伊藤容之:新しい道 随 E28 筆 新しい道* 伊藤容之** * 平成 18 年 6 月 5 日原稿受付 ** 相模原市大島 2240-3 本号は緑陰特集である.私が編集委員であったとき,緑陰特集の趣旨は隔月発行の論文集を含む会誌 の硬さから離れ,夏の緑陰で気軽に読める内容とすると聞かされた.会誌の編集としては一時的路線変 更である.書棚に並ぶ会誌のバックナンバーを見ると,2003 年以降,背表紙の緑陰特集が消え,年間の 号数も以前の 7 号が 6 号となっている.この年以降,緑陰特集は電子出版となった,部分的とはいえ学 会誌の電子出版は国内では他学会に先駆けるものであったと記憶している.これは出版形態の大きな変 更であった. ”道を変える”という言葉から,今までの道,新しい道,誤った道,回り道,袋小路,路 線図などが連想される.また私の過去の仕事では off-load vehicle という用語も聞いた.以下は”新しい 道”についての私の雑念である. 新しい道の存在は,古い道,いままで歩いた道があることを前提とする.当学会の分野の基礎理論の 一つ,制御理論の記述も微分方程式を直接解くやりかたからラプラス変換等の利用,安定論の一般化, 線形理論から非線形,連続から不連続へと発展してきた.さらに計算方式も以前の手計算,各種線図, 計算図表の時代から電子コンピュータの時代となり,CAD ソフトの普及によりいわゆる手法のブラック ボックス化が進行中である 1),2). 自分のたどった道について思い起こすことがある.古い道もかつては新しい道だった.当時の新技術 であった,フルイディクス,空圧弁による論理回路,ファジイ理論に夢中になった昔が懐かしい. 設計の現場では,すべて形から始まる,理屈ぬきで方式を教えた.新来者の批判は通常の場合許され ない,新人はだまって従うだけである.よく設計は一人前になるのに 10 年といわれていた.古い標準が 活きていた,職人・徒弟のやり方である.宿老が職場を牛耳っていた時代でもあった.いかにしてそこ から新しいものが出てきたのか,また何故新技術に移行できなかったのか興味が尽きない. 新しい道,別な道には二つある.新技術への道と過失である. 前者の新技術,新理論についての思い出はつきない.1960-70 年代,海外の技術雑誌,論文集は新情 報に溢れていたような気がする,インターネットはおろかパソコン通信すらないころの話である.油空 圧技術の導入,建設機械の作業装置の操作はウインチによるケーブル駆動から油圧へと変革,トランジ スタ回路の普及,電子コンピュータの萌芽の時代である.もちろん,当時のすべての技術者たちが新情 報に興味を示したとは考えられない.企業の技術は狭い分野の専門技術者の集合で構成されている,そ のころでもそれぞれの専門家が担当の分野の第一人者を任じてそのなかには新規アイデアを歯牙にもか けない人もいた.特異な例として,雑誌,学会誌の類は読まないことにしていると豪語する人に会った こともある. 後者の過失のなかでは特に不慣れからくる新人の紙の上でのうっかりミスは数え切れない. 計算ミス, CAD ソフトの誤用による珍なる結果,組み立て不可能のユニット,誤りが二つ重なりその相殺により正 常動作を示す回路,永遠に起動しない始動時の多重安全装置等々.素人が料理メニューを見て,調味料” ひとつまみ”を”ひとつかみ”とする類とは比較できない傑作があった.以前私が末席を連ねていた会 誌の編集委員会で企業の現場のこの種の失敗談を緑陰特集のテーマとしたらとの提案がでたことがある, 企業側委員の一人としてその実現の可能性について疑義を述べたことを記憶している.いまでは「失敗 学」3)が認知されており不注意による過失をデータベース化し新人教育の基本資料とする試みを積極的 第 37 巻 第 E1 号 - E28 - 2006 年 8 月(平成 18 年) 伊藤容之:新しい道 E29 に取り組んでいる企業もあると聞く,特集テーマとして再考の価値があるのではないかと思っている. 後者にはもう一つあり,意図的なもの,偽装,剽窃,基準無視等の犯罪行為がある.このことについて は,いま余りにも話題が多くここでは触れない.しかし,コンピュータ化,手法のブラックボックス化, 過度の専門化もこれらの犯罪の発生を助長してきたのではないかと考えている.技術者の倫理の問題に ついては本会誌でもとりあげられており 4) ,倫理は技術教育以前の人間としての根幹であると思ってい た私には,新技術とは異なる種類の新しいテーマである. 我が家に 8 歳の猫がいる.ノブがレバー式のドアを彼は自由に開けることができるが一箇所を例外と している.まだ子猫の時代この場所も当初は自分で開けていたが,あるときたまたまドアの前に障害物 があった.そこで彼なりの努力の末ここは開かないと学習したらしい.以後,彼はかたくなに己の学識 を信じて自分で開けようとしないでドアの前にすわり家人にドアを開けろと命令する.似た話がある. 新入社員が余りにも古い計算式を使うので, 現場では常識となっている式を教えたことがある.「私は学 校でそんな式を習いませんでした」との彼の返事を聞いて,学校教育の成果か?あるいは彼の個性の発 露なのか?と考え悩んだものである.いずれにもせよここにも猫がいたである. 新しいものに興味を示すのは若者の特権であろうか?新しいものへの興味を失ったら生物年齢に関 係なく老人であり,所属分野での定年到達,道の終わりであるといえるのではないかと思う.既成技術 のみに頼ることは,その時点での楽な道といえる.しかしこの道は,やがて環境の変化への不適応を招 き,このことが老人の頑迷固陋化,伝統ある企業の没落となるのではないかと思う. 既成の道を知ろうともせず自分にとって新しいことだけに興味を持つ人もいる.すでに周知の技術を 自分が最初の発案者と信じ,それを批判するものを敵視し周囲の無理解を嘆く.袋小路に入った人,異 端者といわれる.永久運動のアイデアにとりつかれる類である.障壁は自分でつくるものらしい. 独創力に満ちた天才でもなければ新情報の入手が新しい道への契機となる.若いころ作業時間の 20% を新しいことに使うようにと指導した上司がいた,20%の根拠は知らない,80:20 のパレートの法則と の関係があるのかもしれない.我が家の猫と同じく,私は今でもその教えを守っている. 個人にとってのニュースも,周囲の世界にとっては周知の事実であることも多い.情報は公開された ら旧聞という説もある.論文,ニュース,解説記事,教科書,入門本の順で情報が陳腐化していく.会 誌の場合でも企画から発行までの期間を考慮すると会誌が会員の手に届いた時点での情報の新鮮度が問 題になる.今後ともフルードパワーシステム誌の特集テーマは常に分野での最新情報,動向を伝えるも のであると期待している. かなり以前からインターネット検索の活用が言われている(たとえば参考 5)) . 検索にはキーワードが必須である,検索できたら新技術であろうか?ヒット件数の少ないのは新テーマ の証拠であるのか,あるいは異端なのかと疑問を感ずる. いま興味をもっていることの一つは,統一理論,宇宙論の最新の啓蒙書の類を読むことである,ペー ジを繰るごとに知らない用語が続出する,たまには注記にある引用文献にアクセスし数式を追いかけ果 てしない泥沼にはまることも楽しみである.はじめは邦訳から取り付いたが,そのうち理学関係書籍特 に啓蒙書類の翻訳出版までの数年のタイムラグが気になりだした.原著がハードカバーで出版され,ペ ーパバックとなってから,新動向,新説と称して国内で出版されるまでの期間である.また翻訳に付き 物の一部の誤訳はさておき,原著にある肝心の参考文献リスト,注記,索引が省略される場合もある, 訳者の後書きで読者にとっての煩瑣を考慮してあえて削除したと記されることもある.病硬膏に入り, 原著者の最近の出版物にも興味を持ち,インターネットの通販サイトをあたることもある.読んで面白 いのは,そこに載る読者の書評である.好意的な意見と並んで掲載される痛烈な批判,なかには不買の 示唆,他の本の推奨等々,国内の書評では考えられないものもある.この書評を頼りに諸説をつまみ食 いしているうちに,この分野での私なりの地図を作ろうと思いたった.空白がある地図である.都内の 某博物館の展示に北日本の時代地図があり岩手県の盛岡の北から地名が消え輪郭だけとなり 「化外の地」 (王化の及ばない所,教化の外 6) )と表記されている.空白の領域はかつての化外の地から出て来た私 にとっていまでも最大関心事である. 以上は道をはずれた新米老人が信ずる新しい道あるいは緑陰での妄想かもしれない. 第 37 巻 第 E1 号 - E29 - 2006 年 8 月(平成 18 年) 伊藤容之:新しい道 E30 参考文献 1)高橋安人編著:神々のたそがれ,オーム社(1995) 2)堀洋一・大西公平:応用制御工学(1998) 3)畑村洋太郎:失敗学のすすめ,講談社(2000) 4)フルードパワーシステム,特集「技術者の義務と責任」 ,Vol.37,No.2(2006) 5)時実象一:理系のためのインターネット検索術,講談社(2005) 6)新村出編:広辞苑第 4 版,岩波書店(1991) 著者紹介 いとうよしゆき 伊藤容之君 1936 年 4 月 14 日生まれ. 1959 年岩手大学工学部機械工学科卒, 1994~2003 年「フルードパワーシステム」 編集委員,日本フルードパワーシステム学会および日本機械学会の会員. email: yoh_ito@dance.plala.or.jp 第 37 巻 第 E1 号 - E30 - 2006 年 8 月(平成 18 年)
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