産衛誌 2015; 57 (5): 241–243 事 例 る危険性があると考えられた.そのため,危険性の周 知,および,作業方法や作業環境の改善が進む一助と 現在も発生する塗装工の鉛中毒 Recent onset cases of lead poisoning among painters 中村 賢治 1,2,北原 照代 2 ,垰田 和史 2 する目的で,ここに報告する. 症 例 1. 症例 1 44 歳男性.2013 年 9 月 10 日頃から全身倦怠感が出現 した.20 日頃から肩甲骨の下の方の痛み,大胸筋の下 縁付近の肋骨に沿う部分の胸痛,腹部の疝痛も自覚す Kenji Nakamura1,2, Teruyo Kitahara2 and Kazushi Taoda2 1 大阪社会医学研究所 滋賀医科大学社会医学講座衛生学部門 1 Osaka Institute of Social Medicine, Japan 2 Division of Occupational and Environmental Health, Department of Social Medicine, Shiga University of Medical Science, Japan 2 (産衛誌 2015; 57(5): 241–243) doi: 10.1539/sangyoeisei.D14003 キーワード:Bridge painting of expressway,Lead poisoning, Painter るようになった.職場がある関東地方の医療機関を受 診したが,原因不明だった.全身倦怠感増悪のため業 務継続困難となり,10 月 11 日に休業して帰阪し,自宅 近くの医療機関に入院,精査されたが原因不明だった. 職業が塗装工だという理由で有機溶剤中毒を疑われ, 10 月 23 日に当科を紹介された. 職 歴 は,19 歳(1988 年 ) か ら, 塗 装 工 と し て, 鉄 クグラインダーを用いて古い塗膜を削る作業(通称ケ 橋や鉄塔など鉄製構造物の塗装作業に従事していた. 2013 年 8 月 19 日より関東地方の高速道路で,橋梁の塗 装塗り替え作業を行っていた. その他の自覚症状は,腹部の不快感,易疲労感があ り,四肢の伸筋麻痺,知覚異常,蒼白,関節痛は何れ も訴えなかった.ふらつきやしびれ感などの神経症状 はなく,理学的,神経学的に特記すべき所見は認めな かったため,有機溶剤中毒は否定的と考えられた.血 液 検 査 は, 前 医(10 月 11 日 ) で RBC 416 万 /μl,Hb 12.6 g/dl,Ht 36.0%,WBC 6,660 /μl,PLT 29.7 万 /μl, GOT 79U/l,GPT 179 U/l,γ -GTP 52 U/l,ALP 198 U/ l,T-Bil 1.7 mg/dl,BUN 10.1 mg/dl,Cre 0.67 mg/dl, レン作業)により鉛粉じんが発生して,鉛中毒を起こ であった.症状や職歴から,鉛中毒を疑って検査をし す事例が報告されてきた 1,2). たところ,血中鉛 83.6 μg/dl,尿中 δ- アミノレブリン酸 29.0 mg/l,赤血球中プロトポルフィリン 334.4 μg/dl で はじめに 日本では,1990 年頃までは,高速道路の橋梁など鉄 に塗る塗料に,防錆などのために鉛丹(四酸化三鉛) が混入されていた.橋梁塗装は,塗膜の劣化のため, およそ 5–10 年毎に塗り替えを行うが,この時にディス 2013 年 10 月に,著者が担当している産業医学科外 来で,橋梁塗装のケレン作業中に曝露したと考えられ あった.鉛中毒と診断し,CaNa2EDTA(ブライアン ®) る鉛中毒患者を診療する機会があった.これまでも塗 1 g/ 日 2 回内服を 1 週間続け,次の 1 週間は休薬すると 装工の鉛中毒症例は報告され,鉛中毒予防規則(以下, いうプロトコールの内服療法とした.しかし,症状が 鉛則)にも「剥鉛作業」として対象作業であると記載 持続するため,2014 年 1 月より内服から週 1 回の点滴静 されているにもかかわらず,現在も鉛中毒が発生して 注に切り替えた.CaNa2EDTA 1g/ 回の点滴静注により, いる.鉛含有塗料は古い塗膜仕様の鉄製建材としてど 手がむくむなどの副作用と考えられる症状が出現した こにでも存在する可能性があり,本症例が鉛曝露に至っ ため,0.5 g/ 回に減量して点滴療法を続行した.腹部症 た経緯からすると,今後も全国各地で鉛中毒が発生す 2014 年 9 月 26 日受付;2015 年 5 月 29 日受理 J-STAGE 早期公開日:2015 年 6 月 24 日 連絡先:中村賢治 〒 555-0024 大阪府大阪市西淀川区野里 3-6-8 福島琺瑯西淀ビル 3 階 大阪社会医学研究所(E-mail: nakamura-kenji@yodokyo.or.jp) Correspondence to: K. Nakamura, Osaka Institute of Social Medicine, Fukushima Horo Nishiyodo bldg. 3F, 3-6-8 Nozato, Nishiyodogawa-ku, Osaka 555-0024, Japan 状は徐々に消失し,胸痛も頻度や強さが弱まり全身倦 怠感も弱まっていった.胸痛や全身倦怠感は消失しな かったが,血中鉛が 30 μg/dl 以下になったため,2014 年 7 月 30 日に通院治療を終了した.治療経過と血中鉛値 を Fig. 1 に示した. 2. 症例 2 49 歳 男 性. 2013 年 10 月 頃 か ら 起 床 時 の 両 II-IV 指 のこわばり,動悸・息切れが出現していた.2014 年 2 産衛誌57巻,2015 242 Fig. 1. Progress of blood lead level (case 1). 月に関東地方の病院で受けた鉛健診では,血中鉛 68.4 μg/dl,尿中 δ- アミノレブリン酸 20.6 mg/l であった.3 Fig. 2. Progress of blood lead level (case 2). 病状説明を行い,全員の鉛健診が必要と指摘した.Y 社 月頃より症状が増悪し,頻回な便意と下痢,左胸痛, からは,2014 年 2 月頃になって,関東地方の幾つかの 医療機関で受診させたところ,10 名の血中鉛が 40 μg/dl 易疲労感,特に下肢の疲労感,下肢の痙攣も伴い,業 以上(分布 3)であったと報告を受けた.したがって, 務継続困難となった.同僚である症例 1 が鉛中毒と診断 本症例が従事した作業現場では,多数の労働者が鉛に されていた事から,自分も同じ疾患かもしれないと考 曝露していたと考えられた. え,2014 年 4 月 9 日に帰阪して当院を受診した. 職歴は,30 歳(1994 年)頃から,塗装工として橋梁 2 名とも,以前より塗装工として,橋梁塗装の塗り替 え作業などに従事していたが,2013 年 8 月 19 日より発 など鉄製構造物の塗装作業に従事していた.2013 年 8 症当時の作業場所で働いていた.この高速道路は 1971 月 19 日より,症例 1 と同じ現場で,橋梁の塗装塗り替 年に完成しており,橋梁塗装は何度も塗り替えられて え作業を行っていた. その他の自覚症状は,下腿の筋肉痛があったが,腹 きたが,これまでは塗膜表面を薄く削ってその上から 新たに塗る工法が続けられていた.しかし,今回の塗 部の疝痛,四肢の伸筋麻痺,知覚異常,蒼白,関節痛 装塗り替えにおけるケレン作業は,これまでと異なり, は何れも訴えなかった.来院時,理学的には特記すべ 過去の塗膜をすべて削る工法が指示されていた.した き所見は認めなかった.徒手筋力検査で,大腿四頭筋 がって,最も下層の鉛丹入りと推測される古い塗膜を 両側 4(Good),前脛骨筋両側 4(Good)であった.他に, 削ることになった.本症例は 2 名とも,ケレン作業中に 神経学的所見を認めなかった.血液検査では,RBC 575 目視で鉛丹色の塗膜を確認したとのことであった. 万 / μl,Hb 16.4 g/d l,Ht 47.6%,WBC 5,200/ μl,PLT 15.8 万 /μl,GOT 22 U/l,GPT 19 U/l, γ -GTP 19 U/l, ALP 232 U/l,T-Bil 0.5 mg/dl,BUN 17.2 mg/dl,Cre 0.87 mg/dl であった.血中鉛 54.8 μg/dl,,尿中 δ- アミノレブ リン酸は 4.3 mg/l であり,鉛中毒と診断,CaNa2EDTA 作業現場は,周辺に粉塵が飛散しないようにビニー ルで 2 重に覆い,その外側をさらにボードで密閉してい た(Fig. 3).排気装置は設置されておらず,ケレン作 業は単にディスクグラインダーで塗膜を削る工法だっ たため,大量の鉛粉じんが発生したものと推測された. 内服療法を開始した.下痢や胸痛はすぐに改善したも この作業現場で,作業者は面体形エアラインマスクを のの,易疲労感や下肢の症状は軽快こそしたが消失は 使用していたが,空気を送るホースの長さが 100 m 弱あ しなかった.血中鉛が 30.8 μg/dl にまで低下したため, り,エアコンプレッサーから作業場までは高さが 10 m 2014 年 9 月に通院治療を終了した.治療経過と血中鉛 値を Fig. 2 に示した. 以上あるため,マスクをしたまま上を向くと顎部から 粉じんを含んだ外気が流入するという,エアの気圧が 不十分なものであった.また,作業は 10 数人で行うた 考 察 め,作業場を移動する時にエアラインのホースが労働 者や足場に絡まないよう,腰の位置でホースを抜いて 本症例は 2 名とも,大阪の塗装会社である Y 社の下請 移動しなければならなかった.したがって,移動時に け塗装工であった.症例 1 を鉛中毒と診断した時,同じ はマスクを外していた.さらに,作業場は真っ暗でディ 現場で作業していた残り 13 名の塗装工(症例 2 を含む) スクグラインダーの音が大きいので,作業者同士の意 も鉛に曝露している可能性があると考えられた.その 思疎通のためにはマスクを外して会話しなければなら ため,同年 12 月に Y 社の責任者に外来に来てもらい, なかった.このような状況で,本症例は鉛に曝露した 中村ほか:塗装工の鉛中毒 243 Fig. 3. Outer appearance of work site. The work site has been sealed up because buildings are close. と考えられた. ているのかが不明なままで,ケレン作業を密閉した空 塗装作業を下請けした Y 社は,塗膜中の鉛の存在に 間で行えば,今後も鉛中毒が発生する危険性があると ついて,工事の発注者より知らされていなかった.そ 考えられる.塗り替え作業における,事前の塗膜調査 のため,Y 社は鉛則に従った対応を行っていなかったこ の徹底が必要であろう.また,ケレン作業時には,湿 とが,鉛中毒発生の直接的な要因と考えられた.また, 式工法による鉛粉じん発生の防止が重要と考えられる. 粉じん対策としても不十分な保護具であったことが, しかし,湿式工法で使用していたアルコールに引火し 曝露量を増加させた要因と言える. て火災が発生し,作業員が負傷した事例 4) が存在するた Y 社は,血中鉛が分布 3 であった労働者が多かったこ とを 2014 年 4 月に労働基準監督署(以下,労基署)に 相談したため,労基署は作業現場や発注者を調査する ことになり,問題の重大性が認識されるに至った.労 基署からは,作業をいったん中断するよう命令が下さ れた.厚生労働省は,2014 年 5 月 30 日付で通達 3) を出 し,塗装工事の発注者は塗料に含まれる有害物質につ いて施工者に伝えるとともに,対策に必要な経費も支 払うよう指示した.また,施工者には,湿式の工法で ケレン作業を行うよう指示した.本症例から聞き取っ た話によると,作業再開後の 2014 年 7 月時点で,Y 社 が担当している区域については,湿式工法への変更は 行われていなかった.湿式工法とはアルコールを用い たブラスト工法であり,ディスクグラインダーを用い た工法に比べて 2 倍程度の費用がかかるとのことであっ た. 現在は使われなくなった鉛含有塗料だが,これが今 も残っているのは,高速道路に限ったことではない. 鉄橋や公園の遊具にも使われていて,地域的にも日本 全国で使用されてきた経緯がある.どこに鉛が残存し め,安全な湿式工法の技術や,経費の問題の解決が今 後の課題となるだろう. 謝辞:本報に関して,労働衛生コンサルタントの平田 衛先生に多大なご助言を頂いた.ここに感謝の意を表 します. 文 献 1) 斉藤俊二.鉄塔・橋梁等の塗装作業における鉛曝露の実態 と健康管理に関する調査研究.産業医学ジャーナル 1982; 5: 28–32. 2) 日野昌徳.塗装業者にみられた鉛中毒.労働の科学 1986; 41: 4–8. 3) 厚生労働省労働基準局安全衛生部.鉛等有害物を含有する 塗料の剥離やかき落とし作業における労働者の健康障害 防止について. (平成 26 年 5 月 30 日,基安労発 0530 第 1 号, 基安化発 0530 第 1 号) 4) MSN 産経ニュース.作業員が塗装除去にシンナー使用 首都高 3 号線火災の原因.[Online]. 2014 [cited 2014 Sep 16]; Available from: URL: http://sankei.jp.msn.com/affairs/ news/140411/crm14041119120012-n1.htm
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