平 成 2 1 年 2 月 1 3 日 科 学 技 術 振 興 機 構( J S T ) Tel: 03-5214-8404(広 報 課 ) 電 気 通 信 大 学 Tel:042-443-5019 (入試・広報課) 生体たんぱく質分子の光異性化に伴う 分子変形の実時間測定に成功 (さまざまな化学物質や生体分子の反応機構の解明に道) JST基礎研究事業の一環として、電気通信大学 大学院電気通信学研究科の小林 孝 嘉 特任教授らは、「バクテリオロドプシン」というたんぱく質分子の構造が変わる直前 の遷移状態注1)における瞬間の振動スペクトル注2) を測定することに成功しました。 バクテリオロドプシンは光の照射によりその分子構造が変化(光異性化)しますが、 その反応は超高速であるため、遷移状態を実反応時間で観測することは難しいとされて きました。 本研究グループは、超短レーザーパルス発生装置と多波長同時検出装置を組み合わせ ることにより、実反応時間での分子振動スペクトルの測定を可能にしました。このスペ クトルは分子および電子の状態を反映しており、これらを解析することにより分子がど のような構造状態にあるかが明らかになります。本研究ではこの技術を複雑な生体高分 子に適用し、膜たんぱく質バクテリオロドプシンの光異性化過程において、遷移状態に ある分子の振動スペクトルを観察することに成功しました。このスペクトル解析により、 バクテリオロドプシンの光異性化の初期過程においては、最初にレチナール注3)分子のC =N結合の変形が引き起こされ、その後のC=C結合長の変化により分子の一部が回転 することで異性化することが判明しました。 光異性化のような分子の超高速の構造変化をリアルタイムで追跡することを可能にし た今回の成果は、これまで解析が難しかった多くの現象解明につながり、医学や生物科 学の分野に役立つことが期待されます。また、通信などの分野では新たな高速光デバイ ス材料の発見と応用加速にも貢献するものと思われます。 本研究は、台湾交通大学の籔下 篤史 准教授と共同で行ったものです。 本研究成果 は 、2009年2 月1 5 日(米国 東 部時 間) 発行の 米国科学雑 誌 「Biophysical Journal」に掲載されます。 本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。 戦略的創造研究推進事業 ICORP型研究 プロジェクト名:「超短パルスレーザープロジェクト」 研究総括:小林 孝嘉(電気通信大学 大学院電気通信学研究科 特任教授) Ferenc Krausz(マックス・プランク量子光学研究所 ディレクター) 研究期間:平成18年3月∼平成23年3月 本プロジェクトでは、日本側は、超短パルス光源と超広帯域・超高感度の検出装置を開発し、物質 の電子状態や分子振動における動的過程の観察や制御を可能とすることを目指しています。 1 <研究の背景と経緯> 1.遷移状態分光 分子の遷移状態を観察する方法としては、分子を極低温状態にすることで反応を低速化 して分子振動の観察を行う方法が主流ですが、本研究グループの小林らは、高速の反応を そのまま観察する「遷移状態分光(図1)」を提唱してきました。 遷移状態分光において分子の振動を振動周期の数分の一以下で測定するためには、5フ ェムト秒 注4)以下の超短パルスと、広帯域の波長が同時に計測できる検出器が必要となり ます。小林らはこれまでに、スペクトルの成分波長ごとに強度が極端に変化せず、なめら かで広帯域(470∼800nmの波長領域)なスペクトルを持つ3.9fsの超短パル スを発生できるNOPA光学系注5)と128個の波長を同時に測定できる128チャンネ ル検出システムの開発に成功しています。 2.バクテリオロドプシン バクテリオロドプシンは、バクテリアの細胞膜において水素イオン(プロトン)を細胞 の内外へ出し入れするプロトン輸送に関わる生体膜たんぱく質です。バクテリオロドプシ ンにある波長の光が照射されると、たんぱく質中のレチナール分子がトランス型からシス 型へと変形(図2)し、これがレチナールの周辺を取り囲むたんぱく質の構造変化を引き 起こして、プロトンの輸送につながります。バクテリオロドプシンのこの光反応の初期過 程は、生物の網膜にあるロドプシンと同様であることが知られています。 ロドプシンの光反応は数個の光子を検出できる人間の眼の視覚機構の根本を担う反応で あり、その反応過程を解明することはとても重要です。しかし、ロドプシンは非常に脆く 強い光を照射すると容易に壊れてしまうため、超短レーザーパルスを使用した時間分解分 光解析を行うことは困難でした。一方、 バクテリオロドプシンはとても丈夫な物質であり、 一度光を当てても分解せずに元の状態に容易に再生するため、ロドプシンの光反応のモデ ル物質としてよく研究されているとともに、超高速光異性化による光に対する応答性の変 化を利用した超高速光デバイスの材料として、光メモリーやスイッチなどへの応用も期待 されています。 バクテリオロドプシンが光励起注6)された後の異性化の初期過程については、実験的・ 理論的に幅広く研究されいくつかの説が示されていますが、未だに確定的な結論が得られ ていませんでした。 <研究の内容> バクテリオロドプシンの光異性化は超高速の反応であり、これまで遷移状態の実時間で の測定は不可能とも考えられ、また実際できていませんでした。本研究グループは今回、 NOPA光学系を用いた超短レーザーパルスと128チャンネル検出システムを組み合わ せることにより、バクテリオロドプシンの光異性化における最初期過程の実時間観測に成 功しました。 まず、バクテリオロドプシンの光異性化過程において、波長と時間による二次元時間分 2 解スペクトルを測定しました。波長軸では505∼664nmの範囲の128データ点、 時間軸ではマイナス100∼800フェムト秒まで1フェムト秒ごとに900データ点の 波長スペクトルを測定し、実時間分子振動を観測しました。4つの特徴的なスペクトル領 域は、分子がそれぞれ4つの異なる電子状態であることを示し、光励起されたバクテリオ ロドプシンの振動モードのダイナミクスが明瞭に視覚化されました(図3)。 次に、超短パルスレーザーで試料を瞬間的に光照射し、準連続的に光吸収を測定しまし た。この結果、1フェムト秒ごとにそのスペクトルが変化する様子が観測され、吸収ピー クエネルギー・強度の変化から極めて高速に分子構造変化が時々刻々起きている現象が観 測されました(図4) 。また、分子振動周波数の解析では、特に光励起直後においてC=N 結合に特徴的な1600cm−1の信号が観測されることから、このC=N結合が光励起直後 に変形を始めることが明らかになりました。さらに、分子振動(瞬時)周波数と既に確立 している実験式との対比から、光異性化過程における分子構造の変化で、分子結合の結合 長が時々刻々と変化する様子も鮮明になりました(図5)。 これらの結果から、バクテリオロドプシンの光励起状態においてはたんぱく質中のレチ ナール分子のC=N結合で最初の配置変化が生じ、次にC=C伸縮周波数が変化しC=C 結合周囲でのひずみが生じて異性化につながることが分かりました。これまで長い間、光 励起後最初に起きる過程はC=C結合の変形であると考えられてきましたが、本研究によ り、C=N結合の変形が先行して起きていることが示されました。これは、C=C結合の 変形を妨げる人工分子を結合したロドプシン様のたんぱく質が、天然ロドプシンと同様な 初期スペクトル変化を示すという不可思議を完全に説明し得る実験結果です。 バクテリオロドプシンの遷移過程の解明により、ロドプシンの光反応解明につながると ともに、バクテリオロドプシンの超高速全光スイッチなどの超高速光デバイス材料として の応用加速が期待されます。 <今後の展開> 超短レーザーパルス発生装置と多波長同時検出装置の組み合わせにより、フェムト秒の 単位で生じるたんぱく質の構造変化の実時間測定と解析が可能となりました。 実時間振動分光法の発展は、生体高分子における分子構造変化をリアルタイムで追跡す ることを可能にし、これまで解析が難しかった多くの現象が明らかになると考えられます。 例えば、化学反応や光誘起相転移における瞬間、瞬間の分子構造の全貌が明らかになり、 光学的プローブが重要となる医療や生物科学の分野への発展が期待されます。 また、本測定技術を用いることにより、新しい非線型光学材料(光の照射により性質が 変化する特性を持った材料)の探索・解析が進められ、光通信の分野においては超高速の 光信号を処理するための超高速全光スイッチの実現につながることも期待されます。 3 <参考図> 図1 遷移状態分光法 数フェムト秒パルスを用いることで反応過程の直接的な実時間測定が可能となり、極短 寿命中間体や遷移状態における分子構造などの情報を得ることができます。 A B トランス型 シス型 図2 バクテリオロドプシン中のレチナール分子の異性化模式図(トランス型→シス型) A:レチナール分子全体、B:レチナール分子の回転部分の拡大図。 紫色は炭素原子(C)、青色は窒素原子(N)を表します。 4 プローブ周波数 (cm-1) 遅延時間︵フェムト秒︶ プローブ波長 (nm) 図3 広帯域時間分解過渡吸収スペクトルの2次元図(遅延時間―プローブ波長) 4つのプローブスペクトル領域の時間的挙動を解析することで、光異性体の遷移状態の 分子ダイナミクスが明らかになりました。 5 遅延時間(フェムト秒) 波長(nm) 図4 1フェムト秒ごとの時間分解過程吸収スペクトル 235∼275フェムト秒(赤い矢印方向)のスペクトルにおける周期的変化は、レチナ ール分子のC=C伸縮振動の振動周期を反映しています。 図5 バクテリオロドプシン光構造異性化のダイナミクス 6 <用語解説> 注1)遷移状態 分子の構造変化における反応過程において、反応途中のエネルギーの高い、分子構造が 変わりつつある状態のこと。フェムト秒(10のマイナス15乗秒)という短時間で起こ る反応であることが多いため、直接的な観測はこれまでほとんど成されていなかった。 注2)分子振動スペクトル 分子中の原子同士の距離や角度の変化(分子振動)の変化量を光の周波数の分布パター ンで示したもの。振動の仕方によって、伸縮振動モード(距離変化)や変角振動モード(角 度変化)などがあり、 モードごとに特徴的な周波数の位置にピークとして現れることから、 分子がどのような構造を持っているかを与える重要な情報となる。 注3)レチナール 色素たんぱく質の一種であるバクテリオロドプシンやロドプシンの中で、光のエネルギ ーを吸収する機能をもつ色素分子のこと。オプシンと呼ばれるたんぱく質部分と化学結合 している。 注4)フェムト秒 10のマイナス15乗秒のこと。 注5)NOPA(Non-collinear Optical Parametric Amplifier:非共直線光パラメトリ ック増幅)光学系 フェムト秒オーダーのパルス幅を有する超短パルス光を発生させるための光学系。励起 光と信号光を非同軸角で入射することにより、広帯域な超短パルスの発生を可能とする。 注6)光励起 光の照射によって電子が光エネルギーを受け取り、分子や原子でエネルギーの高い電子 励起状態が引き起こされること。 7 <論文名> “Primary conformation change in bacteriorhodopsin on photo-excitation” (バクテリオロドプシンの光励起における初期構造変化) <お問い合わせ先> 小林 孝嘉(コバヤシ タカヨシ) 電気通信大学 大学院電気通信学研究科 量子・物質工学専攻 レーザー新世代研究センター 特任教授 〒182-8585 京都調布市調布ヶ丘1−5−1 Tel:042-443-5845 Fax:042-443-5825 E-mail: kobayashi@ils.uec.ac.jp 小林 正(コバヤシ タダシ) 科学技術振興機構 戦略的創造事業本部 研究プロジェクト推進部 〒102-0075 東京都千代田区三番町5 三番町ビル Tel:03-3512-3528 Fax:03-3222-2068 E-mail:kobayash@jst.go.jp 8
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