Amiga Music Programs 1986 – 1995 アミガ・ミュージック・プログラム 1986-1995 Johan Kotlinski 2009年8月20日 Translation into Japanese: Takashi Kawano (Akaobi) こんにちは! 2003年の秋、私はこのエッセイを、王立技術研究所の科目「メディア、テクノロジー と文化の間で」の一環で執筆しました。以前からずっと、私はこのテクストを英語に翻 訳し、より広い範囲の聞き手に届けることを望んでいました。自分で面白いと感じるそ の主題と時代について、調査をしてみる価値はあったと[今でも]思っています。この エッセイの読後、同様の感想を持っていただけることを願っています。 当時、与えられた時間で最善を尽くしたにせよ、私の教育水準が超高くはないことを、 ここでお断りしておきます。参考文献が不足していますし、諸々の事実を私の主観的な 印象から分けることが難しいきらいがあるかもしれません。それでも、面白い読み物に なっていれば良いのですが。このテクストに誤りを見つけた場合は、ご連絡下さい。 新たに事実確認の任にあたってくれた、John Carehag、Mikael Kalms、Tomas Danko、 Anders Carlssonに感謝します。ありがとう! ――Johan (kotlinski@gmail.com) 1 はじめに このエッセイは、1986年から1995年までの、アミガ・ミュージック・プログラムの進展 に関する社会的・技術的分析である。 ポピュラリティ ヨーロッパにおいて非常に大きな大 衆 性 を得る至ったアミガ・ホーム・コンピュー タが、幅広く多様性に富んだミュージック・プログラムのホストであったことが、当エ ッセイの背景的知識である。これらのミュージック・プログラムはそれぞれが全く異な るアプローチを有しており、その進展は当時の技術的・社会的条件を知らなければ、時 に説明困難にも思える道のりを取った。このエッセイでは、ミュージック・プログラム の進展がいかに80年代に形成されたヨーロッパのホーム・コンピュータ・カルチャーと 関連していたかに光を当てるつもりである。また私は、われわれの技術的様相を明らか にし、ミュージック・プログラムがスタンドアローン・アプリケーションとしてだけで 1 なく、より大きな諸システムにおいて、ある機能を演じたことも指摘したいと思う。 このエッセイの範囲を抑えるために、私は調査期間を1986年から1995年までの間に画 定すること、ならびに取り扱うプログラムを、コンピュータの内部サウンド合成[internal sound synthesis]に基づいたものだけを含めることを選択した。かくして外部のシンセ サイザーを操作する類のミュージック・プログラムは、本調査から外れている。 当エッセイが当時の状況に関する完璧な解説を何ら求めていない点に触れておく価 値もあるだろう。というのも、おそらくはアミガ用のミュージック・プログラムは少な く見積もっても何百もあり、[しかも]それらの多くは相当な数のヴァージョンを有し ていたからである。その代わりに、進展が取った様々な道に光を当て、それぞれの道の 内、最重要のマイルストーンと私が見做すプログラムでもって例示を試みている。プロ グラムの選択にあたって私が頼みにした基準とは、主には革新のレヴェルであり、また それらのプログラムがその先の進展にいかに影響を与えたか、である。 この領域内での私自身の実体験が幾分限られている点も、また述べておかねばなるま い。私はコモドール64やアミガのようなコンピュータを使いながら育った。またそれら の周囲に徐々に発展していったカルチャーに親しんではいるが、この主題における私の 実体験は限定されている。というのも、当エッセイで私自身が言及したプログラムの内、 私が使用したことがあるものは数点に過ぎないのである。幸いにも、ヴィンテージ・コ ンピュータの熱狂者であるJakob RosénならびにMats Andrénから多大なる援助と情 報を得ることができた。JakobからはSoundtrackerの進展に関する諸々の事実の大部分を 提供してもらい、Matsにはアミガ用のシンセティック・ミュージック・プログラム1に 関する質問に答えてもらった。 良好な基礎資料を見つけることが、当エッセイの執筆における一つの問題だった。当 然のことながら大した知名度を得ずに終わったプログラムに関する情報を見つけるの は至難だったし、たとえ如何ほどか(!)存在したとしても、その場合にはプログラム に関する文書記録[program documentation]にあたる必要があった。対照的に、非常に 有名になったプログラムについて得られる情報は、かなりの量が存在した。こちらの場 合の問題は、私がインターネットで発見した多くの情報が、価値の疑わしいものである か、あるいは明白に間違いですらあると分かったことである。こうした理由のために、 適所で[on place]間違いのない情報源を優先的に利用し、慎重に進展を追うことにし た。確証性に欠ける資料を用いるのは、大まかな本質に関する情報を見出す時に限った。 2 技術システムとしてのアミガ 1 [訳註]原文では synthetic music programs と synthetical music programs と表記のゆれが見られる が、翻訳では統一して「シンセティック・ミュージック・プログラム」という呼称=訳語をあてている。 2 アメリカのコンピュータ会社、コモドール社はアミガ・コンピュータ・シリーズを生産 した。ホーム・コンピュータ、アミガ500とともに1987年、大きな進歩が到来した。当 時、アミガはほとんどの地域の競争相手に、技術的に優っていた。アミガは今日であれ ばマルチメディア・コンピュータと呼ばれているだろう。というのも、先進的なグラフ ィックスとサウンドの可能性は、[当時の]ホーム・コンピュータ市場では唯一無二で あったからだ。 アミガはデジタル・サウンドの4チャンネル同時再生能力を備えていた。それまでの コンピュータと主に差をつけたのは、サンプル――コンピュータに録音され、デジタ ル・フォーマットで記憶されたサウンドのこと――が再生可能なことだった。それは、 数種類のシンセティック・サウンド(大抵はビープ音かノイズ)しか生成できない初期 のホーム・コンピュータとは全く異なる何ものかであった。 3 ヨーロッパにおけるホーム・コンピューティングの幕開け 3.1 シーン アミガのミュージック・プログラムの進展を理解するには、80年代の終わりにヨーロッ パで形成されたホーム・コンピュータ・カルチャーについてまず知っておくことが重要 である。その中でも特に「シーン[the scene]」――見た限りでは、目の前のホーム・ コンピュータで青春の大半を浪費しているような少年と若い男性からなる、放埓かつイ ンフォーマルな諸グループのネットワーク――と呼ばれる特定のサブカルチャーにつ いて知っておく必要がある。あるものがサブカルチャーになる際には、外側の人間が根 本にある欲動や動機を理解するのが時に困難なのは、よくあることだ。コンピュータ・ ユーザーの場合は、それはさらにずっと難しい。というのも、彼らの活動が物理的な形 を取ることは、そうそうないからだ。理解を進めるために、シーンの進展をもたらした 出来事について短い論評をしてみよう。 80年代冒頭、アミガの周囲に栄えたホーム・コンピュータ・カルチャーの種がもうや ってきた。最初の大量生産のホーム・コンピュータが登場したのだ。それらのマシンは 今日の水準と照らし合わせると、あまりに未完成だったが、無理なく入手可能だった。 多くの人々は、約束されたホーム・コンピュータ革命に参加するべく、コンピュータを 買うことに誘いこまれた。問題はそれらのマシンが実用上は、あまり使いものにならな かったことだ。それらは数ヶ月間、家庭の自慢の種になり、あるいはもしかしたら家族 のなかで父親が簡単なプログラミング言語を覚えるためにコンピュータを使い、大抵は その後すぐにマシンは放置された。しかしながら、このコンピュータを大いに利用する ようになる、ある集団が存在した。コンピュータ・ゲームを遊ぶためにマシンを使って 3 いたティーンエイジャーである。 ほどなくして、コンピュータ・ゲームに興じるティーンエイジャーの市場は、ゲーム・ プロデューサーとして営業すれば儲けを得られる大きさにまで成長した。これらの新し いゲーム会社はすぐに、ユーザーがゲームを買うよりかはむしろ相互にコピーし合うこ とを好む問題に直面した。それからゲーム会社は様々な種類のコピー・プロテクトをソ コピー フトウェアに施すことによって、この私的複製に対抗しようとした。プログラミング・ スキルに長けたコンピュータ・ユーザーがこれらのコピー・プロテクトを外すことを覚 えるまで、そう時間はかからなかった――彼らはその行為を、ゲームを「クラック」す ること、と呼んだ。それからすぐに、ゲーム・クラックとコピーを享楽する人々によっ て、アンダーグラウンド・ネットワークが成立した。 十代のソフトウェア・パイレーツとクラッカーたちからなる、このインフォーマルなネ ットワークが、後にシーンと呼ばれることになるものの萌芽だった。最も重要な成果は、 ゲームを実際にクラックすることではなく、この後に形成されたアンダーグラウンド・ム ーヴメントだったかもしれない。これらのユーザー・グループは互いにモデムと電子掲示 板システム2を用いて交流を持ち始めた。ほどなくして、彼ら自身の電子雑誌と価値観をも って、新しいカルチャーが作られた。フリー・インフォメーションがこれらのグループの 主要な動機であり、漠然と、あるいは明確に非合法な活動が刺激的かつ魅力的なことと見 做されたのは驚くに値しない。 このアンダーグラウンド・アティテュードに火をつけたのが、掲示板システムにおける 匿名(いわゆるハンドル)の使用の拡大であった。ゲーム・クラッカーたちはMr. Xerox、 Red Rebel、Captain Kidd、Mr. Bigのような想像力豊かなハンドルによって活動することが できた。ハンドルの選択に見られる想像力を凌いだのは、ただ自己主張――一番になり、 最もスマートかつ最も速く[the best, smartest and fastest]あろうとする欲動――を求めてい た彼らティーンエイジャーだけであった。すぐにそれは、できる限り速くゲームをクラッ クするスポーツへと変わった。最速の[The fastest]3クラッカーはエリートの一部と見做さ れる栄誉に浴した。エリートとは、卓越したスキルの持ち主であると噂がたち、新しいゲ ームに一番初めにアクセスした人たちのことである。この時点でさらに人々は、グループ でともに作業し始めた。グループで人々は、それぞれが異なる職務を専門としていた。あ る者はゲームをクラックすることができ、ある者は他のグループとゲームをトレードする 2 フロッピー・ディスクのような現物交換の際は、標準の「カタツムリ郵便[snail mail]」が間違いなく 便利でもあった。 3 興味深いことに、 「最速」の定義はしばらく前からゲームのクラック・ヴァージョンをアメリカの掲示板 システムに一番初めにアップロードした人物ということになった。私見ではこの定義はシーンの中心がヨ ーロッパになった後定着したのだと思われる。 4 ことを専門とし、またある者は掲示板システムを管理できた、等々。 3.2 イントロ、デモ 間もなくしてゲーム・クラッキングに新たな要素が登場した。この要素の重要性だが、 さらなる進展をのため過大評価するのは難しい。クラッカーたちはコピー・プロテクト を外すだけでなく、誰がゲームをクラックしたのかを言明する「イントロ」スクリーン を付け加え始めたのだ。それから、ゲームがコピーされた際には、一つ一つのコピーに 新たなイントロ・スクリーンが現れるようになるだろう。自分たちの名前が何千ものコ ピーで広まることを知って、これらの若者たちが跳び上がったに違いないのは想像に難 くない。グラフィティとの比較論まですぐそこだ。 図1: German Cracking Serviceによる1983年のイントロ・スクリーン それまでのところ、この活動のほとんどはアメリカにおいて、アップルⅡやアタリ800の ような初期のホーム・コンピュータで生じてきた。コモドール64(今ではC64と呼ばれてい る)というホーム・コンピュータが大きな突破口を開く1983年頃まで、ヨーロッパではそ の活動が表に出ることはなかったのである。ヨーロッパが主な発信源となった進展とは、 卓越したイントロ・スクリーンを日増しに生産することで、いかに自分たちがスマートか を顕示し始めたことである。彼らはヴィジュアル・エフェクトのプログラミングや自分た ちの名前の格好良い表示方法に、時には[商用の]ゲームから盗んできた音楽を付け加え 5 ることにも、ますます多くの時間を費やすようになった。間もなくして印象的なイントロ・ スクリーンを提供することは、一番初めに多くのゲームをクラックするのと同じくらい、 名誉のあることとされた。 ゲーム会社の支配を受けずに、独自の価値観を携えてこのネットワークが自分たちの カルチャーの形成へと向かう決定的な一歩は、人々がイントロ・スクリーンに着想を得 た別個のプロダクション[ゲーム・クラックからイントロ・スクリーンを切り離した単 独のプロダクション]を作るというアイデアを得た時だった。これらのプロダクション は「レター[letters]」や「メッセージ[messages]」と呼ばれ、しばしばゲーム・ミ ュージックと一緒にテクストや、お手製のカラー・グラフィックスを表示した。後にこ の種のプロダクションには、制作者のプログラミング及びグラフィックのスキルのデモ ンストレーションを意味する、「デモ[demos]」の名がついた。主な着目点は依然と して技術的なものであったが、デモは初期のイントロよりいっそうアート・フォームに 近づいた。以前との相違点は、ここで主な挑戦がゲームをクラックするというよりむし ろ、格好良いやり方でコンピュータの技術的限界を巧みに回避することを起源としてい たことだった。 図2: 1001 CrewによるBorder Letter I。1986年のデモ 間もなくして、C64ホビイストたちのアンダーグラウンド・ネットワークは、「シー ン」と名づけられた。その名前はミュージック・シーンやテアトル・シーンと同じ意味 で使われた。つまり、人々が各々のスキルを見せることを企図可能なプラットフォーム 6 だったのだ。1987年頃、シーンは社会的な集まり(パーティ)とともに着実にサブカル チャーを成立させた。これが、アミガが生まれ合わせた環境だった。知的挑戦といわゆ るエリートと呼ばれる者の一部になる野心に掻き立てられた、何千人ものデモ・プログ ラマがいた。シーンの人々は伝統的にコピーライトや情報の所有権に対して、敬意をほ とんど、あるいは全く払わなかったことも注記すべき重要な点である。 4 C64 ミュージック・エディタ アミガのミュージック・プログラムのいくつかがなぜ彼ら[C64シーンの人々]がやっ たものことに似ていたかに対して背景的知識を得るには、その先祖たるC64での状況に ついて知るのも一興だろう。 以前からずっとC64には、真剣な使用に耐えうる公然と使用可能なミュージック・エ ディタがなかった。ゲーム・ミュージシャン[ヴィデオ・ゲームの音楽担当者]は、自 前のエディタと再生ルーチンをプログラムしなければならなかった。どのようにしよう が、それが彼らには技術的に強い印象を与えるようなことには見られなかったため、デ モ・プログラマのほとんどは、そのようなことに対してあまり興味を持ち合わせてはい なかった。その代わりに、彼らは通例としてゲームを逆アセンブル4し、ゲームに使わ れた曲を自分たちのイントロやデモに盗用したのである。 デモは次第にアーティスティックな表現になり、デモ・グループは自分自身の音楽を 作ることに関心を持つようになった。もちろん、音楽に関心のあるプログラマは、また コンピュータを楽器として利用することにも興味を持っていた。間もなくして、ホビイ スト・プログラマは最初の非公式に流通するミュージック・エディタを制作した。SidMON やFuture Composer、JCHのようなプログラムを挙げることができるだろう。それらはグラ フィカル・ユーザー・インターフェイスを欠いた、かなり荒削りなプログラムで、音楽デ ータはすべてテクストとデジ[digits、デジタル・サンプルのこと]で表されていた。制作 する曲はゲームやデモに使用されるものであったため、非常に少ないリソースを消費する 再生ルーチンを備えていることよりも、使いやすさの方が重要視されることは通常なかっ た。加えて、これらのプログラムは、C64のサウンド・チップであるSIDがいかに動作する かについて、正鵠を得た知識を必要とした。とはいえ、これらのプログラムがあまりユー ザー・フレンドリーではなかったとしても、作曲者がゼロから全てを書かざるを得ないこ とと比較すれば、大きな一歩だった。 4 逆アセンブルとは、実行可能なマシン・コードからプログラムを人が読解可能なアセンブリ語へ変換す ること。これによりプログラムから容易に一部分を変更し、取り出すことができる。 7 図3: Charles Deenen(The Mercenary Cracker)のFuture Composer v1.0。1988年 5 アミガ・ミュージック・プログラム 5.1 グラフィックス・プログラム 1986年、最初の商用のアミガ・ミュージック・プログラム、Aegis社の「SONIX」およ びElectronic Arts社の「Deluxe Music Construction Set」が登場した。どちらもマウスを使 って一枚の楽譜に音符[note]が付け加えられるタイプの、グラフィカル・ユーザー・ インターフェイスを備えていた。このグラフィカル・ユーザー・インターフェイスはか なり理解しやすいものだったが、作業するには少々難しかった。これはまた古くからの C64のコンピュータ・ミュージシャンにとっても問題の種だった。というのも、彼らは しばしば音符を読むことができなかったからだ。もう一つの問題は出来あがった曲を他 のプログラムに含めることが困難だったことだ。これはゲーム・プログラマとデモ・プ ログラマ双方にとっての問題だった。その結果として、先導するミュージシャンは自分 自身のミュージック・プログラムとプレイヤーを書かなければならなかった(まさしく C64と同じように)。 5.2 Soundtracker 8 1987年、Ultimate Soundtrackerの最初のヴァージョンが登場した。Karsten Obarskiという 名のドイツ人によってプログラムされたこのソフトは、AES社供給の商用製品だった。 先行するアミガ・プログラムとは対照的に、Ultimate Soundtrackerは全くグラフィカルで ノート はなかった。その代わりに、C64ミュージック・エディタとまさしく同じように、音符 の入力はクラヴィアトゥーア[ドイツ語で鍵盤を意味する言葉]としてコンピュータ・ キーボードを用いることでなされた。とはいうものの、その「トラッカー」は似たよう なC64プログラムよりもシンプルだった。ユーザーはプログラムに付随したサンプルを 用いることしかできなかったので、かくしてこのプログラムを利用して作られる曲は全 て皆同じインストゥルメントを用いていなければならなかった。さらにC64のプログラ ムで見られたアレンジの柔軟性[flexibility]も消え失せていた。なぜかといって、全て のチャンネルは、それぞれ個別に編集されることのない代わりに、(「パターン」と呼 ばれる)一つのブロックでまとめて編集されたからである。この制限事項は比較的プロ グラムを覚えやすいことにも繋がり、なお都合のよい種のものだった。しかしながら、 そのプログラムは当時はバグだらけだったので、大きなセールスを上げることは叶わな かった。 9 図4: Aegis SONIX V2.0 図5: Karsten ObarskiのThe Ultimate Soundtracker v1.21。1987年 10 1988年、Ultimate Soundtrackerの開発は予期せぬ展開を取った。オランダのJungle Commandというグループに所属するデモ・プログラマ、ExterminatorがSoundtrackerを逆 アセンブルし、いくつか変更を加えた後、彼自身の名のもとにSoundtracker 2として広め たのである。最も重要な変更点は、彼が再生ルーチンを公にしたことだ。これにより誰 でもSoundtrackerで制作した曲を自分たちのプロダクトに取り入れることができた。厚 顔無恥かつ非合法的なことだったが、それがSoundtracker革命の開始地点になったとい うのも事実である。ゆっくりと、Soundtrackerはゲーム・プログラミングならびにデモ・ シーン内のデファクト・スタンダードになった。 Exterminatorの達成に衝撃を受けた者は多く、たちまち互いに似たりよったりな、 Soundtrackerの新たなヴァージョンが数多く開発された。先導した開発者はD.O.C.の UnknownとThe New MastersのTIPだった。Karsten Obarskiはそれでも自分のプログラムの 開発を続けたが、すぐにプログラムの買い手を見つけることが大変難しくなった。たく さんのヴァージョンがフリーで出回っていたためだ。 1988年の間、Soundtrackerの進展に多くの重要な出来事が起こった。なかでも、オリジナ ル・プログラムに続いたヴァージョンを補足する、カスタム・サンプル・ディスクを作る ためのツールが登場したことが挙げられよう。それはまた「モジュール」ファイル・フォ ーマットの誕生でもあった。これにより、ユーザーは使用したサンプルをすべて一つのス タンドアローンのファイルにまとめて、曲を保存することが可能になった。 5.3 シンセティック・ミュージック・プログラム たとえSoundtrackerがゲームやデモの音楽制作に実用的あったとしても、皆が皆このプ ログラムに満足した訳ではなかった。特筆すべきは、C64でミュージック・プログラム を利用してきた人々が、昔からのC64ミュージック・エディタに備わっていた柔軟性が 欠けているのを惜しんでいた点である。最大の問題は[多くの]メモリを要求するサン プルの利用が必要なことにより、クラックされたゲームのイントロ・スクリーンに曲を 合わせるのが困難だったことにあった。C64と比較した場合、編曲の柔軟性の欠如に関 する苛立ちも存在した。 こうした不平不満がC64ミュージック・エディタの長所をアミガへと移そうとする、 ミュージック・プログラムの新たな潮流を導くことになった。このテクストでは、それ らをシンセティック・ミュージック・プログラム[synthetical music programs]と述べる ことにする。なぜかといって、サンプルを再生する代わりに、サウンドそのものを合成 する[synthesize]能力によりそれらは示されるからである。1988年に最初の例である、 商用プログラム(Reiner van Vlietの手になる)SidMONが姿を現す。同名のC64プログラ 11 ムの翻訳[interpretation]5である。他に名を挙げておくべきプログラムとしては、Shogun のDelta Musicや、SuperionsのSuperseroに手になるFuture Composer(同名のC64プログラ ムとは無関係)や、コンピュータ・ゲーム・ミュージシャン、Chris HülsbeckのTFMX等 がある。 Future Composerはあるいは最も広範囲に利用されたシンセティック・ミュージック・ プログラムかもしれない。ドキュメントから興味深い箇所を引用しよう。 Future-composerは単なるもう一つのsoundtrackerではありません。むしろそのプログラ ムを一掃してしまう競争相手に近いのです! このようなことを述べるのも、future composerがsoundtrackerと比べた場合に、大きな長所をいくつか有しているからです。 主な長所とは、シンセティック・サウンド[SYNTHETIC SOUNDS]を作る能力がある ことです(もちろん、変らずにサンプルの利用もできます)! さらにパターンの構 築や配列もはるかに柔軟に富んでおり、メモリ消費量も少なく済みます。また、サウ ンド・モジュールを相対的に短くすることによって、シンセサウンド[synthsound]が 多量のメモリを必要とすることもありません。 図6: Future Composer 1.4(Amiga) 5 [訳註]SidMON という名の C64 プログラムが実際に何を指しているのか、特定できなかった。 12 Soundtrackerの成功に対するいくらかの応答であったFuture Composerと、間違った方 向に進むと見做されたミュージック・プログラムの一般的な進展を理解するのに、言外 の意味を読み取る必要はない。 可能性を厳密に観察するなら、シンセティック・ミュージック・プログラムは Soundtrackerより明らかにパワフルであったと言える。不幸にも、開発者たちは良好な ユーザー・インターフェイスを作り損ねたため、プログラムは利用するにも、理解する にも難しいと見做されたのはもっともなことであった。Soundtrackerは使いやすさに関 して、[ユーザーが]望みうるハードルを挙げた。コンピュータ・ミュージシャンたち はC64の全盛中に手にしたような、フラストレーションの溜まるユーザー・インターフ ェイスには、もう同じようには耐えられなかった。この種のプログラムを利用した人は 大抵は、例えばクラックしたゲームに用いるイントロ・スクリーンにおいて、メモリ・ リソースが不足している特別なアプリケーションに耐えたことのある者だったのだ。 5.4 Soundtracker のさらなる展開 年が明けてからずっと、Soundtrackerの市場支配は強まる一方だった。サンプルベース のSoundtrackerのメモリ要求[圧迫]の問題は、1990年、Anarchyのデモ・ミュージシャ ン、4-Matによって解決された。彼は「チップ・ミュージック」と呼ばれる新しいスタ イルの発明者として一般的にクレジットされている。このテクニックは、「フルの」イ ンストゥルメント・サンプルの代わりに、短い「シングルの」波形のサンプルをループ させる手法に基づいている。これによりメモリ消費を落とせるのである。かくして、少 量のメモリ消費が要であったアプリケーションにおいてさえ、Soundtrackerの楽曲を用 いることが可能になった。「チップ・ミュージック」という用語はもしかしたら、その 結果として得られるサウンドが、古くからのサウンド・チップの一つ6に似ていること に由来するのかもしれない。 スウェーデンのMahoneyとKaktusによるNoisetracker 2.0のリリースは、1990年に突如 マ イ ル ス ト ー ン 起こった、この進展に関する画期的な出来事だった。頻繁に利用するファンクションの ためのキーボード・ショートカット等、Noisetracker 2.0は多数の便利な機能を加えた Soundtrackerクローンだった。Noicetrackerは本当に楽しんで使うことのできる最初のト ラッカーだった。MahoneyとKaktusが、オリジナルのSoundtrackerに対する権利を有してい たEASに売り込むことを目標にNoisetrackerを制作したのは、面白い点である。しかしなが ら、計画が実現する前にEASは倒産し、彼らはプログラムをフリーウェアとしてリリースす ることを選択した。 6 [訳註]SID を指す。 13 図7: Protracker v1.3b。1992年 1991年、Amiga FreelancersのZAPの手になるProtrackerがNoisetrackerから首位を奪った。 Protrackerはさらにずっとモダンなユーザー・インターフェイスと、優秀なサンプル・ エディタに似た便利なツールを備えていた。1991年以降は、(様々なヴァージョンの) Protrackerがアミガにおける最有力のミュージック・プログラムだった。 5.5 インディペンデント・トラッカー 1990年頃、特徴的な[independent]トラッカーがいくつか登場した。それらは決まって Soundtrackerと互換性を有しており、似たようなユーザー・インターフェイスをしていたが、 Kasrsten Obarskiのオリジナルのコード上でのビルディングというよりもむしろ、完璧にゼ ロから書かれていた。最も注目に値する例は、Teijo Kinnunenによる商用プログラムMED である。最初のヴァージョンは1989年に登場した。比較的動作が安定し、利用が易しかっ たことで他のプログラムから際立っていた。またMEDには、例えばMIDIサポートのような、 Soundtrackerにはない機能があった。MEDやその後継であるOctaMEDは、Soundtrackerのよ うには一度もポピュラーにはならなかったとしても、信頼の篤いユーザー・ベースを獲得 した。 14 5.6 具体化[Crystallization] 1991年には、アミガ・ミュージック・プログラムの間でのポジションが決定的に定まっ た。Protrackerはデファクト・スタンダードとして重用された。MEDはよりユーザー・ フレンドリーな代替品で、あるいはもしやシーンの一部を担いたいという意志のなかっ た(そしてMIDIを利用したかった)ミュージシャンにより主に用いられた。シンセテ ィック・ミュージック・プログラムが重要視されることは滅多になかった。これらのポ ポピュラリティ ジションは、アミガが大 衆 性 を保っていた残りの期間、動くことはなかった。 図8: OctaMED v2.00。1991年 Protrackerの成功は、新しいプログラムと構想の発展という離れ業をいくらかやって のけた。商用のシンセティック・ミュージック・プログラム、Sonic Arranger(1991)は 前任のFuture Composerよりもかなりパワフルで、利用しやすいものだった。しかしなが ら当時人々はほとんどProtrackerで満足してしまい、シンセティック・ミュージック・ プログラムを試しに使ってみようという気を起こすことはなかった。並べて見ると 15 Sonic Arrangerの方が古ぼけて見えたこともあるかもしれない。とはいえ、仮にSonic Arrangerが数年早く現れていたなら、[アミガ・ミュージック・プログラムの]進展は ずっと違ったものになっていただろう。 5.7 シンセティック・プログラムの新潮流 この後、重要な新規のミュージック・プログラムが現れるまでに、1995年までの長きに 渡る時を要することになる。そのプログラムの名とは、Dexter/AbyssのAHXとスウェー デンのデモ・グループPhenomenaのMusicline Editor、両者ともシンセティック・ミュー ジック・プログラムだった。AHXはC64を思わせるノスタルジックなサウンドをしてい たが、非常にモダンかつ扱いやすいインターフェイスを備えていた。Frédéric HahnのFred Editor(1989)に着想を得たMusicline Editorは、アミガでそれまで聞くことのできたど のプログラムにも優る、パワフルなサウンド合成を備えていた。それにもかかわらず、 あまり知名度を得ずに終わった――理由としては、プレイヤーが大量のリソースを消費 することにより、曲をゲームやデモに含める[使用する]ことが難しかったことが挙げ られるかもしれない。 6 結論 アミガ・ミュージック・プログラムの展開は、大きく分けて三つの道を辿ることになっ た。最もポピュラーなプログラムは、Karsten Obarskiの「Ultimate Soundtracker」に由来 し、インディペンデントなデモ・プログラマたちによって完成させられていった、いわ ゆるトラッカーである。ユーザー・フレンドリーかつMIDIと相性の良い、Soundtracker のクローンに代わるものとしては、商用プログラムMEDが登場した。また、C64ミュー ジック・プログラムを淵源とし、Soundtrackerクローンの影でいや増して開発されたの が、シンセティック・ミュージック・プログラムであった。 16 図 9: AHX 7 参考文献 • ExoticA! アミガのエキゾチックなミュージック・プログラムや曲のアーカイヴ・サイ ト。初期のSoundtrackerのクローンのクロノロジーも掲載されている。 • World of Cracktros アミガのイントロに使用された曲のアーカイヴ・サイト。様々な音 楽プログラムのポピュラリティ[有名度]に関する良いヒントを与えてくれる。 • In Medias Res アミガ及びC64シーンの人々へのインタヴュー。 • Amiga Music Preservation アミガ・ミュージック及びミュージシャンのデータベース。 • The Karsten Obarski Tribute Project Soundtrackerクローンの情報を含む。残念だが、情報 源の信憑性は完全とは言えない。 • Amiga History Guide アミガの歴史サイト。 • Copyright Finns Inte v3.0 情報、権力、ハッカー・カルチャーの誕生について書かれた ウェブ・ブック(スウェーデン語)。 17
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