パンフレット - 琉球・山川港交流の会

山川港
2009
交流元年
─目 次─
沖縄・鹿児島文化交流
イベント案内
●
日程・イベント案内 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
●
会 長 挨 拶 ●
歓 迎 の 挨 拶
●
祝 ●
祝 ●
連 帯 の 表 明
辞
辞
●
連 帯 の 表 明
●
出演者の紹介
永 田 和 人
豊 留 悦 男
(実行委員会長)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
伊 藤 祐一郎
仲井眞 弘 多
(鹿児島県知事)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4
富 田 詢 一
玉 城 秀 子
(琉球新報社社長) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6
(指宿市長) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3
① 開聞龍宮太鼓
③ 上野猿の子踊り
第2 部 琉球舞踊
⑤ 山川小学校 棒踊り
⑦ 利永琉球傘踊り
② 是枝三姉妹
⑥ 沖縄エイサー太鼓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10
③ 貫 花 ・・・・・・・・・・・・・・・ 14
④ 仲里節
⑤ 谷茶前
⑥ 本貫花 ・・・・・・・・・・・・・・・ 15
⑦ 下り口説
⑧ 四ッ竹 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 16
映画「江戸上り」
『よみがえる琉球舞踊』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17
原 口 泉 (志學館大学教授) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 19
●「沖 縄 からの 提 言」
板 谷 徹 (県立沖縄芸術大学教授)・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 20
●「奄 美 からの 提 言」
花 井 恒 三 (奄美のトラさん) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22
●「謝 辞」
嘉 数 昇 明 (実行委員会副会長)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 23
●「謝 辞」
南 幸 弘 (実行委員会副会長)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 24
●「鹿児島からの提言」
●
11/6㊐
実行委員会
役員・スタッフ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 25
②
④
⑥
⑧
是枝三姉妹
奄美高校郷土芸能部
沖縄エイサー太鼓
松絃流三線教室
③ 貫 花
⑥ 本貫花
山川文化ホール
17時30分 活お海道 特設会場
■「山川港まち歩き」 9時∼ 山川文化ホールに集合
(2日目)
■エイサー太鼓とツマベニ少年太鼓のコラボ
10時∼ 山川B&G海洋センター
■映画「江戸上り」上映 11時
特産品交流
山川文化ホール
5日・6日両日 10時∼16時 活お海道特設会場
山川港まち歩きポイント図
番所鼻 ④
ー
占フェリ
・根
川
山
② 浜千鳥
開聞龍宮太鼓
上野猿の子踊り
山川小学校棒踊り
利永琉球傘踊り
山川ツマベニ少年太鼓
■交流懇親会
沖 縄 芸 能 連 盟 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 13
① かぎやで風
①
③
⑤
⑦
⑨
■映画「江戸上り」上映 16時
④ 奄美高校郷土芸能部 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 9
第1部[青少年文化交流]
●竹内琉球舞踊研究所 ●沖縄芸能連盟
① かぎやで風
②浜千鳥
④仲里節
⑤谷茶前
⑦ 下り口説
⑧ 四ッ竹
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8
⑧ 松絃流三線教室・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11
13時∼ 山川文化ホール
第2部[琉球舞踊]
(沖縄芸能連盟会長)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
竹内琉球舞踊研究所 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
●
(1日目)
(沖縄県知事)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
⑨ 山川ツマベニ少年太鼓・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
11/5㊏
■芸能交流会
第 1 部 青少年文化交流
絆
沖縄・鹿児島
文化交流祭
山川・根占フェリー乗り場
スタート・ゴール地点
かつお節工場見学(茶ぶし試飲)
⑤
③ 熊野神社
⑥ 河野覚兵衛敷地跡
②
山川薬園跡及び竜眼
山川文化ホール
① 地頭仮屋跡と山川石の石塀
活お海道
⑦ 唐人町跡
⑧ 山川港最古の石敢當
琉球人望郷の碑
琉球人鎮魂墓碑
⑨ 西南戦争戦没者招魂塚
⑫
さつまいも・ザビエル上陸の地 ⑬
⑪
⑩ 河野覚兵衛墓石群
旧正龍寺跡墓石群
(愛宕山から見る五人番)
⑬
水底のうた
⑭ 沖縄戦時船舶遭難の碑
沖縄・鹿児島文化交流祭
1
会長挨拶
沖縄・鹿児島文化交流祭
3年目を迎えて
沖縄・鹿児島文化交流事業実行委員会
会 長
永 田 和 人
ご来場頂き有り難うございます。今日はふるさとの食と芸能をたっぷり堪能されてくだ
さい。
山川港は台風をやり過ごしたり、風待ちをする最良の港として昔から知られていました。
その上外洋には直ぐ出られるので航海者たちには大変都合のいい港でした。 後期旧石器時代(30000-13000 年前)
、人々はナウマンゾウやヘラジカを追いかけて、
韓国と九州の間にあった幅 15 kmの海峡をすでに往来していました。旧石器時代の終
り頃(15000 年前)から地球は徐々に暖かくなり、指宿地区にはすでに定住集落があり
ました。
沖縄周辺の深海でしか獲れないゴホウラやイモガイが、北海道の縄文時代の遺跡か
ら出土しています。人々は縄文時代、荒れ狂う海に漕ぎ出して広範囲に航路を開拓し交
易していました。そのような長い時を経て、大航海時代の波は直ちに那覇港、名瀬港、
山川港にも及びました。中でも山川港は、1400 年代後半から南蛮船が頻繁に入港する
所となり、中国、インドネシアなど南方への玄関口となり、様々な国の人々が集散する国
際港になったのでした。
1493 年、コロンブス隊が西インド諸島からヨーロッパに持ち帰った梅毒は、1498 年に
はインド、1505 年には中国、1511 年にはマラッカに運ばれ、1512 年には京都で大流行
しました。琉球商人たちはマラッカにも交易の拠点を持ち、荷を運び入れる山川港を経
由して、堺商人たちにより京阪へ運ばれたというわけです。1546-49 年のアンジロウらの
日本脱出とフランシスコ・ザビエルの来鹿。1592 年、1597 年の文禄・慶長の朝鮮出兵。
山川港はこれらの史実とも深く関わりました。さらに、1609 年の薩摩の琉球侵攻以降、
1879 年の琉球処分(廃琉置県)に至るまで、山川港は歴史の変遷をつぶさに見守って
来ました。
その後、長年月の間に消えかかり細い糸になってしまった琉球弧の記憶を、手繰り寄
せより合わせ太い糸にする。その太く強い糸で私たちの新しい物語を織りあげていく。
その作業はまだ始まったばかりです。今年の交流会開催を身を挺して支えてくださったす
べての心ある方々に、心からの感謝と御礼を申し上げます。
2 沖縄・鹿児島文化交流祭
歓迎の挨拶
沖縄・鹿児島文化交流祭
ようこそ 薩摩の玄関・山川港へ
指宿市長 豊 留 悦 男
文化の秋に指宿へ、ようこそお越しくださいました。心より歓迎申し上げます。
昨年 12 月 11 日、那覇市の琉球新報ホールにおいて「琉球・山川芸能交流」が開催され、
私も交流団の一員として参加させていただきました。
伝統ある沖縄芸能連盟の皆様による琉球古典芸能はじめ、琉球舞踊「上り・下り口説」
を披露して貰いました。又、
我が指宿からは「山川ツマベニ少年太鼓」
「大山琉球傘踊」
、
「宮
之前唐人踊」が出演して、夜の交流会では琉球新報社富田詢一社長はじめ、仲井眞弘多
沖縄県知事等、沖縄の皆様から心温まる歓待を受けました。改めて御礼申し上げます。誠
にありがとうございました。
さて、本年のテーマは「黒潮の波濤にうち乗って 新南風巻き起これ!~伝えよう ふる
さとの食と芸能~」です。
芸能交流では、青少年を中心に、両県でお馴染みの「エイサー太鼓」や「山川ツマベニ
少年太鼓」の競演が楽しみです。更に、奄美高校郷土芸能部女子生徒による「太陽の子」
は伝統の三線と和太鼓を組合せ、昔の奄美の生活を表現したもので、琉球・薩摩の狭間で
暮らした民衆の思いを伝えるものとして鑑賞されることでしょう。
今回の事業は、島津軍が琉球へ出兵してから 400 年という節目の 2009 年、両県知事の
「交流拡大宣言」を受けて実施されますが、その前に琉球新報社と沖縄芸能連盟の皆様が
「琉球漫歩『上り口説・下り口説き旅』
」で山川を訪れ、台風被害で倒れた山川港対岸から
太平次公園へ移植された「五人番のアコウ」と対面したことが発端となり、お互いの交流へ
と進展したと聞いております。
私どもの指宿には、かって琉球国から薩摩藩への年頭史をはじめ、謝恩史、慶賀史が江
戸上りをする際の玄関口として山川港周辺に史跡が残されております。また、開聞岳麓の枚
聞神社には、往事の使節団が無事を祈願して納められた扁額が展示され、傘踊りや唐人踊
り等、琉球から伝わったとされる郷土芸能も少なくありません。これらの史跡文化を絆に交
流を取り組むことは、未来に架ける事業として意義深いものと考えます。
実行委員会では早くも来年を見据えた交流事業を思案しているようです。これからの交流
をどのように展開するか、新たな視点を取り入れ、沖縄と鹿児島の幅広い文化交流に繋がれ
ばと期待しております。
結びに、本事業推進の為にご尽力いただいている琉球新報社はじめ、沖縄芸能連盟、
竹内琉球舞踊研究所等、またご支援の鹿児島県と開催地実行委員会並びに関係者の皆様
に謝意を表しまして、歓迎の挨拶といたします。
沖縄・鹿児島文化交流祭
3
鹿児島
沖縄・鹿児島文化交流祭
祝 辞
沖 縄
沖縄・鹿児島文化交流祭
祝 辞
鹿児島県知事 伊 藤 祐一郎
沖縄県と鹿児島県の文化交流事業が、指宿市山川で盛大に開催されますことを
心からお喜び申し上げますとともに、鹿児島県にお越しいただいた皆様を心から
歓迎いたします。
両県の交流の歴史を振り返りますと、指宿市山川港は、1613年から約270
沖縄県知事 仲井眞 弘 多
風薫る文化の秋、
「鹿児島・沖縄文化交流事業」が開催されることを心からお慶び申し
上げます。
2009 年、過去の出来事や成果をしっかり踏まえつつ、両県が真の隣人としての関係
を新たに構築し、交流を拡大・発展することを目的に「沖縄県・鹿児島県交流拡大宣言」
年にわたって、琉球王国の使節船が薩摩への年頭挨拶などのために毎年来航する
を採択いたしました。このことは、両県の将来に向け大変意義深く、また時宜を得たも
など、当時の日本と琉球との交流の玄関口でありました。
のでありました。
このため、当県には、琉球の首里城から運ばれてきたという言い伝えのあるア
本事業は、この交流拡大宣言が採択された年を記念して、平成 21 年度から実施され
コウの木や、琉球から伝わったとされる踊りが継承されているほか、神社拝殿に
ております。これまで、芸能文化を中心に交流を図ってまいりましたが、3年目になる今
残る琉球様式など、当時の交流の様子を知るよすがとなるものが数多く残ってい
年は、さらに内容を充実させ、文化交流に加え、物産展と青少年の交流も取り組み実施
ます。
されることとなっております。
薩摩の琉球出兵400年を機に、一昨年の両県知事による「交流拡大宣言」を
受け、当県におきましても、より一層の交流促進が図られるよう取り組んでいると
ころであり、昨年は、沖縄県において、
「弥勒世なおれ」と題した両県の芸能団体
による芸能交流が行われ、今後の交流拡大に向け、よい契機となりました。
今年は当県において、次代を担う青少年を中心とした芸能披露や沖縄の伝統芸
能のルーツを辿るドキュメンタリー映画「江戸上り」の上映などを通した交流が
行われます。
このような取り組みは、両県において文化の継承・創造に加え、地域産業の振興、さ
らに未来を担う若者たちのこころの絆へと繋がることでしょう。
沖縄県と鹿児島県の両県は、
「
琉球弧」
と呼ばれる広大な南の海洋に連なる島々によっ
てつながる
「黒潮文化圏」
の中にあり、古来から海の道による文化の交流がありました。
また、ここ山川港はかつて、謝恩使、慶賀使が江戸上りをする際に拠点港とした歴史
的な場所であり、交流の玄関口でもありました。
このように両県にとって意義深い地である山川において、
「沖縄・鹿児島文化交流事業
このような民間レベルでの活発な文化交流は、誠に意義深いことであり、琉球
実行委員会」が主催し、沖縄側は琉球新報社と沖縄芸能連盟が、鹿児島側は「琉球・
新報社、琉球・山川港交流の会をはじめ、関係の皆様の御尽力に対しまして、心
山川港交流の会」
の皆様が中心になり、自主的な交流の輪が広がっていることは大変喜
から感謝申し上げます。
ばしいことです。
今回の交流を通じて、沖縄県と鹿児島県との交流がより一層促進され、両県の
未来に向けた発展的な関係を築いていく上で、大きな力になることを願っており
ます。
終わりに、今回出演される皆様には、日頃の研さんの成果を十分に発揮され、
沖縄県としましても、今回の交流事業を支援しているところであり、今後の両県の交
流がますます深まることを期待するものであります。
結びに、本事業を開催するにあたりご尽力いただいた関係者の皆様に感謝申し上げる
とともに、参加されます皆様のご健勝を祈念して、お祝いの言葉といたします。
御来場の皆様に両県の郷土芸能の素晴らしさを披露されますよう御期待申し上げ
ますとともに、関係の皆様の御健勝・御活躍を祈念しまして、お祝いの言葉とい
平成23年11月5日
たします。
4 沖縄・鹿児島文化交流祭
沖縄・鹿児島文化交流祭
5
連帯の表明
沖縄・鹿児島文化交流祭
ご あ いさつ
ご あ いさつ
琉球新報社代表取締役社長 富 田 詢 一
沖縄芸能連盟会長 玉 城 秀 子
沖縄・鹿児島文化交流祭「黒潮の波濤にうち乗って 新南風巻き起これ!- 伝えよう
ふるさとの食と芸能 -」が開催されます事を、皆様と共にお慶び申し上げます。
沖縄県と鹿児島県は2009年、交流拡大宣言を行いました。そして、鹿児島県指宿
沖縄・鹿児島の文化交流祭が開催されるに当たり、一言ごあいさつを申し上げます。
本公演は、2009年、沖縄県と鹿児島県が未来に向けて交流を拡大し、発展させる
ことを目的に、
「交流拡大宣言」が採択されたことを記念し実施、
今年で三年目になります。
市で琉球・山川港交流400周年が取り組まれ、記念シンポジウム・くるま座文化交流等
「沖縄芸能連盟」は琉歌埋歩―よい子の船旅―を通して鹿児島山川の皆様とこれま
が開催されました。沖縄からも玉城節子先生を団長に琉球舞踊の実演家が参加し、絆
で深い交流を続けてきました。山川の皆様方の厚いもてなしや歓迎を受けて、これまで
をより深めた有意義な交流会でした。
文字通り芸能交流を通して強いきずなを結んで参りました。
昨年は、交流を深めた鹿児島の皆様が沖縄に来県され、琉球・山川芸能交流「弥勒
ご承知の通り、琉球王朝時代に中国使節を歓待するために踊奉行職に任命された玉
世なおれ」
(みるくゆ - なおれ)を那覇市の琉球新報ホールで開催しました。感動の再
城朝薫が能楽や歌舞伎などを参考にして組踊を創作し、1719年に初演したといわれ
会の様子が鮮明に残っております。特に未来を育む青少年の交流はこれからもしっかり
ます。今年この組踊音楽の歌三線で、沖縄芸能連盟の副会長の西江喜春先生が人間
とつなげていくよう努力しなければならないと強く感じました。
国宝に認定されました。沖縄は東京や大阪、京都といった大都会を除いては、人間国
「五人番のアコウ」が取り持つ民間同士の交流が鹿児島県と沖縄県を動かし、小さな
交流が大きな意義のある交流へと発展してきました。
宝が多く認定されております。しかも伝統芸能で故島袋光史先生、島袋正雄先生、照
喜名朝一先生、城間徳太郎先生、宮城能鳳先生についで西江喜春先生です。沖縄の
薩摩侵攻400年で双方にさまざまな歴史認識がある中で、
「歴史の波濤を乗り越えて、
芸能が如何に重要視されてきたかを示す証でもございます。国賓をもてなすために創ら
新しい未来へ舵をきろう!」と琉球・山川港交流の会の永田和人会長を先頭に民間力で
れて琉球古典芸能が今、時代を超えて国と国を結ぶ交流のかけ橋の役目として昇華・発
地元の皆様方のバックアップをいただき、心を一つに大きな記念事業を成し遂げられまし
展してきました。大きな喜びとするところでございます。
た。
今回から小学生、中学生、高校生と青少年の交流も実現でき、またさらに物産展も
新しい時代の夜明けと位置づけた交流元年から三年目の今年、食文化が加わり、両
県の物産展にも取り組まれました。経済的交流へと文字通り拡大発展しております。永
田会長をはじめ、実行委員会や関係者の皆様方へ深甚なる敬意を表するものであります。
むすびに本交流祭に参加されます皆様の今後ますますのご健勝を祈念申し上げます。
取り組めました。沖縄・鹿児島文化交流事業実行委員会の永田会長はじめ実行委員の
皆様に深く敬意を表します。
また、快くうけ入れて下さいます、鹿児島県山川の皆様のお心に感謝申し上げます。
むすびに、本公演のご盛会と今後沖縄、鹿児島がさらに心を一つにお互いを思いやり、
発展していくことを祈念申し上げ、あいさつと致します。
2011年11月5日
6 沖縄・鹿児島文化交流祭
沖縄・鹿児島文化交流祭
7
出演者の紹介 第 1 部 青少年芸能
沖縄・鹿児島文化交流祭
① 開聞龍宮太鼓
鹿児島県
昭和55年10月、全国的な「まちおこし」
大 村 寅 弘
山 下 紗 知
大 村 優 菜
福 岡 真智子
代表者:川 畑 光 弘
●演目/①見参 ②歓待の宴─饗殿(かんたいのうたげ─きょうでん)
「山猿共の里帰りの巻」で、6歳から14
歳までの子ども達20人程度が真っ赤な頭
れてきた。
巾、上衣、ズボンを着けて、猿に扮して、猿
開聞町教育委員会の呼びかけに、青年団
使いの詞に従い、いろいろな行をおこなう。
が和太鼓と取り組んだ。当初は、青年団の
唄はなく、太 鼓、笛、鉦 等に合 わせて、
サークル活動の位置づけで「開聞太鼓同好
面白くおかしく飛び跳ねて踊る。上野集落
会」として出発した。その後、2~3年で青
では古くから踊られているが、集落の東の高
年団OBらの構成に変わっていき、青年団
野には塩手どんをまつり、この神の遣いとし
から独立して活動するようになった。
て猿が塩を運んでいたと集落民は言ってい
発足して約10年の活動を続けた後、地
川 畑 里 美
山 下 桃 佳
鹿児島県
の流れの中で、和太鼓がクローズアップさ
域に根ざした郷土芸能としての存続と継承
坂 上 次 喜
大 村 愛 菜
③ 上 野 猿 の 子 踊り
るが、農耕儀式として祭りのときに踊られて
きた。
を願い、団体名を「開聞太鼓保存会」とし
一説には、今和泉の領主島津忠郷が日向
て改称した。この頃から、ふるさとに伝わ
から猿使いを連れてきて、春秋2回領民の
る神話・伝説を題材にした曲を創作し演奏
労をねぎらうために踊らせたものと伝えられ
するようになり、
会の名称も「開聞龍宮太鼓」
ている。
と呼ぶことが多くなった。
平成19年10月発足28年となり、児童
※指宿市には、他にも「下門猿の子踊り」が継
七 夕 竜 弥
野 村 隼 人
井 上 圭 吾
中 村 隼
中 村 侑 聖
小 浜 伶 人
坂 上 太 一
谷 村 優 介
前 村 泰 志
中 野 颯 士
前 村 怜
前 村 仁
井 手 亮 太
中 村 洸 陽
小 崎 壮 真
代表者:松 山 清 隆
承され、小学生・中学生により演じられている。
生徒も太鼓に親しむようになった。今後も
頑張っていきたい。
② 是枝三姉妹
鹿児島県
④ 奄 美高校 郷土芸能部
鹿児島県
学校創立 80 周年(1997年)記念体育
「美桜」
(みおう)・
「風遥」
(ふよう)・
「莉和」
(りおん)
を「是枝三姉妹」とよんでいます。三人は父の転勤で
祭に向け
「六調太鼓保存会」として結成され、
2001年から三年間、徳之島に住んでいました。奄美
体育祭の伝統プログラムである「奄高八月
徳之島の島唄の第一人者であります。川本栄昇氏の弟
踊り」のフィナーレを飾る「六調踊り」の伴
子でもあります。
奏を担当したのが、活動の始まりだ。その
さいわいなことに、2011年(平成23年)8月、琉
後3年間の同好会活動を経て、平成 13 年
球新報社主催の琉球古典芸能コンクールで「新人賞」
度に部活動に昇格、部名も「郷土芸能部」
をいただくことができました。
と命名された。奄美の民族楽器である「サ
ンシン」
「チジン」
「ハト」を駆使してシマ唄、
琉球舞踊と奄美の島唄で将来は・・・と大好評をい
ただいています。太平次公園の「アコウの樹」と「琉球
八月踊り、六調等、奄美の伝統芸能を継承
人瀬」
、これに今度の沖縄⇔鹿児島文化・芸能交流に
し、学校行事をはじめ、集落の伝統行事や
様々なイベントに出演するなど、幅広い活
加わることができ、大変うれしく思っています。
み
おう
ふ
よう
り
おん
是 枝 美 桜
風 遙
莉 和
東 由 理
安 原 青 夏
元 山 由 貴
勇 まどか
重 山 萌 実
泉 沙 希
山 田 翔
神 田 健太郎
小 俣 香 帆
中 原 笑 季
興 津 奈 波
内 村 豪
元 田 真 琴
溜 美 由
切 通 雅 子
栄 あゆ美
林 下 熟 志
川 渡 千 尋
村 田 菜 紀
代表者:松 島 伸 子
動を行っている。
7月には岩手県盛岡市で開催された全国
高等学校総合文化祭郷土芸能部門に鹿児島
県代表として出場した。
●演目/「奄美の薫り豊かに」
島唄、八月踊り、六調太鼓
8 沖縄・鹿児島文化交流祭
沖縄・鹿児島文化交流祭
9
出演者の紹介 第 1 部 青少年芸能
沖縄・鹿児島文化交流祭
⑤ 山川小 学 校 棒踊り
鹿児島県
山川小学 校区の福元区に伝わる棒踊り
は、一時途絶えていましたが、平成6年に
福元豊祭 (ほぜ )に踊るということで復活し、
保存会ができました。もともとは、五穀豊
穣を願い、天や地の恵みを祈る踊りだった
と聞いています。この踊りの中の、棒で天を
突き、地を鳴らす動作は、天地の神様を目
覚めさせ、恵みを乞う様子を表しているそう
です。
復活当時は保 存会だけでの継 承でした
が、人口の減少で継承者が少なくなったこ
ともあり、平成12年より本校運動会の種目
として取り入れ、4年生から6年生の児童が
伝統芸能の継承に努めてきました。
そこで、9月はじめから運動会までの7~
8回、保存会の方々が仕事の合間をぬって
学校に来られ、直接子どもたちの指導して
くださいます。そして、運動会で披露します。
運動会のほかに、地域の敬老会や6月に
ある「山川みなと祭り」でも棒踊りを披露す
る機会があります。踊るたびに子どもたちは、
「山川棒踊り」の継承者としてこの伝統を後
輩たちに伝え、大人になっても保存会の一
員として踊り続けていきたいという思いを強
くしているようです。
⑦ 利永 琉 球 傘踊り
鹿児島県
利永は、歴史的には、延享元年(1744)
、
今和泉郷の1村として設置される以前は頴
娃郷仙田村の一部で枚聞神社との係わりも
深く、山川港と枚聞神社を結ぶ途中にあり、
山川港滞在中の琉球使節一行が枚聞神社
参拝の道筋で、一行に接する機会が多かっ
ただろうと思われる。
利永に古くから伝承されてきた琉球傘踊
は、第二次世界大戦とその後の混乱期に一
時途絶えていたのを、昭和52年に約30年
ぶりに復活した。以来、保存会が組織され、
年毎に若者たちへ継がれている。 利永の
川 畑 和 也
山 中 健士朗
河 野 柊 子
中 村 凛
室 屋 る り
川 畑 優太朗
松 木 佑 斗
田 中 彩 音
外 薗 未知瑠
木 下 将
中 間 俊 輔
山 中 貴 晴
上 野 美 香
川 畑 春 菜
新屋敷 蘭 香
藤 坂 萌々子
松 下 夢 羽
永 田 真 央
内 村 駿 友
新 村 翔 也
中 野 仁 斗
岩 林 えみり
大 薗 麻里愛
西 春 菜
西 岡 凛 佳
松 木 香代梨 中 間 創 大
内 薗 咲 希
中 村 美 咲
南 真 弥
河 野 福太郎
平 山 祐 輝
川 畑 愛 美 福 里 奈 々
濱 崎 真 央
松 山 奈 央
上 野 文 哉
東 畑 光 希
坂 口 白 磨
東 隆 太
安 楽 清 香
坂 元 涼 夏
東 龍 輝
南 莉 琴
南 歩 花 代表者:西 元 志農夫
琉球傘踊は、沖縄の「江戸上り口説」がそ
の源流と考えられ、近世における薩摩と琉
球の重い歴史の影を映しながら、一面では
琉球薩摩の庶民レベルの文化交流の跡を残
し、長い年月の間にさまざまな変遷を経て
今日に継承されている。
校長:中 川 隆
⑥ 沖縄エイサー太鼓(国場民俗伝統芸能保存会)
沖縄県
⑧ 松 絃 流 三 線 教室
沖縄県
沖縄本島や周辺の離島で盆に行われる踊り
を「エイサー」という。夏の夜に響き渡る強烈
な太鼓のリズムと流れる汗をものともせず踊
る若者の姿は、沖縄の夏を彩る風物詩となっ
ている。エイサーは、もともとは念仏歌で踊
られていたが、時代の変遷に伴って大きく変
化してきた。特に戦後はコザ市(現沖縄市)
が主催したエイサーコンクールで、各地の青年
が青年活動の一環として精力的に取り組み、
現在のようなエイサーの形が作られた。
精霊の供養を目的として、念仏歌で踊られ
ていたエイサーに流行の民謡、恋歌、めでた
い内容の民謡まで加わり、それに相応しい振
り付けがなされ、最近ではお盆以外のめでた
嘉 数 将 輝
嘉 数 瑞 希 嘉 数 真 子
川 野 優 太
与那覇 裕 基 金 城 愛
平 山 敬 大
●演目/① 仲順流り ②サイヨー節 ③スーリ東 ④イチュビグヮー節
⑤唐船どーい
10 沖縄・鹿児島文化交流祭
清 水 綾 乃
比 嘉 健 二
代表者:金 城 政 則
い場所でもアトラクションとして踊られるまで
になってきた。
エイサーは、地域の青年の連帯感を生み出
し、地域活性化の一翼を担っている。青年の
創造的な取り組みによってエイサーは現在でも
変化しつつある民族芸能なのである。
松絃流譜久村悦子三線教室は、北谷を本拠
として小学生、中学生と若手のメンバー達が活
動、活躍しております。
●演目/島人の宝、豊年音頭
ハイサイおじさん、ひやみかち
早弾き三連発
(嘉手久、アッチャメー、唐船ドーイ)
平 良 幸 花
比 嘉 りずん
比 嘉 紗 夏
江 田 唯 奈
譜久村 彩 果
我如古 愛 伝
山 城 百 華
代表者:譜久村 悦 子 (松紘流 譜久村悦子三教室)
沖縄・鹿児島文化交流祭
11
出演者の紹介 第 1 部 青少年芸能
沖縄・鹿児島文化交流祭
⑨ 山川ツマベニ少 年太 鼓
出演者の紹介 沖縄・鹿児島文化交流祭
沖縄芸能連盟
鹿児島県
(出演者主な顔ぶれ)
玉城 節子
玉城流翔節会 家元
山川を北限に生息し『幸せを呼ぶ』と言
第2 部 琉球舞踊
渡久地 美代子
宮城流美代乃会 会主
伊波 正江
玉城流喜納の会 二代目家元
山内 小 夜
我那覇 則子
貞扇本流貞扇会 二代目家元
玉城流翔節暁の会 会主
平 田 弘子
平良 冨士 子
平成18年8月、ユネスコの関係機関I 同じく鹿児島県予選で三連覇を達成して、
われるツマベニ蝶が名前の由来で、平成 OVより優待され、台湾で世界25ケ国の 鹿児島県芸術文化奨励賞を受賞した。
9年に発足した。
子供たちと世界平和の為に14日間演奏し
年間80回の施設訪問を実施しながら、
4才から高校3年生まで30名で活動し た。日本和太鼓ジュニアコンクールでは、 いろいろなイベントにも応援で元気に頑
ている。
平成19年から3年連続で特別賞を受け、 張っている。
平成14年、総務大臣杯日本和太鼓ジュ
有 馬 舞
西 元 美 樹
平 原 み ゆ
村 山 晶 輝
川 畑 優太朗
湯ノ口 七 海
湯ノ口 海 帆
ニアコンクールで初出場、初優勝し、日本
一になった。
平成17年の「愛地球博」では、プロの
ミュージシャンとユニットの組、5日間エ
キスポドームで演奏した。
大 園 志 織
川 畑 嘉 朗
山 本 桜 子
鎌 田 莉 菜
鎌 田 美 優
平 原 寛 太
村 山 皇 綺
第2 部 琉球舞踊
竹内琉 球 舞踊 研究所
沢 山 知 里
谷 口 美 桜
下吹越 舞
西 元 詩 乃
松 木 裕 香
田 中 美 友
鹿児島県
地理的にも文化的にも鹿児島より沖縄の影
玉城流円の会 会主
安座間本流澄之会 師範
玉城流喜琉の会 会主
兼島 順子
玉城流鳳玉順の会 師範
大城 初子
安座間本流澄之会 教師
譜久村 悦子
松絃流 譜久村悦子三線教室
統芸能保存会の後継者育成、及
力にひかれ、学び続けていることにありま
び活性化の為に結成されました。
す。
沖縄県内の観 光 地「玉泉 洞」
沖縄の文化にひかれた者のひとりとして、
で活躍していた残波大獅子太鼓
これからも沖縄の文化を愛し、少しでも広め
から平成 6 年に指導を仰ぎ、そ
ることが、できたらと思っています。
の後、沖縄尚学高校地域政策研
大きな意義を重く受け止め、
「琉球人瀬」
究部が加わり、より活発に活動
の碑と「アコウの樹」そして「琉球人鎮魂墓
できるようになりました。
碑」
、
「望郷の碑」を琉球の銘として大切に
那覇青年祭、自治会のお祝い
等にも活発に参加しています。
カイ
演目①櫂の鳩間
伊 井 ひろみ
竹 下 満 子
前 田 その江
黒 岩 よし子
松 永 通 子
吉 田 妙 子
演目②上り口説
み
おう
是 枝 美 桜
12 沖縄・鹿児島文化交流祭
中 村 志 津子
玉城流翔節弘子乃会 会主
国場エイサーは、国場民俗伝
響が強く、自然に琉球舞踊や琉球民謡の魅
代表者:竹 内 エミ子
伊 禮 末子
前川 美 智子
玉城流翔節美智子の会 会主
国場エイサー[国場民俗伝統芸能 保 存会]
私と沖縄のつながりは、故郷の与論島が
続けていきます。
知念 範紺
玉城流翔節輪の会 会主
沖縄・鹿児島文化交流祭
崇め、これからも沖縄の文化や芸能を学び
比嘉 涼子
玉城流翔節皓涼会 会主
代表者:西 みよ子
●演目/①錦彩祭 ②桜島 ③みなと山川 ④フェスタ ⑤ありがとう〈手話〉
出演者の紹介 田之頭 佑 紀
村 山 聖 紀
福 畠 まりな
水 流 舞 香
水 流 帆 香
村 山 龍 騎
水 流 陵 介 ふ
追 立 千代子
児 玉 靖 子
恒 吉 久美子
笹 尾 久 子
国場エイサーは、他の団体の
エイサーとは少し動きが違う所を
楽しんでほしいと思います。
よう
是 枝 風 遥
沖縄・鹿児島文化交流祭
13
出演者の紹介 沖縄・鹿児島文化交流祭
第2 部 琉球舞踊
① かぎやで風(カジャディフウ)
④ 仲 里 節(ナガザトブシ)
沖縄本島で、
祝宴の座開きとして踊られる祝儀舞踊。 歌意:
「今日の喜びを何とたたえる事ができましょう。まるで蕾の花
が朝露を受けて、ぱっと咲き開いた様な心持ちです」演出に
は数種あり、それによって演目名が異なる場合がある。本来
は、老人芸であるので、長寿を寿ぎ国家安泰を願い、子孫
繁栄を喜ぶ思想で終始する。振りも扇を用いのびのびと大ら
かに展開する。古典舞踊で唯一の翁芸であり、
祝福芸である。
雑踊り。男女で踊る打組踊り。相思相愛の男女の情愛を描
き、沖縄芝居では好んで踊られ、当時の人々を楽しませた。
衣装、振り付け共に各流会派によって異なるが、男は扇子、
女は大輪の花を持って踊る、お互いの少装具を取り替えたり、
曲に合わせてキメ手を見せていく。打組踊りはこの他にも
「加
那ヨー天川」
「谷茶前」や舞踊劇「金細工」
「川平節」
「越来節」
などがある。これらのコンビでは芝居心と演技力が要求され
る。人気役者の演じる「仲里節」はもの言わぬセリフ劇のよ
山 内 小 夜(貞扇本流貞扇会二代目 家元)
大 城 一 咲(貞扇本流貞扇会 山内小夜琉舞教室)
伊 波 正 江(玉城流喜納の会 二代目家元)
伊 波 妙(玉城流喜納の会 伊波正江流舞研究所 師範)
中 村 志津子(玉城流喜琉の会 会主)
平 良 冨士子(玉城流円の会 会主)
兼 島 順 子(玉城流鳳玉順の会 師範)
平 田 弘 子(玉城流翔節弘子乃会 会主)
うな面白さがあったという。
我那覇 則 子(玉城流翔節暁の会 会主)
比 嘉 涼 子(玉城流翔節皓涼会 会主)
② 浜 千 鳥(ハマチドリ)
⑤ 谷 茶 前(タンチャメー)
舞台下手奥から上手先へ角をきって登場し、直線から円形
への変化を見せる。足の二拍子、手の四拍子という独特のリ
ズムを支える曲創もすばらしい。テーマは旅愁で、故郷を遠
く離れ、
そこに残した人々を偲ぶ心情が描かれる。ウシンチー
という帯を用いず中の下着にはさみ着こなす南国沖縄独特
の着物姿が美しい。琉髪に銀のジーファー
(かんざし)を挿し、
紫の長巾で額をおさえ、紫の長巾で額をおさえ、後結びにし
て長く垂らす。紺地絣に白足袋と紫のバランスが気品に哀愁
を与え、
こねり手、おす手などの手踊りで情感をさらに深める。
雑踊りの人気の演目の一つ。漁村の若い男女の働く喜び、
生きる力が伝わる打組踊り。谷茶は本島北部恩納村にある
漁村。裾短かめの芭蕉布に裸足で、男は手にエーク(櫂)を、
女はバーキ(籠)を持ち踊る。このメロディを聞くと沖縄の人
達は青い海と波のリズムを連想するほど生活の中に定着した
踊りである。魚を捕りに行くのは男たち、それを売りに行くの
は女たちで、漁村の風景が明るく展開されている。
与 座 京 子(玉城流玉扇会 師範)
島 由美子(玉城流玉扇会 師範)
知 念 範 紺(玉城流翔節輪の会 会主)
前 川 美智子(玉城流翔節美智子の会 会主)
安 里 タマ子(玉城流翔節会 師範)
平 良 恵 子(玉城流翔節会 師範)
③ 貫 花(ヌチバナ)
⑥ 本 貫 花(ムトゥヌチバナ)
紺地の着物を、右肩袖ぬきにした娘たちの、貫花を持っ
紅型衣装に紅白の貫花(ヌチバナ)を肩にかけて道行を舞
ての振りはいかにも庶民的でさわやかな踊りである。芝居の
い、後半の娘心を吐露するところではそれを舞台に投げ出し
サービス芸として、振り付けられたものだが、今日では群舞
てしまう。軽やかさのなかにも品位をそなえた古典女踊り。
にあるいは一人踊りにと幅広い構成をみせ、多くの場で演じ
明治以降に武富節と白瀬早川節を配した「貫花」の踊りが創
られている。
伊 禮 末 子(安座間本流澄之会 師範)
大 城 初 子(安座間本流澄之会 教師)
当 山 閑 香(安座間本流澄之会伊禮末子琉舞研究所 門下)
14 沖縄・鹿児島文化交流祭
作されたので、それまでの踊りには「本」を冠して「本貫花」
と称した。七踊りの一つ。
玉 城 節 子(玉城流翔節会 家元)
国指定重要無形文化財 琉球舞踊保持者
沖縄・鹿児島文化交流祭
15
出演者の紹介 沖縄・鹿児島文化交流祭
第2 部 琉球舞踊
九州初
上映
決定!
⑦ 下り口説(クダィクドゥチ)
下り口説は、薩摩から琉球の那覇港までの船旅を歌っ
たもので道中の道の島々の地名を歌い上げています。こ
れは「土地褒め」であり、土地褒めをすることによってそ
の土地の神に守護され、航海の安全を約束されるという
ものです。右手に、
旅の象徴である杖
(チィーグシ)を持っ
て踊ります。
渡久地 美代子(宮城流美代乃会 会主)
⑧ 四 ッ 竹(ヨツダケ)
舞台下手奥から上手先へ角をきって登場し、直線から円形
への変化を見せる。足の二拍子、手の四拍子という独特のリ
ズムを支える曲創もすばらしい。テーマは旅愁で、故郷を遠
く離れ、
そこに残した人々を偲ぶ心情が描かれる。ウシンチー
という帯を用いず中の下着にはさみ着こなす南国沖縄独特
の着物姿が美しい。琉髪に銀のジーファー
(かんざし)を挿し、
紫の長巾で額をおさえ、紫の長巾で額をおさえ、後結びにし
て長く垂らす。紺地絣に白足袋と紫のバランスが気品に哀愁
を与え、
こねり手、おす手などの手踊りで情感をさらに深める。
平安山 裕 子(柳清本流和華の会 高良和子琉舞研練所)
宮 城 梓(柳清本流和華の会 高良和子琉舞研練所)
地陽(全曲)
歌・三線: 野村流音楽協会
喜友名 朝 宏 ・ 宇栄原 宗 真
野村流伝統音楽協会
首 里 良 三 ・ 國 吉 啓 介
箏 : 琉球箏曲興陽会
安 里 ヒロ子 ・ 具志堅 道 子
太 鼓:
幸太鼓の会
兼 島 順 子
玉城流
竹内琉球舞踊研究所
家 元 竹
内 エミ子
〒890-0026 鹿児島市原良2丁目12番2号 TEL・FAX 099-250-3451
16 沖縄・鹿児島文化交流祭
鹿 児 島 市 内 でも
一般上映が決定!
【上映場所】ガーデンズシネマ
【上映日程】
11/12 (土)~ 25 (金) ※ 18 日~ 20 日は休映になります。
【料 金】一般料金 1,800 円/シニア(60 歳以上の方)1,000 円
【住 所】鹿児島県鹿児島市呉服町 6-5 マルヤガーデンズ 7F
【お問合せ】099-222-8746 URL http://kagocine.net/
沖縄・鹿児島文化交流祭
17
鹿 児 島 からの 提 言
沖縄・鹿児島文化交流祭
一幅の絵巻からはじまった、近世琉 球の文化復元。
沖縄の伝統芸能のルーツを辿り、
160年の時を超えスクリーンに蘇ります。
琉球王朝の芸能は、首里王府の滅亡とともに多くが命
運を共にして失われていきました。しかしその後、多くの
新世紀を開く琉球舞踊
研究者により琉球の芸能、江戸上りなどが研究され、成
果をあげています。今日でも、ルーツをさらに探り、失わ
原 口 泉 (志學館大学教授)
れた芸能の復元を試みる努力が進められ、知られざる王
国の歴史も、解明されようとしています。
世界遺産である首里城をはじめ琉球王国遺産群が、沖
縄を象徴する顔ならば、その心・その想いを伝えるものが、
古式豊かな舞踊や坐楽の芸能になるのではないでしょう
1947 年生 鹿児島市出身 東京大学大学院人文科学研究科修了
NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」
(1990年)
「
篤姫」
(2008年)
時代考証
著書に「NHKかごしま歴史散歩」他多数 2011年3 月鹿児島大学退官
か。様々な人々の努力によって蘇った
「琉球芸能 江戸上り」
。
この映画を通して、文化の力強さや大切さを、多くの人々、
特に若い世代の方々に知ってもらいたいと願っています。
21世紀、新しい文化の時代が、沖縄と鹿児島の交流から、花開こうとしている。
1609年の島津軍山川港出航を因果とし、芸能の国、沖縄からこれほど豪華な顔ぶ
れの来鹿を、寡聞にして私は知らない。
何よりも喜ばしいことは、本場琉球舞踊の美しい花が、山川の地に、しかも2009
年にひきつづいて2回目の交流訪問となることを、私たち鹿児島県民の誇りとしたい。
琉球芸能の歴史は古い。約300年前、江戸上り使節団の一員であった踊奉行、玉
城朝薫が、京・江戸そして鹿児島で能・狂言・歌舞伎を学び、琉球独自の組踊りという
芸能の新境地を開いた。その命脈が、20世紀までの幾多の試練を乗り越え、現代の
鹿児島で披露されるのである。これ以上の喜びはあるまい。
日本とその民族の文化が多様に豊かであるとすればそれは琉球舞踊のおかげである。
沖縄芸能連盟の活動は日本の誇り、竹内琉球舞踊研究所の活躍は鹿児島の誇りともい
1609 年(慶長一四)
、琉球は薩摩藩の侵攻によりその支配下に置かれた。琉球国王であった尚寧とその一行は駿府の家康公、江戸の秀
忠公に謁見のため 2000 キロの旅にでることになる。行程の厳しさとは裏腹に家康公と秀忠公に一国の王として厚くもてなされたという。
江戸上り一行の規模はおよそ百人前後で、
薩摩藩士らを加えると数百人の大行列になった。江戸上りの琉球人は見るからに異国人であった。
中国風の衣装を身に着け、路次楽(ろじがく)を奏しながら行くこの行列は各地の沿道の人々にも大変な人気であった。江戸城と薩摩江戸
屋敷では、この座楽と舞楽が披露されていたとされ、三田、
「芝さつまの道」は琉球にとって『江戸上り』の象徴であった。
それは江戸幕府と薩摩藩にとっても他国を支配する権威を象徴するものであり、琉球にとっても国の文化を披露する重要な機会でもあった。
使節団は、薩摩藩邸や江戸城内では御座楽(うざがく)の演奏や舞踊などの琉球芸能を披露した。そのために同行する十五歳ほどの楽
童子や楽師たちの役割は大きく、その人選や音楽舞踊の訓練も厳しかった。
琉球は古くから武力での外交を廃し、芸能文化の交流や貿易で国を栄えさせてきた。
『江戸上り』は、その芸能の枠を集め披露したもの
といえる。今、
『江戸上り』の芸能の資料は乏しく、当時を描いた絵巻物や古くから残っている沖縄の音楽や舞踊、神事の舞、そして当時
交流のあった中国に伝わる音楽などを総合して紐解くしかない。しかし、様々な人の手によって、
「唐躍」
(とうおどり)を加えて 2011 年 2 月
26 日に東京日本橋三越劇場での公演となった。現代に蘇るまさに《江戸上りの 160 年の時を越えた再現》となるのである。
企画:蘇る琉球芸能 江戸上り映画製作実行委員会・株式会社シネマ沖縄 製作・著作:株式会社師生沖縄 制作協力:沖縄広告株式会社
後援:沖縄県、沖縄県教育委員会、
(財)
沖縄県文化振興会、沖縄県文化協会、沖縄県商工会議所連合会、沖縄県商工会連合会、東京沖縄県人会、関東沖縄経営者協会、株式会社琉球新報社、
株式会社沖縄タイムス社、NHK 沖縄放送局、琉球放送株式会社、琉球朝日放送株式会社、沖縄テレビ放送株式会社、株式会社ラジオ沖縄、株式会社エフエム沖縄、沖縄ケーブ
ルネットワーク株式会社、
(財)国立劇場おきなわ運営財団、社団法人沖縄県経営者協会、沖縄経済同友会、沖縄県中小企業家同友会
監 修:田中真之 製作:末義真也・興那良則 監督:本郷義明 音楽:稲垣雄 ナレーター:国井雅比古
出演 : 御座楽復元演奏研究会・又吉靜枝・比嘉悦子・新潮劇院・ほか
デジタルハイビジョン・69 分
えよう。
琉球では、社会と人間の行動の規範を儒教の「礼楽」に求めてきた。猛々しい人間の
心と利害の対立を和らげ、平和な社会を築くのに一番役立つのは、歌と踊りであるとい
う伝統的考え方である。
西郷隆盛や大久保利通ら幕末の志士たちも来鹿した琉球の文化人と交流することによ
り高い国際的教養を身に付け、明治維新の力になることができた。
まなざしのすれちがいはあったかも知れないが、江戸時代の琉球と薩摩の文化交流
は、他のどの地域よりも盛んであった史実を今思いおこすことが必要である。琉球の舞
踊と歌を楽しむことで、私たちは心から若返り、21世紀を平和と文化の世紀とするため
の勇気と知恵を得ることができるであろう。今回の文化交流祭が、東日本大震災の年に
南国鹿児島で開催されることは日本の蘇生であり、山川から世界へ向けての復興祈願と
平和へのメッセージとなることを期待したい。
蘇る琉球芸能 江戸上り映画製作実行委員会
〒 900-0027 沖縄県那覇市山下町 5 番 21 号 沖縄通関社ビル 3F(株)シネマ沖縄内
TEL:098-852-8711 FAX:098-857-5545 E-mail :info@edonobori.jp
http://edonobori.jp
18 沖縄・鹿児島文化交流祭
沖縄・鹿児島文化交流祭
19
沖 縄 からの 提 言
もうひとつの薩琉交流
板 谷 徹 (沖縄県立芸術大学教授)
1947 年 東京都出身 早稲田大学大学院文学研究科修了
専攻は舞踊学。現在は御冠船踊りを中心に、対中国、対薩摩との関係
における芸能の役割を研究している。来春沖縄を離れる予定。
沖縄・鹿児島文化交流祭
戦後、かって丹波福知山藩の藩主であった朽木家から出て、後に博物館に入る。
細川斉茲の死後にその遺品が島津斉宣に譲られるなど、両者の昵懇な間柄が薩摩藩
邸で熊本藩の御用絵師が作画することを可能にし、恐らくそのお礼に複本の一本が斉宣
に贈られたのであろう。島津斉宣の娘は近江膳所藩主本多康禎に嫁し、康禎と家女と
の間に生まれた子が朽木家の養子となって後に福知山藩主となる。大名間の縁戚関係に
この画巻の遍歴、薩摩と福知山とを結ぶ線がわずかにみえてくる。
この「琉球人坐楽之図」には二才踊りが数曲みえる。そのうちの「麾躍」
「節口説」
は現在の黒紋付に白鉢巻で踊られるが、
「御代治口説」
「上り口説」は白の上衣にチョッ
キのようなものを着てやや中国風の印象があり、
「網打躍」は魚採りの庶民の服装である。
昨年 12 月の「琉球・山川芸能交流『弥勒世なおれ』
」に大山琉球傘踊りと宮之前唐
人踊りが沖縄へ来られた。南九州に分布する琉球系芸能を初めて観ることができたのは
打組踊りの「伊計離節」を含めて、現在の二才踊りとは異なる多彩な風俗が二才踊りで
踊られたことをこの画巻から知る。
僥倖であったが、これらの芸能の何が琉球で、琉球とのどのような接触からうまれたか
寛政8年(1796)
、江戸上りの正使に随行した医師の又吉親雲上は「口説囃子ト云踊ノ
がみえないことに驚かされた。薩摩の人々の想像力が現実の琉球をはるかに超えていた
上手也薩侯ノ前ニテ躍リシ」と森嶋中良の『惜字帖』に記され、徳川美術館蔵「琉球歌
のかもしれない。
舞図巻」によれば天保3年と同じ服装であった。また文政 12 年(1829)に重富の島津
1609 年の薩摩侵攻以降、琉球は近世を通じて年に5.
3件の使者を鹿児島に送る。
家別荘で行われた琉球踊十二番にも「下り口説」が「口説囃子」となっている。二才踊
使者の位階は王子、按司から親雲上など様々であるが、江戸まで上る徳川将軍襲職の
りは「口説囃子」とも呼ばれ、薩摩藩の『琉球関係文書』二に「登り口説」
「下り口説」
慶賀使、国王即位の謝恩使や、鹿児島への御祝使、御札使は王子が勤め、国王の名
が現在とほぼ同じ詞章で記されるなど、支度は異なっても二つの口説は連綿と伝承され
代として王子使者は薩摩藩主に対して御膳進上を行った。御膳進上は国王の書簡奉呈
ていた。
とともに重要な外交儀礼で、料理を薩摩藩主に差し上げ、その席で王子使者の帯同する
指宿市宮之前の唐人踊りでは出端と入端に上り口説、下り口説が使われる。宮之前、
芸能が必ず披露される。芸能は、
中国伝来の御座楽、
中国語による中国演劇である唐躍、
中小路の唐人踊りには、
「昔、琉球から島津家へ貢納する時は、次の貢船来航まで人
御冠船踊りの端踊りのうち二才踊りと女踊りを内容とする琉躍の三種である。
質をおいたといい、その人びとが島津の指宿別邸にやってきて踊り」
(
『指宿市誌』
)
、そ
御冠船踊りは中国からの冊封使を迎えた諸宴に供される芸能で、組踊りと、若衆踊り、
れを学んで始められたという伝承がある。国質、十年質と呼ばれた人質は薩摩侵攻の
女踊りの端踊りを主な演目とする。そこには琉球の故事を芸能によって示す王府の意図
1609年から 15 年程の間のことで、後には年賀慶賀使と称する在番親方を筆頭とする
があった。ところが薩摩へは琉球の故事を題材とする組踊りは帯同されず、端踊りは琉
役人が琉球仮屋、後の琉球館に滞在するがもはや人質ではない。二月田の別邸が出来
躍と呼ばれて二才踊りを若衆踊りの代わりとした。固有の文化は琉躍によって琉球の風
たのは寛政年間とされて時期があわず、唐人踊りに使われる口説も詞章が異なり、士族
俗を示すのみで、むしろ御座楽、唐躍など琉球が受容した中国文化が薩摩に対して強
の踊る二才踊りから学んだとは考えられない。
調された。王子使者の帯同したこれらの芸能は御膳進上での上演が目的であったから、
江戸の講釈師伊東凌舎が藩主島津斉興の参勤交代に加わって鹿児島を訪れ、天保7
芸能を担当する随員は出発の一年以上前に任命されて入念な稽古がなされ、特に江戸
年頃に書いた見聞記『鹿児島ぶり』には、
「琉球人の船人うたひ候、くどきと申うた、拙
上りの場合には出発に先立って国王の検分を受けた。また鹿児島や江戸の薩摩屋敷で
者能覺申候。上りくどきは琉球より鹿児嶋迄の道のうた、下りは夫に順じ候」とあり、
「上
は御膳進上以外にも島津家の人々から琉球の芸能が所望されたことが家譜や琉球館か
り口説」
「下り口説」の詞章を載せ、注釈を施す。
「上り口説」
「下り口説」を船人の歌
らの報告「従大和下状」によって知られる。
とするこの指摘は注目される。船人とともに跟伴と呼ばれた同じ百姓身分の従者が多数、
薩摩や江戸での芸能の実態を知る資料は極めて少なく、天保3年(1832)の江戸
士族に従って薩摩を訪れていた。伊藤凌舎の記述は百姓身分の彼らにも士族とは別の
上りに、隠居した前藩主島津斉宣の屋敷で行われた琉球使節の芸能を熊本藩御用絵師
芸能があったことを示唆する。これら琉球人との接触から琉球傘踊りや唐人踊りが生ま
杉谷行直が描いた「琉球人坐楽之図」は貴重である。この画巻は美術に造詣の深かっ
れたと考える方が妥当であろう。この問題についてはなお資料を博捜し、
考えていきたい。
た熊本藩前藩主細川斉茲の命で描かれ、記録画としての性格が強い。この画巻には数
点の複本が存し、その1本が沖縄県立博物館・美術館蔵の「琉球人舞楽御巻物」で、
20 沖縄・鹿児島文化交流祭
沖縄・鹿児島文化交流祭
21
奄 美 からの 提 言
沖縄・鹿児島文化交流祭
山川交流 その後
花 井 恒 三 (奄美のトラさん)
1947 年生 奄美市笠利町出身 早稲田大学教育学部中退
奄美市総務・企画部長を経て 現在は「奄美のトラさん」として、奄
美と本土・沖縄の人と人を繋ぐボランティアとして活動中
「花井さん、
『薩摩侵攻』は武士の話で、私たち庶民は昔から山川(鹿児島)と交流して
いたんですよ!」
。1月、沖縄大学フォーラム(パネリスト参加)で沖縄に出張した時、表敬訪
問した嘉数昇明氏(那覇空港ビルディング社長・元沖縄県副知事)の言葉に感銘を受けた。
(中略)山川イベントは当初、鹿児島・沖縄両県知事が交流するとの話も聞いていたが、知
事交流は奄美が舞台となったため、山川は両県副知事交流の場となった。ここで ‘ 不思議
発見、したことがある。奄美-沖縄の兄弟島間の飛行機が1日1便、39人乗りだけなのに
対し、鹿児島 - 沖縄は全日空のジェット便が3便も飛んでいた。
私はかねがね、沖縄の人から「九州で遊びに行くのは鹿児島でなく福岡」と聞かされてい
たし、沖縄には鹿児島県人会がないとも聞いていたので、一瞬、
「誰が乗るのだろう?」と思っ
たのだった。このジェット便に見るように、
庶民レベルの鹿児島 - 沖縄交流は続いているのだっ
た。
(中略)幸い400年交流は山川だけでなく、両県知事交流が奄美を舞台に実現し、
「交
流拡大宣言」が行われた。宣言には、
「薩摩による琉球出兵・侵攻400年という節目を迎
えたこの年」との文言があった。
「出兵・侵攻」の連語が改めて発信されたのだ。私は「出兵」
と「侵攻」をいとも簡単に連語として使ってしまう行政用語の便利さに驚き、感心(?)もし
たのだが、この連語こそ互いの歴史観の違いを認め合いながら乗り越えようとの一幕であっ
たと、今にして思う。400年交流は、両県議会議長の「共同声明書」調印も行われ、新た
な交流の幕明けとなった。
このように、奄美内外の交流イベントは、いずれも「未来の交流へ繋げたい」との願いを
込めて行われた。
(中略)400年交流の中で、沖縄・鹿児島両県知事交流が奄美を舞台と
したように、これからも、奄美が両県のクッション役としての役割を果していくであろう。
このたびの九州新幹線の全線開業と奄美 - 福岡直行便の再開は、その扉を大きく開き、
北緯30度以南の出番を再び用意し、奄美開国を促してくれた。
(中略)400年交流は、昨
年の加計呂麻島森林伐採計画撤回、徳之島への米軍普天間基地一部移設問題、奄美大
島の記録的豪雨災害において見事に生かされた。
「奄美復帰の歌」
「沖縄を返せ」の歌やデ
モ行進、署名活動、災害支援などで奄美・沖縄・鹿児島・本土間の絆があっという間に結
ばれ、マスコミによって ‘ 結い、の精神が全国発信された。400年交流の「辞書」は生き
ていた。
(後略)
謝 辞
沖縄・鹿児島文化交流祭
交流3年
新たな着実な展開
実行委員会副会長 嘉 数 昇 明
(前 那覇空港ビルディング社長)
黒潮の波濤にうち乗って、新南風巻き起これ! ─伝えよう ふるさとの食と芸能─ を合言
葉に実施される、このたびの「沖縄・鹿児島文化交流祭」の盛会を共に喜び、ご尽力いた
だいた多くの方々に感謝を申し上げたい。
3年前、2009年に山川の地で実施された 琉球・山川港交流400周年記念事業(歴
史基調講演、両県副知事出席のシンポジウム、両県の芸能交流、山川港のまち歩き、琉球
人鎮魂墓碑と琉球人望郷の碑の建立除幕式などの多彩な記念行事)は、
「歴史の波濤を乗
り越えて、
新しい未来へ舵をきろう!」のスローガンに込められた願と決意の如く、
“ 交流元年 ”
にふさわしい誠に意義深いスタートとなった。
これまで、ともすれば、マイナスイメージで語られてきた「薩摩の琉球侵攻400周年」に
新しい視点を提供してくれた。山川港は、1609年の琉球への出兵港であると同時に、そ
れ以降、1879年、廃藩置県により、琉球藩が沖縄県になるまで270年間、琉球からの
薩摩や江戸上りの1000回余りの琉球使節船の玄関港であった。各面の交流の歴史の証人
ともいうべき山川港とその地域と人にスポットが当てられ、民衆レベルでの文化、芸能、生
活交流の接点としての歴史の一コマ一コマが浮かび上がってきた。その発端となる琉球・山
川港交流元年の取り組みは全て、
「五人番のアコウの木」から始まったと思う。 首里城ゆかりの樹齢300年とされるアコウの巨樹を激しい台風下、必死の努力で救い、
蘇生させた地元皆様の懸命の取り組み、琉球人墓のあった史実の判明とその鎮魂墓碑と望
郷の碑の建立、アコウの木の子分け木の里帰り植樹など、誠意に満ちた一連の対応は、こ
れまでの心のわだかまりを払拭し、相互理解と未来志向の新しい交流元年への尊いステップ
となった。そして、3年目のいよいよ、今回の山川地元での「沖縄・鹿児島文化交流祭」の
開催であり、青少年交流、特産品展示即売などの新しい趣向や企画が折り込められている。
更に、山川港やその歴史背景の登場する映画「よみがえる琉球芸能 - 江戸上り」が鹿児島
県で上映されることは意義深い。
民間の草の根交流からスタートして3年目、行政の認知支援も受け、両県の地域振興へ
の貢献も視野に各面への交流の拡大と深化が進んでいることは喜ばしい。交流の原点を大
事にし、新南風を巻き起こそう!
ご尽力いただいた多くの皆様に厚く感謝申し上げます。
上記は、奄美の南海日日新聞の長期連載「薩摩侵攻401年目の視座」に、私が「未来400」の題名
で今年の3月、4 回連載したものの一部を転載し、今回は紙上参加とさせていただきます。
奄美の未来400年を担う奄美高校生の参加に拍手をお贈りいただきますと共にご盛会を祈ります。 22 沖縄・鹿児島文化交流祭
沖縄・鹿児島文化交流祭
23
謝 辞
沖縄・鹿児島文化交流祭
MEMO
人と海がとりもつ絆
実行委員会副会長 南 幸 弘
(医療法人圭裕会グループ 理事長)
沖縄と鹿児島の文化交流祭が始まったのは、島津藩の琉球出兵400年という節目を
迎えた2009年の事でした。台風で倒れた1本のアコウ『五人番のアコウ』を縁として
の交流祭でしたが、お陰さまで今年は3回目を迎える事ができました。
この交流を支えて頂いている関係者の皆様に心から御礼を申し上げます。
今年のテーマは『黒潮の波濤にうち乗って 新南風巻き起これ!伝えようふるさとの食
と芸能』でした。2日間にわたり、それぞれのふるさとの食べ物や芸能はもちろんの事、
地元の小中学生や高校生と奄美や沖縄の皆さんとの青少年の交流ができました事は、
私の望外の喜びでした。しかも、手前味噌になりますが、私の父が創立した沖縄尚学
高校の皆さんにもエイサー太鼓で参加して頂いたことに、私は何か因縁めいたものを感
じます。
さらに、ドキュメンタリー映画『江戸上り』は、沖縄の中の日本や薩摩という視点でなく、
むしろ日本や薩摩に今も息づく沖縄の心や芸能を、きちんと現在の私たちに問いかける
労作だと私は思っております。
1本のアコウがとりもつ縁で始まったこの交流です。しかし、400年も昔の事や500
キロ以上も離れた人々同志が、心を通わせあう事は、なんと素晴らしい事でしょうか。こ
の1本の絆が、老若男女すべての人を巻き込みながら、さらに太くより合わされ、アコウ
の木以上に、沖縄と鹿児島の人々の心に根を張り、枝をさしのべることを、私は願って
やみません。
皆さん、本当に有難うございました。
実行委員会役員(琉球・山川港交流の会)
永 田 和 人(鹿児島)
副 会 長 嘉 数 昇 明(沖 縄)
〃 南 幸 弘(鹿児島)
事 務 局 長 大和田 靖 憲(鹿児島)
会 計 西 浩 二(鹿児島)
理 事 富 田 詢 一(沖 縄)
〃
玉 城 節 子(沖 縄)
〃
玉 城 秀 子(沖 縄)
会 長
実行委員会スタッフ
出 森 俊 郎
尾 辻 隆
上川床 聡
松 本 洋 子
北 川 悦 子
出 森 聡 子
宮之前 貴 子
交 流 会 司会 椎 原 みさと 日 高 絹 代(アシスタント)
24 沖縄・鹿児島文化交流祭
理 事
安次嶺 律 子(沖 縄)
〃
伊 元 清(沖 縄)
〃
森 田 秋 弘(鹿児島)
〃
宮之前 孝 義(鹿児島)
〃
西 野 実(鹿児島)
監 事 池 間 聡(沖 縄)
〃
湯通堂 温(鹿児島)
〃
森 時 徳(鹿児島)
山川港まち歩き スタッフ いっどいっが山川港の会 篤姫観光ボランティアガイド会
ボランティア スタッフ
南日本銀行指宿支店 指宿海上ホテル
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指宿市役所 指宿市観光協会
その他
指 宿 市 金 融 協 会
鹿児島銀行 南日本銀行 鹿児島相互信用金庫 鹿児島信用金庫
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波おだやかな錦江湾に大きな夢を望む。
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政府登録 館内 砂むし温泉完備
指宿市十町1912
TEL(0993)23-3111(代)
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株式会社損害保険ジャパン代理店 自動車保険・火災保険・損保ジャパンひまわり生命・第一生命
㈱ L A・オ ア シ ス
指宿事務所
〒891-0404 指宿市東方 8349-4
0120-77-2165
鹿児島事務所
特 級 資 格
第69552号
〒891-0144 鹿児島市下福元町 715-1
☎(099)298-5000
指宿フェニックスホテル一
番の自慢は窓から見える風
景。錦江湾を中心としたロ
ケーションは山川港や遠く
本土最南端佐多岬を取り込
み、それはまさに「絶景」と
して心に映し出されます。
指宿フェニックスホテル
〒891-0403指宿市十二町4320
TEL.0993-23-4111
指宿市建設業組合
指宿市十二町 302-3 ☎ 0993-22-3215
迫 建 材㈱
指宿市湯の浜 2-1-30 ☎ 0993-722-2265
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指宿市湯の浜 3-1-7 ☎ 0993-22-2968
鹿児島県クリーニングセンター
〒 890-0034 鹿児島県鹿児島市田上8丁目25−30 ☎ 099-282-2500
岩 下 眼 科 医 院
指宿市湊 2-11-1 電話 0993-23-3959
㈲ 岡 村 商 店
指宿市湊 1-2-13 ☎ 0993-22-3118
指宿市歯科医師会
こ ど もの森小児科
指宿市東方 8320-4 ☎ 0993-27-1010
いわもと耳鼻咽喉クリニック
指宿市東方 8714-23 電話 0993-27-1515
五人番のアコウ
1996 年 10 月 今村義一氏撮影
琉球・山川港交流の動きは、2004年8月の台風で大渡海岸にあった樹齢
300年といわれる「五人番のアコウ」が倒れたことから始まりました。多く
の方々の協力を得て、アコウは指宿の太平次公園へと移植されました。
(波
打ち際にこのように長く生息するアコウは世界でも例がないそうです)そんな
中アコウが倒れてから1年後、このアコウは琉球の首里城から運ばれてきた
ものらしいと分かりました。この出来事をきっかけに、
「五人番のアコウ」を
軸に沖縄と鹿児島との絆が生まれ、交流が広がり、今に至っています。
琉球・山川港交流支援事業
沖縄・鹿児島交流促進支援事業
沖縄県文化芸術振興・産業創出支援事業
■主 催/沖縄・鹿児島文化交流事業実行委員会
■共 催/琉球・山川港交流の会、指宿市、鹿児島県、琉球新報社、沖縄芸能連盟
■後 援/沖縄県、那覇市、奄美市、南日本新聞社、南海日日新聞社、
NHK鹿児島放送局、MBC、KTS、KKB、KYT、エフエム鹿児島
■協力団体/竹内琉球舞踊研究所、指宿市観光協会、指宿商工会議所、菜の花商工会、
指宿市文化協会、指宿市郷土芸能保存会、いぶすき農業協同組合、山川町漁業協同組合
山川水産加工業協同組合、指宿ウォーキング協会、指宿市青年振興連絡協議会
■お問い合わせ・・・琉球・山川港交流の会(ペンション菜の花館内)☎ 0993-35-2007