Untitled

囲[
グラフィッグデザイナー 三こ咤り攻昔f
数年前、私は神社やお寺、あるいは百貨店の
―卜
――
していた
。
親父が江戸中期と 言 えば
。
そこでいろんな竹旅を眺め、店`上とつま
届上や催巾場で閲かれる骨旅市に行くのを楽しみに
らぬ話をして、少しは知見を広めることもできたが、
う
トをしみじみと眺
ッ
骨旅屋の親父などは、平気でいい加減なことを言
伊万坦の染付のなます皿冗枚セ
。
「いい物でしょう、江 戸 rl
期の伊万坦で
言 い寄ってくる
。
。
第 二 次世界大戦後、
ったも
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四万年から斤 二
一JL
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いずれも底に Occ
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写兵はそういった竹旅市巡りのさいに出会
ている
のである
年までのヒ年間に、この国の輸出品には
ていた
。
みやげ物として元られていたものもあるだ
Japan (
占領下の日本 )と印すことが義務付けられ
ろうし、おもにアメリカヘの輸出品として作られた、
底にはコルクの栓がある
。
。
い
瀬戸物のテープルに骰<胡椒や塩の容器である
と
。
ひと日見てその愛らしさのとりこになった私は、
粗末なものである
すよ 」
。
ったのは日常的に使う食器のたぐいであ
染付や印判で白地に藍の図柄が入っているもの
。
おもに買
ずれも邸さは四センチから五センチ、粗未といえば
る
圃1
など古美術品にも卯味は
仏像や E1
J 市に行くたびに探し求め、卜数個ほど手に人れ
凡I旅
。
が 中心 である
百円ほどだったろうか
値段は 一体 二百円から 一『
たが、不安定ですぐに落ちるので、低つかないよう
ヒの 三人の水兵は、木製の黒いベンチに附かれてい
。
た
。
あるのだが、それらはあまりにも翡額で手が出るは
ずもない
。
。
H
に本棚に強力な接滸剤で固定し、取れなくな っ てし
わずか七十年に満たない歴史しかないものを、凡
ま った
。
った
今はもう千元にはないが、せめ
旅と呼ぶわけにはいかないだろうが、私にはとても
った
て数体写兵に納めていてよか
大切なものだ
四千円を超えるものもあ
印された人形を見つけた
。
。
いつのまにかコレク
― '円 から
値段は 一休 ―t
った
。
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少し前、新 J 薬師の骨旅市で OccupJ
ia
ep
da
。
相場は西命未か、明治初期に決まっている
めていると
や
ズアイテムとして値上がりしたようだ
タ ー
.
オキュパイドジャパン
連載 〇
ヽ
.
.
.
.
.
.
浄土
2016/5 月号目
次
連載法然 J: 人のお 言築⑫ ………… 梶村昇
英訳 河西良治
2
今昔物語 と 法然 J:人 …· …•…..…·・・・・・・・・・・・・・・· …..….....…•…..阿満利麿
4
連載響 流十方 …• …..…•…•…......…..…..…..…......…•…•…..袖山榮輝
1
2
連載江戸 の"'を 歩 く ③ .…..…•…..…..…•…..…•…..…•…..森清鑑
連載小説
•• 前田和男
渡辺海旭⑱ ………… ••••.•••..•••.••••.•••.••••.•••.•
16
20
連載誌 J: 旬 会·…………·………………………………• 選者= 増田河郎子
28
連載
3
1
マンガ
さ っ ち ゃ んは ネッ·………………….. かまちよしろう
編集後 記....................... . . .. ... . ..............................................................
表紙題字= 中村康隆元浄土門主
表紙写 真 = 鬼海弘雄
ア ートディレク ショ ン= 近藤十四郎
協力= 迦陵頻伽舎
32
f法
J語
、
。
、
‘
、
、
いつでも
、
ごう
ど こ でも
、
。
(ごん
時間
浄土に往生する正しく定
一心に専ら弥陀の名号を念じて 行住坐臥に時節の久近
を問わず 念念に捨てざるもの これを正定の業と名づく
彼の仏の願に順ずるが故に
『選択本願念仏集)
』
(
3
^
、
。
一念_念に思いをこめて申すのを
現代語訳ー_心にひたすら阿弥陀仏の名を念じて
の長短を問わず
められた行と名づける これは阿弥陀仏の本願に適っているからである
ぉ上
。
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(Senchakuhongannembutsushu)
の
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解説
これは上人の主著
『
選択本願念仏集 』 に述べられた言葉で、法
然仏教の基本となるものです。法然仏教は長い日本の仏教史を前
後に二分したといわれます。それまでの日本仏教が、現実を遊離
した観念教学の展開でしたが、それを地に足をつけた実現可能な
『
選択本願念仏集 』 はそれを示したもの
仏教にしたということです。しかもそれは独断ではなく、伝統の
仏教教学に則ったもので、
です。
梶村 昇
亜細亜大_子名蛮教授
Commentary
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英訳 河西良治
中央大学文学部教授
今昔物語
法然
人
もはっきりするのではなかろうか
。
阿満利麿
「連続無窮の会」同人
明治学院大学名誉教授
ば、法然上人の専修念仏誕生のきっかけが一段と理解しやすくなり、また専修念仏
ない、 「
今昔物語j の成立した時期が法然上人の活動と重なるから
。 だ
つまり、法然上人
の革命的な仏教の成立は、「
今昔物語」の撰者に見られる人間観や仏教に対する期待と、
。
根を ―つにしているように思われるからなのである
もし、そうした推測が許されるなら
なぜ、 「
今昔物語」を、法然上人との関係でとりあげようとするの
。 か
それはほかでも
上
「 今昔物語 」 と法然上人
今昔物語 』 は千を超える説話から構成されているが、撰者の名前は
研究者によると、 『
。
収載されている説話は、先行する仏教説話集や経典、論書から素材を得ているが、
。
もとより、撰が一人でなされたのか、複数なのかも分かっていない 作品も未完に終わっ
ている
。
ま
二十年後には今ある形になっ
。
単なる引き写しではなく、撰者の独創によって書き直され、新たな解釈が施されている
。
。
ちなみに、法然上人の生涯は一― ――一
年三
から―ニ― 二年 である
撰がはじまったのは、 一―二 0年ころからで、その十年から
た、といわれている
た、法然上人が 『
今昔物語』 を読まれたという証拠はない
『
今昔物語 」 は、天竺(インド)篇と震旦(中国)篇、それに本朝(日本)篇の 三部から
。
なっているが、内容は、説話による 一大仏教史といってもよいだろう 釈蓉伝からはじま
。
。
世間では、 「
今昔物語 』 といえば、芥川龍之介の 『
羅生門 』 などの種本とし
て、人々の心をとらえるにいたったのか、その道筋が豊富な説話の組み合わせによって綴
り、仏教がどのようにしてインドで生まれ、その後いかに中国で発展して日本に入ってき
られてゆく
て知られることが普通で、釈尊伝をふくむ仏教史の書だと知る人は多くない
。
収録する説話は千を超えるが、今回はつぎの 二話をとりあげてみよう 。― つは藤原保昌
という貴族の郎等の話である
この保昌の郎等で弓矢の達者な人物がいた その郎等が狩に出る 二日前の夜に夢
丹後の守となって任国におもむいたが、日夜狩をして暮らしていた
。
死んだ母が、彼におよそつぎのようなことを告げたのである。「自分は悪業のた
。
という
。
。
を見た
名な和泉式部らしい
保昌は、貴族であったが、弓矢の使い手として知られている人物であった 。妻 はかの有
*
5
めに今は鹿の身となって、この山に生きている
。
。
聞けば、 二日後に狩があるという 多く
。
の射手の間を逃げるのはむつかしい上に、とりわけ、お前は弓矢の道を極めていると聞く
。
お前の手から逃れて生き延びることは難しかろう そこで、大きな女鹿があらわれたら、
。
。
これはわが母だと思って射てくれるな 自分で進んでお前の手にかかるから」、と
。
。
「今回の狩は、お前の弓の腕を見るためのもの
。
辞退するならお前の首をとる
。
絶対
郎等は、次の日、明日の狩への参加を辞退したい、と保昌に申告したが、保昌は許さな
い
に参加せよ」と命じられた
。
そして当日
。
鹿の群れに出会った
。
「その中に大いなる女鹿あり
。
弓手
そこで郎等は、仕方なく狩に参加することにしたが、女鹿だけは絶対に射ることがない
ように決心した
。
にあわせて弓引きて、鐙を踏み返して、押し宛て、馬を掻き□(欠字)るほどに、この男、
夢の告げみな忘れにけり」という始末
。
。
保昌はそのわけを聞いて、そういうことなら、不参を
郎等はたちまち馬から「躍り落ちて」、弓矢を泣く泣く投げ捨てて、
。
矢は狙いたがわず、女鹿は射られた瞬間、男を「痛や」といって見返したという その
顔は母に似ていた
もをり
その場で昏を切って法師となった
。
許したものを、といったが時遅く、郎等は、そののち、山寺に入って道心堅固に行い澄ま
した、という(「
今昔物語 」巻十九第七)
。
同時に、 一度暮らしのパターンが出来上がってしまうと、結局は、
この説話を、どのように読めばよいのか 。― つは、人の決心など頼りにならないものだ、
ということであろう
それに縛られて人は生きるものであり、そうしたパターンも、自分の選択とか決意で生み
出されたというよりは、なにか宿命的というしかないような働きによって決まってしまっ
6
「今昔物語 」 と法然上人
ていることが多い、ということでもあろう
。
。
大事な決心を裏切るような行為を、自らしてしまう そうした悲しいサガが人間にはあ
。
る、ということに気づいた仏教徒たちが、のちには「宿業」という言葉を見出していった
そういう意味では、この説話は、「宿業」という言葉こそ使っていないが、人の生き方には、
。
だからこそ、法然上人は法蔵菩薩の舒願
。
いわば無意識に突き動かされる一面のあることを教えている、ともいえよう つまり、人
。
は「宿業」から逃れることはできないのである
を頼りとされたのである
。
彼は馬から「躍り落ちて」、その場で昏を切ったという
。
自分で自分を裏切ったと
この説話で注目すべき二つ目は、この郎等が、女鹿を射た直後にとった行動にほかなら
ない
。
なぜなら、私たちにはそうした発心という文化が絶
。
いう、痛切な悲しみに襲われるなかで、彼は瞬時に発心したのである この発心の仕方に、
。
どんな悲劇に襲われても、現代人は発心しない もちろん例外はあるだ
。
だが、私たちには、人生の不条理に直面したときに、選択するべき道が見えなくなっ
。
今の私たちは感動するのではないか
。
えて久しいから
ろう
て久しいのではないか
。
だが、この時代の人には、こうした選択への意志が実に深く生きていた つまり、人間
。
。
。
法然上人の求道心もまた、こうした時代のなかで養成されていったのではないか
のサガの恐ろしさを知っていたからこそ、そこから逃れる術もまた知ろうとしていたので
あろう
またつぎのような話がある
。
インドのある国に小さな寺院があった そこに祀られている仏像の眉間には、高価な玉
*
7
。
。
。
その玉を見て、ひとりの貧乏人が何とかしてそれを手に入れたい、
ところが、盗もうとすると、仏像の背が伸びて、盗ることができない
がはめ込まれていた
と寺に侵入する
。
そこで彼は、つぎのように仏像に訴えた
。
そこで、男は足継ぎをして盗もうとするが、仏像はまた高くなって、ついに盗むことがで
きなくなった
。
「仏が世に現れたのは、我ら衆生の苦しみを救うためでしょう 伝え聞くと、人を救うた
めに仏は菩薩の時に、一羽の鳩を救うために命を投げ出し、飢えた母虎と七頭の子虎のた
。
どうして、その玉を惜しまれるのですか
。
私が玉を盗もうとする
めに身体を投げ出し、目の悪い婆羅門のために眼を与えるなど、限りない慈悲行を実践さ
れたではありませんか
。
。
期待はずれです」、と泣く泣く訴えた
。
。
盗人は、盗んでもよいという
のも、並大抵な理由からではありません 玉を頂けないのなら、ひどい罪を犯すことにな
るでしょう
。
すると仏像は頭を垂れて、盗人の手が届くまでになった
ことだろうと思って、玉を取り外した
。
一夜が明けて、寺の比丘たちは玉が盗まれたことに気づいて騒ぎとなるその後しばら
。
。
盗人はありのままを話したが、国王はその話を信じない だが、念のた
くしてから、盗人は玉を売りに出したが、盗品であることが分かって逮捕され、国王の前
に引き出された
。
めに使者を寺に遣わせると、仏像は頭を垂れてうなだれていた そこで国王は盗人の話が
。
真実であることを知って、盗人から、玉を買い取り、もとの仏像に戻した(巻四第十七)
。
仏のみならず、国王まで
盗人の、いわば開き直りにも似た訴えにも応じる仏に、違和感を党える人もいるであろ
。
う。とりわけ、道徳心の強い人は、嫌悪感を懐くかもしれない
もがこの盗人を許すのはどうしてなのか、と
8
「 今昔物語」と法然上人
。
その
しかし、この説話のポイントは、貧乏のあまり盗みに手を染めようとする男が、仏が世
にあらわれたのは「われら衆生を救うため」ではないのか、と訴えるところにある
。
そこでは、世
。
いわば、仏の慈悲の平等性を教えるのがこの説話の
。
「われら」に、差別や区別があろうはずがない 盗人であろうと、善人であろうと、仏の
。
慈悲に分け隔てがあろうはずがない
趣旨ではないだろうか
今昔物語 」 はその剪頭にある説話のなかで、釈尊の出家の目的が自己一人
そもそも、 「
。
の解脱ではなく、「一切衆生」を苦しみから解放するところにある、と明白に記している
。
今昔物語 j 全編を貰く基調となっているのだ
「一切衆生」への言 及こそ、 「
間の常識が差別・区別する営みは全否定されている
。
選択本願念仏集 」 には、つぎのようにのべられてい
法然上人の 「
この「 一切衆生」に対する「平等の慈悲」こそ、法然上人を「阿弥陀仏の本願」へ向か
。
わしめた動機でもある
る
。
「弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催され、普く一切を摂せんがために、(中略)
ただ称名念仏の一行を以て、その本願としたまえる」、と
。
盗人を捕えた国王が、彼を許すのも、仏の普<慈悲に感動したからなのであろう (終)
,
謬 阿満利麿
あま• としまろ
1939 年生まれ。 京都大学
教育学部卒業後、 NHK 入
局 。 社会教養部チーフ • ディ
レクター、明治学院大学国
I
際学部教授を経て、明治学
ちくま予 芸 文鳩
院大営名誉教授 。 同人誌「連
ちくま学芸文庫
続無窮」主宰 。 専門は巳本
1500 円+税
精神史 。「 宗教は国家を超
えられるか 」「 法然の衝撃 J
「 親鸞 • 普遍への道 」「 歎異抄 」「 親鸞からの手紙 」「 行動す
る仏教 」
(以上、ちくま学芸文隅)、
「 法然入門 」「 仏教と日
本人 」「 日本人はなぜ無宗教なのか 」「 人はなぜ宗教を必要
とするのか 」 (以上、ちくま新書)、 「 社会をつくる仏教 J (人
文書院)、
「 選択本願念仏集 」 (角川ソフィア文庫)など著
書多数 。
新刊紹介
10
無量寿経
阿弥陀仏の名を称えるだけで、だれでも浄土
(安楽世界)に生まれることができる一ー。
法然や親熙がその解釈に骨身を砕き、長く
日本人に親しまれてきた浄土仏教の最重要
経典。煩悩に縛られ、悪行をやめられぬま
ま、混迷を極めた世の中を生きるごく普通の
人々。そうした凡夫を救うために四十ハの誓
願をたてた法蔵菩薩は、想像を絶する修行を
経て阿弥陀仏となり、誓願のすべてを実現す
る。この阿弥陀仏の物語を、釈迦はいまだ悟
りに到達できない阿難に向けて説く。全文の
漢訳と読み下し、さらに懇切丁寧に施された
解説により、万人のための宗敦というその核
心が鮮やかに立ち現れる。文庫オリジナル。
11
こうるじっぽう
響流+方
しょうじ
。
じ:ぅ
。
生死を受くること無量に、 一切の衆生の類いは悉く曾て親属為
而して大悲心を起せり
馬叫 「
仏所行讃」 より
り
ぜん
〔釈尊は党りを開こうとして禅定を深めると、自分自身が生まれる以前の‘逝か
遠い過去のことを、以前のことを思い起こし〕数え切れないほどの人生を繰り返
。
‘
仲間であった 〔
というその自覚を得るに至った
、
。
その自党が釈乾に〕 大慈悲
してきたなか、 〔今〕一切の生きとし生ける者はかつての自分の親兄弟家族であ
り
の心をもたらした
未生以前の青嵐
響流十方
。
。
。
旅先での出会いだっ
。
。
季語は「青嵐」 その句を忘れないように瞼に焼き付け、自宅に戻ってか
誰がその句を詠んだのか、見た途端に知りたくなった
た
みしょう
ら山本健吉 「
基本季語五 00 選」 (講談社学術文庫)で調べた あった
なっかしや未生以前の青嵐寅彦
。
寺田寅彦集 J (角川書店)
上野精養軒の藤棚の下でお昼を食べ、上野から円タク
両親が 当時住ん
。
昭和十年七月「渋柿」に掲載された随箪の末尾を飾って
3
俳人、随笥家でもある 。書 架に
。
青嵐とは「青葉のころに、吹きわたる消爽な、やや強い風」のこと 寅彦と
は戦前の物理学者、寺田寅彦のことだろうか
。
昭和文学全集
埋もれていた昭和 二十七年発行 『
o
にその句を見つけた
ヽこ
vt
。
随箪は、初夏の風が吹くなか、寅彦 一家が東京のなかを散策する「近頃の大
旅行」が話題であった
で深川の消澄公園に行き、隅田川の船や地下鉄を乗り継ぎ銀座でお茶を飲んだ
。
一文として
「徒歩ならゆっくり一日がかり」と綴ったところで、寅彦は結びの
。
。
七歳で亡くなった娘
両親から聞かされた話を「ふいと思い出した」と付け加えた
寅彦には、自分が生まれる以前に亡くなった姉がいた
のために両親は休日の度に谷中の袋参りに通っていたという
1
3
でいた深川から谷中まで「 一日がかりの墓参り」であった、と
。谷中は上野のす
。
いや、 一瞬タイムスリップして両親が墓参りに通う姿を
。青嵐に五感が研ぎ澄まされたのか、かつて聞かされた両親の話を
ぐ隣 。寅彦一家 の「大旅行」は途中まで両親の墓参りと逆のコースをたどった
こと に な る
思い出したのだろう
垣間見たのかもしれない。「なつかしや」の句を添え、寅彦は随筆を結んでいる。
。
私がこの句に出会ったのは、平成十五年の五月十 一 日 その前日、私は御開
。
師が京都鴨川沿い
帳中の信州善光寺で、大本願の御法主台下が大導師を勤める中日庭俄法要に出
I
趣のある和紙が張り付けられていて、
一端お練りを止めた
十 一日の朝、私は晋山する彼の練り行列
仕していた。法要後、 一路京都へと向かった。翌 日、法友
。
。
行列がその寺の山門の前に差しかかると
。
のお寺に新住職として晋山するのだ
に加わっていた
山門の脇に掲示板があるのに気付いた
。
。
おおらかな彼の筆遣いで青嵐の句が墨書されていた 私はしばしその句を眺め
ていた
彼との出会いは大正大学の道心寮。互 いに十八。当 初、ほとんど接点のない
二人だったが、いつしか互いに気を許せる仲となった
。卒業後も連絡を取り合っ
ては年に数回は盃を交わし、盆暮れはもちろん冠婚葬祭のお付き合いも欠かさ
14
響流 十 方
ないようになった
。
でも不思議なのだ
。
。
さしたる理由も、これというきっかけ
。
一節を思い出していた
もないのに、さも昔からの親友のような間柄を感じていたからだ
晋山式のあの日、「なっかしや」の句に私は仏伝の
。
お釈迦さまがお覚りを開かれる時のことだ 深まる禅定のなかで、自分が生ま
れる前、何度も繰り返されてきた自分の人生を振り返っていたお釈迦さまは、
。
そのことがお釈迦さまに誰をも救いたいという「大悲心」をもた
自分と 一切の衆生とは、かつての家族、親類、友人というご縁で結ばれていた
ことを知る
。
。
らしたと伝えるのである お釈迦さまは未生以前のご縁をなつかしく大切に思
われ、その思いを慈しみの源泉とし御仏となられた
私と彼もはっきり自覚はできないけれども、互いに未生以前をなっかしく感
その彼が、昨秋、極楽浄土の人となった 療養の合問に何度か食事に誘っ
。
次に会えるのは私が極楽に往生する時だ
。
。
じる間柄だったのかもしれない。青嵐の句に長年の不思議が氷解する思いがし
た
最後に会えたのは、去年の五月
もし吹いたら 二人で同時に寅彦の句を詠ずるだ
(袖山榮輝)
。
。
。
た
。
極楽にも青嵐は吹くだろうか
ろう
なっかしや未生以前の青嵐
1
5
江戸ウォー?森
江戸の川を歩く
完成された江戸の川
江戸中核部周囲の流れ
。
江戸中核部を囲む、水系は、ざっと以下の通り利
。
江戸湾に流れ込む多くの河川を付け替え、有効活用
根川水系、荒川水系、新河岸川水系、入間川水系、石
大川(隅
。
。
埋立てによって広げた土地を掘削し、堀、運河を造る
。
神田川、江戸川の流れを西側の外堀
これは同時に、江戸湾、大川(隅田川)
このようにして、正に網の目のような運
。
。
結果的に、今の銀座、築地界隈は、
。
。
。
。
。
それだけでなく、江戸近郊各所
。
井の頭池からの神田上水、しかり 立会
。
例えば、呑み川は、桜新町辺りを水源とし
。
羅漢川も目黒通り清水町辺りを水源としてい
。
こうして、今では考えられぬほど、そこ、かしこ
。
むしろ河岸だらけと 言 って良いほどであ
多くは大名のための河岸であったが、江戸
町民の
られていた
江戸の運河には、無数といって良いほどの河岸が造
江戸の河岸
に小川が流れていたのである
る
ている
れていた
から、湧き出た水が小川となって、網の目のように流
川は、碑文谷池から
まれている
き出た水が川となって、田畑を潤し、主河川に注ぎ込
この他に、江戸には幾つもの池があり、そこから湧
。
み川水系、多摩川水系…といった案配
そこから竜閑川、浜町川を掘削
神井川水系、神田川水系、古川水系、目黒川水系、呑
。
これが江戸城を中核に網の目のように広がっている
堀を掘削
最初に掘削した道 三堀、日本橋川に平川水系を繋げ外
。
。
田川)に繋げる 日本橋川から南に、楓川、紅葉川、
。
。
溜池に繋げ、浜御殿を囲むように汐留川として江
三 十間堀を掘削
に
戸湾に流す
河が完成する
完成を意味する
からいくらでも荷物を運び入れられる、水の輸送路の
東洋のヴェニスと形容されるほどの水の都になる
広大な埋め立て地、両国、深川 一帯には、縦に大横
、
川、横十間川 (江戸城から見て横に位置)、横に川竪
。
小名木川、仙台堀川、油堀、十五間川、大島川などが
掘削され、壮大な碁盤状輸送路が完成する
る
17
ための河岸もあった
。
河岸、八重洲河岸など
。
。
明暦の大火後には、本所上水、腎山上水、 三田上水、
。
いて四谷の木戸から市中に樋を引く、玉川上水の敷設
。
一五九0年には、早くも、小石川上水(後の神田上
。
日本橋川の魚河岸、外堀の鎌倉
水)の工事が始まる 次に多摩川羽村から上水道を引
。
これらは、荷物や人の集積地
であり、市場も形成する
上水、 下水道の完備
。
千川上水が加わる これらを江戸の六上水という
上水(水道水)といっても、湧き水を引いたもの
。
大きな屋敷の周囲は、例外なく、小川で囲まれてい
。
飲料水に耐える、十分に清冽な水であった 神田上水
。
それらは、堀であり、下水路である 例えば、増
る
は、井の頭池からの湧き水を引き、関口から江戸川と
。
ここで、上水、下水道
上寺門前を囲む桜川、しかり
。
一般
別れ、水戸御殿内を通り、水道橋から木樋で市中に配
。
玉 川上水は四谷の大木戸から地中木樋配送
の 川と上水道の違いは、異物が混入しないように、厳
。
を語らねばならない
。
中核部は海の
急激に人工が膨れあがった江戸では 飲料水の確
、
、
給
。
「江戸っ子は水道の水で産湯を使い」 江戸っ子の自
慢
というのも
。
れいなもの
。
で野菜を洗い、洗濯
。
化学物混入汚染がないので、き
江戸郊外の住民は、近くに流れる、清らかな川の水
。
禁止」が告知されている 違反者には厳罰が処される
。
格に管理されているところ 上水道の所々に高札が立
。
。
。
。
湧き水は飲料水 海の埋め立て地と異な
り、井戸が掘れる
。
保が重要な課題であった
そこで清冽な 川 の水
ち、「水浴禁止、ごみ捨て禁止、洗濯禁止、魚烏捕獲
。
埋め立て地で、井戸を掘っても塩分混じりの水が上
がってしまい、とても飲めない
。
この飲料水を上水という 長屋の井戸も
。
を引いて、市中には樋(木製水道管)を埋め、市中隅々
まで配った
上水を溜め、汲み上げたものである 貯まるまで少し
時間がかかるので、この間、長屋の女将さん達が井戸
。
の周りで世間話をする 「井戸端会議」の始まりである
1
8
江戸の川を歩く
I 江,. 0)"'.水畢 I
江,.湾
下水道を同時完備
。
下水
。
つま
水の町、江戸造りの凄いところは、上水路と同時に、
使用後の下水路を完備したところにある
。
きれいなものである
。
し尿
。
。
り生活排水と雨水だが、し尿の混入は、全くないので、
昔はあまり汚れていない
処理は、別ルート 典家が肥料として引き取りに来る
。
。
。
。
長屋の生活排水は、表通りの溝に流される これ
昔の
。
これは、長屋の大家にとって、大事な収入源でもあっ
た
を割下水という 雨水の水はけにも利用される
「
どぶ」であり、処によっては、蓋がかぶされている
。
本所、両国の北
それが大道の中央を走る大きな割下水道に集められ、
河川を通じ最後は、海に放出される
。
。
上水路とは別に、こうした専用下水路
割下水、南割下水は広い道の中央を走る、この大きな
下水路である
を完備したのは、江戸が世界最初ではなかろうか
。
これらが織りなす娯色であった
。
(つづく)
江戸の川とは、天然の流れ、掘削運河(堀)、上水路、
下水路
1
9
0 快僧渡辺淘旭
前田和男
壷中に
連載
を求めて
壷中に月を求めて
明治人は楽天家であった
C~
渡辺海旭は、畏友の東大教授•姉崎正治の
に反対して「 一 B 一食」など戒律主義の復興
を唱えて実践した点で、宗派は異なっていて
も、海旭には導敬と親しみを巽える人物で
たとえ披ろが「火の車」であろうと、
あった
。
に援助を求めたがあえなく断わられ、またま
。
仲介で、世界的大富萩のアルベール・カーン
たのであろう
それを楽しむ心意気を 雲照和尚の姿勢に託し
。
それから数か月後、窮状はいや増していた
た帰国は遠のき、万事休すに立ち至った
しかし、ここがつねに筆者を悩ませる海旭
下痢十度窓に横斜の影もなし
というので、下痢の句を四五唸り出した
。
「少
し徹夜でもして書きものをすると直下痢
。
伸は、こんな具合に締めくくられていた
と思われるのに、同じく米峰宛てに送った追
。
の「浮世離れ」したところだが、最悪の窮地
に陥ってもさっぱり落ち込んだ気配がない
ないどころか、姉崎とは対極の盟友にして仏
教改革運動の同志でもある高島米峰に手紙を
。
書き送り、その中にこんな一節をしたためた
のである
駄哲学駄句に洒がむ下痢三斗
すす
下痢の僧ぬつと立ちたる夜寒かな
「アプソルートに無銭だと、雲照和尚の一食
狂僧の下痢する時や雪 の鐘
。
の余裕綽々の「達観」ともとれるし、稚気じ
二 つの書状の文面からは、大人物ならでは
残 雷 の下痢に俗腸尚安し」
の真似などは屁でもない 何でも坊主や学者
は銭なしに限る」
なお、雲照和尚とは、真言宗 の麻僧で、俗
姓を同じく渡辺といい、明治初期の廃仏毀釈
21
。
みた「強がり」ともとれる はたしてどちらな
のか?あるいは両方なのか?なぜこんな
振る舞いに及ぶのか?何度も同様の表現を
重ねて読者諸賢にはまことに恐縮だが、やは
。
り窮迫をめぐる海旭の振る舞いは、箪者の理
また
。
った
。
ど
「
翔ぶが如く」 では、登場人物の村田
新八にこんな評価がなされている
「
志 士あがりの男に多い楽 天家であ
ういう悪い状況下でも、前途にかすかな光明
った」
格のもちぬしであ
を見出しては志をみずからはげましてゆく性
明治・大正•昭和を代表す
解を超えている
。
る仏教界の傑物が、異教の地で、かくも「浮世
離れ」していることをどう考えたらいいのか
しかし、これを
たしかに海旭には、同時代人の秋山好古·
。
もって海旭の「浮世離れの業」の解釈とする
のは、あまりにも俗にして 芸 がなさすぎるの
。
で、私なりになけなしの妄想を働かせてみた
、
いったい海旭の振る舞いをどうとらえたら
し
いいのだろうか?そもそも、この行きづま
。
体質で、前をのみ見つめながらある<のぽっ
てゆく坂の上の青 い天にもし 一采の白い 雲 が
無心をする前に、も
っとも身近なロイマン師
のだろうか?たとえば、なぜ 宗 門や姉崎に
りの局面で、海旭には他に選択肢はなかった
て坂をのぽ ってゆくであろう」
かがやいているとすれば、それのみをみつめ
いちだ
なところが間違いなくある
とりあえず箪者に浮かんだ答えは、司馬遼
次の有
真之兄弟や正岡子規や村田新八に似た楽天的
。
こょ、
太郎のいう「明治人は楽天的であった」であ
る
。
坂の上の 雲j
司馬の代表作 「
名なくだりがある
.r,
「楽天家たちは、そのような時代人としての
'u•
22
壷 中に月を 求 め て
。
どう
そう思ったところで、私に鬱勃として妄想
に支援を求めなかったのか?
そうか、そうだったか
。
ンに支援を断わられる前までのことであった
その後に、ロイマンの内面である逆転が起き、
それが海旭の「万事休す状態」にも逆転をも
。
。
それを示す直接的
そんな妄想が私の内
。
がわいてきた
。
海旭の日記、手紙、またロイマ
傍証(とおぽしきもの)を総動員しつつ、わ
。
ンの書簡にもそれは残されていない しかし、
物証はない
面にわいてきたのである
たらしたのではないか
。
「犯人」は身近なと
やら答えは海旭の中ではなくロイマン先生に
。
。
これは、古来、探偵小説の常道
あったのかもしれない
ころにいる
ではないか、と
インド学の二大巨星、墜つ
。
が妄想のなせる謎解きを以下に開陳するので、
ロイマンと海旭の関係に逆転をもたらした
しばしお付き合いをねがいたい
ンスト・ロイマン博士を「犯人」よばわりす
契機のひとつはヨーロッパ印度学の活況であ
海旭にとって十年以上にわたる恩師のエル
るとは何事かと、読者からお叱りをうけそう
それは、欧米各国の探検隊が中央アジア
る
。
で貴重な仏教経典の断片を発見して母国へ持
ロイマン師は夫人ともども、海旭に
である
ち帰ったことによるものだった
。
ドイツで学究をきわめさせ、 一日も早く故国・
であった
。
ロシアが領土的野心を背景に中央
年(明治 三 十 三年)はその先駆けとなった年
海旭がストラスプルクヘ留学した一九 00
。
日本へ錦を飾らせてやりたいと、陰に日向に
。
物心両面で海旭を励ましつづけている最大の
恩人ではないかと
おっしゃるとおりで、事実、私もロイマン
アジアヘ学術調査隊を派遣、それに触発され
し
夫妻の振る舞いをそのように記してきた
てイギリス、フランス、ドイツ、そして日本
。
かし、それは海旭が篤志家のアルベール・カー
23
も次々と探検隊を送り出す
。
回にお
なかでも、 オー
ヨーロッパの印度学の活況がまさに始まらん
もたらした契機は、そうした探検隊による
3
とするときに、それまでヨーロッパ印度学ア
レル・スタイン率いるイギリス隊が
よぶトルキスタンの探検調査で敦煽の仏画・
カデミアにながらく君臨してきた 二巨星がに
それは当
わかに没してしまったことである
。
あまりにも有名だが、成果という点では、ド
仏典・古文書類を発見して持ち帰ったことは
然のことながら、ロイマンの(ひいては愛弟
海旭のドイツ滞
。
イツも負けてはいなかった
子である海旭の)アカデミアにおける位置に
否写経類でははるかに
。
ファウスベルである
・
。
インドのマドラスに滞在中に風土病を得
スに興じていたときに悲報に接した
。
ロイマ
て急逝、海旭はロイマン宅で友人二人とチェ
た
の俗語プラークリットの世界的権威であっ
教授でプロシア王国学士院会貝、古代インド
リヒャルト・ピッシェルは、ベルリン大学
ヴィゴー
その 二 人とは、リヒャルト・ピッシェルと
。
在中に、グリュンヴェーデル隊長とル・コッ
も変化をもたらすことになる
。
ク隊長の下、主にトルファンで 三回の探検が
挙行された
。
その歴史的 学
・ 術的凱歌について、海旭は、
として、故国へこう書き送っている
「スタインを凌駕するもの
。
「有為な学者を派遣し、スタイン氏の功績に
譲らぬ成熟をなした
。
ンともどもピッシェルのインドでの活躍に大
スタイン氏を凌駕する立派な収得があった
古美術品も非常に立派なものがある」(「
壺月
いに期待していただけに、海旭は大いに衝撃
「
束洋哲学 j に寄せると、
古代インドの大叙事詩リグ・ヴェーダの神々
を受け、追悼文を
全集] 上‘四五五頁)
もうひとつロイマンと海旭の関係に逆転を
24
壷中に月を求めて
。
はなぜ彼を守護できなかったのかと嘆いてみ
せた
ウ
テン
地域の古国・子闇から出土した古文書につい
てロイマン教授が発表することにもなってい
東洋哲学』 に寄せる
しおで、再び追悼文を 『
た。それだけに、海旭には、哀感もまたひと
と、その末尾に次の詩を捧げたのだった
梨倶(リグ・ヴェーダのこと)の
。
。
白百合や過ぎにし夢
「北海洪濤、雲姻万里、雄景空しく存して、
。
「猜猛なる風土病の棘手は、今やまた其痺爪
聞け
むな
を磨き、利牙を鳴らして、この老碩学をして、
。
不帰の客たらしめしにあらざるなきを得む
ゃ
むな
講閣人空し、悲しい哉
爾等は、爾が栄光を讃
。
諸神、大史詩の仙群
『
壺月全集』 下、 三 九 二頁)
(
デンマーク
恩師ロイマン、変心す?
お
ニ大巨星が相次いで墜ちたことは、
ヨー
『
壺月全集』 下、 三九 二頁)
(
に月宮をかいまみしことありきとおもふ」
あた
じ爾が祖国の古文化を嘆ぜるこの老碩学を、
。
何すれぞ爾が聖域の中に、守護する能はざり
しか
。
一人、時期を同じくして没したのは、
ロッパ(ということは当時においては世界に
もう
ヴィゴー・ファウスベルである
。
手であったが、皮肉なことにロイマンにとっ
おける)インド学、比較宗教学の大いなる痛
。
はコペンハーゲン大学のパーリ学の泰斗で
あった
ロイマンがアカデミアに占めていた地位が
て 一面では「朗報」であった
十五回東洋学会」では、このファウスベルに
ンのもとに学問的な果実がより多くもたらさ
相対的に上がったからである それはロイマ
二か月後に控えるコペンハーゲンでの「第
対して長年の栄誉が称えられることになって
。
おり、そこでは海旭も解読を手伝った、新張
25
。
れることになり、それはいっそうロイマンの
学問的地位を高めることとなった
ここでロイマンの心中に
一人では手に
。
ンの研究室は足の踏み場もない状態になった
。
こうなると、もはやロイマン
負えるはずもない
ジレンマと変化が生じたとしても不思議では
ドイツ探検隊がもたらした出土品はベルリ
ン大学教授リヒャルト・ピッシェルを中心と
ない
二年ほど前には、海旭の留学延長を願い出
だきたい」と宗門に請け合った
。
しかし、今
や帰国させるから、今しばらくの猶予をいた
急逝によって、その作業はベルリン大学から
。
して解読されはじめていたが、ピッシェルの
。
る後楯として、「博士号を取得させたら必ず
。
それはロイマンのさらなる
ストラスプルクのロイマンのもとへと移され
ることになった
「学問的野心」をかきたてることにもなった
あるロシアのオルデンプルクとイギリスのヘ
今しばらくの猶予をいただきたい」と願い出
るには、どうしても海旭の力が必要なので、
回は「この学問的好機をとらえて成果を上げ
ルンレヘ書状をしたため、それぞれ当地で探
なければならない立場に逆転してしま ったの
ロイマンは、中央アジア研究の二大巨頭で
検隊によってもたらされたままでいまだ特定
である
いささか長くなったが、以上が、ロイマン
。
に至っていない「出土品をストラスプルク大
学に集めて、 一括管理のもとで同定・比定の
る筆者の妄想的憶測である
教授と渡辺海旭との関係の劇的変化にまつわ
。
作業を行なったらどうかと提案 すると、即
。
座に快諾の返事があり、十数日後にはロシア
さて、この妄想的位測が正しいとすると、
おそらく 二人の間にはこんな会話がかわされ
はサンクトペテルプルク大学、イギリスは大
英博物館とオックスフォード大学などから送
(つづく)
たのではないだろうか
。
られてきた珍奇至宝の古写本断片で、ロイマ
26
会
句
上
誌
土
浄
●へそ
。
。
浜口
佳春
亜子
金剛力士の謄に溜まりし春埃
g
手に金剛杵か金剛杖を持っているのが、こ
の菩薩だとある 念怒の相がいかめしいのだ
が、胴に注目し、そこに埃が溜まっていると
。
笠井
なると、急にほほえましくなる 俳諧に欠か
せぬ滑稽の妙をここに見る
夏衣猜ららつかせ少女行く
へその緒はどれもよく似て縁うらら 石原
〈佳
作〉餡
パンに浅きヘソあり春の昼
●対話
〈特選〉
。
位牌に対しているのである その時祖母の脳
。
ている 祖母は夫に話しかけるように、その
仏壇を仰ぐと祖母の夫、祖父の位牌が立っ
仏壇ど対話する祖母日永し
新
堀江
善久
小林苑を
28
。
裡には、生きている時の夫の姿がま
、ざまざ
と浮かんでいるのだ
〈
佳作 〉対話なき夫婦ど描どフリージア
入谷友里江
井村
善也
苗代を跨ぎ親子の対話かな
池田伊吹
。
保
片陰に入りて対話の続きけり
いろいろのことがあったものであ
東
●自由題
もうそこに米寿来ており花の宴
。
花見の宴に居る 毎年 一度はこうして花の
。
ので、米寿の宴を開く時がもうそこまで来て
下に居るのだが、考えてみれば年をとったも
。
まだまだ長生きせねばなるまい
いるのだ
る
長谷川裕
三枝亜希子
人形を乗せて朧の乳母車
増田信子
〈
佳作 〉みなさんに少し遅れて仏の座
辛 口の酒を 選んで桜の夜
29
〈旦
選者=増田河郎子
題身
浄土誌上句会の
お知らせ
兼題
"て信
日捨 B
。
東京都港区芝公園
4 ー
7
。
ー
4
明照会館内
誌上句会〈編集部選〉
■対話
三月の対話がうまくいかぬチェロ 井口栞
■ へそ
池田伊吹
白梅と対話するまでもうすこし 工藤掠
若者の謄出しルック夏は来ぬ
腑の緒は桐箱にあり春埃
内藤隼人
草餅と対話しておる桜餅
勿来聡 一
対話してなお啓蛮の孤独かな
月島恭子
かたくなな性格なつみかんに腑 小林苑を
重力の朧あんばんに謄あり
プラトンの対話の隅の巣箱かな 遠田奈美
村松芳郎
朧夜のへそからなにか聞こえくる 月島恭子
潮まねき潮まねきとは対話せず 笠井亜子
華朦魚の腹たぷたぷと吊られけり 斉田仁
風船と風船対話しつつ消ゆ
松野浩 一
対話する石の地蔵とかざぐるま 内田美智
またの名を春愁という腑のごま 長瀬愛理
菜の花の無数の対話筑後川
斎藤裕 二
空に腑あるがごとくに初雲雀
横山芙美子
寄せ植えに開あり雛菊の主張
相川保
天空の謄に桜の木が触れる
住谷荘
■自由題
春日さす半座を分けてパスを待っ真野龍
まじりあう花と遊びし春の草
浜口千賀子
ポール追う犬の跳躍花 n
雲り
石原新
締切・ニ0 一六年五月十日
春空の部品のような松の枝
勿来聡 一
発表・「
浄土」 二0 1六年六月号
厚
切
り
の
ト
ン
カ
ツ
春
の
切
断
面
工
藤悼
選者
(「南風」主宰)
・
増
田
河
郎
子
駅
前
の
パ
ン
ジ
ー
よ
り
も
よ
く
し
ゃ
べ
る
野村明秀
応募方法
三月の街より古き桜の木
袖岡篠
● いずれの題とも数の制限はありません
スカートがふんわり浮いて春
二番 和田江梨子
●特選各 1名・佳作各 3名
一谷真紀子
春寒やどでかい魚肉ソーセージ
葉書に俳句 (
何句でも可)と、住所・氏名を必ずお書き下
三
月
の
小
部
屋
の
多
き
お
弁
当
丹
羽奈都
さい
ど
の
松
も
盆
栽
め
い
て
春
の
月
飯
塚俊樹
友谷理沙
風船の尻に糸あるまま消える
〒 10
0
50
, 11
宛先
浄土 j誌上句会係
月刊 「
30
唇這 窓ぷも峠緯
介ぽ -c;~ 八 3 う
ー
かまちよしろう先生作新聞四コマ漫画 「コンち
•
四国新聞 )
静岡新聞
。(
ゃ んjが各地方新聞に掲載されています
岐聞
阜新聞・中国新聞
福島民報•宮崎日日新聞•新日本海新聞・神戸・新
山梨日日新聞 •北日本新聞
・
·
編集後記
新緑を見つめて力もらいたい
岱澗
りませんでした。「死んでも生き続ける」
なに偉い方が書いたものであれ、間違っ
が、間違っているものには、それがどん
ていると主張することは必要なことでは
というタイトルに感激して、極楽浄土で
ないでしょうか。私たちにとって大事な
人の信用というものは、やはり肩書き‘ の話と思い込み読んでみましたら驚きで、
教えであるのですから。(長)
中村康雅 (消水・実相寺)
中村瑞貴 ( 仙台・愚鈍院 )
野上智徳 (静岡・宝台院)
藤田得三 (鴻巣.勝願寺)
堀田卓文 (静岡 ・ 華陽院)
本多義敬 (両国・回向院)
松濤泰彦 (芝・古松院)
真野龍海(大本山消浄華院)
拙博之 (網代・教安寺)
水科善隆 (長野 ・窃慶 寺)
( 敬称略•五十音順 )
浄土
R 第 一_一
斎藤晃道
佐山哲郎
青木照憲
村田洋 一
種郵便物詔可
八十 二巻五月号頒価六百円
年会代六千円
昭和十年五月 二 十
印刷 平成 二十八年四月 二十日
発行平成 二十八年五月 一 日
発行人佐藤良純
編集人大室了皓
JO五 'OO- ―
印刷所ー株式会社暁印刷
FAX
QQ 一八O '八'八――
―八七
0三 (
=J
-i七八)0七
三六
0三(三
五七八)
六九四七
振替
屯話
発行所法然上人鑽仰会
東京祁港区芝公園四'七'四明照会館四階
〒
長谷川岱潤
人は死後、その人の行いで六道輪廻する
粂原勇慈 (甲府 ・瑞泉寺)
編集チーフ
編集スタッフ
と書かれていました。確かに未だ施本や
が出回っているのが実情ですが、六道輪
学歴、年齢‘血筋という も の が 強 く 影 響
廻は釈乾以前のインドの教えで、釈尊は
するのでしょうか。東大 を 出 、 八 十 歳 を
誰もが思うことでしょう。その著書に対
それを超えることを目標としました。死
いう教えがあります」などと書かれた物
して学者でもないただの 編 集 者 が 批 判 を
後の世界に六道輪廻を認めることは‘釈
チラシなどでは、「仏教には六道輪廻と
したところで、した人間が馬鹿にされる
超し、本山の法主を務め 、 ま し て や 親 鸞
だけだということは、先刻承知の上で申
蒋が説いた仏教の救いを否定することで
型人の末裔だと言えば、信用できる人と
し上げたい。
あり、極楽浄士への往生を説いた浄土教
メールアドレス
h
t
t
p:
//
j
o
d
o
.
n
e.
J
p
hounen@j
o
d
o.
n
e
.
J
p
ホームページ
昨年暮れに発行され、 か な り 売 れ て い
佐藤孝雄(鎌倉•高徳院 )
佐藤成順(品川・願行寺 )
佐藤良純(小石川・光闘 寺)
東海林良雲 (塩釜•雲上寺)
須藤隆仙(函館・称名 寺)
高口恭典(大阪・ 一心寺)
中島真成( 青山 ・梅窓院 )
があり、何を書いても許されるわけです
加藤昌康 (下北沢 •森巌寺 )
熊谷靖彦(佐賀•本應 寺)
粂原恒久 ( 川越・蓮馨 寺)
を完全否定することです。出版表現の自由
大江田博導 (仙台・西方寺)
いう大谷暢順師の本には 失 望 以 外 何 も あ
飯田実雄 (駒ヶ根• 安楽寺)
巌谷勝正 (目黒 ・祐 天寺)
魚尾孝久( 三 島・願成寺)
る『人間は死んでもまた 生 き 続 け る 』 と
雑誌 『 浄土』
特別、維持、賛助会員の方々
32
特徴①奉 り沙手本に筆 ペン で直 接なぞる
-
や行事の 待ち時間 で写 せる A4 判
特徴③手本は当会 オリジナル
特徴④ 「写経セット」は 浄土宗日常勤行式 。
特徴⑤ 「 写詠歌 セット」は宗歌 と四季の和歌 。
従来の写経と異なる苅墨をなぞる写経と写詠::加のセットです 。 扱いやすい A4 版で箪
ペンで写せます 。 手軽にかつ短時間でできる新しいタイプの写経、写詠歌ですが、閻
級奉苦を使用していますので、堤と毛筆でも写せます 。 法事や各種行事、詠唱会の待
ち時間]に、朝夕のお参りの前後に、新たな '11: 経・写詠歌行事にこ利用下さい 。
申込日
年月巳
電話
御名前
御住所
〒
《 御寺院欄 》
〇写経セット
(1 組 12 枚、 10 組入り)
組
教区
寺•院寺院番号
領価 : 12,000 円(税込)関東• 関西
セット
)を入れる · 入れない
※ 寺院名(
※ 閲束版(三奉請) ` 関西版(四奉請)に丸をおつけ下さい 。
〇写詠歌セット
定価: 10,000 円(税込)
セット
(1 組 5 枚、 20 組入り)
※ 写経セットの寺院名入れは無料です 。
こ希望の場合は寺院名をお書き下さい。
※消費税と発送料は領価に含んでいます 。 商品お届け時の請求書にてお支払い 下さい 。
※こ注文をいただいてからお届けまで 3 週間ほどかかりますので、ご 3 承下さい 。
※ 1 組からご注文こ希望の方は FAX にて当会にこ相談下さい 。
《本頁をコピーの上、ご注文をご記入して、法然上人鑽仰会へ
Fax(03-3578-7036) 、メール
(hounen@jodo.ne.jp) 、または
ご郵送(〒 105-0011 東京都港区芝公園 4-7-4
明照会館4 階)下さい 》
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2016 ·Vl 発行人 / 佐藤良純編集人
薄墨手本をなぞる
ジナル A4 判
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写経セッ ト
浄土宗勤行の解説も付いた 12 枚組
/ 大室了皓編集チーフ
毎日のお経だから
心のこもったオリジナルな
ものがいい。
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/ 長谷川岱潤
写詠歌
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浄土宗歌「月影」と春夏秋冬の和歌
解説付き 5 首セット
詠唱でお唱えする歌、
法然上人のお歌を
筆で写して心に刻もう!
当会オリジナル新商品!!
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※こ注文 と詳細はウラ面へ
法然上人鑽仰会 FAX: 03-3578-7036
〒 105-0011 東京都港区芝公園 4-7-4 明照会館 4 階
※お問い合わせは、 Fax またはメール
hounen@j
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