第52号 - 銀座たくみ

平成24年(2012年)6月10日
たくみ第52号
第52号
特集 夏の特選「蔵出し市」
寄稿 益子の汽車土瓶
から、水力や火力発電など人工的に作
この宇宙からきた集団は、人間とは
異なる知性を持ってはいるが、いわば
デジタルやITの時代に宇宙からの
異星人の話も珍しくはないが、これは
られた電気までを吸い取る以外、これ
電気を食べる異星人の話
今から何十年も前に書かれた物語であ
といった害は加えない。人間からは姿
る。環境市場新聞という季刊の業界新
形も見えないのである。
だが、妙に説得力があって心にいつま
る。政府も民間も一丸となって蒸気機
そこでこの状況の中で人類は比較的
冷静に、電気が奪われる事態に対処す
現象のようなもの。雷など自然の電力
聞の、今季冬季号の﹁環境見聞﹂とい
でも残り、孫引きながら皆さんにもお
関を復活させ、日常の力仕事には馬や
うコラムで紹介されていた。奇想天外
読みいただきたい。
い着想で、宇宙からの侵略者が、地球
球を征服す﹄という短編である。面白
1 9 7 2︶ の 作 品 で、﹃ウ ァ ヴ ェ リ 地
SF作品で知られたアメリカの作家
フレドリック・ブラウン︵1906∼
の丈にあった、ゆったりとした生活に
り求人難にさえなっていく。人々は身
が、すぐに手工業の需要がふくれあが
が使えず一時的に大勢の失業者が出る
で小規模な手工業が盛んになる。電気
牛などの力を利用し、あらゆるところ
上で電気が発生すると直ちに吸い尽く
因みにこの新聞を発行する日本テク
ノという会社は、原発に代わるエコ・
立ち戻る、というのである。
しかしこのウァヴェリという侵略者
は、よくある同類の物語のように暴力
エネルギー開発の企業という。健闘を
してしまうという話である。
的な異星人ではない。このコラムから
祈りたい。
志(賀直邦
ストーリーのあらましを記そう。
)
1
平成24年(2012年)6月10日
たくみ特別展
夏の特選﹁蔵出し市﹂
会 期 平成二四年六月二三日
︵土︶∼七月二日
︵月︶
︵日︶、七月一日
︵日︶は営業いたします。
六月二四日
額装 竹フォーク・スプーン図(バーナード・リーチ)
出品品目
陶 濱田庄司、島岡達三、金
城次郎、塚本快示、西岡
小十 唐(津 、
) 加藤孝造 瀬(
戸 、
) 益 子 焼、 小 鹿 田 焼
食器、水野半次郎︵瀬戸︶
の睡蓮鉢、火鉢、沖縄壷
屋の厨子甕など
布 きもの布地、風呂敷、端
布、海外染織品など
漆の重箱、盆、鉢、肥松
木
の銘々皿、小机、箪笥な
ど
雑 吹硝子、型硝子の器、竹
細工、山ぶどう手提、玩
具など
絵 大津絵、型染絵、ガラス
絵など
美術、工芸関係ほか、一
本
般図書など
2
会
場
たくみ二階ギャラリー
営業時間一一時から一九時まで︵日曜、最終日は一七時半まで︶
流掛茶盌(濱田庄司)
たくみ第52号
こころうた
板絵 春夏秋冬(芹沢銈介)
軸装 彩色 弁財天(棟方志功)
軸装 心偈(柳宗悦)
小舟文陶板(舩木研兒)
軸装 大津絵 槍持ち奴
赤絵皿(合田好道)
電気スタンド(鳥取)
軸装 大津絵
寿老人と大黒様
厨子甕(沖縄・明治期)
3
平成24年(2012年)6月10日
汽車土瓶(信楽)
赤絵皿(合田好道)
蝸牛絵皿(舩木研兒)
汽車土瓶(信楽)
鉄絵皿(中国)
睡蓮鉢(水野半次郎)
青土瓶(小鹿田焼)
菊文石皿(瀬戸)
赤絵茶盌(小橋川仁王)
古作口付壷(小岱焼)
手焙り(瀬戸)
火鉢(瀬戸本業窯)
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たくみ第52号
鉄絵湯呑二種(濱田庄司)
軸装 水仙図(合田好道)
茶器(舩木研兒)
徳利(左から備前、信楽)
ネクタイ(型染・唐桟織・絞り染)
飯碗二種(砥部焼・昭和40年頃)
弓浜絵絣裂地各種
こぎん刺し 帯・裂地
5
大野村の汁椀と沢口さんの意見
志賀 直邦
と、今なお残された民藝の仕事をどう
受け継ぐか、絶望せずにともかく議論
をしてみたい、と思うのである。
沢口滋氏も没して久しい。僭越とは
思うが、氏に代わってその論稿の大要
いた方、また親しくした友人との交友
が、その間お世話になり導いていただ
ふり返れば余りに永い道のりであった
技法の範囲はどこまでか、ということ
何か、そして許容される新しい材料や
要約すれば、館展における手仕事とは
審査員をされていた。氏の問題提起は
風の汁椀である。現地産の木地材なが
房︶の製品とは、径四寸余りの拭き漆
日本民藝館展の審査で沢口氏が問題
としたホッコ︵岩手県大野村の木工工
○
を紹介したい。
の想い出は尽きない。
昔はファックス、
であった。
筆でくださる方も何人かおられて、ご
られた。中にはいつも和紙の巻紙に毛
い。なによりも物づくりの工人にとっ
沢口さんの提起した課題は、今なお重
て届けたといわれた。あれから二八年、
この論稿は、原稿用紙に二千字余り、
私がいただいた時、民藝館には清書し
ペーパー研磨を行なっている。
る。さらに木目をはっきり出すために
げ塗装にはポリウレタンを使用してい
ら下地固めに合成接着剤を用い、仕上
メールなどの簡便な伝達手段はなかっ
返事を書くのに四苦八苦したことを覚
たから、便りは手紙や葉書の自筆に限
えている。ある時に﹁きみの手紙は筆
大野村の一連の木工品は村内、地域
の小中学校の給食の器として、その扱
だが沢口氏は地方民藝としての漆器の
て、材料の手配や製品の販売などの社
良さを守るために、その本来の塗の美
ペンだね﹂と喝破されて恐縮したこと
となどあって現実の製作実態すら二〇
い易さ、軽さ、デザインなどから一定
年、三〇年前の一、二割程度だろう。
の 評 価 を す で に 得 て い た の で あ っ た。
そんなことで私は心のこもった手紙
やご意見は、保存している。昨年の師
目を活かした木取りなどの必要条件を
会環境が激変してしまったこと、工人
走のころであったろうか。仕事机の資
今さら大野村の新作汁椀の話でもあ
るまい、
という方もおられると思うが、
の高齢化や地場に需要がなくなったこ
料ファイルの中に、沢口滋さんの﹃大
があった。
野村論争資料︵仮題︶について﹄と題
再読してみて日本の伝統的な生活文化
問題にする。沢口氏はいう。
しさ、堅牢さ、用いる木材の性質や木
する論稿があって読み返してみた。
6
沢 口 氏 は 宮 城 県 鳴 子 温 泉 の 漆 工 で、
私が民藝の道に入ったのは一九五五 ︵ 昭 和 三 〇 ︶ 年 四 月 の こ と で あ っ た。 一九八四年と八五年に日本民藝館展の
平成24年(2012年)6月10日
そればかりではない。伝統技法の衰
退は、合成の成形素地に化学塗料を吹
命によって根底からくつがえされた。
れらが高度経済成長政策による燃料革
人々の生業として存続されてきた。そ
れらの周辺技術の多くは山村に生きた
合によって成立する手工芸である。そ
漆の仕事は、漆、刷毛、こし紙、研
炭、素地など多くの異なった技術の複
に賛同できないという。
あって、館展の審査の対象とすること
選したホッコの製品もまたその類で
ることにあると思う﹂と述べ、昨日入
は、他人の開発したノウハウで物を造
法が手仕事と基本的に異なっている点
ばめられ苦しんでいる。工業的生産方
に携わる方たちはその領域が次第にせ
め私自身がそうであるように、手仕事
たちの世界は工業化がすすみ、そのた
については余り関心をもたなかったと
塗装の良否、加工技術における問題点
れたのであって、素材の強弱や化学的
柳悦孝先生も岡村氏も、そのもの自
体の形態と仕上げの良さに賛意を表さ
ではいられなかったのである。
一人として沢口氏の問題提起に無関心
思うが、民藝の現場にかかわるものの
いささか出過ぎた行為であったと今は
は館展にはかかわっていなかったから
付け塗装する多くの漆器産地の安易な
いわれた。これからはそういったこと
の後の経過から見て、私の意見は審査
対応するものでなかった﹂。さらに﹁そ
の評価についてであって、私の意見に
製造、加工、また使用上の知識などを
民藝、手仕事の分野で、今日では日
常の生活の中で衣、食、住にかかわる
にも注意を払わなければならないだろ
後の民藝運動の在り方に一つの問題を
さ ら に 氏 は こ の よ う に 述 べ て い る。
﹁ 今 年 度 の 日 本 民 藝 館 展 の 審 査 は、 今
員の多くの賛意がえられなかったこと
こ れ に 対 し、﹁ 柳 宗 理 館 長 と 秋 岡 芳
夫氏から発言があったが、それは作品
提起した。それはホッコの製品を館展
身近に学ぶ場がない。情報があふれ伝
る﹂とし、さらに二日目の審査会で自
審査員であった岡村吉右衛門氏とも
であった柳悦孝先生を訪ね、また同じ
私は二八年前の暮れ、沢口氏の論稿
を受け取ったあと、すぐ審査員の一人
○
ないだろう。
いることをもっと反省しなければなら
れらを身につける術を失ってしまって
7
やり方にある。
が民藝品として認知した上、高く評価
は明確であった﹂と書いている。
う、とも付け加えられた。
し、日本民藝協会賞を与えたことであ
ら述べた意見を次のように記してい
会って、その時の審査の内容や受賞の
達手段が発達したといいながら、われ
﹁ここに出品されている作品のほと
んどは、良否はあっても手仕事で、つ
われは昔のように、実生活のなかでそ
まり長い時間をかけて習得した自らの
経緯を尋ねたのであった。そのころ私
る。
技術で作られたものである。しかし私
たくみ第52号
益子の汽車土瓶
用の美をひらく
を江戸に出荷し、これを藩役所の管理
運営下においた。この実績から、その
の技法を習得し、この地でやきものを
れる。さらに明治三六︵一九〇四︶年
融で地固めすることが出来たともいわ
のち明治時代には経営の基盤を地元金
始めたのが益子焼の創始といわれる。
など、かつての官制が道をつける一方
嶋本 裕子
益 子 焼 の 名 は、 昭 和 五︵ 一 九 三 〇 ︶
年、益子に窯を開いた濱田庄司の名と
で、明治後期から大正にかけて窯業の
最 初 と い う。 当 時、 笠 間 藩 は 牧 野 氏、
野窯の益信と陶器づくりを始めたのが
笠間焼は、十八世紀後半ごろ、信楽
の瀬戸職人長右衛門が笠間に来て、久
ざまな交流の受容と、のびのびと自由
をおろした。そのおおもとには、さま
ら陶芸家を志す若者たちがこの地に根
と、土の素朴な味わいを求めて全国か
のである。
数を占めるまでの勢いとなっていった
ち﹁汽車土瓶﹂の生産で日本全体の半
来た職人がこの製造に従事し、そのの
には﹁益子陶器伝習所﹂が設立される
的にも近く、互いに交流しあう関係に
と も に 戦 後 の﹁ 民 芸 ﹂﹁ や き も の ブ ー
益子は黒羽藩のもと、各々の藩による
に作る作風の受容とで人々が増え、自
江戸時代、官制下にあった益子の当
時は、土瓶、すり鉢、紅鉢、片口、徳
ことである。汽車土瓶の歴史をひもと
やった駅売弁当に付随したお茶の瓶の
知名度が増した。日用雑器という対象
窯業統制、専売制のもとにあった。幕
由な気風を特徴として守りぬかれたこ
そのころに益子焼を支えてくれたの
が﹁汽車土瓶﹂である。関西方面から
末期、世情変化の争乱のなか、消費物
とが基盤にあるといえる。
利、土鍋、土釜、行平などの生活用品
くと、それは明治二六年、草津線の鉄
◇
汽車土瓶は、明治二〇年代からおよ
そ昭和三〇年代前半まで全国的には
益子焼の歴史は、
嘉永六︵一八五三︶
年頃という。丁度明治維新の十五年ほ
を作っていた。そのなかでも主に土瓶
いわゆる殖産振興策である。
資 の 自 給 自 足 と い う 国 策 が な さ れ た。
という。
焼がある。これら三つの瀬戸場は距離
あったとみえ、職人往来も当然あった
伸び悩みが顕在化してくる。
−
ム﹂に乗って最盛期を迎え、全国的に
関東地方には、そのむかしから民窯
として知られた笠間焼、益子焼、小砂
−
ど前である。大塚啓三郎が笠間と相馬
8
平成24年(2012年)6月10日
か っ た。 そ も そ も 汽 車 土 瓶 と は 何 か。
瓶の製造に熱心になる窯元も少なくな
もあったので、販売の安定した汽車土
益子は神山と同時に、幕末から明治
にかけての大きな土瓶産地のひとつで
杭、益子などで焼かれることになる。
瀬戸、美濃小名田、伊賀丸柱、丹波立
れ る。 そ れ 以 降、 汽 車 土 瓶 は、 信 楽、
の神山村の窯のものであったと伝えら
道の駅で最初に売られたもので、信楽
岡駅、二八年国府津駅で売られ出すと
がってゆく。お茶の方は明治二五年静
駅、 小 山 駅、 一 八 年 の 宇 都 宮 駅 と 広
阪駅、一六年の上野駅、一七年の長浜
まるという。これを皮切りに同年の大
資 料 に よ る と、 駅 弁 の 歴 史 は 明 治
一〇︵一八七八︶年七月の神戸駅に始
お茶=汽車土瓶を見出すことになる。
発達とともに駅弁と、それに欠かせぬ
茶である。この習慣が明治期の鉄道の
この駅でも売ることが出来ることに気
やすためには、胴が無記入であればど
られていた。そのうち、販売数量を増
販売していたものだから、値段が抑え
た。汽車土瓶は駅売弁当とともに駅で
益子の汽車土瓶は、明治三八年頃ま
で は、 胴 に は 何 も 描 か れ て い な か っ
京都の人もいたという。
ていたという。画師のなかには東京や
︵ 蘭、 竹、 梅、 菊 ︶ な ど も よ く 描 か れ
信楽や多治見焼から始まっているとさ
日本人は古代より一日二食の食習慣
であったものが、江戸時代に入って一
弁当とは大きな関係があるといえる。
れた山蓋土瓶や、三彩で山水画を描い
胴に当たる部分には呉須で牡丹が描か
上げられていた。明治三〇年代の品は
一 般 的 に 汽 車 土 瓶 は、 容 量 約 二 合、
内側は無釉で外側は透明釉や飴釉で仕
売店名を描くようになったのである。
見た面︶に駅名を、裏︵反対側︶に販
ようになった。胴の表︵注ぎ口を右に
汽車土瓶の胴に鉄釉で駅名が記される
車の本数も増加の一途をたどる。それ
そののち更に、明治四〇年代に入り、
鉄道事業が拡大、強化されるにつれ列
づく。
も切り離せぬ縁のある汽車土瓶である
れる。信楽、神山の初期のものには山
ある。
この時の形態が汽車土瓶である。
が、もう少しつきつめるとそれは日本
水模様が描かれていたという。
明治時代の日本の鉄道の発達と切って
人の食生活の歴史とも深くかかわって
日三食の食習慣が庶民にも浸透しはじ
た山水土瓶とよばれたもの、また花の
列車本数の増加によって駅弁販売も
商売として成り立ってくるようになる
とともに、無記入か絵柄入りであった
めてきた。さらに米が主食の日本人に
題材としてよく知られている四君子
いるのである。一日の食事の回数と駅売
とって食事の時に欠かせないものがお
たくみ第52号
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と、それに伴って駅名や店名入りの汽
かず短命のうちに終わり、昭和五年頃
がうかがえるものがあったという。
ないなかに見出す生命のようなものと
には再び陶器土瓶へと復活していった
◇
のちにあちこちの地方から発掘され
汽 車 土 瓶 の 基 本 の 製 造 過 程 は、 胴、 たカケラから想像できることは、当時
口、蓋を各々別々に水挽きし、やや乾
鉄道の発達によって遠出の旅を知り始
いったら大げさであろうか。それはと
車土瓶は﹁宣伝﹂効果として販売の促
めた人々が、その旅の気分の記念にこ
りもなおさず日用雑器のまさに﹁用の
更に表現といえば、初期の山水画や
色絵には、単純ななかにのびやかな自
いた段階で削り上げ、
胴に口を接合し、
の弁当についていた汽車土瓶を家に持
美﹂であろう。
のであった。
ヨ リ 土︵ ひ も 状 の 粘 土 ︶ で﹁ 山 ﹂
︵つ
ち帰ったことがうかがえる。あるもの
進につながっていった。
る受け、耳ともいう︶を付けて整形を
は家庭で茶瓶として用い、あるいは薬
のこない雰囲気を持っている。さり気
長い時を経て、旅のスタイルの変化
に応じて汽車土瓶がこの世から姿を消
岡、新庄、秋田、高崎、横川、長野な
益 子 の 汽 車 土 瓶 は、 宇 都 宮、 水 戸、
大宮、福島、郡山、仙台、小牛田、盛
が、当時、旅の車窓に一刻の彩りを添
もない沢山の陶工たちの技と絵ごころ
様変わりしてしまっている。しかし名
︵筆者は国立国会図書館・主査︶
10
由があふれていて、身近にあって飽き
終える。このあと乾燥、素焼、本焼と
草の煎じ用にし、時には子供のままご
の一つ、後方には山の代わりに穴を開
ど の 各 駅 で 売 ら れ て い た よ う で あ る。
え た 確 か な 時 期 が あ っ た こ と だ け は、
して久しい。秒単位で刻々と発展して
けたものが作られるようになった。更
胴の部分に平がなで駅名が描かれてい
われわれすべての記憶のなかにとめお
と遊びにと、多様な転用のさまがみて
に製造時間の短縮のために胴のふくら
るもののなかには、ごでんば︵御殿場︶、
きたいものである。
ゆ く こ ん に ち の 忙 し い 時 代 に あ っ て、
みをおさえて丸みを少なくした。
こくぶんじいき︵国分寺駅︶など、当
とれるのである。
また一時、大正の末頃からガラス茶
瓶 な る も の が 登 場 し た こ と も あ っ た。
時の益子の方言ともいえる発音の特色
駅ホームの風景も列車内のそれも全く
しかし利用者の不評もあって長くは続
簡素化を余儀なくされ、ヨリ山が前方
それが大正時代︵一九二〇年代︶の
後半には省力化の必要性から、形態の
いう道をたどる。
平成24年(2012年)6月10日
サ
ク
三浦 正宏
古い時代、北海道のアイヌの人たち
は、夏は海辺に住んで魚を捕って暮ら
し、冬は山に住んで狩りをして暮らし
ていた。
一つ年を取り、冬を過ごせばもう一つ
留︵さっくる︶も、紋別市滝川の札久
峠を越えたのである。北海道上川の柵
を呼んだ地名で、夏路が雪で通られな
稚内市の又留内︵またるない︶はア
イヌ語のマタ・ル・ナイ︵冬・路・沢︶
路︵サク・ル︶を示している。
留︵さくる︶も同じアイヌ語地名で夏
年を取るのである。
︵大
金田一京助の訳書﹃アイヌ聖典﹄
正十二年︶の詩曲のなかに、
サク・パ
イワン・パ
︵夏・年
六・年︶
くなったとき﹁冬はこっちの沢を通り
用句として古い神謡のなかで使われ
幾年も﹂と訳される永い年月を表す慣
流れる太平川と宝川の合流地には遊山
見される古い地名である。この地区を
吉朱印蔵入帳写﹄に﹁さくら村﹂と初
秋田市の上北手地区に﹁桜﹂という
地名がある。この地名は中世﹃豊臣秀
なさい﹂と教えてくれる地名である。
に住んでいる期間をサク・パ︵夏・年︶
る。これらの神謡に出てくる季節名は
マタ・パ
イワン・パ
︵冬・年
六・年︶
といった。同じように、冬を過ごす山
﹁ 夏 と 冬 ﹂ ば か り で、 春︵ パ イ カ ル ︶
という句がある。この表現は﹁幾年も
中の家をマタ・チセ︵冬・家︶と呼び、
れ 独 立 し た﹁ 一 年 ﹂ だ と 考 え て い た。
なく﹁夏年﹂と﹁冬年﹂というそれぞ
る。オホーツク海岸の枝幸から日本海
えをする通路につけられた地名であ
ク・ル︵夏・路︶が起源で、夏に山越
JR北海道の宗谷本線に咲来︵さっ
くる︶駅がある。咲来はアイヌ語のサ
代人の時間感覚が偲ばれるのである。
きびしい自然の中で日々を過ごした古
現在わずかに残るアイヌの神謡や地
名のなかに、そのむかし春も秋もない
11
夏を過ごす海辺の家をアイヌ語でサ
ク・チセ︵夏・家︶と呼び、サクチセ
マタチセで過ごす期間をマタ・パ︵冬・
長根と呼ばれる小山があり、由緒不明
の館跡もある。この地形が、もし北海
と秋︵チュク︶が出てくることはない。
道にあったなら﹁桜﹂という地名はア
年︶といった。
アイヌ語の地名に出てくる季節名
も、夏︵サク︶と冬︵マタ︶ばかりで
イヌ語のサク・ル︵夏・路︶の転訛だ
時の流れには夏年と冬年の二種類の年
︵筆者は秋田県民藝協会会員︶
とみえるであろう。
があり、それが交互にやってくるのだ
岸の天塩まで、夏はこの咲来を通って
ある。
と考えていたのである。夏を過ごせば
もなく、また、夏と冬は﹁季節﹂では
ることはなかった。もともとは春も秋
古代のアイヌの人たちは、いまの私
たちのように一年を四季に分けて考え
たくみ第52号
歳時記
型染うちわ・新柄いろいろ
か、うちわや扇子の問い合わせは真夏
を過ぎても引きもきりませんでした。
あとがき
E-mail takumi@ginza-takumi.co.jp
12
http://www.ginza-takumi.co.jp
うちわが浴衣とともに庶民の暮らし
の必需品になったのは江戸時代の中ご
−
ろからですが、竹の縁台に風鈴、ビー
−
昨年の東日本大震災のあと、夏に向
かって、早々とうちわが売り切れてし
− − −
ドロの金魚鉢などの風物詩は今なお懐
−
まいました。一時、停電が続き、電気
ざくろ
かしい思い出です。今回紹介する麻地
あやめ
の型染うちわは大橋工房の新柄です。
あじさい
に頼る生活への不安と、木陰やそよ風
江戸切子
など本来の自然の涼しさへの回帰から
株式会社たくみ
東京都中央区銀座八 四 二
発行責任者
志賀直邦
〇三 三五七一 二〇一七
〇三 三五七一 二一六九
〇〇一一〇 二 三五六五九
六〇円︵税込︶
昨 年 の 三・一 一 大 震 災 の あ と、 数 日 し
てから﹁たくみに来るとホッとする﹂と
いって立ち寄られる方がふえた。
世界の金融崩壊、国家主権や利権を争
う地域戦争、地球的な広がりを見せる核
放射能や環境の問題が、解決の糸口も見
えないまま心を惑わせる。
戦後の復興時代の貧しいながらも明る
く未来を信じることのできた、あのころ
が懐かしい。今から百年前、欧米列強が
資本や市場のさらなる支配を求めて世界
の再分割をはかり、世界大戦を起こした
教訓を忘れてはならない。
世 界 の 民 族 や 地 域 の、 言 語 や 衣、 食、
住など文化の固有性を、あらためて尊重
することが人類再生の糸口になるだろう
ことを信じたい。
︵S︶
発
行
電
話
FAX
振
替
定
価
− −
平成24年(2012年)6月10日
たくみ第52号