頂門の一針 - Melma!

2015/06/08発行
頂門の一針
□■■□──────────────────────────□■■□ わたなべ りやうじらうのメイル・マガジン「頂門の一針」3684号
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平成27(2015)年6月8日(日)
平和への貢献語り国連改革を:内畠嗣雅
咲き誇りが短かった「平戸ツツジ」:毛馬一三
私の「身辺雑記」(228):平井修一
頼朝が生んだ幕府体制の叡知:伊勢雅臣
懐かしや鯰の味噌煮:渡部亮次郎
話 の 福 袋
読 者 の 声
身 辺 雑 記
□■■□──────────────────────────□■■□
第3684号
発行周期 不定期(原則毎日発行)
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平和への貢献語り国連改革を
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内畠 嗣雅
国連創設70年に合わせ、安全保障理事会改革に向けた加盟国間の交渉が
始まった。安保理改革は10年前にも機運が高まったが頓挫しており、困難
を覚悟しなければならない。
日本にとって安保理改革とは、常任理事国入りを目指すことに他ならな
い。改革実現に向け、戦後70年の日本の平和への貢献を世界に問い、その
地位にふさわしいとの認識を広げてもらいたい。
安保理は、第2次大戦の戦勝国の米国、英国、フランス、中国、ロシア
(当時のソ連)の5大国に固定された常任理事国と任期2年の非常任理事
国で構成される。
常任理事国は、1国の意思で決議成立を阻止できる拒否権を有し、自身は
他国から脅威とみなされても、安保理討議の俎上(そじょう)に載せられ
ることはない。
強大な権限を与えられたのは、「平和の維持は大国が主導する」との発想
からだ。戦後の世界平和はこの5大国に委ねられたと言っても過言ではな
いだろう。
非常任理事国は1965年に6カ国から10カ国に拡大されたが、安保理を5大
国が牛耳る基本的構図は変わらない。改革への主張は、戦後70年たち、こ
のままでよいのかとの問題提起でもある。
中国は南シナ海で、日米や周辺諸国の制止を無視して岩礁を埋め立て、軍
事目的で人工島を建設している。だが、常任理事国である以上、この問題
で安保理が声を上げることはない。
ウクライナ情勢は、ロシアが関与を否定しているため、当事国と扱われな
いから討議の対象にはなった。だが、ロシアが第三者を装っていては、空
疎な議論にならざるを得ない。
力による現状変更を自ら試みる中露両国と、積極的平和主義を掲げる日本
と、どちらが「平和の番人」としてふさわしいか聞いてみるとよいだろう。
尤も、中国、ロシアに限らず5大国が常任理事国の特権的地位を手放すこ
とはあり得ない。拒否権を剥奪しようにも、拒否権行使で阻止される。
現実の議論の中心は安保理拡大である。常任理事国の数を増やし、5大国
の存在感を相対的に薄める。具体的にはいくつ増やし、どこから選ぶか
だ。新常任理事国に5大国と同じ拒否権を与えるかどうかも争点の一つで
ある。
日本は2005年同様に、インド、ドイツ、ブラジルとの4カ国グループ
(G4)で、ともに常任理事国入りを目指している。
G4の改革案は、常任理事国を6増の11、非常任理事国を4∼5増の
14∼15とし、新常任理事国の拒否権は15年間凍結するというもので、05年
と大筋で変わらない。
05年は、国連総会にG4主導の改革決議案が提出されたが、アフリカ連合
(AU)案との一本化に失敗するなど採決にも至らなかった。今後、あら
ゆる外交の機会を利用して安保理改革を訴え、幅広い賛同を得た決議案を
問うなど、少しでも前に進めたい。
国内では、安全保障法制の国会での論戦が続く。世界平和へのさらなる
貢献を可能とするものだ。世界が注視しているとの自覚を持って議論して
もらいたい。(論説委員)
産経ニュース【一筆多論】2015.6.6
━━━━━━━━━━━━━━━━ 咲き誇りが短かった「平戸ツツジ」
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毛馬 一三
朝夕愛犬を連れて散歩するコースが、大阪府寝屋市と大阪市を結ぶ旧淀川
1級河川の城北川堤防の側道。車が通らないので安全な上、その側道に
沿っていろんな樹木のある区域が設けられているため、その都度、季節感
を楽しめることが出来、気分が豊かになる。
堤防の側道の植樹は、サクラやヤマモモ、菊、クスノキ、ツバキなど50種
は超すようにある。季節ごとに散歩する人の気持ちを豊かに盛り上げてく
れる。
中でも、「平戸ツツジ」は毎年5月中が満開で、緑の木の中から真っ赤な
花が咲き誇り、目線を奪う。背丈がこじんまりしていて、手入れが要らな
い。植栽管理には便利な樹木だ。
ところが今年は寒気が続いた所為か、満開期が短かった。6月に入った途
端、咲き誇っていた真っ赤な魅力の花は、枯れ落ちて仕舞い、今は樹木だ
け。寂しさを募らせる。
ところで、私はNHK初任地が佐世保放送局だったため、平戸ツツジの原
産地平戸には取材にも、旅行にもよく出かけた。
平戸は平戸島とその周辺を行政区域とする市で長崎県と九州本土の市とし
ては最西端に位置する都市。旧平戸藩松浦氏の城下町で、当時はまだ孤島
だったため、今のような大型橋梁はなく、遊覧船で渡った。
海上から平戸の高台に平戸城が見えて歴史の想いを募らせる一方、陸に上
がった途端この季節には、あちこちで平戸ツツジに囲まれた。
平戸商工会議所による平戸ツツジの説明によると
<平戸ツツジは、平戸原産の常緑のツツジで、平戸・松浦藩の武家屋敷に
て種々な原種の交雑により、400年以上の悠久の時を経て育まれた門外不
出の花でした。その大輪の花びらは世界一のツツジとも云われ、短い間で
はありますが満開の時期にはびっしりと美しく咲き誇り、見る人の目を大
いに楽しませてくれます。
その儚い生命の美しさを映そうと、摘み取った花びらを使って一枚一枚染
め上げたのが「平戸つつじ染め」です。
自然の花びら染めは1本1本の木から得られる色が全て異なるので、ひと
つとして同じ色はありません。また、上に咲く花と下に咲く花でも、染ま
る色は違ってきます。かけがえのない、その花の個性ひとつひとつを大切
に、絹や綿、和紙に映しました。>だという。
さて、平戸だが、全国に名を馳せているのは、この「平戸ツツジ」と併せ
て「平戸の歴史」ということになる。
序でながら、平戸の歴史に触れておく。
<慶長5年(1600年)、日本の豊後国に漂着したオランダ船リーフデ号の
乗組員の一員であったイギリス人ウィリアム・アダムスは、徳川家康の信
頼を受けて江戸幕府の外交顧問となり、「三浦按針」の名を与えられるな
ど重用された。
慶長16年(1611年)、イギリス東インド会社はアダムスがイギリス本国に
送った書簡によって事情を知り、国王ジェームズ1世の許可を得て彼を仲
介人として「日本との通商関係」を結ぶ計画を立て、艦隊司令官ジョン・
セーリスを日本に派遣することとなった。
慶長18年5月4日(1613年6月11日/同6月21日)に、平戸に到着したセーリ
スは、アダムスの紹介を得て駿府城で徳川家康に拝謁して国王ジェームス
1世の国書を捧呈し、更に江戸城にて将軍徳川秀忠にも謁見。
そしてアダムスの工作が功を奏して、この年の9月1日(10月4日/10月14
日)には、家康によって「イギリスとの通商許可」が出された。
そこでセーリスは平戸で在留中国商人李旦から借り上げていた邸宅をイギ
リス商館とし、リチャード・コックスを商館長に任じて6人の部下を付
け、更にアダムスを商館員として採用して顧問とした。
商館は後に正式に買い上げられ、イギリス人商館員や日本人使用人も増員
された。商館員や使用人は平戸や江戸・京都・大坂・長崎などに派遣され
て貿易の仲介を行ったり、平戸を拠点に商船を東南アジア各地に派遣して
貿易業務を行った>。
こうして平戸は、我が国での最初の外国貿易の拠点となったのだ。
ところで、平戸を有名にさせているのは、キリスト教との関わりだ。
<平戸は、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが三
度にわたって布教に訪れた地であり、平戸島や生月島では多くの住民がカ
トリックの洗礼を受け、その後の江戸時代の禁教令下でも隠れキリシタン
として信仰を受け継いでいった人が多かった。
明治時代に禁教が解かれて、平戸でも宝亀、紐差などの教会が建てられ
た。聖フランシスコ・ザビエル記念教会のある平戸港周辺の市街地には、
もともとカトリックの信徒は少なかったが、近隣各地からの移転により信
徒が増えていった。
そして1931年(昭和6年)4月に現在の教会堂が建てられた。献堂40周年の
1971年(昭和46年)9月には、聖フランシスコ・ザビエルの像が聖堂のそ
ばに建立され、これに伴い「聖フランシスコ・ザビエル記念教会(あるい
は聖堂)」とも呼ばれるようになった>。
余談だが、平戸経由で五島列島の島を取材した時、ある家で「オランダ製
の火縄銃」と「隠れキリシタンの像」を見せて貰った。どちらも初めて見
るもので興奮した記憶がある。特に「隠れキリシタンの像」は、正面は仏
像だが、裏には「キリスト像」が設えてあった。
きっと、キリシタン禁教令下で仏教徒を装いながらも、実際は密かにキリ
シタン信仰を貫いていた江戸時代の隠れキリシタン徒の様子が浮かび上
がってくるような気がして、感動した。
話は、平戸の歴史になってしまったが、毎朝夕の愛犬の散歩の時、平戸ツ
ツジに惹かれる中で、やはり平戸の歴史が一度に蘇ってくる。平戸ツツジ
の美しさは、本当に歴史まで呼び起こし、心まで豊かにしてくれる。
だが、今年は拝花の時期が短かったのは、寂しい限りだ(了)
参考:ウィキペディア、平戸市 ━━━━━━━━━━━
私の「身辺雑記」(228)
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平井 修一
■6月5日(金)、朝は室温23度、快晴、フル散歩。
朝食後に娘たちは帰った。洗濯は2回まわし。6/1の夕刻からずーっと集団
的子育てが続いたのでいささかくたびれた。ストレスのせいか、食欲はあ
まりないし、お腹の調子も悪い。
神社仏閣に油を引っかけた奴は、小生は反日の中韓だろうと思っていた
が、容疑者は元在日の韓国系日本人だった。韓国系キリスト教カルトにか
ぶれて自らも教団を創ったそうだが、ISに殺されたGもこの手の教団に接
触していたという記事を思い出した。
Gは「1997年に日本基督教団田園調布教会で受洗」(ウィキ)。
<日本基督教団は、1941年6月24日に日本国内のプロテスタント33教派が
「合同」して成立した合同教会であり、公会主義(平井:右も左も「小異
を捨てて大同につこう」という、共産主義の宗教版のようだ)を継承する
唯一の団体である。
(戦後は路線対立による)「教団紛争」と称する状況が現在に至る迄継続
している。合同教会に対する考え方、その形成に至る神学、方法論、将来
の展望に至るまで派閥的対立があったが、新たな執行部による改善が図ら
れつつあるのが現状である。現在、1700余りの教会・伝道所がある。
戦時中における罪責の反省から在日大韓キリスト教総会と協約を結び、そ
の中で在日韓国・朝鮮人問題を受けて取り組み、在日大韓キリスト教会と
の宣教協力を決意すると述べている。
2011年10月10日、在特会のメンバーに暴行を働いたとして日本基督教団堅
田教会の牧師が逮捕される事件が発生、云々>(同)。
容共左派の反日屋みたいだが、牧師が暴力を振るうって・・・異次元の教
団だな。
Gが受洗した田園調布教会のサイトには、「日本基督教団に属するプロテ
スタント(福音主義)の教会」とある。福音主義は「聖書原理主義」のよ
うだ。公会主義と同様、「みんなで渡れば怖くない」か。「みんな」には
在日も含まれる、というか、ほとんど日韓の反日教徒が一体化しているよ
うだ。
日本基督教団はこの6月7日には「在日大韓基督教会主催特別集会」を催す
として、曰く――
<韓国だけでなく日本においても正統的なキリスト教会ではない「新天
地」などいわゆる似非教会、異端、カルト宗教による被害が続出していま
す。いま、すべてのクリスチャンが目覚め、緊急な祈りの課題としなけれ
ばなりません。
主催:在日大韓基督教会 関東地方会伝道部、女性会連合会。協賛:統一
協会問題キリスト教連絡会、日本基督教団統一原理問題連絡会>
統一協会(統一教会)とは文鮮明が始めた「世界基督教統一神霊協会」の
こと。合同結婚式と反共で有名だ。小生が愛読している「世界日報」も統
一教会の反共宣伝媒体だ。
日本基督教団は統一教会を目の仇にしているようだから、目くそ鼻くその
類だろう。日本基督教団サイトのニュース欄2/21にはこうあった。
<1月29日、富士見町教会にて、シリアで武装集団に拘束され、安否の詳
細が不明となっていた2名の日本人、後藤健二さんと湯川遥菜さんをおぼ
えて、祈り会が開かれた。
本事件が報道された当初より、後藤健二さんが日本基督教団田園調布教会
の信徒であることが知られ、教団の諸教会・伝道所をはじめ他教派の信徒
と教職から、田園調布教会と事務局に祈りの声が集まり始めた。この状況
に応え、三役の強い願いによって祈り会が開催された>
災いは祈って解決できることはない。人災に対しては反感、憎悪、警戒、
攻撃、殲滅が歴史を創ってきた。
第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121−180年)
曰く「キリスト教は敗者の論理だ。それまではローマの神々は元気だった
が、キリスト教により死んでしまった」(出典を失念)。
一神教は思い込みが激しいから危険だ。薬物依存に近い。狂って他者を殺す。
多神教は概ね寛大、受容力がある。日本の八百万の神々は空気だ。人々を
守ってくれる。戦う時には勇気をくれる。
■6月6日(土)、朝は室温21度、昨日の雨で蒸すかと思っていたが、高原
のように涼しく爽やか、快晴、フル散歩。カミサンは仲良し4人組でスー
パー銭湯1泊へ。
中共の旅客船事故、「東方之星」が1日に沈没した。東方之星とは毛沢
東=中共のこと。この事故は邪悪な共産主義という一神教信者の習近平の
未来を暗示しているかのようだ。
このところ習の虎退治のニュースはない。もともとが政敵を倒して政権の
求心力を高める手段として進められたが、江沢民派の頑強な抵抗にあって
いるのかもしれない。
習が今熱心に進めているのは南シナ海制覇だ。開戦の基準を設定したよう
である。
<中国政府、対日米軍事行動のボーダーライン制定=香港誌
【大紀元日本6月3日】一昨年は東シナ海で防空識別圏を設定、いまは南シ
ナ海で埋め立て工事を進めるなど、日米を含む周辺諸国との間で度々領有
権問題の摩擦を引き起こしている中国政府。
香港メディアによると、最高指導部はこのほど緊急会議を召集し、対米、
対日軍事行動に踏み切る「ボーダーライン」を審理、決定した。
香港誌「争鳴」の6月号記事によると、中共中央政治局は5月20日午後9時
から6時間近くの緊急会議を開き、最近の南シナ海領有権問題における中
米両国間対立の対応策を議論し、以下の軍事行動発動のボーダーラインを
制定した。
▽日米軍が国際海域・国際空域で先に中国軍に発砲、殺傷兵器を使用する場合
▽日米軍が中国の領海、領空に侵入する場合、口頭警告・発砲による再警
告を行った後、相手が発砲または殺傷性兵器を使用する場合など
翌日午後の中共中央軍事委員会会議で上記決定事項が内部通達された。
領有権問題をめぐっては米中間の対立が深まっている。南シナ海南沙諸島
で埋め立て等の工事を進め人工島を造作している中国政府に対し、米政府
は最近になって、島周辺で米軍の艦船、偵察機を活動させることを検討し
始めるなど対抗姿勢を強めている。
5月20日、アメリカ海軍対潜哨戒機P−8Aポセイドンが、同海域の上空を飛
行した際、中国海軍は「中国の軍事警戒区域である」と8回ほど警告を繰
り返し、撤退を要求した。
同件について中国外交部の洪磊・報道官は後の定例記者会見で「米国への
強い不満」を示し、米国側の行動は「非常に危険である」と非難した>
(以上)
「最初の一発を相手に撃たせたら、我が方も自衛のために反撃する」とい
うことだが、どちらが最初に撃ったかなんて証拠があるはずもないから、
緊張が高まれば衝突になる。中共は「衝突を辞さない」と宣言したわけだ。
中共は完全に居直っており、人民網6/4はこう伝えた。
<最近いくつかの国は南中国海問題において国際法に言及し続けている。
もし彼らが国際法を仔細に研究したことがあるのなら教えてほしいのだ
が、中国が自国が主権を有する島・礁上で理にかなった建設を行うこと
を、どの国際法が禁止しているのか? 他国の島・礁に対して艦艇や航空機で接近偵察を行うことを、どの国際法
が認めているのか? 航行の自由を名目に他国の主権と正当で合法的な権
益を損害することをどの国際法が認めているのか?>
「南シナ海は2000年前から俺の縄張り、領土だ。そこで俺が何をしようが
余計なちょっかいを出すな」ということだ。
日米主導の連合軍はこの海域の航行安全を確保するために、中共の軍事プ
レゼンスを駆逐する必要がある。岩礁が要塞化される前に叩き潰さなくて
はならない。拙速を恐れてはいけない。後手に回るよりはるかにいい。攻
撃は最大の防御なり。
■6月7日(日)、朝は室温22.5度、快晴、フル散歩。夕べは雨が降ったよ
うだが爽やか。
「中国に強い姿勢を示すことが抑止力を高める ジェームズ・アワー日米
研究協力センター所長」(国家基本問題研究所6/5)から。
<米ヴァンダービルト大名誉教授で、日米研究協力センターのジェーム
ズ・アワー所長は6月5日、国家基本問題研究所で、日、米、中の3か国を
中心とする安全保障問題について語り、研究所の企画委員と意見交換し
た。アワー氏は、国基研の客員研究員でもあり、訪日の機会を利用しては
意見交換を行っている。
最近の南シナ海情勢が意見交換の主要テーマで、アワー氏は、人工島を埋
めたて、拡大する中国の行動は国際法や基準に照らし合わせ、合法性を
失っており、周辺諸国の警戒心を煽っていると指摘、「今や、中国には友
人はいない」と語った。
最近日系人として初めて米太平洋軍司令官に就任したハリー・ハリス海軍
大将は、人工島の12カイリ(通常なら領海)であっても(合法性がないの
で)米艦艇を進入させると明言している。また、アシュトン・カーター国
防長官も、先日シンガポールで開かれた安全保障国際会議(シャングリラ
会議)で中国を名指しで非難、強い態度で臨むと強調した。
実際にホワイトハウスがゴ―発信を出すかどうかは明言できないが、とア
ワー氏は断りながらも、「戦う姿勢を示すことで戦いの可能性は少なくな
る」「何もしないと戦争の可能性が高まる」ときっぱり述べた。
日本の野党や、朝日新聞など左翼、リベラル勢力は安保関連法案との関連
で、中国を刺激して「戦争に近づく」と批判するが、むしろ(平井:中国
の無法を放置することは)逆に戦争の可能性を高めているのが実情である。
アワー氏はまた、国会審議で、安倍首相が新たな法案が可決しても、米軍
など友軍の後方支援を必ず行うわけではなく、バックアップしないことも
あると述べたことについて、「当然のことだ。効果があるのは、日本が後
方支援してくるかもしれない、との疑いを中国側に抱かせることだ。これ
が抑止力というものだ」と語った>(以上)
うーん、さすがプロはリアリズムで現状を認識している。南シナ海から中
共の軍事力をいかに取り除くのか、悪魔のように細心に戦略戦術を練り、
訓練を重ね、天使のように大胆に駆除するべきだ。
地政学者・奥山真司氏のブログ6/4から。
<ルトワック本の紹介ですが、今回は同時に原著が復刊されることになっ
た、彼の博士号論文を元にしたローマ帝国に関する本です。
"The Grand Strategy of the Roman Empire: From the First Century
A.D. to the Third" by Edward N. Luttwak
原題を直訳しますと、『ローマ帝国の大戦略:一世紀から三世紀まで』と
いうシンプルなもので、内容も題名の通り、1世紀から3世紀までの300年
間のローマ帝国の大戦略の違いを分析するというもの。
普通のローマ帝国に関する本を読むと、ローマ軍は戦術的にも好戦的で
あったというイメージがありますが、ルトワックによればそれは間違い
で、たとえばユダヤ戦争におけるマサダ要塞の攻略戦(70-73年)などで
は、極めて慎重な攻略法をとっていることを指摘しております。
というのも、ローマは紀元前146年までのカルタゴとの戦いで大規模な軍
隊を使う戦争の戦い方における複雑さを学んでおり、それ以降の五賢帝の
時代などの拡大期には、むしろローマ軍に好戦的な戦術を使わせるより
も、軍隊の存在による脅しを使う「強制外交」をとっていたと分析します。
つまりローマ人たちというのは、その領土の拡大期には「抑止」的な軍隊
の使い方をしており、戦略における物理的な面よりも、むしろ相手の恐怖
心にどこまで訴えかけることができるかという、いわゆる心理的な面をよ
く理解していたというのです。
このようにみると、まさにローマ帝国興亡史という感じですが、とりわけ
その戦略面・軍事面から見ているという意味では画期的なものかもしれま
せん。地図や図、それに表なども意外に豊富です。
これをざっと読んでみての感想ですが、どうしても現在のアメリカの大戦
略との比較をしたくなってしまうほど現代的な示唆に富んでおります。ま
た、戦略における心理的な面や相手の反応の重要性など、後に『戦略論』
に集められたアイディアの数々がすでにここに現れていたことを発見した
のも興味深いところでした
>(以上)
まずは日米豪印+アセアン諸国による連合軍の哨戒活動、示威行動が初め
の一歩だ。そのためには秘密の作戦会議を重ねるべきだ。作戦名は「レッ
ドパージ・イン・エイシア」。
マキャベリ曰く――
「優れた指揮官ならば次のことを実行しなければならない。第一は、敵方
が想像すらもできないような新手の策を考えだすこと。第二は、敵将が考
えるであろう策に対して、それを見破り、それが無駄に終わるよう備えを
完了しておくことである」
「敵の計略を見抜くことほど、指揮官にとって重要なことはない。このこ
とほど優れた資質を要求される能力もない。そして、敵の行動を予知する
よりも、敵の計略を見抜くことの方が容易である場合が多い。行動の予知
は、遠くに離れていては不可能なものだが、計略の予知ならば、離れてい
る方が却って有利なものだ」
北九州市に本拠を置く武闘派ヤクザ「工藤会」。九州最大規模の指定暴力
団かつ特定危険指定暴力団(銃撃や火炎瓶を投げ込むなどの危険行為を繰
り返す恐れのある組織)に指定されている。北九州市に本部を置き、12年
の2月時点で650名超の構成員を擁する。手榴弾を爆発させたこともある極
悪のゴロツキだ。
産経5/29「工藤会壊滅に全力を 警察庁長官、捜査員を激励」から。
<警察庁の金高雅仁長官は29日、特定危険指定暴力団工藤会の本拠地があ
る北九州市を訪れ、工藤会幹部らによる殺人未遂事件の現場を視察した。
視察後、県警小倉北署で工藤会関連の事件を担当している捜査員らを前
に、「(捜査で)工藤会に相当の打撃を与えている。壊滅に追い込んでほ
しい。工藤会壊滅の成否が日本の暴力団対策に大きな影響を与える」と訓
示した。
県警は平成26年9月以降、工藤会幹部らによる殺人事件などでトップら最
高幹部を相次いで逮捕している>(以上)
世界の特定危険指定暴力団、ゴロツキ中共を包囲し、殲滅する。勇気を
もって頑張ればできる。
♪起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し 醒めよ我が同胞(はらから) 暁は来ぬ
暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて 海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ あぁ インターナショナル 我等がもの
皆で力を合わせれば中共の暴力的台頭を叩き潰せる。まさしく「中共壊滅
の成否が世界のならず者国家対策に大きな影響を与える」のだ。いざ闘わ
ん!(2015/6/7)
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頼朝が生んだ幕府体制の叡知
━━━━━━━━━━━━━
伊勢 雅臣
武家が実権を握る新しい時代に、源頼朝は日本の伝統的叡知に根ざした幕
府体制を生み出した。
■1.「守護・地頭」って何?
東京書籍版(以下、東書版)では「鎌倉幕府の始まり」と題して、次の
ように述べている。
<平氏の滅亡後,義経が頼朝と対立すると,頼朝は義経をとらえることを
口実に朝廷に強くせまり,国ごとに守護(しゅご)を,荘園や公領ごとに
地頭(じとう)を置くことを認めさせ,鎌倉幕府を開いて武家政治を始め
ました。>[1,p52]
そもそも守護、地頭とはどんな役職なのか説明もない。「義経をとらえる
ことを口実に」と頼朝の腹黒さを強調したいようだが、守護・地頭を置く
ことと義経をとらえることが、どう繋がっているのかチンプンカンプンな
ので、その魂胆は不発に終わっている。
守護、地頭とは何なのか、それらを頼朝は何のために置いたのか、そうし
た疑問を追求してこそ、歴史の面白さが出てくるのだが、これでは「鎌倉
幕府、守護、地頭」などと、意味も分からない中学生に機械的に丸暗記さ
せる受験勉強でしかない。
自由社版では、「鎌倉幕府の成立」の項でこう述べている。
<平氏滅亡ののち、源頼朝は朝廷の承認を受け、1185(文治元)年、地方
の国ごとに守護を、荘園や公領には地頭を置いた。守護は、軍事や警察の
仕事につき、地方の政治に関与した。地頭は、年貢の取り立てや、土地の
管理などを行った。
一方、源義経が兄である頼朝と対立し、平泉(岩手県)の奥州藤原氏のも
とにのがれると、頼朝はその勢力を攻め滅ぼして、東北地方も支配下に入
れた。>[2,p82]
守護が「軍事や警察の仕事につき、地方の政治に関与」、地頭が「年貢の
取り立てや、土地の管理」と説明されているので、東書版よりもだいぶま
しである。地方行政、治安維持、土地所有権管理と税の徴収なら、全国統
治の仕組みとして必要なことが分かる。
■2.将軍と守護・地頭の公的な関係
歴史学者・村尾次郎氏は守護・地頭の意義について、こう述べている。
「守護は追捕使(ついぶし)から発展したな治安馨察官であり、同時に、
国別に御家人を統率する軍事指揮官でもある。文治元年(1185)に有力な
御家人を任命し、頼朝のカはぐっと西国のはてまで延びることができた。
これまた地頭とともに官の公認をとって実施したものである。・・・律令
制国司の職掌からその最も大きな部分のひとつを奪うことになった。
地頭は、平家旧領の荘園を中心として諸国に配置された。その任務は兵糧
米を徴集することであったが、同時に、荘園の下司が行なっていた年貢徴
収と荘園領主への納入などをつかさどった。守護のもとに警察官の役をも
兼ねるのが特色で、鎌倉御家人に対する頼朝の新恩のおもな手段になっ
た。地頭には権力があるうえに、かなりの収入(得分)がともなったから
である」。[3,p169]
この一文からは、次の2点が窺われる。
第1に、守護も地頭も、それ以前の律令国家の仕組みを手直しして、実質
的な権限を握ろうとしたことである。しかも「官の公認をとって実施した
もの」で、天皇と朝廷の権威のもとに行われた改革であった。武家が政権
を握ったと言っても、天皇の権威のもとで、従来、貴族が握っていた権限
が武家に移ったということである。
第2に、頼朝が自分の御家人を守護や地頭に配した点。これは自分の部下
に対する論功褒賞をしたというだけではない。建久3(1192)年、頼朝は
朝廷から、征夷大将軍の称号を与えられた。これにより、頼朝とその家来
たちの私的な主従関係は、国家のなかでの将軍と守護・地頭という公的な
関係に位置づけされた。
すなわち主君への忠義が、国家への忠義ともなったのである。地方豪族に
私的に仕える武士は単なる「家人」だが、朝廷から任ぜられた征夷大将軍
に仕える武士は「御家人」なのである。
■3.天皇の権威のもとでの「征夷大将軍」
皇室の権威のもとで実権を握ろうとする頼朝の考えは「征夷大将軍」の称
号にも見てとれる。
<桓武天皇が延暦10年に任命された征夷大使は、陸奥国府、鎮守府、按薩
使(あぜち)など現地(奥羽地方全部)の全組織を統括したばかりでな
く、駿河以東の東海道、信濃以東の東山道諸国(坂東八カ国はすペてふく
まれる)に対しても軍需品の調達および兵力の動員について国司に指令で
きる権限が与えられた。
坂上田村麻呂が後に授げられた征夷大将軍は、この征夷大使の権能をひき
ついだものであろうから、大将軍の号令は東日本全部に行政・軍事の指揮
権をふるうことができるわけで、頼朝の目的と完全に一致するのである。
田村麻呂の場合は臨時であったが、頼朝はこれを常置の官号として授けら
れることを望んだ。>[3,p168]
ここでも頼朝は、歴史的な伝統に則り、あくまでも天皇の権威のもとで実
権を握ろうとした。貴族政治から武家政治に代わっても、天皇の権威のも
とで統治者としての正統性を得るという構造は同じである。
■4.「朝廷の権威は最高のものとして心の中にいきており」
朝廷の権威を大切にする頼朝の姿勢は、当時の社会が必要としていたもの
であった。この点を、村尾氏はこう説明する。
{律令制度が崩れていき、朝廷の行政と軍事の力がずたずたにちぎれてく
ると、中央の拘束力からはなれてゆく地方では、大小さまざまな、しか
も、独立性をもった土地支配者の分布する複雑な社会状態を現出し、自衛
のための同族軍事組織が生まれてきた・・・。
対立抗争のなかに立ちながら、彼らは自分の資産を「一所懸命」に守るた
めに、時の権威者から出される保証書によって確保する慣習を大切にし
た。これを「安堵(あんど)」という。
その場合、こんな独立心のさかんな者たちでも、朝廷の権威は最高のもの
として心の中にいきており、朝廷の権威から流れ出た筋での権威者が保障
してくれることを希望した}。[3,p167]
古代の律令国家の秩序が崩れた後に現出した乱世をまとめるには、中国で
あればすべての対抗勢力を打倒して、新たな皇帝として権威と権力を打ち
立てるしかない。それには長期間の戦乱がつきものである。
我が国では、朝廷の権力は崩れたが、権威は人々の心の中に残っていた。
そこで頼朝は律令制の伝統を受け継ぎつつ、朝廷の信任を受けた新しい統
治者として登場したのである。
東書版では「頼朝は義経をとらえることを口実に朝廷に強くせまり」とあ
るが、それは単に朝廷を騙したという事ではない。
朝廷の側でも、たとえば義経が不平を持つ武士や農民を組織して、頼朝に
抵抗すれば、全国的に戦乱が続いてしまう[4,p237]。朝廷が国家統合の権
威の源泉として、頼朝を統治者として承認し、守護・地頭など統治機構を
整備させたのは、国全体の早期安定を図るためにも賢明な施策であった。
■5.「北条政子の訴え」
頼朝の死後、妻・政子の実家、北条氏に実権が移った。頼朝の子・頼家は
二代目将軍についてが、粗暴を理由に伊豆の修善寺におしこめられ、つい
には殺される。後を継いだ弟の実朝も暗殺され、将軍家は断絶した。
これを機に、将軍職を返上すべきとする後鳥羽上皇と、上皇の皇子を将軍
に迎えて幕府を続けようとする北条氏との対立が決定的となった。承久
3(1221)年5月、後鳥羽上皇は北条氏追討の軍勢を全国に呼びかけ、鎌倉
御家人の中にも朝廷側に走る武士も出た。
東書版は「後鳥羽上皇が幕府に対して兵をあげると、頼朝の妻・政子は、
鎌倉の武士たちに、頼朝の御恩を説いて結束をうったえました」との説明
書きの下で、「北条政子のうったえ」を次のように伝えている。
{みなの者、よく聞きなさい。これが最後の言葉です。頼朝公が朝廷の敵
をたおし、幕府を開いてこのかた、官職といい、土地といい、その恩は山
より高く、海よりも深いものでした。
みながそれに報いたいという志はきっと浅くないはずです。名誉を大事に
する者は、京都に向かって出陣し、逆臣をうち取り、幕府を守りなさい。
(部分要約)(吾妻鏡)}[1,p53]
■6.「その場合はやむをえない、弓矢を捨てて降参せよ」
「部分要約」と断ってあるが、要約されていないところに重大な箇所があ
る。このあたりを、村尾氏はこう記している。
御家人たちは、かつて前例のない事態に直面して動揺した。頼朝のときに
は、彼らは常に勅命で動く官軍であった。それが、今度はまっさかさまに
朝敵の立場に追い込まれているからである。
東海道大将軍として10万余騎をひきつれた北条泰時(JOG注:政子の父・
時政の孫)も、さすがにためらいをおさえることができず、一旦出発をし
ながら途中でひき返し、父の義時に、もしも後鳥羽上皇おんみずからが出
陣めされたときには、いかがいたしましょうかと念をおし、義時はこれに
対して、その場合はやむをえない、弓矢を捨てて降参せよと指示している。
まことに、日本ならでは聞くこともできない問答である。[1,p178]
すなわち、御家人たちは今まで、将軍の命令は天皇の命令であり、彼らは
常に「官軍」として胸を張って戦うことができた。それが今度ばかりは、
もしかしたら後鳥羽上皇御自ら官軍の先頭に立って、自分たちは「賊軍」
になってしまうかもしれない、という立場に追い込まれたのである。
10万余旗を引き連れて出発しながら、途中で引き返したという所に、
泰時の動揺ぶりが窺われる。
■7.「朝廷は逆臣のために誤られて道に合わない勅令を発し給うた」
「北条政子のうったえ」は、こういう動揺の中で出されたもので、いかに
も「尼将軍」とまで呼ばれた断固たる意思を示している。しかし、その北
条政子にしても、「後鳥羽上皇を討て」などとは言っていない。村尾氏は
「北条政子のうったえ」をこう要約している。
{いま、朝廷は逆臣のために誤られて道に合わない勅令を発し給うた、わ
れわれは院の近臣どもを退治して、将軍家の伝統を守らなくては恥を知る
武士とはいえぬ。すぐに行け、ただし、院の召しに応じようとする者は遠
慮はいらないから、勝手にするがよい、と申し渡した。}[3,p179]
政子が訴えたのは、朝廷を敵とするのではない、朝廷を誤らせている
「逆臣」を退治せよ、という事である。この論理によって、朝廷に対する
公的な忠義と、幕府・頼朝に対する私的な忠義の相克対立は消え去り、動
揺は収まった。
「北条政子のうったえ」は、天皇は国家統治の正統性・権威の源泉であ
り、実際の政治を行う権力者ではない、という我が国の政治的叡知の伝統
に則ったものであった。
逆に言えば、自ら武士を招集して、幕府討伐に立ち上がった後鳥羽上皇
の行為は、この叡知の伝統から踏み外したものであったということができる。
「北条政子のうったえ」を紹介するなら、ここまで説明すべきだろう。東
書版の「部分要約」では「山より高く、海よりも深い」頼朝公への私的恩
義のみが言及され、当時の武士たちが朝廷の権威をいかに恐れ、政子がそ
の動揺を抑えて、公的な忠義をいかに回復させたか、という我が国歴史の
根幹には触れていない。
■8.日本の政治的叡知に根ざした幕府制度
鎌倉からの大軍は朝廷側の軍勢をあっけなく破った。戦後処理として、後
鳥羽上皇は隠岐に、その皇子である順徳上皇は佐渡に送られた。同じく皇
子にあたる土御門上皇は事変には関わりがなかったが、両上皇の配流を見
るに忍びず、進んで土佐に移られた。
北条一門は、三上皇を遠島に配流する名分を「天下万民のため」とした。
そして土御門上皇の皇子の仲恭天皇にかわって、後鳥羽院とは別系の後堀
河天皇が皇位を継がれた。
他国なら、ここで皇室など廃止して、北条氏自らが新たな皇帝となる所だ
ろう。しかし、我が国においては、天皇の権威のもとで、自らが統治者と
しての正統性を得て、国家を統治するという頼朝の発案した幕府制度がそ
のまま継続されたのである。
この幕府政治は、江戸時代末まで800年近く続いた事からも、日本の政治
伝統に根ざした叡知であったことが分かる。さらに明治以降の帝国憲法
も、現在の日本国憲法にしても、統治者の選び方は変われど、天皇が統治
者に正統性を与える、という点では変わらない。
武家が実権を握る新しい時代に、日本の伝統的叡知を幕府政治という形で
具現化したのが頼朝であり、それを現実政治の中で確立したのが北条氏で
あった。
■リンク■
a. JOG(893) 歴史教科書読み比べ(20):源平合戦と「錦の御旗」
「錦の御旗」が速やかな国内再統一をもたらした。
http://blog.jog-net.jp/201503/article_9.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読∼★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み
2.藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/
3.村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9FWMI/japanontheg01-22/
4. 上横手雅敬『日本の歴史文庫06 源平の盛衰』★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9ETFO/japanontheg01-22/
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懐かしや鯰の味噌煮
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渡部 亮次郎
毎度語る旧八郎潟(秋田)だが、ここの産物で一番食べたのは鮒(ふな)
で、次が何を隠そう鯰(なまず)であった。
「ナマズ類は、日本では普通の魚とは大きく違った姿をしているために下
魚とされてきたが、肉は白身で非常に美味である」と各種事典にある。昔
の八郎潟沿岸の家庭では泥臭さを消すために味噌煮にするのが普通だった。
春の田植え、秋の稲刈りの際は、いちいち家に戻るのももどかしいからお
櫃(ひつ)の飯に味噌煮にした鯰鍋それに漬物を携え、昼飯は青草の上に
それを広げて食べたものだった。
長じて東京で暮すようになり、八郎潟も干拓で縮ったこともあって高校生
以後は鯰にはお目にかかってない。
その後、アメリカ南部を旅した際、若い女性たちがダイエットのために鯰
を食べることが流行していると現地の人に聴かされて感心したものだ。鯰
は低カロリー多蛋白とのことだった。美人を維持するためには鯰をどう
ぞ、というわけだ。
だとすれば、鯰を常食したために体格が小ぶりに出来たのも頷ける。恨み
は深し八郎潟か。とはいえ、1950年代の身長171センチは長身の方だったが。
数ある北アメリカの種のうちでも、アメリカナマズは食用魚としてごく普
通に漁獲されている。ミシシッピ川流域やメキシコ湾岸諸州では、ナマズ
類がもっとも重要な漁獲対象魚となっており、中には体重が70kgに及ぶも
のもある。
とくにブルーキャットフィッシュとチャネルキャットフィッシュの肉はオ
オクチバスと並んで賞味され、ナマズ漁獲高の大半を占めている。
アジアでナマズは北海道を除く日本、アジア東部に広く分布する。体は細
長く、大きな頭部は扁平で、尾部は左右に押し潰したように平たい。全長
60cmに達する。
湖沼や河川の流れの緩やかな中下流部に棲み、水生昆虫や小魚、カエルを
食べている。長いヒゲには味覚の感覚器である味蕾(みらい)があり、餌
(えさ)を探るのに使われる。また、側線器官に敏感な電気受容器があるこ
とも知られており、他の動物の筋肉の電位変化を感じとって採食するらしい。
鯰は日本ではナマズ科、ギギ科、アカザ科、海生のハマギギ科、ゴンズイ
科が知られ、沖縄の石垣島にはヒレナマズが台湾から移殖されて生息して
いる。
ナマズ科にはこのほか琵琶湖特産のビワコオオナマズがあり、全長1mに達
する。また、琵琶湖とこれにつながる余呉湖にはイワトコナマズがいる。
昔の八郎潟沿岸では水田の灌漑用水路の岸に夕方、竹竿の先に泥鰌をエサ
にして川岸に挿しておくと朝に鯰が釣れた。兄が随分捕った。4歳下の私
も真似したが1匹も釣れなかった。止めた。
地震とナマズの関係については古くからの言い伝えがあるが、実際に地震
の前の地電流の変化を感じとっている可能性も否定できない。
かつては蒲鉾の原料とされていたらしいが、食べてみると美味と分かり鍋
物や蒲焼になるようだ。刺身用に寄生虫がつかないように養殖された鯰
は、「洗い」にして賞味される。
鯰を英名でキャットフィッシュと呼ぶのは、上顎(うわあご)、種によって
は下顎の両側から延びている髭がネコを連想させることに由来する。
2008・01・16資料:マイクロソフトの辞書「エンカルタ」
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話 の 福 袋
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◎【お金は知っている】オバマ政権、金融面でも習政権に 絶縁状 VOAでは痛烈な中国批判
米オバマ政権は軍事ばかりでなく金融面でも増長する習近平政権に対し、
絶縁状を突きつけている。
それを物語るのは、王岐山党中央常務委員(66)に対する「捜査」であ
る。王氏は党中央規律検査委員会トップで、党幹部の不正蓄財一掃をス
ローガンにする習近平主席の片腕である。
2008年9月にリーマン・ショックが起きると、ワシントンとの間で米中協
調を話し合った。オバマ政権やニューヨーク・ウォール街でも高い信頼を
得ているとみられていた。ところが、ワシントンの態度は一変した。
きっかけは、今年2月初旬に表面化した米金融大手、JPモルガン・
チェースに対する米海外腐敗行為防止法(FCPA)違反容疑である。同
法は、米企業による海外での贈賄を禁じている。米司法省と証券取引委員
会(SEC)は、捜査の過程で、モルガン幹部と党幹部の間でやりとりさ
れたEメールなどの通信記録を検証したところ、高虎城・商務相が商務次
官を務めていた08年、JPモルガン・チェースに在籍していた息子・高
●(=王へんに玉)氏の雇用継続を条件に、同社のために「一肌も二肌も
脱ぐ」と申し出ていたことが発覚した。
ウォールストリート・ジャーナル紙など米メディアによれば、米当局は高
商務相ばかりでなく、中国側の調査対象として35人をリスト・アップ、そ
の筆頭格に王岐山氏を挙げている。王氏の配下で党幹部不正取り締まりを
担当した公安部長、中国銀行副行長、中信集団など国有企業大手のトップ
も含まれる。
王岐山氏自身は夫人(姚依林元副首相の娘)との間に子はない。しかも、
中国国内でも清廉潔白で厳しく悪をただすとの評判がある。ところが、米
当局は周辺の党幹部からの依頼を受けて、交流のあるモルガンなど米金融
大手に「口利き」して利権を仲介したとの嫌疑をかけている。
モルガンが党幹部子弟の雇用継続でどれだけの不当な利益を得たかどうか
を、厳密に実証するのは実際には困難で、結局はモルガンへの罰金を科す
程度で決着させるとの見方が強かった。
ところが、米当局は王岐山氏に狙いを定めていることをメディアにリーク
したばかりか、対外情宣活動を行うボイス・オブ・アメリカ(VOA)の
中国語版「美国之音」の5月29日付インターネット番組に北京に批判的な
在米中国人専門家4人を登場させ、習主席や王氏の不正蓄財取り締まりの
いい加減さを余すところなく語らせた。
「美国之音」については北京当局が報道管制し、本土での受信を遮断して
いるが、海外の中国人社会にはその内容が知れ渡っている。ほんの一部を
除き、大物の腐敗幹部については不問に付しているばかりか、取り締まる
王氏の周辺は米金融大手と癒着三昧、というわけで習主席の面子は丸つぶ
れである。オバマ政権はワシントン・ニューヨークの王氏とのパイプを廃
棄し、北京と全面対決に転じたのだ。 (産経新聞特別記者・田村秀男)
【産経ニュース】 2015.6.7 11:00 〔情報収録 − 坂元 誠〕
◎Z会の傘下に入る「栄光ゼミナール」の本音
首都圏を中心に400超の教室を展開する栄光ゼミナール。生徒数7万人を誇
る日本有数の学習塾だ
「これが業界再編を加速させる 号砲 になるかもしれない」。首都圏を地
盤とする学習塾の幹部は、開口一番、そう語った。
【図解】通信教育大手を核に再編が進みつつある
通信教育「Z会」を運営する増進会出版社は5月19日、首都圏を中心に学習
塾「栄光ゼミナール」を展開する栄光ホールディングス(HD)に対し、
TOB(株式公開買い付け)を実施すると発表した。栄光HDはこれに賛同の意
を表明して、TOBによる自己株取得も実施。2段階TOBで、増進会は栄光HD
を完全子会社化する方針だ。
■ 2000年代半ばから再編が活発化
こうした合従連衡の動きは、今になって始まったものではない。2000年代
半ば以降、通信教育・出版大手が地方の学習塾を傘下に収める動きが活発
化している。
たとえば学研HDは、東北ベストスタディ(2006年)など、これまでに複数の
学習塾を買収。「いい案件があれば、これからも積極的にやっていく」
(川又敏男・上席執行役員)と鼻息は荒い。
ベネッセHDも2012年にアップを子会社化したほか、2014年11月には全国の
個人経営の学習塾などに、自社の「進研ゼミ」を活用した自立学習支援
サービスを提供する計画をブチ上げている。
.
背景にあるのは、全国的に進む少子化の流れだ。市場全体が先細る中、通
信教育側は学習塾を傘下に収めることで自社教材の販売先を獲得できる。
一方の塾側は、教材調達のコスト削減に加え、通信教育のブランド力を集
客に活用できるなどの利点がある。
とはいえ今回の一件は、これまでと少し事情が異なる。栄光HDの地盤は、
人口の流入超過が19年間続く首都圏。地方の学習塾ほど切羽詰まった状況
にあるわけではない。業績もここ数年は頭打ちながら高水準を維持してい
る。それでも今、増進会の傘下に入ることを選んだのはなぜか。
業界内には、今回のTOBを「特殊事例」とする声もある。栄光HDでは
2008年に生じた社内対立をきっかけに、同社経営陣と増進会、それに筆頭
株主である進学会による経営権争いが起きていた。
関係者によると、2014年末から栄光HD主導で事態打開に向けた動きが進
み、今年2月下旬にスキームの大枠がまとまったという。つまり、お家騒
動の7年越しの帰結、というわけだ。
■ 金城湯池に迫る大波
ただ、これは一面的な見方でしかない。今回の統合の大きな底流にあるの
は、5年後に迫った大学入試改革だ。
国は2020年度から大学入試センター試験を廃止し、大学進学希望者を対象
に、知識の活用力を問う新たな試験を年複数回実施する。また、2019年度
からは高校2、3年生を対象に、学校での学習の達成度を測る試験を導入。
これまでの入試一発勝負から、学力の積み重ねを総合的に判定し、合否を
決める方式に転換する。
こうした変化は中学・高校受験にも影響を及ぼし、学習塾が培ってきた入
試対策のノウハウの価値を低下させる。その一方、日常的・段階的な学力
向上にはITの活用が有利に働くとして、ITに強みを持つ大日本印刷などの
異業種が、相次いで教育産業への参入を打ち出している。
「資本の問題に時間を割いている場合ではなくなった」(栄光HD)。金城
湯池だった首都圏にも、業界再編の波が押し寄せている。
(「週刊東洋経済」2015年6月6日号<1日発売>「核心リポート05」を転載)
猪澤 顕明
東洋経済オンライン 6月7日(日)6時0分配信
◎関電とKDDI、首都圏での電力販売で提携へ
関西電力とKDDIが首都圏での家庭向