「いじめ」「虐待」など、子どもたちのすこやかな成長を妨げる社会の中で、『いのち』 の尊さ重さを実感していくにはどうしたらよいのでしょう。 今回紹介の本の著者によれば、10歳∼12歳頃の子どもたちは、言いしれぬ悲しみ や挫折感、死への恐怖、いのちそのものへの畏怖感などを味わうようです。この思春期 の子ども一人では支えきれない「いのちの体験」を誰と、どの様に乗り越えてゆくかが、 その後の生き方に大きく係わってくるとしています。 死んだ金魚をトイレに流して捨てる親、生ゴミと一緒に捨てる親、それに比べてこの お父さんと娘さんとの<いのちの体験>に心打たれます。 『死んだ金魚をトイレに流すな∼「いのちの体験」の共有』(近藤 卓著)より ある女性は、自分が子どもの頃、飼っていた猫が死んでしまったことが「いのちの体 験」になっていると話してくれた。昔の風呂は熱が循環しなかったので、焚くと湯の上 層だけが異常に熱くなる。そうなっているところに飼い猫が風呂ブタの隙間から落ちて 大やけどを負い、すぐ医者に連れていったにもかかわらず死んでしまったのだという。 まだ毛が肌に引っついたように濡れた痛々しい遺体を見たときは、胸がつぶれる思いだ ったと言う。 彼女の父親は子どもたちと死んだ猫とのお別れをすませたあと、死骸をタオルでくる み、小さな段ボール箱入れて油紙で丁寧に包んだ。そしてその上に達筆の墨文字で「南 無阿弥陀仏」と書き、紐でしっかりと箱を結んだ。 それから、父親は 3 人の子どもたちを連れて、家の近くにある川の河口に行き、みん なが見守る中でそっとその箱を川に流した。ゆらゆらと水に漂いながら海へと向かう小 さな箱。ひとりぼっちで海にさまよう猫と自分が同化したようなせつない、やるせない 気持ち。 あの死んだ猫はどうなるのだろう。どこへ行くんだろう。いつまでもその問いかけは 彼女の中に居座り、消えなかったという。 「小さな子どもにもちゃんとありがとうと言える父でした。その父はもう亡くなりま したが、猫の亡骸を家族みんなで見送った光景は今も鮮烈にのこっています。子どもの 頃はなぜ猫を入れた箱を油紙に包んだのかわからなかったんですが、中学生くらいにな ってやっとわかった。すぐに沈んでしまわないように亡骸の入った箱を守るた めだったんですね。 南無阿弥陀仏という文字を見ると、いつも優しかった父を思い出します。」
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