モーツァルトの交響曲について ウルリヒ・ライジンガー博士 国際モーツァルテウム財団 調査研究部門ディレクター 2015 年 3 月 6 日 於 東京 YWCA 会館カフマンホール 日本モーツァルト協会創立 60 周年記念事業特別講演会 目 次 序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 1. 西ヨーロッパ大旅行およびロンドンとオランダのコンサート生活における交響曲・・・・ 1 2. モーツァルトの最初の交響曲K16・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2 3. 最初のウィーン旅行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3 4. ウィーンの交響曲におけるメヌエットとトリオ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4 5. 1772 年―1774 年のモーツァルト。交響曲への新たなる接近・・・・・・・・・・・・・ 6 6. モーツァルト:その聴衆、その音楽家たち・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8 7. モーツァルトの交響曲の遺産・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9 8. 今日におけるモーツァルトの交響曲・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10 この小冊子は、2015.3.7~8 に開かれた交響曲全 45 曲演奏会の前日に行われた 日本モーツァルト協会 創立 60 周年記念事業 特別講演会の講演録であります。 また、当日の通訳ならびに本小冊子の翻訳は、一橋大学名誉教授 諏訪 功先生に お願いしました。 序 ヴォルフガング・アマデ・モーツァルトの音楽は、今日、世界中の人々を結びつけています。ち ょうど 250 年の昔を振り返ってみますと、モーツァルト一家は、1765 年初頭のその当時、ロンドン に滞在していました。合計 15 ヶ月に及ぶイギリスの首都でのこの長期滞在は、若いモーツァルトに 長期にわたる印象を残しましたが、とりわけヨーハン・クリスティアーン・バッハは、モーツァル トに強い影響を与えました。ヨーハン・ゼバースティアン・バッハの末息子であるこの音楽家との 出会いのおかげで、モーツァルトは彼にとってまったく未知であったひとつの新しいジャンル、す なわち交響曲に、作曲家として取り組み始めたからです。1765 年から 1788 年まで、モーツァルトが 交響曲を少なくとも一つ、作曲しなかった年はほとんどありません。したがって、モーツァルトの 交響曲を手がかりに、彼の作曲家としての発展の全体を、いわば映画の高速度撮影のように追うこ とができます。同時代のお手本の模倣者から出発しますが、やがてはその後の世代にとっての規範 となり、今日まですべての人々を魅了してやまない古典的作曲家への発展とつながる道程です。 日本モーツァルト協会は、「新モーツァルト全集」の枠内で楽譜約 1200 ページにも及び、研究の 最新の段階に鑑みて信頼すべきものとみなされている 45 の交響曲をすべて、今週末に 6 回のコンサ ートで聴くという壮大な機会を提供してくださっています。協会はこれによって、その創立 60 年を 祝して、会員全員と日本のモーツァルト愛好家のみなさんに、すばらしい音楽のプレゼントで喜び を与えようとしています。世界中には約 100 のモーツァルト関係の団体があり、それぞれの活動を 通じてモーツァルトの作品を現代に生かし、さらに広めることを目標に掲げています。この際、コ ンサートの枠内での、あるいはモーツァルトゆかりの場所の維持と管理などにおける、学術的ない し芸術的なモーツァルトへの取り組みが、中心的な役割を果たしていることはもちろんです。1955 年、すなわち偉大な作曲家の生誕 200 年祭の前年に創立された日本モーツァルト協会は、世界で最 も古く、もっとも活発に活動しているモーツァルト団体のひとつです。私は、モーツァルテウム総 裁ヨハンネス・ホンズィヒ=エルレンブルク博士から、敬愛する日本モーツァルト協会会長の三枝教 授に、国際モーツァルテウム財団の心からのお祝いのことばを申し上げるようにと申し付かってい ます。ここであらためて日本モーツァルト協会の記念日をお祝いし、今後のさらなるご成功をお祈 り申し上げる次第です。 1. 西ヨーロッパ大旅行およびロンドンとオランダのコンサート生活における交響曲 神童ヴォルフガング・アマデ・モーツァルトは、すでに4歳でピアノ演奏を学び、そのすぐ後、 ヴァイオリン演奏も覚えました。彼の最初期の作曲は、彼の5歳の誕生日のすぐ後の時期に由来し ています。ヴォルフガングおよび彼と同じように才能のあった姉マリア・アンナ(ふつうナンネル ルと呼ばれていました)が登場したミュンヒェンとウィーンへの旅行は、父親レオポルト・モーツ ァルトをして、 「神がザルツブルクに生誕せしめたもうたこの奇跡」を全世界に知らせ、紹介しよう と決心させます。1763 年 6 月 9 日、モーツァルト一家は、故郷の町を後にし、ドイツとフランスを 経由してイギリスへ向かい、そこからさらにオランダに旅行します。若いモーツァルトとその姉は、 この旅行中、多くの自分たちのコンサートに出演しただけでなく、コンサート生活にも活発に参加 します。彼らの旅行中、モーツァルト家の人々はあらゆる種類のコンサート活動を体験しました。 貴族の宮殿には、職業的な、常勤のオーケストラが活動していました。そしてまた、とりわけ大き -1- な都市には、演奏して報酬をもらう非常勤の自由身分の音楽家たちがいましたし、音楽愛好家たち が一緒に演奏するアマチュア・オーケストラもありました。入場料を払えば、誰でも入れるコンサ ートがあり、招待された人だけが入れる別種のコンサートもありました。交響曲は一握りの数の弦 楽奏者と、必要な場合にはフリュートに取り替えられた二人のオーボエ奏者によって演奏されるこ ともありましたし、60 人の演奏家から成る大オーケストラで演奏されることもありました。しかし これらすべての演奏に共通したものが一つあります。それは音楽をすることに対する熱狂と、新し い作品に対する、決して充足されることのなかった欲求と関心です。 オーケストラのコンサートでは、コンサートの始めと終わりに、時にはまた第 1 部の終わりまた は第 2 部の始まりに、オペラの序曲あるいは交響曲を演奏するならわしになっていました。時には、 交響曲が分割演奏されることもありました。つまりコンサートの始めに第 1 楽章がすえられ、残り の楽章は後になってやっと演奏されたのです。交響曲の間にコンチェルトが鳴り響きました。ここ ではオーケストラの団員、またはモーツァルト家の人々のような外来音楽家が演奏を披露しました。 オーケストラ用の作品のほか、オーケストラ伴奏でアリアが歌われることもあり、ピアノ独奏のた めの作品も演奏されることがありました。当時、おそらく存在していなかったであろう唯一のもの は、ヴォルフガング・アマデ・モーツァルトもしくは他の作曲家の交響曲だけが、次々と演奏され るようなコンサートです。 2. モーツァルトの最初の交響曲K16 モーツァルトはたしかに神童ではありましたが、ザルツブルクでは、たぶんあまりオーケストラ 作品を聴く機会に恵まれなかったはずです。と言いますのも、レオポルト・モーツァルトが 1743 年 からヴァイオリニストとして、1763 年からは副楽長として所属していたザルツブルクの宮廷オーケ ストラは、主に教会音楽の場面で活動していたからです。大司教が宮廷で催していたコンサートに は、この子は例外的に、つまり彼自身がソリストとして演奏に参加するよう要請された場合だけ、 入場を許されたはずです。したがって、ザルツブルクの音楽家たちが 1750 年代から 1760 年代にか けて作曲した数多くの交響曲は、若いモーツァルトにはまったく感銘を与えず、彼自身の交響曲に はっきりと目に見えるような跡を残すこともありませんでした。従ってまた、彼自身の父親の交響 曲さえも―合計 70 曲以上の交響曲作品がレオポルト・モーツァルトの作品として証明されています が―直接にお手本として役立つことはありませんでした。 ヴォルフガング・アマデ・モーツァルトにとって、まったく新しい状況がロンドンで生まれまし た。ヨーハン・クリスティアン・バッハやカール・フリードリヒ・アーベルのような音楽家が、こ の幼い子どもをかわいがりました。彼らが若いモーツァルトに正式な作曲法の授業をおこなったこ とはおそらくないでしょう。しかし彼らは、自分の作曲工房に彼を自由に出入りさせてくれたので す。小さなヴォルフガングは、まだ公刊されていなかったカール・フリードリヒ・アーベルの交響 曲を書き写すことさえ許されました。若いモーツァルトが二人の先生の様式に完璧に順応すること ができたことは、次のことからもわかります。つまりモーツァルトが書き写したアーベルの交響曲 は、8 歳か 9 歳の子どものたどたどしい筆跡のせいで、自筆譜であると考えられ、モーツァルトの全 作品の目録であるケッヒェル作品目録にも、番号を与えられてしまったのです。1907 年になってや っと、この誤り、つまり変ホ長調の交響曲 K16 が、ほんとうはカール・フリードリヒ・アーベルの 作品であることが明らかにされました。 -2- 交響曲 K16 が、今日ではモーツァルトの最初の交響曲であるとされています―そしてこれは驚く べき曲です。若いモーツァルトは、楽章の連続―速く、ゆっくりと、速く―に関しても、また楽器 編成―オーボエ 2、ホルン 2、および弦楽器―に関しても、彼の時代の標準に従っています。しかし ユニゾンで奏でられるフォルテと長い和音で響くピアノとの交代を伴う第 1 楽章の主要テーマは、 まだ萌芽の段階ではありますが、すでにモーツァルトを後に同時代の作曲家から際立たせる特徴を 示しています。それは音色へのいわば夢遊病者的とも言うべき理解と管楽器に対する特別な愛着で す。アンダンテの楽章は短調に移り、ただ 1 回の短いフォルテへの爆発を除いて、ずっと静かに演 奏されなければなりません。特別な魅惑はしかし、つぎのことから生まれます。高音を受け持つ弦 楽器が、この楽章では絶えず 16 分 3 連音符を演奏するのに対し、低音楽器はそれに対抗して通常の 16 分音符を対比させるのです。第 1 楽章では偶数の拍子になっていますが、終楽章は 8 分の 3 拍子 でメモされています。1760 年代と 1770 年代の交響曲の多くの終楽章と同じく、ここでは民衆音楽と 舞踏音楽から霊感を得ています。これがモーツァルトがその生涯で書いた最初の交響曲であるなど とは、ほとんど信じられないほどです。 実際、かすかな疑いが湧き上がってきます。というのもモーツァルトの姉も思い出として、ヴォ ルフガングが最初の交響曲を書いたとき、それは家族全員にとって特別な出来事であったと記して いるからです。ナンネルル・モーツァルトが後に報告していることですが、父親のレオポルトは 1764 年の 8 月と 9 月、重病にかかり、モーツァルト一家は当時まだロンドンの郊外だったチェルシーの 別荘に引っ越さなければなりませんでした。 「お父様が重病にかかって寝ておられたとき、わたしどもはピアノに触れることが許されませ んでした。そこで、なにか仕事をしようと、弟はその最初の交響曲、すべての楽器、トランペッ トとティンパニを伴う作品の作曲を始めました。わたしは弟のそばに座って、彼のために楽譜を 書き写さなければなりませんでした。彼が作曲し、わたしが書き写しているあいだ、彼はわたし に言いました。ワルトホルンにすこし仕事をさせるようにしてほしい、と。」 これらの記述は余りにも正確なので、それが正しいことはほとんど疑えません。しかし変ホ長調の 交響曲 K16 にはトランペットもティンパニも登場しませんし、ホルンにもあまり重要な出番は与え られていません。従って K16 が、モーツァルトの最初の交響曲そのものではなく、モーツァルトか ら我々に偶然に伝えられた最初の交響曲に「過ぎない」のではないかという説には、いろいろとも っともな理由があるのです。 3. 最初のウィーン旅行 モーツァルトの若いころの交響曲のうち、いくつかが失われたということは、本当に考えられる ことなのでしょうか。レオポルト・モーツァルトが 1768 年 9 月にウィーンのヨーゼフⅡ世に書簡を 送り、オペラ「ラ・フィンタ・センプリーチェ」の上演を妨害した謀略について苦情を申し立てた とき、彼はこの書簡に「この 12 歳の少年が 7 歳のときから作曲し、自筆譜の形で示しうるすべての 作品のリスト」を添付しています。未刊の器楽曲のなかではガリアティアス・ムジクム K32 が最初 にあがっていますが、これは若いモーツァルトが 1766 年、オラーニエン王子のためにハークで作曲 した混成曲(Quodlibet)です。その次にすぐ、 「13 の交響曲、それぞれヴァイオリン 2、オーボエ 2、 -3- ホルン 2、ヴィオラとコントラバスで演奏される」が続きます。自筆譜に書かれた記述、および元と なる状況などの証拠に基づき、疑いもなく 1768 年秋以前に書かれたと思われるすべての交響曲を想 定してみますと、かなり正確に、あす、第 1 回目のコンサートで皆さんがそのほとんどをお聞きに なる作品が浮かんできます。すなわち K16, K19, K19a, K22, K43, K45, K45a, K45b そして KAnh216 です。これで 9 曲です。すくなくとも 13 の作品といわれているのですから、4 つ足りません。その うちのいくつかは、今日では失われてしまったザルツブルクの宮廷の音楽収集室に当時はおそらく まだあったようで、そのことは楽譜出版社ブライトコップ&ヘルテル社の記録から知ることができま す。この出版社はその当時、モーツァルトの姉とザルツブルクの楽長ルイジ・ガッティから、ザル ツブルクにあるヴォルフガングの作品のリストを送ってもらっていたのでした。これらの行方不明 になった作品の一つあるいは他のものが、もう一度発見されることも、原則的にはありえないこと ではありません。というのもブライトコップのリストに記されている交響曲 K19a, K45a, K45b およ び KAnh216 に関しても、20 世紀に入ってやっと、その写譜が知られるようになったばかりだからで す。 モーツァルト一家は 1766 年 11 月 29 日にザルツブルクへ戻ります。その 10 ヵ月後、1767 年 9 月 11 日に、一家は改めてまた旅行に出発します。今度の行く先はウィーンです。ウィーン旅行の正確 な目的は知られていません。出発の時点で、まだ具体的な作曲依頼があったわけではないからです。 旅行は幸運の星に照らされたものではありませんでした。ウィーンでは 1767 年秋、天然痘が流行し、 二人の子どもはそれにひどく感染したからです。女帝マリア・テレジアは親切でしたが、音楽に対 する関心を大幅に失っていました。コンサートにも行かず、オペラの上演を訪れることもありませ んでした。5 年前、モーツァルトとその姉を神童として賛美した多くの作曲家たちは、彼を競争相手 とみなして距離を置くか、モーツァルト一家の不利益をはかろうとすることさえありました。1768 年 12 月 7 日の孤児院新教会の献堂式用ハ短調ミサ曲 K139 を除いて、モーツァルトは長いウィーン 滞在期間中、ごく少数の作曲依頼を受けただけでした。それだけにますますモーツァルトは、ウィ ーンでほかの巨匠たちの音楽を研究する機会に恵まれたわけです。若い作曲家の世代がウィーンで 確固とした地歩を築いていました。そのなかにはヨーゼフ・ハイドン、カール・ディッタース(彼 はのちに、貴族のタイトルであるフォン・ディッタースドルフを贈られます)およびヨーハン・バ ティスト・ヴァンハルなどがいました。特徴的なことは、これらの音楽家の多くが、オーストリア、 ボヘミア、あるいはハンガリアの貴族のところで定職を得ていたことです。音楽家たちは夏を、そ れぞれの貴族の領地で過ごす一方、冬にはたいていウィーンに戻ってきて、そのためウィーンでは その時期、きわめて活発な音楽生活が展開されました。若い音楽家たちのこの世代は、次第に全ド イツで、 「音楽におけるウィーン風の趣味」が語られるようになることに関して、多大の寄与をなし とげました。この「ウィーン風の趣味」なるものが、今日我々がウィーン古典主義と呼んでいるも のの最も重要な根幹の一つであり、音楽の三つの星ヨーゼフ・ハイドン、ヴォルフガング・アマデ・ モーツァルトおよびルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによって作られたあの音楽様式なので す。 4. ウィーンの交響曲におけるメヌエットとトリオ ”Sinfonie(シンフォニー=交響曲)”という単語は、ギリシャ語の”symphonein”から導き出 されます。これは取りも直さず「ともに響く」という意味を持っています。ハインリヒ・シュッツ -4- の”Symphoniae sacrae“(聖なるシンフォニー)が示しているとおり、声楽曲も昔はシンフォニー と呼ばれることがありました。18 世紀の半ばごろになってやっと、今日の理解が次第に広まってゆ き、交響曲はそのとき以来、複数の楽章から成るオーケストラのための作品という意味になりまし た。協奏曲とは違って、交響曲では独奏者が広範に活躍することはありません。またバッハやテレ マンが磨き上げた昔のオーケストラ組曲は、主として舞踏曲が中心をなしていましたが、交響曲は そうでない、という点で区別されます。 この時期にも、 「速く、ゆっくりと、速く」という 3 つの楽章から成る交響曲の支配的な形式が作 られつつありました。これについては先ほどお話ししたとおりです。しかし非常に異なる諸形式の 交響曲が並存していました。モーツァルトにとっては 2 つの革新が重要になります。第 1 楽章に先 立つ長い導入部―これについては後ほど「交響曲リンツ K425」との関連で、手短にお話しします― および 3 楽章の交響曲から 4 つの楽章の交響曲への拡張です。 モーツァルトがウィーンに到着するまで、ヨーゼフ・ハイドンは約 40 曲の交響曲を作曲していまし た。これらのうち約 3 分の 1 が 3 楽章、3 分の 2 が 4 楽章のものです。1765 年ごろから、ハイドン およびほかのウィーンの作曲家たちの場合、ほとんどもっぱら、4 つの楽章を持つ交響曲が優勢にな ります。追加された楽章は、舞踏の楽章:トリオを伴うメヌエットです。 メヌエットはフランスの「太陽王」ルイ 14 世の宮廷で創案され、ヴェルサイユ宮殿の規範的な影 響もあって、全ヨーロッパの貴族のもとで普及しました。元来は舞踊のための楽章であったという ことから、メヌエットが明確に分節されていることの説明がつきます。メヌエットと結びついてい るステップの連続のため、すべてのフレーズは、偶数の小節を含んでいなければなりません。個々 のメヌエットの楽章は非常に短く、48 小節を越えることはめったにないので、大抵はすぐに、近い 親戚関係にある調性の第 2 のメヌエットが演奏されました。しばしば、第 2 のメヌエットでは、演 奏楽器の数が減らされましたが、これは、今演奏されているのが「単に」つなぎにあり、やがてこ れに第一のメヌエットがもう一度続けて演奏されることを示すためでした。フランスではしばしば、 3 つの楽器だけが、この第 2 のメヌエットを演奏しました(たとえばオーボエ 2 とファゴット)。そ れゆえ、人々はこれをトリオ(三重奏)と呼んだのでした。たとえば K183 のト短調交響曲のトリオ もこの伝統にさかのぼることができます。ここではオーボエ 2 とファゴットが演奏し、追加的にホ ルン 2 が演奏します。トリオという名称は後に、多くの交響曲において楽器編成がメヌエットに比 べてごくわずかしか減らされないときでも、あるいはまったく減らされないときでも、あいかわら ず維持され続けます。 交響曲におけるメヌエット楽章の使用は、北ドイツにおける同時代の音楽理論家たちによって、非 常にきびしく批判されました。1766 年のライプツィヒの音楽雑誌には、こう記してあります。 「交響曲におけるメヌエットは、我々にはつねに、男の顔にお化粧用のつけぼくろを貼ったよ うに思われる。メヌエットは作品に伊達男めいた外見を与える。相互に関連しあった真剣な 3 つ の楽章の途切れのない連続にこそ、交響曲の最も高貴な美が存するのだが、その連続が損なわれ るように思われる。 」 この評価は、北ドイツで展開されてきた音楽美学から、ほとんど必然的に生まれたものでした。こ の美学においては、交響曲が器楽の最高の形式だったのです。ヨーハン・ゲーオルク・ズルツァー -5- が書いた「芸術の一般理論」では、1774 年、次のように言われています。「交響曲は、大いなるも の、荘重なもの、崇高なものの表現に適している。」 「舞踏を伴わない舞踏音楽」としてのメヌエッ トは、交響曲には不適格であると見なされたのでした。 しかし南ドイツとオーストリアには、この批判では顧慮されていない別な伝統が当てはまりまし た。というのも、ここでは 5 つまたはそれ以上の数の楽章を備え、そのうちふつう、少なくとも 2 つの楽章がメヌエットであるセレナーデという伝統が生きていたのです。したがってウィーン趣味 の 4 楽章の交響曲は、まじめな 3 楽章の交響曲にさらに舞踏の楽章を付け加えることによって、自 動的に出来上がったものではありませんでした。むしろ「速く、メヌエット、遅く、メヌエット、 速く」という楽章の連続を持つ 5 楽章のセレナーデから二つのメヌエットのいずれかをカットする ことによっても、4 楽章の交響曲は成立しえたのです。これによって、4 楽章の交響曲におけるメ ヌエットが、大抵は 3 番目におかれる、しかし時には第 2 番目にもおかれる理由が説明できます。 モーツァルトは終始一貫してメヌエットを第 3 楽章として用いています。 この二つの理論的なモデルは、モーツァルトの場合、具体例を引いて実証することができます。 時々、モーツァルトはザルツブルク時代の 3 楽章の交響曲に、後からメヌエットを付け足していま す。いちばん有名なのは 1779 年の変ロ長調 K319 でしょう。この曲を印刷に付するため、モーツァ ルトはウィーンでメヌエットの楽章を追加作曲しました。逆に 18 世紀にはモーツァルトのザルツ ブルク時代のセレナーデのさまざまなものが、いろいろな楽章を省くことによって、交響曲として も紹介されています。モーツァルトは 1770 年から、4 楽章形式をはっきりと優先していますが、3 楽章形式も決して完全に捨て去ったわけではありません。それは 1786 年の交響曲「プラハ」K504 がなおも示す通りです。 5.1772 年-1774 年のモーツァルト。交響曲への新たなる接近 ザルツブルクの大司教は、モーツァルト一家に対し、1769 年から 1771 年の間、イタリアへ行くこ とを 2 回許可しただけでなく、自分のお金で旅行を援助してもいました。イタリア旅行の間、モー ツァルトはイタリア様式でたくさんの交響曲を作曲し、またモーツァルト一家はイタリアで他の作 曲家たちの作品をも、印刷や写譜の形で手に入れました。これらの貴重な曲をすべて、大司教のた めに演奏しようという計画は、実を結びませんでした。 1771 年 12 月 15 日、レオポルトとヴォルフガング・モーツァルトはザルツブルクに戻ってきまし たが、その翌日、ジギスムント・フォン・シュラッテンバッハ大司教は死んでしまったのです!半 年後、ヒエロニュムス・コロレードが大司教に選ばれました。後世の人々の目には、コロレードは モーツァルトをザルツブルクから追い出した大司教として、芳しからぬ評判を伴いながら映ってい ますが、この評価は正しくありません。というのもコロレードは啓蒙精神に富み、芸術に理解のあ る支配者であり、その上、自分自身も腕のいいヴァイオリニストだったからです。コロレードがそ の職についたとき、大司教区は経済的に破綻寸前の状態でした。前任者のシュラッテンバッハがあ りもしないお金をやたらとばらまいたからでした。コロレードは虚飾を嫌い、厳格な緊縮政策を採 用しました。この緊縮政策と彼の教会改革の努力、たとえば祭日の数を減らすことなどがあいまっ て、彼は民衆の間で不人気になってしまったのです。 コロレードは若いモーツァルトの資質を十分に評価するすべを心得ていました。彼はモーツァル トをすでに 1772 年秋、有給のコンサートマスターに昇進させましたが、これには、宮廷のために作 -6- 曲を行うようにという要請が結びついていました。コロレードは教会音楽を制限し、礼拝の長さは 45 分を越えてはならないとされ、その結果、長大なミサに代わって、いまや「短いミサ」だけが実 施可能になりました。その代わり、器楽曲を作曲し、宮廷の音楽家たちと演奏する多様な可能性が 開けました。この領域に属するのが、モーツァルトの 5 曲のヴァイオリン協奏曲、そしてまたモー ツァルトが 1772 年と 1774 年の間に書いた約 15 曲の交響曲です。この時期の始まりには、K128-130 および K132-134 のシンフォニーがあり、それらには 7 楽章のディヴェルティメントによる中断があ るだけです。それ以前、モーツァルトはわずか 4 ヶ月のうちに、続けて 6 曲のシンフォニーを作曲 したことはありませんでした。ここで、これらの作品が初めから関連のあるグループとして構想さ れていたのではなかったか、という疑問が浮かび上がってきます。 交響曲、弦楽四重奏曲、ピアノ・ソナタを 6 曲のグループにまとめ,それらをひとつの Opus(作 品群)とすることは、当時はごく普通のことでした。多くの作曲家は、非常に類似した 6 つの作品 を一つのグループにまとめることで満足していましたが、ハイドンとモーツァルトは、ある特定の ジャンルが示す多様性を、一つの Opus(作品群)のなかで究めつくすことに、絶えず関心を抱いて いました。そこでモーツァルトは 6 曲の交響曲に、6 つの異なる調性を選びました。ハ長調、ト長調、 ヘ長調、変ホ長調、ニ長調、そしてイ長調です。オーケストラの編成も同じく可変のものとされて います。最初の 2 曲のシンフォニー、K128 と 129 だけが、オーボエ 2、ホルン 2 および弦楽奏者と いう標準編成を示していますが、3 曲目と 4 曲目の交響曲、すなわち K130 と K132 は、―モーツァル トの場合はじめて―ホルンを 4 本使っています。5 曲目、K133 の交響曲では 2 本のトランペットが 加わります(ティンパニはなし)。6 曲目、K134 ではオーボエがフリュートに代えられます。5 曲目 の交響曲ではさらにソロ・フリュートがゆっくりした楽章において用いられ、一方、オーボエは沈 黙を守ります。18 世紀では、―今日と異なり―このために新しい演奏者は必要ありませんでした。 当時、フリュート奏者にはオーボエも演奏できることが要求され、その逆もまた要求されていたか らです。 それに続く交響曲のグループの自筆譜も、同じように保存されてきているのですが、それらの正 確な成立の日付は、今日もはや確実には突き止められません。記入された元来の日付が読めなくさ れているからです。これが行われたのは、あるいはモーツァルトの死の直後、コンスタンツェ・モ ーツァルトが 15 の交響曲をウィーンの音楽業者ヨーハン・トレークに売却したときだったのかもし れません。コンスタンツェは作曲の日付を消すことで、これらの交響曲が既にもう 20 年も前の作品 であることを、トレークに悟らせないようにしたかったのかません。しかしこのような小細工のせ いで、トレークはただ好奇心をかきたてられただけかもしれませんね!ハ長調 K162 で始まり、二長 調 K202 で終わる 9 つの作品グループは、今日の我々の知るところによれば 1773 年と 1774 年に成立 しました。そこではト短調 K183 とイ長調 K201 が抜きんでています。この二つを対照的な作品ペア ーと名づけることができるでしょう。モーツァルトが短調で書いた最初のオーケストラ作品である 交響曲 K183 は、粘り強く長く保たれる管楽器奏者の音符で始まりますが、それは弦楽奏者たちの同 時のシンコペーションによって、切迫した性格を帯びます。陰鬱なト短調は、数小節の後にもう、 二長調に転調し、ピアニシモに弱まって響き止みます。すべての楽器が一瞬響きを止めた後、最強 音で変ロ長調の第 2 テーマが鳴り響くのです。ちなみにミロス・フォアマンは、ピーター・シェー ファーの舞台劇「アマデウス」の映画化に際して,ある場面でこのサプライズ効果を再現し、多大 の成功をおさめました。強烈なコントラストによってト短調交響曲の印象が特徴付けられるのに対 -7- し、イ長調交響曲の第 1 楽章においては、すべてが流れるように絡み合います。第 1 楽章の場合と 似た対比は、メヌエットの楽章においても見てとれます。ト短調交響曲の厳しいメヌエット楽章に 対し、イ長調交響曲ではフランス風の優雅な楽章が対峙しています。ト短調交響曲の終楽章がほと んど悲劇的に自らの中をめぐっているのに対し、イ長調交響曲の終楽章は喜ばしく外へ向かって開 かれます。ただ一度、作曲家としての履歴のほんとうの終わりごろ、モーツァルトはもう一度、こ れと似た対比的なペアーの作品を作曲しました。 「大ト短調交響曲」K550 と K551 のジュピター交響 曲です。 6.モーツァルト:その聴衆、その音楽家たち モーツァルトは 1778 年 2 月 7 日付けの父への有名な書簡で、「どんな種類の、どんな様式の作曲 でも、ぼくはまあ大体[…]身につけ、真似できる」ことを、自分の特別な強みであると述べてい ます。自作を作曲する際、人々の聴き手としての期待を、どれほど正確に考慮に入れていたか、そ れは K297 のパリ交響曲から特にはっきりと知ることができます。初演の成功について、モーツァル トは父につぎのように報告しています。 「最初のアレグロのすぐ真ん中のところに、きっと受けるだろうと思っていたパッセージがあ りました。聴衆はうっとりし、たいへんな拍手でした―[...]それがどのような効果をあげる だろうかが、ぼくはわかっていたので、そのパッセージを最後にもう一度とりあげました[...] 。 アンダンテも大うけでした。最後のアレグロはまた特別でした...ここでは全員が最後のアレグ ロを、最初のときと同じく、全楽器を動員して、そして大抵はユニゾンで始めると聞いていた ので、ぼくはここをヴァイオリン 2 本だけで、8 小節だけを弱音で始め―その後すぐフォルテに しました―。聴衆は(ぼくが思ったとおり)弱音のときは『シーッ』と言いました―その後す ぐフォルテ―フォルテを耳にするのと拍手をするのが[聴衆には]同時でした。」 モーツァルトが聴衆の期待と自分とのたわむれについて、こんなふうに言葉で言い表したことは めったにありません。モーツァルトは音楽上の効果、受けについて、確かな嗅覚を持っていました。 ウィーンで過ごした年月のあいだ、交響曲は副次的な役割を演じていただけでした。というのも、 彼が主催した演奏会では、彼はむしろ独奏者としてピアノ協奏曲を携えて登場していたからです。 したがってこれらの演奏会で鳴り響いた交響曲も、常に彼の作品とは限りませんでした―しばしば 彼はヨーゼフ・ハイドンの作品をとりあげました。 モーツァルトは、交響曲が必要になると、驚くほどのスピードで仕事をしました。レオポルト・ モーツァルトがザルツブルクにおける祝事のために注文した「ハフナー交響曲」K385 は、14 日足ら ずの時間で完成しました。しばらくしてザルツブルクから送り返された総譜を手にしたとき、モー ツァルトは父親にこう書いています「新しいハフナー交響曲を見てぼくはすっかりびっくりしまし た。-ほかにもう言葉を知りません。この曲は大受け間違いなしです。」この点に関しては、1783 年の四旬節のころ、ウィーンのコンサートでこの交響曲を演奏したとき、彼は自分で確かめること ができました。この年、1783 年秋に、数日間、リンツに滞在したとき、モーツァルトは「あたふた と」1 曲の新しい交響曲、つまり有名な K425「リンツ」を作曲しました。本当に短い時間しかモー ツァルトにはなかったのに、彼が書いたのは 4 楽章の交響曲で、3 楽章の交響曲ではありませんでし -8- たし、第 1 楽章にはゆっくりした導入部をつけて、さらにより多くの重みを与えました。 ウィーン時代のモ-ツァルトの交響曲は、なかんずく管楽器奏者に割り当てられる特別な役割に よって、同時代の人々のものから区別されます。ピアノ協奏曲において、彼はいうならば組織的に、 管楽器の響きの可能性、とりわけようやくオーケストラにも用いられるようになってきたクラリネ ットの響きの可能性を探求したのです。彼自身の演奏会のために、彼はウィーンの最高級の音楽家 と契約しました。しかし最高の音楽家でもまだ本当に最高でなかったことがよくあり、モーツァル トの「大ト短調交響曲」が、彼の生前に演奏されたときの報告からもわかります。この報告はチェ コの音楽学者ミラーダ・ヨナショヴァさんが、つい数年前に発見したものです。 ボヘミアの作曲家ヨーハン・ヴェンツェルは、ライプツィヒのホーフマイスター&キューネ版社 の依頼で、モーツァルトの交響曲のいくつかをピアノ版のスコアにまとめることになり、その関連 で 1802 年、モーツァルトの死後 10 年以上あとに、そのト短調交響曲はまだほとんど人々に知られ ていないと述べ、つぎのように語っています。 「プラハでリハーサルが行われた。しかし管楽器はわが国はかなり上手なはずなのに、どうも うまくいかなかった。そしてウィーンで、亡くなったモーツッァルト自身から聞いたが、ヴァ ン・スヴィーテン男爵のところでこの曲を練習させたとき、実に下手な弾き方だったので、彼 は演奏の最中、部屋から出てしまわずにはいられなかったとのことだ。」 7.モーツァルトの交響曲の遺産 インターネットと CD の時代の今、モーツァルトの作品は誰でも容易に、いわばボタンを押すだけ でアクセスできます。モーツァルトの時代は、事情が異なっていました。というわけは、我々があ す,あさってと聴く 45 曲の交響曲のうち、そもそも 3 曲だけが、すなわち「パリ交響曲 K297、ハ フナー交響曲 K385,および K319 の変ロ長調の交響曲だけが、彼の生前、印刷されたに過ぎないから です。他のすべての交響曲はもっぱら写譜の形で接することができるだけでした。モーツァルトは 1788 年の 3 つの交響曲、すなわち変ホ長調 K543、ト短調 K550 およびハ長調 K551 も印刷に付する つもりだったと考えられます。しかしこれは、彼の生前には実現に至りませんでした。 大きな交響曲は、ピアノ協奏曲の作品と並んで、出版者が争って入手したがる第一のオーケスト ラ作品です。1793 年には「リンツ」交響曲 K425 と「ジュピター」交響曲 K551 が印刷、出版されま した。1794 年には「大ト短調」交響曲が続きます。この 6 曲の交響曲が 19 世紀の間ずっと、交響 曲作曲家としてのモーツァルトのイメージを決定的に定めていました。というのも彼の交響曲のう ちの大多数は、やっと 1876 年から 1883 年のあいだに、旧モ-ツァルト全集の枠内で印刷されたか らです。旧全集の時点では、合計 41 曲の交響曲を本物と認め、それらを全集の本編に入れました。 この数え方は今でもときどき、演奏会のプログラムや CD の解説などでお目にかかります。たとえ ば K183 の「小ト短調交響曲」を「交響曲第 25 番」として論じ、「大ト短調交響曲」を「交響曲第 40 番」として論じる場合などです。全集の補遺にはさらにいくつかの作品が印刷されていますが、 それらに対しては当時、信頼すべき情報源が存在せず、本物かどうかは完全には保証されてはいま せんでした。これらの交響曲のうち、ごく一部だけが、今日もなお、真正なものと認められていま す。これに従って、日本モーツァルト協会は K76、および K95-97 を今週末のプログラムに入れまし たが、K75、K81 及び K98 は、専門家の間で本物かどうかを疑う人々のほうが多いので、演奏されま -9- せん。 若年期のいくつかの交響曲については、19 世紀にはもはや情報源が知られていませんでした。新 たに発見された KAnh216 は 1910 年、一番最後の作品としてぎりぎりで旧モーツァルト全集に収め られました。しかしこの作品は今日では信憑性が疑わしい作品とみなされています。長い間、行方 不明とされてきた 3 つの交響曲、すなわち K19a, K45a および K45b はそもそも新モーツァルト全集 で初めて公にされたものです。 すべての交響曲をもういちど合計してみましょう。 旧モーツァルト全集の本編に見出されるシンフォニーは 41 です。その補遺に掲載されている交響 曲は 8 つです。さらに新モーツァルト全集で初めて公にされた若年期の交響曲は 3 つです。41+8+ 3=52、つまり 52 作品です。ここから引く必要のあるのが、旧モーツァルト全集の補遺に収録され ている疑わしい 4 曲、つまり K75, 81, 98 および Anh216 です。けっきょく 48 曲の交響曲が残りま す。 48 曲の交響曲―わたしたちはこれまでずっと、45 曲の交響曲と言ってこなかったでしょうか? 事実そのとおりです。どこに間違いがあったのでしょうか。間違いは旧モーツァルト全集にありま す。というのも 41 曲の交響曲のうちの 3 つは、我々が今日知っているように、まったくモーツァル ト作ではなかったからです。K18 はカール・フリードリヒ・アーベルの作品です。このことについて はお話ししました。K444 もモーツァルトはただ筆写しただけで、自分で作曲したわけではありませ ん。この交響曲は本当は、偉大なヨーゼフ・ハイドンの弟、ヨーハン・ミヒャエル・ハイドンの作 品です。そして最後に、交響曲 K17 も、われわれが今日知っているように、ヴォルフガング・アマ デ・モーツァルトではなく、父親レオポルト・モーツァルトの作品なのです。 8.今日におけるモーツァルトの交響曲 モーツァルトの交響曲は、世界でもっとも有名なメロディーの一つです。モーツァルトのト短調 交響曲 K550 の出だしをまだ一度も聞いたことのない人は、おそらくいないでしょう。たとえそれが 地下鉄の車内での、ケータイの着信音であったとしても。ジュピター交響曲も同じように伝説的な 評判を得ています。 新モーツァルト全集には、25 年来、モーツァルトの信頼すべきすべての作品が印刷されて収めら れています。2006 年以来、彼の作曲作品は、NMA(=「エヌ・マ」)オンラインを通じて、新モーツ ァルト全集の正規の楽譜つきで、インテーネットで誰でも自由にアクセスできます。毎月、NMA オン ラインに対し、全世界の 100 国以上の国々からの利用者が記録されています。毎日 2000 人以上の人々 が NWA にアクセスします。日本はこの点で―アメリカとドイツに次いで―第 3 位を占めています。 数年前、我々は NMA オンラインを拡張し、オーディオ・ファイル部門を増設することができました。 このために我々は国際モーツァルテウム財団の「モーツァルト-音と映像収集室」を利用していま すが、これはモーツァルト記念年 1991 年の直前にソニーの援助でザルツブルクに設立されたもので す。そこには今までに、4 万 2 千以上の資料が記録されています。著作権の関係で、NMA オンライン で提供できるのは、そのわずかの部分だけですが、それにもかかわらず、明日からの 2 日間のプロ グラムにのっている交響曲のどれでも、インターネットでお聴きになり、同時に楽譜をご覧になる ことができます。 - 10 - ちなみに、モーツァルテウム財団の「音と映像収集室」の最古の録音は、すでにもう 100 年以上 も前のものです。交響曲 K550 からのメヌエットの録音は、1909 年と記されています。ジュピター交 響曲からのメヌエットの最古の録音は、1910 年です。しかしこれは本来の姿ではなく、ピアニスト のアルフレート・グリューンフェルトがピアノで演奏しています。78 回転で演奏時間約 4 分のシェ ラック盤が確立し、同時にまた録音技術も改良された後、1920 年代終わりごろになってはじめて、 交響曲全体を吹き込むことができるようになりました。LP レコードが発明され、1950 年代に次第に 普及し始める前までは、これには 4 枚のレコードが必要だったのです!残念ながら「音と映像収集 室」は、完全無欠を標榜して資料を収集することはできません。しかしいくつかの興味ある傾向、 代表的といってもいい傾向は、すぐに挙げることができます。 モーツァルトのもっとも愛好されている器楽曲は、 交響曲 K550 です。この録音は 333 種あります。 これに続いて、しかしはっきりと差をつけられて―録音の数は 287―ジュピターが来ます。その後に ようやく「アイネ クライネ ナハトムジーク」と「トルコ風ロンド付き(Rondo all turca)、ピ アノ・ソナタが続きます。大体同じくらいの吹き込みがあるのは―それぞれ 240 から 250 回―ピア ノ協奏曲 K466、クラリネット協奏曲 K622, 交響曲 K543 です。交響曲のうちでは、このあとハフナ ーK385, プラハ K504、交響曲 K201 がきます。モーツァルトの交響曲のトップ・テンのなかで唯一 の驚きは、あるいは交響曲 K319 かもしれません。この作品は交響曲 K183 や「パリ交響曲」より上 の位置を占めているからです。順位表の下のほうは、モーツァルトの若いころの交響曲で占められ ています。このなかでは、K16 だけが、モーツァルトの最初の交響曲として、特別な地位を保ってい ます。しかしほかの大抵の交響曲に関しても、我々は 10 種から 15 種の吹き込みを提示することが できます。 あすからの 2 日間、我々はモーツァルトのすべての交響曲を、だいたい K 番号にしたがって、と いうことはだいたい年代順に聴くことになりますが、その際我々は第一日に多くの新しいことを経 験するでしょう。ほとんど未知の作品に遭遇するのは、なんという喜びでしょうか。しかもその作 品のどれもがそれ自体、一つの宝石なのです!聴き手にとって、魅惑的な課題となるのは、どの瞬 間から或る一つの交響曲がモーツァルトの響きを帯び、ほかの作曲家は考慮に入らなくなるか、そ れをご自身で確かめることです。おどろくべきことに、K183 または K201 の交響曲のときになっては じめてその変貌が生じるのではなく、ずっと、ずっと早い時期にその変貌は生じるのです。 最後にわたしは、日本モーツァルト協会に対し、交響曲 45 曲全曲を 6 回の演奏会で紹介するとい う壮大な着想に対し、我々の賛辞を申し述べたいと思います。我が財団の総裁の名のもとに、私は もう一度心から、このコンサートへのご招待のお礼を申し上げます。私にとって、そして国際モー ツァルテウム財団全員にとって、きょうここで皆さんの前でお話しできたことは、大いなる名誉で あります。演奏者のみなさまに心から成功をお祈りし、皆様全員にとって忘れられない週末になる ことをお祈り申し上げます。私は喜んでみなさまのところ、日本へ帰ってまいります。日本モーツ ァルト協会の創立 80 周年記念祝典が開かれるのは今から 20 年後の 2035 年になりますが、それまで お待たせすることはないでしょう。 ご清聴、ありがとうございました。 - 11 -
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