題字 和田重正氏 宏南会機関誌第11号 平成 17年4月29日発行 発行人 宏南会会長 村木義一 宏南会事務局 岡野道子 〒250-0865 小田原市蓮正寺 215-15 Tel & Fax 0465-36-8321 E-mail luxury215@ybb.ne.jp 宏南会ホームページ http://users.hoops.ne.jp/kounankai/index.html 郵便振替口座 00200-2-0044305 加入者名 宏南会 宏南会総会と講演会のお知らせ 日時 平成17年5月日(日) 午後1時開場、1時半から3時まで講演会、その後宏南会総会 場所 小田原市中央公民館の3階和室 電話 0465-35-5300 講演会講師 和田 純子氏 テーマ 著書「おとうと」について 会費 無料 和田 純子氏のプロフィール 1914年 1935年 横須賀生まれ 和田重正と結婚。以後、五女、二男を生み育てる 和田重正と共に、東京で一誠寮、小田原ではじめ塾、 山北で一心寮の青少年活動を続ける。現在、くだかけ生活舎に在住 著書に「やりくりなしのやりくり算段」および「おとうと」がある 1 和田重正の人間観・世界観 Shigemasa Wada’s View of Human beings and the World 金光裕子 (1985年大学卒業論文より転載) Ⅰ. 序 あることに気付いた。一週間の合宿は何 が何だかわからないままに終わってしま 大学二年の春に、宗教史の講座をとっ ったが、家に戻った私は、和田先生の著 た事は、私にとって一つのモーメントと 書を貪ぼるように読み、自分が無意識の なった。今まで知らなかった新しい世界 内に学校の成績で人間の価値を評価して に導かれ、それまでの私には未知であっ いた事に気付いた。気付いたからといっ た言葉や思考の意味しているものがなか て、すぐに価値観を変えることができた なか把握できず、随分戸惑ったものだっ わけではないが、その時以降、和田先生 た。が、ある時私はずっと馴染んで育っ の3つの鍵(ケチな根性はいけない、イ てきた、というよりは私の身心に深く入 ヤなことは避けないで、ヨイことはする) りこんでいる和田重正氏の言葉が、それ は 、私 の 生 活 を 支 え る 基 準 と も な っ た し 、 らを理解するための糸口となってくれる 和田先生は私が生きていく上での拠り所 ことに気が付いた。 となったのである。 和田重正氏という方は、約半世紀にも 視点を確立するには、何か確固たる足 渡って、市井の教育者として、けっして 場が必要だと思う。私は残念ながら、い 有名ではないが、青少年のためにその身 まだ私自身の根というものを見出してい を教育に捧げてきた方である。私が和田 ないため、それがいいか悪いかはわから 先生に初めてお会いしたのは、今から9 ないが、日常生活においても、大学の勉 年前、中学1年の夏休みだった。和田先 強 に お い て も 、和 田 先 生 の 言 葉 を 通 し て 、 生について何の予備知識もないまま、丹 物事を見、考えている。卒業論文のテー 沢の山の中にある「一心寮」という生活 マを考え始めた時、やはり一番に浮かん 道場で行われた中学生合宿に参加した私 だものは和田先生のことだった。 は、以前から和田先生と関わりを持って 私にとって和田重正について考えると いる、いわば常連である他の参加者達と いうことは、客観的な対象について学問 自分の間には、何がどう違うのかわから 的考察をするということではなく、自分 ないけれど、とにかく大きなへだたりが 自 身 を 見 つ め 、考 え る と い う こ と で あ る 。 2 私の内に(私が理解している形での)和 を考察していきたい。その際に、できる 田重正氏がいるのだから。和田先生の言 だけ彼自身の言葉を引用して、彼の思想 葉 で い っ て 、大 脳 に と ら わ れ て い る 私 が 、 ... いのちの世界に生きている和田先生を正 を知るてがかりとしたい。というのは、 しく理解できるはずがなく、私が抱いて ろ、それらは人間の頭の中に勝手な枠を ... つくり、本来のいのちの世界から遠ざけ 彼は言葉や観念を信用していない。むし いる和田重正像は実物を歪め、矮小化し に分析したり、評価したりすることが目 . て し ま う 危 険 な も の だ と 考 え て い る 。「 い .. のちから発せられた場合でも、一度言葉 ... になってしまえば、もうそこにはいのち 的ではない。私が現在もっている和田重 の痕跡しか残っていない」というのが彼 正像を少しでも実物に近づけること、私 の考え方である。もし私が勝手に自分の の理解度を少しでも正しく、深くするこ とが目的なのだ。そうすることで、私は 言葉に変えたり、他の人の言葉を借りた ... らそこには彼のいのちの痕跡すら失くな あらゆる真の宗教がわかち持っている真 ってしまうかもしれない。そんな危険を 実へ近づくことができるのではないかと 冒さないためにも彼自身の言葉を使いた 思うし、それと同時にこれからの人生を いと思う。 どう生きていくべきか、その方向をも与 最後に一つだけ断っておきたいのは、 .......... こ れ は あ く ま で 今 の 私 が 理 解 し て い る「 和 たものであることも否定できない。 この卒業論文は、和田重正氏を学問的 え て く れ る の で は な い か 、と 思 っ て い る 。 さて、和田先生について考える場合、 ... 彼のキー・タームであるいのちを理解す 田重正の人間観・世界観」なのである。 ることがとても大切である。彼は、本質 は言葉で表現しきれるものではない。上 的には非常に宗教的であり、また宗教の 意義を認め、尊重しながらも自らは神や に書いたように、言葉にした瞬間、本来 ... の生き生きとしたいのちを離れ、形骸化 仏のでてくる宗教を信じていない。彼の する。更に、残念ながらまだ私は、大脳 人 間 観 や 世 界 観 も 、宗 教 的 で あ り な が ら 、 にとらわれた個体としての立場でしかこ ... の世界を見ておらず、いのちの世界を正 もともと、彼の人間観、世界観というの その基盤は神仏ではない。彼のもとにな ... っているのがいのちなのである。 しく伝える力は持っていない。この論文 この論文では、まず彼の生い立ちを見 . て、彼の視点の確立を探り、その後でい .. のちを基にした彼独自の人間観、世界観 は、私の和田重正理解の最終的な結論で はなく、あくまでも暫定的なもので、今 後の方向を教えてくれるためのものであ 3 る。 に憤激し、お茶の水女子高等師範学校を 卒業後、母と弟妹 3 人を引き連れ、奈良 Ⅱ. 生い立ち に移り住み、奈良の師範学校の英語教師 誕生 となり、そこで和田八重造と出会い、結 和 田 重 正 は 、明 治 40 年( 1907)1 月 13 婚 。 4 人 の 子 を 設 け た が 、 大 正 4 年 12 月 日に、父・和田八重造(明治 3 年? 31 日 、 夫 の ア メ リ カ 留 学 中 に 丹 毒 と い う 36 年 )、 母 ・ 朗 子 ( 明 治 5 年 ? 昭和 大正 4 熱病のために死亡。重正がこの母から受 年)の次男第三子として生まれた。父親 け継いだ最大のものは、自然を愛する心 は、奈良県御所市楢原村の貧しい農家の である。が、重正の人生において母親が 出 身 で 、 数 え 年 14 才 で 小 学 校 を 卒 業 す る 果たした役割というのは、むしろ彼がわ と同時に、その学校の教師となったのを ずか 8 才で母を失ったという事実の方が 振 り 出 し に 、 以 来 86 才 で 一 切 の 教 職 か ら 重要である。母親の不在による寂しさや 退 く ま で の 70 余 年 に わ た っ て 、 非 常 な 努 孤独こそがその後の彼の人生における精 力を積み重ね、独学を続け、数多くの中 神の遍歴の原点であるし、彼が持ってい 学・高校で理科を教え、日本の理科教育 る母性への憧憬、敬慕、信頼というもの の改革に情熱を傾け、貢献をした人であ も、もとをただせば幼くして母を失くし る。人間としても父親としても実に素晴 た自己の体験が影響しているものと思わ らしい人で、思想としてではなく、生活 れる。 の中に宗教を持ち、愛と祈りに満ちた生 涯を送った。父・八重造の、一宗教人と 母の死 して実直で衒いのない見事な生き様は、 既 に 記 し た よ う に 、 大 正 4 年 12 月 31 重正の人生(特に宗教観)に大きな影響 日、母・朗子が病死。当時、父・八重造 を与えている。 はアメリカのオーベリンに留学しており、 一方、母・朗子は明治維新後、農務 母と 4 人の幼い子供達が、八重造の故郷 省高官という地位と名誉を得た元薩摩藩 である奈良の楢原村で、父の帰りを待ち 士の長女として、東京は山の手のお屋敷 ながら暮らしていた。朗子は夫がアメリ で生まれ育ち、裕福な家庭で高い教育を カに渡った最初の頃は、奈良の近くの女 受け、何一つ不自由のない生活を送るこ 学校で教鞭を執っていたのだが、ある事 とができたにも関わらず、政権をカサに をキッカケに学校をやめ、夫の生まれ故 きて、妾を囲ったり好き放題をする父親 郷である楢原村へ移った。そこでの暮ら 4 しは、優しく親切な夫の弟の庇護はあっ 重正が小学4年生を終える頃、アメリカ たものの、都会育ちの朗子にとって、保 から父親が帰ってきた。八重造が渡米前 守的で偏狭な村人達の無理解に苛まれ、 に勤めていた第一高等学校に復職する事 辛いことの多いものだったという。そん が決まり、一家は再び奈良から東京へと な状況の中で、朗子は亡くなった。 移 っ た 。最 愛 の 妻 を 失 っ た 悲 し み に 耐 え 、 父親ははるか遠い土地におり、唯一の 八重造は子供たちの冷えきった心をその 頼りであった母を失ったことが、子供達 大きな愛で徐々にとかしていったが、そ にとってどれほどの衝撃であったか、想 の頃には重正の生活はすでに嘘を常習の 像に難くない。きわめて感受性の豊かだ こととしていたし、裏にまわって反抗を っ た 重 正 少 年 の 場 合 、母 の 死 に よ っ て 続けられていた。「私も一人前の不良少 間の孤独 人 を骨の髄まで味わうことにな 年のやることは大てい何でもやりまし る。周囲の大人達の同情や慰めの声は冷 た 」と い う 本 人 の 言 葉 通 り 、嘘 、サ ボ リ 、 えきった少年の心を暖めることができな ケンカ、夜遊び、賭事、盗み事、手のつ かった。が、8 歳の子供にとって、「自 けられない少年で、常に充たされること 分というものは、過去にも未来にも広い のない、不幸な生活を送っていた。 宇宙にもこの自分唯一人しかいないの だ」という実感は、一人で背負うには重 受験 すぎる。重正にとって、この認識はただ そのような生活を送っていたのだから、 ただ気も狂わんばかりの淋しさをもたら 成績も良いはずはなく、中学校は父親の ひ と したのだった。彼は、他人に何とかして 尽力で、ある私立にもぐりこんだ。中学 この気持ちをわかってもらいたい、そし 生になってからも同じような生活を続け ひ と て他人から愛され可愛がられることによ ていた重正だが、中学4年になると当時 っ て 、こ の 淋 し さ を 埋 め た い と 切 望 し た 。 流行していた教師排斥ストライキに関係 が、もともとが恥ずかしがり屋で素直に して、上級生や同級生の一部と不和にな その気持ちを表すことができず、そのた り 、全 く 学 校 に 行 か な く な っ た 。流 石 に 、 めに自分なりにいろいろな工夫をしたが、 二学期になると学校のことが気にかかり、 愛されたいと願う素直に出せない性格の 再び登校してみたが、既に落第が確定し ギャップゆえにかえってまわりに嫌がら ていることを知り、困った彼は翌年高校 れるような事をしたり、嘘をついたりす に合格したら四年修了ということにして る 子 供 に な っ て い っ た 。大 正 6 年 の 早 春 、 もらう約束を教師から取りつけ、自力で 5 受験勉強を開始した。 ッパリした世界に出たいともがき始め 最初の頃は、どれだけ遮ニ無ニ勉強し た 。」 ても実力がつかず困っていたが、11月 自分は頭が悪く、人生経験も貧弱 の或る日、フッと頭にかかっていたもや なのでカントもニイチェもトルス が消えるように頭の働かせ方、勉強の仕 トイも親鸞も道元も理解する力が 方がわかり、それ以後は見違えるほど効 なく、漱石さえも大人らしい読み 率が良くなった。(その方法のことを重 方ができない。ともかく自分には 正は「忘れ方」と呼んでいる。これも彼 級友たちのように哲学とか人生と の人生における大切なモーメントの一つ いうものを理解する能力が欠けて であり、彼自身も「一つの目覚め」であ いることは残念ながら認めざるを ったとしている上に、勉強だけでなく、 得ない。それならば、そのような 生き方にも関係してくるのだが、言葉で 事で級友と競い合うことはやめた 説明できるものではないし、詳しく追求 方が良い。そのような他人を標準 している余裕も無いのでここではその内 にした生き方ではなく自分は自分 容 に は 立 ち 入 ら な い 。)そ の 結 果 、大 正 12 なりの生き方をすれば良いのでは 年春、重正は最年少者として見事、浦和 ないか、では自分なりの生き方と 高等学校に入学することができた。 はどういうことなのだろう。わか っているようで、実はさっぱりわ 高校生になって からないのです。しかしある時武 高校生になると、重正は自分が周囲の 蔵野の果てに連なる濃紺色の秩父 連中と比べて、あまりにも幼いというこ の山なみを臨みながら思いました。 とに、劣等感を抱くようになった。勉強 この自分が存在していることが や運動神経はともかく、「人間としてな 事実であり、ある範囲で行動の自 んとなくかなわない」気がして、無理に 由の生き方にはより良い生き方と、 背伸びをする一方、常に周囲から無言の より悪い生き方があるに違いない。 圧力を受けているように感じていた。二 どうせ生きるならば自分にとって 年生になる頃には、自分の心情の暗さ、 最上の生き方をしたいものだ。然 重苦しさに耐えられなくなり、「なんと らば、自分にとって最上の生き方 かしてこのバカげた苦しみから抜けてサ とは何だろう。ここで考えは暫く 6 つかえてしまいました。日夜この に決心のしなおしを何度となく繰り返し 考えにとらわれているうちにだん ていくうちに、すっかり自信を失い自分 だん整理がついてきて、やがて自 のことを「良心微弱、意志薄弱な道徳的 分にとって最上の生活とは、自分 白痴」ではないかとまで思いつめ、生活 のありのままの、最も自然な生活 はますます荒んでいった。 であるというところへ到達しまし 苦悩から逃れ、救われたい一心で、重 た。偽善もなく、偽悪もない、一 正は学校の先生を始めとして人格者と呼 切の作為を離れ生地のままを白日 ばれている人や宗教家に話を聞いたり或 の下にさらけ出した生活、これが は哲学や宗教の本を読んだりした。が、 最上の生活であると結論したので 誰のどんなお説教も苦しみに喘いでいる す。 彼の心を救ってくれるどころか、手がか 苦悩の日々 りすら与えてはくれなかった。彼は進む 悩んだ末に、自分なりのありのままの べき方向を示す一条の光もなく、苦悩の 生活こそ最上の生活だと思い定めた重正 日々を送っていた。 は その頃友人の一人に熱心な真宗信者が ありのままに 生きようと試行錯誤 を 繰 り 返 し 、か え っ て 苦 悩 を 深 め て い く 。 いて、重正に南無阿弥陀仏を唱えること 例えば、他人の思惑など気にせず、自分 を勧めた。最初のうちは単なる迷信だと の欲する通りに何でもやってみようと思 して相手にしていなかったが、その友人 い、心の赴くままに授業をサボって他の の真剣さに打たれ、重正も南無阿弥陀仏 本を読んだり、酒を飲んでは翌日学校を を信じ、他力廻向の念仏が出さえすれば 休んだりという生活を続けていると、い 救われるだろうと思い、一生懸命称名念 ったい自分自身が本当に欲しているのは 仏を唱え、信じようと苦心した。が、ど 何なのか、自分でもわからなくて、「肉 んなに信じたいと願い、信じようと努力 体的欲望と名誉や信用を求める情的欲望、 しても彼にはどうしても信じることがで 利己心と愛他的心情理性と感情、その他 きなかった。自分を省みると、全く悪事 得体の知れないいろいろな気持ち、そん のかたまりみたいな人間で、もし今死ん なものが卍巴と入り乱れて収拾のつかな でしまったら間違いなく地獄に行くより い有り様になって」自己分裂に陥ってい 道はない。そして人間はいつ死ぬかわか った。ある時は感情のおもむくままに、 らない、今夜死なないとも限らない。一 またある時は高潔を目指し、といった風 心一向に信じきることができれば、念仏 7 を 唱 え る こ と が で き れ ば 、救 わ れ る の に 、 ては言及しない。(一つだけ触れておく それができない自分。このことは、彼の と、彼は試行錯誤の一つとして生命とは 苦しみをますます強烈なものにした。 何であるかを知るヒントを得ようと、わ 地獄の鬼に帯をつかまえられて ざわざ高等学校理科卒業の学力認定試験 いるような気持で喚ように唱える 受けて農学部に入り、発生学を学んだり ナムアミダブツ、日に何千遍、何 した。が、そこでも彼の求めるものは見 万遍唱えてもそれは悉く空念仏に つからずほとんど学校に行かず 2 年在籍 過ぎないことを自ら明らかに承知 し た だ け で 退 学 し た 。) しているのです。死の恐怖に追い 絶望 立てられている私は死にばかりと らわれて、どうしても先に飛び込 大学を卒業する頃になっても、解決の むことができないのです。更に悪 ための糸口すら見い出すことはできなか いことには念仏申す心が起るのも った。高校の終わりごろから時々起こっ アミダさまのおはからいによるの ていた神経性心悸亢進症がますます悪化 だ。自分の努力や工夫で出るので し、執拗な死の恐怖と心臓の発作が相互 はないと言います。こうなったら に作用し、文字どおりの地獄の苦しみは 正に万事休すです。 約 5 年に及んだ、生きることも死ぬこと こんなところをぐるぐるさまよ もできない状態の中で、彼は必死になっ いながら、遂に激しい死恐怖症に てナムアミダブツを唱えていたが、最後 陥り、いよいよ日夜、死と対面す の 2 年間は手も足も出ない有り様で、独 ることになりました。極楽を求め り一室に閉じ籠って夜も昼も座り続けて て現実の地獄に落ちたわけです。 いた。そして、遂に最も恐るべき絶対的 この死の恐怖症に陥ったのは、大学生 絶望に達した。「ナムアミダブツには絶 活も後半に入ってのことと思われる。彼 望し、考えるべきことは考え尽くし、試 は浦和高等学校卒業後、東京大学の法科 みるべきことは試み尽くした、と思っ に進んだのだが、その頃の彼の関心は専 た 。」 の だ 。 彼 が 10 年 の 歳 月 を か け 、 求 ら人生の問題についてであり、法律の勉 め続けた問い 強は試験に落第しない程度でお茶を濁し う生きるべきか ていたと自分でも書いているし、ここで えないし、もしそれを知ることができて はあまり関係ないので、大学時代につい 自分とは何であるか、ど の解答は人間には知り も、その通りに生きることはできない。 8 又、宗教によって救われるのには、自分 んなさいませ。もうこんなに咲き の心にはあまりにも頑なで、神仏を信じ 始 め ま し た 。」 きることもできない。生きることは苦し その張りのある明るい声に誘わ み以外の何物でもなく、進化とか向上と れて、私は何気なく振り向きまし いった方法は無く、苦しむことも努力す た。女中の差し出して示す桃の小 ることもただそれだけで何の意味もない、 枝にはポッとまさに開こうとする と彼には思えたのだ。 桃色の蕾がついています。それを ちょうどその頃、母亡き後、彼が敬愛 見た時の私の驚きようは、ただ目 してやまなかったお姉さんが宗教的救い を見張るばかりでした。そして心 を最後まで求めながら遂に得ることなく 中にはこんな叫びが渦巻いて起こ 亡くなってしまった。このことも彼の絶 り ま し た 。 ― ―「 み ん な 間 違 い だ 。 望を一層深いものとし、生きる望みを失 今まで見たり考えたりしたことは わせた。そしてそういう人間がする通り 悉く夢だったのだ。コレが本当な のことをしようと覚悟を決めた。自殺で のだ。真実なのはコレなのだ」 ある。 この驚きや叫びと同時に明るい 世界に生まれ出たような気がしま 思いがけぬもう一つの 目覚め した。予期しない、あまりに急激 死を決意すると、重正は自分がそれま な世界の変貌のために、暫しは呆 での間に悩み考えてきたことを数日にか 然としましたが、「まてまて、こ けてまとめ、遺書としてしたためた。そ れも瞬間の夢ではないか」と思い うしていよいよ服毒自殺を決行しようと ましたので、驚いてなおそこに立 した、まさにその時、思いがけないもう ちつくしている女中を去らせ、独 一つの目覚めを経験した。 り正坐して静かに瞑目しました。 昭和9年4月2日のことである。 ――生け垣の外を子供が歌って踊 4月2日正午のことです。将に ります。庭の植込みで小鳥が啼い 服もうとする時、日頃口を聞いた ています。時々遠くを走る省線電 こともない女中が廊下伝いに急ぎ 車の音が伝わってきます。――五 足で私の部屋にやってきて、障子 秒ぐらいだったか、それとも二、 を細く開けて言いました。「ごら 三十分も経ったかわかりません。 9 「よし!」という気がするので、 かく生きる力として働くあらゆる善きも それでも恐る恐る目を開けてみま のに満たされた世界」にいる自分を見い した。後戻りしていません。急に 出 し た の だ っ た 。こ の 瞬 間 か ら 彼 の 人 生 、 腹の底から大きな笑いが押し上げ 生活は180度の転換をする。世界が変 てきましたが、辛うじて爆発を抑 わったのではない、彼が変わったのだっ えました。 た。先に引用した文章では、「この世界」 久し振りに障子をあけて庭を眺 「あの世界」とまるで二つの別な世界が め ま し た 。桜 も 松 も 生 き て い ま す 。 存在しているようにとれる書き方をして 門の外へも出てみました。森も小 いるが、けっしてそうではなくこの目覚 川も雲も大地も、春の麗かな光の めによって、それまで頭の中で考え五感 中にいのちの喜び燃え上がってい ます。この時、私は生まれてはじ で捉えていた世界をくるっと反対側から、 ..... ありのままに見られるようになったのだ。 めて天に向かって合唱したのでし 「自分のために、自分の力ですべて自分 た。 を中心として生きてきたのが今度は自分 実にこの世界は生きた世界であ の力やはからいではなくすべてのこの世 る。今までの世界は生きていない に満ち満ちている愛と知恵に生かされて 世界だったあの世界はバラバラの 生きる」ことになったのだ。 教育者に ものの寄り集まりの世界だった。 この世界は一の世界である。あの 自分が自分の力で生きているのではな 世界の質は極度に粗い。この世界 い、人間のやりくりを超えた所で、無限 は精妙微妙を極めている。この世 の愛と知恵に護られ導かれて生かされて 界はあの世界では言い表わすこと いるのだと知った重正は大学を卒業する ができない、これが実物ならあれ 頃からの宿願であった教育者への道を歩 は影絵にすぎない。要するにこの ... 世界はいのちの活々とした行き詰 むことにした。昭和4年の春、大学を卒 まりのない世界でありました。し 何とも形容しがたい気持ちに襲われた。 かもそれこそ己の本来の住居だっ というのは、16年間も教育を受けてき たのです。 ているのに、その間についに人間の生き 業 す る 時 に 、彼 は 自 分 の 学 校 生 活 を 顧 み 、 重正はこの時「光とか知恵とか、とに る道についていやもっと切羽詰まった問 10 .. 題である「この自分が生きていく上で自 は後から来る人たちのために本当 分にとって最高の生き方とは何か、どう によい理解者となれるだろう。自 生きればいいのか」ということに対し解 分たちの受けてきた教育とその結 答はおろかヒントですら与えられはしな 果をつくづくと顧みるとき、どう か っ た 。人 間 が 人 間 を 教 育 し て い る の に 、 しても自分がよき理解者となり、 人間の本来生きる道がでてこないという よい学校を作らねばならない。そ のは、どう考えてもおかしい。そんな教 して、自分のように少年期青年期 ほんとう 育に 真 実 の意味や価値はない。そう思っ を無駄と懊悩の中にすごすものを、 た時彼は心の底から思った、「よい指導 一人でも救わねばならない。 者が欲しい!」と。 このようにして、彼は教育を一生の仕 もし本当に正しい生きる道を知 事と定めたのだった。そして、自分が進 り、子供や若者の心をよく理解し んでゆく道を思い出した27歳の春、決 て導いてくれる教育者が一つの学 意も新たに「よい学校」を作ることを目 校に一人ずつでもいてくれたらど 標に、教育者としての第一歩を踏み出し んなに幸せなことだろう。若い者 たのだった。 に時間と精力の莫大な浪費を免れ 具体的には、まず当時東京の郊外に新 させ、それを積極的建設的な方面 設されたばかりの私立中学に教師として に使わせれば若者たちはどんなに 赴任した。その一方で、重正の教育観と 伸び伸びと成長することができる 熱意に賛同した人々の力で、父の家の敷 だろう。自分は不幸にしてそうい 地内に「一誠寮」という小さい学生寮を う大人にめぐり会わなかった。そ たて、中学生7 のために少年期青年期の大部分を にするようになった。 8人ずつと生活をとも 無方針にさまよい歩き、大学を卒 「はじめ塾」の全身である。また、こ 業する22歳の今日まで何の光も の 年( 昭 和 1 0 年 )に は 純 子 夫 人 と 結 婚 。 見い出し得ないでいる。これから 重正の以後の生活や教育における実践の 先何年かかったら解決するかわか 際に、純子夫人の存在は大きな助けとな らない、或いは、一生解決される っている。 ことはないかもしれない。しかし 学校の教師として 幸にして解決を得たならば、自分 学校の教師としては、重正は昭和10 11 年から21年までの間に、切れ切れに3 学校を離れて つの(旧制)中学校に勤めた。最初は東 昭和21年に最後の学校を離れた重正 京の学校で、後の二校は小田原にある私 は、28才の時以来続けていた青少年の 立 の 中 学 だ っ た 。結 論 を 言 っ て し ま う と 、 ための道場「はじめ塾」一本で歩んでい 彼はもともと学校の教師を一生の仕事と くことになった。が、この昭和21年か するつもりはなく、塾教育に必要な知識 ら30年頃までの約10年間は、重正と と経験を得るために働いており、多大な その家族(夫人と7人の子供達)にとっ 期待を持っていたわけではないが、学校 て 、経 済 的 に は 大 層 厳 し い 時 期 で あ っ た 。 教育に失望と何か寒々としたものを感じ 特に昭和21年には、夫婦とも病気に苦 ただけで、約10年ほど勤めた後、何の しめられた。戦時中、ヤミ買いはしない 未練も感じず、むしろ希望を胸に学校の という建前で通した重正は、かなりの栄 教師をやめている。彼が学校教師として 養失調に陥り、一時は起きる事さえでき 感じたことを四点にまとめて書いてある ないほどだった上に肺結核が重なり、本 ので、それをそのまま引用すると、 人も死を覚悟したほどだった。又、純子 ①学校経営者や教師というものは極めて 夫人もジフテリアにかかって、何とか快 稀な例外を除いて、教育のために学校に 方へむかったと思ったら今度は丹毒で再 関係しているのではなく、何等か他の利 び高熱に苦しめられ、あやうく死にかけ 己的な目的のための手段として学校を利 たこともあった。それでも二人とも周囲 用している。 の人々に助けられ命をとりとめることが ②一個の人間としての生徒の貴さを少し できたし、それからも今の時代には想像 も知らない教師があまりにも多過ぎる。 することすらできない貧乏は続いたもの ③学校の独善的鎖国主義 の、何とか生きることができた。 ④生徒に時間と精力の恐るべき浪費をさ 貧乏時代 せていること となっている。このもとの文章は昭和 彼はなぜそんなにも貧乏だったのか。 21年に書かれたものだが、それが現在 答えは簡単である。給料をくれるような でも通用する(むしろ、もっとひどくな 仕事に就かなかったからだ。彼は、この ... 世界は不可分一体のいのちの世界である っている)のは興味深く、残念なことで ある。 という認識のもとに、自とか他とかの区 ..... 別のないありのままのところで生きよう 12 と願い、そのための道を求めて生きよう 30年代以降で目につくできごとを挙 としている人間には「道中衣食あり」と げていくと、昭和34年9月はじめ塾会 か「空の鳥を見よ・・・だからあすのこ 館落成、翌35年より「はじめ塾」小機 とを思い患うな」といった言葉通り、生 関 誌「 あ し か び 」開 始 、3 9 年 第 一 作『 葦 きるために必要なものは与えられるだろ か び の も え い ず る ご と く 』 ( 上 )・( 下 ) うと思った。そして「与えられるものだ 出版、41年『まみず』創刊、同じ頃ネ けで生きよう。もし何も与えられなかっ ホ サ( ネ オ ホ モ サ ピ エ ン ス )運 動 も 開 始 、 た ら 死 ね ば よ い 。」 と 思 い 定 め そ の よ う な 42年6月念願の『一心寮』開設、50 生活が出家という形ではなく、世俗の中 年はじめ塾を引退、一心寮に専住、51 においても現実に可能かどうか妻と7人 年家庭教育を見直す会開始、55年機関 の子を道連れに実験していたのだった。 誌『くだかけ』創刊、等となっている。 (というよりも、彼にも自信があったわ これらの出来事のうち、特筆すべきは けではないが、この道より他に気の済む 一心寮の誕生であろう。彼は若い頃から 道が無かったので、彼にはこうすること 「 よ い 学 校 」の 建 設 を 悲 願 と し て い た が 、 し か で き な か っ た の だ 。) そ う し て 、 結 果 実際の問題として学校を新設するという 的に ことはいろいろな理由から実現できなか 空の鳥 の話や 道中衣食あり の証言は正しかったのだと納得したのだ ったし、現在の学校教育にも失望しきっ った。 て 、教 育 の 場 を 学 校 に 求 め る こ と を や め 、 青少年と日常生活をともにしながら、人 昭和30年代以降 間のための教育をすることのできる場所 昭和30年代に入ると世の中の景気が を捜し求めるようになった。 良くなっていくのにあわせ、和田家の家 す る と 、周 囲 の 人 々 の 善 意 の お か げ で 、 計もずいぶん楽になっていた。又、重正 彼が漠然と夢物語として考えていた希望 の活動の方も着実にその輪を広げていっ が現実のものとなったのだ。神奈川県は た。この頃になると、彼の年齢もいよい 丹沢の山中にある古い人家を借り、手を よ五十歳の大代に入るようになるし、精 加え、一心寮と名付け、みんなが基本的 神面ではそれ以前の自分の考えを確認し な生活の中で、できるだけケチな根性を たり、深めたりで、本質の部分では若い 捨て、 頃経験した 愉しく生活してほしい、という願いのも もう一つの目覚め のよう なドラマチックな変化はない。 うまれたて じ ぶ ん 新 鮮 な自己 になれるように、 とにいろいろな人々に解放している。現 13 在は、彼は一心寮に来る人々の相手をす け 、講 演 を し た り と い う 生 活 を し て い る 。 る一方で、文章を書いたり、日本全国ど 実は飄飄と、楽しげに、かつ優雅な生活 こからでも依頼を受ければ純子夫人とと である。 もに若い人の運転する車でそこまで出か 以下次号に続く[文責 大塚卿之] 編 集 後 記 今回掲載しました金光裕子さんの論文はいかがでしたでしょうか。大学生が書いたとは思えぬほ ど、和田重正先生を深く見つめているものだと私は驚きました。今回がちょうど三分の一ですので あと二回の連載になるかと思います。ところで、金光裕子さんはNHKこころの時代のチーフディ レクターを長年されていた金光寿郎さんのお子様であることをお伝えすれば、頷かれるお方もある ことでしょう。 【大塚卿之 記】 14
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