アフガニスタンにおける DDR の特色 ―国連 PKO 事例との比較検討― 山根達郎(広島大学大学院国際協力研究科連携融合事業研究員) yamane@hiroshima-u.ac.jp *本研究報告書に記載されたすべての内容を、広島大学連携融合事業の許可無く転載・複 写することを禁ずる。 Characterizing Disarmament, Demobilization, and Reintegration (DDR) in Afghanistan: Comparative Analysis with Cases of the United Nations Peacekeeping Operations Tatsuo Yamane (Research Fellow, HIPEC, Hiroshima University) Abstract This paper focuses on the process of disarmament, demobilization, and reintegration (DDR) of ex-combatants in Afghanistan comparative with the cases of DDR by the United Nations peacekeeping operations (UNPKO). After Bonn Agreement in 2001, DDR issues prioritized as a pillar of Security Sector Reform (SSR) in Afghanistan related to the peacebuilding operations by international community. On the other hand, a main concept of DDR emerged from the excises of UNPKO driven from necessity of peacebuilding against post-conflict areas with the nature of civil war from 1990’. In this connection, Afghanistan DDR also should be analyzed in the spectrum of comparison with the experiences of DDR by UNPKO, so that the paper provides some critical features regarding Afghanistan DDR with the comparison. The paper also summarizes the DDR process through UNPKO comprehensively. © The Copyright of this Research Report belongs to HIPEC. はじめに―問題の所在― 米国主導による「テロとの戦い」に対する帰結として、その現場のひとつとなったアフ ガニスタンでは、2001 年にボン合意が締結された。これを受けて国際社会の支援を通じた 同国における治安部門改革(Security Sector Reform: SSR)が始動し、同改革の一部を構成 する「DDR」1は紛争後の平和構築にとって不可欠な作業として位置づけられた。これは、 紛争後社会の平和構築を進めるためには、DDR はその一手段として極めて重要な要素であ るという認識が、既に国際社会の間で共有されていたことを背景としている。 アフガニスタンでも注目されたように、今や「DDR」という呼び方で定着するようにま でになったこれまでの経緯を振り返れば、実は、DDR 活動をマンデートとしてもつ国連平 和維持活動(以下、国連 PKO)の研究に目を向ける必要がある。筆者は、これまで、DDR のマンデートを有した国連 PKO の派遣対象国を中心に事例研究を進めてきた。一方で、国 連 PKO が展開しなかったアフガニスタンにおける DDR 事例を本稿で取り上げることで、 DDR に関する比較検討を行うことは、手段の多様化と実践上の多義化が進む DDR を研究 する上で極めて重要である。したがって、本稿では、これまで国連 PKO を通じて積み重ね られてきた DDR 活動の特色を一方に置き、他方で「アフガニスタンの DDR」を見ること で、可能な限り両者の特色を比較し、アフガニスタン DDR の意義と問題点について検討 する。 本稿の構成としては、次のような 2 節としたい。第 1 節では、国連 PKO のマンデートに 挿入されるようになったこれまでの「DDR」の概念整理をした上で、Mats Berdal による先 行研究を手がかりとしつつ、国連 PKO 事例としての DDR の基本的性格を明確にしたい。 第 2 節では、アフガニスタンの DDR 事例を概観し、特に DDR を実施するために重要な要 素としての和平合意に着目し、アフガニスタン事例と国連 PKO 事例とを交互に比較しつつ 検討を加えたい。なお、国連 PKO では、1999 年に派遣決定を受けたシエラレオネの事例 から、リベリア、ハイチ、ブルンジ、スーダンなど、多くの内戦国に対するマンデートに DDR を盛り込んできており、合わせてこれらの様相を確認することの意義は大きい。 第1節 1-1 国連 PKO 事例における「DDR」の要請 DDR の概念整理―その形成と発展― DDR が紛争後地域における不可欠な平和活動であるという国際社会の認識は、1990 年 1 DDR とは、Disarmament, Demobilization, and Reintegration の頭文字をとった略であり、元戦闘 員に対する武装解除(disarmament)、動員解除(demobilization)、再統合(reintegration)のこと を指す。 代後半頃から次第に高まっていった。その背景には、冷戦終結以降に顕在化した脆弱国家 における内戦への対応の難しさがあった。政治的背景をもつ複数の武装組織がパワーを基 調とする複雑な分布図に従って、しかも時系列でその構図も変化するという脆弱国家に見 られる紛争事例では、仮に紛争当事者間で和平合意が結ばれたとしても、依然として、武 装組織による武装解除の拒絶、小型武器の蔓延といった理由から治安が改善せずに紛争の 再発を避けられないことが多い。これに対し、DDR という手法の開発は、それでも内戦終 結後の事態収拾のために平和維持を主要な目的として派遣される国連 PKO への期待値が 上昇させ、ひとつの解決策として国連内で模索された結果であった。 1999 年 7 月 8 日、国連安全保障理事会(以下、国連安保理)は、国際の平和と安全に関 わる新たな課題として、「DDR」を初めて議題の中心に置いた2。それは、国連安保理公開 会合という形式で多くの加盟国が参加をする中で行われた。その際「紛争後の平和構築及 び平和と安全と維持」という議題ではあったものの、DDR が主役となる内容の国連安保理 議長声明が発表された3。2000 年 2 月には、国連事務総長報告書『DDR における国連平和 維持の役割』4が国連安保理に提出されたことを受け、国連安保理内において DDR の重要 性に対する認識が一層高まると、以降、国内紛争に対する国連 PKO 派遣決議のマンデート の中に DDR が組み込まれるのが当然のようになった。その後、国連 PKO を通じた DDR の内容が、少なくともマンデートの中身において充実していくにつれ、一部の事例では 「DDRR(DDR+帰還[repatriation])」とも提唱されるなど、今や DDR といえば国連 PKO に限定されないことからも明らかなように、その概念は定着し、かつ発展を遂げてきてい る。 2000 年の同報告書によれば、(国連 PKO の環境下における)DDR とは、①武装解除、 すなわち紛争地域における「小型武器(small arms)」、「軽兵器(light weapons)」、「重兵器 (heavy weapons)」の回収および廃棄、②動員解除、すなわち紛争当事者による軍事組織 解体の開始、および元戦闘員が市民生活へ移行するプロセス、③再統合、すなわち経済的、 社会的に生産的な市民生活を元戦闘員とその家族に提供するプロセス――の包括的アプロ ーチのことを指している5。 DDR の目的は、元戦闘員から武器を回収しつつ、軍事組織を解体し、これらの元戦闘員 を社会に再統合するプロセスを提供することであり、全体の和平プロセスからいえば、軍 事組織とその元戦闘員が再び武力を行使する不安定要因をなくすことである。こうした目 的の達成のために、同報告書にも示されている「DDR の包括的なアプローチ」が必要とな 2 堂之脇光朗「小型武器問題と日本の対応」木村汎編『国際危機学―危機管理と予防外交』世 界思想社、2002 年、314 頁参照。DDR の問題は、1990 年代より国連を中心に注目を集めつつ あった小型武器問題と密接な関連を持ち、紛争後地域における小型武器問題を解決するために、 国連 PKO として不可欠な手段として、DDR をマンデートに盛り込む動きが生じた。 3 UN Doc. S/PRST/1999/21 4 UN Doc. S/2000/101. 5 Ibid., para.6. ってくる。なぜならそれは、元戦闘員が武装解除および動員解除を受け入れる条件として、 除隊すると同時に政治的、経済的、社会的に安定した希望のある市民生活を送れる保証が 不可欠だからである。このような環境が確保されないならば、武装集団のメンバーは、戦 闘を止めようという気にはなれないであろう。早晩、治安悪化が激しさを増し社会不安が 高まる中、過剰に氾濫する小型武器を使用した突発的な武力衝突や、正規軍や非正規軍に よる戦闘再開を招きかねない。 DDR の対象は元戦闘員であることには疑いはないが、それぞれの元戦闘員の所属がどこ にあるかは必ずしも明確ではない。2000 年の DDR 国連事務総長報告書によれば、 「紛争当 事者の軍事組織(military structure)の解体」と定義されているほかに、児童戦闘員の文脈 では「『軍隊(armed forces)』に再編入されないようにすべき」、また新国軍の創設の文脈 では「新たに統合された『軍隊(military force)』」6としている。 「軍事組織」という表記は、 正規軍や非正規軍といった区分の何れにも当てはまるし、あるいは破綻国家のような地域 で正規・非正規と分けられない場合にも使用が可能である。しかし、組織がどの程度の規 模であるかを含め、DDR の対象としての軍事組織の定義は広く、その具体的認識のために は事例ごとで扱う DDR によって異なるということになろう。後述するが、紛争後地域で の実践では、DDR の対象としての軍事組織の選定は、その政治プロセスに大きく関わって いる。 DDR の実践の上で厳密な定義が必ずしも深く議論されてこなかった時期ではあるが、国 連で提起された DDR に対するひとつの考え方は、2000 年の「ブラヒミ報告書」で再確認 され、2000 年の「九州・沖縄 G8 サミット」や、2002 年の「カナナスキス G8 サミット」 でも中心的議題として取り上げられるなど、DDR が紛争後地域への対応として国際社会の 注目すべき不可欠な要素であるというコンセンサスはかつてないほどに強固なものになっ た。こうした動きは、DDR が国連だけの専権事項ではなくなるような広がりを見せる。 DDR は、もはや国連 PKO によるオペレーションだけではない。西アフリカ経済共同体停 戦監視団(ECOMOG)やアフリカ連合(AU)平和維持軍といった地域機関独自の平和維 持ミッションに加え、国連関連では、国連平和構築ミッション、国連開発計画(UNDP)、 国連児童基金(UNICEF)、国連移住計画(IOM)、世界銀行、さらには、各国ドナー、紛 争当事者、NGO に至るまで、様々な実施主体が挙げられる点についても確認しておく必要 があろう。 1-2 DDR に関する課題―Mats Berdal による論考を手がかりとして― 国連 PKO 事例における DDR の実践は多様であり、これに対し DDR に関するいくつか の論考もあるが、まとまった研究としては、Mats Berdal による論文『内戦後の武装解除と 6 Ibid., para.6 and 12. 動員解除』(1996 年)が先行している7。同論文は、今日国際社会が DDR と呼ぶようにな ったこの用語を、当時のカンボジア、ソマリア、モザンビーク、アンゴラなどの事例から つむぎ出し、かつ分析対象とした先駆的な研究であった(ただし、DDR の用語が国連 PKO のマンデートとして明示されたのは、1999 年のシエラレオネの事例からである。)。 Berdal は、その結論部において、 「予備計画や外部支援を必要とする一連の DDR 活動は、 そのすべてが激しく政治的なプロセスを踏み、紛争の根本原因を解決(あるいは軽減)す るための政治的経済的復興の平行した努力に依存している」8と示している。この結論を裏 返せば、Berdal は DDR 自体が独立した効果を目指すには限界があるという認識に立って いることがわかる。 DDR は政治的プロセスと密接に関連するという Berdal は、 「DDR は、全体的な政治的合 意の一部」、「これらの対策は、紛争における決定的勝利を収めた正統政府あるいは反乱軍 によって着手されるべき」9と主張する。DDR は紛争当事者間で結ばれる和平合意を得た 上で、紛争の勝者に決定的に有利な社会構造を築く DDR の本質を見抜いている。他方、 Berdal は「権力の中枢機関が戦争の解決に向けてまとまりがない場合、および、国内に広 がる治安の悪化が続く場合には、各軍閥を武装解除するための強制的行動が必要」10であ るとの見解も加えている。国連による平和強制の考え方にかげりが差すと同時に「強い平 和維持」(robust peacekeeping)の概念の導入が叫ばれていた当時としては、正統性を得た 介入による強制行動の必要性の名残と淡い期待が混じっていた。そうした時代背景を考え ると、Berdal の主張は、DDR そのものに係る強制行動というよりも、平和強制としての多 国籍軍のあり方に目配りをしたものとも捉えられる。 また、Berdal は、その政治性に限らず、新秩序を担保する新国軍および新警察の再編、 外部支援とその調整のあり方、動員解除および再統合の資金調達などについても DDR の 検討課題であるとし、DDR の包括性と、これに対する支援分野の広さについても考察を加 えている。 最終的に Berdal は、その具体的な提言として 8 点を挙げており、これらを本稿の筆者な 7 Mats R. Berdal, ‘Disarmament and Demobilization after Civil Wars’, Adelphi Paper, No.303, 1996. (この他、DDR に関する研究としては、英文では、IPA Workshop Report, “A Framework for Lasting Disarmament, Demobilization, and Reintegration of Former Combatants in Crisis Situation,” IPA-UNDP Workshop, 12-13 December 2002, German House, New York, Kees Kingma, ‘Post-war Demobilization, Reintegration and Peace-building,’ Herbert Wulf (Ed.), Disarmament and Conflict Prevention in Development Cooperation, Bonn International Center for Conversion (BICC), Report 14, February 2000, Toki Hinako, ‘Peace-building and the Process of Disarmament, Demobilization, and Reintegration: the Experiences of Mozambique and Sierra Leone’, Institute for International Cooperation (JICA), March 2004.などが、和文では、伊勢崎賢治『武装解除―紛争屋が見た世界』 講談社現代新書、2004 年、星野俊也「平和構築と DDR」黒澤満編『大量破壊兵器の軍縮論』 信山社、2004 年、327―351 頁、拙稿「武力紛争と小型武器問題―DDR 支援を中心に―」日本 国際問題研究所編『紛争予防(平成 14 年度外務省委託研究)』日本国際問題研究所、2003 年 3 月、63−75 頁、などがある。) 8 Ibid., p.5. 9 Ibid., p.5. 10 Ibid., p.5. りに要約すると、①DDR の非強制性、②和平合意の形成と DDR との関連、③継続性のあ る DDR のデザイン、④国際機関、NGO、ドナー国による DDR における効果的関与の増大、 ⑤SSR の重要性、⑥DDR 支援と社会経済的インパクトの考慮、⑦コミュニティー開発と DDR との関連、⑧R(再統合)と地雷対策との連携、となる11。提言②にあるように、DDR は、和平合意の内容に組み込むことが重要であり、和平合意の遵守に対する紛争当事者の 自発性は、提言①にある「DDR の非強制性」と重なってくる。提言③および④にあるよう に、DDR の成功には、その包括性をプログラムの中で具体的にデザインし、かつ様々なア クターによる効果的関与が必要であるべきかが問われることになる。こうした点は、DDR の概念をいかに忠実に実践できるかといった「実施能力」に関わるが、一方でその限界と 問題点についても率直に議論が行われるべきであろう。また、DDR は、治安の安定化の条 件下で機能することから、提言⑤の「SSR の重要性」とこれへの期待は減じられることは ない。現にアフガニスタンにおける DDR は、SSR の一環であり、かつ SSR の中核として の役割が期待された。さらに、提言⑥、⑦、⑧については、DDR の実施にあたって経済社 会開発の分野との連動がいかに大切であるかを如実に示している。特に、長期的な R の性 質については、どこまで経済社会開発で元戦闘員の社会復帰を特別にカバーしていくかは、 しばしば大きな問題となる。 このように、Berdal の提言を手がかりとすれば、DDR を考察するための視点として、和 平合意、治安の安定化、経済社会開発が少なくとも挙げられる。これらに加え DDR の分 析には、関連してガバナンス制度のあり方についても考察しなくてはならないであろう。 その理由としては、Berdal も指摘していたように、DDR とは紛争後の国家建設にかかわる 政治的プロセスと密接に連関しており、民主化を通じ構築されうる国家のガバナンス制度 は、合法的な立場で DDR の対象となる紛争当事者の手に委ねられることが通例だからで ある。ただし、ガバナンスを論じる際には、国家に焦点を当てたナショナルな側面だけで はなく、例えばグローバル・ガバナンスや、ローカル・ガバナンスといった側面について も意識しておく必要があろう12。なぜなら、DDR を実施するための国際社会のインセンテ ィブとして、米国同時多発テロの起きた「9/11」以後の世界情勢をみる限り、グローバル なレベルでは新しい脅威としてのテロの認識――それは、米国を中心とする介入主義が主 要なグローバル・ガバナンスのあり方を規定する――があったからである。また、ローカ ルな視点においても、DDR の対象者達は、自らが住むことになる村や町、職場あるいは家 族といったコミュニティーへの再統合あるいは社会復帰が期待されているという意味にお いて、重要である。 本稿では、Berdal による研究を手がかりとしたこれらの視点を踏まえ、特に DDR の前 11 Ibid, pp.74-77. 例えば最近の著作としては、総合研究開発機構(NIRA) ・横田洋三・久保文明・大芝亮編『グ ローバル・ガバナンス:「新たな脅威」と国連・アメリカ』日本経済評論社、2006 年、が詳し い。 12 提として重要な和平合意を中心に着目しつつ、国連 PKO 事例とアフガニスタン事例とを比 較検討したい。 1-3 国連 PKO 事例における DDR の基本的性格 国連が発足して以来 60 年の節目にあたる 2005 年に至るまで、60 例の国連 PKO が設置 されているが、筆者の調査によれば、すべての国連 PKO の事例中、「武装解除」に関する マンデートが付与された国連 PKO は 21 例であった。また、武装解除だけでなく、 「DDR」 をマンデートに明記した国連 PKO は、国連タジキスタン監視団(UNMOT)、国連シエラ レオネ・ミッション(UNAMSIL)、国連コンゴ民主共和国ミッション(MONUC) (停戦協 定に基づいて DDRR と称し、再定住 [Resettlement]を追加)、国連リベリア・ミッション (UNMIL) 、 国 連 コ ー ト ジ ボ ワ ー ル ・ 活 動 (UNOCI )、 国 連 ハ イ チ 安 定 化 ミ ッ シ ョ ン (MINUSTAH)、国連ブルンジ活動(ONUB)、および国連スーダン・ミッション(UNMIS) の 8 例であった。 また、マンデートではないが、MONUC 派遣に関連する安保理決議の文言には、DDR の役 割を具体化した「DDRRR」の重要性を明記したものも出てきた13。DDRRR とは、通常の DDR に、帰還(repatriation)、再定住(resettlement)を加えたものを示している。これは、 MONUC が展開されているコンゴ(民)の事例では、ルワンダ、ウガンダ、ブルンジ、ジ ンバブエなど周辺諸国からの外国部隊も同国国内に駐留して戦闘に加担している事実を受 けて、元戦闘員の周辺国への帰還、再定住を含めた対応が必要となっているためである。 表 1.武装解除(ないし DDR)をマンデートに含めた国連 PKO 一覧(2005 年末時点)14 国連 PKO 名 派遣期間 武装解除(ないし DDR)をマン 設置決議 デートに含めた決議 1. 国 連 中 米 監 視 団 1989-1992 SCR644 (1989.11.7) SCR650 (1990.3.27) (ONUCA) 2.国連エルサルバドル監 1991-1995 視団 SCR653 (1990.4.20) SCR693 (1991.5.20) SCR729 (1992.1.14) (ONUSAL) 3.国連モザンビーク活動 1992-1995 SCR797 (ONUMOZ) (1992.12.16) 4.国連カンボジア暫定統 1992-1993 SCR745 治機構 14 (1992.2.28) SCR745(1992.2.28) SCR766 (1992.7.21) (UNTAC) 5.第 2 次国連ソマリア活 1993-1995 13 SCR797 (1992.12.16) SCR814(Ch.7) UN Doc.S/RES/1355, S/RES/1376, S/RES/1417, S/RES/1445. (出所)筆者作成。 SCR814 (Ch.7) 動(UNOSOM II) (1993.3.26) (1993.3.26) 6. 国 連 リ ベ リ ア 監 視 団 1993-1997 SCR866 SCR866(1993.9.22) (UNOMIL) (1993.9.22) SCR1020 (1995.11.10) 7.国連タジキスタン監視 1994-2000 SCR968 SCR1138 団(UNMOT) (1994.12.16) 8.第 3 次国連アンゴラ検 1995-1997 SCR976 (1997.11.14) (1995.2.8) (DDR) SCR976 (1995.2.8) 証団(UNAVEM III) 9.国連東スラボニア、バ 1996-1998 SCR1037 (Ch.7) SCR1037 (Ch.7) ラニャおよび西スレム (1996.1.16) (1996.1.15) SCR1094 SCR1094 (1997.1.20) 暫定統治機構(UNTAES) 10. 国連グアテマラ検証 1997 ミッション(MINUGUA) (1997.1.20) 11.国連アンゴラ監視団 1997-1999 SCR1118 (MONUA) (1997.6.30) 12.国連中央アフリカ共 1998-2000 SCR1159 SCR1159 (1998.3.27) 和国監視団(MINURCA) (1998.3.27) SCR1230 (1999.2.26) 13.国連シエラレオネ監 1998-1999 SCR1181 SCR1181 (1998.7.13) 視 (1998.7.13) ミ ッ シ ョ ン SCR1118 (1997.6.30) (UNOMSIL) 14.国連シエラレオネ・ミ 1999-2005 SCR1270 SCR1270 ッション (1999.10.22) (1999.10.22) (DDR) (UNAMSIL) SCR1289 (Ch.7) (2000.2.7) (DDR) 15.国連コンゴ民主共和 1999- SCR1279 SCR1291 (Ch.7) 国ミッション(MONUC) (1999.11.30) (2000.2.24) 活動中 (DDR) SCR1565 (Ch.7) (2004.10.1) 16.国連リベリア・ミッシ 2003- SCR1509 ョン (UNMIL) (2003.9.19) 活動中 17.国連コートジボワー 2003-2004 SCR1479 ル ・ ミ ッ シ ョ ン (2003.5.13) (MINUCI) (DDR) (Ch.7) SCR1509 (Ch.7) (2003.9.19) (DDRR) (Ch.7) SCR1479 (Ch.7) (2003.5.13) 18.国連コートジボワー 2004- SCR1528 ル活動(UNOCI) (2004.2.27) 活動中 (Ch.7) SCR1528 (Ch.7) (2004.2.27) (DDRR) 19.国連ハイチ安定化ミ 2004- SCR1542 ッション(MINUSTAH) 活動中 (2004.4.30) 20. 国 連 ブ ル ン ジ 活 動 2004- SCR1545 (ONUB) (2004.5.21) (2004.5.21) 21.国連スーダン・ミッシ 2005- SCR1590 (Ch.7) SCR1590 (Ch.7) ョン(UNMIS) (2005.3.24) (2005.3.24) (DDR) 活動中 活動中 (Ch.7) SCR1542 (Ch.7) (2004.4.30) (DDR) (Ch.7) SCR1545 (Ch.7) (DDR) *表中記号「SCR」は国連安保理決議のことを示し、 「Ch.7」は国連憲章第 7 章下の決議で あったことを意味する。 *武装解除だけではなく、マンデートに DDR と明記されたものには、表中に DDR を付し た。「DDRR」は、DDR に「帰還(repatriation)」を加えたマンデートを指す。 表 1.示したすべての事例を概観し、その特色を網羅することは紙幅の関係上困難であ り、本稿ではその詳細を示すのは避けることにするが、ここではアフガニスタンにおける DDR 事例の特色を見ることを前提として、まずは国連 PKO における DDR の基本的な 2 つの性格を示してみる15。 第 1 の基本的性格は、国連 PKO による DDR は同意/不偏/軽武装といった国連 PKO の基本的ガイドラインに沿い、かつ国連安保理が認めたマンデートの範囲内で執り行われ るという、概念上の事実である。第 2 には、国連 PKO といった軍事的な形態によって、伝 統的任務である停戦監視を行いつつ、DDR を包括的に支援し、特に DD の部分の業務に関 しては軍事要員の知見を活かした任務を完遂するようにプログラムされている点である。 そもそも、伝統的な国連 PKO は、その構成要素としていた「軍事監視団(military observers)」の任務に、停戦監視として紛争当事者の部隊の撤退、非武装地帯の巡回に加え、 「武装解除の監視」を含んでいた16。その意味で、和平合意に基づいた紛争当事者間の武 装解除を監視することは、平和維持の機能に含まれていたと言えよう。そうした武装解除 の監視業務について、前述した DDR に関する国連事務総長報告書は、PKO 原則を持つ伝 統的な国連 PKO にできることを次のようにまとめている。それは、①信頼醸成、②治安上 の意義、③モメンタムの維持、④専門家とのチャンネル、の 4 点である17。 ここで言う「信頼醸成」とは、不偏の原則に基づいて、国連 PKO 要員は、紛争当事者間 の信頼を得つつ、武装解除を促進することができるという指摘である。 「治安上の意義」と 15 筆者は、自らの博士学位取得論文『国際平和活動における DDR――平和維持と平和構築と の複合的連動に向けて――』大阪大学、2005 年、の中で 2005 年までの国連 PKO 対象国におけ る DDR に関する全ての事例研究を試みた。 16 神余隆博『新国連論−国際平和のための国連と日本の役割』大阪大学出版会、1995 年、137 頁。 17 UN Doc., op.cit., in note.4, paras.30-34. は、国連 PKO は、武装解除の集会所や地雷除去の現場において、集まった元戦闘員の安全 確保を可能にするというものである。同報告書は「モメンタムの維持」について、DDR プ ロセスを前進させるために必要な「政治的モメンタム」を、和平合意の交渉段階から関わ ってきた国連 PKO は既にもっていると説明する。最後の「専門家とのチャンネル」は、国 連 PKO が武器の回収や廃棄に関して専門的知識を要しており、また元戦闘員を武装解除の 集会所に移送するために適切なロジスティクス手段もあることを指している。 また、同報告書は、国連 PKO は動員解除の実施のサポートの際にも有効であるとしてい る。すなわち、動員解除とは、軍事組織が和平合意に従って自らのパワーを減じる作業で もあることから、国連 PKO は、今まさに動員解除をしようとする紛争当事者間の信頼を得 て、モニタリングや査察、記録維持、治安確保を通じて動員解除を促進することができる という見方である18。 このように、DD の部分は、国連 PKO の任務として親和性の高い業務である。ここで際 立つ平和維持の特徴は、治安を維持し、秩序を安定化することであり、武装解除や動員解 除プログラムの実施における基盤を支えていると捉えられる。 他方、R の部分についてはどうであろう。1999 年のシエラレオネでの事例以降、アフリ カ地域を中心に、内戦終結後に派遣された国連 PKO はすべて DDR をマンデートに託され ている。一体的なプログラムとして理念化された DDR は、その具体化されつつあるマン デートの中で、国連 PKO のミッションのもとで「支援」されるとよく記述される。実際、 国連安保理の指示を受けた国連 PKO 局は、ミッションの派遣対象地域における DDR の進 め方に関する計画立案およびアクター間の調整役を担っており、そうした意味で国連 PKO は包括的な DDR 活動の全体に関わっているといえる。 しかしながら、実際のところ、国連 PKO の実施からみて比較的多額の資金を必要とする DDR プログラムは、変動的な国連 PKO 予算の額を吊り上げることになりかねないとのド ナー国側の懸念もあり、2004 年までは国連 PKO 予算に組み込まれてこなかった19。したが って、R の部分の資金と実質的な活動については、Berdal の指摘もあったように、ドナー 国による国連自発的拠出金や、国際機関、NGO によるところが大きかった。そのため、国 連 PKO にとっては、R の部分の実施については、原則、計画立案を行いつつ、支援すると いうスタンスで行われてきており、この点は第 3 の基本的性格であるとも言えよう。 本節での国連 PKO における DDR についての説明は、以上に示した基本的性格の程度に 収め、事例に踏み込んだ具体的な特徴は、次節においてアフガニスタン DDR の特色を際 立たせるために合わせて説明することにする。 18 UN Doc., op.cit., in note.4, para.62. 国連 PKO 局関係者に対する筆者によるインタビュー、在ニューヨーク国連事務局、2006 年 1 月 27 日。 19 第2節 DDR の比較検討―和平合意の要素を中心に― 2-1 アフガニスタンにおける DDR の概要 2001 年 12 月、北部同盟に属していた各武装組織と、同国の和平プロセスに対する支援 国の署名を得て「ボン合意」が結ばれた。それまでの紛争に終止符を打つこととその後の 国家建設のためのあらすじを示した同合意を前提として、DDR を含めたアフガニスタン国 内の動きと国際社会の対応が始まった。具体的には、G8 各国がアフガニスタン国内の治安 部門改革(Security Sector Reform: SSR)の各分野を主導国が分担(新国軍創設 [米国]、DDR [日本と UNAMA]、警察再建 [ドイツ]、麻薬対策 [英国]、司法改革 [イタリア])すること で、国際的な DDR アジェンダが設定され、かつ、これに対応した国内組織の設置(国防 省およびアフガニスタン新生計画 [Afghanistan’s New Beginnings Programme: ANBP])が決 まった。さらに、大統領令に基づく DDR に関する委員会(2003 年 1 月、ANBP の一部と しての武装解除委員会、動員解除・再統合委員会のほか、士官徴募委員会、兵士徴募委員 会の関連 4 委員会)が、DDR の推進に向けた機能を備えた組織として期待された。一方、 アフガニスタンにおける DDR の主要な目的である新国軍の再編問題に関しては、2003 年 9 月、 「国防省改革案」20の提示と共に、SSR の枠組みで米が中心となって実施に移された21。 こうした枠組みが始動し、かつ DDR に取り組む様々なアクターが支援していく中で、 2005 年 6 月には旧北部同盟を対象とした「DD」の部分を終え22、2006 年 6 月までには対 象としている「R」の部分を完了する予定でいる。他方、ANBP による DDR プロジェクト の対象外とされてきた「非合法武装グループの動員解除」(Disbandment of Illegal Armed Groups: DIAG)対策の検討も進められており、2005 年 12 月には、そのためのプロジェク ト資金として、スイスから 150 万ドルの拠出を受けたと UNDP は発表している23。 このように、今回のアフガニスタンの事例には国連 PKO は派遣されてはおらず、したが って同国における DDR は、それ以外の平和活動に支えられて実施に移された。本項では、 その相違に着目しつつ、アフガニスタン DDR の特色を改めて見出す作業を行う。 2-2 20 ボン合意における DDR の性格 進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢―外交官の見た平和の真実』朱鳥社、2004 年、166 頁によれば、タジク系のファヒム国防相(当時)によるタジク人の偏重した登用に対する批判 が背景にあったという。 21 駒野欽一『私のアフガニスタン駐アフガン大使の復興支援奮闘記』明石書店、2005 年、104 −108 頁に詳しい。 22 2005 年 11 月 25 日付きの ANBP の報告によれば、武装解除 63,380 名、動員解除 62,044 名、 再統合 60,646 名、武器回収 36,571 個(重火器 11,044 個を含む)が、これまでの実績として発 表されている。ANDP, ANBP Weekly Report (25 November 2005), <http://www.undpanbp.org>. 23 http://www.undp.org.af/media_room/press_rel/2005_12_07_SDC_contribution.htm UNDP, Afghanistan. 内戦における和平合意は、国内を中心とした紛争当事者間の紛争終結を意味すると同時 に、その後の国家建設のあり方を方向付ける平和構築のための大きな布石となる。それは、 例えば東チモールのように独立国家を生み出す場合もあれば、アチェのように地方自治の 強化が規定される場合もある。あるいはスリランカのように民族自決に則った連邦制が和 平合意の争点になる場合もあるだろう。いずれにせよ、内戦後の和平合意はそれまでの国 内秩序に対し変容をもたらし、戦後社会を規定する出発点となる。 和平合意と同時に、あるいはその事前に、停戦が行われるのが通常であるが、合意に至 った武力紛争の当事者は、停戦ラインから兵力を引き、段階的武装解除をとり進める。DDR は、合意を遵守する政治的意思と、その実効性を高めるための国際社会の働きかけによっ て担保される平和活動のひとつである。特に、平和維持から平和構築へのフェーズにまた がる多様な任務を兼ねるようになった昨今の国連 PKO は、和平合意の内容と連動して、そ のマンデートに DDR を含めることで、DDR の実効性を高めることが期待されている。し かし、アフガニスタンではそうした国連 PKO 型 DDR とはならなかった。 2001 年 10 月、アフガニスタンにおいて、米軍を中心とした有志連合によって開始され た「不朽の自由作戦」は、対象となったアルカイダに対する「テロとの戦争」として位置 づけられ、アルカイダを支援しつつアフガニスタンを実効支配するタリバン政権の崩壊を 目指していた。そうした作戦の一方で、同政権崩壊後の国際社会によるもうひとつの対応 は、国連による呼びかけにより北部同盟の各派間で「ボン合意」を締結させ、同国におけ る戦後復興活動を重ね合わせていった。そのため、このタイミングでの合意形成は、ボン に参集した北部同盟の加盟組織間(カブール中央軍団、第 1∼8 軍団、第 34・35 師団が主 要な対象)によるものであり、国内紛争の文脈では、その勝者による新秩序の構築が約束 され、その約束を支援するかたちで国際社会による復興支援が導かれた。 ボン合意は、暫定政権の設置とその構成、および緊急ロヤ・ジルガを通じたその後の民 主化プロセスを示すものである24。合意の内容に従い、同年 12 月 22 日には同国の暫定政 権が発足し、2002 年の緊急ロヤ・ジルガでの討議を踏まえ、カルザイ暫定政権議長を大統 領とする移行政権が構成された(2004 年 11 月には、同国の国民選挙を経て、同議長が国 民の信任を得て正統政府の大統領に選任されている。)。 実は、ボン合意には、「DDR」の文字はない。ただし、同合意の添付文書には、参加各 派が、アフガニスタン国内の「治安」および「法と秩序」を提供し、新国軍の再編に向け た支援を行う一方、国連のマンデートに沿ってカブールおよびその周辺地域に展開する ISAF を容認し、カブール等の主要都市部からの軍事撤退を行う旨を約束している。また、 ボン会合の「参加者」からの「国連への要請」として、ムジャヒディーンの新国軍への「再 24 http://www.usip.org/library/pa/afghanistan/pa_afghan_12052001.html Agreement on Provisional Arrangements in Afghanistan Pending the Re-establishment Permanent Government Institution (5 December 2001), Peace Agreements Digital Collection, USIP. 統合」(reintegration)を同文書に掲げている。 ボン合意の履行を促進するために、国際社会は 2002 年 1 月、東京でアフガニスタン復興 支援国際会議を開催し SSR の 5 分野を分担することを決めたが、その内 DDR については 日本が UNAMA と共同でリード国としての役割を担うことになった。さらに、2002 年 12 月 1 日、カルザイ暫定大統領は、DDR の実施に関する「アフガニスタン国防軍に関する大 統領令」(以下、大統領令)を宣言し、これを法的根拠として、DDR に関する委員会を設 置し、旧北部同盟に属する軍閥の解体と新国軍の再編の作業をスタートさせた25。 このように、アフガニスタンにおける DDR の法的根拠は、ボン合意を基礎として、よ り具体的には、新国軍以外を非合法とした上で旧北部同盟の DDR を促進するという、大 統領令によって支えられた。しかし、ボン合意を基本とする紛争後の平和構築の作業の中 に、その矛盾を抱えることになったことは否めない。すなわち、和平合意からの一連の政 治プロセスにおいて規定されたアフガニスタンの DDR は、今も残存する武装組織を非合 法な存在として切り離すしかなく、したがって、これに対する DIAG の問題が残ること自 体 DDR の理念に矛盾していたことは、政策実施上、便宜的に無視された。 2-3 国連 PKO 事例とアフガニスタン事例―和平合意と DDR の連関を中心に― 他方、国連 PKO 事例における和平合意と DDR との関係はどうであろうか。1990 年代、 国連が提示する DDR の用語がそれほど定着はしていなかった頃には、和平合意の内容に おいても DDR の文言がそのまま示されるということはなかった。ただし、DDR の示すと ころについては、既に冷戦終結前後の紛争事例における和平合意の内容から摘み取ること ができる。 冷戦終結に伴う東西の対立構造の崩壊を受け、和平プロセスが進展した中米各国、モザ ンビーク、カンボジアでは、和平合意に盛り込まれた DDR の内容が比較的容易に実施に 移された。 「グアテマラ合意」 (1987 年 8 月)の合意内容を受け継ぐ「コスタ・デル・ソル 宣言」(1989 年 2 月)の内容によれば、冷戦構造から解き放たれた中米の紛争当事国は、 国連 PKO および米州機構に対し、それまでニカラグアを中心に反政府軍事活動を行使して きた非正規軍「コントラ」の武装解除を要請している。これに呼応して展開した ONUCA は、コントラの武装解除をマンデートとして監視活動を行うと、程なくコントラは、武装 解除と動員解除を実施するためのマナグア議定書(1990 年 5 月)をニカラグア政府との間 で合意し、その目標を同年 7 月には達成・完了している。 モザンビークにおける「包括和平合意」(1992 年 3 月)は、国内の紛争当事者間の武装 解除を要請し、国軍編成の作業として、同時に停戦合意の結果として動員解除された元戦 25 当時、アフガニスタン DDR を進める日本政府担当者であった伊勢崎賢治氏によれば、同氏 は、武装解除と動員解除のデッドラインを設ける大統領令を作成するようにロビー活動を行っ たという。伊勢崎、前掲書、154−155 頁。 闘員の「集結(concentration)」と「武装解除」、市民生活への「統合(integration)」を含ん でいた26。同合意における武装解除計画は対象となる武装組織による履行遅延により延長 したため、当初予定されていた議会選挙の日程は 1 年遅れの 1994 年 10 月に延期された。 これは、武装解除の完了を待たずに選挙を実施して紛争の再発を招いたアンゴラでの苦い 経験から得た教訓からきている。 カンボジアにおける「パリ和平合意」 (1991 年)は、UNTAC に対して国際的暫定統治を 委任していた。したがって UNTAC のマンデートに「紛争当事者による武装解除の促進」 を盛り込んだことは、合意の当事者にとって無視できない法的根拠となった。しかし、和 平プロセスの最中に最大武装組織であるポル・ポト派クメール・ルージュが武装解除を拒 み、選挙プロセスから離脱したことは、その後の社会形成にとって不安定要因となったこ とは否めない。 他方、1990 年代には、その他の国連 PKO 事例として、ソマリア、アンゴラ、リベリア、 タジキスタンなどがあったが、その全ての事例において、紛争当事者による和平合意の無 視の状態が続いた。 例えばリベリアでは、反政府武装勢力 NPFL の歩み寄りを受けて、国連、アフリカ統一 機構(OAU・現 AU)および西アフリカ経済共同体(ECOWAS)の支援のもと、リベリア の紛争当事者である主要 3 派(IGNU、NPFL、ULIMO)間による「コトヌー和平協定」 (1993 年 7 月)が結ばれた。同協定によれば、ECOMOG が紛争当事者による合意履行の監視を 行い、国連監視団が ECOMOG による監視活動をさらに監視・検証するという内容であっ た。同合意には、DDR に関して、ECOMOG および国連 PKO が武装解除を監視し、「当事 者は、国連、その他の諸国際機構および諸国家に対して、すべての元戦闘員の通常の社会 生活へ向けての動員解除、再訓練、社会復帰および社会への再吸収27のプロセスに関して、 計画を立案し、資金を提供するよう求める。」とある。結果的に、同合意は遵守されないま まであったが、これを補足するかたちで、3 つの協定(「アコソンボ協定」、 「アクラ協定」、 「アブジャ協定」)が結ばれると、1997 年に行われる選挙日程が決められた。1997 年 7 月、 同国において選挙が開催されると、反政府側であったテイラー候補が当選し、大統領とし て新政権を発足した。これを受けて、同国議会は旧 NPFL である「国民愛国党(NPP)」が 第 1 党となった。治安情勢は必ずしも安定してはいなかったが、民主化の形式的手続きを 踏んだことを受けて、UNOMIL は同年 9 月に、次いで ECOMOG も翌年には撤退すること になった。このように紛争の火種を残したままの状況は、2003 年に再び内戦の勃発を招く 悪夢を呼び起こしている。 ここで示したリベリアの事例のように、たとえ DDR を和平合意に盛り込んだとしても、 26 http://www.incore.ulst.ac.uk/services/cds/agreements/pdf/moz4.pdf INCORE, agreements, Mozambique, General Peace Agreement for Mozambique, Protocol IV (Military Question), Rome, 4 October 1992. 27 「再吸収」は、英文では、re-absorption とある。 武装解除が十分に進展しないままで選挙を行い、かつ平和維持の要素として国連 PKO や多 国籍軍が撤退した後に紛争が再発すると、DDR は当然のように失敗の評価を受けかねない。 1990 年代の DDR 事例に関する教訓とは、Berdal も指摘するように、和平合意に具体的 な DDR を盛り込むことに加え、その実効性を高めるための装置作りと、この装置を動か すリソース、そして政治的意思の問題であり、スケジュールとしては、民主化に基づく選 挙プロセスに先駆けて主要な DDR を終了すべきことであった28。Wheeler は、人道的介入 の文脈において、外部の者が現地の非武装化を進めるためには、武装組織が制度構築プロ セスに賛同して武器を手放すよう説得するか、武装集団のリーダーを限定して対応にあた るか、といった困難が立ちはだかると指摘している29。和平合意の遵守の度合いを高める 装置として、DDR に関しては国連 PKO が考えられたわけだが、国連 PKO が DDR の実施 にとって適当だとする国連による指摘(①信頼醸成、②治安上の意義、③モメンタムの維 持、④専門家とのチャンネル)は、和平合意の枠組みを前提としており、国連 PKO の性格 上、紛争当事者が和平合意を無視するような状況には耐えられない。和平プロセスの途中 で、ポル・ポト派を正式に除外して選挙を実施した UNTAC の事例は特殊であり、DDR の 評価も分かれるところであるが、Wheeler の指摘に従えば、「武装集団のリーダーを限定」 した対応の選択を迫られたものと考えられる。 こうした教訓からアフガニスタンの事例を比較すると、ボン合意は、国内紛争の勝者で ある旧北部同盟を中心とした武装組織に最初から制限しており、その点、全ての紛争当事 者を含めないという意味で部分的な和平合意に制限されている問題はあるものの、DDR に 向けた合意の当事者による自発性は、 「大統領令」の発布と DDR を担当する国内組織が着々 と整備される中で高められた。かつ、アフガニスタンでは、選挙日程を考えた上で、DDR のスケジュールも明確に大統領令の中で示された点は、DDR に関して、和平合意の実効性 を高める上で適当であったと言える。 国連安保理で DDR の重要性が指摘された 1999 年 7 月以降の国連 PKO では、シエラレ オネの事例を境にして、DDR の文言がマンデートに明確に盛り込まれたことは既に述べた とおりである。ただし、2006 年に入った現状では、シエラレオネに派遣された UNAMSIL がそのマンデートを終えて撤退した以外は、コンゴ(民)、リベリア、コートジボワール、 ハイチ、スーダンに派遣された国連 PKO はいずれも展開中である。こうした最近の事例で は、和平合意の中身と国連 PKO のマンデートの双方において DDR に関する記述が具体化 される傾向にある。 例えばシエラレオネでは、国連 PKO の派遣に連結した和平合意として、 「ロメ和平協定」 30 28 が締結されたが、同協定は、即時停戦、ガバナンス、反政府武装組織 RUF の政党化、RUF 例えば、「政治的意思」については、Toki Hinako, op.cit.,で、「選挙前の武装解除および動員 解除」については、伊勢崎、前掲書、でも強調されている。 29 Nicholas J. Wheeler, Saving Strangers: Humanitarian Intervention in International Society, Oxford University Press, 2000, p.191. 30 http://www.usip.org/library/pa/sl/sierra_leone_07071999.html USIP, peace agreements, Sierra Leone, 構成員の政府要職としての受け入れと恩赦を盛り込み、具体的に「平和定着のための委員 会(Commission for the Consolidation of Peace)」等の設置を規定した。DDR に関しては、 「ECOMOG のマンデート(第 13 条)」として、治安維持、UNOMSIL の保護、DDR の保 護、ECOMOG の追加軍事支援、段階的撤退、であるとし、他方、「UNOMSIL のマンデー ト(第 14 条)」は、国連安保理により同合意の内容を引き受けることであると明記してい た。また、同協定第 16 条は、DDR の実施について示しており、合意後 6 ヶ月以内に武装 解除および動員解除を開始するとしていた。シエラレオネでも、例外なく、和平合意が結 ばれた後も武力衝突が絶えなかったが、理念的には、ロメ和平合意の段階で、国連から容 認を受けた ECOMOG が平和強制を担いつつ DDR を支援し、他方で国連 PKO が主要武装 組織を委員とする DDR 国家委員会と共に DDR を実施するという体制が築かれた31。こう した役割分担は ECOMOG が派遣される場合には珍しくはなく、アフリカの紛争直後の混 乱を安定化させる要素を提供している。 また、コンゴ(民)では、ザンビアや南アフリカ等が仲介にあたる中、1999 年 7 月、ザ ンビアのルサカで開かれた会議において、カビラ派と反カビラ派との間で「ルサカ停戦合 意」32が結ばれた(周辺国がまず調印し、国内の反政府勢力が次いで調印した33)。DDR に 関してルサカ停戦合意がもつ特色としては、軍事組織の武装解除について言及している点 の他に、シエラレオネの事例と同様、予定される国連 PKO のマンデートを提示しているこ とである。 ○ルサカ停戦合意 第 8 章(国連 PKO マンデート) 第2条 第 1 項(平和維持):合意履行における合同軍事委員会および OAU との協力、停戦監視、 人道支援、停戦合意の維持、武器の回収、外国軍の撤退、情報収集、等 第 2 項(平和強制) :武装グループの武装解除、人道に対する罪を犯した容疑者の追跡、ル ワンダ国際刑事裁判所の訴追者の引渡し、帰還、武装解除・集合・帰還・再統合に対する 適切な手段(説得または強制)の活用 Peace Agreement between the Government of Sierra Leone and the Revolutionary United Front of Sierra Leone. 31 武装解除における強制型/非強制型の国連 PKO と、強制型/非強制型の多国籍軍および地 域機構とのそれぞれの組み合わせによる役割分担に関する考察については、拙稿「冷戦後の国 連平和維持活動(PKO)における武装解除―マンデートの射程とその実効性」大阪外国語大学 国際関係講座編『国際関係の多元的研究』大阪外国語大学、2004 年 1 月、を参照されたい。 32 http://www.usip.org/library/pa/drc/drc_07101999_toc.html USIP, peace agreements, DRC, Ceasefire Agreement. 33 武内進一「ルワンダからコンゴ民主共和国へ」総合研究開発機構(NIRA) ・横田洋三編『ア フリカの国内紛争と予防外交』国際書院、2001 年、283 頁。 この条文でいう「武装グループ(armed groups)」とは、紛争当事者のうちルサカ合意の 調印者(紛争当事国と、コンゴ(民)国内の 3 つの反政府勢力)を除いた集団を指す。武 内によれば、それらの武装グループは、ルワンダの反政府勢力「旧ルワンダ政府軍 (ex-FAR)」、「インテラハムウェ」「主の抵抗軍(LRA)」などの 4 つのウガンダ反政府勢 力、そしてアンゴラの反政府勢力 UNITA であるという34。これは、同国における紛争が、 周辺国の国内紛争にも深く関係していたことを意味している。つまり、コンゴ(民)での 国内紛争に関与した外国の正規軍は、それぞれ自国の治安について深刻な課題を抱えてお り、ルサカ合意の中で合わせて解決を図りたかったと考えられる。また、この「武装グル ープ」が平和強制の手法により、強制武装解除の対象として和平合意に記載された点は、 少なくとも強力な国連 PKO への期待からくるものであろう。MONUC は、最近の国連 PKO ではよく見られるように、国連憲章第 7 章下での派遣であり、マンデートの上での形式で は平和強制が容認されてはいるものの、実質上は原則を基本として活動する非強制型の国 連 PKO であると言える。一方、こうした期待は、アフリカに特化した ECOMOG の活動は、 平和維持と平和強制が理念的にも実践的にも交互し、あいまいな場合が多いことにも起因 しよう。 このように、シエラレオネとコンゴ(民)の事例を見ただけでも、和平合意への DDR の挿入と、実施主体としての国連 PKO(および ECOMOG)との連動がうかがえるが、同 様の内容は、コートジボワールの「リナ・マルクーシ合意」35、ブルンジの「アルーシャ 和平合意」36などにも見受けられる。 合意に DDR が具体化されるからといってその延長線上に成功が導かれるわけではない のだが、アフガニスタンの和平合意の充実振りも、内戦終結に伴うこれまでの紛争事例の 解決の糸口として和平合意内容の具体化の流れの中で創造されたと言えよう。また、これ らの国連 PKO 事例では、ハイチの最近の事例でもそうであったように、和平合意の中でそ の実施主体(政府内部の DDR 委員会など)の設置を謳うと同時に、治安維持や DDR の監 視などの面でサポートする国連 PKO あるいは地域機関(ECOMOG、AU 平和維持軍等) の記述があった。その点、アフガニスタンでは、ボン合意に従って国連による正統性を得 た ISAF を(カブールを中心に)展開することで治安を維持しつつ武装解除を進める内容 を盛り込み、合わせて大統領令で DDR に関する国内機関を設置した点など、類似してい る。 こうした類似点が見受けられるものの、アフガニスタンの DDR は、和平合意の結ばれ 方に関し、国連 PKO が経験してきた多くの DDR 事例との背景において、異なる点がある。 つまり、テロ戦争として位置づけられて米国を中心とした有志連合が展開したアフガニス 34 同上、284 頁。 http://www.usip.org/library/pa/cote_divoire/cote_divoire_01242003en.html USIP, peace agreements, Cote Divoire, Linas-Marcoussis Agreement. 36 http://www.usip.org/library/pa/burundi/pa_burundi_08282000.html USIP, peace agreements, Burundi, Arusha Peace and Reconcciliation agreement for Burundi. 35 タンは特異な事例であるという点においてである。国連 PKO が経験してきている DDR は、 脆弱国家においてでさえ、国内における紛争当事者間による和平合意に従って、DDR と国 軍の再編が行われるのが基本であり37、アフガニスタンのようにテロ集団と焼印を押され た(実効支配している)政権が有志連合により消滅され、 「合意」に支えられた新たな政権 が誕生するというような構図がそもそもない。 「対テロ対策」のひとつの帰結としてのボン 合意は、従って国内の旧北部同盟間の DDR と権力分有の問題としてのナショナル・ガバ ナンスのレベルと、テロ組織アルカイダに通じるタリバン政権といった脅威を強制的に駆 逐し、民主化を進めるためのグローバル・ガバナンスのレベルでの重要性を持ち合わせて おり、双方のガバナンスを維持する力によって実効性を確保できる仕組みとなっていた。 一方、国連 PKO が派遣されるアフリカ諸国の事例では、和平合意の無視を常態とする事 例からも容易に想像できるように、ナショナル・ガバナンスの構築に対する紛争当事者の インセンティブの低さ、米軍といった最強の軍隊が背景として存在しない国連 PKO 事例に おけるグローバル・ガバナンスへの執着のなさ、といった様相が比較して見てとれる。こ うした度合いの違いは、DDR の実効性にも連動している。 したがって、Berdal の指摘にも戻るが、和平合意の無視が続く場合、あるいは和平合意 にいたらずに対立の激しい武力紛争に対して第 3 者が介入する場合、DDR を含むあらゆる オペレーションの前提としての強制行動をとるのか、あるいは無行動となるのか、といっ た国際政治学上の人道的介入論でみられたような伝統的な問題にも直面することになる。 こうした問いは、正義の問題に発展するが、少なくとも、紛争後において紛争当事者が合 意の無視を行う場合、実効性のある DDR の前提として、強制介入が一方の選択として存 在することだけは、これまでの事例を通じて改めて確認できる。したがって、合意の無視 が続く場合に DDR に対して国際社会がどう対応するかは、DDR の成否にとっても最大の チャレンジとなろう。 以上のように、DDR の要素としての和平合意に着目しただけでも、各事例でその特色は 様々であり、かつ国連 PKO 事例とアフガニスタン事例との類似点や相違点が浮かび上がっ てきた。次に、限られた内容ではあるが、和平合意以外の側面についても国連 PKO 事例と アフガニスタン事例との比較考察を治安の安定化と、経済社会開発の観点から 2 点だけ付 け加えたい。 第 1 に、治安の安定化に関する留意点として、治安の確保に対する国連 PKO 事例とアフ ガニスタン事例の双方の対応が挙げられる。すなわち治安の安定化に関する問題とは、 DDR が行える前提条件として、その完遂までの間の治安の安定化要素がどこまでの程度お よび範囲で提供できるか、という限界に関連している。国連 PKO 事例に関しては、「治安 上の意義」に従って国連 PKO が実施する DDR には優位性があるとの国連側の主張があっ 37 コンゴ(民)のケースで既に説明にしたように、紛争当事国の周辺国が、自国の反政府武装 組織に対し、国境を越えて紛争当事国内において行使する武力闘争に終止符を求める手段とし て、その組織の武装解除を紛争当事国の和平合意に盛り込むよう求める場合もある。 たが、同意/不偏/軽武装を原則とする国連 PKO には限界があることは既に指摘したとお りである。DDR の実施にあたっては、軍事上のパワー・バランスの変化・変遷に十分配慮 した軍事オペレーションを意識しなくてはならない。そうした配慮のため、国連 PKO と、 多国籍軍(例えば ECOMOG)との連携がどこまで行われているか、といった実施面での 統合の問題も問われている。アフガニスタンでは、2003 年 11 月、ISAF の治安維持の実効 性を高めるために、カブール市内に駐留する旧北部同盟の重火器をカブール郊外に一括格 納する「重火器集中管理計画」を実施に移したが、2004 年 3 月当時、ISAF が起こした行 動は、主要 3 派の格納地内にそれぞれ重火器を集中させるものであって、結果的にカブー ル市内のパワー・バランスを脅かしてしまったという38。こうした危険性は、アフガニス タンの場合、DDR をリードする日本と UNAMA にとって深刻な影響を及ぼすことにもな りかねない。したがって、DDR を政策立案・実施する主体と、治安の安定化を確保する主 体との連携は不可欠である。その際、現状の性質をもつ国連 PKO だけでは不十分な場合も あるが、いずれにせよ、「連携」を強化する必要がある。 また、国連は、「治安上の意義」に加え、「専門家とのチャンネル」に関する国連 PKO の優位性について指摘していた。アフガニスタンでは、こうした点を補うために、日本の NGO である特定非営利法人「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」が担当する形式で国際 監視団(International Observer Group: IOG)を設置し、DD の監視業務に当たらせた。IOG による報告書によれば、2004 年から 2005 年にかけて ANBP が予定した DDR のほぼすべ ての武装解除の監視業務を手がけたとしている39。このように、アフガニスタンでは、国 連 PKO と異なり、シビリアンが監視業務にあたるというアプローチを構築した40。 第 2 に、経済社会開発の分野で、特に長期的な R を実施する観点から生じる問題点につ いて述べたい。国連 PKO 事例に関しては、国連 PKO(および国連 PKO 局)が中心となっ て DDR の政策立案が行われ、特に武装解除と動員解除のオペレーションに際しての監視 業務に対して優位性を持っている。他方、アフガニスタンでは、合意形成の際から、平和 構築ミッションとしての UNAMA と日本が担当し、DDR の政治性に配慮しながら同国の 担当機関をサポートしてきた。よく言われるように、R は DD を行うためのインセンティ ブとしての機能を期待されているだけなのか、といった議論がある。理念的には D-D-R の それぞれが一体として包括性を保つことがその意義につながる一方で、例えばより長期的 な経済社会開発に元戦闘員をどう再統合させるかといった問題は、DD の実践的オペレー ションが終了した後も付きまとう。 38 伊勢崎、前掲書、161−162 頁。 International Observer Group, Final Program Report: International Observer Group for DDR in Afghanistan (Ref.:C04-074), IOG/UNDP, 2005. 40 国連 PKO ではない事例としてもうひとつ紹介すれば、インドネシアのアチェ州における和 平合意(2005 年 8 月)後に武装組織 GAM の武装解除および動員解除を監視するために EU 主 導で展開したアチェ監視団(Ache Monitoring Mission: AMM)は、860 丁の武器の回収および廃 棄を同年 12 月に終了したが、その際、AMM は非武装のシビリアンによって構成された。 39 DDR を終えた元兵士には、国家という視点から軍・警察再編といったガバナンス制度に 再統合される見方がある一方で、シビル・ソサイエティーの視点からは経済社会開発を通 じて社会復帰していく姿も見てとれる。アフガニスタンにおいては、DDR のパイロット・ フェーズ(2003 年 10 月∼2004 年 3 月)の際、クンドス、ガルデス、マザリシャリフ、カ ブールで実施され、6200 名の兵士が武装解除および動員解除され、そのうち 4 割ずつが再 統合(社会復帰)プロセスである農業と職業訓練(機械工、大工、縫製職人など)に進ん でいる41。軍再編を担当する米による審査基準が厳しいという理由もあるが、この事例か らは、元兵士の多くは市民社会への復帰を望んでいることが観察できる。 SSR と密接に関連する政治プロセスの中で、アフガニスタン DDR の主要な目的が、軍 閥解体と新国軍再編であった点を踏まえた上で、R の部分に重なる経済社会開発を中心に 推進するアクターを取り込むかたちで、ANBP を通じてひとつの資金供与システムが形成 されたことは、「DDR」プロセスにとっても重要であった。ANBP には、リード・ドナー である日本の他、英、独、米、オランダ、EC(地雷除去のみ)、ノルウェー、スイスが資 金提供を行っており、特に日本は、「復員庁」設置のための資金を一括供与し、「元兵士の 社会復帰」へのスキームを重点的に支援した。 アフガニスタンにおける R に対する ANBP の活動は現在進行形であり、評価を行うには 時期が早いが、こうした R に関する関心がこれまでになく高まったのは、国連 PKO 事例 を見てきた限りにおいては、アフガニスタンがはじめてであろう。少なくとも、国連 PKO は、これまで R の部分の資金を自発的拠出金や UNDP などの他ドナーとの連携で対応せざ るを得なかった事情があった。そのため、 「R の部分」と「DD の部分」は制度的には分断 すること可能性が高かった。ただし、この点については国連 PKO 事例における R の対応 について、更なる精査による比較検討が必要であり、今後の課題としたい。DDR における R を行う際に抱える出口戦略の時期は、R が必要とする時間に対してしばしばずれが生じ る。これは、DDR が紛争の再発を防ぐための治安上の意義がより重視されやすいのに対し て、R と関わる経済社会開発の作業が中長期的な性質であることのギャップを反映してい る。DD と R とのフェーズの隙間を埋める政策と実施体制を整える必要はあるが、一方で、 伝統的に中長期的な作業である経済社会開発と DDR との関係を見直さなくてはならない。 特に国連 PKO 事例では、リベリアの事例で DD の部分に特化する UNMIL と、R の部分に 特化する UNDP との間で連携を深めてきているように、現状の国連 PKO の枠組みでは DDR マンデートを完遂できないことを認識し、UNDP など他ドナーとの連携を重視する対応策 を練り、実践する必要性があると考える。 アフガニスタンにおける DIAG の問題のように、一定の DDR プロジェクトの期間を過 ぎてなお存在し続ける武装組織への対応を、DDR 本来の課題として捉え直すことも理念上 は不可欠な作業であると言える。 41 駒野、前掲書、123 頁。 おわりに 本稿では、第 1 節で国連 PKO における DDR の概要について説明した。国連 PKO のマ ンデートに挿入されるようになったこれまでの「DDR」事例についての経緯を説明し、さ らに Mats Berdal による先行研究を手がかりとし、DDR を実施する国連 PKO の性格につい て概観した。そこで、国連 PKO における DDR は、冷戦終結後に発展し、1999 年の国連安 保理会合で中心的議題として取り上げられたことを境にして、国連 PKO マンデートに DDR の文言が具体化されてきた点を確認した。また、DDR 研究においては、その要素として、 和平合意、治安の安定化、経済社会開発、ガバナンスといった各分野が重視されるべきで あり、かつ DDR としての包括性を指摘した。さらに、DDR を行う国連 PKO の基本的性格 として、①同意/不偏/軽武装、および国連安保理によるマンデート②DD への親和性、 を確認し、国連が指摘する①信頼醸成、②治安上の意義、③モメンタムの維持、④専門家 とのチャンネルといった国連 PKO の DDR 業務に対する比較優位の諸点について紹介した。 前節を踏まえ、本稿第 2 節では、これまでの国連 PKO 事例における DDR の視点から、 PKO ではなかったアフガニスタンの DDR 事例を比較することで、アフガニスタンの事例 における DDR の意義と問題点について再検討した。最初にアフガニスタンにおける DDR の概要を述べた上で、次に和平合意に着目してボン合意における DDR の性格について論 考した。ボン合意は、グローバルな「テロとの戦い」と、ナショナルな「内戦」の両方の 文脈の重複する領域で編み出され、従って対テロとして有志連合とともに勝利した旧北部 同盟間の限定的な紛争当事者による和平合意であった。そうした枠組みの中で、DDR の対 象も同様に戦勝者側に限られたものであった。 こうした探求を踏まえ、第 2 節の終わりには、国連 PKO 事例とアフガニスタン事例との 比較分析を意識しつつ、和平合意と DDR との連関を中心にすえて考察を加えた。アフガ ニスタンにおける DDR は、和平合意に関してみると、それまでの国連 PKO の教訓を活か していた。すなわち、それは、紛争後の平和構築のひとつとしての DDR に関連し、武装 解除に際しての紛争当事者の自発性を高めるために紛争当事者を限定――テロとの戦いの 構造を事前に構築したグローバル・ガバナンスの意図があったにせよ――し、かつ選挙日 程を踏まえて DDR を進めるようにボン合意と大統領令を作成したことである。他方、正 統性の問題を孕みつつも米国といった最強の介入があったアフガニスタンに比べ、アフリ カを中心に、国連 PKO の対象国へのグローバル・ガバナンスの関与の度合いは低い。した がって、DDR に関する実効性も低いのが実情であるが、より大きな問題として、和平合意 の無視が継続する場合、強制介入を迫るのか、あるいは無行動となるのか、といった選択 に迫られることになる。 本稿における最後には補足的に、DDR に関する治安の安定化におけるギャップと、経済 社会開発におけるギャップについて触れた。そこでは、治安の安定化に際しては、治安の 安定を供給する主体と、DDR を担当する主体との統合ミッションが不可欠であることを指 摘した。さらに、アフガニスタンにおける DD の部分の監視業務をシビリアンで行った快 挙についても比較点として紹介した。経済社会開発には、国軍の再編に執着する短期的な DDR と、長期的な開発との間では、本質的にギャップが生じやすいことを確認し、そうし たギャップを国連 PKO 事例でも埋めていく必要性について強調した。この点については、 国連 PKO 局教訓課でも DDR に関するガイドラインを作成しているところであり、今後は DDR のバリエーションの広さを踏まえた政策立案と主体間の政策統合に向けた実践が期 待されよう。
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