森田慶一建築論の再構築にむけて

はじめに 森田慶一の『建築論』の最後部には、「エウパリノス」が収録されている。
この対話編は建築術に範を求めた制作論であり、ヴァレリーのなかでもとくに重
要な作品の一つとされている。 森田慶一建築論の再構築にむけて
─ 第2部 制作論 ─ Paul Valéry, EUPALINOS ou l’architecte (Louis Süe et André Mare, Architecture,
1921)
Paul Valéry, EUPALINOS ou l’architecte précédé de L’AME ET LA DANSE, 1923
1932年 :学位論文の提出直後、渡仏し、「エウパリノス」原著を入手。 戦時中 :ウィトルウィウス『建築書』の訳出作業を行う。 1958年 :『エウパリノスまたは建築家』(内外印刷)出版。 遺品によると、ヴァレリーとの出会いは渡仏以前だったかもしれない。
田路貴浩 2011年12月3日 建築論研究会 はじめに 『建築論』では、まず建築物に焦点があてられ、建築物の本質の理論的
な解明が試みられている。 しかし、森田が早くから「エウパリノス」に惹かれていたのは、建築制
作論も建築論の射程に入れようとしていたからであろう。 なぜなら、ヴァレリーはつくられた作品よりも、作品を制作することを
省察しつづけた人だからである。 2
3
はじめに 4
しかし、森田は制作論を著すことはなかった。その概要を整理している
だけである。 森田慶一「ヴァレリ『ユウパリノス』要約」1958年 森田は、建築論を本質論から制作論へと進展させることを構想していた
だろう。この未完の課題はぜひとも継承されなければならない。 理由1)建築家にとって日々の営みの反省に寄与するから。 理由2)建物の意味や価値、倫理の問題の所在を示唆するから。 1
はじめに 5
<「エウパリノス」の難解さ> 「エウパリノス」は複雑、難解で、包括的に理解するのは容易ではない。 理由1)哲学専門用語にたよることなく、概念化以前の思考や行為そ
のものを捉えようとしたから。 理由2)揺れ動く思考の戯れが、神話や比喩、詩的言語で再現されて
いる。 理由3)話題は思考や行為の実態を反映し、一直線には進まず、錯綜
し、横滑りし、変奏し、反復されていく。 はじめに 7
<先行研究> 本稿でも、ひとつの先行研究に依拠せざるをえない。 Marcel Raymond, Paul Valéry et la tentation de l'esprit, 1946 (佐々木明訳『ポール・ヴァレリー 精神の誘惑』1976) レイモンはフランス近世・近代詩をフィールドとした文芸批評家で、
『ボードレールからシュールレアリスムヘ』は、20世紀フランスの最高
の文芸批評と評価される。 とくに、レイモンを参照するのは、それがヴァレリーに即して解釈しよ
うとしているからである。 はじめに 6
<先行研究> これまでのヴァレリー研究では、その難解さのため、しばしば他の哲学思
想を介して整合的な理解が試みられてきた。 Albert Thibaudet, Paul Valery, 1923 ← ベルグソン 田邊元『ヴァレリィの藝術哲學』1950 ←西田幾多郎、カント Karl Löwith, Paul valery, 1971 ← ハイデガー 森田が残した課題を継承したのは加藤邦男である。 『ヴァレリーの建築論』1979 加藤はヴァレリーの著作全体を精査し、建築論的制作論を取りだすことを
試みている。しかし、加藤の解釈をあらためて検討すると、ヴァレリーの
思想から大きく逸脱する部分がある。それは、現代のプラトン解釈、ハイ
デガーやメルロ=ポンティ、増田友也の建築論のつよい影響のもとで解釈
されているからである。 はじめに 8
<論述の方法> 1)「エウパリノス」を建築制作プロセスとして再構成する。 ・予断を交えずテキストそのものの理解に努める。 2)加藤解釈によるヴァレリー制作論を確認し、疑問点を指摘する。 ・加藤邦男「建築論素描」を参照。 3)レイモン解釈によるヴァレリーの中心思想を確認し、加藤解釈との
相違点を明らかにする。 4)1)による「エウパリノス」の建築制作プロセスをヴァレリーの中
心思想に関連づけ、ヴァレリーの建築的制作論を完成させる。 5)ヴァレリーが提起した制作に関する根本問題から、今日の建築制作
論の課題を考える。そのうえで加藤解釈の意義を再検討する。 2
1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 9
<テキストの概要> 冥界の二人、ソクラテスとその信奉者パイドロスによる対話篇。 1)パイドロスが伝える建築家エウパリノスの談話。 それに触発され、 2)制作にかかわる様々な局面が、多様な話題とレトリックで語られる。 3)また、制作の本質が省察される。 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス <概要> 〔制作前〕 観察 経験 ↓ ↓ 考察(自然物/人工物) ↓ 選択(知る/つくる、哲学者/建築家) ↓ 〔制作〕 制作の端緒 ↓ 制作の最中 ↓ 制作の終結 ↓ 〔制作後〕 経験・省察(作品の経験と自己形成、イデア) 11
1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 10
<再構成の概要> 制作のプロセスに準じて、「エウパリノス」の記述を整序。 〔制作前〕〔制作〕〔制作後〕の三つの位相に区分する。 この区分は制作の進行に即して分割されているが、その進行はかならず
しも直線的ではない。停滞や跳躍、循環や反省などが入り交じっている。 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 12
〔制作前〕 観察・考察・経験・選択 日常では、家、机、酒壷などの物を見るとき、それに関する知識を前提
としている。 「既知である故に、問いと答えをもつ」 このような知識を中断することから観察がはじまる。 例)ソクラテスによる貝殻の観察 ソクラテスは浜辺で貝殻を拾いあげ、それが貝殻であるという判断
を中断し、その大きさや形、色やテクスチャーや硬さなどを観察し
言い表そうとする。 3
1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 13
1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 14
〔制作前〕 観察・考察・経験・選択 〔制作前〕 観察・考察・経験・選択 純粋な観察と記述はひとつの問いを誘発する。
「誰がお前をつくったのだ」
自然物と人工物の原理的差異の考察
全体と部分 自然物では、全体は部分より複雑。
人工物では、全体は部分よりはるかに単純。
「職人は、全体が常に部分よりも低い段階にある物体を作り出すよ
うに仕向けられている。かれが机を造るとすれば、一本の大木から
採った数片を別の秩序のうちに粗雑に寄せ集めるのだ。」 この問いが考察の端緒となる。制作意欲が問いの根本動機になっている。 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 15
1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 16
〔制作前〕 観察・考察・経験・選択 〔制作前〕 観察・考察・経験・選択 自然物と人工物の原理的差異の考察
原理と構造、生成と行為 自然物は原理と構造が分離されないが、人工物は分離されている。 自然は計画とその実施を区別しないが、人工では区別される。 「樹は枝もその葉も造りはしない。鶏はその嘴や羽根を造りはしな
い」。しかしそれは自然発生的偶然ではない。自然は「計画とその
実施を区別しない」ので、模型もなく、試行したり、やり直したり
しない。
人工物では、「原理は、造ることから引き離され、そして行為を通
じてそれを質料に伝える」。 また、人工物は自然を利用する。したがって、人間の時間と自然の
時間の「二種の時間」のなかで人工物は制作される。 純粋な観察の一方で、肉体によって世界が経験される。
世界の抵抗と合一 しぶきの泡との官能的な合一。「この絶えず押し返される(世界
の)抵抗が、ぼく自身を、一人の架空の半神につくり上げた」 肉体によって世界が分有される 「人間は、この実体を通じて、かれらの見るもの触れるものを分有
する。すなわち、かれらは石なのだ、木なのだ。かれらは、かれら
を囲む物質と接触を交わし、呼吸を交わす。」
魂は自分が知るもの、欲するものと一体と感じる 「魂は、結局、自分の知るものと一体である」と感じる。
4
1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 17
〔制作前〕 観察・考察・経験・選択 哲学者の動機と挫折 考察を進め、すべてを知ろうとする者は、哲学者の道へと向かう。 「哲学者は、もっと広い考えをもち、全体を必要としたがる人間」 哲学者は、全体を求め、感覚を越えた世界に原理的なものを求める。 ソクラテス:「この至高の状態を、それを生ぜしめる肉体あるいは
何かある物体の現前と結びつけることができないのだ。」
「まなざしは万物の彼方にそそがれ、全一のかなたに収斂する」 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 19
〔制作前〕 観察・考察・経験・選択 建築家の第一の動機:必要 人間は自然の一部だけを必要としている 「人間は、自然の全部を必要とするのでなく、ただその一部だけを
必要とする。」
自分に都合の良いものを欲する 「われわれは、自分以外のものにはすべてわれわれに都合がよいと
いう権利しか認めないのだ! われわれが確かに欲していることは、
あらゆるものがわれわれの欲するものとなって欲しい、ということ
だけだ。」 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 18
〔制作前〕 観察・考察・経験・選択 イデアの不首尾 しかし、イデアは美の多様性や生成変化を説明できない。 「このイデアなる観念は驚嘆すべきぼくたちのプラトンがその父で
すが、それは無限に単一で、いわばあまりに純粋で、美の種々相を
説明できないし、また人間の好みの変化や、かつて誉めそやされた
多くの作品が消えて失くなることや、まったく新しい創造や、予想
することもできなかった復活なども説明することができません。」 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 20
〔制作前〕 観察・考察・経験・選択 建築家の第二の動機:自己実現 人間は自己実現のために制作する 「ほんの少しの余分に自分自身であるためには宇宙をも覆すことを、
どんな魂がためらうだろうか。」
5
1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 21
〔制作前〕 観察・考察・経験・選択 哲学者と建築家の選択 「人間となるかそれとも精神となるか、そのどちらかを選ばなけれ
ばならぬ」 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 23
〔制作前〕 端緒・最中・終結 配慮、問題の再編、抽出 いたるところに配慮し、問題の順序を立て直す 「ぼくは至るところに気を配った。ぼくは問題の順序を立て直した」 人間は抽出によって制作する 「建築する人は、かれらが手を加える物質の『全体』に心を配るので
なく、ただそのいくつかに心を配るだけだ。われわれの目的にとって
十分なもの、それがわれわれに重要なのだ。」
「制作のために、人間は自然から原理を抽出し、自然の一部だけを必
要とする。」 自然への対抗、自然の利用、それが制作 「自然をぺてんにかけることが必要だ。自然を拘束するために自然を
模し、自然を自然に対抗させ、自然の神秘を見返させるような秘密を
自然から奪いとることが必要だ。」 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 22
〔制作前〕 端緒・最中・終結 人間にとって都合の良いものをつくるという動機から制作ははじまる。
そのためには、すべてを知るのではなく行動すること。 人間は「すべてを知ろうとはしない。一部に満足するから行動できる。」 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 24
〔制作〕 端緒・最中・終結 観察から生まれる観念を行為に変換する 「ぼくは思考に適確さを求めた。それは思考が、物をつぶさに観察す
ることによって明確に形成されて、思考そのものであるかのようにぼ
くの技の行為に自分を変えるためなのだ。」
6
1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 25
〔制作〕 端緒・最中・終結 制作は幾何学的形象の産出へと向かう 建築と音楽は、「数と数比を手段として、われわれに単に一つの物語
りを生むだけでなく、あらゆる物語りをつくるような隠れた力をうむ
はずだ。」 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 27
1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 26
〔制作〕 端緒・最中・終結 幾何学とは、ことばによって規定される運動の軌跡 「われわれがごく僅かのことばで表現しうるような運動の軌跡である
形象、それを幾何学的と呼ぼう。」 例)両側の並木から等距離に進め 「ことばなしには形象は偶然にすぎない。」 唯一の命題から産出される形象の多様性 幾何学の「この命題が、この運動のあらゆる瞬間に守られ、形象のす
べての部分が、拡がりにおいては異なっていても、思考のうちでは同
一物であるような具合に、まもられていることが必要なのだ。」 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 28
〔制作〕 端緒・最中・終結 〔制作〕端緒・最中・終結 幾何学は多様に組合せることができる。 「それぞれの形象はひとつの命題であり、それは他の命題と組合せる
ことができる。」 真理の組み合わせから、戯れ、そして突然の簡潔なことばへ 「かれらが追求するこの目標、かれらは、最も普遍的なもろもろの真
理を結びつけることによって、それに向かって行く。まずかれらは、
下心なしにこの真理を集めて組み合わせるように見える。かれらは、
自分の意図を伏せ、自分の真の狙いを隠す。かれらがどこへ行こうと
しているのか、はじめは誰にもわからない。なぜこの線を引くのか、
なぜわれわれにこの命題を思い浮かばせるのか。なぜこうしてああし
ないのか。問われていた課題はもう問題ではない。人々は、かれらが
それを忘れてしまって弁証法の遙かかなたに迷いこんでいるというだ
ろう。ところが、かれらは突然簡単な言を吐く。鳥は雲間から落ち、
獲物はかれらの脚元にある。」 7
1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 29
〔制作〕 端緒・最中・終結 運命に従い、複雑なことばは整理され、簡潔なことばが生まれる。 「幾何学者は、運命に盲目的に従うのだ。刻苦の沈黙の奥で、複雑な
ことばはもっと簡潔なことばに変わる。同一であるのに区別されてい
た諸観念は融合される。よく似たいくつかの知的形態は、要約され単
純化される。いろいろな命題のうちに含まれた共通の諸概念は、これ
ら諸命題に別々に付随していた別のもの同士を結びつけることを可能
にしながら、諸命題間の紐帯の役を果たし、そして消失する。もう思
考には純粋な行為が残されているだけだ。」
1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 30
〔制作〕 端緒・最中・終結
厳格からの自由の創出 「かれらは必然と技巧を分解できないように混合する方法を発見した
のだ。彼らは理性の軽業ともいうべき手品や妖術を発明する。最大の
自由が最大の厳格から生まれる。」 偶然の幸運によって言葉をえた者が「詩人」である。
「だから、錯雑したことばを、この種の調整に伴う偶然や不意打ちに
賭けながら、整理しなければならぬ、そして、この作業において幸運
の女神の庇護を受けた人々に「詩人」の名を与えなければならぬ。」 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 31
〔制作後〕 1)制作の原理の省察 原理としての肉体、魂、世界。ときに、これら三者は混合している。 「この三原理は、実にはっきりした区別がありますが、実際には、常
に入り交じっているのではないでしょうか。ぼくは、時々、美の印象
は正確から生まれるし、またある物体とそれが満たさなければならぬ
機能との奇蹟的ともいうべき合致によって一種の快が生ずるような気
がしました。」 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 32
〔制作後〕 2)作品の経験
ⅰ 神的状態 ことばを介して見ることと動くことが通じる 「ぼくは線のような可視的な物象を動きに変え、動きを物象に変える、
それほど見ることと動くことが緊密に結びついているのを君は驚くべ
きことだと思わないのか。この変容は、またことばを仲介としてそう
なるのだと君は思わないか。視はぼくにひとつの運動を与え,その運
動はその生成とその軌跡との繋がりをぼくに感じさせる。」 肉体と精神は建築作品のうちに結合する 8
1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 33
〔制作後〕 2)作品の経験
ⅱ 自己形成 思考・行動することによって、自己が建設される 「ぼくは自分自身の建設へと進入する。そしてぼくは、ぼくの願望と
ぼくの力量の間の実に正確な一致に近づいて行くので、ぼくはぼくに
与えられた実存在で一種の人間制作を行ったような気がする。」 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 35
〔制作後〕 2)作品の経験
ⅱ 建築家の第三の動機:美 「愛されるものが人を動かす」ように、えも言えない優美を感じさせ、
人を動かし、歌う建築がある。「美」はそうした建築を欲求させ、制
作の動機となる。
この美は、「感覚的な形のもつ属性」あるいは「形而上学的イデア」
ではなく、人間の自己のなかにあって、自己自身のようなものである。 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 34
〔制作後〕 2)作品の経験
ⅰ 神的状態 音楽と建築の類比 肉体の奥の神的曖昧状態 「この可視形態と連続音の瞬時的な集合とのふしぎな結びつきを、人
間存在の究極まで考えぬく人間。その人間は、奥深い根源へと進み、
己の肉体のうちに神、神的曖昧状態を見出すだろう。」 行為のなかの神的状態 「われわれが神的なものに現に在るという最も直接的な感情を見出す
べきは、行為および行為の組合せにおいてである。」 1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 36
〔制作後〕 3)イデア 窮極の美は永遠の世界ではなく、制作者の中にある。 「すぐれて美しいものは永遠の世界には姿を見せないのだ!」 「(イデア)はぼくの中にあってぼく自身のようなものです。それは
過つことなく行動し、判断し、欲望します。」
沈黙から生まれる観念の戯れ、そこに不死(イデア)が成立する 「ソクラテス:いや、ここ(永遠の世界)というものはないし、ぼくら
が今語ったことは、ぼくたちを操り人形にしてしまった他の世界の誰
か修辞家(ヴァレリー)の気まぐれと同様、すべてこの幽界の沈黙から
自然に生まれた戯れなのだ! パイドロス:厳密に言って不死が成立するのは、そこなのですね。」 9
1.「エウパリノス」にみる建築制作プロセス 37
<概要> 〔制作前〕 観察 経験 ↓ ↓ 考察(自然物/人工物) ↓ 選択(知る/つくる、哲学者/建築家) ↓ 〔制作〕 制作の端緒 ↓ 制作の最中 ↓ 制作の終結 ↓ 〔制作後〕 経験・省察(作品の経験と自己形成、イデア) 1)全一 2)私/自我 3)詩的状態 4)構築と幾何学 5)建築家 最後に、加藤解釈に対する疑問点をまとめる。 全一的作者
純粋自我
私の精神
可能的
私の身体
現実的
個性的私
作品
私の世界
自然をまねる
受肉化
秩序
詩的状態
非存在の全一(潜在的可能性/否定的な無/心的生)
38
本章では、「建築論素描」に示されたヴァレリー制作論の中心的観念を確
認する。
39
2.加藤邦男のヴァレリー解釈 2.加藤邦男のヴァレリー解釈 現実的
可能的
2.加藤邦男のヴァレリー解釈 40
1)全一
森田の「建築そのもの」が、ヴァレリーの「全一」と結びつけられる。 そして、潜在的可能性として解釈される。 「建築そのもの」は、建築とは何かという不断の「反省の背後に予想
されている」ものにすぎず、あらゆる規定の手前にある「可能的な
『建築』が全一的なもの」である。 さらに、「建築そのもの」は、秩序の否定的な無=心的生とされる。 古典的建築観では、「建築そのもの」は秩序taxisと考えられてきた。
しかし、「徹底した秩序化には、おのずとその行為を意欲せしめる根
源的な心的生そのものの地平が、秩序の非・化として、脈絡的にその
背後として相即しているのである」。 「建築そのもの」を直接把握することはできない。 象徴による表現のみ可能。 10
2.加藤邦男のヴァレリー解釈 41
1)全一
全一としての「建築そのもの」を、否定的な無、潜在的な可能性、心的生
と等置するのは、加藤の独自の解釈である。そして、これがヴァレリー制
作論の起点とされるのである。
42
2)私/自我
身体・精神・世界という体系は、ヴァレリー思想の中心に仮設されている。 「精神とは身体の世界に対する応答の一契機である」(ヴァレリー) 身体が行為をとおして世界から抵抗や反作用を受け、それを通じて精神は
世界を認識するようになる。 「全一」には、さらにさまざまな意味が重ね合わされている。 2.加藤邦男のヴァレリー解釈 2.加藤邦男のヴァレリー解釈 43
2)私/自我
ここで、加藤が明確化しようとするのは、「私 je」と「自我 le Moi 」の
区別である。 私の身体=生きられる身体=錯綜体 「私の身体」とは、ヴァレリーによれば「生き生きと感じられる直接
無媒介の身体」、すなわち生きられる身体である。ヴァレリーはそれ
をまた、瞬間ごとに多様に作用する可能的総体という意味で「錯綜体
Implex」と名づけている。 2.加藤邦男のヴァレリー解釈 44
2)私/自我 純粋自我=「私」の背後に潜在する無垢なる我、作品を産出する働き 純粋自我(零度の自我)は、作品を産出する主体であり、作品を存在
へともたらす働き、非存在ないし無の受肉化(incarnation)。 純粋自我=自然に属する身体から抽出されている 「零度の自我」は、「全体としての外的世界を母体としてその一部分
である身体からつくりだし、もしくは抽き出された者」である。 純粋自我は、考え、作り、生きるという人間の全一的行為をとおして、全
一的な一人格である作者として、作品の観賞者に対して現前する。 作品はそうした身体を受肉している。 11
2.加藤邦男のヴァレリー解釈 45
2)私/自我 建築家=私の身体/ 純粋自我 加藤の解釈によれば「私の身体」と「零度の自我」は表裏密着し、作品の
作者としての一人格を形成することになる。 疑問1)私と純粋自我は、表裏の関係以上に峻別されているのではないか。
ヴァレリーはいっさいの個性による規定を拒むものとして純粋な精神を追
い求めたのであり、その到達不可能な極限を純粋自我としたのではなかっ
たか。極限的な純粋自我との対照として、一人格として個性によって規定
される「私」を見いだしたのではなかったか。
疑問2)純粋自我に対応するのは、生命的な世界なのか。
2.加藤邦男のヴァレリー解釈 47
4)構築と幾何学
詩的状態から、精神はいかに構築に向かうのだろうか。
詩的状態は、「私の身体/純粋自我」によって、現実の制作行為がはじま
る根源的な原初である。
精神は唯一の存在者、自然、造物主、「神」に帰還する。そうした境
位においては、精神が知ろうとするところと、身体が現実に造ろうと
するところのものとは、可能的に重なりあう。それは「全一」として
の自然である。
そうした情動をわれわれのうちに回復することが作品制作の究極的目的で
あると、加藤は考えている。 2.加藤邦男のヴァレリー解釈 46
3)詩的状態
詩的状態とは、「自我は身体を介して身体と同じ資格を帯びていくあらゆ
る存在者、森羅万象と交じりあう」状態。
「人間が思考の彼方に求めようとする永遠なるもの」であり、秩序の非・
化としての根源的心的生と等しい。
詩的状態とは、「精神を刺激し動かして至高の状態へと導き得る潜勢的な
力のまさに働いている実感」であり、「究極における原初の全一感」。 疑問)「純粋自我」に対応する世界が生命的なものでないとするなら、根
源的な全一的なものへの接近=詩的状態という解釈は成立しなくなる。 2.加藤邦男のヴァレリー解釈 48
4)構築と幾何学
その究極目的のために、身体はその運動によって、精神がめざす究極的本
質である「全一」=自然を「まねる」。
「エウパリノス」では、自然の生成を混合した人為であることが示されて
いたが、加藤はこれを、自然の生成と人為との「含み含まれる関係」、と
独自に解釈している。 12
2.加藤邦男のヴァレリー解釈 49
4)構築と幾何学
建築的な構築は幾何学によって遂行される。
幾何学とは単純で正確なことば(ロゴス)であって、加藤は、ことばを介
して生成される建築物を「幾何学の言説(パロール)」に喩える。
2.加藤邦男のヴァレリー解釈 50
4)構築と幾何学
疑問)制作が自然を「まねる」という解釈は妥当なのか。
「エウパリノス」では、自然の生成と人工の制作との決定的な差異が考察
されていたのではないか。しかし、加藤の解釈では、制作が自然と融合す
る境位では、自然の生成と人為とは「含み含まれる関係」にあり、精神の
知る営みと身体の造る営みはかぎりなく近づくということになる。 その言語は日常的言語、あるいは模写的な表象的言語をこえ、理念的なも
のを直観させるだけの抽象的で非表象的で、象徴的な言語である。
結局、「歌う建築」は、この幾何学的言語の象徴的作用によって根源的生
命の詩的状態を象徴するという理解が示される。 2.加藤邦男のヴァレリー解釈 51
5)建築家
ヴァレリーは建築家を構築する人間の典型として繰り返し叙述している。 加藤によれば、それは「普遍的たろうと努める人間の永遠の姿」であり、
建築家の範型である。 範型としての建築家とは、可能的な非存在としての自然と、自然から生ま
れた身体とが交じりあう混沌から、自己否定を重ね、その究極にいっさい
の表象を拒絶する至高の全一=詩的状態に近づこうとする、と理解されて
いる。 そうして産出される作品は、素材と形態の完全な一致に至り、大地から自
然に生え出て生成したという感じをわれわれに与える。 2.加藤邦男のヴァレリー解釈 52
5)建築家
範型的な建築家像として、加藤は「若きパルク」の一節を参照する。 精神は足を大地に踏みしめ、天を仰いで祈念し、身体に宿って、眼差
しを天空に向けて、己が夢見る建築を描く。
加藤の解釈にそって言えば、 大地:可能的非在としての自然
眼差しを天空に向ける:全一的な可能的建築へと目を向けること。
身体に宿って建築を描く:自然と同じく全一的可能態である身体をと
おして、現実の建築が制作される。
自然に属する身体が自然に足を据えるかぎり、その行為もまた自然で
ある。そうして産出される作品は、素材と形態の完全な一致に至り、
大地から自然に生え出た印象をあたえる。 13
2.加藤邦男のヴァレリー解釈 53
5)建築家
加藤によれば、こうした建築家の制作は到達不可能な普遍の希求の歩み。 建築家はもっとも普遍的かつ完全であろうと欲し、身体や世界と対抗
し、自己自身の限界を自覚し、否定し、自己更新する努力をつづけ、
到達しえない自己認識、究極の認識を本来的に願望する。それは「終
極の道をたどる弁証法」である。 「終極の道をたどる弁証法」は、加藤によれば「求道の道」でもある。 「プラトンのソクラテス対話篇には、究極目的を求めつつも、それが
不可能であることを知り、求める目的よりも目的を求めて努力する行
為そのものが行ずるべき求道の道だとするその道を見なければならな
い」。 究極目的=詩的状態(自然+<私/純粋自我>) 2.加藤邦男のヴァレリー解釈 55
6)加藤解釈に対する疑問
その都度、加藤解釈に対する疑問を列挙してきたが、それらが生じる根本
原因はつぎの点にある。
純粋自我と根源的自然の位置づけが特異に解釈されていること。 加藤は、<純粋自我>と精神と身体をもつ<私>とを表裏一体のものとし
ている。ところが、「エウパリノス」では、純粋自我をめざす哲学者と、
制作へと向かう建築家との二者の道は選択されるべき道として語られてい
た。建築家は純粋精神への道を途中で中断し、身体による制作へと転じた
のだった。
しかし、加藤の解釈では、建築家は哲学者の知るという道に、さらに作る
という行為を加えることによって哲学者の限界を超え、いっそう自然への
接近をはかるのである。それは、自然の生成と人間の制作を峻別する「エ
ウパリノス」の思想とはまったく異なっているのではないか。 2.加藤邦男のヴァレリー解釈 54
5)建築家
疑問)ヴァレリーは到達不能の自然の生成への接近を、制作の究極目的と
していたのだろうか。
加藤のヴァレリー解釈の基軸は、人間の制作の自然の生成への接近と
いうことにある。 しかし、「エウパリノス」では、人間は自分の都合の良いように制作
すると語られていたのではないか。また、人間の制作と自然の生成と
の決定的な断絶が発見されていたのではないか。 3.レイモンのヴァレリー解釈 56
1)重層する私 「私は我が身をながめる私を見た」(ヴァレリー) 「私」は三つに分裂している。 1)<我が身> 2)<我が身>をながめる「私」 3)<我が身>をながめる「私」をながめる「私」 三つの「私」とは、 1)行為する私 2)個性的な私 まさに生きつつある身体や精神を「私の身体」、「私の精神」と
して反省的に捉えて語る「私」。 3)純粋精神 二重化する私を考察する自我。もはや誰でもない。 14
57
3.レイモンのヴァレリー解釈 個性的私
私の精神
私の身体
作品
詩的状態
制作
普遍
可能性の
領域
制作への
転換
私の世界
際限のない追跡
純粋自我
啓示
X
生の深み/存在
3.レイモンのヴァレリー解釈 58
2)純粋自我 純粋自我とは、反省する精神の反省である。 精神の知るという働きは、対象から身を引き離しつつ、それを意識するこ
とである。 いっさいのものから離脱したその境位に近づけば近づくほど、精神は対象
を明晰に捉える。 これは、ヴァレリーにとって根源的な欲求であり、レイモンはそれを「精
神の誘惑 la tentation de l’esprit」と呼ぶ。 その歩みは、レイモンによれば「際限のない追跡」であり、加藤によれば
「求道の道」である。 個別性の捨象
3.レイモンのヴァレリー解釈 59
2)純粋自我 しかし、はたして純粋自我はその究極ではいったい何を把握するだろうか。 いっさいの知識を捨て去った純粋な観察の極致、無限遠の純粋自我の境位
では、すべては顔のない存在へと抽象される。 そして、それに相対する精神も何者でもない自我へと落ち込んでいく。 精神が私という限定を捨て、普遍的に、純粋に、透明になろうとすればす
るほど、宇宙も自然も個別性を捨象した何ものでもないXとなってしまう。 レイモンによれば、それは「我あり、あたかも我なきがごとくに」という
死点であり、「この方向通行禁止」である。 ヴァレリーは精神に誘われるがままに、そこへ近づいた。 3.レイモンのヴァレリー解釈 60
3)制作への転換 精神にとって、無意味で無差異な死点へといっそう前進し、そこへ身を投
げ入れる道もある。それはある種の宗教的修行に見られる進路である。 「このときXは顔のない抽象的存在ではなく、生命とあらゆる善きも
のの根源たる創造神となるだろう。」 加藤の解釈する建築家は、まさにこういう根源的非存在=無へと帰依する。 しかし、はたしてヴァレリーはこの根源的自然Xへと直進し続けたのかど
うか、この理解が加藤とレイモンの解釈の分岐点になっている。 レイモンは絶対的な純粋を求める「精神の誘惑」が、その「際限ない追
跡」を中断する決断をヴァレリーの言葉にはっきりと見いだしている。 「これらすべては何ものにも到達しない」 15
3.レイモンのヴァレリー解釈 61
3)制作への転換 それでは、精神はいったいどのように方向転換するのだろうか。 その契機は、身体であり、身体による感性であり、身体の行為である。 とりわけ制作という行為である。 「われわれの関心をそそるものは感性のみである」(ヴァレリー) 現実の個別の事物からの呼びかけに身体は反応する。 精神は個別性を捨象し、普遍へと抽象しようと努めるかわりに、身体が受
けとめる対象に向かい、身体の衝動にしたがう。 レイモンの言葉によれば、「地面はもはや頭の中の映像ではなくなっ
て、世界は形と手ごたえとを取りもどしたのだ。」 3.レイモンのヴァレリー解釈 63
5)詩的状態 加藤の解釈によれば、詩的状態とは、非表象的作品の象徴に触れるときに、
身体をとおして精神に喚起され、可能的意味が充満した無秩序な原初、根
源的生命であった。 レイモンは、そうした根源的生、ヴァレリーの言葉では「生の深み」を
「存在(l’Etre)」と言い換えている。 そして、加藤と同じように、生の深みとしての存在が、未分化の深い感性
によって啓示されうると理解している。ヴァレリーが一面で、事物と精神
が融合する、至福の状態にあこがれ続けたのは真実であろう。 3.レイモンのヴァレリー解釈 62
4)普遍の構築 身体が感覚する自然はじつに多様である。すべては異なり、似たものは存
在しない。 「自然にとっては、繰り返しも、似たものもない。われわれの知覚の
粗雑さがわれわれにそれらを容認させるだけだ、すなわちわれわれの
手段の少なさと単純化の必要とが。」(ヴァレリー) 精神は自然のなかに普遍性、一貫性、連続性を発見する。 人間は普遍の構築へと向けられた存在であり、いっさいの普遍は人間に
よって創られたものにすぎない。 こうして、純粋精神は制作によって、ふたたび事物のうちに自己を見いだ
す。精神はいっさいの個性を捨象した純粋精神ではなく、精神と肉体を
もったこの「私」となり、自己の存在を実現する。 3.レイモンのヴァレリー解釈 64
5)詩的状態 しかし、レイモンはヴァレリーが逆説の人であることを忘れない。 レイモンは、精神の歴史というヴァレリーの視点に注目している。 それによれば、近代以前、詩的状態は世界に充満し、至るところに広がっ
ていた。ところが、近世以降、詩的感情は個人の心的領域の内部に凝結さ
れるに至る。そうして、詩的状態を象徴する作品は、自然あるいは世界か
ら切り離され、「第二の実在」(レイモン)として産出されることになる。 もはや作品の世界は実在の世界とはまったく別物であって、われわれを
「存在」に導き入れることはない。 16
3.レイモンのヴァレリー解釈 65
6)精神の濫用 ヴァレリーは制作を前にしたひとりの人間の精神の問題から、人類史のな
かでの精神のありようへと問いを拡大させている。 とくに、当時の戦争へと駆り立てられる西洋列強の政治状況や、そうした
危機を回避するどころか、大量殺戮を可能にしてしまった科学や産業技術
に対して、発言が増えていく。 ヴァレリーによれば、人間は「可能の領域を究める」存在である。 人間は造物主となり、自然を造り直し、それを人間の秩序へと置き換える。 「エウパリノス」のなかで、造物主が立ち止まった点を、人間は自分の行
為の出発点とすると語られていたが、レイモンによれば、これがその意味
するところである。 3.レイモンのヴァレリー解釈 67
6)精神の濫用 こうして、精神は「精神の濫用」によって危機に直面することになる。 「われわれの知っていることのすべて、すなわちわれわれのなし得る
ことのすべては、ついにわれわれがそうであるところのものと対立す
るに至った」(ヴァレリー)。 精神の果てしない冒険によって、人間は「はじめの生活条件」「有機
的生命の条件」から際限なく遠ざかってしまっている。 3.レイモンのヴァレリー解釈 66
6)精神の濫用 結局、精神とは「いっさいの物質的・精神的事象を変形し変換する」能力
である(ヴァレリー)。 ヴァレリーは、その精神の変形する能力を歴史のなかで問い直す。 変形する行為の意味と目的とは何か。その行為の終極点はどこか。それは
人間の利益のために行われているのか、それとも破滅のためなのか。 ヴァレリーは変形する力としての精神が、いやおうなく突きすすむ冒険に
ついて語っている。その冒険とは、「人間がそのはじめの生活条件からま
すます離れて行こうとしているその努力を言うのであって、あたかも人間
という種族は、生物を常に同じ位置、同じ状態に置こうとする通常の本能
の他に、それとは正反対のまったく逆説的な本能を有するかのようであ
る」(ヴァレリー)。 3.レイモンのヴァレリー解釈 68
7)危機の克服 それでは、精神はその濫用を回避し、立ち直ることができるのだろうか。 ヴァレリーはそのことについて多くを語っていない。精神が直面する危機
の所在を明確にしようとするだけである。 ただつぎの発言は若干の示唆を与えている。 「我々は成熟する余裕を失っている」(ヴァレリー) 精神は濫用から成熟へと、どのように転換することができるのだろうか。
ヴァレリーのなかにはその答えはもとより、答えの模索もほとんど見いだ
されない。 そこで、レイモンはヴァレリーの思考を展開し、その鍵を「観照」に求め
ていく。自然の変形へと邁進する精神をとどめる抑止力は、宗教に期待す
ることはできず、その代わりは観照にしかないという。 17
3.レイモンのヴァレリー解釈 69
7)危機の克服 しかし、ヴァレリーの精神は、見ることを突き詰めていったとき、いっさ
いの虚無に出くわしてしまったのではないだろうか。 レイモンの解釈によれば、精神は世界の凝視が直面した非=存在、死の境
位から立ち直るべく、身体的行為によって生の世界へと回帰していったは
ずである。ところが、その行為が、予想もつかない危機へと生を追い込ん
でいく。その出口をレイモンはヴァレリーにはっきりと見いだすことはで
きない。 ただ、もはや作ることではない 「存在を啓示し、あるいはその欠如を糊塗することができるのは、作
ること、あらゆるものを変形することではないのである」(レイモン) 4.ヴァレリーの制作論の超克 70
レイモンの解釈はおよそヴァレリーの思想を忠実に要約しているように思
われる。 それに対して、加藤の解釈にはヴァレリーの思想をまったく反転させた側
面があり、それはむしろヴァレリーの残した精神の濫用という課題を超克
する道を示したものと考えることもできる。 しかし、精神が直面する危機を乗り越える道は、なおヴァレリーの思想の
延長線上に模索しうるようにも思われるのである。 制作から観照への転換が、弱々しく唱えられるにとどまるのである。 4.ヴァレリーの制作論の超克 71
1)ヴァレリーにおける制作 「私はわが身を眺める私を見た」(ヴァレリー) 純粋自我と、経験的個人的私との分裂が表明されている。 自我と世界、精神と自然の根源的な分離が、精神の制作の起点である。 そこでは制作は徹底的に人為的であり、普遍と呼ばれるものさえも、人間
の恣意的な構築物にすぎないことが自覚されることになる。詩的状態は根
源的自然とのつながりを暗示することはあったとしても、それは徹底的に
人為的作品のなかにのみ現出する。精神はこのように自然からきっぱりと
自律しているのであり、精神はみずからのために自然に代わる実在を制作
するのである。 ところが、そうした制作する精神は自己の限界を規定するすべをもたず、
その濫用へと陥ってしまう。 4.ヴァレリーの制作論の超克 72
2)加藤解釈の意義 これに対して加藤は、純粋自我と経験的個人的私を、全一の名のもとに表
裏一体化させる。私は身体を介して自然と共属関係を結び、純粋精神も根
源的自然と究極的に全一をなす。 建築は人為的な制作による作品であるにしても、根源的自然への終わりの
ない接近へと差し向けられ、その窮極における至福の詩的状態を象徴する。
人間の制作は自然の生成との合一の窮極の境地を志向し、建築の普遍性は
そこに見出されることになろう。こうして精神はまったく無規制な制作を
脱し、根源的自然への志向によって規制されることになる。 加藤の解釈はヴァレリーの忠実な解釈というよりも、ヴァレリーが直面し
たその濫用という精神の危機を超克する道を模索するものである。精神を
自然から独立させ、その自律性を極限まで進めるヴァレリーの道をみごと
に反転させている。 18
4.ヴァレリーの制作論の超克 73
3)別の方途 しかしレイモンが指摘したように、歴史的事実的には、合理的精神の発展
の裏側で、詩的状態は個人的な領域へと追い込まれ、精神の制作はその中
に囲い込まれてしまった。 いま、「精神の濫用」を乗り越える道は三つ考えられる。 ⅰ 精神の濫用の進行を嘆きつつ、個人的な領域のなかで地道に制作し、
精神の濫用に抗しつづける道。 ⅱ 詩的状態を個人的領域の囲いから解き放ち、かつてのように超個人的
な全体的領域に充満させる道。 ⅲ 精神が精神を自己規制する道。それもヴァレリーの引いた線に沿って、
制作する精神がその内的動機から自己規制する道筋を模索する。 加藤が語る「求道の道」は1)にあたる。しかし、3)の可能性を模索し
てみたい。 4.ヴァレリーの制作論の超克 4.ヴァレリーの制作論の超克 74
3)別の方途 「エウパリノス」では、制作の第一の目的は自己のための有用性にあるこ
とが語られていた。人間は自己の生存に有利なように、自然に抗し、制作
し、自然を変形する。そして濫用へと落ち込んでいく。 しかし、精神はこの有用性を反省することはできるだろう。精神は、私が
制作した者を使う私を見ることができるはずである。 精神は、 <作るわが身を見る私>を反省する私 であることから、 <作るわが身(が作る物を使う私)を見る私>を反省する私 へといっそう重層化する。 75
3)別の方途 有用性に向けられた反省のなかで、精神はみずからが制作した物との関係
が「用」と呼ばれていることに気づくだろう。 そして、レイモンが言う「観照」も「用」の一つの形態であることがあき
らかになるだろう。 観照とはまさに精神と精神の作品との関係のことであり、「歌う」とは、
その関係の一様態を言いあらわしたものであろう。 作る時間と使う時間の異なる時間が、物を介して精神の自己反省のなかに
導入される。この反省の先に、精神の濫用を自己規制する道が切りひらか
れていくことが予感される。 森田慶一が考察していた「用」の問題が、再度、検討されるべきだろう。 制作論は「用」を中心とした様相論へと引き継がれていく。 19