2013・ 281 身元を突き止めよ! ―「名無しの権兵衛」 が名前を取り戻す時― 長谷川 由美子 古い楽譜や書籍の中には作曲者や著者、 題名、 出版の情報が欠けている資料が時々見つかる。 「誰だ、 こんな資料を買っ た人は!!」 まずは呪いの言葉を発し、たぶん購入にかかわったと思われる退職なさった何人かの先生方の顔を思いだす。 それからすごすごと何か手がかりはないかと調べ廻り、解決できたときは、ビールで乾杯、である。 「名無しの権兵衛」 は、図書館員に過度のストレスと共に喜びを与えるやっかいな代物だ。 楽譜の「名無しの権兵衛」は作曲者、曲名、出版社、出版年のすべてについて言えるが、19世紀以前の出版楽譜は原 則的に出版年の記述がない。従って、出版年を調べることはいわばルーティン化した作業である。この文章では主に楽 譜の貴重書にふくまれた 「名無しの権兵衛」 が出版社、曲名、作曲者という名前を取り戻していった過程を3例紹介しよう。 出版社 91曲もの曲が一緒に綴じられた楽譜がある。内容 は18世紀末に流行したオペラのアリアが大半で、現 在でいうA3の用紙に片面だけ印刷され、オペラの題 名や出版年月が楽譜の上に入っているが、作曲者名は ほとんど記されていない。編成はアリアと通奏低音 で、1773年から1778年まで二週間ごとに一曲づつ出 版されている。作曲者名がないが、この年代のオペラ のアリアの場合、その歌詞からほぼ作曲者名は突き止 められる。91曲のうち、2曲だけが作曲者不明で残さ れたが、どこで出版されたのかは皆目見当がつかない。 おそらく予約者を募って定期的に配布されたのだろ う、内容や使われている言語がフランス語であること からフランス語圏の出版物だと想像がついた。18世紀 までの楽譜の国際的書誌に何らかの手がかりがあるか もしれない。“Répertoire international des sources musicales ”(通称RISM)の“BII Recueils imprimés (註1)だ! XVIIIe siècle ” 参考閲覧室に走り込み、人に取られてはなるものか とこの本をゲットする。ところがこの本はそれぞれの 楽譜を統括する大きな題名の元に書誌事項が記入され ているのである。この題名がわからない以上、フラ ンス語圏と出版年を頼りに、すべての項目を見てい くしか方法がない。実に57ページから408ページま で、一日何ページと決めて、何日かに分けて私は探し 続けた。ようやくそれらしき出版物に行き当たった。 , RISMの320ページに載っている“Recueil d ariettes , d opera, avec premier et second violon et basse continue[Bi-mensuel] Liège, Latour, 1772-1781” である。リエージュ出身のグレトリーの楽譜が多いし、 5 載っているイタリアやフランスの作曲家の名前やオペ ラ名は知っている楽譜が多いが、グレトリー以外のベ ルギーの作曲家は初めて出会う名前ばかりだった。こ れだこれだ・・・でも一件落着とはいかなかった。本 当にこの出版物かどうか、最後の確信が持てなかった。 現物を所蔵している図書館にメールで問い合わせよう かと思ったが、何かリエージュの出版物について書い てある本があるかもしれないと、気を取り直して図書 館の所蔵をあたったところ、“Annales de la musique (註2)の中に、 et du théatre à Liége de 1738 à 1806 ” 同種の楽譜の画像を発見した。――よくぞこの本を購 入してくださいました。呪いの言葉は返上します。感 謝感謝―― ちなみにグレトリーのオペラを見てみると、パリで ヴォーカル・スコアが出版されるとほとんど間髪を置 かずにリエージュで主なアリアが出版されている。本 物のオペラは見に行けないが、せめてその中のアリア は楽しみたい・・・そういう人々が購入者になったの であろう。当館以外ではリエージュの音楽学校図書館 やオーストリー国立図書館がバラバラに持っているが、 18世紀末の地方の音楽文化を考えるうえで貴重な資料 である。(請求記号◦M4-431、S11-278) 曲名 19世紀の末に出版されたフランスオペラのフルス コアが何冊かある。一般の読者を対象とした出版で はなく、恐らく指揮者用と思われるこれらの楽譜はト マ、マスネ、ドリーブなどの作品である。楽譜の顔と いうべきタイトルページを持たず、製本もされていな はせがわ ゆみこ 上海から36時間!最後は地元のあんちゃんのバイクの背にしがみついてやっとたどり着いた 中国貴州省の 「加車村」 、大自然と人間の造り出した美しい棚田の風景と満天の星を満喫した5日間だった。 2013・ 281 い。ただ楽譜の第一ページの上部に作曲者名とオペラ 版だと思われた。1700年代のイギリスの出版社のう ち、クニタチが多くの資料を持っているのはウォル のタイトルが記され、出版社や出版年は楽譜の下部に シュ社である。所蔵しているウォルシュ出版の楽譜の 記してある。何とも味気ない実用譜・・・。この中に 字体と比べた結果、見事に一致した。 曲名がプリントされていない楽譜があった。作曲者名 次はウォルシュの出版物をカタログ化した2冊の本 だけはReyerと記されていた。幸運なことに役名はわ “A bibliography of the musical works published by かる。ブルヌヒルド、シグルト・・・あれあれ、ワー ( 註4) と John Walsh during the years 1695-1720” グナーの指輪と同じじゃない!じゃあ、簡単、New Grove の作品表で確かめ、音源があったのでチェック。 “A bibliography of the musical works published by (註5)を基 John Walsh during the years 1721-1766” “Sigurd” でした。 (請求記号◦M3-559、S10-768) に該当する曲を調べた。前所有者のメモにある「1765 年ごろ出版」を一つの手掛かりに1721年-1766年の本 を最初にあたった。この本には題名から引ける索引が 付いていない。そのため、最初からすべての項目に目 を通した。キャプションタイトルはSONATAである タイトルページを欠いた一冊の楽譜・・・声楽曲に が、この時代の楽曲ではタイトルがSOLOとなってい は、歌詞という強力な情報源があるが、器楽曲は簡単 る楽譜でもキャプションタイトルはSONATAとなっ ではない。これはイギリスの著名な音楽史学者で、民 ている場合がある。そのため、ヴァイオリンまたはフ 謡研究家であったフランク・キドソンが、同じく民 ルートの曲で題名に6 SONATAS あるいは6 SOLOS 謡収集家であったアルフレッド・ がついた楽譜を探した。全部で10以上の楽譜が見つ モッファットに贈った楽譜で、彼 かったが、ウォルシュの目録には楽曲の調性は含まれ らによって出版年代は1765年ご ていないため、これらの作曲者の作品を当館のOPAC ろと推定されていた。楽譜からわ で検索して、実際の楽譜を確かめた結果、Richterの曲 かる情報は1)ヴァイオリンあるい であることが判明した。詳しい書誌事項はこの曲を掲 はフルートとハープシコードの曲 の校訂報告に記載があった。なお、 載していた楽譜(註6) が6曲、2)調性はF, D, G, C, Bb, 出版年は1759年であり、あまりずれてはいなかった。 A 3)キャプションタイトル(楽 前所有者はおそらく楽譜の内容からこの年代にたど 譜が始まる前についているタイト り着いたのだろう。 (請求記号◦M4-428、S11-176) ル)はSONATA I(II, II, IV, V, もし、図書館に現代版の楽譜がない場合はどうして VI) 、4)ユリ紋とIVという透かし いただろう。たぶん、RISM-AIにあたって、所蔵館 ユリ紋とIV入りの透かし 付、5) ページ数だけであった。 を調べ、フランス国立図書館や大英図書館に質問状を 出していただろう。フランスの場合は翌日答えが返っ てくるし、大英図書館も一週間以内(実際は4日ほど) に答えを返してくれる。世界の大図書館は蔵書と共に サーヴィスの良さも第一級である。 作曲者 参考文献 註1 “Répertoire International des Sources Musicales A-1 : Einzeldrucke vor 1800” Bärenreiter 1971 ~ 2003(参考図書⃝X-035/R/A/1) 楽譜第1ページの冒頭 これだけ!ため息が出る。でも待てよ、この字体は 見たことがある!以前にたくさん見ている出版社の出版 物だ・・・でもどうやってたどり着く?そうそう、透か しが入っている!もしかしてヒントになるかもしれない。 元気を取り戻し、「ユリ紋とIV」がいつごろ使わ (註3)で調べた結果、 れたマークなのかを『透かし文様』 1700年代の中ごろまでイギリスで多く使われたこと がわかった。また、SONATAの文字からイギリス出 註2 “Annales de la musique et du théatre à Liège de 1738 à 1806” H.Hamal. P.Mardaga 1989 (請求記号⃝C52-491) 註3 『透かし模様』エドワード・ヒーウッド 雄松堂出版 1987(請求記号⃝J59-638) 註4・5 “A bibliobraphy of the musical works published by John Walsh during the years 1695-1720” “ 〃 1721-1766” W.C.Smith & C.Humphries 1968/1948(参考図書⃝X-038/S) 註6《Sonaten für Flöte(Violine), Cembalo und Violoncello(ad lib)》 F.X.Richter. Wiener Urtext Edition 2004 •• • これらの資料は貴重書につき利用に制限があります。 4
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