国際ロータリーのテーマ 2007∼2008 ロータリーは 分かちあいの心 平塚西ロータリークラブ WEEKLY REPORT HIRATSUKA−WEST 会 長 会長エレクト 副 会 長 幹 事 成 田 清 久保田 守 高屋鋪 尚史 増 尾 増 一 創 立/1976年6月23日 例会日/毎週水曜日 12 時 30 分より 例会場/神奈川県平塚市平塚 5-2312 カルチャーBONDS平塚 姉妹クラブ:韓国西清州ロータリークラブ 1549回 事務局:〒254-0045 神奈川県平塚市見附町 32−7 TEL:0463(33)1475 FAX:0463(33)8676 2008年2月20日 天候 晴 (担当/田中) ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ §会長あいさつ 成田 清 §幹事報告 皆様もご承知の通り、当クラブはロータリー100 周年の 記念事業として、2004 年ネパールに小学校を建設し、現在 (増尾幹事) ◇ 第 2780 地区ガバナー 国際ロータリー第 2780 地区 2010∼2011 年度ガバナー 約 150 名の生徒が毎日通っております。 ノミニー確定宣言 ネパールと言う国は、世界でも最も教育水準が低く、文 盲率の高い国です。 大和中RC 後藤定毅(ごとうさだき)会員に確定 【受 理】 ロータリーワールド 2008 年 1 月号 先日ロータリー関連の本を読んでいて、ロータリー財団 の父アーチクランフと言う人の事が書かれてありました。 §例会変更 6 人目のR.I.会長であったこの人こそ“ロータリーが基 ◎ 寒川RC 3/10(月)→ 9 日∼10 日 移動例会 金をつくり、全世界的な規模で、慈善,教育、その他社会 花見家族(大島椿まつり) 奉仕の分野で、何か良い事をしようではないか”と国際大 会で提案し、その数ヶ月後に基金は米価 25 ドル 50 セント 2008 年 2 月 の最初の寄付金から始まり、基金はやがてロータリー財団 15 日 交 換学 に発展したと言う事です。 生 キム・オメ “ロータリークラブは、場所を問わず一つの基本的理想 ーラさんがご をもっている。それは奉仕の理想で、他の人々を思いやり、 結婚いたしま 他の人々の役に立つ事です。” した。 本日の卓話は、森岡会員です。格調高いお話を期待して おります。 かつてのホス トファミリー 水島政利会員夫人と令嬢、そし て田中清春会員 夫人がオース §ロータリーソング トラリアでの結 婚式に列席し 「それでこそロータリー」 §結婚祝 ました。 わず か数ヶ月足ら ずの絆で 水島 貞 会員 したが、こうして招かれ、また 【次回予定】夜間移動例会 点鐘 19:00 於:平塚経済懇話会 <卓話> 早川会員 それに応えるこ とができまし た。キム・オメーラ新婚夫婦の お幸せをお祈りしております。 出席報告 総会員数 計算対象数 出席会員数 メークアップ 今回出席率 42名 41名 32名 0名 78.05% 前々回修正出席率 2/6 100% ○水島さんおめでとうございます。森岡さん久しぶりの §委員会報告 卓話楽しみです。 ◎ 職業奉仕委員会(山浦委員長) (平野会員) ○水島政利さん、先日は女房がオーストラリアのキムの 職業奉仕(従業員) ・社会奉仕(地域社会貢献者)、被表彰 結婚式に同行させて頂き、大変お世話になりました。 者の推薦お願いの件 奥様、娘さんに宜しくとのことです。水島貞さん結婚 記念日おめでとうございます。 §スマイル報告 (田中会員) ○森岡会員、卓話ご苦労様です。水島貞さん結婚記念日 ○水島さん結婚祝いおめでとうございます。森岡さん本日の 卓話宜しくお願いします。 (成田会長) ○亡父の葬儀に際しまして、多くの会員の皆様にはご多忙中 にもかかわらず、ご臨席いただき心から感謝いたしており ます。ありがとうございました。 (伊藤信博会員) ○結婚祝いありがとうございます。 (水島貞会員) ○森岡さんの卓話楽しみです。弊社の相模原市淵野辺のホー ルが開業できました。23 日 24 日お披露目です。 (山田会員) ○水島くん結婚祝いおめでとうございます。本日は私の卓話 です。お聞き苦しいでしょうが我慢して聞いてください。 (森岡会員) ロータリー記念卓話 森岡 久 会員 おめでとうございます。 (吉川会員) ○今週の金曜日(22 日)は PETS です。来年度の活動の ため勉強してきます。 (久保田会員) ○水島貞さん結婚記念日おめでとうございます。これか らも宜しくお願いします。 (水島政利会員) ○やっと春らしくなりました。花粉症で大変です。水島 貞さん結婚記念日おめでとうございます。森岡さん記 念卓話よろしくお願いします。同意分多数にてお名前 を併記させていただきます。 (山崎潔、葛西、日下部、渋江、山崎満、菊池、大畑、 近藤勉之、高屋鋪、増尾、山浦、原田、小玉、荒井、 各会員より) 誕生しました。そして 2 歳の時貿易商吉田健三に貰われて 大事に育てられたのです。吉田茂を育てたのは健三の妻士 昨 年 は 吉田 茂 元首 相 の 没後 (こと)でこの士は佐藤一斉という幕末の高名な儒学者の孫 40 年にあたります。そこで大 娘で大変聡明な人で、吉田茂はこの養母に随分と可愛がら 磯町では、日本の戦後政治の舞 れて育ったわけです。吉田茂自身 台裏にもなった旧吉田邸の歴 自分が養子であることを 17 歳に 史的価値を知って貰おうと、大 なるまで全然知らなかったと言う 磯町が企画し庭園の特別公開 のですからすごく幸福な子供時代 を行いました。三万坪の広い和 だったのです。次に養子先の吉田 風庭園には、明治維新の元勲ら 健三についてです。 を祀った七賢堂や富士山を見ることが出来る散策コース 吉田健三は福井の藩の家に生まれ などがあります。邸宅を含めて県立公園化する計画が進 14∼5 歳の時に長崎に出て英語を められており、2012 年度に全面開園の予定だそうです。 学び、幕末の頃英国の軍艦に乗せ そこで吉田茂元首相の戦争前の若き日のプライバシーや てもらい、上海、シンガポール、ヨーロッパそしてアメリ 家族についてお話をさせて頂きます。先ず吉田茂の生立 カと見聞を広めて、日本に帰りついたのは、明治になって ちから話を進めます。吉田の父、竹内綱は高知県宿毛の からです。日本に戻った吉田健三は横浜のジャーディン・ 出身で板垣退助門下の自由民権運動の志士として、林有 マジソン商会に入り海外からの商品の買い付けや日本の 造らと共に幕末から明治にかけての混乱期に、土佐、高 物産の輸出をして、商品取引の仕事に抜群の商才を現し扱 知を舞台に大活躍をした優れた人物です。吉田はその竹 った商品は軍艦から生糸までと言いますから、今の商社マ 内の五男として生まれ、父、竹内は西郷隆盛の鹿児島挙 ンでしょう。 兵に際してドイツ製の小銃を横浜のジャーディン・マジ ジャーディン・マジソン商会から独立した吉田健三は幾つ ソン商会に依頼、発注したと言う嫌疑をかけられたりと もの事業を興し、40 歳の若さで病死するまでに莫大な財産 かなりの活動家でした。竹内と横浜の貿易商吉田健三は を築き上げたのです。吉田健三が亡くなったとき、吉田茂 親友の間柄で、吉田健三には子供が一人も居なかったた は未だ 11 歳でした。その年で一代で築いた吉田健三の財 め兼ねてより「今度生まれる赤ん坊が男の子だったら君 産をそっくり相続したのですから大変な話です。その時の の養子にあげよう」「よし、貰おう」という約束が出来て 財産は一説によると当時のお金で 50 万円、今の貨幣価値 いたのです。そんな約束をしている時に、竹内はドイツ に直すと 1 千億円に相当すると言われております。吉田茂 製の小銃の件で牢屋に入れられてしまうのです。吉田健 は竹内家では五男でしたが健三が亡くなった為、中学時代 三は残された竹内の家族やもう直ぐ赤ん坊の生まれて来 は竹内家の隣に家を建て、門にも立派な表札を掲げるほど る竹内の妻を親身に世話をし、明治 11 年元気な竹内茂が 実家から特別の待遇を受けていたのです。吉田が買い物に 小学時代 付き添っていて、吉田自身財布を持ったことも支払ったこと ずかしい生活は出来ないし、時には派手に見栄も張らなけ もなく、亡くなるまで財布による金銭のやりとりはした事が ればならないのです。相当の出費を要するのですが、外務 なかったのです。その後東京大学を卒業、明治 39 年に外交 省から支給される金はそんなに多くなく、自腹を切らなけ 官試験にパスし、晴れて外務省に入ったわけです。先ず領事 ればならないのです。 官補として最初の任地は中国の そうしなければ出世は出来ないと言われていました。吉田 奉天が振り出しでした。 は養父の資産を受継いだので金の心配は無かったとして 明治 41 年 30 歳で牧野雪子と も、やはり栄進のためにはもう一つの門閥(家柄)が必要で 結婚し、新婚旅行も兼ねてロン した。それもあって吉田は雪子と結婚したのです。しかし ドンに領事官補として赴任し、 雪子夫人は華族の娘で気位が高く父の威を着て、吉田の上 翌年には三等書記官として、イ に位するようなところもあったのです。雪子夫人は油絵を タリアに移動しています。次に 習い、歌人佐々木信綱に師事し、歌も習っていたのですが 再び中国に動き安東の地で 4 年 このような趣味も吉田の肌に合わなかったようです。それ 間に渡って領事を務めその後外 でも雪子夫人の死後、吉田は「雪子歌集」を出版してその 務省に戻り、文書課長をして又、 長女桜子を抱く吉田夫妻 中国の済南の領事を命ぜられ と看護婦(明治 43 年) 菩提を弔っております。 吉田夫妻の家族の話に触れます。お二人の間に五人の子 「チャイナサービス」の時代が続いたのです。この頃の外交 供があり、長女桜子、長男健一、三女和子、次男正男が元 官の檜舞台と言えば今と同じイギリスかアメリカでしたか 気に育ちましたが、次女は幼くして亡くなっています。長 ら、エリートコースとは程遠かったわけです。それからやっ 男の健一はロンドンの小学校から東京の暁星中学へ進み、 と 2 度目のロンドンでしたが、再び中国の天津、奉天と廻 イギリスのケンブリッジ大学を卒業しその後、英文学者と されやっと外務次官まで登りそれから、イタリア大使となり して名をなしました。次に三女和子は皆さんご存知の自民 昭和 11 年 4 月 3 度目で念願のイギリス大使として赴任しま 党麻生太郎元外務大臣の母親です。和子は大正 4 年中国 した。次に雪子夫人についてです。 の安東で生まれ、父吉田の帰国 雪子夫人は、重臣である牧野伸顕伯爵の長女で、牧野伸顕 の時くらいしか日本に滞在でき は明治の元勲大久保利通の次男として鹿児島に生まれまし ず、家族とともにパリ、ロンド た。明治新政府が出来て間もない頃、大久保利通は岩倉具視 ン又中国の天津そして再びイタ と使節団をつくり欧米を訪問します。その時大久保はアメリ リア、イギリスとほとんどが海 カの学校に二人の息子を留学させるのです。明治になったば 外での生活でした。聖心女学院 かりのこの時期に幼い兄弟に「新しい日本にとって有用な人 はカトリック系の学校で世界中 間に育つように」とアメリカの学校に留まらせたのですか にありまして日本、ローマ、ロ ら、大久保利通は父親としても筋金入りの人物だったので ンドンで日英協会の晩餐会の席 1915 年和子誕生、父吉田 す。鹿児島の田舎に育ち何の知識も無い少年牧野伸顕が、い で将来夫となる麻生太賀吉と仕 茂は 37 歳、左は姉・桜子 きなりアメリカの外国人ばかりの文明国に放り込まれアメ 組まれたお見合いをさせられたのでした。雪子夫人の父の リカに残されたのですが、それでもちゃんと身に着けるべき 牧野が 東京で麻生太賀吉 と会い ことを学び父親の期待に応えたのです。帰国後外務省に入り すっかり気に入ってしまい、ロン 外交官の道を歩き出すのです。その後内務省に転じて福井 ドンま でお見合いに行っ てくれ 県、茨城県の知事を経てオーストリア公使、文相、枢密顧問 るよう頼んだのです。頼まれての 官、宮内大臣と言う絢爛たるキャリアを持っていたのです。 このことロンドンまで船で 20 日 長女雪子が吉田と結婚したあとも再び、文相、外相、宮内大 以上も かけて行った麻生 太賀吉 臣を歴任しています。雪子夫人はしたがって外交官の娘であ も只者ではありませんね、結婚式 り、海外生活の経験も長くあり 4 ヶ国語も話せ、駆け出し 吉田和子(20 歳) は昭和 13 年神田の天主教会で行 の外交官だった若かりし日の吉田との縁組はお似合いだっ われました。和子 22 歳の時です。夫の麻生太賀吉は 9 歳 たのかも知れません。実際に海外にいる時、雪子夫人は外交 の時に父親を亡くして祖父と母親の手で育てられました。 官の妻として非常によく務めていたのであります。夫人は目 ひいおじいさんの時代から炭鉱事業をはじめ、セメント、 が大きく口も大きく現代的な顔立ちと言うのでしょうか、外 鉄道や海上運輸など幅広く運営され三代目として早くか 国の人達は雪子夫人のことを「綺麗な人」だと言っています ら事業感覚を身につけていたのです。麻生家は福岡県の飯 し、娘の和子から見ても母は綺麗な人だったそうです。 塚にあって、建坪が平屋で 600 坪もある広い家屋敷です。 今の時代は全くそういうことは無いと思いますが、明治の末 麻生太郎本人が TVで言っていましたが、縁側が直線で 100 から昭和の初めに至るまで、外交官は資産家の子弟か資産家 mもあるそうです。その当時麻生家にはパンを焼く電気窯 の娘を嫁にするかの何れかでなければ、勤まらないとされて があり電気洗濯機、冷蔵庫、電気アイロンと電気アイロン いたのです。それは海外に出た場合、一国の「顔」として恥 台など総てアメリカの GE 社の製品です。昭和 13 年の話 ですから驚くばかりです。それでも電化製品意外は日本の び 13 歳の時早くもお座敷に出て小りんと名乗り 25 歳にし 普通の暮らしです。和子は結婚して 2 年後のお正月に太郎 て花柳流の名取となり、新橋一と云われる存在になったの を生んでおります。さて、吉田茂の話に戻ります。 です。我侭な性格の吉田には社会の大先生であったので 外務次官として 2 年ほど日本で過した後、今度はイタリ す。ある日、吉田が山口の女将に「小りんの面倒を見たい ア大使を命ぜられます。その頃のイタリアのムッソリーニ だがなぁ‥」と相談を持ちかけると「あゝ、あの娘なら‥」 はドイツのヒットラーと手を組みファショ化を強化しよ と二つ返事で何のためらいもなく保証したのです。 うとしていました。吉田は明治の時代から身についた根っ 女将のはたらきで、総て内緒で事が進められたわけです。 こからの自由主義者で、しかも親英派でしたので考え方の 小りんは吉田とそういう関係が出来た後も、普段と変わり どこを取っても合う訳がないのです。ムッソリーニと係わ なくお座敷には出続けたのです。昭和 20 年頃からは料亭 りあうのが嫌だったのか、イタリアでは遊んで暮すことに の女将が内緒で芸者衆とお客を結びつけることは出来な 決めたのです。暇を見つけてはドライブに出掛け、イタリ くなっております。吉田は宴会が 8 時頃終ると自宅から車 アの北部から南まで家族で遊びまくったそうですが、ガソ を呼び三女の和子がその迎えの車に乗って父吉田の居る リン代は公用の場合とは別にするように秘書官に厳しく お座敷に行き一緒に芸者衆と 10 時過ぎまで遊んでから共 言いつけたそうです。イタリア大使の任期を一年半で終 に家に帰るのです。和子が芸者衆と仲良く遊んでいる大勢 え、日本に戻った吉田は駐アメリカ大使を大胆に断った結 の中に必ず小りんがいたのですが、その当時は気がつかな 果、待命大使と言う事実上の閑職にさせられました。昭和 かったようです。なにせ 15∼16 歳の頃ですから無理もあ 7 年職業上の身分は保たれているものの命令が下るまで、 りません。 待機している状態です。仕事など何もなく暇で暇で大変で さて、昭和 9 年吉田に外務査察使としてヨーロッパからア したが、「人生は長い、世の中は広いのだ」と愚痴ひとつ メリカをくまなく廻り、欧米の実情をつぶさに調べてくる こぼさず平然としていたそうです。 ようにとの辞令が出ました。昭和 10 年日本は国際連盟脱 次は築地新橋のお茶屋の話にうつります。昭和の初めの 退により無条約国家として孤立することへの危機感、それ 頃の男の遊びは茶屋遊びでした。料亭や待合で芸者を呼ん と海軍軍縮条約が破棄された後、軍拡競争が始まるという での宴会遊びです。この料亭街の格付けは厳しく分けられ 緊迫感。そうした危機や緊張に対処するためには欧米の事 ており、一流、二流、三流それ以下となっておりますが、 情をよりよく知らなければならなかったのです。 新橋、赤坂の待合は超一流その次は柳橋、新橋といいます 昭和 9 年 10 月 15 日吉田査察使のことが新聞に報道される が、新橋駅前の烏森ではなく築地にある高級料亭です。 と、たちまち軍部は警戒の目を放ち右翼は大騒ぎとなった 築地、新橋の料亭は外務省をはじめお役人と政治家が 7 割 のです。丁度ロンドンでは軍縮の予備会議が行われてお くらい贔屓にし、3 割くらいが実業界や作家、歌舞伎、俳 り、山本五十六海軍中将が派遣されておりました。親英米 優が贔屓にしています。赤坂の料亭は実業界が大半ですが 派で自由主義者の吉田大使はロンドンで山本五十六に圧 やはり政治家、作家、俳優の有名人の遊び場です。吉田も 力をかけるのではと、軍部や右翼は気が気でなかったので 海外から外務省に戻った時など毎晩のようにお茶屋に通 す。出発の日東京駅は大騒動で吉田に同行する北沢事務官 っていたのです。新橋でも大きな料亭「山口」に「新喜楽」 に「命が危ないからお前の胸ポケツトにシガレットケース を主に遊ぶ場所にしていました。料亭「山口」に腰をすえ を入れておけよ」と言ったエピソードがあります。 るようになったのは、女将の白井クニと妙に話が合ったの 東京から門司、下関へそこから船で朝鮮の釜山へ渡り鉄道 です。と言うよりも未だ芸者遊びに慣れない吉田に「芸者 を使い、満州を経てシベリヤ鉄道でロシア大陸を横断し、 遊びというものは」とか「芸者さんとの付き合いの方法」 途中モスクワとワルシャワに寄って 11 月 11 日にパリに着 とか遊びの手ほどきを総て教えてくれたのです。 いたのです。(何とフランスまで 24∼25 日の旅でした) 今 それと山口の女将は口が固くどんな親しい人にも吉田の はパリのドゴール空港までたったの 13 時間で着きます。 遊びについて口外しない誠実さが吉田には気に入りやが 昔の外交官は辛抱強いだけではなく、精神的、肉体的にも て、信頼をし甘えるようにもなったのです。時には女将か 強いものを持っていたと感心させられます。パリからドイ ら宴会における男の付き合い方の大切さを教えられた吉 ツそしてロンドンそれからオランダ、ベルギー、オースト 田は、外務省の金や人さまのお金は一切使わないとの心意 リアを訪問し、オーストリアのウィーンからオリエント急 気で総て自分の金で遊ぶのが本当の遊びだと決めていま 行でトルコへ、そこから黒海を船で渡りルーマニアのブカ した。そのことが又、山口の女将の気に入るところでもあ レストへ、そして一旦パリに戻りジュネーブを訪れ飛行機 ったのです。吉田が亡くなる時、残した資産は大磯だけで、 でパリ、欧米査察の旅は各国におかれている日本の大使館 吉田健三からの財産は見事に使い果たしておりました。こ や公使館を訪ね現地の実情を聞き、日本の様子を知らせる の時、吉田が“馴染んだ”のが「小りん」という芸者でし というのも外務査察の重要な目的ですので、とにかくヨー た。本名は坂本喜代、母は花柳美次と言って新橋でならし ロッパ中を洩れなく廻らなくてはならないのです。 た踊りの名取です。ある紡績会社の社長を旦那にもって、 外交官の妻は夫の仕事をサポートする役目ですが、この その間に生まれたのが喜代で、3 歳から花柳流の踊りを学 時は三女和子が同行することになったのです。生まれたと きから海外での習慣を身につけており、吉田には何よりも 大磯での引退生活について 頼もしい秘書だったのです。その時和子は 19 歳でした。 大磯での生活は政治家や海外からのお客さまがとにかく シベリヤ鉄道ではコンパートメント(特別室)でしたが、ダ 多く訪れました。それと外務省の新人と自衛隊の幹部候補 ニの巣でもありました。日本から寝袋のようなものを作っ 生の新人を毎年呼んで、将来日本を背負って立つ若者に参 て持って行きそれにもぐり込み、首のところを紐で締め襟 考になるような話をして、亡くなる前のことまで続けてい まわりにはノミ取粉を大量にまきダニの侵入を防ぎ、コン たのです。ある日、雑誌社の取材でどんな本をお読みです パートメントに用意された枕は中味が藁で夜中になると かと聞かれて「捕物帳」と答えたのが雑誌に載って、銭形 ダニがガサガサ暴れだすので、新聞紙を外側に固く巻いて 平次が話題になったようですが、それはシャーロックホー 寝るのです。このシベリヤ鉄道は何処までも果てしなく続 ムズとかアガサクリスティーの本であって確か日本語で く原野で食事だけが楽しみで、はじめの 3 日間くらいは持 は捕物帳だったのです。落語は古今亭志ん生が大好きで総 って来た弁当を食べましたがその後は乾パンではなく、乾 理になる前はよく寄席に聞きに行っています。総理在職の パンみたいなものを売りに来るカレーではなくカレーの 時、志ん生との対談がありその中で、志ん生がしきりに総 ようなもの、ボルシチもどきのものなど、アルミの器に入 理と言うので、総理というのはやめてくれと言ったそうで っていて不潔に近く 2 度とは口に入れたくない食べ物です す。じゃ何と申上げたらいいんですか?と尋ねたら、茂公と が、腹が空いたらそんなことは言ってられないのです。こ 呼び給えとこたえて、それからは茂公だったそうです。 うした食べ物のほかに子供が塩を売りにきます。岩塩にか 吉田茂といえば鼻眼鏡と葉巻と白足袋です。鼻眼鏡はロー じり付きながらの旅など今の私達には想像もつかないの マ時代からあったらしく、洗濯はさみみたいになってい ですが、当時はそれが普通であったのです。 て、鼻筋にはさんで留めるようになっています。 再び新橋芸者「小りん」の話になります。吉田の妻雪子夫 私思うに吉田さんは鼻筋が通っていたかな? と思います。 人は昭和 16 年乳癌で 5 月に入院し手術を受けましたが、 むしろプルドックに近いように思えてなりません。若い頃 10 月に亡くなりました。51 歳と言う若さでした。その後 の写真を見ますと面長のきりっとした顔立ちに鼻筋が通 吉田の側に居て日常の面倒を見る人が居ないのです。 り、気品が漂っていました。トレードマークの葉巻はフラ 娘の和子も福岡の飯塚に嫁いでいるので誰かいい人が居 ンス産のヘンリークレーとハバナ産のコロナ・コロナがお ないかと和子が心配して思いついたのが、新橋の小りんで 気に入りで、マッチはイギリスのブライアント・アント・ した。和子は父と小りんの関係は薄々知っていたし、吉田 メイという会社の物を取寄せていました。吉田流葉巻の保 自身が小りんを家に入れるとマスコミが露骨な記事で騒 存法は 10 本入りの箱の中にキャベツの葉を一枚入れてお ぎ立て、野党のみならず与党の反吉田派の先頭に立ってい き、この湿度が葉巻の美味さを保つらしいのです。キヤベ た河野一郎に勢いをつけさせることになるのです。そこで ツの葉は 2∼3 日で取替えております。 飽くまでも和子が呼んだことにして「小りんさんに来て貰 うのはどうかしら?」と父に言うと、お前やっぱり頭がいい 吉田は終生健康に恵まれ大きな病気もせず、80 歳を過ぎ ても求められれば海外にも出掛けるほどでした。 ねと満足そうな笑いを浮かべていたそうです。小りんはこ 昭和 42 年 10 月 20 日、とてもきれいに晴れた秋の日で の時から吉田が亡くなるまで、ずっと大磯で吉田の身の周 した。少し前から床についていた吉田は、体調が良かった りの世話をして、吉田が亡くなってからは、不自由のない らしく「富士山を見たい」と小りんと看護婦さんに手伝っ ようにと和子の夫、麻生太賀吉が近所に家を用意し、そこ てもらい、しばらくの間、富士山を眺めて過ごしました。 でひっそりと暮らしていました。吉田が亡くなった後、新 「きれいだネー、富士山は」と言い、眠るようにこの世を 聞社をはじめマスコミ関係が吉田茂について取材に押し 去りました。享年 89 歳でした。 かけたそうですが、総て玄関払いを通したそうです。 〔文中のお名前失礼とは存じますが敬称略させて頂きました〕 次にその当時のお金についてです。イタリア大使を終え、 アメリカ大使を断った後の待命大使と言う閑職にある時 の月給は、五百円位とのことです。その後イギリス大使と してロンドンに赴任すると 2 倍から 3 倍位になったらしい です。 日本に帰国した昭和 7∼9 年頃の吉田家の家計は ひと月 300 円で生活をしていたそうです。びっくりするよ うな贅沢な生活ですね。その当時 100 円で普通の家が建て 大磯邸内にて(右端が小りんさん) られたのですから、少し年号がさかのぼり、大正 12 年関 東大震災の後、吉田は渋谷に家を建てました。完全な洋館 造りでイギリスの邸宅そのものです。総てひっくるめて(家 具も含め)12 万 5 千円かかったそうです。この家はその後、 三女の 麻生和子と晩年 麻生家の家族が住み、麻生太郎もこの家で育ち現在も住ん の吉田茂 でいると思います。
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