“ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているの

日 時 : 2007年 4月 8日 イースターディ 2部礼拝
題 目 : 復活の恩寵
説 教 : チョ-ヨンギ 牧師
御言葉 : コリント第一 15章 12~20節 御言葉
“ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あな
たがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がな
いのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、
私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかり
に、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは
神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリス
トがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分
の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったので
す。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、す
べての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。”
よみがえったイエス様の恩寵が皆さんと共にされることをお祈りします。イエス様の祝福がと
もにされますよう。
<序論>
‘よみがえりの恩寵’と言う題目で御言葉を交わしてみます。
春は季節の中でもよみがえりの季節です。凍った命の跡が消えてしまった山川に氷を解かす春
はよみがえりです。
だから春は私達の胸の中に希望と喜びの歌を贈ります。暗い死に勝った命の賛美なのです。
イエス様のよみがえりもこれと同じです。アダムの堕落がもたらした死は、罪と世俗と病、呪
いと霊と体の死で人間に絶望をもたらしました。でも神様の神子イエス様は新しい新人類の先
祖としてアダムの堕落の罪と死を背負われ亡くなりました。死を清算して三日目によみがえっ
て全人類に命の歓喜で満たしたのです。イエス様のよみがえりは私達にとって信仰、希望、
愛、義、喜びとして迫ってくるのです。
[本論]
1. 自分が死ぬこと
最初に自分が死ななくてはなりません。
自分が死ぬと言うことは簡単ではありません。パオロは聖書に次のように書いてます。
ガラテヤ人への手紙2章20節で
" 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではな
く、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているの
は、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっている
のです。"
パオロは明らかに自分はキリストと共に十字架に釘付けにされたと言ってます。そうしたらキ
リストと共に死ぬのです。これで生きるのは自分ではなく、自分の中にいらっしゃるキリスト
が生きてらっしゃると言ってますが、私達もこうなればどんなに良いことでしょう。理論的に
は簡単ですが実際に人生の生の中でキリストと共に死んで甦るという奇蹟が起きないと言うこ
とを受け止めると失望してしまいます。
"それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中
にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私た
ちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは
知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その
死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあ
ずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが
御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって
新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの
死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからで
す。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅び
て、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っ
ています。"
所が私達がイエス様を信じパブテスマを受けるとき初めてイエスキリストと共に死んで水の墓
に葬られキリストと共に甦るという象徴的な事となるのです。それは明らかに聖書にイエスキ
リストと共に罪に対し古い自分は切り捨てて新しい自分に生まれ変わるという事を信じます
が、でもまだまだ自分の中には古い自分が残り罪に対する誘惑につまずくことがあります。
古い自分が消えたと繰り返しますが、実際にはそうではない場合がたくさんあります。自分自
身も"これでイエスキリストの中で自分は死んだ。これでイエス様が自分のなかに生きてらっ
しゃる。"と自信に満ちても誰かが来て自分の感情に触っても怒り、"古い自分、主の後ろに
隠れてる自分を引き出そう。"そして古い自分の姿通りに生きてく自分を発見し大きく失望す
るのです。自分が死んだと思ったのですがピンピンしてる古い自分を発見します。死ぬという
事は何ですか?それは関係の断切を意味します。死んだという事は古い自分が反応しないとい
う事です。
ある弟子が先生に訪ねてい来て、"先生、死ぬという事は何ですか?"と聞きました。それで
先生は、"知りたかったら、言われた通りにしなさい。弁当を持ってあなたの友達の中で死ん
だ人の墓の前で惜しみ愛すると繰り返してから弁当を食べて、そしてその次に反対にあなたが
一番憎しんだ友達の墓の前に行って悪口を言いながら唾を吐き墓を殴り蹴飛ばしなさい。その
後、自分が死ぬという事が何なのか教えて上げよう。"
それで弁当を持って親友の墓の前で生前を誉めながら愛する友と言い続けました。そして弁当
を食べ終わってから反対に仲の悪かった友達の墓に行って墓を蹴飛ばし悪口を言い続けたので
す。そして次の日に先生に行って、
"言われた通りにしました"
先生は微笑みながら言い返しました。
"仲の良い友達を誉め、仲の悪かった友達に悪口を言ったら何と言い返してきたか?"
"ないも反応がありませんでした。"
"そしたら、仲の悪い友達は?"
"彼もやはり何も反応がなかったです"
"ほら、それが死んだという事なのだ。死ぬという事はあなたに悪口を言い、あなたを誉める
人にも反応をしない、即ち関係の断切を言うのです。怒りもしなければ、誉めに気を配らない
のです。これが死ぬことなのです。"
その学生は首を傾げながら、
"理解はできますが、実践するのは難しいと思います"
そうです。私達は理論的にはキリストと共に十字架に釘付けにされ死んで葬られたと言います
が、実際にはまだ全然、死んでないのです。それを分かりながらも死なないのが問題なので
す。でも私達の信仰生活というのは古い自分がキリストと共に十字架に釘付けにされなければ
なりません。そうしてキリストの中で誠な信仰生活ができるのです。
韓国の初代教会の歴史に見ると能力のある有名な復興師であるキ厶イッド牧師がいました。彼
は元々、黄海道(現在の北朝鮮の地方)のヤクザでした。酒浸りで喧嘩が絶えませんでした。村
で行事があるときは、彼に出合わないよう神社で願うことがしばしばでした。それぐらいです
から、彼にいじめられなかった人はいないぐらいでした。所がある日、ある宣教師の伝導を受
けてイエス様を信じるようになりました。数日後、村には次のような知らせ状が張り付けてあ
りました。
"キ厶イッドが、00月00日00時に死んで葬られます"
村の人は喜びました。
"もうこれでいじめられないし、苦しむことがないだろう。良かった、良かった"
所が死んだはずの彼が聖書を持ち歩いてるのを目撃した人がいます。人々はガッカリしまし
た。
"死んだというのに違うのですか?"
人々は残念がりながら話します。そして彼はゆっくりと答え始めました。
"いや、昔のヤクザであるキ厶イッドは確かに死にました。でも今の私は昔の自分ではありま
せん。私はイエス様を信じて生まれ変わりました。"
実際に彼が変わったと聞いて試す為に泥水を頭からかけたのです。でも彼は、目や顔を吹きな
がら言いました。
"あなたは昔の私が死んだことに喜びなさい、昔ならあなたは既に私が殺したでしょう"
キ厶イッド牧師はイエス様を救い主として迎え入れ生まれ変わり自分の昔の姿が消え失せて完
全に十字架に釘付けにされる体験をしたのです。彼によって能力のある復興師として神様の使
役を果たせたのです。キ厶イッド牧師はそうできたのに、何故自分はできないのだろうと言う
疑問が湧いてきました。
教会の歴史にみると偉大な神学者であり聖者であったオーガステインもそうでした。どのくら
い淫乱でメチャクチャな人生であったかと言うと、その母が日中、禁食しながら彼のために祈
り続けたのです。
ところが母の祈りでオーガステインは悔い改め変化し古いオーガステインは死んだのです。彼
がある日、歩いてるとき昔、共に遊んでた娼婦と出会いました。
"最近、何で来ないのですか?急にこなくなりましたね。今日は一緒に行きましょう。"
オーガステインはためらわずに娼婦に向かい話しました。
"あなたが知ってる古いオーガステインはもう死にました。今、あなたが出会ってるオーガス
テインは古い私ではなくキリストの中で新しく生まれ変わった人なのです。ですから、あなた
とは何の関係もありません"
死んだという事は昔とは関係を切ったという事なのです。古い自分は過ぎ去ったと言うことな
のです。理論的には理解できますが実際には自分の中の古い自分が消え失せてキリストの新し
い自分が行動するというのは難しい事なのです。では何故、努力してもできないのでしょうか?
2. 全ての欲をなげ捨てること
二番目に全ての欲を空にするのです。
全てを空にして心が平安が訪れ、その中にキリストで満されると言うがいくら努力し空にした
と思っても後で見ると全然そのままなのです。私達が見ると聖者達は可能でした。
ルカの福音書9章23節に
"イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自
分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。"
自分を否定し十字架を背負い追いなさい。もっともの言葉です。アーメンです。でも実際にそ
れが良くできません。
マタイの福音書19章29節に
"また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者
はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。"
どうやって主の名のために家を捨てて兄弟姉妹も後にし両親までも後にできるのでしょうか?
できそうですが私達みたいな罪人には不可能な事のように見えます。でも聖書にはそうしなさ
いと書かれてるし、そうしてる人もいました。イタリアのアシスに住む、聖フランシスは裕福
な布木商に産まれましたがイエス様を信じ神様の御声を聞いて全ての財産を売り飛ばし貧しい
人々に分け自分は布切れをつけたボロ着で生涯を福音を伝える時間として送ったのです。アル
バートシュバイツアー博士はドイツに産まれ30代には既に神学博士、哲学博士、有名な音楽を
専攻した音楽家であり、医学も勉強し医学博士となりました。でも彼は裕福な自国と環境を全
て投げ捨てて全財産を売り飛ばしアフリカの奥地であり毒虫がたくさんいるランバダと言うと
ころライン病村を立てて人生を尽くしました。この話を聞くと自分が恥ずかしくなります。
何故、自分は出来ないのだろう?
どうやってアルバートシュバイツアー博士は文明を捨てて
30才以後には一生をライン病のためにアフリカで自分を投げ捨てることができたのだろうか?
テレサ修女もユーゴスラビアのマケドニアで裕福な家庭の一男二女の末として産まれ愛を一人
占めしキリストを信じてからは神様の御声の導きによりインドに渡り一番、貧しい人々の友達
となりなさいと言う神様の御声でカルカッターに行って道端で倒れ死にかかってる乞食を集め
て風呂させ綺麗にさせて生涯を終えさせる役割をし可愛そうな人々達を救う事に生涯をかけた
のです。彼等はこの世との縁を切って捨てて主のためだけに生きました。私はたくさんの縁で
縛られて身動きがとれません。親との縁をどう切りましょうか?私は親なんて知りませんとは
言えないのです。夫婦の縁をどう切りましょうか?お互いに頼り永遠に生きましょうと結婚し
たのに私が神様の使命を受けたと言って婦人を捨てて出ていけますか?
中々できません。親子の縁を切れますか?主を愛すると言って子供を投げ捨て出ていくことが
出来ますか?親戚の縁も切ることができません。この世に親戚も知らないとも言えないし、社
会的な縁も切ることができません。先輩、後輩、同窓も社会的縁に縛られ出ていくことができ
ません。
私が西大門で教会にいるとき主の僕になると言ってきた人と話をしてみました。その人は主の
ために自分の命まで投げ捨てる覚悟だと言うので感動を受けました。それで、
"家族関係はどうですか?"
と聞きました。その人は少し微笑みながら答えました。
"全部、投げ出しました。縁を切りました。"
この言葉に感心すれば良いのか呆れるのどうして良いのか分かりませんでした。その人は聖者
か、それとも放蕩者のうち一つです。私は首を振りました。
"それでは、私も今日、あなたとの縁を切ります。あなたをこの教会の主の僕として向かえる
ことは出来ません。"
自分なりには自分が聖者と思い込み家族との縁を切ったようですが、私の目から見るとただの
放蕩者にしか見えませんでした。
"自分の家族さえも見捨てたのにどうやって神様の僕となれると思うのだろう。"
と思いながら怒りました。どうした事でしょう?
うか?
何をどうやって捨てろと言われるのでしょ
ですからパオロは言いました。
ローマ書7章24節に
"私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出し
てくれるのでしょうか。"
心ではそう思っても思うように出来ないのが人生なのです
3. 人には出来ない事をなされる神様
三番目にどうすれば古い自分がなくなり空にすることができるのだろう。人にはできなくても
神様には出来るのです。イエス様がある村にいたとき金持ちが来て、
"先生、私が何をすれば天国に行けるでしょうか?"
イエス様が答えました。
"人を殺さず、姦淫せず、盗まず、親を敬い、嘘話をするな、他人をうらやむな"
ですから、
"私は幼いころから守ってきました"
と答えました。イエス様は続けてまた話されました。
"一つ残ってる。あなたの財産を全て売り飛ばし貧しい人々に分けて上げなさい。そして私に
ついてきなさい。"
そうしたら金持ちが首を横に振りながら離れていきました。お金がたくさんあって財産が有り
すぎたのでそうなったのです。その時、主は弟子達をみて話されました。
"金持ちが天国に入るのは、ラクだが針の穴に入ることより難しい"
全くの不可能です。
"主よ、誰が救いを受けるのですか?"
イエス様は答えました。
"人の力ではできなく、神様だけが出来るのだ"
金持ちもイエス様を信じて天国に行く人もいます。
人はできなくても神様には出来るのです。ですから私達が十字架に釘付けにされ古い自分は死
んでキリスト人と生まれ変わり欲を捨てることは人には出来ませんが、神様には簡単に出来る
ことなのです。自分が死んで、捨てる事は非常に難しい事なのです。
昔、ある家から急な祈りの要請がありました。その家の息子は熱心に教会に通う子でしたが、
急に首つりで自殺しようとするのをようやく親が見つけて救ったのでした。何故、そうしたか
と聞くと聖書に自分を殺せと言ったので死のうとした言うのです。自分で死んだら、それでお
しまいです。この教会の教会学校の先生をしてる姉妹が睡眠薬で自殺を図りました。幸にも早
く発見し胃の洗浄をしました。ようやく命は拾い後で話を聞いてみるとこの世を捨てようとし
たのだが、どうしてもできなかったので薬で命を絶とうとしたとの話でした。その様な方法で
できるのなら大変な事になるでしょう。人が死んで成し遂げれることでもなければ人が睡眠薬
で出来るものではありません。自分が死んで捨てることが出来るのは自分の力ではなく神様だ
けが出来るのです。
フランスのビクトルウイ-ゴは、"人間の闘いは自然との闘い、隣人との闘い、自分との闘い
の三つがあるが、この中で一番、難しい闘いは自分との闘いである"
人間は、自然との闘いで山を削り、河の向きを変え、寒さに耐え、熱さに勝つのに成功しまし
た。人間は隣人である、国と国との戦争でも勝つ敗けはありますが、人類の歴史の中で自分に
勝った人は一人もいません。ビクトルウイ-ゴは、自分との闘いとは全てを投げ捨てて自分自
身を捨てることなのだがこれに勝てる人は誰一人いないと話してます。全てを捨てて自我を殺
すという事は神様だけを通じて可能なのです。神様はできます。ですから自分が出来なく神様
がされるから自分がしようとするのではなく神様に任せるしかないのです。出来ないことをや
たらにしようとするから首をつったりするのです。睡眠薬でも不可能です。自分はが出来ませ
んが神様には出来るので神様に任せるのです。
エレミヤ書33章3節で
"わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を
越えた大いなる事を、あなたに告げよう。"
神様は私達には理解できない事もされるので全てを任せて祈ると神様が古い自分を殺し、この
世の貧欲と捨てられるようさせてくださるのです。
マタイの福音書11章28-30節に
"すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが
あなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなた
がたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安ら
ぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 "
イエス様がそれをして下さるためにこの世に来られて私達を抱きしめ十字架に釘付けにして死
に葬られ甦ったので古い自分は捨てれるようにしてくださるのです。ですからイエス様が成し
遂げられた事が私達に叶うよう神様に節に祈らなければなりません。
"神様、古い自分を消してください。十字架にキリストと共に死に十字架で古い自分を消して
しまいキリストと共に満せるようさせてください"
主に節に祈りします。
ピリピ人への手紙4章6-7節に
" 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによっ
て、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考
えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってく
れます。"
詩篇55編22節で
"あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は
決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。"
ぺテロの第一の手紙5章6-7節で
"ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょう
ど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、
いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。"
ですから自分の力ではできなくても神様は出来るのです。これが分かったならキリストと共に
死に、葬られ甦り、空になった自分になれるよう神様に祈らなければなりません。任せて祈る
のです。
マルテインルタ-が宗教改革をしてみると反対も多く、しなければならない事もたくさんあ
り、害する人もたくさんいました。日が経つにつれて悩み、心配が重なり眠れぬ夜が続きまし
た。悩んだ末にルターは神様に任せる事にしました。そして寝床に入るときに祈りました。
"神様、この世が私の物ですか?
神様の物です。教会が私の物ですか?神様の物です。この
世が神様の物で、教会も神様の物なので、神様がなさらなければならないのではないのです
か?自分一人ではとても出来ないことです。もう神様にお任せ致します。この世も、教会も全
てお任せ致します。"
そして神様に完全に全てを任せたので心に平安が来て、神様がなされたので宗教改革が成功し
たのでした。人間の目には不可能に見えても神様には出来るのです。だからこそイエス様が私
達に重荷を置きなさいといわれたのです。そのうえ、イエス様を信じる人々に驚くべき奇蹟は
神様が聖霊に授けたと言われるのです。
旧約時代は、神様が善民イスラエルを選んでから律法を授けてくださいました。律法は重いも
のです。律法の荷重さを抱えて守る人はいません。義人は一人もいなく、全てが罪を犯してし
まいました。でも新約時代は違います。イエス様が十字架に体を裂けられ血を流し私達の罪と
不義、醜惡と呪い、絶望を全部清算し、これを成し遂げるため聖霊を私達に送って下さったの
です。
今日、キリスト教は聖霊の宗教です。神様が聖霊を送ってくださり聖霊が私達を救ってくださ
るのです。イエス様を信じると聖霊が私達の中に入ってきて宿られるのです。信じない人と信
じる人との差は、その中に聖霊が宿ってるのか宿ってないのかの差です。保惠師の聖霊です。
保惠師と言うのは、神様が送られ私達を手伝うために常に私達の傍でいらっしゃるため保惠師
と言うのです。聖霊は皆さんと私を救うため私達の中に宿り聖霊が私達をキリストと共に十字
架に釘付けにし古い自分を消えさせ、聖霊が古い自分から消えるよう働いてくださるのです。
聖霊の手助けなしには私達は信仰生活をすることができません。全てが失敗です。今日、イエ
ス様を信じ自分を殺し新しい自分として変化させ、この世から離れて欲を投げ捨てて生きる力
は私達にはないのです。
いくら頑張っても無駄です。イエス様が十字架で私達のためになされたという事を理論的に理
解し、信じても実際には私達にできる力はないのです。だからこそ神様が聖霊を送ってくださ
り祈るときに聖霊が奇蹟を通じて私達に変化をもたらしてくださるのです。
ローマ書8章26節に
"御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように
祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきに
よって、私たちのためにとりなしてくださいます。"
聖霊がどのくらい私達のために苦労してるかと言うと言葉では言い表されない嘆きと私達のた
めの祈りで捕らえてくださるのです。ですからキリスト教は聖霊教です。皆さんの信仰生活は
聖霊様がしてくださるのです。聖霊が悔い改め、聖霊が祈り、聖霊が信じ、聖霊が勝利できる
ようしてくださるのです。聖霊の救いなしには何事もできません。だからパオロは、自分に聖
霊が宿ってるので自分に出来ないことは何もないと話してるのです。私達は自らできません。
無能です。でも聖霊が宿ってることを悟ると聖霊に頼ると出来るのです。古い自分を消えさ
せ、空にでき神霊な生を生きることが出来るのです。力でもできず、能でもできません。ただ
聖霊だけで出来るのです。
スガレヤ4章6節に
" すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの【主】のことば
だ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せら
れる。"
力と能では出来ないのです。ですから人間の力と能で睡眠薬や自殺でこの世を去ろうとしては
なりません。
聖フランシスコやアルバートシュバイツアー博士、テレサ修女の様な生を送れるのは力や能で
はなく聖霊の力だったのです。神様が読んで聖霊を送ってくださったので出来たことなので
す。人間の力でそう言うことをする場合、無理の結果しか残らないのです。私達、罪人、平凡
な人生が聖者のように人生を送れますか。でも聖霊が宿ると私達の平凡な生の中で毎日毎日の
生活の中で自分を捨てて主で充満になれるよう自ら欲を捨てて神様の栄光で充満になり生きて
いけるのです。ですから聖霊様の救いを求めなければなりません。
そして必ず信じなければなりません。神様が出来るので私達の祈りを聞いて聖霊によって古い
私達を十字架に釘付けにし、私達を空にし、この世に背を向けキリストで充満にしキリストと
共に生きていけるようさせて下さることを信じてください。感じようとしてはなりません。
マルコの福音書11章24節に
"だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じ
なさい。そうすれば、そのとおりになります。"
完全に信じなければなりません。聖霊は宿ってることを信じなければなりません。聖霊の手助
けを信じなければなりません。自分がキリストと共に十字架に釘付けにされた事を信じなけれ
ばなりません。この世と悪魔から逃れられたことを信じなければなりません。
ヨハネの福音書14章1節に
"「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい"
ヘブライ人への手紙10章38節に
"わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を
喜ばない。」"
どうやって自分を空に出来るのか?その方法と結果は神様がなされたことなので理解しようと
しないでください。無駄です。自分で出来るはずがありません。それを神様に任せると神様は
聖霊で働いて下さるのです。神様が大きく密かな事で自分も知らないうちに古い自分が消えて
この世が消えていく驚きの働きを下さるのです。
箴言16章1節に
"人は心に計画を持つ。【主】はその舌に答えを下さる。"
ヨホアが答えてくださいます。
詩篇37編5節に
" あなたの道を【主】にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。"
と話してくださいます。
自分が消えて、なくなるとキリストが甦り自分の空いたその場所にイエス様で満されるので
す。ですから自分が死ぬことがどんなに重要でしょうか?自分が死んでキリストが生きて自分
が空になるとその中にキリストが入ってきて、何でもイエス様の御名で祈り求めると神様がか
なえてくださるのです。
ある日、五万回の祈祷の応答を受けたジョージミラーに訪ねてきて神様に祈祷の応答と祝福の
秘訣は何かと聞きました。ジョージミラーは次のように答えました。
"自分は全てに置いて死にました。ジョージミラーという人は既に死にました。私は遍害が死
に、嗜好もしに、意志も死にこの世に対する人情、批判も死にました。そして私の友達や兄弟
の批判や誉めにも死にました。自分はただ主に頼り、主に似合う人となりますよう努力しなが
ら生きてます。"
ジョージミラーが祈る問題、全てが応答を受けるのは自分を捨てて主だけを見つめるからで
す。
[結論]
皆さん、この世の生がどんなに辛いでしょうか?渦巻く環境の中で限りなくぶつかる問題を克
服するため自分が死んで空になって消えないと神様の能力が自分を通じて生きることが出来な
いのです。自分がピンピン生きてても神様が私達の中で働かれる事が出来ないのです。
自分だらけで神様の場所がありません。どうやって私を満してくださるのですか?自分が死ん
で空になる力はでは無理です。これは力でするのではなく能でもないのです。私の神によって
出来るのです。ですから人にはできなくても、神様にはできるのです。だからこそ出来る神様
を頼り神様を信じ、祈りをかなえてくださるよう聖霊様に頼ってください。聖霊は全能な神様
なので、これらをするために我々と共にしてくださるのです。聖霊は風のように炎の様に泉の
ように私達の中に宿るのです。聖霊は皆さんの中に宿られ、24時間離れないのです。聖霊様
を認め歓迎し迎え入れ頼ると聖霊が皆さんの十字架を通じて知ってる知識を追って信じ頼ると
き奇蹟を起こしてくださるのです。ただ聖霊だけが死ぬことも、捨てることも、可能にしてく
ださり皆さんがキリストとして生きてキリストで充満になりキリストと共に驚くべきの神様の
恵みと能力で生きれるようさせてくださるのです。
[祈禱]
愛の深い、天の父なる神様!
誠な平和をもって権勢と能力のある信仰生活をするためには私が死んでキリストが生きて自分
が空になりキリストで満され、自分が死んで、自分が空になるのは私の力や能では無理です。
泣いても力つけても努力してもダメです。私が死んでキリストが生きて自分が空になってキリ
ストが満されるのは聖霊がしてくださるのです。人には出来なくても神様には出来るのです。
ですから出来る神様を頼り信じ祈りますので聖霊で天のお父様の奇蹟を起こしてください。
平凡な私達の生活の中で罪人にも関わらず神様の聖霊様が私達、全員をキリストで生きれるよ
うキリストで満し、キリストの栄光で生活する人々にさせてください。
イエス様の御名でお祈り致します。 アーメン