文化浙东 - 孔子学院院刊

No. 33
特辑/特集
文化浙东
文化の薫り高い浙東
余姚与河姆渡文化
余姚と河姆渡文化
“经世致用”的浙东学派
“経世致用”の浙東学派
海纳百川名震天下的宁波商人
度量の大きさで天下に
名をとどろせた寧波商人
精彩纷呈的舟山美食文化
素晴らしい舟山の美食文化
中日文对照版
ISSN : 1674 - 9693 | CN11- 5963/C | 2015 年 11月 | 总第 33期 | 双月刊 |
目 录
特辑 文化浙东
本期人物 006
余 姚 与 河 姆渡 文 化
057
心学集大成者 王阳明
014
“经世致用”的浙东学派
华夏美食 018
海 纳 百 川 名震 天 下 的 宁 波 商 人
024
精 彩 纷 呈 的舟 山 美 食 文 化
064
乡情,是一碗面的思念
咬文嚼字 印・象
070
流行语 “潜水”与“灌水”
030
中国的饮食生活
日本孔院 漫歩神州
044
白 族 :苍 山 之 下 ,
洱 海 之 畔 的少 数 民 族
时流
073
立命馆孔子学院举行
10 周年纪念仪式
036
屯 堡 :明 朝 遗 风 的 隐 居 地
文化博览 050
揭 开 “ 互 联网 金 融 ” 的 神 秘 面 纱
074
北京大学学生艺术团赴
日本孔子学院巡演
总部新闻 075
9月
10 月
汉语课堂 078
“个”的使用范围
080
笑话
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 1
目 次
特集 文化の薫り高い浙東
中国文化博覧
006
余姚と河姆渡文化 044
白族:蒼山の下、洱海湖畔の少数民族
014
「経世致用」の浙東学派
018
度量の大きさで天下に
名をとどろせた寧波商人
024
素晴らしい舟山の美食文化
印・象
050
「インターネット金融」の
神秘のベールをはぐ
今号の顔 057
心学の創始者 王陽明
030
中国での食生活
中国ぶらり旅
時流 036
屯堡:明朝の風習が残る隠とんの地
2 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
中国美味
064
望郷の念は麺から立ちのぼる
主管 :中华人民共和国教育部
主办 :孔子学院总部/国家汉办
编辑出版 :
《孔子学院》编辑部
协办 :日本早稻田大学孔子学院
总编辑 :许琳
副总编辑 :马箭飞 王永利 胡志平 静炜 夏建辉
主编 :樊钉
副主编 :程也
编委 :森田典正 小口彦太 刘杰 江正殷 吉田健一
中文编辑 :屠芫芫 孙颖 高燕群 蔡靖 沈向琮 日文编辑 :渡边MADOKA
艺术总监 :尤特
翻译/校对 :傅英 丹雄北翔 平井新 宁嘉麟
版面设计 :合同会社 G.O. A.T 浅井丽子
印刷 :北京华联印刷有限公司
国际连续出版号 :ISSN1674-9693
国内统一刊号 :CN11-5963/C
广告经营许可证 :京西工商广字第 8053 号
定价 :RMB16 / JPY550
编辑部地址 :北京市西城区德胜门外大街 129 号
邮政编码 :100088
编辑部电话 :0086-10-58595915
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日本编辑室地址 :东京都新宿区西早稻田 1-7-14
早稻田校区 22 号馆
邮政编码 :169-0051
联系电话 :0081-3-3204-8244
传真 :0081-3-3204-8365
电子邮件 :wci@list.waseda.jp
刊名题字 :欧阳中石
*
*
*
主管:中華人民共和国教育部
企画・編集:孔子学院本部/中国国家漢弁
編集出版:『孔子学院』編集部
共同編集:日本早稲田大学孔子学院
言葉を味わう 総編集長:許琳
副総編集長:馬箭飛 王永利 胡志平 静煒 夏建輝
編集長:樊釘
070
流行語「潜水」と「灌水」
日本孔院 073
立命館孔子学院
10 周年記念イベント
北京大学生芸術団
日本孔子学院巡演
副編集長:程也
編集委員:森田典正 小口彦太 劉傑 江正殷 吉田健一
本部ニュース 075
9月
10 月
中国語編集: 屠 芫 芫 孫 頴 高 燕 群 蔡 靖 沈向琮
日本語編集:渡辺まどか
デザイン監督:尤特
翻訳/校正:傅英 丹雄北翔 平井新 寧嘉麟
デザイン:合同会社 G.O.A.T 淺井麗子
印刷:北京華聯印刷有限公司
国際標準逐次刊行物番号:ISSN1674-9693
中国国内統一発行番号:CN11-5963/C
定価:16 元 / 550 円
編集部住所:北京市西城区徳勝門外大街 129 号
郵便番号:100088
中国語教室 電話番号:0086-10-58595915
ファックス:0086-10-58595919
メールアドレス:kongzi@hanban.org
078
「個」の使える範囲
080
ジョーク
日本編集部住所:東京都新宿区西早稲田 1-7-14
早稲田キャンパス 22 号館
郵便番号:169-0051
電話番号:0081-3-3204-8244
ファックス:0081-3-3204-8365
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表紙中国語題字:欧陽中石
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 3
特辑:文化浙东
特 辑/ 特集
文化
浙东
文化の薫り高い浙東
2
015 年 10 月,中国药学家 屠 呦 呦因发现了可以有效降 低疟 疾 患者死
亡率的青蒿素获得诺贝尔医学奖,成为首位获得科学类诺贝尔奖的中
国人。一时之间,屠 呦 呦成 为舆论 焦 点 人物,其个人背景、研究 历程 也广为
人知。
正 所 谓“人 杰地 灵”
,屠 呦 呦 生于浙东名城 — 宁波。这 是一块 充满
传奇色彩的土地,孕育了丰富灿烂的文明和一大批杰出人物。远古时 期,新
石器时代的人类 文明河姆渡 文化 19 7 3 年 被发现于距宁波不远的余 姚;两
宋时 期,提倡经世致 用的浙东学派在此诞 生,并于明清发 展壮大,在中国思
想文化史上具有举足轻重的地位;港口城市宁波,有基于 传 统 文化的坚守,
也有基于海洋文化的思变,海商文化在此兴盛;与宁波隔着一道浅浅的海湾
相互眺 望的群岛 — 舟山,有着“东海鱼 舱”和“海鲜之都”的美名,与宁
波 文化同属于吴 越 文化圈。同时,美食 和美景也让宁波 成为理 想的安居和
旅 游之地。本期特辑,将带您走进以宁波为代表的浙东大地,感受这里的文
化、精神和魅力。
4 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
特集: 文化の薫り高い浙東
2
0 1 5 年 1 0 月、中 国の薬 学 者である屠 呦 呦(と・ ゆうゆう)が、マラリア患 者の死
亡 率 低 下に効 果のあるアーテミシニンを発 見したとしてノーベル医 学 賞を受 賞
し、科 学 分 野のノーベル賞を受 賞した初めての中 国 人となった。屠 呦 呦はあっという
間に時の人となり、彼 女の経 歴や研 究の過 程も多くの人の知るところとなった。
いわゆる「人 傑 地 霊(傑 出した人が出て、その土 地が有 名になる)」で、屠 呦 呦が生
まれた浙 江 省 東 部(浙 東)の名 高い都 市である寧 波もまた話 題となった。この地は伝
奇 的な色 彩に満ちた土 地で、さんぜんと輝く幾 多の文 明と多くの傑 出した人 物を生
み出してきた。新 石 器 時 代の人 類の文 明である河 姆 渡 文 化は、1 9 7 3 年に寧 波からそ
れほど遠くない余 姚で起こった。北 宋・南 宋の両 宋 時 代、学 問は現 実の社 会を改 革す
るために用いられなければならないという経 世 到 用の学を唱える浙 東 学 派がこの地
で誕 生し、明と清の時 代に大いに発 展して、中 国の思 想 文 化 史において重 要な地 位
を占めた。港 町としての寧 波は伝 統 文 化を堅 守しつつ、海 洋 文 化 特 有の思 想の変 化
もあり、海 洋 商 業の文 化も栄えた。寧 波と浅い海を隔てて向かい合う群 島である舟
山は、「東 海の漁 船」
「海 鮮の都」という美 名があり、寧 波 文 化と同 様に呉 越 文 化 圏に
属する。美 食と美しい風 景が、寧 波を安 住と旅の理 想の地とした。今 回の特 集では、
読 者の皆さんを寧 波をはじめとする浙 東の大 地へといざない、かの地の文 化、精 神の
魅 力を感じていただこう。
① 江北区(江北区)
【浙东(zhè dōng)】. . .
② 镇海区(鎮海区)
慈溪市
(慈渓市)
③ 海曙区(海曙区)
④ 江东区(江東区)
古以钱 塘 江 为 界,分为“浙 西”
“
、浙
东”
,今 宁(甬)绍、台温、金丽衢 地区均属
余姚市
(余姚市)
①
“浙东”地区,即宁波、绍兴、台州、温州,金
②
③ ④
华、丽水、衢州地区。狭 义上的浙东地区包
北仑区
(北侖区)
鄞州区
(鄞州区)
括宁波和舟山。
奉化市
(奉化市)
【浙 東(zhè dōng)】...
浙 江 省 は 古 来 より 銭 塘 江 を 境 として「 浙
西」と「浙 東」に分けられていた。寧 波、紹 興、
台 州、温 州、金 華、麗 水、衢 州などの、現 在 寧
象山县
(増山県)
宁海县
(寧海県)
(甬)紹、台 温、金 麗 衢 地 区と呼ばれている地
区が「浙 東」に属する。狭 義 上は「浙 東」地 区
には寧 波と舟 山が含まれている。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 5
特辑:文化浙东
浙
的魅力 ❶
余姚与
河姆渡文化
余姚と河姆渡文化
文・滕 钰
余
姚 市位于浙东 盆 地山区和
浙北平原 交 叉地区,东与宁
波市江北区、鄞州区相邻,南枕四明
山,与奉化、嵊州接 壤,西连 绍兴市
上虞区,北毗慈溪市,西北于钱 塘江、
杭州湾中心 线与海盐县交界。地势
南高北低,中间微陷,非常适于人类
居 住和繁衍生息。有山、有水、有平
公里,支流 3 0 余条,纵横交错,织 成
优 越的地 理位 置,加上富饶 的
原,说 的 就 是 余 姚的 特点。 余 姚 市
水网。一条美丽的河流,
两岸点缀着
物产,悠久的文化传 统,使得余姚历
总面 积 15 01 平方公里,其中山地、
众多湖 塘水库,恰 似 珍 珠点 缀在 碧
代名人 辈出,是 有名的“人 杰 地 灵”
丘陵占 5 2 .7 3% ,平原占 2 8 . 3 3% ,
绿的丝带之上。
之福地。余姚曲艺有姚 剧和余姚 腔。
水 域占 18 . 9 4% 。这 里的主要河流
由于地 处 亚热 带南缘,余 姚 拥
是 姚 江,起点在余 姚 市大 岚镇 夏家
有典型的 季风性气候,冬夏的 温 度
岭村东的米岗头东坡,终点 至宁波
差异及丰沛的 降 水,为各类 经 济 作
三江口,全 长 10 9 公里,境内长 5 4
物 的 生长 提 供了优 越 的 气 候 条 件。
记载 始 于晋 代,历史悠久,素有“文
余姚当地物产丰富,尤以杨梅、茶叶、
献名邦”
“
、东南名邑”和“越州巨镇”
榨菜、豆酥 糖、梁弄大糕、草编、竹编、
的美称,是 浙 江省 首 批 历史 文化名
佛雕出名,是一个农业历史悠久、农
城。余姚作为浙 江省首批 历史 文化
林牧副渔各业齐会的综合性农业区
名城,拥有众多优秀的历史文化,而
域,被誉为“杨梅之乡”
“
、榨菜 之乡”
、
最让余姚 骄傲的是具有七千年历史
“高山云雾茶之乡”
“
、蜜梨之乡”
“
、茭
白之乡”和“红枫之乡”
。
6 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
余 姚 腔与海盐 腔、昆山腔、弋阳腔,
被列为南戏四大声腔之一。
余 姚自秦 朝 建 县后,最早人口
的河姆 渡 文化,河姆 渡 文化是 余 姚
的一张“金名片”
。
特集: 文化の薫り高い浙東
Yuyao
City
% を占め、平 原は 2 8 .3 3%、水 域
は 1 8 .9 4% となっている。この地
の主 要な河 川は姚 江で、余 姚 市 大
嵐 鎮 夏 家 嶺 村の東の米 崗 頭 東 坡
に源を発し、河 口は寧 波 三 江 口で
全 長は 1 0 9 キロとなっている。余
姚 域 内を走る長さは 5 4 キロで、支
余姚市
(余姚市)
流は 3 0 余りを 数え、 縦 横に 交 錯
し て 網 の 目 の よ う に なって い る。
この 美 しい 川 の 両 岸 には 多 くの
湖や池があり、あたかも真 珠がエ
メラルドグリーン の 絹 の 帯 でつづ
られているかのようだ。
この地は亜 熱 帯の端にあり、余
姚は典 型 的な季 節 風 性 気 候で、冬
と夏の温 度 差が大きく、降 水 量が
余 姚 は 秦 朝 の 時 代 に 県 ができ
多く、現 金 収 入 源となる農 作 物に
たあと、最 初に人 口が記 載された
好 適な気 候 条 件となっている。余
のは晋 代であり、悠 久の歴 史を持
姚 当 地の物 産は豊 富で、とりわけ
つ。
「 文 献の 優れた 国」
「 東 南の 優
ヤマモモやお茶、ザーサイ、きなこ
れた町」や「越 州の大 型 都 市」とい
あめ、あずき餡を米 粉で包んで蒸
う美 称があり、浙 江 省で初めての
した菓 子、草 細 工、竹 細 工、仏 像 彫
歴 史 文 化 の 優 れた 都 市 に 指 定 さ
刻が 有 名だ。 農 業の 歴 史が 長く、
れた。余 姚は多くの優 秀な歴 史 文
姚 市は 浙 東 盆 地の 山 地と
農 業、林 業、牧 畜、漁 業の各 産 業が
化を 有するが、最も 誇りとするの
浙 北 平 原 が 交 わる 地 域 に
集まった総 合 的な農 業 地 域となっ
は 7 0 0 0 年 の 歴 史 がある 河 姆 渡
あり、東は寧 波 市 江 北 区、鄞 州 区
て、「 ヤマモモ の 里 」
「 ザーサイ の
文 化で、それは余 姚の「金の名 刺」
と隣り合っている。南 部に四 明 山
里」
「高 山 雲 霧 茶の里」
「蜜 梨の里」
だといえる。
余
があり、奉 化と嵊 州に接している。
西は紹 興 市 上 虞 区に連なり、北は
「 マコモタケの 里」そして「 紅 楓の
里」という称 号を与えられている。
慈 渓 市につながっている。北 西に
地 理 的 な 優 位 性 に 加 え 豊 かな
は銭 塘 江があり、杭 州 湾の中 心 線
物 産 と 悠 久 の 文 化 と 伝 統 に よっ
で海 塩 県と接している。地 形は南
て、余 姚は代々多くの名 士を輩 出
高 北 低 で 中 間 が 少 しへこんでお
してきた。 そのため 有 名な「 人 傑
り、人 類が居 住し繁 栄するのに非
地 霊」の 楽 園になっている。 余 姚
常に 適している。 山があり、水が
の 地 方 演 芸 としては 姚 劇 と 余 姚
あり、平 原があるのが余 姚の特 徴
節がある。余 姚 節は海 塩 節、昆 山
だ。余 姚 市の面 積は 1 5 0 1 平 方キ
節、弋 陽 節と並んで南 劇 四 大 節の
ロで、山 地と丘 陵が全 体の 5 2 .7 3
1 つとされている。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 7
特辑:文化浙东
河
姆 渡 文化是中国长 江 流 域 下 游 地区古老而多姿的 新石器时
代 文化,距今已有 7 0 0 0 年的悠久 历史。因在 19 7 3 年第一
次发现于浙 江省余 姚 县河姆 渡,其文化特 征在考古学上具有一定的
代表性,遂于 19 7 6 年命名为“河姆渡文化”。它主要分布在杭州湾南
Hemudu
Culture
岸的宁绍平原及舟山岛,经科学的方法 进行 测定,它的年代为公元前
5 0 0 0 年至公元前 3 3 0 0 年。它是 新石器时代母系氏族公社时 期的
氏族村落遗址,
反映了约 7 0 0 0 年前长江下游流域氏族的情况。
河姆渡 遗址位于河姆渡镇金吾庙村(原罗江乡浪墅桥村)。它是
19 7 3 年夏天当地农民建造排涝站时发现的,
遗址总面积 约 4 万平方
米,堆积 厚度四米左右,自下而上叠压着 4 个文化层。根据测定,第四
文化 层 距今 约 7 0 0 0 - 6 5 0 0 年,是中国现已 发现 的最早的 新石器
时代 地层之一。第三文化层距今约 6 5 0 0 - 6 0 0 0 年,第二文化层距
第一文化层距今约 5 5 0 0 - 5 0 0 0 年。
今约 6 0 0 0 - 5 5 0 0 年,
余姚市
(余姚市)
河姆渡 遗址的第四、三层和第二、一层,分别代表 河姆渡 文化的
早、晚 期。 早 期为约公元前 5 0 0 0 - 前 4 0 0 0 年。 晚 期为约公元前
4 0 0 0 - 前 3 3 0 0 年。
河姆渡遗址
(河姆渡遺跡)
河
姆 渡 文 化は中 国の長 江 下 流 域の古く多 様な新 石 器 時 代の文 化で、7 0 0 0 年と
いう悠 久の歴 史を持っている。1 9 7 3 年に浙 江 省 余 姚 県 河 姆 渡で初めて発 見
され、その文 化 的 特 徴が考 古 学の上で高い価 値を持っていたため、1 9 7 6 年に「河 姆
渡 文 化」と命 名された。この文 化が主に分 布しているのは、杭 州 湾 南 岸の寧 紹 平 原お
よび舟 山 島で、科 学 的な測 定によって、その年 代は紀 元 前 5 0 0 0 年から紀 元 前 3 3 0 0
年にかけてだと判 明した。新 石 器 時 代の母 系 氏 族の時 代の村 落の遺 跡で、約 7 0 0 0 年
前の長 江 下 流 域における氏 族 社 会の状 況を今に伝えている。
河 姆 渡 遺 跡は河 姆 渡 鎮 金 吾 廟 村(もと羅 江 郷 浪 墅 橋 村)に位 置している。遺 跡は
1 9 7 3 年の夏に地 元の農 民が排 水 場を造っているときに発 見された。遺 跡の面 積は
約 4 万 平 米で、堆 積の厚さは 4 メートル前 後、4 つの文 化の層が重なっている。測 定に
より、第 四 文 化 層は今から約 7 0 0 0 年から 6 5 0 0 年 前のもので、中 国でこれまでに発
見された最も古い新 石 器 時 代の地 層の 1 つだ。第 三 文 化 層は今から約 6 5 0 0 年から
6 0 0 0 年 前、第 二 文 化 層は今から約 6 0 0 0 年から 5 5 0 0 年 前、第 一 層は今から約 5 5 0 0
年から 5 0 0 0 年 前のものだとされている。
河 姆 渡 遺 跡の第 四、第 三 層と第 二、第 一 層はそれぞれ河 姆 渡 文 化の早 期と晩 期を
代 表している。早 期は紀 元 前 5 0 0 0 年から紀 元 前 4 0 0 0 年、晩 期は紀 元 前 4 0 0 0 年か
ら紀 元 前 3 3 0 0 年となっている。
8 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
特集: 文化の薫り高い浙東
河姆渡文化特色主要体现在以下方面。/ 河姆渡文化には以下のような特色がある。
❶ 农业方面 / 農業
河姆渡 文化的社会 经 济 是以稻 作农业为主,在其遗
❷ 建 筑方面 / 建築
址第四层较大范围内,普遍都发现稻谷、稻壳、稻杆、稻叶
河姆 渡 文化的建 筑 形式主
的遗存,是中国水稻栽 培起源的最佳例证,也是目前世界
要是 栽 桩 架 板 高于地面的干栏
稻 作史上最古老的人工栽 培稻记录。伴随稻谷一起出土
式 建 筑。 干栏 式 建 筑 是中国长
的还有大量农具、主要是骨耜,说明河姆渡原始稻作农业
江 以南 新 石器 时代 以 来 的 重要
已进入“耜耕阶段”
。河姆渡 遗址出土的稻谷,
不仅为研究
建筑 形式之一,目前河姆渡发现
中国稻 作 农业的起 源 提 供了珍 贵的实 物资料,而且 纠正
是 为 最 早。干 栏 式 住 屋 有 许 多
了中国栽 培水 稻 是 从印度阿 萨 姆 传 递 过 来的 传 统说 法,
特色,具有通 风 条 件好,防潮防
有力地证明中国和印度都是 亚 洲稻 的发祥 地,河姆渡 遗
湿,防蚊 虫等诸多优点。河姆渡
存的稻谷比印度发现的稻谷还要早一千多年。
遗 址两 次 发 掘范围内发 现 大 量
↑ 榫 木构件,
余姚河姆渡 遗址出土。
ほぞ木材、余姚市河姆渡 遺 跡から出土。
干栏式 建 筑 遗 迹,特 别是在 第四文化层 底部,分布面积 广,
河 姆 渡 文 化の 社 会は 稲 作 農 業を 主な 産 業としてい
数量多,
颇为壮观。当时建房时垂直相交的接点较多地采用
た。 その遺 跡の第 四 層には 比 較 的 広い 範 囲で、もみ、
了榫卯技术,把中国出现榫卯木作 技术的时间从金属时代
もみ殻、稲わら、稲の葉の遺 物が発 見されている。これ
前推了 3 0 0 0 多年,这 些充分 体现了河姆渡 人拥有 较高的
は中 国の水 稲 栽 培の起 源として最も良い例であり、世
智商。除建筑外,在遗址第二文化层还发现了迄今为止最早
界の 稲 作 史 上 最も 古い 人 口 栽 培の 記 録でもある。 も
的水井遗 迹。水井的出现体 现了对 水源的重视,是 人 类 追
みと共に大 量の農 具も出 土している。主な出 土 品は骨
求高质量生活的使然。
で作られたすきであり、河 姆 渡の原 始 稲 作 農 業が「す
きで耕す段 階」に入っていたことを示している。 河 姆
河 姆 渡 文 化の建 築 様 式は、主に地 面に建てた杭の上に
渡 遺 跡で出 土するもみは、中 国の稲 作 農 業の起 源を研
床を 高く 張った 干 欄 式 建 築だ。 干 欄 式 建 築は 中 国の 長
究 するための 貴 重 な 実 物 の 資 料 となっているだけで
江 以 南における 新 石 器 時 代 以 降の 重 要な 建 築 様 式の 1
なく、中 国の水 稲 栽 培がインドのアッサム地 方から伝
つとなっている。その中でも河 姆 渡で発 見されたものが
わったという伝 統 的な説を覆すものでもあり、中 国と
今のところ最も古い。干 欄 式 建 築には多くの特 色があり、
インドがアジアの稲 作の発 祥の地であることの有 力な
通 風 性がよく、高 潮への防 御、防 湿、虫 除けなどの多くの
証 明にもなっている。河 姆 渡の遺 物であるもみはイン
面で優れている。河 姆 渡 遺 跡では 2 度の発 掘によって大
ドのものと比べると 1 0 0 0 年 以 上も古い。
量の 干 欄 式 建 築の 遺 構が 発 見され、特に 第 四 文 化 層の
底 部の分 布 面 積が広く、数も多く壮 観だ。当 時の建 築で
は垂 直に交わる接 点を多 用する榫 卯(ほぞ)技 術が用い
← 稻 谷和稻 叶,余 姚 河姆
られている。この発 見は中 国の榫 卯 技 術の出 現を元々の
渡 遗 址出土。 浙 江省 博 物
馆“越 地长 歌 — 浙 江 历
金 属 時 代から 3 0 0 0 年 余りも遡らせるものだ。これらの
史文化陈列”
。
ことは 河 姆 渡 人 がかなり 高 い 知 能 を 有 していたことを
米と稲,余 姚 河 姆 渡 遺 跡
物 語っている。建 築のほかにも第 二 文 化 層からは最も早
から出土。 浙 江省 博 物 館
い時 期の井 戸の遺 跡も発 見されている。井 戸の出 現は水
の「越 地長 歌 — 浙 江 歴
資 源を重 視していたことの表れで、人 類がよりよい生 活
史文化陳列」展示より。
を追 求していたことを示している。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 9
特辑:文化浙东
❸ 原 始手工业方面 / 原始手工業
1、河姆渡 遗址是中国新石器时代 遗址考
古中陶器出土最多、复 原率最高的 遗 址 之一,
2、木器出土 3 0 0 多件,其中有中国最早的
两次考古发掘,出土陶片 4 0 万件之多,完整的
木 制 饰品“木 雕 鱼”
,其他包括 木 柄骨 制 的 耕田
和可复 原的陶器占总出土器物的 1/6 左右,已
用具耜、和刀铲等切割器具,
亦有大量纺织工具。
获 得 完 整器和复 原器 12 2 1 件。 河姆 渡 文化
最为重要的木器是 纺织 工具和木桨。有了纺织,
的陶器,以夹炭黑陶为主,少量夹砂、泥质灰陶,
说明河姆渡先民已进入初具文明的历史阶段。
↑ 木器 柄,余 姚 河姆
渡 遗址出土。
木器の柄,余姚河姆渡
遺跡から出土。
均为手制,烧 成 温 度 8 0 0 ℃ - 9 3 0 ℃。陶器的
种类很多,主要有釜、罐、盆、杯、盘、钵、缸、盂、
2.木 器の出 土は 3 0 0 件 余りで、その中には中 国で最も古
灶、甑、鼎等,
器表常有绳纹、刻划纹。有一些彩
い木 製の装 飾 品の「木 彫 魚」もある。そのほかには、田を耕す
绘陶,
绘以咖啡色、黑褐色的变体 植物纹。
ために使われた木の柄が付いた骨 製のすき、先の鋭 利なシャ
ベルなどの 切 断のための 器 具、 さらに 大 量の 紡 績 工 具も 出
1.河 姆 渡 遺 跡 は 中 国 の 新 石 器 時 代 の 遺
土している。最も重 要な木 器は紡 績 工 具と舟をこぐ木の櫂だ。
跡の中で出 土する陶 器が最も多く、復 元 率
紡 績があるということは、 河 姆 渡 人がすでに 初 期の 道 具 文
の最も高い遺 跡の 1 つとなっている。2 度の
明の段 階に達していたことを物 語っている。
考 古 学 の 発 掘 で 出 土 した 陶 器 の 破 片 は 4 0
万 件を超え、完 全な形の陶 器と復 元 可 能な
陶 器は 総 出 土 数の 6 分の 1 前 後で、 すでに
完 全な 形となっている 陶 器と 復 元された 陶
器を 合わせると 1 2 2 1 件になる。 河 姆 渡 文
化の 陶 器は 炭が 混じった 黒 陶が 主で、 砂や
泥が 混じった 少 量の 灰 陶もある。 陶 器は 手
で作られ、焼 成の温 度は 8 0 0 度から 9 3 0 度
だ。陶 器の種 類は非 常に多く、主に釜、円 筒
状の陶 器、盆、杯、皿、鉢、かめ、壺、かまど、こ
3、河姆渡 遗址共出土石器 8 0 0 多件。按功能分,
主要是生
产工具和装饰品两大类。出土的石器普遍较小,磨制不精,尚留
有打凿和琢制痕 迹。
3.河 姆 渡 遺 跡からは 8 0 0 件 余りの 石 器が 出 土している。
機 能 面から 見ると 石 器は 生 産の 工 具と 装 飾 品の 2 つに 大 別
される。出 土した石 器は小さく、磨きが精 巧ではなく、打ち
欠いて磨いた痕 跡が見られる。
しき、かなえなどで、器の表 面には縄 模 様が
刻 み 込 まれている。 彩 色 され
4 、出土的骨器有 3 0 0 0 多件。河姆 渡 文化的骨器制作比
た 陶 器もあり、 絵は 茶 色
较发达,广泛使用于生产和生活 领域,是重要的生产工具。按 使
や 黒 褐 色 で 変 わった 形
用功能分为骨耜、骨箭头、骨凿、骨锥、骨针、骨哨、骨镰、骨鱼镖、
の植 物の模 様がある。
管状针等,
以骨耜最具特色。
4.骨 器は 3 0 0 0 件 余りが 出 土している。 河 姆 渡 文 化の 骨
器は製 作の技 術がかなり発 達していて、生 産や生 活に広く使
← 陶 釜,
19 74 年浙 江 余 姚
河姆渡出土,
中国国家博 物馆。
陶器、19 74 年余姚市河姆渡から
出土、中国国家博 物館所蔵。
10 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
用され、生 産のための重 要な工 具となっていた。機 能 別に分
けると、骨のすき、骨の矢じり、骨ののみ、骨のきり、骨の針、
骨の呼び子、骨のかま、骨の釣り針、管 状の針などで、骨のす
きが最もよく特 徴を表している。
特集: 文化の薫り高い浙東
❺ 原 始艺 术品方面 / 原始芸術
❹ 动物方面 / 動物
河姆渡 遗址出土的原始艺术品数 量大,题材广,造型独特,内容丰
在 河姆 渡 遗 址内,破碎 的 猪骨和牙 齿 到
富多彩。主要表现在象牙雕刻、陶器纹饰上面,尤其是一些象牙雕刻器,
处可见,证明在 距今 7 0 0 0 年以前,河姆渡 居
做 工精 致,造 型华美,可谓巧夺天工,让人赞叹不已。艺术品中最吸引
民 就开始 饲养 猪、狗、水牛等家养 牲畜。河姆
人的是一件“双鸟朝阳”纹象牙雕刻件,器物正中阴刻 5 个大小不等的
渡出土大量野生动物遗骨,计有哺乳类、鸟类、
同心圆,外圆上部刻火 焰纹,两侧各有一只圆目利喙的鸷鸟向对而视。
爬行类、鱼类和软体动物共 4 0 多种。
整件器物图像 雕刻技术娴熟、形象逼真传神、寓意深刻,有人说它象征
太阳,有人说它象征 对生命、生殖的崇拜。可以说,该器物体现了原 始
先民已有复杂的精神生活。
河 姆 渡 遺 跡では、砕けた豚の骨や歯が至
る 所 で 発 見 され、今 から 約 7 0 0 0 年 前 に 河
姆 渡の住 民が豚、犬、水 牛などの家 畜の飼 育
河 姆 渡 遺 跡からは原 始 的な芸 術 品が数 多く出 土している。題 材
を始めたことが証 明されている。河 姆 渡か
は広く、造 形は独 特で、多 種 多 様な内 容となっている。主な表 現 方
ら出 土した大 量の野 生 動 物の骨は、哺 乳 類、
法は象 牙の彫 刻や陶 器の紋 様で、特に象 牙に彫 刻した器は、精 巧な
鳥 類、爬 虫 類、魚 類や軟 体 動 物など 4 0 種 類
作りで造 形も華 麗、天 然の美を凌ぐほど技が巧みで、見た人を驚か
以 上に及ぶ。
せる。芸 術 品の中で最も人を引き付けているのが「双 鳥 朝 陽」
模 様の 象 牙の 彫 刻で、器には 大きさの 異なる 5 つの 同 心 円が
彫られ、外 円の上 部は火 炎 模 様で、両 側には丸い目で鋭いくち
ばしの鳥がにらみ合う姿が描かれている。器 全 体の図 柄の彫
刻 技 術は熟 練のもので、形 状は真に迫り生き生きとしており、
寓 意は深い。太 陽を象 徴しているという人もいれば、生 命を象
徴し生 殖を崇 拝しているという人もいる。その器は原 始 時 代
の人たちが既に複 雑な精 神 生 活を送っていた証しといえる。
↑“双鸟朝阳”/「双鳥朝陽」
河姆渡 遗址的发掘和考察,为我们打开了一扇
河 姆 渡 遺 跡の発 掘と調 査によって、河 姆 渡 文 化を理 解するた
了解河姆 渡 文化的窗户,让我 们 看 到 7 0 0 0 年前,
めの 扉が 開かれ、7 0 0 0 年 前の 河 姆 渡 人が 余 姚という 美しく 豊
河姆渡先人在余姚这片美丽、富饶的土地上捕鱼打
かな土 地で魚を捕まえ狩りをし、水 稲を栽 培し家 畜を飼い、住
猎、种植水稻、饲养家畜、构建住房、烧陶编织、堆塑
居を建て陶 器を焼き、彫 刻を彫り、絵 画や装 飾を制 作したこと
雕 刻、绘画装饰。他们日出而作,日落而息,用他们
が現 代の人たちにも知られるようになった。河 姆 渡 人は日が昇
的勤劳、勇敢和智慧创造了举世瞩目的灿烂的河姆
ると働き、日が沈むと休み、勤 労と勇 敢さと知 恵によって世 界か
渡文化。
ら注 目されるきらびやかな河 姆 渡 文 化をつくり上げた。
河姆 渡 文化 遗 址 犹 如一座 璀 璨 夺目的艺 术宫
河 姆 渡 文 化の遺 跡は、まばゆいばかりに美しい芸 術の宮 殿の
殿,有着重大的历史价 值。河姆渡 遗址的发现把整
ようで、歴 史 的な価 値が非 常に大きい。河 姆 渡 遺 跡の発 見は中
证明了早
个中华民族的历史向前推进了 2 0 0 0 多年,
華 民 族 の 歴 史 を 2 0 0 0 年 以 上 さ 遡 らせるもので、6、7 0 0 0 年 前
在六七千年前,长江下游已经有了繁荣的原始文化,
の 長 江 下 流 域にすでに 原 始 文 化が 栄え、長 江 流 域が 黄 河 流 域
长江流域与黄河流域一样都是中华文化的发祥地。
と同 様に中 華 文 化 発 祥の地であることを証 明した。
优秀历史文化是城市的宝贵精神财富,河姆渡
文化是余姚的文化,
也是世界的文化。
優れた 歴 史 文 化は 都 市の 貴 重な 精 神 的 財 産であり、 河 姆 渡
文 化は余 姚の文 化であるとともに世 界の文 化でもある。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 11
特辑:文化浙东
浙
的魅力 ❷
经世致用的浙东学派
浙东学派的
第一阶段
「経世致用」の浙東学派
庆历五先生
浙东学派的
慶歴五先生
金华学派
文・鹿鸣
杨适
中
杜醇
王说
国思想文化史上,
先秦诸子百家争鸣,
唐
第二阶段
金華学派
王致
吕祖谦
楼郁
宋文化繁荣鼎盛,
其间学派林立,
思潮流
变,互相影响,延及后世。在众多地 域文化学派
中,具有全国性 影响的浙东学派于两宋时 期开
山发源,
在明清时期发展壮大、盛极一时。
PHA
SE 2
南
SE 1
PHA
北宋
.10
(c a
ca
宋(
.115
0)
浙东学派的
)
50
第二阶段
永嘉学派
浙东学 派 继 承 发 扬了浙东学术史 上 的 优
良传统,不守门户之见,博纳兼容,贵专家之学,
浙东学派的
永嘉学派
第一阶段
叶适
富创新 精神,倡导“经世致 用”
,把学术活 动同
经邦济世的理想抱负紧密结合在一起,形成了
永嘉九先生
自己独特的文化传统。
周行己
中
浙东学派的
永嘉九先生
许景 衡
第二阶段
刘安节
国の 思 想 文 化 史 上では、秦に 先 立つ
刘安上
戴述
赵霄
諸 子 百 家 争 鳴、唐 宋 文 化の繁 栄、その
蒋元中
沈躬行
张辉
永康学派
永康学派
陈亮
間には学 派が林 立して、思 想は変 遷し、相 互
に影 響し合いながら、後 世にまで続いていっ
た。多くの地 域 文 化 学 派の中で、全 国に影 響
浙东学派的
を 及ぼしたのが 浙 東 学 派であり、 北 宋と 南
第二阶段
宋の両 宋の時 代に起こり、明と清の時 代に大
いに発 展して最 盛 期を迎えた。
浙 東 学 派は浙 東 学 術 史 上の優 良な伝 統を
四明学派(甬上四先生)
四 明 学 派(甬 上 四 先 生)
受け 継いで 発 揚させた。 派 閥にとらわれた
考えをせず、自 由に思 考し、多くの学 問を
融 合し、専 門 家の 学 問を 重んじ、創
新の精 神に富んでいた。 そして、
「経 世 到 用」を唱え、学 術 活 動
は 国 を 発 展 させ 人 を 救 済 す
るという 理 想 に 合 致 しなけ
ればならないとして、独 特な
文 化の伝 統を形 成した。
12 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
杨简
袁燮
沈焕
舒璘
特集: 文化の薫り高い浙東
PHA
SE 4
清
SE 3
PHA
5
a .1
(c
明代
16
代(
00
~)
浙东学派的
第四阶段
清代浙东学派
)
00
清 代の浙 東 学 派
浙东学派的
第三阶段
黄宗羲
阳明心学
万斯同
章学诚
全组 望
邵晋涵
陽明心学
王阳明
时代 发展
内容;第四阶段是清代浙东学派,这是
浙东学派的发展可以分为四个阶
浙东学术的 全盛时 期,主要代 表有黄
段。第一阶段是北宋,主要代表有“庆
宗羲、万斯同、全组望、章学诚、邵晋涵。
历五先生”和“永嘉九先 生”;第二阶
北 宋 浙 东 学 派 处 于“儒 林 草 昧”
黄宗羲
黄宗羲
经济观,
倡导“四业皆本”;
讲求实利功
段是南宋,这时浙东诸学派主要有:以
之时,他们推 崇以“经世致 用”为旨的
效,义利合一。明代心学是圣人学问的
吕祖谦 为代表的金 华学派,以叶 适 为
儒学,有助于改善当时 社 会因 循守旧
“哲学化”
,认为天理不靠空谈,靠格物
代 表的永嘉 学派,以陈亮为代 表的永
的风气,
但其思想还缺乏理论 体系。南
致知,靠实践自省,即“知行 合一”。清
康学派,以“甬上四先生”
(杨简、袁燮、
宋浙东学派主张复仇抗金、收复故土、
代 浙东学派 精 研史学,在 经学研究的
舒璘、沈 焕)为代表的四明学派;第三
复兴中华;具有反传 统精神,对传 统儒
基 础上,注 重史料 研究 和以 通 经 致 用
阶段 是明代,主要以阳明心 学为主要
学提出质 疑,反对“重本抑末”的传 统
为治学宗旨。
時 代と発 展
ていたが、その思 想には理 論の体 系が欠けていた。南 宋
浙 東 学 派の発 展は 4 つの段 階に分けられる。第 一 段 階
の 浙 東 学 派 は 北 宋 を 滅 ぼした 女 真 族 の 金 に 対 抗 して 敵
は北 宋で、代 表 的な学 者には明 州(現 在の寧 波の一 部)の
討ちすることを主 張し、失った土 地を奪 還し、中 華を復 興
5 人の学 者である「慶 歴 五 先 生」と永 嘉(現 在の温 州)の 9
させようとした。学 者たちは反 伝 統の精 神を持ち、伝 統
人の学 者「永 嘉 九 先 生」がいる。第 二 段 階は南 宋で、この
的な儒 学に疑 念を抱き、農 業を重 視し商 工 業を軽 視する
時 代の 浙 東 諸 学 派には、呂 祖 謙を 代 表とする 金 華 学 派、
「重 本 抑 末」の伝 統 的 経 済 観に反 対して、役 人、農 業、工 業、
葉 適を代 表とする永 嘉 学 派、陳 亮を代 表とする永 康 学 派、
商 業の 4 つがともに重 要であるとする「四 業 皆 本」を提 唱
そして「甬 上 四 先 生(楊 簡、袁 燮、舒 璘、瀋 煥)」を代 表とす
し、実 利と効 率、公 共の利 益と個 人の利 益の合 致を追 求
る四 明 学 派があった。第 三 段 階は明 代で、陽 明 心 学が主
した。明 代の心 学は聖 人 学 問の「哲 学 化」で、自 然の道 理
な内 容となっていた。第 四 段 階は清 代の浙 東 学 派で、こ
は 空 論によって 悟れるものではなく、自 己の 知 識を 極 限
の時 代に浙 東 学 術は全 盛 期を迎え、代 表 的な学 者には黄
まで高め、実 践と自 省をすることで悟れるとし、知 識と実
宗 羲、万 斯 同、全 組 望、章 学 誠、邵 晋 涵がいる。
践が 1 つになる「知 行 合 一」を唱えた。清 代の浙 東 学 派は
北 宋 の 浙 東 学 派 は「 儒 林 草 昧( 儒 家 学 者 が 未 開 で あ
歴 史 学を丹 念に研 究し、経 書の研 究の基 礎に立って、史 料
る)」時 代で、学 者たちは「経 世 致 用」を旨とする儒 学を尊
研 究を重んじることと学 問が国 事に必 要であることを旨
重し、当 時の社 会の因 循 守 旧の気 風を改 善しようと努め
として活 動した。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 13
特辑:文化浙东
学派观点
的合 理性。历代 封建 统 治 者都 把“重
贾”与“力田”一样 都是 致富的正 途,
在 公私 观 念 上, 浙东学 派认 为,
本抑末”作为基 本国策。在 这样的背
反 对 国 家 打 着 抑 兼 并 的 旗号 来 压制、
“公天下”就是能使老百姓“各 得自私、
景下,以 黄宗羲为代 表 的 浙东学派 从
侵夺富民的财产。
各 得自利”的天下。 崇公灭私 是中国
反对“重本抑末”的 传 统 经 济 伦 理观
在义利观 念上,浙东学派 反对空
传 统 社会的主导观 念,
“公”历来 体 现
念 着 手,提 出 了
“工 商 皆 本”的 经 济
谈 义理,主张 义利统一。 儒家 基 本义
为政 权,政 权 又以君主 为代 表,因此
思想。
利 观 是 重 义轻利。 浙东 之学的“义利
“公”实际 上就是帝王。到明后期,在
在富民 观 念上,浙东学派 主张民
观”与发 达 的商品经 济相 适 应,与重
商品经 济比 较发 达的 浙东地区,这种
富先于国富。儒家的民本思想植根于
实利讲功 效的社 会要求相联 系,认 为
传统的公私观念开始动摇。
自给自足的 农 耕 经 济,强调 国家 应以
人 应尽 其所能为社 会服 务,但社 会对
在 经 济 观 念 上,浙东学 派以“切
于民用”为标 准,揭 示了“工商皆本”
“保民”
“
、养民”为最高职责。浙东学派
个 体的地位和权利也不应漠视。
立足于发展商品经济的要求,认为“商
学 派の視 点
な先 述した「重 本 抑 末」を国 策の基 本としていた。このよ
公と個 人の観 念では、浙 東 学 派は「公 天 下」とは庶 民が
うな 状 況の 中で、 黄 宗 羲をはじめとする 浙 東 学 派は「 重
「各 自が自 分 本 位で、各 自が自 己の利 益に走る」天 下だと
本 抑 末」の伝 統 的 経 済 論 理に反 対し、「工 商 皆 本」の経 済
考えた。公を重んじ私 利を捨てるというのが中 国の伝 統
思 想を提 唱した。
社 会を主 導してきた考え方であり、「公」はそれまでずっ
民を富ませるという観 念では、浙 東 学 派は民が富むこ
と政 権として体 現され、政 権は君 主を代 表とする。その
とが国 富に優 先すると主 張した。儒 家の民が大 切とする
ため、「公」とは実 際は帝 王のことだ。明の後 期になり商
思 想は、自 給 自 足の農 耕 経 済に根 差したもので、国 家は
品 経 済が発 達した浙 東 地 区では、こうした伝 統 的な公 私
「民を守り」
「民を養う」ことを最 高の職 責とすると強 調し
の概 念が揺らぎ始めていた。
ている。浙 東 学 派は商 品 経 済のニーズに立 脚して、「商い
経 済の観 念では、浙 東 学 派は「民に近づき親しむ」を基
をすること」と「田を耕すこと」は同 様に富に至る正しい
準とし、「工 商 皆 本(商 工 業もみな重 要だ)」という考え方
道であり、国 家が独 立を守るという旗 印のもとに民を圧
の合 理 性を指 摘していた。歴 代の封 建 時 代の統 治 者はみ
迫し、豊かな民の財 産を略 奪することに反 対した。
公 共の利 益(義)と個 人の利 益(利)という義と利の観 念
では、浙 東 学 派は道 理を空 論することに反 対し、義と利の
一 致を主 張した。儒 家の義と利に関する基 本 的な考え方
は、義が重く利が軽いというものだった。浙 東 学 派の「義
と利の考え方」は、発 達した商 品 経 済に適 応し、実 利と効
率を 重んずる 社 会のニーズに 沿ったもので、 人はできる
だけ社 会に奉 仕すべきで、社 会も個 人の地 位や権 利を軽
視すべきではないというものだった。
黄宗羲撰《明夷待 访录》,
为体现明末清初黄宗羲(16 10 年-16 9 5 年)
民主、民本思想的重要著 作。
『明夷待訪録』は明代の末期から清代初期にかけて活躍した黄宗羲が民
主思想のあるべき姿を説いた重要な著 作である。
14 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
特集: 文化の薫り高い浙東
思 想特色
浙 东 学 派 的 代 表 人物 是 一 批 富
中华文化 的 发 展 总 是 伴 随 着文
史 之间的交 织、渗 透和 融 通。 浙东学
有开拓创新 精神的学者。他们不仅具
派 的 一 些 代 表 人物 兼 擅 史学 和 文 学,
有渊博的学识,熟谙 传 统文化,而且善
既是史学巨擘,又是文学高手。他们不
于独立思考,敢于超 越传 统,质 疑辨异,
仅 深知 文学与史学的不同特 征,还 对
史実に忠実
开创新 说。在 褒 贬 臧否学界、文 坛各
文 史会 通有深 刻认识,以丰富的历史
かつ文才あり
色人物 时,也多以 是 否富于独创 精 神
知识和深邃的历史眼光去考察文学问
作为重要的评判标 准。
题,深入发掘文史会 通 之处,提出了许
浙东学 派 的 一 个显著 特点 是 具
“事 信 而 言 文”
多精深独到的见解。
有包容性。他们大力倡导并切实 奉行
浙东学派 虽 无 文学思想方面的
兼容并蓄、广采博取的治学风格,反对
专 著,但他们对 文学的一系列基 本问
墨守一家、好同恶异的 狭 隘学风。 壁
题 都 有自成体系 的 思考,作了具 有内
垒森严的门户之 见,冰 炭 难容的派 别
在 逻 辑 联 系的 精辟 论析,形成了独特
之争,是导致明末清初文 坛不 振 的一
的文学思想体系。尽管中国古代 文学
个重要病根。浙东学派 对此痛心 疾首,
理论发展史上名家辈出,卷帙 浩繁,然
不遗 余力进行抨击。本着艺术宽容 精
而真正具有体系规模的文学思想并不
神,他们竭力主张打破门户之见,主张
多见。浙东学派的文学思想值得引起
不同流派、风格共存同荣。
重视,
并赋予其恰当的历史定位。
思 想の特 色
万斯同
万斯同
中 華 文 化 の 発 展 はいつも 文 学 と 史 学 の 間 の 交 錯 と 浸
浙 東 学 派の代 表 的な人 物として、開 拓 創 新 精 神に富む
透、融 和とともにある。浙 東 学 派の代 表 的 人 物は史 学と
学 者たちが 挙げられる。 彼らは 深い 知 識を 持っていただ
文 学を掛け持ち、史 学の権 威であると同 時に文 学の達 人
けでなく、伝 統 文 化を熟 知し、独 立した思 考に長じ、大 胆
でもあった。彼らは文 学と史 学の相 違 部 分について深く
に伝 統を越え、筋が通らないと思うことに異 議を唱え、新
認 知していただけでなく、文 学と史 学を合わせた全 面に
しい説を創 出していった。学 界には賛 否 両 論があるが、文
ついても認 識していた。そして、豊 富な歴 史の知 識と歴
壇にさまざまな人 物が現れ、独 創 精 神に富んでいるかど
史に対する鋭い視 点で文 学の問 題を考 察し、文 学と史 学
うかを重 要な評 価 基 準として活 動した。
が融 合する点を掘り起こし、独 特で深い見 解を数 多く提
浙 東 学 派の 顕 著 な 特 徴 の 1 つは 包 容 力 があることだ。
出した。
彼らは他の学 派でもいいところは広く取り入るべきだと
浙 東 学 派に文 学 思 想の専 門 書はないが、彼らは文 学の
強 く 主 張 し、1 つの 考 えを 墨 守 したり 結 託 して 悪 事 を 働
基 本 問 題について自ら作り上げた思 想 体 系を持ち、論 理
いたりする偏 狭な学 風に反 対した。水も漏らさぬように
的な結びつきを内 在する精 密な分 析を行い、独 特の文 学
堅 固な偏 見や氷と炭が相いれないのと同じような派 閥の
思 想 体 系を形 成していた。中 国の古 代 文 学 理 論が発 展す
争いが、明 末から清 初の文 壇 不 振の重 大な病 根だった。浙
る中で、優れた人 材が数 多く輩 出され、関 連する書 籍もお
東 学 派はこうした病 根を力の限り、批 判し攻 撃した。芸
びただしい数に上るが、体 系 的な規 模の文 学 思 想はそれ
術 的 寛 容をもって、彼らは派 閥 的な偏 見の打 倒を力いっ
ほど 多くない。 浙 東 学 派の 文 学 思 想は 重 視するに 値し、
ぱい主 張し、流 派や手 法の違いを乗り越えた共 存 共 栄を
それにふさわしい歴 史 的な評 価も与えられている。
主 張した。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 15
特辑:文化浙东
浙
的魅力 ❸
海 纳 百川 名 震
天下的 宁 波 商人
度量の大きさで天下に
名をとどろせた寧波商人
文・吴红飞
Pao
g
n
o
e K
Yu
Sea”
f the ing o
K
The “
世界船王包玉刚故 居,
浙江宁波镇 海区庄市钟包村。
世界の船 舶王である包玉剛の故 居,
浙江省寧波鎮海区庄市鍾包村。
波人,喜于经商、善于经商这一
“中国要看上海,上海则要看宁波人”。
把交椅。据了解,
他与英国前首相撒切
特质仿佛源于基因骨血。 作为
可以说,宁波人对上海发展,对当时中
尔夫 人私 交甚 密,不仅 随 时可以 通电
一 个 滨 海的港口城市,坐拥优 越的地
国的民族资本主义的发展发挥了巨大
话,还 可自由出入位于唐 宁 街五号的
理 环 境,宁波商人中很多都从事海 外
的作用。
首相官邸。英女王封他为爵士,日本、
贸易。早期的宁波商人比较零散,
到明
19世纪40年代 末开始,大批实
比利时、巴西、巴拿马都曾授予他高级
末清初时 期,宁波商帮开始 逐 渐 形成
业家从上海转移到港、澳,转向东南亚、
勋章。他的电话可以直通白宫,随时与
比较大的规模,并成立会 馆,诸如清乾
南美北美、欧 洲等,并在世界经济大发
美国总 统对话,每出访一个国家,该国
隆 时 期 颇 负 盛 名 的 衢 州 的“宁 绍 会
展 的 机 遇下开 创了许 许 多 多 的 辉 煌。
首脑、政 府要员都要同他会面,听取其
馆”
、汉口的“浙宁公社”等。到后期,
很 多 宁 波 人 获 得了 商 业“大 王”的 称
意见。
有 影 响 力 较 大 的“四 明 公 所”“
、浙 宁
号,
如“世界船王”
“鱼翅大王”
“电子大
会 馆”等。19 世纪 4 0 年代之前,宁波
王”
“影视大王”
“春卷大王”等。
一方水土养一方人,不同的 地 域
文化 造 就了生存 其间的人们不同的秉
商帮活 动范围主要 在国内,特 别是 上
尤 以“世界 船 王”包 玉 刚 闻 名 遐
性和 精神面 貌。 中国十大商帮中“宁
海,据 称 6 0 万上 海人中有 4 0 万的宁
迩,
可以说叱咤国际 政商两界。当年世
波帮”久盛不衰,其中不无深刻的文化
波 人。 当时 商业界 有这 样一 句传言,
界十大 船王排座 次,包玉刚稳 坐 第一
历史原因。
16 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
特集: 文化の薫り高い浙東
寧
波 人は 商 売が 好きで、 商 売
上 海 では 寧 波 人 を 見 なければなら
なつながりがあり、いつでも電 話を
が 得 意だ。 この 特 質は 彼ら
ない」という 話もささやかれた。 寧
かけることができただけでなく、ダ
の 骨 や 血 の 中 からわき 出 ていると
波 人は上 海の発 展と当 時の中 国の
ウニング街 5 号の首 相 官 邸に自 由に
いってよい。寧 波には海の港 町とし
民 族 資 本 主 義 の 発 展 に 大 きな 役 割
出 入りすることもできた。英 国の女
ての地 理 的な優 位 性があり、寧 波の
を果たした。
王は彼にナイトの爵 位を授け、日 本、
商 人 の 中 には 海 外 貿 易 に 従 事 する
1 9 4 0 年 代 末になると、大 実 業 家
ベルギー、ブラジル、パナマも彼に高
者が多い。昔の寧 波 商 人はまとまり
が上 海から香 港やマカオ、さらには
級な勲 章を授けた。彼の電 話は直 接
がなく、明 末から清 初にかけて、寧
東 南アジア、南 米、北 米、欧 州へと活
ホワイトハウスにつながり、 いつで
波 の 商 人 集 団 は 徐々に 大 き な 規 模
動の範 囲を広げ、世 界 経 済の発 展の
も 米 国 の 大 統 領 と 話 をすることが
の組 織を形 成し、集 会 施 設である会
チャンス に 数 多 く の 輝 き を 放った。
できた。彼は 1 つの国を訪れるたび
館を建 設した。初 期に評 判が高かっ
多くの 寧 波 人が 商 業の「 大 王」の 称
に、その国の首 脳や政 府の要 人と面
たのは 乾 隆 帝 の 時 代 の 衢 州 の 寧 紹
号を 得た。 その 名は 例えば「 世 界の
会し、その意 見を聞いた。
会 館や 漢 口の 浙 寧 公 社 などだった。
船 舶 王」
「フカヒレ大 王」
「電 子 大 王」
その後、大きな影 響 力を持ったのが
1 つの場 所の水と土はその場 所の
「映 像 大 王」
「春 巻き大 王」などだ。
人を育て、異なる地 域 文 化はその地
とりわけ「 世 界の 船 舶 王」である
で 生 きる 人 たちに 異 なる 気 質 と 精
1 9 世 紀 の 4 0 年 代 以 前 における 寧
包 玉 剛は名 声をとどろかせ、国 際 的
神 状 態をもたらす。中 国の十 大 商 人
波の商 人 集 団の活 動 範 囲は主に中
な 政 界 と 商 業 界 を 鼓 舞 し た と いっ
集 団のうちで「 寧 波 集 団」が 衰える
国 国 内であり、 特に 上 海では 6 0 万
ていい。当 時の世 界の十 大 船 舶 王の
ことなく長く栄えた。その事 実は文
人の上 海 人のうち 4 0 万 人が寧 波 人
序 列では、包 玉 剛が安 定 的に第 1 位
化と歴 史に深く起 因している。
だといわれた。 当 時 の 商 業 界 では
の座にあった。彼は英 国 首 相であっ
「中 国では上 海を見なければならず、
たチャーチルの夫 人と個 人 的に密 接
「四 明 公 所」
「浙 寧 会 館」などだった。
印象图,
18 4 7 年的宁波。
18 4 7 年の寧波。
イメージ,
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 17
特辑:文化浙东
根基于传统文化的宁波“商文化”
上半 夜忖 忖自己
后半 夜忖 忖别 人
— 信义
位于宁波市海 曙区内,有一座古
朴的藏书楼,叫“天一阁”。 这 座 建于
“上半夜忖 忖自己,后半夜忖 忖别人”
,
就 是 做 生 意不能 只 想着自己,也要为
别人考虑。商业交易总是互利自愿的,
利人才能利己,
损人终会损己。
夜の前半は
明代嘉靖年间的藏书楼已有近 五百年
诚信,无 论 宁波 人 走 到 哪里,都
自分のことを思い
的历史,它是中国现存最早的 私 家 藏
是他们的一个支撑点。正是宁波人 这
後半は他 人のことを思う
书楼,也是 亚 洲现存最古老的 图书馆
种“信义”
,能 够让宁波 人位 列中国十
和 世界最早 的 三 大 家 族 图 书馆 之一。
大商帮,在世界赢得了尊重。 另一 位
它代 表着宁波 深 厚的文化 沉 淀,宁波
“世界船王”董 浩 云的友 人曾这样说,
人 勤 奋 好学、崇尚读书的民风。 在民
“我 认 为董 浩 云成 功之 道 就 是讲 信用,
间只要 有条 件,人们 总是 想办法 送自
这 是一笔无 形无 价 的财 富。 就 凭‘董
己的弟子去学堂开蒙识字。
浩 云’一 纸 签 名,
日本 最 大 造 船 厂愿
天一阁/ 天一閣(て ん い つ か く)
天 一 阁 是 中 国 现 存 的 最 古 老 的 书 库。由
明 代 的 官 吏 范 钦 建 造 的 私 家 藏 书 楼,位 于 浙
江 省 宁 波 市 月 湖 西 侧。1 9 9 4 年,宁 波 市 天
一 阁 博 物 馆 成 立。
天 一 閣は、明 代の中 国・ 明の官 史、范 欽が
建 てた 個 人 蔵 書 楼 で、現 存 する 中 国 最 古 の
書 庫 で あ る。 寧 波 市 の 月 湖 西 側 に あ り、
1 9 9 4 年からは 天 一 閣 博 物 館として 公 開さ
れている。
18 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
仁、德、信、义是中国传 统 文化中
意为他制造 3 0 万吨的油轮,中东石油
人们 遵 循 的 道 德 标 准,
是 人修身 的 行
输 出 国 愿 和 他 签 订 10 年 的 运 油 合
为 基 础,也 是商业 道 德 的 根 本 基 石。
同。
”
其中,信义 是 生意 人最为基 本的职 业
但除 此 之 外,宁波商帮文化不同
准 则。宁波人在传 统 文化的熏陶下深
于徽商、晋商的地方,是其不仅 从传 统
深 懂得“信义之 理”
,并将 其践行 于商
文化中汲 取营养,而且 从 海 洋 文化中
业活动中。所以,宁波有句谚 语,叫做
获得关键的“思变”力量。
特集: 文化の薫り高い浙東
Sea”
f the ing o
Tung
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C
ung
Y
K
The “
伝 統 文 化に根 差す寧 波の「商 文 化」、
の行 為の基 礎で、商 業 道 徳の根 本 的
て、中 国の十 大 商 人 集 団に列せられ
それは信 義
な礎でもある。その中で信 義は商 売
るようになり、世 界から尊 敬を勝ち
人の最も基 本 的な職 業の原 則だ。寧
得た。もう 1 人の「世 界の船 舶 王」で
「天 一 閣」と呼ばれている。この書 庫
波 人は 伝 統 文 化の 薫 陶によって「信
ある董 浩 雲の友 人は「董 浩 雲の成 功
は 明 代 嘉 靖 年 間 に 建 てられたもの
義の 道 理」を 深く 理 解し、それを 商
への 道 は 信 義 を 重 んじることにほ
で、 すでに 5 0 0 年 近い 歴 史を 持ち、
業 活 動の 中で 実 行する。 そのため、
かならず、それは無 形で無 価 値の財
中 国 に 現 存 する 最 も 古 い 私 的 な 書
寧 波には「夜の 前 半は 自 分のことを
産だ。そのため、董 浩 雲と紙に署 名
庫となっており、 アジアで 現 存する
思い、後 半は 他 人のことを 思う」と
するだけで、日 本で最 大の造 船 会 社
最も古い図 書 館で、世 界で最も古い
いうことわざがある。これは商 売は
が 3 0 万 トン の タンカーの 建 造 を 引
三 大 家 族 図 書 館の 1 つでもある。こ
自 分のことだけを考えて行ってはな
き 受け、中 東の 石 油 輸 出 国が 1 0 年
の書 庫は寧 波の文 化の深く厚い蓄
らず、他 人のことも考えなければな
間の石 油の販 売に同 意するのだ」と
積、寧 波 人の勤 勉さと好 学、読 書を
らないという戒めだ。商 取 引は常に
語っている。
尊ぶ気 風を象 徴している。民 間では
互いの利 益を求めるもので、人に利
このほかにも、寧 波 商 人 集 団の文
条 件さえ 整っていれば、人々は 自 分
益 をもたらしてはじめて 自 分 も 利
化は安 徽 省の商 人や山 西 省の商 人
の 子 どもをどのようにして 学 校 に
益が得られ、人に損をさせればいず
とは異なる部 分がある。それは伝 統
通 わせ 読 み 書 きを 習 わせるかを 常
れは 自 分 も 損 をするという 教 えで
文 化 からくみ 上 げた 養 分 だけでな
に考えている。
もある。
く、海 洋 文 化の中で獲 得した重 要な
寧 波 市 海 曙 区に古い書 庫があり、
仁、徳、信、義は中 国の伝 統 文 化の
誠 実 さは 寧 波 人 がどこに 行 こう
中 で 人 が 守 り 従 うべき 道 徳 の 基 準
とも、彼らの心の支えとなるものだ。
であるとともに、人が身を修める際
寧 波 人はこのような「 信 義」 によっ
「思 変(熟 慮して変わる)」の力だ。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 19
特辑:文化浙东
海洋文化孕育下的“思变”精神
之后,宁波人便 潮水般 涌到上海,从最
宁波帮不仅在上 海,在 北 京也有
大陆文化是一种 农业 文化,由于
卑贱的劳动 做 起,白手起家。
“世界船
相当大的商业力量。宁波商人曾控 制
受到山河阻 挡,往 往具有一定的 狭 隘
王” 包 玉刚最初涉足 航 运 业时,父亲
着北京中药业、成衣业、钱庄业等行业。
性和保守性,求稳怕乱,墨守成 规。所
因 航 运 业已经 饱 和而反 对,但他依旧
明清时候的十大商帮,
发展到 2 0 世纪
以,
“天不变 道 亦不变”的思想为大陆
坚持了下来,敢于在潮头冒险。而在经
初,有九大商帮淘汰出局,唯独留下了
文化所提倡。海洋文化则不同于大陆
济 最不景气 的 19 7 1 年,他 更冒险 地
“宁波帮”
,并一直薪火相传,成为浙商
文化,
“ 海纳百川,有容乃大”
,
它崇尚博
总吨位达到
向日本公司订造了 6 艘船,
的主干力量。可以说,
“宁波帮”曾是中
大的胸襟和宏大的气魄,包罗万象,兼
15 0 万吨。随着国际 航 运的好 转,他
国 近 代 史 上 影 响 力最 大 的 商 帮之一,
容并蓄。
的 公司一 帆 风 顺,而且在当时处 于困
“无 宁不成 市” 的 说 法 充分 形 容了他
同时,大 海的气 象也是 瞬息万变
难时 期的日本造 船界赢得了尊重和赞
的,前一秒 还是平静祥和的海面,可能
誉。另一位“船王”董浩云早在年幼时
根基于 传 统 文化,宁波 人坚守着
在下一秒就 忽而卷起 大 风 大 浪,电闪
便说,
“ 地 球 表面四分之 三是 海 洋,我
商人最为基本的“信义”;而在海洋文
雷鸣。所以,从事海上贸易的人总是知
应该像郑和一样有雄心去征服海
化 的熏 陶下,宁波 人养成了善于思变
道,必须随时关注气象,随时准备好应
洋。
”
的性格,更容易接受新事物,这便构成
对突如其来的暴风雨。
对于宁波来说,大 海 是冒险 之 海,
们的地位。
当海 外 轮船 进 入中国,宁波帮就
了宁 波 商 文化 的 两 大 主体。 特 别 是
转向经营轮船业。而当他们意识 到钱
“思变”精神,使得他们没有把外来文
也是生存之海,危险与希望共存。要生
庄将 被银 行 淘汰时,他们就开始操 办
化和外来的商业竞争者视为洪水猛兽,
存,就要踏上这危险的路途,并随时应
银 行。18 9 7 年,在宁波帮的努力之下,
而是以他们对待大海般的包容和思变,
对一切 挑 战。 基于这种 环 境,造 就了
上 海 成 立中 国 第一 家 银 行 —— 中 国
取 人 之长和补己之 短,这 是 他们区 别
宁波人 顽 强开拓、冒险 创新的“思变”
上海商务会议公
通商银行。19 0 2 年,
于徽商、晋商等商帮,能够在中国十大
性格,这使他们在日后机会来临时,便
所成立,
这便是日后引领上海工商业的
商帮中久 盛不衰,最 终 一家独 大的深
“上海商务总会”的前称,而上海工商
刻原因,
也是宁波商文化的精髓所在。
一涌成为时代的弄潮儿。
善于捕捉机遇,
开拓新的领域,
是
“宁波帮”迅 速崛起的秘诀。上海开埠
20 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
界则在当时引领着中国工商界的前进
方向。
特集: 文化の薫り高い浙東
海 洋 文 化が育んだ「思 変」精 神
海が開 港されてから、寧 波 人は次々
宁 波 商 帮文化
大 陸 文 化は一 種の農 業 文 化で、山
と上 海に移り住み、最も卑しい労 働
河に妨げられ、往々にして偏 狭 性と
から始めて、起 業するに至った。
「世
保 守 性を持ち、安 定を求め混 乱を嫌
界の船 舶 王」の包 玉 剛が最 初に水 上
い、古いやり方を固 守する。そのた
運 輸 業を始めたとき、彼の父 親は水
め「 天に 変 化なく、 道もまた 変 化な
運 業 はすでに 飽 和 状 態 であるとし
し」というのが大 陸 文 化の提 唱する
て反 対したが、彼はその仕 事を続け
思 想となっている。海 洋 文 化は大 陸
た。そして 最 も 不 景 気 だった 1 9 7 1
文 化 と 異 なり、「 海 が 多 くの 川 の 水
年に彼は日 本の造 船 会 社に 6 隻の
を受け入れるように、度 量が大きい」
船の建 造を発 注し、総トン数は 1 5 0
や農 業、私 設 金 融 機 関などの業 界を
のが特 徴で、大きな志と強い意 気 込
万トンに達した。国 際 水 運が好 転す
牛 耳っていた。明や清の時 代の十 大
みを尊 重し、万 象を網 羅して、さま
るにつれて、彼の会 社は順 風 満 帆と
商 人 集 団 のうち 2 0 世 紀 になると 9
ざまなものを 受 け 入 れて 肥 やしと
なり、当 時 困 難な時 期にあった日 本
つの 商 業 集 団が 淘 汰され、「寧 波 集
する。
の 造 船 業 界 から 尊 敬 と 賞 賛 を 受 け
団」だけが 生き 残り、浙 江の 商 業の
また、大 海の気 象は瞬 時に大きく
た。もう 1 人の「船 舶 王」董 浩 雲は幼
主 力となった。
「寧 波 集 団」は中 国の
変 化し、少し前に穏やかだった海 面
少の頃、
「地 球の表 面の 4 分の 3 は海
近 代 史 上 最 も 大 きな 影 響 力 を 持っ
にもあっという間に強 風や大 波、稲
だ。僕は鄭 和と同じように大きな志
ていた 商 業 集 団 の 1 つであり、「 寧
光、雷 鳴が巻き起こる。そのため、海
を 持って 海を 征 服する」と 言ってい
波がなければ市が立たない」と形 容
上 貿 易に従 事する者は、いつも気 象
た。
されるまでになった。
海 纳百川有 容乃 大
寧波の商人文化は
海が多くの川を
受け入れるように
度量が大きい
に 注 意 し 突 然 襲って く る 暴 風 雨 に
海 外 の 船 が 中 国 に 入って 来 る に
伝 統 文 化に根 差し、寧 波 人は商 人
備えなければならないことを知って
当たって、寧 波 集 団は船 舶 業に経 営
の基 本である「信 義」を堅 守した。そ
いる。
を転 換した。当 時の彼らは、私 営の
して 海 洋 文 化 の 薫 陶 のもとで 思 変
寧 波についていえば、大 海は冒 険
金 融 機 関 が 銀 行 に よって 淘 汰 さ れ
の性 格を養い、新しい事 物を取り入
の海であり、生 存の海であり、危 険
る時 期だと感じており、銀 行の経 営
れた。それが寧 波 商 文 化の2つの大
と希 望が共 存する場だ。生きるため
も 始 めた。1 8 9 7 年、 寧 波 集 団 の 努
きな柱となった。特に「思 変」の精 神
には 危 険 な 道 をたどらねばならず、
力によって、上 海に中 国で初めての
によって、彼らは外 来 文 化と外 来の
相 手 からの 挑 戦 のすべてに 対 応 し
銀 行 である 中 国 通 商 銀 行 が 成 立 し
商 業 の 競 争 相 手 を 洪 水 ごとく 押 し
なければならない。このような環 境
た。1 9 0 2 年には 上 海 商 務 会 議 公 所
寄せる猛 獣とはみなさず、それらに
によって、寧 波 人は頑 強に開 拓し冒
が成 立した。これはのちに上 海の商
大 海 のような 包 容 力 と 変 化 の 力 で
険と 創 新を 続ける「 思 変」の 気 質を
工 業を 統 率した「上 海 商 務 総 会」の
対 応し、人の長 所を取り入れ短 所を
得た。 チャンスが 訪れたとき、寧 波
旧 称だ。そして、上 海の商 工 業 界は
補った。それが安 徽 商 人 集 団や山 西
人はそのような気 質を発 揮し、時 代
当 時の中 国の商 工 業 界を引っ張って
商 人 集 団との違いであり、中 国 十 商
のチャレンジャーとなるのだ。
前 進させた。
人 集 団 の 中 で 衰 えることなく 栄 え、
チャンスをつかむことに 長け、新
寧 波 集 団は上 海だけでなく、北 京
ついにはその 中 で 唯 一 生 き 残 る 存
しい 領 域 を 開 拓 することが、「 寧 波
でもかなり 大 きな 商 業 の 力 を 有 し
在となった原 因であり、寧 波 商 文 化
集 団」が急 速に興 隆した秘 訣だ。上
ていた。寧 波 商 人はかつて北 京の薬
の真 髄もそこにある。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 21
特辑:文化浙东
浙
的魅力 ❹
精 彩 纷呈 的
舟山美食 文化
素晴らしい
舟山の美食文化
文・FUJITAMA
22 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
舟
山群岛,共 有 13 9 0 多个岛屿,
如“海天佛国”普陀山、
“列岛风光”嵊
犹 如一颗 颗明珠镶 嵌在 碧蓝
、桃花传奇”桃花岛 “
、碧海金 沙”
泗 “
的大海上。而舟山的美食,也星罗棋布
、东 极 之
朱 家 尖、
“蓬 莱 仙岛” 岱 山 “
地覆盖了群岛的每一个角落。
光”东极等。只是听其名,就已经让人
如果你热爱 旅 游,喜爱 欣 赏美景
神往;何况 欣赏这些美景的同时,还可
和品尝美食,那么一定要到舟山来,这
以品尝到特 色的舟山美食,难 怪很多
里的美景 让你流 连 忘返,这 里的美食
人年年都像候鸟一样,定期往 返舟山。
让你馋涎欲滴。
因为这 里的美食与美 景,牵引着一 颗
舟山旅 游资源丰富,景点很多,比
颗热爱生活的心灵。
特 集 : 文化の薫り高い浙東
舟
山 群 島には合わせて 1300
りがたい思いにするだろうし、その
の名を聞いただけで、人はその地に
余りの島があり、あたかも紺
地 の 美 食 にはよだれを 垂 らさざる
あこがれる。舟 山では美しい風 景を
を得ないだろう。
眺めると同 時に、特 色ある美 食も味
碧 の 海 に 真 珠 を 散 りばめたようだ。
舟 山 の 美 食 も 群 島 の 至 るところに
舟 山の観 光 資 源は豊 富で見 所も
わうこともでき、多くの人が渡り鳥
多い。例えば「海 天 仏 国」と呼ばれる
のように 毎 年 定 期 的 に 舟 山 を 訪 れ
普 陀 山、「列 島 風 景」の嵊 泗、「桃の
る。この地の美 食と美 景は、生 活を
風 景 を 見 て 美 食 を 味 わいたいなら、
花の伝 奇」の桃 花 島、「青い海と金の
愛する心を呼び覚ましてくれる。
舟 山に行くといい。その地の美しい
砂」の朱 家 尖、「蓬 莱の仙 人の島」の
風 景は、あなたを名 残 惜しく立ち去
岱 山、「東 極の光」の東 極などだ。そ
存 在している。
もし、あなたが旅 行 好きで美しい
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 23
特辑:文化浙东
“ 靠 海 吃 海”的
舟山海鲜 盛宴
「海に依存し海を食す」
舟山の美食
舟 山 の 漁 場 は 台 湾 暖 流 と 日 本 の 千 島 寒 流 が 交 じり 合
う影 響で、自 然 環 境に優れ、餌が豊 富で、当 地に水 性 動 物
の生 息と繁 殖、成 長に適した環 境をもたらしている。舟
山 漁 場は大 戢 漁 場、嵊 山 漁 場、浪 崗 漁 場、黄 澤 漁 場、岱 衢
漁 場、中 街 山 漁 場、洋 鞍 漁 場、金 塘 漁 場に分けられる。
舟 山 漁 場は中 国 最 大の漁 場であるだけでなく、世 界の
舟山渔 场因受台湾 暖 流 和日本千岛寒 流 的交 汇 影
有 名な漁 場の 1 つでもあり、「祖 国の漁の都」と呼ばれて
响,自然环 境优 越,饵 料丰富,给当地 水生动物的栖息、
いる。舟 山 漁 場は古くから漁 業 資 源が豊 富なことで知ら
繁殖和生长提供了很 好的物质环境。舟山渔场可分为大
れ、漁 場では大 黄 魚(フウセイ)、小 黄 魚(キグチ)、タチウオ、
戢渔场、嵊山渔场、浪岗渔场、黄泽渔场、岱衢渔场、中街
イカの 4 つの 養 殖 魚が 主 要な 水 産 物になっている。 漁 獲
山渔场、洋鞍渔场和金塘渔场。
される主な魚は、タチウオ、サワラ、ウミウナギ、マサバ、ナ
舟山渔场不仅是中国最大的渔场,也是世界著名渔
ンカイウマヅラハギ、ハタ、ガザミ、エビなど 3 6 種 類を超
场之一,有着“祖国渔都”之称。舟山渔场自古以来因渔
える。舟 山の黄 魚、タチウオ、ハタ、ザリガニおよびカキ、ハ
业资源丰富而闻名,渔场内以大黄鱼、小黄鱼、带鱼和墨
マグリ、エビ、カニ、さらに干 貝、アオガニなどは、どれも特
鱼 4 大家鱼为主要渔 产。捕 捞的主要品种有带鱼、马鲛
色があり 海 鮮の 名 品となっている。 飲 食もおのずから 海
鱼、海鳗、鲐鱼、马面鱼、石斑鱼、梭子蟹和虾类等 3 6 余
鮮が特 色となり、主な調 理 法と食べ方は蒸す、しょうゆ漬
种。舟山的黄鱼、带鱼、石斑鱼、锦绣龙 虾及蛎、蛤、虾、蟹,
け、塩 漬け、干す、生で食べるとなっている。主 要な料 理は
还有淡菜、青蟹等,
都是极具特色的海鲜名品。在饮食方
塩 漬け干し黄 魚と鶏の蒸し物、干し黄 魚の塩 漬けと肉の
面自然以海鲜为特色,烹饪的主要特点为清蒸、酱渍、盐
焼き物、ヒラメの炒め煮、エビの塩 焼き、嵊 泗の巻 貝の塩
渍、风干和生吃。主要的风味名菜有:白鲞扣本鸡、黄鱼
辛 漬け、嵊 泗のガザミ蒸し、アサリのネギ油 炒め、マナガツ
鲞 烤肉、大烤目鱼、盐 焗基围虾、嵊泗螺酱、嵊泗梭子蟹、
オの薫 製、ウナギの千 切りとセロリの炒め物、干しタニシ
葱油海瓜子、烟熏鲳鱼、芹菜 炒鳗 丝、风 味 螺肉干、咸肉
の塩 辛 漬け、塩 漬け干し肉とカニの姿 蒸し、カレー風 味の
蒸白蟹、咖喱螃蟹等。
カニなどだ。
24 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
特集: 文化の薫り高い浙東
カニは味がよく、古くから多くの人に愛されてきた。こと
わざに「カニは腹を裏 切らない」とあり、晩 唐の詩 人・ 唐 彦
謙も 蟹のおいしさを「 充 盘 煮 熟 堆 琳 琅、 橙 膏 酱 渫 調 堪 嘗。
一 斗 擘 開 红 玉 満,双 螯 囉 出 琼 酥 香。
(皿の 上にてんこ 盛り
の茹で上がった美 食 達、オレンジのソースは食 欲をそそる。
真っ赤に染まった体を開けば身が詰まり、両ハサミから立ち
上る香りのなんとかぐわしいことか。)」と詩に詠んでいる。
その詩を読むと、よく肥えたカニがあたかも目の前にあり、
カニの香りが時を越えて漂ってくるかのように感じられる。
螃 蟹味 道 鲜美,自古以 来 广受 人们喜爱。 古 语曰
“不食螃蟹辜负腹”
,唐彦谦的《蟹》中写道“充盘煮熟堆
昔からカニの 味わいの 話をすると、 食べたくなってよだれ
が垂れるほどだといわれている。
琳琅,
橙膏酱渫调堪尝。一斗擘开红玉满,
双螯啰出琼酥
舟 山 漁 場で 捕れるカニは 種 類が 多く、1 0 0 種 類 近くに 及
香。”肥美鲜香的 螃 蟹 仿佛近在眼前,螃 蟹的香 味 穿越
ぶ。形はさまざまで、資 源が最も豊 富なのはガザミだ。旧 暦
千百年时光,扑面而来,由古至今,谈 起螃蟹的美味,无不
の 9 月 以 降に捕れるカニは大きく、身がふっくらしていて、
让人垂涎欲滴。
栄 養も豊 富で、味はみずみずしい。ガザミは食 用、薬 用とな
舟山渔场上蟹的种类很多,约有近百种,形态各有
るほか、可 溶 性の甲 羅の物 質を抽 出し、紡 績の染 料や人 造
不同,其中资源 最为丰富产量最高的要数 三疣 梭 子蟹。
繊 維、製 紙、木 材 加 工、プラスチックなどの工 業にも利 用さ
农历九月以后捕捉的蟹,形体健硕、肉质饱满、营养丰富、
れる。ガザミの食 用になる部 分はカルシウムや鉄 分、タンパ
味道鲜美 ! 梭子蟹可以食用,可入药,还可提 炼可溶性甲
ク質、脂 肪、糖 類、無 機 塩 類、ビタミンA などの多くの成 分を
壳质,用于纺织印染、人造 纤维、造 纸、木材加工、塑料等
含んでいる。
工业。梭子蟹食用部分含 钙、铁、蛋白质、脂肪、糖类、无
机盐及维生素 A 等诸多成份。
舟 山を訪れると、カニのあらゆる食べ方を体 験できる。生
きたカニを 蒸す 食べ 方はカニの 味が 濃く、塩 辛い 中に 甘さ
来舟山,可以尝遍 所有蟹的吃法,无论是 鲜美无比
がある。そのほかにもカニのしょうゆ煮、ガザミのネギ油 炒
的蒸笼活蟹,还是蟹味 浓 厚,咸中带甜的呛蟹,或者是鲜
め、肉のきめが細かく色と香りと味がともにいい塩 漬け卵
香美味的红 烧 螃蟹、葱油梭子蟹和肉质细 腻、色香味俱
の 黄 身とカニの 炒め 物がある。 それらはきっとあなたに 味
全的咸蛋黄炒蟹 …… 都能给 你带来一场味觉盛宴。
覚の盛 大な宴を提 供してくれるだろう。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 25
特辑:文化浙东
海天佛国普陀山
普
海天仏国の普陀山
陀 山 享 有“海 天 佛 国”“
、人
石等。在山海相接的地方有许多石
可清炖、可生炒,能够烹调几十种风
间第一清 静境”的美称,它
洞景观,著名景 点 潮音 洞 和梵 音 洞
味各异的菜肴。来到普陀山,品尝大
是 舟山群岛中的一 个小岛,形 似苍
都 在 这 里。普陀山周围还 有许多沙
黄 鱼 最 著名的 做 法 — 咸 菜 大 黄
龙卧海。普陀山气候宜人、风景秀丽、
滩,但主要的是百步沙和千步沙。千
鱼。 鲜香浓郁的咸 菜,配 上鲜 嫩多
历史 悠久、宗 教 文化 浓 厚。 每年的
步沙是一个弧 形沙滩,沙坡柔缓,沙
汁的大黄鱼,这 是 招待 客人 必备
农历二月十九、六月十九、九月十九
面 舒 软, 是 一 个 优良 的 海 水 浴 场。
的家常菜。再配 上山里的雪菜、
是观音香会、朝圣盛典,海内外香客、
夏天来这里,踩在金色的沙滩上,吹
笋片,经过精心的熬制,一锅咸、
游 客比肩接踵,虔诚 膜 拜,场面恭肃
着凉 爽的海风,畅 游 在 蔚 蓝 清 澈的
鲜、香合一,汤白、味 醇、肉嫩
壮观。普陀山与四川峨眉山、安徽九
海 水里,赏心悦目,通体 舒 畅,一定
的咸菜大黄鱼就恭候您下
华山、山西五台山并称为中国 佛 教
会带给 你一场终生难忘的旅行。
筷啦。
四大名山。
普陀山有许多奇岩 怪石,著名
的有二龟听法石、海天佛国石、磐陀
普
普陀山最具特色的美食就是
大黄鱼。大黄鱼肉质鲜嫩,
入口绵柔。
而且营养 丰富,做 法多样,可红 烧、
陀 山 に は「 海 天 仏 国 」
「人
ある。普 陀 山の周 囲には多くの砂
く 多 汁 の 大 黄 魚 の 組 み 合 わせは、
の第 一の清 浄 境」という美
浜があり、主な砂 浜は百 歩 沙、千
家に客を招くときの欠かせない家
称がある。普 陀 山は舟 山 群 島の 1
歩 沙となっている。千 歩 沙は弧を
庭 料 理となっている。さらに高 菜、
つの小 島で、蒼 竜が海に横たわっ
描く砂 浜で、浜の傾 斜は緩やかで、
タケノコ を 加 えて 丹 念 に 煮 れば、
ている形に似ている。気 候がよく、
砂は柔らかく、良 好な海 水 浴 場だ。
鍋の中で塩 辛さ、新 鮮さ、香りが 1
風 景が美しく、歴 史も長く、宗 教
夏にここを訪れ、金 色の砂 浜でさ
つになり、スープは白く、味が濃く、
文 化が色 濃く感じられる。毎 年 旧
わやかな風に吹かれ、青く清らか
肉が柔らかい漬 物と大 黄 魚の料
暦 の 2 月 1 9 日、6 月 1 9 日、9 月 1 9
な海 水の中で遊び、心と目を楽し
理が出 来 上がり、 それを一 口 食
日 に 開 かれる 観 音 香 会 は 巡 礼 が
ませ、体を伸び伸びとさせれば、あ
べると 箸 が 止 まらなくなるに 違
盛 大で、国 内 外から多くの人がひ
なたにとって生 涯 忘れられない旅
いない。
っきりなしに訪れ、信 心 深く頭を
になるだろう。
垂れる。その様 子は恭しく壮 観だ。
普 陀 山の最も特 徴 的な美 食は
普 陀 山は四 川 省の峨 眉 山、安 徽 省
大 黄 魚だ。大 黄 魚は肉 質がみずみ
の九 華 山、山 西 省の五 台 山と並ん
ずしく、口に 入れるととろけるよ
で、中 国 仏 教の四 大 名 山と称せら
うだ。栄 養も豊 富で、多くの調 理
れている。
法がある。醤 油 煮もいいし、塩 煮
普 陀 山 には 奇 岩 怪 石 が 数 多 く
もいいし、炒めてもいい。調 理 法
あり、二 亀 聴 法 石、海 天 仏 国 石、磐
によって数 十 種 類の味の異なる料
陀 石などが有 名だ。山と海が接す
理が生まれる。最も有 名な大 黄 魚
るエリア には 石 洞 の 風 景 が 多 い。
の料 理は、漬 物と大 黄 魚だ。味と
有 名な潮 音 洞、梵 音 洞もこの地に
香 りの 濃 い 漬 物 と 新 鮮 で 柔 らか
26 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
4
2
1
特集: 文化の薫り高い浙東
桃
花岛景色宜人,岛上高山绵延,怪石奇礁,山花烂漫,清涧溪 流,
佳木繁秀,林壑幽美,郁郁葱葱,风光旖旎,植被覆盖率 7 5% 以
上,有“海岛植物园”之称。全岛由塔湾金 沙、安期峰、大佛岩、桃花港、
鹁鸪门、乌石砾滩六大景区组 成:有龙女峰、东海明珠、白雀寺、圣岩寺、
含羞观音、仙人桥、黄药师居室、清音洞等 6 0 多处景点。
桃花岛上每年桃花盛开时,远 远望去,云蒸霞蔚,灿如星海,吸引大
批 游 客前往。如果登临眺望,进山远 海,层层美景,尽 收眼 底,令人叹 为
观 止!而最 令人魂 牵梦萦的是每年 桃 花 盛开时节的“桃 花鱼宴”
,舟山
最鲜美的鱼类,配上桃 花岛最鲜 艳的桃 花,香气扑鼻,入口回味间唇齿
留香。每当和煦的春风吹 起,
都无比怀念桃花鱼宴!
3
桃
花 島は景 色がよく、島には高い山が連なり、怪 石や奇 勝があ
り、山には花がらんまんと咲き、渓 谷には清い水が流れ、美
しい木が茂り、森は静かで草が生い茂り、景 色は穏やかだ。島の 7 5 %
以 上が植 物に覆われ、「海の島の植 物 園」と呼ばれている。島は塔 湾
金 沙、安 期 峰、大 仏 岩、桃 花 港、鵓 鴣 門、鳥 石 礫 灘の六 大 景 区から成
っている。竜 女 峰、東 海 明 珠、白 雀 寺、聖 岩 寺、含 羞 観 音、仙 人 橋、黄
薬 師 居 室、清 音 洞など 6 0 余りの観 光 地がある。
桃 花 島は毎 年、桃の花の盛りの季 節には、遠くから見ると雲が立
ち昇り、かすみが集まり、光に照らされた花が海のようにきらきら
と輝いて、多くの観 光 客を引き付ける。山に登って眺め、山に入って
遠い 海を 見れば、 重なり 合った 美しい 風 景が 一 望のもとに 見 渡せ、
この上ない素 晴らしいものを見たと賛 嘆するだろう。そして、人を
最も魅 了しているのが、桃の花が盛りとなる季 節の「桃 花 魚 宴」だ。
桃 花 島 の 最 も 味 のいい 魚 を 島 の 最 もあでやかな 桃 の 花 と 組 み 合 わ
5
せた料 理で、濃 厚な香りと味が口いっぱいに広がる。毎 年、暖かい春
風が吹く季 節になると、桃 花 魚 宴が恋しくなる。
世 外 桃 源 桃 花岛
桃 源 郷の桃花島
1. 普陀山百步沙/普陀山百歩 沙
2 . 普陀山海天佛国石/普陀山海天仏国石
6
3 . 普陀山海滩/普陀山の海岸
4 . 普陀山美食大黄鱼/普陀山の美食 大黄 魚
5 . 桃花岛桃花盛开时/桃が満開の桃 花島
6 . 桃花岛海滩/桃 花島の海岸
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 27
特辑:文化浙东
沙 雕 名城 朱 家尖
砂の彫刻で知られる朱家尖
8
朱
家 尖 与 相 距 1. 3 5 海 里 的
里金 沙总长 6 . 3 千米,面 积 1. 4 4 平
“海天 佛国”普陀山并称普
方千米。十里金 沙拥有华东地区最
陀山国家级重点风景名胜区。
朱家尖岛上金 沙 连 绵,碧浪 荡
大的沙 滩群青沙、里沙、千沙、南沙、
东沙等九个沙 滩,绵延 5 千米多米,
漾,在美丽的海滩上,鱼虾 在水里嬉
景色颇 为壮观,滨 海 旅 游资源十 分
戏,螃蟹在沙滩上横行,海浪 涌上来
丰富。最令人向往的是沙雕节,朱家
又 退去,美丽的贝壳在阳光下闪着
尖的沙滩是制作沙雕作品的理想
莹润 的光泽,漫步在 沙 滩 上像是 身
材料。从 19 9 9 年起,在朱家尖南沙
在画中一样。 远 处 点 点 渔 船,在 碧
已经 成 功 举 办了十多届中国舟山国
海蓝天之间悠悠荡荡,飘悠摇曳,好
际 沙 雕 节,届时 世界 各地 的能 工巧
似在空中飞翔一般。
匠汇聚在此,在他们的精心雕 琢下,
原 本无 生命 的 沙 子 变 得 富 有生 机,
7. 朱家尖东沙海滨浴场/朱 家尖 海 水浴場
国 际 沙 雕 组 织 W S S A 确 认 为 世界
充满活力,栩栩如生的沙雕艺术,吸
8 . 朱家尖 沙雕/朱 家尖 砂の彫刻
上沙质和风景最 好的沙 滩 之一。十
引无数 海内外游客从四面八方赶来。
9 . 朱家尖 慈 航 广场/朱 家尖慈航 広場
朱家尖 最为著名的是 沙 滩,被
28 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
特 集 : 文化の薫り高い浙東
朱
家 尖 は 1 .3 5 海 里 離 れ た 所
いる。 十 里 金 沙は 長さ 6 .3 キロ、面
にある「海 天 仏 国」の普 陀 山
積は 1 .4 4 平 方キロとなっている。十
と 共に 普 陀 山 国 家 級 重 点 風 景 名 勝
里 金 沙は華 東 地 区で最 大の砂 浜 群
区と併 称される。
を有し、青 沙、里 沙、千 沙、南 沙、東 沙
朱 家 尖 島 に は 金 の 砂 が 延々と 続
などの 9 つの 砂 浜 が 5 0 0 0 メートル
き、紺 碧の波が漂い、美しい砂 浜で
余りにわたって続いている。景 色は
は魚やエビが水の中で泳ぎ回り、カ
壮 観で海 浜の観 光 資 源が豊 富だ。砂
ニが砂 浜の上を這っている。波が寄
の 彫 刻 祭 りに 多 くの 人 が 足 を 運 ぶ
せては返し、美しい貝 殻が陽 光のも
のは、朱 家 尖の砂 浜が砂の彫 刻 制 作
とできらきらと輝き、砂 浜を散 歩し
に 理 想 的 な 素 材 と なって い る か ら
ているとまるで 絵 の 中 に 身 を 置 い
だ。1 9 9 9 年 に 始 まり、 朱 家 尖 の 南
たような気 分になる。遠くに漁 船が
沙ですでに 1 0 回の中 国 舟 山 国 際 砂
小さく見え、紺 碧の海と青い空の間
の彫 刻 祭りが開かれている。祭りで
でゆらゆらと漂い、空 中を飛 翔して
は 世 界 各 地 から 優 れた 技 を 持 つ 芸
いるようだ。
術 家がこの地を訪れる。彼らが心を
朱 家 尖で 最も 有 名なのは 砂 浜で、
込めた砂の彫 刻は、もともと命のな
国 際 的な砂の彫 刻の組 織である
い砂に生 命 力を与え、活 力を充 満さ
WSSAが 世 界 で 最 も 砂 の 質 がよく、
せ、生きているかのような砂の芸 術
風 景も美しい砂 浜の 1 つに認 定して
が、国 内 外の観 光 客を魅 了している。
7
舟山旅 游资源极 其丰富,美景
9
舟 山の観 光 資 源は非 常に豊 富
数不胜 数,
“观 海景、钓海鱼、游佛国、
で、美しい風 景は数 知れず、「海の
玩 沙 滩、尝海 鲜”是岛上 旅 游的主
景 色を楽しみ、海の魚を釣り、仏の
要内容,游览美 景的同时也能 充分
国をゆっくりと歩き、砂 浜で遊び、
感受 海 鲜美食 文化。 舟山,正敞 开
海 鮮を味わう」のが、島の観 光の主
怀抱,
欢 迎每一位客人!
な内 容となっている。美しい風 景
を 見 ると 同 時 に 海 鮮 の 美 食 文 化
を十 分に堪 能できる。舟 山は心を
開 いて 1 人 1 人 の 客 を 歓 迎 してく
れる。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 29
印・象
中国的饮食生活
中国での食生 活
文・桑 原 美 智 子
自从 到中国留学以 来,我 发现了许多中日文化间的差异,
这其中又 尤以“吃”最能 彰显中国特色。日本也有很多人喜欢
中华料理,
中华料理店随处可见。炒饭、麻婆豆腐、饺子等,
都是
日本餐桌上可以 见到的菜色。接下来,我将为大家简单介 绍一
下留学生眼中地道的中国饮食生活。
中 国に留 学してから色々と日 中 文 化の差を発 見すること
が多いが、その中でも『食』に関して最も中 国らしさが顕 著
に表れている。日 本でも多くの人が中 華 料 理を好み、中 華 料
理 店は 至る 所で 見かけることができる。 チャーハンや 麻 婆
豆 腐、餃 子などは日 本の食 卓でも見られるメニューではない
だろうか。では本 場 中 国での食 生 活はどのようなものか留
学 生の目から見た様 子を少し紹 介したいと思う。
❶
大学校内就 餐 / 大学内の食事
比 起日本的 食 堂,中国的 食
也由咸到淡,各有不同。不仅 如此,
牛奶,因此 豆 浆在日本不太有名。
堂菜色多样、价格低廉。一顿饭花
我们还能直接看到窗口里大师傅
但中国人认 为豆浆有益身 体健 康,
不到 10 块钱(折合 2 0 0 日元)就
做 面条 的 样子,这也 是 在日本 很
所以在中国豆 浆饮品随 处可见 且
能吃饱。在食堂打饭时,首先要在
难 见到的景象。我最喜欢的是 刀
种类繁多。学 校 里的绝 大部分 食
喜欢的菜品所在的窗口前排队 点
削面,作为中国 代 表 性 的面食 之
堂都 有豆 浆出售,学生们 还能 喝
餐。当然,大受欢 迎的菜品窗口前
一,刀削面是山西传 统美食,其特
到食堂阿姨当场制作的鲜 榨豆浆。
经常会有很多人排队。买饭时,要
点在于面条虽宽,却软而不黏,越
豆浆略带甘甜、口味清爽,喜好甜
使用学生证 刷卡支付。
嚼越有滋味。刀削面的另一魅力
食的人们还可以 选 择在豆浆中加
在于,竟 然 只 要 4 块 钱(8 0 日元
糖。其价格从 2 . 5 元(5 0 日元)到
窗口,我 个人非常喜欢中国面食。
左右)就可以吃到,在日本几乎不
4 元(8 0 日元)不等,亦可每日更
说 起日本的面,可能也 就是拉面、
可能 这么便 宜 就 解 决 一餐,但在
换 来尝试 豆浆的不同口味。我最
乌冬面、荞麦面这 些 经典面食了,
中国却可以实现。
喜欢 黑 芝 麻 味 的豆 浆,几乎每天
大学里还有专门出售面条的
但中国 的面条 却 种 类 繁多,口味
30 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
另外,大多 数日本人喜欢 喝
都喝。
印・象
中国的大学食堂一瞥
中 国の大 学の食 堂 風 景
此外,食堂里还有专门卖水
棒!” 但我 们 也曾遭 受 过 文化不
果的窗口,要是吃完饭 后想 来点
同而带来的冲击。来 到中国后最
什么水果的话,立刻就能在食堂
初难 以 适 应的 生 活习惯 之一,便
里买到,这真是太难得了。例如,
是 中 国 和日本 的 就 餐 时 段 不 同。
夏 天 窗 口 就 会 放 有 许 多大 大 的
在中国,很多人会在 11 点到 12 点
西瓜,窗口阿姨会根 据学生的要
5 点 到 6 点左右吃 晚
左右吃午饭,
求切好。 日本的水果非常贵,就
饭。因此,食堂只在相应时段营业
算超市里有西瓜出售,也大多会
是常态,我初来 北 京时 还 没有调
因为价格太贵而舍不得买。但在
整 好肠胃生物 钟,常常会 遇 到去
中国,四分之一 个西瓜 只要 4 块
晚了菜品已经被全 部卖完的现 象。
钱(8 0 日元 左右)就能买到,所
而且要是 12 点左 右去食 堂的 话,
以不 知 不觉 地 在 夏 天 每 天 都 会
还会碰 到好多学生一齐涌向食堂,
吃西瓜。据 说,校 外市场里的西
非常难 找 座位,很 是 慌 乱。 即 便
瓜价格更便 宜。这样听来,大家
是 过了一年之 后,在食 堂 找 座 位
可 能 会 觉 得“ 中 国 的 食 堂 好
仍是件难事。
中 国の 食 堂は、 日 本の 食 堂よりメニューが 豊 富
様々である。窓 口の奥で料 理 人が麺を作っている様
で、 何よりとても 安い。 一 食 1 0 元 以 内( 日 本 円で
子を直に見ることができ、これもなかなか日 本で見
2 0 0 円 以 内)でたくさん食べることができてしまう。
られない 光 景である。 私が 一 番 好きなのは 刀 削 麺
食 堂でおかずを買うとき、まずは好きなおかずを売
で、中 国を代 表する麺 料 理の一つである。刀 削 麺は
っている窓 口の前に並び注 文する。もちろん人 気な
山 西 省の伝 統 的な食べ物で、麺に特 徴があり、とて
おかずを 取 り 扱っている 窓 口 前 には 多 くの 人 が 並
も太く、柔らかいのにねちっこくない。そして噛め
んでいる。おかずを購 入する際は学 生 証でカード払
いをする。
大 学 内に、 麺を 専 門に 扱っている 窓 口があるの
だが、 個 人 的には 中 国の 麺 料 理が 一 番のお 気に 入
りだ。日 本で麺といえば、ラーメンやうどん、そばと
いったところが定 番だろうが、中 国では麺の種 類が
豊 富 であり、 味 付 けも 濃 いものから 薄 いものまで
在 中 国 的 大 学 食 堂,能 从 窗 口 直 接 看 到 厨 师 制 作 面 条 的 样 子。
中 国の大 学の食 堂では、料 理 人が麺を作っている様 子を直に見ることができる。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 31
印・象
ば 噛むほど 味が 深まる。 刀 削 麺の 魅 力はそれだけ
でない。 なんとたった 4 元( 8 0 円ほど)で食べるこ
とができ、日 本でこんな安い値 段で一 食が済んでし
まうことはほぼありえないと 思 われるが 中 国 では
できるのだ。
また、日 本 人の多くは牛 乳を好むため、豆 乳はあ
まり 有 名でない。 しかし 中 国 人は 豆 乳が 健 康にい
いと考えているので、豆 乳の種 類も多く、いろいろ
な 場 所で 購 入が 出 来る。 学 内のほとんどの 食 堂で
豆 乳を売っている。学 生 達はその場でおばさんが作
った 出 来 立ての 豆 乳を 飲むことができる。 ほんの
大 学 食 堂 里 出 售 的 豆 浆 饮 品。
り甘く、さっぱりとした味で、甘いのが好きな人は
大 学の食 堂で売られている豆 乳 製 品。
豆 乳の中に砂 糖を加えることもできる。値 段は 2 .5
元( 5 0 円)から 4 元( 8 0 円)くらいであり、日 替わり
高く、 スーパーでたとえスイカが 売っていたとして
で 豆 乳の 味 試しをすることもできる。 私は 最も 好
も、高いためとても 買う 気になれないことが 多い。
きな黒 胡 麻 味の豆 乳をほぼ毎 日 飲んでいる。
し か し 中 国 で は 1 /4 サイズ の スイカ が 4 元 ほ ど で
その 他、 食 堂の 中に 果 物を 専 門に 扱っている 窓
( 8 0 円くらい)で買えてしまうため、ついつい夏は
口まであり、ご飯を食べ終わったあとに何か果 物が
毎 日スイカを 食べてしまう。 聞くところによれば、
欲しいな、と思えばすぐ食 堂 内で果 物が買えてしま
校 外のスーパーで 売っているスイカの 価 格はもっと
うのはとてもありがたい。たとえば夏は店に大きい
安いらしい。 こう 聞くと、『中 国の 食 堂って 素 晴ら
スイカがたくさん置かれており、おばさんが学 生の
しい !』と 思ってしまうかもしれないが、 カルチャ
要 求に合わせて切ってくれる。日 本では果 物は大 変
ーショックを受けたこともある。中 国に来てから最
初 慣れなかった生 活 習 慣の一つに、食 事の時 間 帯が
中 国と 日 本で 異なるという 点である。 中 国で 昼ご
飯は 1 1 時 頃から 1 2 時 頃、夜ご飯は 5 時 頃から 6 時
頃にかけて食べる人が多い。そのため食 堂はその時
間 帯だけしか 営 業していないので、 北 京に 来た 当
初の私は胃 時 計がまだ調 整されておらず、遅くに食
堂 へ 行 く と も う 何 も お か ず が 残って い な い と い う
ことが多々あった。また 1 2 時 頃に食 堂に行くと、多
くの 学 生 が 一 斉 に 食 堂 へ 押 しかけていてなかなか
席が見つからない! と慌てることもあった。一 年 経
ってもやはり食 堂での席 探しは一 苦 労である。
笔 者 最 喜 欢 的 刀 削 面。
筆 者が好きな刀 削 麺。
32 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
印・象
❷
大学校外就 餐 / 大学外での食事
要是说 起没课的周末怎么
上。不同的餐厅做出来的生煎包
过的 话,我一 般 都会 和 朋友在 大
味 道各异,而味 道 好的名店门前
学附近的餐厅吃饭。在此我想介
常常会排起长龙。
绍一下自己到了北 京 之 后才 吃 过
此外,大学附 近 还 有一家火
的那些既 好吃又带有中国特色的
锅 店,天 冷了之 后 我 就会 经常约
食物。
朋友去那里。吃火锅不仅会 让身
我喜欢 的 食 物之一,便 是 生
体变得暖暖的,而且 还能 吃 到很
生 煎 包/焼き小 龍 包
煎包。据说生煎包属于上海料理,
多蔬 菜,十分 健康,所以很多学生
是把面皮包住肉馅儿做 成的 包子
都会来吃。在中国,
人们经常吃牛
放在铁板 上蒸 烤而成的点心。个
羊肉,此外像胡萝卜、黄瓜 之类的
的麻 辣火锅。店里的服务员很亲
头比日本 的肉包要 小,刚 好 可以
蔬 菜也可以下锅。 底 料的种类也
切,
互相熟识了之后会比日本的店
一口一 个。 生煎包外皮恰 到好 处
很多,还可以自己选择辣度。日本
员 还 要友 好,吃饭 的 时候会 经常
的 脆 度和香 味 最 是 美味,而且吃
人 大多 吃不惯辛 辣 的 食 物,所以
问我们“好 吃 吗?够 不够?”。 而
的 时 候 会 从中 涌 出 满 满 的 肉 汁,
很多人都会 选 择不 辣的底 料。 不
且有时还会免费给 我们加菜。特
很有意思。我的吃法不太高明,还
过,来自四川等地 的中国 人特 别
别是 北 京的 涮 羊肉非常有名,所
曾经把里面的肉汁 溅 到过朋友身
喜 辣,我也见 过有人吃 通 红 通 红
以如果来北京的话一定要试一试。
火 锅 店/火 鍋の店
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 33
印・象
北 京 的 涮 羊 肉 火 锅。可 以 涮 各 种 蔬 菜 肉 品,营 养 丰 富。/北 京の涮 羊 肉の火 鍋。各 種 類の野 菜や肉も入れて食べるので、栄 養 豊 富。
で は 授 業 が な い 週 末 は ど う し て い る の か、と
いうと、大 学 付 近のレストランで友 達と食 事する
ことが 多い。 私が 北 京にきてから 食べたもので、
るが、美 味しい店の前にはよく長 蛇の列ができて
いる。
その他、大 学の近くに鍋 屋があり、寒くなると
美 味 しかった 中 国 らしい 食 べ 物 を 紹 介 したいと
よく友 達を誘ってこの店へ行く。中 国の所 謂 火 鍋
思う。
を食べると体が温かくなるだけでなく、野 菜もた
私が好きな食べ物の一つに、生 煎がある。生 煎
くさん食べられて大 変 健 康 的であるため、多くの
は上 海 料 理の一つだと言われており、挽き肉の具
を 小 麦 粉 の 皮 で 包 んだバオズ を 鉄 板 で 蒸 し 焼 き
にした点 心である。 日 本の肉まんよりは小さく、
ちょうど 一 口 で 食 べられるほどの 大 きさである。
なにより 外 の 皮 の 程 よい 硬 さと 香 ばしさが 美 味
しい。そして食べると中からジューシーな汁が出
てくるのも面 白い。食べ方が下 手な私は中の汁を
飛 ば し て し まって 友 達 の 服 に か け て し まった こ
ともある。店によって生 煎の出 来はまちまちであ
34 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
通 红 通 红 的 麻 辣 火 锅。/真っ赤に染まったマーラー火 鍋。
印・象
学 生が食べに来ている。中 国では牛 肉、羊の肉を
で鍋を食べている人も見かける。店 員も親 切で、
食べることが 多く、鍋の 中にニンジンやキュウリ
仲 良 く な る と 日 本 の 店 員 よ り フレンドリーで あ
といった野 菜も入れて食べる。だしの種 類も豊 富
り、ご飯を食べているときに「美 味しい? 量は足
で、辛さも自 分で選ぶことができる。日 本 人は一
りている?」といったことをよく話しかけてくれ
般 的に辛い物が苦 手であるため、辛くないだしを
る。そして時にはおまけで具を足してくれる時も
頼む人が多いが、四 川などの地 域から来た中 国 人
ある。 特に 北 京は 涮 羊 肉が 名 物なので 北 京へ 行
は辛い物が大 好きであり、真っ赤に染まっただし
った際はぜひ試してほしい。
❶
外卖 / デリバリー
为什么会 说 起 外卖呢,是因
机 应 用也不少,只 要 用这 些手 机
为中国的网上 购 物比日本发 达 许
应 用选 择餐厅菜品,配 送小哥就
在中国,美味 的 食 物 可以很
多。而关于“吃”也同样如此。肚
会将 其送 到房间。支付时还可选
便 宜 就 能买到,所以 最 近 我 天 天
子饿了却又 没时间去 外面吃饭的
择不同的方式,除现金外,刷卡或
都对着 体重秤 愁眉苦脸。体重秤
时候,又或者是 想在 屋 里吃饭 的
者用中国特有的“支付宝”进行支
的 指 针 偏 转了多 少,也 就 意 味 着
时候,只要 按一下手机,便可实现
付均可。另外,通 过手机应用还可
我的留学经历丰富了多少吧!
外卖点单。 现在很多人都 在使 用
以确认 外卖现在所在的位置和所
这一服务。此外,与外卖有关的手
需的送 达时间。这样的外卖非常
なぜデリバリーを取り上げたかといえば、中 国は
日 本 よりネット による 購 買 が 大 変 発 達 しているか
方便,
一旦习惯之后就会上瘾。
病みつきになってしまう。
中 国は 美 味しい 食べ 物が 安くで 手に 入ってしま
らである。これは『食』においても言えることである。
う た め、近 頃 は 体 重 計 と に ら めっこ す る 日々が 続
お腹 減ったけど外へ食べに行く時 間がないとき、部
いている。 体 重 計の 秤が 振れる 分、私の 留 学 経 験
屋 で 食 べたいときなどは 携 帯 操 作 一 つでデリバリ
もますます豊 富になっていくということだろう!
ーを頼むことができる。現 在 多くの人がこのサービ
スを利 用している。 デリバリーに 関するアプリケー
ションもたくさんあり、それらのアプリを 使ってレ
ストランとメニューを選ぶだけで、配 達のお兄さん
が 部 屋まで 届けてくれるのだ。 支 払 方 法も 現 金だ
好吃 !
ごちそうさま!
けでなくカード払い、中 国 特 有の『支 付 宝』による
支 払いなど種 類を選ぶことができる。またアプリを
通して今どこまで配 達されているのか、配 達にどれ
く ら い 時 間 が か か る の か 確 認 す る こ と も で き る。
この種のデリバリーは大 変 便 利で、慣れてしまうと
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漫歩神州
屯堡
明朝
的
居地
明朝の
風習が残る
隠とんの 地
文・希 子
在
贵州省安顺市西秀区及平坝县、镇宁
县一带,居 住着 2 0 余万特 殊的汉 族
群体 —— 屯堡人。一直以来,他们过着相对
封闭的生活,恪 守着世代传承的明朝文化习
俗。在 6 0 0 多年的继 承和演变中,独具特色
的“屯堡文化”逐渐形成。
之 所以在 少 数 民 族 杂 居 的 大山 深 处 保
留着 一片明 朝 遗 风 的 净土,是 源于明 初 的”
调北征南”事件。明朝开国皇帝朱元 璋在洪
武十四年(13 8 1 年)曾派 3 0 万大军进攻云
贵地区,
平定云南梁王叛乱,
消灭元朝残余势
力。朱元 璋由此意识 到西南地区稳定的重要
性,命 3 0 万大军就 地屯军,并将留戍者的家
人送到戍地。
这一屯,
屯 出了 6 0 0 多年后 的“明 代 历
史活化石”。当时,军队驻防地 称为“屯”
,移
民居 住地 称为“堡”
,是 为“屯堡”
,这 些人的
后裔就是“屯堡人”。所以,
“屯堡”并不是 某
个 地方的地名,而是当时军队驻扎 地及移民
居 住 地 的 统 称。今 天,
仅 安 顺一地 就有大 大
小小 3 0 0 多个屯堡村寨,其中屯堡文化保存
较完整且开发较 好的旅 游点主要有四个 :九
溪村、本寨、云山屯、天龙镇。
36 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
2
中 国 ぶ らり 旅
貴
州 省 安 順 市 西 秀 区および 平 壩 県、
鎮 寧 県の一 帯に、2 0 万 人 余りの特
殊な 漢 族の 集 団が 居 住している。 それが
屯 堡 人だ。 彼らは 古くより 閉 鎖 的な 生 活
を送り、先 祖 代々伝えられてきた明 朝の文
化、風 習を守り続けてきた。そして、6 0 0 年
余りにおよぶ伝 承と変 遷の中で、独 自の特
色を持つ「屯 堡 文 化」が次 第に形 成されて
いった。
少 数 民 族が 雑 居する 山 深いこの 地に 明
朝の 風 習が 伝わる 浄 土が 残っているのは、
明 朝 初 期の「調 北 征 南 事 件」に由 来してい
る。明 の 初 代 皇 帝、朱 元 璋 は 洪 武 1 4 年
( 1 3 8 1 年)に 3 0 万の大 軍を雲 南 貴 州 地 区
に派 兵し、雲 南の梁 王の反 乱を鎮 圧。元 朝
の 残 余 勢 力を 一 掃したのだった。 朱 元 璋
はこのことから 西 南 地 区の 安 定の 重 要 性
を 認 識 す る よ う に な り、3 0 万 の 大 軍 に そ
のまま駐 屯するよう命じ、軍 人の家 族もこ
の地に移り住ませた。
この駐 屯 地が 6 0 0 年 余を経て、
「明 代の
生きた化 石」となった。当 時は軍 隊の駐 屯
地を「屯」と呼び、移 民の居 住 地を「堡」と呼
んでいたので、合わせて「屯 堡」と呼ばれる
1
4
ようになった。彼らの末 裔が「屯 堡 人」だ。
「屯 堡」はもともとある 地 方の 名 前ではな
く、 当 時の 軍 隊の 駐 屯 地と 移 民の 居 住 地
の総 称だったのである。今 日、安 順の一 帯
には大 小 3 0 0 を超える屯 堡の村があり、そ
の 中 で 屯 堡 文 化 が 比 較 的 良 好 に 残ってい
る 主な 観 光 地は 4 つある。 それは 九 渓 村、
本 寨、雲 山 屯、天 龍 鎮だ。
1、4 . 贵 州 安 顺 的 风 景。
2、3 . 贵 州 安 顺 天 台 山 五 龙 寺 院 殿 内。
3 4
1、
4. 貴 州 安 順の風 景
2、3 . 貴 州 安 順 天 台 山 五 龍 寺 院 殿 内。
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漫歩神州
屯
堡文化既打上了明朝时期
江南文化的印记,又留存
着军屯 文化的 传 统,同时 还 有其
独 立发 展出的特点。这 些在屯堡
最具 特 色的服饰、建 筑 和民间戏
曲“地戏”中都有体现。
屯
堡 文 化は明 朝 時 代の江
南 文 化 の 痕 跡 をとどめ
つつ、軍 駐 屯 文 化の伝 統を持ち、
さらに 同 時 に 独 自 の 発 展 を 遂
げた部 分も見 受けられる。これ
5
らの屯 堡の特 徴は服 飾、建 築と
民 間の 伝 統 劇である「 地 劇」 に
表れている。
屯 堡特 色 . 1
服
屯 堡 の 特 徴 的 な服 装
进 入屯堡,你会发现街上来 来往往的
妇女皆着一身及 膝的右开襟 长袍,以 宝蓝
色为主,也有青色、黄色、紫色等,宽衣大袖,
杂色镶 边;腰间系着丝绸 腰带,身后 结坠,
色彩斑 斓;头上包着帕子,或青或白,帕子
上再 覆 色 彩 迥 异 的 头巾, 这 就 是 所 谓 的
“凤阳汉装”。衣装类古,鞋 却反古。古时女
人以“三寸金莲”为美,屯堡女人却大反礼
俗,任其自然,她们日常穿着的是用绣、补、
镂、镶、滚等方法制作的高帮单勾凤头布鞋。
传 说 朱元 璋的那位以“大 脚”闻名的马皇
后就穿过 这种“尖头绣花 鞋”
,屯堡人由此
代代仿效 延续至今。
38 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
6
7
中 国 ぶ らり 旅
8
9
10
5 . 贵 州 安 顺 的 屯 堡 村 雷 屯。
6、7 . 贵 州 平 坝 县 天 龙 屯 堡。
8 . 贵 州 安 顺 云 峰 屯 堡 本 寨 村。
9 . 屯 堡 女 性 穿 着 的 凤 头 布 鞋。
10 . 穿 着“凤 阳 汉 装”
的 屯 堡 女 性。
5. 貴 州 安 順の屯 堡 村 雷 屯。
6、7 . 貴 州 平 壩 県 天 龍 屯 堡。
8. 貴 州 安 順の雲 峰 屯 堡 村 本 寨。
9. 屯 堡の女 性が履く「鳳 頭 靴」。
10「鳳
.
陽 漢 服」を着ている屯 堡の女 性。
屯 堡に入ると、ひざまで届く右 開
のだが、靴はそうではない。 昔の女
きの 長 衣 を 身 に 着 けた 女 性 が 街 を
性は、
「纏 足(てんそく)」が美しいと
行き来する姿が目に入る。長 衣は主
されていた。屯 堡の女 性はその儀 礼
にサファイアブルーで、紺、黄、紫の
に 反している。 日 常 履いている「 鳳
ものもある。袖はゆったりとして襟
頭 靴」は靴の先から両 側の縁を色 糸
元 には 色 とりどりの 飾 りが 縫 い 付
刺 繍し、二 層の白 布を合わせて靴の
けられている。腰には色 鮮やかなシ
両 側を作ったものだ。朱 元 璋の最 初
ルクの帯を締め、結んだ腰 帯を後ろ
の 妻で「 大 足」として 知られた 馬 皇
から垂らす。頭は白または青のハン
后 がその 形 の 靴 を 履 いていたとさ
カチ状の 布で 包み、さらに 色とりど
れ、屯 堡の女 性はその時 代から今 日
りのスカーフで 覆う。 これがいわゆ
に至るまで代々その靴を履き続けて
る「鳳 陽 漢 装」だ。服 装は伝 統 的なも
いる。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 39
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屯 堡特 色 . 2
建筑
軍 事 的 な色 彩 の強 い建 築
屯堡人大多来自江南,因此他们所造
的民居自然带有江南建 筑的特点。屯堡民
居一般为四合院,在布局上与江南、华东的
四合院类似,
分朝门、正房、厢房。朝门呈大
“八”字形,门头上 雕有垂花柱或面具等装
饰品;正房高大雄伟,木制窗棂和门簪刻着
许多象征吉祥如意的图案;厢房 依 正 房两
11
边而建,前面为倒座,形成四合。注重在建
筑体上 雕 镌 装 饰 是屯 堡 延 续 江 南 建 筑 风
格的一个重要标志。
同时屯堡又是军屯之地,因此其建 筑
带有强烈的军事色彩。云贵高原一带多山
石,岩石以 沉 积岩为主,薄厚多样,硬 度 适
中,加之考虑到军事防御之需,屯堡人抛弃
了江 南 建 筑 惯 用的 木 料 转 而 选 择 坚 硬 阻
燃的石头为主要建 筑材 料。 在屯堡,一户
民宅就是一座石头堡垒,一 个村庄 就 是一
座石头城。 登高远 望,屯堡村寨就 是一片
错落有致的白色。
屯 堡 建 筑 的 军 事色 彩 还 体 现 在 另一
12
点:村寨内部 纵横 相连 又 直 通寨中的巷子
体系。屯堡村寨通常都有一条主巷 道和多
条支巷道,支巷将各家各户连成片,形成城
堡式结构;各支巷只有一个口通往主巷道,
这样敌 人来 袭时容 易形成“关门打狗”之
势。紧挨 巷子的墙体,窗户都很小,生活时
用于采光,战争时又能用作枪眼;低矮的石
门,有“一夫当关,万夫莫开”的功能。屯堡
村寨通过石头民居和主巷支巷的相连形成
了“点、线、面”结合的军事防御体系。这一
切无不显示了当时战争所需的建 筑构式 和
屯军备武的思想。至今屯堡村寨中还 残存
着许多垛口、炮台。
40 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
13
中 国 ぶ らり 旅
1 1 . 贵 州 安 顺 天 台 山 五 龙 寺 山 下 的 农 家 小 院。
1 2 . 贵 州 安 顺 天 台 山 五 龙 寺 院。
1 3 . 村 寨 内 部 纵 横 相 连 又 直 通 寨 中 的 巷 子 体 系。
14. 屯堡人抛弃了江南建筑惯用的木料转而选择
坚 石 头 为 主 要 建 筑 材 料。
1 5 . 江 南 建 筑、重 庆 龙 兴 古 镇 街 坊。
1 1. 貴 州 安 順の天 台 山 五 龍 寺 麓にある農 家の庭。
1 2 . 貴 州 安 順 天 台 山 五 龍 寺 院 殿。
1 3 . 村の中に縦 横に走る路 地。
14 . 屯 堡 人は江 南 建 築で常 用される木 材を捨て、
石を建 築 材 料に選んだ。
1 5 . 江 南 建 築、重 慶の龍 興 古 鎮の街。
14
屯 堡 人 の 多 くは 江 南 から 来 たた
のに適している。軍 事 的な必 要 性か
ない」という 防 御の 機 能を 持ってい
め、彼らが建てた家もおのずから江
ら、屯 堡 人は江 南 建 築で常 用される
る。屯 堡 村は石の家と大 小の路 地が
南 建 築 の 特 徴 を 持 つことになった。
木 材を捨て、硬く燃えにくい石を建
つながり、「点、線、面」 が結 合した
屯 堡の家は一 般に中 庭を囲む 4 つの
築 材 料に選んだ。屯 堡では 1 戸の家
軍 事 防 御 システム を 構 築 している。
棟から成る「四 合 院」で、江 南、華 東
は 1 つの砦であり、1 つの村は 1 つの
これらは 当 時 の 戦 争 がもたらした
の四 合 院の構 造に似ており、門と母
石の城だ。高い所から遠くを見 渡す
建 築 様 式と駐 屯 軍の戦 争 準 備の思
屋である正 房、廂 房に分かれている。
と、屯 堡の村はふぞろいな白で彩ら
想をはっきりと示している。現 在の
門 は 大 きい 八 の 字 の 形 をしていて、
れている。
屯 堡 にも 城 壁 の 凹 状 部 分 や 砲 台 が
門の上は垂 花 柱が施され、仮 面など
屯 堡 建 築に 存 在する 軍 事 的 色 彩
の彫 刻で飾られている。正 房は高く
がもう 1 つある。村の中に縦 横に走
大きく堂々としている。木で作られ
る路 地である。屯 堡 村の道は通 常、1
た窓の格 子と門には、縁 起のいい模
本の主 要な道 路と、そこから分かれ
様が彫られている。廂 房は正 房の両
た無 数の小さな路 地から成る。小さ
側 に あ り、 前 に は 逆 向 き の 棟 が あ
な路 地はそれぞれの家をつなぎ、城
る。これらの棟が中 庭を囲み四 合を
の様な構 造となっている。小さな路
形 成している。建 物の装 飾 彫 刻を重
地は主 要な道 路と 1 点でのみ繋がっ
んじるのは、屯 堡が江 南 建 築の様 式
ており、 敵が 襲ってきたときに、 路
を 引 き 継 いでいることの 重 要 な 証
地 に 追 い 込 み「 袋 のねずみ 」にする
しだ。
ことができるようになっている。 路
屯 堡は軍の駐 屯 地であり、その建
地の脇の壁には小さな窓があり、通
築には軍 事 的 色 彩も強い。雲 南 貴 州
常 の 生 活 では 明 かり 取 りの 役 目 を
高 原 一 帯は山の石が多く、その石は
果たし、戦 時には銃を突き出す窓の
堆 積 岩が主 体となっている。厚さは
役 目を果たす。低い石 門は、「 1 人で
さまざまで、硬さは建 築に利 用する
も閉められるが、万 人でも開けられ
数 多く残っている。
15
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漫歩神州
屯 堡特 色 . 3
地
屯 堡 の特 徴 的 な地 劇
最能体现屯堡作为“历史活化石”的
就 是当地的民间戏曲 —— 地 戏。
“跳 神戏
之举,
借以演习武事,
不使生疏。
”由此可知
屯堡地 戏曾有寓兵于农 之初衷。 同时,地
戏 还 与 明 嘉 靖 年 间 徽 州 一 带 的“假 面 之
戏”一脉 相承。 屯堡人 演 武 增威的需要、
怀乡恋土的情 愫及神灵护佑的期盼,将这
一千年古礼传承至今。
地戏的演出地点不 在戏台,村中空坝、
平整田土、就 地围场 都能出演。演出目的
多种多样,可能为了祈求辛苦劳作的好收
成,也可能为了祭祀和缅怀 祖先,还可能为
了欢庆丰收、祈祷平安康乐等。
地戏的主要表演形式是“唱”和“舞”。
“唱”无乐器伴 奏,不分行当,有男女角色
却无男女声腔,由角色边说 边唱边 交待剧
情;
“舞”实为“打”
,表现战斗场面的对打
格斗。一 个地 戏 剧本就是一部书,就是一
个完整的征战故事,讲述的是南征 之军所
熟悉的军旅 生活,表 现的人物有脍炙 人口
势渗 透 到这 里,冲击着 传 统的一切。年 轻
的杨家将、岳家将、三国英雄、封神将军等。
一代的屯堡人,渐渐换上了时髦的服装,住
如今,屯堡的许多村寨已不像过去那
着两层的小 楼 房,听 音乐看电 影。 有人 为
样与世隔 绝,现代 文明也在以 无孔不入 之
此惋惜。但我想,保 护文明不等于固守 传
统。最重要的是 文物被保存,文化被传承,
历史被记录,文明就能 延 续。我们不应该
安顺市交通/ 安順へ の交通
也不可能以捍卫古老文明的名义阻止当地
人 追求更 好的物质生活和精神享受,正 如
安 顺 市 地 处 贵 州 省 的 中 心 位 置,交 通 便 利。安
顺 黄 果 树 机 场 距 市 中 心 六 公 里,目 前 已 开 通 了 与
北 京、青 岛、昆 明、重 庆、济 南、广 州 等 地 的 直 航 航 线。
安 順 市は貴 州 省の中 心に位 置し、交 通の便が良い。
安 順 黄 果 樹 空 港は市の中 心 部から 6 K Mの距 離に
ある。現 在、北 京、青 島、昆 明、重 慶、済 南や広 州など
都 市との直 行 便がある。
人类并没有因为要保护起源 文明而让自己
过着衣不蔽 体、食不果 腹、钻木 取 火的生
活。世界 在变,屯堡人的生活也会变;而那
些理 应的“不变”则需要政 府 和民间的共
同努力,以让 未 来的屯堡“明朝军 魂仍在,
石头古堡犹存”
。
42 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
中 国 ぶ らり 旅
屯 堡の「歴 史の 生きた 化 石」とし
行のファッションに 身を 包むように
ての 特 徴 を 最 も 色 濃 く 表 現 してい
なり、2 階 建ての小さな建 物に住み、
る の は、当 地 の 民 間 地 方 劇 で あ る
音 楽を聴き映 画を見る。こうしたこ
「 地 劇」だ。
「 地 劇の 跳 神の 訓 練を 通
とを残 念がる人もいる。しかし、私
じて軍 事 訓 練をし、腕がなまらない
は 文 明 を 守 ることは 伝 統 を 固 守 す
ようにする」ことから、屯 堡の 地 劇
ることではなく、重 要なのは文 物の
が 平 時 は 農 業 を 行 い 戦 時 には 出 征
保 存、文 化の伝 承、歴 史の記 録であ
するためにあったことがわかる。 ま
り、文 明が引き継がれることだと思
た地 劇は明 朝の嘉 靖 年 間の安 徽 省
う。私たちは古い文 明を守るという
一 帯 の「 お 面 の 劇 」の 流 れを 汲 むも
名 目で、当 地の人がよりよい物 質 生
のでもある。武 勇の高 揚、故 郷への
活 と 精 神 を 享 受 することを 妨 げる
思い、神の加 護への期 待、屯 堡 人は
べきではない。人 類が文 明の起 源を
そ れ ら を 千 年 に わ たって 連 綿 と 伝
守るためだからといって、ぼろぼろ
えてきた。
の 衣 類を 身にまとい、腹いっぱい 食
地 劇 を 演 じる 場 所 は 舞 台 ではな
べることもせず、木 片を木の棒でこ
く、村の空き地や田んぼ、ちょっとし
すって火をおこす生 活を続けないの
た 囲いの 中だ。 演 目は 多 種 多 様で、
と 同じことだ。 世 界は 変 化を 続け、
苦しい労 働の好 成 果を祈り、先 祖を
屯 堡 人の生 活も変わっていくに違い
祀り追 想し、豊 作を祝い、平 安を祈
ない。
「不 変」であるべきものは政 府
願したのだろう。
と民 間の力で共に守り、未 来の屯 堡
地 劇 の 主 な 上 演 形 式 は「 歌 」と
も「明 朝の軍の魂は依 然として残り、
「 舞」だ。「 歌」には 楽 器の 伴 奏がな
石 の 古 い 駐 屯 地 はいまだ 存 在 して
く、役 柄を分けず、男 女の配 役はあ
いる」という 地にすることができる
るが男 女の節 回しの別はなく、話し
のであろう。
ながら歌い劇の筋を伝える。
「舞」は
実 際には「戦い」で、戦 闘の場 面と格
闘 を 表 現 する。1 つの 地 劇 の 台 本 は
1 冊の本で、1 つの戦 記になっている。
語られる内 容は、南 征 軍の旅の生 活
で、 人 物は 広く 人々に 知れわたった
張 家 将、岳 家 将、三 国 英 雄、封 神 将
軍などだ。
現 在では、屯 堡の多くの村は、か
つてのように 世 の 中 から 隔 絶 され
てはいない。現 代 文 明は多かれ少な
かれ入って来るし、この地の伝 統を
脅かす。屯 堡 人の若 者は、次 第に流
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 43
文化博览
白族
在中国的西南边 疆,有这样一 个地方:西边苍山十九 峰,雄伟磅
礴,山顶 积雪,云横 腰间;东边 洱海二百里,碧水波光,春风 鼓帆,渔歌
荡漾。这 就是云南省大理白族自治州首府大理市的所在地,中国少数
民族之一的白族人民大部分都世代生活在这仙境 般的苍山洱海之间。
苍 山 之 下,
洱海之畔的
少数民族
中 国 西 南の辺 境に、西 側は蒼 山 十 九 峰が威 武 荘 厳にそびえ立
ち、山 頂には雪が降り積もり、雲が山々の合 間を覆い、東 側は洱 海
が二 百 里ほど広がり、碧い湖 水の波が光を放ち、春 風にはためく帆、
漁 師たちの歌 声 響く場 所がある。 ここは雲 南 省 大 理 白 族 自 治 州
の 州 都 大 理 市。 中 国 少 数 民 族の 一つである 白 族の 人々の 大 部 分
はこの秘 境のような蒼 山と洱 海の中で代々暮らしてきた。
蒼 山 の下、 洱 海
湖 畔 の少 数 民 族
【 白 族 DATA 】
白族具有悠久的历史和丰富的文化,除
了大理白族自治州之外,白族 在周边的丽江、
南华、昆明等市县及贵州、四川、湖南等地也
有分布。白族的民族语言白语属汉 藏语系的
藏缅语族。据 2 0 10 年全国第六次人口普查
文・O U E I
数据,
白族人口约 19 3 . 3 5 万。
白 族は悠 久の歴 史と豊かな文 化を有し、
大 理 白 族 自 治 州のほかに、周 辺の麗 江、南
華、昆 明などの県や市、そして貴 州、四 川、
湖 南 省などの 地にも 分 布している。 白 族
の民 族 言 語である白 語は、漢チベット語 系
のチベット・ビルマ語 族である。2 0 1 0 年の
全 国 第 六 次 人 口 統 計データによると、 白
族の人 口は約 1 9 3.3 5 万である。
44 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
中国文化 博 覧
花团锦簇的大理人家
白
族 是一个爱花的民族,俗话 说
各种 花 朵吹 入 溪中,万紫千 红 流 进 洱
花节”。这 天,家家户户都 把自己盆栽
“大理 三千户,户户养 花”。 大
海。在白雪耀眼的苍山下,在碧波万顷
的 花 卉 摆 在门口, 搭 成一座 座 小“花
理的气候 温暖湿润,四季如春,土质肥
的洱海边,千树万丛山花起舞,这不正
山”。
“山顶”是“花王”山茶,山脚如百
美,适 宜花木生长。
“云南茶花甲天下”
,
是大理风光最引人注目的色彩吗?
花朝拜。人们穿上节日盛装,万人空巷
仅 大理 就拥有 4 0 多个品种,早 桃 红、
苍山能看到漫山遍 野的木 本花
地 来 赶民 族“花街”
,香风 满 街,芳气
松子壳、牡丹茶、紫袍、玛瑙、恨天高等,
杜 鹃,同为杜 鹃 花属的马缨 花树干盘
袭 人。 不 独 大理古 城 飘香,附 近 村寨
千姿百态,
妙趣横生。
虬,绣 球似的花 簇 缀 满 枝 头。白族 有
也遍植花草,庭院的照壁或篱墙后,总
大 理 古 城 旁 的 苍 山,又名“点 苍
个民间故事,传 说百花在苍山竞 选花
爱伸出绿叶 红花的笑靥,繁花似锦,四
海拔 4200
山”。苍山绵延 5 0 多公里,
王 之日,马缨 花 过分自恃 无花与之相
季皆然。因此,大理的白族民歌中总有
多米,山顶白雪皑皑,经 夏不化,山腰
比,傲慢地姗姗来迟,结果花王被山茶
许 多以花名编 成 的 调 子,比 如《数 花
是 温带,峡 谷是热带,立体气候使花卉
花当选。从此,她 羞于见人,只 好躲入
名》、
《百花曲》等。
丰富多 彩,原 始森林郁 郁 葱 葱。 苍山
苍山深处。
十八 溪中有一条叫“万 花 溪”
,山风将
每年农历 2 月 14 日是白族的“朝
彩 豊 か な大 理 の人 家
白
族は花を愛する民 族であり、俗に「大 理 三 千 戸、戸
樹 木が立ち並び、山 花が舞い落ちる様 子は、まさに大 理の
戸 花を養う」と言われる。大 理の気 候は温 暖 湿 潤
風 光 明 媚で最も人々が注 目する色 合いではないだろうか。
で四 季もあり、春は土 壌が肥え、花 木が成 長するのに適し
蒼 山では 野 山いっぱいのツツジが 咲き 誇り、また 同じ
ている。
「雲 南の茶 花は天 下 一」と言われるように、大 理
ツツジ科に属する馬 纓 花(シャクナゲの一 種)の幹がくね
だけでも 4 0 以 上もの茶 種があり、早 桃 紅(ツバキの一 種)、
くねと折れ曲がり、繡 球(祝い事などで使う球 状の飾り)
松 子 殻、牡 丹 茶、紫 紅 袍、瑪 瑙、恨 天 高など、千 姿 百 態でと
に似た花 房が枝もたわわに実っている。白 族の民 間 伝 承
ても味わい深い。
に、蒼 山の 百 花が 蒼 山の 花 王を 決めるために 競い 合って
大 理の古 都の傍にある蒼 山は、またの名を「点 蒼 山」と
い う。蒼 山 山 脈 は 5 0 キ ロ 以 上 も 連 綿 と 連 な り、海 抜
4 2 0 0 メートル余り、山 頂には白 雪が降り積もり、夏にな
っても解けないが、山の中 腹までいくと温 帯で、峡 谷では
熱 帯に属する。 こうした 立 体 的な 気 候(高 低 差が 大きい
気 候)がこの地の草 木、花々を豊 富 多 彩なものにし、原 生
林を鬱 蒼と生い茂らせる。蒼 山 十 八 渓の中に「万 花 溪」と
呼ばれる渓 谷があり、山 風が各 種の花びらを渓 流に吹き
込み、万 紫 千 紅となって洱 海に流れ込む。白 雪が眩しい蒼
山のふもとの、湖 水 面が碧く波うつ洱 海の畔には、数 千の
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文化博览
いる時に、馬 纓 花は自らが無 比の美しさを誇り、思いあが
裾」は百 花 繚 乱である。人々はみな華やかに着 飾り、民 族
っていたため 遅れてしまった、 結 果として 花 王には 山 茶
の「花 街」へと向かい、街じゅうが花の香りで溢れ、人々を
花(サザンカ)が選ばれてしまったというお 話がある。 こ
魅 了する。 花々の 香りにつつまれるのは 大 理の 街ばかり
のことを恥じた馬 纓 花は会わせる顔がないとして、蒼 山
でない。附 近の村 落でもたくさん植えられた草 花は庭の
奥 深くにこもってしまったという。
壁や生 垣の後ろにまで緑の葉や赤い花びらをほころばせ、
毎 年 旧 暦の 2 月 1 4 日は白 族の「朝 花 節」である。この
花々の 繁みは 錦のようで、一 年 中 四 季 折々を 通じてこの
日、家々は自らの花の咲いた盆 栽を玄 関 先に並べ、小さな
様 子である。したがって、大 理の白 族の民 謡の中には「数
「花 山」を築くのである。
「山 頂」には「花 王」の 山 茶 花、
「山
花 名」や「百 花 曲」など花を題 材にした曲が多 数 存 在する。
感 悟 人 生 的“ 三 道 茶”
云
南与 茶 有着 太 深 的 渊 源,这
叶烤黄发出香味后,注入少量沸水,等
甜”的哲理。仍用同样的方式煮茶,只
里不仅 是 茶 树 的 发 源 地,也
泡 沫 消失 后用火 煨 片刻,当茶水呈 琥
不过 将 茶盅 里的原 料 换 成 少 许 蜂蜜、
是茶马古道的发 源地。云南人爱喝 茶,
珀色时 倒入茶盅,再双手 举盅 献与客
炒 米花、花椒等,茶容量通常为六七分
聚集在云南的少 数民族也都用各自不
人。由于这种茶经 烘 烤、煮沸而成,因
满。这杯茶,喝起来甜、酸、苦、辣,各味
同的方式在爱茶、品茶。 大理的 苍山
此看上去色如琥 珀,闻起来焦香扑鼻,
俱全,
回味无穷。
洱海间,好客的白族 人常以“三 道 茶”
喝下去滋味苦涩,
故谓之“苦茶”
。
茶道 既是饮茶的艺术,也是 生活
招待 贵宾,
“一苦、二甜、三回味”的茶
第二道 茶谓之“甜茶”
,象征 生活
的艺术,更是 人 生的艺术。三 道 茶 寄
道早 在明朝时 就已成了白家待 客交友
应当先苦后甜才有意义。再次 用小砂
寓的人 生哲 理,也代 表了三种人 生境
的一种礼仪。
罐 置茶、烤茶、煮茶,在茶盅内放 入白
界。 现在,
“三 道 茶”已成为白族民间
糖、核桃仁、芝 麻面等,待煮 好的茶汤
婚庆、节庆、待客的茶礼,
“三 道 茶”歌
倾入八分满为止。
舞表演也成了大理 旅游的保留节目。
第一道 茶谓之“清苦之茶”
,喻人
生应当吃苦耐劳方能有所作为。先将
水烧开,将小砂 罐置于文火上烘 烤,再
第三 道 茶谓之“回味 茶”
,它告 诫
把茶叶放 入 烤热的砂 罐中焙 烤,待 茶
人们,凡事要多“回味”
,切记“先苦后
人 生の「三 道 茶(三 杯 茶)」に 感 悟 する
雲
南とお茶の間には深 遠なつながりがあり、この地
目は後 味を楽しむ」という茶 道で、明 朝 期にすでに始まり、
はお茶の原 産 地であるばかりでなく、古 茶 道の発
白 族のおもてなしの礼 儀である。
祥 地でもある。雲 南 人は好んでお茶を飲むが、雲 南に住む
一 杯 目の茶は、「清 苦の茶」といい、人 生は艱 難 辛 苦を
少 数 民 族はみな各々が異なる作 法でお茶を飲み、品 評を
乗り越えてこそはじめて成し遂げられることを喩えてい
行うのである。 大 理の 蒼 山 洱 海では、客をもてなすのが
る。小さな甕を囲 炉 裏などで温め、熱くなったらそこに茶
好きな白 族の人々はいつも「三 道 茶」の作 法で招 待したお
葉を入れ、茶 葉が黄 色く香ばしくなるまで炒る。そこに少
茶を客に振る舞う。
「一 杯 目は苦く、二 杯 目は甘く、三 杯
量の 沸 騰したお 湯を 注ぐ。 泡が 消えるのを 待ってしばら
46 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
中国文化 博 覧
白 族 人 家 正 在 晾 晒 的 茶 饼。
白族 人が餅 茶を乾燥させている。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 47
文化博览
くのあいだ 火で 燻し、お 茶の 水が 琥 珀 色になったら 急 須
に入れ、両 手でもって客の杯に注ぐ。このようなやり方で
茶 葉を炙り煮 詰めて抽 出することで、きれいな琥 珀 色を
した見た目、香ばしい匂い、飲めば苦 味のあるお茶となり、
「苦 茶」と呼ばれているのである。
二 杯 目のお茶は「甜 茶」といい、生 活は苦を乗り越えて
からの甘みこそ意 義があるということの象 徴である。こ
れもまず甕に茶 葉をいれて 燻ったあと 煮 出す。 湯 呑みに
は白 糖、クルミ、黒ゴマ麺などをいれて準 備し、煮 出した
お茶を八 分 目まで入れる。
三 杯 目のお茶は「回 味 茶」と呼ばれる。これは何 事も「回
味( あじわうこと)」が肝 要で、「先に苦み、後から甘み」と
茶 道とは喫 茶の芸 術であり、生 活の芸 術でもあり、さ
いう哲 学を心に刻みつけることを意 味している。一 杯 目
らにいえば人 生の芸 術でもある。この三 道 茶は人 生 哲 学
と二 杯 目と同じようにお茶を煮 出すが、ただし湯 呑みに
を諭し、また人 生における三 段 階の境 界をも示している。
は蜂 蜜を少々、ポンポン菓 子、山 椒などを入れ、通 常は六・
現 在、
「三 道 茶」はすでに白 族の民 間の婚 礼、祝 賀 行 事、お
七 分 目まで入れる。このお茶は、甘み、酸 味、苦 味、辛 味な
もてなしの茶 道となっており、
「三 道 茶」のパフォーマンス
どの 様々な 味が 入り 混じっており 豊かな 後 味が 楽しめる
は大 理 旅 行の目 玉でもある。
のだ。
白族独有的本主崇拜
“本
主 崇 拜” 是白族 独 有的
是多神崇 拜,各村 寨的本主 庙内都
一种宗教信仰,它不同于
塑有自己的本主神,
也有几个村寨甚
单纯的祖 先崇拜。
“本主”是白族 人
至几十 个村寨共同信奉一 个本主的
民的村社保护神,是掌管本地区、本
情况。本主司管的对象不尽 相同,有
村寨居民的生死祸 福之神。白族 村
管“阴间”和人间大小事务的,有管
寨几乎 都 建 有本主 庙,庙内供 奉泥
“阴间”兵的,有管人间疾病的,有管
塑或木雕的本主神像。
一 般 认 为,本主 崇 拜源于原 始
牲畜的等。
白族 的 本主 崇 拜 有 两 个 特点,
社会的社神崇拜和农耕 祭祀。它在
一是以本主 为中心 的多神崇 拜,本
南诏时 期即已形成,并且是南诏、大
主 庙以本主 为主要 崇 拜对 象,其他
理国时 期白族的一种重要的宗教信
配神为次要崇 拜对 象,各 个 配神 有
仰。以后历经数百年发展,本主数量
其 独有的宗 教 功能,如子 孙娘 娘 送
不断 增多,文化内涵越发丰富,才形
子嗣,财神管发 财致富,龙王司雨等,
成 如今的本主崇拜 格局。本主崇拜
他们的神力是 对本主神力的有效补
朝 奉 和 迎 送 本 主 时,全 村 男 女 老 幼 皆 身 穿 节 日 盛 装。
本主の朝奉や送り迎 えの時、全村の老若男女が盛裝する。
48 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
中国文化 博 覧
充;二是本主的对 象选择,可能是白
族 人的祖 先,也可能 是 对 族 人做 过
好事、促 进本族 社会 经 济文化 发 展
的人物,或是 道 德情操 受到 族 人敬
仰的人物。
朝奉和迎 送本主时,全村男女
老幼皆身穿节日盛装,杀猪宰鸡,舞
龙耍 狮,烧香焚 纸,燃 放 鞭 炮,尽情
献祭,以求本主祛鬼驱邪、消灾解难,
保 佑人们平安吉祥、风调雨顺、五谷
丰登、六畜兴旺。本主崇拜与白族社
会 的 各方面紧密相 连,深 深 扎根于
白族 人民的思想意 识,形成了独 具
一格、丰富多彩的本主文化。
云 南 省 大 理 市 洱 海 东 岸 挖 色 白 族 村 本 主 庙。
雲南省大理市洱海東岸挖色白族村の本主廟。
白 族 特 有 の「 本 主 」崇 拜
「本
主 崇 拜」は白 族 特 有の宗 教 信 仰だが、単 純な祖
白 族の本 主 崇 拜は2つの特 徴がある。1つは本 主を中
先 崇 拜とは異なる。
「本 主」とは、白 族 人 民の村
心とした多 神 崇 拜で、本 主 廟では本 主を主 要な崇 拜 対 象
社 保 護 神であり、現 地の村 民の生 死 禍 福を司る神である。
としており、その他の配 神は 2 番 手の崇 拜 対 象である。と
白 族 村 落はほとんどが「本 主 廟」を建 立しており、廟 内に
はいえ、各 配 神はご利 益が異なり、子 孫 繁 栄の神、財 運の
は土 製や木 彫りの本 主 神 像が祀ってある。
神、雨を司る龍 王などがある、彼らの神 通 力は本 主 神 通
一 般 的に、 本 主 崇 拜は 原 始 社 会の 社 神 崇 拜と 農 耕 祭
力を補 充している。2つ目は、本 主の対 象となるものの選
祀を起 源に持っていると考えられている。南 詔 時 期には
考 基 準である。白 族 人の祖 先の場 合もあれば、白 族に良
形 成され、南 詔、大 理 国の時 期にはすでに白 族の一 種の
いことをしてくれた人や、白 族 社 会 経 済 文 化の発 展を促
重 要な宗 教 信 仰となっていた。以 後、数 百 年の発 展を重
した人、道 徳 的に優れた人 格のために白 族の尊 敬を集め
ね、本 主の数 量は増え続け、文 化 的 意 義もますます深まり、
た人 物の場 合もある。
今 日のような本 主 崇 拝の構えとなったのである。本 主 崇
本 主の朝 奉や送り迎えの時、全 村の老 若 男 女は祭のた
拜は多 神 崇 拜であり、各 村 落の本 主 廟 内には、その廟 独
めに盛 裝して、鶏や豚を供えて、龍や獅 子 舞を踊り、焚 紙
自の本 主 神の像が有る場 合もあるが、幾つかの村 落では
焼 香、爆 竹を打ち鳴らし、存 分に祭に供し、「本 主」に厄 除
数 十もの村 落が共 同で一つの本 主を信 奉する場 合もある。
け、人々のご加 護、五 穀 豊 穣、商 売 繁 盛を祈るのである。
本 主が司るものの対 象は様々で、「霊 界」と人 間 界の様々
本 主 崇 拜と白 族 社 会の各 方 面は緊 密に関 連しており、白
な事 務を司るもの、「霊 界」兵を司るもの、人 間 界の疾 病
族 人 民の思 想 意 識に深く根ざし、独 自で豊 富 多 彩な本 主
を司るもの、獣 道を司るものなどに分かれている。
文 化を形 成している。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 49
时流
WHAT IS
INTERNET
FINANCE ?
揭开“互联网金融”的神秘面纱
「インターネット金融」の神秘のベールをはぐ
前 些 天,网 上 流 行 一 句 话:
“码 农 改 变 世
最 近、インターネット上で「碼 農(コンピューター
界。”
“码 农”这个 称呼是 一种自嘲,但“改变世
のプログラマー)が世 界を変える」という言 葉が流
界”却所 言 不虚。近年来,互 联 网以排 山倒 海
行している。
「碼 農」という 呼び 方には 一 種の 自 嘲
的 发 展 之势,跟 很多 领 域 发 生 联 系,从而 越 来
が 含まれているが、「世 界を 変える」というのは 偽
越 多地 改 变 人们 的 生 活。
“互 联 网金 融” 的 兴
りの言 葉ではない。近 年、インターネットの発 展の
起 就是 一个典型的例子。
勢いはとどまる所を知らず、多くの領 域がインター
ネットで結ばれ、それによって人々の生 活はますま
す 多 くの 面 で 変 わってきている。「 インターネット
金 融」の興 隆は、その 1 つの典 型 的な例だといえる。
文・汪 莹
50 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
時流
INTERNET × FINANCE
很
多人 对“互联网金融”这一概 念
已经耳熟能详,但真要解 释互联
多
くの人が「インターネット金 融」という概 念を
熟 知しているだろうが、インターネット金 融が
网金融具体指什么,
恐怕又难以说清楚。
具 体 的に 何を 指すのかについては、 はっきりとは 理
最早 提出“互 联网金 融” 这一概 念 的 谢
解していないと 思われる。 最も 早く「インターネット
平 教 授,按照目前各种互联网金融 形态
金 融」の概 念を提 起した謝 平 教 授は、現 在のインター
在支付 方式、信息处 理、资源 配 置 三 大
ネット金 融の形 態は、支 払 方 式、情 報 処 理、資 源 配 置
支柱 上的 差 异,将互 联网金 融 划分为 8
の 3 つの 大きな 柱において 違いがあり、8 つの 主 要な
种主要类型。
類 型に分けられるとしている。
001
传统金融机构的互联网形态
伝 統 的な金 融 機 構の
インターネット の 形 態
这 应该是互联网与金融的最早结合,网上银行、手机
银 行就是代表,此外还 有近年兴起的网络证券公司、网络
保险公司等,如 2 013 年阿里巴巴和腾讯携手中国平安设
立的众安在 线 财产 保 险公司,除了总部设在上 海,公司不
设任何分支机构,
完全通过互联网来销售和理 赔。
これはインターネット と 金 融 が 最 も 早 く 結 合 したも
ので、ネットバンキング、モバイルバンキングに代 表され
るほか、近 年 盛んになっているネット証 券 会 社、ネット
保 険 会 社などもその例だ。例えば、2 0 1 3 年にアリババ
とテンセントが 手を 結び 中 国 平 安が 設 立した 衆 安オン
ライン財 産 保 険 会 社でいえば、本 社が 上 海にあるだけ
でいかなる支 社も置かず、完 全にインターネットだけを
通じて販 売と賠 償を行っている。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 51
时流
INTERNET × FINANCE
002
移动支付和第三方支付
モバイル支 払 い と
第 三 者 支 払い
喜欢网购的人们对此再熟悉不过,支付宝就是第
003
互联网货币
インターネット貨 幣
比特币、Q 币属于互联网货币,
它们一般用
三方的代表。人们在淘宝上 选 购商品后,使 用支付宝
于在网络中购买游戏的道具、装备等虚拟物品。
结账;卖家知 道 货款 到达 支付宝后发货;买方收 到并
而一旦 这种货币被 现实中的人们接受,可以 购
检验货物后确认付款,这时 第三方才将货款转给卖家。
买生活中的物品,
它的作用就等同于货币。
传统的面对面交易中,人们一手交钱一手交货;但网络
交易无法 做 到这一点,因此需要第三方介入以保 障买
ビットコイン、Q 幣 は インターネット 貨 幣
卖双 方的利益和交易的顺利进行。除支付宝外,微信
に属し、一 般 的にネット上でゲームの道 具や
支付、财付通以及可境外支付的 P a y p a l 等也正在成
装 備 などのバーチャル 物 品 を 購 入 する 際 に
为人们网络支付的重要手段。
使われる。そして、これらの貨 幣が一 旦 現 実
の人々に受け入れられると、実 際の生 活の中
ネット で 買 い 物 をするのが 好 きな 人 はこのこと
での 物 品 を 購 入 することもできるようにな
について詳しいだろう。支 付 宝は第 三 者 支 払いの
り、本 物の貨 幣と同じような働きをするよう
代 表 的な会 社だ。人々は淘 宝で商 品を選んだ後、支
になる。
付 宝を 使って 決 済する。 売り 手は 支 付 宝への 代 金
の支 払いを確 認した後、商 品を発 送する。買い手は
商 品を受け取りチェックした後、代 金の支 払いを確
認する。 このとき 第 三 者は 代 金を 売り 手に 転 送す
る。人と人が向かい合う伝 統 的な取 引では、売り手
と 買い 手が 一 方で 金をやり 取りし、一 方で 商 品を
やり取りする。しかし、ネット上での取 引ではこの
ようなやり 取りができない。 そのため 第 三 者が 介
入して 売り 手と 買い 手の 双 方の 利 益を 保 証し、取
引 を 円 滑 に 進 め る 必 要 が あ る。 支 付 宝 の ほ か、
WeChat 支 払い、財 付 通や海 外
への支 払いもできるPaypal な
どがネット での 支 払 いの 重 要
な手 段となっている。
52 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
時流
004
基于大数据的征信和
网络贷款
很多领 域被网络
连接到一起
从 而 越 来 越 多地
大 き な データ に 基 づ く
信 用 リスク管 理 と ネット貸 し 付 け
改 变 人们 的 生 活
以 阿里小 额 贷款 为例,借款 人 无需 提 供 抵 押品
多くの領 域が
或第三方担保,仅 凭自己的信誉 就能 取得贷款,并以
借款 人的 信用作为还 款保证。 而借款 人的 信 誉 来 源
インターネットで結ばれ
于对阿里巴巴、淘宝、天猫平台内积 累的海量交易数
人々の生 活はますます
変わってきている
据的分析和评估。
アリババの少 額 貸し付けを例に取ると、借り手は
担 保の提 出や第 三 者の保 証を求められることはな
く、自らの信 用によって金を借りることができ、借
り手の信 用が借 金の 保 証となる。 借り 手の 信 用は
P2P 网络贷款
005
P2 P ネット貸 し 付 け
アリババ、淘 宝、天 猫で蓄 積した膨 大な量の取 引デ
ータによって分 析され評 価される。
这 是一种民间 借贷 模 式在网络上的延伸。 过
去,
人们在生活中跟熟人借钱,
现在人们可以在网上
向陌生人借 钱。通 过 P 2P 网络融资平台,借款 人直
接发布借款信息,出借人了解对方的身份 信息、信用
信息后,可以 直接与借款 人签订借贷合同,提 供贷
款,并能及时获知还款 进度,获得投资回报。目前国
内 P 2P 融资平台有宜信网、人人贷、拍拍贷等。
これは 民 間 の 貸 し 借 りの 一 種 がネット上 に 拡
大したものだ。 これまで 人は 生 活の 中で 知り 合
いに金を借りてきたが、現 在ではネット上で見ず
知 ら ず の 人 か ら 金 を 借 り ら れ る よ う に なった。
P2 P のネット融 資を通じて、借り手は金を借りた
いという 情 報を 直 接 流すことができる。 貸し 手
は 相 手の 身 分 情 報を 知り、情 報を 信 用した 上で
借り手と直 接、貸 借の契 約を結び金を貸す。そし
て、返 済の進み具 合を随 時 知り、投 資の報 酬を得
ることができる。現 在、中 国 国 内のネット上での
P2 P 融 資には宜 信 網、人 人 貸、拍 拍 貸などがある。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 53
时流
BUSINESS
006
众筹融资
クラウドファンディング
最 近,有一只猴子让“众筹”这个概 念又 火了一把。刚刚下线票房超 9 亿的
国 产动画《大 圣归来》,是由 8 9 位 投 资人 众 筹的。 他们有的出几万,有的出几
十万,最后筹出 7 8 0 万元,打造了这部动画片。现在,众筹成为很多有梦想、有创
意、有项目的人的募资手段,
众筹网、天使汇等就是众筹平台的代表。
最 近、1 匹のサルが「クラウドファンディング」という概 念に火を付けた。ダ
ンロード数が 9 億を超える中 国の国 産アニメーション「西 遊 記 之 大 聖 帰 来」は、
8 9 人の投 資 者のクラウドファンディングによって作られた。彼らは数 万 元か
ら数 十 万 元を出 資し、最 終 的には 7 8 0 万 元を集めてこのアニメーションを制
作した。現 在、クラウドファンディングは、多くの夢を持ち創 意 工 夫がありプ
ロジェクトを実 現させようとする人の資 金 集めの手 段となっている。クラウ
ドファンディングの代 表としては、衆 籌 網、天 使 匯などがある。
54 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
時流
INTERNET × FINANCE
007
金融产品的网络销售
金 融 商 品 の ネ ット販 売
淘宝、京东等在网上销售各类生活用品,这是电商;而在网
上销售金融 产品,就是 互联网金融。过去,人们可以在有代 理
权的 银 行 购买到 基金或保 险,而 现在只要 在网上 就可以买到
金融 产品。
淘 宝、京 東などはネット上で各 種の生 活 用 品を販 売して
いる。これが電 子 取 引だ。そしてネット上で金 融 商 品を販
売するのが、インターネット金 融だ。これまで、人々は代 理 権
のある銀 行で基 金や保 険を購 入していたが、現 在ではネッ
トにアクセスするだけで金 融 商 品を購 入することができる
ようになった。
008
网络金融交易平台
ネット金 融 の 取 引 の 場
网络金融交易平台就如上海交易所、深圳交易所一样,
为人们提 供金融 交易的场所,只不过,这 里的场所可能是
虚拟的,存 在于网络中,成 立两年的前海股 权 交易所就是
其代表。
ネット金 融の取 引は上 海 取 引 所や深セン取 引 所と同
様に、人々に金 融 取 引の場を提 供している。この場はバ
ーチャルなもので、ネット上でいえば、成 立して 2 年に
なる前 海 株 式 交 易 所がその代 表だ。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 55
时流
过去 在 传 统 金 融中 的 需 求
实 际 上也 是 人们
今 天在 互 联 网金 融中 的 需 求
かつて伝 統 的な金 融に
求めていたものが
今 日のインターネット金 融に
求められている
实
际上,从”互联网金融”这个概 念 提出开
始,至今 学 界对它也没有一 个权 威 的定
义和分类。要理 解互联网金融,首先要学会以互
联网思 维去思考。互联网思 维的一 个关键要素,
就是 从用户的需求出发去思考问题。而用户过去
在 传 统 金 融中的 需求实 际 上也 是 人们 今 天在 互
联网金融中的需求:
投资、融资、支付。
投 资 是 资 金 充 裕 的人 想 让 钱 生钱,融 资 是
缺 乏 资 金的人 想用钱买 钱,支付则是 钱的 流 动。
不管互 联网如 何快 速 发 展,只要与金 融相 结 合,
它所发挥的作用一定是让人们的投资、融资和支
付都因为网络而变得更加方便、高效和安全。
実
際のところ、「インターネット金 融」の概 念が提 起されてから
今 日まで、学 界でもそれに対する権 威 的な定 義や分 類がなさ
れていない。インターネット金 融を理 解するためには、まず学 界がイ
ンターネットを使って考えなければならない。インターネットを考え
るときの 1 つの 重 要な 要 素は、 ユーザーのニーズに 基づいて 問 題を
考えることだ。そしてユーザーがかつて伝 統 的な金 融に求めていた
ものは、今 日のユーザーがインターネット金 融に求めているのもので
もある。それは投 資、融 資、支 払いだ。
投 資は 資 金を 十 分に 持ち 余 裕のある 人が 金を 生きた 金にしよう
とするもので、融 資は資 金が不 足している人が金を使って金を買お
うとするもの、支 払いは金の流 動だ。インターネットがいかに急 速に
発 展しようとも、それらの金 融の相 互の結 合によってのみ、インター
ネットは人に投 資させる働きができ、融 資と支 払いをさらに便 利で
効 率よく安 全なものとすることができる。
56 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
今号の顔
心 学 集大 成 者
王阳明
心 学の創 始 者 王 陽 明
王 阳 明(1 4 7 2–1 5 2 9)
, 名守
仁,字伯安,浙 江 余 姚 人,中国明代
哲 学 家, 心 学 唯 心主 义 集 大 成 者。
因曾 筑 室于 会 稽 山阳明 洞,自号阳
明子,学界 称他为阳明先生。
王 陽 明( 1 4 7 2 – 1 5 2 9)、名は守
仁、字は伯 安。浙 江 省 余 姚の人で、
中 国 明 代の哲 学 者であり、心 学 唯
心 主 義 を 集 大 成 させた 人 物 であ
る。会 稽 山 陽 明 洞に居を構えてい
たため、雅 号を 陽 明 子といい、学
界では彼を陽 明 先 生と称した。
文・不 识 一 丁
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 57
本期人物
余 姚 的 王 阳 明 故 居 中 展 出 的 著 作《王 文 成 公 全 书》。
余 姚の王 陽 明 故 居で展 示されている著 作《王 文 成 公 全 書》。
读书求真
理”的学说。为了实践朱熹的“格物致
起吟唱家乡的曲子。在这里,王阳明始
王阳明出身 于浙 江 余 姚一 个显
知”
,有一次他下决心 要弄明白竹子的
终在思考一个问题,那就是:圣人要如
赫的家庭,拥有非常优越的学习环境。
道 理,
“ 格”了三天三夜的竹子,什么都
何面对这样的情况。后来他在梦中顿
他的名字“守仁”取自于《论 语 · 卫灵
没有发现,人 却因此病 倒。 这 就 是中
悟,认为心是感应万事万物的根本,由
公》
“
,知及之,仁不能守之,虽得之,必
国哲学史上著名的“守仁格竹”
,从此,
此提出“心即理”
。
失 之”。11 岁前 在 祖 父 王伦 的 培 养 下
王守 仁 对“格 物” 学说 产 生了极 大的
王阳明要求 发 挥良知 的 作用,以
5 岁已 能 够 默 记 祖 父 所 读 过 的
成 长,
怀 疑。一株竹子让他思索了好几天,却
良知为评 判事理的标 准和解 释 经典
书。之后跟随父亲王华到北京任所,
学
没有任 何结果。自然 界的事 物有千万
的根 据,这 就是他最为世人 所知 晓的
习骑马射箭,
而后又研习兵法。18 岁时,
种,怎么可能有时间和 精力去 逐一 探
心学的思想 —“良知说”。他认 为,
在回余姚的途中拜访程朱派学者娄谅
索呢?
人心之灵明就是良知,良知就是天理,
,娄谅向他介 绍了朱
(14 2 2 ~ 14 91)
关于王阳明的思想转变 过程,有
不可能在良 知 之 外求天 理,天地万物
熹的“格物致 知”学说,以 及“成为圣
王阳
一个事件也不得不提。15 0 6 年,
都从良 知中产 生,良 知 为人心之 所固
人 必 须 要 通 过学习” 的思想,使他很
明因反对宦官刘瑾,被 廷杖四十,贬 到
有。他还说,良知是“天渊”
,是天地万
受启发。2 1 岁中乡试,遍读朱熹著 作。
贵州龙 场。王阳明的思想因为这 次 贬
物发育流行的根 源,因此,良知又称为
2 8 岁中进 士,任职于工部,后又 担任
官而得到彻底的转变。由于环境 太过
“太虚”。天地万物在太虚中发育流行,
刑部云南清吏司主事。
艰苦,他的随 从们一个 个病倒,王阳明
就 是在良 知中发育流行,而不 在良 知
遍读朱熹的著 作后,思考宋 儒所
被 迫自己挑 水做 饭,给 随 从们 吃。 他
之外。
谓“物 有表 里 精 粗, 一草一木皆具 至
还 担心 随 从们心情不好,就 跟他们一
58 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
今号の顔
書を読んで真 理を求める
国 哲 学 史 上 の 有 名 な「 守 仁 格 竹」
そ良 知であり、良 知こそ天 理であ
である。これ以 降、王 守 仁は「格 物」
って、良 知の外に天 理を求めるこ
まれ、非 常に優れた学 習 環 境に恵
学 説 に 大 いに 疑 いを 抱 くように
とは不 可 能で、天 地 万 物は全て良
まれた。彼の名の「守 仁」は《論 語 ·
なる。一 本の竹のために彼は何 日
知から生じ、良 知こそ人 心 固 有の
衛 魂 公》の中の一 節、
「知はこれに
も思 考し、結 局 何の結 果も得られ
存 在 であると 考 えた。 彼 はまた、
及べども仁これを守ること能わず、
なかったのである。自 然 界の事 物
良 知は「 天 渊( 天 空と 深 淵)」であ
これを得ると雖も必ずこれを失う
は幾 千 万も存 在するのに、どうし
るとし、天 地 万 物が発 達し勢いを
( 知 恵が 十 分でも 仁の 心がなけれ
てその 全 てを 探 索 する 時 間 など
増す根 源であるとも主 張した。ゆ
あるだろうか。
えに、良 知はまた「太 虚」とも称さ
王 陽明 は 浙 江 余 姚 の 名 家 の 生
ば、人 心は得られまい)」からその
名を 取ったものである。1 1 歳まで
王 陽明 の 思 想 の 転 換 の 過 程 に
れた。天 地 万 物は、「太 虚」つまり
祖 父 の 王 倫 の も と で 育 ち、5 歳 に
関して、ある事 件について触れな
良 知の中でうまれ、発 達し盛んと
して 既 に 祖 父 が 読 んだ 書 物 を 諳
いわけにはいかない。1 5 0 6 年、王
なるのであり、それは良 知の外で
んじることができたという。その
陽 明は 宦 官 劉 瑾に 反 対したため、
ではないということである。
後 は 父 王 華 について 北 京 に 移 り、
四 十 回の笞 刑に処され、貴 州 龍 場
弓 馬 を 学 んだ 後 に 兵 法 も 修 めた。
に左 遷された。王 陽 明の思 想はこ
1 8 歳のとき、余 姚に帰る途 中、程
の左 遷のために徹 底 的に変わって
朱 派 学 者 の 娄 諒( 1 4 2 2 – 1 4 9 1)
しまった。 環 境があまりにも厳し
を訪ねた。そのとき娄 諒は朱 熹の
いために、彼の従 者は一 人また一
「格 物 致 知」の学 説 及び「聖 人とな
人と病に倒れ、王 陽 明は自ら食 事
るには必ず学びを経なければなら
の支 度をして、従 者たちに供さね
万物的根本
ない」という思 想を紹 介したこと
ばならなくなった。 彼はまた従 者
— 心即理
が、 彼にとって 大きな 啓 発となっ
たちが気 分を害するのをおそれ
た。2 1 歳のとき郷 試(科 挙の一 種)
て、彼らと共に故 郷の曲を歌いさ
心 こ そ万 事 万 物 に
に 参 加 し、 朱 熹 の 著 作 を 読 破 し
えした。ここで、王 陽 明は始 終あ
反 応 す る根 本
た。2 8 歳 で 士 官 し、工 部( 中 国 古
る 問 題 について 思 いを 巡 らせて
— 心即理である
代の役 所)の職を任ぜられた後、刑
いた。 聖 人であれば、いかにして
部 雲 南 清 吏 司 主 事も勤めた。
このような 状 況 に 向 き 合 うのか、
陽 明 は 朱 熹 の 著 作 を 読 破 した
ということである。その後 彼は夢
あと、 宋 儒の「 万 物にその 理が 備
の 中ではたと 悟った。 すなわち 心
わっている」といういわゆる 理 気
こそ 万 事 万 物 に 反 応 する 根 本 で
二 元 論 について 思 考 を 巡 らせて
あり「 心 即 理 」という 心 学 を 提 唱
いた。あるとき、朱 熹の「知を致 (
するに至ったのである。
いた) すには物に格( いた) すにあ
王 陽明 は 良 知 がその 作 用 を 発
り」を実 践するため、竹の理を究め
揮することを 求め、良 知をもって
ることを決 意し、三 日 三 晩のあい
事 理の判 断 基 準と経 典 解 釈の根
だ 竹 に「 格 」った も の の 何 も 発 見
拠とした。これこそ彼が世に名を
できず、 かえってこのために 病に
知らしめた 心 学の 思 想——「 良 知
倒れてしまう。これこそまさに中
説」である。陽 明は、人 心の霊 明こ
为心是感应万事
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 59
本期人物
思想理念
王阳明的心 学思想非常独特,使
他与当时 流行的程 朱 理学区分 开。程
朱 理学认 为“心”
“
、理” 是分 隔的,王
守仁认为“理”是存 在于“心”中的,
他
主张“良 知 就 是 天 理”。 作为天 理 的
“良知”
,是人们与生俱来的,良知也不
会无缘无故 地消失。王阳明所谓良知,
实际 上是 主观的道 德意 识,这种是非
善恶 之心 每 个人都 有,圣 人和常人的
余 姚 的 王 阳 明 故 居 中 展 出 的 手 札。
是非善恶之心 都 相同。圣人不会多一
余 姚の王 陽 明 故 居で展 示されている手 紙。
些,
常人不会少一些,
因此,
人人都可成
为圣人。既然人人都有良知,
人人都可
时受到蒙蔽,被人们的私欲 迷惑,从而
离,也没有先后。他提出知行 合一,一
用自己的良知作为衡量是非善恶的唯
丧 失 道 德本性。 面对这种 情况,王守
方面 强调 道 德 意 识 的自觉性,要求人
一标 准,
不用求于圣人或经典。一切是
仁 提出要依 靠 教 育,通 过 教 育去除 物
在内在 精 神上下 功夫;另一方面也重
非善恶,良知自会知道,它就在你的心
欲对人们良知的蒙蔽,重新找回良知。
视 道 德的实 践 性,指出人要 在事上 磨
中。 王阳明的良 知 说,虽 是一种先 验
他认为,人人都可以接受教育,并有接
练,
要言行一致,
表里一致。
论,但它打破了圣人同凡人的界限,在
受 教 育的先天 条 件,不管 你是 从事什
客观 上具有动 摇儒家权 威的 作用,积
么行业的,
都可以成为圣人。
极 追求个 性 解放,冲破了程 朱 理学的
此外,王阳明还主张“知行 合一”。
后人对王阳明的评价很高。近代
以 来,
“知行 合一”学说的影响愈发扩
大。对于王阳明所提出的“知行 合一”
传 统 观 念,在封建 社会后期产生 过 重
他的知 行 合 一学说不同于朱熹,也不
学说,梁 启超曾有过 这样的评价:
“知
要影响,
堪称学界巨擘。
同于陆九渊。朱陆都主张“知先行后”。
行 合 一之教,便 是明代 第一 位 大师王
王 阳 明 反 对 将 知 行 分 作 两 截, 主 张
阳明先生给我学术史上留下最有名而
以自然而然地“致良知”的,人们在与
“求理于吾心”。他认为:
“知是行之始,
且最有价 值的一个口号”
,并称颂王阳
良知以外的事物接触时会受到诸如
行是 知之 成。”。 知、行是一 个功夫的
明是“千古 大 师”
“
、百世之 师”。 现 代
物 欲 等的 诱惑,此时良 知 就有可能暂
两面,
知中有行,
行中有知,
二者不能分
新 儒学代表人物之一的熊十力更是评
王阳明提出,人并非生下来 就可
论 道“儒者之学,
唯有阳明善承孔孟”
,
认 为他的学说是孔孟学说的正传。清
初 诗人 王士祯 评 价 道,
“王 文 成公(王
“良 知”,是 人 们
与生俱来的 ,
人 人都可成 为圣人
阳明)为明第一流人物,立德、立功、立
言,皆居绝顶”。除了在中国,王阳明的
思想在 外 国 的 流 传 很 广,尤其对日本
的影响很 大。日本儒学家冈田武 彦认
人 は 皆 生 来 「 良 知 」を
为“阳明学最有东方文化的特点,它简
備 え て お り 、誰 で も
易朴实,不仅便于学习掌握,而且易于
聖人になれる
实 践执行。 在 人 类 这个大家 庭 里,不
分种族,不分老幼,都能理 解和实践阳
明的良知之学。
”
60 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
今号の顔
思想理念
事 物 と 触 れたときに 物 欲 などの 誘
学 説に対して、梁 啓 超はかつて以 下
王 陽 明の 非 常に 独 特な 心 学 思 想
惑を受け、このとき良 知は一 時 的に
のように 評 価 している。
「知 行 合 一
は、彼と当 時 流 行していた程 朱 理 学
見えなくなり、人々の 私 欲に 惑わさ
の教えは、明 代 随 一の大 師・ 王 陽 明
とを明 確に分けている。程 朱 理 学は
れて道 徳の本 性 失ってしまう。この
先 生 が 我 が 学 術 史 上 に 残 した 最 も
「心」と「理」を区 別しているが、王 守
ような状 況に際して、王 守 仁は教 育
著 名でかつ最も価 値のあるスローガ
仁は「理」は「心」の中に存 在するも
によって人々の物 欲が良 知を隠して
ン 」だとし、王 陽 明 を「 千 古 大 師 」、
のとして、「良 知こそ天 理である」と
しまうことを防ぎ、もう一 度 良 知を
「百 世 之 師」と称 賛している。現 代 新
考えた。天 理としての「良 知」は、人々
取り戻すことを提 唱した。王 陽 明は、
儒 学 の 代 表 的 人 物 の 1 人 である 熊
に生 来 備わっているもので、何の前
人々は み な 教 育 を 受 け る こ と が で
十 力は、王 陽 明をさらに評 価して「儒
触 れもなく 消 え 失 せることはない。
き、また教 育を受け入れる先 天 条 件
者 の 学 問 は 陽 明 だけが 孔 孟 の 教 え
王 陽 明のいうところの良 知とは、事
をもっていて、どのような 職 業に 従
を善く継 承した」と述べ、彼の学 説こ
実 上、主 観 的な道 徳 意 識のことであ
事していても、みな聖 人となること
そ 孔 孟 学 の 正 統 な 後 継 であると 考
り、こうした是 非 善 悪の分 別はみな
ができると考えた。
えている。 清 代 初 期の 詩 人 王 士 禎
が有しているものである。聖 人にも
この他に、王 陽 明は「知 行 合 一」も
は「 王 文 成 公( 王 陽 明)は 明 代 第 一
常 人 にも 是 非 善 悪 の 心 はみな 等 し
提 唱 している。 他 の 知 行 合 一 学 説
級の人 物であり、立 德、立 功、立 言の
くあるのである。聖 人だからといっ
は、朱 熹のそれとも、陸 九 渊のそれ
どれをとってもみな 超 一 流 である 」
て多く有していたり、常 人だからと
ともことなる。朱、陸のどちらも「知
と評している。また中 国のみならず、
いって 少 なかったりというようなこ
が 先 で 行 が 後 である」 と 主 張 する。
王 陽 明の思 想は外 国へも広まり、特
とはない。 したがって 人々はみな 聖
王 陽 明 は 反 対 に 知 行 を 一 体 とみな
に日 本に対する影 響は大きかったと
人となることができる。 人々がみな
し、「理を求めるは心にあり」と主 張
いえる。日 本の儒 学 者、岡 田 武 彦は
良 知を有しており、自らの良 知をし
する。彼は、
「知は行の始まりであり、
「陽 明 学こそ東 洋 文 化の特 徴を最も
て 是 非 善 悪 の 唯 一 の 基 準 とするこ
行は知によって成る」と考えた。つま
兼ね備えており簡 潔かつ素 朴で、修
とができるのであれば、聖 人や経 典
り知、行は一つの事 象の表 裏であり、
め易いだけでなく、実 践 実 行し易い。
を求めることもない。一 切の是 非 善
知の中に行があり、行の中に知があ
人 類という大 家 族の中にあって、人
悪は、良 知があればおのずから明ら
って 両 者 は 不 可 分 で あ り ど ち ら が
種や歳の違いに拘らず、みなが陽 明
かとなる。それは自 分の心 中にある
先か後かということはないという
の良 知の学を理 解し、実 践できるの
のである。王 陽 明の良 知 説は、一 種
のである。彼が知 行 合 一を提 唱した
である。」と述べている。
の先 験 論とはいえ、聖 人と凡 人に境
のは、ある面では道 徳 意 識の自 覚 性
界 があるとされてきた 従 来 の 考 え
を強 調し、人に内 在する精 神に働き
を打 破し、客 観 的に儒 家の権 威を動
かけを求めたともいえ、別の面では
揺させる作 用をもっていた。個 性の
道 徳の実 践 性を重 視し、人はその実
解 放を積 極 的に追 求し、程 朱 理 学の
践によって 磨かれることで、言 行が
伝 統 観 念を覆した王 陽 明は、封 建 社
一 致し、表 裏 一 体となると考えたと
会 後 期において 重 大な 影 響を 与え、
もいえる。
学 界の巨 星と称えられた。
後 世 の 人 の 王 陽 明 に 対 する 評 価
王 陽 明は、人は生まれながらにし
はとても 高い。 近 代 以 降、「 知 行 合
て 自 然と「 良 知に 致る」わけではな
一」説の 影 響は 次 第に 広まっていっ
王 阳 明 的 故 居 中 展 出 的 著 作《大 学 问》
いとも主 張した。人々は良 知 以 外の
た。王 陽 明の提 唱した「知 行 合 一」の
王 陽 明の故 居で展 示されている著 作《大 学 問》。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 61
本期人物
远 播日本
为“心”是万物本体,他说:
“心,统 体
是以 改 造 世界为己任的事功 派,如熊
日本阳明学的创立者是中江藤 树
之 总号,太极之异 名也。合 理气,统性
泽 蕃山、大 盐中斋、吉田松阴等人,其
,在 3 2 岁之前,藤
(16 0 8 -16 4 8 年)
情 …… 其大无外,其小无内。”因此也
中大 盐中斋 领导了都市平民 起 义,有
树基 本上信奉 朱 子学。3 2 至 3 7 岁期
就当之无愧地成为日本阳明学的始祖。
吉田松阴是著名的幕末志士。
间,他读了王阳明弟子的《语录》,开始
这也说 明,王阳明的思想首次在日本
由朱子学 转向阳明学。直至 3 7 岁时,
开出了真正的花朵。
日本的近代史 始自明治维 新。在
明治维 新前德川幕府统治的二百多年
他看了《阳明全书》,从而潜 心于阳明
日本 的 阳 明 学 派 在 中 江 藤 树 开
中,日本的朱子学始 终 处 于官学的 统
著 作,完全 转向阳 明学,他 亲自书写
创之后,大致可分为两派:一派是具有
治 地 位,阳明学则作为下级 武士 和市
“致良知”三个大字,并且让他的弟子
强 烈 内 省 性 格 的 德 教 派(一 说 存 养
民阶层的意 识 形态而处 于被 压抑、受
全部都要读《王阳明全书》。中江 藤 树
派)
,如渊冈山、梁川星岩、春日潜庵等
排 挤 的 地 位。17 9 0 年 幕 府发布异 学
作为一名阳明学 者,虽未重复 王阳明
人,其中以 渊冈山为中心,忠实地 继 承
禁 令之 后,朱子学 被 定为唯一正 统 思
“心即理”的命题,但与王阳明一样,认
了藤 树 的思想。 另一派 则注 重实 践,
想,阳明学则被视为异端的谋 反之学。
然而,在幕府末年,阳明学成了维 新志
士所 普 遍 信奉 的一种哲学,并因此为
维 新运动造 就了一披杰出的思想家和
领导人。
吉田松 阴是明治 维 新 运 动 时 期
先 驱性 的 思 想 家 和 教 育 家。 他 回 忆
说:
“吾曾读王阳明《传习录》,颇 觉有
味 …… 然吾非专 修阳明学,但其学真,
往往与吾真会耳。
”在阳明学的影响和
鼓舞下,他积极主张“尊王攘 夷”
,致力
于“倒幕运动”。吉田松阴以其叔 父的
名义在 家乡创 建了松下村塾,在他 的
学生中,近半 数 为明治 维 新 做出了杰
出贡献。明治 维 新的重要人物伊藤博
文,
就出自他的门下。
这 些 信奉阳明学的杰出人物,以
阳明学为理论 武器,倡导“尊王 攘 夷”
或“开国倒 幕”
,推 动了明治 维 新的实
现,瓦解了日本封建体制,由此而开启
了日本社会 通向近代化的大门。我国
近代著名学 者 章 太 炎 说:
“日本维 新,
亦 由 王学为 其 先 导。” 梁 启 超 也 说:
“日本维 新之治,
心学之为用也。
”
王 阳 明 故 居 中 展 出 的“王 阳 明 师 徒 对 话 — 天 泉 证 道”文 字。
王 陽 明の故 居で展 示されている “ 王 阳 明 師 弟 問 答 — 天 泉 证 道”
の文 字。
62 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
今号の顔
日 本への伝 播
中 齋 は 都 市 の 平 民 一 揆 において
総 理 大 臣 伊 藤 博 文 もまた 松 蔭 の
日 本 における 陽 明 学 の 創 立 者
指 導 的 役 割を果たし、吉 田 松 陰は
門 下であった。
は中 江 藤 樹( 1 6 0 8 -1 6 4 8 年)であ
言 わずと 知 れた 有 名 な 幕 末 の 志
る。3 2 歳 以 前には、藤 樹は基 本 的
士である。
彼 ら 陽 明 学 を 信 奉 した 幕 末 の
志 士たちは、陽 明 学の理 論を武 器
に 朱 子 学 を 信 奉 し て い た。3 2 か
日 本 の 近 代 史 は 明 治 維 新 から
に、
「尊 王 攘 夷」や「開 国 倒 幕」を
ら 3 7 歳の 期 間に、 王 陽 明の 弟 子
始 まる。 明 治 維 新 前 の 徳 川 幕 府
提 唱し、明 治 維 新の実 現を推し進
の 手 による『 語 録』 を 読 んだのを
2 0 0 余 年の統 治では、日 本の朱 子
め、 日 本の 封 建 体 制を 打ち 破り、
きっかけに、朱 子 学から陽 明 学へ
学 は 一 貫 して 統 治 のための 官 学
こ れ に よって 日 本 社 会 の 近 代 化
と の 転 向 を 始 め た。3 7 歳 に な る
の地 位を占めており、陽 明 学は下
の門を開いたのであった。中 国 近
までに『陽 明 全 書』を読 了し、陽 明
級 武 士と市 民 階 層のイデオロギー
代の 著 名 学 者、章 太 炎は「日 本の
の著 作に心 底 傾 倒し、完 全に陽 明
として抑 圧され、排 斥される立 場
維 新は、陽 明をその先 導としてい
学に転 向した。彼は自らの手で「致
にあった。1 7 9 0 年、当 時の江 戸 幕
る」と評している。梁 啓 超も「日 本
良 知」の三 文 字を書 写し、弟 子た
府が異 学 禁 令を発 布したあと、朱
の維 新を治めたのは、心 学をもっ
ちにもみな『 陽 明 全 書』 を 読ませ
子 学 が 唯 一 の 正 統 思 想 と 定 めら
てしたのである」と述べている。
るようになった。中 江 藤 樹は陽 明
れ、陽 明 学は異 端 的で謀 叛の学 問
学 者の 1 人として、 王 陽 明 の「 心
と さ れ た。し か し 幕 末 に な る と、
即 理」の命 題と重 複はしないまで
陽 明 学 は 維 新 の 志 士 たちが 遍 く
も、王 陽 明と同 様に「心」こそ万 物
信 奉する一 種の哲 学となり、その
本 体 であると 考 え、『 心 は 統 体 の
ため 明 治 維 新 で 活 躍 する 傑 出 し
総 合にして、太 極の異 名なり。理
た 思 想 家とリーダー達を 生み 出す
気を合し、性 情 統 一す』とも述べて
に至った。
いる。藤 樹は日 本で正 真 正 銘の陽
吉 田 松 蔭は、 明 治 維 新 運 動の
明 学の始 祖となったのである。逆
時 期 における 先 駆 的 思 想 家 であ
に言えば、この時 王 陽 明の思 想が
り教 育 者であった。松 蔭は陽 明 学
初 めて 日 本 で 本 当 に 花 開 いたこ
について「曾て王 陽 明の『伝 習 録』
とを示してもいる。
を読み、興 味 深いところがあった。
吾 曾 读《传 习 录》,
颇 觉 有 味 ……
但 阳 明 学 真,
往 往 与 吾 真 会 耳。
『 伝 習 録 』を 読 み 陽 明 学 の
教 え に触 れ る に つ け、
わ れ の気 持 ち を
代 弁 す る。
日 本の陽 明 学 派は中 江 藤 樹が
…… 陽 明 学 を 専 門 に 勉 強 してい
開 拓したのち、大きくは二 派に分
るわけではないが、その教えに触
かれた。一 派は強 烈な内 省 的 性 格
れるにつけ、われの気 持ちを代 弁
を有する德 教 派(存 養 派ともいう)
する。」と回 想している。陽 明 学の
であり,淵 岡 山、梁 川 星 岩、春 日 潜
影 響と鼓 舞のもとで、彼は積 極 的
庵 等の人 物による。なかでも淵 岡
に「尊 王 攘 夷」を主 張し、「倒 幕 運
山を中 心とした一 派は、藤 樹の思
動」に 力を 注ぐようになる。 吉 田
想を忠 実に継 承した。別の一 派は
松 蔭は叔 父の名 義で故 郷に松 下
実 践を重 視し、世 界を改 造するこ
村 塾を創 建した。彼の学 生は、そ
とを 自 らの 任 務 とした 事 功 派 で
の 半 数 近 くが 明 治 維 新 において
あり、熊 沢 蕃 山、大 塩 中 齋、吉 田 松
傑 出した貢 献をなした。明 治 維 新
吉田松阴
陰などの人 物がいる。中でも大 塩
の 重 要 な 人 物 である 日 本 の 初 代
吉田松陰
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 63
华夏美食
乡情,
是一碗面的思念
望郷の念は麺から立ちのぼる
文・王 亮
64 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
中国美味
自
从高中毕业,离开山西老
顿刀削面,
整个人都感觉踏实了几
息息相关。太行山脉绵延不绝,干
家后,好多年求学在江南
分,感受到了亲切与熟悉的味 道,
旱少雨,极 适合小麦生长,多山导
一带,除了人 文 地 理习俗 的不同,
一 种乡思被 突 然地 满足,一 颗 游
致 温 度垂直变化的自然条 件又为
饮食也是一 个很 大的差异。平日
子归乡之心也安 静了下来。 走在
适 宜耐旱的荞麦、莜麦、谷、高粱、
里在老家,黄昏时候,人们见面总
晋城的大街上,看着这么多面馆,
玉米等 粗粮的生长 提 供了极佳环
是相互问道:吃饭了没有?其实,
满心欢喜。或许,乡情,就是一 碗
境。众多的特 色谷类作物为山西
这个“饭”指的就是面食,吃饭也
面的思念,
此刻,
尤为明显。
面 食 文 化 提 供了丰 富 的 原 材 料,
就是吃面。而在南方地带,更多时
面 食在山西历史 悠 久,
“世界
这也形成了山西面食“一样面,百
候“饭”指的却是米饭。今年国庆
面食在华夏,华夏面食在山西”这
样吃”的特点。同时,冬天 这 里气
假 期,我格 外地想家,于是早早预
句流 传很 广的 俗语 也点出了山西
候 寒 冷,温 热 型的面 食 便 成了天
订了回家的火车票。列车上,一路
面 食 在 全 国 饮 食 中 的 重 要 地 位。
然的食物搭 配,久而久之,形成了
的乡思开始 涌 现 脑 海,乡情 于我
所谓一方水土养育一方人,山西面
“晋南的 馍、晋中的面、晋北的 糕
而言,
总是一种特殊的味道。直到
食甲天下的 独 特文化,和 这 里的
吃不厌”这种三晋大地 上独特的
出了晋 城 火车 站,在 面馆 里 吃了
地 理分布、气候环境、传 统文化等
面食文化。
高
校を卒 業し、山 西 省の実 家を出てから、長 年 中 国 江 南 地 域の勉 学にいそしんでいたが、こ
こでは人 文、地 理、習 慣が違うのみならず、食 文 化も大きく異なる。実 家にいる時は、夕 暮
れ時に人と会ったらお互いこう挨 拶する。
「ご飯を食べましたか?」と。実はここでの『ご飯』とは
麺 類のことで、ご飯を食べるとは、つまり麺を食べるということである。しかし中 国 南 方では、
『ご
飯』といえば多くの場 合、米を指す。今 年の国 慶 節、私は重 度のホームシックにかかり、早々に実 家
へ帰る鉄 道チケットを予 約した。電 車の中で、故 郷の記 憶が脳 裏によみがえり始めた。望 郷の念は
私にとって、いつもある種 特 別な味である。晋 城 駅を出てから、お店で刀 削 麺を食べると、やっと
私は幾 分か落ち着き、馴 染みの味を感じ取ることができ、ホームシックにかられた激 情も突 然 満た
され、故 郷への思いも落ち着いてきた。晋 城の街を歩き、数 多くの麺の店を目にすると、とても嬉
しくなってしまう。もしかしたら、望 郷の念は麺から立ち上り、こうした時にはっきり表れるのか
もしれない。
麺は山 西 省で悠 久の歴 史があり、『世 界の麺は華 夏にあり、華 夏の麺は山 西 省にある』という、
広く伝えられている俗 語も山 西 省の麺 文 化が中 国 全 域で重 要な地 位を占めていることを示して
いる。いわゆるその地 域の水と土 地がその人を育むように、山 西 省の麺は天 下 一 品の独 特な文 化で、
この土 地の地 理 分 布、気 候と環 境、伝 統 文 化などと密 接な関 係にある。太 行 山 脈は連 綿と続き、乾
燥し雨が少なく、小 麦の生 育にとても適している。さらに山がちの地 形がもたらす寒 暖の差の激
しい自 然 条 件も日 照りに強いソバ、莜 麺(ハダカエンバクを粉にして麺にしたもの)、粟、高 粱、トウ
モロコシなどの雑 穀の生 育に非 常に適していて、これも山 西 省の麺の特 徴、『同じ麺でも百の食べ
方がある』を形 成している。また冬になると、山 西 省は寒く、温かくゆでた麺は自 然と食べ物の組
み合わせを作り上げ、歳 月がたつうちに、
『晋 南の饝(蒸しぱん)、晋 中の麺、晋 北の糕(もち)は食べ
飽きない』という、この三 種 類の晋の独 特な麺 文 化を形 成した。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 65
华夏美食
世 界面食 在华夏
华夏面食 在 山西
山
西面食文化,是一部很深
瓢、盆、擀面杖、筷子、刀等,
除此之
的 学问。 首先 是 名称 的
外还 有许多颇 具 特 色的工具,如
选 取,山西 面食有着独 到 的审美
饸 饹床、抿 床、抿子、擦子、削片、
情趣和文化内涵。刀拨面、揪面片、
剪刀、竹 签等,这些制作工具都是
剪刀面,皆是以面食 制 作 过 程 的
三晋人 民 长 久 积 累 的 劳 动 智 慧。
特色而得名;金银卷、金裹银 则是
再次,是面食的加工工艺,山西面
通 过食物成品的色彩意象来命
食 讲究“粗 粮 细 做,细 粮 精 做”。
華夏の麺は
名;猫耳朵、擦 蝌蚪是以面食成品
因此,加工手段多种多样,有 擀、
山西省にある
的形 状 酷 似动 物 名称 而命名,这
削、拨、抿、擦、压、搓、漏、剔、拉、抻
些名称 诙 谐 有 趣,充 满 着三晋人
等,而烹饪手段有蒸、炸、焖、煮、
民对生活的热爱和祝福。其次 是
煎、烤、炒等。当然,怎么吃,也是
面食的加工工具,俗语有云“工欲
很有讲究的。山西面食在吃 法 上
善其事必先利其器”
,山西面食 种
讲究 调 料 剂 的 搭 配,闻名海内外
类 繁 多,与其制 作工具 是 分不开
的山西陈 醋 就 是 其中之一,除 此
的。常见的面食 制作工具有锅、碗、
外还有辣椒 油、芝麻酱、韭菜花等。
世界の麺は
華夏にあり
山 西 传 统 面 食“抻 面”
山 西 省の伝 統 的な麺 類「引 延し麺」
66 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
中国美味
胡 辣 汤 的 店 铺 / 胡 辣 湯の店
山 西 传 统 面 食“稍 麦”
的皮
山 西 省の伝 統 的な麺 類「稍 麦(ショウマイ)
」
の皮
山
西 省の麺 文 化は、とても奥 深く、一 種の学 問である。まず名 称についてだが、山 西 省の麺
は独 特の審 美 的 趣と文 化を秘めている。例えば、刀 拨 面(ダオボーミエン)、揪 面 片(ジュウ
ミエンピエン)、剪 刀 面(ジエンダオミエン)は、どれも麺の作 成 過 程の特 徴から名 前がついた。また、
金 銀 巻(ジンインジュエン)、金 裹 銀(ジンゴウイン)は出 来 上がった料 理の色 彩イメージから名づけ
られ、猫 耳 朵(マオアードウ)、擦 蝌 蚪(ツァーカードウ)は麺の出 来 上がった形が動 物にとても似て
いることから名 付けられた。これらの名 称はユーモアで趣があり、三 晋の人々の生 活に対する愛
情と祝 福がにじみ出ている。次に麺を調 理する器 具だが、ことわざで『工、その事をよくせんと欲
せば、必ずその器を利とす。』と言われるように、山 西 省の麺の種 類は多 様で、麺を作るのに使う調
理 器 具と切り離して考えることはできない。よく見かける麺を調 理する器 具に鍋、碗、ひしゃく、
たらい、ボウル、綿 棒、箸、包 丁などがあるが、このほかにも多くの特 色ある調 理 器 具がある。饸 饹 床、
抿 床、抿 子、擦 子、削 片、剪 刀、竹 签など、これらの調 理 器 具は全て三 晋の人々が長 年 積み上げてき
た生 活の知 恵である。また麺の調 理 技 巧であるが、山 西 省の麺は『雑 穀に手を加えて、それに更に
手を加える』ことを大 切にしている。そのため調 理 方 法は多 種 多 様であり、擀(のばす)、削(けずる)、
拨(回す)、抿(なでる)、擦(こする)、压(抑える)、搓(もむ)、漏(漏る)、踢(そぐ)、拉(引く)、抻(引
き延ばす)などがあり、料 理をつくる方 法も蒸(蒸す)、炸(油で揚げる)、焖(蓋をしてとろ火で煮 込
む)、煮(煮る)、煎(煎る)、烤(あぶる)、炒(いためる)などがある。もちろん、食べ方にも、とてもこ
だわりがある。山 西 省の麺は食べる際、調 味 料や薬 味の組み合わせにもこだわりがある。かの有
名な山 西 省の陳 酢はその一つであり、このほかにもラー油、ゴマダレ、ハナニラなどがある。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 67
华夏美食
史记载,山西是 文化巨匠
再用羊肉沫 浇 头食用,深 受官兵
的性格。
“三晋之 风 勤与俭”
,爱吃
荀子的故里,儒家思想深
喜爱,后来这种面食传入民间,便
醋,喜面食的山西人,养成了敦 厚、
入人心。因此,山西面食文化也受
形成今日的“莜 面栲 栳 栳”
,寓意
开拓为主的性格 特点。明清时 期
到 儒 家 文化 的 影 响,折射出政 治
犒 劳三军。 这一名字的背后寄寓
“富甲中国 五 百年”
“
、执中国 金 融
文化的影子和大汉民族 特 有的思
着传 统儒家文化对明君圣主的渴
之牛耳”的晋商,就将这种精神特
维 方式、审美理 想、生 活观 念等。
望和推 崇。吕梁等地在大年 初一
点体 现 地 淋漓尽致。从小吃面长
比 如,流行 于 忻州一带的 莜 面栲
早上做 的“宽 心面” 是 用豆面 制
大 的山西人,我 们 身上也 时 时 体
栳栳,是山西著名的小吃。相传,
作,面条宽而薄,寓意“一年到头
现出山西面食 文化的影子。 游 学
隋末年间,李世民在晋源 起兵,战
心宽可心意”
,体现着 传 统 文化里
在外,老乡碰面,格 外亲 切,想 起
况 艰 难,李世民体恤三军,用山西
平和向上的生活理念。
家乡,
也就想起面的味道。
历
特产的莜麦蒸制成一种卷形面食,
面 食 文化,也 塑 造了山西人
乡情,
是一碗面的思念。
山 西 传 统 面 食“西 红 柿 鸡 蛋 盖 浇 面”
山 西 省の伝 統 的な麺 類「トマトと卵のあんかけ麺」
68 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
中国美味
山 西 面 食 小 吃“莜 面 栲 栳 栳”
山 西 省の麺 食 名 物「莜 麺 栲 栳 栳」
歴
史 書の記 載によれば、山 西 省は文 化の巨 匠、荀 子のふるさとであり、儒 教の教えが人々の
間にも浸 透している。そのため、山 西 省の食 文 化にも儒 教の文 化が影 響しており、政 治 文
化の面 影と漢 民 族 特 有の考え方、美 意 識、生 活 概 念などが表れている。たとえば忻 州 一 帯で流 行
っている莜 麺 栲 栳 栳(ヨウミエンカオラオラオ)は山 西 省で有 名な一 品 料 理だ。隋の末 期、李 世 民が
晋 源で挙 兵し、戦 況が困 難になり、李 世 民は三 軍を思いやり、山 西 省 特 産の 莜 麺を蒸して巻き型
の麺を作り、さらに羊 肉のそぼろを麺の上にかけて食べてみたところ、兵 士の間で人 気がでて、後
にこの麺は民 間にも伝えられたと言われている。それが今 日の『莜 麺 栲 栳 栳』になり、三 軍をねぎ
らうという意 味が含まれている。この名 前の背 後には、伝 統の儒 教 文 化の明 君 聖 主に対する渇 望
と崇 拝が託されている。呂 粱などでは、元 日の朝に作る『寛 心 麺』は豆 麺を用いてつくり、麺は太く
て薄く、『一 年 中 心 穏やかに、願いが叶い過ごせるように』という意 味を暗 示しており、伝 統 文 化
の穏やかだが向 上 心がある生 活 理 念が体 現されている。
麺 文 化は山 西 省の人々の性 格を形 作っている。
『三 晋の気 風は勤 勉で倹 約 家』、酢を好み、麺を
好む山 西 省の人は、温 厚でフロンティア精 神といった性 格の特 徴を作り上げている。明や清の時 代、
『天 下の富 豪 中 国 五 百 年』、『中 国 金 融を牛 耳る』晋の商 人はまさにこういった精 神の特 徴をよく
表している。幼いころから麺を食べて育った山 西 省の人、私たちの体にも時として山 西 省の麺 文
化の面 影が表れる。他 所の地で勉 学し、同 郷の人と会うと、格 別に親しみを感じ、故 郷を思い出し、
そして麺の味を思い出す。
いつも望 郷の念は麺から立ちのぼるのだ。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 69
咬文嚼字
流 行 語
「潜水」と「灌水」
“潜水”与“灌水”
【 q ián shuǐ】 【 g uàn s h uǐ】
文・小 雅
在
喜 欢 利 用电子 布 告 栏 微 服 出 巡,
传 统 的 表 述中,
“ 潜 水”是
“潜 水”指 只 浏 览 页 面 而 不
一项以在水下活动为主要
发表 意 见 的 行为,与潜在 水下 不
了解民生疾苦。他使用的 I D 就是
内容,从而达到锻 炼 身体 , 休闲娱
露头的 动 作 有类 似 之 处;
“冒泡”
,
并以此结交了不
“a d d w a t e r ”
乐目的的休闲运动;
“灌水”则指
则 指长时间潜 水,有时 突 然出来
少网友,但当时 没有人 知 道 这个
向容器里面注水的一种动 作。随
发言的行为;
“吐槽”指从对方的
I D 的主人是美国总 统。直到卸任
着 互 联 网 的 兴 起,
“ 潜 水”和“灌
语言或行为中找到一个漏 洞或关
以 后,里根才跟 几个 好友 透 露了
水”衍生出了新的含义。
键 词 作为切入点,发出带有调 侃
这个 秘 密。这一泄密让想 跟 里根
今 天,互联网极 大地 改 变了
意味 的感慨 或 疑问,是一种 有针
攀关系或对他不满的网友们统 统
人们的生活方式,
促进了人与人之
对性的行为。
“活跃”和“话唠”从
出动,B B S 站内信在短时间内如
间的沟通。素不相识的人能 通 过
字面意 义 上不难 理 解,而“传 说”
山洪暴发 般 涌来,一发不可收 拾,
网络聊天 对 话、交 流 观 点。 渐 渐
之 所以代 表 最强 活跃 程 度,是 因
站长无 法 处 理 如此多的 信件,终
地,人群 在 互 联 网上因为某个或
为 说 话 过 多 甚至 超 过 话 唠 的 人,
于在“众志成城”之下,这个 B B S
某些共性而集结形成一个 个社交
在 现 实 生 活中是 很 少的,这样 的
站被搞垮了。
群 体,比 如中国 的百度 贴 吧、q q
人是个“传说”
。
后来据说里根补偿了这位站
群、豆瓣小组、微信群等。在这 些
“灌水”跟“潜水”的意 义在
长,可是“a d d w a t e r ”的 威 力
虚 拟 的网 络群 体 中,有的人习惯
指网络用户的活跃程 度 这个点上
也因此传开了,
辗转到中国,
“a d d
沉 默,有的人喜欢围观,有的人偶
是相反的。
“潜水” 的人一 般不发
w a t e r ”便被翻译成“灌水”
。所
尔 发言,有的人 则很 活跃 …… 对
言,
“ 灌水”的人则很爱发言。如果
以说“灌水”意义不大,但 威力也
此,互联网语言与时俱 进,借用一
把网络聊天 页面比作一 个水平面,
不小。不过今天,很多人已经淡化
些词语来描述这些网络现象。
“潜水”的人总是藏在水平面底下,
了“灌水”的贬义。
以 Q Q 群为例,它根 据 一 个
不崭露头角;而“灌水”的人 则在
群里人物的发言频率对成员的活
水平面之上,
不停地向里面注水。
如今的互联网正以 无孔不入之势
跃 程 度 进 行了等 级 划分,共分为
在表 达网络用户爱发言的同
影响、改变着我们的生活,网络新
6 类,活 跃 程 度 最弱到最 强 依 次
时,
“ 灌 水”也 略 带 贬 义。 一 般 来
语言也随之层出不穷。这其中,有
为:潜水、冒泡、吐槽、活跃、话唠、
说,灌 水之 人 所发表 的内容或 所
新 颖 且富 有 生 命 力 的 语 言 新 创,
传说。
说的话,大都没有实际意义,这与
也有 违 背 语 言 规 律 的 粗 制 滥 造。
“灌水”一词的来源有关。
据 传,美国前总 统 里根 是一
个 B B S 爱 好者,在 总 统任内,他
70 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
“潜 水” 也 好,
“ 灌 水”也罢,
对此,我 们 应该 取 其 精 华去其 糟
粕,让网络语言更能 经受 住 时间
的“大浪淘沙”
。
言 葉 を あじわう
伝
統 的 な 表 現 に お い て、
「 潜 水」とは 言うまでも
いる。 人によっては、たまに 発
くぶくと泡を立てながら水 面に
言する者や、常に活 発に発 言し
顔を出すことになぞらえている。
なく水に潜る活 動のことであ
ている者もいる。これに対して、
「吐 槽」とは、相 手の言 葉や行 為
り、トレーニングやレジャースポ
ネット用 語も 時 勢に 遅れず、あ
中に 問 題 点やキーワードを 見 出
ーツを指す。
「灌 水」とは容 器の
る 種 の 単 語 を 借 用 してこうし
し、そこを 切り 口にからかいや
中に水を注ぐ動 作のことであ
た ネット 上 の 現 象 を 表 現 し て
冷やかしを込めた感 慨や疑 問を
る。 インターネットの 興 隆にと
いる。
発することで、ある種 特 定の相
もなって、この「潜 水」と「灌 水」
たとえばQQ 群(チャット・ア
手 に 対 し て の 行 為 で あ る。「 活
という言 葉に新しい意 味が生ま
プリのQQにあるグループ・チャ
躍」と「話 唠」はその字 面からも
れている。
ット機 能)を例に挙げてみよう。
意 味を理 解するのは難しくな
今 日、インターネットは人々の
グループ 内 のメンバーの 発 言 の
いだろう。そして「伝 説」が最 強
ライフスタイル を 大 きく 変 化 さ
頻 度 によってメンバーの 活 発 度
の活 発 度を示す。
「話 唠」の人す
せ、人と人とのコミュニケーショ
合いを 6 つのレベルに分け、最
らも 越 えるほどおしゃべりが 止
ンを促している。互いを知らな
弱の「潜 水」から始まり徐々にレ
まらない人は、実 際の生 活であ
い者 同 士がネットを通じて会 話
ベルアップし、「冒 泡」、「吐 槽」、
ま り お 目 に か か る こ と は な く、
をし、意 見 交 換する。次 第に人々
「活 躍」、「話 唠」と続き、最 強の
はインターネット 上 で 何 かしら
レ ベ ル は「 伝 説 」と 表 現 し て
の 共 通 項を 見つけ、集まり、い
いる。
そ れ が「 伝 説 」と 称 さ れ る 所 以
である。
「 灌 水」と「 潜 水」は、ネット
く つ も の ソーシャルネットワー
「潜 水」とは、ページを閲 覧す
クを 形 成するようになった。 例
るのみで意 見を発 表しない行
えば、中 国では「百 度 貼 吧」、
「Q
為を 指しており、こうした 行 為
「 潜 水 」の 人 は 普 通 発 言 をしな
Q 群」、
「豆 瓣 小 組」、
「微 信 群」な
が 水に 潜って 息を 潜めている 様
い。
「灌 水」の人は逆に発 言を好
どがある。 こうした仮 想のネッ
子 に 似 ていることに 由 来 する。
む。 もしネット上のチャット画
ユーザーの 活 発 度 の 面 からみる
と、正 反 対の意 味を表している。
トワークの 中には、 沈 黙を 守る
「冒 泡」とは、長 時 間「潜 水」して
面を水 面に例えるなら、「潜 水」
のが 習 慣となっている 者もいれ
いたのに、ある時 突 然 現れて発
の人はいつも水 中に頭を引っ込
ば、みんなの 見 物が 好きな 者も
言することであり、水 中からぶ
めて隠れており、一 方「灌 水」の
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 71
咬文嚼字
人 は い つ も 水 面 上にいて、水を
ガンと関 係を築きたい者や反 対
インターネット が 強 烈 な 勢 いで
注ぎ続けているのである。
に彼に対して不 満を持っている
私たちの生 活を変 化させてい
「灌 水」という語には、ネット
ネットユーザーら が み な 掲 示 板
る 現 在、新しく 出 現するネット
ユーザーがよく 発 言 する 行 為 を
にアクセス し、B B S 内 の 書 き 込
用 語も枚 挙に暇がない。その中
示すと同 時に、否 定 的な意 味も
みは 短 時 間 のうちに 雪 崩 のよ
には、斬 新で生 命 力に溢れた創
また含まれている。一 般 的に言
うに増 加し収 拾のつかない事
造 的な言 葉もあれば、言 語の仕
えば、
「灌 水」の人が発 言する内
態 となった。 ホームページ の 管
組みに反するような濫 用も見
容や話は、たいてい 意 味のない
理 者 側もあまりに多くの書き
受けられる。 こうしたネット用
ものであることが多い。これは
込みの 処 理ができなくなり、多
語に 対して、私たちはよくよく
「灌 水」という語の由 来に関 係し
く の ネットユーザーが 一 度 に 殺
取 捨 選 択しながら、これらの言
到したことによって、 ついに 掲
葉 の 中 から 粗 悪 な 物 を 排 除 し、
示 板 はダウン してしまったので
より長い時の流れや淘 汰にも耐
ある。
えうるものにしていく必 要が
ている。
聞くところによれば、元アメ
リカ大 統 領のレーガン氏は BBS
の愛 好 者で、大 統 領 任 期 中にあ
のちに、レーガンはこの B B S
って、 ネットを 利 用し 身 分を 隠
の 管 理 者 に 対 して 補 償 をした
し て 掲 示 板 を 巡 回 し、一 般 の
というが、
「add water」の威 力は
人々の苦しみや痛みを理 解する
こうして 広まり、中 国にまで 伝
のを 好んだという。 彼が 使った
わった「add water」は「灌 水」と
ID が「add water」でネット上に
訳されるにいたった。 したがっ
多くの 友 人がいたというが、当
て、「灌 水」とはあまり大きな意
時だれもこのID の主がアメリカ
味を 持たないわりには、威 力は
大 統 領であることを知らなかっ
小さくないといえる。しかし今
たのである。大 統 領を退 任して
日、多くの人はこの「灌 水」の否
はじめて、 レーガンは 親しい 友
定 的な意 味はうすれてきてし
人 数 人 にこの 秘 密 を 明 かした
まっている。
という。この暴 露によって、レー
72 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
「潜 水」にせよ「灌 水」にせよ、
あるだろう。
日本孔院
日本首家孔子学院 —— 立命馆孔子学院举行 1 0 周年纪念仪式
日本初の孔子学院 — 立命館孔子学院 10 周年記念イベント
10
月 10 日,日本首家孔子学院
总部 副总干事、汉 办 副主任夏 建 辉宣
立 命 馆 孔子 学 院 在 立 命 馆
读了总部总干事、汉 办主任 许 琳 发 来
10
月 10日、日 本 初の 孔 子 学 院
である 立 命 館 孔 子 学 院は 立
大学 国 际 和平博 物 馆 举 行成 立 10 周
的贺信,特 别肯定在立命 馆大学和北
命 館 大 学 国 際 平 和 ミュ ージアム にて
年 纪 念仪 式。 孔子学院 总部/国家 汉
京大学的共同努力下,孔子学院 坚 持
10 周 年 記 念イベントを 開 催した。 孔
办、北京大学、中国驻大阪 总领事馆以
服 务当地,积极 开展高质 量的汉语 教
子 学 院 総 部 / 国 家 漢 弁、北 京 大 学、中
及京都府、京都市友 好团 体 和滋贺县
学和高水平的学术研究,举 办 丰富多
国 駐 大 阪 総 領 事 館 及び 京 都 府、京 都
草津市政 府等代表出席纪念活动。
彩的文化讲座和交 流 活 动,取得 令人
市 日 中 友 好 協 会と滋 賀 県 草 津 市 役 所
立命 馆 大学 校 长吉田美喜夫在
瞩目的成 绩。北京大学 校务 委员会副
の 代 表 な ど そ う そ う た る 面々が 記 念
致 辞中高度 赞 扬 孔 院 10 年来 取 得 的
主任 叶 静 漪 致 辞 表 示 希 望 继 续 推 动
イベントに出 席した。
成 果,感谢各方对立命 馆 孔院 鼎力支
两所大学之间 的学 科 研究 和学生 交
立 命 館 大 学 校 長の 吉 田 美 喜 夫 氏は
持,并表示今后将 继 续 推 进语言教学
流。 总领馆领事、教育室长 李 春 生 致
孔 子 学 院の 1 0 年 間で果たした役 割を
与文化 交 流事业,为不断 深 化两国友
辞 强调,
“尽管目前中日关 系受到众 所
評 価し、各 方 面の方々に立 命 館 孔 子 学
谊、促 进 互利关 系发 展做 贡献。孔院
周知的原因的影响,遇到一些困难,但
院 への 御 支 持 への 感 謝 を 表 すととも
中日关 系的前途一定 是 光明的,让我
に、立 命 館 孔 子 学 院は、平 和 的・ 学 術
们共同努力早日迎 来中日关 系更 加美
的 交 流 を 通 じて 両 国 が 友 好 関 係 を 深
好的明天。
”
めることができるよう、今 後も言 語 教
仪式后,与会代表和当地市民共
育・文 化 交 流 事 業の更なる展 開を目 指
同欣赏北京大学学生艺术团与立命 馆
し、中 国と日 本の架け橋として貢 献で
大学 邦乐队的 特 别演出,包括中国 传
きるよう努めていく決 心をのべた。孔
统民乐、民族舞、合唱的表演与日本古
子 学 院 総 部 副 総 幹 事、漢 弁 副 主 任 夏
筝名曲的演奏。
建 輝 氏が 総 部 総 幹 事、 漢 弁 主 任 許 琳
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 73
日本孔院
氏からの祝 辞を読み上げ、立 命 館 大 学
活 動を催してきたことを評 価した。北
と 北 京 大 学が 協 力 体 制のもと、 孔 子
京 大 学 校 務 委 員 会 副 主 任の叶 静 漪 氏
学 院の 現 地サービスが支えられ、ハイ
は今 後も引き続き 2 校 間の学 科 研 究
クオリティな漢 語 教 学と高レベルの学
と 学 生 交 流 を 推 し 進 めていけるよう
術 研 究、 多 種 多 様な 文 化 講 座と 交 流
に祈っていると述べた。総 領 事 館、教
育 室 長 李 春 生 氏 は「 現 在 日 中 関 係 は
皆 様 もご 存 知 のような 影 響 を 受 ける
学 学 生 芸 術 団による 中 国 伝 統 民 族 音
ことがありますが、日 中 関 係の前 途は
楽・民 族 舞 踊・合 唱と立 命 館 大 学 邦 楽
洋々たるものです。中 日 関 係の美しい
部 の 学 生 達 の 筝 の 名 曲 などの 特 別 公
明 日を一 日も早く迎えらるよう、一 致
演を鑑 賞した。
団 結しましょう。
」と強 調した。
イベント後、会 代 表と市 民が北 京 大
文・北大志愿者 刘莎
( 北 京 大 学 ボ ラ ン テ ィ ア 劉 莎 )
北京大学学生艺术团赴
日本孔子学院巡演取得圆满成功!
北京大学生芸術団日本孔子学院巡回公演成功!
10
月 7 日,北大艺术团在早稻田大学小野 纪念 讲
堂进行首场公演。早稻田大学副校长、孔子学
院 院长 森田典正出席并致 辞。 艺 术团以一曲充满喜庆
气氛的《花 好月圆》为演出拉开帷幕;蒙古 族 舞 蹈《心
10
月 7 日、北 京 大 学 芸 術 団は早 稲 田 大 学の小 野 記 念 講 堂
にて孔 子 学 院の巡 回 公 演の幕を切った。早 稲 田 大 学の
之寻》把 观众们带到了辽阔浩瀚的草原,深切感受到蒙
副 校 長、孔 子 学 院 院 長である森 田 典 正 氏が出 席し、ご挨 拶をした。
古族 人民的淳 朴热情;小合唱《美丽的草原我的家》既
芸 術 団は喜びの気 持ちに満ち溢れた「花 好 月 圓」ではじまり、モン
突出了民族 风情,又 展现了新时代的气息。最 后,民乐
ゴル舞 踏の「心 之 尋」で観 衆を広々とした草 原へと連れ去り、モン
团演奏了专门为此 次 巡 演 排 练的日本经典曲目《故乡》。
ゴル民 族の純 朴な情 熱に触れさせた。小 合 唱の「美 麗 的 草 原 我 的
此 后 在 观 众 的 热 烈 欢 呼 声中, 艺 术 团 带 来了返 场 曲
家」では、少 数 民 族の風 情が強くなりつつも、新 時 代の息 吹も感じ
目 —— 日本歌曲《红蜻蜓》。在同学们的歌 声和观众的
させた。最 後に、
民 族 楽 団は今 公 演のために特 別に練 習をした「ふ
掌声中,本场演出圆满落幕。观众们纷 纷上台与演员们
るさと」を演 奏した。その後、アンコールに応えて芸 術 団は同じく
合 影交谈,
久久不愿离去。
日 本の童 謡「あかとんぼ」を演 奏した。歌 声と観 客の拍 手の中、今
此外,北大艺术团先后赴 立命 馆大学、爱知大学、
樱美林大学高岛学堂、立命 馆亚洲太平洋大学等四所孔
公 演は大 好 評の内 幕を閉じた。観 客は一 人また一 人と、台 上の演
奏 者たちと写 真を撮り、離れがたい様 子であった。
子学院 演出。 巡 演 活 动不仅 展示了北京大学学子的风
その他、北 京 芸 術 団は立 命 館 大 学、愛 知 大 学、桜 美 林 大 学 高
采,加强了中日大学生之间的沟通和理 解,更 加深了当
島 学 堂、立 命 館アジア太 平 洋 大 学の 4 か 所の 孔 子 学 園でも 演
地民众对中国文化
奏した。巡 回 公 演は、北 京 大 学 学 生の才 能を世に知らしめただ
艺 术 的了解,为中
けでなく、日 中 大 学 生 間の交 流と理 解をや市 民の中 国 文 化や
日文化交流搭建了
芸 術に 対する 理 解を 深めることにも 繋がった。 日 中 文 化の 友
友谊的桥梁和艺
好の懸け橋がまた一つかけられた。
术的平台。
74 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
文・北京大学提供
(北京大学提供)
总部新闻
*
本部ニュース
N E W S F R O M T H E H E A D Q UA R T E R S
习近平出席全英孔子学院和孔子课堂年会开幕式为第 1 0 0 0 所孔子课堂揭牌
習近平国家主席がイギリス孔子学院・学堂の年次総会開幕式に出席 10 0 0 個所目の孔子学堂オープンを祝う
当地时间10月 22日,中国国
家主席习近平在英国约克公爵
安德鲁王子的陪同下,出席了在伦敦举办
的全英孔子学院和孔子课堂年会开幕式。
习近平在开幕式致辞中指出,孔子学院是
世界认识中国的一个重要平台。安德鲁王
子在致辞中表示,学好汉语将为发展英中
合作伙伴关系做出贡献。随后,习近平和
安德鲁王子共同为全球第 1 0 0 0 所孔子课
堂 —— 奥特利尔中学孔子课堂揭牌。
現 地 時 間 1 0 月 2 2 日、中 国 国 家 主 席 習 近 平 氏
は イギリス の ヨーク 公 爵 アンドルー王 子 の 案 内
で、ロンドンで行われるイギリス孔 子 学 院・ 学 堂
の年 次 総 会 開 幕 式に出 席した。 その際、習 主 席
が「 孔 子 学 院は 世 界に 中 国を 理 解してもらうた
めの重 要なプラットフォームだ」と話したのに対
し、アンドルー王 子は、
「中 国 語をマスターするこ
とが 英 中 間パートナーシップの 発 展に 貢 献する」
と返 答した。その後、習 主 席はアンドルー王 子と
共に 世 界で 1 0 0 0 個 所 目の 孔 子 学 堂となる、 オ
ートリ中 学 校 孔 子 学 堂の開 幕を行った。
向巴平措访问摩尔多瓦自由国际大学孔子学院
向巴平措 ( チャンパ・プンツォク ) 氏がモルドバ自由国際大学孔子学院を訪問
当 地 时 间10月16日,
現 地 時 間 1 0 月 1 6 日、 全 人 代 常 務
全国人大常委会副委
委 員 会 副 委 員 長 向 巴 平 措 氏が代 表 団
员长向巴平措率代表团访问摩尔
を 率 いてモルドバ 自 由 国 際 大 学 孔 子
多瓦自由国际大学孔子学院,与
学 院を訪 問した。訪 問 中、教 師や学 生
授课教师和学生交流,高度肯定
らと言 葉を交わし、自 由 国 際 大 学 孔 子
自由国际大学孔子学院近年来汉
学 院 の 近 年 における 中 国 語 国 際 教 育
语国际教育的成功开展。
の世 界 的 展 開を高く評 価した。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 75
各国孔子学院召开联 席会 议
各国孔子学院合同会議開催
9 月下旬至 11 月上旬,巴西、泰国、日本、
意大利、韩国等国和非洲地区孔子学院(课
堂)联席会议相继召开。会议期间,与会代表分别就提
升孔子学院办学质量和水平、本土教师培训、建立校友会、
加强与中资企业及当地机构合作等议题展开讨论。
9 月 下 旬から 1 1 上 旬にかけ、ブラジル・タイ・日 本・
イタリア・ 韓 国などの国とアフリカ地 域の孔 子 学 院・
学 堂が合 同 会 議を次々と開いた。会 議 期 間 中は、各 孔
子 学 院の教 育 水 準の向 上・母 国 出 身 教 師の養 成・同
窓 会 創 設・中 国 系 企 業 及び地 元 機 構との連 携の強 化
などといった議 題をめぐって討 論が行われた。
孔子学院 总部携众多教学新资源亮相
伦敦、法兰克福书展
豊富多彩な新教材を携え孔子学院総部が
ロンドン・フランクフルトブックフェアに登場
3
4
1
10 月 16 日至 18 日,孔子学院总部携数百种汉语教材、文化读物
和工具书参加了在伦敦举行的第 27 届英国语言展,新推出的各类
汉语学习资源受到当地老师和学生的热烈欢迎。
在 10 月 14 至 18 日举行的法兰克福书展上,孔子学院总部展场气氛热烈,
前来咨询洽谈的业内机构对汉语教学新资源兴趣浓厚。展览期间,孔子学院总
部与多家出版社达成合作意向,向意大利 Hoepli 等知名国际出版社转让版权 20
余种。
2
1 0 月 1 6 日から 1 8 日にかけて、孔 子 学 院 総 部が数 百 種の中 国 語テキス
トや文 化 的 書 物、レファレンスブックなどを携えて、ロンドンで行われる第
2 7 回イギリスランゲージショーに 参 加した。 新しい 中 国 語 学 習 資 源 各 種
は、現 地の教 師と学 生から好 評を得た。
1 0 月 1 4 日 から 1 8 日 にかけて 開 催 されたフランクフルトブックフェア
では、高 揚した雰 囲 気をまとう展 示 会 場 内に出 展し、新 教 材はこちらでも
1、2 . 英 国 语 言 展 / 3、4 . 法 兰 克 福 书 展
1、2. イギリスランゲージショー
3、4. フランクフルトブックフェア
76 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
各 業 界 内 団 体から大 人 気を博した。展 示 会 期 間 中、多 数の出 版 社から協
力の意 向が寄せられた孔 子 学 院 総 部は、イタリアのHoepli をはじめとした
世 界で名を馳せている国 際 出 版 社に出 版 権の 2 0 種 余りを譲 渡した。
第三届北美孔子学院(课堂)汉语教学研讨会举办
第三回北アメリカ孔子学院・学堂中国語教育シンポジウム開催
10 月 16 日至 18 日,由加拿大埃德蒙顿孔子学院和波特兰州
立大学孔子学院联合主办的“第三届北美孔子学院及孔子课堂
汉语国际教学研讨会”在埃德蒙顿市召开。本次会议研讨内容包括教学案例、
教学反思、教学研究、教材开发与使用、教学评估、网络教学及师资培养
等课题。会议对北美地区汉语教学的丰硕成果进行了充分展示,不仅共享
了教育思想和教学资源,也进一步强化了孔院之间的合作和友谊。
1 0 月 1 6 日から 1 8 日にかけて、 カナダエ
ドモントン孔 子 学 院とポートランド州 立 大 学
共 催の「第 三 回 北アメリカ孔 子 学 院・ 学 堂 中
国 語 教 育 国 際シンポジウム」がエドモントン
市で開かれた。教 学 案、反 省 点、研 究のほか、
教 科 書の執 筆と使 用や授 業アセスメント、オ
ンラインスクール、 教 師 養 成などといった課
題が検 討され、北アメリカ地 域における中 国
語 教 育の大きな成 果を披 露し、教 育 理 念と教
育 資 源の共 有 化が達 成されたのみならず、各
学 院 間の絆も更に深まる結 果となった。
第八届“汉语桥”
世界中学生中文比赛
第八回「漢語橋」
世界中学生中国語大会
400 多名外国学生角逐中文比赛,
泰国队获团体总冠军。
“来吧来吧,快乐学汉语!”10
月 31 晚,在“汉语桥”比赛
的主题歌声中,为期 17 天的第八届“汉
语桥”世界中学生中文比赛总决赛暨闭
幕式在云南师范大学举行,经过现场激
外 国 人 学 生 合 計 4 0 0 余 名が中 国 語 大 会で火 花を散らした結 果、タイ代 表
チームが団 体 優 勝の座を勝ち取った。
烈的角逐,泰国队获得团体总冠军。该
「来 吧 来 吧,快 乐 学 汉 语! ( みんな集まれ、楽しく中 国 語を学ぼう!) 」というテ
比赛由孔子学院总部 / 国家汉办、云南省
ーマソングの中、
「漢 語 橋」大 会は 1 0 月 3 1 日 夜に千 秋 楽を迎えた。1 7 日 間にも
人民政府联合主办,吸引了来自 81 个国
亘る第 八 回「漢 語 橋」
世 界 中 学 生 中 国 語 大 会 決 勝 戦は閉 幕 式も兼ね、雲 南 師 範 大
家 96 个赛区 79 支参赛队,400 多人参赛,
学で行われ、現 場で激しい競 争を勝ち抜いたのは、タイ代 表チームだった。孔 子 学
是历届“汉语桥”世界中学生中文比赛
院 総 部 / 国 家 漢 弁と雲 南 省 政 府が共 催する今 回の「漢 語 橋」大 会は、8 1ヶ国・9 6
中参赛国家最多、参赛人数最多的一届。
地 域・7 9 チーム・4 0 0 余 名の参 加 者を含め、これまで行われてきた各 回の中で参
加 国・参 加 者 数が最も多いものとされている。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 77
汉语课堂
KEY
T
P OI N
ON
LESS
中
文的数词不能直接修饰名词,
数词和名词之间一定要加上量词使用。如“一张纸”
“
、一 块 豆 腐”( 豆 腐一丁) 中 的
(一 枚 の紙)
“
、黑 板 上 画 着 一 条 线”( 一本 の線)
“张”
“条”
“块”
。可是,
对什么样的名词使用什么样的量词,
这对学习者来说是意外的难题。
: 如果实在不知道,
我经常被学生问:
“老师,到了中国怎么说才好啊?”有时就随口回答 “
个 的 使 用 范 围 有 多 大?
就先用‘个’代替吧。
”诚然,
“个”的用法与日语的助数词“つ”比较相近,
因此看上去使用
”
“
范围很广。但是,与“つ”相比,可以说“个”的使用并没有那么的自由。这 次,我们就 来看
一下“个”的使用范围。首先请看下面的两幅图:
”
个“
って、ど の 範 囲 ま で
中
国 語では、数 詞の後ろに直 接 名 詞を置いて修 飾することができません。間に
必ず量 詞を挟まなければなりません。 例えば、
“一 张 纸”
「一 枚の紙」
、
“黑 板
上 画 着 一 条 线”
「黒 板に一 本の線をひく」
、
“一 块 豆 腐”
「一 丁の豆 腐」
の“张”
“条”
“块”
がそうです。ところが、どの名 詞にどの量 詞を使うのかを把 握するのは、学 習 者には
意 外と難しいようです。よく学 生から「先 生、
中 国に行ったらどうしたらいいのですか」
と聞かれ、
「とりあえず、わからないときは“个”
を使ってください」
とつい無 責 任に答
えてしまいます。
“个”は確かに日 本 語の助 数 詞「つ」に近く、使 用 範 囲はとても広く
見えます。しかし、日 本 語の「つ」と比べるとそれほど自 由とも言えません。今 回はそ
の“个”の使 用 範 囲についてみていきましょう。まずは下の二つの絵を見てください:
?
文・杨达
A : 机の上にりんごが三つ
如 果 被问到“桌子上有什么?” 大家 的回答应
该是这样的吧 :
B : 机の上にりんごが一 山
「机の上に何がありますか」と聞かれたら、皆さんの答
えは下 記のようになるでしょう。
A .....“
. 有三个苹果。
”
A........「 りんごが三つあります。」
B.....“
. 有很多苹果。
”
B........「 たくさんのりんごがあります。」
像这样,人在看到多个 物 体 的时候,有时 将 其
このように、人の 目はものを 見 定める 時、それを 一つ
作为一个独立的物体来认知,而有时则会将复数的
一つ独 立したものとして認 識する場 合と、ある複 数のも
物体 统一作为一个 物体(连续体)来认知。实际上,
のを一 括して一つのもの(連 続 体)として認 識する場 合が
“个”仅在前一种情况下登场。
那么,是否只要是前一种 情况,不论 何时 都可
あります。実は“个”は前 者の時にしか登 場しません。
では、前 者の時であれば、どんなときでも“个”が使え
以使 用“个” 呢? 事 实 上也并非如此“自由奔 放”。
るのかというと、それほど「奔 放」にさせてはくれないよ
从 结论上 来说,属于以下几 种形 状的物 体 时,是一
うです。結 論から言いますと、以 下の場 合は必ずその形に
定要使用该形状的专属量词,
而无法使用“个”的。
属する量 詞を使い、
“个”を使うことはできません。
78 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
中国語教室
❶ 细 长 的,一 次 元 的,线 条 状 的
❷ 平 面 状 的(包 括 正 方 形),二 次 元 的
細 長い、一 次 元に感じるとき
二 次 元に感じる(正 方 形も含む)とき
eg. 纸 上 或 黑 板 上
条
CIN EM A
TI CKET
admission one
eg. 票、纸 张
C IN
TI C EM A
K
张
ET
adm
iss
ion
one
チケット、紙
紙や黒 板に書いてある線
❸ 细 长 的 立 体,三 次 元 的,棍 棒 状 的
❹ 二 次 元 的,带 有 厚 度 的
細 長い三 次 元(円 形も含む)に感じるとき
細 長い二 次 元のものに厚みを感じるとき
eg. 电 线、钢 笔、牙 签 等
電 線、万 年 筆、楊 枝など
根
片
eg. 木 板,树 叶 等
木 板、木の葉など
❺ 长宽高基本相等的立体
❻
横 幅、厚み、奥 行きがほぼ同じに感じるとき
❶~❺のいずれでもないとき
eg. 豆 腐,砖 块 等
豆 腐、レンガなど
不 属 于 以 上 ❶-❺ 的 时 候
“个”
也可以使用
块
个を使っても大 丈 夫です
也许 有人会问 “
: 桌子和床明明是立体的,为
しかし、「机やベッドは 三 次 元なのに“张”とも 数える
什么用‘张’来数呢?”。实际上,我们在认知物体
のはなぜ ?」と思う方もいるでしょう。 実は我々がもの見
时,有时会仅从它的功能上来着眼。桌子和床,对
るときにその機 能する面だけに注 目することがあります。
我们来说有用的都只 是它的上表面部分,所以我
机もベッドも 機 能するのはその 表 面でありますから、 二
们会将其认知成一个平面,从而用“张”来数。当
次 元に感じられ、
“张”が使われるのでしょう。当 然 机やベ
然,如果我们选择桌子和床的包括脚的部分来整
ッドの足 部 分をも含んで認 識するときは、❶ ~ ❺の形 状
体认知的话,它们的形状就不属于前述的 1- 5 项,
から外れますので、
“个”を使うことになります。
量词就应该 选择“个”
。
ところで、ご存 知のように中 国 語は人を“个”
「個」で数
顺便说一句,大家知 道,中文中“人”的量词
えます。それに違 和 感を覚える方はいませんか? そうで
是“个”。你是否曾经 觉得 很不可思议?没 错,人
す、人 間の形は上で挙げた形 状に属さないから“个”で数
所以用“个”来数。
的形状不属于前述的 1- 5 项,
えるのです。
最 后想要强调 的是,以 上介 绍的“个”的用
以 上 紹 介 した“ 个 ”の 用 法 はあくまで 急 場 をしのぐた
法 只 是 应急,如果真的想要学好中文,量词 的学
めであり、本 当に 中 国 語をマスターしたい 方は 量 詞の 習
习仍然是必不可少的。
得は必 要 不 可 欠であることを最 後に強 調したいです。
P S : 以上主要是针对物体,关于动 物,咱们
找机会再聊。
今 回は物についてのみでしたが、動 物については、また
の機 会にお話ししましょう。
CONFUCIUS INSTITUTE NO. 33 | 79
汉语课堂
一
笑话
ジョーク
部 屋を き れ い に 保と う
讲究卫生
!!
家 三口人高 高兴 兴地 搬 进
了三 室两厅的 新房 子。 可
3
人 家 族 が 新 し い 家 へ 引っ越 し て き た。3 部 屋
にリビング・ダイニング別の大きい家で 3 人と
是,家 里的一大一小两男人 还像 居
も大 満 足だ。しかしこの家 族の男 性 陣は昔の小さな
住在原来平房那样随随便便乱扔东
家の 時のように 物を 散らかしっぱなし。 引 越しから
西。 没 过 几 天,新居里 就 被 搞 得乱
何 日もたたないうちに、新しい家はぐちゃぐちゃにな
七八糟。
ってしまった。
一天,家 庭 主 妇实 在 没有办法
ある日、奥さんは耐えられなくなり、入 口に「部 屋
了,
就在门口的提示板上写下了这样
をきれいに保とう。住んでいる「人 人」皆に責 任があ
一行字:
讲究卫生,
人人有责!
るのだから!」と書いた。
儿子先回到家 里。 看到了提 示
息 子がまず 家に 帰ってきた。 入 口の 母の 文 字を 見
板上妈妈写下的字,会意地笑了,并
ると意 地 悪く微 笑みながら、さっと「部 屋をきれいに
随手改 成了下列文字:讲究卫生,大
保とう。住んでいる「大 人」みんなに責 任があるのだ
人有责!
から!」と変えてしまった。
丈 夫 接 着回来了。 在 儿子的 提
次に 夫が 帰ってきた。 息 子が 入 口の 母の 字を 見せ
示下,看完 之 后几乎 未加 思索 就 把
ると、何も考えずに夫はささっと何かを書き足した。
文字改成:
讲究卫生,
夫人有责!
結 局 文 字は「部 屋をきれいに保とう。住んでいる「夫
人」に責 任があるのだから!」になってしまった。
工作多年,准备马上
あ
る若 者が都 市 部に出てきて働いていて、最 近 結 婚を考え
るようになった。彼の両 親は都 市 部 附 近の農 村に住んで
いる。 中 国の習 慣にのっとると、結 婚 式は実 家に帰ってあげな
近的农村老家,
按照中国习惯,
ければならない。結 婚 式の前 日、父 親からショートメッセージが
他 的 婚 礼一定 要回 农村 老家
来た。
「結 婚 式には都 市 部から何 人の友 達が来るんだい? 準 備
举 行。婚礼的前一天,他父母
をしておくから。」
给 他 发来短信:举办婚礼时,
若 者はすぐに「多くないよ。1 トンのお食 事を用 意してくれ 。」
城 里 一 共 大 约 能 来 多 少人,
と返 事をした。忙しすぎて、1食(顿)を1トン(吨)と打ってしま
家里好提前做 好准备。
ったのだ。
小伙子发去短信说:人不
父 親はびっくりしてす
多,准备一吨饭。由于当时比
ぐに 息 子 に 返 事 をした。
较 忙 乱,他错把“顿”写成了
“吨”
。
「 1 トンか! お米、鍋を買
い足しに行かなければ
他爸 爸很快 给 他回复 短
ならないから、結 婚 式を
信:
一吨米饭,
要去买米,还要
1 日 遅らせた 方が 良いん
去买锅。建议 婚礼推迟一天。
じゃないか。」
80 | 孔子学院 中日文对照版 总 第 3 3 期
1
トン の 祝 宴
结 婚。 他的父母 住在城市附
有
一 个小伙子在城 里
一吨饭的婚宴
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
一吨饭!