『軍隊と医学・医療ー『軍医団雑誌』の分析を通じてー』

Vol. 4 No. 1
ISSN
1346 – 0463
October,
2003
Journal of Research Society for
15-years War and Japanese Medical Science and Service
15年戦争と日本の医学医療
15年戦争と日本の医学医療
研究会会誌
第4巻・第1
巻・第1号
2003
2003年10月
10月
目
次
第10回研究会特集
10回研究会特集
1942年(14歳)から1953年までの中国での体験・・・・・・・・・・・・・・・松下周一
15年戦争下の京都大学医学生の結核調査活動の報告治安維持法による弾圧・・金森ひろたか
軍隊と医学・医療-『軍医団雑誌』の分析を通じて-・・・・・・・・・・・原田敬一
雑誌「人性」を読む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・莇 昭三
書評
七三一部隊「老兵の告白」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・竹内冶一
医学の歴史 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川 汀
23
第4回(2003年度)総会報告 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
24
ご案内 15年戦争と日本の医学医療研究会 第11回研究会・・・・・・・・・・・・・
25
中華人民共和国訪問調査研究について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
26
会則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
27
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
28
1
6
9
18
23
Articles
Special Editions for the 10th Conference
Experience in China, 1942 (14 years old) - 1953 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Shuichi MATSUSHITA
Investigating activity of tuberculosis by the students of Kyoto University during the 15-years war
Its crackdown by the Maintenance of the Public Order Act ・・・・・・・・・・・・・Hirotaka KANAMORI
Military and Medicine Through the Analysis of "Gunnidan Zasshi" ・・・・・・・・・・Keiichi HARADA
Analysis of the monthly Journal "JINSEI" ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Shozo AZAMI
Book review
731 Unit “Confessions by the old soldiers” ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Jiiti TAKEUCHI
History of medicine・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Migiwa HOSOKAWA
Resolution of the 4th General Assembly・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Information
The 11th Conference・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Call for research visit in the People’s Republic of China・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Regulation・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Editorial Note・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
15年戦争と日本の医学医療研究会
15年戦争と日本の医学医療研究会
Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
2003 年 10 月
第 10 回 15 年戦争と日本の医学・医療研究会記念講演
1942 年(14 歳)から 1953 年までの
中国での体験
松下周一
京都戦後処理を進める会、中国帰国孤児全国協議会、中国医大友の会
Experience in China, 1942 (14 years old) - 1953
Shuichi MATSUSHITA
Kyoto Association for Promotion of the Postwar Procedure,
Association for Returnee Orphans from China, Fellow Club of China Medical School
キーワード Keywords: 満州 Manchuria、義勇隊 volunteer army、鶴岡医科病院 Tsuruoka Medical
School Hospital、瀋陽医科大学 Manchuria Medical School、従軍看護婦 nurses attached to the
army、人民解放軍(八路軍) People’s Liberation Army
1.はじめに
1.はじめに
本日は大変立派な15年戦争医学医療研究会総会
にお招き戴きましてありがとうございます。
私も15年戦争を体験してきた一人として今まで
に何回か平和ミュージアム、大阪などで体験発表を
行ってきましたが、今日は久しぶりに緊張して準備
して参りました。
表題にも紹介戴いてる 1942 年-14 歳で志を大きく
いだき現中国(元満州)での体験してきた 15 年戦
争と日本医学医療研究会の皆々様と共通する内容に
ふれながら務めたいと思います。又、それは侵略戦
争遂行の国策としての満蒙開拓義勇軍開拓団の中国
侵略のための国策であった事、当時の日本帝国政
府・軍部(関東軍)が中国侵略 植民地化に民間人
をだまして利用し、かつ見捨てたかを明らかにする
ことであります。1 少年義勇兵には 3 年したら 10
町歩の土地を国が与えてくれると国がだまし、45
年 8 月 8 日まで送り出してきました。
私は 4 人の兄弟の次男として昭和 2 年 2 月 3 日京都
府船井郡和知村長瀬作農業貧農家庭に生まれ、父母
は他人の田地田畑(3 反歩)をあづかって年貢を納
め私有財産すらない家庭でした。父は他人の人々の
山林を借入れて炭焼農業を続け、「カマド」に火を
入る時は、3、4 日自宅に帰らない日が続きました。
母は 1 人で他人の所有田地田畑仕事に出稼ぎを続け、
4 人の兄弟を育て上げてきました。当時、小学校、
高等小学校(現中学)制度がありましたが、只私 1
人は高等小学校に入学させて戴きました。それを私
は小学五年生級長を務めた為に私には得に父母は期
待していたようです。私は幼いころからやんちゃも
んで、他の家の子供さんを泣かせた事も多く、父母
がよく謝りに行ってた事も今もって思い起こします。
兄は京都に小学校卒業まで奉行に、姉は綾部郡是製
紙工場へ同じく小学校卒業で家から外へと私の在学
中は 5 年生で何とか生計を保てるまでになっていま
した。
当時 1940 年 2 月兄に召集令状が入り、満州東北部
牡丹江 441 部隊への入兵の通知が入り、父母の心痛
はひとへに悲しんだのです。
幾日かしてから兄からの手紙には心さびしく厳しい
毎日の軍事訓練、朝早く夕おそくまで続き、太陽が
地平線から出て夕も地平線に消えていく広野の状況
の手紙も送られる日々が何度か。
当時 1941 年 12 月まで卒業を前にした時学校担当先
生が放課後とくに次男坊を集めて、満州へ少年義勇
団として志願しないかと説得が 2、3 日続きました。
その内容は 4 項目で
した。
14 歳頃(卒業前)
一、「八紘一宇」
天皇の政(まつりご
と)を世界に広め、
全世界を一つの家族
のようにする。
二、「王族協和」
五族(満州)に住む
五つの民族が心を一
つにして仲良くする。
三、「王道楽士」
天皇が国土人民を道
義をもって心を一つ
にして楽しい土地と
する。
四、「大東亜共栄
圏」日本を中心に中
国朝鮮などアジヤ州
東部の国々が共存共
* 連絡先:〒600-8455 京都市下京区西洞院通五条上る八幡町 535
Address: 535 Hachimancho, Gojo-agaru, Nishinotoin-tori, Shimogyo-ku, Kyoto 600-8455 JAPAN
-1-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
October, 2003
栄の関係を作る。
私が勇気をもつ事で切り開く事が我家の貧農から
脱出できると「おさない私の胸を」打った。又先生
いわく、3 年義勇隊訓練を終えれば政府から大地に
10 町歩が支給される。
でも私の令状志願では父母は許さないだろうなぁ、
などなど考えたが強行に走った。
父親が或る日炭焼きに山に登って帰宅しない日を
選んで家のタンスの中を探して父親の実印を見つけ
志願書に捺印し学校先生に提出致しました。二週間
も経ったでしょうか。
学校側から子息から志願書を戴いて出発日の決定書
が入り、父は騒然となり急いで学校に抗議しに行き
ましたが、もうすでに行政機関を通過しての通知書
ですといわれ急いで帰宅し、父は私をぶち、母は泣
き崩れ 2、3 日の間、両親は気が抜けたようにぼう
ぜんと。
私は絶対に 3 年終えれば松下家を大地に呼び寄せる
堅い約束をつけた事は今でも忘れられません。
いよいよ決まり和知村から 3 名が出発する事とな
り私が代表で役員立所前で挨拶を命ぜられ「元気一
杯頑張ってきます」
後、列車に乗車一路、茨城県内原訓練所へ向かった。
訓練生活では、農業訓練、軍事訓練が日々続く。
年少の為、きびしい訓練にたへきれず、わが里を
しのんで円形型の二輪宿舎の 2 階のすみで、くすく
す泣き声、朝一番起床すると 3、4 名が夜中どこか
へと飛び出し、歩哨口に預かっているとの隊への連
絡。小隊長は急いで引き取りに、宿舎に連行される
や小隊長中隊長の罵声が飛び交う。
毎日起床するや広場での軍事訓練、予想もしなかっ
た軍事訓練が毎日のように夕方まで、其の後農事訓
練、茨城県内原訓練所生活も 3 か月終え、いよいよ
日本を離れる日時が決まり、福井県敦賀港から朝鮮
清津港、列車で満州大地白城市鎭東県大崗訓練所へ
到着。これから受ける処は広い広野、何処をながめ
ても地平線、小さい丘があって土地をふっと見るや
塩のようなものがふいている。農作物不作のアルカ
リ地帯。
私たちが入植するまで先輩たちが他の地に移動とか、
その近辺に私達 4 ヶ小隊の宿
舎中心部に本部炊事場がある。
其の前に国旗掲揚台。軍事訓
練の日々が続く。宿舎後方部
荒地の開拓、地ははるか広く、
夜中歩哨に 1 時間立哨。夜中
深くなると狼の鳴き声遠くに、
オーオーと叫んでいるときは
立っている私たちの 50m 手前
とか、皆が感じたと思います
が、生きた心地さえない恐ろ
しさ。聞いた話では、如何の
場合早速マッチをつければ散
乱するとか。又食料は余り豊
富でもなく夜中倉庫に入り食
料を持ち出し、或る小隊部屋
-2-
で夜中食事の
義勇隊入隊直後
匂い、明朝幹
部に報告され、
大ビンタ。そ
れでも幾日か
続いた。
人々から聞か
された事、或
る幹部が幹部
宿舎で風呂に
入っている姿
を見て、5、6
名が 5 寸釘で
の脳挫傷で死
亡との事。こ
の事について
いまだに真実
を語ろうとす
る人はいません。私達の隊員名簿では「病死」とな
っています。前段が真実ならば親族はさぞ心痛の思
いでしょう。刑事実案を起こした隊員は日本では刑
務所にあたる、それなりの訓練所(北満朝水訓練
所)に 5、6 名が送致されたとか、詳しい内容は未
だ謎につつまれたままになっています。当時、私は、
2 人で中国人街、鎮東商街里(中国語で商店街のこ
と)に買物に出かける仕事、4 里ばかり道を馬車で、
早朝出発、夕暮帰隊する毎日で、詳しい内容を知る
すべもなかったのです。すると幾日がたったでしょ
うか、新しい軍隊では上官クラスの幹部が編入され
当時の中隊長は責任を取って内地帰還との事。この
事案は昭和 18 年 8 月中旬のころと記憶しています。
なんと恐ろしい事件、今日まで各人の著書を読みつ
づけてきましたが、この事件著者は発見出来ず、今
日です。何人でも人の命を奪うことは許されないし、
事実関係は日本政府すら「ホウムッテ」居る状況。
満州開拓義勇軍資料は余り知られない今日です。私
たちの慰霊碑には毎年 5 月第 2 日曜日午前 10 時に
参拝、蜷川虎三知事当時、高台寺に建設、靖国神社
とは違って合祀はされていません。約 500 名が眠っ
ています。
義勇隊の開拓作業
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
2003 年 10 月
1945 年 2 月私達現地に住む年少者 19 歳で召集令状
が下り黒龍江省チチハル高射砲隊に入隊、日々軍事
訓練は続きましたが、古参軍隊はほとんどいなく、
後で聞いた話では上官クラスは既に日本が敗戦する
ことを知り、日本に逃亡、一般兵隊は南方へとか。
私が終戦を知ったのはチチハル。軍服を着用してい
たため、ソ連兵に連行一路、黒龍江省北端黒河へと
列車は向かい、翌日にソ連ブラボエスチニクに黒龍
江から上陸、数多くの年少軍服姿が群がっていた。
時検査官らしきひとが 19 歳-20 歳以上をふり分け、
我々19 歳組は再度黒河に逆送 20 歳以上はソ連兵の
連行が続き木材伐採、シベリア生活を余儀なくされ
たとか。
我々黒河逆送組は黒河での野宿が始まり、まづ食料
がない。ある中国人がトウモロコシ、コウリヤン、
アハなど麻袋に入っているものを多く差し入れて下
さり、軍隊のハンゴウでくいしのびました。
或る日から 50 名余を 1 組と編成され、南下指示が
あり、黒河より北安へ 2 泊 3 日かけて踏歩で逃難。
食料もなく夕幕野ネズミが走るのをつかまえて、別
ち合ったおぼえは未だに脳裏から離れません。やっ
と北安に到着。日本人の難民収容所は元満鉄公社倉
庫が 4 棟程ある所。もうすでに 1000 名余り収容さ
れ、南下を待つ人々で、その所にも食料が十分でな
く栄養失調で、麻袋をふとん変りござの上に連なっ
ての寝床。
朝起きると 5 名、ある時は 10 名、命を絶っている
人、遺体を当時収容所近辺にあった元飛行場地に穴
を掘って埋葬の日々が続いたのでした。
私は決意を燃やした何人かと私の習った中国語を
生かして「八路軍」への「参軍」で食料調達方法を
考え、いくらかの食料野菜類の配入が多くなり、其
の後第 1 次南下、第 2 次南下が続きましたが、第 3
次の南下はかなり遅れて体調も順調の人々。
いよいよ北安からの最後の南下命令が下った。然し、
南下どころか残留し八路軍に参加した者にはなんら
連絡がなく、遅れて知った私は外の 2 人には連絡も
とれずに、強引に最後の南下を希望し列車に飛び乗
りました。しかし列車は東へ東へと満州東部ソ連国
境近辺鶴岡炭鉱興山収容所へ再び入ることになり、
近辺には興山東山西山炭鉱が。拡大な處、日本人収
容所も 2000 名存在とか、又元関東軍陣地工築を強
いられた中国人(孫呉―愛琿―ハイラル)工作員が
東鶴岡にラチ、収容されていた事を後日私は知りま
した。
私は再び鶴岡炭鉱元医科大学付属病院(鶴岡医科病
院)に配属命令があり、当時蒋介石軍、中国解放軍
の戦いでの傷病兵が送り込まれた時、院長も日本人、
看護婦さんも多く、日々の医科業務、私は通訳兼研
究のための「犬の飼育」飼育犬の子育て医学研究モ
ルモット。
資料 1)の鶴岡矯正補導院、陳明徳氏証言によれば
一、破傷風患者病棟への出入りを看護婦さんは
渋った。中国医大、鶴岡、瀋陽にも特別施設、
看病―当時十分な医薬、医科手当指導者も少
なく、日本の看護婦さんも誰もが当番で出入
-3-
することを拒んだ
施設内の者は元日本軍の地下横工作員、又
反戦運動思想家(中国人)の犠牲者集団、ハイ
ラル、孫呉、愛琿の中国人労働者犠牲者集団
で鶴岡へ移送された者。
二、近辺に居住する看護婦さん、お医者さんは
昼は急務、週 3 回、夜 6 時附近の集会所で魯
迅、毛沢東語録勉強集会、人民解放の講習会、
指導、軍歌が毎日のように開催
私は八路軍軍歌指導も行って一時は大飛躍があり各
人の過去の自己批判大会人民裁判のよう。元日本人
憲兵隊員が非合法的に銃殺刑を受けたのは今でも忘
れられません。
鶴岡医科病院での傷病兵も少なくなり当時、日本人
医長、九州出身、松原勲夫先生外 80 名は元奉天瀋
陽医科大学病院へ転院が決まり一同に南下しました。
当時延安組と思われる人が次々と民族幹事。日本人
が派遣され、徐々に南下、瀋陽医科大学病院、第一
次南下大連にて 3 ヶ月待機、こうして半数は大連へ
と向かいましたが、私は南下を後半に廻され、先生
に「たへられない」診断書を書いて戴き、前半の大
連組と一緒になり、いよいよ 1953 年 10 月大連出日
本舞鶴港へと高砂丸は向かいました。しかし帰国し
舞鶴港に着いた時、私達 20 数名は本隊から一週間
米軍らの手で隔離され、其の後みんなのカンパで東
京千駄ヶ谷へ意思表示に上京、やっと故郷の丹波へ
帰ることができました。
無事に家へ戻っても日本の公安に尾行されました。
先に上京した時世話になった当時の生健会の役員さ
ん(撚糸工場を経営)のお世話で就職するまでずっ
と尾行が続きました。
広島県出身小林忠子(元従軍看護婦)は、その後
鶴岡医大でともに苦難を強いられた看護婦さんで、
その後女房(小生より 8 歳年上姉さん女房)ですが、
彼女は私と同じ経験を致しました。彼女は過去軍国
政権の中国従軍看護婦として苦難の道を、1953 年
に祖国広島へ帰国するや、父母は広島現原爆塔川沿
いから入った現商店街で開業医を開いて原爆犠牲と
判る。元々父は因ノ島で開業医を行っていたらしく、
私が 6 年間独自調達を行った結果、姉妹が因の島で
本家を売り払って実在している事が判り、兄は東京
大学卒業後、大阪での戦争犠牲者に確認され一同に
心痛が走りました。その後、2 人は結婚を決めて京
都数箇所で間借りをしながら、私はある染色工場に
入社しました(ボイラーマン)。その後 8 月 6 日原
爆塔参拝をかかさず参列していましたが、昨年義姉
が亡くなり、私の女房も本年 2 月 14 日、5 年間の
入退院をくり返した後この世を去りました。
入社した工場は、残業費カット、組合すらない状
態、私は許されない、働く仲間作りをと思い仕事お
えてから私の知る人に訴えました。早速に人権上の
権利を知ってもらう為、毎晩ガリバン-トウシャバ
ンすりのビラ作りを始め、当時の各所の労働組合に
も訴えつづけ昼休時間にビラ配布。各地域労働組合
の支援を受け、いよいよ朝 8 時 30 分出社しました
ところ表門「へいさ」ロクアクトかけ、私はよじ登
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
October, 2003
って開け組合結成、市内 4 労働組合も支援参加。私
は不当侵入で警察に逮捕、黙秘で闘い続けました。
組合は認める、松下が辞める条件で和解。
その後タクシー界に入り、又もや、2 回目の労働争
議 1970 年。京都でしにせホテル、京都ホテル、現
京都ホテルオークラでの解雇闘争 5 年。京都地裁、
大阪高裁、和解原職復帰勝利。この間学園もしかり、
他の争議団も加わり抗議行動も行われました。今は
亡き清水寺勧学局長故福岡精道先生、故重沢俊郎先
生、故末川博立命大総長、故西山夘三先生の激励を
受け闘い続けました。自動車教習所偽装解散闘争を
していた争議団長で後に日本共産党市議を 5 期務め
た山本豊さんの支援も受け、今も励ましあっていま
す。その 2 年後まで個人タクシー京商連に参加し個
人タクシーを 24 年間営業。
中国医大友の会が 1967 年に発足しました。当時
80 名ほどでしたが、年令が進み、現在 40 人ばかり
参加、友の会こそ青春時代を思い思い色々学んだ仲、
年老いて最早、名簿案内、打合せと今まで 4 回幹事、
2004 年は東京幹事に申し送りました。
残留孤児肉親調査が 1981 年から始まり、やっと日
本政府が腰を上げつつありましたが、今だ残留孤児
は他国死別。二世がいまだに日本民間団体に呼びか
けています。1981 年身元引受人担保人 8 人(身元引
き受け登録番号 26-1)
1994 年、戦後処理を進める会発足結成、早速に
京都府に申し入れ、会長松下周一、副会長故福岡精
道、事務局長故杉本源一(平民懇)、溝口幸子(平民
懇)、元義勇隊の井田照夫と前田定雄
元清水寺勧学局長故福岡先生は亡くなられて 6 年
(パーキンソン病)、私は 16 年間のお付き合い、
買い物、病院通い、上京病院入院付き添い。① 病
院での 37℃の熱発の時、全国革新懇電報、② 病を
おして全国革新懇へ東京迄の時八条口送迎、③ 私
の自序伝の原稿保管、ある書房に紹介、発行前とか
のお話。現在未回収。
2004 年幹事
-4-
前段をまとめ上げますと「人の命まで奪う政治は許
せない」ということです。
戦争が終わって 59 年になるというのに、処理し
なくてはならない問題大きく残されたまま、とりわ
け満蒙開拓義勇軍のことは、あまり知らされていな
いし、この人たちに対する施策は皆無に等しいので
す。
わずか 14 歳の青少年が侵略戦争の一翼を担い、満
蒙開拓青少年義勇軍の 1 員として当時のソ連、満州
国境「現中国東北部」に派遣された、今の中学 2、
3 年生と同年代の少年たちのことです。
学校で義勇軍への志願を勧誘した教師の話は、現
実とは違っていた。「だまされた」と大人の教師を
恨んだ。「帰りたい」と泣いた。ソ連軍が侵入して
くる、鉄砲が涙で光り、苦しい逃避行がつづく。開
拓団や、残留邦人を見捨てて一番先に逃げたのが帝
国陸軍最強といわれた関東軍だったのです。京都府
からは 2000 名が義勇軍に、400 名が亡くなってい
ます。そして今なお消息不明の人が府下 33 名もあ
る。残留孤児の希望が行政手続きの怠慢で放置され
たままになっている事例もこのとき 3 件も出てきま
した。宮津市のこの 3 名のことを取り上げ、京都府
と 1996 年に交渉、「私たちも協力するから、この
人たちのことを探しあててもらいたい」と申し入れ
ました。
元軍人関係では、一部恩給が支給されていますが、
一般邦人が多く狩り出され、元日本軍隊は一般邦人
関係を切り離しました。これらの一般邦人は他国に
残留させられ命を奪われ、当時、2 歳~7 歳の子供
と離ればなれ、未だにこの問題は未解決の状態です。
私はこのような過去を経験してきた者としてこれ
らのことを見捨てる訳にはいかず、1987 年から親
子対面活動に務めてきました。
現在の状況では、過去の一般邦人の他国籍は各自治
体の保管になっている状態で、係者が閲覧を申し入
れても許可
してくれま
せん。
被爆擁護法
の制定も未
だ未解決で
す。
私の過去の
人生観を記
して 21 世紀
を邁進され
る皆々様に
過去の誤っ
た 道 ( 国
勢・軍国主
義)の介入
を許さない
ためにも人
権を奪わせ
てはなりません。
著者
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
2003 年 10 月
今の日本の現状は、戦後 59 年目になっているのに、
アメリカの支配は未だに続き、何故に軍事予算を計
上せねばならないのでしょう。
76 歳を超えた私、老後を安心して暮らせるどころ
か、老人医療費の負担増・消費税増額、その一方で
米軍は日本本土において、好き放題の軍事飛行を、
自衛隊、民間企業をも巻き込んだいわゆるガイドラ
インの完全な実行を迫っています。
私達は過去の歴史を正しく認識し、2 度と戦争反
対の立場を尊重し、21 世紀こそ住民本位の国政建
設に邁進しましょう。
参考文献
1) 政治協商会議黒龍江省委員会文史資料弁公室、
不能忘記的歴史、1985(兵庫県日中教育分科交
流会訳、忘れることのできない歴史-731 部隊の
記録-、1993)
新聞夕刊 1970.1.17
朝日新聞夕刊 1970.1.17
毎日新聞
-5-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
October, 2003
15 年戦争下の京都大学医学生の
年戦争下の京都大学医学生の
結核調査活動の報告
治安維持法による弾圧
金森ひろたか
斐川生協病院
Investigating activity of tuberculosis by the students of Kyoto University
during the 15-years war
Its crackdown by the Maintenance of the Public Order Act
Hirotaka KANAMORI
Hikawa Serikyo Hospital
キーワード Keywords: 戦時下の紡績労働者の生活 Life of workers in spinning industry during the war、京
都大学結核研究部 Kyoto University Research Club of Tuberculosis
はじめに
昭和 16 年(1941 年)の戦時下、京都大学医学部に、
結核研究部が作られた。昭和 16 年夏休みの 2 ヵ月
間、福井県勝山町(今は勝山市)の保健所を中心に
行った学生の調査活動の報告書の概要を述べ、その
調査にまつわる戦時下の治安維持法による弾圧と、
いろいろの不幸な結果について述べる。
この調査報告書は、昭和16年、7月8月の夏休
みに行われてまとめられ、勝山保健所より福井県衛
生課を通じて発行されたものである。しかし調査に
参加した学生であった私たちに入手できたのは、戦
争が終わって、30 年もたってからであった。指導
教官の佐川先生の手元に一冊あったのが偶然、仲間
の手に入ったのである。
報告書の復刻刊の刊行が実現したのは、40年以
上たった 1983 年 2 月である。復刻された本文は、
1941 年に作られた「勝山地方における工場労働者
の調査活動」である。
その間 40 年近く、調査活動に参加した人が、そ
のために弾圧され、又無残にも戦死、あるいは戦病
死させられたことを、漸くにして明らかにすること
になり、やっと「追悼」することができたのである。
1. 京大結核研究会生まれる
1940 年秋、京大医学部の学生の中に、読書会形
式の「結核研讚会」が生まれた。三回生を中心に約
20名のサークルであった。
このころは第二次大戦の前夜であり、民主的な運
動は殆ど根絶やしにされ、世を挙げて戦争協力一本
に進んでいた時代であった。こうした中で、大きな
社会的矛盾が生まれ、その一つとして、戦時下の青
年の中の結核病はかつてない勢いで、蔓延していっ
た。
最大限に青少年を軍隊に動員しようとした陸軍省
が、「結核から青少年を守れ」と叫ばざるを得なく
なり、この時期にはじめて厚生省が作られたり、結
核対策を進めるために保健所が作られたりしたのも、
こうした矛盾のあらわれであった。
1940 年、松田道雄氏の名著「結核」が生まれ、
広く学生の間で読まれた。また、東北大学の高橋実
氏の「東北一純農村の医学的分析」も、同年発行さ
れ、医学生のヒューマニズムをかきたてたのは当然
のことであった。
1-1. 結核研究会の発展 実践的活動へ発展
こうした中で、結核研讚会は、読書会を地味に精
力的に行うとともに、講演会、学生のツベルクリン
反応検査、看護婦・学生の集団検診と喀痰検査など、
活動を多面的に繰り広げ、6 ヵ月もたたぬ間に 40
名をこえる医学部の中の最も活動的なグループに発
展し、結核研究部と仮称した。
1-2. 集団検診の試み
1941 年春、1 人の仲間が、厚生省、結核部を訪問
し討論した。その討論内容をみんなで話し合ったこ
とがきっかけとなり、読書会活動と並んで、社会衛
生の研究を進めようという方針が決まった。結核課
と連絡を取るうちに、結核予防会の後援で、京都の
西陣の結核調査に取り組むことが決定した。京都府
は結核の汚染度が高く、西陣といえば、社会衛生学
的に非常に問題の多い地域であった。研究部員の意
気は大いにあがり、早速西陣調査の準備活動に入る
ことになった。西陣調査のための社会衛生学的な学
習や予備調査を進め、学生の結核調査や、学生食堂
* 連絡先: 〒699-0631 島根県簸川郡斐川町直江町
Address: Naoecho, Hikawacho, Hikawagun, Shimane, 699-0631 JAPAN
-6-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
2003 年 10 月
んは潜水艦勤務となり帰らぬ人となった。神戸の戸
嶋先生は東部ニューギニアの潜水艦勤務となり、死
の一歩手前で生き残り台湾まで帰った。そこから出
したハガキが家に着いて生存を確認したまもなく、
「戒名や告別式用の引き伸ばしの写真、海軍大臣の
弔辞」などが家に送られてきたという、笑えぬエピ
ソードも残っている。
また、京大結核研究部弾圧事件に関連して、農学
部、経済学部や他大学の関係者のなかにも、かなり
広く弾圧が行われ、犠牲者もあり、戦後の民主主義
の発展の歴史のなかで色々の軌跡を描いていったこ
とを一言つけくわえておこう。
の栄養実態調査などを行ったりして、準備活動は
着々進んでいったが、しかしどうしたことか突然、
充分な理由を告げぬまま、西陣調査の中止が決定さ
れた。
2. 福井県勝山町の調査実現
西陣調査の中止で、同時に厚生省の方で、各大学
医学部学生を主体に、全国的な結核調査を行う企画
が決定された。
西陣調査を中止させられた京都大学の結核研究部
は、福井県勝山保健所の協力で、勝山地方の中小企
業の調査を行うことになった。
私たち学生 14 名が、「結核予防会及び大日本産
業報国会後援」の「京都帝国大学医学部実務班」と
いういかめしい名前で調査に参加することになり、
7 月から 8 月一斉調査を行った。
結核研究部では、西陣調査のための事前準備をし
ていたから、かなり膨大な調査を企図し、実施する
ことができた。しかし、一番大切な調査のまとめの
仕事で大きな障壁にぶつかった。
2 学期になって、主力であった四回生の卒業が3
ヵ月繰り上げられ、まとめる体制は三回生がするこ
とになった。その三回生も卒業が6ヵ月早まり、
1942 年 9 月卒業予定となり、まとめきる体制を十
分作ることができなかった。
4. 調査報告書は抹消できなかった
調査報告書は抹消できなかった
40 年後とはいえ、戦前の北陸地方の調査は活動
報告は、私たち調査した学生には渡されなかったが、
指導教官の一人佐川先生の手にある1部が偶然一人
の仲間の手に渡り、参加者数人の手により、公刊す
ることができた。おそらく学生諸君へは渡すつもり
はなかったろう。
3. 結核研究会活動に対する弾圧
調査活動が終わって報告書を提出した。結核研究
部の活動が終わったあとで、結核研究会活動を戦争
とファッシズムにより、私たちは大きな不幸と犠牲
を受けたことを報告する。
昭和 8 年の滝川事件以後も、京都大学を中心とし
た「世界文化の弾圧」昭和 15 年には京大学友会学
芸部の検挙、また、朝鮮人学生グループの検挙、府
立医大結核研究部の検挙など、学生運動への弾圧は
続いていた。
当時の「特高」は、京大結核部の活動を「アカ」
の活動として執念深く追求していたのである。西陣
調査中止にもこうした当面の動きもあったようだ。
昭和 17 年 9 月、勝山調査当時の三回生が、学校
卒業と同時に「アカ」として検挙投獄され、結核研
究部活動を社会主義実現のための予備活動だとして、
治安維持法違反として取り調べられた。
続いて、前年卒業し軍医になっていた調査当時の
四回生も、皆、軍法会議に呼び出され、軽重いろい
ろな処分を受けた。
ファッシズムの嵐が、私たちに襲いかかってきた
のである。結核に対する情熱と社会正義を貫くとい
うことで一致していた私たちであったが、大学卒業
後に襲いかかってきた検挙、投獄に対しては、抵抗
するすべを知らなかった。私たちの抵抗には限りが
あり、行く先々は別れ別れになっていった。
軍医になった中で、死の道を歩かされた仲間もい
た。中心的活動家だった仲居庸夫、桂大典、小田直
行の三君は遂に帰らぬ人となった。仲居さんは軍医
より衛生二等兵に降格され、満州の地で死亡。桂さ
-7-
4-1. 佐野三郎氏の証言
この地区の結核予防運動のレポートは、終戦時の
混乱、あるいは、歳月の風化もあって残念ながらま
ったく保管されていない。
従ってこれについての科学的データーを上げるこ
とはできないが、結論的に言うと、農村人口の多い
この地区の青少年結核未感染者が、都市への出かせ
ぎまたは、地区の工場での集団生活(冬期は通勤不
能のため寄宿舎生活)による初感染発病と、帰郷後
の家族感染というパターンの反復集積と、北陸特有
の気候風土、生活慣習が、この地方を全国筆頭の結
核死亡率を示すにいたらしめたものと思われる。
さて、昭和 16 年 7 月から 8 月にかけて、京大医
学部学徒実務班の応援を受けることになり、学生諸
君の合議のうえ、結核検診介助に止まらず、この地
区の結核疫学の基礎調査として、女子工場労働者
3000 人を対象に種々の医学的調査を実施すること
になった。
計画の具体的なプランを実行、その後の統計整理
など、殆どすべて、学生諸君が暑い2ヵ月間の合宿
でまとめ上げたものである。
このレポートが、篤志の先生に保管され、40年
後の今日、報告されることは望外の喜びであり、と
もに働いた勝山保健所の所員、及び京大医学部実務
研究であった諸先生の幾人かが幽明を異にすること
を思うと感慨に堪えぬものがあり、改めてご冥福を
お祈りする次第である。
付記
この報告書の印刷配布等は、勝山保健所が受け持
ったが、これは県警察部衛生課及び結核予防会、並
びに大日本産業報国会への事業報告書で、学術論文
ではなく、従って配布も所属上司と京大実務班に取
りまとめ送ったのみである。
報告書表記の「防諜上注意」は、すでに準戦時体
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
October, 2003
制化にあって、勝山地区にも落下傘制作の工場があ
り、上司の指示に従ったものである。
また各種調査結果の考按表現も、学徒諸君には隔
靴掻痒の思いがあったことと推察されるが、これも
以上の事情をふまえて了承を願った次第である。
4-2. 丸山博先生の文章より
丸山先生は次のように述べている。
こ の 書 の ( “開 戦 前 夜の 京 大 医 学 生 の調 査 活
動”)は、今からかれこれ40年も昔のことを思い
出させる再発掘の書である。
それというのも、当時の京大医学部の学生諸君が
組織し、活動していた結核研究会の成果をまとめた
文章をここに改めて公表し、当時の活動家に芽生え
た友情の織り成す青春群像を描きだし、今は亡き友
を偲ぶ鎮魂の書でもあるからです。
昭和 15 年(1945 年)頃であったかと思いますが、
福井県勝山診療所を中心に、周辺の工場労働者を結
核検診調査をした。その結果の報告書を佐野三郎氏
から送られ読んだ私は、当時、朝日新聞社から出た
「東北一純農村の医学的分析」や、岩波書店から出
た「朝鮮の農村衛生」等のすぐれた調査研究発表の
内容などを比べて、いずれも読者に与える影響は大
きいであろうと推測しながら、当事者である青年医
学徒の心意気につよく感動したものだった。
-8-
これらの本は、いずれも、それぞれの特色をもっ
た科学的、学問的の香気の高い、当時においては、
言うまでもなく現在においても、それなりにその価
値は決して光彩を失っていないと思われる。
(1982 年第 22 回医学史研究会の総会を前にし
て・・・
代表幹事 丸山 博)
と、述べられている。
5. 戦前の中小工場の実態
☆ 調査項目全体について
まず報告書の目次全体を別紙に示そう。
第一編の生活調査より分かることは、労働時間は、
毎日 11 時間で、休憩時間は 1 時間である。詳細は
略す。
第二編の労務者の栄養調査であるが、最近、小松
良夫先生の「結核」(日本近代史の裏側)が発行さ
れ、その第 4 章に、私たちの調査が紹介されており、
「明治時代の『職工事情』の状態とあまりかわりな
いことが分かる」と述べられている。
概ね、そうした状態であるが、引用された Y 工場
の他に、M 工場、K 工場の例も調査されており、た
くあん以外に朝食に味噌汁のつくところもあること
を、別の資料にコピーしてお知らせする。なお、主
食の飯の量は自由となっている。
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
2003 年 10 月
軍隊と医学・医療
-『軍医団雑誌』の分析を通じて-
原田敬一
佛教大学文学部史学科
Military and Medicine
Through the Analysis of "Gunnidan Zasshi"
Keiichi HARADA
Department of History, Faculty of Literature, Bukkyo University
キーワード Keywords: 軍医 medical officer、徴兵 conscription、脚気 beriberi
はじめに
『国民軍の神話-兵士になるということ』(吉川
弘文館、2001 年 9 月)を、
第 1 章 兵士になる-期待と願望
第 2 章 健康と衛生-米を食べる心性
第 3 章 死ぬということ-追悼の詩ウタ
という章構成で刊行したところ、次の 3 本の書評が
発表され、歴史学界でも受け入れていただけたよう
である。
一ノ瀬俊也氏(『史学雑誌』第 111 編第 9 号、
2002 年 9 月)
大谷正氏(『日本史研究』第 484 号、2002 年 12
月)
加藤陽子氏(『歴史評論』第 636 号、2003 年 4
月)
拙著の功罪はこれらの書評を御覧頂くとして、こ
こでは、その際に主な史料として使用した『軍医団
雑誌』について、その分析の課題、軍医史と『軍医
団雑誌』、などを解明するのが目的である。
Ⅰ『軍医団雑誌』分析の課題
まず陸海軍の軍医や『軍医団雑誌』などについて
の先行研究を検討することが必要である。先行研究
を調べるには、次の 4 種類の方法がある。
①『史学雑誌』各号巻末「文献目録」の検索
②『日本歴史』各号巻末「雑誌目録」の検索
③「雑誌記事索引」(国会図書館)の検索
④特定の雑誌の検索『日本医史学雑誌』、『医
学史研究』など。
①と②は、日本史研究の場合の最も基本的な文献
検索法である。①②ともに月刊雑誌であるが、①に
「日本史文献目録」が掲載されるのは、年数回であ
る。しかし、②が雑誌に限定されているのに比較し、
研究書・史料集・自治体史など網羅的に掲載するこ
とを方針としているため、非常に便利である。
④は、どんな分野を研究する場合にも、その領域
の学会が成立し、学会誌を発行していると考えるべ
きであり、それを前提に特定の学会誌の検索を行う
ことが普通である。
③は、近年のパソコン検索普及に伴って、国会図
書館のホームページで検索できるようになった大変
便利なものである。これができるまでは、国会図書
館が編集し、(株)日外アソシエーツという出版社
が刊行した『雑誌記事索引』を年次ごとにひかなけ
れ ば な ら な か った が 、 今で は パ ソ コ ン で一 挙 に
1950 年代から現在までの雑誌記事検索が可能にな
った。以上 4 種類の方法のいずれかを採用して、研
究史を探っておかないと、いつまでも初歩的な検討
に終始して、分析が深まらなかったり、同じことを
知らずに繰り返したりする場合がある。審判制を取
っている学会誌では、そのような論文は掲載される
ことがないが、そうでない場合投稿者自身が、入念
な研究史検討を行うという自制的な取り決めが必要
であろう。
本稿では、③を採用して検索したところ、『軍医
団雑誌』については全く研究論文などはなかった。
「軍医」をキーワードに検索したところ、69 件み
つかった。そのうち次の 7 件は、軍医制度を検討す
るには重要な文献と見なされるが、本稿と関わると
ころは少ない。いずれも後述の軍医による研究雑誌
にふれることはない。
1. 松木明知「麻酔学史研究最近の知見-5-陸軍軍
医学校教官永江大助の業績」『麻酔』第 27 巻第 13
号、1978 年 12 月.
2. 福島義一「臨時付属医専の設置と軍医予備員令
の発案者梶浦源一氏の遺稿」『医譚』第 54 号、
1985 年 4 月.
3. 坂本秀次「明治の陸軍軍医学校-校長石黒忠悳、
教官森林太郎」『医学史研究』第 61 号、1988 年 5
月.
4. 西岡香織「日本陸軍における軍医制度の成立」
『軍事史学』第 26 巻第 1 号、1990 年 6 月.
5. 深瀬泰旦「軍医寮発足の際に見られた東校と兵
部省の確執」『日本医史学雑誌』第 41 巻第 4 号、
1995 年 12 月.
6. 黒澤嘉幸「明治初期の陸軍軍医学校」『日本医
* 連絡先: 〒601-8376 京都市北区紫野北花丿坊町 96 仏教大学文学部史学科
Address: Department of History, Faculty of Literature, Bukkyo University, 96 Kitahananobo-cho, Muarasakino,
Kitaku, Kyoto, 601-8376 JAPAN E-mail: harada@bukkyo-u.ac.jp
-9-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
史学雑誌』第 47 巻第 1 号、2001 年 3 月.
7. 同「明治初期の陸軍軍医学校の卒業生」『日本
医史学雑誌』第 47 巻第 2 号、2001 年 6 月.
Ⅱ 軍医と軍医団、『軍医団雑誌』
発足当初の日本陸軍は、自発的団体による研究が
認められていた。例えば陸士士官生徒第 1 期・第 2
期生 13 名が、1881 年 1 月結成した月曜会はその後、
堀江芳介陸軍戸山学校長を会長とし、1887 年には
1,687 名の会員(会員は将校のみ)を擁するまでに
なる。ほかに騎兵学会、砲工共同会、経理学会、獣
医学会などが、若手将校によって結成され、研究に
余念がなかった。こうした動きは、将校が貴族層出
身者で占められ、彼らの自治的団結が軍隊の中心と
考えられていたため、日本の軍隊にも、フランスや
ドイツの派遣将校から伝えられたのだろう。ただ、
一般兵科によるこのような自主的団体は、1889 年
に次々と解散に追い込まれ、同様の研究・親睦団体
であった偕行社(1877 年 2 月結成)に統合吸収さ
れてしまう。月曜会は、1889 年 2 月大山巌陸軍大
臣から解散命令が出され、消滅する。これを山縣有
朋、大山巌ら陸軍主流派が、谷干城・曽我祐準・堀
江芳介・長岡外史ら反主流派を陸軍から追放するの
が目的であったとして、「月曜会事件」と一般に呼
んでいる。
軍医の場合は、どうであったのか。やはり、陸軍
軍医学会が 1885 年に結成され、『陸軍軍医学会雑
誌』を翌 1886 年 1 月創刊している。以後、日清戦
争直前の 1894 年まで 67 号を刊行したが、同年 4 月
『軍医学会雑誌』と改称して第 68 号を発刊、1909
年 1 月の第 175 号まで刊行を続けた。1909 年 1 月、
陸達第 3 号「陸軍軍医団規則」が出されたために、
組織改編が必要となったため、同雑誌も装いを全く
改めることになった。「陸軍軍医団長 医学博士
森林太郎」の名で発表された「分団長に示す辞」
(原文カタカナ混じりをひらがな交じりに変更した。
『軍医団雑誌』第 1 号、1909 年 3 月)は、長文で
あるが(雑誌 2 頁分に掲載)、その意図を詳しく述
べているので、全文引用したい。
陸軍軍医学会は我陸軍衛生部の学問的機関と
して明治十九年に創設せられき
後年を閲すること二十四にして其の発行せる
雑誌は号を累ぬること百七十五になりぬ
今回軍医団の組織成りて従来協同私営の団体
たりし軍医学会は最早竝存の必要なきこととな
り其の事業は凡て軍医団に移りたり
既往を稽ふるに我等陸軍衛生部将校相当官は
現役に居る限は衛生部教育団あり軍医学校あり
て学術を錬磨するか故に彼の補助機関たる軍医
学会に要求する所甚た大ならさりき 又戦時同
僚の大部分を占むへき予後備役者に至りては短
期の勤務演習に召集せらるること僅に一再にし
て学会の集同に参し其の雑誌を読むものは頗稀
なりき 然るに今在職者をも在郷者をも一団に
なして互に士気を振作し学問を奨進することを
- 10 -
October, 2003
得るに至れるは実に此の革新の結果にあらすや
予は是の如くに道ふと雖在郷団員たる人々の
我等現役者と倶に此の業に従事することの容易
ならさるを思はさるに非す 或は Praxis の殷盛
なるもあるべく或は官事公業に忙殺せらるるも
あるへく或は住める土地僻遠にして集同に参す
へき便を得難きもあるへし 其の他尚幾多の障
礙なきにあらさるへし 予は願ふ分団長たる各
位か法規の許す限の手段を尽して障礙の排し得
らるるものは之を排し団の目的を達せんことを
努められんことを
若し夫れ参同の縁なき在郷団員は此の雑誌を
唯一の契合点となささるへからす 故に今より
後此の雑誌は更に一の Correspondenz- blatt た
り通信機関たる性質を具ふへきなり
雑誌は五千を超ゆる団員の戮力によりてあら
ゆる方面に発展せしめんことを期すと雖特に此
の 一面を は新 に開拓 するこ とを要 する ならむ
是れ本号より通信の一欄を設けたる所以なり
よって来る歴史をひもとき、今回の改革の意義を
位置づけ、団と雑誌の役割を強調して、新たな出発
を宣言する、という卓抜した運びなど文筆によって
たつ作家森鴎外の一面も見せる文章となっている。
この時点、つまり陸軍が設けられてから 30 数年で
現役・予後備役を含めた軍医総数が「五千を超ゆ
る」というのも大きな勢力であると確認できる。現
役を退いた軍医たちも、森陸軍軍医団長が述べるよ
うに、現役者と「一団になして互に士気を振作し学
問を奨進すること」を求められている。これまでは
「短期の勤務演習」に参加するだけであったが、軍
医団の集会に参加し、研究発表をしたり、症例検討
に加わったりすることが法的に可能となったのであ
る。兵士の水準で「軍隊の社会化」が、日露戦後進
んだことはよく知られているが、軍医においても同
様であった。田中義一陸軍省軍務局長が唱えた「良
兵は良民」というスローガンは、軍隊教育の向上を
求め、除隊後の彼らの社会的役割への期待でもあっ
た。予後備役の軍医の社会活動については、小説で
はあるが、加賀乙彦の『永遠の都』七部作(新潮文
庫)にその一端がうかがえる。
軍医団組織の法的規定は、軍令により定められて
いる。1908 年 3 月 24 日軍令陸第 11 号「陸軍将校
団条例」は、所属する将校の「軍人精神ヲ涵養シ其
ノ団結心ヲ鞏固ニシ且軍事上ノ智識ヲ増進スルヲ以
テ目的」(第一条)としている。団は「現役将校団
及予後備役将校団」(第二条)の 2 種類に分けられ
る。特殊兵科である経理・衛生・獣医は、
第五条 陸軍経理部、衛生部、獣医部将校相当
官ニ在リテハ将校団ニ準シ陸軍主計団、陸軍軍
医団、陸軍獣医団ヲ組織シ陸軍省経理局長、医
務局長及軍務局長ヲ以テ当該団長ト為シ陸軍大
臣之ヲ監督ス
将校相当官ハ前項ノ外将校団ニ於テ教育其ノ
他ニ関シ所属将校ニ準シ取扱フコトヲ得
に基づき組織される。
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
2003 年 10 月
「将校相当官」という用語についても説明してお
こう。陸軍海軍とも、技術分野は「将校相当官」と
称し、歩兵や砲兵、騎兵などの戦線に関わる分野と
異なった扱いをしていた。その典型は、「将校相当
官」が最終的に到着するべき最高官位は、主計総監
や軍医総監と呼んだが、他の兵科と比べると中将に
しか相当しなかった。
軍医は、陸軍軍医団を組織し、団長は陸軍省医務
局長となる一般兵科では、現役将校団と予後備役将
校団が分離されていたが、軍医団は異なった。其の
規定は、「陸軍軍医団規則」(1909 年 1 月 9 日、
陸達第 3 号)に設けられた。第一条と第二条の規定
により、現役・予備役・後備役を含めて 1 つの軍医
団を組織することになっている。
第一条 陸軍軍医団ハ在職竝予備役、後備役衛
生部将校相当官ヲ以テ之ヲ組織ス
退役衛生部将校相当官ハ志願ニ依リ陸軍軍医
団ニ属スルコトヲ得
第二条 陸軍軍医団ハ分団ニ分チ陸軍軍医部所
管区域毎ニ各一箇ノ分団ヲ置ク
分団ハ其ノ所管ニ従ヒ何師管陸軍軍医分団<
近衛師団ニ在リテハ近衛師団陸軍
軍医分団
>又ハ台湾、韓国、関東陸軍軍医分団ヲ称ス
師団ごとに分団を現役・予備役・後備役・退役の軍
医によって組織するのである。分団の活動は、第七
条に規定がある。
第七条 軍医団ニ於テハ将校団条例第 1 条ノ目
的ヲ達スル為陸軍衛生部将校相当官教育規則ニ
依ルノ外集会、雑誌刊行等ノ方法ニ依リ概ネ左
ノ事項ヲ施行ス
一軍陣医学薬学ニ関スル研究
一軍事衛生ニ関スル内外国ノ時報
一軍事学、衛生勤務学、軍陣医学薬学ニ咳スル
講筵、談話、討論
一臨床講義、器械標本等ノ標示、実習
一前各号ノ外軍陣精神ノ涵養、団員ノ親睦及軍
事上ノ研究ニ資スヘキ事業
5 項目にわたって示された主に軍陣医学に資する内
容を、研究会や雑誌によって行え、という規定であ
る。各号の「通信」欄を見ると、分団ごとに活発な
研究会が続けられていることがわかる(後述)。
こうして誌名を『軍医団雑誌』と改めて、第 1 号
( 1909.3)から、現在確認できるのは第 378 号
(1945 年)まで刊行された。以上の刊行状況を図
にすれば、下図のようになる。便宜的に、第 1 期、
第 2 期、第 3 期と区分した。
軍事関係雑誌は、国会図書館は所蔵していないの
が普通である。国会図書館は、戦前帝国図書館とし
て上野にあったものが前身であるが、一般図書館の
一つであり、それほど厳しくなくとも軍事機密を含
む軍事関係雑誌は所蔵できなかった。将校の親睦・
研究雑誌である『偕行社記事』の表紙には「日本将
校以外閲覧禁止」と印刷されたもの号が多い。
軍事関係雑誌の所蔵は、実は大学図書館が多い。
例えば、『偕行社記事』は早稲田大と京大が多数の
号を所蔵している。図にある 3 種の軍医関係雑誌を、
欠本があるけれども系統的に所蔵しているのは、次
の 3 大学である。
金沢大医学部、熊本大医学部、阪大医学部。
欠本がもう少し多いのは、次の 5 大学であった。
岡山大医学部、岩手医大、京都府立医大、慶応大
医学部、日本医大。
東大、京大は『軍医団雑誌』は所蔵するが、それ
以前がない。防衛医大は、『陸軍軍医学会雑誌』が
第 39 号から第 53 号、『軍医学会雑誌』が第 81 号
から終刊の第 175 号まで、その後の『軍医団雑誌』
はほぼ揃っている。
同じ医学部、医大であるのに所蔵状況がだいぶ違
うという、これらの所蔵状況の意味も考えねばなら
ない。戦前に医学校として成立していたところには
寄贈していた可能性がある。例えば、現在の岩手医
大は、1901 年に岩手医学校として発足し、1928 年
に岩手医学専門学校に昇格した。同じように戦前に
成立していながら、東大、京大には第 1 期、第 2 期
がない。第 3 期の『軍医団雑誌』は、軍医の輩出の
実績や期待も込めて、軍医団もしくは陸軍省医務局
から参考資料として、全国の医大や医学部へ寄贈し
たのだろう。第 1 期と第 2 期の所蔵の不均衡さは、
この時期の雑誌の扱いが、教員や関係者、出身軍医
らが寄贈した可能性を示している。それが少ない大
学では、誰も寄贈しなかったのではないだろうか。
1930 年代には、理科系の講座に、軍人出身者が増
える時期であり、医学部でも軍医の経歴を持つ教員
が増えただろう。こうした人たちの役割も検討する
必要がある。
Ⅲ『軍医団雑誌』分析の意義
(1)軍医の役割
軍医の役割は、平時戦時に病気や負傷の治療を行
い、軍隊の健康を維持することである。もう 1 つ重
要なのは、徴兵検査に関与することである。これは、
「選兵問題」と称され、徴兵検査の際トラコーマや
花柳病などは厳しく検査されたが、肺結核を発見す
るために、X線撮影機が全国的に投入されるのは、
1940 年代に入ってからであった。もっと重要なの
は、徴兵忌避の対策である。にわかな病気ではなく、
後遺症のある偽病が最も警戒された。森鴎外の親友
で、鴎外が亡くなる時も立ち会った賀古鶴所も軍医
図 軍医関係雑誌の変遷
【第1期】
『陸軍軍医学会雑誌』
1886.1~1894.3
1~67
→
【第2期】
『軍医学会雑誌』
1894.4~1909.1
68~175
- 11 -
→
【第3期】
『軍医団雑誌』
1909.3~1945.?
1~378
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
October, 2003
代の陸軍の脚気について記すべきであるが・・・。
筆者が探索した限りでは、陸軍の脚気については総
括的な資料が欠落しており、容易に全容をまとめる
ことができない。将来、好学の士により昭和陸軍の
脚気発生と脚気予防策が解明されることを期待し、
ここでの記述を割愛したい。(p392)
とされ、他の研究者が出ることを期待して筆を置か
れている。筆者の現在の研究も、日清戦争から日露
戦争でとまっており(拙著『国民軍の神話』「第 2
章 健康と衛生-米を食べる心性」)、その後求め
えた若干の材料を提供したい。
(2)脚気をめぐって
(3)『軍医団雑誌』と脚気
軍隊における脚気の広がりは、戦闘力の削減にも
1 脚気にこだわる軍医たち
直結するから大きな問題であった。1876 年から
軍医たちが脚気を重要な問題だと一貫して考えて
1916 年まで 40 年間に陸軍での脚気患者は、1000 人
いたのは、先に述べた一連の雑誌を見てもわかる
あたり 100 人を越える(10%以上となる)年は、
(表 2)。日清戦争前の 1888 年から山下氏の言わ
1876、78~85、と 9 年間、それ以外の年も 10 人を
れる「昭和」初期、1930 年まで間断なく論文、実
越えていた(表1)。これについては、既に山下政
態や検査の報告、栄養論までさまざまな方面からの
三『明治期における脚気の歴史』(東大出版会、
検討が続けられた。東京大学の生化学者鈴木梅太郎
1988.9)という大部な研究書が公刊されている。筆
が、米糠からオリザニンを抽出し、学会に発表した
者は、既にこの研究の重要性について紹介したこと
が、「当時は殆んど顧みられず」(鈴木「ヴイタミ
がある(『日本史研究』第 338 号、78~80 頁、
ン研究の回顧」、『科学知識』1931 年 2 月号)と
1990 年 10 月)。同書の目次から、軍隊に関わるも
いう状況であった。確かに 1910 年代にオリザニン
のを抽出すれば、次のようなものである。
に触れた論文は、この雑誌には見られない。鈴木は
第 2 章 西南戦役と脚気の流行
「越えて大正 7、8 年頃、欧米の学界に勃興したヴ
第 6 章 海軍の脚気流行とその対策-高木兼寛
イタミン研究熱は我国にも反響して、我国の学者達
第 7 章 陸軍の脚気流行とその対策-石黒忠悳・
をも漸く目醒まさせ」(同)と、その後ヨーロッパ
森林太郎
からの移入で日本でも注目されるようになったこと
第 8 章 日清・日露戦争と脚気の流行-臨時脚気
を強調している。軍医たちの反響も同様で、1921
病調査会の成立
年を皮切りに研究成果が発表されるが、それは「ヴ
西南戦争、平時の陸海軍、日清戦争、日露戦争と順
イタミン」の研究であり、「オリザニン」ではなか
当な時間軸での分析が、丹念な史料調査を行った上
った(表 2)。欧米の医学雑誌を購読する軍医たち
で行われている。山下氏はその後『脚気の歴史 ビ
もいただろうし、なによりも医学界が欧米の研究成
タミンの発見』(思文閣出版、1995.6)もまとめら
果をいかに早く取り入れるかで血眼になっていたと
れ、「第 7 章 ビタミンB1 剤の登場と脚気の消
いう学界状況も反映しているだろう。
滅」中に
これらの掲載は、少なくとも編集部が発表を必要
第 2 項昭和時代の海軍の脚気発生と予防対策
だと判断したものや、個々の軍医が論文形式までに
という項をたてられたが、海軍のみにとどまってお
まとめきったものであろうから、そこまでに至らな
り、陸軍の分析がないことについて、続いて昭和時
かったものをそれらの底流として調査しなけ
表1 陸軍の脚気発生数(兵員1000人に対する脚気患者数)
ればならない。それには、各号に軍医団分団
西暦
患者数
西暦
患者数
西暦
患者数
が開催する研究会での報告と要旨が重要な史
-
1876
126.00
1890
16.06
1904
料である。軍医団分団は、「軍医団規則」第
-
1877
83.64
1891
5.21
1905
7 条により研究会が義務づけられていたため、
1878
344.95
1892
1.21
1906
31.80
毎号日本、朝鮮、台湾、関東州など各地の活
1879
267.56
1893
2.07
1907
11.30
発な研究会の動静が記録されている。それを
-
1880
164.45
1894
1908
6.10
検索してまとめたのが、表 3 である。この表
-
1881
173.53
1895
1909
4.70
では「兵食」に関する研究報告は、煩雑にな
-
1882
197.22
1896
1910
3.40
るため省略した。表 3 の件数は 116 であり、
1883
209.01
1897
18.28
1911
2.40
12 年間の統計であるから 1 年あたり約 10 件
1884
264.67
1898
11.00
1912
2.10
になる。
1885
144.29
1899
11.82
1913
2.70
底流として軍医たちの脚気に対する大きな関
1886
35.19
1900
12.00
1914
3.50
心が持続していることがわかる。1909 年か
1887
48.67
1901
10.49
1915
3.10
ら 11 年の日露戦後と、1917,1918 年の第 1
1888
36.99
1902
12.71
1916
5.10
次大戦期に大きなピークがあることがわかる
1889
13.31
1903
14.27
(表 4)。日清戦争では約 3 万人、日露戦争
では約 16 万人という多数の脚気患者がうま
で あ っ た が 、 『 陸 軍 軍 医 学 会 雑 誌 』 第 58 号
(1893.3)に、「偽聾ノ鑑別法」なる論文を寄稿し
ている。耳が聞こえないふりをして徴兵を逃れよう
という青年をどう見破るかを論じたものである。
1918 年に開催された分団の宇都宮研究会では、陸
軍 3 等軍医正宮尾賢吾が「偽弱視ノ検査法ニ就テ」
報告したと報じられている(『軍医団雑誌』第 76
号、1918.4)。選兵問題の追及の仕方から、徴兵忌
避問題を分析する方法もある。
- 12 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
れており(長尾伍一『戦
争と栄養』西田書店、
1994 年)、戦争が軍医
たちの関心を誘う大きな
要因であった。
2「脚気菌」探究と食餌
療法
もう少し発表内容に踏
み込んでみよう。日露戦
争が始まると、脚気は
「当初我軍隊中ニ殆ント
流行的ニ続発」(柴山五
郎作・大和田政実「脚気
及窒扶斯研究報告」、
『軍医団雑誌』第 153 号、
1906 年 6 月)したので、
東京予備病院や広島予備
病院で研究が始まった。
広島で研究していた岡田
国太郎(一等軍医正)と
小久保恵作(三等軍医
正)の 2 人は、「病原ノ
検索」に努めた結果、
「一種ノ球菌」を検認し
た、という(「脚気病調
査第一回略報」、同第
144 号、1905 年 7 月)。
小久保は、「該菌ヲ以テ
免疫血清ヲ製造シ患者ニ
試用セルニ其成績極メテ
良好ナリト説ケリ」(柴
山・大和田)と、「結核
菌」を利用した「血清製
造」まで成功したと報じ
られた。岡田・小久保報
告の翌年には、都築甚之
助(三等軍医正)も「脚
気病確定報告」を行って
いる(同第 151 号、1906
年 3 月)。都築は「脚気
病ハ予ガ脚気菌ニ由リ喚
起セラルル所ノ伝染病ナ
リ」(同)との結論に至
る。脚気は伝染病である
から、「脚気菌」を退治
すれば治る、という観念
は、細菌学の発達により
成長を遂げた西洋医学に
はどうしても必要なもの
であった。実態ではなく、
理論から迫った西洋医学
の悲劇の 1 つが脚気問題
であった。陸軍はその波
をまともに受けていた。
同じ陸軍でも、実態調
2003 年 10 月
表2 『陸軍軍医学会雑誌』1~83号、99~175号・『軍医団雑誌』1~210
号(1909.2~1930.)と脚気病
テーマ
発行年 号数
脚気患者ニ於ケル眼病ノ実験報告 1888
22
同上(承前) 1888
23
脚気患者血球検査 1889
27
脚気病ノ原因病理ヲ説テ麦飯ノ効用ニ及フ 1891
48
脚気預防料トシテノ麦飯ニ就テ 1894
67
脚気論 1896
75
征清役間対馬及澎湖島ノ脚気 1896
76
脚気論(第二) 1896
77
澎湖島ノ脚気ニ就テ 1897
82
明治三十一年対馬ニ発生シタル脚気ニ就テ 1899
103
脚気ニ併発セシ多発性化膿性筋炎ノ一例ニ就テ 1901
123
脚気兼合併性心臓弁膜機能不全ノ一例 1902
129
脚気病調査第一回略報 1905
144
脚気尿ノ「プトマイネ」ニ就テ 1905
146
脚気ノ弱視ニ就テ 1906
150
脚気病原確定報告 1906
151
脚気及腸窒扶斯病研究報告 1906
153
脚気病ノ一症候ニ於ケル小実験 1906
154
脚気ノ統計、疫病学的観察、本性、病原並予防ニ就テ 1908
167
脚気神経組織学小補遺 附病的末梢神経研究上ニ於ケル
山極氏神経繊維染色法ノ価値ニ就テ
1908
174
脚気神経及筋ノ組織学的調査報告
1909
5
脚気病原研究第一回報告
1909 付録
新嘉坡脚気病院治療成績
1910
10
脚気ノ動物試験第一回報告
1910
16
比律賓総督ノ脚気ニ対スル宣戦
1910
16
英領印度地方脚気病調査報告
1910 付録
脚気ノ動物試験第二回報告
1912
28
脚気病ノ療法ニ就テ
1913
47
最近数年間ニ於ケル日本ノ脚気研究
1920 号外
「ヴイタミン」ニ関スル学説
1921
100
麺麭食ヲ混用スル兵食ノ代謝試験第一回報告
1921
103
兵食ノ養価
1923
125
患者食ノ養価
1923
126
脚気病調査ニ就テ
1923 号外
脚気患者ノ尿及腸排泄物ヨリ得タル有毒成分ニ就テ(第一回) 1925
143
朝鮮ニ於ケル脚気ニ就テ
1926
157
食餌療法
1926
162
最近ニ於ケル脚気ノ発生状況
1927
166
市販「ヴイタミンB」剤ノ鳥類白米病ニ対スル奏効比較試験 1927
172
脚気既往症ヲ有スル兵卒ノ統計的観察
1928
178
軍隊補給米トシテノ胚芽米ニ就テ
1928
181
酵母食ニ依ル脚気予防試験、其一
1929
189
「ヴイタミンB」欠乏症ニ及ボス太陽光線ノ影響
1930
202
海軍兵食ニ就テ
1930
205
脚気続発ノ原因ト認ムベキ鑿井水竝ニ該井水ト「ヴイタミン
B」トノ関係ニ就テ
1930
205
酵母食ニ依ル脚気予防試験、其二
1930
209
(出典)『陸軍々医学会雑誌総目次』(第1号~第83号)、1886.1~
1897.3、『同』(第99~107号)、『同』(第108~116号)、『同』(第
117~125号)、『同』(第126~133号)、『同』(第134~139号)、
『同』(第140~148号)、『同』(第149~157号)、『同』(第158~166
号)、『同』(第167~175号)、 『軍医団雑誌総目次』(第1号~第210
号)、1909~1930など。
- 13 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
October, 2003
のである。具体的には、
査を進め、食餌療法という伝統的な対症療法に努め
た、いわば現場主義的な軍医たちも存在した。1913
年 11 月の『軍医団雑誌』第 47 号に、「脚気病ノ療
法ニ就テ」を発表した半田久雄(一等軍医正)は、
その 1 人である。半田はベテラン軍医であったよう
で、この報告には「明治 17 年以来」30 年間治療に
あたってきたと経験が述べられている。経験や治療
の結果、半田がたどり着いたのは「必要ナルハ食餌
療法ナリ」という一点であった。
主食トシテ米(飯、粥、粥汁)ヲ全廃シ之ニ換フ
ルニ麦若クハ其ノ製品、牛乳等ヲ用フルヲ原則ト
シ生来ノ慣習上米ヲ全廃スルニ堪ヘサルモノハ米
量ヲ最小限ニ止メ麦ト混用ス
という徹底したものであった。この療法は、幕末か
ら明治初期に漢方の脚気専門医として名の高かった
遠田澄庵の考えた食餌療法、米を徹底的に忌避し、
麦と赤小豆を与えるというもの(山下「脚気専門医
としての遠田澄庵」、『明治期における脚気の歴
史』142~161 頁、東大出版会、1988 年)と似てい
る。
ほかにも、1880 年代に大阪の第 4 師団軍医部長
であった堀内利国なども、食餌療法で脚気患者を減
若シ此ノ食餌療法ヲ励行セスシテ他ノ療法ノ
ミニ依頼スルトキハ恰モ後門ニ狼ヲ逐ヒテ前門
ニ虎ヲ迎フルト一般毫モ其効アラサルノミナラ
ス退行期ノ患者モ進行期ニ転シ危険ニ陥リ易シ
半田は、食餌療法以外の療法はないと断言している
表3 軍医団分団研究会でとりあげられた脚気
年月日 研究会名
報告者
1908.11.25鉄嶺軍医学会
竹内雅休
1909. 2. 6 第5師管軍医分団
小久保恵作
1909. 2.25 小倉研究会
久野愛之助
1909. 4.11 第18師管軍医分団
植田清三郎
1909. 4.17 第15・第18師管軍医分団 小原沢通
1909. 4.17 基隆研究会
清水秀夫
1909. 4.20 鉄嶺研究会
井落金一郎
1909. 4.24 第11師管軍医分団
大鳥勘平
1909. 5.15 大阪研究会
一木儀一
1909. 5.19 高知研究会
太田勘市
1909. 5.25 由良研究会
山内豊孝
1909. 5.28 山形研究会
青木重之助
1909. 5.29 柳樹屯研究会
鈴木 実
1909. 5.31 善通寺研究会
逢坂左馬之助
1909. 6.10 高田研究会
石黒退三
1909. 6.14 高田研究会
山田貫一
1909. 6.15 大阪研究会
半田久雄
1909. 7.14 広島研究会
小久保恵作
1909. 9.14 京都研究会
16師伊藤百蔵
1909. 9.25 東京研究会
藤井善一
1909. 9.25 松山研究会
1909. 9.25 下関研究会
1909.10.25下関研究会
1909.11.18大村研究会
1909.11.24熊本研究会
1909.12.25合同東京研究会#
1910. 1.15 大連研究会
1910. 1.29 篠山研究会
1910. 2.12 丸亀研究会
1910. 3. 5 津研究会
1910. 3.20 水戸研究会
1910. 3. 5☆
下関研究会
1910. 4.22 横須賀研究会
1910. 5.15 大阪研究会
安井雅一
伊藤伊智
秋山虎次郎
馬場恒男
有働審哉
都築甚之助
金田 正
長岡米太郎
漆原亮平
佐藤 求
江幡保男
井上只次
村井静夫
半田久雄
一木儀一
本多竹之助
1910. 5.24 名古屋研究会
テーマ
掲載号
1
鉄嶺地方ニ於ケル脚気病ニ就テ
2
脚気ニ就テ
2
脚気調査概況
3
脚気ニ就テ
3
樺太ニ於ケル脚気ニ就テ
4
脚気尿ニ於ケル「インジカン」反応ニ就テ
4
脚気ニ就テ
4
脚気ニ就テ
4
脚気枢本ノ「デモンストラチオン」
5
脚気病及旧「ツベルクリン」ノ一小治験
5
小久保氏脚気菌ニ就テ
5
脚気ニ就テ
5
脚気ノ療法ニ就テ
5
脚気ト赤痢トノ関係ニ就テ
5
韓国駐屯間第十三師団脚気発生状況
5
騎兵第十七聯隊駐韓中脚気発生状況
5
脚気治療法ニ就テ
6
脚気病ニ就テ
8
脚気衝心ノ治験
三十七、八年戦役ニ於ケル脚気ノコルザコフ症候
7
群ニ就テ
8
脚気ニ就テ
8
脚気ニ因スル視力障碍ノ一知見
9
脚気ノ症状ヲ有セシ十二指腸蟲患者ノ一例
10
脚気ニ就テ一二ノ所見
10
脚気ノ疑ニテ入院セル一患者ノ供覧
11
土佐ノ脚気ニ就テ
12
脚気患者ノ視野ニ就テ
12
稲垣堀内両氏ノ脚気病予報ニ就テ
12
脚気ニ就テ
14
脚気療法ニ就テ
14
脚気ニ併発セル視神経炎ニ就テ
脚気病
14
米ト脚気ニ就テ
15
脚気病ノ療法ニ就テ
15
脚気病ニ来ル筋痛ニ就テ
15
脚気ト「コメアルトキシン」
- 14 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
年月日 研究会名
1910.10.25 東京研究会
1910.11. 2 長崎研究会
1910.11.25 下関研究会
1911. 1.20 京都研究会
1911. 1.27 京都研究会
1911. 4. 3 第三師管軍医分団総会
1911. 4.15 宇都宮研究会
1911. 5. 4 台北研究会
1911. 7.30 鯖江研究会
1911. 9.21 善通寺研究会
1911.10. 4 高崎研究会
1911.10.23 第15師管軍医分団総会
報告者
都築甚之助
檜垣春三
朝井 寔
久野愛之助
菅居正治
奥平栄太郎
都築甚之助
稲垣長次郎
今野常蔵
藤本友之進
高橋友斎
加藤泰三郎
1911.10.25 東京研究会
1911.11.17 弘前研究会
千葉下志津佐倉連合研
1911.11.28
究会
1911.12.26 富山研究会
都築甚之助
御供信造
2003 年 10 月
阿部文作
湯村温治
1912. 1.27
1912. 2.12
1912. 4.11
1912. 5.10
1912. 5.26
1912. 6. 1
京城研究会
金沢研究会
小倉研究会
国府台研究会
会寧研究会
小倉研究会
飯島順治
岡田啓倫
堀井 祐
菅沼藤一郎
藤木康平
進 慶次
1912. 6.15
1912. 8. 8
1912. 9.20
1913. 1.23
1913. 1.25
甲府研究会
羅南研究会
広島研究会
姫路研究会
金沢研究会
長田正晴
渡辺正芳
山下一次
酒井修白
鈴木 実
テーマ
脚気猿ノ標示
脚気ニ就テ
脚気ト灸療法
脚気ノ土地的気候的関係ニ就テ
脚気ノ知覚麻痺状況ニ就テ
脚気治療薬トシテノ米糠ニ就テ
脚気の原因予防及ヒ療法
猿ノ脚気様疾患ニ就テ
脚気ノ糠療法ニ就テ
脚気新療法ニ就テ
脚気ノ療法
衝心性脚気ニ「アンチベリベリン」注
射ノ
一例竝に注射液供覧
脚気ノ「アンチベリベリン」療法
脚気ノ原因説ニ就テ
掲載号
19
21
21
22
22
23
23
23
26
27
28
28
脚気病ニ就テ(佐倉衛戌地統計)
慢性脚気兼臨床的症状ノ潜伏セル胃
癌ノ
一例
脚気ノ原因及症状
診療瑣談
主食ト脚気予防
脚気ノ診断法ニ就テ
神経性脚気ノ一例
脚気ヲ保有セル特発性心臓肥大症ノ
一例
ニ就テ
都築氏「アンチベリベリン」療法ニ就
テ
玄米食ノ小実験
脚気ニ就テ
乳児脚気ノ一例
脚気患者ノ血液中「エオジン」嗜好細
胞
増加ニ就テ
28
1913. 4. 6 第18師管陸軍医分団総 小菅 勇
重症脚気ニ外科的処置ヲ施シシ四例
会
脚気病ニ於ケル心臓右室ノ肥大ニ就
1914. 1.28 宇都宮研究会
高島良次
テ
1914. 2. 8 丸亀研究会
平松徳次郎
脚気及其類症鑑別
乳児脚気類似症ノ「デモンストラチオ
1914. 6. 5 平壌研究会
(来賓) 石川大祐
ン」
1914. 9.23 福岡研究会
半田久雄
脚気ノ診断ト治療法
1914.10.15 浜田研究会
吉田之庸
脚気ト座骨神経痛ニ就テ
1915. 1.24 鉄嶺研究会
高島良次
脚気患者ノ心臓ニ及ホス病変ニ就テ
脚気新薬トシテ「アンチベリベリン」
1915. 2.15 徳島研究会
中瀬俊二
ノ治験
1915.11.19 大邱研究会
塚田孝輔
脚気ニ因スル弱視ノ一例
1916. 5.22 福知山研究会
安田仙次郎
脚気ノ症状
1916. 9.29 京都研究会
森 正司
脚気ノ一症状ニ就テ
1916.10.27 咸興研究会
蝶名林徳臣
戦役病ノ脚気
大正五年浜田歩兵隊ニ入営セル六週
1916.11.24 浜田研究会
中島彦太郎
間
現役兵ノ脚気ニ就テ
1916.12.22 第六師管陸軍軍医分団 (来賓)川上学士 脚気様動物ノ病理組織供覧
総会
1917. 2.21 山形研究会
(来賓)田中貞次郎
脚気ト気象ノ関係
1917. 2.23 京都研究会
桜井 栄
脚気患者ノ「インヂカン」尿ニ就テ
1917. 2.26 都城研究会
木場武雄
脚気ノ原因及療法ニ就テ
1917. 4.25 福知山研究会
中内千秋
脚気弱視ニ就テ
脚気後ニ発生セル「ヒヨレアラトー
1917. 6.20 岡山班研究会
青木伸一
ゼ」
ニ就テ
1917. 6.26 広島研究会
村上盛窄
脚気予防米糠入堅麺麭供覧
- 15 -
28
29
29
33
31
32
34
35
35
35
37
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41
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50
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68
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69
69
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72
72
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
October, 2003
年月日
1917. 6.30
1917. 7.31
1917.10. 6
1917.11.28
1917.12.15
研究会名
姫路研究会
宇都宮研究会
岡山研究会
秋田研究会
天津研究会
報告者
田中徳次郎
藤平養三
原熊太郎
有馬孝範
(来賓)桧垣恭興
テーマ
衝心性脚気ノ血液ニ就テ
所謂脚気弱視ニ就テ
脚気ト末梢神経ノ麻痺ニ就テ
脚気弱視ニ就テ
乳児脚気ト人乳中毒症トハ臨床上区別シ
1917.12.25
1917.12.26
1918. 2.27
1918. 1.19
秋田研究会
東京研究会
熊本研究会
善通寺丸亀両班連合研
究会
京都研究会
青島研究会
京城研究会
松山研究会
金沢研究会
第17師管陸軍軍医分団
総会
大阪研究会
浦塩野戦予備病院研究
会
旭川研究会
豊橋研究会
澎湖島研究会
旭川研究会
ハバロフスク研究会
台北研究会
小野武雄
石津寛
麻生一等軍医
得ヘキヤ
軽症脚気ニ就テ
脚気ニ於ケル角膜及結膜ノ知覚鈍麻ニ就テ
脚気弱視の診断
75
77
76
千葉寧
脚気患者ノ視力障碍ニ就テ
76
松木寛治
瀬戸糾
奥田四郎
瀬戸正三
西堀新次郎
脚気ニ就テ
脚気「スコトーム」ト其ノ類症鑑別ニ就キテ
脚気患者供覧
脚気ノ際ノ心臓変化ノ学説
脚気ト合併セル定期性四肢麻痺
76
77
80
80
79
早川於都造
朝鮮人ノ脚気ニ就テ
80
丸山忠治
土工夫脚気病ニ就テ
80
浜田豊樹
脚気ニ起因スル限局性浮腫ニ就テ
83
鈴木慶之助
鳥居栄三郎
(来賓)近藤喜一
安藤加茂雄
中野隆輔
堀口正文
脚気症ニ就テ
脚気弱視ニ就テ
脚気ノ糠療法ニ就テ
脚気ニ就テ
脚気他覚的症状ノ二三ニ就テ
脚気毒素ヲ注射セル犬ノ神経及筋肉ノ退行
変性標本供覧
脚気患者ノ腸寄生菌ニ就テ
脚気患者ノ血液ヲ以テセル動物試験成績
ニ就テ
衝心性脚気ノ意義並ニ治療方針
脚気ニ就テ
脚気患者ノ不整脈ニ就テ
脚気ノ療法
脚気ニ於ケル調節機衰弱ニ就テ並ニ其ノ
選兵上ノ意義
82
83
83
82
84
84
脚気ト食物トノ関係
95
最近ニ於ケル脚気病原研究ノ趨勢
95
脚気ノ循環器ニ就テ
96
脚気弱視ニ就テ
96
1918. 2. 1
1918. 2.23
1918. 5.31
1918. 6.14
1918. 6.28
1918. 8.28
1918. 9.14
1918. 9.27
1918.11.28
1918.11.24
1918.12.28
1919. 1.25
1919. 2.21
1919. 2.28
1919. 5.19 台湾陸軍軍医分団総会 堀口正文
金田友三郎
1919. 8.25 姫路研究会
1919.10.20
1919.10.21
1919.12.13
1920. 2. 3
1920. 3.20
羅南研究会
天津研究会
青島研究会
京都研究会
東京研究会
矢野義徳
田村俊次
(客員)徐 昌道
鵜飼信成
石津一等軍医
1920. 4.21 第10師管陸軍軍医分団 大西亀次郎
第10回総会
森田重則
1920. 5.20 高知研究会
1920. 5.21 第18師管陸軍軍医分団 (来賓)呉建
総会
村山庸三郎
1920. 7.17 大分研究会
掲載号
72
72
73
75
75
88
88
91
89
91
94
94
(注)#は近衛第一師管陸軍軍医分団の合同研究会。☆は原文「明治四十三年三月五日」。「兵食」に
関する報告は省略した。
丈夫、というものではなく、兵営や前線での食生活
をどのようなものとして展開するか、という構造的
な性格であったため、解決は困難を極めたようであ
る。先に引用した長尾伍一は、1942 年から 44 年ま
で 陸 軍 軍 医 学 校教 官 で あっ た が 、 「 日 華事 変 」
(1937 年からの日中戦争のこと)で 95,000 人の脚
らしており(拙著 135~137 頁)、実態から迫った
軍医たちの中には、効果を上げる食餌療法に踏みき
った者も一定数いると考えられる。
3 脚気対策に現れた陸軍=軍隊の問題
しかし、この問題はビタミンB1 を補給すれば大
表4 軍医団分団研究会でとりあげられた「脚気」テーマの頻度数(1909~1920)
年次
1909 1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919 1920
頻度数
25
13
13
9
3
4
3
4
11
12
7
5
(典拠)『軍医団雑誌』第2号~第97号の「通信」欄。来賓によるものは省略。
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
2003 年 10 月
気患者がいると指摘し、次のように説明している。
脚気 日本軍にとり脚気は各戦役を通じて多発
し、陸軍では戦時流行病に指定されていた。日
華事変でも多発し、特に南支方面で罹患率が高
かった。なお太平洋戦争中は各地で多発したも
のと考えられるが、敗戦により調査資料がなく
詳細は不明である。(p182)
「陸軍では戦争脚気と呼んでいた」(同 p183)の
であるから、敗戦で、税金でつくった公文書を勝手
に軍人が焼却するという無謀なことが行われていな
ければ、実態はより正確に判明しただろう。太平洋
戦線での罹患者が明らかになり、日中戦争の 95000
人に付け加えられれば、日露戦争の 16 万人を越え
る可能性は高い。
先に山下氏の新刊を紹介した文章を書いたことが
あると述べたが、その中で私は、
陸軍のこうした硬直化した動向は、あたかも政
治史における軍部を思わせるものがあ
り、なる
ほど医療も社会の不可欠の要素であると思われた。
(p80 )
と述べたが、自分で、脚気と陸軍、というテーマで
少し調べた結果も同じであった。これは官僚制のな
せる技か、それとも軍隊という機構が持つ欠陥なの
か、もう少し検討の時間が必要である。
むすびにかえて
本研究会の目標である「戦争と医学・医療」を考
えるためには、本稿で果たせなかったいくつかの課
題を越えなければならないだろう。また、本研究会
とは直接のつながりを持たないが、神奈川大学評論
編集専門委員会編『医学と戦争-日本とドイツ』
(御茶ノ水書房、1994 年 6 月)などの成果をも吸
収して、いくつかの新しい問題の舞台を用意するこ
とも必要である。本稿が示し得た最小の問題は、戦
争の際だけではなく、平時の分析という課題を提起
したことかも知れない。ここから、3 つの課題を提
起したい。
第一に、日本近代における医学・医療政策の再検
討の中で、いったい軍隊は、国民の健康維持をどう
考えていたのか、を考える必要がある。このことは、
台湾や朝鮮などの植民地ではどうだったのか、にま
で行き着く。選兵問題が重要な検査課題であったと
先に指摘したが、「花柳病」が 20 才の青年、つま
り兵士候補に与える悪影響は、軍隊内でも、帝国議
会でもおおっぴらに論議されていたことであり、広
く病気一般まで広げられなくとも、もう少し広い病
気の問題が、軍隊にあったはずである。例えば、寺
内正毅陸軍大臣は、1909 年 3 月 29 日に開催した全
国軍医部長会議で、
軍隊衛生ノ挙否ハ各級幹部ノ注意ト地方衛生
トニ密接ノ関係アルコト、撰兵ハ必任義
務
ノ均等ヲ主眼トスヘキコト
と強調している(『軍医団雑誌』第 2 号、1907 年 4
月)。「地方衛生」に関われ、との指示と読めるが
どうであろうか。この問題は、本研究会でしばしば
取り上げられた優生思想は、軍隊ではどのように意
識され、運動化されていたのだろうか、ということ
にもつながるだろう。
第二に、戦争や軍隊の中で、医学・医療が果たし
た役割を再検討することである。第一の課題と似て
いるようであるが、そうではない。軍隊における
軍医や衛生兵、看護婦などの問題である。彼らは自
分の職務をどう考え、遂行していたのか、看護婦で
は陸海軍看護婦だけではなく、戦時の志願が決まっ
ている赤十字看護婦をも視野に入れねばならないだ
ろう。その上で、九州や「満州」地域で行われてい
た「人体実験」も位置づけられるだろう。野田正彰
氏が労作『戦争と罪責』(岩波書店、1998 年)で
初めて解明した戦時精神病の再検討も行われるはず
である。、
第三に、軍医という官職が軍隊で果たした役割を、
軍隊論として究明することも必要であろう。土屋光
春第四師団長が、1909 年 3 月 1 日に行った軍医団
発足への祝詞で、「戦時ニ於ケル軍ノ文明ハ専ラ衛
生部員ノ代表スル所ニシテ其ノ業務ノ整否ハ直ニ文
野ノ分ルル所ナリ」(『軍医団雑誌』第 2 号、1909
年 4 月)と述べているのは、軍医たち衛生部員に
「文明」の担い手としての役割を期待したものであ
る。日清・日露戦争期の日本軍隊は、「文明」の担
い手である、という意識が非常に強いが、これがど
う維持され、変質していくのか、分析する必要があ
る。職業軍人としての意識の強い森林太郎らは、ど
のような軍人であったのか、管見の限りでは、大石
汎『日清戦争中の森鴎外』(門土社総合出版、1988
年)以外に成果を知らない。この問題はさらに、15
年戦争で志願した医師たちの意識分析にも発展する
はずである。
【付記】本稿は、第 10 回戦争と日本の医学・医療
研究会(於:同志社大学、2003 年 3 月 16 日)で行
った「戦争と医学を考える-『軍医団雑誌』の分析
を通じて」という報告に加筆し、題目変更したもの
である。
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
October, 2003
雑誌「人性」を読む
莇 昭三
城北病院
Analysis of the monthly Journal "JINSEI"
Shozo AZAMI
Johoku Hospital
キーワード Keywords: 雑誌「人性」Journal JINSEI、富士川游 Yu. Fujikawa、永井潜 H. Nagai、丘浅
次郎 A. Oka、外山亀太郎 K. Sotoyama、海野幸徳 K. Umino、 進化論 Theory of evolution、遺伝学
Genetics、優生学 Eugenics、断種論 Vasectomy、「国民優生法」 National Law of Eugenics
[研究目的]
雑誌「人性」は 1905 年に発刊された日本で最初
の自然科学系の学際的な月刊学術雑誌であり、その
後の日本の自然科学、特に遺伝学、優生学に影響を
与えた出版物である。この学術雑誌がどのように出
版され、その後の日本の学会や社会、政治にどのよ
うな影響を与えたかを分析するのが目的である。分
析材料は主として雑誌「人性」1巻から14巻を中
心とした。
1.雑誌「人性」の発刊
1.雑誌「人性」の発刊
雑誌「人性」は、1905 年(明治 38)4 月 10 日に
第 1 巻第 1 号が発刊、その後毎月発刊を原則として
発行されたが、1918 年(大正 7)12 月の第 14 巻 12
号の「休刊公告」で発行を停止している。 この間、
第 1 巻は 1~9 号・9 冊、第 2~10、13、14 巻は 1 号
~12 号・12 冊、第 11、12 巻は 1 号~11 号・11 冊が
発行されている。各号は約 40 頁前後の雑誌であっ
た。
第 2 巻 1 号の奥付を見ると、発行所・裳華房、編
輯者・常光得然、発行者・芳野兵作となっている。第
12 巻では発行所・裳華房、編輯者・荘司秋次郎、
発行者・小泉栄次郎と変更されたことがわかる。
奥付に記載されている本代は、「見本 1 冊」16
銭、「6 冊前金」92 銭、「12 冊前金」1 円 80 銭と
なっている。
2.発刊の主旨
この雑誌の第 1 巻 1 号の巻頭に富士川游の論文
「人性」が掲載されている。これは「人性」発刊の
趣意を述べたものと思われる。
そこでは「・・近年に至り、動物学、解剖学、及
び生理学が、人体につきて確実なる知識を吾人に賦
与してより、人性を研究する学問、新に興り、吾人
はこれ等自然科学に依りて得たる吾人現在の知識を
標準とし、人類の器質的発育、社会的発展、及び精
神的発展を科学的に研究することを得るに至れり。
我が雑誌『人性』は、すなはち此方面に於ける各科
専門学者の業績を蒐集し、以てこの学問界の趨勢を、
概括的に報道するを以て自ら任ずるなり」と述べて
いる。つまり自然科学、特に生物学等の進歩による
人体の科学的な解明の進歩の報道を主とし、人間の
社会的存在についてより広い立場から研究するため
に寄与する機関誌として発刊したというのである。
「人性」第 11 巻 11 号(1915 年・大正 4)には改
めて「人性」についての解説文を掲載している。
「『人性』は自然科学上の知識に拠りて人類の社会
的生活及び精神的生活を研究する、我邦唯一の学術
雑誌なり、其主義は先ず生活の自然律を明かにした
る後、進んで歴史的に人類の社会的生活及び精神的
生活を考究し、又実際に人類の発育保続に必要なる
条件を調査し、以て人類の社会的生活及び精神的生
活を向上の途に導かむことを期す、故に生物学、人
類学、心理学、医学、衛生学より統計学、文明史、
社会学、教育学、宗教学、法学、経済学等に至るま
で、苟も人性問題の研究に資すべきものは皆網羅採
取せざるは無し、庶幾くは法律家、行政家、教育家、
宗教家、医家、心理学者、其他苟も人類の社会的生
活及び精神的生活研究に趣味を有する諸君子のため
に、無二の好伴侶たるを得む」と。つまり当時とし
ては人間に関しての総合学術雑誌として発刊してき
たというのである。
このような主旨のために掲載された論文も、人類
学、生物学、心理学、人類社会歴史・精神歴史学、
文化史、法律学、衛生学、社会的淘汰機関等に分類
されて掲載され、それぞれの分野に関連する外国の
論文の翻訳、紹介も多いのが特徴である。
しかしどんな雑誌でも各号の編集方針があるわけ
で、本雑誌の場合はそれは各号の「論説」論文にそ
れが現われている。その一例として第 8 巻(1912
年・明治 45 年)で取り上げられている「論説」論文
名とその著者名を記載すると次のようである。
実用鼻相学(久保猪之吉)、人種改造学研究の急
務(海野幸徳)、神話に現はれたる日本国民性(高
木俊雄)、遺伝の中心問題(市沢弥市)、刑罰の根
* 連絡先: 〒920-0923 金沢市桜町2-2
Address: 2-2 Sakura-machi, Kanazawa, Ishikawa, 920-0923, JAPAN
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
2003 年 10 月
本観念と人の性質(大場茂馬)、支那及び韓国に於
ける宮刑に就いて(緒方正清)、水産動物の生活
(岸上謙吉)、優良種族の衰頽を論ず(海野幸徳)、
人類の起源に就て(大沢岳太郎)、大数中に隠れた
る注目すべき現象(呉文聡)、人口の量の問題に就
て(海野幸徳)、犯罪者の感覚(寺田精一)、月経
と女性研究(鵜飼祐一)、人類に於ける遺伝研究法
(大沢謙二)、教育の効力(乙竹岩造)、民俗心理
学の現状(桑田芳蔵)、視力の疲労に就て(淀野耀
淳)、貧民と教育(吉田圭)。
以上の第 8 巻の論説の論文題名をみると、この雑
誌は当事の社会医学的関心事を学際的に取り上げて
いることがわかる。
3.比較的頻繁に投稿している著者とその論文の題
名
全 14 巻を通じて比較的多い論文投稿者名とその
論文名を挙げると次のようになる。
・富士川游
「人性」「心理学要略」「信仰の説」「神経質」
「不死論」「乳児死亡数と徴兵不合格との関係」
「感官器と自然の認識」「変性の説」「自殺問題」
「人体美の一節」「鼻の観相につきて」「頭蓋と賢
愚」「偉人の体格」「偉人の病志」「偉人研究」
「新井白石先生の頭骨」「原始人類の郷土」「家族
病の遺伝」「神霊説に就て」「性格学の話」「受胎
と季節との関係」「性欲学の現状」「人性の研究」
「頭蓋と賢愚」「身体と精神」「神霊説に就て」
「新マルサス論」「一元論的宗教」「売笑問題」
「戦争の選択作用」「社会生物学」「理論的一元
論」「一元論 Monismus」「不妊法の実施」等々。
・永井潜
「海の話」「海の地理的研究」「太古の日本住民
について」「色彩と人性」「生物に於ける調和」
「人種改善学の理論」「内分泌の精神に及ぼす影響
に就て」「人種衛生より見たる民族の興亡」「稟性
と教育」等々。
・呉秀三
「飲酒と精神病」「知と信・誤感と迷信と妄想」
「誤感と迷信と妄想」「精神健康者の病側観」「万
引窃盗の精神状態」「血統と人妖」「強迫観念に就
て」等々。
・荘司秋次郎(編輯者)
「死に就て」「博物学者としてのゲーテ」「日本
人の虹彩の色に就て」「愛情発生論」「細胞工作場
より」「病的天才論」「不死の歴史」「美術におけ
る妊娠」「妊娠時期及びその持続日数に就て」等々。
・丘浅次郎
「自然淘汰と衛生」「動物の群体」「団体の生存
競争」「民族改善学の実際価値」「生物学的の見
方」等々。
・外山亀太郎「遺伝の現象は数理的なり」「遺伝学
・外山亀太郎
の進歩と人生の関係」「人類改良学と生物改造学」
等々。
・海野幸徳
「人種改造学研究の急務」「優良種族の衰頽を論
ず」「人口の量の問題に就て」等々。
・大沢謙二(医学博士)
「花柳病と法律」「体質改良と社会政策」「人類
に於ける遺伝研究法」等々。
・三田谷啓
「巨人論」「児童の自殺」「医薬と衛生に因める
我国の諺」等々。
・石原忍
「色盲」「色盲の社会的意義」等々。
・山崎佐
「幼年犯人の浮浪性」「犯人の偽名」等々。
・常光得然(編輯者)
「古インド人の心身に関する知識」「進化論と業
論」等々。
・その他では、
北里柴三郎「学校に於ける伝染病」、志賀潔「メ
チニコフの科学的人生観」、大沢謙二「人類に於け
る遺伝研究法」、川島金五郎「脳髄が両半球に別れ
居る所以」、石川日出鶴丸「ノイロン学説及其反対
学説」、藤井健治郎「進化論と倫理的研究」等も投
稿している。
尚、田辺元「科学的世界観の真義」、河上肇「偉
人と時代」、鈴木梅太郎「米の成分と其栄養価値」、
賀川豊彦「眼球の欠点より見たる宇宙、南方熊楠
「歯の俗に就て」、暁烏敏「死及び死後の観念」等
当時の社会科学の分野の錚錚たる論者も、短い論文
ではあるが投稿している点は特質すべきであろう。
以上の掲載論説や論文から判ることは、「人性」
の出版の編輯者は「常光得然」、その後は「荘司秋
次郎」となってはいるが、「編集委員会」の実質的
な中心は富士川遊と永井潜であったことが推定でき
るようである。
4.各巻にみられる遺伝学、Eugenics
関係の論文
4.各巻にみられる遺伝学、
について
「人性」の論文のテーマーは多岐にわたってはい
るが、通読すると多分に当時の遺伝学、優生学、特
に「人種改造論」的な問題提起の場―特に後半では
ーとなっていることが覗える。従って以下に主とし
て遺伝学、Eugenics 関連の主要論文を選択して、そ
の動向を記述してみる。
*第 1 巻(1905
巻(1905 年)
論文「自然淘汰と衛生」(9 号)-丘浅次郎
ダーウインの自然淘汰説を紹介し、「劣等なる人
類、有害なる人類を人工的に保護して、生存繁殖せ
しむるときは、其人種の進歩改良は到底望むべから
ずが故に、此の場合にありては単に人権を重んずる
と云うが如き空論に頓着せず、少なくとも子孫を後
に遺さぬだけの取り締まりは必要なることな
り。・・」と。(国家医学会雑誌第 221 号掲載論
文)
*第 2 巻(1906
巻(1906 年)
「医学」欄に掲載されているものでは、「精神衛
生と遺伝」「遺伝と罹病との関係」、「社会衛生」
欄には「諸種の人口過剰論」「配偶の選擇」、そし
て「雑録」では「新マルサス論」「黄禍論」「韓国
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
の売春婦」等々が掲載されている。
*第 4 巻(1908
巻(1908 年)
「総覽」の項目に「国家政策と生物学」(ルード
ビッヒ・ウオルトマン著)が掲載されている。その
主旨は「・・現今の国家政策には一の新しき人種上
の問題が現れ来った、乃ち白人と黒人及黄色人との
関係は如何にと云う大問題之である、・・吾人は四
海平等と云う博愛の心を以ってこの黄人黒人を容す
べきであるか、否否、これは吾吾白人の自個保存の
問題である、白人がこの世界から絶滅するか否かの
問題である、されば博愛なんどの如きことは之れを
顧みてはいけない、・・」と記述されている。
*第 5 巻(1909
巻(1909 年)
この巻にはフォウン・デン・フェルデンの「生殖
の自由に対する国家的干渉」という論文の翻訳があ
る。それは「・・アメリカでは・・子孫に関する予
後で以て、結婚を許すとか許さぬとか云う判決を与
える役員を置くと云う議論が諸方から出て、之を試
みたと云うことである。・・以上述ぶる所の方便は、
不健全なる子孫の出生を防ぎ、以て健全なる者には、
更に便宜に且つ養育の余地を作らんとするのである
が、・・」と。この紹介論文は欧羅巴人には実現す
ることは難しい話であるがとアメリカでの当時の論
議を紹介している。
この巻はまた、ダーウイン伝及びその他ダーウイ
ンについての論文の特集がある。
*第 6 巻(1910
巻(1910 年)
「血統と人妖」(呉秀三・ダウイン記念講演会で
の講演)が掲載されている。趣意は「・・精神病者
又類同者は人間の変わり者で世間の厄介者であるか
ら之を一口に言う為に『人妖』と仮の名称を付け
た、・・進化論では動物は進化するというが進化だ
けでなく退化もするもの、つまり「被働的適合」の
なかの「変性」がある、・・。・・『人妖』の予防
について、・・禁酒会をつくる、・・更に人妖の結
婚を禁止する、生殖不能の手術をする、妊娠中絶を
する、これらは国家的生殖淘汰、国家的殺菌である
が、人権問題であって国家でも出来ぬといふ訳であ
ります、・・各自の自由に依ってやるが宜し
い、・・・。結婚に付いては・・自分の明らかなる
判断に依って、・・防ぐということが出来るのであ
ります。・・」と。
*第 7 巻(1911
巻(1911 年)
論説に「民族改善学の実際価値」(丘浅次郎・5
号)がある。これはイギリスでの Eugenics の紹介
である。そこでは「・・20 年前は日本人よりも優
った西洋人と雑婚して西洋人の血を日本人に加えて
人種をよくしようと考えた、・・今度唱えられる民
族改善学は昔の人種改善学と全く違ふて・・在来の
人間の中から身体、精神ともに優良で次代の国民を
造るに最も適当なりと認められる人だけに生殖せし
め、身体、精神ともに劣等で必ず劣等な子孫を遺す
に相違ないと思われる人々には生殖させぬやうにし
て、一代毎に漸漸人間の種族を改善して行こうとい
う考えに基づいたもの、・・」と解説している。そ
して「・・慈善は素より結構なことであるが、単に
- 20 -
October, 2003
目前の感情に動かされて、社会的生存に適せぬ精神
上の不具者を憐み助けて、生殖せしめ、更に一層の
不具者を遺させる如きことがあったならば、之また
決 し て 次 代 の 国民 に 対 して 慈 悲 な り と は云 わ れ
ぬ、・・」と。
またこの巻では「イギリスに於ける優良人種運
動」(Dr. Kaup)も紹介されている。
*第 8 巻(1912
巻(1912 年)
論説に「人種改造学研究の急務」(海野幸徳述・
1 号)がある。その論旨は「・・医術も慈善病院も
救貧院も孤児院も設立せられ開設せられ人類の衰退
を防遏することとなったのである。かくして劣悪な
る形質は益々固定せられ保存せらるることとなっ
た。・・予は人類を以って現在以上進化するものに
あらずとなすものである・・、医術は外圏を改造す
る職能より一進して、形質を改造する内部的のもの
とならなければならぬ。・・予は人類を破壊する医
術を舊医術又は外圏上の医術と言い、人類を改造す
る医術を新医術又形質上の医術と言うのであ
る。・・医術は自然を征服するとともに、種族競争
上不可欠なる用具となるのである。・・他民族を凌
ぎ,小日本を大日本としなければならぬ。・・形質
主義を奉ずる人種改造である。・・」と。
更に海野幸徳は第 8 巻 4 号で「優良種族の衰頽を
論ず」を述べている。ここでは世界の人類学会の動
向を述べ、「・・優秀階級の属する地域の生産率が
低い・・、優秀階級は減少し、劣悪階級は増加して
居るとすることができる。・・現代の文明国に於い
ては、人類は劣悪なる分子によりて形成せられ、優
秀なるものは漸次減少する傾向があると断ずること
ができるのである。・・人種改造の唱道せられ、鼓
吹せられるは決して偶然のことではないのである」
と結んでいる。
*第 9 巻(191
巻(1913
1913 年)
富士川游の「新マルサス論」(9 巻)が掲載され
ている。富士川はマルサス論、新マルサス論を紹介
し、「・・随意避妊法は文化人民の間に盛に行わ
れ、・・上等社会の人民に・・数の減却せるをみ
る、・・出産減退の現象を以って直ちに新マルサス
論の実施に帰すべきにあらざるは論なし、・・新マ
ルサス論にありては随意に妊娠を避けるの方法を主
張し、・・倫理上及び法律上の問題も起こり、・・
事態益々複雑となり、・・」と述べている。
*第 11 巻(1915
巻(1915 年)
第 11 巻 5、6、9 号の論説で永井潜は「人種改善
学の理論」を詳細に展開している。その「人種改善
学の必要」の項では、「・・若し愚鈍の低能児、不
良の遊蕩児、体質虚弱にしてよし夭死せざるまでも,
物の役に立たぬ様な子供ならば、寧ろ子なきに加ぬ
のである(ママ)。・・」「・・一家に就いて述べ
た考えは、又之を一国民に、一人種に、将た人類全
体に適用することが出来る。・・」、そして「・・
自 然 界 に 於 け る美 妙 な る『 均 り 合 い 』 」が あ る
が、・・人間の繁殖力は・・強大で、医術の進歩と
衛生の改善とは相俟ちて・・今後益々死亡率を低下
し増加率をして益々大ならしめ、・・寧ろ其数を省
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
2003 年 10 月
みずして其質を精選すべきである。・・精神病者の
増加は 190%に上って居る、・・」と人種改善の必
要性を述べている。
更に「人種改善学の理論」の項では、「・・佳良
なる者だけが現はれ不良なる者の出来ぬ様にせねば
ならぬ。人種改善学の目的は蓋しこれに尽きて居
る。・・佳良優秀なる人間を造り出す方法を講ずる
を積極的人種改善学と云う・・不良劣等者を殲滅せ
しむべき策を論ずるのは消極的人種改善学と云うべ
きである。・・」、「・・雑然たる変化をして進化
の大法則に一致せしむる者は即ち適者生存てふ最も
有力な手である。・・自然淘汰、人為淘汰、雌雄淘
汰なる三個の利器を揮って・・適者を生存せしめ、
不適者をして死滅せしめ、・・生存せる適者は遺伝
によって適応せる変化性を後代の伝えて之を助長せ
しめる。・・」としている。
そして「人種改善学の由来と実際」の項では
「・・現代の人種改善学なる者を創建したのは実に
フランシスコ・ゴルトンであった。・・単に結婚の
関渉を以て足れとせず、進みて外科手術を施して悪
質者をして生殖不能たらしむることを実行したのも
亦亜米利加合衆国を以て嚆矢とする。・・性交には
何等の故障も起こらない、随って人道上よりするも
何等非難すべきもの出ない・・」と精神病者などの
外科的断種を積極的に勧め、最後にこれは「・・我
が日本及び日本民族の将来を思う一片の赤心に外な
らぬのである」と結んでいる。
また雑録では「米国に於ける人種衛生運動」も取
り上げられている。
*第 13 巻(1917
巻(1917 年)
この巻の 1 号、2 号、3 号の「論説」は富士川游
の「一元論 Monismus」である。この論説は当時の
ヘッケルの「科学的一元論」の解説であり、「固体
発生は種族発生を反復したものである」と述
べ、・・「アプリオリズムという形而上学は今日の
科学からは受け入れられないものであること、・・
すべての生物も無機物と同一の自然律に支配されて
いる・・『世界の創造』という概念は誤りである」
と説いている。更に「苗裔論(進化論)」に言及し、
「選択説」「ムタチカン」「変形説」を紹介してい
る。
5.雑誌「人性」と「人種改善学」の提案
この雑誌の創刊号で富士川游が述べているように、
19 世紀後半からの自然科学の急速な進歩によって、
国際的には生物学としての医学の進歩と、社会的存
在としての人間認識についての研究が多くの分野で
進んだ。それ等の進歩を急速に日本に導入するとと
もに、国内的にも学際的な研究の交流の場としての
必要性から「人性」が誕生したと考えられよう。こ
のような意味では「我邦唯一の学術雑誌」として当
時は大きな役割を果たしたと思われる。先にみたよ
うに各界の多彩な人士の論文掲載がそれを示してい
るようであり、当時として進歩的な出版物であった
と云えよう。
このような立場からの発刊であり、積極的に諸外
国の新しい知見を紹介しているが、それは同時にヨ
ーロッパ、アメリカでの遺伝学の進歩、優生学的知
見の政策的展開、新マルサス主義や「黄禍論」等が
積極的に紹介される結果となった点も見逃すことは
出来ない。例えば第 4 巻(1908 年)の「国家政策
と生物学」、5 巻(1909 年)の「生殖の自由に対す
る国家的干渉」、「社会的の理由に基づく去勢術」、
「国民の将来と産児制限」、「輸精管裁開術を施し
て犯罪者の撲滅を図る法」、「独逸の民族政策と愛
国心養成」等の論文紹介がそれである。
このような傾向は「人性」の中心的な編集者の意
向とも強く関連しているようであるが、当時の日本
の政治情勢とも関係しているとも思われる。
1889 年(明治 22)に大日本帝国憲法が発布、翌
年第 1 回帝国議会が開かれた。明治政府は近代国家
建設をめざして、富国強兵政策をとり始めた時期で
ある。それはやがて 1894 年の日清戦争、1904 年の
日露戦争となり、これらの戦争の勝利を基礎に日本
のアジアを中心にした侵略政策が強行された。しか
しそれがやがてアジア人には排日の思想を植えつけ、
ヨーロッパ人からは黄禍論が唱えられる原因ともな
った。このような排日論、黄禍論は逆に日本の国内
でのナショナズムを強めることともなり、「日本民
族」が学会や「人性」の重要な課題となっていった
理由なのであろう。
このような状況で、第 1 巻から 3 巻までは学際的
な一般論文、生物学的な遺伝研究の紹介と研究、
「人体」や「精神」の遺伝問題等が主であったが、
第 4 巻(1908 年)以降は優生学的論文が多くなり、
しかも当時日本のこの分野の第一人者の論文が目立
つようになったのであろう。
第 6 巻(1910 年)の丘浅次郎の「団体の生存競
争」、外山亀太郎の「遺伝学の進歩と人生の関係」、
第7巻の丘浅次郎の「民族改善学の実際価値」、外
山亀太郎の「人類改良学と生物改造学」、第8巻の
大沢謙二の「人類に於ける遺伝研究法」、海野幸徳
の「人種改造学研究の急務」及び「優良種族の衰頽
を論ず」等がそれである。そして第 11 巻(1915
年)で永井潜は「人種改善学の理論」を展開してい
る。
これらの論者は、日本民族を「改造」する必要が
あるという点では共通するが、その実行についての
具体的方法についてはそれぞれ意見の相違があった。
丘浅次郎は「民族改善学の実際価値」で、これか
らの「民族改善学は・・身体、精神ともに優良で次
代の国民を造るに最も適当なりと認められる人だけ
に生殖せしめ、・・必ず劣等な子孫を遺すに相違な
いと思われる人々には生殖させぬやうにし
て、、・・」と主張し、「・・精神上の不具者をを
憐み助けて、生殖せしめ、更に一層の不具者を遺さ
せる如きことがあったならば、之また決して次代の
国民に対して慈悲なりとは云われぬ、・・」と述べ
ている。
海野幸徳は「優良種族の衰頽を論ず」で「・・優
秀階級の属する地域の生産率が低い・・、優秀階級
は減少し、劣悪階級は増加して居るとすることがで
- 21 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
きる。・・」という認識を述べ、「人種改造学研究
の急務」で「・・医術は外圏を改造する職能より一
進し形質を改造する内部的のものとならなければな
らぬ。・・医術は自然を征服するとともに、種族競
争上不可欠なる用具となるのである。・・他民族を
凌ぎ,小日本を大日本としなければならぬ。・・形
質主義を奉ずる人種改造である。・・」と医療のあ
り方を強調している。
永井潜は「人種改善学の理論」で「・・自然淘汰、
人為淘汰、雌雄淘汰なる三個の利器を揮って・・適
者を生存せしめ、不適者をして死滅せしめ、・・生
存せる適者は遺伝によって適応せる変化性を後代の
伝えて之を助長せしめる。・・」とし、更に「・・
単に結婚の関渉を以て足れとせず、進みて外科手術
を施して悪質者をして生殖不能たらしむることを実
行したのも亦亜米利加合衆国を以て嚆矢とす
る。・・」として精神病者などの外科的断種を積極
的に勧めている。
一方、これらの積極的な日本民族改造論の展開に
たいして、富士川游は「新マルサス論」の解説のな
かで「・・新マルサス論にありては随意に妊娠を避
けるの方法を主張し、・・倫理上及び法律上の問題
も起こり、・・事態益々複雑となり、・・」と述べ、
倫理、法律論から出産調節についてやや批判的とも
とれる発言をしている。更に呉秀三は「血統と人
妖」で、「・・精神病者又類同者は人間の変わり者
で・・人妖の結婚を禁止する、生殖不能の手術をす
る、妊娠中絶をする、これらは国家的生殖淘汰、国
家的殺菌であるが、人権問題であって国家でも出来
ぬといふ訳であります、・・各自の自由に依ってや
るが宜しい、・・」と述べ、「国家的殺菌」は「人
権問題」であることを指摘している点は注目すべき
であろう。
6. 雑誌「人性」の果たした役割
「人性」は「我邦唯一の学術雑誌なり」と云う自
負心をもって精力的に毎月発行されていたが、13
年で発行停止となった。しかしこの短期間の発行で
はあったが、それはどんな意味を持っていたのかは
検討してみる必要があろう。
ゴールドンが優生学を提唱したのは 1883 年(明
治 16)である。高橋義雄が「日本人種改良論」を
発表したのは 1884 年(明治 17)、1904 年(明治
37)には丘浅次郎が「進化論講話」、大沢謙二が
「体質改良論」を発表している。このように進化論、
- 22 -
October, 2003
遺伝学、優生学が日本に導入され始めた直後に「人
性」が出版された意義は重要であろう。前述してき
たようなその内容からみても、「人性」は結果とし
て日本への優生学の導入に積極的な役割を果たした
と思われる。
しかし 1918 年(大正 7)12 月、突然「休刊」と
なっている。「休刊」の広告文では「病的なる時代
の趨勢は遂に発行所をして其経営維持の困難を誘致
し」発行停止となったと発刊停止の原因を財政的理
由であると言う。その真偽は今日では明らかには出
来ない。
しかし、「人性」の休刊と前後して、遺伝学講座
開設(1917 年・大正 6・東京大学)、日本遺伝学会創
設(1920 年・大正 9)と「遺伝学雑誌」の創刊、そ
して日本のその後の富国強兵・満州移民を中心とし
た人口政策の根幹を準備した内務省の諮問機関「保
健衛生調査会」が発足(1917 年・大正 6)している。
「人性」の休刊はむしろこれらの新たな出発にバト
ンタッチしたかのようにもうけ取れるのである。従
って「人性」の発刊は、その後の 15 年戦争への人
口政策の根幹を決めていった「人口問題研究会」
(1933 年)の発足や日本民族衛生学会創立(1930
年)、「国民優生法」の制定(1940 年)と無関係
ではなかったと思われる。
参考文献
1) 福澤諭吉:福翁百話「人種改良」(1896 年・明治
29 年)、福澤全集―7 巻、時事新報社編、国民
図書出版、大正 15 年 2 月.
( ここで は「 ・・今 ここに 一場の 漫語 を語ら
ん・・」と前置きして、「・・強弱智愚雑婚の
道を絶ち其体質の弱くして愚なる者には結婚を
禁ずるか又子孫の繁殖を防ぐと同時に他の善良
なる子孫の中に就いても善なる者を精選して結
婚を許し或は其繁殖の速やかならんことを欲す
れば・・、二三百年を経過する中には偉大の人
物の製造法は・・」と)
2) 丘浅次郎:進化論講話、大正 3 年 10 月、有精堂、
昭和 42 年 9 月 20 日.
3) 森鴎外:人種哲学梗概、鴎外全集 25 巻、岩波書
店.
4) 高橋義雄:日本人種改良論.
5) 神津専三郎:人祖論.
6) 海野幸徳: 「興国策としての人種改造、博文館、
明治 44 年 9 月 25 日.
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
2003 年 10 月
書
評
七三一部隊「老兵の告白」
ハルビン社会科学院 七三一部隊研究所所長 金成民編
黒龍江人民出版社発行
本書の前文とか、内部に付録として 731 部隊に関
本書は中国人研究者が日本に来て取材し,中国語
する解説論文があり、大変参考になる。また、終わ
に直したものを再び日本語に翻訳したという少々手
りのところに、中野勝という翻訳者(阪大卒、広島
間のかかった書物で、内容は日本語である。
学院中・高校教師)の論文があり、かっての日本の
本書は 18 人の、かって 731 部隊などにいた日本
侵略戦争の残虐性について述べられている。これは
人の告白録である。ただし、18 人全員が 731 部隊
これで極めて重要な論文であり,必読の値打ちがあ
員ばかりではなく、他の部隊員も含まれているが,
る。
内容は変わらない。
発行所が中国なので、申し込んでから 10 日(航
告白者の大部分は、あの有名な『生体実験』に直
接かかわっておらず、運転手とか衛生兵などである。 空便)ないしは一ヶ月(船便)はかかるであろう。
なお、本書は日本の書店では扱わない。1 冊 900
直接かかわっていた研究者の大部分は功なり名遂げ
円だが、送料は別。
て大学教授とか、研究所所長になり、大抵は既に死
(竹内冶一)
んでいる人が多い。だから、当時位が低く,若かっ
た彼らの証言は重要である。
医学の歴史 梶田 昭 著 講談社学術文庫 1200 円
つい最近まで、医学は医師だけの聖域であった。
しかし、今は医学は理工学、心理学、生態学、法学、
文学、経済学、社会学など巾広い基盤を持ち、多く
の分野・領域の人々が参加している。また、医学医
療は直接にかかわる患者や健康者の権利として参加
できるものでなければならない。この著者が言って
いるように、インフォームドコンセント(説明と同
意)と言っても、医師だけが一方的に説明し患者は
それに屈さざるをえない(コンセントには屈する、
負ける、という意味もある)現状では、医学は人間
共通のものになっていないのである。
こういう立場から、医学とはどういうものか、ど
のように成り立ち、進歩してきたか、古代から現代
まで、欧米だけでなくアジアまで、分かりやすく書
かれた「通史」がこの本である。古代から医学は「人
間の慰めと癒し」であった。例えば外科は長く理髪
と一しょだったから、いまも理髪店のぐるぐる廻る
看板の赤、青、白は動脉、静脉、包帯(又は神経)か
ら来ているという。しかし、人間や自然は分からな
いことが多いから、古代は予言者、まじない者、経
験と宗教にたよるものが医師だった。イエス・キリ
ストも医師だったとこの本には書かれている。科学
革命以後、人間のからだへの解明が進み、科学的な
視点や技術の広がりが急速に進んだ。ハーヴィの血
液循環発見(1628)、ラマチニの労働医学(1700)、
免疫学の祖ジェンナーの種痘(1773)を経てクロー
ドベルナールの生理学(「実験医学序説」の著者)、
社会医学を唱えたウィルヒョー、病原細菌学を作っ
たローベルト・コッホ(結核菌の発見)、ナイチン
ゲールの活躍、X 線の発見など近代医学が形成され
て、病院や教育機関や医療職種が拡大していった。
全く別の考えと方法をとっていたインドや中国もそ
の影響を受けるようになった。明治維新後、わが国
の医学は漢方(中国)からイギリス医学、さらにド
イツ医学優先になり、戦後アメリカ医学に変わった。
大学で教えることばも変わって行った。
この本の最終章は「戦争の世紀、平和の世紀」と
名付けられている。20 世紀以後の戦争医学、スト
レス学説とホルモン研究、感染症と抗生物質(ペニ
シリン、マイシン)、エイズ、アレルギーと免疫学、
DNNと生化学・分子生物学、移植手術、水俣病と
公害、が書かれ、「21 世紀を迎え、私たちは真の医
学の進歩へ向かう人類の叡智に信頼したい。その叡
智を世界の民衆の支えによって『平和の世紀』現実
への力にしたいものである」としめくくっている。
この著者は東京女子医大の病理学の教授を長く勤
めておられたが、1988 年定年退職、1998 年 76 才の
とき、地域の健診で胸部大動脉瘤を発見され、翌年
からこれまで集積された知識を凝集してこの本を執
筆、1 年余りでほぼ書き上げられた。しかし、2001
年 1 月大動脉瘤破裂で急死された。この原稿は奥さ
んの手から知人に渡され完成、出版にこぎつけるこ
とができた。
その完成の援助をされた佐々木武(東京医歯大教
授)氏の書かれたところによると、著者の若き日の
略歴は、戦争中東大医入学、戦争直後卒、広島原爆
調査、足尾銅山病院、清瀬結核病院、労働衛生研究
所を転々とされ、その間「血のメーデー」事件で拘束
された活動家でもあったという。私もふくめて、そ
のころの医学生は、ハーヴィ、ベルナール、ウィル
ヒョウ、ジゲリストなどの本を読み、労働者の健康
問題や「不治」の結核医療に関心をもち、こういう本
を死ぬまでに書きたいという夢を持っていた。著者
の努力とロマンに心から敬意を表したい。多くの人、
とくに若い人たちにすすめる。
(細川 汀)
- 23 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
October, 2003
15 年戦争と日本の医学医療研究会
第 4 回(2003
(2003 年度)
年度)総会報告
総会報告
Japanese Medical Science and Service を
Research Society for 15 years War and
Japanese Medicine に変更する」は継続審議とす
る。
第 1 号議案 2002
2002 年度事業報告
1.会務総会の開催
1.会務総会の開催
第 3 回会務総会 2002 年 3 月 17 日同志社大学
2.研究会の開催
2.研究会の開催
(1) 第 8 回研究会 2002 年 6 月 16 日東北大学
(2) 第 9 回研究会 2001 年 11 月 22 日東京大学
3.幹事会の開催
3.幹事会の開催
2002 年 6 月 16 日
東北大学
2002 年 11 月 22 日
東京大学
2003 年 3 月 15 日
京都京阪ホテル
4.会報の発行
4.会報の発行
会報の発行はなされなかった。
5.会誌の発行
5.会誌の発行
会誌第 2 卷第 2 号 2002 年 5 月 20 日発行
会誌第 3 卷第 1 号 2002 年 10 月 30 日発行
6.史料・証言などの収集
6.史料・証言などの収集
若干の寄贈図書があった。
7.会員
7.会員
会員数は 111 人(2002 年 12 月 31 日現在)
第 4 号議案 会則の改定
英文会名の変更に伴う改訂は継続審議とする。
第 5 号議案 2003 年度予算案
(略)
第 6 号議案 役員
幹事長
莇 昭三(城北病院名誉院長)
副幹事長 西山勝夫(滋賀医科大学教授)
幹事
石原明子(国立精神・
神経センター精神保健研究所研究員)
門脇一郎(京都城南診療所医師)
土屋貴志(大阪市立大学助教授)
水野洋(元大阪府立勤労者健康サービス
センター長)
山下節義(仏教大学教授)
吉中丈志(上京病院院長)
古家信介(京都府立医大)
監査
藤崎和彦(岐阜大学医学部助教授)
色部 裕(働くもののいのちと健康を
守る全国センター事務局次長)
会誌編集委員会
委員長 西山勝夫
委 員 門脇一郎
水野 洋
若田 泰
-------------------------------------------
第 2 号議案 2002
2002 年度決算報告
年度決算報告
(略)
第 3 号議案 2003
2003 年度事業計画
1.会務総会の開催
会務総会の開催
第 4 回会務総会 2003 年 3 月 16 日 同志社
大学
2.研究交流事業
2.研究交流事業
(1)研究会の開催
第 10 回研究会 2003 年 3 月 16 日 同志社大学
第 11 回研究会 2002 年 6 月 15 日未定
第 12 回研究会 2002 年 11 月 17 日東京
第 13 回研究会 2003 年 3 月 16 日同志社大学
(2)会報の発行
適宜発行
(3)会誌の発行
1) 会誌第 3 卷第 2 号 2002 年 5 月 15 日発行
2) 会誌第 4 卷第 1 号 2002 年 10 月 15 日発行
4.調査研究事業
4.調査研究事業
会員に対する質問紙調査(別記「戦前戦中のこ
とについてのおたずね(案)」)に基づき、聞き
取り調査を進める。
5.幹事会の開催
5.幹事会の開催
2~3 回開催し、会務の調整並びに諸事業計画
を推進する。
6.事務の態勢
6.事務の態勢
事務局所在先に依存した態勢を改善する。会員
の協力を進める。
7.英文会名の変更
7.英文会名の変更
「Research Society for 15 years War and
戦前戦中のことについてのおたずね(案)
あなたはなにか話したい(話す)ことがありますか
1.はい 2.いいえ
あなたは誰かに話を聞いてもらいたいですか
1.はい 2.いいえ
知人のなかで話を伺える(そうな)人がいますか
1.はい 2.いいえ
話を聞きに行く活動に参加できますか
1.はい 2.いいえ
聞き取られた話の整理に参加できますか
1.はい 2.いいえ
その他、このことについて何かあれば書いてくださ
い。
年
月
日
署名
- 24 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
2003 年 10 月
ご案内
第 11回 15 年戦争と日本の医学・医療研究会
会
場
日 時 2003 年 11 月 23 日(日)11 時— 17 時 30 分
新宿農協会館 8 階 大会議室 〒151-0053 東京都渋谷区代々木 2-5-5
参加費 1000 円
記念講演「日本の戦後処理裁判における到達点と課題
「日本の戦後処理裁判における到達点と課題」
山田勝彦(弁護士・中国人戦後被害賠償請求事件弁護団全体事務局長・青葉総合法律事務所)
山田勝彦
講演1
「15 年戦争期・前の医学教育」
年戦争期・前の医学教育」
藤崎和彦(岐阜大学医学教育開発研究センター)
藤崎和彦
講演 2
「15 年戦争と国民の『体力』―国民体力法の成立過程を中心に―」
森川貞彦(日本体育大学スポーツ社会学研究室)
森川貞彦
応募演題「戦時下の精神科病院での死亡率」
「戦時下の精神科病院での死亡率」
岡田靖雄(精神科医療研究会・東京)
岡田靖雄
報告
「プロス博士、アウシュビッツ収容所博物館
「プロス博士、アウシュビッツ収容所博物館を
博士、アウシュビッツ収容所博物館を訪問して」
訪問して」
西山勝夫(滋賀医科大学予防医学講座)
西山勝夫
連絡先 大津市瀬田月輪町 滋賀医大予防医学講座
西山勝夫 ℡ 077-548-2188 FAX 077-548-2187
E-mail: nisiyama@belle.shiga-med.ac.jp
葉書でのご案内で、応募演題がプログラムから欠落していたことをお詫びいたします。
- 25 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
October, 2003
中華人民共和国訪問調査研究について
黄嵐庭(ファン・リャンティ)中国人民対外友好協会 原處長 理事、中国抗日戦争史研究曁和平
教育基金会理事、北京益友達咨詢服務公司国際交流部主任より、「中日戦争 15 年間の医学状況」調
査研究のための中国訪問を歓迎する連絡が 9 月に来ました。黄嵐庭氏は、昨秋、莇昭三幹事長と訪
中時に、松下周一会員(本誌今号寄稿)の紹介で訪問しました。当時の様子は本誌前号 3(2)に記し
ました。同誌と共に送付いたしました会誌バックナンバーをご覧になって黄嵐庭氏は提案をされた
次第です。
現在、提案されてる訪問先は以下の通りです。
1. 北京:同和医院、給水部隊(731 部隊)、遺跡、抗戦館、軍事医学科学院
2. 石家荘:河北省社会科学院、伯求恩 学院、化学弾発掘地現場、採訪受害者
3. 斉斉哈爾:制造化学武器工廠遺跡、化学弾採掘地、採訪化学毒剤受害者、解放軍 203 医院
4. 哈爾濱:731 部隊資料館、元日軍医院
5. 長春:旧皇宮、元日軍医院
6. 瀋陽:中国医科大学(人体解剖標本)
7. 其他
気候上、3 月末から 4 月末の期間が適している、多くて 20 名規模、1 週間程度の調査という提案
です。莇幹事長と相談の結果、この機会に研究会として来春第一次調査団が訪中できるよう計画の
具体化をはかることになりました。
つきましては、第一次調査団に参加を希望される方は、氏名、連絡先、連絡方法、調査に都合の
よい時期、調査研究のテーマ/目的、その他希望事項を記して、11 月末までに、研究会事務局に封書
でご連絡ください。
事務局長 西山勝夫
- 26 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 4 巻 1 号
2003 年 10 月
15 年戦争と日本の医学医療研究会会則
第 1 条 本会は 15 年戦争と日本の医学医療研究会(Research Society for 15 years War and Japanese
Medical Science and Service)という。
第 2 条 本会は 15 年戦争をめぐる日本の医学医療界の責任の解明を目的とする。
第 3 条 本会はその目的達成のために次の事業を行う。
1.15 年戦争と日本の医学医療に関する史実・証言の収集調査とその研究
2.会務総会の開催
3.15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌(Journal of Research Society for 15 years War and
Japanese Medical Science and Service)などの発行
4.その他必要な事業
第 4 条 本会の目的・会則に賛成する個人は会員となることができる。入会を希望する者は氏名、連絡先を
添えて事務局に申し込めば入会の手続きがなされる。団体としての会員は認めない。
2) 学生会員、会誌会員、賛助会員、顧問をおくことができる。入会を希望する学生は氏名、連絡先
を添えて事務局に申し込めば入会の手続きがなされる。会誌会員、賛助会員については、希望する
者・団体は氏名あるいは団体名、連絡先を添えて事務局に申し込めばその手続きがなされる。顧問
は会務総会で決定する。
第 5 条 会員、学生会員、会誌会員、賛助会員は毎年,その年度の会費を収めなければならない。会費を払
わないときは,その資格は失われる。
第 6 条 会員、学生会員は総会に出席して研究調査の発表や史実の紹介・証言を行い,15 年戦争と日本の
医 学 医 療 研 究 会 会 誌 ( Journal of Research Society for 15 years War and Japanese Medical
Science and Service)上における発表の資格を持ち,また同誌の配布、諸行事の案内を受けること
ができる。会員、学生会員は会務総会において会務を議決する。
2) 会誌会員、賛助会員、顧問には会誌が配布される。
第 7 条 本会の会務の遂行は、会務総会において会員、学生会員中より選出された若干名の幹事よりなる幹
事会がこれに当たる。幹事の任期は 2 年として再任を妨げない。
2)会には幹事の互選による幹事長、副幹事長をおく。幹事長は会を代表する。副幹事長は幹事長を
補佐し、幹事長にことある時はその代行を務める。
3)会には監査をおく。監査は会の会計その他の会務を監査しその結旺を会務総会に報告する
第 8 条 年次予算、会則変更等重要事項の決定は会務総会の議決を経なければならない。会務総会は委任状
を含め会員の過半数の出席で成立する。
第 9 条 本会の諸行事、出版物などは会員外に公開することができる。
第 10 条 本会の会計年度は、毎年 1 月に始まり、同年 12 月に終わる。
付則
第1条
第2条
第3条
第4条
本会則は 2000 年 6 月 17 日より発効する。
本会則によって世話人が決定されるまで現在の世話人がその会務を遂行する。
会費などは当分の間
会費
年度ごとに必要に応じてその額を定める(2000 年度は 5000 円)。
雑誌購読料 実費とする。
2002 年度の会計年度は 2002 年 3 月 17 日より同年 12 月 31 日までとする。
附記
附記
2001 年 6 月 16 日改訂
2002 年 3 月 17 日改訂
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 4(1)
October, 2003
編集後記
今号は、第 10 回研究会 (2003.3.16)のほかに研究交流会 (2003.6.15)を基にした論文及び書評を
寄稿いただきました。寄稿者の皆さん、有難うございました。
前号の編集後記では旧日本軍の遺棄化学兵器による神栖町住民の有機砒素中毒被害にふれまし
た。その後、8 月 4 日に中国で旧日本軍遺棄化学兵器による多臓器不全で死亡する犠牲者が出まし
た。9 月 3 日には 旧日本軍の化学戦に関する戦争犯罪展「侵華日軍化学戦罪行展」の開幕式が行わ
れ、出席した中華全国律師(弁護士)協会、中国人権発展基金会、中華全国律師協会、中国日本史
学会、中国抗日戦争史学会、中国抗日戦争記念館が「共同声明」を発表し、日本政府に対し、法律
上、道義上の責任を果たし、旧日本軍遺棄化学兵器が被害者を出した問題を迅速かつ適切に処理す
るよう強く求めました。「日本の外務省官僚が『1 つの単独事件にすぎない』と発言し、中国政府
や被害者に対して、謝罪や賠償をしていない」「こうした頑迷な態度が被害者や中国人民の強烈な
不満や厳しい非難を呼び起こしている」とのこと。どこに、どれくらい、何種類の化学兵器が埋め
られているか見当もつかず、化学兵器の恐怖と隣り合わせで暮らしている人々が中国に多数いるこ
とが改めて明らかとなりました。同声明では「日本政府や関係部門は事件の表面だけを論じて事態
を矮小化し、『同情』や『遺憾』などの発言にとどめている」と指摘しています。
私は 9 月 4 日から 20 日まで、ドイツ、ポーランドに出張し、その間に、林功三先生の案内で、ア
ウシュビッツ収容所博物館や「人間の価値」執筆者のプロス博士を訪問していましたので、上のニュ
ースを知ったのは帰国後のことです。黄嵐庭中国人民対外友好協会 原處長 理事から、中国訪問調
査研究の打診があったのが 9 月 3 日でしたから、調度開幕式が開かれた日であることがわかりまし
た。
日本では 6 月に有事法制関連 3 法が成立したのを受け、政府は9月、戦時に自衛隊への協力を強
制する「業務従事命令」の対象者などを定めた政令(自衛隊法施行令改訂)案をまとめました。
又、7 月にはイラクに自衛隊を派遣するイラク復興支援特別措置法が成立、政府はイラクへの自衛
隊派遣を年内に実現する方針を固め、イラク復興資金初年分 15 億ドル拠出。自衛隊法施行令改訂案
では、業務従事命令の対象として、医師、歯科医師、薬剤師、看護師、准看護師、臨床検査技師、
診療放射線技師、建設業者、陸・海・空・港湾の各運送事業者をあげています。これからは、政府
が「有事」とみなすような事態となった場合、命令を拒否すると処罰されることになります。危惧
されてきたように、有事法制の成立により、戦時医療を想定した医療訓練や体制づくりが一層加速
され、医療従事者が日頃から戦争に備えることを強要される危険な情勢となりました。
風雲急のもとで、医学医療界の「15 戦争の時代」の総括、「過去の克服」の研究の重要性を痛感しつ
つ、編集を終わりました。
(西山勝夫)
投稿規定
(2003 年 3 月 15 日編集委員会)
会員の皆さんからの、論文・総説・随想・書評・資料解題などの積極的なご寄稿をお待ちしてお
ります。その際には既刊号を参考にし、原稿には題目、キーワード、著者の氏名・肩書き・所属・
連絡先住所(以上は邦文、欧文)、電話・FAX・E-mail アドレスを記したものを先頭頁とし本文、参
考文献を記して下さい。2 万字以内を目安にレジュメ形式ではなく文章にして下さい。提出書式
は、電子式の場合は A4 用紙に 12pt で印刷したもの及びフロッピーディスク(フォーマット形式、使
用ワープロソフトの種類・バージョンを記載の上)です。
手書きの場合は市販の 400 字詰原稿用紙に記入して下さい。なお図表はコピーしますので良質の
ものをお願いします。当分は手作りですので電子文書での寄稿にご協力の程を願います。
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌編集委員会
委員長
西山
勝夫
副委員長
水野
洋
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委員
門脇
一郎、若田
泰