n-ro 233-a - 所沢エスペラント会

TOER
la organo de Tokorozaŭa-Esperanto-Rondo
n-ro233 junio 2010
(La59-a Esperanto-Kongreso en Regiono Kantoo okazis la 5an~6an de
junio 2010 en Kultura Domo Tazukuri de la urbo Ĉoofu en Tokio)
Venis Pluva Sezono
Mizuno yoshiaki
Laŭ la raporto de radio, nun komenciĝis pluva sezono en
regiono Kantoo. Mi ne tre ŝatas pluvan veteron, tamen poste
venos Sumero,la plej brila tempo de la jaro. Mi esperas eĉ
nun kie mi iros havi plezurajn tagojn. (2010.6.13)
(日本語訳)雨の季節がやって来た。
水野 義明
ラジオのニュースによれば、関東地方は現在梅雨入りしました。私は雨の日があまり好
きではありません。しかしやがて一年で一番輝かしい夏がやって来ます。私は今でさえ
楽しい日々を過ごしに何処へ行こうか胸をはずませています。 (2010.6.13.)
相沢良と津軽地方のエスペラント運動
小田喜一
2010 年 5 月 16 日、浪岡展望台相沢良顕彰碑の前で相沢良の語り継ぐ会が開か
れました。顕彰碑の裏に相沢良(参照1)の生涯の歴史が刻まれています。その中に相
沢良がエスペランティストとしても活動していたことが書きこまれています。1925年頃秋
田雨雀が黒石市で青森エスペラント大会を開いた頃に弘前エスペラント会が出来たの
ではないか?1970年代には山本耕一(弘前大学細菌学教授)が会長を、松本宙(東北
学園大学教授)が事務局長、土岐勇太郎(弘前大学事務官)が会計をし、淡谷悠蔵(社
会党国会議員)がいて、活発な運動を展開していました。当時私は設備工事業を営んで
いて、東北設備工業を団地の長として私は専務として東京にある公害防止事業団と折
衝していたのですが、急激な事業拡大を計り自分の会社を倒産させてしまいました。そ
の為関東方面に長い間出稼ぎに出ていました。出稼ぎでは関電工のガードマンとして
働き所沢市のエスペラント会に入り、明治大学水野義明教授等のご指導を戴きました。
再び弘前市に戻って来たら、或る人は亡くなり或る人は転勤して私と H さんと2人だけに
なってしまいました。2007年8月、8日間の日程で横浜のパシフィック横浜、みなとみら
い横浜等のビルで第92回エスペラント世界大会があり、全世界57カ国から2000人のエ
スペランティストが集まって通訳のいらない大会となりました。弘前エスペラント会には47
0,000円の残高があったので、私はその世界大会に参加する費用を一部負担してもら
おうと思って会計係の I さんに相談
を持ちかけるに彼の店に行ったの
ですが、彼はそれに反対するばかり
ではなく「ここは私の店だ。とっとと
出ていけ!」と私を追い出したので
す。仕方がないので、共産党大成
支部の協力を得て桜祭やメーデー
でエスペラント世界大会参加の為
のカンパや今は宮城県におられる
元青森農業試験場長・那須さん(エ
スペランティスト)のご支援を戴き世界大会に参加できました。その後、弘前大学を卒業
したばかりの根市さんと青森市の若者中山さんの3人で弘前エスペラント会を再発足さ
せたのですが、最近4月には2人とも厚木市や東京に働きに行って今再び、私一人だけ
になってしまいました。秋田雨雀(参照2)や相沢良の志を受け継ぐためにも弘前エスペ
ラント会をどうしても再開したいと思っています。皆様方のご協力をお願いします。(2010.
5.16)
参照1 相沢 良(あいざわ りょう、明治 43 年(1910 年)5 月 15 日 - 昭和 11 年(1936 年)1 月 28
日)は、日本の女性平和運動家、共産党活動家。
青森県南津軽郡浪岡町(現在の青森県青森市)に生まれる。相沢家は、三代と続く医師の家で、
信望のある家であった。 家族は、両親と祖母、姉千代、妹京、弟企救麿。父の助手や看護婦も住
み込みで働いていた。
1923 年(大正 12 年)4 月、県立青森高等女学校に進学。 小学生当時の相沢良は、二つ年長の青
森高女の姉千代と同級生で仲の良い淡谷のり子が遊びに来ていて、出会っている。
1933 年(昭和 8 年)4 月 4 日夜、道警により検挙され、拷問による取調べを受ける。
1936 年(昭和 11 年)1 月 28 日、青森県北津軽郡沿川村(現板柳町)の父母の家で、25 歳 8 ヶ月で
生涯を終える。
札幌市西区の琴似発寒川の流脈にある滝、平和の滝の入り口の横には、相沢良の顕彰碑が建
立されている。 また、青森県青森市浪岡の道の駅の上にある花岡展望台の前にも、相沢良の顕
彰碑がある。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
参照2 秋田 雨雀(あきた うじゃく、明治 16 年(1883 年)1 月 30 日 - 昭和 37 年(1962 年)5 月 12
日)は、日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家である。本名は徳三(とくぞう)。
略歴 [編集]
産科医である父玄庵(全盲であった)と、母まつの長男として青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に
生まれる。黒石尋常小学校、青森県立第一尋常中学校(青森県立弘前高等学校の前身)を経て東
京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科に入学する。
1908 年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6 月号に小説「同性の恋」を発表。小説、劇
作、詩、童話、評論、翻訳と幅広く活躍し、島村抱月主宰の劇団・芸術座 (劇団)の運営にも参加し
た。1915 年、来日したワシーリー・エロシェンコと親交を結んでエスペラントを学び、彼と島村ら文化
人との親交を取り持った。1921 年には小坂狷二と共にエスペラント教本『模範エスペラント独習』を
出版。1931 年、日本プロレタリアエスペランチスト同盟(JPEU)の結成に参加した。
1947 年、第 1 回参議院議員通常選挙に日本社会党公認で青森地方区から立候補したが落選して
いる。
日本児童文学者協会の第 2 代会長を務めたほか東京都豊島区にあった舞台芸術学院の院長を務
めた。娘はロシア文学者上田進(演劇評論家尾崎宏次の実兄)に嫁した。出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』
Mia Naskiĝloko
SIBATA Ken
Mi naskiĝis en urbeto Simokamo-Kisimoto, kvartalo Sakio, urbo
Kioto. Kiam mi estis unu-aŭ du-jaraĝa, mia familio transloĝis al
urbo Itikawa, gubernio Tiba. Kiam mi estis dek-jaraĝa, mia
familio transloĝis al kvartalo Katusika, urbego Tokio. Post
geedziĝo, mia familio loĝis en urbo Iruma, gubernio Saitama.
Kaj mia familio loĝis en urbo Hamamatu, gubernio Sizuoka, dum
tri jaroj. Nun mi loĝas en urbo Tokorozawa,gubernio Saitama.
Mi aŭdis urbetan nomon Simokamo-Kisimoto kaj ĉi tie mi
naskiĝis, sed mi ne sciis la adoreson. Kiam kunveno de gekuzoj
okazis lasta-monate, mi demandis al miaj gefratoj maljunaj pri la
adreso. Mia frato maljuna respondis ke la adreso estas “dek naŭ”.
Sekvantan tagon mi vidis naskiĝlokon per interreta mapo, mi ĝoj
-is ke ĝi estas sama adreso antaŭ sepdek jaroj. Eksklude Kioto,
miaj loĝintaj adresoj aŭ urbetaj nomoj ŝanĝiĝis. (2010.6.16.)
(日本語訳)私の生まれたところ
柴田 健
私は京都市左京区下鴨岸本町で生まれました。私が1歳か2歳の時、私の一家は千
葉県市川市へ引っ越しました。10歳の時、東京都葛飾区へ引っ越しました。結婚後埼
玉県入間市に住みました。そして私の家族は静岡県浜松市に3年間住みました。今は
埼玉県所沢市に住んでいます。私は下鴨岸本町の名前は聞いていました。そこで生
まれた事も。しかし番地までは知りませんでした。先月の「従姉妹会」があった時、私は
兄や姉たちにその番地を聞きました。兄が19番地と言いました。次の日インターネット
の地図で生まれた所を見ました。70年前と同じ番地で嬉しくなりました。京都を除き私
の住んだ所番地や町名は変わりました。 (2010.6.13.)
Kie vivas blua birdo?
IĈIMURA Ŝiroo
「劣化した政治修復を」と題する政治部長氏の文章(6/3・東京)を「もうふさわ
しい首相や政党は必要ない」と読み違えた。よく見たら「ふさわしい」ではなく
「ふわふわした」だった。世論調査の定番に「誰が首相にふさわしいか」という
のがつきものだが、昔、小泉、今、枡添。小泉氏にしろ枡添氏にしろ、個人的
に知っているわけでもない(マスメディアによるイメージ)。とすれば、歴史上
の人物と大差はない。聖徳太子・家康・西郷さんでもいいはず。こうした「ふさ
わしい依存症」から一人ひとりが自立することが、国民主権をいうなら、民主
主義の基本。自立した個人の連帯以外に、安保破棄を射程においた基地
問題の前進は期待できない。(注1)菅新政権は、発足前から早くも、期待値
が内閣・党ともに V 字回復した。「ご祝儀相場」などという月並みの評では理
解できない。政権交代をのぞんだ国民の願いは変わってないというのが正
確な解ではないか。「アアア、せっかく自分のとこにくるはずの票が逃げてい
った」と、参院選を前にして、はずれ馬券を握りしめていてもムダ。(注2)鳩
山さんは、沖縄・奄美群島に火をつけた。この火が「本土」に飛び火して大衆
運動が起これば、各党もついてくるだろう。リードするのは国民、政治家では
ない。その例証が沖縄のケース(反対集会の「琉球独立」の幟を見よ)。(注
3)マスメディアは、小沢氏を標的に叩き続けてきた。彼の辞任の結末は、民
主の V 字回復。これを「ひいきの引き倒し」の逆という。機密費で懐柔されて
きたマスコミ消滅の三里塚。気の毒なのは、新聞販売店。
(resumo)
Ĉefrolulo estas popolamaso ,sekvantoj
estos politikistoj. (2010.6.16)
Mesaĝo de Touko Niemi ―finante la rakonton
de Ivan IV(PRI LA VIVO DE LA RUSA CARO
IVAN IV, LA KRUELA)
TOUKO NIEMI
LA RUSA CARO
IVAN IV(3)
Kiam IvanIV estis 17-jara, oni kronis lin caro en Moskvo. Ivan
pensis, ke li estas tiom altranga, ke homoj ne estis siaj
proksimuloj, sed Dio. Sube estis formikejo, kion Ivan povis facile
detrui. Al li ne estis grava afero, kion ĉi tiuj homoj pensis. Grava
afero estis kion la dia patro pensis. La ĉiela patro lasis lin
kompreni, ke li rajtas fari kion li volas. Ĉaso , trinkado kaj
diboĉo interesigis lin pli ol ŝtataj aferoj. Li ege ĝuis doni
malĵustan strafon kaj doni honorarion nemerititan. Li ne
ŝatis ,ke homoj venis peti helpon de caro kontraŭ subigo de nobloj.
La 3-an de junio 1547 venis 70 homoj al li por peti helpon. La
caro fariĝis kolera kaj lasis ligi iliajn manojn malantaŭ la dorso.
Poste li versis boliĝantan Brandon sur iliajn kapojn kaj bruligis
per kandelo ilian hararon kaj barbon. Poste oni ordonis tiujn
malfefiĉulojn sin malvestiĝi kaj sin meti sur teron. Intertempe
kiam la caro pensis, kiel oni povus mortigi ilin torturante. Sed
en tiu momente venis kuriero rajdante el Moskvo kaj sciigis, ke la
granda sonorilo de kremlo estis falinta sen videbla kaŭzo. Tuj la
caro komandis venigi ĉevalon kaj komencis rajdi al Moskvo.
Liberigitaj oferoj tuj forkuris kaj dankis sian Dion,kio aranĝis
falon de sonorilo. (Daŭrigota)
ふぃんらんどにっき
2010年6月12日(土)
真下蕗子
(メールから)
皆様、お変わりなくお元気でお過ごしのことと思います。
私たちは、1 週間前にイマトラに戻って来ました。
今でも、ホテルの11階のベランダから朝夕眺めていたゴールド・コーストの海岸が眼
に焼きついております。ホテルの東側には太平洋、西側には山脈。太陽は海から昇り、
北を通って西の山並みの背後に5時ごろ沈みますが、その神々しい夕焼け!やしの
並木には、赤、黄、青の鮮やかな色をして大声をあげて飛んでいたオウムたち!
ゴールド・コーストに滞在中、ブリスベンに1日、シドニーに3日行って来ました。どこに
行っても道路には、ごみもいたずら書きもなくとてもきれいでした。シドニーのガイドさ
んによりますと、町を汚すと高い罰金をとられるからだそうです。また、オーストラリア
には、160ヵ国からの移民が住んでいるそうですが、目立った民族対立もなくとけあっ
ているような感じを受けました。それは、お互いの文化を守るために細かな規則があ
って、それを守らないと罰金だそうです。洗濯物をベランダに干すと35000円の罰金
(10年ぐらい前)と言う風に、罰金によって秩序が保たれている国であるという印象を
持ちました。
さて今回は、シドニーに出発の日の前日、私はひとりで海岸通りを歩いてホテルに帰
る途中、テラス・レストランへの入り口が少し高くなっているのにきずかず、転んでしま
いました。左のこめかみの辺りに1cmぐらいの傷でしたが、深かったのでしょう、血が
ポタポタと落ち、数人の人がそばに駆け寄ってくださり助けてくれました。ホテルに帰っ
て、医者に行き3針縫いました。
トウコは、シドニーでバスから降りるときに右足のふくらはぎを痛め引きずって歩いて
いました。医者に行ってレントゲン撮影をしましたが、骨には異常は無く、数日後には、
ほとんど良くなりました。
また、彼は風邪を引き、咳が出るので、また医者に行きましたら、気管支炎になりかか
っているとのことで、薬を貰って帰って来ました。
彼は、まだ薬をのんでごろごろしています。私もうつらないようにと細心の注意をはら
っていましたが、とうとう、4日前に咳のために医者に行きました。二人とも咳は止まり
ましたが、まだ抗生物質をのんでいます。
こんなところが近況です。また後にもう少し詳しく旅のご報告をしたいと思っています
が・・・。とりあえず、帰国のお知らせまで。(2010.6.12.)
文化講座―調布市文化協会主催
2010年6月8日(火)14:00∼16:00 調布市文化会館たづくり10階
1)テーマ:国際共通語の歴史とエスペラント
講師:佐々木照央(てるひろ)氏
埼玉大学教養学部 教養学科ヨーロ
ッパ文化・アメリカ研究講座教授
専門:ロシア語、ロシア文学、
ロシア思想史
古代バビロニアの時代から現代にいたるまでの国際共通語の歴史とエスペラントにつ
いて!旧約聖書の「バベルの塔」の記事(参照1)にあった「バベルの塔」建設以前の
人間(多分アダムやイブも)が話していたと言う伝説的?共通語を多くの人々(哲学者
など)が古くから主にプランとして発表して来たが、数々のより具体的・実践的言語案
の中でエスペラントが最善である!
参照1 「バベルの塔」の記事 (参考 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
から抜粋 )
バベルの塔の記事は旧約聖書の「創世記」11 章にあらわれる。位置的にはノアの物語
のあとでアブラハムの物語の前に置かれている。そこで語られるのは以下のような物語
である。
かつて人間は、皆一つの同じ言葉を使い、同じように話していた。彼らは東方に移
動し、南メソポタミア地方のシンアルの地に平野を見つけて、そこに住みついた。彼ら
は石の代わりにレンガを、漆喰の代わりにアスファルトを用いることができるようになっ
た。 彼らは言った。 「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地
に散らされることのないようにしよう」 こうして人々は、天まで届く、高くて大きな塔の建
設に着手した。だが、このような人間の企てを神が見過ごすはずがなかった。神は下っ
てきて、人間が建てた塔のあるこの町を見て言った。 「彼らは一つの民で、皆一つの
言葉を話しているからこのようなことをしはじめたのだ。これでは、彼らが何を企てても
妨げられない。ただちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにし
てしまおう。」 この神の決断によって、人々は同じ言葉で話せず、相互に意思疎通を
図ることができなくなってしまった。言語による人々の統制も不可能になった。その結
果、人類は全地に散っていかざるを得なくなった。こうして人々は、この町の建設をや
めたという。 塔の建設を企て、神の怒りを買ったこの町は、バベルと呼ばれた。神がそ
こで言葉を混乱(バラル)させ、またそこから人々を全地に散らしたからである。 この物
語は、バベルの塔を建てようとした人間のおごりに対して、神が審判を下した結果であ
り、世界中に多くの言葉が存在することの理由として、しばしば語られている。 しかし、
この物語が持つメッセージは、それだけではない。 この町の名であるバベルは、古代
メソポタミアにおいて絶大な権力をふるったバビロニアの首都バビロンのヘブライ語の
形であり、アッカド語では「神々の門(バブ・イリ)」を意味した。そして、そのバビロンに
は実際に、巨大な塔がそびえ立っていたのである。この塔は、ジッグラトと呼ばれる階
段状の建造物であった。バビロンは、当時まさに神々の世界と地上とをつなぐ、世界の
中心と理解されていた。 古代イスラエルの人々は、このバビロニアのジックラトを知っ
ていた。そして、バビロンに対する強烈な批判を、この物語に込めたのである。絶大な
権力と文明を誇るバビロンは、世界の中心として人々を統治するかに見えて、実は「混
乱」の源にほかならないと。 この教訓があるにもかかわらず、人類は、いつの時代にも
巨大な建物を建てようとする。それは、建物の威容が権力の象徴と容易に結びつくか
らかもしれない。
(『図説 聖書の世界』pp. 36 - 38 月本昭男・山野貴彦・山吉智
久著 学研)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
参考文献 例えば「国際共通語の探求―歴史・現状・展望」アンドリュー・ラージ著、水
野義明訳 など
2)テーマ:ヨーロッパ連合の最新事情と言語問題
講師:イゴール・ヴァシレフスキ氏
(精神科医師、ポーランド出身、
東京エスペラントクラブ エスペラント講師
司会は 調布エスペラント会・山野裕会長 例会は
毎週日曜日(14∼16時)調布市東部公民館にて・
テキストは小林司氏(東京大学・医学博士・日本エ
スペラント学会参与・世界的シャーロックホームズ研
究家)/荻原洋子氏(元日本エスペラント学会評議
員)共著「4時間で覚える地球語エスペラント」。
「参考資料」・La Revuo Orienta/エスペラントの世界/NOVA VOJO/La Suno Pacifika/LA
STELO DE JAMAGATA/Mejl tono/La Zelkovo/Ponteto/Jen Amikoj!/AMEBRIETO/ フリー
百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等・いつも有難うございます。
Toeranoj flugas
6月13日(日)13時∼ 「新所沢コミュニティセンター別館(元 生涯学習センター)」出席者
水野、市村、池内、柴田。7月19日から21日までの常州エスペラント協会の受入態勢を話合
いました。19日の「JEI訪問」は「建物を外から見る」ことになります、それと「早稲田大学見学」
と可能なら「TEK 訪問」を追加予定です。20日は17時からバンケードを追加。次回の例会で
再確認をする予定です。エスペラント学習は HORI Jasuo 著 Raportoj el Japnio 13
1.Malhele Komencig^is la Nova Jaro を音読し日本語訳しました。次回例会は7月4日(日)13
時から (柴田)
内田雅智さんから、6月14日付け「私もネットで見る事が出来ますので、
紙での会誌は不要です。皆様によろしく。」との手紙が届きました。(柴田)
7月19日(月)
∼20日(火)に所沢の姉妹都市(中国)の常州から5人ノエスペランチストがやって来ます。
20日の会合(時間未定)には皆さんで歓迎しましょう。(水野)
次
回 例
会 の
お 知 ら
せ
所沢例会は第1日曜日の7月4日(日)13:00∼「新所沢コミュニティセンター別館(元生涯学
習センター)」
TOER 所沢エスペラント会
連絡先 柴田 健
ホームページ
http://www011.upp.so-net.ne.jp/erm1981/ e メイル sibatakenn2007@yahoo.co.jp
<振替口座> 00570-9-8121(年会費 2000 円) 口座名「武蔵野エスペラント会」 <他銀行から
の振替口座>、銀行名:ゆうちょ銀行、金融機関コード:9900、店舗:059、店名:〇五九(ゼロゴキュ
ウ店)、預金種目:当座、口座番号:0008121、受取人名(カナ):ムサシノエスペラントカイ