第二セッション:身体から感覚へ 死を知る動物̶̶ジル・ドゥルーズの生成変化論における全体性の問題 千葉雅也 東京大学大学院総合文化研究科・超域文化科学専攻(表象文化論分野)博士課程 logiquedusens@yahoo.co.jp 0 動物への生成変化(devenir-animal) (1)動物への生成変化は夢でもなければ、幻想でもない。生成変化は完全な現実なのだ。 しかし、それはどのような現実なのか?(……)現実的なのは生成変化そのもの、つまり 生成変化のブロックであって、固定した項をいくつか想定し、そこに生成変化するものが 入っていくのではない。生成変化は、なるべき動物に相当する項がなくても、動物への生 成変化と形容されうるし、またそのように形容されなければならない。人間が動物になる ということは現実だが、人間が変化した結果それになる動物は現実ではないのだ。同時に、 動物が別のものになるということも現実だが、この別のものは現実ではないのだ1。 (……)しかしどうすれば犬になれるのか? 犬の真似をするのでは駄目だし、関係の類 似も駄目だ。私は、私の体の各部分に速さと遅さの関係を与え、この関係によって私の体 が犬になり、相似や類似によって作用するのではない独自のアレンジメントに入っていく ようにしなければならない。なにしろ犬のほうもまた、犬以外のものになるのでなければ、 私は犬になることができないのだ2。 1 アラン・バディウによるドゥルーズ読解:生の哲学と「非人称の死」 (2) 「大動物」 、ドゥルーズ哲学と「全体性」 (バディウ) 諸動物からつくられた大動物としての多。いたるところでそれに固有の有機体性と本質的 、、、、、 にむすびついている有機体固有の呼吸。生きた織物としての、正確で衝撃によって調整さ れるデカルト的な延長とは全く反対に、生命的隆起の結果であるかのようにおり曲げられ た多。ドゥルーズの哲学は、全体的であると同時に拡散的である生をまるごと捕獲するの である3。 (3)非人称の死→自由な諸差異( 『差異と反復』第二章) しかし他方[の死] 、他の顔、他の側面は、自由な諸差異の状態を指している。そのとき、 それは一個の《私》や一個の自我によって与えられる形式にはもはや従属せず、また誰か 、、 の同一性と同じように私の一貫性をも排除する形態をとって展開される4。 1 2 MP, p. 291. 邦訳 274-275 頁。 MP, p. 316. 邦訳 298 頁。 アラン・バディウ(小谷晴勇訳) 「ジル・ドゥルーズ『襞̶̶ライプニッツとバロック』 」宇野邦一編『ドゥルーズ横断』 (河出書房新社、1994 年)所収、189 頁。 4 DR, p. 149. 邦訳 179 頁。ただし訳文には変更を加えた。 3 1 第二セッション:身体から感覚へ (4)死=思考=存在(バディウ) 、、、 この意味で死は思考である、思考することが、まさしく非人称的な外部性によって個体 が凍結される地点に禁欲的に到来することであり、それはいずれにせよ真正の存在である のだから。この思考することと死ぬことの同一性は死への紛れもない賛歌において言われ るのだが、そこでドゥルーズはブランショの足跡のなかにやすやすと滑り込むのだ5。 Cf. 潜在性→反転した超越性?(バディウ) 1993 年の春の初めに、私はドゥルーズに、潜在的なもののカテゴリーは一種の超越性を 維持するように私には思われ、この超越性はいわば世界の諸幻影の「下方」に、あるいは 「彼方」という古典的な超越性と対称的な位置にずらされている、と反論していた。そし て私はこの逆にされた超越性の維持を「全体」のカテゴリーの維持に結びつけていた6。 2 死を知る動物 (5)死を知る動物(への)死を賭した生成変化→生を開示( 『批評と臨床』 ) 動物が死に瀕していればいるほど人はいっそう動物になる。そして、精神主義的な偏見に 反して、動物こそは死ぬことを知っており[l'animal qui sait mourir] 、その感覚[sens]ない し予感[pressentiment]を持っているのである。文学が始まるのは、ロレンスにしたがえば ヤマアラシの死とともに、カフカにしたがえばモグラの死とともになのである̶̶「優し い憐憫の仕草に伸びきってしまった私たちの哀れで小さな赤い四肢」。人は死んでいく子牛 のために書く、そう言っていたのはモリッツだ。女性的、動物的、分子状のさまざまな迂 回に到達するのは言語の義務であり、あらゆる迂回は死を賭した生成変化である。事物の 中にも言語の中にも、直線などありはしない。統辞法とは、事物の中で生を開示するべく そのつど創り出される必要不可欠な迂回の総体なのである7。 (6)動物への生成変化→代理=表象する言語の外へ( 『カフカ』 ) 、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、 言語は、その極限または限界の方まで伸びるために代理=表象的であることをやめる。 たとえば語がグレゴールにおいて、苦しいぴいぴいいう音や、フランツが「切れ目も変わ り目もなく」叫び声をあげるように、苦悩のコノテーションがこの変貌にともなっている8。 (7)さらなる複数化→もはや動物ではない多様体へ( 『カフカ』 ) おそらくカフカにおいては、馬の特殊な状況、つまり馬自身がまだひとつの動物であるこ とと、すでにひとつのアレンジメントであることとの中間者[intermédiaire]であるという 状況がある。いずれにしても物語のなかに存在し、あるいはそこで生成変化する動物たち Alain Badiou, Deleuze : la clameur de l'être, Paris, Hachette, 1997, p. 24. アラン・バディウ(鈴木創士訳) 『ドゥルーズ――存 在の喧噪』 (河出書房新社、1998 年)23 頁。 6 Ibid., p. 70. 邦訳 72 頁。 7 CC, p. 12. 邦訳 13 頁。 8 K, p. 42. 邦訳 41 頁。 5 2 第二セッション:身体から感覚へ は、次の二者択一のなかに捉えられる。まず、それらの動物たちが袋小路に追いつめられ、 閉じこめられ、物語が終わってしまうという場合。もうひとつは、それらの動物がおのれ を開き、複数化し[se multiplient] 、いたるところに出口を穿ち、もはや動物ではない分子的 多様体、また機械状アレンジメントにとって代わられる場合。これは長編小説においての み、それ自体として扱われることができる9。 3 ダニ、分裂する小動物 (8)スピノザの後継者としてのユクスキュル生態学( 『スピノザ:実践の哲学』 ) スピノザよりずっと後になって、動物たちの世界[mondes animaux]を、それらのもつ情 動群[affects]や触発し、触発される力によって規定し、記述しようと試みる生物学者、自 然学者たちが現れる。たとえば J・フォン・ユクスキュルは哺乳動物の血を吸う動物、ダニ についてこれをやってみせるだろう。彼はこの動物を三つの情動から規定する。まず光に 反応する情動(木の枝の端までよじのぼる)、第二に嗅覚的な情動(哺乳動物が枝の下を通 るときその上に落下する) 、第三に熱に反応する情動(毛がなく、熱の高い部位を探す)10。 (9)ダニ論 広大な森に起こるさまざまなこと、そのすべてにあってたった三つの情動から成り立っ ているひとつの世界[un monde] 。満腹してほどなく死んでゆくダニ、またきわめて長時間 空腹のままでいられるダニ、この動物のもつ触発される力は、こうして最高の強度閾、最 低の強度閾をもつ11。 ( 『スピノザ:実践の哲学』 ) この三つがダニのもつ情動のすべてであり、それ以外の期間、ダニは眠っているのだ。 ときには何年間も眠り続け、広大な森で起こることにはいっさい関心をもたない。ダニが 示す力能の度合いは、ご馳走のあとに死ぬときの最良の上限と、飢えて待ち続けるときの 最悪の下限という二つの限界のあいだにすっぽり収まっている12。 ( 『千のプラトー』 ) 《ダニ》 [Tique]を見よ、この動物を賞賛せよ、それは三つの情動で定義される、それら は、ダニを構成する諸々の連関に従ってダニがなしうるすべてのことだ。三極からなる一 つの世界、それがすべてだ![un monde tripolaire et c’est tout!] 光がダニを動かし、ダニ は枝の先までよじ登る。哺乳類の臭いが彼を動かし、彼はその上に落ちかかる。毛が彼の 動きを妨げ、彼は毛のない場所を求め、皮膚に食い込み、熱い血をすする。盲目で聾であ りながら、ダニは広大な森の中で三つの情動しかもたず、出会いを待ちつつ何年間もその 残りの時間を眠っていられる。それにしても何という力強さだ!13( 『対話』 ) K, pp. 68-69. 邦訳 73-74 頁。 SPP, p. 167. 邦訳 219 頁。 11 Ibid. 同書同頁。 12 MP, p. 314. 邦訳 296 頁。 13 D, pp. 74-75. 邦訳 94-95 頁。 9 10 3 第二セッション:身体から感覚へ (10)哲学的動物( 『対話』 ) 結局のところ、人はつねに、自分に可能な情動に対応した器官と機能をもつのだ。単純な 動物から始めること。それらは、少数の情動しかもたず、我々の世界のなかにも、他の世 界のなかにも存在しない。それらは、彼らが掘削し、切断し、縫合するすべを心得ている、 連関する世界と共に[avec]存在するのだ。クモとその網、ノミと頭、ダニと哺乳類の皮膚、 これらは哲学的動物[bêtes philosophiques]だ、ミネルヴァの鳥ではない14。 (11)全体性から分離する「元基‐内‐存在」 (レヴィナス『全体性と無限』 ) 元基‐内‐存在[Etre-dans-l'élément]は、たしかに、全体への盲目的で聞く耳をもたぬ融即 から存在を解き放つ。だが、元基‐内‐存在は外に向かう思考とは別物である。元基‐内 ‐存在においては逆に、呑み込み、貪り、溺れさせる波さながら、思考の運動が不断に自 我の上にかぶさってくるのだ。(……)元基‐内‐存在は内に存在すること、∼の内面に存 在することであり、こうした状況は表象に還元されることはない。この状況はまた未成熟 、、 な表象に還元されることもない。こうした状況は享受の仕方としての感受性[sensibilité] なのだ15。 ジル・ドゥルーズの著作略号 DR Différence et répétition, Paris, PUF, 1968. 『差異と反復』 、財津理訳、河出書房新社、1996 年 K Kafka: pour une littérature mineure (avec Félix Guattari), Paris, Minuit, 1975. 『カフカ̶̶マイナー文学のために』 、宇波彰・岩田行一訳、法政大学出版局、2000 年 D Dialogues (avec Claire Parnet), Paris, Flammarion, 1977. 『ドゥルーズの思想』 、田村毅訳、大修館書店、1995 年 MP Mille plateaux (avec Félix Guattari), Paris, Minuit, 1980. 『千のプラトー』 、宇野邦一ほか訳、河出書房新社、1997 年 SPP Spinoza: philosophie pratique, Paris, Minuit, 1970, éd. augmentée 1981. 『スピノザ̶̶実践の哲学』 、鈴木雅大訳、平凡社、2000 年 CC Critique et clinique, Paris, Minuit, 1993. 『批評と臨床』 、守中高明ほか訳、河出書房新社、2002 年 参考文献 ベルナール・シシェール「バディウがドゥルーズを読む」 、守中高明訳、 『批評空間』第 II 期第 18 号所収、1998 年 マルティン・ハイデガー『形而上学の根本諸概念:世界―有限性―孤独』 (ハイデガー全集第 29/30 巻) 、川原栄峰ほか訳、 創文社、1998 年 ヤコプ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』日高敏隆・野田保之訳、思索社、1973 年 Alain Badiou, Lêtre et l'événement, Paris, Seuil, 1988. Martin Heidegger, Gesamtausgabe 29/30 : Die Grundbegriffe der Metaphysik. Welt–Endlichkeit–Einsamkeit, Frankfurt am Main, Vittorio Klostermann, 1983. Akira Mizuta Lippit, Electric Animal : Toward a Rhetoric of Wildlife, Minneapolis, Univ. of Minnesota Press, 2000. D, p. 75. 邦訳 95 頁。 Emmanuel Lévinas, Totalité et Infini, Paris, livre de poche, 2001(1971), pp. 142-143. エマニュエル・レヴィナス(合田正人訳) 『全体性と無限』 (国文社、1995 年) 、200 頁。 14 15 4
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