モンゴルの今⑭ 《モンゴルの花々の危機!!?》

モンゴルの今⑭
《モンゴルの花々の危機!!?》
BKYUKL
YEMUNAY
VGLHN
ナイラムダル
モンゴル人、仲間からの便り !!
お互い身近な生活を通して考えていきたい
問題抱えたモンゴル・日本・世界・地球!!
〈《最西端の 4000m級の山々を望んで/2007.06〉》
ホブド県ウランゴムからバヤン・ウルギー県ウルギーへ
途中、たぶん海抜 2500m前後の大地を注意深く
見ていると、小さな花がかわいらしく咲いています。
小さな生命力、車の移動での疲れも癒されます。
モンゴルは、多くの高山植物の宝庫です。ここ10数年温室効果ガスの影響なのでしょう、
冬期がずいぶん暖かいと感じます。また、草原が青々とする5月下旬からの降水量、雨の
降る間隔が狂って来ていると思います。さらに、乾燥と気温の上昇から大地の塩が吸い
上げられ、白くなっている場所をよく見かけます。砂漠化が進んできているのでしょう。追
い打ちをかけてカネ儲けのためヤギをたくさん飼い、また、木々も多く切られています。お
e-mail ID
Z"KY−BKYUKLSY
HGJNLWGGYS
nairamdal-05@s5.dion.ne.jp
YGAJGB:GL
YNAUTBLTU
NO.67/2010.01冬<季刊> モンゴル交流協会ナイラムダル
《 日本生活の回想 》
ウンドラル
〜はじめに〜
成田空港に降りて、成城にある寮へ向かおうとしていたあの夕方は、日本という国を
一年間ほど味わう旅立ちの始まりだった。初めて、いわゆる駅に潜り込んでみたところ、
それは、人ごみがうごめいている穴ではないか。わけのわからない巨大な迷宮に入って
しまい、まごつくしまつだった。駅の案内がかりどころか、通りかかる人々にも寮のぐちゃ
ぐちゃになったアドレスを手に、迷惑をかけまくりながら何回も確認したすえ、ようやく目
的地にたどり着けた。迷子のように道を聞くたびに、丁寧に教えてくれる日本人に感激
の至りだった。こうして、モンゴルで日本事情をおおよそのところでもいいから、駅のこと
ぐらい勉強しておくべきだったことも思いつく暇がないほど慌ただしい夕方で日研生と
しての日本滞在が始まったのである。
〜カルチャー・ショック〜
学校に通う通り沿いの道路に自動車の排気ガスがまったくなかったことにすっかり感
心したのは最初の印象的なことだったといえる。真っ白い服を安心して着られることがよ
かった。東京のような大都市でも、おいしい空気が吸えること、水道の水をそのまま飲め
ることで、日本ならではのことだなと羨ましかった。
しかし、街にゴミ箱が置いていないことに目を見張った。ゴミを捨てようとしたら、ゴミ箱
が見つからなく、おかげで、カラ瓶などのモンゴルではすでに投げすてていたゴミを、カ
バンのなかに大事にあつかうようになりはじめた。どうしても捨てたい場合、ゴミ箱が置
いてあるコンビニを探し出しはじめる反射作用までできていて、初めの数日間はやはり
慣れにくかった。
うわさの音姫も体験した。考えてみれば、男のトイレも覗いてみるべきだった。日本男
子にも音が不安なのかを身をもって確かめるチャンスを逃してしまった。さらに、日本女
性のしとやかなことは知っていたが、トイレで歯を磨いている姿には、日本人はきわめて
世間体を気にするのだと改めて思った。臭わない手洗いで歯磨きしても差し支えがな
いと考えられる。ところが、モンゴルのトイレにそぐわないので、珍しく思ったにすぎな
い。
また、初めての温泉で丸裸になった人たちがなにもなかったように振る舞い、あっちこ
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っちを大胆にふらつく光景に呆気にとられて、あそこを逃げてしまいそうだった。だが、
日本ならではの文化を体験してみるのだという思いでやっていられたかも知れない。そ
の後、日本の生活にしだいに親しむにつれて、たまに温泉で疲れをとるにつけ、ひとり
で水で遊ぶのが楽しくなってくるものだった。
といっても、親子づれで温泉に入っていることで、日本の子どもは、性教育をモンゴル
の子どもより早めに受けているので、それはそれでよいことではあるまいか。
日本では、汚れた服に汚い顔をしている人々があるとは夢にも思ったことがなかった。
しかし、彼らは、どんなに苦しくても人に物ごいをしないようすを見て、つい日本人はけ
っこうプライドがあるのだと思ったことがある。救いを欲しがっていながら、助けを求めな
いのはなぜだろう。
最後に、テレビなどのメディアでは、殺害や事故のニュースが流れない日がないほど
のことにどきっとすることが普通だった。日本人は、「がんばる」と言いながら心強く前向
きに生きているはずなのに、どうして自殺率が高いのだろうと、よくひっかかることだった。
モンゴル人は、醜くても生きさえしていれば、なんとかなるだろうと引きずっているのに
ひきかえ、日本人は、みすぼらしく生きるよりいっそう死んでしまったほうがましだと考え
ているのだろうか。
〜授業で覚えたこと〜
その一。「お笑いで学ぶ日本文化」という科目を受講してみたが、「落語家はもっと頭
抜けた落語を作られるように腕を磨くため、たくさんの女を体験する。奥さんもそのことを
進んで受け入れているのだ」との、先生の一言にびっくり仰天させてもらうとも思ってい
なかった。本当かどうかわからないが、そこで、「というと、日本の女性は主人に浮気を
繰り返されても平気なのか、それとも、男というものは、当てになれない裏切りものなの
か」と思われてならなかった。残念ながら、答えはまだわからずじまいでいる。あの日の
授業で、すべての雄のものに嫌気がさしていたことだけは覚えている。
その二。「待遇コミュニケーション」と「敬語コミュニケーション」というふたつの講義のな
かで、前者が後者よりもっと幅が広く、敬語をどんな人にどのふうに使ったらよいかをい
よいよ系統的に学べる時期だと喜んでいたら、本番の講義で先生がただうなずいてば
かりいて、学生にその身の上話を口から出まかせにしゃべり放題でやらせているのでは
ないか。日本だから、違っていた。
逆に、モンゴル人の先生の場合、学生に発言も質問もする機会を与えようともせずに、
「そんな簡単なこと知らないの」と言い出したが最後、説教しはじめるのだ。
このごろも、計画どおりにガイド教室に通ったところ、先生たるものが「モンゴル一のガ
イド教室へようこそ」と自らほらを吹いてきたので、ついその自慢げな態度に、ここでたく
さん学べるかもと頼ってしまった。のに、あの先生に、本で覚えたことしか話してくれな
いことがわかり、がっくりした。
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結局、日本人の先生は、学生の話をきちんと聞いてくれ、学生からの質問に入念に、
しかも自分のことばで、その実体験や長年の研究の結果などをもって答えていたので、
尊敬の念にかられる。
このような、学生に思いやりのある先生がうちの学校でも繁殖するように願ってやまな
い。
《日本について感じたこと》
ラハムスレン
〜国際交流〜
日本人の良い点、悪い点何だろう
寮に、世界のあらゆる国の400人の学生からなる大家族が住んでいた。しょっちゅう
寮から出入りする地域のお婆さんとお爺さんたちが国際交流会館(寮)で日本語、書道、
生け花、琴などを留学生に教えたり、茶話会やバザーなどを行ったりしていた。しかし、
金髪に青い目をしている欧米の留学生を優先し、内緒で招いてパーティーを開くという
ことを風の便りに聞いて、日本でも差別があるのかと、愕然とくることが続いた。
実は、あの人たちのもっともかも知れない。自分も日本に人種がぐんとグロバール化し
たのを目の前に、日本にいることを嬉しげに思っていた。南米の学生たちの抱擁して挨
拶してくれることもあたたかくて、いい感じだった。おかしいことに、初めて、日本で黒人
とふれあってみたが、食事などに誘われるたびに、どうも怖くて、いつも避けていた。
日本にいながら、世界中の人と会えるということが、日本の魅力のひとつとも言える。
〜終わり〜
早大の別科で各国の学生とともに勉強することができたことは、本当に運に恵まれて
いたことだった。みんなが日本に集い、日本語で通じてあっていたことは奇跡だった。
互いに考え方や経験などを話し合い、教室は面白かった。
他の国の学生と比べて、自分の日本語がかなり劣っていることを痛感する日々の連
続でもあった。日本語の味は甘くなかった。実力をあげるのに、自分の興味があるもの
に限らず、様々な分野で読んでみることが大切だということだった。一年間の日本留学
は、能力を卓越させる武器は「読書」とのことをしみじみわからせてあげるための旅だっ
たのだ。
正直に言うと、私日本に2ヶ月しか住んでいないので日本人の良い点、悪い点につい
て詳しく知らないです。一口に日本人と言っても良い人もいれば悪い人もいます。まず
日本人の良い点を言えば「知らない人にも優しく接すること」であります。
また、なんでもまじめに取り組むのも良い点です。もう一つはいつも自分のことを自分
ですることだと思います。それをなぜ私が知っているのかというと、私の体験があったか
らです。
ある日約束をしていました。その日、日本の友人は頭がとても痛くて本当に大変だっ
たけれども、我慢をして約束を守るため来ました。2時間ぐらい話して最後に彼女は「ご
めんね、あたしにそういう理由があるから早く帰りたい」と言って帰りました。全て日本人
が私の友達と同じではないかもしれませんが、モンゴル人だったらこのような時、約束の
ほうを守らなくていいや、と思うかもしれません。そして、相手が話しているとき、終わる
までそれを聞いて待ってから、お返事とかお話したいことを話すこともいいことだと思い
ます。また、ある2人のうちの一人が、ある日もう一人ためになにかしてあげたら、された
方が「じゃあ私が今度はぜひお返ししなければならない。」と思うこと。
例えば、私が日本人の友達にアイスクリームを買ってあげたら、ある日、相手がお返し
するために買ってくれました。これはお礼しかないです。(笑)でもモンゴル人はどうだろ
う...。
日本に来て2ヶ月しかたっていないので、いつも日本のことと自分の国モンゴルとを比
べて、よく考えて結論を出しています。
次に、悪い点はよく知らないのですが、日本人の言っている言葉を信じるのは一番難
しいことの一つです。本気かお世辞か区別をしてわかることは難しいです。もしかしたら
日本人のせいで余りあることを信じられない性格になるかも知れません。
また、ある人について指して話すことです。これから日本人の良い点、悪い点を知る
ために頑張ります。
日本社会の生活について
まず、私は私にとって初めての外国、日本に留学をしています。初めてなのでいろい
04
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ろ大変でした。モンゴルと日本の社会が違うから困りました。
ある国のシステムは社会人を準備するために、小・中・高校のさらに上級として最後
の知識を受けるため大学に通っていると思います。
私は日本の大学に留学をしているから、社会を他の人より良くわかっているかもしれ
ません。しかし、まだ来たばかりなので、日本の社会が個人主義か集団主義か今も知ら
ないです。前に日本語を教えていただいた先生から日本は集団主義だと聞いたことが
ありますが、どっちなのかまだ、わかりません。
日本はストレス国です。原因は社会で問題になっているのは男性が女性っぽくなっ
ていることだと思います。男性の髪や服が、男性のスタイルじゃなくて女性っぽく変わっ
ています。自分のことを自分でやっているのは良いですが、人間はあることとかをある人
に伝えるとか、自分のことを相手に話したいものです。だから自分のことを自分でずっと
考える日本人は、ストレスが大きくなっているのだと思います。そしてこれは病気ではな
いのかと思います。私の考えでは、たぶん自分のことを自分でやる考え方は、小・中・
高校のときに頭に入れられて、これがどんどん続いてそうなっているだろう。このような
日本人の考え方には、良い点も勿論あるけれども、悪い点のほうが多いと思います。
また、自分のことは自分で、と思いながらいつも家、会社、スーパーに行ったり、毎日
毎日忙しく過ごして、またストレスになっています。
また、日本社会の構造は違うから、人間の性格でびっくりすることがたくさんありまし
た。例えば、大学のある先生が私たちに怒ってのですが、そのとき先生はあまり言葉を
使わず、静かに怒りました。モンゴル人は怒れば自分の思っていることを怒りながら何も
考えないで全部をいってしまう人たちですよね。
日本に来てびっくりしたことについて
私は3年前に日本語の勉強を始めて、日本のいろいろなことを知るようになりました。
それで日本に来てショックになることないだろうと思っていたのですが、自分の考えとは
逆にたくさんありました。
一つは自転車を良く使うこと。80歳の人も乗れること、8歳の子供も乗れること、また
これに従って駐輪場が、またいっぱいあること。
二つは電車とバスに乗っていてびっくりしたのは老人、子供や赤ちゃんを抱いた人
などが立っていて、若い人が座っていることが多いです。私が何度かおばあさん、おじ
いさんに座るようにいったら、怒られたことがあります。「私はまだ、若です。あなた座って
ね。」と言われました。モンゴルではバスに乗っているときは、若い人は立っているし、
老人や子供に席をゆずるのは普通のことなのに。
また、三つは小・中・高校の生徒たちがいつも学校へ行くとき制服を着るのが決めら
れていることです。モンゴルにも制服はあり、冬は結講暖かい服を着るのですが、日本
では禁止だよって聞きました。大変ですね。
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モンゴルにいたとき日本のイメージは、時間が過ぎるにしたがってどんどん変わって
います。例えば、日本人は冷たい人だと思っていたんですが、逆に優しい人だと思いま
した。
また、ある人について、自分の考えていることをいわないと思ったら直接言うし、ある
外国人の男性と日本人の女性と私の3人で会っているとき、日本の女性が急に話しな
がら男性に「ハンサムね。」といいました。そのとき私は「えっ、日本の女性は私より言い
たいことを言うんだ!」と、とても驚きました。
また、日本人は自分のことをほめずに、自分を下にするだろうって思っていたんです
が、逆にほめたりしていました。これからいろいろチャレンジしていきます。そして、これ
からも書き続けたいです。
====近況 mail<抜粋>====
天候/寒波到来、政治/カネのバラマキ、職場/首か?
091223/Batsaihan
久しぶりです。昨日から、本格的な寒さが訪れています。27∼28日ごろモンゴ
ルの西の方はマイナス45度∼50度になるそうです。
モンゴルでは、今一番問題になっているのは、国会議員がそれぞれの選挙区ご
とに10億トゥグルクずつを好きのように使えるようにしたことです。しかも全額国家
予算からです。どう見ても次回の選挙宣伝費あるいはぼろ儲けに違いないです。
残念なことにもう採決されました。政党を問わず、裏金を回す時期が来たみたいで
す。ずうずうしすぎます。
家族は元気で、妻は非常勤教師として出勤しています。
僕の方はつまらない学部長をしており、この間、副学長の奥さん(大学の事務に
いる人なんだけど)に威張られ、頭に来て喧嘩をしたら、「我々がお前を学部長に
し、また博士にもした」と言われたので、2∼3日前、学部長を辞めると副学長に書
類を提出したら、「学部長を辞めるんだったら、非常勤教師にするぞ」と言うんで
す。笑っちゃって、僕は、それなら、「退職します」と言いましたが、今のところ判決
が下されず、自分の身分までが分からない日々が続いています。たぶん、副学長
の奥さんの言いなりにするためにも私を学部長にしたんだろうね。頭いいでしょ
う?ハハハ・・・
(091225)大学の方は問題ないようです。学部長をどうやったら辞めてもらうかと思
っていたが、今回がいいチャンスだったのです。昨日、副学長に呼ばれ、「退職は
しないよね」と言われ、「学部長は?」と聞いたら、「それは、あなたの希望通りにす
る」と言われたので、普通の先生になるということですが、現時点では、正式に何も
ないのです。学部長を辞めさせないと退職するような条件をつけたから大丈夫でし
ょう。 それでは、また
07
《2010年、初場所/1月10日∼24日》
中国出身のモンゴル人に夢を!
新十両
新十両
蒼国来〈ソウコクライ〉中国モンゴル人初の関取
蒼国来〈ソウコクライ〉中国内モンゴル初の関取誕生!!
外国出身力士の新十両が4場所連続/史上初!!
幕内に再昇格、モンゴル人2力士
白 馬、光 龍
幕内の外国出身力士は、これまでの最高17人に!!
2009.12.08/在日、中国モンゴル人が情報を集めてくれました
日本相撲協会は 12 月2日、福岡市内で大相撲初場所の番付編成会議を開き、蒼国
来(25=荒汐)と宮本(23=境川)の新十両を決めた。
荒汐部屋の部屋頭,蒼国来は,平成15年(2003年)6月28日,中国の内モンゴルか
らやって来ました。しこ名の由来は「蒼い国から来た力士」の意味で、スカウトのため現
地を訪れた親方が美しい青空を見て命名したという。本名は Энхтvвшин(エンクートフ
シン・恩和图布新)、1984年(昭和59年)1月9日,中国・内モンゴル自治区赤峯市巴
林右旗に生まれました。伊門前の経歴としてはレスリング76kg 級中国ランキング8位、2
002年内モンゴル自治区第十回レスリング試合 84kg 級優勝などの実力で活躍してい
た。初土俵は平成15年(2003年)9月場所。蒼国来は、中国出身としては74年の名古
屋場所で新十両になった福建省出身の清乃華以来2人目の関取で、荒汐部屋では初
の関取になる。
モンゴル出身力士は多いが、中国北部の内モンゴル自治区出身としては初の関取と
なり、「今はモンゴル人力士がいっぱいいますが、内モンゴルがあるってことも知ってほ
しい」と夢は更に大きい。温厚で人柄のいい蒼国来は、いままでなんどかチャンスを逃
し、悔しい思いもしたが、怪我を乗り越え,初土俵から4年がかりでついに幕下上位に
定着し、7年目で昇進にこぎつけて、ついに念願がかなった。ほんとに、こつこつと努力
を積み重ねていらっしゃったので、夢が実現してよかったですね。ぼくら内モンゴル出
身のモンゴル人、いや中国出身のすべてのモンゴル人に夢を与えたのだ。努力は人を
裏切らないという言葉通りだ。在日モンゴル人で、内モンゴル初の関取の誕生を祝いた
いものだ!
《あなたわかりますか?》〉〉〉〉〈〈〈 2010年1月 初場所番付 外国出身〉〉〉〈〈〈〈
◇◆◇幕内外国出身力士/42人中17人◇◆◇ ☆前場所勝ち越し★負け越し
白鵬☆、朝青龍☆、琴欧州☆、日馬富士☆、把瑠都☆、鶴竜★、栃ノ心
☆、旭天鵬☆、玉鷲☆、時天空★、朝赤龍☆、黒海☆、翔天狼☆、阿覧
★、猛虎浪☆、白馬☆、光龍☆
◇◆◇十両外国出身力士/28人中5人◇◆◇
徳瀬川☆、春日王★、星風☆、臥牙丸☆、蒼国来☆
日本大相撲界は、ますます外国出身力士に圧倒される勢いが緩むどころか、まだま
だ強まりつつあります。多くの大相撲の記録が塗り替えられつつあり、今年は、横綱白
鵬関の歴代最高勝利/年間86勝という大記録を達成しました。関取への進出は、とど
まるどころか増加し続け「外国出身力士の新十両が4場所連続/史上初!!」です。
日本人力士の話題は、大関らしい勝敗をあげられず、ギリギリの勝ち星で幕内最多勝
記録に1勝という魁皇、ついに大関らしい勝率をあげられず関脇に陥落する千代大海。
さらには、大関昇格への展望を持つ力士が見えないなかで、相撲協会のお偉方は大
きなストレスをため込んでいるように感じられます。しかし、それも少しずつ解消する方
向に光が見えています?なぜなら、日本国籍を取得した外国出身力士が増えつつあ
るからです。日本国籍を取得すれば日本人です。民族的には違っても・・・・。いや、日
本人の感覚では、日本国籍を取っても日本人扱いされないのが、後進国日本の文
化?「外国人」力士という言葉ではなく、「外国出身」力士と?!
■十両優勝/北太樹/十両優勝巴戦 モンゴル人十両優勝ならず!!
10勝5敗3力士、北太樹(十両東5)と、モンゴル出身光龍、徳瀬川による巴戦になりまし
たが、北太樹が2番連続勝ちで十両優勝。モンゴル勢の十両優勝にならず残念!!
***〈11月福岡場所 十両5外国出身力士、全員勝ち越し〉***
十両西 1/白 馬
8勝7敗
十両東6/光 龍
十両西8/徳瀬川
10勝5敗
十両西 13/星 風
十両東14/臥牙丸
8勝7敗*グルジア出身
☆☆☆3段目優勝
貴ノ岩(貴花部屋)
モンゴル人
08
10勝5敗
9勝6敗
09
《 助 け 合 い 》
人文大学4年/Gerelchimeg
「助け合い」。テーマとしてはある意味で考えてみると誰にでもわかるように思われます
が、一方、非常に難しいです。意味が広すぎて。ですから助け合いに関して自分の考
えていることの一部だけをみんなに紹介したいと思います。
いったい人間がお互い助け合っていくことのもっとも重要な点はなんだと思われます
か。私の考えでは「心を込めてやること」です。このように考えてみると「ボランティアー」
という言葉が思わず頭に浮かんできます。それはなぜかというと私自身が「ボランティア
ー活動」のことを体験したことがあるからです。
私は人文大学で日本語を習い始めて4年目です。大学の授業で使われているテキス
トの中で日本の NGO,そのボランティアー活動に関する内容が多くあります。当時、私
がこのように考えていたのです。「まったく関係のない他人のためにただで、このように
心からお世話をするのが日本のような先進国の人々、つまり個人生活の面で問題のな
い者がやることに違いない。発展途上国の国民であるモンゴル人の我々は、他人どこ
ろか自分のことでいろいろ困っているのでボランティアー活動なんてまだまだだろう」と。
すると今年9月中旬、日本の栃木県宇都宮市で20年間以上ボランティアー活動を行っ
てきた「いっくら」(国際文化交流会)という NGO の代表団が人文大学を訪問に来ました。
今度のモンゴル訪問の目的は、モンゴル人の日本語学習者を対象とする日本文化紹
介でした。費用は自己負担。もちろんそちらのボランティアー活動の一部です。大学の
先生方は「モンゴル側の我々もボランティアーで協力しなければならない」ということを
強調したのです。そして私が学部長に代表団の通訳・案内をボランティアーでするよう
に言われ、最初は少しショックでした。日本へ行ったこともなく日本語を習ってから4年
しかたっていない私は、あまり言葉の面で自信が無かったのです。それに「ボランティア
ー」というのはあまり慣れていないことでした。「ボランティアー」だという単語を自分なり
に受け止めたせいか、初日はホテルへ迎えに行く時間に遅れてしまい大失敗をしまし
た。恥ずかしかったです。
しかし、ビックリしたのはお客さんの皆さんが私を「通訳・ガイド」というより「ボランティア
ーの学生」だということでとても喜んでくれたことです。私が想像もしなかった「偉い者」
になってしまいました。それから次の4日間のスケジュールで新モンゴル高校、人文大
学、モンゴル・日本人材開発センターなどの何か所で行われた国際シンポジュム、日本
10
文化祭に参加しながら70歳以上の長門良子会長を含めて日本人のみんながどれぐら
い責任を持って、熱心に頑張っているのを見てあらためて自分のことを恥ずかしく思い
ました。また、私に「大変お世話になりました。」「これからは自分の娘のように面倒を見
ます。」と言うのを聞いてなんとも言えなくて涙が出そうになりました。結局、私は今回、
給料なしで通訳・ガイドをしましたが、現金より宝物を手に入れたような気がしました。
最後に私が感じ取ったことは「ボランティアー活動」というのは「お金や時間のある者
がやる遊びこと」ではなく、「自分がどうであるか関係なく、他人を助けようとする暖かい
心をもとにした行為」だということでした。それに人を助けたあと、相手の感謝の気持ち
を無形の賞品として受け止められる気持ちを持てるのも大事だと実感しました。だから
こそ、モンゴル人がよくいうように「人間って、お互いの助け合いによる」という諺ができ
たのでしょう。日本語にもきっとこのようなことわざがあると思います。これはモンゴル人
や日本人だけでなく普通、人間の人生の知恵だと思います。
このように考えてみると科学技術の発展以外「人間同士の助け合いの心」は今、世界
に問題になっている金融危機、地球温暖化、危険な伝染病などの世界中の共通の請
困難を乗り越える一つの大事なコツではないでしょうか。みんなでよく考えて、それに誰
かに助けを求めている人をできる限り、心を込めて助けていきましょう。
*◇* モンゴル ミニ・ニュース *◇*
◆現在、モンゴルの15歳∼64歳の31.6%が肥満傾向にあり、23.1%が運動不
足との調査結果が出され、生活習慣病による死亡率が年々上昇傾向にある。適切
な食生活及び運動不足対策を審議し政府決定を出すとした。090729/定例閣議
◆オープン・ソサエティ・フォーラムとモンゴル国立大学経済学部は、ウランバート
ル市に住む1100世帯を対象に、経済状況に関する聞き取り調査を実施した。調
査結果は、平均的な世帯収入は月30万から40万トグログ、貧困率は57.5%、極
貧困率は11.5%、失業率は10%。(ウヌードル090605)
◆ウランバートル市の失業率は27%。(ゾーニー・メデー090611)
◆2009年7月の消費者物価指数は、前月比1.3%の下落、前年同期比4.9%の
上昇。また、全国21県及びウランバートル市の労働・福祉サービス課に登録され
ている失業者数は7月の時点で4万700人であり、前年同期比29.4%の増加とな
った。(ゾーニー・メデー090811)
11
モンゴルを訪ねて
板橋モンゴル孤児支援の会/吉田 広子
秋の気配を感じはじめた、9月5日よりGNC(エコ、植林活動)の3人と7泊8日の予定で
訪問する。私は別行動をするが時々GNCの活動に同行した。
今年のウランバートル市街地
食糧支援を中心に70万円送金して来た。・私どもの会が5年の節目を迎えたので何か
記念になるものを贈呈する事で施設訪問をする。記念品は施設の希望で、「ホームシ
アターがあるのでテレビが欲しい」との事でテレビを贈る。
今回もお土産持参で訪問したが、子供達の笑顔と元気な姿をみては成長していく我
が子のような喜びを感じている。それぞれに目標に向かって努力し、好きなことをみつ
けては毎日の生活を楽しんでいるとのこと。体格も良くなってきているようで、微々たるも
のだけど私達の支援活動も、役にたっているのではと自負している次第である。
1昨年GNCの方々も一緒に訪問して、食物など植える話や「木を植えた男」のアニメを、
上映してもらったりした事もあってか玄関側に温室を作り、大きなキュウリが育ったので
皆で食べながら、自分達で育てた達成感をあじわったそうである。
今年は在日留学生2人から、子供達を励ます話をしてもらったので子供達には、また
違った刺激になったようだ。最後に「今日の日はさようなら」を子供達のブラスバンドに
合わせて全員で歌い、また会う日を約束して施設をあとにした。
私は2年振りだったが何年も訪ねなかったような気持ちになった。
街並みが一変し、至る所が道路工事中であり車道変更の指示をする、お巡りさんの
笛と正確に動く腕がやたらと目につき、人家の庭先のような所を平然と通り抜ける。道
路はデコボコで油断をすると、車の天井に頭をぶっける状態で私も頭や腕を何度かぶ
つけてしまった。信号はないし人は遠慮なく横断するので、ドライバーも大変、乗車して
いる私たちも大変なものだった。又、高層ビルもふえているし工事中のビルが多方面に
目につき、ガラスぼりで船の帆型の建物もあって表現し難いものを感じた。
市街地に残っていた樹木は少なくなり、GNCの方々が尽力で出来た公園(モンゴル
国立大学校庭に学校関係者、子供もふくむ)の井戸がビル工事でつぶされ、かろうじて
市民の憩いの公園として残っていたが、植物に欠かせない水源が乏しい事に関係者
は、悲しみさえ覚える状況でした。
街には今の日本と同じく仕事に就けない人々の姿も目立った。そして子供の物を売る
姿も依然として続いていた。
モンゴル訪問の目的
兼ねてから支援をしているウランバートル市付属教育作業センター(1999年に設立の
孤児施設)の子供達と交流のためである。2000年よりこの施設へ友人の協力で子供服
を集めておくる。年に1度日本の子供の好きなキャンデーなど土産に訪問し、おにぎり
やカレー(のり、カレールー持参)を作り食べてもらう。日本の伝承遊びをしたり、モンゴ
ルのフォークダンスを一緒にして交流を深めている。
2005年にはライオンズクラブさんの協力のもと「板橋モンゴル孤児支援の会」を設立し、
支援金集めにフリーマーケットで不用品を持ち寄り販売、区民祭り、農業祭りではマント
ンボーズ(モンゴルの友人より教わる)を作り販売し、その収益金はすべて年に1度だが、
12
結婚式
子どもたちが学校から戻る
施設の子どもたち
施設ホール
コンサートを聞く
温室できゅう
りを栽培
施設の子どもたちの作品 縫製技術も上手になったとのこと
13
異文化を遊牧する人達−在日中国籍モンゴル人−3
モンゴルの夏・花々を追って
思い出すことなど
私が見た日本
< 10 >
中込 司郎(山梨県)
①ツイミオグルマ Inula burutanica L.
ウランバートル近郊の草原に多く見られるが、砂地
で湿気のあるところは分布が多く、川沿いの砂地に
見かける。日本のオダルマの母種に当たるもので、
日 本 の も の はこ れの 変 種 − var、 japonicaで あ る。
(P228)
②エゾノヨモギギク Tanaketum vulgare L.
草原や林縁にはえるもので、大きいものは1mぐらいにな
る、葉は細かく切れ込んで羽状になる。花は茎の上に黄色
の花をいくつも集まって着ける。日本ではハープとして栽
培されタンジーの名で呼ばれている。 (p231)
③ホソバアオヨモギ
Artemisia doraconculus L.
モンゴルの草原に生えているヨモギの仲間、大きいもの
は1mぐらいになる。茎の上に小さな花がたくさん付いて色
は黄色、日本ではロシアンタラゴンの名でハープとして栽
培されている。
(p233)
草原にはヨモギの仲間は多く、マンシュウア
サギリソウ、モリヨモギ、シコタンヨモギ、他があ
る。いづれも足ですれるとさわやかな香りがす
る。
14
奇錦峰(東京医科歯科大学大学院博士後期課程)
日本は美しい国で、恵まれた地理的位置にあって勤勉な日本国民がこの島国を豊
かに、文明の進んだ安定した国とした。来日してからの4年間、この日本の社会を描写
するいくつかの青葉をしみじみ感じないわけにはいかなかった。
勤勉。日本人の勤勉さは世界中に知られている。至るところでこつこつ仕事をする様
子が見られる。一般的に言うと、日本人は真面目で本当によく働く。仲良し。日本人は
仲間同志では仲が良いことで有名である。上司部下の関係はもちろん、同僚同志でも
一般的はあからさまな対立はない。性格が違って、気が合わなくても表面的にはお互
いに気をつかう。或いは相手にしないか“ほっておく。中国の孔子・孟子の“和”“忍”は
そのままである。
文明。世界で礼儀正しい社会として認められているのは日本とヨーロッパである。日
本国民が規律を守ることには頭がさがる。社会構造は複雑だけれど乱れない。人口が
多くて国土も狭いけれども社会は整然としていて犯罪率及び各種事故の発生率は低
い。
発達した経済、安定した社会、豊かな国民生活これらは日本が先進国に肩を並べら
れた当然な理由である。歴史上、日本はアジアの人々に災難を及ぼしたことがある。し
かし過去25年ぐらいの間、日本は世界の経済の発展及び社会の進歩に大いに貢献し
たのも事実である。80年代の後半以降、日本は自国の経済力と豊かな生活及び潜在
的な就職、進学チャンスが多いことなどで、だんだん周辺各国人民の憧れになった。
ところが、日本の社会をよく分析してみると、やはり我々の当初のイメージからはかなり
離れている点も少なくない。保守的で封建的な中国文化(大和文化の源はやはり中国
文化である)と開放的で民主的なヨーロッパ文明が混ざっている日本の社会は政治、
経済、文化、教育などの面でいろんな問題がある。以下に日本の大学院についてコメ
ントさせてもらうことにする。
15
大学院生の質は低い
学術レベルは高くない
大学の数が多いため、大学院レベルの教育施設も多い。し
かし大学から進学したいという勉強意欲のある人が少ないよう
である。したがって、大学院に進学したい希望すれば殆どでき
る。入学試験は、ただの形である(もちろん入試成績があまりに
も悪かった場合は入学できない)。
修士論文は審査に通らないものがない。修士課程終了後、
博士課程入学を希望すればたいていなんなく進学できる。せ
いぜい“資格審査”とか“面接”などで済む。こんなことは我々の
故郷にはない。だから、個人的な素質、能力について評価して
みれば、日本の大学院生は我国の大学院生(研究生と言う)よ
りだいぶ劣ると思う。
ところが、進学率からみると日本の学校教育は普及していて
進学率は非常に高い。話しによると高校卒業生の70%以上が
大学に進学するそうだ。名門大学及び医学部(日本人には入
学が難しく、また卒業も難しい)の入学競争率も8倍から10倍ぐ
らいだそうである。こんなに教育が普及して選抜率が高いのだ
から学生の質が我国々と比べるものにならないのはあたりまえ
のことだ。
つまり学生の質が上へ行くほど我々に劣る。人は人によって
ふさわしいものがあるはずなのに日本人の考えではそうではな
いようだ。ほんとうに“猫も杓子も”博士と言えるぐらいだ!
教育スタッフの質は一般的にいうと良好である、特に中年以下かつ欧米諸国留学者
はものの考え方からやり取りまで、日本国内で育ったものとはだいぶ違う。しかし、外国
人から見ると、日本は製造業が発達しているけれど、自然科学の領域、特に医学の分
野では全体的に欧米より少なくとも5年程遅れている。日本人の学者も自分で認めてい
るように、自然科学領域での研究論文が日本語で書かれている場合、読む人がいない
そうだ(ちょっとオーバー!)。他人に読んでもらいたい場合は、必ず英文で書かなけれ
ばならない。これも欧米より遅れているという説の証拠の一つになるのではないだろう
か。
眺めて見ると、大学院入学者の素質の差が大きい、その上基本理論及び基本方法
の教育を重視しないから院生の研究能力及びレベルの差が激しい。博士コースの大
学院生が在学中の3−4年間に、論文一つで博士号を貰える人も大勢いる。特に指摘
したいのは、通常、留学生への学位授与の面ではあまい。これが留学生の出身国に対
して一体いいことなのかそれとも悪いことなのか?考えるべき事だと思う。
日本の大学院は“教えてくれるところ”というより、勉強させてもらう場所といったほうが
より適切かもしれない。だから、知識習得の目的で来日している皆さん:日本の優れた
設備と豊富な研究資金を生かして、日本人の努力振りを学び、我々自身の勤勉さと才
能で、勉学と研究に取り組みましょう。
1999年7月 東京医科歯科大学にて
大学院は基礎理論の教育を大事にしない
文科系は別として、理工農医学等の学科では基礎理論の授業はわずかしかないか、
乃至はほとんどない、あるのは実険ばかりだ(無駄な実験も少なくない)。しかも実験室
で本とか文献などを読む時間が長すぎると、先輩や先生に白目で見られる恐れがある。
なによりも大事なのは“仕事”だけ!
不思議なことのもう一つは、基礎医学のある領域での博士研究はゼロからスタートし
てもできる(修士課程はないのに)ということである。つまり過去にどんなことをやってい
たかを問わず、‘18年間学校教育を受けている”という一つの条件だけで完全に違う分
野の博士レベルの研究をはじめることができる。例えば医学系の臨床医だった人、或
いは臨床(本業)をやりながら‘基礎研究”(副業)をやって学位を狙っている医者が大
半を占めている(日本では、医者なら何でも出来るという考えが強く存在しているよう
だ)。
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エリシバトさん(栃木県在住)の推薦で以下の冊子より転載
〈異文化を遊牧する人達−在日中国籍モンゴル人記念誌〉
1999年12月24日発行/編 集:バイカル(貝加爾)
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ハワリンパヤルに参加
みんぞく衣装
“モンゴルと日本の伝統的な衣装”
板橋モンゴル孤児支援の会/吉田 広子_
みんぞく衣装と聞くと、いつも民俗と民族
の同じ読み方があり、その字のもつ意味を
考える、が、民族は人種、国民の意味に解
釈し考えると、面白く分かりやすいし衣装にも親しみが持てる。モンゴルの伝統的な衣
装はデールと言い、特徴として立ち襟で左前に合わせ右肩でボタンを止め、帯を締め
る。男性は渋い茶、グレーなど落ち着いた色を好み、女性は赤、青など鮮やかな色を
好み、今日も普段着として着られている。
日本の民族衣装は、一般に和服といって、四季折々により違い、色、柄、布地の種類
も多く決まりごとが多い。そこで、日本の民族衣装は気軽に着られる「浴衣」(夏用)で、
モンゴルの民族衣装は「デール」を用い、試着体験コーナーを設置する。
民族衣装体験コーナー
ハワリンパヤル2009の開催宣言と、同時に日本人家族4人が来場、デールを指差し
「あの色、青色、この子のも?」と、選び着用がはじまり、次々と子ども連れの日本人が
集まり、デールを着たついでに浴衣の着用もして、「こんな色柄私に似合う?」と言いな
がらカメラの前でポーズ。デールを着た人の中には、なかなか脱ごうとしない、会場を着
て歩き友人を連れて来て着用を勧め、一緒に記念写真に収まり満足気であった。
モンゴルの若い2人は浴衣を着てお互いにポーズをつくり、パチリ!故郷の友達に送
るとのこと。昨年も体験したが今年は違う色のデールを、着た
いと日本の若者。モンゴルの学生がインド、バングラデシュの
友人を連れて来てデールを着せ、デールの説明など行い、お
互い国の衣装の話で文化交流をする姿もみられた。又、故郷
を離れて数年、「今日は茨城より来たのでデールを是非着た
い」と、故郷を懐かしみデールを着るなど、体験を楽しむ意味
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はそれぞれに違うが、体験をした人達は皆、笑顔で「有難う!」と、その言葉に、コーナ
ーのスタッフ一同も自然に笑顔になり、「私達は日々の生活に有難うって使う事が少な
いようだ」との、話も出て良い経験をさせてもらったものです。
《備考として》
2009年のハワリンパヤルは今年も練馬区にある、光が丘公園に於いて5/3.4日の2
日間で開催された。民族衣装は、モンゴル交流協会ナイラムダルの大島様より、モンゴ
ル衣装男女子供用のデールセット、和装は板橋モンゴル孤児支援の会の山崎様より、
男女子供用浴衣セットを、お2人が無償で提供してくださった。感謝です。
人との関わり交流には、その国の食文化もよいが、衣装も自然な形で無理なく行われ
る事を改めて知らされた次第です。
バングラデッシュ、インド、モンゴル
人の学生たち
上機嫌で 「私はどこ
の国の人かわからな
い」と・・・
姉弟
ママはカメラマン
一家でモンゴルを旅した気分
日本人とモンゴル人
どちらがどちら・・・
デールの重さと厚
地に驚き
よく似合うと満足
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共演者との信頼関係も深まり
オルティンドー、ボギンドーの向上に努力したい
三枝 彩子/オルティンドー歌手(東京都)
2009年も充実した一年を過ごすことができました。
一年を振り返り、新しい一年の目標を立てるのは大好きです。成長を感じ、課題を整
理するのは前向きに進むためにとても大切なことですよね。
2009年は演奏のたびに、テーマを決めて何かしら新しいことに挑戦することができ
ました。それも、繰り返し共演してくださる方との基礎が固まってきたおかげだと思いま
す。毎日毎日、子どもとの暮らしを回していくことや、パートの仕事で余裕がないのは相
変わらずで、だから「挑戦」もそのときはとても重く感じます。子どもが体調を崩したり、自
分自身疲れがたまっていて予定通り練習ができなくて焦ったり。でもだからこそ、演奏
のたびに、舞台に立てる喜びをかみしめ、
支えてくれる家族や周りの人に感謝します。
事前にプレッシャーを感じていても、
信頼できる共演者とともに演奏した後は、心
も体もしゃんとして、とてもいい状態になりま
す。つくづく、自分には歌が必要なんだなあ
と思います。
いま、不況・不況といわれ、実際、演奏の場への集客もとても難しくなっています。そ
んななかでも演奏を続けているミュージシャンたち。「好きじゃなきゃ続けられない」とい
う声も聞こえます。暗い話のようですが、逆にいえば、つまりみんな、自分のやっている
ことに心底はまっているんですね。私がオルティンドーの虜になったように。そういう熱
いものを抱えた人たちと一緒に演奏できるということ、ひとつのものを作り上げるというこ
と、それは本当に幸せなことです。そういうことを実感できた年でした。
歌の活動を始めたばかりの頃は、どう進むべきかという見通しもまだはっきりとは持て
なかったのです。演奏する場合、曲目、曲順、共演者が複数いれば誰と誰がどの曲に
入るのか、といったビジョンを、私が自分の希望をしっかり伝えて実現させていかなけれ
ばならないのですが、プログラムの組み立てや、モンゴル民謡をまったく知らない人に
どの曲からお願いしていけばいいか、など、最初はひとつひとつに悩んでしまって大変
でした。場数を踏んでそういう作業にも慣れ、共演者との信頼関係も深まり、いつも焦っ
てばかりだったのが、ここ最近はなんとか少し落ち着いて取り組めるようになったと思い
ます。
そこでやっと、自分自身の歌の向上に本腰を入れて取り組みたいと思えます。2010
年はそういう年にしたい。これまでももちろん、本番を重ねるごとに収穫がありましたが、
重心は、足元を固めることだったような気がします。つまり、歌う環境をつくり、整えてい
くこと。それがだいぶ安定してきたので、次のことを考えられるようになってきたのです。
といっても演奏の回数を増やすというのは、今の状況ではまだ難しいので、ひとつひと
つをより丁寧にこなしていきたい。次の演奏での目標設定はこれまでもしていましたが、
演奏後の練習でのフィードバックができるといいなと思います。
もうひとつ。ここ最近は、自分の専門であるオルティンドーよりは、ボギンドーのレパー
トリーを増やすことに力を入れていました。私自身、ボギンドーは苦手だったのですが、
なんといってもモンゴル音楽を知らない人とでも気軽に演奏できるのはボギンドーのほ
うですし、自分の勉強にもなると思ったのが理由です。オルティンドーは、覚えるのに手
間も時間もかかります。しばらくそちらに向けるエネルギーが足りない状況だったので、
しばらく凍結していました。いまやボギンドーも大好きですから、変わらず取り組んでい
くつもりですが、そろそろオルティンドーも、レパートリーを増やす努力を、再開したいと
思っています。
最後に、2009 年は控えめとなってしまったワークショップ「オルティンドー勉強会」の
活動も、もう少し回数が増やせるといいなと考えています。
あまり欲張ってはいけないので、このくらいにしようかと思います。一年後の自分がど
のように振り返るのかを楽しみに。
皆さんにとっても、新しい年がよい一年となりますように!
20
21
――――《2010年
新年からのコンサート予定》――――
友人・知人を誘ってみませんか
詳細は決まり次第ブログ「いとしのオルティンドー」でお知らせします
http://blog.livedoor.jp/urtynduu/
《紹
介》
スリランカの人たちとの交流・支援
交流・支援の成果と、津波被害の供養を通じて
スリランカの様子紹介
へ−ラット財団会津サクラランカ会 五十嵐 まりい会津若松市
◆◇◆ライブ初め!めでたい!◆◇◆
1月4日(月)
二子玉川 BAR LIALEH(03-5491-1951)
BAR LIALEH
http://lialeh.net/
二子玉川駅西口より徒歩2分
★出 演
チャーリー高橋(Vo,Gt)岡野勇仁(Pf)
三枝 彩子(オルティンドー)
◆◇◆新年会のようなイベントです◆◇◆
1月9日(土) 龍福寺会館
17 時開場 18 時開演/3000 円(飲食付)
<龍福寺会館>http://www.s-ohmura.com/info/ryuhuku.html
東京都板橋区小豆沢 4-16-3
TEL:03-5970-2393 FAX:03-5970-2757
都営三田線志村坂上駅下車徒歩 7∼10 分
JR赤羽駅西口よりバス「桐ヶ丘循環」「高島平操車場」にて「志村第四小学校
前」にて下車徒歩 3 分
★出 演
江草啓太(ピアノ)、えぐさ由唄(vo.)
三枝彩子(vo.)、向島ゆり子(バイオリンほか)、岡山守治(ホーメイ、口琴、ギター)
車谷建太(津軽三味線)、サエグサタカシ(タブラ)
◆◇◆チャーリー高橋さんとの共演です◆◇◆
1月26日(火)
<吉祥寺 MANDA-LA2>(吉祥寺)0422-42-1579
武蔵野市吉祥寺南町2−8−6
中央マンション地下
http://www.mandala.gr.jp/man2.html
22
1993年設立、スリランカへの支援/留学生受入れ、里親制度、小学校建設など
*ナイラムダルは、2001年夏、福島で開催された「うつくしま未来博」参加をきっか
けに、福島県内の国際交流・協力グループとつながりを持ってきました。
ご無沙汰!会津の山々が白い帽子をかぶりだしました。今日は、結構暖かで
すが夜は寒いですね。
10月10日∼17日まで、スリランカに行っておりましたので資料・写真など有り
ますよ!今回は、留学生1・女性2・男性1の4人の旅行でした。留学生宅ステイ
を3日・ホテル3日で費用も少なく済みました。現在の津波の小学校の進捗状
態・留学生の親との面談・元留学生の生活状況が私の仕事。会津で1人津波で
亡くなった妹の足跡をたどる姉の方(里子)に会いに 3,000 里ではなく、300キロ
をけっこう面白い旅でしたよ。留学生は1ヶ月帰国でしたので、1週間は私たちの
通訳をしてもらいました。通訳代ナシ、ドライバーは現地調達でした。
日本人が行かないガネーシャの寺院や、ジャングルの中に日本と同じ立像(1
0メーターの高さ岩盤に掘ってあり)見学、などを入れました。元留学生は、コン
ピューター会社の責任者になり、彼がいないと会社が成り立たない存在になって
いる方たち。市長より高給をもらっており、会津大学で博士をとって良かったと言
われ嬉しい限りでした。(世話のしがい有)
津波の方は、亡くなられた最後のホテルが再開しており、そこに泊まりました。
また、お父さんが小学校支援をしてくれておりましたので、小学校で2寺院のお
坊様に来ていただき、法要を子供たち・住民参加で行いました。
コロンボでは、遺体の処理の病院・世話した通訳・葬儀社を回ってもらいまし
た。それぞれが忙しく充実した 1 週間の旅でした。
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スリランカの内戦も5月に終息宣言が出され、10月急速日程を立てて、南国スリランカ
へ6回目の視察に飛んでしまいました。
今回の旅の目的は、以下の4つでした。
①平成19年に開校した小学校の進捗状況の確認
②現在会津大学院に留学している家族との懇親
③私達の活動母体であるヘーラット財団の現地活動状況(里子の生活状況)
④5年前インド洋津波で唯一一人会津出身の方の身内による法要祭。
①学校の運営は順調で一安心でしたが、まだまだ学校としての機能をはたしておりま
せん(1年∼3年生24名在学)。今後3年をかけて小学校の形を作っていきます。ヘーラ
ット財団からの要望は、運動場(今後裏山のジャングルを開墾して)、英語教育の充実
(現地語シンハラ語と両方を勉強、今後は英語圏になっていくでしょう)、コンピューター
による情報交換(コロンボから300km、コロンボの財団との連絡や支援者とのメールによ
る情報交換)が必要である。
②会津で生活している留学生は、私費であるために御両親は“どんな生活をしている
か?”“会津はどんなところか?”“日本は?”など、沢山の質問がいつもかえってくる。
私達は留学生の家にホームステイーをして懇談会を設けるが、3∼6時間かけて両親は
やってきます。彼らの質問の会津での生活状況、学習状況を説明して安心してもらい
ます。帰り際は“子供にもっていってください”と、沢山の生活用晶、香辛料を持たされ
ます。
③320km(車をチャーター)かけて里子の家へ(僻地の村では、神童と言われる貧困の
中学生を地域の教育委員会へ申請し、推薦を受けてへ−ラット財団の里子に選ばれ、
日本の里親からの支援を受け、地域の高校へ通います)財団の方と我が会員は舗装さ
てない道を、揺られて会いに行きました。両親、親戚、部落の人の熱烈歓迎を受け、心
に残る出会いを楽しんでこられました。また、途中で野生の象に出会ったりして、大変
な1日をすごしました。
④津波後、‘‘スリランカで亡くなられた妹さんの供養を現地でしませんか?”とお姉さん
に前々から話しておりましたが、急速同行する事となり、妹さんがたどったスケジュール
を入手して、へ−ラット財団を通してインド洋に面した我が小学校の教室に2寺院のお
坊様をお呼びして、住民・生徒参加の手作り法要をセテイング(小学校に寄付をいただ
き、2年生の教室名を妹さんの名前にしてあります)、スリランカ方式の法要をしてまいり
ました。(昼食は、父兄や村人が作り、1番お坊様・2番我ら外国人・3番先生・4番生徒・
5番村人、父兄の順序で食べます)
日本と違う異国での仏式のセレモニーに同行者一同感激の式典でした。_
24
みっけた∼!
12 年前廃車(会津若松市)になり、
バンダラウェラ市に贈ったタンク消防車。
まだ、現役で町民の安心を∼!
町の人々「もっと新しい車送って」と
ウェルカム・パーティー
式典のため、姉のおさがり、大きくつくった
冠婚葬祭用の服で、私たちを出迎え
ウナワトゥナ・アダシャ・プラタミカ・ビディヤラ
ヤ小学校/在校生も法要に参加
近郊の2寺院からお坊様をお呼びして、
スリランカ式法要を営む
5年経つ津波残骸(住民は死亡)、町のメイン
通りは、新築の家と残骸住宅が
像の孤児院/群れからはぐれたり、母親が
亡くなった子象、1日1回川へ水浴に・・・
観客は、高大より見学する
ブドゥルワーガラ/ジャングルの中に9世紀
頃の3体の菩薩像、世界遺産になる仏さまが
まだ発見されず数多く残っている
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小室節とモンゴル人
西澤 寛/「長野県モンゴル親善協会」事務局
小室節の生成
小室節は県内の代表的な民謡であり、独特な節まわしと朗々と歌う名曲で、全国で
歌われている馬子唄や追分節のもとといわれている。
この小室節の研究に40年余りの歳月を費やした小諸市の長尾真道氏は、著書『正調
小室(諸)節集成』の中で「この唄の発生は、奈良朝末期にある。大和朝廷は政治、軍
事、産業等に馬は欠かせない。この馬の増殖のため全国に勅使牧(ちょくしまき)をつく
った。その代表的存在が小諸の御牧ケ原(みまきがはら)である。御牧ヶ原は千曲川と鹿
曲川(かくまがわ)にはさまれた広大な台地にあり、標高750m 程の高原で、溜池が350
程もあり、紫外線が強く牧草が繁茂し馬の飼育に最適であった。ここで飼育した馬を朝
廷に上納することを貢馬(くめ)といい、貢馬の飼育には,多くの人たちが必要であった。
この人たちが東北アジアからの渡米人たちである」と述べている。
モンゴル音楽の典型
モンゴルといえば、チンギス・ハーンと遊牧民族・騎馬民族の姿を連想する。確かに
モンゴロイドの典型ともいわれるモンゴル族は遊牧民であり、モンゴリアは、まさしくその
揺籃の地である。
東北アジア系騎馬民族のルーツは、このモンゴル族であり、モンゴル族の典型的な
音楽は「声による音楽」だと思う。中でも伝統的な音楽として歴史、信仰、自然、愛情
(家族・家畜に対する)などを歌った唄が多い。
これらの唄は、主としてオルテンドー(息を長く使う唄)によって歌われる。ほかにボギ
ノドー(息の短い唄)もあり、特にオルテンドーはメリスマ(日本民謡の小節のような)的な
自由なリズムの唄である。さらに、ホーミーという極めて高い声と低い声の響きを同時に
出す声の技法も口承されている。
楽器は元代を頂点として、アラブ・イラン系と中国系の楽器が継承され、もっとも著名
な楽器は馬頭琴(モリン・フォール)であり、ほかに琴(ヤタック)横笛(リンベ)洋琴(ヨー
ティン)等がある。
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小室節とモンゴル民謡
平成6年夏、小室節保存会と当協会の共催による「小室節の源流を訊ねて」の旅に
参加して、モンゴル国を訪問した。ソ連製のプロペラ機(アントム24)で南ゴビに飛び、
大草原で聞いた“動物への呼びかけ歌”は素朴で何処となく日本の民謡に似ていた。
モンゴルの草原で放牧する家畜(五畜=馬・牛・羊・山羊・らくだ)に馬頭琴の伴奏で歌
いかけると家畜たちはおとなしくなるという。ドキゥメンタリー映画「らくだの涙」そのもの
であった。
また、ウランバートルの国立劇場で
A.ネルグイさん(モンゴル国家名誉賞受賞者)によるモンゴル民謡“小さな茶色の馬”と
宮下順子さん(小室節全国大会優勝者・師範)の歌う“小室節”を聞いて、小節や抑揚
が本当によく似ていると思った。同行した竹島弓子さん(元信州大学講師)は訪問団記
録に「五音音階で音域が広い。楽節構造がよく似ている」と指摘している。さらに「馬頭
琴は思ったより音域が豊かである。琴は日本の筝より音色が柔らかく、洋琴は音量が自
由に調節できるのに感心した」とも述べている。
このことから、渡来人が望郷の思いを込めて祖国の唄を口ずさみ、それが馬の飼育
を介して、御牧ヶ原の人たちの中に広がったとしたら、それは極めて自然な姿であり、
それが小室(諸)生成に連なったとしても不思議ではない。
「長野県モンゴル親善協会」20年のあゆみ
1990年7月に設立。新生モンゴル国と中・長期的視点に立って親善交流の絆
を深めて両国の友好に寄与しようと、労働・経済・農業団体はもとより、政官関係と
幅広い層からの結集をもって発足しました。
*「モンゴル親善交流視察団」の派遣
1990年9月「第1次モンゴル親善交流視察団」派遣。延べ200数10名の参加。
*各種イベントの実施
「モンゴルフェスティバル in NAGANO」「風の音コンサート」「長野オリンピック記念
イベント」、ドキュメンタリー映画「らくだの涙」の上映、国際交流イベントへの協賛、
県内小中学校、信州大学、清泉女学院大学等の行事に馬頭琴奏者の紹介や展
示など
*支援活動
大寒波・大干ばつへの義援金募集、業務用制服および大型バスの寄贈
留学生への支援/長野県が招聘した高校留学生支援・協力
◆西澤さんとの出会いは、ナイラムダルの友好コンサートを長野県丸子町で何度か開
催したときでした。その後、通信「モンゴルからの風」を購読してもらっています。(大島)
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仲間の近況(敬称略)
◆◇◆お悔み申し上げます◆◇◆
モンゴルで少女に出会い、永年支援を続け大学卒業でうれしい再会を果たす!!
白井 榮さん<86歳/千葉県松戸市>2009年7月25日没
■比留川一家(千葉県市原市)■
家族通信「オラシオン」より/200906-11
<夏休み>
*大樹君
「ラクビー部に入りたい」と入部。その後、「このままでいいのか」と
考えた後退部。群馬大学医学部生体調節研究所の門をたたく。8月24日研
究所入所許可。見習生誕生。(学生/群馬県)
*琢磨君
兄弟4人が家を離れて勉学の中、一人家に残って両親(養豚業を
営んでいる)を見守っています。(2000.06.06 中学1年通学途中、車に跳ねら
れ命を落とす/1997、10歳の時遊牧民ゲル長期ステー体験)
*朝樹君
自動車免許取得のため君津市にて3週間合宿(学生/栃木県)
*哲人君
家の手伝いをしてくれた。(学生/習志野市)
*天風君
バレーボール全国大会、長崎県佐世保に出場。(学生/君津市)
<9月10日>養豚業を営む両親
*市原市養豚研究会枝肉互評会/最優秀賞を受賞
《美味くて、安全な豚肉を直接生産者:比留川畜産から購入できますよ!!》
<11月8日>
群馬大学医学部医学祭に両親が見学(以下のパネル発見)
*生体調節研究所 細胞調整分野の研究/医学部看護学科 比留川大樹
(糖尿病についての研究)
◆比留川吉郎《養豚の心》
奥さんからは、「・・・モンゴルの少女と出会い、ささやかな援助をして、すっかり親しく
なれました。そして、彼女の卒業を記念してモンゴルで再会し、あの降るような星を眺め
たことは忘れられません・・・・」「これからも『ひとりではない』と言いきかせ、人生を歩ん
でいきたいと思います。」との便りをいただきました。
白井さん夫婦は、ナイラムダル設立のまもない1993年夏、モンゴル交流の旅に参加
しました。そして、貧しくとも可愛らしい少女に出会い、出会った時の写真を送ったこと
をきっかけに、彼女の向上心の強さを知り、長年に渡って学費支援をしてきました。そ
の後、彼女の大学卒業に際して、2002年、再会を果たしました。
榮さんは、モンゴルの少女とすばらしい心をつなぎ、たぶん心安らかな日々だったと
思います。冥福をお祈りします。
〈大相撲、スポーツ産業の選手は、働きづめ??〉
大相撲は、戦後年間6場所制に増加しました。先月相撲が終わったばかりと思
うと、来月には、新たな場所が始まります。さらに地方巡業など、実質労働日が
多いようです。そう大相撲に限らず、多くのスポーツを考えてみると、試合数がた
いへん増加していないでしょうか。ゆとりを持って計画的に練習を組むことが難し
く、大きな身体の負担を強いられての競技人生になっていると感じます。スポー
ツは、一産業として、一言でいえば、「カネ儲けの商品」にされて、使い捨て扱い
されていないでしょうか。そして、競技人生は短く、ほんの一握りのトップだけが、
引退後の生活を保障されるだけという後進国日本になっていませんか。
白鵬関、プロスポーツ大賞
2009年/プロスポーツ大賞〈日本プロスポーツ協会〉
横綱/白鵬が年間最多記録86勝4敗を評価されて受賞
*2004、05年、2年連続で受賞/朝青龍
青龍関、CMで演技賞
◆比留川多賀子作《絵ハガキ》
28
(社)全日本シーエム放送連盟は、10月2日、「第49回ACC・CMフェスティバ
ル」の入賞作品を発表。演技賞に朝青龍(ファンタ)が選ばれた。
29
<ナイラムダル活動予定>2010.01∼
07月
モンゴルの花々写真展(日光だいや川公園/相談所展示場)
◆<活動費援助>2009年/合計21,641円
10月07日
青柳さん(品川区)
3000円
【年会費/2000円などの送金】
*郵便振替/00150―1―763089 モンゴル交流協会ナイラムダル
(手数料/120円)
*郵便振替(郵便局 ATM/手数料80円、他銀行 ATM/手数料 210 円)
銀行名/ゆうちょう銀行
金融機関コード/9900
店 番/019
店 名/019店/ゼロイチキュウ店
預金種目/当座 口座番号/0763089
氏 名/モンゴルコウリュウキョウカイナイラムダル
――〈鳥たちの生態と人間社会の変化/通信PDF化〉―――――――――――
このところ鳥たちの生態の変化が・・・まず、街に出る際、自転車で日光連山を眺めなが
ら田んぼの中を走ると、よく一羽のツル、そしてキジを見かけるようになりました。我が家
では、中型の鳥が数羽、テリトリーとしているのか何度ともなく来て騒がしく、追い立てま
す。その合間を縫って、庭にはこのところよくヤマガラ、シジュウガラなど野鳥が飛来し
て可愛いさえずりを聞かせます。さらに、夕刻に数グループのカラスが総数500∼600
羽で旋回し移動していく光景▲人間社会は、年間通してイベント社会、そのトリが早々
とイルミネーション花盛り。何のことはないカネ儲け社会▼やはり寒空下、輝く星空を見
ていると心休まります。ウランバートルでも、星空を見ない生活?いやスモックで見えな
いのか?■ナイラムダル活動の資料整理をし、やっとこれまでの通信PDF化を完了。
モンゴル情報の資料として利用できるよう、ナイラムダルHPを更新します。(おおしま)
モンゴル交流協会ナイラムダル案内
URL http://www.d6.dion.ne.jp/‾nairamgo/ E-mail
《首都ウランバートルから故郷チャンドマニ村へ―2人のホーミー唱者が辿る共鳴の旅》
推薦/映画
チャンドマニ ∼モンゴルホーミーの源流ヘ∼
ホブドのセンゲドルジュさん出演!!
◇*◇2009年/日本・モンゴル/DV/カラー/モンゴル語◇*◇
◆2010年3月より渋谷アップリンク(03-6825-5503)他/全国順次ロードショー
UPLINK◆渋谷区宇田川町37−18トツネビル2F 渋谷東急本店 右側道200m右手
2007年、監督亀井はモンゴルでホーミー名手の息子ザヤーと出会う。急激な変化を遂げるモンゴ
ル。彼は、「ホーミーを唱う遊牧民は減り、お金のためにホーミーを習う人が増えている」と。遊牧
民が遊牧をやめ、現金を得るためウランバートルに集まっている・・・ザヤーもウランバートルにい
る遊牧民。亀井は『遊牧民の生活と美しい自然の中で育まれてきたホーミー』を今、映像にと、
2008年にビデオカメラを持ってモンゴルへ。撮影が旅なのか、旅が撮影なのか、人との出会いが
この映画を完成させた。
■監督・脚本・制作/亀井岳 撮影/古木洋平
■キャスト
*ダワースレン/ウランバートルの劇場ホーミ
ー歌手(オブス出身)*ダワージャブ/遊牧
民・ホーミー名人(オブス県チャンドマ二村)*
ザヤー/ダワージャブの息子、日本語を学
び、ウランバートル在*センゲドルジ/ホブド
県の劇場在籍ホーミー名人
■後援/駐日モンゴル国大使館/在モンゴル
日本大使館/社団法人日本モンゴル協会/
財団法人横浜市芸術文化振興財団
■公式サイト http://www.chandmani.com/
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Z"KY−BKYUKLSY
HGJNLWGGYS
nairamdal-05@s5.dion.ne.jp
YGAJGB:GL YNAUTBLTU
ナイラムダル ・ ・ ・ “YGAJGB:GL”「友好」という意味です。
なぜ、モンゴルとの交流 ・ ・1984年個人的なモンゴルの仲間との交流をきっかけに、モンゴル
の生活・文化に興味ある仲間が集まり、身近に友だちができるような交流を通じて
「豊かな社会を互いに考えながら、理解と友好を深めていきたい」と 1991 年設立。
活動していること
*季刊/通信「モンゴルからの風」1993.7 創刊/A5 版24P 以上
*展示会(定例のイベント)/モンゴル紹介展示会・イベント参加・交流会/52回
日光だいや川公園/展示会(7月)
*モンゴル交流の旅/1991年から、ホームステー、ゲル滞在と乗馬、遊牧民ゲル訪問、
植物観察、遊牧民生活体験など。/相談(帰国後、感想、体験談など書くこと)
*
*
〈現在、以下は、活動停止〉
*
*
*モンゴル民族音楽ナイラムダル・コンサート/1992年から毎年開催。各地で224公
演。内小中高学校・養護学校・施設などで84公演。/2005∼中止。
開
催/東京都、千葉県、神奈川県、栃木県、山梨県、佐賀県、長崎県、兵庫県、福岡県、
長野県、埼玉県、宮城県、青森県、愛知県、福島県
*モンゴル紹介展示品貸出、小学校等での授業
①小学校などへ写真パネルなどの貸し出し(多数)/中止 2008.10②小学校での国際理解「モンゴル紹介」授業(131 回)/中止 2008.10会員、購読会員は ・ ・ ・全国各地・モンゴルに約200人。
年会費2000円 郵便振替/「モンゴル交流協会ナイラムダル」 00150−1−763089
団体、機関などに登録
栃木県国際交流協会、日光市市民活動支援センター
扱っています ・ ・・民族音楽CD(「モンゴルからの風」10種類のCD)、会話集、植物図鑑など。
発
行
モンゴル交流協会ナイラムダル
nairamdal-05@s5.dion.ne.jp
321-2345 日光市木和田島 1526−152
tel.fax.0288−26−0130 /大島 武行
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