山岸登師 父の道と彼の母の道、それに、イ は主の目の前に悪を行ない、彼の 間、イスラエルの王であった。彼 ヤでイスラエルの王となり、二年 王ヨシャパテの第十七年にサマリ と言ったが、ヨシャパテは承知し いっしょに船で行かせましょう。 ﹄ に、﹃私の家来をあなたの家来と ハブの子アハズヤはヨシャパテ 破したからである。そのとき、ア ∼四九︶ なかった。 ﹂ ︵Ⅰ列王記二二 四 :八 子ヤロブアムの道に歩んだ。すな スラエルに罪を犯させたネバテの わち、彼はバアルに仕え、それを Ⅱ歴代誌二〇 三 :五∼三七には同 じ事が次のように記されています。 拝み、彼の父が行なったと全く同 も引き続き、アハブの子アハズヤ 王はイスラエルの王アハブの死後 保っていた。 ﹂によるとヨシャパテ ました。 かし主はその彼の試みを止められ るために船団を造ったのです。し ヤと協力し、オフィルから金を得 ︵Ⅰ列王記二二 五 :一∼五三︶ しかしヨシャパテはこのアハズ パテに向かって預言し、こう言っ のドダワの子エリエゼルがヨシャ くった。そのとき、マレシャの出 はエツヨン・ゲベルで船団をつ くるためにこの王と結んだ。彼ら タルシシュへ行くための船団をつ じように行なって、イスラエルの ﹁ そ の 後 、 ユ ダ の 王 ヨ シ ャ パ テ 神 、 主 の 怒 り を 引 き 起 こ し た 。﹂ は、悪事を行なったイスラエルの と友好関係を保っていました。 ﹁ヨシャパテはタルシシュの船団 た。﹃あなたがアハズヤと同盟を Ⅰ列王記二二章四四節﹁ヨシャパ 年の短い間、王でした。彼は彼の をつくり、金を得るためにオフィ 結んだので、主はあなたの造った 王アハズヤと同盟を結んだ。彼は 父と同じく非常に愚かな偶像信者 ルへ行こうとしたが、行けなかっ ものを打ちこわされました。 ﹄そ テはイスラエルの王と友好関係を であり、悪人であったのです。 た。船団がエツヨン・ゲベルで難 アハズヤは八五三年から八五二 ﹁アハブの子アハズヤは、ユダの (1) の協力に懲りて、第二回目のアハ これでヨシャパテはアハズヤと きなかった。 ﹂ ルシシュへそのまま行くことがで うこうするうちに、船は難破し、タ とあなたとは同じようなもの、私 の王は言った。 ﹃行きましょう。私 戦いに行ってくれませんか。 ﹄ユダ ました。私といっしょにモアブに 言った。﹃モアブの王が私にそむき た。 ﹂ ︵九︶ エドムの王といっしょに出かけ ﹁イスラエルの王は、ユダの王と まったのです。 このように私たちも一度、世との ズヤの提案は断ったのでした。 の民とあなたの民、私の馬とあな 交際を始めると一層深く妥協を求 たの馬も同じようなものです。﹄﹂ められることがあるのです。 会社 さて、このアハズヤは屋上から落 スラエルの王になりました。 かったので、彼の弟のヨラムがイ ばかれたのでした。彼には子がな 死んでしまいました。彼は主にさ と言えたのでしょうか。彼は本心 このような者と自分が﹁同じ﹂者 物です。どうしてヨシャパテ王は やめようとはしなかった﹂ ︵三︶人 アムの罪を彼も犯し続け、それを に罪を犯させたネバテの子ヤロブ アハブの子ヨラムは﹁イスラエル ゆえに大きな躓きから救い出され 今回も主の特別なるあわれみの なるのです。 まされ、それが一杯を飲む結果に 口をちょっと付けるだけが一口飲 繰り返している中に、乾杯の杯に いたところが、それを二度、三度 の席にちょっと出るだけと思って で、周囲の者たちに気兼ねして、酒 手を結んだのでした。 ではそう思っていなかったので ました。主はモアブとの戦いにヨ ︵五∼七︶ Ⅱ列王記三 一 :∼一二より。 ﹁しかし、アハブが死ぬと、モア しょう。それは彼の社交辞令で シャパテと異邦人との連合軍に決 ち、重傷を負い、それが元になり ブの王はイスラエルの王にそむい あったのでしょう。 ラエル人を動員した。そして、ユ サマリヤを出発し、すべてのイス 組まなければならなくなってし シャパテは異邦人エドムとも手を しかしヨラムと手を組んだヨ シャパテは、とうとうその一生を でした。このことがあって後、ヨ 定的な勝利をお与えになりません ヨシャパテはこのヨラムとなお た。そこで、ヨラム王は、ただちに ダの王ヨシャパテに使いをやって (2) であり、非常に活動的な人でした。 うことです。彼は一面、信仰の人 着けたのは、分離がなかったとい たが、王国はヨラムに与えた。彼 もにユダにある防備の町々を与え 賜わり物を与え、また、それとと 金、えりすぐりの品々など多くの の内臓を打たれた。彼は不治の病 らすべてのことの後、主は彼を、そ 誌二一 一∼七︶ : 主は彼をさばかれました。 ﹁これ な、ユダの王ヨシャパテの子たち いつまでもともしびを与えようと、 であった。彼らの父は、彼らに銀、 約束されたからである。 ﹂︵Ⅱ歴代 目の前に悪を行なったが、主は、ダ しかし同時に彼は社交的でした。 は長男だったからである。ヨラム 弟たちがいた。ヨシャパテの子た 彼はイスラエルとどうしても分離 になった。 ﹂ ︵Ⅱ歴代誌二一 一 :八︶ この悲劇はこれで終わりではな 終えました。彼の死体はダビデの しませんでした。彼は生きている はその父の王国に立つと勢力を増 かったのです。 ビデと結ばれた契約のゆえに、 ダ 間には、それがどのような悲劇的 し加え、その兄弟たちをひとり残 ﹁エルサレムの住民は、彼の末子 ちで、アザルヤ、エヒエル、ゼカ 結果を生み出すのかは知りません らず剣にかけて殺し、また、イス アハズヤを彼の代わりに王とした。 町に葬られました。それによって でした。しかし、その彼の妥協的 ラエルのつかさたちのうち幾人か ⋮⋮⋮こうして、ユダの王ヨラム ビデの家を滅ぼすことを望まれな 態度、世との分離しなかったこと を殺した。ヨラムは三十二歳で王 の子アハズヤが王となった。 アハ リヤ、アザルヤ、ミカエル、シェ がどれほど恐るべき結果を生んだ となり、エルサレムで八年間、王 ズヤは四十二歳で王となり、 エル 彼が民に尊敬されていたことが分 かは次の聖句が証しています。 であった。彼はアハブの家の者が サレムで一年間、王であった。彼の かった。主はダビデとその子孫に ﹁ヨシャパテは彼の先祖たちとと したように、イスラエルの王たち 母の名はアタルヤといい、オムリ ファテヤであった。これらはみ もに眠り、先祖たちとともにダビ の道に歩んだ。アハブの娘が彼の の孫娘であった。彼もまた、アハブ かります。 デの町に葬られた。その子ヨラム 妻であったからである。彼は主の しかし、彼の生涯に消えぬ染みを が代わって王となった。彼には、兄 (3) それと同様、私たちも経験する前 わりが失われ、霊的力が失われる 交わるならば、私たちの主との交 もし私たちがそのような人々と 助言者で、悪を行なわせたからで に、聖書を信じ、聖書に従うべき ことは確実です。どうか私たちが のですから。 ある。彼はアハブの家にならって であるのです。この世には、世と の家の道に歩んだ。彼の母が彼の 主の目の前に悪を行なった。 その 治める力を失った。アハズヤの母 ⋮⋮⋮⋮⋮アハズヤの家は王国を の世の国を混同する忌むべき二面 があります。これらは神の国とこ に贅沢ができるかとかを誇る教会 万円使ったとか、どれほど金銭的 を愛する者でありませんように。 く者でありますように。決して世 を、常に、主イエス・キリストに置 うか私たちが、自分の歩みの基準 を学ぶことができますように。 ど 真理に立って主に忠実に歩むこと ヨシャパテ王を反面教師として、 アタルヤは、自分の子が死んだと 性であるのです。私たちはそのよ 世から分離しないことがどれほど 父の死後、彼らが助言者となって、 妥協している自称キリスト教会が 知ると、ただちにユダの家に属す うな者とは絶対に交わるべきでは 危険なことであるのかを常に認識 そこから大切な教訓を学び取り、 る王の一族をことごとく滅ぼし ないのです。さらに、福音を伝道 しつつ、常に主とともに歩む者で 彼 を 滅 び に 至 ら せ た の で あ る 。 多数あります。創立記念会に何千 の反面教師ではないでしょうか。 するために世的に堕落した服装や た。 ﹂ ︵Ⅱ歴代誌二二 一 :∼一〇︶ ヨシャパテ王は私たちにとって 外観を装うような自称教会もあり ﹁自分の肉に蒔く者は、肉から滅び アハブであるのです。 を刈り取る﹂ ︵ガラテヤ六 八︶と ます。人をつまづかせないために ありますように。 : 使徒パウロが警告しています。 パ と言って十字架を語らない、罪に ヨシャパテの大きな誤りは、信仰 ウロは旧約聖書のこのような実例 対する刑罰の地獄を語らない教会 をもって主に従いながら、実際的 から語っていることは明らかです。 が非常に多くあるのです。それら 生活ではアハブ家を真似していた は現代の霊的イスラエルであり、 彼の二面性にあったのです。 パウロ自身が自分の肉に蒔いて滅 びを刈り取った経験はしなかった (4) 山岸登師 になってしまいました。この肉は 来、肉と呼ばれる非常に醜いもの の人間性はアダムが罪を犯して以 れを外に出すことが正直で、 誠実 があります。またあからさまにそ の思い、考え、感情を露出させる人 で素っ裸になります。彼らは、人間 多くいて、彼らは夏になると海岸 裸体主義者がいます。アメリカに できず、神の栄光を現わすことが 的で、決して神のみこころに服従 ます。そしてこの肉は神には反抗 しば人を堕落させる原因にもなり 気ままな行動をちゅうちょなく行 に反することばを平気で使います。 ん。怒りをすぐに現わします。礼儀 そのような人は舌を制御しませ であると思っている人があります。 は本来善人であるのだから人間が 世の中にはヌーディストと言う、 人を不愉快にし、人を傷付け、しば 裸になっても情欲は起こさないと 絶対的に不可能であるのです。聖 ないます。自分の好き嫌いを、聞く 霊はこの肉を忌み嫌うべきもので 人の気持ちを考えずに言います。 あると語っておられます。 そして自分が偽善者ではないこと ﹁肉の思いは死であり﹂︵ローマ八 を誇っています。確かにそのよう : な人は偽善者ではありませんが、 ます。アダムとエバが罪を犯した これは聖書の教えに全く反してい 言っているのです。 時、神は彼らのために動物の︵多分 ﹁肉の思いは神に対して反抗する 六︶ 羊の︶皮衣を作って与えてくださ きであったのです。聖霊も裸は恥 ずかしいものであると教えておら れます。 の中に時々問題が生じるのは皆が 霊的露出症であり、霊的ヌーディ いました。人は自分の裸を隠すべ ものだからです。それは神の律法 ストです。 に服従しません。いや、服従できな そのような人は自分がそのようで いのです。肉にある者は神を喜ばせ あるので、自分と同じような考え ることができません。 ﹂ ︵ローマ八 の人を好みます。しかし、全ての問 : 題の原因は肉が造ります。集まり ところがクリスチャンの中にも霊 聖霊に導かれている時ではなく、 七、八︶ 分の肉を露出させる霊的裸体主義 的ヌーディストがいて、自分の肉 ところが、着物は着ていても、自 者がいることも事実です。私たち (5) うに語って警告しています。 肉に支配された舌について次のよ 肉的になった場合です。ヤコブは を欺く情欲によって滅びて行く古 前の生活について言うならば、人 ﹁その教えとは、あなたがたの以 目標を持つことです。一口に言え とは、心の中の霊の領域において ﹁心の霊において新しくされる﹂ ているように装う人です。 新しい人を身に着るべきことでし 望を持ち、主イエス・キリストだけ 価値あることとし、自分を主イエ く さ れ 、 真 理 に 基 づ く 義 と 聖 を ば、主イエス・キリストを愛し、主 もって神にかたどり造り出された、 イエス・キリストに従うことを最も 新しい願望、新しい価値観、新しい ﹁舌は火であり、不義の世界です。 い人を脱ぎ捨てるべきこと、また 舌は私たちの器官の一つですが、 あなたがたが心の霊において新し からだ全体を汚し、人生の車輪を 焼き、そしてゲヘナの火によって た。 ﹂ ︵エペソ四 二 :二∼二四︶ 聖霊は私たちに﹁新しい人を着な で満足し、主イエス・キリストと スに似た者にしたいという強い願 でなく、自分自身の霊的進歩を大 さい﹂あるいは﹁新しい人を着せら 焼かれます。 ﹂ ︵ヤコブ三 六 :︶ 肉は周囲の人に迷惑を与えるだけ いに邪魔し、しばしばその一生を ですから私たちは自分の肉を露出 はどこが違うのでしょうか。新し では偽善者と新しい人を着る者と ストの弟子にしたいと強く願望し と強く求め、自分を主イエス・キリ の御徳の香りを発する者にしたい 台無しにしかねないのです。 いや れた﹂と教えています。 ︵コロサイ 日々交わりたいと願い、自分が主 実際にクリスチャンの中に肉を制 三 九、一〇も参照︶また﹁神にな イエス・キリストを愛する者である : 御しなかったために一生を無駄に らう者となりなさい。 ﹂ ︵エペソ五 ことを人々にも認めてもらいたい : してしまった人も多くいるのです。 一︶と勧めています。 と願い、自分を主イエス・キリスト させてはならないのです。肉に着 い人を着る人とは、先ず﹁心の霊に 偽善者とは、自分がそのような者 物を着せなければなりません。 ﹁あなたの裸の恥を現わさないた おいて新しくされ﹂た人ですが、偽 め に 着 る 白 い 衣 を 買 い な さ い 。﹂ 善者とは心の霊において新しくさ であることを演技する者のことで 続けることです。 れないまま、外側だけ新しくされ ︵黙示録三 一 :八︶ (6) 外してしまうのです。これは悲し うものです。そして、時々、羽目を まい、しばしばボロを出してしま みを持つように、役者は疲れてし す。喜劇役者がしばしば精神的悩 なかった悲しむべき実例を、祭司 負っています。この責任を果たさ ありません。私たちは、子どもたち の中に、以上のような特徴が見ら クリスチャンホームの子どもたち ︵二二節︶ 、神に対する敬虔 ある。 ︵5︶ 成長がない。 テモテ三 一 :五︶ を養い育てるという大切な責任を ︵二五、二六節︶ を幼い時から聖書に親しませ︵Ⅱ れるならば、それは危険信号です。 侮る。 ︵一七節︶ ︵4︶ 罪が常習的で 節︶ ︵3︶ 主への捧げ物︵礼拝︶を 日曜学校の先生と親が協力し、 教 エリの箇所から学びたいと思いま す。 いことです。 どうか私たちの交わりが人間臭 会全体が一致して、すぐに、その子 さ、すなわち肉の悪臭ではなく、キ リストの良き香りで満たされ、 そ 幼いサムエルとは、とても対照的 に振る舞うエリの子どもたちと、 それは本当の意味で戒めているこ たちをしかっていますが、しかし 二章二三∼二五節でエリは子ども ん。 供をフォローしなければなりませ 祭司エリは敬虔な神のしもべでし たが、子どもたちは不敬虔きわま の良き香りをかぐ者の心を喜ばせ、 元気付け、励しを与えるものであ りますように。 です。エリの子どもたちが救われ とにはなりません。神も、エリが子 りない者たちでした。勝手気まま ていないことは、以下の特徴にあ どもたちの罪を知っていながら戒 祭司エリの子どもたち らわれています。 ︵1︶ みことばに おられます。本当の戒めには、次の し、継承しなければなりません。し 信仰は次の世代に継承できます 前田大度師 ︵Ⅰサムエル二章一二∼三六節︶ かし、信仰は遺伝しません。両親が 関する無知 一二、一三節︵2︶ 極 ( ) クリスチャンであるからといって、 度なまでにわがままであり、肉が 二つの点がなければなりません。 めなかった︵三章一三節︶と語って 最大限に働いている。 ︵一三∼一六 子どもが自動的に救われる保証は (7) か﹂と問うべきでした。そして子ど ていますが、むしろ、 ﹁何をしたの ︵1︶ 罪の告白へと促すこと エリは﹁なぜ∼したのか﹂と言っ なった神様を軽んじてしまったの てしまい、みことばをお与えに 子どもたちの欲望に自分を従わせ 拝を第一にし、教会の奉仕を優先 違いです。 ﹁お前は幼いときから礼 す。しかし、このような考え方は間 る。子を愛する者は努めてこれを を控える者はその子を憎む者であ は次のように教えています。 ﹁むち とよりもみことばの学びを優先さ 奉仕を、より高い教育を与えるこ ラブ活動や習い事よりも教会での 一にするように導かなかった自分 それは子どもたちにイエス様を第 うか。いやむしろ悔やむとすれば、 もたちに自分の犯した罪を自覚さ です。私たちはどうでしょうか。神 し、みことばを学ぶことができる せ、罪の告白へと導くべきでした。 様を第一にし、神のみことばに従 のだから、本当に幸せだぞ。 ﹂と、親 ︵2︶ 罰を与えること うことを最優先することこそが、 が心から確信し、子どもたちにも 子どもたちの犯していた罪は、死 本当の意味で、子どもたちの永遠 そのように教えるべきなのです。 に値する罪であるにもかかわらず、 運動会やクラブ活動を子どもたち の 益 と な る こ と を 、 私 た ち は し っ エリは子どもたちを祭司から罷免 に経験させてやれなかったことを、 か り と 自 覚 し て い る で し ょ う か 。 天国に行ってからも悔やむでしょ のみことばに従わせることよりも、 ような気持ちになることがありま することさえしていません。 聖書 学校の行事よりも日曜学校を、ク 懲らしめる。 ︵箴言一三 二:四︶ て申し訳ないことをしているかの いことが、何か子どもたちに対し に、子どもたちにこれらを与えな 楽しみ、大学を卒業しているため りも熱心に求めるべきです。祭司 的に伝道的に歩むことを、だれよ とこの世から分離し、もっと献身 もがもっとイエス様を愛し、 もっ 自分は運動会に出、クラブ活動を せるべきです。大人になってから の不信仰です。クリスチャンであ 信者になった者が親となった場合、 る親は、子どもが信仰を告白して いることで満足せず、自分の子ど : これが問題の根本でした。子ども をかわいがるあまり、子どもたち を甘やかしてしまったのです。 い やそれ以上に、子どもたちを神 (8) ﹁いやいや、クリスチャンは毎 エリは確かに敬虔な神のしもべで と、 した。しかし、自分の子どもたちに 日神様に感謝しているのだから、 対して、神を第一にすることを教 毎日が礼拝だ。今の時代、日曜日に え、育てることをしませんでした。 仕事がある業種は沢山ある。そん 神よりも子どもたちを優先したの な日曜日、日曜日というのは言い すぎだ。 ﹂という人がいます。また、 です。その結果は何だったでしょ 時々、 ﹁そもそも日曜日、朝一〇時 うか。神への礼拝がないがしろにさ から教会に集まって礼拝しなさい れ、 息子たちは堕落し、 エリ自ら と、聖書のどこにもかいてない もさばきを受けなければなりませ じゃないか。 ﹂とまで言う人までい んでした。どうかエリの失敗から ます。確かに﹁そういうわけですか 十分に教訓を学びましょう。 自分 ら、兄弟たち。私は、神のあわれみ の過ちに気づき、すぐにその失敗 のゆえに、あなたがたにお願いし を告白し、誤った方針を変更する ます。あなたがたのからだを、神に 家族は幸いです。遅くならないう 受け入れられる、聖い、生きた供え ちに。 物としてささげなさい。それこそ、 あなたがたの霊的な礼拝です。 ︵ローマ一二 一:︶ ﹂とあるように私 たちは日曜日に教会に集っていれ ばあとはどうでも良いとは語られ てはいません。自分自身を神様に 捧げることが真実なる礼拝です。 ﹁クリスチャンは、日曜日、主に礼 拝を捧げるべきである。 ﹂と言う ですが、自分自身を神様に捧げて いる人が日曜礼拝を軽んじるよう なことがあるでしょうか。決して ありません。神様を第一とするこ とと日曜礼拝を守ることとは密接 な関係があるのです。 クリスチャンは二〇〇〇年にもわ たって、日曜礼拝を、自分たちの信 仰の証しとして守り続けてきまし た。聖書的根拠なしに彼らがいの ちをかけて日曜日の礼拝を守って きたのでしょうか。とんでもあり ません。聖書全体を良く見るなら ば、クリスチャンが日曜日の礼拝 を守るべきであるということは明 らかです。 まず第一に、イエス・キリストが、 ﹁週の初めの日﹂日曜日によみがえ られたことです。 ﹁キリストは死を 滅ぼし、福音によって、いのちと不 滅を明らかに示されました。 ︵Ⅱテ モテ一 一:〇︶ ﹂主イエス様の復活 (9) がなければ、私たちの罪は赦され ることがありませんでした。 主イ エス様は、復活によって、私たちの ような醜い罪人に、神様を礼拝す ることが出来る土台をお与え下 さったのです。私たちの礼拝が日 曜日であるのは、私たちの主の復 活が日曜日であるからです。 次に、主イエス様が、復活された ご自身を弟子たちに現されたのも 日曜日でした。特に、トマスに対す る接し方については特筆に価しま す。ヨハネの福音書二〇章を読み ますと、主イエス様の復活の日に 弟子たちはひとところに集まって いましたが、トマス一人がいな かったようです。後に、トマスは他 の弟子たちから、主イエス様の復 活を聞かされますが、疑い深いト マスは彼らに﹁私は、その手に釘の 跡を見、私の指を釘のところに差 し入れ、また私の手をそのわきに 差し入れてみなければ、決して信 に下られました。五旬節は復活の じません。 ︵ヨハネ二〇 二:五︶ ﹂と 日から五〇日目ですから、七週間 言ったのです。主イエス様がこの と一日、ちょうど日曜日にあたり トマスの疑問を解決されたのは、 ます。聖霊は、私たちひとりひとり 翌日月曜日でもなければ、その翌 のうちに住み、私たちの心に神様 日でもありませんでした。八日後、 の愛を語りかけて下さっています。 つまり日曜日に、主イエス様は、ご そのことにより、私たちのうちに、 自身をトマスに現されたのです。 神様に対する感謝、真実なる献身 よみがえりの主を見たトマスは、 をさせるため、つまり私たちに礼 即座に﹁私の主。私の神。 ﹂と主イ 拝を捧げさせるために働いておら エス様を賛美し、礼拝したのです。 れるのです。その聖霊を、神様が日 人間的に見るならば、トマスの疑 曜日に下されたということは、 神 いを一日でも早く晴らしてあげる 様は旧約の時代から、今の私たち べきだと思うかもしれませんが、 に対しては週の初めの日を礼拝の 主イエス様は、あえて日曜日をお 日として定めておられたというこ 選びになって、日曜日にトマスが とが分かります。 礼拝を捧げることが出来るように そして、初代の教会が週の初めの 導かれたのです。 日に主の晩餐を行っていたという さらに、神様が日曜日を礼拝の日 ことです。 ﹁週の初めの日に、私た として導いておられる根拠として、 ちはパンを裂くために集まった。 聖霊が下ったのが日曜日であると ︵使徒二〇 七:︶ ﹂主の晩餐とは、私 いうことです。聖霊は五旬節の日 たちのために十字架に架かってく (10) ださった主イエスを覚え、感謝を 位の第一であることを望んでおら 捧げるときです。しかも自分を吟 れるということなのです。 旧約時代のイスラエル人は、初め 味した上で、感謝を捧げるように と命じられています。主イエス様 のものを神様に捧げることによっ の十字架は、私たちの礼拝の最高 て神様が第一であることを証しし にして最大のテーマです。もちろ ていました。 まず、その家の長男を初子として ん、この箇所からだけで、初代の教 ︵もちろん 会が毎日曜日に主の晩餐を守って 神様に捧げていました。 いたのか、それとももっと頻繁に 殺 す の で は な く 銀 で 贖 い ま し た ︶ ﹁イスラエル人の間で、最初に 守っていたのかまでは分かりませ が。 んが、少なくとも使徒の二〇章に 生まれる初子はすべて、人であれ おいて、パウロたちは主イエス様 家畜であれ、わたしのために聖別 の十字架を覚えて礼拝を捧げてい せよ。それはわたしのものである。 ︵出エジプト一三 二:︶ たのです。 ﹂初子につい では、神様はなぜ週の初めの日に ては詩篇一〇五篇三六節において、 兄弟姉妹が集まって礼拝すること ﹁すべての力の初め﹂と記されてい を望んでおられるのでしょうか。 ます。彼らは初子を捧げることに 旧約時代のイスラエルの民に対し よって、力のすべては神様のもの て神様が命じられたことから学ぶ であると証ししていたのです。ま ことが出来ます。それは、神様が私 たイスラエル人は、収穫したもの たちに、神様を第一とするように、 の初穂を神様に捧げていました。 すべての面において神様が優先順 さらに、収入の十分の一を献金と して捧げていました。生活をして、 その残りを捧げるのではなく、 与 えられたものの中からまず一〇分 の一を優先的に神様に捧げていた のです。イスラエル人は、子供で も、家畜でも、作物でもあらゆるこ とにおいて、自分の好きなように 使って残りを神様にということは 許されていませんでした。まず神 様でした。 神様は、同じことを私たちに求め ておられるのです。キリストは﹁教 会を愛し、教会のためにご自身を ささげられた﹂ ︵エペソ五 二:五︶の ですから、私たちもまた、犠牲を払 うことなしに主イエス様を礼拝す るなどありえないのです。主イエ ス様は、毎日曜日、私たちに対し て、神様を第一として神様を礼拝 する一週間を送るか、それとも肉 の欲望を満たし、その残り物を神 様に捧げる一週間を過ごすかの選 (11) 択を迫っておられるのです。 主イ エス様は、私たちの肉の欲望のま まに生き、地獄に向かっていた人 生を、十字架において終わらせ、週 の初めの日によみがえることに よって、私たちに神様をあがめて 神様のために生きるすばらしい人 生を与えて下さったのです。 です から、週の初めの日に教会に集っ て礼拝を捧げることは、一六八時 間のうちの一時間か二時間を捧げ ることではなく、自分が今何のた めに生きているのかを身をもって 証しする時なのです。 ﹁この資格を取得できれば、就職 もしやすいし、献金も多く出来る から。 ﹂ ﹁この一回だけ我慢すれば、 あとは土日休みだから。 ﹂というの は、そのように言う人の心の状態 を明確に現しているのです。 今日 という日は、永遠という時間の中 で、ただ一度きりです。もし、主イ エス様のご再臨が今週にもあるな らば、私たちはこの地上において 主イエス様を愛していることを身 を持って証しする機会は、この日 曜日で最後だったのです。また、あ るいは来週にも主が来られるなら ば、次の日曜日が最後のチャンス となるのです。私たちはこの本当 に限られた機会をおろそかにすべ きではありません。私たちは、後に 有効に神様に仕えることが出来る からという理由で、目の前の礼拝 を軽んじてはいけません。後の祝 福を、今の忠実さの犠牲の上に築 こうというのは、肉的な考えです。 私たちは﹁きょう、もし御声を聞く ならば、御怒りを引き起こしたと きのように、心をかたくなにして はならない。 ︵ヘブル三 一:五︶ ﹂と 語られているのです。私たちは、今 日、神様を第一として、礼拝を捧げ ていかなければならないのです。 仕事も学歴も私たちのために十字 架に架かってはくれませんでした。 ただ、私たちの愛する主だけが、ご 自身を捧げて下さったのです。 私 たちは、真実とまこととを持って 主に礼拝を捧げていきましょう。 ルツ記より︵一︶ 山岸登師 ﹁さばきつかさが治めていたころ、 この地にききんがあった。それで、 ユダのベツレヘムの人が妻とふた りの息子を連れてモアブの野へ行 き、そこに滞在することにした。 ﹂ ︵一 一:︶ 旧約聖書を見ると神はイスラエ ルの民に、もし彼らが神の戒めに 忠実に歩んでいるならば常に豊作 をお与えになると約束しておられ ることが分かります。ですから飢 (12) です。ききんは彼らに対する神の 饉は彼らの不忠実の証でもあるの 合の良いこと、便利なこと、結果 しょうか。それは当然、自分に都 を基準にして判断してのことで その判断の中には、神の御栄え 警告でもあるのです。 いと見えることを行なっていた。 ﹂ ています。人間が主体であり、全 が良さそうなこと、人間の好みに ︵士師記二一 二:五︶ このみことばは、ルツ記が語って て人間本意であるのです。そこに ﹁そのころ、イスラエルには王が いる時代がどのような時代であっ は、御自分の御栄光のために人間 合ったことであるのです。 たのかを教えています。 ﹁イスラエ を創造された神が完全に無視さ なく、めいめいが自分の目に正し ルには王がなく﹂これは人間の王 れ、御自分の愛の対象とするため るのです。ですから彼らは﹁めい 認めていなかったということであ ろ彼らが目で見えない神を王とは 除されています。人間がこのよう しておられる神の善意が完全に排 人間の益とするために動かそうと に人間を創造され、全てのことを のため、という思いが完全に消え がいなかったというよりも、 むし めいが自分の目に正しいと見える な状態に陥った時、神がききんを もって警告をお与えになるのは当 ことを行なっていた﹂のです。 神の目に正しく見えることでは それは今日においても同じです。 然です。 ことを行なうことほど危険なこと なんと多くのクリスチャンが霊的 なく、人間の目に正しいと見える はありません。その正しいとは何 ききんに陥っていることでしょう か。その霊的ききんの原因は、私 たちのわがままにあるのです。 そ のような時私たちは何をすべきな のでしょうか。自分のわがままを さばくことです。そして心を低く して神との交わりを求めることで す。そして静かに神がもう一度霊 的豊作を与えてくださる時を待つ ことです。 イスラエルの民もこの飢饉の時 を悔い改めの機会とし、苦しい時 を耐え忍ぶべきであったのです。 ところがエリメレクはそうしな かったのです。 ﹁その人の名はエリメレク。妻の 名はナオミ。ふたりの息子の名は マフロンとキルヨン。彼らはユダ のベツレヘムの出のエフラテ人で あった。 ﹂ ︵一 二:︶ 彼らには人間的な手段でそのき (13) きんの苦しみを回避する方法が 決策で彼が失った物は大きかった ちを愛しておられる全能の神に祈 置かれた場に踏み止まるべきです。 るべきです。そして主が私たちを これと同じ事が私たちについて 人間的な知恵を働かせて困難から のです。 金を造り、その金を持ってモアブ も言えるのです。私たちも地上の あったのです。彼は土地を売って の地へ行ったのです。Ⅰ列王記二 彼は自分では知恵のある方法で した。 分の一を捧げることもしませんで た。律法も聞けませんでした。十 同胞との交わりも持てませんでし こともできませんでした。そして 度の大切な過ぎ越しの祭りを守る ことができませんでした。年に一 彼らはモアブの地で礼拝を守る なかったのです。 地に留まることの大切さの認識が まったのです。彼らにはカナンの エリメレクは簡単に手放してし として受け取るべきです。このよ す。 ﹂ ︵Ⅰコリント一〇 一:三︶ このような時は信仰の訓練の時 に、脱出の道も備えてくださいま ことのできるように、試練ととも はなさいません。むしろ、耐える ような試練に会わせるようなこと なたがたを耐えることのできない ません。神は真実な方ですから、あ 人の知らないようなものではあり ﹁あなたがたの会った試練はみな しょうか。 す。そのようなときどうすべきで 病、その他多くの問題に遭遇しま の不信仰でしょうか。 のです。何という悲しむべき人間 アブの地にいるほうが安心できた す。彼には、目で見えない神に頼 場を求めてモアブの地に来たので ので、彼の考えによるより安全な 彼は神を信頼する信仰がなかった てその地に踏み止まったのですが、 くのイスラエルの民は飢饉を耐え 踏み止まりませんでした。事実多 さてエリメレクはカナンの地に ます。 める祈りに、必ず答えてください るべきです。神は私たちの切に求 一章のナボテが自分のいのちを賭 歩みの間に種々の問題に遭遇しま 逃げるなら、一層の困難の中に入 けて守り通した先祖からの土地を、 す。不況、不況による失業、倒産、 り込むだけであるのです。神に頼 ききんを回避できたと思っていた うな時にこそ信仰を働かせ、私た るよりも、目に見える異邦人のモ かも知れませんが、その肉的な解 (14) またその悲しい結末です。神を信 て答えてくださったかを明らかに 神がどのように大きな恵みをもっ 私たちがここで見るものは、人間 ける神以外に頼りにするもののな の考え、計画、推察の働きであり、 い小さな女性のひたむきな信仰に 出した暗闇を背景にルツ記は、 生 れた。ふたりの息子はモアブの女 頼することへの失敗は必ず、最後 ﹁ナオミの夫エリメレクは死に、 も死んでしまったのです。 を妻に迎えた。ひとりの名はオル 彼女とふたりの息子があとに残さ パで、もうひとりの名はルツで あった。こうして、彼らは約十年 には暗い結末に至るのです。一時 しているのです。信仰は時を選び の間、そこに住んでいた。しかし、 あった光は消え、望みは失われ、暗 ません。神はどのような時にも信 さはますます深まるばかりでした。 仰に答える備えをしておられます。 た死んだ。こうしてナオミはふた れ、口からは愚痴がこぼれるよう 代わりに神を非難し、品性は失わ ナオミは自分の不信仰を非難する ﹁わたしは、愛する者をしかった ギリシヤ語豆知識 山岸登師 マフロンとキルヨンのふたりもま りの子どもと夫に先立たれてし になってしまいました。 続く まった。 ﹂ ︵一 三:∼五︶ 夫エリメレクも正しい判断力に 二一︶ このような人間の不信仰が造り する、誤りを認めさせる。 乏しかったのですが、妻のナオミ ﹁全能者が私をひどい苦しみに会 り、懲らしめたりする。だから、熱 ﹂︵黙 も一層判断力に欠けていました。 わせたのですから。私は満ち足り 心になって、悔い改めなさい。 夫が死んだ時、彼女は二人の息子 て出て行きましたが、主は私を素 示録三 一:九︶ この聖句の中の﹁しかる﹂という を連れて祖国に帰るべきであった 手で帰されました。なぜ私をナオ のです。ところが彼女は帰らず、 ミと呼ぶのですか。主は私を卑し ことばの元を調べてみましょう。 それはエレーグコウです。織田昭 もっと悪いことに彼女は自分の二 くし、全能者が私をつらいめに会 ﹂︵一 二〇、 編の辞書を調べますと ①とがめる、 人の息子にモアブの女をめとらせ わせられましたのに。 : 非難する、譴責する、叱る。②論破 たのです。しかしそれもうまく行 きませんでした。その二人の息子 (15) ③︵真相を︶暴く、明るみに出す、 暴露する。類語エピティマオーは 単なる叱責、当たっていないこと もあり、効果のないこともあるが、 それに対してエレーグコウは叱責 の結果相手を説得、矯正するよう な叱責。という意味が見付かりま 他の辞書を調べますといよいよ す。 意味がはっきりします。﹁検事が犯 人を取り調べ、自白に追い込むた めに犯人に証拠を突きつけるよう に譴責、論破すること。 ﹂ 私たちは主を侮るわけにはいき ません。主を恐れるべきです。 質問コーナー 山岸登師 ﹁ギリシヤ語新約聖書の実用法﹂ が再販されました。誤訳、誤字、等 一部三〇円 を訂正しました。金岡の教会の今 藤達徳兄の大変な協力によって、 多くの訂正ができました。 定価は 変わりません。より分かりやすく なり、読みやすくなりました。ギ リシヤ語を知らない人のためにも、 大変有益であると信じます 。牧師 を通してご注文ください。 値段 津久野キリスト恵み教会 マラナ・タ 発行所 〒五九三 八-三〇七 大阪府堺市平岡町二七六 四℡(〇七二)二七三 八-六一五 E-mail:Christ@osk2.3web.ne.jp 郵便局振替口座 大阪 00960-0-57854 編集責任者 山岸登・山本啓之・ 前田大度・環野浩史・松岡平・ 河田哲也 構成・印刷 大塩ヨナ (16)
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