題字 和田亮介君 版画古野由男先生 第18号 松江中学69期・松江高校1期一双会会報 発行 平成28年1月 題目 本部編 頁 池田 浩二 1 歓迎の辞 長谷川 威 3 写真集 脇田 咸次郎 4 首都圏一双会世話人会 脇田 咸次郎 9 お悔やみ 一双会 9 追悼 須田晃生君 長谷川 威 10 槇原節君を悼む 別部 松彦 11 一双会の歩み 中沼 尚 12 赤山健児の歌について 松原 秀雄 13 松江中学での思い出 鳥谷 芳男 21 我が人生を顧みて 日高 康弘 28 コンピューターは敬遠だ 中藤 俊雄 32 我が人生 持田 敏郎 33 卒業写真 野津 功 38 白秋ゆかりの地・湘南 太田 陽治 40 紙芝居 脇田 咸次郎 49 太田 陽治 54 赦し難きを赦す 中沼 尚 61 画家として、平和を希う人として 加納 佳世子(特別寄稿) 62 復刻版『しろたま』を読んで(Ⅱ) 太田 陽治 63 松江からこんにちは 松江っ子 68 国宝松江城はかくして残った 中沼 尚 70 会計報告 中沼 尚 71 編集後記 編集室 72 思い出編 エッセイ編 一双会65周年・戦後70年記念大会開催 寄稿者 隠岐の島 浜風・流水落花 春去りぬ Ⅺ 一双会卒業65周年・戦後70年記念大会報告 池田浩二 一双会卒業65周年・戦後70周年記念大会は2015年10月22日、東京ステーションホテルで開 催された。今年の夏も猛暑が続き、そろそろ秋風をという時になって、北関東地方に、いままで 経験した事がないような豪雨台風が二つ重なり、鬼怒川堤防が決壊という事態でしたが、一双会 の当日には嘘のような快晴で、九州や、松江や、関西からも、馳せ参じてくれた旧友を歓迎して くれた一日であった。会場の東京駅は、「日本の中央駅」という位置付けで、明治30年代に建築 計画がはじまった。設計に当たったのは、帝国大学工科大学(現東京大学工学部)学長を務め、 建築学科を開設された初代の、辰野金吾氏だった。東京駅の設計は、辰野式ルネッサンス様式と いわれ、オランダのアムステルダム駅をモデルに設計されたといわれ、重厚な赤レンガの荘厳な 装いで1914年(大正3年)12月、首都東京の表玄関として建設されている。 東京駅の丸の内駅舎 は、その後関東大震災では,特に被害は受けなかったが、70年前の東京大空襲で焼け落ちた。すぐ に戦災復興工事として、2階建てとして焦土の東京に応急的な修理で立ち上がり、最近まで使わ れてきていたが、建築後100年を迎えるにあたり、丸の内一帯のリニューアルに合わせ、今回創建 当初の3階建て、クラシカルなドーム屋根に復元され、明治・大正期の日本人がイメージする西 洋文明を体現したような駅舎が生き返った。そういう東京駅のリニューアル工事によって、駅舎 にあった東京ステーションホテルも一新され、クラシックなルネッサンス風ホテルとして大人気 となった、東京駅の中で、地方から来てくれる方々にも交通の便も良いと、首都圏一双会の監事 達は、今年の一双会卒業65周年・戦後70年記念大会を久しぶりに東京ステーションホテルで開催 する事になった。 当日は、 九州福岡から参加の佐藤幸甫夫妻、松江から参加の平野稔、大阪から参加の竹 内一郎、宇藤二男丸、 首都圏でも夫婦で参加の長谷川威、松原秀雄、持田敏郎、山崎隆司の諸君 と、準会員の寺津教子、布川玲子、荒木ゆきえ、増谷りえ、西本美智子の5人の諸姉を加え、合計 34人の出席者となり、以下のようににぎやかな記念大会となった。 -1- 午前11時15分 受付 宴会場 桐の間 11時20分 東京ステーションホテル見学会ツアー 東京ステーションホテルが上記のように、1年前にリニューアルオープンしたばかりなので、一般に見 学会の希望が多いとのことで、われわれにも見学会の誘いがホテル側からあり、参加者を2班に分かれて 新装なった明治の名建築と称される駅舎を見学した。 12時00分 一双会総会 司会 池田浩二 運営方針・会計報告 会計担当 中沼 尚 「東京ミチテラス」上映(10分) 東京駅リニューアルプロジェクションマッピング 「許し難きを許す」上映(12分) 戦後70年報道特別番組 BSS山陰放送 総会に引き続き上映された2本のヴィデオは、中沼尚君が準備提供されたもので、プロジェクターお よびスクリーンまで自宅から持参用意して下さった、その好意に感謝したい。東京駅のプロジェクションマ ッピングは、1年前のリニューアルオープンされた時の夕方,新装なった東京駅の壁面一杯に写されたも のを、東京ミチテラス(地元商店街)が制作した映像を、現場で見ることが出来なかった我々にも見せてい ただいたものである。 もう一つの 「許し難きを許す」というヴィデオは、これもたまたま中沼君が今夏、松江に帰郷されてい た時に、山陰放送の戦後70年報道特別番組を見る機会があり、この番組に感動したという事で、我々に 紹介してくれたものだった。その内容は、第2次世界大戦の戦後フィリピンで、日本軍の戦争犯罪の責任を 問われ、BC級戦犯裁判の被告となっていた人達の助命嘆願を、長年にわたって誠心誠意,懸命に努力 を続けられ、ついにキリノ大統領を動かして、当時不可能とも思われていた特赦を実現した物語で、その 無私的努力をつづけられた方が、島根県安来の郊外、広瀬町布部出身の加納莞蕾(本命辰夫)という画 家がおられた物語であった。そして加納さんは長年にわたり献身的な努力を重ね、外務省、大使館、フィ リピン政府に228通もの嘆願を重ね、キリノ大統領に直接43通もの嘆願を重ね、ついに1953年7月、死刑 判決が確定していた79人を含む、108人の受刑者全員の特赦、帰国が実現した感動的な話であった。 日本は第2次大戦によって、約300万人の戦死者、原爆や空襲その他の犠牲者があったと言われて いるが、正確には判らないが、その7倍を超える約2000万人の他国の方を犠牲にしたといわれている。そ のうちフィリピンでは日本軍は50万人の犠牲に対し、先方には倍の100万人の市民、マニラ首都圏で10万 人の犠牲者があったと言われている。特にキリノ大統領 は夫人と3人の幼い愛児と、5人の近親者が、日 本軍の犠牲になったという事なので、いくら熱心な嘆願があっても、容易にこれに応答する事は生易しい 事ではなかったと思われる。そういう意味で私達は、加納画伯の献身的な長年のご活動は感動的な物語 だと思います。 それにも増してキリノ大統領の大きな決断の意味は、重い素晴らし決断だと思われます。 「許し難きを許す」という、このヴィデオのテーマ は、私達にとって、平和という永遠のテーマを考える、大 切なキーワードの一つだと思われます。 12時50分 宴会となり自由に歓談 乾杯音頭 持田 敏郎 フランス料理と飲み放題のビールとワインとダベリング 13時00分 歓迎スピーチ 一双会会長 長谷川 威 13時45分 遠来客スピーチ 佐藤幸甫 竹内一郎 平野 稔 14時45分 閉会の辞 首都圏一双会世話人 脇田咸次郎 14時55分 記念写真撮影 1階ホワイエ 15時00分 散会 二次会 15時30分 東京駅八重洲口 レストラン オールドステーション ソーセイジ等をつまみながらビール飲み放題で歓談 20名参加 17時30分 散会した。 -2- 県立松江高等学校 卒業六十五周年・戦後七十年記念一双会大会歓迎の辞 一双会 会長 長谷川 威 此の度は、卒業六十五周年の節目の年に当たる記念大会に、遠くは九 州福岡から又鳥取境港市から、関東では山梨・栃木・茨城・千葉等など 日本全国から、多数三十四名のお仲間の方々にご参集頂き、遥かにさか のぼる六十五年前に同じ学窓の下机を並べ最も多感な青春のひと時を共 に過ごしたお仲間達が、学窓を巣立って以来各々が様々な人生航路に漕 ぎだし様々な経験を積まれ六十五年の歳月を重ねた後に、再び懐かしの 母港に帰り来り顔を合わせ、かっての紅顔の美少年美少女達の顔を思い 浮かべ語り合う機会を持つ事が出来た幸せに感謝し、当事者として欣懐 の至りです。ひと言に六十五年と申しますが、この間に生ま育った子供 達が立派に成人して既に還暦を過ぎ、その間各方面で、学問に・政治 に・経済に立派な業績・貢献を残して各々の人生を振り返る年月である 事を思う次第です。 各位にはこの間様々な人生行路を歩まれ、その間激動の戦争の時代、 敗戦から三百六十度の価値観の変換の時代を経て、更に復興の七十年、 その間の喜びも悲しみも一入に思い出される事と思います。 又今日お集り頂いたこの会場東京ステーションホテルは今年創業百年目 を迎え、その間先の大戦の戦禍による破壊からの再建リニュウアルが完 成、新装成った日本の交通の中心にあるホテルであります。この歴史あ る場所で歴史を刻む記念すべき大会を開く事が出来ました事は誠にご同 慶の至りでございます。 何卒本日は六十五年の半世紀を越える歳月の溝を越えて、杯を交わし 旧友達と肩を組み合って語り食べうま酒の盃を上げて旧交を温めて頂き たいと願っております。 皆さま方の一層のご健勝とご清祥を祈り感謝と共に歓迎の言葉とさせ て頂きます。 以上 -3- -4- -5- -6- -7- 竹 内 一 郎 佐 藤 幸 甫 成 毛 由 香 里松 ( 原 ホ テ允 ル ) 長 谷 川 章 江 太 田 陽 治 平 野 稔 持 田 房 子 佐 藤 千 鶴 子 野 津 功 岡 和 夫 蘆 田 亮 伊 藤 敬 藤 井 透 藤 井 宏 宇 藤 二 男 中 丸 高 沼 橋 尚 秀 寛 持 田 敏 郎 -8- 松 原 秀 雄 今 井 雅 増 谷 り え 木 下 信 之 西 本 美 智 子 山 崎 隆 別 司 部 松 彦 布 川 玲 子 林 原 長信 谷光 川 威 山 崎 ス ミ 子 荒 木 ゆ き え 脇 田 咸 次 郎 池 田 浩 二 寺 津 教 子 首都圏一双会世話人会開催 長谷川会長から一双会卒業65周年・戦後70年記念大会が提案され10月22日 東京で開催することになった。 お悔やみ 池田正英君 松本隆文君 槙原節君 宮田良君 須田晃生君 網代郁雄君 平成26年1月9日逝去 平成26年7月23日逝去 平成27年3月29日逝去 平成27年8月12日逝去 平成27年9月20日逝去 平成27年9月22日逝去 謹んでご冥福をお祈りいたします。 -9- 一双会 追悼 須田晃生君 長谷川 威 晃生君とは同郷同村の出身で旧島根県八束郡玉湯村小学校一年生からの学友であ り、小学六年生を終えると共に旧制松江中学校に進み、通学は旧国鉄山陰本線湯町 駅(現玉造温泉駅)から松江駅までの通学路を西部汽車通学生として、松江から西 の地区に住む学友達と多感な少年青年時代を刎頚の友として送った仲であった。 君は幼い小学校の頃から元気あふれる活発な少年で、田園豊かな田舎村の小学校 で存在感の際立つ学友でありました。小学校を終えるとともに地方文化の中心地で ある近隣松江市の伝統を誇る旧制松江中学校に進学、汽車通学生として多感な青年 時代を共に過ごした仲間でした。時代は太平洋戦争の最中昭和十八年、食糧もまま ならずひもじい思いの日々は学業も途切れがちで勤労動員に参加する日も多くなっ た頃でした。戦局ままならず敗戦の日を迎え、軍国日本から一転した新しい民主国 家日本へと価値観の三百六十度転換する時勢に戸惑いながらも、新しい学生生活を 共に汽車通学生として超満員の汽車に詰め込まれ、貧しく厳しい生活であったが、 新しい世の中が何かしら拓けて来るような若者としての希望と不安の時代でした。 そのうちに貴君とはバレーボールのクラブを共にする時期が有りました。貴君は小 柄な体格から専ら後衛(バック)の守備を固める縁の下の力持ちの役を与えられ、 決して華やかではなかったが、黙々として厳しい練習に耐えながら努力をする姿が 鮮明に思い出されます。その間に学制改革により新制松江高等学校第一期生として 机を並べる間となりました。 松江高校を卒業するとともに貴君は地元の島根大学に進み、小生は東京の学校へ と進学し長い同窓生活に別れを告げ、互いに各々の人生行路を歩む事となりまし た。 学窓を出てからは貴君は地元の名門企業一畑電鉄に入社し活躍の場とされ、又中 国地方で山林事業を展開する会社大和森林に活躍の場を移し、中国山脈の大地を舞 台に山男達を指揮し大活躍をされた武勇伝を吾等がクラス会一双会を通じて再会の 度毎に聞かされた事を懐かしく思いだします。一双会には松江地方の幹部として大 きな貢献をされた事を聞いております。 仕事を勇退された後は、畑仕事の農作業に精を出され、立派な収獲物をご家族は 勿論友人知人達に贈られ喜ばれた話も良く聞きました。やさしく温かい心の持ち主 であった貴君らしく、和やかな縁者・友人達の中で豊かな老後の生活を送る貴君を 遠くから垣間見て微笑ましく想いをはせたものでした。 近年になり体調を崩され療養生活を送られ、その間愛妻多津子様の献身的なご看 護にも拘わらず残念ながら一足先に天国の階段へと旅立たれた事は誠に痛恨の極み に思うところであります。 しかし今では貴君は彼の地天国にあって先立った仲間達と共に活発に活動をして おられる事と思っております。 天国での貴君の御霊が永遠に平安である事を心からお祈りする次第です。 合掌。 平成二十七年十一月 -10- 在りし日の須田晃生君 2011.10.20写 在りし日の槙原節君 2013.3.11写 槙原節君を悼む ご子息から「父が昨日亡くなりました」との知らせに、「どうして」と尋ねたものの、あ まりの驚きに言葉が出なかった。 君とは高3のときに、机を並べて以来の付き合いだった。特に、君が横浜から千葉 に来てからは一段と親交が深まった。蘆田亮君が仕事を終えて千葉の自宅に戻った 折に、浦安の伊藤敬君も誘い四人の会を持って以来世話人順送りで、時には県外に まで足をのばして交流を続けて来た。そのうちのひとつ、君の世話で房州の温泉巡り をし、千倉の君の別荘で自炊をしながら夜を徹して談笑したことは、四人にとって忘れ られない思い出である。 また、君は奉仕の精神旺盛で多くの方の力になってきた。東日本大震災で浦安が 液状化し、上下水道・ガスがストップ、電気ストーブは品切れで伊藤君が困っているこ とを知るや、早速、使用中の一つを送り届け「寒いところを助けられた」と喜ばれた。 町内ではゴミ集積用のボックスを作り、これを自宅勝手口の路上に据え付け、隣人か ら感謝されて来た。また、知り合いの年寄り夫婦の買い物や病院への送り迎えもして きた。趣味の陶芸の会では世話人を務め、材料のまとめ買いをしてきてはこれを分け 与え、会員から慕われるなど、数々の思いやりのある活動をしてこられた。 その陶芸の会の帰路、突然の旅立ちとなってしまったとは、何とも残念でならない。 これまでの交誼に感謝し、心からご冥福を祈ります。 別部松彦 -11- 一双会の歩み 西暦 1950 ~ 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017 2018 2019 2020 年号 昭和 25 年齢 19 55 56 57 58 59 60 61 62 63 平成元年 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 会報 発行月 同窓会報 1号 2号 3号 8月 2月 2月 2月 総会 場所 主な出来事 松高一期卒業 松江 松江北高 卒業30周年記念 松江 皆美 一本松となる 松江 玉造保性館 一双会 第一集 二集 3月 4月 還暦同窓会 わが半生を顧みて わが半生を顧みて 阪神淡路大震災 松江 皆美 大阪 芝苑 森本輝会長逝く 一双会たより 1号 2号 3号 4号 5号 6号 7号 8号 9号 10号 11号 12号 13号 14号 15号 16号 17号 8月 8月 7月 8月 7月 7月 6月 6月 6月 6月 7月 8月 1月 1月 1月 1月 1月 東京 松江 福岡 横浜 神戸 松江 東京 松江 大阪 熱海 松江 大阪 箱根 松江 グランドアーク半蔵門 水明荘 シークホークテル 横浜ロイヤルホテル ホテルオークラ神戸 玉造保性館 グランドアーク半蔵門 水天閣 芝苑 ホテルニューアカオ なには一水 阪急ホテル 甲子園 むらくも荘 東京 東京ステーションホテル 古稀祝賀同窓会 一本松伐採 松江中学創立130年 喜寿記念 傘寿記念 東日本大震災 卒業65周年記念 東京オリンピック 昭和25年卒業の松江高校第1期の同窓会会報の第1号は森本暉君が昭和58年に発行した同窓会報1号であり、 その中に会の名称を募集しています。2号には双友会、双和会、終始会などが提案されています。公式記録としては 昭和61年の「我が半生を顧りみて」ですが、平成三年の還暦同窓会で 一双会 と呼ぶようになったようです。双松会 の第1期だという説と二本松が一本になったからだという説があります。 一双会たより編集室 -12- -13- -14- -15- -16- -17- -18- -19- 赤山健児の歌について 参 考文献 1 松江北高等学校 100 年史(松江北高等学校) 2 山中幸盛 (W) 3 安来市の戦国武将山中鹿介幸盛 4 日本の第一次世界大戦参戦 5 第一次世界大戦下の日本 (W) 6 委任統治 (W) 7 南洋群島の経済的展望 8 シベリア出兵 (W) 9 青島の戦い (W) 10 空襲(W) 11 モーリス・ファルマン 1912 型水上機 12 水上機母艦 (W) 13 日露戦争 (W) 14 ポーツマス条約 (W) 15 満州をめぐる日本と米国 16 ジョン・ヘイの門 戸開放・機会均等 17 満蒙独立運動 18 満州国 (W) 19 五族協和 (W) 20 大陸浪人 (W) 21 孫文(W) 22 袁世凱 (W) 23 南北和議 (W) 24 蒋介石 (W) 25 張作霖 (W) 26 張作霖爆殺事件 (W) 27 満州事変 (W) 28 1926年初頭の軍閥割拠の情勢 29 北伐の進軍経路 波多野勝(PHP 新書) (備考)文献 2~16、18~29:Internet から入手した資料 W:上記のうちの Wikipedia 表示のあるもの -20- 松江中学での思い出 鳥谷芳男 島根県立松江中学校(この項では以後略して松中と呼ぶ) 松中は全国でも最も古い中学校の一つである。私は松中69期だから,松中の流れをくむ現・松江北高校 は134期になる。 「質実剛健」を校訓とし、文武両道に励む校風は今も松江北高校に受け継がれている。 当時の松中は、へルン旧居や武家屋敷の北側の松並木に固まれた丘「赤山」(紅陵とも云う)にあっ た。一時、川津に移転したが再び赤山に復帰した。 NHKの朝ドラ「だんだん」では、ヒロイン「めぐみ」が通った学校として登場した。 校舎は、貴族院議員や島根県知事等を歴任された日本一の山林王、田部長右衛門氏の寄付金等で建て られたそうで、専用の大講堂(全校生分の長椅子やピアノ等があった)や、設備の充実した体育館(平 行棒・つり輪・鞍馬、など当時は珍しい備品もあった)その他、階段教室や柔道場・弓道場・雨天体操 場・別棟の起雲館(資料館)等、当時としては素晴しい施設・設備であった。 敷地内の小山には山荘風の「あづまや」もあったが、私達下級生は近づけなかった。 校庭は赤土で 、赤山の呼び名がぴったりだった。北側に円錐台の形をした築山があり、上部の中央に 2 本の松の大木がそびえており、この松を「二本松」(双松)と呼び、松中のシンボルとして卒業生も 在校生も敬愛し、誇りをもった。同窓会も「双松会」と云う。(今はその大木も枯れて二世の若木に なっているようだ) 昭和19年度の入学試験は国語と算数の口頭試験および体力検査で 、朝日小学校から11名が合格した。 知事公舎の坂道をlOO m ほど上ると校庭の入り口で、正面に双松と満開の桜を見ながら初登校したと きは感激したが、間もなく体験した男子だけの世界は驚きと恐怖の連続だった。 私より一年前に入学した兄の場合は、学校指定の帽子・制服(夏は霜降、冬は黒)・鞄・黒革の編み 上げ靴など、松中生の正装を身につけられた。 私が入学した昭和19年は戦争による物資不足で帽子しか買えなかった。長ズボンも買えなくて、小学 校の時の短ズボンに同色に近い紺色の布をつぎ足して代用した。 ゲートルなども品不足で、白地のネルを染めた布で母が作ってくれた。鞄も白いズックの生地で作っ たものだった。(「欲しがりません勝つまでは」であった) -----------------------------------------------------------------------------------------松江中学校の生活を回想してみよう -----------------------------------------------------------------------------------------◎登校 旧市内の生徒は原則として徒歩通学である。(病気や怪我の場合は学校の許可を得て市営バスに乗る ことができる)郊外の生徒は自転車か郊外のバス通学、その他、汽車通学生や山陰唯一の電車「一畑電 車]で通学する者もいた。(東部と西部でグループを作り、一致団結していた) 私たち雑賀・朝日小学校区の生徒たちは東西に分けられ、東部の私たちは天神川にかかる作橋に集合 し、集団登校である。一年から順番に2列縦隊を作り、5年生のIさんと4年生のMさんがリーダーとして 引率した。 -21- ---------------------------------------------------------------------------------------------登校の道筋は決められていて、経路の変更は許されない。北朝鮮の軍隊程ではないが、話をしたり、だら だら歩くことは許されない。時には軍歌(若鷲の歌など)を歌って行進することもあった。 途中、先生などに会うと「歩調をとれ ・頭右(かしらみぎ)」と敬礼するなど、一種の軍事教練でも あった。 --------------------------------------------------------------------------------------------◎驚いた事 赤山の校舎は高台にあるため水圧が低く、便所など手洗い場はあるが水は全く出ない。したがって手な ど洗うことなどできないのが日常である。 ズボンのポケットは縫い付けていないと上級生に殴られるのでズボンのポケットはない。ハンカチやち り紙などを入れるところは無いが使用することもないので、みんな持たなかった。 運動場と校舎の聞に蛇口が8箇所位ある水飲み場があったが、水はチョロチョロしか出ないので、一人飲 むのに時間がかかるから空くひまがない。 1年生などはとても水にありつけない。昼休みに昼食用として各クラスに薬罐一ぱいのお茶が配られるま で待つしかなかった。 -------------------------------------------------------------------------------------------廊下の窓側は、上は綿壁・下は腰板張りであったが、あちこちの綿壁に拳骨でどついて作ったらしい穴 が開いていた。また腰板には跳び蹴りをしたらしい穴があちこちに開いている。こんな乱暴をする生徒が いることも驚きだったが、それを修理もせず放置している学校のあり方にも驚いた。 しかし、一方ではこれが男の世界なのかと感動を覚えたものである。 校舎は新しく頑丈であったが、備品は長い伝統を誇る古さがあった。学習机は机と椅子が一体化した木 製のもので、15センチ程の幅の水平な部分(当時はもっぱらGペンと呼ぶつけペンを使用していたので、そ のためのインク壷を置く四角形で浅い掘り込みがついていた)に続き、45センチぐらいの傾斜のついた机 の部分があった。(手前が低くなっていて読み書きがしやすくしてあった) ところが机の表面には歴代の使用者の記念として、いろいろな彫刻がしてありノートを使うのには支障 はないものの、テストの答案用紙など薄い紙は凸凹に引っ掛かりとても書ける状態ではなかった。 この ため考査(テスト)の時は監督の先生が、答案用紙と一緒にクラス全員分のボール紙で作った下敷を持参 し、終了後に下敷を回収する(書き込みゃ不正を予防するため)のが伝統となっていた。 また机の前部下方に足を乗せる板(幅2センチ、厚さ5センチ位?)が張ってあったが、長年にわたって 生徒が足を乗せたり降ろしたりしたため、足の良く当たる部分を中心に厚さが三分の一位にすり減り、 艶々と光っているのには、伝統の古さを感じたものである。 -------------------------------------------------------------------------------------------◎矯風会(きょうふうかい) 松中では先生は殆ど生活指導をする事はなく、もっぱら矯風会が担当する。矯風会は5年生の級長と運動 部の主将で構成されている。 全校生を集めて説教されるときは安心だが、校庭で円を幾つか作って応援歌や軍歌を歌いながら行進さ せられるときは、全員(矯風会会員)が目を光らせて歩き回り、服装の乱れた者、ズボンのポケットがあ いている者、態度のでかい者、町で飲食店や映画館に入ったと見なされる者などが列外に引き出され、数 人の会員に「矯正」つまり暴行される。 なぐられる連中は毎度のことで平然としているが、私達は人になぐられることなど、経験がないのでち ぢみ上がった。そのうちに各クラブの主将から呼び出しがかかる。私は兄の関係で体操部に少し出入りし ていたので、仕方なく体操部の呼び出しに応じた。 -22- 全員を横一列に並べて「貴様らは近頃たるんどる」と一喝のもと、一発ずつ鉄拳制裁を受けた。私は 小さかったから一発で吹っ飛ばされた。(私の人生で人になぐられた経験は3回、その中の1回である) 特に文句をつけることがなくても、他の部がやるからつき合いで気合を入れるのである。 一年生だけのときはもっと恐ろしかった。二週間に1回ぐらい下校準備でゲートルを巻いたまま体育館 に正座させられ、どなられ、床を踏みつける音に生きた心地もしなかった。足のしびれなど苦痛のうち に入らないほどの恐怖であった。 -----------------------------------------------------------------------------------------◎先生の仇名(あだな) 松中では先生の仇名が後輩に引きつがれる伝統があった。仇名がつくのは、良きにつけ悪しきにつけ 特徴のある先生である。 -----------------------------------------------------------------------------------------例えば 国語のH先生はオタ(オタマジャクシの略か?多くの生徒の嫌われ者) 英語のM先生はエンマ(私の担任だったが途中で召集され戦死された) 英語のMT先生はシャモ(早口の甲高い声でよくしゃべる) 英語のY先生はカッパ(痔が悪く、片手に教科書を持ち、片手をズボンのポケットに入れて痔をかいて いるなどの解説もつく) 物理のT先生はゲタ(文字通り四角い顔をしている) 剣道のY先生はホッサ(剣道をするときの掛け声か?) 柔道の0先生はべン(理由は分からないが長い間使われていたようだ) 社会のM先生はススケ(たたき上げの退役陸軍少尉で見るからにすすけた感じ、木銃をかついで体育館 を駆け足で何回も回らされた時に、生徒がススケ・ススケと掛け声をかけ、 「誰だ!スーとか、シーとか云うやつは!」と先生を怒らせるのが皆の楽しみだ った。最後は大田高校長) このほか、小使室(現在は用務員と云う)の長、Tさんはワットと呼ばれていた。(松中でも最も古い 職員の一人で校長の次に権威があると云われていた。点灯した電球のように頭が光りかがやいていたの でこの仇名がついた) 戦争末期には敵性スポーツとして野球が禁止されたが、Tさんが野球用具を手入れして管理していたの で戦後すぐに野球部が復活した。 山陰では無敵であり、昭和21年の夏と昭和22年の春に連続して甲子園 大会に出場できたのもTさんの陰の力があったものと思われる。 -----------------------------------------------------------------------------------------戦後に我々の仲間がつけた仇名 英語のI先生にウラナリ(青い顔をしていつも苦虫をかみつぶしたような顔の先生)の仇名。 あるとき私は先生に指名されて、教科書を読まされ,訳すように云われた。簡単な会話文だったが、最 初の「well」・・ ・・・私の知る「well」の訳では適当な訳がないので、私は頑固に無言で、立ったま まだったので、「閤魔帳」(教師の採点簿)に×印をつけられた。 先生の訳では「やぁ」だった。馬鹿らしくてますます英語が嫌いになった。 また、英語のI先生にはロンペン、(ルンペンをもじったものか?公認の通訳の資格を持っていた) 体育のY先生は三文、(どんな由来かわからないが有名だった)元海軍の人間魚雷「回天」の生き残り だった。 剣道が専門だったが、戦後剣道が禁止になったため野球部の監督となり、昭和21年の夏の甲子園大会 と22年春の選抜大会に出場された。 -23- 英語のK先生はテンテ、東大卒の先生で優秀だったのだろうが、舌足らずで、発音がはっきりしな かった。おまけにおとなしいので生徒の押さえがきかず、教室の後ろの方ではトランプをしたりして遊 ぶ者もいた。 私は一番前の席に行って先生の訳を聞き取ったから、テストの成績は良かったが、(教科書そのまま の文章が出題される)英語のカは付かなかった。 社会のF先生にはペチャ、(顔の印象からと思う)松中の校舎が焼失後、「生徒の喫煙が心配なら喫 煙室を設けよ」云う生徒大会の決議に敢然と立ち向かつて説得した素晴しい先生であった。 後に校長を務め、全国校長会でも革新的な意見を述べて異端視されたそうだが、尊敬する先生だっ た。先生は岩波新書から「戦後の高校教師」 と云う図書を発行され、私も数冊購入して友人に配った。 化学のO先生はエノケン、(小さくてそそっかしいエノケン〔喜劇役者榎本健一〕にそっくりの先生 軽薄を絵に描いたような人) バイオリンが弾けたが、生徒との合奏で音程をはずしても「誰だ!変な音を出すのは」と人のせいに するなど面白い人で、陸軍の将校だったとはとても思えなかった。 物理のI先生の仇名は「サボ」東大卒の先生だったが、茫洋とした人で、教師としての熱意が感じら れなかったのでこの仇名がついたが、後に化学の技術者になった親友のF君がある大企業の研究室を訪ね たとき、 このI先生が室長を努めておられたので驚いたと聞いたことがある。脚注 ◎教室の座席と黒板 中学校の教室は小学校に比べると大分大きいが、机と椅子の連結机も大きいので、生徒50人が入ると 教室は教壇の前まで机で一杯になる。聞きおよぶところでは、以前は2年以上の生徒は前年度の成績に よって順番に5クラスに分けられ、各クラスの中では成績の順番に後ろから席が決められたそうである。 従ってクラスの席の位置によって、前年の成績が学年で何番だったかがほぼわかるという、厳しさ だったそうである。 私達が入学したときは、身長の順番に座席が決められた。クラスで身長が一番低かった私は一列目の 一番廊下側の席であった。 黒板は、現在使われている曲面の黒板ではなく平面で横に長く、しかも古い。表面も黒色がはげてい た。 天気の良い日には、窓から入る光が反射してひどい時は窓側半分位までは光って字が見えにくい。特 に一列目の廊下側の席はその害がひどい。 先生の隙を見て教卓の近くまで行って、黒板を見て急いで席に戻りノートに書く。巧くやるのには技 巧を要する。 ある日、変人の東洋史のK先生に見つかった。「おい、そこの鼠!チョロチョロするな」と怒られ た。仕方なく「黒板が光って字が見えません」と云うと、「それはお前の精神がたるんでいるからだ」 とさらに怒られ、 閣魔帳に×印をつけられた。(教師への不信強まる) 脚注 昭和30年ソニーの前身である東京通信工業が世界初のトランジスタラジオを発売しました。こ の中心になってゲルマニウムトランジスタを開発したのがI先生こと岩田三郎氏で、日本半導体産業草 分けの技術者の一人です。 (一双会たより編集室より) -24‐ ◎英語の教科書 入学して、教科書を 「今井書店」で購入するよう指示された。書店では松中一年生の教科書をセットで 売っていた。私は書店で渡された教科書を点検もせずに持ち帰った。 家に帰って点検したら英語の教科書がないことがわかった。 すぐに書店に行って、英語の教科書がないことを訴えたが、教科書は配給制で、余分は一冊もないと、 とりあってくれない。当時英語(ローマ字)は敵国の言葉だとして、町でも見かけず一般の書物にも使わ れていなかった。英語は中学校や高等学校の教科書ぐらいしか見られなかった。 一年上級の兄の使った教科書は全く異なっていたので利用できない。初めて学習する英語の教科書がな いということは、英語が氾濫している現在では考えられないほど重大なことだった。 今のようにコピーができれば、多少の手間をかければすむことだが・・・。 英語用のノ-トも手に入らず、用紙も不足のため有り合わせの紙に三本の線を引いて、教科書を写すし かないが、それまで見たこともないローマ字、しかも活字体の大文字・小文字、筆記体の大文字 ・小文字 そのうえ発音記号(とても写しきれない)などがあって絶望的だった。 書写するために教科書を借りるのも大変だった。近くに住む同級生に1~2時間教科書を借りるため、気 を失うほど首を絞められたこともあった。(初めて習った柔道の「締め技」の実験台) この苦難の一年間耐えられたことを思うと自分をほめてやりたくなる。 だがこの苦痛に満ちた一年間がトラウマとなって、語学に対する好奇心を失い、それがその後の他大学 への転学や大学院への進学、後日すすめられた留学への道も閉ざされた。 驚きと恐怖と好奇心に満ちた中学校生活も1学年の半ばまでで、教員は次々と召集になり、上級生は軍需 工場への学徒動員が始まった。3学期になると、鬼のいぬ間に1年生に暴行を加えたりした、2 年生まで町 工場などに動員され、1年生の天下になった。 上級生がいないと、先生は殆ど怒らないから自由に遊べた。柔剣道場の更衣室で猿のように暴れ回った 記憶がある。 中学校の評価は、各教科は「秀・優・良・可・不可」の5段階の評価、それに総評として 「上の上」か ら「下の下」まで9段階の評価がついた。 私は平素あまり勉強する習慣がなかった。考査の1週間前に試験の時間割の発表があり、試験終了までは クラブ活動なども禁止で、生徒はみな試験勉強にとりかかる。 この期間は登校途中でも英語や漢字の、「豆単」(まめたん=小さなカードの表と裏に単語とその意味 を書いて綴じたもの)を見るのを許された。 当時は現在のように夜更かしをする習慣はなく、例外もあったと思うけど、我が家では平素は9時、試験 勉強中は10時が就寝時間とされていた。 1学期の総評が「中の上」から2学期の総評が「上の下」に上がったので、3学期は勉強すれば上位に行け ると思い、平日から11時まで本気になって勉強した。(生涯で唯一の猛勉強) その効果はできめんで、どの教科のテストも易しく思われ、期待したが、戦争末期が近く勉強どころで はなくなり、テストは行われたものの、答案の返還も通知棄の郵送もなかった。 勉強の成果が確認できなかった上に寝汗や微熱が出るようになり、父母から「勉強禁止」を言い渡され た。 -25- 2年生になると、教師は召集や勤労動員の付き添いなどで人員不足となり、普通教科の授業は殆どなくな り、主に教練といろいろな仕事への動員だった。 ◎軍事教練 軍事教練では行軍練習だけではなく、木銃をかついで、宍道湖岸の夜間行軍、岳山の夜間登山など。 校内では竹槍でルーズベルトやチャーチルの似顔絵をはった藁人形を突く練習。手権弾投榔の練習。 戦車を絵画いた箱を引っ張って進むところへ爆弾の模型を持って突進するなど、戦場を想定した訓練もあ った。 ◎労働への動員 ○川津の荒地を開墾して、サツマ芋を植えた。 ○川津の農家で田植えの手伝い。 男子が軍に召集をされて人手が足りないため。お昼に白米のご飯を腹一杯食べられるのが喜びだった。 ○輸送力強化のため松江駅のホームを増築、監督は4年生の2人。 (教師が足りないため) 真っ青に晴れた上空をアメリカ空軍のB29が飛行雲を引き、輝きながら飛んでゆくのを見上げたこと を、今も鮮明に記憶している。(松江では爆撃などなかったため比較的のんびりしていた) ○米軍の艦載機が何回かやって来た。陸軍の63連隊が松江に駐留していたが一発も反撃しないので、パ イロットは顔が見えるほど急降下をして、宍道湖の漁船を射撃するなど威嚇したが恐ろしさはあまり 感じなかった。玉造の辺では列車が攻撃され、死人も出たと聞いたが大きな被害はなかったようだ。 松中の校舎の二階から東の方を見ると、大篠津の美保航空隊(予科練があった)の上空に小さ黒点に 見える米軍機が飛び交い、それを攻撃する高射砲の弾幕が白い花のように見えたが双方ともにあまり 被害はなかったようだ。 ----------------------------------------------------------------------------------------------◎軍の施設建設 出雲の川跡小学校の講堂に宿泊し、約4kmはなれた「乙立」(おったち)の山の上に大砲陣地を構築す るための動員。(大社の浜に敵の上陸を想定して、浜を見わたせる山上に大砲陣地を作る) 私は病後のため炊事係に任命されたので、労働の内容はよくわからないが、幾つかの感想がある。 ①つきそい教員について つきそい教員は2人で、1人は召集された教頭の後任としてきた○教頭、もう1人は病気(結核)で軍隊 に召集されなかったが、人手不足のために動員されたT助手で愛国心が強かった。 近所の女性2人が賄いとして雇用されており、私たち炊事係はその手伝いや食事の分配をした。 食事の準備以外はわりに暇なので、友人達が労働に出ている間は、近くの斐伊川に行って小海老を採っ たり、電車の線路に1銭銅貨を置いて、電車が通過したら如何に変形するかを実験したりした。 戦時の食べ物の係は特権を持つ。食事のとき、皆に配布しない「おこげ」の管理は有力であった。 時々「おこげを分けてくれと」 頼みに来る人がいる。おこげの配分は炊事係の裁量である。労働もし ないものが1日労働をしてきた者を支配する構造の矛盾がある。 -26- 食事は講堂で生徒はコの字に並び、正面に先生が2人並んでいる。 生徒のご飯はドンブリに軽く盛り 切り、先生には敬意を表して、お橿に3人分相当のご飯を入れる。 食事が始まると、助手の先生は生徒と同じ分量しか食べない。教頭は残ったご飯を助手に勧めるが、 助手は辞退するので教頭はすこしついで食べる。また教頭は助手に勧めるが辞退するので、又教頭が少 しついで食べる。それが何回も続いて、目をぎらぎらさせた生徒はその回数を数えている。 うわさはまたたく聞に生徒全員に伝わった。ある夜、炊事場に電燈がついているので、炊事係と し て不審に思い炊事場に行ってみると、 教頭が立ったまま手づかみで「おこげ」を食べているのを見て、 開いた口がふさがらなかった。 終戦後教頭はいなくなったが、私が遁摩高校に勤務していたとき、教頭が大田地区の中学校(新制) の校長になっていることを知った。 ----------------------------------------------------------------------------------------------- ②集団生活の中で最も困るのは虱(しらみ)である。 私は黒いパンツをはいていたので、縫い目に沿って血をいっぱい吸った白い虱がいっぱいいるのは 恐怖だった。家に帰ると着ている物を全部ぬいで、釜ゆでにしないと家に入れてもらえなかった。 第二回の動員は石見地方の有福温泉だった。 当時は交通機関が発達していなかったので、国鉄の波子駅(山陰線で浜田駅の3つ東寄りの駅)から 雨にぬれながら砂利道を行進した。 軍歌の討匪行(とうひこう)「どこまで続くぬかるみぞ ・・・・」を歌いながら歩いたが、かなり の距離だったと思う。宿舎は有福小学校の教室で畳もなく、床で毛布にくるまって寝た。食事も大豆や うどんの入った「おにぎり」2個。おかずは大根の漬物数切れ位で、他にはあまり無かったように思う。 生徒の多くは、陣地(トンネル)補強用の木材2枚をかついで、麓から山頂まで午前と午後の二往復 するのがノルマだった。 私は身体が小さかったので、木材運びは無理とみなされて、人夫さんが休憩する小屋の火の管理と、 磨耗した鑿(のみ)を鍛冶屋にもっていって、焼き直してもらうのが仕事だったから、ずいぶん恵ま れていた。 疲れた生徒たちは、途中に咲いている「つつじ」の花の蜜を吸ったり、豪傑は甘味を求めてダイナ マイトの火薬をなめたりしたとも聞いている。 唯一のなぐさめは、作業の帰りに名湯有福温泉の豊富な湯に思う存分ひたれることだった。 (私はここで初めて温泉に入った) ----------------------------------------------------------------------------------------------◎建物疎開 戦争末期になると、日本各地の都市が空襲で被害を被った。松江でも空襲に備え、建物疎開が始まっ た。市街地の家を数軒おきに1軒の家を壊すのである。 私の実家も最初は疎開されそうになったが、二軒長屋の二階建てで壊すのが大変だと云うことで、西 隣の平屋が壊されることとなった。 市の事業だったが、人手がないので私達も動員され、初めて日当を貰った。家を壊すのは建てるのと 違って、屋根瓦をおろし、ロープを使って引き倒す単純な仕事だから私達も面白がって働いた。 この作業は終戦の当日まで続いたので、すでに終戦の意志を固めた国の指示がもっと早ければ、家を 失わなくてすんだのにと、申し訳なく思う。 久しぶりの休日で、自家用の防空壕を掘っている日に終戦となった。(1945年8月15日) -27- 我が人生を顧みて 日 髙 康 弘 松本氏に紹介され、「一双会」を知り、長谷川・中沼両氏の好意もあっ て、17号に寄稿したところ、中3で同クラスだった鳥谷君と松原君から お便りを頂き、思わぬ懐かし味に浸っていたところ、松原君から、「君の 職業の遍歴の記録に驚き、その記録を一双会の他のメンバーにも知らせた いので、『最近一双会に参加しましたので、改めて自己紹介をさせていた だきます。』という形で、一双会便りに寄稿したら。」との親切なお薦め を戴いた。誰もがあの激動の時代に歩んだ道で特に誇れるほどの職歴があ るわけでもなく、ろくに知らない他人の職業遍歴を知ったところで面白く もあるまい、との戸惑いもあったが、折角のご好意ついでに自分の人生を まとめようと思った次第です。 後年、今は亡き母が、「一つの仕事にしがみつき、とことんやり通す。 それが男だ。」と私に不満を持った。「環境の変化は、好き好んで自分で 作ったものではない。どんな環境にも適応し、そこで最善を尽くすのが俺 の男の生き様だ。」と反抗した。 昭和19年東京で強制疎開に遇い、中学1年2学期に松江中学に転入し た。何故松江だったのか未だに判らない。知らぬ地で、親類もなく、言葉 や振る舞いの違いに戸惑った。自己紹介の時、言葉使いに笑われたりした が、いつの間にか溶け込んでいった。戦時中のことは17号に書いたので 省き、2年の8月に終戦を迎えた。小5の時、「予科練」の映画を見て憧 れ、自分流に大車輪が出来るようになっていたので、体操部に入った。と にかく敗戦の反動で、生きる目的もなく、部活動だけが生き甲斐だった。 学校には指導者が居ず、器具もそろわず、松江市内の学校の生徒や先生は 放課後市立松江女子校に集まり練習した。そこに上迫忠夫先生(後にヘル シンキオリンピックに床で銀、跳馬で銅)がおいでだったからである。お 陰で第2回・第3回の国体に出場出来た。 勉強は嫌いだったが、数学だけは好きだった。何年の時か覚えていない が、幾何の証明問題のテストで学年中私だけが解けた問題があり、赤山で 公表された記憶がある。母も大喜びだった。 当時は遊ぶものもなく、家にある父の世界文学全集や日本文学全集=ト ルストイやドフトエススキー、 藤村や太宰治などを読み漁るしかなかっ た。ややマセていたかも知れない。それでも谷崎潤一郎の「痴人の愛」を 読んだとき、大人の愛のむごさに吐き気がするほど嫌悪した。まだ純情だ ったのだろう。 -28- 父は小6の時病死し、母と兄と二人の妹の5人家族であった。疎開当初、 父の遺産利子で、4人の子を育てられると読んでいた母の目論見は、戦中 戦後のあのインフレで崩れ去り、絨毯・蓄音機・たんすの中の母の着物な どどんどん米に変身する竹の子生活も底をつき、兄は松中から学費のかか らない島根師範に入ったからともかく、私は、机の前に掲げた「目指せヘ ルシンキ」を頑張るわけにはいかず。高2=中学5年で皆より1年前に卒 業し、住友炭坑の所長をしている叔父を頼って、一人で福岡飯塚市に行っ た。 当時は石炭ブームで、抗夫は高賃金のため欠勤が多く、流れ作業に支障 を来たすため、仕来り夫という名の出勤督促の職務があり、それらを集計 する労働課の事務を担当させられた。まだ生意気盛りの17歳、有る抗夫 が私を痛めつけてやろうと言う話があり、中をとる人がいて手打ちの労を 執ってくれた。ところが私は酒が飲めないので、困っていたら、柿を食べ 食べ飲めば大丈夫と教えてくれ、無事手打ち式が終わり痛めつけられずに 済んだ事など覚えている。 いくら景気が良くても数年で石炭は終わりと思い、やはり大学に行かな ければと2年で退職し、その頃松江から平塚(神奈川県)に引っ越してい た母のところに帰った。それでも学資稼ぎに働かざるを得無いので、失業 保険をもらいに安定所に行ったら、安定所で働かないかと言われ、公務員 試験を受けて横浜公共職業安定所に就職した。これは幸運中の幸運であっ た。2年目に無謀にも労働組合を創ったと言うのも想い出の一つである。 此処も2年で退職した。 学資も貯まり何処の大学にしようかと迷ったが、入学試験の前に、高等 学校を卒業していないので、大学受験資格試験を受けなければならない。 全教科を受けるには何年もかかってしまう。幸い私立に5教科だけで資格 試験と見なす特例があり、何とかそれに通過して、法政大学の法学部法律 学科に入った。しかし、法律学の勉強がつまらなく、3年からは政治学科 に転科した。2度の事務員の経験から、事務屋だけはもう沢山だ、卒業後 は教員になろうと決めていた。しかし学校に行くより、アルバイトの方が 多かったと思う。 卒業し神奈川県の教員採用試験にも合格したものの、4月になっても呼 び出しがない。聞くと、まだ中高生は戦前生まれで少なく、教員の採用の 余地がないという。県教育委員会の人事担当にお願いに行ったところ、社 会科では全くない。ベビーブームの小学校の代用教員にならないか。と鼻 も引っかけてもらえない。たまたま「お兄さんは何をしている?」と聞か れ、「兄は中学校の体育の教員だ」と答えると、「体育は出来るか?」こ こからが松江高の出番だ。「体操選手として、2回も島根県代表として国 体に出ました。」「社会と体育だけではなあ?」こちらも必死である。 -29- 「数学は大の得意で、自信があります。」「それ ならば三浦半島の小規 模校から頼まれているので話してやろう。」早速校長面接となり、6月1 日に辞令が出るという。話が壊れると困るので、「明日から来ます」と言 い5月いっぱいは宿直室に泊めて貰い、無料で奉仕した。 以来、無免許ながら体育主任5年、数学は9年も担当した。オリンピッ クでメダルを取った上迫忠夫先生が、開成高校の先生で東京におられたの で、その学校に2回も模範演技に来ていただいたし、体育主任研修会の講 師に来ていただいて、私まで鼻高々だった。その後結婚して転勤し、現在 住む「松田中学」に10年勤めた。部活も体操部を創り、35歳まで体育 祭で模範演技を行った。ただし今では逆上がりも出来ない。 その頃私に、障害児教育の資格を取らせるため、内地留学させようとい う話があり、 内心「俺のような優秀な教員をバカを教える教員にするの か」と憤慨したが、「この子達の教育を見る目が、本当の教育の原点にな る。」と言われ、1年間東京学芸大学に内地留学をした。片道2時間の通 学は大変だったが、40歳近くなって学生割引を使い、医学や心理学の勉 強をした。一生で始めて本気で勉強した。楽しかった。こうして養護学校 教員免許を取得した。 終了後、元の学校に戻り特殊学級を開設した。この3年間ほど充実した 時間は無かった。おそらく進学することのない彼らが生きていけるだけの スキルとあらゆる生活力を身につけてやらねばならない。 国の指導要領 も、教科書もない。教材や器具・カリキュラムすべて自分で創らねばなら ない。目の回るほどの忙しさと生き甲斐があった。そのせいか田中角栄が 創った第1回海外派遣短期留学に選ばれ公費で外国旅行が出来た。 その後県教育委員会の指導主事に任命され、学校や教員の指導に当たっ た。公教育は義務教育と言いながら、盲児・聾児以外の障害児を、猶予・ 免除という方策で100年以上拒否してきた。ついに文部省は昭和54年 には都道府県に養護学校の義務化を決めた。ところが県下の指導主事の中 で、障害児教育の資格と経験者は私しか居ない。 行政の責任者として私 にお鉢が回ってしまった。 神奈川県教育委員会指導部義務教育課課長補 佐、と言う私の嫌いな事務屋が押しつけられ、養護学校を数校作って国の 法に間に合った。 その後南足柄教育委員会の学校教育課長に帰り、更に県立養護学校3校 の校長を経て定年退職した。定年後は関東学院大学法学部で、社会科教育 法・公民科教育法・生徒指導論の3科目を10年間、同時に家庭裁判所の 家事調停委員を73歳まで務め、 以後は地域でボランティアをしている。 -30- こう見ると私の人生は、いつも知らない土地に一人で落下傘で飛び 降り、そこで仲間を創り、慣れない仕事をこなさなければならない運 命だったのかも知れない。そのすべてが楽しかった。素晴らしい上司 も同僚もいた。全力投球もしたつもりだ。ただ変わっていく都度友人 関係がとぎれて繋がらなかったことが淋しい。その反動で、東京の小 学生だった学年同窓会の永久幹事を10年以上やっている。昨年松江 に行ったのも、私が全国特別支援学校退職校長会の会長をしているか らだ。しかし反面、亡母が言った「一つのことの達人になれ」への引 け目もついて回る。 幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学のすべてで教えた。普通 教育も特別支援教育も担った。民間企業も公企業も、国の行政も県行 政も市の行政も経験した。そんな人いるかい。と開き直るしかない。 いくら突っ張ってみたって、所詮、与えられた仕事をこなしたに過 ぎない。今はボランティアとして、神奈川県の県西部に何とかバイオ マスエネルギーを作れないかと有志で勧めている。壁が厚いが、もし これが出来たら、私の生きてきた一番の証になるだろう。 -31- コンピューターは敬遠だ 中藤俊雄 昭和50年頃、職場にコンピューターが入った電算室から、購入して くれと参考書が持ち込まれた。コンピューター会社にいた同級生のもの だった。「こらあ、わしの同級生が書いちょうがの。おまえさんたち、 分かるかや?」と自慢したものだ。自分のことのように嬉しかった。 そのうちに、私が電算室に配属になった。あいさつに行き、「コンピ ューターは大の苦手で・・・」と、同僚に泣き言を言った。彼らは「君 にはコンピューターの権威の同級生がおるがの、大丈夫だわや」と仕返 しされた。 同僚からの坐学が始まった。教える方も下手だが、生徒が「わかりっ こない」という思いが強いので、なかなか進まない。同僚が先生ぶって 「コンピューターの世界には、0と1しか存在しない。いわゆる2進法 だよ」というので「日進月歩の進歩だね」というと「余計なことを言わ ずに早く理解しな」と叱られる。 解っても解らなくても、坐学の時間が終わった。理論の理解が進まず、 実技まで行かなかった。「後は君の勉強次第だ」と、私の責任になった。 締めくくりとして口頭試問があった。「コンピューターの3大特長は?」 と聞いてきた。「中央処理装置、演算装置」までは答えたが、後が思い 出せない。小さい声で「記憶喪失で・・・・」と言ったら、「そうだ、 記憶装置でいい」と合格になった。 コンピューターには付いて行けず、早期に退職した。ところがコンピ ューターはどこまでも付いてくる。ケータイを持たされたが、娘や孫娘 の手を借りねばならない。漸くメールの打ち方を覚えて、誰彼となく交 換している。車に乗れないので、用事は近くにいる娘に頼んでいる。こ の間など、「米を頼む」とメールをしたが返事が返ってこない。宛名の 指示先が、大阪の義弟の嫁さんになっていたらしく、向こうでは騒いで いたそうだ。また回転寿司の店に行っても、画面で注文するのでは不便 この上ない。 機械に弱くて車に乗れず、恐ろしくて飛行機にも乗れず、社会の波に も乗れずにいる。かくなる上はと、三千年前に中国で興ったという漢詩 に取り組んでいる。80の手習いだで大変だ、押韻や平仄の規則が並ん でいて、ほぼ絶望視に近い。それなのに詩聖とはいえ、李白は「酒一斗、 詩百編」と謳われているという。松江市雑賀町出身の若槻礼次郎は石橋 町で造る地酒が好きで、飲めば飲むほど頭が冴えるという。そして「李 白」と命名させたそうだ。若槻も松江に帰ったとき、嫁ヶ島に上陸して 漢詩を残している。私も徳に与かろうと飲んでいるが、「利薄」のよう だ。 -32- 我 が 人 生 持田敏郎 戦後七十年そして我々が高校卒業して六十五年目、ここまで長生きできるとは夢 にも思っていなかった。もうそろそろ寿命も尽きるだろうがこの八十有余年を辿っ て見れば紆余曲折並大抵の生涯ではなかったように思う。戸数が三十軒にも満たな い小さな部落、そして小学校へ通うには三十分以上もかかる田舎に生まれ育った。 当時は現代と違い子供が比較的多かったため、部落の同級生が男三人、女四人と比 較的恵まれていて遊び相手には余り苦労しなかったのが幸いだった。学校に行く時 は兄弟や近所の友達と合流するから道草して遅刻することは滅多になかったが、帰 りは授業が終わると同級生同士で帰途に就くので、道中で途中の部落に住む者の家 に立ち寄って遊ぶとか、所有者も判らない桑の木畑に入り桑の実を撮って食べ地主 に叱られる等、どうしても道草しながら帰るようになる。我々の小学校は高等科が 三年生まであったので、九年間学ぶことも可能だったが小学課程を卒業して松江中 学校を受験することとなり幸い合格したので、今度は小学校より遠い宍道駅から松 江まで汽車通学することとなった。 我々は小学校から中学校まで戦争の真最中、中学では全員ゲートルを巻いて登校 する時代だった。松江駅に着くと駅前広場に全生徒が集合、一年生を先頭に五年生 まで全員二列縦隊に並び登校しなければならなかった。ところが戦争が激化するに つれ、上級生から順次学徒動員に借出され上級生が居なくなった。我々も敵前上陸 に備えて陣地構築に駆り出されたり、松江市内の建物疎開に参加させられたりで勉 強の時間は殆ど無くなった。 そして間もなく中学二年生の夏休みに戦争は終った。これからどうなることか不 安いっぱいの時、今度は学校が放火され全焼した。戦争が終って直ぐに県庁の放火 事件があり、県庁再建が急務となった時に松江中学の再建築まで財政難の島根県に は無理だったのだろう、元の位置へ学校を再建するのは困難だから旧陸軍兵舎を利 用して古志原へ移転するよう話が出て卒業生が猛反対、有志が寄付金を募って校舎 の一部を再建した時再び放火され何時復興するか分からない状態となったため、と うとう汽車通学生は焼け残った記念館等を利用して赤山へ残ることとなり、その他 市内の生徒は復興するまで松江高校の校舎を借りる等、別々の学び舎へ別れて授業 を受けることとなった。このため同級生でも全く顔を合わせたことも無く名前も知 らない人が沢山いる。また行き場が無く赤山へ残った汽車通は、記念館の整備が出 来る間、堆肥小屋や桜木の下で授業を受けたこともあった。 この苦難の道を乗り越えて、最後は赤山へ校舎が復興し全員揃って新しい学び舎 へ通い卒業することが出来た。しかしその六年間は、我が家から小学校へ通うより まだ遠い宍道駅からの通学だったので、汽車に乗っている時間以外に、宍道駅まで と松江駅から赤山までの時間が加わり通学に可なりの時間を要した。そこで朝、効 率よく短時間で駅に着くためにはどうすればよいか思案の結果、近道して駅へ行く ことが一番と当たり前のことを実行に移し、何時の間にか現在では考えられない鉄 道を歩いて駅まで行くことを数回実行してみたら病み付きになり次第に常習化して きた。駅の近くに踏切があって遮断機が下りている時は、踏切内を通ることは出来 ないので道路に出て列車が通過するのを待ち、再び列車の後を追って改札口を通ら -33- ずに駅の構内もそのまま鉄道沿いに走って停車中の列車に追い着き乗車する。動き 出した列車の最後尾に飛び乗って辛うじて間に合ったことも何度かあった。それを 駅員が見ていても注意されことも叱られたこともない。当時は帰りに列車がない時 は、貨物列車に乗せて貰って帰るのが当たり前の時代で無蓋車に乗ることも動物が 乗る窓付き有蓋車に乗る場合もあった。また敗戦で復員兵が増えた時は列車が満員 で窓から乗車するとか、機関車の石炭の上に乗ったこともある。この頃は戦争、敗 戦に加えて台風に三回襲われ宍道湖の水が国道や鉄道の崖淵まで押し寄せたことが あった。何年の災害だったか記憶にないが、その内一度、登校途中の列車が乃木駅 を出て直ぐに徐行運転を始めたので外を覗いて見たら線路の崖淵が徐々に崩れ始め ていたので、これは大変と思い松江駅に着くと同時に反対列車に飛び乗り折り返し た。それが最後の列車となったため無事帰宅できたが、その後の列車は全て不通と なった。折り返さなかった人は徒歩で帰宅した人もあったとか。このように戦中戦 後の激動期を体験した。そして戦後改められた6・3・3・制による中学から高校 と六年間赤山へ通い卒業した。 学校を卒業したら家督相続してくれるであろうと期待して待って居た家族には悪 かったが、学校で排球部に所属し三回連続で国体に出場した経験を生かしもう少し 続けて見たい気持ちのあったバレーボール、先輩から有力選手を集めて国体予選で 勝ちたいからと就職を進められたのをこれ幸いと、家族には五年程度で我が家の仕 事に着くからと約束して松江で就職した。ところが就職一年目の健康診断で結核と 診断され3年休むこととなったので、先輩の意向に背く結果となり目的を果たすこ とが出来なかったのみでなく、長男に生まれた責任も果たすことが出来ず弟に家督 相続をお願いするより仕方なかった。結局、病気休養も含めて松江で勤務すること 十五年、生まれ故郷での暮らしは三十四年で終り、昭和四十年に広島へ転勤となっ た。 故郷を離れ知らぬ土地で初めて生活することになったので、宿舎事情が余り良く ない頃のこと故、何処でどんな生活が待って居るのか不安で一杯だった。宿舎が決 まり移転先は宮島線の草津駅前にある物納財産を改良したもの、住み着いて見たら 四世帯入居できて一世帯は単身赴任者用となっており、風呂は共有だったが生活自 体には余り不自由はなかった。しかし小さい子供ずれは我々だけで他人にはうるさ く感じられたかも知れない。 ここで暮らしたのは三年、再び山口へ転勤となり長屋式の省庁別宿舎で暮らすこ ととなった。此処の一階は台所と洗面所、風呂場の外は三畳一間しかなく、二階が 六畳と四畳半の二間で家族四人の生活にはかなり狭く感じた。しかし隣近所は全て 同じ職場の者同士、仕事が終って一杯飲んで帰り、二次会は一階の三畳の間となっ ていた。山口には歴史上の遺跡や町が多く観光も忙しかったが、日本海側へ趣味の 魚釣りに良く行った。そして二年経って再び別れを告げて広島へ転勤することとな った。 広島では都市計画で移転が決まっている宿舎に暫定的に住まされ、近くの宿舎が 空くのを待って再度移転した。永住することとなった宿舎は狭い省庁別だったが職 場へ通うには便利な場所にあり、中心街にも近く交通の便も良好だった、仕事では 職場を三回変り、総務へ配属されている時、高校卒の新規採用者が受ける半年間の -34- 研修を全国各局から選出された十二名が三交代で生活指導することとなり、市ヶ谷 の研修所で二か月間務めた。広島で二回目の生活も五年間、今度は鳥取へ転勤とな った。 鳥取へ転勤した時から七月移動となったので、子供が中学二年生と高校二年生の 一学期が終了した時点で転校となった。これまでの転勤で単身赴任したのは一度も なく少し思案したが今回も転校させることとし家族連れで赴任した。今度は職場か ら少し離れた場所にある合同宿舎だった。近くをバスが走っていたが同じ宿舎に同 僚が沢山おり、自家用車で通勤する者もいたので、殆ど同乗させて貰った。此処で の勤務も二年再び広島へ転勤となった。この時、長女は既に広島の大学生となって いたが、次女は高校へ入学したばかり二学期から広島の高校へ転校した。このよう に転勤が多かったため子供は幼稚園から高校まで、長女の中学を除いて全て入学と 卒業の学校が異なる結果となった。 三回目の広島生活となった住居は、広島市との建築交換で建った合同宿舎で高台 の新しい団地だった。通勤にはバスの通る平坦地まで歩いて降りなければならなか った。それから三年後、また岡山の倉敷へ転勤になった。 倉敷は、大学生の子供を連れて行くことは出来ないので家内と二人で赴任した。 ここは戦時中飛行機を作っていた三菱重工がある水島の工場地帯で、軍需工場で働 かせるため徴用工として集められた韓国人が住む国有地を処理する仕事だった。も う戦後何年も経過しているとは言へ、 強制的に連れて来て「住家を明け渡せ」と か、「賃貸料を払え」とか、「金を払って購入せよ」とか言っても簡単に応じるも のではない。それでも何とか解決したものもあるが、暴力沙汰となって警察官の出 動依頼をしたものもあった。宿舎は木造平屋建ての省庁別宿舎で庭も広く芝生が植 えてあった。夏の夜、庭へ灯りをともして職員と宴会をしたこともあった。しかし 木造で庭が広いのが逆に気持ちの悪い部分もあった、 此方も二年で再び広島へ帰ることとなった。今度は前回住んでいた高台を降りた 位置にある宿舎で平坦地に建てられた古い合同宿舎だったのでバス停にも近くて便 利が良く、職場まで徒歩で行っても三十分程度の所だった。 そして一年後には再び呉へ転勤となったけれども広島から通勤した。呉は旧海軍 の街として栄えたところで当時の建物や遺品が残されており、今は海上自衛隊の司 令部もあって軍艦や潜水艦が活躍している。また海上保安部の幹部を養成する海上 保安大学校もある。それ以外では江田島に旧海軍兵学校の建物も残され特攻隊員の 遺書等たくさんの遺品が展示されている。 此処も一年で広島へ転勤となった。そして二年後、退職勧告を受けて民間企業で 働くことになったのが入局して三十八年目、その間三年の長きに亘って病気で休み 迷惑を懸けた職場であったが無事退職することが出来た。 労働者の定年は延長されつつある時期で我々の定年も一年延びていたが、それに は関係なく退職勧告は行われていた。生まれ故郷を離れ広島を拠点に暮らして来て この地に親しみを感じるようになったこと、子供が大学在学中である事等から当地 を離れたくなかったので、これまで幾度か受けた職場斡旋を断って来たこともあっ て、最後は余り乗り気でない職場を引き受けるのも仕方ないと思い退職することと -35- した。その職場は、購入したマンションの前を通る宮島線で通うのに非常に便利な 場所にあったことも考慮の一つだった。仕事は総務担当の約束だったが、二年程経 って経理担当者が退職、後を引き受ける者がいなかったため一番嫌いだった仕事を やらざるを得なくなった。従って法人税の申告時期になると税理士事務所へ行って いろいろ教えて貰いながら経理事務を何とか三年務めた。そして仕事も余り面白く ないので五年で会社を辞職した。 退職して間もなく家族共々懇意にしている元中国電力の職員で退職後、同社の子 会社を設立し経営に参画している人から、当社で中国電力会社の不動産部門の仕事 も行うことになったので、経験のある仕事だからやってみないかと誘われお願いす ることにした。この仕事は高圧線下の土地に地役権設定することとか線下に該当す る場所にある立木竹を伐採する場合に補償金額を算定し、地主と交渉して了解を得 る仕事だった。この不動産部門は、元中電職員だった別の人が社長となって経営し ており、仕事は二人一組に割り当てられ、自分の都合がいい日をお互い相談して実 行すればよく、請負業務のように運営されていて非常にやり易かった。この職場で はNTTドコモの無線中継基地として利用する場所の借り上げ、買収などに従事し たこともあり島根や東京の渋谷周辺に出張したこともある。 このようにして広島では昭和四十年から平成二十年まで四十三年間、その内山口 ・鳥取・岡山の六年間を除いても三十七年の長きに亘って生活したため、生まれ故 郷の松江より長く本当の故郷のような気がする。特に子供たちは青春時代を此方で 過ごしており松江よりも此方の記憶が遥かに強い。そんなこともあって広島を永住 の場所と決め生活していたが、子供は大学を卒業すると直ぐに広島を離れ、長女は 東京、次女は長野へと出て行き、今は二人とも東京で暮らしている。それでも残さ れた年寄り夫婦は頑張っていたのに、家内が体調不良となり医療に従事している次 女から呼び出され、東京暮らしとなった。 これまでに住所移転したのは十二回、暫定的な一時住まいを加えれば十四回と住 居を変わるのが当たり前のようになってしまった。だが全て事情あっての事、職業 柄仕方なかった。勤務中に研修や会議等で幾度か上京したことがあっても、いざ生 活するとなれば近くの様子だけでも早く知らないと困ることが多いので、高輪の時 は、品川、三田、芝公園、白金高輪等付近を散歩することに努めた。今の大崎に移 ってからも出来る限り散歩しようと大井迄歩き帰りはバスに乗ったり、五反田から 高輪まで歩いたり先ず周辺を知ろうと心掛けている。田舎で生まれ育って成人にな ってから各地へ転勤して生活する身となったが、風土,習慣、環境は多少異なるも のの特別変化があって馴染めないと思ったことは一度もなかった。 最近田舎は人口の減少傾向が強く地方の交通機関は減り、残されていても回数が 少なく路線バスなどは廃止された所が多い。 従って自家用車がないと生活は難し い。それでも田舎を好んで都会から移住する人もあるが、乗り物を利用しなくても 買い物ができる場所が近くにあるとか、家族全員で生活し永久に自動車の使用が可 能な状態でないと困難であろう。その点、都会には電車やバスがひっきりなしに走 っていて商店街も多く日用品の買い物を心配するようなことはない。そして田舎と 都会を結ぶ交通機関は飛行機、電車共に早くて回数も多く、郷里との行き来も簡単 だから田舎から都会に出て働く人或いは移住する人が増えて都会の人口増に繋がっ ている。 -36- 我々老夫婦はこれに乗った訳ではなく、たまたま子供が親の転勤の度に仕方なく 住所を変り、郷里として住み着きたい所もないため便利で生活し易い場所を選び落 ち着いていた所、親が病気と聞いて面倒を見てやろうと呼び寄せてくれたもので、 此方へ来てもう七年経過した。 此方では原則として夫婦共に週二回子供の治療を受けるため三鷹へ通っており電 車の恩恵を受けている。治療以外に数々の観光地や名所等も行ったが大部分は子供 が車で連れて行ってくれたので、自力で行ったのは数少ない。高年齢になって都会 で生涯を終ろうと思っても方向音痴だったり、乗り物の便が多かったりすると事前 の準備や不安が先立ち思うように行動出来ない。 たしかに街にはバス電車とも多く走っており、時間を気にしなくても停留所で待 って居れば何時でも乗れて大変便利だ。しかし乗り違えたり、乗り場が分からなか ったり、案内人がいなかったりと迷う場合が多い。一度羽田から京急に乗って帰る 時、乗車した列車が蒲田からバックしたので慌てて運転手に尋ねたところ横浜方面 に行く列車だったので横浜迄行って乗り換えて帰ったら遅くなり家族に心配かけた こともある。 人口が多いだけにいいことばかりではない、通勤時などは乗り物が満員、道路を 歩けば車、単車、自転車、歩行者が多く特に駅構内等はスマホを使いながら歩く者 が多くマナー問題もあって歩きにくい。元来田舎生まれの方向音痴は道に迷うこと が多い慣れるまでは日数がかかる。その点我々同期の連中は高校卒業すると直ぐに 東京の大学に学び卒業と同時に東京で就職しており、また大学が東京でない人も卒 業と同時に東京で就職した者が殆どで六十年以上に及ぶ東京生活だから地元の人以 上に馴染んでいる。老齢の身で田舎者が上京し西も東も判らない者を支えてくれた 首都圏一双会の面々から、年二回の会合へ上京と同時に案内して貰い、それ以降は 毎回参加しているばかりか、最近は世話人会にも誘われ参加している。老齢の身で は現在の生活が何時まで続くか分からないが最後まで悔いのない人生で有りたいと 思う。 懐かしき宍道駅 -37- -38- 松江高校第1期卒業写真 昭和25年1月14日撮影 -39- 平成26年3月の首都圏一双会で卒業写真が持ち込まれました。懐かしい青春時代の面影が沢山残っていたので何とか名前を特定できないものかと思 い清水君、松本(幹)君、平野君、長谷川君などに協力をお願いしました。特に先生方の名前が網羅できたのは松江北高校長だった松本君のお陰です。 昭和62年1月1日現在の名簿によると207名の名前があります。しかし、写真に名前があるが名簿には見当たらない人がいるなど正確な数字は分かりません。写 真に写っている生徒数は196名なので、撮影当日11名の欠席者がいたことになります。現在の写真上の判明者数は144名(推定を含む)ですから約73%の判明 率となります。この数字を高いとみるか低いとみるかは意見が分かれるところですが、不明者の一覧をみると、猛者、有名人がかなり脱落しており月日の経過によ る記憶の風化は意外に著しいと感じました。今後とも不明者の氏名が判明し次第連絡してほしいと思っています。ご協力に感謝します。 野津功 特定作業について 白秋ゆかりの地・湘南 -三年かけ三崎と小田原を歩く- 太田陽治 2013(H25)年10月24日、首都圏一双会の総会のとき、旧制松江中学の文芸誌『しろたま』 の復刻版が完成したことが報告された。『しろたま』の創刊趣旨の二つの目標の一つが北原白秋 (1885~1942)だったことを知り私は白秋ゆかりの地を訪ねてみたいと思うようになった。 総会のあと二次会で、野津功君、別部松彦君らとお茶をしながら、先程上映された4人の同期生 が、80歳記念に作った『紅陵傘寿』について話し合った。そのとき復刻版『しろたま』について別部 君から、創刊者である古野由男先生のご子息由光(よしみつ)氏の住所がわかったことを知らされ た。また、別の話として「来月20日、千葉の版画グループ7~8人で、大磯の藤村旧居などを見たあ と一泊し、翌日、10時に現地解散。都合はどうか」と聞かされ、私は即座に『小田原文学館』を案内 しようと約束をした。文学館を選んだのは、次の理由からだった。 (1)小田原文学館・白秋童謡館 共通入場券 尾崎邸 白秋童謡館 湘南・茅ケ崎に越して間もないころ、新聞で、小田原文学館を知った。そのうち行ってみようと思い ながら、数年が過ぎた。 ある年、4月3日前後が桜の満開日と知り、思いたって一人で訪ねた。小路の入口に、格調ある名 の「西海子(さいかち)小路」と小振りの石碑が立っていた。ここにはさいかちの木(マメ科の落葉樹 高木で枝・幹にとげがある)があったのでこの名が付けられたとか。 -40- 道路の両側の桜は、うわさ通り満開だった。文学館は、100mばかり行った左側にあった。 本館1Fは、近代文学の先駆者北村透谷のほか、槙野信一、尾崎一雄、川崎長太郎、北原武夫 らの小説家。小田原出身の民衆詩人福田正夫、アルプスに挑んだ登山家辻村伊助などの諸氏 が紹介されていた。 2Fは風光明媚な小田原に惹かれて移って来た谷崎潤一郎、三好達治、坂口安吾、北條秀司、 岸田国士など、私たちの世代に懐かしい作家らの作品が紹介されていた。 3Fは展望室で、美しい庭や箱根の山などの眺望が楽しめた。 建物は田中光顕(みつあき)の別邸で、S12年に建てられたスペイン風の建築。また、別邸は T13年の和風建築で、これが『白秋童謡館』だった。共に国の登録有形文化財となっている。 和洋折衷の庭園を進んで行くと、S58年3月逝去した尾崎一雄の業績を偲び下曽我の自宅の 書斎をH17年に移築した平屋の一軒家があった。家の前の小径に添って、からたちの花がひっ そりと咲いていた。隣の別館が目指す白秋童謡館だった。 白秋はT7年から15年までの8年間を小田原で過ごした。ここには、全童謡集の原稿があった。 (写真)左下、尾崎邸。右下、白秋童謡館 2Fには「童謡のふるさと」-白秋が愛したまちーと書かれたビデオ(15分)があり楽しめた。 この環境の良いところを私は『湘南シネマ同好会』の七周年記念に会員に見せたいと思い、 2013(H25)4月5日に案内したが、桜は既に3月下旬に散っていた。わずか20年ばかりの間 に地球温暖化の進む早さに驚かされた。『小田原文学館』の案内はこの経緯があったから推薦 した。 さて2013(H25)11月20日(水)、別部君と大磯駅で落ち合い小田原へ急いだ。三好達治の 旧居を見るため諸白小路から入った。海に向かって右側に白い建物の旧宅があった。シーズ ン・オフだったので、白秋童謡館のビデオはゆっくり二度ばかり繰り返して味わった。 庭で記念写真を受付けのご婦人にシャターをおして頂いた。 右の別部君と筆者 -41- JR「小田原ラスカ」に着いたのは15時だった。お茶をしながら、別部君から「丁度今頃、西 宮市の古野由光氏宅に贈呈本の復刻版『しろたま』上下巻と『紅陵傘寿』が着いているころだろ う」という話と、送るに先立ち由光氏に電話をかけたら、『しろたま』と聞いて中塚、坂根君等の 名前が次々と出て来て本当に驚いたこと、先生は『しろたま』を大変誇りにしていらしたことな どの会話内容を聞いた。(『一双会たより』第16号P49~P52に掲載。ぜひご一読賜れば幸 いです。) つるべ落としの晩秋に友情を深めた一日となった。 (2)片戀の町「曳舟」 2014(H 26)年9月22日(金)の朝日新聞夕刊(湘南版)を見て驚いた。朝日が「街プレー バック」というタイトルで月に1~2回街の風景を写真入りの読み物にした文の中で『北原白秋 「片戀」曳舟川通り』が出ていた。この記事について私は遠い日の思い出があった。 1954(S29)年の秋だった。当時私は高円寺にいた。駅前に都丸書店があり、いい本が多 かった。目に止まった本が二冊あった。『日本耽美派の誕生』もう一冊は『アルバム東京文學 散歩』で、共に野田宇太郎氏の著作だった。前者は、明治末期から大正にかけて、隅田川川 畔で繰りひろげられた「パンの会」(※)の論文記事で、後者はS27年から始めたカメラによる 東京下町の風景写真を撮った文学散歩だった。(ちなみにそれ以前はスケッチ)。早速購入し て写真と対比して読んだ。文中「パンの会の詩歌集」の項に白秋初期の詩を見付けた。 片戀 あかしやの金と赤とがちるぞえな。 (※)かはたれの秋の光にちるぞえな。 片戀の薄着のねるのわがうれひ。 「曳舟」の水のほとりをゆくころを。 やはらかな君の吐息がちるぞえな。 あかしやの金と赤とがちるぞえな。 この詩は1909(M42)年10月、白秋20代のときの作だった。翌年4月にこの詩は雑誌『ス バル』に発表された。夕刊は丁寧に(※)「かはたれ=彼は誰:夕方、または明け方を指す古 語」と注釈をつけていた。 私が驚いたのは『アルバム東京文學散歩』の曳舟川の写真を見て、著者も書いているよう に『S20年代の曳舟川は、東京で一番汚い町のやうに思われてゐる墨田区寺島の町中を 流れる「どぶ」又は「おはぐろどぶ」の曳舟川だった』と。 この川と街をいま見る街の風景は、二車線×2=4車線+両歩道+α(残りの空いた道)に 広がり、両側は、かなり高いビルが立ち、ビルの背後に“東京スカイツリー”の上部が顔を出 して、大きく街が変貌していた。 東京の街は2020年の東京オリンピック・パラリンピックを目指してさらに変貌するであろう。 野田宇太郎先生に私がお逢いしたのは、1958(S33)年12月24日、日本電波塔(株) (東京タワー)が開業した翌年だった。私は営業担当だったので、訪ねてこられたとき、先生 の本を大変興味深く読んだことを告げると「あれは僕の学術論文だった」とおっしゃった。 肩に掛けておられたカメラは、本のあとがきから、キャノン4SBレンズf1.8だった。 -42- (※)パンの会 パンの会はM41年の秋、木下杢太郎が美術文芸雑誌『方寸』同人たちにパリのカフェ文芸運動 のような詩人と美術家が一緒になった会をつくろうと提案し誕生したもので、石井柏亭、山本鼎、森 田恒友、倉田白羊、小林未醒、織田一磨、平福百穂、坂本繁二郎らの画家たちと、白秋、杢太郎、 吉井勇らが中心となり、後に高村光太郎、長田秀雄・幹彦兄弟などが加わった。 パンの会は耽美派を形成する若い人々の交歓の場となった。芸術の自由と享楽の権利を謳歌し ながら、青春のヴィーナスとヴァッカスの饗宴はエキゾチシズムと江戸情緒の入りまじる東京下町 でくり広げられた。 東京をパリとして、隅田川をセーヌ川になぞらへ、カフェの代わりに洋食屋があり、そうした欧化 途上の市街と下町の古い江戸の面影とが奇異なコントラストの面白味をかもしだした。(『日本耽美 派の誕生より) 空に真赤な 空に真赤な雲の色。 玻璃(はり)に真赤な酒のいろ。 なんでこの身が悲しかろ。 空に真赤な雲のいろ。 『邪宗門』より 白秋作のこの詩は『パンの会』の会歌として歌われた。 『パンの会』提案者 杢太郎自画像 1985(S60)年8月9日~9月8日。神奈川近代文学館『木下杢太郎展』生誕100年記念 (3)伝肇寺(でんじょうじ)と からたちの花の小径 別部君と別れてから、しばらくして、辻堂市民図書館に行った。入口の棚に一枚の黄色いチラシ が目に止まった。『小田原文学散歩』コースは小田原駅-からたちの花の小径-清閑亭で、実施 日は既に11月13日(日)に終わっていた。一年後、このコースを『湘南シネマ同好会』の前回参 加した2人のご婦人らと登った。 2014(H26)年11月7日。当日は台風20号が関東を直撃する予定だった。心配で気象情報 を見たら、八丈島付近から急遽進路が北東に変わり、当日は快晴となった。何たる天佑か! -43- (写真提供)佐宗美子さん 伝肇寺へは、予定のコースを逆に行った。東海道線のガードをくぐり、すぐ右手の急な山道を 登って行った。お寺の駐車場は、ギッシリとすき間なく車が入っていた。従ってお堂まで行けない。 ご用の方は隣の「みみづく幼稚園へ」(写真)を見つけて訪ねた。 女住職が出てこられた。白秋のころの住職のひ孫さんだった。話が上手な方で、茅ケ崎から来 た旨を告げたら丁寧にお話をしてくださった。話を聞いているうち、写真で見たカヤの大木が目の 前に在ることに気づいた。白秋が設計して作った「木兎(みみづく)の家」の隣の木だったので尋 ねた。「あれは藁(わら)で作った茅葺の家で、放火される恐れがあり取りこわした」と話された。 木兎の家 お屋根は萱やで、壁は藁 小窓のお眼々が右ひだり お鼻の入口、はひりゃんせ 木兎、ぽうぽう。 内から、ぽうぽう。 いまはなき、「木兎の家」の詩である。また、「赤い鳥、小鳥の碑」は、実物を半分にした碑が 残っていた。最後に中河幹子の墓に案内された。この近くのお寺に中河与一の墓があり、当時 の両住職の計らいで、この伝肇寺に呼び寄せて現在仲良く眠っていると話を結ばれた。 中河与一は、横光利一らと同じ新感覚派の作家で、ロマン主義の傑作『天の夕顔』は彼の代 表作。S23年ごろだったと記憶するが、東宝争議後、松江で上映された新東宝映画を見逃した。 帰宅後、本を取り寄せて読んだ。プラトニック・ラブの小説に新鮮さを憶えた。文末には、アルベー ル・カミユ、柳田国男によって推称せられ、英、米、独、仏、中国、スペインなど六カ国に翻訳され たと編集部註が記されていた。 伝肇寺をあとに再び急な坂道を登り、からたちの花の小径を歩いた。(写真)かって私が住ん でいた八王子東急片倉台の戸建て住宅街の頂上が入口の絹の道よりも、もっとスケールの大き い小径だった。一人で歩くのは寂しすぎる小径であった。山を下り小田原駅に着いたのは正午 だった。昼食後、朝通った道を再び報徳二宮神社まで戻り、そこから天神山に登り、「清閑亭」 に着いた。ここは、1昨年(H26 )年の大河ドラマ『軍師官兵衛』に登場した黒田長政から数えて 14代目の黒田長成侯爵の別邸の邸園だった。1Fの玄関付近の部屋が工事中であったが、相 模灘が一望出来る大広間(和室)は先客で満席だった。続きの部屋で、ビスケット付きのコーヒー を飲みながら眺望を楽しんだ。(写真) 小田原市経営の古民家の休憩所で一休みして、近くの蒲鉾店でお土産を買い、念願のぷち散 歩を終えた。万歩計は20,181歩を表示していたが、駅から清閑亭までがダブッた歩数であった。 -44- (4) 城ケ島大橋開通のころ 城ケ島大橋は、1957(S32)年4月に起工し、1960(S35)年4月に開通した。橋の完成で、三浦 半島の先端から城ケ島に車で行けるようになった。開通の年の5月のことを思い出す。 当時、東京タワーの営業(サービス担当)のM君(故人)がフロントのH嬢から、「運転免許を取 得したので、城ケ島大橋に行き、試運転を見てくれ」と頼まれた。彼は数年前、九州から上京した ばかりで、道がわからない。そこで私が道案内を頼まれた。 今なら観光地や観光施設などの開業時には、どこも混雑が予想されるが、S35年ごろはまだ、 乗用車を持つ人は少なかった。開通後、1か月ばかりのウイーク・ディだったこともあって、その 心配は当たらなかった。八十路を過ぎた今、大胆な行動こそが、若者の象徴であると納得してい る。 当時はまだ高層建築はなかった 2度目に行ったのは、湘南に引越した1990(H2)年1月から3年後、息子が乗用車を買ったの で、三崎に試運転に行くというので同行した。城ケ島大橋を渡り、白秋の碑を見たのち、売店で 『湘南文学』第5号(1993春)特集号を買った。 寒の凪磯の香匂う白秋碑 寒釣りの船通り矢を通りゆく 陽治 “ (5)春の城ケ島と見桃寺 “春に三日の晴れ間なし”の諺通り、天候が不安定な日が続いた。 (写真提供 佐宗美子さん) -45- 2015(H27)年4月16日(木)、前日まで続いた冷たい雨が上がった。三年目の白秋ぷち散歩に 同行してくれたのは、前回のメンバー2名だった。 東洋一を誇った「城ケ島大橋」を渡るとき、こんなに狭い橋であったのかと、内心自分の記憶を 疑った。橋上10mばかりの補修工事を行っていた。考えてみれば、半世紀以上もたっている。 わが国は、その間「瀬戸大橋」1988(S63)年4月供用開始し完成させ、人と車と列車も通れる 上に、美しい曲線の橋も完成さした。技術は日進月歩と進んだ。 白秋の記念碑を見てから『白秋記念館』に入る。先ほどから「城ケ島の雨」が館内に流れてい た。どうも聞けないので、記念館の方に「奥田良三」(1903~1993)の歌があればと尋ねたら、す ぐスイッチを切り替えて下さった。やはり、やさしく、力強く感情を込めた歌にしばし満足した。 記念館のテラスから三崎方面を眺めると、ひときわ大きい屋根のお寺が見えた。三浦洸一の 実家「最福寺」であると知らされた。彼のヒット曲『踊り子』は、よく唱った曲だった。 水中観光船が通って行った。少し先の宮川湾で、海中展望室から魚が見られるという。 (左上)坂田霞さん (左下)さびた看板のある 見桃寺入り口 良三の歌の館や八重桜 春の凪水中船に人まばら 城ケ島白秋の碑風光る 見桃寺さみしき寺に蕗の花 (右上)佐宗美子さん (右下)本堂に続くのは 住職の家か 陽治 “ 美子 “ 三崎港まで引き返し、徒歩で約20分。目的の桃の寺、見桃寺にたどり着いた。住宅地の中に 建つお寺(写真右下)は、住職が不在だった。寺の隣接は自宅らしき家も共々、締まっていた。 近所の方に尋ねてみた。「奥さんがおられなくなって・・・(住職は一人か?)何か用事があれば 大椿寺(椿の寺)から住職が来られます。」過疎が進む現在の日本の姿を垣間見たような気がし た。(万歩計は、10,306歩) https://www.youtube.com/watch?v=cMAVuRJQzVU ここをクリックっすると曲が聴けます -46- (6)湘南の白秋『光と影』 三崎時代(1913~1914) パンの会で華々しく活躍し、名声を得た白秋に、暗雲が迫ってきた。 1912(M45 T元)7月、白秋27歳。隣家の人妻、福島俊子と関係を持ち、その夫に「姦通罪」 で告訴され、7月6日未決監に拘束された。幸い、弟の鉄雄の奔走により、2週間後の20日に 出所ができた。名声は地に堕ちた。白秋は後悔と自責の念に駆られ、自殺を考えた。翌T2年 1月22日~2月14日まで三崎に渡ったが死に切れなかった。 野 晒 死ナムトスレバイヨイヨニ 命恋シクナリニケリ、 身ヲ野晒ニナシハテテ、 マコトノ涙イマゾ知ル。 人妻ユヱニヒトノミチ 汚シハテタルワレナレバ、 トメテトマラヌ煩悩ノ 罪のヤミジニフミマヨフ。 (『白金之独楽』より) 1913(T2)年1月。處女歌集『桐の花』が、東雲堂より刊行された。歌集に『春の鳥な鳴きそ 鳴きそあかあかと、外(と)の面(も)の草に日の夕』《うぐいすよ、もう戸外の新緑の真赤な日 が沈もうとゆう時なのに、そんなに楽しげに鳴いてくれるな》という歌をのせた。 同年4月、夫にも離婚され、また胸を病んでいる俊子と偶然再会し、5月、彼女を救おうと正 式に結婚。三崎町向ヶ崎の異人屋敷に移住。10月、三崎町二見谷の臨済宗見桃寺に仮寓し た。ここで、島村抱月の率いる芸術座から「舟唄」の依頼があった。不朽の名作『城ケ島の雨』 の誕生である。作曲者は梁田貞(ただし)で、T2年10月30日、東京有楽座での“芸術座音楽 会”で発表された。山田耕筰や中山晋平らとコンビを組み、以後数々の名作を生んだ。 1914(T3)年、白秋29歳の8月、貧窮の末、俊子と離婚。 小田原時代(1918~1926) 1916(T5)年5月、白秋31歳のとき、江口章子(あやこ)と二度目の妻を迎えた。共に再婚 だった。 1918(T7)年2月、小田原町御幸浜の養生館に仮寓、4月、十字お花畑に移った。7月、鈴木 三重吉の児童芸術雑誌『赤い鳥』創刊とともに童謡欄を担当した。秋には天神山伝肇寺で間 借り生活を始めた。 1919(T8)年、ようやく窮乏の生活から脱した。この夏伝肇寺東側の竹林に「木兎の家」と名 付けた萱屋根、藁壁の住居と方丈の書斎を建てて移り住んだ。この地は郷里柳川を別にすれ ば白秋の生涯のうちでもっとも長く住みついた所であった。9月「城ケ島の雨」「さすらいの唄」 などと童謡集『とんぼの眼玉』を共にアルス社より刊行した。 1920(T9)年、35歳。前年の夏、境内に「木兎の家」を建てた隣接地に赤瓦の洋館を新築に 着手し、地鎮祭後、事情あって章子と離婚。 -47- 1921(T10)年4月、佐藤菊子と三度目の結婚。翌3月、長男龍太郎誕生。T14年6月、長女篁 子(こうこ)誕生。 1926(T15 S元)5月、東京谷中天王寺に転居。 白秋の湘南時代を俯瞰して見て、三崎時代は、郷里柳川の実家の没落、それに伴い家族 の上京、続く生活苦による不運が重なり苦難の時代だった。それに反して、小田原時代は、 幸運の女神が宿り、子供にも恵まれ、再び脚光を浴び、不動の詩人・童謡作家へと成長して 行った時代であったと言えよう。 終。 参考資料 1.『日本耽美派の誕生』野田宇太郎著 (河出書房)S26年1月15日発行。 2.『近代日本の詩聖 北原白秋』編集・発行=北原白秋展専門委員会・(財)北原白秋生家 保存会・西日本新聞社 1985(S60)年1月。 3.『湘南文学』第5号特集―北原白秋と三崎・小田原ー1993(H5)年春。 学校法人神奈川歯科大学・湘南短期大学発行・制作鎌倉春秋社。 (訂正の記) 原稿出稿後「BS朝日開局15 周年特別企画」黒柳徹子の『コドモノクニ』に 北原白秋、山田耕筰の番組を見て、歌手の 安田祥子が『からたちの花の小徑』を訪ねて いました。先の大樹の森(写真)は間違って いたことに気付きました。 JR小田原駅新幹線口から登った大樹の森 の入口付近に、一本のからたちの大木があり、 それにちなんで『からたちの小徑』と名付けら れたようです。何の変哲もない小徑で気づけ なく間違っていたことをお詫びし訂正させてい ただきます。 -48- -49- -50- -51- -52- -53- 浜風・流水落花 春去りぬ XI -戦後70年、高校卒業65年の節目の年に思うこと- 太田陽治 第一話 (1)ノルマンディー海岸と茅ケ崎海岸 -『史上最大の作戦』を思い出す- 2015(H27)年の藪入りが過ぎたころ、新聞に「新宿ミラノ座」の解体、跡地は 再開発という記事を目にした。新宿ミラノ座は、上記題名の映画を1962(S37)年に 見たところだった。 1944(S19)年6月6日は、米、英、仏などの連合国の兵士15万6,000人を越す大軍 が、当時、独に占領されていた仏のノルマンディーに上陸した日だった。上陸から 11ヶ月後の5月7日にパりは開放された。 この映画は、歴史的事実に基づいた映画化だった。原作、脚本は、コーネリアス・ ライアン。監督は四人で、ケン・アナキン/アンドリュー・マートン/ベルンハルト・ ヴィッキ/エルモ・ウィリアムズと異例とも言える力の入れようだった。 当時日本は、独、伊と「三国同盟」を結んでいた。その独軍が敗北していくことす ら、すっかり忘れて楽しんで見ていたのは、やはり戦争を放棄して、平和が続いたか らであったと思った。 戦なきやまとの国の春日かな 陽治 (参考資料) 『世界映画名作全史』(戦後編) 猪俣勝人著(社会思想社) (2)いまでは幻となった 『コロネット作戦』 1991(H3)年『茅ケ崎市史』編集のための調査に、アメリカの国立公文書館や、 マッカーサー記念館を訪ねた栗田尚弥(ひさや)国学院大学講師は、マッカーサーが 総司令官であった太平洋陸軍の作戦文書に「Chigasaki Beach」の記述を見付けた。 -54- 栗田尚弥著『コロネット作戦』によれば、『CORONETとは、馬蹄、馬のひずめ。東京を 占領するため、湘南・茅ケ崎海岸と九十九里海岸に上陸して、関東平野を両端から攻め て、東京を占領する作戦計画だった。』と記している。もし、第2次世界大戦が、1945 (S20)年8月15日に終わらなければ、この計画が実施されている。 (3)兵力の移動計画 著者が兵力を数表にまとめたものが下記の表 航空兵力動員予定数 (上陸当日) (上陸当日) 出典:アメリカ太平洋陸軍『参謀研究コロネット作戦』 (『茅ケ崎市史現代2』19~21頁)より作成。 註:アメリカ太平洋陸軍の兵力動員計画です。1桁台の数字がはっきりし ており、計画がかなり具体的に立てられていたことがわかります。 (4)Yディは、1946(S21)年3月1日 『Yディ決行の20日前の2月9日から上陸予定点や関東地方の重要地点は、艦砲射撃や 爆撃を強化し、茅ケ崎、平塚間にかかる東海道線の相模川鉄橋、藤沢の江の島砲台、中 央線の諸トンネル等を徹底的に破壊する。 3月1日、艦砲射撃と航空機の支援を受けながら、茅ケ崎海岸は、5個歩兵師団、九十 九里浜には2個海兵師団が上陸する。兵力等は、Yディ上陸5日目、10日目、30日目、35 日目と日本が無条件降伏をするまで続く。』 驚くべき兵力と資金力に圧倒された。 (以下省略) 以前『一双会たより』第15号「飛行機事故を真珠湾攻撃(P.23)に書いたように、ハワ イの島で12月には電波探知機(レーダー)の開発に成功し、設置されていた。日本は開戦 のときから既に負けていた。戦争は二度と行ってはならない。 栗田レポートを読み、戦争が早く終わって、むしろ良かったと言わねばならない。私た ち昭和1桁世代は生まれた時から戦争だった。この秘話を後世に伝えなければならない。 (参考資料)茅ケ崎ブックレット(1) 『コロネット作戦』 -第2次世界大戦と茅ケ崎ー 栗田尚弥著 茅ケ崎市生涯学習課から栗田先生の著作権 の許可を頂き掲載 -55- 第二話 (1)『寛容』が平和をもたらす -日本もテロの標的になったー 2015(H27)年1月16日、安倍晋三首相は中東に出発。17日カイロで2億ドル(日本円に して236億円)の人道支援を表明した。 1月20日、過激派組織(Islamic State)が邦人2人(湯川遥菜さん、後藤健二さん)の殺 害を予告し、2億ドルの身代金を要求する映像を日本政府が確認。政府は、現地に対策本 部長中山康秀外務副大臣を置き、ヨルダンのアブドラ国王などに仲介を依頼し、解放を働 きかける努力をしたが、1月25日に湯川さんが、2月1日に後藤さんが殺害された事件が 起こった。ISは「日本は十字軍に参加した」と発表した。 この事件は、世界中に大変なショックを与えた。テロ問題は、宗教関係を含め、複雑で あるため、世界的に連携して対応し、対策が急がれる。 (2)グリフィスの『イントレランス』を考える サイレント映画『イントレランス』(1916~1989)《Intolerance:『不寛容』》の監 督・D.W.グリフィス(1875~1948)は、1916(T5)年、41歳のときこの映画を完成させた。 物語は四つの異なった時代<現代篇><ユダヤ篇><中世フランス篇><バビロン篇> を現代に入り混ぜて同時進行させながら、人間が持つ『不寛容』の世界を描き出した。 最初に出てくる「ゆりかごを揺らす女」(リリアン・ギッシュ)が出てくる。このシー ンは、四つの物語を繋ぐときにも使われていた。ゆりかごは永遠の時の流れの象徴だった。 プログラム(縦37cm、横26cm、厚さ1cmの金文字入りの豪華版の本)の中で、野口久光 氏は『不寛容』について「人が人に対して寛容を失う時、頑迷、狭量、偽善は憎しみと なって争いごととが起こり、人の生命をおびやかし、戦争にまで発展する。人類の平和へ の願いを込めて、グリフィスが全知全能、全財産を注いで、この映画を作りだした」と記 しているが、この作品のテーマであることを指摘している。 (3)フィルム・ライブラリーの新設 従来、映画は数週間単位の上映を終え、廃却、燃却されていた。 1930(S5)年代、開設されたNYの近代美術館は、20世紀に歴史的な重要な映画の保 存と常時公開を目指し「フィルム・ライブラリー」を行うため映画部を設け、芸術的価値 のある古い映画の蒐集を始めた。 1939(S14)年、提案者であり映画部長であったバクー女史が、グリフィスの初期作品 の購入、発掘に力を入れ、グリフィスの代表作『イントレランス』の復元を成し遂げた。 日本上映に当たり、『イントレランス』は、もう一人のグリフィス研究家レイモンド・ ローハウアーが、1950(S25)年代から1980(S55)年初頭に至る30年に近い歳月をかけ、 オリジナル・ネガティブや失われている部分を世界各地から捜し出し、初公開当時の形に ほぼ復元した。従って上記の完成年が1989(H1.1.8)年となっている。(この部分は筆者) 私たちは、グリフィスの崇高な理想を実現するため、全世界の一人一人が、この壮大な 理念を理解し、他人を赦す寛大な心を持つよう努力をしなければならない。この道は言う は易く、実行は困難な道である。世界平和と民族の幸福のため努力しなければならないと 考える。 -56- 参考資料『イントレランス』掲載のプログラム本。 フジテレビ、関西テレビ、東海テレビ開局30周年記念。日本ヘラルド映画グループ創 立30周年記念。日本での特別上映。1989(H1)2月27日(月)/2月28日(火)/3月1日 (水)。日本武道館。 ※お断り:グリフィスが最も恐れた「不寛容」は、サン・パルテルミーの大虐殺だと思われるので 『イントレランス』の全カットが掲載されているプログラムからカットを書いた古い映画ノートを取り出 したら文章の間違いに気付きました。仏文法では、感情を表わす動詞の後には、接続法(Mode Subjonctif)を使わねばなりません。間違った文章を掲載したことをお詫びいたします。 -57- 第三話 早春の京都へぶらり旅 1月~2月は、過激組織Islamic Stateのニュースやフランスの経済学者トマ・ピケティ (Thomas Piketty)の来日で賑わった。 「富の不平等」について論じた『21世紀の資本』が、世界で150万部のベストセラーと なり、ピケティは時の人となった。「資本の収益率(r)が経済成長率( ģ )を上回る という不平等式を示した。(r>ģ )。経済格差が広がるのを防ぐには、世界的規模で 資産への課税を強化すべきだと主張している。 そんなあわただしい月半ば、京都のホテルから誕生月のお祝いの便りが届いた。気分 転換にぶらり京都へ家族と出かけた。 (1)学問の自由と闘った先人たち 『わが青春に悔いなし』黒澤明監督(1910~1998)の映画を郷里の映画館で見たのは 1946(S21)年7月だった。「京大滝川事件」を扱った作品だった。 『1933(S8)年、政府は滝川幸辰(ゆきとき):1891(M24)年~1962(S37)の学 説を共産主義であるとして、その著『刑法講義』(1926)、『刑法読本』(1932)を発禁 とし、休職を命じた。法学部教授会は、学生と共に反対運動を行った。法学部教授会31 名のうち、滝川幸辰、佐々木惣一、末川博教授以下19人は、政府に抗議して辞職した。 辞職後、滝川は、京大に復帰し、法学部長、総長を歴任した。』 映画は、官憲が馬上から学生らをたたく闘いの中、旧三高の♪“紅もゆる丘の花”の 逍遥の歌を唄いながら闘うシーンが強く目に焼きついた。敗戦で打ちひしがれて虚脱状 態だった私たちに、学問の自由を守り邁進せよと奮い起させた印象深い作品だった。 以来、逍遥の日々69年、いまでも時折この歌を口ずさんでいる歌となった。 (参考資料)『日本人名事典』 三省堂編修所(1990) ※『わが青春に悔いなし』は、キネマ旬報社S21年度ベストテン第2位。ちなみに第1 位は『大曾根家の朝』木下恵介監督。 (2)吉田神社と北野天満宮に詣でる 吉田神社は、京都大学の背後にある吉田山(105.12m)の中腹に鎮座されていた。神社 の本殿までは、急勾配とまでは言えない坂道だった。(写真:三高の校章の碑)しかし、 ここから頂上までは、まず50段はあると思われる急勾配の石段を登り、その先が石ころ 混じりの山道を登らなければならなかった。 かってここは、樹林に覆われていたと思われる山道だが、頂上に近ずくと、樹林の上 部半分以上が伐採されており青空が見えてきた。あとわずかだと思うと、老骨に鞭打っ て、力一杯頂上までたどり着いた。 ♪ https://www.youtube.com/watch?v=lM1Nb5mf_Wsここをクリックするとこの曲が聴けます。 -58- 本殿の少し上の登り口 三高の校章の碑前 「紅もゆる丘の花」 の歌碑の前 京の春逍遥の歌口遊さむ 春浅き「紅の丘」登りけり 陽治 〃 続いて北野天満宮にお詣りした。紅白の梅が満開だった。大量の絵馬が鈴なりにかけ られて、いまにも落ちそうだ。さすが、学問の神様だ。合格祝いのお礼参りか。親らし き人や観光客で賑わっていた。むかし、白潟天満宮の境内で子供のころ遊んだ日々が思 い出された。 梅香る天満宮の人の波 天神の庭で遊びし春の昼 陽治 〃 (3)さらば「トワイライトエキスプレス」(大阪ー札幌) JR大阪駅では、3月14日のダイヤ改正でなくなる寝台特急「トワイライトエキスプ レス」札幌行き11時50分発の最後の勇姿を見納めした。1989年に誕生し、国内最長約 1500キロを走り、豪華なサロンの食堂車が評判となった列車だった。 1昨年3月7日にオープンした「アベノハルカス」(高さ300m)に向かう。丁度一周 年目の日だった。予約した12時30分までに行き昇った。展望台の広さは驚きだった。大 阪の街、大阪城や港そしてPLの塔、生駒の山々を一望出来て楽しんだ。 帰宅後、『さよなら夢の寝台車』のTVを見た。地球を470回周り、延べ約116万人を運 んだ実績。そして22時間の夢を与えてくれたこの列車への惜別は格別だった。願わくば、 いつの日かまた復活することを願っている。 2015(H27)年4月6日記 -59- -『鉄道博物館』で急行『出雲』の時刻表と出逢う- 『一双会たより』第17号の連載エッセイ『浜風・流水落花 X』(P.23)に急行『出雲』の 下り東京発の列車の松江までの駅到着時刻を「古い時刻表がないので、記憶によれば」と 前置きをして記した。その時刻表を65年目に始めて手にして見ることができた。 2015(H27 )年5月3日(日)快晴。大宮の『鉄道博物館』を家族と訪ねた。2Fの東海道 本線の移り変わりの歴史の陳列物の中に1950(S25)年6月号の時刻表があり、左側に手書 きのメモで「詳しくは鉄道ライブラリーへ」と書いてあった。一巡後訪ねた。 立派な箱の中に 時刻表があった。コピー用紙のA4を丁度半分にした大きさの本(?) だった。厚さ5mmにも満たない小冊子で、戦後の紙質の悪いザラザラした紙で、字が小さ くルーペを借りてメモった。 急行『出雲』:東京22時30分発。京都8時33分着、大阪9時27分着~9時30分発、(この 3分の間に急行『瀬戸』を連結から切り放す。筆者注)-三田経由-福知山12時19分 着、松江18時21分着。(最終駅は出雲今市駅) 朝鮮戦争が6月25日勃発して急いで帰省したことを思い出した。また大阪発以降の時刻 表には「準急」の文字があり気になっていた。 帰宅後、古い『鉄道ファン』1917(S52)年6月号(P.74~75)『山陰特急出雲』の (2)に山陰準急の復活記事があった。 (要約)「S23年7月1日は、山陰線に「準急行」が復活した日だった。このダイヤは大阪 -大社間を10時間20~25分で結び、C57牽引により山陰線に初めて登場する鋼製客車は次 の時間となった。 (下り)大阪9時30分、大社19時55分。 (上り)大社7時40分、大阪18時。 つまり、正確には大阪までは「準急」として、大阪では『瀬戸』を連結して急行『出雲』 となっていた。先の時刻表のナゾは解けた。『一双会便り』16号(P.25)に、急行『出雲 は前年に登場したと記憶している」と記したが、第17号とあわせて訂正させて頂きます。 (左、東京、大阪、九州下り。右、上り) -60- 赦し難きを赦す 中沼 尚 戦後70年報道特別番組 BSS山陰放送制作 2015年7月20日放映 加納莞蕾とキリノ大統領 戦争 東京国立近代美術館蔵 雛祭りの昼下がり一冊の本が送られてきた。加納美術館館長の加納佳 世子さんがお父様の加納辰夫(莞蕾)の生い立ちと足跡を書きとめられた「画 家として、平和を希う人として」という本でした。 加納莞蕾に関しては一双会たより第13号55頁および第16号46頁に郷 土の誇る画家として紹介いたしましたが、本書は著者が子供の時お父様と一 緒に過ごした頃の思い出や戦中戦後の苦しい生活などが語られていると同時 にBC級戦犯赦免運動に心血を注ぎフィリピンのキリノ大統領と交わした書簡 などが掲載されています。昭和28年7月108名の戦犯がキリノ大統領の恩赦を 受け帰国した。 キリノ大統領は加納莞蕾の要請にこたえて次の声明を発表した。「私は日 本人戦犯に特赦を与えた 妻と3人の子どもさらに5人の親族を日本人に殺さ れ彼らを許そうとはよもや思ってもみなかった 私の子どもや国民に恒久の利 益をもたらすであろう日本人に憎悪を受け継がせないためこれを行うのである 結局運命が日本とフィリピンを隣人となさしめた」と。なんという心の広い大統 領であったことか、私たちはこのことを忘れてはいけない。 これをもとにBSS山陰放送が 「赦し難きを赦す」戦後70年報道特別番組と して制作し、放映され大きな反響を呼びました。 不自由を知らないで自由を語ることができないと同様に戦争を知らないで 平和は理解することはできません。戦争を体験した私たちはしっかりと後世の 人たちに戦争の体験を語り継ていかねばならない。 -61- 島根県は北東から南西に海岸線が続く。海の風景を楽しみながらの山 陰道。その山陰道の安来インターを出て南に二十分ばかり山あいに入っ ていくと飯梨川の川沿いに安来市加納美術館が見えてくる。その美術館 は、一九九六(平成八)年に加納辰夫の長男加納溥基が、ふるさと布部 の発展を願い、文化の拠点として 設立したものである。 加納美術館は、加納辰夫(雅号 莞蕾)の油彩、墨彩、書などの作品を 展示するための美術館としてつくられた。周囲に広がる四季の彩り豊か な田園風景の中のこの美術館は地域の人ばかりではなく遠くからもたく さんの来館者を迎えている。 美術館には加納辰夫の絵や書を気に入って来てくださる人がある。ま た加納辰夫の恒久平和を求め続けた画家としての生き方に共鳴して来て くださる方も少なくない。 加納辰夫が三十年求め、歩み続けた平和への道--私がこれを書き遺 しておきたいと思ったのは一人の画家の一枚の大きな絵として来館者の 方に見ていただきたいと思ったからである。フィリピンの大統領に向け て「私は、平和を求める画家として絵筆を持つことができないのです」 とメッセージを送り、B C 級戦犯の助命嘆願活動をしてきた加納辰夫は、 三十年かかって実は大きな一枚の絵を描いていたのかもしれないと私は 思っている。 平和を希求する想いは、時を経ても変わることなく永遠に続かなけれ ばならない。辰夫の願いが限りなく次の世界に続いていくよう心から 願ってやまない。その 願いからこの本は生まれたと言ってよいと思う。 「赦し難きを赦す」「世界児童憲章(世界の子どもを愛する)」などの 言葉が生かされる世の中になっていくことを心から念じつつ:::。 加納佳世子 -62- 復刻版『しろたま』を読んで(Ⅱ) 逝きし二人の旧友が残した郷愁の風景(1) ―「きつつき会」原明君と 岡崎和夫君の思い出― 太田陽治 『しろたま』第6号の表紙には『松江風景版画特輯』JAN1950と記されて いる。この年。S25年3月。私たちは新制松江高校(現在の松江北高校)の第 一期生として卒業した。あとがきに『きつつき会』の記事があった。 S21年12月の創刊のときから『しろたま』誌上の版画で活躍した同期生10 名の「版画グループの会」の名称だった。メンバーの写真は、へるん旧居の玄関 前で写されていた。右上から坂根進、別部松彦、岡崎和夫、原明。右下から中塚 純二、奥田勝茂、古野由男先生、松原秀雄君らの俊才たちの若き日の姿だった。 欠席者、落合茂、中永喜文、渋谷草三郎君ら3名が左下に欠席と記されていた。 これらの諸君は、古野由男先生の指導を受けた、いわゆる“モンター家”の人達 だった。 きつつき会のメンバー しろたま第6号 1950は、明治の頃に、松江中学の英語教師として来日されたラフカディオ・ ハーン先生(小泉八雲、愛称へるん)の生誕百年の節目の年であった。と同時に 『きつつき会』最後の卒業記念作品集の発表でもあったといえる。 上記の旧友、原明君(小学校)と岡崎和夫君(中学、高校)の時代を二回に分け て思い出を辿ってみたいと思う。 -63- (1)原明君の版画から思い出すこと 『しろたま』第3号と第6号に「松江放送局」(以下松江局)がある。前者は白黒 版で後者は色彩版である。原明君とは白潟小学校1年1組(3年から男子組)6年1 組まで同クラスだった。温和な性格で、勉強がよく出来た。3年から毎学年、級長 に選ばれていた。しかし、中学、高校では一度も同じクラスにならなかったので、 次第に疎遠となった。 松江には戦前から日銀松江支店を始め、白潟本町の出雲ビ ル、都市型デパートの尾原呉服店のビル、NYに支店を持つ山陰合同銀行本店や、 天神町1番地の富士銀行(現、みずほ銀行)、藤原金物店など鉄筋コンクリート造 りや鉄骨造りのビルが何軒かあったが、原君の性格からは、むしろ松江局のような 静かな環境のビル風景に魅力があり二作品を描いたと推測している。 松江放送局 しろたま第3号 松江放送局 しろたま第6号 大島昭一郎君(雑賀小)がNHKを退職後、 OBとして編集に携わった『放 送』あの日あの頃-JOTK70年のあゆみ-によれば≪S7年3月7日、午前11 時「JOTKこちらは松江放送局です。これより開会式の実況を放送します」と稲 田稔アナウンサーの第一声が山陰の空に流れた。そして別項に、3月7日は、松江 放送局開局呼称符号JOTK。4月1日、聴取料月額1円を75銭に決定。≫と付 記し、記録を残している。大島君はT14年~S33年までを担当した。 1967(S42)年3月20日、松江局は床几山 (41.4m)の小高き丘か ら、宍道湖々畔の私たちが学んだ白潟小学校、同付属幼稚園、旧大日本航空輸送会 社の松江水上飛行場跡の格納庫跡地などを含め、『嫁ヶ島大橋』から続く高速道路 に接続した現在地に移転した。(P.67の下の絵の広大な土地の再開発による) 完成後の松江局の版画は『一双会たより』第12号(P.14)に野津功君の作 品を掲載しています。 (参考資料)『放送』あの日あの頃―JOTK70年のあゆみ― NHK松江放送局(発行日、平成14年3月8日) -64- 2)『しろたま』第4号「松江大橋」 この版画は、大橋南詰めの白潟本町から魚町に下る途中から大橋を眺めた場所 である。左側の柳は、大橋と切っても切れない風情のある樹である。 川向こうは 「なには旅館別館」。その左側に「皆美館」など湖畔の旅館が並んでいる。 松江大橋 しろたま第4号 大橋については「源助」が人柱に立った話は省略すが、N君から戴いた『松江 余談』(今井書店)発行の本に、懐かしい「假橋」の写真を見付けた。S11年 ~12年は私が白潟幼稚園の時だった。叔母が東本町に嫁いで間もないころ、家 族に連れられてこの橋を渡ったことがある。記事には≪今年架橋50周年を迎え た松江大橋が工事中※だった昭和の初めごろ、くの字型にうねった童話じみた橋 が宍道湖に架っていた。京店商店街から路地を抜けると、小泉八雲が新婚旅行時 代に過ごした宿がある。そのわきから湖にせりだして魚町まで、自転車と人間だ けが通れる狭い橋だった。≫(S62年12月3日記。これは山陰中央新報に掲 載された日付。約2年間、年間70回の連載だった。 2001(H13)年8月、母が92歳で亡くなったとき、遺骨を持ち帰松し た。清水利美君(雑賀小)が「堀川めぐり」を推めてくれた。 乗船中、船頭が♪松江大橋/唐金(からかね)擬宝珠(ぎぼしゅ)/なぜに忘れぬ/ 忘られぬ・・・の歌を唄った。S24年7月下旬、大橋北半分を通行止めにして この歌の発表と踊りのイベントがあり、夕涼みがてら見に行った。高校3年のと きだった。それ以後初めて聞いた「松江夜曲」だった。※ 昨年7月8日「松江城」が国宝に指定された。「堀川めぐり」も城との相乗効 果で観光客が大いに期待出来ることであろう。 (参考資料)『松江余談』(ふりーとーく)編集松江まちづくりプロジェクト。 社団法人松江青年会議所。平成元年4月1日発行。 ※上記の工事中、深田技師の殉職があった。 (3)『しろたま』第5号(白黒版)と第6号(色彩版)「初冬の宍道湖」は版 画にするには難しい所である。それは、天神川に架っているJR山陰線の鉄橋が 川に対して斜めに架かり、橋脚がレールに対して直角に架っているからである。 旧鉄道省の技官が川の流れを無視して設計した代表的なミスの橋脚だった。 ※ https://www.youtube.com/watch?v=ETBC7SnjX74 ここをクリックすると曲が聴ける -65- 私たちが小学校低学年S13~14年ごろは川の深さは2mはあったと聞い ていた。 事実、上級生は褌姿で橋脚に登って川に飛び込んで泳いでいた。 私は S25年上京して、隅田川に架る橋の橋脚を見ると設計ミスであったことに気付い た。その為、天神川の巾が泥土のため両岸に積もっている状態を見て確信するよう になった。版画の左側の白い部分は、頑丈な御影石で覆われている橋脚である。現 在は高架になり天神川は元の姿の流れになった。 初冬の宍道湖 しろたま第5号 初冬の宍道湖 しろたま第6号 雑賀小と白潟小は仲が悪かったのは、 この橋脚ミスによると思うようになった。 当時天神橋は木製で市営バスが通ると橋が上下に揺れた。 例えば天神川が狭くな り、両岸で子供らが釣りをしているところに、橋上の市営バスがはねた石が落ちて きたとする。少年たちは石を投げた、投げないで口論になる。その結果喧嘩に発展 する。雑賀側は前田勇君、白潟側は榎並史朗君の仲裁で解決した。松江中学に入っ たら前田君は同期生となっていた。いまは共に故人となった。 2002(H13)年『一双会横浜大会』で米国勤務8年余りを終え帰国した中 沼尚君に再会した時「雑賀と白潟は仲が悪かった。 雑賀才槌(さいづち)柄 (え)が抜けた。白潟虱(しらみ)」の一句を聞いて、小学生のころの喧嘩が彼に まで広まっていたことに驚き、かつ恥ずかしかった。 「一双会」の初代会長は森本暉君、 「一双会たより」初代編集長は大島昭一郎 君、現在の編集長は中沼尚君、また、一双会たよりに原稿を投稿するとき不明のこ とはいつも清水利美君にお願いしお世話になっている名門雑賀小に対して、当事者 ではなかったとはいえ、本当に白潟はダラクソが多かったと反省している。 この記事を書く前に、もしや7回忌かなと思い名簿を調べたら、原君の命日はH 21年6月5日、7回忌に当たる年だった。遥かに冥福を祈り申し上げます。尚、 「一双会たより」の故人一覧表を見て住所は記録されていたものの、妹さんの中島 弘子さんの名前が不明で、首都圏一双会に3回境港市から出席した増谷りえさんに 依頼したら探して頂いた。この記事が掲載できたことにお礼申し上げます。 -66- 『思い切り雑想集』(白潟小学校第57期「白睦会」編集) 発行責任者増谷りえ(旧姓山内)絵・蘆田亮君の絵から 昭和16年3月、「国民学校令」が制定され、同年4月1日、松江市立白潟国 民学校と改称された。 1. 上段の絵 4年1組男子組の担任は、海軍 帰りの広江理三郎先生だった。蚕 から生糸をとりパラシュートを作 れば戦争に役立つと育生させられ た。見学先は乃木の農林学校だっ た。 2組の担任は野津壽顕先生で、 津田から通勤されていた。「雑賀 小」の副読本に松江放送局の見学 文がのっていた事を知っておられ たであろう。 (男女組)3組の女子組は不明。 2. 中段の絵 秋の遠足は4年生全員で「広瀬 の月山」に行ったと思う。 ※昭和19年の春だった。6年生 で中学校合格者を校長室に集めて お話があったとき、河井忠親校長 から当時、広瀬にいたとき、皆さ んが遠足で来られて学校で湯茶を 提供した話をされた。 3.下段の絵 白潟幼稚園2年目の教室は2Fだった。左側の外壁は講堂。その先は楠の木。道路 をはさんで「望湖楼」(初代、松江市民病院)。遠くの丘は松江放送局(床几山)。 運動場の突き当たり左の家は御休憩所「さざ波」。右隣は「湖月」。共に夏は氷水。 冬はうどん。四季折々、景勝地として賑わった。 橋の左下は公衆トイレ。川向うは、JALの前身大日本航空輸送(株)の格納庫。 右下は灘町金山傘店の傘干し風景。川の左岸は柳の木。その隣は相撲の土俵跡。2 組のH君が相撲の途中に褌がはずれて、女子の前で恥ずかしがっていた。嫁ヶ島大 橋に伴う再開発でNHKは湖畔に移転出来たことを大島昭一郎君は記事に残した。 ※S13年9月27日(小1の時)相撲場が竣工。双葉山などがここに来た。 -67- 松江からこんにちは 松江っ子 ◦ ◦ ◦ ◦ 北高の動向 島根県高体連で、男女とも総合優勝をなし遂げた。 女性の教頭が、本校で初めて誕生した。 二本松の2世が育って、10mちかくになった。まだヒョロ松だが、これから心身と もに成長する。ご期待を。 松江中学開校140周年の、記念式典が準備中。全国の皆さん、来年はぜひ里帰りを。 松江市の動き 「竹島の日」式典 2月22日、「竹島の日」10回記念式典が、市内県民会館であった。知事は政府が主 体になって、問題解決すべきだ、と要望した。 原発1号機廃炉 3月18日、中国電力は島根原発1号機(松江市鹿島町)の廃炉を正式に決めた。41 年間使用したが、費用を回収できない---と。 中国横断自動車道成る 3月22日、松江市と尾道市を結ぶ中国横断自動車道(中国やまなみ街道)が全通した。 宍道湖一周駅伝 4月5日、松江市営競技場を発着する宍道湖一周駅伝競走があった。今回は70回記念。 県知事選挙 4月13日、島根県知事選は溝口善兵衛氏が3選を果たした。氏は益田市の出身。 シジミ日本一に 5月1日、シジミ漁獲量が、26年度は宍道湖が日本一に帰り咲いた。青森県の十三湖 に明け渡していた首位の座を4年ぶりに奪還した。シジミがちだった漁師の表情も明るい。 松江城国宝指定に 5月15日、松江市は、堀尾吉晴が築いた松江城の国宝指定を度々陳情してきたが、完 成年度を特定する資料が不十分だった。最近、完成時を記載した祈梼札2枚が発見され、 国宝に漕ぎつけた。 魅惑のボタン鑑賞 5月16日、松江市八束町の大根島特産のボタン300種。1200本が見頃だ。おか みさんは苗の行商で全国を回り、旦那が家を守っている。おかみは販売のプロとして、大 学のセミナーで講演した事がある。 松江よいとこ 6月4日、「日本創生会議」は、東京圏の75歳以上の高齢者が、今後急増するとして、 医療、介護の施設や人材に余裕がある、松江や米子への移住を提言。住みよい街、ベスト テンで松江市は1位となっている。 月照寺のアジサイ 6月20日、「山陰のあじさい寺」として有名な、外中原町の月照寺は松平藩9代の城主 の墓がある。小泉八雲の話に出てくる、よなよな池の水を飲みに出る大亀の石像は、大石 を背負わされている。折からの雨で、涙が出ている様。「辛いだろう」と言うと、「かめ へん」。 -68- 篆刻展開催 7月17日、篆書体の漢字を主に石の印材に彫る篆刻の作品を集めた「第36回島根 篆刻展」が、中電ホールで始まった。3日間の日程。事務局長の清水利美君はマスコミ 関係の応対に忙し。 天神夏祭り 7月24日、白潟天満宮の夏祭りに、6台のお神輿が、松江城馬溜から.天満宮まで運 ばれた。おみこし1台は女性専用。昔は輿に乗ったものだが、今は引いている。 松江水郷祭 8月2日、松江水郷祭は、松江尾道線開通、松江城の国宝指定で県外からも多数観客 が訪れた。約30万人の人出、花火は1万3千発上がり、宍道湖上は華やかな花が咲いた。 錦織ワシントンで初優勝 8月9日、男子テニスの錦織圭が、米ワシントンで行われたシティ・オープンのシン グルスで初優勝。世論調査で、最も好きなスポーツ選手で1位になっている。市内乃木 町の出身で、天神町の画材「柳屋」は親戚で、同店の店先には、錦織のグッズが置かれ ている。 故永井博士の誕生医院 8月21日、長崎で被爆しながら負傷者の救護に尽力した、故永井博士が生まれた田 野医院(松江市芋町)がある。松江市はこの医院の活用策を検討している。 大口町と姉妹都市 8月29日、松江城を築き、「松江開府の祖」と称される戦国の武将、堀尾吉晴。そ の生誕地愛知県大口町と松江市が、松江城国宝化を契機に、姉妹都市提携を結んだ。 「松江水燈路」始まる 10月1日、城下町を行灯で照らす「松江水燈路」が1日夜、松江城二の丸で始まっ た。市民の手作り行灯に、神話をテーまに描かれた高さ2mのびょうぶ行灯などに淡い オレンジ色の明かりがともる。土、日、祭日の夜は塩見縄手にも行灯を設置し1,500個を 点灯する。月末まで行われる。 松江城茶会開く 10月3日、日本三大茶会の一つ「松江城大茶会」が3日、城山公園など4会場で開 幕。今年は松江城国宝指定を記念し、来場者約7千人をもてなした。11流派が参加し た。 小泉八雲顕彰イベント 10月9日、松江ゆかりの文豪・小泉八雲が幼少期を過ごしたアイルランドの首都、 ダブリンで、顕彰イベントが始まった。ひ孫の小泉凡さんらが八雲作品の朗読などを 行った。 鼕行列100周年 10月18日、「松江鼕行列」が松江市内であった。 今年は100周年の節目で、 19町内、2団体、1小学校の計2,900人が参加。22台の鼕を引き、松江城大手前から 天神町の天満宮に向けて、力強い音を響かせた。担い手が不足して、女性が多く鼕を叩 いた。 ----------------------------------------------------------------------------編集室より 松江っ子さんはペンネームです。誰だかわかりますか?答えは72頁にあります。 -69- 国宝松江城はかくして残った 中沼 尚 松江城 平成27年7月8日松江城は国宝に指定された。松江城は慶長5年関ヶ原の戦いの後 堀尾吉晴が築いた城で重箱造りの二重櫓に3階建ての櫓を載せた外観四重内部五階で、 下見板張りで桃山文化様式の城である。地下に井戸をもつなど数々の特徴ある構造物で ありながら築城の詳細が定かでなかったことで国宝指定が見送られてきた。最近築城日 時を示す祈祷札が発見され国宝に指定されたのは嬉しい限りである。 松江城の歴史をみるとあやうく取り壊されるところだった。平成十三年山陰中央新報 に次のような記事があった。 「築城当時十一もあった櫓がなぜなくなってしまったのか。明治時代になると、多く の城は維持費が重荷になり、無用のぜい物として廃城するものが出た。旧松江藩主松平 定安も明治四年に廃城を申請し許可を得ていた。明治八年十月、廣島鎮台から斎藤大尉 が来て松江城を焼却するため入札にかけたところ、天守閣が百八十円、十一の櫓は四円 八十銭で石橋の人が落札した。百八十円は釘と鉄代であった。 これを聞いた雑賀町の 足軽高城権八は、この貴重な天守閣を焼却することを残念に思い、現斐川町の豪農で事 業家の勝部本右衛門と協議し、百八十円は自分らで負担するから天守閣だけは残してほ しいと陳情したので残った。」 この二人のお陰で今美しい千鳥城を見ることができることを忘れてはいけない。 -70- -71- 訂正とお詫び 太田陽治 一双会たより第15号の「浜風・流水落花 Ⅶ」の二本先生の記事に関して ご遺族より事実と相違しているとの指摘をいただきました。従って25頁書き 出しから8行目迄、27頁下から8行~6行目迄、28頁下から11行~5行 目迄を削除させていただきました。 先生のご子息によれば、先生は中国で終戦を迎えて帰国し、安来市で中学校 の教員、校長、また寺院の住職として働き、多くの若者の教育に従事され93 歳で天寿を全うされたとのことです。 ご遺族や関係者にご迷惑をおかけしたことを謹んでお詫び申し上げます。 編集後記 一双会たより編集室 中沼 尚 今日ここに一双会たよりの第18号をお届けします。昨年は赤山を出てか ら65年、戦後70年と記念すべき年でした。リニューアルされた東京ステー ションホテルで一双会東京大会が開かれ昔話に花が咲きました。永き平和と長 寿に感謝するとともに森本暉君創設の一双会が一層の絆の深まりとなってきた ことをとても嬉しく思います。 今後とも力の続く限り皆さまに喜んでいただける「一双会たより」を作って 行きたいと思っていますので、多くの方に投稿を第19号に寄せていただくよ う重ねてお願いいたします。その他お気付きの点や、改良すべきことがありま したら下記の編集室までご連絡ください。 〒224-0061 横浜市都筑区大丸10-8-304中沼尚気付 一双会たより編集室 Tel & Fax 045-347-5046 E-mail issoukai@email.plala.or.jp 表紙の写真 松江中学の文芸誌「しろたま」に掲載された古野先生の版画代表作「ユネ スコ会館からの宍道湖を望む」で心癒される絵です。 松江っ子さん(P.68)は 中藤俊雄君 です。 発行 平成28年1月 一双会事務局 〒215-0018 神奈川県川崎市麻生区王禅寺東1-31-12 一双会会長 長谷川威 -72-
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