No. 33 特辑/特集 文化浙东 文化の薫り高い浙東 余姚与河姆渡文化 余姚と河姆渡文化 “经世致用”的浙东学派 “経世致用”の浙東学派 海纳百川名震天下的宁波商人 度量の大きさで天下に 名をとどろせた寧波商人 精彩纷呈的舟山美食文化 素晴らしい舟山の美食文化 中日文对照版 ISSN : 1674 - 9693 | CN11- 5963/C | 2015 年 11月 | 总第 33期 | 双月刊 | 目 录 特辑 文化浙东 本期人物 006 余 姚 与 河 姆渡 文 化 057 心学集大成者 王阳明 014 “经世致用”的浙东学派 华夏美食 018 海 纳 百 川 名震 天 下 的 宁 波 商 人 024 精 彩 纷 呈 的舟 山 美 食 文 化 064 乡情,是一碗面的思念 咬文嚼字 印・象 070 流行语 “潜水”与“灌水” 030 中国的饮食生活 日本孔院 漫歩神州 044 白 族 :苍 山 之 下 , 洱 海 之 畔 的少 数 民 族 时流 073 立命馆孔子学院举行 10 周年纪念仪式 036 屯 堡 :明 朝 遗 风 的 隐 居 地 文化博览 050 揭 开 “ 互 联网 金 融 ” 的 神 秘 面 纱 074 北京大学学生艺术团赴 日本孔子学院巡演 总部新闻 075 9月 10 月 汉语课堂 078 “个”的使用范围 080 笑话 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 1 目 次 特集 文化の薫り高い浙東 中国文化博覧 006 余姚と河姆渡文化 044 白族:蒼山の下、洱海湖畔の少数民族 014 「経世致用」の浙東学派 018 度量の大きさで天下に 名をとどろせた寧波商人 024 素晴らしい舟山の美食文化 印・象 050 「インターネット金融」の 神秘のベールをはぐ 今号の顔 057 心学の創始者 王陽明 030 中国での食生活 中国ぶらり旅 時流 036 屯堡:明朝の風習が残る隠とんの地 2 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 中国美味 064 望郷の念は麺から立ちのぼる 主管 :中华人民共和国教育部 主办 :孔子学院总部/国家汉办 编辑出版 : 《孔子学院》编辑部 协办 :日本早稻田大学孔子学院 总编辑 :许琳 副总编辑 :马箭飞 王永利 胡志平 静炜 夏建辉 主编 :樊钉 副主编 :程也 编委 :森田典正 小口彦太 刘杰 江正殷 吉田健一 中文编辑 :屠芫芫 孙颖 高燕群 蔡靖 沈向琮 日文编辑 :渡边MADOKA 艺术总监 :尤特 翻译/校对 :傅英 丹雄北翔 平井新 宁嘉麟 版面设计 :合同会社 G.O. A.T 浅井丽子 印刷 :北京华联印刷有限公司 国际连续出版号 :ISSN1674-9693 国内统一刊号 :CN11-5963/C 广告经营许可证 :京西工商广字第 8053 号 定价 :RMB16 / JPY550 编辑部地址 :北京市西城区德胜门外大街 129 号 邮政编码 :100088 编辑部电话 :0086-10-58595915 传真 :0086-10-58595919 电子邮箱 :kongzi@hanban.org 日本编辑室地址 :东京都新宿区西早稻田 1-7-14 早稻田校区 22 号馆 邮政编码 :169-0051 联系电话 :0081-3-3204-8244 传真 :0081-3-3204-8365 电子邮件 :wci@list.waseda.jp 刊名题字 :欧阳中石 * * * 主管:中華人民共和国教育部 企画・編集:孔子学院本部/中国国家漢弁 編集出版:『孔子学院』編集部 共同編集:日本早稲田大学孔子学院 言葉を味わう 総編集長:許琳 副総編集長:馬箭飛 王永利 胡志平 静煒 夏建輝 編集長:樊釘 070 流行語「潜水」と「灌水」 日本孔院 073 立命館孔子学院 10 周年記念イベント 北京大学生芸術団 日本孔子学院巡演 副編集長:程也 編集委員:森田典正 小口彦太 劉傑 江正殷 吉田健一 本部ニュース 075 9月 10 月 中国語編集: 屠 芫 芫 孫 頴 高 燕 群 蔡 靖 沈向琮 日本語編集:渡辺まどか デザイン監督:尤特 翻訳/校正:傅英 丹雄北翔 平井新 寧嘉麟 デザイン:合同会社 G.O.A.T 淺井麗子 印刷:北京華聯印刷有限公司 国際標準逐次刊行物番号:ISSN1674-9693 中国国内統一発行番号:CN11-5963/C 定価:16 元 / 550 円 編集部住所:北京市西城区徳勝門外大街 129 号 郵便番号:100088 中国語教室 電話番号:0086-10-58595915 ファックス:0086-10-58595919 メールアドレス:kongzi@hanban.org 078 「個」の使える範囲 080 ジョーク 日本編集部住所:東京都新宿区西早稲田 1-7-14 早稲田キャンパス 22 号館 郵便番号:169-0051 電話番号:0081-3-3204-8244 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9 7 3 年に寧 波からそ れほど遠くない余 姚で起こった。北 宋・南 宋の両 宋 時 代、学 問は現 実の社 会を改 革す るために用いられなければならないという経 世 到 用の学を唱える浙 東 学 派がこの地 で誕 生し、明と清の時 代に大いに発 展して、中 国の思 想 文 化 史において重 要な地 位 を占めた。港 町としての寧 波は伝 統 文 化を堅 守しつつ、海 洋 文 化 特 有の思 想の変 化 もあり、海 洋 商 業の文 化も栄えた。寧 波と浅い海を隔てて向かい合う群 島である舟 山は、「東 海の漁 船」 「海 鮮の都」という美 名があり、寧 波 文 化と同 様に呉 越 文 化 圏に 属する。美 食と美しい風 景が、寧 波を安 住と旅の理 想の地とした。今 回の特 集では、 読 者の皆さんを寧 波をはじめとする浙 東の大 地へといざない、かの地の文 化、精 神の 魅 力を感じていただこう。 ① 江北区(江北区) 【浙东(zhè dōng)】. . . ② 镇海区(鎮海区) 慈溪市 (慈渓市) ③ 海曙区(海曙区) ④ 江东区(江東区) 古以钱 塘 江 为 界,分为“浙 西” “ 、浙 东” ,今 宁(甬)绍、台温、金丽衢 地区均属 余姚市 (余姚市) ① “浙东”地区,即宁波、绍兴、台州、温州,金 ② ③ ④ 华、丽水、衢州地区。狭 义上的浙东地区包 北仑区 (北侖区) 鄞州区 (鄞州区) 括宁波和舟山。 奉化市 (奉化市) 【浙 東(zhè dōng)】... 浙 江 省 は 古 来 より 銭 塘 江 を 境 として「 浙 西」と「浙 東」に分けられていた。寧 波、紹 興、 台 州、温 州、金 華、麗 水、衢 州などの、現 在 寧 象山县 (増山県) 宁海县 (寧海県) (甬)紹、台 温、金 麗 衢 地 区と呼ばれている地 区が「浙 東」に属する。狭 義 上は「浙 東」地 区 には寧 波と舟 山が含まれている。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 5 特辑:文化浙东 浙 的魅力 ❶ 余姚与 河姆渡文化 余姚と河姆渡文化 文・滕 钰 余 姚 市位于浙东 盆 地山区和 浙北平原 交 叉地区,东与宁 波市江北区、鄞州区相邻,南枕四明 山,与奉化、嵊州接 壤,西连 绍兴市 上虞区,北毗慈溪市,西北于钱 塘江、 杭州湾中心 线与海盐县交界。地势 南高北低,中间微陷,非常适于人类 居 住和繁衍生息。有山、有水、有平 公里,支流 3 0 余条,纵横交错,织 成 优 越的地 理位 置,加上富饶 的 原,说 的 就 是 余 姚的 特点。 余 姚 市 水网。一条美丽的河流, 两岸点缀着 物产,悠久的文化传 统,使得余姚历 总面 积 15 01 平方公里,其中山地、 众多湖 塘水库,恰 似 珍 珠点 缀在 碧 代名人 辈出,是 有名的“人 杰 地 灵” 丘陵占 5 2 .7 3% ,平原占 2 8 . 3 3% , 绿的丝带之上。 之福地。余姚曲艺有姚 剧和余姚 腔。 水 域占 18 . 9 4% 。这 里的主要河流 由于地 处 亚热 带南缘,余 姚 拥 是 姚 江,起点在余 姚 市大 岚镇 夏家 有典型的 季风性气候,冬夏的 温 度 岭村东的米岗头东坡,终点 至宁波 差异及丰沛的 降 水,为各类 经 济 作 三江口,全 长 10 9 公里,境内长 5 4 物 的 生长 提 供了优 越 的 气 候 条 件。 记载 始 于晋 代,历史悠久,素有“文 余姚当地物产丰富,尤以杨梅、茶叶、 献名邦” “ 、东南名邑”和“越州巨镇” 榨菜、豆酥 糖、梁弄大糕、草编、竹编、 的美称,是 浙 江省 首 批 历史 文化名 佛雕出名,是一个农业历史悠久、农 城。余姚作为浙 江省首批 历史 文化 林牧副渔各业齐会的综合性农业区 名城,拥有众多优秀的历史文化,而 域,被誉为“杨梅之乡” “ 、榨菜 之乡” 、 最让余姚 骄傲的是具有七千年历史 “高山云雾茶之乡” “ 、蜜梨之乡” “ 、茭 白之乡”和“红枫之乡” 。 6 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 余 姚 腔与海盐 腔、昆山腔、弋阳腔, 被列为南戏四大声腔之一。 余 姚自秦 朝 建 县后,最早人口 的河姆 渡 文化,河姆 渡 文化是 余 姚 的一张“金名片” 。 特集: 文化の薫り高い浙東 Yuyao City % を占め、平 原は 2 8 .3 3%、水 域 は 1 8 .9 4% となっている。この地 の主 要な河 川は姚 江で、余 姚 市 大 嵐 鎮 夏 家 嶺 村の東の米 崗 頭 東 坡 に源を発し、河 口は寧 波 三 江 口で 全 長は 1 0 9 キロとなっている。余 姚 域 内を走る長さは 5 4 キロで、支 余姚市 (余姚市) 流は 3 0 余りを 数え、 縦 横に 交 錯 し て 網 の 目 の よ う に なって い る。 この 美 しい 川 の 両 岸 には 多 くの 湖や池があり、あたかも真 珠がエ メラルドグリーン の 絹 の 帯 でつづ られているかのようだ。 この地は亜 熱 帯の端にあり、余 姚は典 型 的な季 節 風 性 気 候で、冬 と夏の温 度 差が大きく、降 水 量が 余 姚 は 秦 朝 の 時 代 に 県 ができ 多く、現 金 収 入 源となる農 作 物に たあと、最 初に人 口が記 載された 好 適な気 候 条 件となっている。余 のは晋 代であり、悠 久の歴 史を持 姚 当 地の物 産は豊 富で、とりわけ つ。 「 文 献の 優れた 国」 「 東 南の 優 ヤマモモやお茶、ザーサイ、きなこ れた町」や「越 州の大 型 都 市」とい あめ、あずき餡を米 粉で包んで蒸 う美 称があり、浙 江 省で初めての した菓 子、草 細 工、竹 細 工、仏 像 彫 歴 史 文 化 の 優 れた 都 市 に 指 定 さ 刻が 有 名だ。 農 業の 歴 史が 長く、 れた。余 姚は多くの優 秀な歴 史 文 姚 市は 浙 東 盆 地の 山 地と 農 業、林 業、牧 畜、漁 業の各 産 業が 化を 有するが、最も 誇りとするの 浙 北 平 原 が 交 わる 地 域 に 集まった総 合 的な農 業 地 域となっ は 7 0 0 0 年 の 歴 史 がある 河 姆 渡 あり、東は寧 波 市 江 北 区、鄞 州 区 て、「 ヤマモモ の 里 」 「 ザーサイ の 文 化で、それは余 姚の「金の名 刺」 と隣り合っている。南 部に四 明 山 里」 「高 山 雲 霧 茶の里」 「蜜 梨の里」 だといえる。 余 があり、奉 化と嵊 州に接している。 西は紹 興 市 上 虞 区に連なり、北は 「 マコモタケの 里」そして「 紅 楓の 里」という称 号を与えられている。 慈 渓 市につながっている。北 西に 地 理 的 な 優 位 性 に 加 え 豊 かな は銭 塘 江があり、杭 州 湾の中 心 線 物 産 と 悠 久 の 文 化 と 伝 統 に よっ で海 塩 県と接している。地 形は南 て、余 姚は代々多くの名 士を輩 出 高 北 低 で 中 間 が 少 しへこんでお してきた。 そのため 有 名な「 人 傑 り、人 類が居 住し繁 栄するのに非 地 霊」の 楽 園になっている。 余 姚 常に 適している。 山があり、水が の 地 方 演 芸 としては 姚 劇 と 余 姚 あり、平 原があるのが余 姚の特 徴 節がある。余 姚 節は海 塩 節、昆 山 だ。余 姚 市の面 積は 1 5 0 1 平 方キ 節、弋 陽 節と並んで南 劇 四 大 節の ロで、山 地と丘 陵が全 体の 5 2 .7 3 1 つとされている。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 7 特辑:文化浙东 河 姆 渡 文化是中国长 江 流 域 下 游 地区古老而多姿的 新石器时 代 文化,距今已有 7 0 0 0 年的悠久 历史。因在 19 7 3 年第一 次发现于浙 江省余 姚 县河姆 渡,其文化特 征在考古学上具有一定的 代表性,遂于 19 7 6 年命名为“河姆渡文化”。它主要分布在杭州湾南 Hemudu Culture 岸的宁绍平原及舟山岛,经科学的方法 进行 测定,它的年代为公元前 5 0 0 0 年至公元前 3 3 0 0 年。它是 新石器时代母系氏族公社时 期的 氏族村落遗址, 反映了约 7 0 0 0 年前长江下游流域氏族的情况。 河姆渡 遗址位于河姆渡镇金吾庙村(原罗江乡浪墅桥村)。它是 19 7 3 年夏天当地农民建造排涝站时发现的, 遗址总面积 约 4 万平方 米,堆积 厚度四米左右,自下而上叠压着 4 个文化层。根据测定,第四 文化 层 距今 约 7 0 0 0 - 6 5 0 0 年,是中国现已 发现 的最早的 新石器 时代 地层之一。第三文化层距今约 6 5 0 0 - 6 0 0 0 年,第二文化层距 第一文化层距今约 5 5 0 0 - 5 0 0 0 年。 今约 6 0 0 0 - 5 5 0 0 年, 余姚市 (余姚市) 河姆渡 遗址的第四、三层和第二、一层,分别代表 河姆渡 文化的 早、晚 期。 早 期为约公元前 5 0 0 0 - 前 4 0 0 0 年。 晚 期为约公元前 4 0 0 0 - 前 3 3 0 0 年。 河姆渡遗址 (河姆渡遺跡) 河 姆 渡 文 化は中 国の長 江 下 流 域の古く多 様な新 石 器 時 代の文 化で、7 0 0 0 年と いう悠 久の歴 史を持っている。1 9 7 3 年に浙 江 省 余 姚 県 河 姆 渡で初めて発 見 され、その文 化 的 特 徴が考 古 学の上で高い価 値を持っていたため、1 9 7 6 年に「河 姆 渡 文 化」と命 名された。この文 化が主に分 布しているのは、杭 州 湾 南 岸の寧 紹 平 原お よび舟 山 島で、科 学 的な測 定によって、その年 代は紀 元 前 5 0 0 0 年から紀 元 前 3 3 0 0 年にかけてだと判 明した。新 石 器 時 代の母 系 氏 族の時 代の村 落の遺 跡で、約 7 0 0 0 年 前の長 江 下 流 域における氏 族 社 会の状 況を今に伝えている。 河 姆 渡 遺 跡は河 姆 渡 鎮 金 吾 廟 村(もと羅 江 郷 浪 墅 橋 村)に位 置している。遺 跡は 1 9 7 3 年の夏に地 元の農 民が排 水 場を造っているときに発 見された。遺 跡の面 積は 約 4 万 平 米で、堆 積の厚さは 4 メートル前 後、4 つの文 化の層が重なっている。測 定に より、第 四 文 化 層は今から約 7 0 0 0 年から 6 5 0 0 年 前のもので、中 国でこれまでに発 見された最も古い新 石 器 時 代の地 層の 1 つだ。第 三 文 化 層は今から約 6 5 0 0 年から 6 0 0 0 年 前、第 二 文 化 層は今から約 6 0 0 0 年から 5 5 0 0 年 前、第 一 層は今から約 5 5 0 0 年から 5 0 0 0 年 前のものだとされている。 河 姆 渡 遺 跡の第 四、第 三 層と第 二、第 一 層はそれぞれ河 姆 渡 文 化の早 期と晩 期を 代 表している。早 期は紀 元 前 5 0 0 0 年から紀 元 前 4 0 0 0 年、晩 期は紀 元 前 4 0 0 0 年か ら紀 元 前 3 3 0 0 年となっている。 8 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 特集: 文化の薫り高い浙東 河姆渡文化特色主要体现在以下方面。/ 河姆渡文化には以下のような特色がある。 ❶ 农业方面 / 農業 河姆渡 文化的社会 经 济 是以稻 作农业为主,在其遗 ❷ 建 筑方面 / 建築 址第四层较大范围内,普遍都发现稻谷、稻壳、稻杆、稻叶 河姆 渡 文化的建 筑 形式主 的遗存,是中国水稻栽 培起源的最佳例证,也是目前世界 要是 栽 桩 架 板 高于地面的干栏 稻 作史上最古老的人工栽 培稻记录。伴随稻谷一起出土 式 建 筑。 干栏 式 建 筑 是中国长 的还有大量农具、主要是骨耜,说明河姆渡原始稻作农业 江 以南 新 石器 时代 以 来 的 重要 已进入“耜耕阶段” 。河姆渡 遗址出土的稻谷, 不仅为研究 建筑 形式之一,目前河姆渡发现 中国稻 作 农业的起 源 提 供了珍 贵的实 物资料,而且 纠正 是 为 最 早。干 栏 式 住 屋 有 许 多 了中国栽 培水 稻 是 从印度阿 萨 姆 传 递 过 来的 传 统说 法, 特色,具有通 风 条 件好,防潮防 有力地证明中国和印度都是 亚 洲稻 的发祥 地,河姆渡 遗 湿,防蚊 虫等诸多优点。河姆渡 存的稻谷比印度发现的稻谷还要早一千多年。 遗 址两 次 发 掘范围内发 现 大 量 ↑ 榫 木构件, 余姚河姆渡 遗址出土。 ほぞ木材、余姚市河姆渡 遺 跡から出土。 干栏式 建 筑 遗 迹,特 别是在 第四文化层 底部,分布面积 广, 河 姆 渡 文 化の 社 会は 稲 作 農 業を 主な 産 業としてい 数量多, 颇为壮观。当时建房时垂直相交的接点较多地采用 た。 その遺 跡の第 四 層には 比 較 的 広い 範 囲で、もみ、 了榫卯技术,把中国出现榫卯木作 技术的时间从金属时代 もみ殻、稲わら、稲の葉の遺 物が発 見されている。これ 前推了 3 0 0 0 多年,这 些充分 体现了河姆渡 人拥有 较高的 は中 国の水 稲 栽 培の起 源として最も良い例であり、世 智商。除建筑外,在遗址第二文化层还发现了迄今为止最早 界の 稲 作 史 上 最も 古い 人 口 栽 培の 記 録でもある。 も 的水井遗 迹。水井的出现体 现了对 水源的重视,是 人 类 追 みと共に大 量の農 具も出 土している。主な出 土 品は骨 求高质量生活的使然。 で作られたすきであり、河 姆 渡の原 始 稲 作 農 業が「す きで耕す段 階」に入っていたことを示している。 河 姆 河 姆 渡 文 化の建 築 様 式は、主に地 面に建てた杭の上に 渡 遺 跡で出 土するもみは、中 国の稲 作 農 業の起 源を研 床を 高く 張った 干 欄 式 建 築だ。 干 欄 式 建 築は 中 国の 長 究 するための 貴 重 な 実 物 の 資 料 となっているだけで 江 以 南における 新 石 器 時 代 以 降の 重 要な 建 築 様 式の 1 なく、中 国の水 稲 栽 培がインドのアッサム地 方から伝 つとなっている。その中でも河 姆 渡で発 見されたものが わったという伝 統 的な説を覆すものでもあり、中 国と 今のところ最も古い。干 欄 式 建 築には多くの特 色があり、 インドがアジアの稲 作の発 祥の地であることの有 力な 通 風 性がよく、高 潮への防 御、防 湿、虫 除けなどの多くの 証 明にもなっている。河 姆 渡の遺 物であるもみはイン 面で優れている。河 姆 渡 遺 跡では 2 度の発 掘によって大 ドのものと比べると 1 0 0 0 年 以 上も古い。 量の 干 欄 式 建 築の 遺 構が 発 見され、特に 第 四 文 化 層の 底 部の分 布 面 積が広く、数も多く壮 観だ。当 時の建 築で は垂 直に交わる接 点を多 用する榫 卯(ほぞ)技 術が用い ← 稻 谷和稻 叶,余 姚 河姆 られている。この発 見は中 国の榫 卯 技 術の出 現を元々の 渡 遗 址出土。 浙 江省 博 物 馆“越 地长 歌 — 浙 江 历 金 属 時 代から 3 0 0 0 年 余りも遡らせるものだ。これらの 史文化陈列” 。 ことは 河 姆 渡 人 がかなり 高 い 知 能 を 有 していたことを 米と稲,余 姚 河 姆 渡 遺 跡 物 語っている。建 築のほかにも第 二 文 化 層からは最も早 から出土。 浙 江省 博 物 館 い時 期の井 戸の遺 跡も発 見されている。井 戸の出 現は水 の「越 地長 歌 — 浙 江 歴 資 源を重 視していたことの表れで、人 類がよりよい生 活 史文化陳列」展示より。 を追 求していたことを示している。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 9 特辑:文化浙东 ❸ 原 始手工业方面 / 原始手工業 1、河姆渡 遗址是中国新石器时代 遗址考 古中陶器出土最多、复 原率最高的 遗 址 之一, 2、木器出土 3 0 0 多件,其中有中国最早的 两次考古发掘,出土陶片 4 0 万件之多,完整的 木 制 饰品“木 雕 鱼” ,其他包括 木 柄骨 制 的 耕田 和可复 原的陶器占总出土器物的 1/6 左右,已 用具耜、和刀铲等切割器具, 亦有大量纺织工具。 获 得 完 整器和复 原器 12 2 1 件。 河姆 渡 文化 最为重要的木器是 纺织 工具和木桨。有了纺织, 的陶器,以夹炭黑陶为主,少量夹砂、泥质灰陶, 说明河姆渡先民已进入初具文明的历史阶段。 ↑ 木器 柄,余 姚 河姆 渡 遗址出土。 木器の柄,余姚河姆渡 遺跡から出土。 均为手制,烧 成 温 度 8 0 0 ℃ - 9 3 0 ℃。陶器的 种类很多,主要有釜、罐、盆、杯、盘、钵、缸、盂、 2.木 器の出 土は 3 0 0 件 余りで、その中には中 国で最も古 灶、甑、鼎等, 器表常有绳纹、刻划纹。有一些彩 い木 製の装 飾 品の「木 彫 魚」もある。そのほかには、田を耕す 绘陶, 绘以咖啡色、黑褐色的变体 植物纹。 ために使われた木の柄が付いた骨 製のすき、先の鋭 利なシャ ベルなどの 切 断のための 器 具、 さらに 大 量の 紡 績 工 具も 出 1.河 姆 渡 遺 跡 は 中 国 の 新 石 器 時 代 の 遺 土している。最も重 要な木 器は紡 績 工 具と舟をこぐ木の櫂だ。 跡の中で出 土する陶 器が最も多く、復 元 率 紡 績があるということは、 河 姆 渡 人がすでに 初 期の 道 具 文 の最も高い遺 跡の 1 つとなっている。2 度の 明の段 階に達していたことを物 語っている。 考 古 学 の 発 掘 で 出 土 した 陶 器 の 破 片 は 4 0 万 件を超え、完 全な形の陶 器と復 元 可 能な 陶 器は 総 出 土 数の 6 分の 1 前 後で、 すでに 完 全な 形となっている 陶 器と 復 元された 陶 器を 合わせると 1 2 2 1 件になる。 河 姆 渡 文 化の 陶 器は 炭が 混じった 黒 陶が 主で、 砂や 泥が 混じった 少 量の 灰 陶もある。 陶 器は 手 で作られ、焼 成の温 度は 8 0 0 度から 9 3 0 度 だ。陶 器の種 類は非 常に多く、主に釜、円 筒 状の陶 器、盆、杯、皿、鉢、かめ、壺、かまど、こ 3、河姆渡 遗址共出土石器 8 0 0 多件。按功能分, 主要是生 产工具和装饰品两大类。出土的石器普遍较小,磨制不精,尚留 有打凿和琢制痕 迹。 3.河 姆 渡 遺 跡からは 8 0 0 件 余りの 石 器が 出 土している。 機 能 面から 見ると 石 器は 生 産の 工 具と 装 飾 品の 2 つに 大 別 される。出 土した石 器は小さく、磨きが精 巧ではなく、打ち 欠いて磨いた痕 跡が見られる。 しき、かなえなどで、器の表 面には縄 模 様が 刻 み 込 まれている。 彩 色 され 4 、出土的骨器有 3 0 0 0 多件。河姆 渡 文化的骨器制作比 た 陶 器もあり、 絵は 茶 色 较发达,广泛使用于生产和生活 领域,是重要的生产工具。按 使 や 黒 褐 色 で 変 わった 形 用功能分为骨耜、骨箭头、骨凿、骨锥、骨针、骨哨、骨镰、骨鱼镖、 の植 物の模 様がある。 管状针等, 以骨耜最具特色。 4.骨 器は 3 0 0 0 件 余りが 出 土している。 河 姆 渡 文 化の 骨 器は製 作の技 術がかなり発 達していて、生 産や生 活に広く使 ← 陶 釜, 19 74 年浙 江 余 姚 河姆渡出土, 中国国家博 物馆。 陶器、19 74 年余姚市河姆渡から 出土、中国国家博 物館所蔵。 10 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 用され、生 産のための重 要な工 具となっていた。機 能 別に分 けると、骨のすき、骨の矢じり、骨ののみ、骨のきり、骨の針、 骨の呼び子、骨のかま、骨の釣り針、管 状の針などで、骨のす きが最もよく特 徴を表している。 特集: 文化の薫り高い浙東 ❺ 原 始艺 术品方面 / 原始芸術 ❹ 动物方面 / 動物 河姆渡 遗址出土的原始艺术品数 量大,题材广,造型独特,内容丰 在 河姆 渡 遗 址内,破碎 的 猪骨和牙 齿 到 富多彩。主要表现在象牙雕刻、陶器纹饰上面,尤其是一些象牙雕刻器, 处可见,证明在 距今 7 0 0 0 年以前,河姆渡 居 做 工精 致,造 型华美,可谓巧夺天工,让人赞叹不已。艺术品中最吸引 民 就开始 饲养 猪、狗、水牛等家养 牲畜。河姆 人的是一件“双鸟朝阳”纹象牙雕刻件,器物正中阴刻 5 个大小不等的 渡出土大量野生动物遗骨,计有哺乳类、鸟类、 同心圆,外圆上部刻火 焰纹,两侧各有一只圆目利喙的鸷鸟向对而视。 爬行类、鱼类和软体动物共 4 0 多种。 整件器物图像 雕刻技术娴熟、形象逼真传神、寓意深刻,有人说它象征 太阳,有人说它象征 对生命、生殖的崇拜。可以说,该器物体现了原 始 先民已有复杂的精神生活。 河 姆 渡 遺 跡では、砕けた豚の骨や歯が至 る 所 で 発 見 され、今 から 約 7 0 0 0 年 前 に 河 姆 渡の住 民が豚、犬、水 牛などの家 畜の飼 育 河 姆 渡 遺 跡からは原 始 的な芸 術 品が数 多く出 土している。題 材 を始めたことが証 明されている。河 姆 渡か は広く、造 形は独 特で、多 種 多 様な内 容となっている。主な表 現 方 ら出 土した大 量の野 生 動 物の骨は、哺 乳 類、 法は象 牙の彫 刻や陶 器の紋 様で、特に象 牙に彫 刻した器は、精 巧な 鳥 類、爬 虫 類、魚 類や軟 体 動 物など 4 0 種 類 作りで造 形も華 麗、天 然の美を凌ぐほど技が巧みで、見た人を驚か 以 上に及ぶ。 せる。芸 術 品の中で最も人を引き付けているのが「双 鳥 朝 陽」 模 様の 象 牙の 彫 刻で、器には 大きさの 異なる 5 つの 同 心 円が 彫られ、外 円の上 部は火 炎 模 様で、両 側には丸い目で鋭いくち ばしの鳥がにらみ合う姿が描かれている。器 全 体の図 柄の彫 刻 技 術は熟 練のもので、形 状は真に迫り生き生きとしており、 寓 意は深い。太 陽を象 徴しているという人もいれば、生 命を象 徴し生 殖を崇 拝しているという人もいる。その器は原 始 時 代 の人たちが既に複 雑な精 神 生 活を送っていた証しといえる。 ↑“双鸟朝阳”/「双鳥朝陽」 河姆渡 遗址的发掘和考察,为我们打开了一扇 河 姆 渡 遺 跡の発 掘と調 査によって、河 姆 渡 文 化を理 解するた 了解河姆 渡 文化的窗户,让我 们 看 到 7 0 0 0 年前, めの 扉が 開かれ、7 0 0 0 年 前の 河 姆 渡 人が 余 姚という 美しく 豊 河姆渡先人在余姚这片美丽、富饶的土地上捕鱼打 かな土 地で魚を捕まえ狩りをし、水 稲を栽 培し家 畜を飼い、住 猎、种植水稻、饲养家畜、构建住房、烧陶编织、堆塑 居を建て陶 器を焼き、彫 刻を彫り、絵 画や装 飾を制 作したこと 雕 刻、绘画装饰。他们日出而作,日落而息,用他们 が現 代の人たちにも知られるようになった。河 姆 渡 人は日が昇 的勤劳、勇敢和智慧创造了举世瞩目的灿烂的河姆 ると働き、日が沈むと休み、勤 労と勇 敢さと知 恵によって世 界か 渡文化。 ら注 目されるきらびやかな河 姆 渡 文 化をつくり上げた。 河姆 渡 文化 遗 址 犹 如一座 璀 璨 夺目的艺 术宫 河 姆 渡 文 化の遺 跡は、まばゆいばかりに美しい芸 術の宮 殿の 殿,有着重大的历史价 值。河姆渡 遗址的发现把整 ようで、歴 史 的な価 値が非 常に大きい。河 姆 渡 遺 跡の発 見は中 证明了早 个中华民族的历史向前推进了 2 0 0 0 多年, 華 民 族 の 歴 史 を 2 0 0 0 年 以 上 さ 遡 らせるもので、6、7 0 0 0 年 前 在六七千年前,长江下游已经有了繁荣的原始文化, の 長 江 下 流 域にすでに 原 始 文 化が 栄え、長 江 流 域が 黄 河 流 域 长江流域与黄河流域一样都是中华文化的发祥地。 と同 様に中 華 文 化 発 祥の地であることを証 明した。 优秀历史文化是城市的宝贵精神财富,河姆渡 文化是余姚的文化, 也是世界的文化。 優れた 歴 史 文 化は 都 市の 貴 重な 精 神 的 財 産であり、 河 姆 渡 文 化は余 姚の文 化であるとともに世 界の文 化でもある。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 11 特辑:文化浙东 浙 的魅力 ❷ 经世致用的浙东学派 浙东学派的 第一阶段 「経世致用」の浙東学派 庆历五先生 浙东学派的 慶歴五先生 金华学派 文・鹿鸣 杨适 中 杜醇 王说 国思想文化史上, 先秦诸子百家争鸣, 唐 第二阶段 金華学派 王致 吕祖谦 楼郁 宋文化繁荣鼎盛, 其间学派林立, 思潮流 变,互相影响,延及后世。在众多地 域文化学派 中,具有全国性 影响的浙东学派于两宋时 期开 山发源, 在明清时期发展壮大、盛极一时。 PHA SE 2 南 SE 1 PHA 北宋 .10 (c a ca 宋( .115 0) 浙东学派的 ) 50 第二阶段 永嘉学派 浙东学 派 继 承 发 扬了浙东学术史 上 的 优 良传统,不守门户之见,博纳兼容,贵专家之学, 浙东学派的 永嘉学派 第一阶段 叶适 富创新 精神,倡导“经世致 用” ,把学术活 动同 经邦济世的理想抱负紧密结合在一起,形成了 永嘉九先生 自己独特的文化传统。 周行己 中 浙东学派的 永嘉九先生 许景 衡 第二阶段 刘安节 国の 思 想 文 化 史 上では、秦に 先 立つ 刘安上 戴述 赵霄 諸 子 百 家 争 鳴、唐 宋 文 化の繁 栄、その 蒋元中 沈躬行 张辉 永康学派 永康学派 陈亮 間には学 派が林 立して、思 想は変 遷し、相 互 に影 響し合いながら、後 世にまで続いていっ た。多くの地 域 文 化 学 派の中で、全 国に影 響 浙东学派的 を 及ぼしたのが 浙 東 学 派であり、 北 宋と 南 第二阶段 宋の両 宋の時 代に起こり、明と清の時 代に大 いに発 展して最 盛 期を迎えた。 浙 東 学 派は浙 東 学 術 史 上の優 良な伝 統を 四明学派(甬上四先生) 四 明 学 派(甬 上 四 先 生) 受け 継いで 発 揚させた。 派 閥にとらわれた 考えをせず、自 由に思 考し、多くの学 問を 融 合し、専 門 家の 学 問を 重んじ、創 新の精 神に富んでいた。 そして、 「経 世 到 用」を唱え、学 術 活 動 は 国 を 発 展 させ 人 を 救 済 す るという 理 想 に 合 致 しなけ ればならないとして、独 特な 文 化の伝 統を形 成した。 12 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 杨简 袁燮 沈焕 舒璘 特集: 文化の薫り高い浙東 PHA SE 4 清 SE 3 PHA 5 a .1 (c 明代 16 代( 00 ~) 浙东学派的 第四阶段 清代浙东学派 ) 00 清 代の浙 東 学 派 浙东学派的 第三阶段 黄宗羲 阳明心学 万斯同 章学诚 全组 望 邵晋涵 陽明心学 王阳明 时代 发展 内容;第四阶段是清代浙东学派,这是 浙东学派的发展可以分为四个阶 浙东学术的 全盛时 期,主要代 表有黄 段。第一阶段是北宋,主要代表有“庆 宗羲、万斯同、全组望、章学诚、邵晋涵。 历五先生”和“永嘉九先 生”;第二阶 北 宋 浙 东 学 派 处 于“儒 林 草 昧” 黄宗羲 黄宗羲 经济观, 倡导“四业皆本”; 讲求实利功 段是南宋,这时浙东诸学派主要有:以 之时,他们推 崇以“经世致 用”为旨的 效,义利合一。明代心学是圣人学问的 吕祖谦 为代表的金 华学派,以叶 适 为 儒学,有助于改善当时 社 会因 循守旧 “哲学化” ,认为天理不靠空谈,靠格物 代 表的永嘉 学派,以陈亮为代 表的永 的风气, 但其思想还缺乏理论 体系。南 致知,靠实践自省,即“知行 合一”。清 康学派,以“甬上四先生” (杨简、袁燮、 宋浙东学派主张复仇抗金、收复故土、 代 浙东学派 精 研史学,在 经学研究的 舒璘、沈 焕)为代表的四明学派;第三 复兴中华;具有反传 统精神,对传 统儒 基 础上,注 重史料 研究 和以 通 经 致 用 阶段 是明代,主要以阳明心 学为主要 学提出质 疑,反对“重本抑末”的传 统 为治学宗旨。 時 代と発 展 ていたが、その思 想には理 論の体 系が欠けていた。南 宋 浙 東 学 派の発 展は 4 つの段 階に分けられる。第 一 段 階 の 浙 東 学 派 は 北 宋 を 滅 ぼした 女 真 族 の 金 に 対 抗 して 敵 は北 宋で、代 表 的な学 者には明 州(現 在の寧 波の一 部)の 討ちすることを主 張し、失った土 地を奪 還し、中 華を復 興 5 人の学 者である「慶 歴 五 先 生」と永 嘉(現 在の温 州)の 9 させようとした。学 者たちは反 伝 統の精 神を持ち、伝 統 人の学 者「永 嘉 九 先 生」がいる。第 二 段 階は南 宋で、この 的な儒 学に疑 念を抱き、農 業を重 視し商 工 業を軽 視する 時 代の 浙 東 諸 学 派には、呂 祖 謙を 代 表とする 金 華 学 派、 「重 本 抑 末」の伝 統 的 経 済 観に反 対して、役 人、農 業、工 業、 葉 適を代 表とする永 嘉 学 派、陳 亮を代 表とする永 康 学 派、 商 業の 4 つがともに重 要であるとする「四 業 皆 本」を提 唱 そして「甬 上 四 先 生(楊 簡、袁 燮、舒 璘、瀋 煥)」を代 表とす し、実 利と効 率、公 共の利 益と個 人の利 益の合 致を追 求 る四 明 学 派があった。第 三 段 階は明 代で、陽 明 心 学が主 した。明 代の心 学は聖 人 学 問の「哲 学 化」で、自 然の道 理 な内 容となっていた。第 四 段 階は清 代の浙 東 学 派で、こ は 空 論によって 悟れるものではなく、自 己の 知 識を 極 限 の時 代に浙 東 学 術は全 盛 期を迎え、代 表 的な学 者には黄 まで高め、実 践と自 省をすることで悟れるとし、知 識と実 宗 羲、万 斯 同、全 組 望、章 学 誠、邵 晋 涵がいる。 践が 1 つになる「知 行 合 一」を唱えた。清 代の浙 東 学 派は 北 宋 の 浙 東 学 派 は「 儒 林 草 昧( 儒 家 学 者 が 未 開 で あ 歴 史 学を丹 念に研 究し、経 書の研 究の基 礎に立って、史 料 る)」時 代で、学 者たちは「経 世 致 用」を旨とする儒 学を尊 研 究を重んじることと学 問が国 事に必 要であることを旨 重し、当 時の社 会の因 循 守 旧の気 風を改 善しようと努め として活 動した。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 13 特辑:文化浙东 学派观点 的合 理性。历代 封建 统 治 者都 把“重 贾”与“力田”一样 都是 致富的正 途, 在 公私 观 念 上, 浙东学 派认 为, 本抑末”作为基 本国策。在 这样的背 反 对 国 家 打 着 抑 兼 并 的 旗号 来 压制、 “公天下”就是能使老百姓“各 得自私、 景下,以 黄宗羲为代 表 的 浙东学派 从 侵夺富民的财产。 各 得自利”的天下。 崇公灭私 是中国 反对“重本抑末”的 传 统 经 济 伦 理观 在义利观 念上,浙东学派 反对空 传 统 社会的主导观 念, “公”历来 体 现 念 着 手,提 出 了 “工 商 皆 本”的 经 济 谈 义理,主张 义利统一。 儒家 基 本义 为政 权,政 权 又以君主 为代 表,因此 思想。 利 观 是 重 义轻利。 浙东 之学的“义利 “公”实际 上就是帝王。到明后期,在 在富民 观 念上,浙东学派 主张民 观”与发 达 的商品经 济相 适 应,与重 商品经 济比 较发 达的 浙东地区,这种 富先于国富。儒家的民本思想植根于 实利讲功 效的社 会要求相联 系,认 为 传统的公私观念开始动摇。 自给自足的 农 耕 经 济,强调 国家 应以 人 应尽 其所能为社 会服 务,但社 会对 在 经 济 观 念 上,浙东学 派以“切 于民用”为标 准,揭 示了“工商皆本” “保民” “ 、养民”为最高职责。浙东学派 个 体的地位和权利也不应漠视。 立足于发展商品经济的要求,认为“商 学 派の視 点 な先 述した「重 本 抑 末」を国 策の基 本としていた。このよ 公と個 人の観 念では、浙 東 学 派は「公 天 下」とは庶 民が うな 状 況の 中で、 黄 宗 羲をはじめとする 浙 東 学 派は「 重 「各 自が自 分 本 位で、各 自が自 己の利 益に走る」天 下だと 本 抑 末」の伝 統 的 経 済 論 理に反 対し、「工 商 皆 本」の経 済 考えた。公を重んじ私 利を捨てるというのが中 国の伝 統 思 想を提 唱した。 社 会を主 導してきた考え方であり、「公」はそれまでずっ 民を富ませるという観 念では、浙 東 学 派は民が富むこ と政 権として体 現され、政 権は君 主を代 表とする。その とが国 富に優 先すると主 張した。儒 家の民が大 切とする ため、「公」とは実 際は帝 王のことだ。明の後 期になり商 思 想は、自 給 自 足の農 耕 経 済に根 差したもので、国 家は 品 経 済が発 達した浙 東 地 区では、こうした伝 統 的な公 私 「民を守り」 「民を養う」ことを最 高の職 責とすると強 調し の概 念が揺らぎ始めていた。 ている。浙 東 学 派は商 品 経 済のニーズに立 脚して、「商い 経 済の観 念では、浙 東 学 派は「民に近づき親しむ」を基 をすること」と「田を耕すこと」は同 様に富に至る正しい 準とし、「工 商 皆 本(商 工 業もみな重 要だ)」という考え方 道であり、国 家が独 立を守るという旗 印のもとに民を圧 の合 理 性を指 摘していた。歴 代の封 建 時 代の統 治 者はみ 迫し、豊かな民の財 産を略 奪することに反 対した。 公 共の利 益(義)と個 人の利 益(利)という義と利の観 念 では、浙 東 学 派は道 理を空 論することに反 対し、義と利の 一 致を主 張した。儒 家の義と利に関する基 本 的な考え方 は、義が重く利が軽いというものだった。浙 東 学 派の「義 と利の考え方」は、発 達した商 品 経 済に適 応し、実 利と効 率を 重んずる 社 会のニーズに 沿ったもので、 人はできる だけ社 会に奉 仕すべきで、社 会も個 人の地 位や権 利を軽 視すべきではないというものだった。 黄宗羲撰《明夷待 访录》, 为体现明末清初黄宗羲(16 10 年-16 9 5 年) 民主、民本思想的重要著 作。 『明夷待訪録』は明代の末期から清代初期にかけて活躍した黄宗羲が民 主思想のあるべき姿を説いた重要な著 作である。 14 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 特集: 文化の薫り高い浙東 思 想特色 浙 东 学 派 的 代 表 人物 是 一 批 富 中华文化 的 发 展 总 是 伴 随 着文 史 之间的交 织、渗 透和 融 通。 浙东学 有开拓创新 精神的学者。他们不仅具 派 的 一 些 代 表 人物 兼 擅 史学 和 文 学, 有渊博的学识,熟谙 传 统文化,而且善 既是史学巨擘,又是文学高手。他们不 于独立思考,敢于超 越传 统,质 疑辨异, 仅 深知 文学与史学的不同特 征,还 对 史実に忠実 开创新 说。在 褒 贬 臧否学界、文 坛各 文 史会 通有深 刻认识,以丰富的历史 かつ文才あり 色人物 时,也多以 是 否富于独创 精 神 知识和深邃的历史眼光去考察文学问 作为重要的评判标 准。 题,深入发掘文史会 通 之处,提出了许 浙东学 派 的 一 个显著 特点 是 具 “事 信 而 言 文” 多精深独到的见解。 有包容性。他们大力倡导并切实 奉行 浙东学派 虽 无 文学思想方面的 兼容并蓄、广采博取的治学风格,反对 专 著,但他们对 文学的一系列基 本问 墨守一家、好同恶异的 狭 隘学风。 壁 题 都 有自成体系 的 思考,作了具 有内 垒森严的门户之 见,冰 炭 难容的派 别 在 逻 辑 联 系的 精辟 论析,形成了独特 之争,是导致明末清初文 坛不 振 的一 的文学思想体系。尽管中国古代 文学 个重要病根。浙东学派 对此痛心 疾首, 理论发展史上名家辈出,卷帙 浩繁,然 不遗 余力进行抨击。本着艺术宽容 精 而真正具有体系规模的文学思想并不 神,他们竭力主张打破门户之见,主张 多见。浙东学派的文学思想值得引起 不同流派、风格共存同荣。 重视, 并赋予其恰当的历史定位。 思 想の特 色 万斯同 万斯同 中 華 文 化 の 発 展 はいつも 文 学 と 史 学 の 間 の 交 錯 と 浸 浙 東 学 派の代 表 的な人 物として、開 拓 創 新 精 神に富む 透、融 和とともにある。浙 東 学 派の代 表 的 人 物は史 学と 学 者たちが 挙げられる。 彼らは 深い 知 識を 持っていただ 文 学を掛け持ち、史 学の権 威であると同 時に文 学の達 人 けでなく、伝 統 文 化を熟 知し、独 立した思 考に長じ、大 胆 でもあった。彼らは文 学と史 学の相 違 部 分について深く に伝 統を越え、筋が通らないと思うことに異 議を唱え、新 認 知していただけでなく、文 学と史 学を合わせた全 面に しい説を創 出していった。学 界には賛 否 両 論があるが、文 ついても認 識していた。そして、豊 富な歴 史の知 識と歴 壇にさまざまな人 物が現れ、独 創 精 神に富んでいるかど 史に対する鋭い視 点で文 学の問 題を考 察し、文 学と史 学 うかを重 要な評 価 基 準として活 動した。 が融 合する点を掘り起こし、独 特で深い見 解を数 多く提 浙 東 学 派の 顕 著 な 特 徴 の 1 つは 包 容 力 があることだ。 出した。 彼らは他の学 派でもいいところは広く取り入るべきだと 浙 東 学 派に文 学 思 想の専 門 書はないが、彼らは文 学の 強 く 主 張 し、1 つの 考 えを 墨 守 したり 結 託 して 悪 事 を 働 基 本 問 題について自ら作り上げた思 想 体 系を持ち、論 理 いたりする偏 狭な学 風に反 対した。水も漏らさぬように 的な結びつきを内 在する精 密な分 析を行い、独 特の文 学 堅 固な偏 見や氷と炭が相いれないのと同じような派 閥の 思 想 体 系を形 成していた。中 国の古 代 文 学 理 論が発 展す 争いが、明 末から清 初の文 壇 不 振の重 大な病 根だった。浙 る中で、優れた人 材が数 多く輩 出され、関 連する書 籍もお 東 学 派はこうした病 根を力の限り、批 判し攻 撃した。芸 びただしい数に上るが、体 系 的な規 模の文 学 思 想はそれ 術 的 寛 容をもって、彼らは派 閥 的な偏 見の打 倒を力いっ ほど 多くない。 浙 東 学 派の 文 学 思 想は 重 視するに 値し、 ぱい主 張し、流 派や手 法の違いを乗り越えた共 存 共 栄を それにふさわしい歴 史 的な評 価も与えられている。 主 張した。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 15 特辑:文化浙东 浙 的魅力 ❸ 海 纳 百川 名 震 天下的 宁 波 商人 度量の大きさで天下に 名をとどろせた寧波商人 文・吴红飞 Pao g n o e K Yu Sea” f the ing o K The “ 世界船王包玉刚故 居, 浙江宁波镇 海区庄市钟包村。 世界の船 舶王である包玉剛の故 居, 浙江省寧波鎮海区庄市鍾包村。 波人,喜于经商、善于经商这一 “中国要看上海,上海则要看宁波人”。 把交椅。据了解, 他与英国前首相撒切 特质仿佛源于基因骨血。 作为 可以说,宁波人对上海发展,对当时中 尔夫 人私 交甚 密,不仅 随 时可以 通电 一 个 滨 海的港口城市,坐拥优 越的地 国的民族资本主义的发展发挥了巨大 话,还 可自由出入位于唐 宁 街五号的 理 环 境,宁波商人中很多都从事海 外 的作用。 首相官邸。英女王封他为爵士,日本、 贸易。早期的宁波商人比较零散, 到明 19世纪40年代 末开始,大批实 比利时、巴西、巴拿马都曾授予他高级 末清初时 期,宁波商帮开始 逐 渐 形成 业家从上海转移到港、澳,转向东南亚、 勋章。他的电话可以直通白宫,随时与 比较大的规模,并成立会 馆,诸如清乾 南美北美、欧 洲等,并在世界经济大发 美国总 统对话,每出访一个国家,该国 隆 时 期 颇 负 盛 名 的 衢 州 的“宁 绍 会 展 的 机 遇下开 创了许 许 多 多 的 辉 煌。 首脑、政 府要员都要同他会面,听取其 馆” 、汉口的“浙宁公社”等。到后期, 很 多 宁 波 人 获 得了 商 业“大 王”的 称 意见。 有 影 响 力 较 大 的“四 明 公 所”“ 、浙 宁 号, 如“世界船王” “鱼翅大王” “电子大 会 馆”等。19 世纪 4 0 年代之前,宁波 王” “影视大王” “春卷大王”等。 一方水土养一方人,不同的 地 域 文化 造 就了生存 其间的人们不同的秉 商帮活 动范围主要 在国内,特 别是 上 尤 以“世界 船 王”包 玉 刚 闻 名 遐 性和 精神面 貌。 中国十大商帮中“宁 海,据 称 6 0 万上 海人中有 4 0 万的宁 迩, 可以说叱咤国际 政商两界。当年世 波帮”久盛不衰,其中不无深刻的文化 波 人。 当时 商业界 有这 样一 句传言, 界十大 船王排座 次,包玉刚稳 坐 第一 历史原因。 16 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 特集: 文化の薫り高い浙東 寧 波 人は 商 売が 好きで、 商 売 上 海 では 寧 波 人 を 見 なければなら なつながりがあり、いつでも電 話を が 得 意だ。 この 特 質は 彼ら ない」という 話もささやかれた。 寧 かけることができただけでなく、ダ の 骨 や 血 の 中 からわき 出 ていると 波 人は上 海の発 展と当 時の中 国の ウニング街 5 号の首 相 官 邸に自 由に いってよい。寧 波には海の港 町とし 民 族 資 本 主 義 の 発 展 に 大 きな 役 割 出 入りすることもできた。英 国の女 ての地 理 的な優 位 性があり、寧 波の を果たした。 王は彼にナイトの爵 位を授け、日 本、 商 人 の 中 には 海 外 貿 易 に 従 事 する 1 9 4 0 年 代 末になると、大 実 業 家 ベルギー、ブラジル、パナマも彼に高 者が多い。昔の寧 波 商 人はまとまり が上 海から香 港やマカオ、さらには 級な勲 章を授けた。彼の電 話は直 接 がなく、明 末から清 初にかけて、寧 東 南アジア、南 米、北 米、欧 州へと活 ホワイトハウスにつながり、 いつで 波 の 商 人 集 団 は 徐々に 大 き な 規 模 動の範 囲を広げ、世 界 経 済の発 展の も 米 国 の 大 統 領 と 話 をすることが の組 織を形 成し、集 会 施 設である会 チャンス に 数 多 く の 輝 き を 放った。 できた。彼は 1 つの国を訪れるたび 館を建 設した。初 期に評 判が高かっ 多くの 寧 波 人が 商 業の「 大 王」の 称 に、その国の首 脳や政 府の要 人と面 たのは 乾 隆 帝 の 時 代 の 衢 州 の 寧 紹 号を 得た。 その 名は 例えば「 世 界の 会し、その意 見を聞いた。 会 館や 漢 口の 浙 寧 公 社 などだった。 船 舶 王」 「フカヒレ大 王」 「電 子 大 王」 その後、大きな影 響 力を持ったのが 1 つの場 所の水と土はその場 所の 「映 像 大 王」 「春 巻き大 王」などだ。 人を育て、異なる地 域 文 化はその地 とりわけ「 世 界の 船 舶 王」である で 生 きる 人 たちに 異 なる 気 質 と 精 1 9 世 紀 の 4 0 年 代 以 前 における 寧 包 玉 剛は名 声をとどろかせ、国 際 的 神 状 態をもたらす。中 国の十 大 商 人 波の商 人 集 団の活 動 範 囲は主に中 な 政 界 と 商 業 界 を 鼓 舞 し た と いっ 集 団のうちで「 寧 波 集 団」が 衰える 国 国 内であり、 特に 上 海では 6 0 万 ていい。当 時の世 界の十 大 船 舶 王の ことなく長く栄えた。その事 実は文 人の上 海 人のうち 4 0 万 人が寧 波 人 序 列では、包 玉 剛が安 定 的に第 1 位 化と歴 史に深く起 因している。 だといわれた。 当 時 の 商 業 界 では の座にあった。彼は英 国 首 相であっ 「中 国では上 海を見なければならず、 たチャーチルの夫 人と個 人 的に密 接 「四 明 公 所」 「浙 寧 会 館」などだった。 印象图, 18 4 7 年的宁波。 18 4 7 年の寧波。 イメージ, CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 17 特辑:文化浙东 根基于传统文化的宁波“商文化” 上半 夜忖 忖自己 后半 夜忖 忖别 人 — 信义 位于宁波市海 曙区内,有一座古 朴的藏书楼,叫“天一阁”。 这 座 建于 “上半夜忖 忖自己,后半夜忖 忖别人” , 就 是 做 生 意不能 只 想着自己,也要为 别人考虑。商业交易总是互利自愿的, 利人才能利己, 损人终会损己。 夜の前半は 明代嘉靖年间的藏书楼已有近 五百年 诚信,无 论 宁波 人 走 到 哪里,都 自分のことを思い 的历史,它是中国现存最早的 私 家 藏 是他们的一个支撑点。正是宁波人 这 後半は他 人のことを思う 书楼,也是 亚 洲现存最古老的 图书馆 种“信义” ,能 够让宁波 人位 列中国十 和 世界最早 的 三 大 家 族 图 书馆 之一。 大商帮,在世界赢得了尊重。 另一 位 它代 表着宁波 深 厚的文化 沉 淀,宁波 “世界船王”董 浩 云的友 人曾这样说, 人 勤 奋 好学、崇尚读书的民风。 在民 “我 认 为董 浩 云成 功之 道 就 是讲 信用, 间只要 有条 件,人们 总是 想办法 送自 这 是一笔无 形无 价 的财 富。 就 凭‘董 己的弟子去学堂开蒙识字。 浩 云’一 纸 签 名, 日本 最 大 造 船 厂愿 天一阁/ 天一閣(て ん い つ か く) 天 一 阁 是 中 国 现 存 的 最 古 老 的 书 库。由 明 代 的 官 吏 范 钦 建 造 的 私 家 藏 书 楼,位 于 浙 江 省 宁 波 市 月 湖 西 侧。1 9 9 4 年,宁 波 市 天 一 阁 博 物 馆 成 立。 天 一 閣は、明 代の中 国・ 明の官 史、范 欽が 建 てた 個 人 蔵 書 楼 で、現 存 する 中 国 最 古 の 書 庫 で あ る。 寧 波 市 の 月 湖 西 側 に あ り、 1 9 9 4 年からは 天 一 閣 博 物 館として 公 開さ れている。 18 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 仁、德、信、义是中国传 统 文化中 意为他制造 3 0 万吨的油轮,中东石油 人们 遵 循 的 道 德 标 准, 是 人修身 的 行 输 出 国 愿 和 他 签 订 10 年 的 运 油 合 为 基 础,也 是商业 道 德 的 根 本 基 石。 同。 ” 其中,信义 是 生意 人最为基 本的职 业 但除 此 之 外,宁波商帮文化不同 准 则。宁波人在传 统 文化的熏陶下深 于徽商、晋商的地方,是其不仅 从传 统 深 懂得“信义之 理” ,并将 其践行 于商 文化中汲 取营养,而且 从 海 洋 文化中 业活动中。所以,宁波有句谚 语,叫做 获得关键的“思变”力量。 特集: 文化の薫り高い浙東 Sea” f the ing o Tung ao h C ung Y K The “ 伝 統 文 化に根 差す寧 波の「商 文 化」、 の行 為の基 礎で、商 業 道 徳の根 本 的 て、中 国の十 大 商 人 集 団に列せられ それは信 義 な礎でもある。その中で信 義は商 売 るようになり、世 界から尊 敬を勝ち 人の最も基 本 的な職 業の原 則だ。寧 得た。もう 1 人の「世 界の船 舶 王」で 「天 一 閣」と呼ばれている。この書 庫 波 人は 伝 統 文 化の 薫 陶によって「信 ある董 浩 雲の友 人は「董 浩 雲の成 功 は 明 代 嘉 靖 年 間 に 建 てられたもの 義の 道 理」を 深く 理 解し、それを 商 への 道 は 信 義 を 重 んじることにほ で、 すでに 5 0 0 年 近い 歴 史を 持ち、 業 活 動の 中で 実 行する。 そのため、 かならず、それは無 形で無 価 値の財 中 国 に 現 存 する 最 も 古 い 私 的 な 書 寧 波には「夜の 前 半は 自 分のことを 産だ。そのため、董 浩 雲と紙に署 名 庫となっており、 アジアで 現 存する 思い、後 半は 他 人のことを 思う」と するだけで、日 本で最 大の造 船 会 社 最も古い図 書 館で、世 界で最も古い いうことわざがある。これは商 売は が 3 0 万 トン の タンカーの 建 造 を 引 三 大 家 族 図 書 館の 1 つでもある。こ 自 分のことだけを考えて行ってはな き 受け、中 東の 石 油 輸 出 国が 1 0 年 の書 庫は寧 波の文 化の深く厚い蓄 らず、他 人のことも考えなければな 間の石 油の販 売に同 意するのだ」と 積、寧 波 人の勤 勉さと好 学、読 書を らないという戒めだ。商 取 引は常に 語っている。 尊ぶ気 風を象 徴している。民 間では 互いの利 益を求めるもので、人に利 このほかにも、寧 波 商 人 集 団の文 条 件さえ 整っていれば、人々は 自 分 益 をもたらしてはじめて 自 分 も 利 化は安 徽 省の商 人や山 西 省の商 人 の 子 どもをどのようにして 学 校 に 益が得られ、人に損をさせればいず とは異なる部 分がある。それは伝 統 通 わせ 読 み 書 きを 習 わせるかを 常 れは 自 分 も 損 をするという 教 えで 文 化 からくみ 上 げた 養 分 だけでな に考えている。 もある。 く、海 洋 文 化の中で獲 得した重 要な 寧 波 市 海 曙 区に古い書 庫があり、 仁、徳、信、義は中 国の伝 統 文 化の 誠 実 さは 寧 波 人 がどこに 行 こう 中 で 人 が 守 り 従 うべき 道 徳 の 基 準 とも、彼らの心の支えとなるものだ。 であるとともに、人が身を修める際 寧 波 人はこのような「 信 義」 によっ 「思 変(熟 慮して変わる)」の力だ。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 19 特辑:文化浙东 海洋文化孕育下的“思变”精神 之后,宁波人便 潮水般 涌到上海,从最 宁波帮不仅在上 海,在 北 京也有 大陆文化是一种 农业 文化,由于 卑贱的劳动 做 起,白手起家。 “世界船 相当大的商业力量。宁波商人曾控 制 受到山河阻 挡,往 往具有一定的 狭 隘 王” 包 玉刚最初涉足 航 运 业时,父亲 着北京中药业、成衣业、钱庄业等行业。 性和保守性,求稳怕乱,墨守成 规。所 因 航 运 业已经 饱 和而反 对,但他依旧 明清时候的十大商帮, 发展到 2 0 世纪 以, “天不变 道 亦不变”的思想为大陆 坚持了下来,敢于在潮头冒险。而在经 初,有九大商帮淘汰出局,唯独留下了 文化所提倡。海洋文化则不同于大陆 济 最不景气 的 19 7 1 年,他 更冒险 地 “宁波帮” ,并一直薪火相传,成为浙商 文化, “ 海纳百川,有容乃大” , 它崇尚博 总吨位达到 向日本公司订造了 6 艘船, 的主干力量。可以说, “宁波帮”曾是中 大的胸襟和宏大的气魄,包罗万象,兼 15 0 万吨。随着国际 航 运的好 转,他 国 近 代 史 上 影 响 力最 大 的 商 帮之一, 容并蓄。 的 公司一 帆 风 顺,而且在当时处 于困 “无 宁不成 市” 的 说 法 充分 形 容了他 同时,大 海的气 象也是 瞬息万变 难时 期的日本造 船界赢得了尊重和赞 的,前一秒 还是平静祥和的海面,可能 誉。另一位“船王”董浩云早在年幼时 根基于 传 统 文化,宁波 人坚守着 在下一秒就 忽而卷起 大 风 大 浪,电闪 便说, “ 地 球 表面四分之 三是 海 洋,我 商人最为基本的“信义”;而在海洋文 雷鸣。所以,从事海上贸易的人总是知 应该像郑和一样有雄心去征服海 化 的熏 陶下,宁波 人养成了善于思变 道,必须随时关注气象,随时准备好应 洋。 ” 的性格,更容易接受新事物,这便构成 对突如其来的暴风雨。 对于宁波来说,大 海 是冒险 之 海, 们的地位。 当海 外 轮船 进 入中国,宁波帮就 了宁 波 商 文化 的 两 大 主体。 特 别 是 转向经营轮船业。而当他们意识 到钱 “思变”精神,使得他们没有把外来文 也是生存之海,危险与希望共存。要生 庄将 被银 行 淘汰时,他们就开始操 办 化和外来的商业竞争者视为洪水猛兽, 存,就要踏上这危险的路途,并随时应 银 行。18 9 7 年,在宁波帮的努力之下, 而是以他们对待大海般的包容和思变, 对一切 挑 战。 基于这种 环 境,造 就了 上 海 成 立中 国 第一 家 银 行 —— 中 国 取 人 之长和补己之 短,这 是 他们区 别 宁波人 顽 强开拓、冒险 创新的“思变” 上海商务会议公 通商银行。19 0 2 年, 于徽商、晋商等商帮,能够在中国十大 性格,这使他们在日后机会来临时,便 所成立, 这便是日后引领上海工商业的 商帮中久 盛不衰,最 终 一家独 大的深 “上海商务总会”的前称,而上海工商 刻原因, 也是宁波商文化的精髓所在。 一涌成为时代的弄潮儿。 善于捕捉机遇, 开拓新的领域, 是 “宁波帮”迅 速崛起的秘诀。上海开埠 20 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 界则在当时引领着中国工商界的前进 方向。 特集: 文化の薫り高い浙東 海 洋 文 化が育んだ「思 変」精 神 海が開 港されてから、寧 波 人は次々 宁 波 商 帮文化 大 陸 文 化は一 種の農 業 文 化で、山 と上 海に移り住み、最も卑しい労 働 河に妨げられ、往々にして偏 狭 性と から始めて、起 業するに至った。 「世 保 守 性を持ち、安 定を求め混 乱を嫌 界の船 舶 王」の包 玉 剛が最 初に水 上 い、古いやり方を固 守する。そのた 運 輸 業を始めたとき、彼の父 親は水 め「 天に 変 化なく、 道もまた 変 化な 運 業 はすでに 飽 和 状 態 であるとし し」というのが大 陸 文 化の提 唱する て反 対したが、彼はその仕 事を続け 思 想となっている。海 洋 文 化は大 陸 た。そして 最 も 不 景 気 だった 1 9 7 1 文 化 と 異 なり、「 海 が 多 くの 川 の 水 年に彼は日 本の造 船 会 社に 6 隻の を受け入れるように、度 量が大きい」 船の建 造を発 注し、総トン数は 1 5 0 や農 業、私 設 金 融 機 関などの業 界を のが特 徴で、大きな志と強い意 気 込 万トンに達した。国 際 水 運が好 転す 牛 耳っていた。明や清の時 代の十 大 みを尊 重し、万 象を網 羅して、さま るにつれて、彼の会 社は順 風 満 帆と 商 人 集 団 のうち 2 0 世 紀 になると 9 ざまなものを 受 け 入 れて 肥 やしと なり、当 時 困 難な時 期にあった日 本 つの 商 業 集 団が 淘 汰され、「寧 波 集 する。 の 造 船 業 界 から 尊 敬 と 賞 賛 を 受 け 団」だけが 生き 残り、浙 江の 商 業の また、大 海の気 象は瞬 時に大きく た。もう 1 人の「船 舶 王」董 浩 雲は幼 主 力となった。 「寧 波 集 団」は中 国の 変 化し、少し前に穏やかだった海 面 少の頃、 「地 球の表 面の 4 分の 3 は海 近 代 史 上 最 も 大 きな 影 響 力 を 持っ にもあっという間に強 風や大 波、稲 だ。僕は鄭 和と同じように大きな志 ていた 商 業 集 団 の 1 つであり、「 寧 光、雷 鳴が巻き起こる。そのため、海 を 持って 海を 征 服する」と 言ってい 波がなければ市が立たない」と形 容 上 貿 易に従 事する者は、いつも気 象 た。 されるまでになった。 海 纳百川有 容乃 大 寧波の商人文化は 海が多くの川を 受け入れるように 度量が大きい に 注 意 し 突 然 襲って く る 暴 風 雨 に 海 外 の 船 が 中 国 に 入って 来 る に 伝 統 文 化に根 差し、寧 波 人は商 人 備えなければならないことを知って 当たって、寧 波 集 団は船 舶 業に経 営 の基 本である「信 義」を堅 守した。そ いる。 を転 換した。当 時の彼らは、私 営の して 海 洋 文 化 の 薫 陶 のもとで 思 変 寧 波についていえば、大 海は冒 険 金 融 機 関 が 銀 行 に よって 淘 汰 さ れ の性 格を養い、新しい事 物を取り入 の海であり、生 存の海であり、危 険 る時 期だと感じており、銀 行の経 営 れた。それが寧 波 商 文 化の2つの大 と希 望が共 存する場だ。生きるため も 始 めた。1 8 9 7 年、 寧 波 集 団 の 努 きな柱となった。特に「思 変」の精 神 には 危 険 な 道 をたどらねばならず、 力によって、上 海に中 国で初めての によって、彼らは外 来 文 化と外 来の 相 手 からの 挑 戦 のすべてに 対 応 し 銀 行 である 中 国 通 商 銀 行 が 成 立 し 商 業 の 競 争 相 手 を 洪 水 ごとく 押 し なければならない。このような環 境 た。1 9 0 2 年には 上 海 商 務 会 議 公 所 寄せる猛 獣とはみなさず、それらに によって、寧 波 人は頑 強に開 拓し冒 が成 立した。これはのちに上 海の商 大 海 のような 包 容 力 と 変 化 の 力 で 険と 創 新を 続ける「 思 変」の 気 質を 工 業を 統 率した「上 海 商 務 総 会」の 対 応し、人の長 所を取り入れ短 所を 得た。 チャンスが 訪れたとき、寧 波 旧 称だ。そして、上 海の商 工 業 界は 補った。それが安 徽 商 人 集 団や山 西 人はそのような気 質を発 揮し、時 代 当 時の中 国の商 工 業 界を引っ張って 商 人 集 団との違いであり、中 国 十 商 のチャレンジャーとなるのだ。 前 進させた。 人 集 団 の 中 で 衰 えることなく 栄 え、 チャンスをつかむことに 長け、新 寧 波 集 団は上 海だけでなく、北 京 ついにはその 中 で 唯 一 生 き 残 る 存 しい 領 域 を 開 拓 することが、「 寧 波 でもかなり 大 きな 商 業 の 力 を 有 し 在となった原 因であり、寧 波 商 文 化 集 団」が急 速に興 隆した秘 訣だ。上 ていた。寧 波 商 人はかつて北 京の薬 の真 髄もそこにある。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 21 特辑:文化浙东 浙 的魅力 ❹ 精 彩 纷呈 的 舟山美食 文化 素晴らしい 舟山の美食文化 文・FUJITAMA 22 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 舟 山群岛,共 有 13 9 0 多个岛屿, 如“海天佛国”普陀山、 “列岛风光”嵊 犹 如一颗 颗明珠镶 嵌在 碧蓝 、桃花传奇”桃花岛 “ 、碧海金 沙” 泗 “ 的大海上。而舟山的美食,也星罗棋布 、东 极 之 朱 家 尖、 “蓬 莱 仙岛” 岱 山 “ 地覆盖了群岛的每一个角落。 光”东极等。只是听其名,就已经让人 如果你热爱 旅 游,喜爱 欣 赏美景 神往;何况 欣赏这些美景的同时,还可 和品尝美食,那么一定要到舟山来,这 以品尝到特 色的舟山美食,难 怪很多 里的美景 让你流 连 忘返,这 里的美食 人年年都像候鸟一样,定期往 返舟山。 让你馋涎欲滴。 因为这 里的美食与美 景,牵引着一 颗 舟山旅 游资源丰富,景点很多,比 颗热爱生活的心灵。 特 集 : 文化の薫り高い浙東 舟 山 群 島には合わせて 1300 りがたい思いにするだろうし、その の名を聞いただけで、人はその地に 余りの島があり、あたかも紺 地 の 美 食 にはよだれを 垂 らさざる あこがれる。舟 山では美しい風 景を を得ないだろう。 眺めると同 時に、特 色ある美 食も味 碧 の 海 に 真 珠 を 散 りばめたようだ。 舟 山 の 美 食 も 群 島 の 至 るところに 舟 山の観 光 資 源は豊 富で見 所も わうこともでき、多くの人が渡り鳥 多い。例えば「海 天 仏 国」と呼ばれる のように 毎 年 定 期 的 に 舟 山 を 訪 れ 普 陀 山、「列 島 風 景」の嵊 泗、「桃の る。この地の美 食と美 景は、生 活を 風 景 を 見 て 美 食 を 味 わいたいなら、 花の伝 奇」の桃 花 島、「青い海と金の 愛する心を呼び覚ましてくれる。 舟 山に行くといい。その地の美しい 砂」の朱 家 尖、「蓬 莱の仙 人の島」の 風 景は、あなたを名 残 惜しく立ち去 岱 山、「東 極の光」の東 極などだ。そ 存 在している。 もし、あなたが旅 行 好きで美しい CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 23 特辑:文化浙东 “ 靠 海 吃 海”的 舟山海鲜 盛宴 「海に依存し海を食す」 舟山の美食 舟 山 の 漁 場 は 台 湾 暖 流 と 日 本 の 千 島 寒 流 が 交 じり 合 う影 響で、自 然 環 境に優れ、餌が豊 富で、当 地に水 性 動 物 の生 息と繁 殖、成 長に適した環 境をもたらしている。舟 山 漁 場は大 戢 漁 場、嵊 山 漁 場、浪 崗 漁 場、黄 澤 漁 場、岱 衢 漁 場、中 街 山 漁 場、洋 鞍 漁 場、金 塘 漁 場に分けられる。 舟 山 漁 場は中 国 最 大の漁 場であるだけでなく、世 界の 舟山渔 场因受台湾 暖 流 和日本千岛寒 流 的交 汇 影 有 名な漁 場の 1 つでもあり、「祖 国の漁の都」と呼ばれて 响,自然环 境优 越,饵 料丰富,给当地 水生动物的栖息、 いる。舟 山 漁 場は古くから漁 業 資 源が豊 富なことで知ら 繁殖和生长提供了很 好的物质环境。舟山渔场可分为大 れ、漁 場では大 黄 魚(フウセイ)、小 黄 魚(キグチ)、タチウオ、 戢渔场、嵊山渔场、浪岗渔场、黄泽渔场、岱衢渔场、中街 イカの 4 つの 養 殖 魚が 主 要な 水 産 物になっている。 漁 獲 山渔场、洋鞍渔场和金塘渔场。 される主な魚は、タチウオ、サワラ、ウミウナギ、マサバ、ナ 舟山渔场不仅是中国最大的渔场,也是世界著名渔 ンカイウマヅラハギ、ハタ、ガザミ、エビなど 3 6 種 類を超 场之一,有着“祖国渔都”之称。舟山渔场自古以来因渔 える。舟 山の黄 魚、タチウオ、ハタ、ザリガニおよびカキ、ハ 业资源丰富而闻名,渔场内以大黄鱼、小黄鱼、带鱼和墨 マグリ、エビ、カニ、さらに干 貝、アオガニなどは、どれも特 鱼 4 大家鱼为主要渔 产。捕 捞的主要品种有带鱼、马鲛 色があり 海 鮮の 名 品となっている。 飲 食もおのずから 海 鱼、海鳗、鲐鱼、马面鱼、石斑鱼、梭子蟹和虾类等 3 6 余 鮮が特 色となり、主な調 理 法と食べ方は蒸す、しょうゆ漬 种。舟山的黄鱼、带鱼、石斑鱼、锦绣龙 虾及蛎、蛤、虾、蟹, け、塩 漬け、干す、生で食べるとなっている。主 要な料 理は 还有淡菜、青蟹等, 都是极具特色的海鲜名品。在饮食方 塩 漬け干し黄 魚と鶏の蒸し物、干し黄 魚の塩 漬けと肉の 面自然以海鲜为特色,烹饪的主要特点为清蒸、酱渍、盐 焼き物、ヒラメの炒め煮、エビの塩 焼き、嵊 泗の巻 貝の塩 渍、风干和生吃。主要的风味名菜有:白鲞扣本鸡、黄鱼 辛 漬け、嵊 泗のガザミ蒸し、アサリのネギ油 炒め、マナガツ 鲞 烤肉、大烤目鱼、盐 焗基围虾、嵊泗螺酱、嵊泗梭子蟹、 オの薫 製、ウナギの千 切りとセロリの炒め物、干しタニシ 葱油海瓜子、烟熏鲳鱼、芹菜 炒鳗 丝、风 味 螺肉干、咸肉 の塩 辛 漬け、塩 漬け干し肉とカニの姿 蒸し、カレー風 味の 蒸白蟹、咖喱螃蟹等。 カニなどだ。 24 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 特集: 文化の薫り高い浙東 カニは味がよく、古くから多くの人に愛されてきた。こと わざに「カニは腹を裏 切らない」とあり、晩 唐の詩 人・ 唐 彦 謙も 蟹のおいしさを「 充 盘 煮 熟 堆 琳 琅、 橙 膏 酱 渫 調 堪 嘗。 一 斗 擘 開 红 玉 満,双 螯 囉 出 琼 酥 香。 (皿の 上にてんこ 盛り の茹で上がった美 食 達、オレンジのソースは食 欲をそそる。 真っ赤に染まった体を開けば身が詰まり、両ハサミから立ち 上る香りのなんとかぐわしいことか。)」と詩に詠んでいる。 その詩を読むと、よく肥えたカニがあたかも目の前にあり、 カニの香りが時を越えて漂ってくるかのように感じられる。 螃 蟹味 道 鲜美,自古以 来 广受 人们喜爱。 古 语曰 “不食螃蟹辜负腹” ,唐彦谦的《蟹》中写道“充盘煮熟堆 昔からカニの 味わいの 話をすると、 食べたくなってよだれ が垂れるほどだといわれている。 琳琅, 橙膏酱渫调堪尝。一斗擘开红玉满, 双螯啰出琼酥 舟 山 漁 場で 捕れるカニは 種 類が 多く、1 0 0 種 類 近くに 及 香。”肥美鲜香的 螃 蟹 仿佛近在眼前,螃 蟹的香 味 穿越 ぶ。形はさまざまで、資 源が最も豊 富なのはガザミだ。旧 暦 千百年时光,扑面而来,由古至今,谈 起螃蟹的美味,无不 の 9 月 以 降に捕れるカニは大きく、身がふっくらしていて、 让人垂涎欲滴。 栄 養も豊 富で、味はみずみずしい。ガザミは食 用、薬 用とな 舟山渔场上蟹的种类很多,约有近百种,形态各有 るほか、可 溶 性の甲 羅の物 質を抽 出し、紡 績の染 料や人 造 不同,其中资源 最为丰富产量最高的要数 三疣 梭 子蟹。 繊 維、製 紙、木 材 加 工、プラスチックなどの工 業にも利 用さ 农历九月以后捕捉的蟹,形体健硕、肉质饱满、营养丰富、 れる。ガザミの食 用になる部 分はカルシウムや鉄 分、タンパ 味道鲜美 ! 梭子蟹可以食用,可入药,还可提 炼可溶性甲 ク質、脂 肪、糖 類、無 機 塩 類、ビタミンA などの多くの成 分を 壳质,用于纺织印染、人造 纤维、造 纸、木材加工、塑料等 含んでいる。 工业。梭子蟹食用部分含 钙、铁、蛋白质、脂肪、糖类、无 机盐及维生素 A 等诸多成份。 舟 山を訪れると、カニのあらゆる食べ方を体 験できる。生 きたカニを 蒸す 食べ 方はカニの 味が 濃く、塩 辛い 中に 甘さ 来舟山,可以尝遍 所有蟹的吃法,无论是 鲜美无比 がある。そのほかにもカニのしょうゆ煮、ガザミのネギ油 炒 的蒸笼活蟹,还是蟹味 浓 厚,咸中带甜的呛蟹,或者是鲜 め、肉のきめが細かく色と香りと味がともにいい塩 漬け卵 香美味的红 烧 螃蟹、葱油梭子蟹和肉质细 腻、色香味俱 の 黄 身とカニの 炒め 物がある。 それらはきっとあなたに 味 全的咸蛋黄炒蟹 …… 都能给 你带来一场味觉盛宴。 覚の盛 大な宴を提 供してくれるだろう。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 25 特辑:文化浙东 海天佛国普陀山 普 海天仏国の普陀山 陀 山 享 有“海 天 佛 国”“ 、人 石等。在山海相接的地方有许多石 可清炖、可生炒,能够烹调几十种风 间第一清 静境”的美称,它 洞景观,著名景 点 潮音 洞 和梵 音 洞 味各异的菜肴。来到普陀山,品尝大 是 舟山群岛中的一 个小岛,形 似苍 都 在 这 里。普陀山周围还 有许多沙 黄 鱼 最 著名的 做 法 — 咸 菜 大 黄 龙卧海。普陀山气候宜人、风景秀丽、 滩,但主要的是百步沙和千步沙。千 鱼。 鲜香浓郁的咸 菜,配 上鲜 嫩多 历史 悠久、宗 教 文化 浓 厚。 每年的 步沙是一个弧 形沙滩,沙坡柔缓,沙 汁的大黄鱼,这 是 招待 客人 必备 农历二月十九、六月十九、九月十九 面 舒 软, 是 一 个 优良 的 海 水 浴 场。 的家常菜。再配 上山里的雪菜、 是观音香会、朝圣盛典,海内外香客、 夏天来这里,踩在金色的沙滩上,吹 笋片,经过精心的熬制,一锅咸、 游 客比肩接踵,虔诚 膜 拜,场面恭肃 着凉 爽的海风,畅 游 在 蔚 蓝 清 澈的 鲜、香合一,汤白、味 醇、肉嫩 壮观。普陀山与四川峨眉山、安徽九 海 水里,赏心悦目,通体 舒 畅,一定 的咸菜大黄鱼就恭候您下 华山、山西五台山并称为中国 佛 教 会带给 你一场终生难忘的旅行。 筷啦。 四大名山。 普陀山有许多奇岩 怪石,著名 的有二龟听法石、海天佛国石、磐陀 普 普陀山最具特色的美食就是 大黄鱼。大黄鱼肉质鲜嫩, 入口绵柔。 而且营养 丰富,做 法多样,可红 烧、 陀 山 に は「 海 天 仏 国 」 「人 ある。普 陀 山の周 囲には多くの砂 く 多 汁 の 大 黄 魚 の 組 み 合 わせは、 の第 一の清 浄 境」という美 浜があり、主な砂 浜は百 歩 沙、千 家に客を招くときの欠かせない家 称がある。普 陀 山は舟 山 群 島の 1 歩 沙となっている。千 歩 沙は弧を 庭 料 理となっている。さらに高 菜、 つの小 島で、蒼 竜が海に横たわっ 描く砂 浜で、浜の傾 斜は緩やかで、 タケノコ を 加 えて 丹 念 に 煮 れば、 ている形に似ている。気 候がよく、 砂は柔らかく、良 好な海 水 浴 場だ。 鍋の中で塩 辛さ、新 鮮さ、香りが 1 風 景が美しく、歴 史も長く、宗 教 夏にここを訪れ、金 色の砂 浜でさ つになり、スープは白く、味が濃く、 文 化が色 濃く感じられる。毎 年 旧 わやかな風に吹かれ、青く清らか 肉が柔らかい漬 物と大 黄 魚の料 暦 の 2 月 1 9 日、6 月 1 9 日、9 月 1 9 な海 水の中で遊び、心と目を楽し 理が出 来 上がり、 それを一 口 食 日 に 開 かれる 観 音 香 会 は 巡 礼 が ませ、体を伸び伸びとさせれば、あ べると 箸 が 止 まらなくなるに 違 盛 大で、国 内 外から多くの人がひ なたにとって生 涯 忘れられない旅 いない。 っきりなしに訪れ、信 心 深く頭を になるだろう。 垂れる。その様 子は恭しく壮 観だ。 普 陀 山の最も特 徴 的な美 食は 普 陀 山は四 川 省の峨 眉 山、安 徽 省 大 黄 魚だ。大 黄 魚は肉 質がみずみ の九 華 山、山 西 省の五 台 山と並ん ずしく、口に 入れるととろけるよ で、中 国 仏 教の四 大 名 山と称せら うだ。栄 養も豊 富で、多くの調 理 れている。 法がある。醤 油 煮もいいし、塩 煮 普 陀 山 には 奇 岩 怪 石 が 数 多 く もいいし、炒めてもいい。調 理 法 あり、二 亀 聴 法 石、海 天 仏 国 石、磐 によって数 十 種 類の味の異なる料 陀 石などが有 名だ。山と海が接す 理が生まれる。最も有 名な大 黄 魚 るエリア には 石 洞 の 風 景 が 多 い。 の料 理は、漬 物と大 黄 魚だ。味と 有 名な潮 音 洞、梵 音 洞もこの地に 香 りの 濃 い 漬 物 と 新 鮮 で 柔 らか 26 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 4 2 1 特集: 文化の薫り高い浙東 桃 花岛景色宜人,岛上高山绵延,怪石奇礁,山花烂漫,清涧溪 流, 佳木繁秀,林壑幽美,郁郁葱葱,风光旖旎,植被覆盖率 7 5% 以 上,有“海岛植物园”之称。全岛由塔湾金 沙、安期峰、大佛岩、桃花港、 鹁鸪门、乌石砾滩六大景区组 成:有龙女峰、东海明珠、白雀寺、圣岩寺、 含羞观音、仙人桥、黄药师居室、清音洞等 6 0 多处景点。 桃花岛上每年桃花盛开时,远 远望去,云蒸霞蔚,灿如星海,吸引大 批 游 客前往。如果登临眺望,进山远 海,层层美景,尽 收眼 底,令人叹 为 观 止!而最 令人魂 牵梦萦的是每年 桃 花 盛开时节的“桃 花鱼宴” ,舟山 最鲜美的鱼类,配上桃 花岛最鲜 艳的桃 花,香气扑鼻,入口回味间唇齿 留香。每当和煦的春风吹 起, 都无比怀念桃花鱼宴! 3 桃 花 島は景 色がよく、島には高い山が連なり、怪 石や奇 勝があ り、山には花がらんまんと咲き、渓 谷には清い水が流れ、美 しい木が茂り、森は静かで草が生い茂り、景 色は穏やかだ。島の 7 5 % 以 上が植 物に覆われ、「海の島の植 物 園」と呼ばれている。島は塔 湾 金 沙、安 期 峰、大 仏 岩、桃 花 港、鵓 鴣 門、鳥 石 礫 灘の六 大 景 区から成 っている。竜 女 峰、東 海 明 珠、白 雀 寺、聖 岩 寺、含 羞 観 音、仙 人 橋、黄 薬 師 居 室、清 音 洞など 6 0 余りの観 光 地がある。 桃 花 島は毎 年、桃の花の盛りの季 節には、遠くから見ると雲が立 ち昇り、かすみが集まり、光に照らされた花が海のようにきらきら と輝いて、多くの観 光 客を引き付ける。山に登って眺め、山に入って 遠い 海を 見れば、 重なり 合った 美しい 風 景が 一 望のもとに 見 渡せ、 この上ない素 晴らしいものを見たと賛 嘆するだろう。そして、人を 最も魅 了しているのが、桃の花が盛りとなる季 節の「桃 花 魚 宴」だ。 桃 花 島 の 最 も 味 のいい 魚 を 島 の 最 もあでやかな 桃 の 花 と 組 み 合 わ 5 せた料 理で、濃 厚な香りと味が口いっぱいに広がる。毎 年、暖かい春 風が吹く季 節になると、桃 花 魚 宴が恋しくなる。 世 外 桃 源 桃 花岛 桃 源 郷の桃花島 1. 普陀山百步沙/普陀山百歩 沙 2 . 普陀山海天佛国石/普陀山海天仏国石 6 3 . 普陀山海滩/普陀山の海岸 4 . 普陀山美食大黄鱼/普陀山の美食 大黄 魚 5 . 桃花岛桃花盛开时/桃が満開の桃 花島 6 . 桃花岛海滩/桃 花島の海岸 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 27 特辑:文化浙东 沙 雕 名城 朱 家尖 砂の彫刻で知られる朱家尖 8 朱 家 尖 与 相 距 1. 3 5 海 里 的 里金 沙总长 6 . 3 千米,面 积 1. 4 4 平 “海天 佛国”普陀山并称普 方千米。十里金 沙拥有华东地区最 陀山国家级重点风景名胜区。 朱家尖岛上金 沙 连 绵,碧浪 荡 大的沙 滩群青沙、里沙、千沙、南沙、 东沙等九个沙 滩,绵延 5 千米多米, 漾,在美丽的海滩上,鱼虾 在水里嬉 景色颇 为壮观,滨 海 旅 游资源十 分 戏,螃蟹在沙滩上横行,海浪 涌上来 丰富。最令人向往的是沙雕节,朱家 又 退去,美丽的贝壳在阳光下闪着 尖的沙滩是制作沙雕作品的理想 莹润 的光泽,漫步在 沙 滩 上像是 身 材料。从 19 9 9 年起,在朱家尖南沙 在画中一样。 远 处 点 点 渔 船,在 碧 已经 成 功 举 办了十多届中国舟山国 海蓝天之间悠悠荡荡,飘悠摇曳,好 际 沙 雕 节,届时 世界 各地 的能 工巧 似在空中飞翔一般。 匠汇聚在此,在他们的精心雕 琢下, 原 本无 生命 的 沙 子 变 得 富 有生 机, 7. 朱家尖东沙海滨浴场/朱 家尖 海 水浴場 国 际 沙 雕 组 织 W S S A 确 认 为 世界 充满活力,栩栩如生的沙雕艺术,吸 8 . 朱家尖 沙雕/朱 家尖 砂の彫刻 上沙质和风景最 好的沙 滩 之一。十 引无数 海内外游客从四面八方赶来。 9 . 朱家尖 慈 航 广场/朱 家尖慈航 広場 朱家尖 最为著名的是 沙 滩,被 28 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 特 集 : 文化の薫り高い浙東 朱 家 尖 は 1 .3 5 海 里 離 れ た 所 いる。 十 里 金 沙は 長さ 6 .3 キロ、面 にある「海 天 仏 国」の普 陀 山 積は 1 .4 4 平 方キロとなっている。十 と 共に 普 陀 山 国 家 級 重 点 風 景 名 勝 里 金 沙は華 東 地 区で最 大の砂 浜 群 区と併 称される。 を有し、青 沙、里 沙、千 沙、南 沙、東 沙 朱 家 尖 島 に は 金 の 砂 が 延々と 続 などの 9 つの 砂 浜 が 5 0 0 0 メートル き、紺 碧の波が漂い、美しい砂 浜で 余りにわたって続いている。景 色は は魚やエビが水の中で泳ぎ回り、カ 壮 観で海 浜の観 光 資 源が豊 富だ。砂 ニが砂 浜の上を這っている。波が寄 の 彫 刻 祭 りに 多 くの 人 が 足 を 運 ぶ せては返し、美しい貝 殻が陽 光のも のは、朱 家 尖の砂 浜が砂の彫 刻 制 作 とできらきらと輝き、砂 浜を散 歩し に 理 想 的 な 素 材 と なって い る か ら ているとまるで 絵 の 中 に 身 を 置 い だ。1 9 9 9 年 に 始 まり、 朱 家 尖 の 南 たような気 分になる。遠くに漁 船が 沙ですでに 1 0 回の中 国 舟 山 国 際 砂 小さく見え、紺 碧の海と青い空の間 の彫 刻 祭りが開かれている。祭りで でゆらゆらと漂い、空 中を飛 翔して は 世 界 各 地 から 優 れた 技 を 持 つ 芸 いるようだ。 術 家がこの地を訪れる。彼らが心を 朱 家 尖で 最も 有 名なのは 砂 浜で、 込めた砂の彫 刻は、もともと命のな 国 際 的な砂の彫 刻の組 織である い砂に生 命 力を与え、活 力を充 満さ WSSAが 世 界 で 最 も 砂 の 質 がよく、 せ、生きているかのような砂の芸 術 風 景も美しい砂 浜の 1 つに認 定して が、国 内 外の観 光 客を魅 了している。 7 舟山旅 游资源极 其丰富,美景 9 舟 山の観 光 資 源は非 常に豊 富 数不胜 数, “观 海景、钓海鱼、游佛国、 で、美しい風 景は数 知れず、「海の 玩 沙 滩、尝海 鲜”是岛上 旅 游的主 景 色を楽しみ、海の魚を釣り、仏の 要内容,游览美 景的同时也能 充分 国をゆっくりと歩き、砂 浜で遊び、 感受 海 鲜美食 文化。 舟山,正敞 开 海 鮮を味わう」のが、島の観 光の主 怀抱, 欢 迎每一位客人! な内 容となっている。美しい風 景 を 見 ると 同 時 に 海 鮮 の 美 食 文 化 を十 分に堪 能できる。舟 山は心を 開 いて 1 人 1 人 の 客 を 歓 迎 してく れる。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 29 印・象 中国的饮食生活 中国での食生 活 文・桑 原 美 智 子 自从 到中国留学以 来,我 发现了许多中日文化间的差异, 这其中又 尤以“吃”最能 彰显中国特色。日本也有很多人喜欢 中华料理, 中华料理店随处可见。炒饭、麻婆豆腐、饺子等, 都是 日本餐桌上可以 见到的菜色。接下来,我将为大家简单介 绍一 下留学生眼中地道的中国饮食生活。 中 国に留 学してから色々と日 中 文 化の差を発 見すること が多いが、その中でも『食』に関して最も中 国らしさが顕 著 に表れている。日 本でも多くの人が中 華 料 理を好み、中 華 料 理 店は 至る 所で 見かけることができる。 チャーハンや 麻 婆 豆 腐、餃 子などは日 本の食 卓でも見られるメニューではない だろうか。では本 場 中 国での食 生 活はどのようなものか留 学 生の目から見た様 子を少し紹 介したいと思う。 ❶ 大学校内就 餐 / 大学内の食事 比 起日本的 食 堂,中国的 食 也由咸到淡,各有不同。不仅 如此, 牛奶,因此 豆 浆在日本不太有名。 堂菜色多样、价格低廉。一顿饭花 我们还能直接看到窗口里大师傅 但中国人认 为豆浆有益身 体健 康, 不到 10 块钱(折合 2 0 0 日元)就 做 面条 的 样子,这也 是 在日本 很 所以在中国豆 浆饮品随 处可见 且 能吃饱。在食堂打饭时,首先要在 难 见到的景象。我最喜欢的是 刀 种类繁多。学 校 里的绝 大部分 食 喜欢的菜品所在的窗口前排队 点 削面,作为中国 代 表 性 的面食 之 堂都 有豆 浆出售,学生们 还能 喝 餐。当然,大受欢 迎的菜品窗口前 一,刀削面是山西传 统美食,其特 到食堂阿姨当场制作的鲜 榨豆浆。 经常会有很多人排队。买饭时,要 点在于面条虽宽,却软而不黏,越 豆浆略带甘甜、口味清爽,喜好甜 使用学生证 刷卡支付。 嚼越有滋味。刀削面的另一魅力 食的人们还可以 选 择在豆浆中加 在于,竟 然 只 要 4 块 钱(8 0 日元 糖。其价格从 2 . 5 元(5 0 日元)到 窗口,我 个人非常喜欢中国面食。 左右)就可以吃到,在日本几乎不 4 元(8 0 日元)不等,亦可每日更 说 起日本的面,可能也 就是拉面、 可能 这么便 宜 就 解 决 一餐,但在 换 来尝试 豆浆的不同口味。我最 乌冬面、荞麦面这 些 经典面食了, 中国却可以实现。 喜欢 黑 芝 麻 味 的豆 浆,几乎每天 大学里还有专门出售面条的 但中国 的面条 却 种 类 繁多,口味 30 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 另外,大多 数日本人喜欢 喝 都喝。 印・象 中国的大学食堂一瞥 中 国の大 学の食 堂 風 景 此外,食堂里还有专门卖水 棒!” 但我 们 也曾遭 受 过 文化不 果的窗口,要是吃完饭 后想 来点 同而带来的冲击。来 到中国后最 什么水果的话,立刻就能在食堂 初难 以 适 应的 生 活习惯 之一,便 里买到,这真是太难得了。例如, 是 中 国 和日本 的 就 餐 时 段 不 同。 夏 天 窗 口 就 会 放 有 许 多大 大 的 在中国,很多人会在 11 点到 12 点 西瓜,窗口阿姨会根 据学生的要 5 点 到 6 点左右吃 晚 左右吃午饭, 求切好。 日本的水果非常贵,就 饭。因此,食堂只在相应时段营业 算超市里有西瓜出售,也大多会 是常态,我初来 北 京时 还 没有调 因为价格太贵而舍不得买。但在 整 好肠胃生物 钟,常常会 遇 到去 中国,四分之一 个西瓜 只要 4 块 晚了菜品已经被全 部卖完的现 象。 钱(8 0 日元 左右)就能买到,所 而且要是 12 点左 右去食 堂的 话, 以不 知 不觉 地 在 夏 天 每 天 都 会 还会碰 到好多学生一齐涌向食堂, 吃西瓜。据 说,校 外市场里的西 非常难 找 座位,很 是 慌 乱。 即 便 瓜价格更便 宜。这样听来,大家 是 过了一年之 后,在食 堂 找 座 位 可 能 会 觉 得“ 中 国 的 食 堂 好 仍是件难事。 中 国の 食 堂は、 日 本の 食 堂よりメニューが 豊 富 様々である。窓 口の奥で料 理 人が麺を作っている様 で、 何よりとても 安い。 一 食 1 0 元 以 内( 日 本 円で 子を直に見ることができ、これもなかなか日 本で見 2 0 0 円 以 内)でたくさん食べることができてしまう。 られない 光 景である。 私が 一 番 好きなのは 刀 削 麺 食 堂でおかずを買うとき、まずは好きなおかずを売 で、中 国を代 表する麺 料 理の一つである。刀 削 麺は っている窓 口の前に並び注 文する。もちろん人 気な 山 西 省の伝 統 的な食べ物で、麺に特 徴があり、とて おかずを 取 り 扱っている 窓 口 前 には 多 くの 人 が 並 も太く、柔らかいのにねちっこくない。そして噛め んでいる。おかずを購 入する際は学 生 証でカード払 いをする。 大 学 内に、 麺を 専 門に 扱っている 窓 口があるの だが、 個 人 的には 中 国の 麺 料 理が 一 番のお 気に 入 りだ。日 本で麺といえば、ラーメンやうどん、そばと いったところが定 番だろうが、中 国では麺の種 類が 豊 富 であり、 味 付 けも 濃 いものから 薄 いものまで 在 中 国 的 大 学 食 堂,能 从 窗 口 直 接 看 到 厨 师 制 作 面 条 的 样 子。 中 国の大 学の食 堂では、料 理 人が麺を作っている様 子を直に見ることができる。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 31 印・象 ば 噛むほど 味が 深まる。 刀 削 麺の 魅 力はそれだけ でない。 なんとたった 4 元( 8 0 円ほど)で食べるこ とができ、日 本でこんな安い値 段で一 食が済んでし まうことはほぼありえないと 思 われるが 中 国 では できるのだ。 また、日 本 人の多くは牛 乳を好むため、豆 乳はあ まり 有 名でない。 しかし 中 国 人は 豆 乳が 健 康にい いと考えているので、豆 乳の種 類も多く、いろいろ な 場 所で 購 入が 出 来る。 学 内のほとんどの 食 堂で 豆 乳を売っている。学 生 達はその場でおばさんが作 った 出 来 立ての 豆 乳を 飲むことができる。 ほんの 大 学 食 堂 里 出 售 的 豆 浆 饮 品。 り甘く、さっぱりとした味で、甘いのが好きな人は 大 学の食 堂で売られている豆 乳 製 品。 豆 乳の中に砂 糖を加えることもできる。値 段は 2 .5 元( 5 0 円)から 4 元( 8 0 円)くらいであり、日 替わり 高く、 スーパーでたとえスイカが 売っていたとして で 豆 乳の 味 試しをすることもできる。 私は 最も 好 も、高いためとても 買う 気になれないことが 多い。 きな黒 胡 麻 味の豆 乳をほぼ毎 日 飲んでいる。 し か し 中 国 で は 1 /4 サイズ の スイカ が 4 元 ほ ど で その 他、 食 堂の 中に 果 物を 専 門に 扱っている 窓 ( 8 0 円くらい)で買えてしまうため、ついつい夏は 口まであり、ご飯を食べ終わったあとに何か果 物が 毎 日スイカを 食べてしまう。 聞くところによれば、 欲しいな、と思えばすぐ食 堂 内で果 物が買えてしま 校 外のスーパーで 売っているスイカの 価 格はもっと うのはとてもありがたい。たとえば夏は店に大きい 安いらしい。 こう 聞くと、『中 国の 食 堂って 素 晴ら スイカがたくさん置かれており、おばさんが学 生の しい !』と 思ってしまうかもしれないが、 カルチャ 要 求に合わせて切ってくれる。日 本では果 物は大 変 ーショックを受けたこともある。中 国に来てから最 初 慣れなかった生 活 習 慣の一つに、食 事の時 間 帯が 中 国と 日 本で 異なるという 点である。 中 国で 昼ご 飯は 1 1 時 頃から 1 2 時 頃、夜ご飯は 5 時 頃から 6 時 頃にかけて食べる人が多い。そのため食 堂はその時 間 帯だけしか 営 業していないので、 北 京に 来た 当 初の私は胃 時 計がまだ調 整されておらず、遅くに食 堂 へ 行 く と も う 何 も お か ず が 残って い な い と い う ことが多々あった。また 1 2 時 頃に食 堂に行くと、多 くの 学 生 が 一 斉 に 食 堂 へ 押 しかけていてなかなか 席が見つからない! と慌てることもあった。一 年 経 ってもやはり食 堂での席 探しは一 苦 労である。 笔 者 最 喜 欢 的 刀 削 面。 筆 者が好きな刀 削 麺。 32 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 印・象 ❷ 大学校外就 餐 / 大学外での食事 要是说 起没课的周末怎么 上。不同的餐厅做出来的生煎包 过的 话,我一 般 都会 和 朋友在 大 味 道各异,而味 道 好的名店门前 学附近的餐厅吃饭。在此我想介 常常会排起长龙。 绍一下自己到了北 京 之 后才 吃 过 此外,大学附 近 还 有一家火 的那些既 好吃又带有中国特色的 锅 店,天 冷了之 后 我 就会 经常约 食物。 朋友去那里。吃火锅不仅会 让身 我喜欢 的 食 物之一,便 是 生 体变得暖暖的,而且 还能 吃 到很 生 煎 包/焼き小 龍 包 煎包。据说生煎包属于上海料理, 多蔬 菜,十分 健康,所以很多学生 是把面皮包住肉馅儿做 成的 包子 都会来吃。在中国, 人们经常吃牛 放在铁板 上蒸 烤而成的点心。个 羊肉,此外像胡萝卜、黄瓜 之类的 的麻 辣火锅。店里的服务员很亲 头比日本 的肉包要 小,刚 好 可以 蔬 菜也可以下锅。 底 料的种类也 切, 互相熟识了之后会比日本的店 一口一 个。 生煎包外皮恰 到好 处 很多,还可以自己选择辣度。日本 员 还 要友 好,吃饭 的 时候会 经常 的 脆 度和香 味 最 是 美味,而且吃 人 大多 吃不惯辛 辣 的 食 物,所以 问我们“好 吃 吗?够 不够?”。 而 的 时 候 会 从中 涌 出 满 满 的 肉 汁, 很多人都会 选 择不 辣的底 料。 不 且有时还会免费给 我们加菜。特 很有意思。我的吃法不太高明,还 过,来自四川等地 的中国 人特 别 别是 北 京的 涮 羊肉非常有名,所 曾经把里面的肉汁 溅 到过朋友身 喜 辣,我也见 过有人吃 通 红 通 红 以如果来北京的话一定要试一试。 火 锅 店/火 鍋の店 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 33 印・象 北 京 的 涮 羊 肉 火 锅。可 以 涮 各 种 蔬 菜 肉 品,营 养 丰 富。/北 京の涮 羊 肉の火 鍋。各 種 類の野 菜や肉も入れて食べるので、栄 養 豊 富。 で は 授 業 が な い 週 末 は ど う し て い る の か、と いうと、大 学 付 近のレストランで友 達と食 事する ことが 多い。 私が 北 京にきてから 食べたもので、 るが、美 味しい店の前にはよく長 蛇の列ができて いる。 その他、大 学の近くに鍋 屋があり、寒くなると 美 味 しかった 中 国 らしい 食 べ 物 を 紹 介 したいと よく友 達を誘ってこの店へ行く。中 国の所 謂 火 鍋 思う。 を食べると体が温かくなるだけでなく、野 菜もた 私が好きな食べ物の一つに、生 煎がある。生 煎 くさん食べられて大 変 健 康 的であるため、多くの は上 海 料 理の一つだと言われており、挽き肉の具 を 小 麦 粉 の 皮 で 包 んだバオズ を 鉄 板 で 蒸 し 焼 き にした点 心である。 日 本の肉まんよりは小さく、 ちょうど 一 口 で 食 べられるほどの 大 きさである。 なにより 外 の 皮 の 程 よい 硬 さと 香 ばしさが 美 味 しい。そして食べると中からジューシーな汁が出 てくるのも面 白い。食べ方が下 手な私は中の汁を 飛 ば し て し まって 友 達 の 服 に か け て し まった こ ともある。店によって生 煎の出 来はまちまちであ 34 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 通 红 通 红 的 麻 辣 火 锅。/真っ赤に染まったマーラー火 鍋。 印・象 学 生が食べに来ている。中 国では牛 肉、羊の肉を で鍋を食べている人も見かける。店 員も親 切で、 食べることが 多く、鍋の 中にニンジンやキュウリ 仲 良 く な る と 日 本 の 店 員 よ り フレンドリーで あ といった野 菜も入れて食べる。だしの種 類も豊 富 り、ご飯を食べているときに「美 味しい? 量は足 で、辛さも自 分で選ぶことができる。日 本 人は一 りている?」といったことをよく話しかけてくれ 般 的に辛い物が苦 手であるため、辛くないだしを る。そして時にはおまけで具を足してくれる時も 頼む人が多いが、四 川などの地 域から来た中 国 人 ある。 特に 北 京は 涮 羊 肉が 名 物なので 北 京へ 行 は辛い物が大 好きであり、真っ赤に染まっただし った際はぜひ試してほしい。 ❶ 外卖 / デリバリー 为什么会 说 起 外卖呢,是因 机 应 用也不少,只 要 用这 些手 机 为中国的网上 购 物比日本发 达 许 应 用选 择餐厅菜品,配 送小哥就 在中国,美味 的 食 物 可以很 多。而关于“吃”也同样如此。肚 会将 其送 到房间。支付时还可选 便 宜 就 能买到,所以 最 近 我 天 天 子饿了却又 没时间去 外面吃饭的 择不同的方式,除现金外,刷卡或 都对着 体重秤 愁眉苦脸。体重秤 时候,又或者是 想在 屋 里吃饭 的 者用中国特有的“支付宝”进行支 的 指 针 偏 转了多 少,也 就 意 味 着 时候,只要 按一下手机,便可实现 付均可。另外,通 过手机应用还可 我的留学经历丰富了多少吧! 外卖点单。 现在很多人都 在使 用 以确认 外卖现在所在的位置和所 这一服务。此外,与外卖有关的手 需的送 达时间。这样的外卖非常 なぜデリバリーを取り上げたかといえば、中 国は 日 本 よりネット による 購 買 が 大 変 発 達 しているか 方便, 一旦习惯之后就会上瘾。 病みつきになってしまう。 中 国は 美 味しい 食べ 物が 安くで 手に 入ってしま らである。これは『食』においても言えることである。 う た め、近 頃 は 体 重 計 と に ら めっこ す る 日々が 続 お腹 減ったけど外へ食べに行く時 間がないとき、部 いている。 体 重 計の 秤が 振れる 分、私の 留 学 経 験 屋 で 食 べたいときなどは 携 帯 操 作 一 つでデリバリ もますます豊 富になっていくということだろう! ーを頼むことができる。現 在 多くの人がこのサービ スを利 用している。 デリバリーに 関するアプリケー ションもたくさんあり、それらのアプリを 使ってレ ストランとメニューを選ぶだけで、配 達のお兄さん が 部 屋まで 届けてくれるのだ。 支 払 方 法も 現 金だ 好吃 ! ごちそうさま! けでなくカード払い、中 国 特 有の『支 付 宝』による 支 払いなど種 類を選ぶことができる。またアプリを 通して今どこまで配 達されているのか、配 達にどれ く ら い 時 間 が か か る の か 確 認 す る こ と も で き る。 この種のデリバリーは大 変 便 利で、慣れてしまうと CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 35 漫歩神州 屯堡 明朝 的 居地 明朝の 風習が残る 隠とんの 地 文・希 子 在 贵州省安顺市西秀区及平坝县、镇宁 县一带,居 住着 2 0 余万特 殊的汉 族 群体 —— 屯堡人。一直以来,他们过着相对 封闭的生活,恪 守着世代传承的明朝文化习 俗。在 6 0 0 多年的继 承和演变中,独具特色 的“屯堡文化”逐渐形成。 之 所以在 少 数 民 族 杂 居 的 大山 深 处 保 留着 一片明 朝 遗 风 的 净土,是 源于明 初 的” 调北征南”事件。明朝开国皇帝朱元 璋在洪 武十四年(13 8 1 年)曾派 3 0 万大军进攻云 贵地区, 平定云南梁王叛乱, 消灭元朝残余势 力。朱元 璋由此意识 到西南地区稳定的重要 性,命 3 0 万大军就 地屯军,并将留戍者的家 人送到戍地。 这一屯, 屯 出了 6 0 0 多年后 的“明 代 历 史活化石”。当时,军队驻防地 称为“屯” ,移 民居 住地 称为“堡” ,是 为“屯堡” ,这 些人的 后裔就是“屯堡人”。所以, “屯堡”并不是 某 个 地方的地名,而是当时军队驻扎 地及移民 居 住 地 的 统 称。今 天, 仅 安 顺一地 就有大 大 小小 3 0 0 多个屯堡村寨,其中屯堡文化保存 较完整且开发较 好的旅 游点主要有四个 :九 溪村、本寨、云山屯、天龙镇。 36 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 2 中 国 ぶ らり 旅 貴 州 省 安 順 市 西 秀 区および 平 壩 県、 鎮 寧 県の一 帯に、2 0 万 人 余りの特 殊な 漢 族の 集 団が 居 住している。 それが 屯 堡 人だ。 彼らは 古くより 閉 鎖 的な 生 活 を送り、先 祖 代々伝えられてきた明 朝の文 化、風 習を守り続けてきた。そして、6 0 0 年 余りにおよぶ伝 承と変 遷の中で、独 自の特 色を持つ「屯 堡 文 化」が次 第に形 成されて いった。 少 数 民 族が 雑 居する 山 深いこの 地に 明 朝の 風 習が 伝わる 浄 土が 残っているのは、 明 朝 初 期の「調 北 征 南 事 件」に由 来してい る。明 の 初 代 皇 帝、朱 元 璋 は 洪 武 1 4 年 ( 1 3 8 1 年)に 3 0 万の大 軍を雲 南 貴 州 地 区 に派 兵し、雲 南の梁 王の反 乱を鎮 圧。元 朝 の 残 余 勢 力を 一 掃したのだった。 朱 元 璋 はこのことから 西 南 地 区の 安 定の 重 要 性 を 認 識 す る よ う に な り、3 0 万 の 大 軍 に そ のまま駐 屯するよう命じ、軍 人の家 族もこ の地に移り住ませた。 この駐 屯 地が 6 0 0 年 余を経て、 「明 代の 生きた化 石」となった。当 時は軍 隊の駐 屯 地を「屯」と呼び、移 民の居 住 地を「堡」と呼 んでいたので、合わせて「屯 堡」と呼ばれる 1 4 ようになった。彼らの末 裔が「屯 堡 人」だ。 「屯 堡」はもともとある 地 方の 名 前ではな く、 当 時の 軍 隊の 駐 屯 地と 移 民の 居 住 地 の総 称だったのである。今 日、安 順の一 帯 には大 小 3 0 0 を超える屯 堡の村があり、そ の 中 で 屯 堡 文 化 が 比 較 的 良 好 に 残ってい る 主な 観 光 地は 4 つある。 それは 九 渓 村、 本 寨、雲 山 屯、天 龍 鎮だ。 1、4 . 贵 州 安 顺 的 风 景。 2、3 . 贵 州 安 顺 天 台 山 五 龙 寺 院 殿 内。 3 4 1、 4. 貴 州 安 順の風 景 2、3 . 貴 州 安 順 天 台 山 五 龍 寺 院 殿 内。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 37 漫歩神州 屯 堡文化既打上了明朝时期 江南文化的印记,又留存 着军屯 文化的 传 统,同时 还 有其 独 立发 展出的特点。这 些在屯堡 最具 特 色的服饰、建 筑 和民间戏 曲“地戏”中都有体现。 屯 堡 文 化は明 朝 時 代の江 南 文 化 の 痕 跡 をとどめ つつ、軍 駐 屯 文 化の伝 統を持ち、 さらに 同 時 に 独 自 の 発 展 を 遂 げた部 分も見 受けられる。これ 5 らの屯 堡の特 徴は服 飾、建 築と 民 間の 伝 統 劇である「 地 劇」 に 表れている。 屯 堡特 色 . 1 服 屯 堡 の 特 徴 的 な服 装 进 入屯堡,你会发现街上来 来往往的 妇女皆着一身及 膝的右开襟 长袍,以 宝蓝 色为主,也有青色、黄色、紫色等,宽衣大袖, 杂色镶 边;腰间系着丝绸 腰带,身后 结坠, 色彩斑 斓;头上包着帕子,或青或白,帕子 上再 覆 色 彩 迥 异 的 头巾, 这 就 是 所 谓 的 “凤阳汉装”。衣装类古,鞋 却反古。古时女 人以“三寸金莲”为美,屯堡女人却大反礼 俗,任其自然,她们日常穿着的是用绣、补、 镂、镶、滚等方法制作的高帮单勾凤头布鞋。 传 说 朱元 璋的那位以“大 脚”闻名的马皇 后就穿过 这种“尖头绣花 鞋” ,屯堡人由此 代代仿效 延续至今。 38 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 6 7 中 国 ぶ らり 旅 8 9 10 5 . 贵 州 安 顺 的 屯 堡 村 雷 屯。 6、7 . 贵 州 平 坝 县 天 龙 屯 堡。 8 . 贵 州 安 顺 云 峰 屯 堡 本 寨 村。 9 . 屯 堡 女 性 穿 着 的 凤 头 布 鞋。 10 . 穿 着“凤 阳 汉 装” 的 屯 堡 女 性。 5. 貴 州 安 順の屯 堡 村 雷 屯。 6、7 . 貴 州 平 壩 県 天 龍 屯 堡。 8. 貴 州 安 順の雲 峰 屯 堡 村 本 寨。 9. 屯 堡の女 性が履く「鳳 頭 靴」。 10「鳳 . 陽 漢 服」を着ている屯 堡の女 性。 屯 堡に入ると、ひざまで届く右 開 のだが、靴はそうではない。 昔の女 きの 長 衣 を 身 に 着 けた 女 性 が 街 を 性は、 「纏 足(てんそく)」が美しいと 行き来する姿が目に入る。長 衣は主 されていた。屯 堡の女 性はその儀 礼 にサファイアブルーで、紺、黄、紫の に 反している。 日 常 履いている「 鳳 ものもある。袖はゆったりとして襟 頭 靴」は靴の先から両 側の縁を色 糸 元 には 色 とりどりの 飾 りが 縫 い 付 刺 繍し、二 層の白 布を合わせて靴の けられている。腰には色 鮮やかなシ 両 側を作ったものだ。朱 元 璋の最 初 ルクの帯を締め、結んだ腰 帯を後ろ の 妻で「 大 足」として 知られた 馬 皇 から垂らす。頭は白または青のハン 后 がその 形 の 靴 を 履 いていたとさ カチ状の 布で 包み、さらに 色とりど れ、屯 堡の女 性はその時 代から今 日 りのスカーフで 覆う。 これがいわゆ に至るまで代々その靴を履き続けて る「鳳 陽 漢 装」だ。服 装は伝 統 的なも いる。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 39 漫歩神州 屯 堡特 色 . 2 建筑 軍 事 的 な色 彩 の強 い建 築 屯堡人大多来自江南,因此他们所造 的民居自然带有江南建 筑的特点。屯堡民 居一般为四合院,在布局上与江南、华东的 四合院类似, 分朝门、正房、厢房。朝门呈大 “八”字形,门头上 雕有垂花柱或面具等装 饰品;正房高大雄伟,木制窗棂和门簪刻着 许多象征吉祥如意的图案;厢房 依 正 房两 11 边而建,前面为倒座,形成四合。注重在建 筑体上 雕 镌 装 饰 是屯 堡 延 续 江 南 建 筑 风 格的一个重要标志。 同时屯堡又是军屯之地,因此其建 筑 带有强烈的军事色彩。云贵高原一带多山 石,岩石以 沉 积岩为主,薄厚多样,硬 度 适 中,加之考虑到军事防御之需,屯堡人抛弃 了江 南 建 筑 惯 用的 木 料 转 而 选 择 坚 硬 阻 燃的石头为主要建 筑材 料。 在屯堡,一户 民宅就是一座石头堡垒,一 个村庄 就 是一 座石头城。 登高远 望,屯堡村寨就 是一片 错落有致的白色。 屯 堡 建 筑 的 军 事色 彩 还 体 现 在 另一 12 点:村寨内部 纵横 相连 又 直 通寨中的巷子 体系。屯堡村寨通常都有一条主巷 道和多 条支巷道,支巷将各家各户连成片,形成城 堡式结构;各支巷只有一个口通往主巷道, 这样敌 人来 袭时容 易形成“关门打狗”之 势。紧挨 巷子的墙体,窗户都很小,生活时 用于采光,战争时又能用作枪眼;低矮的石 门,有“一夫当关,万夫莫开”的功能。屯堡 村寨通过石头民居和主巷支巷的相连形成 了“点、线、面”结合的军事防御体系。这一 切无不显示了当时战争所需的建 筑构式 和 屯军备武的思想。至今屯堡村寨中还 残存 着许多垛口、炮台。 40 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 13 中 国 ぶ らり 旅 1 1 . 贵 州 安 顺 天 台 山 五 龙 寺 山 下 的 农 家 小 院。 1 2 . 贵 州 安 顺 天 台 山 五 龙 寺 院。 1 3 . 村 寨 内 部 纵 横 相 连 又 直 通 寨 中 的 巷 子 体 系。 14. 屯堡人抛弃了江南建筑惯用的木料转而选择 坚 石 头 为 主 要 建 筑 材 料。 1 5 . 江 南 建 筑、重 庆 龙 兴 古 镇 街 坊。 1 1. 貴 州 安 順の天 台 山 五 龍 寺 麓にある農 家の庭。 1 2 . 貴 州 安 順 天 台 山 五 龍 寺 院 殿。 1 3 . 村の中に縦 横に走る路 地。 14 . 屯 堡 人は江 南 建 築で常 用される木 材を捨て、 石を建 築 材 料に選んだ。 1 5 . 江 南 建 築、重 慶の龍 興 古 鎮の街。 14 屯 堡 人 の 多 くは 江 南 から 来 たた のに適している。軍 事 的な必 要 性か ない」という 防 御の 機 能を 持ってい め、彼らが建てた家もおのずから江 ら、屯 堡 人は江 南 建 築で常 用される る。屯 堡 村は石の家と大 小の路 地が 南 建 築 の 特 徴 を 持 つことになった。 木 材を捨て、硬く燃えにくい石を建 つながり、「点、線、面」 が結 合した 屯 堡の家は一 般に中 庭を囲む 4 つの 築 材 料に選んだ。屯 堡では 1 戸の家 軍 事 防 御 システム を 構 築 している。 棟から成る「四 合 院」で、江 南、華 東 は 1 つの砦であり、1 つの村は 1 つの これらは 当 時 の 戦 争 がもたらした の四 合 院の構 造に似ており、門と母 石の城だ。高い所から遠くを見 渡す 建 築 様 式と駐 屯 軍の戦 争 準 備の思 屋である正 房、廂 房に分かれている。 と、屯 堡の村はふぞろいな白で彩ら 想をはっきりと示している。現 在の 門 は 大 きい 八 の 字 の 形 をしていて、 れている。 屯 堡 にも 城 壁 の 凹 状 部 分 や 砲 台 が 門の上は垂 花 柱が施され、仮 面など 屯 堡 建 築に 存 在する 軍 事 的 色 彩 の彫 刻で飾られている。正 房は高く がもう 1 つある。村の中に縦 横に走 大きく堂々としている。木で作られ る路 地である。屯 堡 村の道は通 常、1 た窓の格 子と門には、縁 起のいい模 本の主 要な道 路と、そこから分かれ 様が彫られている。廂 房は正 房の両 た無 数の小さな路 地から成る。小さ 側 に あ り、 前 に は 逆 向 き の 棟 が あ な路 地はそれぞれの家をつなぎ、城 る。これらの棟が中 庭を囲み四 合を の様な構 造となっている。小さな路 形 成している。建 物の装 飾 彫 刻を重 地は主 要な道 路と 1 点でのみ繋がっ んじるのは、屯 堡が江 南 建 築の様 式 ており、 敵が 襲ってきたときに、 路 を 引 き 継 いでいることの 重 要 な 証 地 に 追 い 込 み「 袋 のねずみ 」にする しだ。 ことができるようになっている。 路 屯 堡は軍の駐 屯 地であり、その建 地の脇の壁には小さな窓があり、通 築には軍 事 的 色 彩も強い。雲 南 貴 州 常 の 生 活 では 明 かり 取 りの 役 目 を 高 原 一 帯は山の石が多く、その石は 果たし、戦 時には銃を突き出す窓の 堆 積 岩が主 体となっている。厚さは 役 目を果たす。低い石 門は、「 1 人で さまざまで、硬さは建 築に利 用する も閉められるが、万 人でも開けられ 数 多く残っている。 15 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 41 漫歩神州 屯 堡特 色 . 3 地 屯 堡 の特 徴 的 な地 劇 最能体现屯堡作为“历史活化石”的 就 是当地的民间戏曲 —— 地 戏。 “跳 神戏 之举, 借以演习武事, 不使生疏。 ”由此可知 屯堡地 戏曾有寓兵于农 之初衷。 同时,地 戏 还 与 明 嘉 靖 年 间 徽 州 一 带 的“假 面 之 戏”一脉 相承。 屯堡人 演 武 增威的需要、 怀乡恋土的情 愫及神灵护佑的期盼,将这 一千年古礼传承至今。 地戏的演出地点不 在戏台,村中空坝、 平整田土、就 地围场 都能出演。演出目的 多种多样,可能为了祈求辛苦劳作的好收 成,也可能为了祭祀和缅怀 祖先,还可能为 了欢庆丰收、祈祷平安康乐等。 地戏的主要表演形式是“唱”和“舞”。 “唱”无乐器伴 奏,不分行当,有男女角色 却无男女声腔,由角色边说 边唱边 交待剧 情; “舞”实为“打” ,表现战斗场面的对打 格斗。一 个地 戏 剧本就是一部书,就是一 个完整的征战故事,讲述的是南征 之军所 熟悉的军旅 生活,表 现的人物有脍炙 人口 势渗 透 到这 里,冲击着 传 统的一切。年 轻 的杨家将、岳家将、三国英雄、封神将军等。 一代的屯堡人,渐渐换上了时髦的服装,住 如今,屯堡的许多村寨已不像过去那 着两层的小 楼 房,听 音乐看电 影。 有人 为 样与世隔 绝,现代 文明也在以 无孔不入 之 此惋惜。但我想,保 护文明不等于固守 传 统。最重要的是 文物被保存,文化被传承, 历史被记录,文明就能 延 续。我们不应该 安顺市交通/ 安順へ の交通 也不可能以捍卫古老文明的名义阻止当地 人 追求更 好的物质生活和精神享受,正 如 安 顺 市 地 处 贵 州 省 的 中 心 位 置,交 通 便 利。安 顺 黄 果 树 机 场 距 市 中 心 六 公 里,目 前 已 开 通 了 与 北 京、青 岛、昆 明、重 庆、济 南、广 州 等 地 的 直 航 航 线。 安 順 市は貴 州 省の中 心に位 置し、交 通の便が良い。 安 順 黄 果 樹 空 港は市の中 心 部から 6 K Mの距 離に ある。現 在、北 京、青 島、昆 明、重 慶、済 南や広 州など 都 市との直 行 便がある。 人类并没有因为要保护起源 文明而让自己 过着衣不蔽 体、食不果 腹、钻木 取 火的生 活。世界 在变,屯堡人的生活也会变;而那 些理 应的“不变”则需要政 府 和民间的共 同努力,以让 未 来的屯堡“明朝军 魂仍在, 石头古堡犹存” 。 42 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 中 国 ぶ らり 旅 屯 堡の「歴 史の 生きた 化 石」とし 行のファッションに 身を 包むように ての 特 徴 を 最 も 色 濃 く 表 現 してい なり、2 階 建ての小さな建 物に住み、 る の は、当 地 の 民 間 地 方 劇 で あ る 音 楽を聴き映 画を見る。こうしたこ 「 地 劇」だ。 「 地 劇の 跳 神の 訓 練を 通 とを残 念がる人もいる。しかし、私 じて軍 事 訓 練をし、腕がなまらない は 文 明 を 守 ることは 伝 統 を 固 守 す ようにする」ことから、屯 堡の 地 劇 ることではなく、重 要なのは文 物の が 平 時 は 農 業 を 行 い 戦 時 には 出 征 保 存、文 化の伝 承、歴 史の記 録であ するためにあったことがわかる。 ま り、文 明が引き継がれることだと思 た地 劇は明 朝の嘉 靖 年 間の安 徽 省 う。私たちは古い文 明を守るという 一 帯 の「 お 面 の 劇 」の 流 れを 汲 むも 名 目で、当 地の人がよりよい物 質 生 のでもある。武 勇の高 揚、故 郷への 活 と 精 神 を 享 受 することを 妨 げる 思い、神の加 護への期 待、屯 堡 人は べきではない。人 類が文 明の起 源を そ れ ら を 千 年 に わ たって 連 綿 と 伝 守るためだからといって、ぼろぼろ えてきた。 の 衣 類を 身にまとい、腹いっぱい 食 地 劇 を 演 じる 場 所 は 舞 台 ではな べることもせず、木 片を木の棒でこ く、村の空き地や田んぼ、ちょっとし すって火をおこす生 活を続けないの た 囲いの 中だ。 演 目は 多 種 多 様で、 と 同じことだ。 世 界は 変 化を 続け、 苦しい労 働の好 成 果を祈り、先 祖を 屯 堡 人の生 活も変わっていくに違い 祀り追 想し、豊 作を祝い、平 安を祈 ない。 「不 変」であるべきものは政 府 願したのだろう。 と民 間の力で共に守り、未 来の屯 堡 地 劇 の 主 な 上 演 形 式 は「 歌 」と も「明 朝の軍の魂は依 然として残り、 「 舞」だ。「 歌」には 楽 器の 伴 奏がな 石 の 古 い 駐 屯 地 はいまだ 存 在 して く、役 柄を分けず、男 女の配 役はあ いる」という 地にすることができる るが男 女の節 回しの別はなく、話し のであろう。 ながら歌い劇の筋を伝える。 「舞」は 実 際には「戦い」で、戦 闘の場 面と格 闘 を 表 現 する。1 つの 地 劇 の 台 本 は 1 冊の本で、1 つの戦 記になっている。 語られる内 容は、南 征 軍の旅の生 活 で、 人 物は 広く 人々に 知れわたった 張 家 将、岳 家 将、三 国 英 雄、封 神 将 軍などだ。 現 在では、屯 堡の多くの村は、か つてのように 世 の 中 から 隔 絶 され てはいない。現 代 文 明は多かれ少な かれ入って来るし、この地の伝 統を 脅かす。屯 堡 人の若 者は、次 第に流 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 43 文化博览 白族 在中国的西南边 疆,有这样一 个地方:西边苍山十九 峰,雄伟磅 礴,山顶 积雪,云横 腰间;东边 洱海二百里,碧水波光,春风 鼓帆,渔歌 荡漾。这 就是云南省大理白族自治州首府大理市的所在地,中国少数 民族之一的白族人民大部分都世代生活在这仙境 般的苍山洱海之间。 苍 山 之 下, 洱海之畔的 少数民族 中 国 西 南の辺 境に、西 側は蒼 山 十 九 峰が威 武 荘 厳にそびえ立 ち、山 頂には雪が降り積もり、雲が山々の合 間を覆い、東 側は洱 海 が二 百 里ほど広がり、碧い湖 水の波が光を放ち、春 風にはためく帆、 漁 師たちの歌 声 響く場 所がある。 ここは雲 南 省 大 理 白 族 自 治 州 の 州 都 大 理 市。 中 国 少 数 民 族の 一つである 白 族の 人々の 大 部 分 はこの秘 境のような蒼 山と洱 海の中で代々暮らしてきた。 蒼 山 の下、 洱 海 湖 畔 の少 数 民 族 【 白 族 DATA 】 白族具有悠久的历史和丰富的文化,除 了大理白族自治州之外,白族 在周边的丽江、 南华、昆明等市县及贵州、四川、湖南等地也 有分布。白族的民族语言白语属汉 藏语系的 藏缅语族。据 2 0 10 年全国第六次人口普查 文・O U E I 数据, 白族人口约 19 3 . 3 5 万。 白 族は悠 久の歴 史と豊かな文 化を有し、 大 理 白 族 自 治 州のほかに、周 辺の麗 江、南 華、昆 明などの県や市、そして貴 州、四 川、 湖 南 省などの 地にも 分 布している。 白 族 の民 族 言 語である白 語は、漢チベット語 系 のチベット・ビルマ語 族である。2 0 1 0 年の 全 国 第 六 次 人 口 統 計データによると、 白 族の人 口は約 1 9 3.3 5 万である。 44 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 中国文化 博 覧 花团锦簇的大理人家 白 族 是一个爱花的民族,俗话 说 各种 花 朵吹 入 溪中,万紫千 红 流 进 洱 花节”。这 天,家家户户都 把自己盆栽 “大理 三千户,户户养 花”。 大 海。在白雪耀眼的苍山下,在碧波万顷 的 花 卉 摆 在门口, 搭 成一座 座 小“花 理的气候 温暖湿润,四季如春,土质肥 的洱海边,千树万丛山花起舞,这不正 山”。 “山顶”是“花王”山茶,山脚如百 美,适 宜花木生长。 “云南茶花甲天下” , 是大理风光最引人注目的色彩吗? 花朝拜。人们穿上节日盛装,万人空巷 仅 大理 就拥有 4 0 多个品种,早 桃 红、 苍山能看到漫山遍 野的木 本花 地 来 赶民 族“花街” ,香风 满 街,芳气 松子壳、牡丹茶、紫袍、玛瑙、恨天高等, 杜 鹃,同为杜 鹃 花属的马缨 花树干盘 袭 人。 不 独 大理古 城 飘香,附 近 村寨 千姿百态, 妙趣横生。 虬,绣 球似的花 簇 缀 满 枝 头。白族 有 也遍植花草,庭院的照壁或篱墙后,总 大 理 古 城 旁 的 苍 山,又名“点 苍 个民间故事,传 说百花在苍山竞 选花 爱伸出绿叶 红花的笑靥,繁花似锦,四 海拔 4200 山”。苍山绵延 5 0 多公里, 王 之日,马缨 花 过分自恃 无花与之相 季皆然。因此,大理的白族民歌中总有 多米,山顶白雪皑皑,经 夏不化,山腰 比,傲慢地姗姗来迟,结果花王被山茶 许 多以花名编 成 的 调 子,比 如《数 花 是 温带,峡 谷是热带,立体气候使花卉 花当选。从此,她 羞于见人,只 好躲入 名》、 《百花曲》等。 丰富多 彩,原 始森林郁 郁 葱 葱。 苍山 苍山深处。 十八 溪中有一条叫“万 花 溪” ,山风将 每年农历 2 月 14 日是白族的“朝 彩 豊 か な大 理 の人 家 白 族は花を愛する民 族であり、俗に「大 理 三 千 戸、戸 樹 木が立ち並び、山 花が舞い落ちる様 子は、まさに大 理の 戸 花を養う」と言われる。大 理の気 候は温 暖 湿 潤 風 光 明 媚で最も人々が注 目する色 合いではないだろうか。 で四 季もあり、春は土 壌が肥え、花 木が成 長するのに適し 蒼 山では 野 山いっぱいのツツジが 咲き 誇り、また 同じ ている。 「雲 南の茶 花は天 下 一」と言われるように、大 理 ツツジ科に属する馬 纓 花(シャクナゲの一 種)の幹がくね だけでも 4 0 以 上もの茶 種があり、早 桃 紅(ツバキの一 種)、 くねと折れ曲がり、繡 球(祝い事などで使う球 状の飾り) 松 子 殻、牡 丹 茶、紫 紅 袍、瑪 瑙、恨 天 高など、千 姿 百 態でと に似た花 房が枝もたわわに実っている。白 族の民 間 伝 承 ても味わい深い。 に、蒼 山の 百 花が 蒼 山の 花 王を 決めるために 競い 合って 大 理の古 都の傍にある蒼 山は、またの名を「点 蒼 山」と い う。蒼 山 山 脈 は 5 0 キ ロ 以 上 も 連 綿 と 連 な り、海 抜 4 2 0 0 メートル余り、山 頂には白 雪が降り積もり、夏にな っても解けないが、山の中 腹までいくと温 帯で、峡 谷では 熱 帯に属する。 こうした 立 体 的な 気 候(高 低 差が 大きい 気 候)がこの地の草 木、花々を豊 富 多 彩なものにし、原 生 林を鬱 蒼と生い茂らせる。蒼 山 十 八 渓の中に「万 花 溪」と 呼ばれる渓 谷があり、山 風が各 種の花びらを渓 流に吹き 込み、万 紫 千 紅となって洱 海に流れ込む。白 雪が眩しい蒼 山のふもとの、湖 水 面が碧く波うつ洱 海の畔には、数 千の CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 45 文化博览 いる時に、馬 纓 花は自らが無 比の美しさを誇り、思いあが 裾」は百 花 繚 乱である。人々はみな華やかに着 飾り、民 族 っていたため 遅れてしまった、 結 果として 花 王には 山 茶 の「花 街」へと向かい、街じゅうが花の香りで溢れ、人々を 花(サザンカ)が選ばれてしまったというお 話がある。 こ 魅 了する。 花々の 香りにつつまれるのは 大 理の 街ばかり のことを恥じた馬 纓 花は会わせる顔がないとして、蒼 山 でない。附 近の村 落でもたくさん植えられた草 花は庭の 奥 深くにこもってしまったという。 壁や生 垣の後ろにまで緑の葉や赤い花びらをほころばせ、 毎 年 旧 暦の 2 月 1 4 日は白 族の「朝 花 節」である。この 花々の 繁みは 錦のようで、一 年 中 四 季 折々を 通じてこの 日、家々は自らの花の咲いた盆 栽を玄 関 先に並べ、小さな 様 子である。したがって、大 理の白 族の民 謡の中には「数 「花 山」を築くのである。 「山 頂」には「花 王」の 山 茶 花、 「山 花 名」や「百 花 曲」など花を題 材にした曲が多 数 存 在する。 感 悟 人 生 的“ 三 道 茶” 云 南与 茶 有着 太 深 的 渊 源,这 叶烤黄发出香味后,注入少量沸水,等 甜”的哲理。仍用同样的方式煮茶,只 里不仅 是 茶 树 的 发 源 地,也 泡 沫 消失 后用火 煨 片刻,当茶水呈 琥 不过 将 茶盅 里的原 料 换 成 少 许 蜂蜜、 是茶马古道的发 源地。云南人爱喝 茶, 珀色时 倒入茶盅,再双手 举盅 献与客 炒 米花、花椒等,茶容量通常为六七分 聚集在云南的少 数民族也都用各自不 人。由于这种茶经 烘 烤、煮沸而成,因 满。这杯茶,喝起来甜、酸、苦、辣,各味 同的方式在爱茶、品茶。 大理的 苍山 此看上去色如琥 珀,闻起来焦香扑鼻, 俱全, 回味无穷。 洱海间,好客的白族 人常以“三 道 茶” 喝下去滋味苦涩, 故谓之“苦茶” 。 茶道 既是饮茶的艺术,也是 生活 招待 贵宾, “一苦、二甜、三回味”的茶 第二道 茶谓之“甜茶” ,象征 生活 的艺术,更是 人 生的艺术。三 道 茶 寄 道早 在明朝时 就已成了白家待 客交友 应当先苦后甜才有意义。再次 用小砂 寓的人 生哲 理,也代 表了三种人 生境 的一种礼仪。 罐 置茶、烤茶、煮茶,在茶盅内放 入白 界。 现在, “三 道 茶”已成为白族民间 糖、核桃仁、芝 麻面等,待煮 好的茶汤 婚庆、节庆、待客的茶礼, “三 道 茶”歌 倾入八分满为止。 舞表演也成了大理 旅游的保留节目。 第一道 茶谓之“清苦之茶” ,喻人 生应当吃苦耐劳方能有所作为。先将 水烧开,将小砂 罐置于文火上烘 烤,再 第三 道 茶谓之“回味 茶” ,它告 诫 把茶叶放 入 烤热的砂 罐中焙 烤,待 茶 人们,凡事要多“回味” ,切记“先苦后 人 生の「三 道 茶(三 杯 茶)」に 感 悟 する 雲 南とお茶の間には深 遠なつながりがあり、この地 目は後 味を楽しむ」という茶 道で、明 朝 期にすでに始まり、 はお茶の原 産 地であるばかりでなく、古 茶 道の発 白 族のおもてなしの礼 儀である。 祥 地でもある。雲 南 人は好んでお茶を飲むが、雲 南に住む 一 杯 目の茶は、「清 苦の茶」といい、人 生は艱 難 辛 苦を 少 数 民 族はみな各々が異なる作 法でお茶を飲み、品 評を 乗り越えてこそはじめて成し遂げられることを喩えてい 行うのである。 大 理の 蒼 山 洱 海では、客をもてなすのが る。小さな甕を囲 炉 裏などで温め、熱くなったらそこに茶 好きな白 族の人々はいつも「三 道 茶」の作 法で招 待したお 葉を入れ、茶 葉が黄 色く香ばしくなるまで炒る。そこに少 茶を客に振る舞う。 「一 杯 目は苦く、二 杯 目は甘く、三 杯 量の 沸 騰したお 湯を 注ぐ。 泡が 消えるのを 待ってしばら 46 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 中国文化 博 覧 白 族 人 家 正 在 晾 晒 的 茶 饼。 白族 人が餅 茶を乾燥させている。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 47 文化博览 くのあいだ 火で 燻し、お 茶の 水が 琥 珀 色になったら 急 須 に入れ、両 手でもって客の杯に注ぐ。このようなやり方で 茶 葉を炙り煮 詰めて抽 出することで、きれいな琥 珀 色を した見た目、香ばしい匂い、飲めば苦 味のあるお茶となり、 「苦 茶」と呼ばれているのである。 二 杯 目のお茶は「甜 茶」といい、生 活は苦を乗り越えて からの甘みこそ意 義があるということの象 徴である。こ れもまず甕に茶 葉をいれて 燻ったあと 煮 出す。 湯 呑みに は白 糖、クルミ、黒ゴマ麺などをいれて準 備し、煮 出した お茶を八 分 目まで入れる。 三 杯 目のお茶は「回 味 茶」と呼ばれる。これは何 事も「回 味( あじわうこと)」が肝 要で、「先に苦み、後から甘み」と 茶 道とは喫 茶の芸 術であり、生 活の芸 術でもあり、さ いう哲 学を心に刻みつけることを意 味している。一 杯 目 らにいえば人 生の芸 術でもある。この三 道 茶は人 生 哲 学 と二 杯 目と同じようにお茶を煮 出すが、ただし湯 呑みに を諭し、また人 生における三 段 階の境 界をも示している。 は蜂 蜜を少々、ポンポン菓 子、山 椒などを入れ、通 常は六・ 現 在、 「三 道 茶」はすでに白 族の民 間の婚 礼、祝 賀 行 事、お 七 分 目まで入れる。このお茶は、甘み、酸 味、苦 味、辛 味な もてなしの茶 道となっており、 「三 道 茶」のパフォーマンス どの 様々な 味が 入り 混じっており 豊かな 後 味が 楽しめる は大 理 旅 行の目 玉でもある。 のだ。 白族独有的本主崇拜 “本 主 崇 拜” 是白族 独 有的 是多神崇 拜,各村 寨的本主 庙内都 一种宗教信仰,它不同于 塑有自己的本主神, 也有几个村寨甚 单纯的祖 先崇拜。 “本主”是白族 人 至几十 个村寨共同信奉一 个本主的 民的村社保护神,是掌管本地区、本 情况。本主司管的对象不尽 相同,有 村寨居民的生死祸 福之神。白族 村 管“阴间”和人间大小事务的,有管 寨几乎 都 建 有本主 庙,庙内供 奉泥 “阴间”兵的,有管人间疾病的,有管 塑或木雕的本主神像。 一 般 认 为,本主 崇 拜源于原 始 牲畜的等。 白族 的 本主 崇 拜 有 两 个 特点, 社会的社神崇拜和农耕 祭祀。它在 一是以本主 为中心 的多神崇 拜,本 南诏时 期即已形成,并且是南诏、大 主 庙以本主 为主要 崇 拜对 象,其他 理国时 期白族的一种重要的宗教信 配神为次要崇 拜对 象,各 个 配神 有 仰。以后历经数百年发展,本主数量 其 独有的宗 教 功能,如子 孙娘 娘 送 不断 增多,文化内涵越发丰富,才形 子嗣,财神管发 财致富,龙王司雨等, 成 如今的本主崇拜 格局。本主崇拜 他们的神力是 对本主神力的有效补 朝 奉 和 迎 送 本 主 时,全 村 男 女 老 幼 皆 身 穿 节 日 盛 装。 本主の朝奉や送り迎 えの時、全村の老若男女が盛裝する。 48 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 中国文化 博 覧 充;二是本主的对 象选择,可能是白 族 人的祖 先,也可能 是 对 族 人做 过 好事、促 进本族 社会 经 济文化 发 展 的人物,或是 道 德情操 受到 族 人敬 仰的人物。 朝奉和迎 送本主时,全村男女 老幼皆身穿节日盛装,杀猪宰鸡,舞 龙耍 狮,烧香焚 纸,燃 放 鞭 炮,尽情 献祭,以求本主祛鬼驱邪、消灾解难, 保 佑人们平安吉祥、风调雨顺、五谷 丰登、六畜兴旺。本主崇拜与白族社 会 的 各方面紧密相 连,深 深 扎根于 白族 人民的思想意 识,形成了独 具 一格、丰富多彩的本主文化。 云 南 省 大 理 市 洱 海 东 岸 挖 色 白 族 村 本 主 庙。 雲南省大理市洱海東岸挖色白族村の本主廟。 白 族 特 有 の「 本 主 」崇 拜 「本 主 崇 拜」は白 族 特 有の宗 教 信 仰だが、単 純な祖 白 族の本 主 崇 拜は2つの特 徴がある。1つは本 主を中 先 崇 拜とは異なる。 「本 主」とは、白 族 人 民の村 心とした多 神 崇 拜で、本 主 廟では本 主を主 要な崇 拜 対 象 社 保 護 神であり、現 地の村 民の生 死 禍 福を司る神である。 としており、その他の配 神は 2 番 手の崇 拜 対 象である。と 白 族 村 落はほとんどが「本 主 廟」を建 立しており、廟 内に はいえ、各 配 神はご利 益が異なり、子 孫 繁 栄の神、財 運の は土 製や木 彫りの本 主 神 像が祀ってある。 神、雨を司る龍 王などがある、彼らの神 通 力は本 主 神 通 一 般 的に、 本 主 崇 拜は 原 始 社 会の 社 神 崇 拜と 農 耕 祭 力を補 充している。2つ目は、本 主の対 象となるものの選 祀を起 源に持っていると考えられている。南 詔 時 期には 考 基 準である。白 族 人の祖 先の場 合もあれば、白 族に良 形 成され、南 詔、大 理 国の時 期にはすでに白 族の一 種の いことをしてくれた人や、白 族 社 会 経 済 文 化の発 展を促 重 要な宗 教 信 仰となっていた。以 後、数 百 年の発 展を重 した人、道 徳 的に優れた人 格のために白 族の尊 敬を集め ね、本 主の数 量は増え続け、文 化 的 意 義もますます深まり、 た人 物の場 合もある。 今 日のような本 主 崇 拝の構えとなったのである。本 主 崇 本 主の朝 奉や送り迎えの時、全 村の老 若 男 女は祭のた 拜は多 神 崇 拜であり、各 村 落の本 主 廟 内には、その廟 独 めに盛 裝して、鶏や豚を供えて、龍や獅 子 舞を踊り、焚 紙 自の本 主 神の像が有る場 合もあるが、幾つかの村 落では 焼 香、爆 竹を打ち鳴らし、存 分に祭に供し、「本 主」に厄 除 数 十もの村 落が共 同で一つの本 主を信 奉する場 合もある。 け、人々のご加 護、五 穀 豊 穣、商 売 繁 盛を祈るのである。 本 主が司るものの対 象は様々で、「霊 界」と人 間 界の様々 本 主 崇 拜と白 族 社 会の各 方 面は緊 密に関 連しており、白 な事 務を司るもの、「霊 界」兵を司るもの、人 間 界の疾 病 族 人 民の思 想 意 識に深く根ざし、独 自で豊 富 多 彩な本 主 を司るもの、獣 道を司るものなどに分かれている。 文 化を形 成している。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 49 时流 WHAT IS INTERNET FINANCE ? 揭开“互联网金融”的神秘面纱 「インターネット金融」の神秘のベールをはぐ 前 些 天,网 上 流 行 一 句 话: “码 农 改 变 世 最 近、インターネット上で「碼 農(コンピューター 界。” “码 农”这个 称呼是 一种自嘲,但“改变世 のプログラマー)が世 界を変える」という言 葉が流 界”却所 言 不虚。近年来,互 联 网以排 山倒 海 行している。 「碼 農」という 呼び 方には 一 種の 自 嘲 的 发 展 之势,跟 很多 领 域 发 生 联 系,从而 越 来 が 含まれているが、「世 界を 変える」というのは 偽 越 多地 改 变 人们 的 生 活。 “互 联 网金 融” 的 兴 りの言 葉ではない。近 年、インターネットの発 展の 起 就是 一个典型的例子。 勢いはとどまる所を知らず、多くの領 域がインター ネットで結ばれ、それによって人々の生 活はますま す 多 くの 面 で 変 わってきている。「 インターネット 金 融」の興 隆は、その 1 つの典 型 的な例だといえる。 文・汪 莹 50 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 時流 INTERNET × FINANCE 很 多人 对“互联网金融”这一概 念 已经耳熟能详,但真要解 释互联 多 くの人が「インターネット金 融」という概 念を 熟 知しているだろうが、インターネット金 融が 网金融具体指什么, 恐怕又难以说清楚。 具 体 的に 何を 指すのかについては、 はっきりとは 理 最早 提出“互 联网金 融” 这一概 念 的 谢 解していないと 思われる。 最も 早く「インターネット 平 教 授,按照目前各种互联网金融 形态 金 融」の概 念を提 起した謝 平 教 授は、現 在のインター 在支付 方式、信息处 理、资源 配 置 三 大 ネット金 融の形 態は、支 払 方 式、情 報 処 理、資 源 配 置 支柱 上的 差 异,将互 联网金 融 划分为 8 の 3 つの 大きな 柱において 違いがあり、8 つの 主 要な 种主要类型。 類 型に分けられるとしている。 001 传统金融机构的互联网形态 伝 統 的な金 融 機 構の インターネット の 形 態 这 应该是互联网与金融的最早结合,网上银行、手机 银 行就是代表,此外还 有近年兴起的网络证券公司、网络 保险公司等,如 2 013 年阿里巴巴和腾讯携手中国平安设 立的众安在 线 财产 保 险公司,除了总部设在上 海,公司不 设任何分支机构, 完全通过互联网来销售和理 赔。 これはインターネット と 金 融 が 最 も 早 く 結 合 したも ので、ネットバンキング、モバイルバンキングに代 表され るほか、近 年 盛んになっているネット証 券 会 社、ネット 保 険 会 社などもその例だ。例えば、2 0 1 3 年にアリババ とテンセントが 手を 結び 中 国 平 安が 設 立した 衆 安オン ライン財 産 保 険 会 社でいえば、本 社が 上 海にあるだけ でいかなる支 社も置かず、完 全にインターネットだけを 通じて販 売と賠 償を行っている。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 51 时流 INTERNET × FINANCE 002 移动支付和第三方支付 モバイル支 払 い と 第 三 者 支 払い 喜欢网购的人们对此再熟悉不过,支付宝就是第 003 互联网货币 インターネット貨 幣 比特币、Q 币属于互联网货币, 它们一般用 三方的代表。人们在淘宝上 选 购商品后,使 用支付宝 于在网络中购买游戏的道具、装备等虚拟物品。 结账;卖家知 道 货款 到达 支付宝后发货;买方收 到并 而一旦 这种货币被 现实中的人们接受,可以 购 检验货物后确认付款,这时 第三方才将货款转给卖家。 买生活中的物品, 它的作用就等同于货币。 传统的面对面交易中,人们一手交钱一手交货;但网络 交易无法 做 到这一点,因此需要第三方介入以保 障买 ビットコイン、Q 幣 は インターネット 貨 幣 卖双 方的利益和交易的顺利进行。除支付宝外,微信 に属し、一 般 的にネット上でゲームの道 具や 支付、财付通以及可境外支付的 P a y p a l 等也正在成 装 備 などのバーチャル 物 品 を 購 入 する 際 に 为人们网络支付的重要手段。 使われる。そして、これらの貨 幣が一 旦 現 実 の人々に受け入れられると、実 際の生 活の中 ネット で 買 い 物 をするのが 好 きな 人 はこのこと での 物 品 を 購 入 することもできるようにな について詳しいだろう。支 付 宝は第 三 者 支 払いの り、本 物の貨 幣と同じような働きをするよう 代 表 的な会 社だ。人々は淘 宝で商 品を選んだ後、支 になる。 付 宝を 使って 決 済する。 売り 手は 支 付 宝への 代 金 の支 払いを確 認した後、商 品を発 送する。買い手は 商 品を受け取りチェックした後、代 金の支 払いを確 認する。 このとき 第 三 者は 代 金を 売り 手に 転 送す る。人と人が向かい合う伝 統 的な取 引では、売り手 と 買い 手が 一 方で 金をやり 取りし、一 方で 商 品を やり取りする。しかし、ネット上での取 引ではこの ようなやり 取りができない。 そのため 第 三 者が 介 入して 売り 手と 買い 手の 双 方の 利 益を 保 証し、取 引 を 円 滑 に 進 め る 必 要 が あ る。 支 付 宝 の ほ か、 WeChat 支 払い、財 付 通や海 外 への支 払いもできるPaypal な どがネット での 支 払 いの 重 要 な手 段となっている。 52 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 時流 004 基于大数据的征信和 网络贷款 很多领 域被网络 连接到一起 从 而 越 来 越 多地 大 き な データ に 基 づ く 信 用 リスク管 理 と ネット貸 し 付 け 改 变 人们 的 生 活 以 阿里小 额 贷款 为例,借款 人 无需 提 供 抵 押品 多くの領 域が 或第三方担保,仅 凭自己的信誉 就能 取得贷款,并以 借款 人的 信用作为还 款保证。 而借款 人的 信 誉 来 源 インターネットで結ばれ 于对阿里巴巴、淘宝、天猫平台内积 累的海量交易数 人々の生 活はますます 変わってきている 据的分析和评估。 アリババの少 額 貸し付けを例に取ると、借り手は 担 保の提 出や第 三 者の保 証を求められることはな く、自らの信 用によって金を借りることができ、借 り手の信 用が借 金の 保 証となる。 借り 手の 信 用は P2P 网络贷款 005 P2 P ネット貸 し 付 け アリババ、淘 宝、天 猫で蓄 積した膨 大な量の取 引デ ータによって分 析され評 価される。 这 是一种民间 借贷 模 式在网络上的延伸。 过 去, 人们在生活中跟熟人借钱, 现在人们可以在网上 向陌生人借 钱。通 过 P 2P 网络融资平台,借款 人直 接发布借款信息,出借人了解对方的身份 信息、信用 信息后,可以 直接与借款 人签订借贷合同,提 供贷 款,并能及时获知还款 进度,获得投资回报。目前国 内 P 2P 融资平台有宜信网、人人贷、拍拍贷等。 これは 民 間 の 貸 し 借 りの 一 種 がネット上 に 拡 大したものだ。 これまで 人は 生 活の 中で 知り 合 いに金を借りてきたが、現 在ではネット上で見ず 知 ら ず の 人 か ら 金 を 借 り ら れ る よ う に なった。 P2 P のネット融 資を通じて、借り手は金を借りた いという 情 報を 直 接 流すことができる。 貸し 手 は 相 手の 身 分 情 報を 知り、情 報を 信 用した 上で 借り手と直 接、貸 借の契 約を結び金を貸す。そし て、返 済の進み具 合を随 時 知り、投 資の報 酬を得 ることができる。現 在、中 国 国 内のネット上での P2 P 融 資には宜 信 網、人 人 貸、拍 拍 貸などがある。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 53 时流 BUSINESS 006 众筹融资 クラウドファンディング 最 近,有一只猴子让“众筹”这个概 念又 火了一把。刚刚下线票房超 9 亿的 国 产动画《大 圣归来》,是由 8 9 位 投 资人 众 筹的。 他们有的出几万,有的出几 十万,最后筹出 7 8 0 万元,打造了这部动画片。现在,众筹成为很多有梦想、有创 意、有项目的人的募资手段, 众筹网、天使汇等就是众筹平台的代表。 最 近、1 匹のサルが「クラウドファンディング」という概 念に火を付けた。ダ ンロード数が 9 億を超える中 国の国 産アニメーション「西 遊 記 之 大 聖 帰 来」は、 8 9 人の投 資 者のクラウドファンディングによって作られた。彼らは数 万 元か ら数 十 万 元を出 資し、最 終 的には 7 8 0 万 元を集めてこのアニメーションを制 作した。現 在、クラウドファンディングは、多くの夢を持ち創 意 工 夫がありプ ロジェクトを実 現させようとする人の資 金 集めの手 段となっている。クラウ ドファンディングの代 表としては、衆 籌 網、天 使 匯などがある。 54 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 時流 INTERNET × FINANCE 007 金融产品的网络销售 金 融 商 品 の ネ ット販 売 淘宝、京东等在网上销售各类生活用品,这是电商;而在网 上销售金融 产品,就是 互联网金融。过去,人们可以在有代 理 权的 银 行 购买到 基金或保 险,而 现在只要 在网上 就可以买到 金融 产品。 淘 宝、京 東などはネット上で各 種の生 活 用 品を販 売して いる。これが電 子 取 引だ。そしてネット上で金 融 商 品を販 売するのが、インターネット金 融だ。これまで、人々は代 理 権 のある銀 行で基 金や保 険を購 入していたが、現 在ではネッ トにアクセスするだけで金 融 商 品を購 入することができる ようになった。 008 网络金融交易平台 ネット金 融 の 取 引 の 場 网络金融交易平台就如上海交易所、深圳交易所一样, 为人们提 供金融 交易的场所,只不过,这 里的场所可能是 虚拟的,存 在于网络中,成 立两年的前海股 权 交易所就是 其代表。 ネット金 融の取 引は上 海 取 引 所や深セン取 引 所と同 様に、人々に金 融 取 引の場を提 供している。この場はバ ーチャルなもので、ネット上でいえば、成 立して 2 年に なる前 海 株 式 交 易 所がその代 表だ。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 55 时流 过去 在 传 统 金 融中 的 需 求 实 际 上也 是 人们 今 天在 互 联 网金 融中 的 需 求 かつて伝 統 的な金 融に 求めていたものが 今 日のインターネット金 融に 求められている 实 际上,从”互联网金融”这个概 念 提出开 始,至今 学 界对它也没有一 个权 威 的定 义和分类。要理 解互联网金融,首先要学会以互 联网思 维去思考。互联网思 维的一 个关键要素, 就是 从用户的需求出发去思考问题。而用户过去 在 传 统 金 融中的 需求实 际 上也 是 人们 今 天在 互 联网金融中的需求: 投资、融资、支付。 投 资 是 资 金 充 裕 的人 想 让 钱 生钱,融 资 是 缺 乏 资 金的人 想用钱买 钱,支付则是 钱的 流 动。 不管互 联网如 何快 速 发 展,只要与金 融相 结 合, 它所发挥的作用一定是让人们的投资、融资和支 付都因为网络而变得更加方便、高效和安全。 実 際のところ、「インターネット金 融」の概 念が提 起されてから 今 日まで、学 界でもそれに対する権 威 的な定 義や分 類がなさ れていない。インターネット金 融を理 解するためには、まず学 界がイ ンターネットを使って考えなければならない。インターネットを考え るときの 1 つの 重 要な 要 素は、 ユーザーのニーズに 基づいて 問 題を 考えることだ。そしてユーザーがかつて伝 統 的な金 融に求めていた ものは、今 日のユーザーがインターネット金 融に求めているのもので もある。それは投 資、融 資、支 払いだ。 投 資は 資 金を 十 分に 持ち 余 裕のある 人が 金を 生きた 金にしよう とするもので、融 資は資 金が不 足している人が金を使って金を買お うとするもの、支 払いは金の流 動だ。インターネットがいかに急 速に 発 展しようとも、それらの金 融の相 互の結 合によってのみ、インター ネットは人に投 資させる働きができ、融 資と支 払いをさらに便 利で 効 率よく安 全なものとすることができる。 56 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 今号の顔 心 学 集大 成 者 王阳明 心 学の創 始 者 王 陽 明 王 阳 明(1 4 7 2–1 5 2 9) , 名守 仁,字伯安,浙 江 余 姚 人,中国明代 哲 学 家, 心 学 唯 心主 义 集 大 成 者。 因曾 筑 室于 会 稽 山阳明 洞,自号阳 明子,学界 称他为阳明先生。 王 陽 明( 1 4 7 2 – 1 5 2 9)、名は守 仁、字は伯 安。浙 江 省 余 姚の人で、 中 国 明 代の哲 学 者であり、心 学 唯 心 主 義 を 集 大 成 させた 人 物 であ る。会 稽 山 陽 明 洞に居を構えてい たため、雅 号を 陽 明 子といい、学 界では彼を陽 明 先 生と称した。 文・不 识 一 丁 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 57 本期人物 余 姚 的 王 阳 明 故 居 中 展 出 的 著 作《王 文 成 公 全 书》。 余 姚の王 陽 明 故 居で展 示されている著 作《王 文 成 公 全 書》。 读书求真 理”的学说。为了实践朱熹的“格物致 起吟唱家乡的曲子。在这里,王阳明始 王阳明出身 于浙 江 余 姚一 个显 知” ,有一次他下决心 要弄明白竹子的 终在思考一个问题,那就是:圣人要如 赫的家庭,拥有非常优越的学习环境。 道 理, “ 格”了三天三夜的竹子,什么都 何面对这样的情况。后来他在梦中顿 他的名字“守仁”取自于《论 语 · 卫灵 没有发现,人 却因此病 倒。 这 就 是中 悟,认为心是感应万事万物的根本,由 公》 “ ,知及之,仁不能守之,虽得之,必 国哲学史上著名的“守仁格竹” ,从此, 此提出“心即理” 。 失 之”。11 岁前 在 祖 父 王伦 的 培 养 下 王守 仁 对“格 物” 学说 产 生了极 大的 王阳明要求 发 挥良知 的 作用,以 5 岁已 能 够 默 记 祖 父 所 读 过 的 成 长, 怀 疑。一株竹子让他思索了好几天,却 良知为评 判事理的标 准和解 释 经典 书。之后跟随父亲王华到北京任所, 学 没有任 何结果。自然 界的事 物有千万 的根 据,这 就是他最为世人 所知 晓的 习骑马射箭, 而后又研习兵法。18 岁时, 种,怎么可能有时间和 精力去 逐一 探 心学的思想 —“良知说”。他认 为, 在回余姚的途中拜访程朱派学者娄谅 索呢? 人心之灵明就是良知,良知就是天理, ,娄谅向他介 绍了朱 (14 2 2 ~ 14 91) 关于王阳明的思想转变 过程,有 不可能在良 知 之 外求天 理,天地万物 熹的“格物致 知”学说,以 及“成为圣 王阳 一个事件也不得不提。15 0 6 年, 都从良 知中产 生,良 知 为人心之 所固 人 必 须 要 通 过学习” 的思想,使他很 明因反对宦官刘瑾,被 廷杖四十,贬 到 有。他还说,良知是“天渊” ,是天地万 受启发。2 1 岁中乡试,遍读朱熹著 作。 贵州龙 场。王阳明的思想因为这 次 贬 物发育流行的根 源,因此,良知又称为 2 8 岁中进 士,任职于工部,后又 担任 官而得到彻底的转变。由于环境 太过 “太虚”。天地万物在太虚中发育流行, 刑部云南清吏司主事。 艰苦,他的随 从们一个 个病倒,王阳明 就 是在良 知中发育流行,而不 在良 知 遍读朱熹的著 作后,思考宋 儒所 被 迫自己挑 水做 饭,给 随 从们 吃。 他 之外。 谓“物 有表 里 精 粗, 一草一木皆具 至 还 担心 随 从们心情不好,就 跟他们一 58 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 今号の顔 書を読んで真 理を求める 国 哲 学 史 上 の 有 名 な「 守 仁 格 竹」 そ良 知であり、良 知こそ天 理であ である。これ以 降、王 守 仁は「格 物」 って、良 知の外に天 理を求めるこ まれ、非 常に優れた学 習 環 境に恵 学 説 に 大 いに 疑 いを 抱 くように とは不 可 能で、天 地 万 物は全て良 まれた。彼の名の「守 仁」は《論 語 · なる。一 本の竹のために彼は何 日 知から生じ、良 知こそ人 心 固 有の 衛 魂 公》の中の一 節、 「知はこれに も思 考し、結 局 何の結 果も得られ 存 在 であると 考 えた。 彼 はまた、 及べども仁これを守ること能わず、 なかったのである。自 然 界の事 物 良 知は「 天 渊( 天 空と 深 淵)」であ これを得ると雖も必ずこれを失う は幾 千 万も存 在するのに、どうし るとし、天 地 万 物が発 達し勢いを ( 知 恵が 十 分でも 仁の 心がなけれ てその 全 てを 探 索 する 時 間 など 増す根 源であるとも主 張した。ゆ あるだろうか。 えに、良 知はまた「太 虚」とも称さ 王 陽明 は 浙 江 余 姚 の 名 家 の 生 ば、人 心は得られまい)」からその 名を 取ったものである。1 1 歳まで 王 陽明 の 思 想 の 転 換 の 過 程 に れた。天 地 万 物は、「太 虚」つまり 祖 父 の 王 倫 の も と で 育 ち、5 歳 に 関して、ある事 件について触れな 良 知の中でうまれ、発 達し盛んと して 既 に 祖 父 が 読 んだ 書 物 を 諳 いわけにはいかない。1 5 0 6 年、王 なるのであり、それは良 知の外で んじることができたという。その 陽 明は 宦 官 劉 瑾に 反 対したため、 ではないということである。 後 は 父 王 華 について 北 京 に 移 り、 四 十 回の笞 刑に処され、貴 州 龍 場 弓 馬 を 学 んだ 後 に 兵 法 も 修 めた。 に左 遷された。王 陽 明の思 想はこ 1 8 歳のとき、余 姚に帰る途 中、程 の左 遷のために徹 底 的に変わって 朱 派 学 者 の 娄 諒( 1 4 2 2 – 1 4 9 1) しまった。 環 境があまりにも厳し を訪ねた。そのとき娄 諒は朱 熹の いために、彼の従 者は一 人また一 「格 物 致 知」の学 説 及び「聖 人とな 人と病に倒れ、王 陽 明は自ら食 事 るには必ず学びを経なければなら の支 度をして、従 者たちに供さね 万物的根本 ない」という思 想を紹 介したこと ばならなくなった。 彼はまた従 者 — 心即理 が、 彼にとって 大きな 啓 発となっ たちが気 分を害するのをおそれ た。2 1 歳のとき郷 試(科 挙の一 種) て、彼らと共に故 郷の曲を歌いさ 心 こ そ万 事 万 物 に に 参 加 し、 朱 熹 の 著 作 を 読 破 し えした。ここで、王 陽 明は始 終あ 反 応 す る根 本 た。2 8 歳 で 士 官 し、工 部( 中 国 古 る 問 題 について 思 いを 巡 らせて — 心即理である 代の役 所)の職を任ぜられた後、刑 いた。 聖 人であれば、いかにして 部 雲 南 清 吏 司 主 事も勤めた。 このような 状 況 に 向 き 合 うのか、 陽 明 は 朱 熹 の 著 作 を 読 破 した ということである。その後 彼は夢 あと、 宋 儒の「 万 物にその 理が 備 の 中ではたと 悟った。 すなわち 心 わっている」といういわゆる 理 気 こそ 万 事 万 物 に 反 応 する 根 本 で 二 元 論 について 思 考 を 巡 らせて あり「 心 即 理 」という 心 学 を 提 唱 いた。あるとき、朱 熹の「知を致 ( するに至ったのである。 いた) すには物に格( いた) すにあ 王 陽明 は 良 知 がその 作 用 を 発 り」を実 践するため、竹の理を究め 揮することを 求め、良 知をもって ることを決 意し、三 日 三 晩のあい 事 理の判 断 基 準と経 典 解 釈の根 だ 竹 に「 格 」った も の の 何 も 発 見 拠とした。これこそ彼が世に名を できず、 かえってこのために 病に 知らしめた 心 学の 思 想——「 良 知 倒れてしまう。これこそまさに中 説」である。陽 明は、人 心の霊 明こ 为心是感应万事 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 59 本期人物 思想理念 王阳明的心 学思想非常独特,使 他与当时 流行的程 朱 理学区分 开。程 朱 理学认 为“心” “ 、理” 是分 隔的,王 守仁认为“理”是存 在于“心”中的, 他 主张“良 知 就 是 天 理”。 作为天 理 的 “良知” ,是人们与生俱来的,良知也不 会无缘无故 地消失。王阳明所谓良知, 实际 上是 主观的道 德意 识,这种是非 善恶 之心 每 个人都 有,圣 人和常人的 余 姚 的 王 阳 明 故 居 中 展 出 的 手 札。 是非善恶之心 都 相同。圣人不会多一 余 姚の王 陽 明 故 居で展 示されている手 紙。 些, 常人不会少一些, 因此, 人人都可成 为圣人。既然人人都有良知, 人人都可 时受到蒙蔽,被人们的私欲 迷惑,从而 离,也没有先后。他提出知行 合一,一 用自己的良知作为衡量是非善恶的唯 丧 失 道 德本性。 面对这种 情况,王守 方面 强调 道 德 意 识 的自觉性,要求人 一标 准, 不用求于圣人或经典。一切是 仁 提出要依 靠 教 育,通 过 教 育去除 物 在内在 精 神上下 功夫;另一方面也重 非善恶,良知自会知道,它就在你的心 欲对人们良知的蒙蔽,重新找回良知。 视 道 德的实 践 性,指出人要 在事上 磨 中。 王阳明的良 知 说,虽 是一种先 验 他认为,人人都可以接受教育,并有接 练, 要言行一致, 表里一致。 论,但它打破了圣人同凡人的界限,在 受 教 育的先天 条 件,不管 你是 从事什 客观 上具有动 摇儒家权 威的 作用,积 么行业的, 都可以成为圣人。 极 追求个 性 解放,冲破了程 朱 理学的 此外,王阳明还主张“知行 合一”。 后人对王阳明的评价很高。近代 以 来, “知行 合一”学说的影响愈发扩 大。对于王阳明所提出的“知行 合一” 传 统 观 念,在封建 社会后期产生 过 重 他的知 行 合 一学说不同于朱熹,也不 学说,梁 启超曾有过 这样的评价: “知 要影响, 堪称学界巨擘。 同于陆九渊。朱陆都主张“知先行后”。 行 合 一之教,便 是明代 第一 位 大师王 王 阳 明 反 对 将 知 行 分 作 两 截, 主 张 阳明先生给我学术史上留下最有名而 以自然而然地“致良知”的,人们在与 “求理于吾心”。他认为: “知是行之始, 且最有价 值的一个口号” ,并称颂王阳 良知以外的事物接触时会受到诸如 行是 知之 成。”。 知、行是一 个功夫的 明是“千古 大 师” “ 、百世之 师”。 现 代 物 欲 等的 诱惑,此时良 知 就有可能暂 两面, 知中有行, 行中有知, 二者不能分 新 儒学代表人物之一的熊十力更是评 王阳明提出,人并非生下来 就可 论 道“儒者之学, 唯有阳明善承孔孟” , 认 为他的学说是孔孟学说的正传。清 初 诗人 王士祯 评 价 道, “王 文 成公(王 “良 知”,是 人 们 与生俱来的 , 人 人都可成 为圣人 阳明)为明第一流人物,立德、立功、立 言,皆居绝顶”。除了在中国,王阳明的 思想在 外 国 的 流 传 很 广,尤其对日本 的影响很 大。日本儒学家冈田武 彦认 人 は 皆 生 来 「 良 知 」を 为“阳明学最有东方文化的特点,它简 備 え て お り 、誰 で も 易朴实,不仅便于学习掌握,而且易于 聖人になれる 实 践执行。 在 人 类 这个大家 庭 里,不 分种族,不分老幼,都能理 解和实践阳 明的良知之学。 ” 60 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 今号の顔 思想理念 事 物 と 触 れたときに 物 欲 などの 誘 学 説に対して、梁 啓 超はかつて以 下 王 陽 明の 非 常に 独 特な 心 学 思 想 惑を受け、このとき良 知は一 時 的に のように 評 価 している。 「知 行 合 一 は、彼と当 時 流 行していた程 朱 理 学 見えなくなり、人々の 私 欲に 惑わさ の教えは、明 代 随 一の大 師・ 王 陽 明 とを明 確に分けている。程 朱 理 学は れて道 徳の本 性 失ってしまう。この 先 生 が 我 が 学 術 史 上 に 残 した 最 も 「心」と「理」を区 別しているが、王 守 ような状 況に際して、王 守 仁は教 育 著 名でかつ最も価 値のあるスローガ 仁は「理」は「心」の中に存 在するも によって人々の物 欲が良 知を隠して ン 」だとし、王 陽 明 を「 千 古 大 師 」、 のとして、「良 知こそ天 理である」と しまうことを防ぎ、もう一 度 良 知を 「百 世 之 師」と称 賛している。現 代 新 考えた。天 理としての「良 知」は、人々 取り戻すことを提 唱した。王 陽 明は、 儒 学 の 代 表 的 人 物 の 1 人 である 熊 に生 来 備わっているもので、何の前 人々は み な 教 育 を 受 け る こ と が で 十 力は、王 陽 明をさらに評 価して「儒 触 れもなく 消 え 失 せることはない。 き、また教 育を受け入れる先 天 条 件 者 の 学 問 は 陽 明 だけが 孔 孟 の 教 え 王 陽 明のいうところの良 知とは、事 をもっていて、どのような 職 業に 従 を善く継 承した」と述べ、彼の学 説こ 実 上、主 観 的な道 徳 意 識のことであ 事していても、みな聖 人となること そ 孔 孟 学 の 正 統 な 後 継 であると 考 り、こうした是 非 善 悪の分 別はみな ができると考えた。 えている。 清 代 初 期の 詩 人 王 士 禎 が有しているものである。聖 人にも この他に、王 陽 明は「知 行 合 一」も は「 王 文 成 公( 王 陽 明)は 明 代 第 一 常 人 にも 是 非 善 悪 の 心 はみな 等 し 提 唱 している。 他 の 知 行 合 一 学 説 級の人 物であり、立 德、立 功、立 言の くあるのである。聖 人だからといっ は、朱 熹のそれとも、陸 九 渊のそれ どれをとってもみな 超 一 流 である 」 て多く有していたり、常 人だからと ともことなる。朱、陸のどちらも「知 と評している。また中 国のみならず、 いって 少 なかったりというようなこ が 先 で 行 が 後 である」 と 主 張 する。 王 陽 明の思 想は外 国へも広まり、特 とはない。 したがって 人々はみな 聖 王 陽 明 は 反 対 に 知 行 を 一 体 とみな に日 本に対する影 響は大きかったと 人となることができる。 人々がみな し、「理を求めるは心にあり」と主 張 いえる。日 本の儒 学 者、岡 田 武 彦は 良 知を有しており、自らの良 知をし する。彼は、 「知は行の始まりであり、 「陽 明 学こそ東 洋 文 化の特 徴を最も て 是 非 善 悪 の 唯 一 の 基 準 とするこ 行は知によって成る」と考えた。つま 兼ね備えており簡 潔かつ素 朴で、修 とができるのであれば、聖 人や経 典 り知、行は一つの事 象の表 裏であり、 め易いだけでなく、実 践 実 行し易い。 を求めることもない。一 切の是 非 善 知の中に行があり、行の中に知があ 人 類という大 家 族の中にあって、人 悪は、良 知があればおのずから明ら って 両 者 は 不 可 分 で あ り ど ち ら が 種や歳の違いに拘らず、みなが陽 明 かとなる。それは自 分の心 中にある 先か後かということはないという の良 知の学を理 解し、実 践できるの のである。王 陽 明の良 知 説は、一 種 のである。彼が知 行 合 一を提 唱した である。」と述べている。 の先 験 論とはいえ、聖 人と凡 人に境 のは、ある面では道 徳 意 識の自 覚 性 界 があるとされてきた 従 来 の 考 え を強 調し、人に内 在する精 神に働き を打 破し、客 観 的に儒 家の権 威を動 かけを求めたともいえ、別の面では 揺させる作 用をもっていた。個 性の 道 徳の実 践 性を重 視し、人はその実 解 放を積 極 的に追 求し、程 朱 理 学の 践によって 磨かれることで、言 行が 伝 統 観 念を覆した王 陽 明は、封 建 社 一 致し、表 裏 一 体となると考えたと 会 後 期において 重 大な 影 響を 与え、 もいえる。 学 界の巨 星と称えられた。 後 世 の 人 の 王 陽 明 に 対 する 評 価 王 陽 明は、人は生まれながらにし はとても 高い。 近 代 以 降、「 知 行 合 て 自 然と「 良 知に 致る」わけではな 一」説の 影 響は 次 第に 広まっていっ 王 阳 明 的 故 居 中 展 出 的 著 作《大 学 问》 いとも主 張した。人々は良 知 以 外の た。王 陽 明の提 唱した「知 行 合 一」の 王 陽 明の故 居で展 示されている著 作《大 学 問》。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 61 本期人物 远 播日本 为“心”是万物本体,他说: “心,统 体 是以 改 造 世界为己任的事功 派,如熊 日本阳明学的创立者是中江藤 树 之 总号,太极之异 名也。合 理气,统性 泽 蕃山、大 盐中斋、吉田松阴等人,其 ,在 3 2 岁之前,藤 (16 0 8 -16 4 8 年) 情 …… 其大无外,其小无内。”因此也 中大 盐中斋 领导了都市平民 起 义,有 树基 本上信奉 朱 子学。3 2 至 3 7 岁期 就当之无愧地成为日本阳明学的始祖。 吉田松阴是著名的幕末志士。 间,他读了王阳明弟子的《语录》,开始 这也说 明,王阳明的思想首次在日本 由朱子学 转向阳明学。直至 3 7 岁时, 开出了真正的花朵。 日本的近代史 始自明治维 新。在 明治维 新前德川幕府统治的二百多年 他看了《阳明全书》,从而潜 心于阳明 日本 的 阳 明 学 派 在 中 江 藤 树 开 中,日本的朱子学始 终 处 于官学的 统 著 作,完全 转向阳 明学,他 亲自书写 创之后,大致可分为两派:一派是具有 治 地 位,阳明学则作为下级 武士 和市 “致良知”三个大字,并且让他的弟子 强 烈 内 省 性 格 的 德 教 派(一 说 存 养 民阶层的意 识 形态而处 于被 压抑、受 全部都要读《王阳明全书》。中江 藤 树 派) ,如渊冈山、梁川星岩、春日潜庵等 排 挤 的 地 位。17 9 0 年 幕 府发布异 学 作为一名阳明学 者,虽未重复 王阳明 人,其中以 渊冈山为中心,忠实地 继 承 禁 令之 后,朱子学 被 定为唯一正 统 思 “心即理”的命题,但与王阳明一样,认 了藤 树 的思想。 另一派 则注 重实 践, 想,阳明学则被视为异端的谋 反之学。 然而,在幕府末年,阳明学成了维 新志 士所 普 遍 信奉 的一种哲学,并因此为 维 新运动造 就了一披杰出的思想家和 领导人。 吉田松 阴是明治 维 新 运 动 时 期 先 驱性 的 思 想 家 和 教 育 家。 他 回 忆 说: “吾曾读王阳明《传习录》,颇 觉有 味 …… 然吾非专 修阳明学,但其学真, 往往与吾真会耳。 ”在阳明学的影响和 鼓舞下,他积极主张“尊王攘 夷” ,致力 于“倒幕运动”。吉田松阴以其叔 父的 名义在 家乡创 建了松下村塾,在他 的 学生中,近半 数 为明治 维 新 做出了杰 出贡献。明治 维 新的重要人物伊藤博 文, 就出自他的门下。 这 些 信奉阳明学的杰出人物,以 阳明学为理论 武器,倡导“尊王 攘 夷” 或“开国倒 幕” ,推 动了明治 维 新的实 现,瓦解了日本封建体制,由此而开启 了日本社会 通向近代化的大门。我国 近代著名学 者 章 太 炎 说: “日本维 新, 亦 由 王学为 其 先 导。” 梁 启 超 也 说: “日本维 新之治, 心学之为用也。 ” 王 阳 明 故 居 中 展 出 的“王 阳 明 师 徒 对 话 — 天 泉 证 道”文 字。 王 陽 明の故 居で展 示されている “ 王 阳 明 師 弟 問 答 — 天 泉 证 道” の文 字。 62 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 今号の顔 日 本への伝 播 中 齋 は 都 市 の 平 民 一 揆 において 総 理 大 臣 伊 藤 博 文 もまた 松 蔭 の 日 本 における 陽 明 学 の 創 立 者 指 導 的 役 割を果たし、吉 田 松 陰は 門 下であった。 は中 江 藤 樹( 1 6 0 8 -1 6 4 8 年)であ 言 わずと 知 れた 有 名 な 幕 末 の 志 る。3 2 歳 以 前には、藤 樹は基 本 的 士である。 彼 ら 陽 明 学 を 信 奉 した 幕 末 の 志 士たちは、陽 明 学の理 論を武 器 に 朱 子 学 を 信 奉 し て い た。3 2 か 日 本 の 近 代 史 は 明 治 維 新 から に、 「尊 王 攘 夷」や「開 国 倒 幕」を ら 3 7 歳の 期 間に、 王 陽 明の 弟 子 始 まる。 明 治 維 新 前 の 徳 川 幕 府 提 唱し、明 治 維 新の実 現を推し進 の 手 による『 語 録』 を 読 んだのを 2 0 0 余 年の統 治では、日 本の朱 子 め、 日 本の 封 建 体 制を 打ち 破り、 きっかけに、朱 子 学から陽 明 学へ 学 は 一 貫 して 統 治 のための 官 学 こ れ に よって 日 本 社 会 の 近 代 化 と の 転 向 を 始 め た。3 7 歳 に な る の地 位を占めており、陽 明 学は下 の門を開いたのであった。中 国 近 までに『陽 明 全 書』を読 了し、陽 明 級 武 士と市 民 階 層のイデオロギー 代の 著 名 学 者、章 太 炎は「日 本の の著 作に心 底 傾 倒し、完 全に陽 明 として抑 圧され、排 斥される立 場 維 新は、陽 明をその先 導としてい 学に転 向した。彼は自らの手で「致 にあった。1 7 9 0 年、当 時の江 戸 幕 る」と評している。梁 啓 超も「日 本 良 知」の三 文 字を書 写し、弟 子た 府が異 学 禁 令を発 布したあと、朱 の維 新を治めたのは、心 学をもっ ちにもみな『 陽 明 全 書』 を 読ませ 子 学 が 唯 一 の 正 統 思 想 と 定 めら てしたのである」と述べている。 るようになった。中 江 藤 樹は陽 明 れ、陽 明 学は異 端 的で謀 叛の学 問 学 者の 1 人として、 王 陽 明 の「 心 と さ れ た。し か し 幕 末 に な る と、 即 理」の命 題と重 複はしないまで 陽 明 学 は 維 新 の 志 士 たちが 遍 く も、王 陽 明と同 様に「心」こそ万 物 信 奉する一 種の哲 学となり、その 本 体 であると 考 え、『 心 は 統 体 の ため 明 治 維 新 で 活 躍 する 傑 出 し 総 合にして、太 極の異 名なり。理 た 思 想 家とリーダー達を 生み 出す 気を合し、性 情 統 一す』とも述べて に至った。 いる。藤 樹は日 本で正 真 正 銘の陽 吉 田 松 蔭は、 明 治 維 新 運 動の 明 学の始 祖となったのである。逆 時 期 における 先 駆 的 思 想 家 であ に言えば、この時 王 陽 明の思 想が り教 育 者であった。松 蔭は陽 明 学 初 めて 日 本 で 本 当 に 花 開 いたこ について「曾て王 陽 明の『伝 習 録』 とを示してもいる。 を読み、興 味 深いところがあった。 吾 曾 读《传 习 录》, 颇 觉 有 味 …… 但 阳 明 学 真, 往 往 与 吾 真 会 耳。 『 伝 習 録 』を 読 み 陽 明 学 の 教 え に触 れ る に つ け、 わ れ の気 持 ち を 代 弁 す る。 日 本の陽 明 学 派は中 江 藤 樹が …… 陽 明 学 を 専 門 に 勉 強 してい 開 拓したのち、大きくは二 派に分 るわけではないが、その教えに触 かれた。一 派は強 烈な内 省 的 性 格 れるにつけ、われの気 持ちを代 弁 を有する德 教 派(存 養 派ともいう) する。」と回 想している。陽 明 学の であり,淵 岡 山、梁 川 星 岩、春 日 潜 影 響と鼓 舞のもとで、彼は積 極 的 庵 等の人 物による。なかでも淵 岡 に「尊 王 攘 夷」を主 張し、「倒 幕 運 山を中 心とした一 派は、藤 樹の思 動」に 力を 注ぐようになる。 吉 田 想を忠 実に継 承した。別の一 派は 松 蔭は叔 父の名 義で故 郷に松 下 実 践を重 視し、世 界を改 造するこ 村 塾を創 建した。彼の学 生は、そ とを 自 らの 任 務 とした 事 功 派 で の 半 数 近 くが 明 治 維 新 において あり、熊 沢 蕃 山、大 塩 中 齋、吉 田 松 傑 出した貢 献をなした。明 治 維 新 吉田松阴 陰などの人 物がいる。中でも大 塩 の 重 要 な 人 物 である 日 本 の 初 代 吉田松陰 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 63 华夏美食 乡情, 是一碗面的思念 望郷の念は麺から立ちのぼる 文・王 亮 64 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 中国美味 自 从高中毕业,离开山西老 顿刀削面, 整个人都感觉踏实了几 息息相关。太行山脉绵延不绝,干 家后,好多年求学在江南 分,感受到了亲切与熟悉的味 道, 旱少雨,极 适合小麦生长,多山导 一带,除了人 文 地 理习俗 的不同, 一 种乡思被 突 然地 满足,一 颗 游 致 温 度垂直变化的自然条 件又为 饮食也是一 个很 大的差异。平日 子归乡之心也安 静了下来。 走在 适 宜耐旱的荞麦、莜麦、谷、高粱、 里在老家,黄昏时候,人们见面总 晋城的大街上,看着这么多面馆, 玉米等 粗粮的生长 提 供了极佳环 是相互问道:吃饭了没有?其实, 满心欢喜。或许,乡情,就是一 碗 境。众多的特 色谷类作物为山西 这个“饭”指的就是面食,吃饭也 面的思念, 此刻, 尤为明显。 面 食 文 化 提 供了丰 富 的 原 材 料, 就是吃面。而在南方地带,更多时 面 食在山西历史 悠 久, “世界 这也形成了山西面食“一样面,百 候“饭”指的却是米饭。今年国庆 面食在华夏,华夏面食在山西”这 样吃”的特点。同时,冬天 这 里气 假 期,我格 外地想家,于是早早预 句流 传很 广的 俗语 也点出了山西 候 寒 冷,温 热 型的面 食 便 成了天 订了回家的火车票。列车上,一路 面 食 在 全 国 饮 食 中 的 重 要 地 位。 然的食物搭 配,久而久之,形成了 的乡思开始 涌 现 脑 海,乡情 于我 所谓一方水土养育一方人,山西面 “晋南的 馍、晋中的面、晋北的 糕 而言, 总是一种特殊的味道。直到 食甲天下的 独 特文化,和 这 里的 吃不厌”这种三晋大地 上独特的 出了晋 城 火车 站,在 面馆 里 吃了 地 理分布、气候环境、传 统文化等 面食文化。 高 校を卒 業し、山 西 省の実 家を出てから、長 年 中 国 江 南 地 域の勉 学にいそしんでいたが、こ こでは人 文、地 理、習 慣が違うのみならず、食 文 化も大きく異なる。実 家にいる時は、夕 暮 れ時に人と会ったらお互いこう挨 拶する。 「ご飯を食べましたか?」と。実はここでの『ご飯』とは 麺 類のことで、ご飯を食べるとは、つまり麺を食べるということである。しかし中 国 南 方では、 『ご 飯』といえば多くの場 合、米を指す。今 年の国 慶 節、私は重 度のホームシックにかかり、早々に実 家 へ帰る鉄 道チケットを予 約した。電 車の中で、故 郷の記 憶が脳 裏によみがえり始めた。望 郷の念は 私にとって、いつもある種 特 別な味である。晋 城 駅を出てから、お店で刀 削 麺を食べると、やっと 私は幾 分か落ち着き、馴 染みの味を感じ取ることができ、ホームシックにかられた激 情も突 然 満た され、故 郷への思いも落ち着いてきた。晋 城の街を歩き、数 多くの麺の店を目にすると、とても嬉 しくなってしまう。もしかしたら、望 郷の念は麺から立ち上り、こうした時にはっきり表れるのか もしれない。 麺は山 西 省で悠 久の歴 史があり、『世 界の麺は華 夏にあり、華 夏の麺は山 西 省にある』という、 広く伝えられている俗 語も山 西 省の麺 文 化が中 国 全 域で重 要な地 位を占めていることを示して いる。いわゆるその地 域の水と土 地がその人を育むように、山 西 省の麺は天 下 一 品の独 特な文 化で、 この土 地の地 理 分 布、気 候と環 境、伝 統 文 化などと密 接な関 係にある。太 行 山 脈は連 綿と続き、乾 燥し雨が少なく、小 麦の生 育にとても適している。さらに山がちの地 形がもたらす寒 暖の差の激 しい自 然 条 件も日 照りに強いソバ、莜 麺(ハダカエンバクを粉にして麺にしたもの)、粟、高 粱、トウ モロコシなどの雑 穀の生 育に非 常に適していて、これも山 西 省の麺の特 徴、『同じ麺でも百の食べ 方がある』を形 成している。また冬になると、山 西 省は寒く、温かくゆでた麺は自 然と食べ物の組 み合わせを作り上げ、歳 月がたつうちに、 『晋 南の饝(蒸しぱん)、晋 中の麺、晋 北の糕(もち)は食べ 飽きない』という、この三 種 類の晋の独 特な麺 文 化を形 成した。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 65 华夏美食 世 界面食 在华夏 华夏面食 在 山西 山 西面食文化,是一部很深 瓢、盆、擀面杖、筷子、刀等, 除此之 的 学问。 首先 是 名称 的 外还 有许多颇 具 特 色的工具,如 选 取,山西 面食有着独 到 的审美 饸 饹床、抿 床、抿子、擦子、削片、 情趣和文化内涵。刀拨面、揪面片、 剪刀、竹 签等,这些制作工具都是 剪刀面,皆是以面食 制 作 过 程 的 三晋人 民 长 久 积 累 的 劳 动 智 慧。 特色而得名;金银卷、金裹银 则是 再次,是面食的加工工艺,山西面 通 过食物成品的色彩意象来命 食 讲究“粗 粮 细 做,细 粮 精 做”。 華夏の麺は 名;猫耳朵、擦 蝌蚪是以面食成品 因此,加工手段多种多样,有 擀、 山西省にある 的形 状 酷 似动 物 名称 而命名,这 削、拨、抿、擦、压、搓、漏、剔、拉、抻 些名称 诙 谐 有 趣,充 满 着三晋人 等,而烹饪手段有蒸、炸、焖、煮、 民对生活的热爱和祝福。其次 是 煎、烤、炒等。当然,怎么吃,也是 面食的加工工具,俗语有云“工欲 很有讲究的。山西面食在吃 法 上 善其事必先利其器” ,山西面食 种 讲究 调 料 剂 的 搭 配,闻名海内外 类 繁 多,与其制 作工具 是 分不开 的山西陈 醋 就 是 其中之一,除 此 的。常见的面食 制作工具有锅、碗、 外还有辣椒 油、芝麻酱、韭菜花等。 世界の麺は 華夏にあり 山 西 传 统 面 食“抻 面” 山 西 省の伝 統 的な麺 類「引 延し麺」 66 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 中国美味 胡 辣 汤 的 店 铺 / 胡 辣 湯の店 山 西 传 统 面 食“稍 麦” 的皮 山 西 省の伝 統 的な麺 類「稍 麦(ショウマイ) 」 の皮 山 西 省の麺 文 化は、とても奥 深く、一 種の学 問である。まず名 称についてだが、山 西 省の麺 は独 特の審 美 的 趣と文 化を秘めている。例えば、刀 拨 面(ダオボーミエン)、揪 面 片(ジュウ ミエンピエン)、剪 刀 面(ジエンダオミエン)は、どれも麺の作 成 過 程の特 徴から名 前がついた。また、 金 銀 巻(ジンインジュエン)、金 裹 銀(ジンゴウイン)は出 来 上がった料 理の色 彩イメージから名づけ られ、猫 耳 朵(マオアードウ)、擦 蝌 蚪(ツァーカードウ)は麺の出 来 上がった形が動 物にとても似て いることから名 付けられた。これらの名 称はユーモアで趣があり、三 晋の人々の生 活に対する愛 情と祝 福がにじみ出ている。次に麺を調 理する器 具だが、ことわざで『工、その事をよくせんと欲 せば、必ずその器を利とす。』と言われるように、山 西 省の麺の種 類は多 様で、麺を作るのに使う調 理 器 具と切り離して考えることはできない。よく見かける麺を調 理する器 具に鍋、碗、ひしゃく、 たらい、ボウル、綿 棒、箸、包 丁などがあるが、このほかにも多くの特 色ある調 理 器 具がある。饸 饹 床、 抿 床、抿 子、擦 子、削 片、剪 刀、竹 签など、これらの調 理 器 具は全て三 晋の人々が長 年 積み上げてき た生 活の知 恵である。また麺の調 理 技 巧であるが、山 西 省の麺は『雑 穀に手を加えて、それに更に 手を加える』ことを大 切にしている。そのため調 理 方 法は多 種 多 様であり、擀(のばす)、削(けずる)、 拨(回す)、抿(なでる)、擦(こする)、压(抑える)、搓(もむ)、漏(漏る)、踢(そぐ)、拉(引く)、抻(引 き延ばす)などがあり、料 理をつくる方 法も蒸(蒸す)、炸(油で揚げる)、焖(蓋をしてとろ火で煮 込 む)、煮(煮る)、煎(煎る)、烤(あぶる)、炒(いためる)などがある。もちろん、食べ方にも、とてもこ だわりがある。山 西 省の麺は食べる際、調 味 料や薬 味の組み合わせにもこだわりがある。かの有 名な山 西 省の陳 酢はその一つであり、このほかにもラー油、ゴマダレ、ハナニラなどがある。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 67 华夏美食 史记载,山西是 文化巨匠 再用羊肉沫 浇 头食用,深 受官兵 的性格。 “三晋之 风 勤与俭” ,爱吃 荀子的故里,儒家思想深 喜爱,后来这种面食传入民间,便 醋,喜面食的山西人,养成了敦 厚、 入人心。因此,山西面食文化也受 形成今日的“莜 面栲 栳 栳” ,寓意 开拓为主的性格 特点。明清时 期 到 儒 家 文化 的 影 响,折射出政 治 犒 劳三军。 这一名字的背后寄寓 “富甲中国 五 百年” “ 、执中国 金 融 文化的影子和大汉民族 特 有的思 着传 统儒家文化对明君圣主的渴 之牛耳”的晋商,就将这种精神特 维 方式、审美理 想、生 活观 念等。 望和推 崇。吕梁等地在大年 初一 点体 现 地 淋漓尽致。从小吃面长 比 如,流行 于 忻州一带的 莜 面栲 早上做 的“宽 心面” 是 用豆面 制 大 的山西人,我 们 身上也 时 时 体 栳栳,是山西著名的小吃。相传, 作,面条宽而薄,寓意“一年到头 现出山西面食 文化的影子。 游 学 隋末年间,李世民在晋源 起兵,战 心宽可心意” ,体现着 传 统 文化里 在外,老乡碰面,格 外亲 切,想 起 况 艰 难,李世民体恤三军,用山西 平和向上的生活理念。 家乡, 也就想起面的味道。 历 特产的莜麦蒸制成一种卷形面食, 面 食 文化,也 塑 造了山西人 乡情, 是一碗面的思念。 山 西 传 统 面 食“西 红 柿 鸡 蛋 盖 浇 面” 山 西 省の伝 統 的な麺 類「トマトと卵のあんかけ麺」 68 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 中国美味 山 西 面 食 小 吃“莜 面 栲 栳 栳” 山 西 省の麺 食 名 物「莜 麺 栲 栳 栳」 歴 史 書の記 載によれば、山 西 省は文 化の巨 匠、荀 子のふるさとであり、儒 教の教えが人々の 間にも浸 透している。そのため、山 西 省の食 文 化にも儒 教の文 化が影 響しており、政 治 文 化の面 影と漢 民 族 特 有の考え方、美 意 識、生 活 概 念などが表れている。たとえば忻 州 一 帯で流 行 っている莜 麺 栲 栳 栳(ヨウミエンカオラオラオ)は山 西 省で有 名な一 品 料 理だ。隋の末 期、李 世 民が 晋 源で挙 兵し、戦 況が困 難になり、李 世 民は三 軍を思いやり、山 西 省 特 産の 莜 麺を蒸して巻き型 の麺を作り、さらに羊 肉のそぼろを麺の上にかけて食べてみたところ、兵 士の間で人 気がでて、後 にこの麺は民 間にも伝えられたと言われている。それが今 日の『莜 麺 栲 栳 栳』になり、三 軍をねぎ らうという意 味が含まれている。この名 前の背 後には、伝 統の儒 教 文 化の明 君 聖 主に対する渇 望 と崇 拝が託されている。呂 粱などでは、元 日の朝に作る『寛 心 麺』は豆 麺を用いてつくり、麺は太く て薄く、『一 年 中 心 穏やかに、願いが叶い過ごせるように』という意 味を暗 示しており、伝 統 文 化 の穏やかだが向 上 心がある生 活 理 念が体 現されている。 麺 文 化は山 西 省の人々の性 格を形 作っている。 『三 晋の気 風は勤 勉で倹 約 家』、酢を好み、麺を 好む山 西 省の人は、温 厚でフロンティア精 神といった性 格の特 徴を作り上げている。明や清の時 代、 『天 下の富 豪 中 国 五 百 年』、『中 国 金 融を牛 耳る』晋の商 人はまさにこういった精 神の特 徴をよく 表している。幼いころから麺を食べて育った山 西 省の人、私たちの体にも時として山 西 省の麺 文 化の面 影が表れる。他 所の地で勉 学し、同 郷の人と会うと、格 別に親しみを感じ、故 郷を思い出し、 そして麺の味を思い出す。 いつも望 郷の念は麺から立ちのぼるのだ。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 69 咬文嚼字 流 行 語 「潜水」と「灌水」 “潜水”与“灌水” 【 q ián shuǐ】 【 g uàn s h uǐ】 文・小 雅 在 喜 欢 利 用电子 布 告 栏 微 服 出 巡, 传 统 的 表 述中, “ 潜 水”是 “潜 水”指 只 浏 览 页 面 而 不 一项以在水下活动为主要 发表 意 见 的 行为,与潜在 水下 不 了解民生疾苦。他使用的 I D 就是 内容,从而达到锻 炼 身体 , 休闲娱 露头的 动 作 有类 似 之 处; “冒泡” , 并以此结交了不 “a d d w a t e r ” 乐目的的休闲运动; “灌水”则指 则 指长时间潜 水,有时 突 然出来 少网友,但当时 没有人 知 道 这个 向容器里面注水的一种动 作。随 发言的行为; “吐槽”指从对方的 I D 的主人是美国总 统。直到卸任 着 互 联 网 的 兴 起, “ 潜 水”和“灌 语言或行为中找到一个漏 洞或关 以 后,里根才跟 几个 好友 透 露了 水”衍生出了新的含义。 键 词 作为切入点,发出带有调 侃 这个 秘 密。这一泄密让想 跟 里根 今 天,互联网极 大地 改 变了 意味 的感慨 或 疑问,是一种 有针 攀关系或对他不满的网友们统 统 人们的生活方式, 促进了人与人之 对性的行为。 “活跃”和“话唠”从 出动,B B S 站内信在短时间内如 间的沟通。素不相识的人能 通 过 字面意 义 上不难 理 解,而“传 说” 山洪暴发 般 涌来,一发不可收 拾, 网络聊天 对 话、交 流 观 点。 渐 渐 之 所以代 表 最强 活跃 程 度,是 因 站长无 法 处 理 如此多的 信件,终 地,人群 在 互 联 网上因为某个或 为 说 话 过 多 甚至 超 过 话 唠 的 人, 于在“众志成城”之下,这个 B B S 某些共性而集结形成一个 个社交 在 现 实 生 活中是 很 少的,这样 的 站被搞垮了。 群 体,比 如中国 的百度 贴 吧、q q 人是个“传说” 。 后来据说里根补偿了这位站 群、豆瓣小组、微信群等。在这 些 “灌水”跟“潜水”的意 义在 长,可是“a d d w a t e r ”的 威 力 虚 拟 的网 络群 体 中,有的人习惯 指网络用户的活跃程 度 这个点上 也因此传开了, 辗转到中国, “a d d 沉 默,有的人喜欢围观,有的人偶 是相反的。 “潜水” 的人一 般不发 w a t e r ”便被翻译成“灌水” 。所 尔 发言,有的人 则很 活跃 …… 对 言, “ 灌水”的人则很爱发言。如果 以说“灌水”意义不大,但 威力也 此,互联网语言与时俱 进,借用一 把网络聊天 页面比作一 个水平面, 不小。不过今天,很多人已经淡化 些词语来描述这些网络现象。 “潜水”的人总是藏在水平面底下, 了“灌水”的贬义。 以 Q Q 群为例,它根 据 一 个 不崭露头角;而“灌水”的人 则在 群里人物的发言频率对成员的活 水平面之上, 不停地向里面注水。 如今的互联网正以 无孔不入之势 跃 程 度 进 行了等 级 划分,共分为 在表 达网络用户爱发言的同 影响、改变着我们的生活,网络新 6 类,活 跃 程 度 最弱到最 强 依 次 时, “ 灌 水”也 略 带 贬 义。 一 般 来 语言也随之层出不穷。这其中,有 为:潜水、冒泡、吐槽、活跃、话唠、 说,灌 水之 人 所发表 的内容或 所 新 颖 且富 有 生 命 力 的 语 言 新 创, 传说。 说的话,大都没有实际意义,这与 也有 违 背 语 言 规 律 的 粗 制 滥 造。 “灌水”一词的来源有关。 据 传,美国前总 统 里根 是一 个 B B S 爱 好者,在 总 统任内,他 70 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 “潜 水” 也 好, “ 灌 水”也罢, 对此,我 们 应该 取 其 精 华去其 糟 粕,让网络语言更能 经受 住 时间 的“大浪淘沙” 。 言 葉 を あじわう 伝 統 的 な 表 現 に お い て、 「 潜 水」とは 言うまでも いる。 人によっては、たまに 発 くぶくと泡を立てながら水 面に 言する者や、常に活 発に発 言し 顔を出すことになぞらえている。 なく水に潜る活 動のことであ ている者もいる。これに対して、 「吐 槽」とは、相 手の言 葉や行 為 り、トレーニングやレジャースポ ネット用 語も 時 勢に 遅れず、あ 中に 問 題 点やキーワードを 見 出 ーツを指す。 「灌 水」とは容 器の る 種 の 単 語 を 借 用 してこうし し、そこを 切り 口にからかいや 中に水を注ぐ動 作のことであ た ネット 上 の 現 象 を 表 現 し て 冷やかしを込めた感 慨や疑 問を る。 インターネットの 興 隆にと いる。 発することで、ある種 特 定の相 もなって、この「潜 水」と「灌 水」 たとえばQQ 群(チャット・ア 手 に 対 し て の 行 為 で あ る。「 活 という言 葉に新しい意 味が生ま プリのQQにあるグループ・チャ 躍」と「話 唠」はその字 面からも れている。 ット機 能)を例に挙げてみよう。 意 味を理 解するのは難しくな 今 日、インターネットは人々の グループ 内 のメンバーの 発 言 の いだろう。そして「伝 説」が最 強 ライフスタイル を 大 きく 変 化 さ 頻 度 によってメンバーの 活 発 度 の活 発 度を示す。 「話 唠」の人す せ、人と人とのコミュニケーショ 合いを 6 つのレベルに分け、最 らも 越 えるほどおしゃべりが 止 ンを促している。互いを知らな 弱の「潜 水」から始まり徐々にレ まらない人は、実 際の生 活であ い者 同 士がネットを通じて会 話 ベルアップし、「冒 泡」、「吐 槽」、 ま り お 目 に か か る こ と は な く、 をし、意 見 交 換する。次 第に人々 「活 躍」、「話 唠」と続き、最 強の はインターネット 上 で 何 かしら レ ベ ル は「 伝 説 」と 表 現 し て の 共 通 項を 見つけ、集まり、い いる。 そ れ が「 伝 説 」と 称 さ れ る 所 以 である。 「 灌 水」と「 潜 水」は、ネット く つ も の ソーシャルネットワー 「潜 水」とは、ページを閲 覧す クを 形 成するようになった。 例 るのみで意 見を発 表しない行 えば、中 国では「百 度 貼 吧」、 「Q 為を 指しており、こうした 行 為 「 潜 水 」の 人 は 普 通 発 言 をしな Q 群」、 「豆 瓣 小 組」、 「微 信 群」な が 水に 潜って 息を 潜めている 様 い。 「灌 水」の人は逆に発 言を好 どがある。 こうした仮 想のネッ 子 に 似 ていることに 由 来 する。 む。 もしネット上のチャット画 ユーザーの 活 発 度 の 面 からみる と、正 反 対の意 味を表している。 トワークの 中には、 沈 黙を 守る 「冒 泡」とは、長 時 間「潜 水」して 面を水 面に例えるなら、「潜 水」 のが 習 慣となっている 者もいれ いたのに、ある時 突 然 現れて発 の人はいつも水 中に頭を引っ込 ば、みんなの 見 物が 好きな 者も 言することであり、水 中からぶ めて隠れており、一 方「灌 水」の CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 71 咬文嚼字 人 は い つ も 水 面 上にいて、水を ガンと関 係を築きたい者や反 対 インターネット が 強 烈 な 勢 いで 注ぎ続けているのである。 に彼に対して不 満を持っている 私たちの生 活を変 化させてい 「灌 水」という語には、ネット ネットユーザーら が み な 掲 示 板 る 現 在、新しく 出 現するネット ユーザーがよく 発 言 する 行 為 を にアクセス し、B B S 内 の 書 き 込 用 語も枚 挙に暇がない。その中 示すと同 時に、否 定 的な意 味も みは 短 時 間 のうちに 雪 崩 のよ には、斬 新で生 命 力に溢れた創 また含まれている。一 般 的に言 うに増 加し収 拾のつかない事 造 的な言 葉もあれば、言 語の仕 えば、 「灌 水」の人が発 言する内 態 となった。 ホームページ の 管 組みに反するような濫 用も見 容や話は、たいてい 意 味のない 理 者 側もあまりに多くの書き 受けられる。 こうしたネット用 ものであることが多い。これは 込みの 処 理ができなくなり、多 語に 対して、私たちはよくよく 「灌 水」という語の由 来に関 係し く の ネットユーザーが 一 度 に 殺 取 捨 選 択しながら、これらの言 到したことによって、 ついに 掲 葉 の 中 から 粗 悪 な 物 を 排 除 し、 示 板 はダウン してしまったので より長い時の流れや淘 汰にも耐 ある。 えうるものにしていく必 要が ている。 聞くところによれば、元アメ リカ大 統 領のレーガン氏は BBS の愛 好 者で、大 統 領 任 期 中にあ のちに、レーガンはこの B B S って、 ネットを 利 用し 身 分を 隠 の 管 理 者 に 対 して 補 償 をした し て 掲 示 板 を 巡 回 し、一 般 の というが、 「add water」の威 力は 人々の苦しみや痛みを理 解する こうして 広まり、中 国にまで 伝 のを 好んだという。 彼が 使った わった「add water」は「灌 水」と ID が「add water」でネット上に 訳されるにいたった。 したがっ 多くの 友 人がいたというが、当 て、「灌 水」とはあまり大きな意 時だれもこのID の主がアメリカ 味を 持たないわりには、威 力は 大 統 領であることを知らなかっ 小さくないといえる。しかし今 たのである。大 統 領を退 任して 日、多くの人はこの「灌 水」の否 はじめて、 レーガンは 親しい 友 定 的な意 味はうすれてきてし 人 数 人 にこの 秘 密 を 明 かした まっている。 という。この暴 露によって、レー 72 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 「潜 水」にせよ「灌 水」にせよ、 あるだろう。 日本孔院 日本首家孔子学院 —— 立命馆孔子学院举行 1 0 周年纪念仪式 日本初の孔子学院 — 立命館孔子学院 10 周年記念イベント 10 月 10 日,日本首家孔子学院 总部 副总干事、汉 办 副主任夏 建 辉宣 立 命 馆 孔子 学 院 在 立 命 馆 读了总部总干事、汉 办主任 许 琳 发 来 10 月 10日、日 本 初の 孔 子 学 院 である 立 命 館 孔 子 学 院は 立 大学 国 际 和平博 物 馆 举 行成 立 10 周 的贺信,特 别肯定在立命 馆大学和北 命 館 大 学 国 際 平 和 ミュ ージアム にて 年 纪 念仪 式。 孔子学院 总部/国家 汉 京大学的共同努力下,孔子学院 坚 持 10 周 年 記 念イベントを 開 催した。 孔 办、北京大学、中国驻大阪 总领事馆以 服 务当地,积极 开展高质 量的汉语 教 子 学 院 総 部 / 国 家 漢 弁、北 京 大 学、中 及京都府、京都市友 好团 体 和滋贺县 学和高水平的学术研究,举 办 丰富多 国 駐 大 阪 総 領 事 館 及び 京 都 府、京 都 草津市政 府等代表出席纪念活动。 彩的文化讲座和交 流 活 动,取得 令人 市 日 中 友 好 協 会と滋 賀 県 草 津 市 役 所 立命 馆 大学 校 长吉田美喜夫在 瞩目的成 绩。北京大学 校务 委员会副 の 代 表 な ど そ う そ う た る 面々が 記 念 致 辞中高度 赞 扬 孔 院 10 年来 取 得 的 主任 叶 静 漪 致 辞 表 示 希 望 继 续 推 动 イベントに出 席した。 成 果,感谢各方对立命 馆 孔院 鼎力支 两所大学之间 的学 科 研究 和学生 交 立 命 館 大 学 校 長の 吉 田 美 喜 夫 氏は 持,并表示今后将 继 续 推 进语言教学 流。 总领馆领事、教育室长 李 春 生 致 孔 子 学 院の 1 0 年 間で果たした役 割を 与文化 交 流事业,为不断 深 化两国友 辞 强调, “尽管目前中日关 系受到众 所 評 価し、各 方 面の方々に立 命 館 孔 子 学 谊、促 进 互利关 系发 展做 贡献。孔院 周知的原因的影响,遇到一些困难,但 院 への 御 支 持 への 感 謝 を 表 すととも 中日关 系的前途一定 是 光明的,让我 に、立 命 館 孔 子 学 院は、平 和 的・ 学 術 们共同努力早日迎 来中日关 系更 加美 的 交 流 を 通 じて 両 国 が 友 好 関 係 を 深 好的明天。 ” めることができるよう、今 後も言 語 教 仪式后,与会代表和当地市民共 育・文 化 交 流 事 業の更なる展 開を目 指 同欣赏北京大学学生艺术团与立命 馆 し、中 国と日 本の架け橋として貢 献で 大学 邦乐队的 特 别演出,包括中国 传 きるよう努めていく決 心をのべた。孔 统民乐、民族舞、合唱的表演与日本古 子 学 院 総 部 副 総 幹 事、漢 弁 副 主 任 夏 筝名曲的演奏。 建 輝 氏が 総 部 総 幹 事、 漢 弁 主 任 許 琳 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 73 日本孔院 氏からの祝 辞を読み上げ、立 命 館 大 学 活 動を催してきたことを評 価した。北 と 北 京 大 学が 協 力 体 制のもと、 孔 子 京 大 学 校 務 委 員 会 副 主 任の叶 静 漪 氏 学 院の 現 地サービスが支えられ、ハイ は今 後も引き続き 2 校 間の学 科 研 究 クオリティな漢 語 教 学と高レベルの学 と 学 生 交 流 を 推 し 進 めていけるよう 術 研 究、 多 種 多 様な 文 化 講 座と 交 流 に祈っていると述べた。総 領 事 館、教 育 室 長 李 春 生 氏 は「 現 在 日 中 関 係 は 皆 様 もご 存 知 のような 影 響 を 受 ける 学 学 生 芸 術 団による 中 国 伝 統 民 族 音 ことがありますが、日 中 関 係の前 途は 楽・民 族 舞 踊・合 唱と立 命 館 大 学 邦 楽 洋々たるものです。中 日 関 係の美しい 部 の 学 生 達 の 筝 の 名 曲 などの 特 別 公 明 日を一 日も早く迎えらるよう、一 致 演を鑑 賞した。 団 結しましょう。 」と強 調した。 イベント後、会 代 表と市 民が北 京 大 文・北大志愿者 刘莎 ( 北 京 大 学 ボ ラ ン テ ィ ア 劉 莎 ) 北京大学学生艺术团赴 日本孔子学院巡演取得圆满成功! 北京大学生芸術団日本孔子学院巡回公演成功! 10 月 7 日,北大艺术团在早稻田大学小野 纪念 讲 堂进行首场公演。早稻田大学副校长、孔子学 院 院长 森田典正出席并致 辞。 艺 术团以一曲充满喜庆 气氛的《花 好月圆》为演出拉开帷幕;蒙古 族 舞 蹈《心 10 月 7 日、北 京 大 学 芸 術 団は早 稲 田 大 学の小 野 記 念 講 堂 にて孔 子 学 院の巡 回 公 演の幕を切った。早 稲 田 大 学の 之寻》把 观众们带到了辽阔浩瀚的草原,深切感受到蒙 副 校 長、孔 子 学 院 院 長である森 田 典 正 氏が出 席し、ご挨 拶をした。 古族 人民的淳 朴热情;小合唱《美丽的草原我的家》既 芸 術 団は喜びの気 持ちに満ち溢れた「花 好 月 圓」ではじまり、モン 突出了民族 风情,又 展现了新时代的气息。最 后,民乐 ゴル舞 踏の「心 之 尋」で観 衆を広々とした草 原へと連れ去り、モン 团演奏了专门为此 次 巡 演 排 练的日本经典曲目《故乡》。 ゴル民 族の純 朴な情 熱に触れさせた。小 合 唱の「美 麗 的 草 原 我 的 此 后 在 观 众 的 热 烈 欢 呼 声中, 艺 术 团 带 来了返 场 曲 家」では、少 数 民 族の風 情が強くなりつつも、新 時 代の息 吹も感じ 目 —— 日本歌曲《红蜻蜓》。在同学们的歌 声和观众的 させた。最 後に、 民 族 楽 団は今 公 演のために特 別に練 習をした「ふ 掌声中,本场演出圆满落幕。观众们纷 纷上台与演员们 るさと」を演 奏した。その後、アンコールに応えて芸 術 団は同じく 合 影交谈, 久久不愿离去。 日 本の童 謡「あかとんぼ」を演 奏した。歌 声と観 客の拍 手の中、今 此外,北大艺术团先后赴 立命 馆大学、爱知大学、 樱美林大学高岛学堂、立命 馆亚洲太平洋大学等四所孔 公 演は大 好 評の内 幕を閉じた。観 客は一 人また一 人と、台 上の演 奏 者たちと写 真を撮り、離れがたい様 子であった。 子学院 演出。 巡 演 活 动不仅 展示了北京大学学子的风 その他、北 京 芸 術 団は立 命 館 大 学、愛 知 大 学、桜 美 林 大 学 高 采,加强了中日大学生之间的沟通和理 解,更 加深了当 島 学 堂、立 命 館アジア太 平 洋 大 学の 4 か 所の 孔 子 学 園でも 演 地民众对中国文化 奏した。巡 回 公 演は、北 京 大 学 学 生の才 能を世に知らしめただ 艺 术 的了解,为中 けでなく、日 中 大 学 生 間の交 流と理 解をや市 民の中 国 文 化や 日文化交流搭建了 芸 術に 対する 理 解を 深めることにも 繋がった。 日 中 文 化の 友 友谊的桥梁和艺 好の懸け橋がまた一つかけられた。 术的平台。 74 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 文・北京大学提供 (北京大学提供) 总部新闻 * 本部ニュース N E W S F R O M T H E H E A D Q UA R T E R S 习近平出席全英孔子学院和孔子课堂年会开幕式为第 1 0 0 0 所孔子课堂揭牌 習近平国家主席がイギリス孔子学院・学堂の年次総会開幕式に出席 10 0 0 個所目の孔子学堂オープンを祝う 当地时间10月 22日,中国国 家主席习近平在英国约克公爵 安德鲁王子的陪同下,出席了在伦敦举办 的全英孔子学院和孔子课堂年会开幕式。 习近平在开幕式致辞中指出,孔子学院是 世界认识中国的一个重要平台。安德鲁王 子在致辞中表示,学好汉语将为发展英中 合作伙伴关系做出贡献。随后,习近平和 安德鲁王子共同为全球第 1 0 0 0 所孔子课 堂 —— 奥特利尔中学孔子课堂揭牌。 現 地 時 間 1 0 月 2 2 日、中 国 国 家 主 席 習 近 平 氏 は イギリス の ヨーク 公 爵 アンドルー王 子 の 案 内 で、ロンドンで行われるイギリス孔 子 学 院・ 学 堂 の年 次 総 会 開 幕 式に出 席した。 その際、習 主 席 が「 孔 子 学 院は 世 界に 中 国を 理 解してもらうた めの重 要なプラットフォームだ」と話したのに対 し、アンドルー王 子は、 「中 国 語をマスターするこ とが 英 中 間パートナーシップの 発 展に 貢 献する」 と返 答した。その後、習 主 席はアンドルー王 子と 共に 世 界で 1 0 0 0 個 所 目の 孔 子 学 堂となる、 オ ートリ中 学 校 孔 子 学 堂の開 幕を行った。 向巴平措访问摩尔多瓦自由国际大学孔子学院 向巴平措 ( チャンパ・プンツォク ) 氏がモルドバ自由国際大学孔子学院を訪問 当 地 时 间10月16日, 現 地 時 間 1 0 月 1 6 日、 全 人 代 常 務 全国人大常委会副委 委 員 会 副 委 員 長 向 巴 平 措 氏が代 表 団 员长向巴平措率代表团访问摩尔 を 率 いてモルドバ 自 由 国 際 大 学 孔 子 多瓦自由国际大学孔子学院,与 学 院を訪 問した。訪 問 中、教 師や学 生 授课教师和学生交流,高度肯定 らと言 葉を交わし、自 由 国 際 大 学 孔 子 自由国际大学孔子学院近年来汉 学 院 の 近 年 における 中 国 語 国 際 教 育 语国际教育的成功开展。 の世 界 的 展 開を高く評 価した。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 75 各国孔子学院召开联 席会 议 各国孔子学院合同会議開催 9 月下旬至 11 月上旬,巴西、泰国、日本、 意大利、韩国等国和非洲地区孔子学院(课 堂)联席会议相继召开。会议期间,与会代表分别就提 升孔子学院办学质量和水平、本土教师培训、建立校友会、 加强与中资企业及当地机构合作等议题展开讨论。 9 月 下 旬から 1 1 上 旬にかけ、ブラジル・タイ・日 本・ イタリア・ 韓 国などの国とアフリカ地 域の孔 子 学 院・ 学 堂が合 同 会 議を次々と開いた。会 議 期 間 中は、各 孔 子 学 院の教 育 水 準の向 上・母 国 出 身 教 師の養 成・同 窓 会 創 設・中 国 系 企 業 及び地 元 機 構との連 携の強 化 などといった議 題をめぐって討 論が行われた。 孔子学院 总部携众多教学新资源亮相 伦敦、法兰克福书展 豊富多彩な新教材を携え孔子学院総部が ロンドン・フランクフルトブックフェアに登場 3 4 1 10 月 16 日至 18 日,孔子学院总部携数百种汉语教材、文化读物 和工具书参加了在伦敦举行的第 27 届英国语言展,新推出的各类 汉语学习资源受到当地老师和学生的热烈欢迎。 在 10 月 14 至 18 日举行的法兰克福书展上,孔子学院总部展场气氛热烈, 前来咨询洽谈的业内机构对汉语教学新资源兴趣浓厚。展览期间,孔子学院总 部与多家出版社达成合作意向,向意大利 Hoepli 等知名国际出版社转让版权 20 余种。 2 1 0 月 1 6 日から 1 8 日にかけて、孔 子 学 院 総 部が数 百 種の中 国 語テキス トや文 化 的 書 物、レファレンスブックなどを携えて、ロンドンで行われる第 2 7 回イギリスランゲージショーに 参 加した。 新しい 中 国 語 学 習 資 源 各 種 は、現 地の教 師と学 生から好 評を得た。 1 0 月 1 4 日 から 1 8 日 にかけて 開 催 されたフランクフルトブックフェア では、高 揚した雰 囲 気をまとう展 示 会 場 内に出 展し、新 教 材はこちらでも 1、2 . 英 国 语 言 展 / 3、4 . 法 兰 克 福 书 展 1、2. イギリスランゲージショー 3、4. フランクフルトブックフェア 76 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 各 業 界 内 団 体から大 人 気を博した。展 示 会 期 間 中、多 数の出 版 社から協 力の意 向が寄せられた孔 子 学 院 総 部は、イタリアのHoepli をはじめとした 世 界で名を馳せている国 際 出 版 社に出 版 権の 2 0 種 余りを譲 渡した。 第三届北美孔子学院(课堂)汉语教学研讨会举办 第三回北アメリカ孔子学院・学堂中国語教育シンポジウム開催 10 月 16 日至 18 日,由加拿大埃德蒙顿孔子学院和波特兰州 立大学孔子学院联合主办的“第三届北美孔子学院及孔子课堂 汉语国际教学研讨会”在埃德蒙顿市召开。本次会议研讨内容包括教学案例、 教学反思、教学研究、教材开发与使用、教学评估、网络教学及师资培养 等课题。会议对北美地区汉语教学的丰硕成果进行了充分展示,不仅共享 了教育思想和教学资源,也进一步强化了孔院之间的合作和友谊。 1 0 月 1 6 日から 1 8 日にかけて、 カナダエ ドモントン孔 子 学 院とポートランド州 立 大 学 共 催の「第 三 回 北アメリカ孔 子 学 院・ 学 堂 中 国 語 教 育 国 際シンポジウム」がエドモントン 市で開かれた。教 学 案、反 省 点、研 究のほか、 教 科 書の執 筆と使 用や授 業アセスメント、オ ンラインスクール、 教 師 養 成などといった課 題が検 討され、北アメリカ地 域における中 国 語 教 育の大きな成 果を披 露し、教 育 理 念と教 育 資 源の共 有 化が達 成されたのみならず、各 学 院 間の絆も更に深まる結 果となった。 第八届“汉语桥” 世界中学生中文比赛 第八回「漢語橋」 世界中学生中国語大会 400 多名外国学生角逐中文比赛, 泰国队获团体总冠军。 “来吧来吧,快乐学汉语!”10 月 31 晚,在“汉语桥”比赛 的主题歌声中,为期 17 天的第八届“汉 语桥”世界中学生中文比赛总决赛暨闭 幕式在云南师范大学举行,经过现场激 外 国 人 学 生 合 計 4 0 0 余 名が中 国 語 大 会で火 花を散らした結 果、タイ代 表 チームが団 体 優 勝の座を勝ち取った。 烈的角逐,泰国队获得团体总冠军。该 「来 吧 来 吧,快 乐 学 汉 语! ( みんな集まれ、楽しく中 国 語を学ぼう!) 」というテ 比赛由孔子学院总部 / 国家汉办、云南省 ーマソングの中、 「漢 語 橋」大 会は 1 0 月 3 1 日 夜に千 秋 楽を迎えた。1 7 日 間にも 人民政府联合主办,吸引了来自 81 个国 亘る第 八 回「漢 語 橋」 世 界 中 学 生 中 国 語 大 会 決 勝 戦は閉 幕 式も兼ね、雲 南 師 範 大 家 96 个赛区 79 支参赛队,400 多人参赛, 学で行われ、現 場で激しい競 争を勝ち抜いたのは、タイ代 表チームだった。孔 子 学 是历届“汉语桥”世界中学生中文比赛 院 総 部 / 国 家 漢 弁と雲 南 省 政 府が共 催する今 回の「漢 語 橋」大 会は、8 1ヶ国・9 6 中参赛国家最多、参赛人数最多的一届。 地 域・7 9 チーム・4 0 0 余 名の参 加 者を含め、これまで行われてきた各 回の中で参 加 国・参 加 者 数が最も多いものとされている。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 77 汉语课堂 KEY T P OI N ON LESS 中 文的数词不能直接修饰名词, 数词和名词之间一定要加上量词使用。如“一张纸” “ 、一 块 豆 腐”( 豆 腐一丁) 中 的 (一 枚 の紙) “ 、黑 板 上 画 着 一 条 线”( 一本 の線) “张” “条” “块” 。可是, 对什么样的名词使用什么样的量词, 这对学习者来说是意外的难题。 : 如果实在不知道, 我经常被学生问: “老师,到了中国怎么说才好啊?”有时就随口回答 “ 个 的 使 用 范 围 有 多 大? 就先用‘个’代替吧。 ”诚然, “个”的用法与日语的助数词“つ”比较相近, 因此看上去使用 ” “ 范围很广。但是,与“つ”相比,可以说“个”的使用并没有那么的自由。这 次,我们就 来看 一下“个”的使用范围。首先请看下面的两幅图: ” 个“ って、ど の 範 囲 ま で 中 国 語では、数 詞の後ろに直 接 名 詞を置いて修 飾することができません。間に 必ず量 詞を挟まなければなりません。 例えば、 “一 张 纸” 「一 枚の紙」 、 “黑 板 上 画 着 一 条 线” 「黒 板に一 本の線をひく」 、 “一 块 豆 腐” 「一 丁の豆 腐」 の“张” “条” “块” がそうです。ところが、どの名 詞にどの量 詞を使うのかを把 握するのは、学 習 者には 意 外と難しいようです。よく学 生から「先 生、 中 国に行ったらどうしたらいいのですか」 と聞かれ、 「とりあえず、わからないときは“个” を使ってください」 とつい無 責 任に答 えてしまいます。 “个”は確かに日 本 語の助 数 詞「つ」に近く、使 用 範 囲はとても広く 見えます。しかし、日 本 語の「つ」と比べるとそれほど自 由とも言えません。今 回はそ の“个”の使 用 範 囲についてみていきましょう。まずは下の二つの絵を見てください: ? 文・杨达 A : 机の上にりんごが三つ 如 果 被问到“桌子上有什么?” 大家 的回答应 该是这样的吧 : B : 机の上にりんごが一 山 「机の上に何がありますか」と聞かれたら、皆さんの答 えは下 記のようになるでしょう。 A .....“ . 有三个苹果。 ” A........「 りんごが三つあります。」 B.....“ . 有很多苹果。 ” B........「 たくさんのりんごがあります。」 像这样,人在看到多个 物 体 的时候,有时 将 其 このように、人の 目はものを 見 定める 時、それを 一つ 作为一个独立的物体来认知,而有时则会将复数的 一つ独 立したものとして認 識する場 合と、ある複 数のも 物体 统一作为一个 物体(连续体)来认知。实际上, のを一 括して一つのもの(連 続 体)として認 識する場 合が “个”仅在前一种情况下登场。 那么,是否只要是前一种 情况,不论 何时 都可 あります。実は“个”は前 者の時にしか登 場しません。 では、前 者の時であれば、どんなときでも“个”が使え 以使 用“个” 呢? 事 实 上也并非如此“自由奔 放”。 るのかというと、それほど「奔 放」にさせてはくれないよ 从 结论上 来说,属于以下几 种形 状的物 体 时,是一 うです。結 論から言いますと、以 下の場 合は必ずその形に 定要使用该形状的专属量词, 而无法使用“个”的。 属する量 詞を使い、 “个”を使うことはできません。 78 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 中国語教室 ❶ 细 长 的,一 次 元 的,线 条 状 的 ❷ 平 面 状 的(包 括 正 方 形),二 次 元 的 細 長い、一 次 元に感じるとき 二 次 元に感じる(正 方 形も含む)とき eg. 纸 上 或 黑 板 上 条 CIN EM A TI CKET admission one eg. 票、纸 张 C IN TI C EM A K 张 ET adm iss ion one チケット、紙 紙や黒 板に書いてある線 ❸ 细 长 的 立 体,三 次 元 的,棍 棒 状 的 ❹ 二 次 元 的,带 有 厚 度 的 細 長い三 次 元(円 形も含む)に感じるとき 細 長い二 次 元のものに厚みを感じるとき eg. 电 线、钢 笔、牙 签 等 電 線、万 年 筆、楊 枝など 根 片 eg. 木 板,树 叶 等 木 板、木の葉など ❺ 长宽高基本相等的立体 ❻ 横 幅、厚み、奥 行きがほぼ同じに感じるとき ❶~❺のいずれでもないとき eg. 豆 腐,砖 块 等 豆 腐、レンガなど 不 属 于 以 上 ❶-❺ 的 时 候 “个” 也可以使用 块 个を使っても大 丈 夫です 也许 有人会问 “ : 桌子和床明明是立体的,为 しかし、「机やベッドは 三 次 元なのに“张”とも 数える 什么用‘张’来数呢?”。实际上,我们在认知物体 のはなぜ ?」と思う方もいるでしょう。 実は我々がもの見 时,有时会仅从它的功能上来着眼。桌子和床,对 るときにその機 能する面だけに注 目することがあります。 我们来说有用的都只 是它的上表面部分,所以我 机もベッドも 機 能するのはその 表 面でありますから、 二 们会将其认知成一个平面,从而用“张”来数。当 次 元に感じられ、 “张”が使われるのでしょう。当 然 机やベ 然,如果我们选择桌子和床的包括脚的部分来整 ッドの足 部 分をも含んで認 識するときは、❶ ~ ❺の形 状 体认知的话,它们的形状就不属于前述的 1- 5 项, から外れますので、 “个”を使うことになります。 量词就应该 选择“个” 。 ところで、ご存 知のように中 国 語は人を“个” 「個」で数 顺便说一句,大家知 道,中文中“人”的量词 えます。それに違 和 感を覚える方はいませんか? そうで 是“个”。你是否曾经 觉得 很不可思议?没 错,人 す、人 間の形は上で挙げた形 状に属さないから“个”で数 所以用“个”来数。 的形状不属于前述的 1- 5 项, えるのです。 最 后想要强调 的是,以 上介 绍的“个”的用 以 上 紹 介 した“ 个 ”の 用 法 はあくまで 急 場 をしのぐた 法 只 是 应急,如果真的想要学好中文,量词 的学 めであり、本 当に 中 国 語をマスターしたい 方は 量 詞の 習 习仍然是必不可少的。 得は必 要 不 可 欠であることを最 後に強 調したいです。 P S : 以上主要是针对物体,关于动 物,咱们 找机会再聊。 今 回は物についてのみでしたが、動 物については、また の機 会にお話ししましょう。 CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 79 汉语课堂 一 笑话 ジョーク 部 屋を き れ い に 保と う 讲究卫生 !! 家 三口人高 高兴 兴地 搬 进 了三 室两厅的 新房 子。 可 3 人 家 族 が 新 し い 家 へ 引っ越 し て き た。3 部 屋 にリビング・ダイニング別の大きい家で 3 人と 是,家 里的一大一小两男人 还像 居 も大 満 足だ。しかしこの家 族の男 性 陣は昔の小さな 住在原来平房那样随随便便乱扔东 家の 時のように 物を 散らかしっぱなし。 引 越しから 西。 没 过 几 天,新居里 就 被 搞 得乱 何 日もたたないうちに、新しい家はぐちゃぐちゃにな 七八糟。 ってしまった。 一天,家 庭 主 妇实 在 没有办法 ある日、奥さんは耐えられなくなり、入 口に「部 屋 了, 就在门口的提示板上写下了这样 をきれいに保とう。住んでいる「人 人」皆に責 任があ 一行字: 讲究卫生, 人人有责! るのだから!」と書いた。 儿子先回到家 里。 看到了提 示 息 子がまず 家に 帰ってきた。 入 口の 母の 文 字を 見 板上妈妈写下的字,会意地笑了,并 ると意 地 悪く微 笑みながら、さっと「部 屋をきれいに 随手改 成了下列文字:讲究卫生,大 保とう。住んでいる「大 人」みんなに責 任があるのだ 人有责! から!」と変えてしまった。 丈 夫 接 着回来了。 在 儿子的 提 次に 夫が 帰ってきた。 息 子が 入 口の 母の 字を 見せ 示下,看完 之 后几乎 未加 思索 就 把 ると、何も考えずに夫はささっと何かを書き足した。 文字改成: 讲究卫生, 夫人有责! 結 局 文 字は「部 屋をきれいに保とう。住んでいる「夫 人」に責 任があるのだから!」になってしまった。 工作多年,准备马上 あ る若 者が都 市 部に出てきて働いていて、最 近 結 婚を考え るようになった。彼の両 親は都 市 部 附 近の農 村に住んで いる。 中 国の習 慣にのっとると、結 婚 式は実 家に帰ってあげな 近的农村老家, 按照中国习惯, ければならない。結 婚 式の前 日、父 親からショートメッセージが 他 的 婚 礼一定 要回 农村 老家 来た。 「結 婚 式には都 市 部から何 人の友 達が来るんだい? 準 備 举 行。婚礼的前一天,他父母 をしておくから。」 给 他 发来短信:举办婚礼时, 若 者はすぐに「多くないよ。1 トンのお食 事を用 意してくれ 。」 城 里 一 共 大 约 能 来 多 少人, と返 事をした。忙しすぎて、1食(顿)を1トン(吨)と打ってしま 家里好提前做 好准备。 ったのだ。 小伙子发去短信说:人不 父 親はびっくりしてす 多,准备一吨饭。由于当时比 ぐに 息 子 に 返 事 をした。 较 忙 乱,他错把“顿”写成了 “吨” 。 「 1 トンか! お米、鍋を買 い足しに行かなければ 他爸 爸很快 给 他回复 短 ならないから、結 婚 式を 信: 一吨米饭, 要去买米,还要 1 日 遅らせた 方が 良いん 去买锅。建议 婚礼推迟一天。 じゃないか。」 80 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期 1 トン の 祝 宴 结 婚。 他的父母 住在城市附 有 一 个小伙子在城 里 一吨饭的婚宴 ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ 一吨饭!
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