社と福沢諭吉の関係、および た繊細な検討が必要だ、というのである。 漢学の伝統と新来の洋学との関係について質問が出された。換言 門知、熟議と社会権の関係を問う質問も出された。 が、こうしたやり方が、 「個人化」 、 「 リスク社会化 」した現代社 議民主主義は手続き的な正当性によって共同性を支えようとする 議民主主義の可能性を共同性の復興という観点から再考した。熟 山田会員は、ポピュリズムを誘発しがちな現代社会に対する熟 明六雑誌の統一性・不統一性について、さらなる応答があった。 であり、フロアからも同種の質問が寄せられた。河野会員からは 切れなかったが、活発な討議が成立した。 ルな報告であり、大会当日は紙幅の関係上、ごく一部しか紹介し う卓抜なる総括がなされた。三報告はいずれも極めてアクチュア いての通時的変遷の描出を試みようとしたものではないか、とい 読者層、誰がどこから発信するか分からない現代的状況) 、につ ケーションをおこなうか(エリート層内部、一般市民という広い 大きく解放された空間での自由な意見表明) 、どういうコミュニ は、それぞれ、どういうメディアを用い(親密な会話、文字媒体、 本セッション全体については、深貝保則会員より、三つの報告 すれば、自由なコミュニケーションを特徴とする思想集団を通時 会においてどこまで有効か、疑問が残る。そこで、共同性を制度 的・共時的、多元的・統一的に検討するための手法に関する質問 的に担保しようとする二つの試みが検討された。一つは、 「ミニ・ パプリックス」 (無作為に選出された一定数の一般市民が直接対 面して公共的問題を討議する制度)であり、 もう一つは「選択アー キテクチャ」論(人間の認識能力の不完全さを前提に、自律性の 土台とするため、人々をある程度、制度的に特定の方向に誘導す 367 【2012 年度学会研究会報告】 【シンポジウムⅢ】 討議(熟議)デモクラシーと議会 司会 松田宏一郎 (立教大学) 報告1 田村哲樹(名古屋大学) 「熟議民主主義は自由民主主義的か?──『熟議システム』 概念の射程」 シップ──バジョットを中心に」 報告2 遠山隆淑(熊本高等専門学校) 「ヴィクトリア時代中葉における民衆・議会・政治的リーダー 後期の世論、政党、議会、リーダーシップの役割への期待と分析を、 田頭は、明治期の日本の国会でそもそも討論することがどのよう な意義と機能があると(そして、そもそもどうやって討論という 田村報告は、 「熟議民主主義は自由民主主義を超える射程を持 ものを実践するのかについて)考えられていたのかを検討した。 つ」という主張を軸においている。ここでいう「自由民主主義」 とは、多様な利害関心に基づく政治的主張が公開の競争にさらさ れる代表制を指している。そしてそれを超える射程を構想するに あたって、「複線モデル」 (ハバーマス)および「ミニ・リパブリッ クス」 (ドライゼク)概念の有効性が検討される。田村はこれら の概念をめぐるこれまでの議論が果たした役割を評価しつつも、 危険性を未だ十分に克服できていないことを問題にし、むしろ自 「 討議/熟議 」が自由民主主義の補完的な実践に閉じ込められる 由民主主義をその一部に組み込むような大きな全体性をもった熟 議システムの構想が可能なのではないかと提案する。問題は、自 由民主主義的な政治体制と小規模のフォーラムでの討議の接続面 の設計である。先進国でも小規模フォーラムが機能せず、逆に国 representative 家としては自由民主主義が成り立っていない国においても小規模 フォーラムの成功例は見られるように、自由民主主義と「討議/ 報告3 田頭慎一郎(学習院大学非常勤講師) 「明治期における『討議』 『対決』 『競争』の議会政治論」 討論者 早川誠(立正大学) この分科会の狙いは、 deliberative democracy と いう問題を、理論的視座と歴史的視座の両方から検討することで 超えた新しい民主主義の地平を切り開くものとなり得るのか、と いて、未だに十分な理論的検討がなされていないことに、問題点 族/親密圏」が熟議システムから排除されがちな傾向の打開につ 論的貢献を評価しつつも、 「公/私」区分の固定化、あるいは「家 熟議」の結びつきは自明ではない。また田村は、ドライゼクの理 ある。田村は、今日の理論的検討水準はどこまで来ているかの再 を見いだしている。 の間の緊張関係、あるいは、討議/熟議システムは議 democracy 会制民主主義に組み込まれるべきものなのか、あるいは議会制を 吟味を、遠山は、バジョットの政治思想を対象として一九世紀中 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 368 の秘密は、表向きの制度理念からは見えないと考えた。そして、 制に役立っていることを肯定的に評価しつつも、そのメカニズム バジョットは、ヴィクトリア期英国の議会制度が自由民主主義体 遠山報告は、 バジョットの政治的リーダーシップ論に着目する。 なうという型に収斂していったことを示唆している。 というよりは、 「正義」や「善政」を掲げ権力の奪取競争をおこ 頭は、二〇世紀に入って、議会論は討議型と競争型モデルの緊張 調整を実現するための政策競争を要請するものである。最後に田 そのために討議をするのではなく、むしろ多様な「私利私益」の かわれてきたかを再検討する。たとえば、 中江兆民は、 討議が「真 議/熟議」が政治的意思形成の正当化原理としてどのようにあつ 田頭報告は、 まず、 西洋の議会制度が日本に紹介されて以降、「討 遠山は、この点にバジョットの政治思想の特質を見いだしている。 ス国制論』のみならず、様々な場面で言を尽くして説明していた。 させるために議会政治家が獲得すべき能力であることを、 『イギリ も凡庸な( commonplace )人々による世論を感知することである という条件を正面から受け止め、それが、自由な政治体制を機能 おける討論と競争を支えるリーダーの最も重要な資質が、何より かったという結論を見いだすのではない。バジョットは、議会に て大衆を操作するといったポピュリズムの冷笑的な承認にすぎな バジョットの議会政治論に、政治的リーダーがその権力欲を隠し い世論との関係にその秘密を探ろうとしていたのである。 遠山は、 協・調整」が果たす積極的な機能を単に切り捨てているだけでは いのか、「競争」原理は、 決着のつかない問題の取り扱いとして「妥 を出すための効率的な政治指導能力を目的とするということでい うに調整されるのか、リーダーシップの資質という議論は、結論 に機能するのか、個々の小さなフォーラム同士での軋轢はどのよ パブリックス」は、正解の決めにくい調整問題についてどのよう にとらえられていないかという問題を指摘する。 たとえば、「ミニ・ かについて勝敗がつくことを自明の前提のように期待する枠組み の報告が、正しい結論の発見、あるいは何が採用されるべき意見 議」に求めようとする現代の潮流が、民主主義を論ずる上で不可 会や政党にではなく、市民社会の中の多様なレベルの「討議/熟 報告を評価する。そして、自由民主主義の主たる場と担い手を議 論がとらわれすぎてきたことを反省する契機としてこの分科会の たる要素とする「シュンペーター主義」に、民主主義をめぐる議 早川によるコメントと質問は、選挙や代表を自由民主主義の主 自由で理性的な討議と意見の競争にではなく、特定の資質と洗練 理」の発見を目指す営為であることを強調し、しかも議会の外で ないのか、といった点が具体的に指摘された。 された技術に裏付けられたリーダーシップと感情に支配されやす も政党がそのような討論の実践の場となることを要請していた。 システムの理論的接続にやや関心が集中していた。 フロアからも多様な質問があったが、 「 家族/親密圏 」と熟議 欠の前提となっていることを確認する。その上でなお、それぞれ 他方、討議よりも競争の契機こそが議会の主要な役割であると主 張した知識人は意外と少ない。加藤弘之はその珍しい例である。 加藤の議会論は、個々の議員が「公益」の発見と実現を追究し、 369 【2012 年度学会研究会報告】 治的現実を念頭に置いているとすれば、それらを比較することに 本分科会では、山本圭会員(名古屋大学大学院国際言語文化研 ルツァーは、正義原理の「哲学的正当化」に代えて「政治的正当 かに再定位して検討した。 この論争の一翼を担ったマイケル・ウォ を担うのかという問題を、リベラル=コミュニタリアン論争のな 〔自由論題 分科会A 〕 究科)による「ラディカル・デモクラシー論の襞」の報告および 化」を提案した。それに呼応するような仕方でロールズは政治的 松元報告は、民主主義社会において政治哲学者はいかなる役割 どれだけの意義があるのかなどの質問が寄せられた。 松元雅和会員(島根大学教育学部)による「政治哲学と民主主義 司会 齋藤純一 (早稲田大学) ──リベラル=コミュニタリアン論争の方法論的再検討」の報告 転回のなかで「政治的正当化」の一種である公共的理由の観念を 正当化」を放棄したと解釈するのは早計であり、 主題の焦点が「政 導入した。ただし、松元報告は、転回以降のロールズが「哲学的 治的正当化」に移ったととらえるのが適切であると論じ、正しさ 山本報告が焦点を当てて論じたのは、ポスト構造主義の影響を 受け、民主的な意思形成における偶発性、対抗性、開放性の諸契 が行われ、いずれの報告についても活発な質疑応答がなされた。 機を重視するラディカル・デモクラシー論の系譜である。山本報 と正統性を主題として区別することの重要性を指摘した。 のようにとらえるべきかという問い、それは哲学的正当化に終始 松元報告に対しては、主として、そもそも政治哲学の課題をど 告は、エルネスト・ラクラウの議論とシャンタル・ムフ、アント がら、ラクラウの「人民」がムフの「対抗者」やネグリの「マル ニオ・ネグリ、ウィリアム・コノリーの議論をそれぞれ対比しな チチュード」とどのように異なるかを指摘し、さらにコノリーの すべきなのか、それとも正統性( legitimacy )を 検 討 す る こ と も それに固有の課題としてとらえられるのかといった問いが提起さ 内在的な多元主義に対する(超越性の観点からする)ラクラウの てポピュリズムが占める位置、集合的主体の形成や代表のとらえ 関連するものかどうかという問い、リベラル=コミュニタリアン れた。また、ロールズにおける適理性( reasonableness )の 位 置 づけや評価に関わる指摘、正統性の問題がカントの実践的判断に 批判の意義を考察した。これらの対比から、デモクラシーにおい 方など、合意/不合意の問題系に還元しがたい諸問題がラディカ かについてのコメントなどが寄せられた。 論争における政治の契機を共通善との関係においてどう評価する 山本報告に対しては、ラディカル・デモクラシー論はリベラル ル・デモクラシー論の提起する論点として析出された。 な諸価値とどう折り合いをつけるのか、また今日のラディカル・ デモクラシー論の興隆にはどのような社会的背景があるのか、そ してラディカル・デモクラシー論のそれぞれの論者が異なった政 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 370 問題関心の根底に、変わらぬ「教」の内容があったとし、 「明治 維新を単に伝統から近代への移行と見なす」通念をも問おうとす ンド・バークの専制論」 、李セボン会員(東京大学大学院) 「阪谷 本分科会では、高橋和則会員(中央大学非常勤講師) 「エドマ を不可欠としていたこと、そしてそれ故に主張された学校教育、 論」を正しく行うための前提条件として、個々人の「裁定」能力 た阪谷が、何故民権運動に否定的であったのかの疑問に対し、 「議 〔自由論題 分科会B 〕 素の晩年の思想─『道』と『議論』の実践」 、宮下豊会員(元新 新しい時代に相応しい学業が、儒学的な理想の実現であると同時 る。具体的には、 「議論」を重視し「民権」に否定的ではなかっ 潟国際情報大学) 「自由のなかの平等─ハンス・J・モーゲンソー 司会 山田央子 (青山学院大学) によるアメリカの威信の理解」の三報告が行われた。 に、欧米人からも賞賛される、誰もが目指すべき 文 「 明ノ世」に 適うと認識されていたことが指摘された。会場からは、阪谷の朱 めざしたもので、バークがモンテスキューに依拠しながら新たに 宮下会員の報告は、モーゲンソーが提起したアメリカの 国 「家 目的」を読み解くことにより、彼の政治思想がリアリズムである 子学観に関する質問が複数の切り口から寄せられた。 高橋会員の報告は、バークの専制論の再構成とその論理把握を 構築した 専 「制 論 」 を以下の二つの側面から検討する。一つには、 インド問題に発する「絶対君主以外の絶対的主権者」の登場、す 五〇年代半ば以降アメリカの威信の失墜を懸念したモーゲンソー との定説を覆して、新たな知的刺激を得ようとする試みである。 なわち本来は委任された権力であったものが 媒「介的恣意的権力」 となるメカニズムが、主権を有する絶対君主の専制との違いと共 が、その源泉を軍事力・経済力ではなく、一貫して理念的なもの 命フランスの専制」であり、それらがいかなる意味で 新 「 しい 」 専制と捉えられたのかが考察され、とりわけ「教育」という形で 範として維持することであった。彼の一貫した規範的関心は、そ という原則の国内における実現と、それを他国が見習うための模 家目的」であり、具体的には、建国以来の「自由のなかの平等」 に求めていたことが論ぜられる。それは「国益」と峻別された「国 「人々の意見」や「習俗」が破壊され、統治に都合よく再生され れを様々な危機に直面しながら、新しい条件に即して再検討し再 に説かれる。第二に指摘されるのが、 議 「 会による専制 及 」 び「革 たことに、従来の専制との違いを指摘したバークの視点が注目さ 定式化することによって解決を図ることであったとされる。会場 う位置づけて理解できるか、などの質問が寄せられた。 からは、その場合、モーゲンソーはアメリカ政治思想の系譜にど れた。会場からは、バークが重視した「意見」や 習 「俗 の 」 内容 李会員の報告は、儒者阪谷素の思想を、これまで利用されてい や議会制との関連について質問が寄せられた。 ない『明六雑誌』停刊以後の諸論説を手がかりに解明しようとし たものである。晩年の五年間への着目から、阪谷の多岐にわたる 371 【2012 年度学会研究会報告】 【国際シンポジウム(国際交流セッション) 】 イギリス理想主義と政治哲学 ( British Idealism and Political Philosophy ) 司会 杉田 敦 (法政大学) 国家の役割をきわめて高く評価していた。 そうした観点から彼は、 同時代の急進主義者たちの多くが、国家の役割を軽視していると 批判を加えたのである。彼はグリーンと同様に、カント主義とア リストテレス主義を結合する形で、 個人の自己実現を目的と考え、 カーディ Andrew Vincent 知的・道徳的能力を展開するための手助けを国家がすべきとした。 次にアンドリュー・ヴィンセント氏( ルらドイツ系の哲学を導入しつつイギリスで独自の発達を遂げ、 研究は、日本の政治学で長い歴史をもっている。カント、ヘーゲ リーンは考えた。もっとも、彼自身が国家の条件を明確に示した はない。人びとの「不文の法」に反すれば統治は崩壊する、とグ なく、単なる強制力の存在だけでは国家の存在条件として十分で 政ロシアについて、 「お世辞でしか( by mere courtesy ) 」国家と しか呼べないとした。国家は外形が整っているだけでは正統性は フ大学 )は、 「 T・H・ グリーンと国家の条件( T.H.Green and ) 」と題して報告を行った。グリーンは帝 the Conditions of State 自由主義全盛の一九世紀において、人間の潜在能力を展開する上 T・H・グリーンをはじめとするイギリス理想主義についての で国家・政府が果たすべき役割を強調したイギリス理想主義は、 わけではないが、 「権力国家」と「市民国家 会政治思想・政治史分科会の共催により、このテーマで国際シン 互に承認されるようにすることを、あるべき国家の目的としたの めのものでなければならないとした。人びとの基本的な権利が相 」とを対比 civil state し、国家の強制力は、社会的な関係にもとづく権利を実現するた 福祉国家成立の思想的背景の一つとも考えられている。今回、イ ポジウムが開催された(司会・杉田敦) 。 である。 ギリス政治学会と政治思想学会、および日本学術会議政治学委員 最初に登壇したコリン・タイラー氏( Colin Tylerハル大学) は、 「D・G・リッチーの社会主義論、歴史論、ロック論( 三 番 手 の デ イ ヴ ィ ッ ド・ バ ウ チ ャ ー 氏( David Boucher D. G. カーディフ大学)は、 「イギリス理想主義と政治の変容( British ) 」 と 題 し て、 イ ギ Idealism and the Transformation of Politics リス理想主義と、同時代の進化論との関係について述べた。前者 ) 」で、一九世紀イギリ Ritchie on Socialism, History, and Locke スの社会主義論の系譜の中でリッチーが占める位置を説明した。 リッチーは、ジョン・ロックへの批判的検討を通じて、自由主義 定的かつ最終的なものの優越性」という従来の伝統を破壊する点 の道徳主義と後者の自然主義とではもちろん違いがあるが、 「固 的 社 会 主 義( liberal socialism ) を 展 開 し た。 リ ッ チ ー は 社 会 主 義者とは呼べないという意見もあるが、彼は労働者保護の上での 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 372 義者たちは、ヘーゲル哲学に忠実でありつつ、いかに進化論をそ 個人主義等につながらないようにしようとした。イギリス理想主 はそれを前提として受け入れた上で、 「 適者生存 」が行き過ぎた 的転換に近いものをもたらすと受け取られたが、理想主義者たち において、両者は一致していたのである。進化論はコペルニクス また、宇野重規氏(東京大学)からは、バウチャー、寺尾両氏 を、タイラー氏が社会主義的側面をより強調していると言える。 比すると、ヴィンセント氏がイギリス理想主義の自由主義的側面 ついて詳細な紹介があったことは大きな収穫である。二報告を対 ラー氏により、日本の学界で十分に認知されていないリッチーに ヴィンセント両氏に対して以下のようなコメントがあった。タイ へのコメントがなされた。イギリス理想主義と進化論との関係が れと調和させるかを考え、ヘーゲルこそがダーウィンやスペン 必然的・内在的なものだったのか、それとも偶然的・歴史的なも 以上のコメントに対し、報告者から若干の応答が行われ、さら サーよりも優れた進化論理論家であると主張するに至った。精神 に会場からの質疑もあり、シンポジウムは予定時間を大幅に超え 的成長や理性的発展を有機的な過程と見なす進化論の視座は、多 最後の報告者である寺尾範野氏(カーディフ大学大学院)は、 めぎ合いの中で成立したものであること、そしてそれゆえに、内 のにすぎなかったかが問題である。これと関連して、ヘーゲルを 「理想主義と進化論の調停:リッチー、ボザンケ、ホブハウスの 部に多様性を抱えたものであることが一層明確になったと思われ 進化論の理論家と見なすことがどこまで妥当かも問題となりうる。 ) 」で、バウチャー氏と同様に、理想主 Bosanquet and Hobhouse 義と進化論との関係について述べた。理想主義第二世代のリッ 様性における統一性、差異における同一性を見出すヘーゲル的な チー、バーナード・ボザンケ、L・T・ホブハウスは、進化論を (本シンポジウムについてのより詳細な報告は、 『創文』二〇一 る。 原理と両立するものと見られた。 摂取した上で、それを彼らの社会改革論に結びつけた。リッチー 二年秋号に掲載されている) 場合( Reconciling Idealism with Evolution: the Cases of Ritchie, て終了した。今回の会議を通じて、イギリス理想主義が思想的に 孤立したものでなく、進化論等、同時代の政治思想との交渉やせ は自然淘汰を重視する自然主義に近い立場から、集団間の競争を 考えた。ボザンケは今少し人間精神の独自性を強調し、精神の発 達により、自然と人間の関係はより相互補完的になるとした。ホ ブハウスは自然主義的説明から最も遠く、進歩は自然的過程に よってよりも、むしろ道徳的な意志によって実現されるものとし 以上の報告を受けて、平石耕氏(成蹊大学)から、タイラー、 た。 373 【2012 年度学会研究会報告】 執筆者紹介 〔掲載順〕 一九七〇年生まれ。名古屋大学大学院法学研究科教授。博士 田村哲樹 (法学) 。 『政治理論とフェミニズムの間──国家・社会・家族』 日本経済評論社、二〇一二年) 。 (昭和堂、二〇〇九年) 、 『 アクセスデモクラシー論 』 (共編、 相原耕作 一九七〇年生まれ。神奈川大学非常勤講師。博士(政治学) 。 おける公共性と善き生」 (韓国政治思想学会編『政治思想研究』 における存在の現れ』 (風行社、二〇一一年) 。 士(法学) 。 『マルティン・ハイデガーの哲学と政治──民族 一九七五年生まれ。名古屋大学大学院法学研究科研究員。博 小林正嗣 アジア太平洋研究科) 】 ßr[ Morals and Laws In Rousseau’s Political PhirosuåR] R]( ) 」 ( 『 wj∂cltktk∂d』 ußRn 一 losophy: Concepts and the Relatioship 五集二号、二〇〇九年) 。 【翻訳者 李承宰(早稲田大学大学院 (k® Moral Goodness in Human Life, and Political fnthd; wj∂clalg ) 」 Principles: Aesthetics in Political Philosophy of Rousseau ( 『 wj∂cltktk∂d』 、 「 fnthd; ehej®R] qjœ: ußRn 一 六 集 一 号、 二 〇 一 〇 年 ) (韓国外国語大学校大学院) 。 「dlßrkßtkÅd; ehej®wj® wh© dmåR] wj∂cld|ßfl: 一九七一年生まれ。淑明女子大学校教育大学院助教授。博士 呉 守雄 「荻生徂徠と本居宣長の言語論と政治論──古の理想世界に 第一七巻第一号、二〇一一年、韓国語) 、 「国学・言語・秩序」 ( 『日本思想史講座3 近世』ぺりかん社、二〇一二年) 。 一九八一年生まれ。名古屋大学大学院法学研究科准教授。博 加藤哲理 士(法学) 。 『ハンス=ゲオルグ・ガーダマーの政治哲学── 解釈学的政治理論の地平』 (創文社、二〇一二年) 。 一九七〇年生まれ。九州大学大学院法学研究院教授。博士 (政 木村俊道 治学 ) 。 『顧問官の政治学──フランシス・ベイコンとルネサ ンス期イングランド』 ( 木鐸社、二〇〇三年 ) 、 『文明の作法 ──初期近代イングランドにおける政治と社交』 (ミネルヴァ 書房、二〇一〇年) 。 遠山隆淑 とヴィクトリア時代の代議政治』 (風行社、二〇一一年) 、 「世 『 「ビジネス・ジェントルマン」の政治学──W・バジョット 超の『革命』 」 ( 『中国──社会と文化』第二六号、 二〇一一年) 。 啓蒙思想 』 (法政大学出版局、二〇〇五年) 、 「 『 改 良 派 』梁 啓 治学 ) 。 『近代中国の立憲構想──厳復・楊度・梁啓超と明治 一九六七年生まれ。島根県立大学総合政策学部教授。博士 (政 李 暁東 論と指導──バジョット政治的リーダーシップ論の一側面」 一九七四年生まれ。熊本高専共通教育科・准教授。博士 (法学) 。 ( 『政治空間の変容[政治思想研究 第九号] 』 、二〇〇九年) 。 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 374 近藤和貴 一 九 七 八 年 生 ま れ。 早 稲 田 大 学 政 治 経 済 学 術 院 助 教。 Ph.D, ( Boston College ) . Socrates’ Understanding Political Science 一九六二年生まれ。早稲田大学政治経済学術院教授。PHD 梅森直之 と反文明のあいだ──初期アジア主義者の思想と行動」 (梅 を中心に」 ( 杉田敦編『 守る──境界線とセキュリティの政 ( シカゴ大学 ) 。 「 「占領中心史観」を超えて──不均等の発見 森直之ほか編『歴史の中のアジア地域統合』勁草書房、二〇 二〇〇五年 ) 、 「議会政治家からみた主権と天皇──斎藤隆夫 習院大学) 。 「 「 青 ざ め 」た の は 何 者 か? ──「 超 国 家 主 義 の 一九七八年生まれ。学習院大学非常勤講師。政治学博士(学 田頭慎一郎 一二年) 。 治学』 ( 〈政治の発見〉第七巻、風行社、二〇一一年) 、 「文明 「 現 代 リ ベ ラ リ ズ ム に お け る 正 義 と 不 正 義 ── Quest, 2011. ロールズとシュクラーを中心として」 (太田義器・谷澤正嗣 of his Trial: The Political Presentation of Philosoph, Pro- 編『悪と正義の政治理論』ナカニシヤ出版、二〇〇七年) 。 原田健二朗 一九八一年生まれ。慶應義塾大学非常勤講師。博士(法学) 。 “The Christian Politics of Tony Blair: Faith and Values in の憲法論」 ( 『日本政治研究』第三巻第二号、二〇〇六年) 。 名弾正の政治思想』 ( 東京大学出版会、一九八二年 ) 、 「福音 一九四三年生まれ。恵泉女学園名誉教授。法学博士。 『海老 吉馴明子 論理と心理」の一文をめぐって」 ( 『丸山眞男手帖』第三五号、 )「;ケ ン ブ リ ッ ジ・ プ ラ ト ニ ス ト の 黙 示 録 解 釈 No. ( 18 2013 と千年王国論──アングリカン国制の擁護と革新」 ( 『 法学政 Modern Politics”, Journal of Political Science and Sociology, 治学論究』第八六号、二〇一〇年) 。 古田拓也 宣教と社会改良──一八九〇年代の植村正久」 ( 『 明治学院大 一九八五年生まれ。慶應義塾大学後期博士課程。 「国家なき 主権論──ロバート・フィルマーにおける神と父」 ( 『 法学政 ロッパ思想史のなかの自由』 (創文社、二〇〇六年) 。 想史における〈政治〉の位相』 (岩波書店、 二〇〇三年) 、『ヨー 一九三三年生まれ。東京都立大学名誉教授。 『ヨーロッパ思 半澤孝麿 学キリスト教研究所紀要』第四四号、二〇一一年) 。 。 治学論究』第九二号、二〇一二年) 飯田泰三 一九四三年生まれ。島根県立大学副学長・北東アジア開発研 本精神史の一稜線』 ( 筑摩書房、一九九七年 ) 、 『戦後精神の 究科長。法学博士(東京大学) 。 『批判精神の航跡──近代日 光芒──丸山眞男と藤田省三を読むために 』 ( みすず書房、 二〇〇六年) 。 375 【執筆者紹介】 梅田百合香 一九六七年生まれ。早稲田大学政治経済学術院准教授。 「デ 谷澤正嗣 モ ク ラ シ ー に お け る 合 意 と 抗 争 ── 現 代 共 和 主 義 の 視 点 か 一九六八年生まれ。桃山学院大学経済学部准教授。博士(法 学) 。 『甦るリヴァイアサン』 ( 講談社、二〇一〇年 ) 、 『ホッ ら」 ( 齋藤純一・田村哲樹編『 アクセス デモクラシー論 』 日本経済評論社、二〇一二年 ) 、 『悪と正義の政治理論』 (共 六年) 、 『 「 未完の革命 」としての平和憲法──立憲主義思想 ントと現代──自由の政治とその展望 』 ( 岩波書店、一九九 一九四九年生まれ。国際基督教大学教養学部教授。 『アーレ 千葉 眞 編著、ナカニシヤ出版、二〇〇七年) 。 ブズ 政治と宗教──『 リヴァイアサン 』再考 』 (名古屋大 学出版会、二〇〇五年) 。 古城 毅 一九七五年生まれ。学習院大学法学部教授。博士 (法学) 。 「フ ケル、スタール」 ( 『国家学会雑誌』第一一七巻第五・六号、 史から考える』 (岩波書店、二〇〇九年) 。 ランス革命期の共和政論──コンスタンと、メストル、ネッ 二〇〇四年 ) 、 「商業社会・宗教感情・連帯──コンスタンと 中村敏子 ボナルド」 ( 宇野重規・髙山裕二・伊達聖伸編『 社会統合と 宗教的なもの──十九世紀フランスの経験』白水社、二〇一 一年) 。 論 と 父 権 的 コ モ ン ウ ェ ル ス の 構 造 」(『 北 海 学 園 大 学 法 学 研 一九五二年生まれ。北海学園大学法学部教授。『福沢諭吉 文明と社会構想』(創文社、二〇〇〇年)、「ホッブズの母権 究』第四八巻第一号、二〇一二年)。 犬塚 元 一九七一年生まれ。東北大学法学研究科教授。博士(法学) 。 〇四年) 、 「震災後の政治学的・政治理論的課題──「不確実・ 『デイヴィッド・ヒュームの政治学』 (東京大学出版会、二〇 不均衡なリスク」のなかの意思決定・連帯・共存の技法」 (稲 葉馨ほか編『今を生きる:東日本大震災から明日へ 復興と 再生への提言』第三巻、東北大学出版会、二〇一三年) 。 一九六五年生まれ。九州大学大学院比較社会文化研究院教授。 鏑木政彦 博士(法学) 。 『ヴィルヘルム・ディルタイ──精神科学の生 成と歴史的啓蒙の政治学』 。 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 376 ●政治思想学会規約 第一条 本会は政治思想学会( Japanese Conference for the Study )と称する。 of Political Thought 第二条 本会は、政治思想に関する研究を促進し、研究者相互の 交流を図ることを目的とする。 げない。 第九条 代表理事は本会を代表する。 理事は理事会を組織し、会務を執行する。 理事会は理事の中から若干名を互選し、これに日常の会 務の執行を委任することができる。 ならない。 第十条 監事は会計および会務の執行を監査する。 第十一条 理事会は毎年少なくとも一回、総会を召集しなければ 理事会は、必要と認めたときは、臨時総会を招集するこ (2)研究会・講演会などの開催 総会の議決は出席会員の多数決による。 に書面によって会員に通知しなければならない。 総会の招集に際しては、理事会は遅くとも一カ月前まで とができる。 (3)国内および国外の関連諸学会との交流および協力 第三条 本会は、前条の目的を達成するため、次の活動を行なう。 (1)研究者相互の連絡および協力の促進 (4)その他、理事会において適当と認めた活動 第十二条 本規約は、総会においてその出席会員の三分の二以上 の同意がなければ、変更することができない。 第四条 本会の会員は、政治思想を研究する者で、会員二名の推 薦を受け、理事会において入会を認められたものとする。 付則 本規約は一九九四年五月二八日より発効する。 会費を滞納した者は、理事会において退会したものとみ 第五条 会員は理事会の定めた会費を納めなければならない。 なすことができる。 第六条 本会の運営のため、以下の役員を置く。 (1)理事 若干名 内一名を代表理事とする。 (2)監事 二名 第七条 理事および監事は総会において選任し、代表理事は理事 会において互選する。 第八条 代表理事、理事および監事の任期は二年とし、再任を妨 377 【政治思想学会規約】 【論文公募のお知らせ】 学 会 誌『 政 治 思 想 研 究 』 の 編 集 委 員 会 で は、 第 一 四 号 の 刊 行 (二〇一四年五月予定)にむけて準備を進めています。つきまし ては、それに掲載する論文を下記の条件・要領で公募いたします。 多数のご応募を期待します。 〒〇六〇‐〇八〇九 札幌市北区北9条西7丁目 ) tsuji@juris.hokudai.ac.jp 北海道大学大学院法学研究科 辻康夫研究室気付 『政治思想研究』第一四号編集委員会 (問い合わせ先: 論文は、審査における公平を期するために、著者名を記入せ 5 原稿の提出に際しては、以下のものを提出すること。 (1)論文。同一のものを三部。 ず、また注記においても著者名がわからないように注意する 特定大学の研究会や研究費への言及といった投稿者の特定を こと。(とくに「拙稿」といった表現には気を付けること。また、 とを条件とする。ただし、『政治思想研究』第一三号に公募 1 二〇一三年八月十五日時点で、応募者が本会の会員であるこ 容易にするような記述もしないようにすること。) 紙に以下の八項目を記入したものでもよい。) 学会ホームページからダウンロードできるが、任意のA4用 (3)以下の事項を記載した「応募用紙」。(「応募用紙」は本 一のものを三部。 (2)論文の内容についてのA4用紙一枚程度のレジュメ、同 論文もしくは依頼論文(書評および学会要旨などは除く)が 掲載された者は、第一四号に限り、応募することができない。 で他者のコメントを求めるために発表したものはこの限りで 2 応募論文は未刊行のものに限る。ただし、インターネット上 はない。 でも可)、②執筆者氏名、③連絡先の住所とメールアドレス、 論文の場合は掲載雑誌名と巻号及び刊行年月、著書の場合は 上の学位、⑦現職(または在学先)、⑧主要業績(五点以内)。 ールアドレス、④生年、⑤学部卒業年(西暦)月、⑥修士以 ①応募論文のタイトル、②執筆者氏名、③連絡先の住所とメ ④学部卒業年(西暦)月、⑤現職(または在学先)をメール 出版社及び刊行年を明記すること。 3 応 募 希 望 者 は、 二 〇 一 三 年 七 月 十 五 日 ま で に 編 集 委 員 会 宛 ( tsuji@juris.hokudai.ac.jp )に、①応募論文のタイトル(仮題 で知らせ、予め応募の意思を示すこと。ただし、諸般の事情 まれる。ただし、論文タイトルとサブタイトルは含まれない。 この字数の中には、改行や章・節の変更にともなう余白も含 6 原稿の字数は、本文と注を含めて三万二四〇〇字以内とする。 でやむを得ずこの手続きを踏んでいない場合でも、下記の締 切までに応募した論文は受け付ける。 4 原稿の送付の締切は二〇一三年八月十五日(当日の消印まで 有効)で、厳守する。提出先は以下の通りである。 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 378 字数制限は厳守すること。この字数を超えた論文は受理され 出が本誌である旨を明記すること。 は、予め編集委員会に転載許可を求め、転載にあたっては初 ページ上でも公開されることになる。 【政治思想学会研究奨励賞】 が出席している場合は、挨拶をしてもらう。 ・政治思想学会懇親会で受賞者の紹介をおこない、その場に本人 ・受賞者には賞状と賞金(金三万円)を授与する。 ・受賞は一回限りとする。 に限る。 ・ただし、応募時点で学部卒業後一五年未満の政治思想学会会員 授与されるものである。 本賞は『政治思想研究』に掲載を認められた応募論文に対して 以上 9 なお、応募論文が本誌に掲載された場合、原則としてホーム ない。 ①論文タイトルとサブタイトルのみを記載した「表紙」を付 (1)以下の様式で、A4用紙にプリントアウトすること。 けること。 ②本文及び注は、一行四〇字、一ページ三〇行で、なるべく 行間を広くとってプリントアウトする。注は文末にまとめる。 また本文と注で行数や字数を変えないこと。横組みでも縦組 みでもよい。詳しくは「執筆要領」に従うこと。(なお、こ の様式でプリントアウトした場合、三万二四〇〇字は二七枚 (表紙を除く)になる。) (2)手書きの原稿も可とする。 (3)図や表を使用する場合、図や表の占めるスペースを字数 換算して、制限字数を計算すること。例えば、A4用紙一枚 の表を使う場合は、制限字数は三万一二〇〇字となる。なお、 図版などの使用は、白黒のものに限定する。使用料が必要な 図版などは使用できない。また、印刷方法や著作権の関係で 掲載ができない場合もあることを留意すること。 7 応募論文は、編集委員会において外部のレフリーの評価も併 せて慎重に審査した上で掲載の可否を決定する。応募者には 可否の結果を通知する。不採用の者に対しても評価の概略を 通知する。また編集委員会が原稿の手直しを求めることもあ る。なお、応募原稿は返却しない。 8 応募論文が本誌に掲載された後に他の刊行物に転載する場合 379 【政治思想学会研究奨励賞】 【執筆要領】 イタリックの書式情報は認識されないので、プリントアウト 5 引用・参考文献として欧文文献を示す場合を除いて、原則と して数字は漢数字を使う。 のものに赤のアンダーラインを引いて明示すること。 1 入稿は「ワード」「一太郎」「テキストファイル」のいずれか の形式のファイルで行うこと。 6 「、」や「。」、また「 」 ( )等の括弧類は全角のものを使う。 7 校正は印刷上の誤り、不備の訂正のみにとどめ、校正段階で の新たな加筆・訂正は認めない。 ……)をつけることができ 「書評」および「学会研究会報告」は、一ページの字数が二九 字×二四行×二段(すなわち二九字×四八行)という定型を採 8 『政治思想研究』は縦組みであるが、本要領を遵守していれば 横組み入力でも差し支えない。 2 見出しは、大見出し(漢数字一、二……)、中見出し(アラビ ア数字1、2……)、小見出し( 、 ……)を用い、必要な場 ④和雑誌掲載論文の場合 四年、一四〇頁。 丸山眞男『現代政治の思想と行動』第二版、未來社、一九六 E. Tokei, Lukács and Hungarian Culture, in The New ) p. 108. Hungarian Quarterly, Vol. 13, No. ( 47 1972 ③和書単行本の場合 ②洋雑誌掲載論文の場合 (高木監訳『経済学批判要綱』 (一)、 Diez Verlag, 1953, S. 75-6 大月書店、一九五八年、七九頁) . K. Marx, Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie, 4 引用・参考文献の示し方は以下の通りである。 ①洋書単行本の場合 3 注は、文末に(1)、(2)……と付す。 るが、章、節、項などは使わないこと。 合にはさらに小さな見出し(i、 (2) 坂本慶一「プルードンの地域主義思想」 、 『現代思想』第五巻 第八号、一九七七年、九八頁以下。 ⑤テキスト形式の場合 その他、形式面については第六号以降の方式を踏襲する。 用するので、二九字×○行という体裁で入力する。 9 10 (1) ii 政治思想における言語・会話・討議【政治思想研究 第 13 号/2013 年5月】 380 森川輝一(京都大学) 石川晃司(日本大学) 梅森直之(早稲田大学) 大澤麦(首都大学東京) 押村高(青山学院大学) 苅部直(東京大学) 菅野聡美(琉球大学) 木部尚志(国際基督教大学) 権左武志(北海道大学) 向山恭一(新潟大学) 田村哲樹(名古屋大学) 堤林剣(慶應義塾大学) 萩原能久(慶應義塾大学) 安武真隆(関西大学) 吉岡知哉(立教大学) 二〇一二─ 二〇一三年度理事および監事(二〇一二年五月二六日、 総会において承認) [代表理事] 関口正司(九州大学) [理事] 飯田文雄(神戸大学) 宇野重規(東京大学) 大久保健晴(明治大学) 岡野八代(同志社大学) 小田川大典(岡山大学) 川出良枝(東京大学) 北川忠明(山形大学) 木村俊道(九州大学) 齋藤純一(早稲田大学) 杉田敦(法政大学) 辻康夫(北海道大学) 中田喜万(学習院大学) 松田宏一郎(立教大学) 山田央子(青山学院大学) [監事] 山岡龍一(放送大学) 「お詫びと訂正」 『政治思想研究』の刊行にあたっては、創刊以来本号に至る まで、財団法人櫻田会から出版助成をいただいています。 しかし、第9号(2009年)から第 号(2012年)に おいて、このことが明記されておりませんでした。 ここに、財団法人櫻田会および関係各位に深くお詫び申し上 げますとともに、訂正させていただきます。 政治思想学会 381 【2012 ー2013 年度理事および監事】 12 編集委員会 川出良枝(編集主任) 辻 康夫(編集副主任) 山田央子 齋藤純一 大澤 麦 中田喜万 政治思想における言語・会話・討議(政治思想研究 第 13 号) 2013 年5月1日 第1刷発行 編 者 政治思想学会(代表理事 関口正司) 学会事務局 〒 812-8581 福岡市東区箱崎 6-19-1 九州大学大学院法学研究院 木村俊道研究室気付 Fax. 092 − 642− 4162 学会ホームページ:http://wwwsoc.nii.ac.jp/jcspt/ 発 行 者 犬 塚 満 発 行 所 株式会社 風 行 社 〒 101 −0052 東京都千代田区神田小川町3- 26 - 20 Tel.・Fax. 03-6672-4001 /振替 00190-1-537252 印刷/製本 モリモト印刷 ISBN978-4-86258-056-6 C3031 Printed in Japan
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