日本英文学会関西支部 第 11 回大会資料

日本英文学会関西支部
第 11 回大会資料
プログラム
研究発表・シンポジウム要旨
日時:2016 年 12 月 17 日(土) 11 : 00 より
会場:神戸市外国語大学(神戸市西区学園東町 9-11)
日本英文学会関西支部事務局
〒 662-8501 兵庫県西宮市上ケ原一番町 1-155
関西学院大学文学部英文学研究室
E-mail : kansai@elsj.org
神戸市外国語大学までの交通案内
電車の場合
JR「大阪」から「三ノ宮」まで新快速で約 23 分。
阪神電車「大阪難波」から「神戸三宮」まで快速急行で約 45 分。
神戸市営地下鉄西神・山手線「三宮」から「学園都市」まで約 23 分。
新幹線「新神戸」から神戸市営地下鉄西神・山手線で「学園都市」まで約 25 分。
飛行機の場合
ポートライナー「神戸空港」から「三宮」まで約 18 分。
神戸市営地下鉄西神・山手線「三宮」から「学園都市」まで約 23 分。
バスの場合
JR「舞子」から「学園都市」まで路線バスで約 30 分。
JR・山陽電鉄「垂水」から「学園都市」まで路線バスで約 30 分。
車の場合
第二神明道路「高丸インターチェンジ」北へ 10 分。
神戸淡路鳴門自動車道「垂水 JCT.IC」北へ 10 分。
中国自動車道、山陽自動車道方面
神戸淡路鳴門自動車道「布施畑 IC」から南へ 10 分。
( 67 )
1
神戸市外国語大学キャンパスマップ
◇当日は、生協で軽食をお買い上げいただくことができます。学園都市駅周辺にはコンビニエン
ス・ストア、飲食店があります。なお、一般控室(学舎 3 階 306 教室)をご飲食などのための
休憩所としてお使いいただくことができます。
◇控え室にて茶菓の用意はいたしません。あらかじめご了承下さいますようお願い申し上げます。
◇キャンパス内は全面禁煙となっております。
◇当日は必ず受付をお済ませください。
2
( 68 )
( 69 )
3
日本英文学会関西支部第 11 回大会プログラム
日時:2016 年 12 月 17 日(土)11 : 00 より
会場:神戸市外国語大学(神戸市西区学園東町 9-11)
大会受付
10 : 30 より(第 1 学舎ロビー)
開 会 式
11 : 00 より(第 2 学舎 2 階 503 教室)
受付、懇親会費納入
挨拶
研究発表
小
澤
同志社大学文学部准教授
金
津
和
美
京都大学非常勤講師
高
野
吉
一
神戸市外国語大学教授
吉
川
朗
子
野
中
美賀子
日本英文学会関西支部支部長
第 1 発表 11 : 10〜11 : 50
第 2 発表 11 : 55〜12 : 35
第 3 発表 13 : 30〜14 : 10
第 4 発表 14 : 15〜14 : 55
博
第 1 室 (第 1 学舎 2 階 205 教室)
1.(発表なし)
司会
2.「ギリシャの古壺のオード」と反牧歌的時代精神
司会
3.コールリッジのバラッド作品における支配と被支配の関係
龍谷大学非常勤講師
4.“My Savage Journey, Curious, I Pursue” ──旅するロバート・バーンズ
和歌山大学非常勤講師
第 2 室(第 1 学舎 2 階 206 教室)
司会
林
智
之
孝
信
田
中
平
野
近畿大学講師
西
垣
佐
理
大阪大学教授
伊
勢
芳
夫
田
中
和
也
田
中
賢
司
大阪市立大学教授
1.パンチの目から見る『骨董屋』──人間性をめぐる想像力と金銭の対決──
神戸大学大学院生
惟
2.『アフリカ農場物語』と男性による看護:ディケンズ作品と比較して
司会
3.「他者」との邂逅:Joseph Conrad, “The Secret Sharer” における主人公の語りと成長
佛教大学講師
4.ジョウゼフ・コンラッドの「陰影線」における「指揮」と「教育」について
海技大学校教授
4
( 70 )
第 3 室(第 1 学舎 2 階 207 教室)
田
由利子
中土井
智
大阪大学准教授
小
世
京都大学大学院生
李
司会
関西学院大学教授
森
1.童話『漁師と女房』からマカリスター親子の語りへ
──『灯台へ』漁師の言説にみる intimacy の変遷──
神戸市外国語大学大学院生
司会
2.Analysis of the Space in Martha Quest
杉
超
大阪大学准教授
霜
鳥
慶
邦
京都大学大学院生
高
橋
一
馬
神戸市外国語大学大学院生
丹
治
美那子
京都大学教授
廣
野
由美子
佛教大学教授
粟
野
修
司
大阪市立大学教授
野
末
紀
之
京都女子大学大学院生
北
田
沙
織
武庫川女子大学教授
玉
井
京都女子大学元教授
桧
原
美
大阪女学院短期大学講師
平
野
真理子
司会 相愛大学教授
山
下
昇
武庫川女子大学大学院研究生
今
﨑
舞
司会
3.なぜ Flory は拳銃自殺をするのか
Burmese Days における animal と beast の境界線
4.言葉を語る視線の行方
Elizabeth Bowen, The Death of the Heart(1939)について
第 4 室(第 1 学舎 2 階 208 教室)
1.(発表なし)
司会
2.【招待発表】ハーディとメソディズム
――“Where novel-reading comes in, Bible-reading goes out.”――
司会
3.An Ideal Husband に見られる揺れ動く力関係
4.【招待発表】ウォルター・ペイターにおけるリアリズムと印象主義
――『ルネサンス』再読 ──
第 5 室(第 1 学舎 3 階 307 教室)
司会
暲
恵
1.“hapa”(ユーレイジャン)としてのアイデンティティ探求
──ハワイの日系三世作家、Susan Nunes の作品を中心に──
2.Black Boy, Part Ⅱに見る Richard Wright の南部意識
──その 15 章から 17 章に表象された北と南──
( 71 )
5
京都大学教授
若
島
正
大阪大学大学院特任助教
後
藤
篤
司会
同志社大学准教授
藤
井
光
大阪大学大学院准教授
石
割
隆
京都大学非常勤講師
三
宅
あつ子
滋賀県立大学特任准教授
吉
田
亞
司会
京都女子大学教授
金
澤
同志社大学教授
林
神戸学院大学准教授
出
水
孝
典
清
水
雅
大
大和大学講師
岩
橋
一
樹
立命館大学教授
藏
藤
健
雄
大阪教育大学教授
寺
田
司会
3.道化師の諜 ── Vladimir Nabokov の Look at the Harlequins ! 再考
4.(発表なし)
第 6 室(第 1 学舎 3 階 308 教室)
1.(発表なし)
2.映画的ミメーシス
── Gravityʼs Rainbow における現実の表象
司会
喜
3.愉快なオデュッセイア
ヘンリー・ミラーのギリシャ
矢
哲
4.【招待発表】狩人は声も立てずにわらう
── Fenimore Cooper の饒舌と沈黙
第 7 室(第 1 学舎 3 階 305 教室)
司会
以知郎
1.1810 年から 2009 年のアメリカ英語におけるゼロ副詞の通時的変遷
京都大学大学院生
2.英語の感覚形容詞の意味素性と意味拡張との関わりをめぐって
司会
3.【招待発表】「部分摘出における wh 一致現象について」
4.(発表なし)
寛
6
( 72 )
シンポジウム 15 : 10〜17 : 30
英米文学部門(第 2 学舎 2 階 503 教室)
シェイクスピアの遺産――没後 400 年を記念して
司会・講師
立命館大学教授
竹
村
講師
関西学院大学教授
はるみ
小
澤
講師
京都大学名誉教授
喜
志
哲
講師 慶應義塾大学教授
常
山
菜穂子
京都外国語大学他、非常勤講師
高
田
哲
朗
講師
甲南女子大学教授
梅
原
大
輔
講師
関西外国語大学教授
澤
田
治
美
コーディネイター
京都教育大学教授
児
玉
一
宏
日本英文学会関西支部副支部長
服
部
典
之
博
雄
英語学部門(第 2 学舎 2 階 506 教室)
「英語学研究に基づく高校生・大学生のための学習英文法」
講師
総
会
17 : 40 より(第 2 学舎 2 階 503 教室)
閉会式
18 : 00 より(第 2 学舎 2 階 503 教室)
挨拶
懇親会
18 : 30 より (三木記念会館)
会費 4,000 円
( 73 )
7
研究発表要旨
第 1 室(第 1 学舎 2 階 205 教室)
第 1 発表(11 : 10 より)
(発表なし)
司会
同志社大学文学部准教授
金
津
和
美
高
野
吉
一
第 2 発表(11 : 55 より)
「ギリシャの古壺のオード」と反牧歌的時代精神
京都大学非常勤講師
古代ギリシャのテオクリトス、ローマのウェルギリウスの伝統に則り、宮廷における謀略、都会
における社会的要請から退避し素朴な田園生活を賛美する牧歌の様相は、18 世紀後半のイギリス
においてエンクロージャーに端を発する農村共同体の崩壊とともに根本的に覆り、反牧歌といえる
作品群が生み出された。その代表的なものが、牧人一家の崩壊を主題としながらも、副題を ʻ A
Pastoral Poemʼ とするウィリアム・ワーズワースの ʻ Michaelʼ であろう。18 世紀後半から 19 世紀中
葉にかけてのこの反牧歌的時代精神に鑑み、芸術世界への退避を歌ったジョン・キーツの ʻ Ode on
a Grecian Urnʼ に見出されてきた芸術に対するアンヴィヴァレントな態度を考察する時、ʻ Cold
Pastoralʼ と呼ばれるギリシャの古壺に対する詩人の態度は、芸術への憧憬と、その世界への受け入
れを拒まれた詩人の憎愛とは異質の、ʻ To Autumnʼ に結実する現実認識の萌芽が見出せる。詩人の
その現実認識の兆しを詩作品の具体的表現に即して考察する。
司会
神戸市外国語大学教授
吉
川
朗
子
中
美賀子
第 3 発表(13 : 30 より)
コールリッジのバラッド作品における支配と被支配の関係
龍谷大学非常勤講師
野
コールリッジのバラッド作品には、支配と被支配の関係が、話し言葉や眼差しを用いて特徴的に
描かれている。話し言葉と眼差しが、自己と他者との間のコミュニケーションの道具として、重要
な働きをしていることが示されている。主人公は、共通して、話し言葉を奪われることにより、自
己の意思を他者に明白に示すことができなくなり、また眼差しによって精神的身体的自由を奪われ
ることにより、人間らしい行動が取れなくなる。“The Three Graves”(1809)、“The Rime of the
Ancient Mariner. In Seven Parts”(1798)、“Christabel”(1816)、“Kubla Khan : or, A Vision in a Dream of
the Fragment of Kubla Khan”(1816)において、自発的な意思で口に出されるはずの話し言葉が超自
然の力によって支配をうけたり、あるいは、超自然の眼差しによって心身が支配されたりして、被
支配者は、他者と交流することができなくなったり、人間関係を構築することが妨げられたりして、
人間社会から孤立したり、支配者の下で生きることを余儀なくされている。これらの作品を比較す
ることで、コールリッジのバラッド作品における支配と被支配の関係を考察する。
8
( 74 )
第 4 発表(14 : 15 より)
“My Savage Journey, Curious, I Pursue” ──旅するロバート・バーンズ
和歌山大学非常勤講師
林
智
之
Robert Burns(1759-96)は、1787 年詩作のため Highland 旅行を行っている。彼の旅日記は簡略
化されているが、2014 年に出版された Nigel Leask による詳細な註釈書で具体的な旅の様子が明ら
かになった。この研究を踏まえ旅行記の観点から、彼の旅日記とその詩との関係について新たに捉
え直したいと考える。またバーンズの詩の中にも旅の記述がある。「テイマスのケンモアの宿屋の
居間において鉛筆で書いた詩」で、“My savage journey” と 1787 年の Highland の旅が言及されてい
る。あともう 1 つの「鉛筆で書いた」詩からも旅する詩人の自意識を考察する。そして後の旅行者
Dorothy Wordsworth(1771-1855)の『1803 年のスコットランド旅行の回想』は、旅程に Burns の
訪れた Highland を含む。彼女の散文の著作と対照し、Burns の旅の特徴をさらに明らかにしたいと
思う。発表で彼の旅日記や旅の途中での詩を読解することで、詩人 Burns をまだ旅行用に整備され
ていなかった Highland を踏破した旅行者として捉え直すのが、私の意図である。
第 2 室(第 1 学舎 2 階 206 教室)
司会
大阪市立大学教授
田
中
平
野
孝
信
第 1 発表(11 : 10 より)
パンチの目から見る『骨董屋』
──人間性をめぐる想像力と金銭の対決──
神戸大学大学院生
惟
『骨董屋』に登場する当時の見世物の中でも、プロットの牽引や悪役キルプの人物造形への貢献
において人形劇「パンチ & ジュディ」の働きは際立っている。キルプはさながら人間世界に飛び
出してきたパンチ人形のようであるが、そうすると本来見世物である彼が、逆に債権を持ってトレ
ント老人を監視していることは、傾いた雑誌のテコ入れという『骨董屋』自体の執筆事情も相まっ
て、人間を人形=モノに従属させてしまう金銭の力を象徴していると言える。
人形劇とは本来演じ手の技術と観客の想像力とによって人形に命を吹き込むものであってみれば、
後半になってディックが俄然活躍を見せることは、キルプに宿った金銭の負の力に彼の想像力が唯
一対抗し得る可能性をディケンズが見出したことによるものと了解できる。そもそもが傾いた雑誌
のテコ入れという経済的必要に迫られて書かれた本作について、本発表では職業作家ディケンズの
葛藤が登場人物の配置に反映されていることを指摘しつつ、彼らの行動を通して如何にその解決が
試みられたのかを考える。
第 2 発表(11 : 55 より)
『アフリカ農場物語』と男性による看護:ディケンズ作品と比較して
近畿大学講師
西
垣
佐
理
ヴィクトリア朝文学作品において、病床時の看護は主に女性が担っている。だが、男性が看護を
行っていた事例もチャールズ・ディケンズの『マーティン・チャズルウィット』(1843-44)や『大
いなる遺産』(1860-61)などに見ることができる。ところが、南アフリカ出身の女性作家オリー
ヴ・シュライナーの『アフリカ農場物語』(1883)では、未婚の母親となって病に倒れたリンダル
( 75 )
9
を看病する際、かつての求婚者であるグレゴリー・ローズが女装して女性の看護師として登場し、
彼女を看取ることになる。なぜ作者は男性に女装させてまで看護行為を行わせたのか。本発表では、
『アフリカ農場物語』において、男性性と女性性の分岐点が看護行為にあることを、ディケンズの
『マーティン・チャズルウィット』や『大いなる遺産』に登場した男性による看護場面と比較し、
看護・医療行為、ジェンダー、異性装、そして南アフリカという地理的特殊性などの観点を考慮し
つつ物語展開における影響力について論じてみたい。
司会
大阪大学教授
伊
勢
芳
夫
田
中
和
也
第 3 発表(13 : 30 より)
「他者」との邂逅:Joseph Conrad, “The Secret Sharer”
における主人公の語りと成長
佛教大学講師
Joseph Conrad の “The Secret Sharer” は、一人称の語り手で船長職にある人が、自分の若い頃の経
験を時系列に沿って語るという、一見親しみやすい体裁をもつ。しかし近年の研究では、船長であ
る主人公が、なぜ別の船で殺人を犯した Leggatt を匿いかつ共感してしまうのか、という点が問題
になる。こうした物語設定や近年の批評動向を踏まえて、本発表では、この作品においては語り手
が「他者」との邂逅を糧として、その経験を自らの成長物語へと消化/昇華したものだと訴えたい。
注目すべきなのは、「分身」とされる Leggatt が、実は語り手にとって「他者」だと意味づけられる
ことである。この短篇より前の Conrad 作品で一人称の語り手を有するものは、語り手が集団的価
値観の異なる「他者」を何とか理解しようとして敗れるという物語だった。それに対して、“The
Secret Sharer” は、語り手の成長物語という枠により他者への共感と理解を探ったのだと、本論は考
える。
第 4 発表(14 : 15 より)
ジョウゼフ・コンラッドの「陰影線」における
「指揮」と「教育」について
海技大学校教授
田
中
賢
司
本論は、ジョウゼフ・コンラッドの「陰影線」を危険社会における近代化自身の近代化という社
会学概念で再評価する試みである。
同作家の他作品に比べ、この作品は技巧の少ない古典的な型式をとっている。プロットは素朴で
明快なものであり、19 世紀末の帆船時代の終盤と本作品が書かれた第一次大戦下との対比も明ら
かである。クライマックスにおける「盲目の静寂」という夜間のべた凪の状態は、終末論的な危機
感を描出してはいるものの、精彩に富む動作はない。しかし、この読みの行為が沿岸各地と海上と
いう船員教育現場にまで及ぶと、反応は大きく異なるものとなる。たとえば、わが国では二隻の帆
船が二世代にわたって 90 年以上、太平洋で乗船実習が実施されており、標準海事通信用語、赤道
無風帯、風力係数等、今もこの作品の諸点に一致する教育が実施されている。換言すると、帆船時
代と第一次世界大戦を凌駕する現代の危険社会の下にあるからこそ、本作品における船員気質を現
代人が再帰的に読み直す意義がある。
10
( 76 )
第 3 室(第 1 学舎 2 階 207 教室)
司会
関西学院大学教授
森
田
由利子
中土井
智
第 1 発表(11 : 10 より)
童話『漁師と女房』からマカリスター親子の語りへ
──『灯台へ』漁師の言説にみる intimacy の変遷──
神戸市外国語大学大学院生
ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』では、感情面で支柱となって家族を一つにまとめていたラムゼ
イ夫人の死後、一家は機能不全寸前に陥る。第一次世界大戦前後にわたり哲学者家族の姿を描く本
作品は、戦争を契機とした知識階級における家庭の天使の不在、それに伴う家父長的価値観の相対
化と家族という共同体を維持することの難しさを示している。
別々の方向を向いていた彼らが共通の物語を見つけるきっかけとなるのが、第三部で灯台行きへ
同行する地元漁師マカリスター親子の話である。親子は航海中、3 人が溺れ死んだという大嵐の経
験を物語る。
本稿では漁師を労働者階級のメタファーとしてこの言説に着目する。第一部では童話『漁師と女
房』中の架空の出来事であった漁師の物語が、第三部では漁師が語り手となって実話として登場し、
マカリスター親子とラムゼイ親子の間で共有されるところに、異なる文化圏の交流から新たな共同
体につながる想像力の可能性を読む。
司会
大阪大学准教授
小
杉
世
第 2 発表(11 : 55 より)
Analysis of the Space in Martha Quest
京都大学大学院生
李
超
Doris Lessingʼs works with the African setting cannot be discussed without reference to its connection with
space. The white settlers firstly went to the African land and started their life from claiming ownership to certain
parts of the land and deciding on what to plant on which part. I have analyzed the gender issue and racial issue
before in Lessingʼs early African works. Martha Quest, the first book of the “Children of Violence” series, with its
African setting, can also be considered as an African work. The story develops around the self-exploration of the
protagonist, which, however, is not thoroughgoing. The protagonist loathes the life style of her parents, but does
not dare to shoulder real responsibility for her own independence. Instead, she lays her hope on others. These
could be seen through the place she stays and her attitudes to the African land. Her relations with two men in the
story are also influenced and connected with the space they occupy. The story ends with the protagonistʼs
marriage, but the ending means that she entrusts her own fate to another person. This point could also be seen
through the land and space. Examination of various spaces in the story demonstrates that space is interconnected
with Marthaʼs identity and growth.
( 77 )
司会
大阪大学准教授
11
霜
鳥
慶
邦
高
橋
一
馬
第 3 発表(13 : 30 より)
なぜ Flory は拳銃自殺をするのか
Burmese Days における animal と beast の境界線
京都大学大学院生
George Orwell が 1930 年代に執筆した四つの小説は、40 年代の彼の二作品、Animal Farm(1945)
と Nineteen Eighty-Four(1949)と比較して、軽視されがちである。それら四作品に対する Orwell 自
身の消極的な評価も、その傾向を強める一因となっている。それゆえ、初期作品が後期の二作品と
同等に論じられることは、稀である。
本発表では、Orwell の長編処女作である Burmese Days(1934)を中心に扱い、主人公 Flory が、な
ぜ拳銃自殺という手段で自らの命を絶たたねばならなかったのかを考察する。その際足掛かりとし
て、ヒロイン Elizabeth が多用する ʻbeastʼ あるいは ʻbeastlyʼ という単語、また、二人が急接近する
きっかけとして用いられる ʻshootingʼ などの言葉に着目し、Animal Farm において顕著に表れる
「人間の獣性」という主題の萌芽が、本作品にすでに含まれていることを指摘したい。それによっ
て、小説家 Orwell の原点として Burmese Days が持つ意義を明らかにすることが、本発表の目的であ
る。
第 4 発表(14 : 15 より)
言葉を語る視線の行方
Elizabeth Bowen, The Death of the Heart (1939)について
神戸市外国語大学大学院生
丹
治
美那子
本発表では、言葉と密接に結びつくと見受けられる、独特の視線がコミュニケーションの手段と
して機能するかを考察し、作家が視線にこめた意味合いを探ることを試みる。
16 歳の少女 Portia が孤児となり引き取られた異母兄 Thomas 夫妻の家は、言葉が意志疎通の手段
として無力化された沈黙に包まれている。この異様な沈黙の中、とりわけ Portia と、Thomas の妻
Anna が互いに向けて投げかける、言葉の気配を醸し出す視線の応酬は奇妙ながらも、言葉に代わ
るある種のコミュニケーションであるように見える。しかし彼らが交わす視線は、他者に向けられ
ているようでありながら、結局は絶えず自己の内面に閉じこもる方向へと作用する。本作品におけ
る視線は、コミュニケーションを促すように見えながらも同時にことごとく拒絶し、また、他者に
向かう一方で自己の内部への埋没へと誘う、複雑な矛盾を抱えていると言える。
第 4 室(第 1 学舎 2 階 208 教室)
第 1 発表(11 : 10 より)
(発表なし)
12
( 78 )
司会
京都大学教授
廣
野
由美子
粟
野
修
第 2 発表(11 : 55 より)
【招待発表】
ハーディとメソディズム
──“Where novel-reading comes in, Bible-reading goes out.”──
佛教大学教授
司
イギリスの 19 世紀半ばは小説の時代であると同時に、宗教の時代でもあった。宗教と小説はそ
れぞれ包摂し合い、排除し合うという、微妙かつ複雑な関係にあった。この時代の小説家たちはそ
れぞれ宗教に対して異なった距離を置いたが、本発表ではトマス・ハーディの作品の登場人物中の
「有名な」メソディスト―『帰郷』のクリム・ヨーブライト、『テス』のアレック・ダーバヴィル、
短編「困惑した牧師」のリチャード・ストックデール―に焦点を当てることによって、19 世紀中
葉のイギリス宗教地図中のハーディ、あるいはハーディ小説中の宗教地図について考察したい。
「キリスト教についてまったく無知なままでヴィクトリア朝文学を読むひとは最初からハンディを
負っているのと同じで、終には二進も三進も行かなくなるだろう」というある文学史家の言葉がど
の程度真実なのかもそれによって明らかになるのではないか。
司会
大阪市立大学教授
野
末
紀
之
北
田
沙
織
第 3 発表(13 : 30 より)
An Ideal Husband に見られる揺れ動く力関係
京都女子大学大学院生
Oscar Wilde の An Ideal Husband(1895)は、あからさまなセクシズムが見られると批判を受ける
傾向にあり、例えば Kerry Powell は、Oscar Wilde and the Theatre of the 1890s(1990)の中で、この作品
には当時薄れつつあった、ジェンダーのステレオタイプを復活させることを目的とした、ワイルド
の意図が込められているのだと見解を示している。しかし、これには疑問の余地があるように思わ
れる。確かに、Robert や Arthur の発言には、女性に対する公平さを欠いた認識も見受けられるが、
ワイルドは、このことに関して、明確な立場を示していない。寧ろ彼の関心は、首尾一貫しない登
場人物たちの内にある不安定さや、相手に対し、互いに優位に立とうとする彼らの力関係が頻繁に
変わることにあったのではないだろうか。本発表では、強い立場にあるはずの人物が、いとも簡単
に弱い立場に転じ、反対に、弱い立場にある人物が逆転を得ることに見られる powerfulness と
powerlessness の曖昧性に注目しながら、登場人物たちの揺れ動く不安定な力関係ついて考察する。
第 4 発表(14 : 15 より)
【招待発表】
ウォルター・ペイターにおけるリアリズムと印象主義
──『ルネサンス』再読──
武庫川女子大学教授
玉
井
暲
イギリス世紀末の詩学にあっては、リアリズムの立場を継承しようと、反リアリズムの文学観を
立ち上げようと、主体(subject)と客体(object)との相互関係を意識し、そのなかで表現(representation)に立ち向かい、表現の可能性を探らざるを得ないという状況は不可避の問題であった。
( 79 )
13
それは、Walter Pater の aesthetic criticism にあっても同様であった。ペイターは、impression という経
験を根拠とする新しい詩学を形成したものの、この主客の相互関係から表現へと転化・展開するプ
ロセスにどのような折り合いをつけ、独自の詩学を作りあげたのか。ペイターの詩学は、客体それ
自体の堅固な存在を信じ、客体のありのままの表現をめざした John Ruskin とは大きく異なってい
ると評されているが、このペイターの詩学を、再度、Modern Painters(1843-60)や The Stones of
Venice(1851-53)に表されているラスキンのリアリズム観との関わりにおいて検証することを通し
て、その特質を確認してみたい。The Renaissance(1873)の再読により、ペイターの印象主義の検討
を行う。
第 5 室 (第 1 学舎 3 階 307 教室)
司会
京都女子大学元教授
桧
原
美
恵
野
真理子
第 1 発表(11 : 10 より)
“hapa”(ユーレイジャン)としてのアイデンティティ探求
──ハワイの日系三世作家、Susan Nunes の作品を中心に──
大阪女学院短期大学講師
平
1943 年にハワイ島の Hilo で生まれ、日本人の母親、ポルトガル人の父親を持つ hapa(白人とア
ジア人の混血) である、日系三世作家 Susan Nunes の A Small Obligation and Other Stories of Hilo
(1982)は、作者と同じく hapa の少女 Amy を主人公にした短編集である。異人種間結婚がまだ珍
しかった第二次大戦後のハワイの日系コミュニティでは、主人公 Amy は hapa であるがゆえにコ
ミュニティから疎外され、孤独や悲しみを感じつつも、自分を取り巻く様々な人々の温かさ、寛容
さに触れながら成長してゆく。本発表では、前掲書収録の三つの短編 “The Ebesu Girls”, “Hilo
Story”, “The Grandmother” を取り上げ、一般的な日系二世、三世とは異なる、hapa の三世である
Amy の、主人公/ 作家の人種・エスニシティを超越したアイデンティティについて考察したい。
司会 相愛大学教授
山
下
昇
今
舞
第 2 発表(11 : 55 より)
Black Boy, Part Ⅱに見る Richard Wright の南部意識
──その 15 章から 17 章に表象された北と南──
武庫川女子大学大学院研究生
Black Boy(1945)は当時のアメリカにおいて大きな旋風を巻き起こしただけでなく、今なお多く
のファンが存在する Richard Wright の代表作である。この作品は 1908 年に南部で奴隷の子孫とし
て生まれた黒人少年 Wright の自伝的小説で、黒人としての自我の形成が描かれている。青年と
なった Wright が自由を求めて出て行ったシカゴでの様子が描かれた American Hunger(1977)も出
版されたが、この物語は没後 1991 年に Black Boy の中に Part Ⅱとして編入・追加された。実はその
中の 15 章から 17 章は、Eight Men(1961)に収録されている “The Man Who Went to Chicago” とい
う作品とほとんど内容が同じなのである。本発表ではこれら Black Boy の Part Ⅱと “The Man Who
Went to Chicago” を比較検証し、北部へ移動した Wright がいかに南部を意識していたのか、そして
アメリカ社会における黒人と白人をどう位置付けていたのかを検証したい。
14
( 80 )
司会
京都大学教授
若
島
正
藤
篤
第 3 発表(13 : 30 より)
道化師の諜 ── Vladimir Nabokov の Look at the Harlequins ! 再考
大阪大学大学院特任助教
後
Vladimir Nabokov が生前最後に発表した長篇小説 Look at the Harlequins !(1974、以下 LATH)と言
えば、今日のわが国においては円城塔の芥川賞受賞作「道化師の蝶」(2011)の着想源として知ら
れる。しかしながら、この小説は従来、作者の半生や著作を随所に仄めかすその過剰なまでのセル
フ・パロディの手法を理由に、Nabokov のビブリオグラフィにおいて最も不出来な作品と見なされ
てきた。
そうした先行研究の LATH 評価に再考を促すにあたり、本発表では、Nabokov が折に触れて自作
にスパイ小説を彷彿させるモチーフを使用していたという事実に注目する。他の Nabokov 作品、
特に処女英語長篇小説 The Real Life of Sebastian Knight(1941)との主題的な結び付きをもとに LATH
を読み直すとき、登場人物による諜報活動の痕跡が随所に隠された本作の冷戦スパイ・スリラーと
しての横顔が明らかとなるはずだ。
第 4 発表(14 : 15 より)
(発表なし)
第 6 室(第 1 学舎 3 階 308 教室)
第 1 発表(11 : 10 より)
(発表なし)
司会
同志社大学准教授
藤
井
石
割
光
第 2 発表(11 : 55 より)
映画的ミメーシス
── Gravityʼs Rainbow における現実の表象
大阪大学大学院准教授
隆
喜
Gravityʼs Rainbow を最終頁まで読み進めた読者は、この小説が映画であったことを知る。作品の
この仕掛けはミメーシスの問題と捉えられ、Pynchon のミメーシスは現実ではなく映画というメ
ディアのそれであると論じられてきた。だが『重力の虹』における映画をミメーシスという観点か
ら子細に見れば、本作は従来考えられていた以上に現実のミメーシスを行うリアリズムの系譜を引
﹅
﹅
﹅ ﹅
﹅
いており、それゆえにポストモダンな(すなわち「モダニズム後」の)小説となっていることがわ
かる。Auerbach の Mimesis : The Representation of Reality in Western Literature における To the Lighthouse 論
を手掛かりに、意識とスクリーンの類似性(意識に映じる Woolf の現実と、スクリーンに映し出さ
れるピンチョンの現実)に注目することで、こうした点を見てゆきたい。
( 81 )
司会
京都大学非常勤講師
15
三
宅
あつ子
吉
田
亞
第 3 発表(13 : 30 より)
愉快なオデュッセイア
ヘンリー・ミラーのギリシャ
滋賀県立大学特任准教授
矢
『マルーシの巨像』(1941)は、ヘンリー・ミラーがコルフ島に住む親友ローレンス・ダレルの予
てからの誘いを受けて、ギリシャに 9ヶ月間滞在したときの感懐を綴った紀行文である。イタケー
に帰還するまでの前途多難なオデュッセウスの航海とは異なり、ミラーのギリシャとその島々への
訪問は、失われた自己を回復する好機として描かれている。怪物も出てこなければ、次の行き先も
決まっていないミラーの旅路だが、住み慣れたパリからギリシャへと迂回する形でアメリカに戻っ
ていくその道程は、『オデュッセイア』の筋書きと類似しているのではないか。世は参戦ムードの
最中、神話の国ギリシャで、ミラーは人間の原点を垣間見たに違いなかった。本発表では、『マ
ルーシの巨像』が、ミラーの人生にとって充溢した空白(ヴァカンス)とも呼ぶべき日々の記録で
あり、オデュッセイア風の旅行譚に仕上がっていることを明らかにしたい。
司会
京都女子大学教授
金
澤
哲
第 4 発表(14 : 15 より)
【招待発表】
狩人は声も立てずにわらう── Fenimore Cooper の饒舌と沈黙
同志社大学教授
林
以知郎
Natty Bumppo をヒーローに仕立てる意図もさだかでないままに The Pioneers を書き進めていた
James Fenimore Cooper が、手足の長い痩躯の狩人に造型として与えたのは、ときに発せられる「声
なきわらい」だった。やがて連作を形作るロマンス群の読者にとって Natty のトレードマークとな
るこの仕草を手立てとして、Cooper 作品の解読を試みてみることは出来まいか。哂う、または、
嗤う、仕草に文明の野蛮に向けられた自然児の失笑をみるべきか、バナールなジャクソン時代への
嘲 笑 を み と る べ き か。あ る い は 寡 黙 が 雄 弁 に 反 転 し て い く「沈 黙 志 向」(cult of silence, David
Simpson)にネイティブ・アメリカン言語の音楽性を聴きとるべきなのか。Natty の饒舌に忍び込む
「声なき」わらいに言葉の滞りと空白、沈黙を感じ取るならば、ロマンス・テキストの饒舌に紛れ
込んだ、言語の形を帯びきれない気配、痕跡のようなものを湛える場としての「声なきわらい」を、
皮脚絆連作のここかしこに聴き取ってみることが出来るかもしれない。
第 7 室 (第 1 学舎 3 階 305 教室)
司会
神戸学院大学准教授
出
水
孝
典
雅
大
第 1 発表(11 : 10 より)
1810 年から 2009 年のアメリカ英語におけるゼロ副詞の通時的変遷
京都大学大学院生
清
水
英語の副詞には、副詞語尾-ly を持つ形態(LY 副詞)と持たない形態(ゼロ副詞)の両方を持つ
副詞(両形副詞)が存在する。両形副詞の起源は古英語期に求められ、以来ゼロ副詞と LY 副詞は
競合してきたが、接辞-ly の生産性の一貫した増加によってゼロ副詞は減退し続けたとされる(cf.
Nevalainen 1997)。両形副詞には-ly の有無によって大きく意味が変わるもの(e. g. hard/ly, late/ly)と
16
( 82 )
そうでないものがあるが、本発表では後者に焦点を当て、そのなかでも頻繁に両形副詞として言及
される deep/ly, quick/ly, slow/ly を取り上げて、Corpus of Historical American English(COHA)を用いて、
1810 年から 2009 年のアメリカ英語におけるゼロ副詞の史的変遷を調査する。調査の結果として、
まず、それぞれの副詞の間にある関係について言及する。また、アメリカ英語はイギリス英語に比
べてより頻繁にゼロ副詞を使用するとされるが、これを “colonial lag” の表れであるとする伝統的
な言説が本当に適切であるかどうかを検証する。さらに、COHA の fiction ジャンルを dialogue と
narrative に分けてゼロ副詞の史的変遷を観察し、両者の関係およびゼロ副詞の持つ口語性について
考察を行う。
第 2 発表(11 : 55 より)
英語の感覚形容詞の意味素性と意味拡張との関わりをめぐって
大和大学講師
岩
橋
一
樹
本発表では、英語の感覚形容詞が語彙的意味として、ある特性の段階性、すなわち度合いを本来
述べるということが拡張された意味の理解にも関わることを示す。また、評価に関する意味は特定
の文脈で語用論的意味として理解されることも示す。こう考えると、感覚形容詞が本来の意味で使
われた場合でも拡張された意味を述べるのに使われた場合でも必ずしもある特性に対する評価を述
べるわけでないということが説明される。さらに、感覚形容詞によって述べられる特性の評価に関
する意味が、ある特性の程度が高いことに伴って文脈との関わりで理解されることも説明される。
また、そのことを示すために、本発表では、感覚形容詞の拡張された意味は、形容詞が述べる程度
に関する意味を基に、文脈との関わりで演繹的推論により理解されると主張する。
司会
立命館大学教授
藏
藤
寺
田
健
雄
第 3 発表(13 : 30 より)
【招待発表】
「部分摘出における wh 一致現象について」
大阪教育大学教授
寛
目的語名詞句の内部からの wh 句の摘出は、(1)の例に見られるように、一般に容認されるのに
対し、他動詞の主語名詞句からの wh 句の摘出は(2)のように容認性が低い。これは主語の島の
効果(subject island effect)として一般によく知られている。
(1) Which car do you see [ the driver of __] ?
(2) ??Which book do you think [ the authors of __] have gotten prizes ?
主語から摘出されたこのような wh 句が動詞と一致するのを好む英語の母語話者がいる。そのよ
うな話者にとっては、たとえば(3)の文は(2)に比べて容認性が高くなるという。
(3) (?)Which books do you think [ the author of __] have gotten prizes ?
同様の理由で、このような母語話者にとっては、(4)も容認可能である。
(4) (?)Which drivers are there [ a picture of __] on the wall ?
このような話者の文法においては、何らかの機能範疇が主語内部の wh 句を牽引するしくみとそ
れが一致素性の照合を行うしくみが密接に関連しあうと提案し、主語の部分摘出とその際に見られ
る wh 一致現象について論じる。
第 4 発表(14 : 15 より)
(発表なし)
( 83 )
17
シンポジウム要旨
英米文学部門(第 2 学舎 2 階 503 教室)
シェイクスピアの遺産―没後 400 年を記念して
司会・講師
立命館大学教授
竹
村
講師
関西学院大学教授
はるみ
小
澤
講師
京都大学名誉教授
喜
志
哲
講師 慶應義塾大学教授
常
山
菜穂子
博
雄
「かの人は一つの時代の人ではなく、あらゆる時代の人だ(He was not of an age, but for all time!)」
シェイクスピアの死を弔う目的で出版された『シェイクスピア作品集』にライバル詩人ベン・ジョ
ンソンが寄せた追悼詩の詩句は、シェイクスピアが死後獲得することになる栄誉を見事に予言した
キ
ャ
ノ
ン
言葉として知られている。いわゆる正統派文学の頂点に君臨する一方で、映画をはじめとする大衆
文化の寵児でもあり、目眩く文学批評理論が席捲したアカデミズムにおいても圧倒的な存在感を
誇ったシェイクスピアほど、普遍性と可変性に満ちた作家はいない。シェイクスピア没後 400 年を
記念する年に際し、本シンポジウムでは、シェイクスピアが英米文学に遺した足跡とは何であった
のかという根源的な問いを立てると共に、あらゆる時代と文化で生き続けるシェイクスピア作品の
文学的持続性の在り処を探りたい。
シェイクスピア没後 400 年の遺産と言うけれど―「二つ折本」の光と陰
関西学院大学教授
小
澤
博
創業者の遺産を三代目が潰すというのはよく聞く話だが、シェイクスピアの資産は世代から世代
へ、譲渡相続を繰り返しながら膨れ上がり、巨大な国際資本となって、増殖の勢いは止まりそうに
ない。
「没後 400 年」が喧しい節目のときに、我々は今一度シェイクスピア受容史の原点に立ち返
り、振り子の最初のひと振りを眺めてみるべきではないか。始まりは 1623 年の第 1・二つ折本
(First Folio、以下 F1)、その巻頭に収められたベン・ジョンソンのシェイクスピア追悼詩に遡る。
後代のシェイクスピア受容を先導し、遺産管理ともいえる役割を果たしたのは、僅か 80 行からな
るその詩句である。更に言えば、F1 なる聖遺物の編纂に道を拓いたのも、シェイクスピア没年の
1616 年に出版されたジョンソンの二つ折本『作品集』であった。
400 年の時が流れた今、当のジョンソンは文学史の彼方に消え、エイヴォン川の白鳥だけが川面
に優雅な姿を浮かべている。本発表ではシェイクスピア受容史の一角に光を当て、ジョンソンの無
念を少しばかり晴らしてやりたいと思う。
机上のシェイクスピア
立命館大学教授
竹
村
はるみ
詩聖シェイクスピアの誕生にロマン派詩人が一役買ったことは有名だが、そのロマン派詩人達が
一様に、舞台で観るよりも、書物で読むシェイクスピア劇を編愛したこともまた夙に知られている。
無論、ステージのシェイクスピアとページのシェイクスピアのどちらがよいか、などという不毛な
18
( 84 )
議論をする積りは毛頭ない。しかし、なぜシェイクスピアは読むだけでも面白いのかという問題は、
シェイクスピアの文学性を考える上で一考に値するように思われる。それは、劇作家としてのシェ
イクスピアと不可分である詩人としてのシェイクスピアの特性を問い直すことに他ならない。シェ
イクスピアが活躍した近代初期は、詩法や詩の目的をめぐる文学論がひときわ熱気を帯びた時代で
もあった。おおよそこうした議論の蚊帳の外にいたシェイクスピアが実践した詩学とは何であった
のか。
「技巧(Art)」ではなく「天性(Nature)」の詩人と評されるシェイクスピアの詩的言語の特
性を考察したい。
シェイクスピア劇の受容――ミュージカルの場合
京都大学名誉教授
喜
志
哲
雄
『ウェストサイド物語』が『ロミオとジュリエット』を下敷きにしていることはよく知られてい
るが、作品自体がこの事実を明示することはない。これに対して、
『間違いの喜劇』を原作とする
『シラキューズから来た男たち』や『じゃじゃ馬ならし』を原作とする『キス・ミー・ケイト』の
場合には、この関係はテクストで言及される。その結果、読者や観客はミュージカル版の作者たち
が原作はもちろん過去のシェイクスピア受容のあり方をもどのように意識しているかに注意を払う
ように求められる。通常のシェイクスピア上演の場合なら演出や演技によって伝達されるものが、
既にテクストに含まれていること、
『シラキューズから来た男たち』や『キス・ミー・ケイト』が
対象化しているのは特にロマン派のシェイクスピア観であることを、我々は理解するに至る。この
ことを、前者の “This Canʼt Be Love”、後者の “Brush Up Your Shakespeare” という二篇の歌に即して
吟味したい。
太平洋とアメリカン・シェイクスピア
慶應義塾大学教授
常
山
菜穂子
アメリカ演劇の歴史はシェイクスピアから始まった。ヨーロッパとアメリカとの関係に重点をお
いた演劇史観によれば、18 世紀以降、シェイクスピアとシェイクスピアを中核とする旧大陸の演
劇文化は西へと進路を取り、「文化の恩恵」として新世界にもたらされ、やがてアメリカの人と社
会と密接にかかわり合いながら独自のかたちへと結実したというのである。それは、シェイクスピ
アがアメリカン・シェイクスピアへと変容を遂げたとも言えるだろう。しかも、このような演劇文
化の西漸運動は東海岸にとどまるべくもなく、開拓の波とともにさらに西へ、やがて海岸線を越え
て太平洋へと乗り出していったはずである。
本発表では、従来の大西洋横断的なアメリカ演劇史が欠いていた太平洋の視点からアメリカン・
シェイクスピアを再考したい。具体的には、太平洋の島ハワイにおけるシェイクスピアの上演状況
と、ハワイに立ち寄りながら世界を巡業したシェイクスピア役者の手記を参考に、アメリカ帝国主
義的膨張において演劇文化が果たした役割を考えたい。
( 85 )
19
英語学部門(第 2 学舎 2 階 506 教室)
「英語学研究に基づく高校生・大学生のための学習英文法」
講師
京都外国語大学他、非常勤講師
高
田
哲
朗
講師
甲南女子大学教授
梅
原
大
輔
講師
関西外国語大学教授
澤
田
治
美
コーディネイター
京都教育大学教授
児
玉
一
宏
本シンポジウムでは、近年の英語学研究の成果を英語教育に活用するという視点に立ち、学習英
文法のあり方について、講師の先生方および会場の皆様とともに考察することを目的とする。
先ず、高田講師は、高・大接続を視野に入れたコミュニケーションに役立つ英文法の指導に向け
て、学習者の現状分析を踏まえた文法指導のあり方について提言される。次に、梅原講師は、英語
学研究と英語教育実践の観点から、品詞と文法関係をどう捉えるべきであるかについて、研究成果
を披露される。最後に、澤田講師は、補文の意味解釈というテーマを取り上げ、具体的な言語現象
として、感嘆文と WH 疑問文を中心に「前提」という観点から分析されるとともに、英語学習者
の知的好奇心を育てるために、英語学がどのような貢献を成し得るかということについて言及され
る。
英語学研究が学習英文法の補完にどのように寄与するか、その可能性について考察する機会とな
れば幸いである。
コミュニケーションに役立つ英文法の指導に向けて
――高・大接続の観点から――
京都外国語大学他、非常勤講師
高
田
哲
朗
コミュニケーション重視の流れの中で、高校の教育課程から「英文法」が消えて久しいが、それ
以後、高校生の英語力の低下が顕著になってきたように思われる。政府は、高卒レベルの英語力の
目標を英検「準 2 級〜2 級程度以上」としているが、昨年春の文科省の発表では、4 技能のうち
「読む」で約 73% が英検 3 級以下の中学レベルにとどまり、
「書く」「話す」も約 87% が中学レベ
ルとのことである。一方、近年 ALT との協同授業が恒常化し、ICT の利用が進むとともに、大学
入試もコミュニケーションを意識したものに変わってきた。以前に比べると、高校において英語の
学力を伸張させる環境が格段に向上してきたのは間違いない。しかしながら、地に足のついたコ
ミュニケーションに不可欠な「英文法」を身につけないまま大学に入学してくる学生が極めて多い
ことを実感している。この状況を踏まえて、正しい言語事実を反映したコミュニケーションに役立
つ英文法のあり方について考察したい。
品詞と文法関係をどう捉えるか――学習者のことばから見えるもの
甲南女子大学教授
梅
原
大
輔
学習文法はそれ自体が学習の目的ではなく、教師と生徒が同じ概念と用語を持ち、授業の中で理
解を共有するための手段であるはずだ。中でも品詞と文法関係は最も基本的で一般的な概念と考え
られるが、英語を専攻する学生でもこれをうまく理解できていないことが珍しくない。
本発表の狙いは、大学生の英語学習者が品詞と文法関係について行う説明を分析し、学習者がこ
20
( 86 )
れらの概念をどのように把握しているのかを取り出すことにある。特に本発表では、形容詞と外項
(external argument)の間にある意味のつながりを意識しつつも、主述関係と修飾関係を区別できな
い学習者の例を中心に取り上げる。構文と意味の対応関係を把握する力の弱さ、「かかる」という
曖昧な語の使用、日本語の文法による影響、「補語」や「目的語」についての独自の解釈などを
キーワードに、学習者のつまずきの原因とその乗り越え方について考えたい。
補文の意味解釈をめぐって――特に感嘆文と WH 疑問文を中心に――
関西外国語大学教授
澤
田
治
美
本発表では、補文の意味解釈をめぐって、特に感嘆文と WH 疑問文を中心に、「前提」という観
点から考察してみたい。
学生(もしくは、生徒)から、以下のような質問があったとしよう。
(1)疑問文と感嘆文の区別はどうやってつけたらいいでしょうか。なぜ、両方とも、WH がつ
いているのでしょうか。
実は、この問題は掘り下げると深い問題にいき着く。なぜなら、疑問文と感嘆文の両方の解釈が
可能な文が存在するからである。次の例の補文は、感嘆文と WH 疑問文とに多義的である。
(2)Tom knows [ how high Mt. Everest is] .
意味解釈の観点から言えば、この多義性には話し手が持つ前提が関わっている。①感嘆文の解釈
では、話し手の側に「エベレスト山は高い」という前提がある。「トムは、エベレスト山がいかに
高いか知っている」である。一方、②疑問文の解釈では、そのような前提はない。
「トムは、エベ
レスト山の高さがどれくらいあるか知っている」である。では、感嘆文と WH 疑問文はいったい
どう違うのか。
日本語で考えてみると、「いかに高いことか」と「どれくらいの高さがあるか」の違いは一目瞭
然である。「広さ」と「広い」、「重さ」と「重い」、「深さ」と「深い」、「強さ」と「強い」、「長さ」
と「長い」も同じではない。しかし、英語ではこの区別が同じ表現になっているために、理解しに
くい。しかし、この区別は、英語の比較級を解釈する場合に重要である。
本発表が、学生(もしくは、生徒)がことばの理解を深め、英語あるいは日本語の構造や意味に
注意を払わせ、言語学習に対する好奇心を育てることに貢献できれば幸いである。
( 87 )
大会準備委員
委 員 長:
新野
緑(神戸市外国語大学・英文学)
副委員長:
桂山
康司(京都大学大学院・英文学)
英文学部門委員:
桑山
智成(京都大学)
川島
健(同志社大学)
中西
佳世子(京都産業大学)
藏藤
健雄(立命館大学)
米文学部門委員:
柏原
和子(関西外国語大学)
英語学部門委員:
児玉
一宏(京都教育大学)
開催校委員:
西川
健誠(神戸市外国語大学)
(五十音順、敬称略)
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