女もすなる Jiu-jitsu: 二十世紀初頭のイギリスにおける女性参政権運動と

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年
女もすなる Jiu-jitsu:
二十世紀初頭のイギリスにおける女性参政権運動と柔術
English Women Do Jiu-jitsu
The Women's Suffrage Movement and its Jiu-jitsu Practices
in the Early Twentieth Century England
岡田 桂
関東学院大学文学部比較文化学科
Kei OKADA
Kanto Gakuin University, Faculty of Letters, Department of Cultural Studies
キーワード: イギリス、女性参政権運動、柔術、身体文化、文化伝播
Key words: suffragette, jiu-jitsu, physical culture, cultural diffusion
抄 録
本 稿 では、二 十 世 紀 初 頭 のイギリスにおいて、女 性 参 政 権 運 動 家 たちによって実 戦 の手 段 として柔
術が学ばれ、その運動の後期にはリーダーを警察権力から守るため女性による柔術ボディガード団が結
成 されたという事 例 を考 察 する。イギリスでは十 九 世 紀 末 から柔 術 がブームといえるほどの急 激 な広 がり
をみせたが、本 論 ではまず、女 性 による実 践 に先 立 つイギリス社 会 への柔 術 の浸 透 を先 行 研 究 に基 づ
いて説明する。続いて、如何にして女性参政 権 運動と柔 術 が結びついていくことになったか、さらには当
時のイギリス社会で女性による柔術実践というものがどのように表象され、認識されていったのかを、新聞
や雑誌メディアの資料に基づいて検討する。そして、当時の世界において新興国であった日本の柔術 と
いう文 化 が、近 代 という時代 の中 心 に位 置 した当時 のイギリスに伝 わり、その意 味 を変容 させながら定 着
したという文化伝播の事 例として位置づけ、文化が経済・社会的諸力から離れて一定の自律性 を持つと
いう文化ヘゲモニー論の説明可能性の一つとして提示する。
スポーツ科 学 研 究 , 10, 183-197, 2013 年 , 受 付 日 :2013 年 2 月 28 日 , 受 理 日 :2013 年 9 月 25 日
連 絡 先 : 岡 田 桂 関 東 学 院 大 学 文 学 部 比 較 文 化 学 科 〒236-8502 横 浜 市 金 沢 区 釜 利 谷 南 3-22-1
E-mail: kokada@kanto-gakuin.ac.jp
I. はじめに
のは十 九 世 紀 末 葉 からであり、その拡 散 の歴 史
1. 問題設定
は一 般 に考 えられているよりもはるかに長 い。本
柔術は日本の伝統的な武術である。また、その
稿 ではそうした歴 史 の中でも、二 十 世紀 初 頭 のイ
有 力 な一 派である柔 道はオリンピックの公 式 種目
ギリス人 女 性 参 政 権 運 動 家 たちが、女 性 の政 治
にも採 用 され、現 在 では国 際 的 に受 容 された日
参 加 を巡 って激 しい闘 いを繰 り広 げる過 程 で組
本文化のひとつとなっている。しかし、その柔術や
織的に柔術を実践し、女性による柔術ボディガー
柔 道 が欧 米 をはじめとして海 外 へ伝 播 し始 めた
ド団を結成したという興味深い事例を考察する。
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考 察 にあたっては、まず、女 性 による柔 術 実 践
II. イギリスにおける柔術の到来
に先 だって起 こったイギリスにおける柔 術 ブーム
1. “バーティツ(Bartitsu)”としての紹介
について先 行 研 究 を参 照 しながら概 略 し、二 十
シ ョ ー ト と ハ シ モ ト に よ る 著 書 『 Beginning Jiu
世 紀 初 頭 の イギリス社 会 における 柔 術 の意 味 と
Jitsu Ryoi-Shinto Style』の記 述 によれば、イギリ
位置を明らかにする。次いで、ブームによってイギ
スにおいてはじめて柔 術 が紹 介 された記 録 は、
リスに浸 透 し始 めた柔 術 を女 性 が実 践 してゆくこ
1892 年 4 月 29 日のジャパン・ソサエティ第一回
とになる経 緯 を、さらには、それが高 まりを見 せる
会 合 であったという。この際 、当 時 の日 本 銀 行 ロ
女性参政権運動という政治的文脈の中で如何に
ンドン支 店 主 事 であり、自 らも楊 心 流 柔 術 の使 い
機 能 し、また如 何 なるイメージを喚 起 したかを論
手 であったタカシマ・シダチ(Takashima Shidachi)
述 する。こうした考 察 を通 じて、イギリスにおいて
という人 物 によって、柔 術 ・柔 道 の歴 史 と発 展 に
柔 術 が担 った価 値 観 のジェンダー差 、階 級 差 が
関する図解を用いた講演が行われた(Shortt and
明 らかになると共 に、柔 術 という日 本 文 化 が、そ
Hashimoto 1979:p.44)。しかし、これは限 らた聴
の意 味 や価 値 観 をずらしながら他 地 域 に受 容 さ
衆 を対 象 にした会 合 であり、この時 点 では、柔 術
れたという文 化 転 移 の事 例 としての側 面 も浮 かび
はいまだイギリス社 会 において認 識 される段 階 に
上がることになる。
はなかった。“Jiu-Jitsu”が一 般 的 なイギリス人 に
認知されるきっかけとなるのは、1899 年、エドワー
ド・ウィリアム・バートンライト(E. W. Barton-Wright)
2. 先行研究の検討
これまで、十 九 世 紀 末 から二 十 世 紀 初 頭 のイ
による日 本 人 柔 術 家 の招 聘 と、自 らが考 案 したと
ギリスにおける柔術の受容に関しては幾つかの研
主 張 する護 身 術 “バーティツ(Bartitsu)”の記 事
究 が存 在 する。当 時 のイギリスにおける身 体 文 化
が『ピアソンズ・マガジン(Pearson's Magazine)』
1
(physical culture =身 体 鍛 錬 、フィットネスやボ
(1899 年 3 月号)に掲載されて以降のことである。
ディビルの元 祖 )との関 係 から柔 術 の流 行 を歴
技 師 として日 本 に滞 在 した経 験 のあるバートン
史・社会的に読み解いたものとして、岡田(2005、
ライトは、短 期 間 ではあるが柔 術 の指 南 を受 け、
2010)が、また主 に身 体 文 化 そのものを論 じる上
帰 国 後 、他 の様 々な格 闘 技 の要 素 と折 衷 した総
で柔 術 に言 及 したものとしてマイケル・アントンバ
合的な護身術であるバーティツを考案し、ロンドン
ッド(1997)が挙 げられる。また、文 学 表 象 におけ
に道 場 を開 いた。バートン(Barton)によるジュー
る柔 術 に着 目 し、同 じく身 体 文 化 との関 連 から考
ジュツ(Jiu-Jitsu)を表 す造 語 がバーティツという
察 した研 究 として、木 下 (2003)が存 在 する。しか
訳である。バートンライト以降のイギリスにおける柔
しながら、管 見の限 り当 時のイギリス人女 性 による
術 受 容 に関 しては、既 に先 行 研 究 (岡 田 2005、
柔 術 実 践 、および女 性 参 政 権 運 動 との繋 がりに
2010)において詳 述 されているが、同 内 容 に沿 っ
ついて包 括 的 に考 察 した研 究 は存 在 していない
て概括すると以下のようになる。
2
。 従 って、本 稿 ではこれまでの先 行 研 究 を踏 ま
バートンに よ る新 奇 な護 身 術 は、当 時 の人 気
えた上 で、女 性 による柔 術 の受 容 というジェンダ
雑 誌 『ピアソンズ・マガジン』に数 回 にわたって掲
ー的 側 面 と、さらには参 政 権 運 動 と武 術 実 践 の
載されたこともあって、それなりに一般の人々の耳
結 びつきという社 会 的 側 面 に関 して、新 たな知 見
目を集めはしたが、彼 自 身、柔術 に関しては人 に
を提 供 することになる。また、各 先 行 研 究 の内 容
指 南 するほどの技 量 ではないことを自 覚 していた
に関しては、本論中で適宜参照してゆく。
ため、日 本 から専 門 の柔 術 家 を招 き寄 せることに
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した。この時 、イギリスにやってきたタニ・ユキオ
もちろん、柔 術 は当 初 から好 意 的 に受 け入 れ
(谷 幸 雄)と、後 に合 流 したウエニシ・サダカズ(上
られた訳ではない。事 実、巡 業の初期には、筋骨
西貞一・通称 Raku)が、その後のイギリスにおける
逞 しいイギリス人 の大 男 を小 柄 な東 洋 人 がやす
柔 術 の認 知 に多 大 な貢 献 を果 たすこととなる。レ
やすと投 げ飛 ばす様 を見 て、観 客 たちは一 種 の
ッスン料が高額であったことなど、種々の理由によ
やらせか、あるいはどたばたコメディと見 なしたと
ってバーティツ道 場 が短 期 間 で閉 鎖 された後 、タ
いう。しかし、こうした誤解にも屈せず地道にイギリ
ニとウエニシはイギリス人 マネージャーと共 にイギ
ス全 土 を巡 ってゆく過 程 で、一 般 のイギリス人 の
リス各地を精力的に巡業 し、未知の文 化であった
間 に柔 術 というものが広 く認 知 されてゆくことにな
柔術 を自 らのデモンストレーションによって徐 々に
り、その到 来 からわずか数 年 のうちに、一 種 のブ
イギリス社会に浸透させていった。
ームを引 き起 こすまでに受 け入 れられてゆくことと
なった。
この頃 になると、柔 術は、コナン・ドイルによるシ
2. 柔術のイギリス巡業と認知の高まり
タニとウエニシによる巡業 が始 まった当 初 、ほと
ャーロック・ホームズ・シリーズの一 作『空 き家 の冒
んど知 名 度 のない柔 術 の公 演 に観 客 を集 めるた
険 』(1903 年 )やバーナード・ショウの戯 曲 『バー
め、彼 らは各 地 域 にお いて一 種 の 芸 人 でもあ る
バラ少佐』(1905 年)にも登場し、「東洋の未知な
怪力男(strong man)やレスラー、ボクサーを対戦
る秘 技 」といった存 在 から、一 般 の人 々にもイメー
相手 として募 り、高額 の賞 金を賭 して無差 別の試
ジすることが可 能 な格 闘 技 としての理 解 が進 んで
合 を行 うという方 法 をとった。当 時 、タニは身 長 一
いく。また、こうした文 学 作 品 におけるイメージとし
五 〇センチ、体 重 六 〇キロ足 らずであり、体 躯 で
ての利 用 のみではなく、時 を同 じくして隆 盛 しつ
大幅に優るイギリス人の猛者たちにとって、この条
つあった、ユージン・サンドウ主 宰 の『身 体 文 化 』
件は非常に有利に映ったようである。しかしながら、
や、『ヘルス・アンド・ストレングス』といったフィット
相 手 の力 を利 用 して自 らを利 する柔 術 の技 によ
ネス雑 誌 の元 祖 ともいえるメディアにおいても頻
って、こうした対戦は日本人柔術家の完勝記録を
繁 に取 り上げられ、柔 術に関 する書籍 も次々と発
積 み上 げてゆくこととなった。ノーブルの記 述 によ
刊 されるようになる。さらにはロンドンを中 心 として、
れば、タニはある六 ヶ月 にわたる興 業 ツアー中 、
イギリス人 が柔 術 を実 践 する場 としての道 場 も複
一 週 間 に平 均 二 〇人 、全 体 の合 計 で五 〇〇人
数開設されていった。
以上の挑戦者を倒したという。さらにウエニシに関
III 柔術ブームと身体文化
しては、当 時 の身 体 文 化 雑 誌 の記 述 を引 用 して
こうしてイギリス社会に受容され、知名度を上げ
以下のように述べている。
雑 誌 『ヘルス・アンド・ストレングス・マガジン(Health and
ていった柔 術 だが、実 際 にはこの時 期 のイギリス
Strength Magazine)』には、こうした様 子 が、「私 は幸 運
社 会 には、柔 術 のブームを可 能 にする素 地 が既
にも、これらの対 戦 の多 くを目 撃 する機 会 に恵 まれ、尚
に存 在 した。一 つは身 体文 化 (physical culture)
かつ、彼 (ウエニシ)が 15 分 の時 間 内 に 6 人 の敵 を全 て
の流 行 、もう一 つは日 清 ・日 露 戦 争 による日 本 へ
倒 すのに失 敗 した事 は一 度 たりともなかった。実 際 に私
の興味の高まりである。
は、彼 が各 々の闘 いの間 にある必 須 の待 ち時 間 を含 め
身 体 文 化 とは、一 九 世紀 後 半 からイギリスで大
て、5 人 を 10 分 間 で片 づけるのを目 撃 した事 がある」と
きな潮 流 となった、ボディビルやフィットネスの元
描 写 されている(Noble 1996:p.23)。
祖 とも言 える健 康 志 向 ・身 体 トレーニングの総 称
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である。ミシェル・フーコーが述べるように、イギリス
都 市 の産 業 労 働 者 たちの身 体 虚 弱 や不 健 康 さ
を含め、近代以前のヨーロッパ社会においては身
が社会的な問題として浮 かび上がり、それが将来
体 とは所 与 のものとみなされており、後 から鍛 錬
におけるイギリス国 民 の“退 化 ”をもたらす要 因 と
することでそれを作 り替 えることができるという考 え
して取 り沙 汰 されたということである。身 体 文 化 の
3
は一 般 的 ではなかった 。 こうした状 況 に対 して、
流 行 は、こうした怖 れに対 する、主 に下 層 中 産 階
目 指 すべき理 想 の身 体 を実 際 のモデルによる写
級からのリアクションであったと考えられる。
真や図解で提示し、その実現を可能とするための
ここで今 一度 、柔 術 のブームに立 ち返 ってみる
トレーニング方 法 や身 体 に関 する知 識 を具 体 的
と、その初 期 において対 戦 の相 手 となり、柔 術 の
に提 供 したのが、雑 誌 や書 籍 を中 心 とした当 時
認 知 に一 役 買 った怪 力 男 たち(レスラーやボクサ
の身 体 文 化 メディアであった。そして、その名 も
ーも含 まれる)こそ、この身 体 文 化 という価 値 観 の
『身 体 文 化 』という雑 誌 を主 宰 し、ブームの立 役
代 表 的 な体 現 者 たちであったことに気 づく。力 自
者 となったとも言 える存 在 がユージン・サンドウ
慢 のショーに説 得 力 を持 たせるために身 体 を鍛
(Eugen Sandow)であった。
え筋肉を身 にまとった怪 力男はもとより、当時のレ
マイケル・アントンバッドによれば、十 九 世 紀 中
スラーやボクサーもまた“強さ”のイメージを目に見
庸 以 前 のイギリスにおいて「身 体 文 化 」という語 彙
える形 で提 示 する存 在 であり得 た。そして、柔 術
はほとんど一 般には流 通 していなかったという。そ
はその身 体 文 化 を代 表する者 たち即 ち“強 い”者 、
れが世紀転 換期から二 十世紀初頭 には、特定の
を打 ち負 かすことによって、より大 きな注 目 を浴び
意 味 を表 す言 葉 として広 く人 口 に膾 炙 し、この急
ることになったと言える。
速 な普 及 はもっぱらユージン・サンドウその人 と、
さらには、日 清・日露戦 争における小国日本の
彼 による雑 誌 『身 体 文 化 』の影 響 力 に負 っている
電 撃 的 な勝 利 は、イギリス社 会 に日 本 という国 へ
と述べる(M. Anton Budd 1990)。サンドウは、ミュ
の興 味 を呼 び起 こし、身 体 の小 さなものが大 きな
ージック・ホールを巡 って行 う、自 らの逞 しい身 体
相 手 を打 ち負 かすという柔 術 の比 喩 的 効 果 を促
を使 った怪 力 男 (strong man)の見 世 物 で評 判 と
進 することとなった。こうした時 機 が相 まって、イギ
なり、その知 名 度 と身 体 を武 器 に、雑 誌 や書 籍 を
リスに柔 術 ブームがもたらされ、当 初 は身 体 文 化
通じて自身が考案したトレーニング法や知識の宣
に対 するオルタナティヴとして認 知 されていくが、
伝 ・普 及 に努 め、身 体 文 化 のカリスマ的 存 在 とな
後 にイギリス人 自 身 による実 践 を通じて柔 術 自体
っていった。こうしてイギリスで一気に流行となった
の理 解 ・分 析 が進 むと、次 第 に身 体 文 化 の一 ヴ
身 体 文 化 は、ヨーロッパはもとより、アメリカやオー
ァリエーション(レスリングなどの競 技 に近 い身 体
ストラリア、そして明 治 期 の日 本 にまで広 まりをみ
技法)として消化・受容されていくことになった。
4
せてゆく 。
このような急 激 な身 体 文 化 の流 行 、即 ち「身 体
IV. イギリス人女性の柔術実践
の強 さ・健 康 さ」に対 する意 識 の高 まりの背 景 に
バーティツという形 での柔 術 の到 来 以 降 、その
は、当 時 の西 欧 を思 想 的 に席 巻 した社 会 ダーウ
実 践 の中 心となったのは上 流 ~中 産階 級 の人 々
ィニズムと、そこから導き出される身体の“退化”へ
であったと考 えられる。それは、当 初 バーティツや
の怖れがあったと指摘できよう。(富山 1995) つ
柔 術 の記 事 が連 載 された雑 誌 (『ピアソンズ・マガ
まり、産 業 革 命 以 降 、急 激 な工 業 化 を果 たしたイ
ジン』、『サンドウズ・マガジン』、『ヘルス&ストレン
ギリスにおいては、劣 悪 な環 境 で働 き、生 活 する、
グス』など)の主な購読層 が中産階級 であったこと
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や、わざわざ費 用 を支 払 ってまで稽 古 に励 む時
ニシが主 催 したゴールデンスクウェアの柔 術 道 場
間 的 ・経 済 的 余 裕 がある層 に限 られていたことか
に入 門 し、ウエニシおよびタニの元 で柔 術 を学 ぶ。
5
らも推 測 できる 。 そして、ジェンダー的 にはやは
この時 期 、本 道場 には何 人かの女性 入門 者が存
り男 性 による実 践 が多 数 を占 めてはいたが、中 に
在 したが、その中 でもエディス・ガーラッドは、以
はごく初 期 から柔 術 に携 わる女 性 も存 在 した。確
降 の人 生 を通 じて深 く柔 術 と関 わってゆくことに
認 できる限 り、女 性 による初 めての柔 術 指 南 書 を
なった。
1907 年 には、映 画 会 社 ゴーモンの「柔 術 で追
著 し た エ ミ リ ー ・ ダ イ ア ナ ・ ワ ッ ツ ( Emily Dianna
Watts〔ロジャー(Roger)とも称 した〕)
6
いはぎを撃退(Jujutsu Downs the Footpads)」と
もその一
人である。
いう短 編 フィルムに柔 術 のデモンストレーターとし
ワッツは、記録によれば 1903 年頃から柔術を
て出 演 し 、 男 性 を 相 手 に柔 術 の 技 を披 露 した。
始 め、ロンドンのゴールデンスクウェアに道 場 を開
翌 1908 年、夫のウィリアムが、イギリスを去ること
いていたウエニシ・サダカズの元 で修 行 したという。
になったウエニシのゴールデンスクウェアの道場を
そして三 年 のうちに自 ら道 場 を開 いて少 年 たちに
引 き継 ぐと、エディスはそこで女 性 と子 供 のクラス
柔 道 を 教 え 始 め 、 1906 年 『 The Fine Art of
を担 当 するようになる。また同 年 より、女 性 の権 利
Jujutsu 』 を 出 版 し た 。 ( Shortt and Hashimoto
運 動 を 展 開 す る WSPU ( 女 性 社 会 政 治 同 盟
1979:p.46、Svinth 2001) これは、イギリスにおけ
Women’s Social and Political Union)と WFL(女
る初めての柔術書籍の出版が 1905 年であること
性自由連盟 Woman’s Freedom League において
7
を考 えても非 常 に早 い 。 ワッツは豊 かな家 庭 の
柔術・護身術の特別クラスを指導するようにもなっ
出 身 であり、この時 期に柔 術 を実践するための指
た。この頃 から、ガーラッドは女 性 運 動 との関 わり
南 書 という限 られた読 者 を対 象 にした書 籍 を執
を深めていくことになる。
筆 ・発 行 し得 たこと、また、本 書 が鮮 明 な写 真 印
刷 をふんだんに用 い、厚 手 の光 沢 紙 で誂 えられ
V.
た高 価 なものであることからも、当 時 の柔 術 実 践
(Jujutsuffragettes): イギリス女 性 参 政 権 運 動 と
に関心を寄せた階層をうかがい知ることができる。
柔術
ワッツはその後 、ギリシア文 化 に関 する著 書 も出
1. 女性参政権運動の活発化
ジ ュ ー ジ ュ ツ ァ フ レ ジ ェ ッ ツ
版 し、講 演 で世 界 各 国 を回 るなど国 際 的 に活 動
イギリスでは十 九 世 紀 半 ば以 降 、徐 々に選 挙
するが、柔術 そのものに関してはそれ以 降 目立 っ
権 の拡 大 が図 られ、1885 年 の第 三 次 選 挙 法 改
た活躍を見せることはなかった。
正によって選挙権者は 440 万人(当時の人口の
一 方 、同 時 期 に柔 術 を始 め、本 稿 のテーマで
13%)に達 し、成 人 男 子 に関 してはほ ぼ普 通 選
ある女 性 参 政 権 運 動 に大 きな役 割 を果 たした人
挙 制 を実 現 していた。しかしながら、女 性 の参 政
物 が 、 エ デ ィ ス ・ ガ ー ラ ッ ド ( Edith
権 は未 だ認 められておらず、選 挙 権 獲 得 ・社 会
Garrud:1872-1971 ) で あ る 。 ガ ー ラ ッ ド は も と も と
的権利の向上を目指した運動が展開されるように
身体文化の指導者(physical culturist)であり、ま
なる。そうした活 動 組 織 の代 表 的 存 在 として、
た教 師 でもあった。同 じく身 体 文 化 の指 導 者 であ
1903 年 10 月 10 日、マンチェスターにおいてエメ
った夫 のウィリアムと共 にロンドンに移 り住 んだ際 、
リン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst)を指導
バーティツのデモンストレーションを見 る機 会 に恵
者とした WSPU(女性社会政治同盟)が結成され、
まれ、夫と共 に柔術へ傾 倒してゆく。その後 、ウエ
女 性 参 政 権 を求 めて活 動 を開 始 した。この団 体
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は女 性 のみで構 成 され、そのモットーは“言 葉 で
~8 年にかけて運動は武装闘争(ミリタンティズム)
は な く 行 動 を ” とい うもの で あ った (Housego and
を辞 さない方 向 へと急 進 化 してゆく。具 体 的 には
Storey 2012:p.13)。
デモやアジテーションを過 激 化 し、政 府 の建 物 の
当 初 は機 関 誌 の発 刊 やデモなどを通 じた活 動
窓 を割 る、 議 会 の建 物 を取 り囲 む 柵 に自 らを 手
を行 っていたが、1905 年 のデモでパンクハースト
錠 で繋 ぐなどの示 威 行 為 に及 ぶこととなり、そうし
の娘 が逮 捕 され、新 聞 などを通 じて報 道 されたこ
た行 為 を取 り締 まり、集 会 を排 除 しようとする警 官
とで、WSPU は女性参政権運動家(suffragettes)
隊との間の衝突もまた激しさを増していった(河村
の代 表 的 な団 体 として知 られていくようになる。ロ
2001)。
ンドンへの進 出 後 、それまで比 較 的 穏 健 な活 動
その様な社会情勢の中で、こうした状況を風刺
を行っていた WSPU であったが、一向に歩み寄り
する興味深い記事が、1907 年 3 月 13 日『Punch』
を見せない政府に対して、参政権 の実現にはより
誌上に掲載された(図 1)。
強 硬 な手 段 が必 要 であると方 針 を転 換 し、1905
図 1
女 性 参 政 権 運 動 家 を持 ち上 げる警 官 たちの
では軍隊や警察の一部で柔術が訓練に取り入れ
挿 絵 の 下 に は “ One Man One Suffragette: A
られるようになるなど、武 器 を用 いない格 闘 ・護 身
Suggestions to the House of Commons’ Police”
術 として浸 透 しつつあったこともあり、この記 事 の
(女 性 参 政 権 運 動 家 一 人 につき男 性 一 人 :議 会
風 刺 はあながち荒 唐 無 稽 な笑 い話 という訳 では
警 察 に提 案 )と説 明 が付 けられ、「警 官 たちは空
なかった。しかし、ここで注 目 すべきは、この時 点
き時 間 にダミーの女 性 参 政 権 運 動 家 の人 形 を使
で柔 術 を学 ぶべきとされるのは女 性 参 政 権 運 動
って、柔術の訓練をするべきだ」という意の文章が
家 ではなく、それを取 り締 まる警 官 たちの方 であ
添えられている。実際に柔術ブームの後、イギリス
る、と見 なされている点 であろう。デモや集 会 を過
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激 化 する女 性 たちを排 除 する上 で、柔 術 は有 効
London Police”と銘打たれた、柔 術をたしなむ女
な手 段 だという訳 である。だが、こうしたイメージは
性 参 政 権 運 動 家 がロンドン警 察 の脅 威 になって
参 政 権 運 動 と柔 術 が度 々雑 誌 メディアに取 り上
いるという記 事 が掲 載 され、その文 中 で師 範 のガ
げられるようになってゆく二 、三 年 の間 に、急 激 に
ーラッドは「WFL の全てのメンバー中 で、おそらく
変化していくことになる。
最 も重 要 な人 物 」と評 されるようになる。この際 、
柔術の使い手である女性参政権運動家たちを指
2. 女性による柔術実践
す た め に 、 「 Ju-Jutsu ( ジ ュ ー ジ ュ ツ ) 」 と
先述したように、1908 年になると WSPU と WFL
「 suffragettes( サフレ ジ ェッ ツ) 」 を 組 み 合 わせ た
においてエディス・ガーラッドによる柔 術 ・護 身 術
「Jujutsuffragettes(ジュージュツァフレジェッツ)」
の特 別 クラスが提 供 されるようになる。これは、日
なる造 語 がはじめて用 いられ、以 降 たびたびこの
増 しに激 しくなる警 官 隊 との衝 突 から身 を守 るた
呼称が登場することとなった。
め、WSPU ではパンクハースト自身の発案で開始
そして、更 に翌 年 1910 年 7 月 6 日 には、
された。女性たちによる柔術の訓練開始から一年
『 Punch 』 誌 上 に “ The Suffragettes that knew
後の 1909 年、『Health and Strength Magazine』
Jiu-Jitsu”(柔 術 を嗜 む女 性 参 政 権 運 動 家 )とい
誌上に“Jujutsuffragettes: A New Terror for the
う風刺画が掲載される(図 2)。
図2
この絵 の中 では、柔 術 使 いの女 性 の前 で警 官
ろう。雑誌 メディアにおけるこうしたイメージの変遷
隊 が震 え上 がっている様 子 が戯 画 的 に描 かれて
は、イギリスにおける参 政 権 運 動 と女 性 の柔 術 実
いるが、1907 年の記事と比較して興味深い点とし
践 という結 びつきが、 短 い期 間 で 一 般 の人 々 の
ては、ここに至っては柔術の使い手 が警官ではな
間 にも浸 透し、認 知 されていったことの表 れともい
く女 性 参 政 権 運 動 家 の側 として描 かれており、三
える。さらには、権 利 獲 得 のためには実 力 行 使 も
年前とはイメージが完全に逆転しているところであ
辞 さないという女 性 たちの運 動 の高 まりもまた、商
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業 メディアを通 じて人 々の大 きな関 心 事 となって
ラック・フライデー以降、WSPU や WFL の活動
いったことを示している。そして同 年 の秋 、こうした
はますます盛 んになり、政 府 との間 の軋 轢 も激 し
活 動 の一 つのピークともいえる出 来 事 が訪 れるこ
さを増 していった。こうした状 況 にあって、護 身 の
ととなる。
ための柔 術 の有 用 性 もまた、女 性 活 動 家 たちの
1910 年 11 月 18 日、当時の首相ハーバート・
間 に浸 透 してゆく。この間 、柔 術 の指 導 者 であっ
ヘンリー・アスキスと与党である自由党が、一定以
たエディス・ガーラッドは、1911 年 4 月 8 日 の
上の資産を有する女性に選挙権を拡大する法案
『Health and Strength Magazine』に掲載された”
「Conciliation Bill」を議 会 の時 間 切 れを理 由 に
Ju-jutsu as a Husband Tamer (夫を手懐けるた
廃案としたことに端を発した大規模な女性参政権
めの柔 術 )”という記 事 において柔 術 指 南 を担 当
デモが WSPU によって行われた。この際、国会周
し 、 続 く 7 月 23 日 の 同 誌 に お い て は 自 ら ”
辺に集まった 300 人以上のデモ隊に対し、警察
Damsel v Desperado(乙女対ならず者)”という記
が暴 力 を行 使 して弾 圧 を行 ったことで騒 然 となり、
事 を執 筆 し、男 性 の暴 漢 に対 する女 性 の柔 術 実
結果として多数の負傷者(1 名は後に死亡)と 119
践の有用性を説いている。だが、この後ほどなくし
名 の逮 捕 者 を出 す惨 事 となった。この際 の報 告
て、女 性 参 政 権 運 動 の団 体 は構 成 員 個 人 の柔
によれば、「女性たちは顔や胸、肩を殴られてもな
術 習 得 に留 まらず、女 性 柔 術 家 を組 織 化 してボ
お、無 意 識 的 に自 分 たちを律 し、後 から後 へと
ディガード団 を結 成 するという転 機 を迎 えることに
(デモの現 場 へ)戻 っていった。何 人 かの女 性 は、
なる。
三 回 も四 回 も放 り投 げられているのを目 撃 された」
1913 年、自由党による Prisoner's Temporary
Discharge of Ill Health Act(通称 Cat and Mouse
(Housego and Storey 2012:p.33)という。
この事 件 は、後 にブラック・フライデーと呼 ばれ、
法 )が議会 を通 過 し、法律 として制定 された。これ
女 性 参 政 権 運 動 史 に刻 まれることになる。これま
は、健 康 を害 した囚 人 を一 時 的 に釈 放 することを
でにない警 察 の暴 力 的 な取 り締 まりに対 して、そ
可能にする法案であり、当時、収監 された女 性 参
れまで女性参政権運動に対して比較的冷淡であ
政権運動家が頻繁に用いていた抵抗手段である
った世論も批判の姿勢を見せ始め、新聞などのメ
ハンガー・ストライキを狙 い撃 ちにしたものであっ
ディアも弾圧の模様を写真で掲載するなど、次第
た。絶 食 することで抗 議 の意 志 を示 すハンガー・
に運 動 の側 に立 った報 道 がなされるようになって
ストライキは、当然ながらその実践者に衰弱をもた
ゆく。当 時 、女 性 参 政 権 運 動 の中 心 となっていた
らすことになるが、もしも収 監 中 に容 疑 者 が衰 弱
活 動 家 たちの多 くは中 産 階 級 の女 性 であったが、
死するようなことがあれば、それを放 置 した当局に
その淑 女 たちを路 上 に引 き倒 し、死 者 まで出 した
非難が向くことは避けられない。そこで、当時の政
ことは、階 級 とジェンダー双 方 の意 味 で警 察 や政
権がとった対応策が forcible feeding(食餌強制)
権 に対 する批 判 を呼 び起 こし、彼 女 たちの運 動
と呼 ばれる、強 制 的 に食 べ物 や飲 み物 を流 し込
に同 情 する機 運 を生 み出 すことにつながったとい
むという手 法 であった。自 らが食 物 の摂 取 を望 ん
える(Housego and Storey 2012:pp.32-34)。
でいない相 手 に強 制 的 に食 餌 をさせるということ
は想像以上 に困難であり、多くの場合 、数人がか
VI. 女性 Jiu-Jitsu ボディガード団:実戦のための
りで手 足 を拘 束 した上 で、口 や鼻 から無 理 矢 理
柔術
流 動 食 を流 し込 むという非 人 道 的 な手 段 が執 ら
1. ハンガー・ストライキと“Cat and Mouse”法
れた。この方 法 は、収 監 者 にとって大 変 な苦 痛 を
190
スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年
伴 うものでもある。女 性 参 政 権 運 動 家 はこうした
会 に大 きな反 響 と怒 りを呼 び起 こした。(Housego
状 況 を自 らの機 関 誌 で訴 え、また他 の一 般 メディ
and Storey 2012:p.39)(図 3:Daily Sketch, May
アも大きな関心 を持って報 道 したため、イギリス社
1, 1913)。
図3
世 論 の多 くは、仮 にも賤 しからぬ階 級 に属 する
すことができるようになった。一 方 で、健 康 を取 り
レディに対 してこのような非 人 道 的 な扱 いをする
戻 せば再 収 監 することができるため、運 動 家 たち
当局側に対して批判的なものであったため、自由
はハンガー・ストライキを続 ける限 り釈 放 と収 監 を
党政権も強制食餌に代わる何らかの対応をとらざ
繰り返 されるという過 酷な状況 におかれることにな
るを得 なくなってゆく。そこで生 み出 されたのが、
った。逮 捕 と衰 弱 、そして釈 放 と再 逮 捕 の循 環 に
先述の通称「Cat and Mouse 法」であった。
よって活 動 家の気力 と体力を奪ってゆくという、そ
本 法 案 によって、ハンガー・ストライキで衰 弱 し
の名の通り、まさに「猫がねずみをいたぶる」ような
た収 監 者 を一 時 的 に釈 放 することが可 能 になっ
法律であったといえる(図 4:WSPU による反「Cat
たため、政 権 側 は女 性 参 政 権 運 動 家 が衰 弱 して
and Mouse 法 」 ポ ス タ ー 〔 Housego and Storey
ゆく危 険 も強 制 食 餌 に対 する国 民 の批 判 もかわ
2012:p.26 より転載〕)。
191
スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年
図4
2. 私設柔術ボディガード団の結成
名 程 度 の女 性 メンバーから成 っており、警 察 に所
こうした政権側の「Cat and Mouse 法」に対して、
在 を掴 まれないため、各 地 を転 々としながら柔 術
WSPU はリーダーのエメリン・パンクハーストを含め
のトレーニングを行 った。彼 女 たちは柔 術 の技 に
一 旦 釈 放 された活 動 家 を二 度 と逮 捕 させないと
加 えて衣 服 の下 に忍 ばせた棍 棒 で武 装 し、特 に
いう作 戦 方 針 で対 抗 することになる。この時 期 、
指 導 者 のエメリン・パンクハーストを守 るため警 察
WSPU は一向に進展しない政治状況に対して武
と渡り合うことになった。ボディガード団の役割は、
装 闘 争 を加 速 させており、1912 年 にはその頂 点
介 入 してきた警 察 官 たちから活 動 家 たちを守 り、
を迎えた。WSPU は過去の選挙法改正が民衆の
その間 に中 心 人 物 を逃 がすための時 間 稼 ぎをす
暴 動 によって達 成 されたと考 えたため、それにな
るところにあった。そのため、単 純 に柔 術 を使 って
らって「財 産 の破 壊 」という闘 争 方 針 を採 り、政 府
応 戦 するだけではなく、時 には変 装 して警 察 を混
関 係 施 設 にとどまらずリージェント街 の商 店 の窓
乱 させたり、パンクハーストの影 武 者 を仕 立 てて
ガラスを割 り、郵 便 ポストに火 を投 げ込 み、美 術
本物の逃走を手助けするという戦術も採られた。
館 の絵 画 を刃 物 で切 り裂 くなどし、とりわけすさま
この際、柔術ボディガード団の最重要人物であ
じかった 1913~14 年の放火闘争は 17 ヶ月間で
ったガーラッドが最 前 線 で闘 うことはほとんどなか
約百件、推定被害額は 45 万ポンドに上ったとい
ったが、これは万 一 逮 捕 された時 に指 導 者 を失 う
う(河村 2001:p.117)。
ことになるリスクを避 けるためであった。また、ガー
こうした闘 争 やデモ、集 会 の会 場 にあって、指
ラッドは自 らの道 場 に活 動 家 たちを匿 うこともあっ
導者や活動家たちを警察から守り、拘束させない
たという。この時 期 になると、激 しい武 装 闘 争 とそ
ために、WSPU は 1913 年、エディス・ガーラッドを
れに対 する抵 抗 によって、WSPU の女 性 参 政 権
師 範 として柔 術 ボディガード団 を結 成 する。ボデ
運 動 は社 会 の注 目 を集 めるようになっており、先
ィガード団 はカナダ出 身 のガートルード・ハーディ
述 したように「柔 術 の使 い手 としてのサフレジェッ
ング(Gertrude Harding)をリーダーとし、25~30
ツ=ジュージュツァフレジェッツ」というイメージが、
192
スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年
社会に浸透していたといって良い。さらに同年 12
ンを行 い、警 察 官 の扮 装 をした相 手 に柔 術 の技
月 19 日には、『Health and Strength Magazine』
をかける姿 が掲 載 され、こうしたイメージに拍 車 を
誌上でガーラッドが再び柔術のデモンストレーショ
かけることになった(図 5)。
図5
この柔 術 によるボディガードは実 際 に功 を奏 し、
淑 女 たちに直 接 的 な暴 力 を行 使 することは、政
後に第一次世界大戦開戦に際して WSPU が武
権 側 への批 判 を強 める恐 れもあった。結 果 として、
装 闘 争 を解 除 するまでエメリン・パンクハーストが
警 官 隊 は活 動 家 たちを集 団 から素 手 で引 き離 し
拘束されることはなかった。だが、警察 との闘争に
て拘束したり、持ち上げて連行したりといった比較
おいて女 性 たちの柔 術 が有 効 であったことには、
的 穏 当 な手 段 を用 いざるを得 なかった。こうした
当 時 の女 性 参 政 権 運 動 において特 定 の状 況 が
制 約 から、生 身 の人 間 が素 手 で対 峙 する状 況 が
成 り立 っていたことに留 意 する必 要 がある。まず、
作 り出 されたことは、柔 術 という武 術 が実 戦 として
WSPU の活動主体はほとんどが中産階級の女性
効 果 を発 揮 する上 で非 常 に有 利 に働 いたといえ
であったことから、警察側はこの鎮圧にあまり暴力
る。また、当 然 ながら、体 重 や身 体 の大 きさに依
的 な手 段 を用 いることができなかった。先 に述 べ
存 しないという柔 道 の最 大 の利 点 が、女 性 たちに
たブラック・フライデーや食餌強制の事例からも明
とって有効であったことは言うまでもない。仮に、こ
らかなように、世論は比較的、女性参政権運動に
れ以 前 の選 挙 法 改 正 運 動 などで見 られたような
同 情 的 になっており、女 性 であり出 身 階 級 も高 い
騎 馬 警 官 の投 入 や、警 棒 などを用 いた暴 力 的 な
193
スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年
介 入 があったとすれば、おそらく柔 術 のみで十 分
これまで見 てきたように、二 十 世 紀 初 頭 の一 時
8
期 、イギリスにおいては女 性 による柔 術 が非 常 に
な護身を行うことは困難であっただろう 。
近 代 の イギ リスにおける フェミニズ ム 運 動 を詳
特 徴 的 なかたちで実 践 、受 容 されたことがわかる。
細 に検 討 した河 村 によれば、WSPU は膠 着 状 態
そもそも柔 術 を実 践 するイギリス人 女 性 の数 が限
に陥った女 性参 政権 運 動を打 開 するために意 識
られていた中 で、それが実 戦 の手 段 として用 いら
的 に「戦 闘 的 」手 段 (ミリタンシー)を採 用 し、その
れたことは、イギリス人 男 性 の柔 術 受 容 と比 較 し
思 惑 通 り、「上 品 なみなりのレイディが、会 場 整 理
ても大 きな相 違 である。また、これは柔 術 の“本 国 ”
の無 骨 な男 性 によって集 会 場 から荒 々しく投 げ
と言 える日 本 の同 時 代 と比 較 しても、際 だって特
出 される写 真 は、ヴィクトリア朝 のリスペクタブルな
異 な現 象 であったといえるだろう。諸 説 あるが、日
女 性 観 に慣 れた一 般 大 衆 には十 分 に衝 撃 的 な
本における組織的 な女 性の柔 術実 践は、講 道 館
ものであった」し、「女 性によるミリタンシーはまさし
柔道の成立後の 1920 年代以降であることを考え
くニュースになったのである」と指摘している(河村
ると、イギリスにおける女 性 の柔 術 実 践 はこれに
2001:p.112)。これらを考え合わせると、WSPU は
先んじている。また、「実戦」という側面を考えた時、
そのメディア戦 略 を含 めた活 動 方 針 によって自 ら
両 国 における柔 術 の違 いは際 立 っており、日 本
の存 在 を上 手 くアピールし、結 果 として、対 抗 手
においては女 性 の柔 術・柔 道を実戦 に用 いること
段として用いた柔術さえもそのイメージに取り込む
はおろか、かなり時 代 が下 るまで、乱 取 りや試 合
ことに成功したともいえるであろう。
を念頭に置いた実践は推奨されず、修養としての
その後、WSPU はイギリスの第一次世界大戦参
側 面 に重 きが置 かれていた。こうした相 違 は、当
戦に伴い、1914 年 8 月、武装闘争と参政権要求
然 ながら武 術 としての柔 術 や柔 道 の文 化 的 意 味
を中 断 することを宣 言 し、その後 は政 権 からの資
が日 本 の文 脈 から切 り離 され、イギリス社 会 にお
金 援 助 を得 て戦 時 協 力 を行 うようになる。この変
いて脱 色 されて独 自 の文 化 的 文 脈 に位 置 づけら
節には批判もあったが、エメリン・パンクハーストお
れたためである。
また、この時 期 のイギリスにおける女 性 の柔 術
よび娘 のクリスタベルの強 力 なリーダーシップと戦
時 下 という状 況 もあって、方 針 変 更 は維 持 された。
は、男 性 のそれが身 体 文 化 的 な価 値 観 に包 摂 さ
そして 1917 年、名称を「女性党」と変更するに至
れていったのに対 し、「身 体 の小 さい女 性 が体 重
り、最終的に WSPU は解体された。さらに 1918 年
や筋 力 で勝 る男 性 を倒 す」という、むしろ身 体 文
3 月、第4回選挙法改正により 21 歳以上の男性
化 とは逆 のベクトルの価 値 観 を含 んでいた。さら
に加えて 30 歳以上の女性にも参政権が認められ、
に、イギリス人 男 性 の柔 術 実 践 が、レスリングなど
一部限定はあるものの女性参政権運動の目的で
他 のスポーツと同 じく競 技 として自 己 目 的 化 して
あった女性の普通選挙制がほぼ実現したことから、
ゆくこととも一 線 を画 していたといえる。ここには、
種々の参政権運動は収束することになり、実戦手
日 本 とイギリスという国 をまたいだ文 化 と、イギリス
段としての女性柔術も終焉を迎えることとなった。
国 内 における女 性 と男 性 というジェンダーの、双
方における相違を見ることができる。
VII 柔 術 と Jiu-jitsu:イギリスにおける女 性 の柔
2. 文化伝播としてのイギリス柔術
術受容
以 上 を踏 まえて述 べるならば、イギリスにおける
1. 日 英 における女 性 柔 術 の相 違 :修 養 か実 戦
この時 期 の柔 術 は、当 然 ながら日 本 文 化 が海 外
か
194
スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年
伝 播 した一 形 態 と捉 えることができる。しかしなが
得 るという可 能 性
即 ち、文 化 ヘゲモニー論 に
ら、グローバル化 以 前 の二 十 世 紀 初 頭 に、日 本
よる伝 播 の説 明 可 能 性 の一 事 例 として提 示 する
をはじめとしたアジア地 域 の文 化 が、近 代 の世 界
ことができるのではないだろうか
10
。
秩 序 の中 心 国 ともいえるイギリスおよびヨーロッパ
もちろん、こうした解 釈 に関 しては留 保 すべき
諸 国 に根 付 いた例 はきわめて稀 であり、そうした
要 素 も残 されている。例 えば、この時 代 にイギリス
意 味 で柔 術 は文 化 伝 播 の方 向 を考 える上 で非
やヨーロッパで沸 き起 こった東 洋 趣 味 という名 の
常に興味深い事例ともいえる。
オリエンタリズムを考えれば、柔術もまたそのような
スポーツを含 めた遊 技 的 な文 化 の伝 播 に関 し
エキゾティックな身 体 技 法 として帝 国 主 義 的 まな
ては、アレン・グットマンが『スポーツと帝国』(1997
ざしによって消 費 されたといえなくはない。また、
年)において詳細に検討しており、文化帝国主義
そもそも列 強 による植 民 地 化 を回 避 するためとは
の議 論 およびその批 判 の両 側 面 から考 察 してい
いえ、アジアにおいて自 ら帝 国 化 した日 本 を、
る。グットマンは、スポーツを含む文化の伝播が近
「文 化 帝 国 主 義 」の影 響 を被 る側 におくことが適
代 の帝 国 主 義 の力 学 に沿 った、欧 米 諸 国 からそ
切 であるのかという疑 問 も残 る。これらに関 しては、
の他 の地 域 へという方 向 性 、つまりは“近 代 の中
今後、欧米の他地域、およびアジア諸国における
心 から周 縁 へ”、というあまりに単 純 化 された図 式
柔 術 受 容 を検 証 することによって明 らかにしてゆ
へ還元されがちであることに批判的であり、イデオ
くべき課題としたい。
ロギーとしての文 化 帝 国 主 義 よりも、文 化 的 な双
方 向 性 を担 保 した文 化 ヘゲモニー論 に条 件 付 き
【引用・参考文献】
ながら与する。そして、中 心から周縁 へという方向
アレン グットマン『スポーツと帝国:近代スポー
に逆行する例としてポロやハイ・アライ(バスク人の
ツと文化帝国主義』、谷川稔、石井昌幸他訳、
ペロタのキューバ版 )などを挙 げた上で、「逆 伝 播
昭和堂、1997.
9
のもっと顕 著 な例 は柔 道 である」と述 べている 。
岡田桂「一九世紀末-二〇世紀初頭のイギリス
さらには、「「異 国 の」スポーツを受 容 するという行
における柔術ブーム:社会ダーウィニズム、身
為 は、通 例 その社 会 の比 較 的 富 裕 で教 育 のある
体文化メディアの隆盛と帝国的身体」『スポー
層 に限 られてきた」と続 けており(グットマン:1997
ツ人類学研究』 第六巻、スポーツ人類学会、
p.199)、これらの記 述 は本 稿 が考 察 してきたイギ
2005.
リスの柔 術 、特 に上 流 ・中 産 階 級 女 性 の柔 術 実
岡田桂「柔術家シャーロック・ホームズ、柔道家
践の説明とも良く符合する。
セオドア・ルーズベルト:英米における柔術/
柔道ブームの位相と身体文化」、『海を渡った
ここでは、スポーツという文 化 を巡 る文 化 帝 国
主 義 /文 化 ヘゲモニー論 の議 論 に深 く立 ち入 る
柔 術 と柔 道 :日 本 武 道 のダイナミズム』青 弓 社 、
ことはしない。しかしながら、少 なくとも二 十 世 紀
2010.
初 頭 のイギリスにおける女 性 と柔 術 の受 容 に関 し
木下誠、「D. H. ロレンス『恋する女たち』にお
ていえば、一 つの身 体 的 な文 化 が近 代 という時
ける柔術と身体文化」『運動+(反)成長(身体医
代 の世 界 的 な勢 力 図 とは必 ずしも一 致 しない方
文化論 ; 二) 』 武藤浩史, 榑沼範久編、慶
向 へと伝 播 し、さらにはその先 で女 性 /男 性 とい
應義塾大学出版会、2003.
河村貞枝『イギリス近代フェミニズム運動の歴
うジェンダー上 の異 なる受 容 をみせたことは、文
化 が政 治 や経 済 の諸 力 とは異 なる自 律 性 を持 ち
史像』、明石書店、2001.
195
スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年
taught the W.S.P.U. bodyguard”, Health and
ドイル、コナン『空 き家 の冒 険 』、小 池 滋 ほか訳 、
Strength Magazine, December 19, 1913.
東京図書、1982.
Noble, Graham, “Early Ju-jitsu: The
富山太佳夫『ダーウィンの世紀末』、青土社、
Challenges Part I”, Dragon Times: The Voice
1995.
of Traditional Karate, Issue No. 5, 1996
Anton Budd, Michael, The Sculpture
(pp.23-24).
Machine: Physical Culture and Body Politics
in the Age of Empire, Basingstoke: Macmillan,
Pearson's Magazine, London, March, 1899.
1997.
Shaw, George, Bernard, Major Barbara,
Daily Sketch, May 1, 1913.
Constable,1920(舞台の初演は 1905 年、戯曲
“Damsel v Desperado”, Health and Strength
初版は 1907 年)
Shortt, G. J. and Hashimoto, K., Beginning
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Jiu Jitsu Ryoi-Shinto Style, London: Paul H.
March 13, 1907.
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“Jujutsuffragettes: A New Terror for the
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London Police”, Health and Strength
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Magazine, London, March 13, 1909.
ジャーナル)
Watts, Roger, photographs by Beldam, G. W.
“Ju-jutsu as a Husband Tamer”, Health and
The Fine Art of Jujutsu, Heinemann, 1906.
Strength Magazine, Apri l8, 1911.
“Mrs. Garrud, a well-known suffragette,
demonstrates the methods of jujutsu. She has
________________________________________________________________________________________________________________________________
1
3
physical culture は、その語義に沿えば「身体鍛
ミシェル・フーコー『監 獄 の誕 生 :監 視 と処 罰 』
錬 」と訳 す方 が適 切 ではあるが、これまでの先 行
(1977 年 )参 照 。また、三 浦 雅 士 『身 体 の零 度 』
研 究 事 例 において身 体 文 化 という訳 語 が用 いら
(1994 年)にも同様の視点が見られる。
れてきたため、本稿でもそれを踏襲した。
4
2
造 士 會編 纂による『サンダウ體 力 養成 法』(1900
二 十 世 紀 初 頭 のアメリカにおける柔 術 を考 察 し
年 )が発 行 されている。本 書 は雑 誌 『國 士 』に連
た以 下 の研究 には、一部 女 性 の実 践 に関 する言
載 された内 容 を増 補 の上 、出 版 したものであり、
及 がある。薮 耕 太 郎 「前 世 紀 期 転 換 期 のアメリカ
サンドウが提 唱 し、自 らの書 籍 や雑 誌 に掲 載 した
における柔 術 をめぐる緊 張 関 係
H.I.ハンコック
鉄 アレイなどを用 いた身 体 鍛 錬 法 がまとめられて
による柔術教本と“The New York Times”の分析
いる。また、本 書 には造 士 会 長 としての嘉 納 治 五
を中 心 に」(未 刊 行 :立 命 館 大 学 で の研 究 会 発
郎 による序 文 が付 記 されており、嘉 納 がヨーロッ
表資料)二〇〇七年
パを外遊した際にサンドウとその身体 鍛錬法の評
196
スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年
判 を聞 き及 び、日 本 人 の体 力 向 上 に資 すると考
of
えて訳出した旨述べられている。
Drawings by George Morrow. Edited by L. F.
schools
and
colleges:
91
illustrations.
Giblin and M. A. Grainger., London : Hazell,
5
Watson & Viney, 1906. これらを考え合わせると、
アントンバッドは、当 時 の身 体 文 化 メディアの主
な購読層が、中産階 級 の中でも特 に下層中産 階
ワッツによって初 の女 性 による柔 術 教本 が同 年 に
級 を中 心 としていたこと指 摘 している。ただし、後
発 行 されていたことは、驚 くべき事 といえるかもし
に身 体 文 化 に包 含 されてゆくとはいえ、ブームの
れない。
当 初 、柔 術 を実 践 した人 々の多 くは上 層 ~中 層
中 産 階 級 であったことから、身 体 文 化 を支 えた中
8
産階級の幅はかなり広いといえる。
的 な条 件 や間 合 いに関 しては、池 本 淳 一 氏 (早
こうした、柔術が実践として有 効に機能する空間
稲 田 大 学 スポーツ科 学 学 術 院 )から重 要 な示 唆
6
を受けた。
本名は Emily Diana Watts であるが、後述する
柔術書籍 の著者名は「Mrs. Roger Watts」として
い る 。 ま た 、 彼 女 に は も う 一 冊 の 著 作 ( 『 The
9
Renaissance of the Greek Ideal』Frederick A.
に定 着 したのは、第 二 次 世 界 大 戦 に敗 れて占 領
Stokes Co., 1914. ) が あ る が 、 本 書 で は Diana
下 におかれた日 本 が、瓦 礫 の中 からかろうじて復
Watts (Mrs. Roger Watts) と併記しており、名称
興 しはじめた頃 のことだったからである」としており、
を使 い分 ける理 由 は不 明 である。なお、“Roger”
柔術(柔道)の欧 米伝 播 に関 して時 代的 な誤 りが
は男 性 に多 く見 られる名 ではあるが、女 性 名 とし
ある。この記 述 はグットマンが参 照 した先 行 研 究
ても通用している。
に基 づくものであるが、現 在 、柔 術 や柔 道 の伝 播
ただし、ここでは「この競 技 がヨーロッパと合 衆 国
がこれよりはるかに早かったことは、複数の研究に
7
確 認 できる限 り、イギリスで最 も早 く発 行 された
よって明 らかにされている。(代 表 的 なものとして
柔 術 に関 する書 籍 は以 下 の二 冊 であり、前 者 は
は『海 を渡 った柔 術 と柔 道 』(引 用 ・参 考 文 献 )参
柔 術 ブームの立 役 者 の一 人 である上 西 貞 一 、後
照。)
者 は谷 と上 西 のマネージャーを務 めたウィリアム・
バ ン キ ア に よ る も の で あ る 。 Sadakazu "Raku"
10
Uyenishi, Text Book of Ju-Jutsu as Practised in
ては、ジェムとフィスターによる、カナダにおけるラ
Japan, London : Athletic Publications, 1905.
クロスの近代スポーツ化と文化の相互転移
Bankier, William. Ju-Jitsu: What It Really Is,
(cross-cultural transfer)が挙 げられる。(Gems,
London: Apollo's Magazine, 1905. 尚 、 翌 年
Gerald,
1906 年には、谷と三宅太郎(一時期、谷と共にゴ
Understanding
ールデンスクウェアの道 場 で柔 術 を指 南 していた)
2009: pp.40)
による書籍も発行されている。Taro MIYAKE and
TANI (Yukio), The Game of Ju-Jitsu, for the use
197
こうした伝 播の方 向性 が逆転する他の事 例とし
R.
and
Pfister,
Gertrud,
American
Sports,
Routledge,