戦争は民衆を殺す ~ネット社会が平和と民主主義を獲得するために~ 渡辺幸重 著 「『人とわざわい――持続的幸福へのメッセージ』第Ⅱ編 人災編」(2007年 1月)所収 「広がる民間人の戦争被害 ~沖縄戦からハイテク・ネット社会まで~」復刻版 『人とわざわい――持続的幸福へのメッセージ』第Ⅱ編 人災編 「 広がる民間人の戦争被害 ~沖縄戦からハイテク・ネット社会まで~」 渡辺幸重 1 民間人が犠牲になる現代の戦争 った。しかし、近年の戦闘では前線がはっきり せず、近代科学兵器により前線を越えて遠くま 2 度の世界大戦に代表されるように、20 世紀 で破壊攻撃を仕掛けることができるので、地球 は“戦争の世紀”と呼ばれたが、21 世紀に入 上どこでも戦場になりうる。ミサイルが飛んで ってもなお、地球上には戦争、武力紛争、テロ くるだけでなく、複雑な国際社会の経済的・文 が絶えず、多くの人々が苦しんでいる。 化的活動に紛れて、都市におけるテロ活動やラ 特に、現代の戦争の大きな特徴となっている イフラインの破壊活動も起こりうる。太平洋戦 のが、民間人、非戦闘員の犠牲が増えていると 争における沖縄や近年のイラク戦争に見られる いうことだ。軍人と民間人の死亡者の比率が、 ように、住民の生活の場がそのまま戦場になり、 第一次世界大戦では 95 対5だったのに対して、 多くの民間人が犠牲になるケースも珍しくない。 第二次世界大戦で 52 対 48、朝鮮戦争では 15 対 そこでは、肉親や友人が殺される場面を目撃し 85 と変わり、ベトナム戦争では民間人の犠牲 た子どもが心に深い傷を残す。憎しみの連鎖の が 95%にのぼったといわれている(1)。21 世紀 中で戦闘に参加する未成年者もいる。現代の人 になってからもその傾向は続いており、湾岸戦 類社会は、全人類を何度も殺すことができる核 争やイラク戦争など、武装勢力と生活者が混在 兵器の恐怖に脅かされる一方、地球上で通常戦 している地域への武力攻撃が、民間人、特に女 争や武力紛争、テロがいつ身近に起こるかわか 性や子どもの犠牲を多くしている。 らない恐怖の中にある。 太平洋戦争末期、沖縄における地上戦では、 1-1 前線がなく、生活地域での戦闘で民間の 地形が変わるほどの砲撃を受け、多くの民間人 犠牲が増加 が犠牲になった。そこでは、アメリカ軍の攻撃 によるだけでなく、日本軍に殺された人も、集 かつての戦争にははっきりした前線があり、 団自決に追い込まれた人もいる。まず、民間人 軍隊同士の戦闘により、兵士の死傷や建物・交 が受けた“災い”の実態と背景を、沖縄戦にみ 通網の破壊、自然の破壊などが災いの中心であ てみよう。 2 太平洋戦争・沖縄戦における戦争被害 2-1 住民が“集団自決” では、圧倒的な兵力を誇る米軍の前に、捕虜に なることを禁じられた日本兵は特攻か自決の道 “玉砕”とは「大義・名誉などに殉じて、いさ を選ぶしかなかった。 ぎよく死ぬこと」であり、その原意は「玉のよ 日本軍の玉砕は、米軍の反攻により、1943 うに美しく砕け散ること」である。実際には戦 年(昭和 18 年)5月のアリューシャン列島の 場における日本軍全滅を意味した。太平洋戦争 アッツ島に始まり、1943 年 11 月マキン島・タ 2 ラワ島、1944 年2月マーシャル諸島のクェゼ では、なぜ、民間人、非戦闘員の集団自決は リン環礁、1944 年 7 月サイパン島、1944 年8月 起きたのだろうか。 テニアン島・グアム島、1945 年3月硫黄島と 「沖縄戦新聞」は、「『集団死』なぜ起き 続いた。 た」と題して分析記事を掲げている。それをま そして 1945 年 3 月 26 日、米軍は、那覇市西 とめると次のようになる。 方 30~50 ㌔に点在する慶良間諸島の阿嘉島、 日本軍が(1)方言を使う者や投降する者 慶留間島、座間味島、外地島、屋嘉比島に上陸、 はスパイとみなして殺すと住民を脅していた、 さらに翌日には渡嘉敷島など他の島にも次々と (2)1944 年 11 月、「軍官民共生共死」とい 上陸した。海上特攻部隊しか配備していなかっ う考えを示した、(3)敵は“鬼畜米英”であ た日本軍の抵抗は弱く、慶良間諸島は簡単に米 り、捕まると「女は暴行されたあと殺され、男 軍の手に落ちた。 は戦車でひき殺される」という恐怖を与えてい さらに米軍は4月1日、沖縄本島中部の読谷 た、という行動をとるなかで、住民は「米軍に 山村(現読谷村)、北谷村(現北谷町)に上陸 捕まると殺される」「投降すると日本軍に殺さ した。主力部隊を欠く日本守備隊は水際作戦を れる」という二つの恐怖心の板ばさみにあった。 放棄して高地に撤退したため、置き去りにされ 現実に敵が目前に迫ってくる絶体絶命の時、一 た住民は米軍の激しい砲撃にさらされた。 つのきっかけによって死へと暴走していった、 これらの地域で、住民自身による悲惨な“集 とみられる。 団自決”事件が相次いで起きた。琉球新報が 各種の資料をまとめて提供しているウェブ 60 年前の戦争を現代の目で編集した「沖縄戦 サイト「沖縄戦の記憶」(3)は、住民の証言を整 新聞」(2005 年発行)によると、慶良間諸島 理して、[米軍上陸→逃げる→逃げ場を失う→ では、銅山があった屋嘉比島で約 10 人、座間 日本軍の守護に頼る→拒否される→捕虜にはな 味村の主島・座間味島で 135 人、慶留間島で数 れない(米軍が恐い・友軍が恐い ・申し訳な 十人、渡嘉敷村の渡嘉敷島で 300 人余が集団自 い等)→死ぬしかない(みごと死んでみせる・ 決で死亡している(ちなみに「沖縄戦新聞」で 仕方なく死んでいく・自分だけは生き残れな は、“集団自決”という言葉が適切ではないと い・恥である)→「自決」]というパターンを して“集団死”を使っている)。また、読谷山 示している。 大田昌秀(1982)はその著書(4)のなかで、集 村では約 130 人、4 月 16 日に米軍が上陸した伊 江島では 200 人以上が集団自決により死亡した。 団自決の背景を考察し、いくつかの要因を挙げ そのほか、南部地域で数百人など他の地域でも たあと、「結局、守備軍が地元住民を守護の対 集団自決事件があり、犠牲者は何千人ともいわ 象としてでなく、むしろ<共生共死>を自明の れるが、詳しい全容はいまだに分かっ ていない(2)。 2-2 集団自決はなぜ起きたか 住民 140 人が立てこもった読谷山村 の自然壕・チビチリガマでは、83 人 が自決により死亡した。犠牲者のうち 女性は 70%、10 歳以下の子どもは 35%を占めている。この割合は座間味 島の集団自決犠牲者でもほとんど同様 である。 83 人が“自決”したチビチリガマ(読谷村) 3 2-5 沖縄で今なお続く“戦争被害” 沖縄の悲劇は太平洋戦争終結で終わらなかっ た。1971 年までアメリカの施政権下にあり、 日本復帰を果たした現在に至るまで広大な米軍 基地が居座っているからだ。 1959 年 6 月 30 日には、訓練飛行中の米軍 ジェット戦闘機が突然爆発を起こし、空中分解 市街地の中にある普天間基地 した機体が石川市宮森小学校などに墜落。小学 軍基地の 23.4%にあたるが、米軍専用施設が 校児童 11 人を含む死者 17 人、重軽傷者 121 人 占める面積に限ると、沖縄県に全国の 74.7% を出し、住家 17 棟、公民館1棟、3教室を全 が集中している。沖縄県には、米軍人約2万2 焼するなどの被害を受けた。黒煙が石川市上空 千人が住んでおり、軍属や家族を含めると、約 をおおい、町中が焼けるのではないか、と市民 4万5千人に上る。 は半狂乱に陥ったという(8)。米軍機の墜落事故、 沖縄本島だけの米軍基地面積の占有率は 騒音被害、演習による自然破壊や人的被害、さ 18.8%となり、さらに本島中部地区に絞ると らに米兵による凶悪犯罪は絶えない。 25.1%で、土地の4分の1が基地という異常ぶ 基地の存在そのものが沖縄の土地を収奪する りだ。市町村別にみると、嘉手納町の 82.6% ことで、経済発展を阻害し、市民生活の豊かさ という数字は、町土のほとんどが基地というこ を奪っていることにも注目しなければならない。 とになり、これでは町の土地利用計画もままな これらは、軍隊・基地による被害だが、間接的、 らないことになる。そのほか、金武町(米軍基 周辺的なものとして“戦争による被害”に分類 地占有率 59.3%)、北谷町(同 53.5%)、宜 することができるだろう。 野座村(同 50.7%)が米軍基地によって 50% 沖縄県内には米軍基地が約2万4千ヘクター 以上の土地を占有されている(9)。 ルあり、県の総面積の 10.4%を占めている(平 成 16 年3月末現在)。これは、日本全国の米 3 イラク戦争と戦争被害 3-1 民間人の犠牲は連合国 軍の 10 倍 次に現代の戦争としてイラ ク戦争の場合をみてみよう。 2003 年3月 20 日、アメリ カはイラクのフセイン大統領 が大量破壊兵器を隠し持って いるとして武力攻撃を開始し、 イラク戦争が始まった。艦船 や飛行機からの大量爆撃、ミ サイル攻撃、地上軍の侵攻に Iraq Body Count のウエブページ 6 より、4月9日には首都バクダッドを陥落させ、 最低で2万 8,403 人、最高で3万 2,013 人にな アメリカ・ブッシュ大統領は5月1日、大規模 るとしている(7)。これに対し、連合国軍の兵士 戦闘終結宣言を発表した。しかし、これは戦争 の死者数(2006 年2月9日現在)は米軍 2,267 終結ではなかった。その後も激しい武力抵抗に 人、イギリス軍 101 人、その他 103 人の計 遭い、12 月 13 日のフセイン大統領拘束後も武 2,471 人となっている(11)。連合国軍の志望者数 力抗争は続いている。 の 10 倍以上の民間人がイラクにおいて犠牲に なっているのである。 1991 年の湾岸戦争ではハイテク兵器が登場 し、攻撃目標を破壊する光景がモニターに映し 出され、“戦争のゲーム化”が取りざたされた。 3-2 日常的に死の危険性にさらされている 実際には“ピンポイント攻撃”といっても誤爆 民間人 や誤った情報による攻撃などにより軍事施設に 限った攻撃はできず、民間の被害も多かった。 イラク・ボディカウントの分析によると、 イラク戦争では、さらに兵器のハイテク化が進 2003 年3月から 2005 年3月までの民間人死亡 み、兵力の投入は小規模だった。ハイテク兵器 の原因は、連合国軍単独によるものが 37.3%、 としては、GPS技術で誘導する統合直接攻撃 反占領軍単独によるものが 9.5%、双方が関わ 弾JDAMや音波と赤外線により戦車を探知す っているものが 2.5%、イラク保健省が定義す るスマート爆弾BAT、マイクロ波により生物 る軍事行動によるものが 2.5%、主に犯罪者に 化学兵器を使用不能にするE爆弾などが使用さ よる殺人が 35.9%などとなっている。これら れた。また、忍者戦闘機ステルスやトマホーク の数値から連合国軍が関わった活動による民 巡航ミサイル、約 200 個の子爆弾をまき散らし、 間人死亡者の合計は 42.3%となる。また、女 非人道的兵器といわれるクラスター爆弾も使わ 性と子ども・幼児が民間人死亡者に占める割 れた。 合は全体の 18.4%となっている(12)。 2004 年6月5日、イラク保健省は 4 月 5 日か 占領後初めての大規模な戦闘として知られて いるのはファルージャの戦闘である。2004 年 らのファルージャ掃討作戦以後2ヶ月間に少 3月末、実態は傭兵であるアメリカ人警備員4 なくとも 1,110 人のイラク人が死亡したことを 人を武装勢力が殺害したことから、米軍は包囲 発表した。小池政行(2004)によると、これは主 掃討作戦を実施、空爆を中心とする大規模な懲 要病院からのデータを集計したものであり、 罰攻撃などにより 450 人~600 人の武装勢力と 「実際には病院に運ばれず、そのまま埋葬さ 市民を殺害したといわれる。このことによって れてしまった者が少なくとも 700 人以上はいる 反米感情が高まり、さらに5月に米兵によるイ と見られており、実際には2千人以上のイラ ラク人捕虜虐待が明るみに出ると反米運動が全 ク人が戦闘に巻き込まれたり、テロの犠牲に 国的な広がりをみせるようになった。2004 年 なって死亡したと見られている」とし、「現 11 月には、反米抵抗組織がファルージャにお 在においてもイラクでは戦争により、毎月何 いて運動を激化させ、米軍が掃討作戦に乗り出 百人ものイラク人が死んでいるのである」と した。米軍はファルージャを封鎖、空からの爆 指摘している(14)。また、酒井啓子(2005)は、 撃を加えて市内に突入した。この激しい戦闘に 多国籍軍(連合国軍)が現場の治安維持活動 よって米兵 18 名、イラク兵 5 名、武装勢力 をイラク軍やイラク警察に任せるようになっ 1200 名以上が死亡した。 てからは、イラク軍、警察が受ける被害が増 大しているとした上で「被害が大きいのは警 2003 年3月 20 日の米英軍によるイラク攻撃 からこれまで(2006 年2月8日現在)のイラ 察や軍のみならず、政府関係者や対米協力者、 ク戦争による民間人犠牲者数は、国際的な民 技術者や通訳などのイラク民間人にも及んで 間団体「イラク・ボディカウント」によると、 いる。2005 年に入って、イラク厚生省(保健 7 省:筆者注)は1カ月の遺体収容人数は、戦 イラク戦争で民間人が犠牲になった時期(Iraq Body Count) 後(2003 年5月1日の大規模戦闘終結宣言 以降か:筆者注)平均 800 人にものぼってい ると発表したが、特に 2005 年7月には 1,100 人と、戦後最大数となった」という。そして、 その原因について「米軍による誤爆や誤射な どやイラク新政府による政敵への攻撃もある が、多くは反米勢力による対米攻撃に巻き込 まれる、あるいは対米関係を疑われて殺害さ れたものであった」「また、戦後の新体制確 立に抵抗する反政府勢力が、混乱醸成のため に宗派、民族対立を誘発することを狙ったテ ロも、頻度は少ないが大量の死者を出す原因 である」と記述している(15)。 戦争の状況変化によって民間人が犠牲にな る原因が変わってくるということであろうが、 どこにも逃げ出せない民間人にとって死の恐 怖と背中合わせに生活していることに変わり はない。 3-3 民間人死亡の原因と時期 犠牲は毎月のように繰り返され、しかも増加 傾向にある。開戦後1ヶ月間の犠牲に対して 民間人が死亡した時期をイラク・ボディカ 次の1ヶ月間の犠牲は連合国軍の戦闘がおさ ウントのデータにみると、連合国軍単独によ まっているにも拘わらず逆に 1.36 倍と増えて る犠牲は、2003 年 3 月 20 日の開戦から 4 月 9 いるのである(12)。 日のバグダッド陥落までの 21 日間に集中して 民間人は、空襲や激しい戦闘の時期だけで おり、2005 年3月 19 日までの死者数の7割以 なく、完全な平和が訪れるまで、日常的に無 上を占めている。次のピークは 2004 年の4月 防備のまま生命の危険にさらされていること と 11 月に現れており、これはファルージャ侵 が、このデータからもわかる。 攻作戦によるものである。 連合国軍による民間人犠牲が戦闘の時期に 集中しているのに対して、反占領軍単独のも のや主に犯罪による殺人、未知の勢力による 4 日本人人質事件とネット社会 4-1 イラク戦争で被害に遭った日本人 小川功太郎さん、旅行者の香田証生さん、傭兵 として働いていた斎藤昭彦さんである。 イラク戦争では 2005年までに6人の日本人 在英日本大使館員の奥参事官と在イラク日本 が死亡した。外交官の奥克彦さんと井ノ上正盛 大使館員の井ノ上三等書記官は 2003 年 11 月、 さん、フリージャーナリストの橋田信介さんと イラク北部のティクリート付近で、四輪駆動車 8 戦争は民衆を殺す ~ネット社会が平和と民主主義を獲得するために~ 渡辺幸重 著 2011 年 6 月 6 日 PDF 版発行 発行所:相州善意新聞舎 〒252-0317 神奈川県相模原市南区御園 3-12-3 erix@erix.com ● 「『人とわざわい――持続的幸福へのメッセージ』第Ⅱ編 人災編」(2007 年 1 月、株式会社エス・ビー・ビー発行)所収 「広がる民間人の戦争被害 ~沖縄戦からハイテク・ネット社会まで~」復刻版 17
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