2074、夢の世界 フランスのリュクスから生まれたユートピア コルベール委員会による共同作品 1 目 次 3 序文 フランスのリュクスから生まれたユートピア 4 2074 年 リュクスがフランス語を話すとき 7 L arbre de Porphyre ポルピュリオスの樹 26 La Reine d Ambre 琥珀色の女王 41 Facettes ファセット 56 Mirages D un Avenir 未来の蜃気楼 57 Noces de diamant 霧のダイヤモンド 65 Un coin de son esprit 記憶の片隅 85 Le don des chimères キメラたちの贈り物 117 リュクスの新語 123 あとがき ユートピアファクトリー 126 著者 2 序 文 フランスのリュクスから生まれたユートピア コルベール委員会は 1954年の創立から 2014年で 60周年を迎えました。これを機に、価値観を共有する会員企業で ある 78の高級ブランドと 14の文化機構は、60年後にそれぞれのクリエイションがどう発展しているのか、2074年に自己を 投影させながらそれらの軌跡の、その先の未来に迫ってみることにしました。 現在のクリエイションの質の高さからその想像力に無限の可能性を感じて、コルベール委員会は 2074 年を夢想してみる ことにしたのです。2013年の一年間を通して、まずは各企業がそれぞれの夢を、短い文章と1枚の画像、5つのキーワード にまとめて「ユートピアファクトリー」に提出しました。こうして集められた創意に富む豊かな素材は、フランスのリュクス界全 体の今後のビジョンとなり、共通のユートピアとして具体化するために、10回にわたるワークショップで検討されました。各企 業が揺るぎない価値観を共有しているという事実に支えられ、私たちは楽観的にも、ノヴァンティック(noventique /革新 的正統的な新しさ)なラグジュアリーと、レヴェ・ヴレ(rêver-vrai /夢見る本物)の観念で作られるこのユートピアは、人々 を夢の核心へ誘えるものと考えています。美的感動は共有できる価値観であると同時に、個々で異なることが重要という、 一見相反するふたつの考えを糧にして育まれていくこのユートピアは、人と人の絆を深め、果てしない未来を夢想する楽しさと、 我々は未来の世代と確かにつながっていることを改めて認識させてくれます。 このユートピアが光のように放つ楽観主義を社会に広めていくために、コルベール委員会は、誰もが手にすることのできる 作品を思いつきました。6人の SF 作家による物語と、ひとりの音楽家によるメロディ、そしてひとりの言語学者による詩情 あふれる新語の発案です。これは委員会に加盟する各企業のビジョンを集結した、豊かで比類なきコラボレーションの賜物 です。 200の手が関わったこの作品を、読んで、聴いて、そして、じっくりと味わってください。 3 2074 年リュクスがフランス語を話すとき 2074 年も、これまでと同じように時は止まることなく過ぎていく。過去 40 年間、すべてがスピーディに過ぎ去ったが、 それはこれからも変わらないだろう。世界では人間の生活を豊かにする、あるいはその逆で、世の中を脅かすような要因 が増加しつづけている。その競争の先頭を走りつづけてきた技術という言葉は古典ギリシャ語に源をもち、ラテン語で ars アルス、artis アルティスと訳された。今日の私たちの言葉では ART アール(芸術、アート)である。技術の美的創 造への語源論的変化は今日では逆転している。はるか昔からの営みである職人仕事のおかげで、一部の技術、とりわけ 生活や娯楽、幸福にかかわるそれは芸術から技術への回帰を果たしている。再発見と刷新を重ねた職人芸は、力強く、 革新的かつユートピア的、普遍的な技となり、芸術と合流したあと、 それをしのぐまでになったのである。それというのも、 20 世紀以降、芸術は投機や経済バブルに巻きこまれ、翻弄されつづけてきたからである。この素晴らしいサヴォア・フェー ル(ノウハウ)は、人間を疲弊させた工業化および巨大メディアの集中によって促進されてきた大量生産や画一性、平 凡さの支配に対峙するものである。 かつては少数の人々のものであったリュクスは、自由のシンボル、開花の手段、寛容の媒体として、私たちのこの小 さな惑星(いまや数百万もの太陽系外惑星が知られているのだから)のあらゆる場所に行きわたっている。地球は深淵 な宇宙についての知識を深め、太陽系の一部を探索しはじめた。その一方で、万物の実体はその微細な奇跡を露わに しはじめている。ナノテクノロジー 1 によって新しい素材が見出され、健康に、楽しみに、そして自分のみならず他の人 にもより優しく、より長い人生に役立つ分子が明らかになっている。 リュクスのスローガンは、もはや幸福のほんの一部のみを囲いこむことを放棄し、感動と感性、開放された空間と永 うた 続する時間、すべての人の幸福の欲求と尊重、そのための知識と行動までをも謳いあげる。3 世紀近く前にフランスの 若き革命家が「ヨーロッパでは新しい概念である」と言った幸福は、西暦の 22 世紀も近づいた今日では、世界中の支 配的な考え方になっている。 幾多の不吉な予言にもかかわらず、2074 年のヨーロッパは相変わらず美しく創造的で、フランスはかつてないほどに 全世界の歓びの源泉になっている。聖書の天地創造での神の言葉「光あれ」Fiat lux は、信仰の「フィアト・ルクス」 のみならず、至高のサヴォア・フェールの野心的な「フィアト・ルクス」をも包含することになるだろう。なぜなら、ラテ ン語の語音類似によって、リュクス(luxe)とは働きかける「光」 (lux)、すなわち曙光であるからだ。人類の天空を覆っ ていた不吉な暗雲は、デジタル交換の約束に満ちた「雲」へと移行していく。こうした光の価値観は、ラテン語の真の 語源論に由来する価値、すなわち春の樹液のような豊かなエネルギーと創造性のしるしである予知不可能性とがもたら す価値観へと合流する。 人間の狂気にもかかわらず、マクルーハンが予見した「世界村」 (グローバル・ヴィレッジ)は構築され、いよいよ身 近なものとなった。この概念はリュクスの光とその価値観すなわち、寛容、感動、驚愕、創意、刺激的なパラドックス、 そして昔の大詩人―ペシミストであったが―が言うところの「静謐」と「悦楽」を追求する。 2074 年、この小さな惑星の大国―中国、アメリカ、ブラジル、カナダ、アルゼンチン、日本、そしてついに統合を見たヨー ロッパ―は、いまや普遍的になった生活の質と幸福への欲求に関して、アジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカ、環 太平洋の多くの国々と歩調を合わせることを求められるだろう。人間の欲求と欲望はすでに国境を破壊している。地球は 「ポストヒストリー」に突入している。それはこれまでの歴史が「プレヒストリー」すなわち先史時代と異なったのと同じ くらいに、異質な時代である。ポストヒストリーは平和的な革命によってもたらされた。カナダ・フランス語のかつての 1 テクノロジーという言葉は技術の研究とその学問に限定している。 4 美しい表現を借りるなら、 「静かな」革命である。 人々が地球規模で即時的なネットワークによってつながった結果、自分と他人の区別から来る強硬で重苦しい対立はつ いに消え去ろうとしている。個々の生活の質や個人的楽しみは広まり、交換可能なものとなる。ランボーの「私は他者 である」に対しては、 「すべての他人は私である」という答えが用意されている。この展望に立つと、リュクスは重要な 手段になる。それは同時に現代性の頂点であり、凡庸さと平凡と放任の圧倒的な侵攻によって脅かされるか放棄された 価値観遺産への回帰である。このネオリュクスは、素材から生まれる感性と非物質的な豊かさとのあいだ、欲求と心身 の状態とのあいだ、現実と夢とのあいだ、真実と美とのあいだに新たな調和をつくりあげる。こうして、ソクラテスとプ ラトンの古代のビジョンへと合流するのである。 リュクスはその能力のひとつとして「意味」を創造する。記号の世界で、言語のバベルの塔の中で、リュクスは芸術、 詩歌、文化とともに普遍的なヒューマニズムを促すのである。それぞれの言語で、リュクスの誕生と本質、その伝達と 能力を語るための言葉や表現方法が生まれてきた。 2074 年、言語は変化を続けてきた。リュクスの特別な属性語であるフランス語は、この普遍的活動が語られる他の すべての言語とともに輝きを保ち、その光をいよいよ増している。文法は少し簡潔になり、かつての作家や詩人が称揚 した繊細さを見出すことは真のリュクス、贅沢となってしまった。とはいえ、今日の作家たちも、男性と女性とを問わず あきらめてはいない。発音は豊かさを増した。フランス各地の方言のみならず、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、東方、 太平洋にまたがるフランス語圏諸国のさまざまなアクセントが、今世紀初頭にフランスで話されていた平板で単調な言葉 に新しい彩りと音楽をつけ加えた。 ご い 語彙の問題に移ろう。私たちがさまざまな事象を整理し、自分の考えを明確にするための言葉のことである。リュク スに関する言葉は 63 年前に検討され、その成果は今も生きている。美、創造、エレガンス、感動、さらには輝き、夢、 魅惑といった言葉は、今日でも変わらずに使われることが多い。ただし、特別、独占的、そしてやや度合いは低いもの の稀少といったかつて使われていた言葉が、今日ではリュクスについて同じ正当性を持ちえなくなっている。というのも、 リュクスは一般化し、普及し、共有され、ひと言でいうなら人類全体にとって親しみやすいものとなったからである。し かも本来の高品質は維持させつつ。だとすれば、量が究極の質と合流するという驚くべきパラドックスがそこに働いてい ることは明らかである。 一方で、新しい言葉も生まれた。ほとんどはアメリカ英語からの借用であり、リュクスの時代遅れの概念によって「シッ クを装う」ためである。今までと同様、私は使わない。ノウハウやメルティング・ポット(人種・文化のるつぼ)といっ た言葉は、 「サヴォア・フェール」と「メティサージュ」で十分用が足りるだけでなく、発音にしても表記にしても優れて いるからである。他の言語もそれぞれの調べと特有の概念をもたらしてくれる。イタリアの morbidezza は翻訳不能であ る。アラブ語の aljamalも、私たちのリュクスと同じくらいの重要性を持ちながら文化的に異質である。ラテン語とギリシャ 語が生きたフランス語の源泉であることに変わりはない。このふたつの言語がフランス語そのものがもつ諸要素とともに 新たな話法をもたらしてくれている。例えば、リュクスの概念と magie マジー(魔法)とをかけあわせて、一部のリュク スの商品は imagique イマジックと形容される。といっても、それほどイマジネール(空想的)ではなく、具体的な物で あり、ただ非物質的な概念を想起させる表現なのだ。ちなみに、アルティザナ・イマテリエル(非物質的職人仕事)と いう言葉もある。もちろん職人は物理化学によって刷新される材料、 つまり物質を使う。だが、リュクスのサヴォア・フェー ルは非物質的である。それは 20 世紀の一部の文学が「シュルレアリスト」、つまり超現実主義を志向したのと似ている。 その意味で、今日のサヴォア・フェールは néomatériel ネオマテリエルである。 美を表わすのに参照したのは古代言語であった。ギリシャ語の kallos カロス、ラテン語の pulcher プルケル、 formosus フォルモースス―スペイン語では hermoso に変化したが―はいずれも美に関する古典の言葉である。ラテ 5 ン語の decorus デコルスは人為的につくられた美を表わす言葉だが、ここからフランス語の décoration(装飾)と décorum(虚飾)が生まれた。碩学たちが完璧なラテン語法で pulchritude ピュルクリチュード(美)を語ろうとした頃、 プルケルがフランス語に取り入れられなかったのは、恐らくその響きのせいだろう。プルケルはふさわしくなかったのであ る。これに対し、あるものをフォルモース(美しい)と言うことは珍しくない。かつて、ポルトガル人は台湾をフォルモー サ(美しい島)と名づけたではないか。 フランス語でつくられた合成語のうちでも、リュクスがもたらす喜びの感覚的状態を表わす bel-être ベルエートルを挙 げておこう。もちろんこれは bellâtre ベラートル(薄っぺらな二枚目)とは無関係で、美的満足感、 「美に満たされた」 生活の最高のリュクスを表わす言葉である。もうひとつの合成語は見かけほどには相反的ではなく、リュクスの職人の みがつくることのできる rêver-vrai レヴェ・ヴレ(夢見る本物)である。 正統性 authenticité と美 beauté の本質的概念を同時に表わすために、あるブランドが形容詞 beauthentique ボート ンティックおよび名詞 beauthenticité ボートンティシテを登録した。だが、これらの混成語は一般には普及しなかった。 これに対して、遍在 ubiquité という空間概念に地球的広がりを与えた合成語 orbiquité オルビキテは、比較的最近のリュ クスの変化に呼応したものと考えられている。それにはラテン語の orbs、orbis すなわち、円、輪(地球の公転)の寓 意が込められているからである。つまり、正統性の美的側面よりは、創意や創造性の方が注目されるということである(だ から、形容詞 noventique ノヴァンティックも多用されるのである)。 リュクスに注ぎこむべき時間と空間に関しては、身近な個人的価値の創造が全地球的グローバリゼイションの価値創 造につながるというパラドックスから、リュクスの proximondial プロクシモンディアル、あるいは intimondial アンチモ ンディアル的性格が語られるようになっている。もうひとつのパラドックスは、感覚の即時性とリュクス製品の持続性と の結びつきにも存在する。リュクスとそれがもたらす喜びは、今では instéternel アンステテルネル(瞬間永続性)と表 現される。 しかしながら、造語は 2074 年の今日でも昔のように失敗することもある。それは必要性のある概念についても 当てはまる。例えば、リュクスの製作で要求される「第六感」の場合、職人またはそのインスピレーションについて sextisensible セクスティサンシーブルと言ったら、誤解を招くかもしれない。 リュクスの形容詞 luxueux リュクシュウは、リュクシュール(色欲)を連想させるような文脈を避けながら18 世紀後 半から使われてきたが、今では luxien リュクシアンを使うことができる。この形容詞の女性形は名前の Lucienne リュシ エンヌを連想させ、そこから光を感じさせる。あるいは、luxifères リュクシフェール、luxigènes リュクシジェンヌまたは luxiphores リュクシフォールなどの造語を使うこともできる。ただし最後のふたつは、ラテン語の luxus にギリシャ語を 混ぜたとして、アカデミーから却下された。とはいえ、リュクスの分野の特殊用語はきわめて理解ある指定を受けてきた。 例えば、périluxe ペリリュクス、interluxe アンテールリュクス、intraluxe アントラリュクスを使うことができる。しかし、 paraluxe パラリュクス(リュクスもどき)には用心しよう。ファルマシー(薬局)にパラファルマシー(薬局もどき)がな いのと一緒だ。 “de luxe”という言葉は、英語でデラックスとして軽く用いられるようになって以降、その価値はいくら ほうじょう 「隠喩の、 か低迷している。逆に、リュクスという言葉はリュクシリアンス (豊饒)に通じる比喩をともなって通用している。 色彩の、稀な感覚のリュクス……」といった表現は今も使われつづけている。 これらの言葉はときに最新技術(デジタル、マルチメディア、分子、遺伝子から料理、さらには宇宙にいたるまで)の 語彙と競合しながらも、少しずつフランス語の辞書に取り入れられるようになってきた。一方で、アメリカや環太平洋諸 国では、すでに日常言語として通用されている言葉もある。 いずれにせよ、フランス語の辞書を始め、ラテン語やギリシャ語から派生したその他の多くの言語において、リュクス の多様な側面と進化を表現する豊かな語彙が取り揃えられている。お好みのものをどうぞ! Alain Rey アラン・レイ 6 L ARBRE DE PORPHYRE ポルピュリオスの樹 「人間はみな、心を打たれるような話に感動したいと望んでいる。 それに至る方法が異なるだけだ」 アリストテレス 「Ho что Вы делаете ? (何をしている?)」 オレグ・サレンコフは妻が今にも連れ去られそうになっていることに気づいた。つかんでいた瓶が手から離れて地に落ち、 割れた。フランス産高級ワインの緋色の筋が生命線さながらの曲線を描き、運命を思いのままにしてきた大富豪に課せ られた未来を暗示しているかのようだった。 サレンコフは自分の車を前にして躊躇した。彼が住んでいる界隈はサンクトペテルブルクでもっとも富裕な人々だけが 入居できる高級住宅街だったが、住民は徒歩以外での敷地内移動を禁じられていた。これは数ある利点のひとつであり、 そのために彼は高い金を払っていたわけだが、今日ほどこの利点が役立ったことはない。100 メートル。妻に追いつくま で 100 メートルだ。サレンコフは走り出した。 サレンコフの眼は本能のままに瞬き、どんな些細な映像も見逃さなかった。体内に埋め込まれた画像記録装置がすぐ さま無音のデジタルモードに切り替わったのだ。その光景は、これから数日のあいだ、頭の中でループ再生されるにち がいなかった。 60 メートル。 見知らぬ男が3人。グレーのつなぎを着たふたりが、妻を両側からはさみ込んでいる。体つきはいかついがしなやか な身のこなしを見ると、ロシア最強の特殊部隊、スペツナズにいた連中かもしれない。ふたりの男を従えている男は、 長身で漆黒の短髪、角張った細面で、完璧な仕立てのスーツを着ていた。近づくにつれて、サレンコフの目に男たちの 詳細が見えてきた。 「Оставьте мою супруга в покое !(妻を離せ!)」 アリョーナが連れ去られようとしている。仕事で成功するずっと前から人生をともにしてきた最愛の妻。巨万の富を得て、 慈善事業や仕事に延々と追われるようになり、ふたりの距離は離れつつあった。しかし今日は、妻が嫌がるようになって いたボディガードたちを先に帰らせ、仕事の予定をキャンセルして結婚記念日を祝うことになっていた。 30 メートル。 脇腹の痛みに耐えきれず、走るスピードをやむなく落とした。息切れがして、心臓は破れんばかりに鼓動していた。裕 福な生活をするようになってから、すっかり運動不足になっていた。今くじけちゃダメだ、走れ、走らなければ。若き日 のオレグ・サレンコフはどこへ行ったんだ。二十歳のころはひたすら商品を売り歩いたじゃないか。まっすぐな視線と人 生を狂わすような魅力的な微笑みでアリョーナを虜にしたあの若者はどこへ行った? 過去から聞こえてくる自分の声が、 「走り続けろ」と急き立てていた。負けるな。こんなことは初めてじゃないだろ。若かったおまえを見下していたこの街に、 おまえが支配者だということを見せつけてやれ。いや、いま言ったことは忘れるんだ。とにかく妻のことだけを考えろ。 7 しかし、なにかがおかしい。サレンコフの置かれた惨状を考えるとそんなはずはないのだが、妻の態度がやけに落ち 着き払ったものに見えたのだ。アリョーナは誰に強制されることもなく、その場に無許可で駐車されていたスカイカーに 乗り込んだ。スカイカーはそのまま垂直に 30 メートルほど上昇し、南の方角へまっすぐに飛んでいった。 長い年月を振り返ってみても、こんな精神状態に陥るのは初めてのことだった。サレンコフはどうしていいかわからず、 激昂しつつも打ちひしがれていた。歩みを緩めて、立ち止まった。上品なスーツを着た例の男がこちらを見つめている。 サレンコフはなにも言わず、エゴスフェールの警報装置を起動させた。警報装置はまずアリョーナのエゴスフェールに連 絡しようとしたが、つながらなかった。公共サービスである《セキュリット》も応答しなかった。突然、サレンコフは脳内 に衝撃を受け、後ずさった。痛みはなかったが、不快な感じだった。サレンコフの発信は黒髪の男のエゴスフェールによっ て進路修正され、送り戻されてきた。しなやかな足どりで近づいてきた黒髪の男は落ち着き払っている。 「サレンコフさん」 問いかけではなく呼びかけだった。男は翻訳装置を介してロシア語で話していたが、フランス語なまりがあった。男は 続けた。 「あなたはこの女性をご存知でしょう」 透明なスクリーンがサレンコフの真正面に現れた。アリョーナの顔が一面に映し出された。 「オレグ、私の言うことをよく聞いて。ただ聞くんじゃなくて、昔みたいに、私の言うとおりにしてほしいの。逆らってはだめよ、 従って。理解できなくてもいいから。このひとがあなたに要求することは、私への誕生日プレゼントなの。たぶん私たち の人生でいちばん大事なことよ。あなたを愛してる。それだけは決して忘れないで」 画像は崩れてばらばらの画素になり宙に漂った。サレンコフは嗚咽をこらえた。声を出して泣きたくなるような気持ちは、 もう何年も味わってこなかった。そして、おそらく生まれて初めて、素直にうなずいて服従の意を示した。今度は男もう なずき、おだやかな声で言った。 「これからご自宅へ戻っていただきます。家の中にあるものを3つ選んでください。それが済んだら、家は爆破します」 「家を爆破するだって? あの家にいくら掛けたと思ってるんだ!」 「お金の代わりになるものなら、いくらでもあります。幸せには値段がつけられません。だから取り引きをするのです」 「だいいち、選ぶってなにを選ぶんだ」 「あなた方にとって一番大切なものを選ぶのです。あなたと奥様にとって一番大切なものを」 「もし間違えたら?」 「二度と奥様には会えません」 サレンコフが殴りかかろうとすると、男はそれをやすやすと受け止め、飴細工師のようななめらかな手つきで彼の腕を 突き返して時計を見た。 「残り時間は 15 分です、サレンコフさん。時間を無駄にしないように。いままでさんざん無駄にしてきたのですから」 サレンコフは乱暴に身体を離し、自宅へ向かう小道を歩き始めた。玄関の扉が開くとき、デジタル・フットプリントの 照合が行なわれた。本人名義で出願した特許の記録。雑誌の購読。主要な産業組合の会員証。過去に署名した契約書。 そこには家の契約書も含まれている。 黒髪の男もついてきたが、 入り口の侵入防止システムはなんの抵抗も示さなかった。 長い廊下には見向きもせず、サレンコフは大急ぎで客間に足を踏み入れた。豪奢にみえるように飾られた客間だったが、 何の面白みも感じられない空間だ。 家の中にあるものを3つ。 大富豪のサレンコフはなんでも買うことができた。手に入れられないものがあるとすれば、資産に換算できない価値 を持つものだけ。唯一無二で、とてつもなく予想外な何か。持ち主がその「なにか」に対して抱く価値以外には、まっ 8 たく価値を持たないもの。 いわば思い入れのあるなにかだ。 この瞬間、サレンコフは現在の自分は姿を消し、若い頃に舞い戻ったような不思議な感覚に襲われた。長い間眠って いた情熱に、突然、突き動かされたかのように。2階へ駆け上がると夫婦の寝室へ急ぎ、アリョーナのナイトテーブル に近づいた。どうでもよさそうに置かれたひとつかみの宝飾品の傍らに、顔のところどころが欠けた陶製の小さなバレリー ナの置き物があった。それは彼が初めて定職に就いたときの給料で、アリョーナに贈ったものだった。サレンコフはそれ をそっとつかみ、ポケットに入れた。 「あと8分です、サレンコフさ……」 「あなたは何者なんですか?」 男は微笑した。 「あなたの幸福をよみがえらせるのが私の仕事です。幸せを取り戻すだけでなく、より高めることさえできるかもしれませ ん」 サレンコフは寝室を出て、2階を巡っている廊下に一瞬、たたずんだ。辺りをひととおり見回してから視線を落とすと、 背中の膨らんだ金属製の蜘蛛が1階の床にいくつも配置されており、壁を這い上がったり家具の下に潜り込んだりしてい た。グレーのつなぎを着た男の片方が蜘蛛の動きをコントロールしているようだった。可動式の爆薬だな、とサレンコフ は思った。分散させて、最大限の効果を確保しようというのだ。黒髪の男が言ったことははったりではなかった。 ひとすじの汗が背中を伝って流れ落ちるのを感じた。娘の部屋のあったほうへ急いだ。ずいぶん前から客用の寝室と なっていたものの、誰も利用することのない部屋。かわいいわが娘、ナターリャ。サレンコフは思った。どうしてぼくら は言い争ってしまったんだろう。いや違う、どうして、 「おまえの人生、おまえがしたいことをすればいい」と言ってやれ なかったんだろう。いまいったいどこにいるんだ、ぼくのかわいい女優さん……。 サレンコフは床にひざまずき、顔を伝って流れる涙を拭おうともしなかった。自宅に内蔵されているセンサーが彼のス トレスを察知し、家庭内システムが簡単な医療チェックを実行し始めた。検査が終わると、システムはブーンという音を 立てた。普段なら気にもとめないような単なる機械音だったが、このときになってようやくサレンコフは、自分の身を案じ てくれているのは機械だけなのだと気づかされた。今、すべきことをしなければ、機械だけが家族ということになってし まう。 「どうして今まで、なにも気づかず、なんて愚かだったんだ!」 黒髪の男が肩にやさしく手を置いた。 「あと3分しかありません」 サレンコフは立ち上がり、ナターリャのモノクロ写真を収めた古風な革の写真立てを手にとり、男に声をかけた。 「これでいい。いまから出れば間に合うだろう」 「3つめの品は?」 サレンコフは左手の小指にはめてある、くすんだ銅の結婚指輪を指差した。 「こいつが輝きを取り戻すように磨いてやればいいんだ」 「おっしゃるとおりだと思います、サレンコフさん」 ふたりは家をあとにして通りに出た。黒髪の男がすぐさま壁の下に設置してあった爆破装置を遠隔操作で作動させるち、 家は音を立てて崩れ落ちた。それは一家がともに過ごした人生が崩れ落ちる音だった。音に続いた爆風は、まるで彼ら の将来を物語っているかのようだった。それでも家の周囲に瓦礫が飛び散ることもなく、隣近所への影響もなく、まさ にプロの仕事だった。 9 「あとは選んだものに間違いがないかどうか確認するだけです」 オレグは促されて金属製の鞄を覗き込んだ。鞄の内側にはスポンジが敷き詰めてあり、3つに仕切られていた。陶器 の小さなバレリーナと写真立てはそのうちふたつの仕切りにぴったりと収まった。 「指輪ははめたままにしておくよ!」 「奥様もあなたがそうおっしゃるのをお望みでした」 サレンコフはうなずいた。 「それはよかった。かなり突飛なやり方だ が、あなたたちのおかげで大切なことに気づくことができた。お礼を言わなければならないね」 「無理しておっしゃっていただかなくても」 「それもそうだな。妻が私を待っているはずだ、彼女はどこにいるんだ ?」 「あなたが選んだ3つの品物が奥様の居場所に導いてくれるはずです」 「どうやって?」 「それはお教えできません、サレンコフさん。ですが、奥様がそうおっしゃっていました」 「そういうことなら、あとは妻を取り戻しに行くだけだ」 「ご自分を取り戻しに行くのです、サレンコフさん。ご夫婦が出会った頃のおふたりに戻れますように」 磁力により浮上しながら低圧状態で走行するトランスヨーロッパエクスプレスは、時速 1000 キロメートル超で走行して いた。ビジネスクラスの座席にゆったりとおさまって、ポール・ジルソンはここまでの流れを振り返っていた。任務遂行 の首尾は上々だったし、現地の人件費を差し引いても、口座には莫大な予算が残っている。今回もまた、人生の意味を 再発見できるよう手助けをすることができた。ここから先、これが有意義な機会になるかどうかは、すべてオレグ・サレ ンコフしだいだ。それでもポールは、宝探しゲームでもするように妻のアリョーナを探し始めたサレンコフの足跡を追い 続けていた。順路の途中には、アリョーナの知恵を借りながら準備した謎が随所にちりばめてあった。印象と感情で構 成された迷路。そこから抜け出すには、サレンコフ自身が最善を尽くすしかない。幸福は味わう価値のある贅沢だ、とポー ルは思った。その準備ができていない人々があまりにも多すぎる。だから彼らを導き、見守ってやる必要がある。倫理的 にも、そしてなにより実用的な見地からの課題でもあった。顧客が満足すれば、次の顧客につながるからだ。 そこまで考えて、ポールは気分を変えたくなった。息抜きが必要だった。 「お飲み物はいかがですか?」 声をかけてきた乗務員の女性はレトロ・ファッションのお手本のような格好で、スカイブルーのテーラードスーツを着て、 ふさふさの金髪に小さな縁なし帽を斜めに被り、微笑み方までトランス・ワールド航空のキャビン・アテンダントさなが らだった。 「コニャックを2杯、お願いします」 1杯は一気に飲み干すため、もう1杯はちびちびやるため。父がよく口にしていた言葉だ。あまりにも早く他界したので、 ポールには父の思い出があまりなかった。カラスの羽根のような黒髪は父親譲りだ。オードトワレの香り。着古した革の 上着の風合い。覚えている言葉はほんのわずかだ。ときどきひとつずつ取り出しては、一語一句違えずそのまま自分の 言葉にすることがある。ポールは記憶という幻想にすがることをずっと拒んできた。そういうのは記憶に化粧をするよう なものだと軽蔑していた。本物の記憶というのはもともと作り物なのだ。そこにさらになにかをつけ加えるなど無駄なこ とだ。 「ご注文の品をお持ちしました、お客様。明かりをお点けしてもよろしいですか?」 乗務員の女性はエネルギーディフューザーのスイッチを入れようとしていた。乗客が着ている衣服をセンサーが感知し 10 て、さまざまな持ち物を充電することができるのだった。ポールはうんざりした様子でモニターを一瞥し、目的地に着く までこれにはさわらないでおこうと決めた。 「いや、けっこう」 乗務員の女性は少しためらったあと、困ったような微笑を浮かべて言った。 「こんなこと申し上げるのはおかしいと思われるかもしれませんが、以前にお会いしたことがあるような気がして……」 「よく言われるのですが、人ちがいだと思いますよ」 女性は最後にもういちど微笑んで、乗務員室へ戻っていった。ポールは「会ったことがあるような」と言われても驚か なかった。彼に会うと誰もが同じような印象を抱くのだった。特別なテクニックを使わなくても、相手に合わせることで、 慣れ親しんだ感じを与え、前にも会ったことがあるという印象を抱かせることができた。彼のように、仮の人格を装うこ とのできる人々は 「協調能者」と呼ばれていた。ポールは自分のことをカメレオン人間みたいなものだと考えるのが好きだっ た。才能とは決して思っていないが、この能力は仕事を成功させるには大いに役立っていた。 息抜きをする時間だった。ポールは座席のリクライニングを倒し、1杯目のコニャックを一気に飲み干してから、エゴ スフェールを設定し直した。エゴスフェールはすぐにスリープモードに切り替わり、自分と社会のあらゆる関係性を無効 にし、漠然とした幸福感しか感じさせなくなった。サイモン・フッシャー・ターナーが 100 年近く前に作曲した『サムシング ・ フォー・ソフィア・ローレン』が脳内に響き始めた。ポールがふだんはクラシックしか聴かないので、アシスタントのラク シュミーはいつもそれをからかった。そういえば、サンクトペテルブルクでの仕事を終えたあと、ラクシュミーが姿を見せ ないのは不思議だ。きっとすでにオレグ・サレンコフの追跡を開始しているのにちがいない。 どうしても仕事のことを考えてしまい、くつろげない。それならと、ポールはエゴスフェールを通常モードに戻し、何 か食べに行くことにした。2杯目のコニャックを飲み干して食堂車に向かうと、先客はひとりしかいなかった。近づいて、 その客が何者かわかった瞬間、ポールは飛び上がった。 ヴィクトール・セガルは奥のテーブル席にひとりで座っていた。WHO(世界保健機関)の代表が乗車しているという ことは、セキュリティ対策として、乗客全員の身分、住所・氏名および履歴に至るまで、アイデンティティを示すすべて の情報がスキャンされているということだ。そのうえ、ヨーロッパエクスプレスのスタッフのなかにはボディガードとして 極秘に配属されている者が何人かいるはずだった。 中背だががっしりとして、紫がかった濃いグレーの髪を短く切ったセガルはスーツとタートルネックを微妙に色調の違 うグレーでまとめていた。地味な装いだが、手首にはめているホーマー・シンプソンの腕時計、シチズン製ミヨタ・ムー ブメントを搭載した、前世紀のコレクターズ・アイテムが雰囲気を和らげていた。時計の絵柄は、黒い背景に青みがかっ たホーマーの頭部のレントゲン写真が描かれたもので、頭蓋骨のなかにはホーマーの極小の脳みそが浮かんで見える。 噂によると、セガルは謙虚さを忘れるなという自戒を込めて、この時計をはめているのだという。重大な責務にはそれ相 応の謙虚さを伴うべきだということらしい。過ちをまぬがれる者などいない。WHOの代表であってもだ。この時計をい つも見ていることが彼にとって歯止めの役割を果たしているのだった。 ポールはなんの支障もなくセガルに近づけたことを意外に思いつつ、席に着いた。メニューを手にとるとセンサーがす ぐに健康状態を分析し、何を注文すべきかを提案してきた。ポールはフランシヨン風サラダを選んだ。アレクサンドル・デュ マの作品に出てくる和風サラダである。これに 1958 年ヴィンテージの貴腐ワイン、ラ・レーヌ・ダンブルを1杯。傍らでは、 セガルががっしりとした体に似合わぬ繊細な料理をせっせと口に運んでいたが、美味しいと感じながら食べているように は見えなかった。おそらく考えることが多すぎて料理を味わう余裕はないのだろう。 ヴィクトール・セガルといえば世界でもっとも影響力のある人物のひとりだ。WHOの代表に任命されてから任期が明 けるたびに再任され続け、あのパンデミックによって生じたありとあらゆる問題の解決に取り組んできた。疫病そのもの 11 は根絶されたが、その影響は日々ごまんと現れた。住民を移動させ、住居と食料を供給し、病の流行以降に生まれた 子どもたちの健康状態を継続的に調査するほか、やるべきことは山のようにあった。やむを得ず、WHOは医療の分野 を大幅に超えた仕事を引き受けることになった。セガルと職員たちはほとんどすべての分野に顧問として介入し、知識の 普及と生活習慣の改善に努めた。おかげで状況は世界規模で改善している。 ポールは職業病のせいだろう、ついついセガルをじっと見つめながら協調能者としての力を使っていたが、相手は無反 応のままだった。ポールは視野の片隅で、ボディガードと思われる妙にたくましい給仕がいらいらしはじめたのに気づき、 夕食を早々に済ませて自分の車両に戻った。 パリの中央駅に着くとポールは雑踏にまぎれ込み、通勤途中の人々や観光客、整備用のロボットなどの間をすり抜け て出口へ向かった。この季節にしては珍しく空が青々と晴れあがっていたので、中国人街の上空を横切りパリ市外へと 続く歩行者通路を歩き始めた。オスマン男爵の格調高い都市計画は、かつてはデカルト的な美しさを誇っていたが、い まや戦略的な増築、結合そして移動を余儀なくされ、往年の端正で厳密な景観は失われていた。パリの街はまさに碁 盤の目のごとくいくつもの「地」に分けられており、交点は取ったり取られたり、絶え間ない再定義が行われていたが、 その代わりに、石の生き死にのあいだに見事な均衡が生まれていた。パリはあいかわらず世界の首都であり、 「帝国」 の中心に鎮座していた。 パリ人らしく、散歩好きなポールはそぞろ歩いた。いつもの朝と変わらず、エゴスフェールが易占いとパスカルの 『パンセ』 から今日の格言を告げていた。東西の英知が程よく混じり合い、この地区特有の雰囲気を作り出している。この瞬間、 ポールの精神構造と外部の環境は、ぴったりと息があっていた。自宅から通りふたつのところまで来て、ポールはラ・ロ ング・マルシュ ( 長征 ) という名のチェーン店に立ち寄り、テイクアウトの緑茶を注文した。毛沢東の肖像とイニシャル が付いた紙コップに入った緑茶を受け取ると、ション・タワーのほうへ向かっていった。 ション・タワーは、外壁のすべてにアルマイト塗装が施された 50 階建てのダイナミックな建物だ。垂直荷重を周辺 安定装置と相殺することで、建物本体のコンクリートと鋼鉄の量を最小限に抑えている。アジアン・オーバーシーズ事 務所のためにエルミオーヌ・デュラックが設計した、ネオクラシック様式の奇跡的な均衡だ。 ポールはアーチをくぐり、中庭に入った。中庭の吹き抜けには歩道がいくつも渡されており、ガラス屋根を通して光が 降り注いでいた。睡蓮と菊の花に覆われた人工湖に沿って進み、エレベーターホールに着くと、エレベーターがポール を認証し、目的階を設定した。上の階に向かうあいだ、ポールはショッピングモールをぼんやりと眺めつつも、メール のチェックも忘れなかった。急ぎの用事は何もなかった。 ポールが住んでいる眺めのよいデュプレックスはション・タワーの 40 階にあり、住居と事務所を兼ねている。間取り の中心からプライベートスペース、会議室、瞑想室へ向かう廊下が放射状に伸びている。空間のレイアウトは調光機能 のついた可動式のパネルを使って変えることができる。 ポールはエゴスフェールが流しているマーデン・ヒルの『カダケス』を聴きながら、全体を藍色のバティックで飾った 客間に入った。チャイムの音と香の匂いはアシスタントのラクシュミーの趣味で、ポールの好みというわけではなかった。 「あら、ジョン・ハムじゃないの!」 昔のテレビ番組の大ファンのラクシュミーは、ポールに似ているらしい往年の俳優の名前を次々と挙げては面白がっ た。 ラクシュミーの皮膚は隅から隅まで真っ青になっていた。ポールは片眉を上げた。 「ずいぶん盛大に《デルマクローム》で塗りたくったね」 12 「ラクシュミーは女神の名前、それも美の女神だってことをお忘れなく。何にでもちゃんと理由があるのよ、ポール」 ラクシュミーはギャザーを寄せたタンクトップを着ていて、青く色づいた肌と、そこかしこに埋め込まれたインターフェー ス・タトゥがほぼ丸見えになっていた。ヴィンテージ・デニムのパンツはニナ・ラーセンが 2024 年にデザインしたものだっ たが少しも古くさくない。ラクシュミーは矯正用の器具をつけた片足を引きずって、歩きづらそうだった。 「エア・スケートの怪我はまだ治らないのか?」 「ご覧の通り」 「よくなるのか?」 「なるわ、でも、じれったいのなんのって」 2年前、ポールは、ヤング・アソシエイツという若者の将来を見守るグローバルな組織との業務提携の一環としてラ クシュミーを採用した。彼女をアシスタントにして後悔したことは、これまで一度もない。アーティスト・プログラマーと して優秀なだけでなく、常に「中立」で、他者からの影響に振り回されることがない。ポールが人々の感覚や感情に働 きかけるのに対し、ラクシュミーはかたくなに心を閉ざすところがあった。ポールはラクシュミーを、 『星の王子さま』に 出てくるキツネのように、ゆっくり時間をかけて飼いならさなくてはならなかった。ラクシュミーがそばにいるときは、ポー ルは彼女の言いなりだった。ふたりは完全に補い合える関係になっていた。 「何か変わったことは?」 「オレグ・サレンコフが大健闘しているわ」 「選んだものの順番はわかったのかい?」 「みたいね。問題は、実業家の行動パターンからまだ抜け出せてないことなのだけれど」 ラクシュミーは自分のモニターの電源をオンにして、ポールに差し出した。最新の展開を打ち込んで報告書を作る代わ りに、アーティスト・プログラマーである彼女はストーリー・ボードのようなものを作っていた。そこにはバレリーナの置 き物をじっと眺めてからサンクトペテルブルクのある界隈へ向かうサレンコフが描かれていた。残念ながら、彼がその置 き物を購入した店はその後フィットネスクラブに替わってしまっていた。ラフなタッチだったが、ラクシュミーのイラストは サレンコフの心の動揺をよく伝えていた。 「サレンコフはある種の反射神経を捨てないといけないな」ポールはモニターの電源をオフにして言った。 「重要なのはど こで何を買ったかではなく、買ったものがどういう意味を持っているかってことなんだ」 若い頃、アリョーナはバレリーナになることを夢見ていたが、人生は別の方向に進んでいった。サレンコフはバレリー ナの置き物を買い与えながら、いつか世界屈指のバレエ公演を見せてあげようとアリョーナに約束したのだった。約束は 守られたものの、サレンコフはいつも忙しい仕事の合間で、どんなに素晴らしい公演も上の空だった。それでもアリョー ナは文句ひとつ言わず、私は幸せなんだと自分に言い聞かせてきた。しかし娘が女優になりたいと言い出し、オレグが それに反対したときだけは我慢できず、思わず置き物を粉々に打ち砕いた。丁寧に継ぎ合わせようとしても、ふたりの 愛のほころびを思い起こさせるかのように、ひびがどうしても目立ってしまうのだった。 「ちょっとひと眠りするよ」ポールは言った。 「起きたとき、お香の匂いがしないようにしてくれないか」 「運命の女神を怒らせると怖いわよ」 「さっきは美の女神って言わなかったか?」 「私って複雑な女なのよ」 ポールはエゴスフェールの電源をオフにし、眠りに落ちた。 13 「間違いないかい?」 ラクシュミーに起こされたばかりで、ポールはまだ完全に状況がつかめないでいた。ラクシュミーはうなずいて言った。 「いま新着のデータをスキャンしているわ。セキュリティコードは公式のものよ」 ヴィクトール・セガルがポールと話したがっているという。考え込んでいる時間はなかった。 「昨日、同じ列車に乗っていたんだ。偶然じゃあるまい」 「セガルはきっとあなたの噂を聞きつけたのね」 「直接、出向いてくればいいものを、慎重になっているのか」 「あなたに頼みごとがあるからよ」 「断られるかもしれないと思っているんだな」 「どうします?」 「1分待ってくれ」 ポールは自分の身だしなみを確認した。ぱっとしないが、まあいいだろう。ポールは床に固定された直径1メートルの 鋼鉄のリングに向き合った。セガルの画像がホログラフィーに浮かび上がった。 「ジルソンさん」 ポールは黙ったまま、様子を見ていた。セガルはラクシュミーのほうを向き、挨拶の言葉を述べる代わりに会釈をした。 ラクシュミーはポールのほうをちらっと見て、それから言った。 「お茶はいかがでしょうか、セガル代表」 セガルはすぐに理解して、笑みを見せた。 「お見事です、お嬢さん。たしかにどんなばかげたせりふを口にしただけでも用が足りたでしょうからな」 どれだけ上質なホログラムを使っていても、たとえば反応時間にわずかな遅れが出るような不具合はある。評価から 決定、決定から行動という流れがスムーズにいかない場合にしばしばそういったことが起こる。セガルは反射的に素早 く応じた。でなければそうした反応を装ったのかもしれない。いずれにしても、ふたりが対面しているセガルは正真正銘 の本人をリアルタイムで表示した映像だ。あらかじめ設定された表情と言葉にプラスして、仕草や表情をたえず計算し直 さなくてはならないような、まがいものではない。 「これで私の正体はわかりましたね。こんどはあなたの秘密を教えてください。この質問から始めましょう。14 番とは何 ですか」 そんな質問の答えなら、セガルはすでに知っているはずだ。ただ、ポールが話すのを聞いて、様子を観察したいだけ なのだ。ポールはセガルのたくらみに乗ることにした。 「20 世紀のドイツで使われ始めた表現です。1920 年代、ワイマール共和国の時代です。ご存じですか?」 セガルは投げやりな手振りをしてみせた。 「それなら、昔、テレビの歴史番組か何かで見たことがあるかな」 ユーモアのセンスを持っているらしいことは評価できる、とポールは思った。 「当時は、男でも女でも、夜会服を着て自宅待機している人々がいたのです。 食事会に出席者が 13 人しかいないとき、 呼ばれたらすぐに 14 番目の出席者として出かけて行きました。13 人では不吉だからです」 「それは面白い。招かれざる客が招かれる、というわけですな。それで、あなた方の仕事が 14 番と呼ばれているのはど ういうわけですかな?」 「我々の仕事は幸福を取り戻すことです。ときには我々の手助けによって初めて幸福が生み出されることもあります」 セガルはうなずいた。 14 「たしかに誰もが幸福になりたいものです。しかし何を幸福と考えるかは人それぞれです」 「だからこそ我々のような専門家の助けが必要なのです。多様な問題があるとしたら、それぞれの問題に即した特別な解 決策を提供できます」 「幸福ははかないものですよ、ジルソンさん。我々が幸福を味わうのはほんの一瞬です」 「だからこそ 14 番というのは将来性のある仕事なのです」 セガルはなるほどと言わんばかりに屈託なく笑った。 「最後におっしゃったことは、少しばかり、反世間的ともとらえられかねませんね」 「単に現実主義者なんですよ、セガル代表。あなたならおわかりになるでしょう」 セガルは急に真剣な顔つきになった。 「たしかに。あなたと私には、幻想には満足しないという共通点がある」 ラクシュミーはふたりのやりとりを録音しながら聞いていた。そうすることでセガルの心拍数や呼吸数の変化をリアル タイムで分析しているのだった。セガルは常に冷静だった。 「ジルソンさん、あなたのやり方は具体的にはどのようなものですか?」 「とおっしゃいますと?」 「医者に聞いた話では、どんな患者でも症状の組み合わせはその人独特のものだそうですね。すべての症例が唯一無二 で、だから、ひとりひとり特別な治療方法を施さなければならないと」 ポールはうなずいた。 「的確な例えですね。私も、細かいところまで丁寧に調整したオーダーメイドのサービスをご提案しています」 「あなたにとって、顧客を理解するとはどういうことですか?」 「その人の行動を予測し、その人が問題解決のためにどこまでできるかを見極めることです」 「もし何か想定外の展開があった場合は?」 「予測するだけでなく、もちろん対処しなければなりません。臨機応変は得意です」 セガルは、ランプの魔人さながらに、ホログラフィーのリングの上に浮かび上がったまま、長いこと黙っていた。それ からまた言葉を続けた。 「14 番はあなた以外にもいますね? あなたを選ぶ理由は何でしょうか?」 ポールは世界中の人々を証人にでもするように、両腕を広げてみせた。 「あなたはどうして私に連絡してこられたのですか。その理由も知らずに答えられるわけがないでしょう」 セガルは質問には答えずに言った。 「ヘンリー・デヴィッド・ウォールデンという男の噂を聞いたことがありまして……」 ポールは苦笑いを浮かべた。 「ウォールデンは極端なほうへ転向しましてね。彼の考えでは、幸福とは生きてきたなかで経験したことの積み重ねなの だそうです。それで、もう誰の手助けもしないことにしたんです。彼なりの流儀です」 「なるほど。ではナビラ・サベルは?」 「とても優秀です。しかし2年前からテヘランのイスラエル大使館の専属になって働いているようです」 セガルがまた別の名前を引き合いに出そうとしたので、ポールは先手を打った。 「もうそのくらいにしてください。私がいちばん優秀です」 虚勢を張ったわけではなく、事実を口にしたまでだった。セガルはうなずいた。 「そう聞いています。そして昨日の列車のなかでその通りだと確認はできていました」 15 「私のほうを気にしておられるようには見えませんでしたが……」 「この仕事を長くやっているせいで人の目を欺くことに長けてしまいましてね。あなたは協調能者でしょう? あのパンデ ミックの影響で、ほかにもそういう人たちがいるのは知っています。わざと中立的な態度をとっているそこのお嬢さんもそ うですね」 一見、当たりさわりのないこの指摘で、第1ラウンドは終了した。セガルの内蔵メモリはすぐに防御を緩めたので、ラ クシュミーは中のデータを調べることができた。セガルはポールについてもラクシュミーについても、すべて調査済みだっ た。 セガルは攻撃を続けた。 「ゴルゲイア・アコスをご存じですか?」 「もちろん存じています。アインシュタインが偉大な科学者であり、モーツァルトが偉大な音楽家であるように、彼女は 人類の恩人ですよ」 ラクシュミーは怒ったような目でポールをにらみつけた。 「恩人どころではありませんよ」セガルは言った。 「パンデミック後の数十年間、彼女がいなければ、人類は一切の希望 を失っていたでしょう」 「おっしゃるとおりです。それで?」 「ゴルゲイア・アコスが死に瀕しているのです。人類は彼女に借りを返さなければなりません。こんどは我々が彼女を助 ける番なのです」 「絶対に引き受けるべきよ」 ラクシュミーが腰に手を当ててにらみつけている目の前で、ポールはゴルゲイア・アコスの健康状態に関するデータを 閲覧していた。データはポールとラクシュミーのあいだに、見解の違うふたりを隔てるヴェールのように宙にぶら下がって いた。ラクシュミーは、ポールが人として当然のこととしてセガルの頼みを引き受けるのを望んでいたが、ポールは、そ れが正しい判断であるのかどうかためらっていた。 「アコスは世界的に有名な人物だ。もし引き受ければ、必然的に私の名前が表に出るだろう。きみもよくわかっていると 思うが、我々の仕事はすべてを秘密裡に行なうことが大前提だ。この契約を最後に仕事ができなくなるとしたら困るのだ よ」 ラクシュミーはため息をついた。吐息がデータの幕にあたり、水面が風に揺らぐように文字列が乱れた。 「あのパンデミックのせいで世の中の何もかもが壊滅状態になってしまったとき、ゴルゲイア・アコスは求められている 以上に多くのものを人々に与えてきたわ。彼女のおかげで、到達不能と思われる領域に誰もが近づけるようにしたい、 という願いを込めた“レヴェ・ヴレ”という考えが人々に希望を与えた。不可能と思っていたことを現実に成し遂げること、 生きる力、それに生きる意欲も取り戻すことができたのよ」 それはポールも同感だった。WHOが物質的な困難に対処している一方で、アコスは人々の精神的な苦しみを少しで も和らげようと全力を尽くしていた。芸術家である彼女は、美的観点から問題を解決できないかと心を砕いてきた。数 十年来、世界を包みこんでいた悲しみは一挙に追い払うことなど不可能だったが、少しずつ手を入れて、手に負える範 囲のハプニングをひとつひとつ解決していくことで、希望の余地が生まれてきた。いくつもの相互作用を積み重ねていけ ば、いつかは不幸にけりがつけられそうだと思えるようになってきた。 最初はたったひとりで、それから次々に現れた何千人もの支持者たちに作業を引き継ぎながら、ゴルゲイア・アコスは 地道な試みで悲しみの元凶を取り除いていこうと戦い続けた。たとえば、通りの曲がり角に人々が元気になるような言 16 葉を落書きしたり、空にメッセージを打ち上げたり、ときにはエゴスフェールを通じて声を掛けるという彼女の取り組みは、 社会から疎外されている人々の心さえ揺るがした。希望を取り戻した男性や女性ひとりひとりが、喜びを引き寄せる存在 となり、周りの人々に影響を与えていった。子どもの幸福は周りに広がりやすいものだが、それがあのパンデミックを完 全終結させるために大いに役立ったことは言うまでもない。不幸ゆえにばらばらになっていた人々の心を、アコスはふた たび結びつけた。アコスの尽力により実のあるものとなった自主性と寛容というふたつの言葉は、ひとつの宝石のふた つの断面のように世界の中心で輝いている。 「ラクシュミー、そんなことはすべてわかっているよ」 「知っているわ、でも、もう一度思い出して、強く感じてほしかったの」 ポールはラクシュミーの手がデータの文字列を突き破って自分の胸に置かれるのを見て戸惑い、あわててアコスの資 料の閲覧に神経を集中した。 ゴルゲイア・アコス、62 歳。それまでどこも悪いところはなかったのだが、2年前のある日、突然、色の識別ができ なくなった。人類の恩人である彼女のケアは、WHOがすぐさま引き受けた。網膜電位図、断層撮影、他にもたくさん の検査を実施したが、どこも悪いところは見つからなかった。 世界でも指折りの優秀な眼科医や神経科医たちはアコスの症例に強い関心を寄せ、まず色彩の知覚を司るV4(第 4次視覚野)の機能不全の可能性を考え、次に細胞の損傷を、さらにはもっと単純に網膜の錐体細胞の形質欠損を疑っ た。しかしいかなる損傷も見つからず、それでいてアコス本人は激しい頭痛と不眠症を訴えていた。優秀な医師たちも 診断を下すことができないまま、匙を投げざるを得なかった。ゴルゲイア・アコスの色覚異常は、もしかすると、パンデミッ クの副作用なのかもしれない。疫病の流行から何世代もあとになって現れてきた、たとえばポールの協調能やラクシュ ミーの中立性のような。 「わかる? 世界に明るい色彩を取り戻させた本人が、その世界をいま白黒で見ているのよ」 ポールはめずらしく激昂している様子のラクシュミーのほうを向いた。 「きみは私にどうしてほしいんだい?」 ラクシュミーはポールの反応にショックを受けたように後ずさりした。長い沈黙のあと、ポールにたずねた。 「ポール、あなたがいちばんよかったと思う仕事は?」 「聞かなくても分かっているだろう」 数ヶ月前、ひとりの少女が、この建物のロビーでポールに声をかけてきて、助けてほしいと言ったのだった。 「挿絵の色が褪せた1冊の本が報酬だったわね。それでもあなたは引き受けた」 「あの子は私に頼み事をするために、自分の持っているものすべてを差し出したんだ。そこまでしたのはあの子が初めて だったからね。それに大事なのはお金なんかじゃないんだよ」 「じゃあなんなの、ポール」 「挑むことさ」 「あなたはときどき、なにかに取りつかれたようにとことんやろうとするわよね。それがあなたのやり方だわ」 「私の知るかぎり、ゴルゲイア・アコスもそうだったと思うがね」 「そこがあなたの間違っているところなのよ、ポール」 「本気で言ってるのかい、ラクシュミー? 愛だけが真実だとか、内面の豊かさを育まなきゃいけないとかいう話はやめて くれよ」 結論の出ないこんなやり取りを続けていても時間の無駄だった。ポールはプライベートスペースを離れて仕事場へ向か い、瞑想室に入ってセガルの最終データを受信することにした。この半年の間にアコスが仕上げたという作品の数々だ。 17 しかし作品に目を通す前に、頭を空っぽにする必要があった。呼吸をコントロールし、ポールは最終的に自我だけが 残るように、世界との接続をひとつずつ解除していった。 「いまだ!」 合図を聞いたラクシュミーは侵入流を解放した。何千ものナノドローン(極小無人飛行機)が、イスラム建築によく見 られる緻密な格子窓、マシュラビマーヤから出現し、瞑想室の中は羽音のようなうなりでいっぱいになった。ナノドロー ンの群れがポールの周りをまわり、それでいてポールに触れることがないのは、一機一機が軌道、距離、方向を計算し ているからだった。ポールは拡張された現実のさなかにいて、様々なイメージによって 360 度、取り囲まれた、蛇のよう にくねくねとよじれる展示ギャラリーの中を進んでいった。そのカーブにさらわれるようにして、ポールは 『オルトクロマシー』 と題された絵画の連作の前に連れて行かれ、その作品に没頭することを余儀なくされた。クロナゼパム製剤を服用して いるときに描かれた幼稚な素描。コカインのせいで歪んだ線。リタリンによるハッチング、トラゾドンの影響で描かれ た冷たい人体解剖図。ジラウジッドによる二重写し。クリスタルの点描。モルヒネで表現した攻撃的なコラージュ。フェ ンサイクリジンが誘発した知覚の細分化。ザナックスの劣化した神秘主義。 色彩を失ったことで自分の芸術に絶望的になり、なんとかして取り戻そうと必死になって薬物にすがったことで、ゴル ゲイア・アコスの体はぼろぼろだった。アコスの不幸をまともに体感したポールの心臓がオーバーレブを起こしたのか、 へなへなとくずおれる様子を見て、ラクシュミーはすぐに通風装置を作動させ、ナノドローンを引き上げさせた。そして 瞑想室に駆け込んだ。 ポールは駆け寄ろうとするラクシュミーを制した。 「何でもない。ちょっと鼻血が出ただけだ」 ラクシュミーは足下に何か光るものが落ちているのに気づいた。拾い上げてみると、小さなロボットだった。頭部を注 意して見ると、WHOラボの刻印があった。 ラクシュミーはテラスに出てロボットを放すことにした。瞑想室を出て行きながら戸口で立ち止まり、ポールに背中を 向けたまま、はっきりと言った。 「挑むことが大事だったんでしょう? おあつらえ向きのお客が現れたじゃないの」 ポールはイスタンブール行きの鉄道に座席を予約した。移動中、プライバシー・プログラムによって他の乗客から隔離 された状態に身を置き、ゴルゲイア・アコスの現況分析に着手した。ふつうのアーティストなら一生分と思えるような制 作量は、アコスにとっては4分の1にしか満たない。アコスは自分の不幸を隠しながら喜びをふりまき、人類のために活 動し続けていた。WHOが本人の意思を尊重して秘密を厳守していたので、彼女の身に起こったことは誰も知らなかった。 ポールは『オルトクロマシー』の録画を再生した。それは前夜の記憶の片隅でループ再生されており、おかげで彼女 に対するアプローチを明確にすることができた。アコスは闘士だ。勇気ある人物として広く知られる彼女の強い個性を 考えると、自殺という選択肢はありえなかった。病的なロマンティシズムに流れることもありえなかった。創作の行き詰 まりをセルフ・メディケーションで打開しようと、さまざまな薬物を使用したのだろうが、うまくいかなかったのだ。 ポールはラクシュミーに思考の流れを断ち切られて飛び上がった。ラクシュミーは黒と白の視覚について話したがって いた。 「頼まれた通りにしたわ」 「セガルと連絡が取れたのか?」 「本人じゃなくて、助手のひとり。ゴルゲイア・アコスに聞いてみなくちゃいけないのは、白と黒だけがはっきりとしたコ 18 ントラストで見えるのか、それともいろんな種類のグレーが見えるのかってこと」 「どうして?」 「だってあなたの勘は正しいからよ。色覚異常を患っている人のなかには、色彩の微妙な違いがわかる人たちがいるんで すって。特定の色ならわかるってことさえあるのよ、といってもそういう人はめったにいないけれど。その色が激しい情 動を引き起こす何か、もしくは誰かに結びついている場合に限ってね」 「実体験に関わるような?」 「そのとおりよ、ポール」 「よく調べてくれた。面会が済んだらまた連絡するよ」 「最後にもうひとつ。オレグ・サレンコフの最新情報が入ったわ」 「それで?」 「万事順調よ。彼が選んだ3つのものは謎ではなくて、新しい幸福だってことがわかったみたい」 どんなものにも意味がある。何かを祝うため、あるいはその時の衝動に任せて贈られたプレゼント。引き出しの中で 偶然に見つけた、青春時代を思い出させる手紙。去っていった恋人が残していった彼女の身の回りのもの。こうしたも のの価値は多種多様だ。最初は我々を驚かせるが、その後は一生を通じて、喜びや悲しみをよみがえらせてくれる。そ ういう価値あるものを、小石のように撒きながら歩んでゆく細い道の行く手で、我々は自分自身と出会うのだ。 「サレンコフは奥さんと会えたのかい?」 「ええ」 「それで?」 「すべてうまくいってるわ。あとは娘さんを説得するだけ」 ゴルゲイア・アコスはブルヴァリの、昔、織物市場があったところに住んでいた。アコスの小さなアパルトマンが入っ ている建物は、共同制作を目的としたアーティスト向けの物件で、2037 年にブラジルの環境建築家カルロス・バルガ スが考案した「素材建築」と呼ばれるスタイルの典型的な一例だった。バルガスは世の中の不平等に対抗し、使用す る素材と同様に、階層間の歩み寄りを重視した。個人の暮らしと集団生活、植物とテフロンなど、組み合わされるそれ ぞれの要素が全体をより美しいものにしている。建物は近くから見た時と遠くから見た時の両方を考慮して設計されてい る。段々になっている建物の正面は竹を編んだ格子で覆われ、植物が無造作に生い茂っている。バルコニーからバルコニー へと張り巡らされたアイビーは専有バルコニーの区別を緩やかにし、共同体の雰囲気を醸し出していた。ポールは建物 のミニチュアのレプリカを見つけた。これは鳥たちのための家で、天国からの密使である鳥たちにねぐらを与えるトルコ のイスラム文化の伝統だった。 中庭に入ると壁面のタイルには薔薇の花と孔雀が描かれていた。子どもたちが縦横に駆けまわり、貯水槽の近くで追 いかけっこをしていて、イマレットと呼ばれる共同の台所に置いてあるカウンターを危うく引っくり返しそうな勢いだった。 ポールはそこでアコスの姿に気づいた。 背が高く、やせてはいるが筋肉質なアコスは、ワークパンツをはき、ベストの袖口からは筋ばった腕がむき出しになっ ていた。近づくにつれて、頰骨の目立つ顔と、洗濯ばさみで無造作にまとめた髪が見て取れた。アコスはポールを見ると、 微笑みを浮かべた。それはどのようにも解釈できそうだったが、心からの微笑ではないようだった。 ポールは子ども時代のアコスがペロポネソス半島の村の小径をサンダル履きで駆けてゆくところを想像した。娘時代 は美術大学に通う熱心な学生だったに違いない。成人してからはモラルと美学の実践にすべてを捧げてきた。それぞれ 19 の年頃で、彼女は輝いていた。世界に美しい女性はいくらでもいるけれど、ゴルゲイア・アコスのような女性はひとりし かいない、とポールは思った。 「ねえ、そこにいるんなら手伝って」 アコスが声をかけてきた。ポールが屋台のような炊事場の向こう側にいるアコスに近寄ると、自己紹介をするより早く、 右手にレードルを握らされた。 「けちけちしないでたっぷり盛りつけるのよ!」 建物の住人たちだけでなく、近所の人々も、屋台のまわりに集まってきた。みんな嬉しそうな顔をしてそわそわしなが ら列についていたが、老人や子どもたちを優先しながら、みんな行儀よく順番を守っていた。 ポールは皿にヨーグルトの かかったミートボールとつけ合わせの米をよそった。赤ピーマン、乾燥ミント、 オレガノ。まじり合う香りに頭がくらくらした。 アコスはその香りを深々と吸い込んだ。 「私に残された数少ない楽しみのひとつ」 「私は……」 「あなたが何者かは知ってるわ。ヴィクトール・セガルからあなたが来ることは聞かされていたから。ばかなことを思いつ いたものね。これを済ませたら、うちへ案内するわ。セガルと約束したからね。ただし、10 分だけよ。それが済んだら 帰ってよ」 アコスは3階の中庭に面したアパルトマンに住んでいた。 「どうぞ、入って」 ポールは部屋に入るやいなや立ちすくんだ。室内はすべてが黒と白で統一されていた。しかしポールはすぐに、それが インテリアとして美しいからではなく、怒りと苦悩ゆえの選択だと理解した。もともとは様々な色が付いていた作品や家 具、棚、オブジェ、さらに紙でできた本物の書物にもローラーでペンキが塗りたくってあった。 アコスはポールの反応を察して言った。 「どんなものでも、いずれはかならず環境になじむって言うでしょう?」 仕上げなどまったく気にしていない、塗りたくっただけだ、とポールはすぐに見抜いた。 「ご自分のためではなく、ここを訪れる人々のための知覚体験ですね。あなたの状態を分かち合うための」 アコスは顔を曇らせた。 「だいたいそんなところね。何かお飲みになる?」 アコスは大量の酒瓶と電子タバコに占領されているテーブルのほうへ向かった。さっきは嗅覚だったが、味覚にすが る割合も増えているんだな、とポールは思った。 「けっこうです」 「ならいいわ」 ポールは探りを入れようと試みたが、空まわりに終わった。アコスはエゴスフェールを使っていないのだ。アコスはポー ルに話しかけた。 「エゴスフェールなしでは、なにも感じないというわけ?」 「そんなことはありません。私の心から生まれた感情と同じように、他の人にも彼ら自身の感情として感じとってもらうこ とができるのです」 「今は何を感じていらっしゃるの?」 ポールは集中した。生気に欠ける肉体、よどんだ空と砂漠と海。ものを見ることへの嫌悪感。それをアコスに話した ところで何の役にも立たない。 20 アコスはうなずいた。 「あなたにはわかるみたいね。カゴに入った果物を描くなんてね、初心者が最初にやらされる練習よ。私にはそれができ なくなったの」 ポールはラクシュミーに言われたことを思い出した。 「どんな色も見えないんですか?」 アコスは肩をすくめた。 「ときどき灰色の夢を見るわ」 ポールはモニターをオンにし、色見本を表示させた。 「色調の違いを私に伝えてもらえますか?」 アコスは言われたことをひとつも間違えずにやってのけた。 「色のことはよくわかってるのよ、ジルソンさん、でももう感じなくなってしまったの」 「もし私が……」 「色のことを思い出すとつらいのよ、ここまでにしてちょうだい」 ポールはモニターの電源をオフにした。そのとき部屋の奥のほうに、色のついた点のようなものがあることに気づいた。 アコスはポールの視線を見逃さなかった。 「珊瑚よ。ギリシャ神話では、珊瑚はゴルゴンの血から生じたといわれているわ。そのゴルゴンをギリシャ語ではゴルゲ イアと言うの。珊瑚は群体を成して生息する。珊瑚を構成するすべての要素は連帯していて、環境と完全に共生してい るの」 個人と宇宙の共鳴、いわゆる近世界性だ、とポールは思った。 「あなたは人類にそういう連帯を与えたんですね」 「ご存じかしら、ジルソンさん、珊瑚は死ぬと色褪せて、最後には真っ白になるの。私は自分の作品で世の中に平和を 作り出したかもしれないけれど、私自身は心の平和を失ってしまったわ。つけがまわってきたのかもしれないわね」 「できるかい?」 ラクシュミーの後ろに立って、ポールが聞いた。ラクシュミーはモニターに目を釘付けにしたまま答えた。 「ざっくり言うと、たとえを現実のものにしろということね」 「宝飾品と同じことだろう」 ラクシュミーはやっとポールのほうを振り向いた。 「宝飾品には少なくともひとつは純粋なパーツがあるわ。石、宝石よ。今回は、不安定な要素が何千もあって、それをあ てにしなきゃならないのよ」 「そのままで完全に純粋なものなんて存在しないさ。正真正銘の純粋さなんてものは目の錯覚にすぎないんだ」 「バラモン教の教えみたいなしゃべり方はやめて。似合わないわ」 ラクシュミーはポールに背を向けて、解析プログラムにふたたび没頭した。ラクシュミーはノンリニアの知能システム を使って、増殖する珊瑚の有機的モデルを再現しようとしていた。 「私の質問にまだ答えてくれていないが」 「理論的には可能だわ。でも組み立てるためのパーツを集めなくちゃ」 「セガルが届けてくれるよ」 21 セガルはできる限り手助けするつもりだとは言っていたが、秘密保護の問題にぶちあたっていた。医療機密の保護は 患者の権利であるとともに個人の自由の原則でもある。関係者全員の合意だけは得るようにとポールはセガルに念を押 した。それだけでもかなりの時間がかかるだろう。 ラクシュミーは珊瑚の群体の骨格の仕上げに取りかかっていた。自然の状態では「ゴルゴニン」と呼ばれる物質でで きており、これがアコスの勢力的な活動によって人類をひとつにまとめた「連帯」にあたるものだった。見るからに冷や やかなデジタルツールを使いこなすだけでなく、ラクシュミーは太古の時代から珊瑚の加工をしてきた宝石職人の技量も 引き継いでいた。 「よし、今のところ他にできることは何もないわ。食事にでもする?」 ポールはタワーのルームサービスで軽い夕食を注文した。食欲がないので、コンソメスープだけですませた。食欲がな いのはストレスのせいだったが、ふだんのポールからすると珍しいことだった。今回は契約した任務をただ遂行すればい いというだけのことではなかった。ポールはこの任務を個人的な問題として扱っていた。 「サレンコフの消息は?」 ラクシュミーはおそろしくスパイシーなカレーを口いっぱいに頰張ったまま答えた。 「ニューヨークで居場所が確認されたわ。ハイスクール・オブ・ ミュージック・アンド・パフォーミング・アーツの近くの小 さなホテルに部屋を借りたみたい」 それは娘のナターリャが女優になるための勉強をしている学校だった。ナターリャは同年代の役者の卵たちがしている ように、学費を払うためにアルバイトをかけ持ちしていた。幸せな、といって語弊があるなら、少なくとも心穏やかな生 活だった。ポールは万全を尽くすため、そしてナターリャの了解を得るため、任務実行の前にナターリャと会っていた。 「オレグは娘さんと再会する心の準備ができていると思う?」ラクシュミーがたずねた。 「不安な気持ちがあるなら、大丈夫だと思うよ」 「じゃあ、ナターリャは?」 「彼女は父親に会いたがっているよ。ただ、愛情があるところを示してほしいと思っている。宝探しゲームを完結させる のはナターリャなんだ。あんまり簡単すぎちゃ困るよ」 ポールとラクシュミーはしばし無言になった。ラクシュミーがやがて沈黙を破った。 「イスタンブールへ行く前は、まだ心が決まっていなかったわね」 「そうだな」 「その気になったきっかけは?」 アコスの謎めいた微笑、屋台のような炊事場の周りに彼女が生み出していた喜びだ。 「珊瑚だ。彼女の部屋に唯一存在していた色彩だった」 「どうして? だって彼女にはその色が見えないんでしょう?」 「もしかしたら希望の色を魂で感じているのかもしれない」 「あなたの考えはこのカレーと同じくらいパンチが足りないわ。食べてみて!」 ちょうどそのとき、新着データを知らせる信号が届いた。医療記録に対応する番号が何千も羅列されていて、それぞれ に情報開示についての同意が併記されている。 15845:合意済み。58963:合意済み。25874:合意済み。84023:合意済み。41876: 合意済み。99623:合意 済み 84957:合意済み。54892:合意済み。87741:合意済み。34896:合意済み。51144:合意済み。37596: 合意済み。27896:合意済み。87423:合意済み。85940:合意済み。84712:合意済み。35895:合意済み。 58746:合意済み。84562:合意済み。32541: 合意済み。98567:合意済み。20485:合意済み。95284: 合意済み。 22 65892:合意済み 30745:合意済み。84551:合意済み。94715:合意済み。35974:合意済み。82415:合意済み。 48596:合意済み。65896:合意済み。79527:合意済み。18238:合意済み。58741:合意済み。71862: 合意済み。37441:合意済み。88515:合意済み。45326:合意済み。83214:合意済み。20584:合意済み。 98074:合意済み。36958:合意済み 86574:合意済み。90745:合意済み。23650:合意済み。95841:合意済み。 36528:合意済み。89056:合意済み。41257:合意済み。28541:合意済み。50298:合意済み。39701: 合意済み。74856:合意済み。47853:合意済み。20418: 合意済み。39748:合意済み。65847:合意済み。 50489:合意済み。36987:合意済み。90185:合意済み 68471:合意済み。98472:合意済み。65748:合意済み。 14785:合意済み。68547:合意済み。74129:合意済み。36508:合意済み。74859:合意済み。69874:合意 済み。98741:合意済み。20658:合意済み。301263:合意済み。…… ラクシュミーの笑顔が輝いた。 「あなたの言ったとおりね、ポール、みんな呼びかけに応えてくれたわ!」 番号の羅列は滝のように流れ続けていた。ラクシュミーは番号のひとつを親指と人差し指でそっとつまみあげ、形式 化した。彼女の才能のおかげで、抽象的な事例でしかなかったものが、優雅な紫色をしたちいさな柱となっていった。 これはポリプと呼ばれる珊瑚の基本単位だ。ラクシュミーは全神経を集中して作業を続けた。彼女の両手はポリプから ポリプへと飛翔する蝶のようだ。その悠然として確かな手つきは、ヴァンドーム広場の宝飾店での厳しい修業の賜物だ ろう。ポールは、芸術が第二の天性であるような芸術家と向き合うように、ラクシュミーの仕事ぶりを敬意をもって眺め ていた。 「あとはそれぞれのパーツに同じことをするだけよ。幸い、継続プログラムの助けを借りられるけど。でなきゃ、何年もか かるわ」 ポールがラクシュミーの頰にキスをすると、彼女は笑いながらよけるふりをした。 「女神を買収しようとしたって駄目よ! 群体が完成したらホロビオントに組みこまなきゃいけないんだから。わかって る?」 ホロビオント、 つまり、珊瑚を構成する生物すべての共同体、群体が完全に共生しながら生息できる環境のことだ。ポー ルはもちろん分かっていた。 「ビャウォヴィエジャの森〔プシュチャ・ビャウォヴィェスカ〕だね」 鮫のような独特の形をした黒いスカイカーが原生林の上空を飛んでいた。高精細度カメラでできたコーティングが機 体全体を覆い、曇り空を撮影しては画像を機体に映し出している。こうすることで機体は地上からほぼ見えなくなるのだ。 これは、ヨーロッパ最古の森を管理しているポーランドとベラルーシ当局からの、人目につかないようにという強い要請 によるものだ。 先史時代からほとんど手つかずのままのこの原生林には素晴らしい動物保護区があり、これは何があっても侵しては ならないものだった。通常、ビャウォヴィエジャ上空の飛行は禁止されていたが、オレグ・サレンコフの口利きで、ポール と同乗者は航空路を確保でき、生物圏への3時間の侵入が許可された。サレンコフはついに妻と娘を取り戻すことがで きた。大切なふたりを探しに出る旅をしながら、彼は人生において優先すべきものが何なのかを思い出し、幸せになろう と努力を始めた。ロシアの大富豪はどんなことにも感謝の気持ちを表そうと決めたのだった。 ゴルゲイア・アコスもこのスカイカーの助手席に座っていた。暗い色の服を着て、黒いスカーフを巻き、サングラスを かけていた。 「光が目に染みるの」とだけ言って搭乗し、その後はひと言も口をきかなかった。 23 アコスを説得するのは並大抵のことではなかった。もっとも、ポールはその役目を自分では引き受けずに、ヴィクトー ル・セガルに丸投げしたのだが、セガルはアコスの同意を結果的には取りつけることに成功したものの、そのために泣 き落としに近いことをやってのけなければならなかった。ふたりのあいだでどういうやりとりがあったのかは知らないが、 結果は賞賛に値するものだとポールは思った。しぶしぶやってきたアコスは、ポールのことなど眼中にないように振る舞っ ていた。ポールはだんまりを決め込んでいるアコスをなだめるために、持ち前の能力を使うこともできたが、それはやめ た。普段、能力を使うときに良心の呵責を覚えることなどなかったのだが、今回はなぜか敬意に欠けるように思えたのだ。 それに、計画に水を差すようなことはしたくなかった。結果を出すためには、アコスのために特別に誂えた試みを、彼 女が誰からの影響も受けることなく体験する必要があった。 「目的地に近づいています」フライト・アシスタントが知らせた。 ポールは経路を若干修正し、下降の最終段階に入った。ふと、ラクシュミーがダッシュボードの上に置いた白い象の ぬいぐるみに目が留まった。このガネーシャのおかげでスカイカーはどんなトラブルからも守られるだろう。 「着陸地点をロックしました」 スカイカーは雪の積もった森の中の空き地に着陸した。 森を構成している樹木は、トネリコに白樺、ハンノキやトウヒ、菩提樹などで、樹高 50 メートルにも達している。長 老さながらの樫の木は、どっしりとした幹が苔に覆われ、樹齢は 400 年を超えるものもあった。全体の眺めは世にも 珍しい植物の密集で、その暗く緻密なかたまりは雪景色と対照を成していた。 アコスはすぐに理解した。 「これはいったい何のまねなの?」 「この黒い森はビャウォヴィエジャと呼ばれていて、古いポーランド語で《白い塔》を意味します」 アコスは賞賛するふりをして手を叩きながら、刺のある笑い声をもらした。 「私のために白黒の世界を見つけ出してくれたの?」 「拍手なさるならこれからです、外は寒いですよ」 ポールがサンルーフを開けるとたちまち凍てつく風が車内に吹き込んだ。驚きのあまり、アコスは思いきり息を吸い込 んだが、あまりの冷たさに肺が切り刻まれるようだった。目は涙でいっぱいになった。 「太古の森です。世界が色を待ち望んでいた時代、森はこんなふうでした」 「お願い、私の怒りをなだめようとしているのだとしたら、やめて。私にはそれしか残っていないんだから」 「降りてみませんか?」 スカイカーを降りると、ふたりの足はあっという間に膝まで雪に埋もれた。温度調整機能付きの服を着ているという のに、肌を刺すような寒さだ。キツネが1匹、ふたりをじっと見ていた。つがいのオオカミが森の外れを通るのが見えた。 動物たちに注がれたアコスのまなざしが落ち着いてきたのを見て、ポールは予想どおりだと思った。森に棲む動物たち にしてみれば、アコスは崇め奉らなければならない象徴的存在などではなく、他の動物たちと変わらないただの生き物、 いや、突然やってきた邪魔者でさえあった。 確信に満ちた様子で、アコスは微笑み、言った。 「ここには私の居場所はないわ」 「まだ終わっていませんよ」 ポールはモニターをオンにした。ラクシュミーが容量を増やして、プログラムとの中継ができるようにしてくれていた。 「ポルピュリオスって聞いたことありますか?」 「ギリシャ語で紫色という意味よ」アコスは答えた。 「哲学者の名前でもあるわ」 24 「そのとおり。ポルピュリオスの樹というのは、その哲学者の名前から来ていますね。すべての存在をひとつにまとめ上 げる論理学的な枝葉のようなものです」 「いらいらさせないで。いったいなにが言いたいの?」 「これです」 ポールは画面に軽く触れた。長い糸のようなものがデジタル画像で何本も扇状に広がり、それから互いに交わって空 き地を覆う網のようなものができた。ホログラムは地上から1メートル 20 センチほどの高さに浮かび上がっていた。 「なにが見えますか?」 「網みたいなもの」 ポールは第2段階を始動させた。糸と糸の交わりのひとつひとつに点が現れ、それがやがて縦糸に沿って立体的に広 がり、ついには網全体を埋め尽くした。アコスは嗚咽をこらえた。 「まるで……珊瑚だわ」 「何色の?」 「白よ」 「ひとつひとつの点を、注意してよく見てください」 アコスは身を乗り出し、基本単位のひとつを観察した。それはある医療記録に由来する要素で構成されていた。また 別の基本単位は最初の基本単位から数十キロメートル離れたところで生きていた。また別の基本単位といえば、こんど は時間的に遠く離れていた。しかしどの基本単位もアコスの救済行為によってひとつにつながっていた。 「これらの点はそれぞれがひとつの生命を表しています。一緒になって群体を形成し、その要素はひとつ残らず他の要素 と完全に調和しつつ共存しています。各部が連帯している、あるひとつの全体。あなたの尽力により“近世界性”とい うひとつのまとまりになった人類です」 プログラムはひとりでに進行していた。あらゆる方向に増殖し、それぞれの樹木の、どんなに些細な起伏をも考慮し ながらその土地に適応し、 「ホロビオント」を構成しつつあった。群体を構成する点はいまや何千という数に達していたが、 プロセスは停止する気配を見せなかった。 「あなたのおかげで救われた人々です」 突然、アコスは卒倒しそうになった。 「群体……」 ポールはかろうじてアコスを抱きとめた。 「赤く見える」 「なにを感じるか、教えていただけますか?」 アコスは、言葉が出てこなくなってしまったようにしばしためらった。ポールはアコスの瞳に驚きと、そして感謝の念 を読み取った。 「単なる…印象かもしれないけれど……見たこともないような赤、目の前に初めて現れたような。なんだか自分が生まれ 変わっていくような気がする」 大成功だった。ポール、ラクシュミー、ヴィクトール・セガル、ならびに作戦に参加して感謝の意を示した有志の人々。 全員が力を合わせて、ゴルゲイア・アコスの感情を再び呼び起こすことに成功したのだ。 アコスがそっと触れると、紫色の枝葉は震えたように見えた。 「改めて気づくべきことがまだまだたくさんありそうね。初めからやり直す勇気をもらえるかしら?」 ポールはアコスの肩に手をまわした。 「自信を持ってください、アコス。幸せになるためには、かならずしも振り出しから始める必要はないのですから」 Xavier Mauméjean グザヴィエ・モメジャン 25 LA REINE D AMBRE 琥珀色の女王 「マダム、腰かけていらしたほうが」 杖を握る樋口典子の手が一瞬、硬くなったが、表情からはその苛立ちは一切、読み取れない。執事がせわしなく携帯 電話のスクリーンを開いたり閉じたりしているあいだ、典子はシャトーへと続く道の端をじっと見つめた。 「来るわ」典子がぽつりと言った。 「私には見えませんが」 「彼が敷地内に入ったらすぐさま知らせるように、杖にプログラムを仕組んでおいたの。私の勘が前みたいに良くなった わけじゃないわ」 「マダム、私はただ……」 「ぴりぴりしなくていいのよ、クリスチャン。何が起ころうと、あなたがシャトーを離れることはないわ。彼が到着するまで、 秋の美しい景色をゆっくり眺めさせて」 執事は口を閉じ、典子は丘をわたる風に揺れる葉のそよぎに耳を傾けた。風の音が、厳しい季節の始まりを告げてい た。一陣の風が吹いて道路の白砂が舞い上がると、ふたりは思わず目を閉じた。典子が目を開けると、遠くに濃紺のスー ツを着た若者の姿が見えた。 「まるでクローンが送られてきたようですね」執事は嘆くように言った。 「財務部長というのは誰も彼もが同じ格好をして いるのでしょうか。まるで人工孵化で生まれてきているように見えますが」 「低俗な映画の観すぎよ。前任者はワインのことを何も知らなかったから、私たちの好きなようにやらせてくれた。その 点では新しい人も同じだといいけれどね」 訪問者は神経質な足取りで近づいてくると、握手をする寸前に耳にはめていたコミュニケーション用のイヤホンを抜き 取った。 「お会いできて光栄です。マティス・ブルメールです。今回は……」 「旅のお疲れはありませんか ?」 「いいえ、お気遣い、ありがとうございます。ただ、シャトーからあんなに離れたところにプライベートジェットを置いて こなくてはならないのには驚きましたが。ブドウ畑の上空を飛んでみたかったので」 「確かに1キロは歩かなくてはなりませんものね。ごめんなさいね」 「いえいえ、私は根っからのパリジャンです。歩くことにかけては自信があります。そもそもパリで車が禁止されたのは、我々 歩行者の安全のためですから」 マティスは典子を安心させようと言った。 「それはいいことですわ。こちらがクリスチャン、私の執事よ。必要な経理の書類は彼のほうからお渡しします。さて、シャ トーをご案内しましょうね」 26 「今回は非公式な訪問です。ご挨拶代わりの訪問とお考えください。サテライトのカメラや監視ステーションを通してで はなく、この目でブドウ畑を見たくて来てしまいました。ラ・レーヌ・ダンブルに足を踏み入れるなど、誰にでもできるこ とではありません。妻はうらやましがっていました」 典子は返事をするのを一瞬ためらって、相手をしみじみと眺め、若者の目が打算で光るのを見て思わず身震いした。 歩いているあいだじゅうずっと、マティス・ブルメールはしゃべり続けた。杖をついている女社長を気遣って腕を貸そう としたが、それは丁寧に断られた。 「これだけ長い間、ラ・レーヌ・ダンブルのトップでおられるというのは異例なことです ! 最初のヴィンテージは 2044 年 でしたでしょうか」 「2043 年です」 「失礼しました。あの時代、あなたは非常にお若かった。32 歳であれだけ優れたクオリティのワインを造るなんて、我々 にとっても感動的な出来事でした」 社長のポストを命ぜられたときにまだ生まれてもいなかった若者の口から、 「あの時代」という言葉が飛び出すのを聞 いて、典子の杖を握る手に思わず力がこもった。典子は執事には何も言わず、シャトーに続く階段を上る代わりに、くる りと向きを変えてブドウ畑に向かって歩き出した。就任したての財務部長と話し合いをする前に、まずは畑を見せなけれ ばならない。丘陵の一面にブドウ畑が広がる中、いくつかの植え込みだけが整然と並んだ列を乱しているが、この配列 からは確かなハーモニーが生み出されていた。ブドウの樹の幹が切られ、溝ができていても、典子はブドウの葉が褐色 に染まる秋のこの景色を眺めると、砂熊手で砂紋をつけた禅庭園に連れてこられたような気持ちになる。この景色の静 けさにエネルギーをもらっているように感じるのだ。 ふいに子どもたちの叫び声がして瞑想から引きずり出された。10 メートルほど先のブドウ畑の真ん中に4、5人の子 どもの姿があった。典子はマティス・ブルメールが話しているのも構わずに子どもたちに近寄ると、仲間に囲まれてひと りの女の子が尻餅をついていた。 「どうしたの ?」 「こんにちは、マダム。一緒に遊んでたら、クロエが転んじゃって、ケガしたかもしれなくて」 女の子は泣きやんだが、頰には涙の筋が残っている。ワンピースのすそをたくしあげて血が出ている膝を見せると、典 子はかがみこんで傷を見た。ほんのかすり傷だった。 「大丈夫、たいしたことないわ。ママに電話する、それとも、お友達にお家まで連れていってもらう ?」 背後で執事が咳払いするのを聞いて、典子が左手にあるブドウの樹に目をやると、クロエが転んだときにとっさにつか んだのだろう、枝がいくつか折れていた。男の子のひとりが心配そうに言った。 「かくれんぼして遊んでたいんです。ぼくらが、見つけたって言ったら、そのときに……」 「わざとしたわけじゃないのよね、わかったわ」 典子は少しだけしかめ面をしてみせながら体勢を起こすと、杖の先で折れた枝をさわった。転んだ女の子が男の子の 肩を借りて立ち上がった。 典子は女の子の赤毛の長い髪をなでた。 「ケガはしていないわ、大丈夫よ」 「転ばないようにって、手を伸ばしただけなんです、ごめんなさい」 「いいのよ。でも、みんながパパやママに叱られずにすむか、その保証はできないけれどね。傷んだ樹の情報はオフィ スに送ったわ。手当をしてくれるチームのコンピューターにすでに報告が届いているはずだから、安心して。さあ、みんな、 もう帰りなさい」 27 「はい、マダム」 子どもたちはクロエを囲むようにして、住まいのある建物に向かって丘陵を駆け降りていった。典子は束の間、笑みを たたえたままその様子を見ていた。 「ずいぶん寛大なんですね」マティス・ブルメールも微笑みながら言った。 「収穫は終わっていますから、次の仕事が再開するまでのあいだは畑で遊んでいいことになっているのですよ」 「作物に被害が及びませんか」 「被害なら、ここで働く栽培者たちは山ほど経験してきましたよ。私たちの開発した回復樹脂の効き目はすごいのよ。畑 を丸ごと根こそぎにしない限り、子どもたちのいたずらなんて、なんでもないわ。それより、ここで働いてくれる家族が皆、 この土地を愛し、いつまでもここで働きたいと思ってくれるほうが大事。収穫にふさわしい貴腐化の状態を見極められる 優秀な摘み手を育てるには、本当に時間が掛かるの。だからこそ私は彼らを大切にしているの」 「いつかロボットがその仕事もできるようになるかもしれませんね」 典子が眉間にシワを寄せるのを見て、執事は、典子の苛立ちを察した。 「私の役割は毎年の収穫量を確保すること。テクノロジーが私たちの能力のレベルにはいあがってくるのを待つことでは ありません」 「とはいえ、テクノロジーなしでは……」 「今言ったことが聞こえたと思いますが。確かにアデレイドが来てくれて、私たちは助かりました、それはよくわかってい ます。40 年代はとうに終わったのですから。今、ここに不足している人材はいません」 典子の反論にマティスは喉を詰まらせ、ブドウ畑の真ん中で、苦笑いをしたまま居心地悪そうにしている。 「そろそろシャトーにご案内しますわ」典子はやさしい声に戻って言った。 「お望みのとおり、まずは畑を見ていただきたかっ たの」 マティスは動揺しながらうなずいたが、執事の穏やかな表情を見て少し安心したのか、案内されるままに丘陵を歩きだ した。彼らの目にはすでに、昔ながらのシャトーというよりモダンな住居によくあるような、苔むした建物が見えていた。 ブドウ畑の広大な土地に面している南の棟は複数の大きなガラス窓で仕切られている。可動式で光によって色が変わ るガラスだ。丘陵の半ばまで来ると、窓以外の外壁も見えてきた。コンクリート、木材、古い石が複雑に組み合わされ たデザインだが、苔や蔓で覆われた四隅の塔や、モジュラー建築を強化するための金属製ののこぎり壁(銃眼)を残し ているところなど、全体としてはクラシックな雰囲気だ。 「シャトーを改装したと知ったときには、ここまで徹底的になさったとは想像しませんでした」マティスはわざと誉め称え るような口調で言った。 「もともとのシャトーは建築的にも歴史的にもなんの面白みもないのに、メンテナンスにはかなりの費用がかかっていた んです。おわかりでしょう、私も必要であればテクノロジーも喜んで取り入れるんですよ」 「私が住んでいる建物も、ここまで高性能ではありません。2060 年代の初めは、こうした建築に木材とコンクリートを 合わせて使用するのはタブーのようなところがありました」 「プラントウォールも一時、姿を消していましたね。でも、ガラスしか目に入ってこない建物というのは、とても残念に思 えたんです」 3人はシャトーのエントランスへと続く、薔薇の木で縁取られた小さなテラスに着いた。マティスは1本の薔薇の花に 近づき、匂いをかいだ。典子の体が強ばった。 「アンバー・クィーンですね !」彼が叫んだ。 「今年は悪天候で、 開花がいつもより遅かったんです。あなたはラッキーでしたね。収穫が終わったあとにアンバー・クィー 28 ンの香りをかげるなんて、めったにないことですよ」 「繊細で軽やかな香り。シャトーのイメージどおりです」 典子は一瞬、不満げに唇を噛んだ。一方、 マティスは「敵」と感じている目の前の女性と同じ口調で言い返せたことで、 負けを挽回して同点に追いついたボクサーのように、ちょっとした勝利の喜びを味わった。 エレベーターで建物の2階に着くと、典子は金属製の台の上に置かれた陶製の黒い筒に近づき、かがみこんで長い筒 の中に腕を滑り込ませた。同時に、受け皿に置かれていたイヤリングを手に取り、耳につけた。カチカチッという一連 の音がして筒から腕を引き抜くと、手首と前腕の一部に、ダイヤモンド、シルバー、さまざまな宝石で作られた繊細なド きりん ラゴンのようなものをまとっていた。中国神話に出てくる伝説の霊獣、麒 麟だ。麒麟の目の部分は水晶の球がはめられ、 典子の肌が透けて見えている。来客用のサロンに足を踏み入れると、太陽の日差しを受けて宝石は目がくらむほどの輝 きを放った。 典子は自分の腕で麒麟が満足しているか確かめるように手首を動かした。 マティス・ブルメールは宝石にはまっ たく興味がないのか、視線はむしろ部屋の中央に置かれたキャビネットやテーブルに注がれている。 「ヌーヴォー様式ですね。50 年代の家具がお好きだったとは」 若者は、ルビーでかたどられた椿と人工象牙で図式化されたアオサギに彩られた棚の、豪華な装飾に見入った。する と眉をひそめて言った。 「不思議ですね、どこの国から来たものかわからない。家具の刳型が見えないし、デザインも私が知っているものよりずっ とシンプルだ」 典子はうんざりしたまなざしをクリスチャンに向けた。マティスのとめどないおしゃべりにいらいらし、本題に入る前に すでに疲れていた。 「あなたの前任者がシャトーの調度品をモダンなものにすることに賛同してくれたんですよ。私がアジアの血を引いている ことで、ヌーヴォー様式とアールデコをミックスすることができる職人を探してもくれました。ここに泊まりに来る方たちは、 皆さんとても感動してくれます」 「前任のエベルアールはセンスがいいですね。確かフランスの高級家具師と血縁関係にあったかと。あなたはまさにシャ トーの鏡ですね」 「どうぞ、お掛けになって。クリスチャンにワインを持ってきてもらいましょう。テイスティングしてみたいヴィンテージは ありますか ?」 典子の口調は丁寧だが、冷ややかな視線には苛立ちが読み取れる。マティスはといえば、話題を中断されたことにす ら気づいていないようだ。 「ブラインドテイスティングはいかがでしょう。私は醸造学の修士号も持っていますし、あなたが造ったワインはほとんど 勉強しました。ただ、20 年代より前のワインについて特定するのは得意とは言えません」 「クリスチャン、わかりましたね ? ふさわしいワインをお持ちして。気温も穏やかですからサロンの窓を開けて、10 月 最後の素晴らしい一日を堪能しましょう」 「かしこまりました、マダム」 執事は来た道を戻り、エレベーターの中に消えた。典子はため息をひとつついてから向きを変え、訪問者のもとへ戻っ た。同時に巨大なガラス窓が自動的に開き、サロンはたちまち朝の新鮮な空気で満たされた。 典子が無意識に椅子を一脚手に取り、テラスのローテーブルの横に持っていくと、マティスも同じことをして、ふたり は同時に腰掛けた。ふたりの目の前には広大な丘陵がひろがっている。トネリコやブナの樹々が単調なブドウ畑の景色 に変化を与え、綿のような雲のすき間からのぞく青空と調和し、シャトーを囲むようにそびえるマロニエの樹々のあいだ から、時折聞こえてくる渡り鳥アトリが奏でるメロディが静けさを強調していた。整然と並ぶブドウ畑が広がっていなけ 29 れば、人から見放された土地だと思われても不思議ではない光景だ。しかしそんな土地でもあきらめずに仕事をし、最 高のものを生み出そうと手入れをしてきたのだ。 「本当にここに来てよかった」マティスが言った。 「パリも大好きですが、あなたの手にかかったこの土地も本当に素晴ら しい」 「ブルメールさん、こんなに遠くまで観光でいらしたわけではありませんよね ? もうお芝居はやめませんか。私には半分 しか日本人の血は入っていません。もっとダイレクトなアプローチにも耐えられますよ」 マティスは微笑み、先ほどまでのにぎやかな口調から一転して落ち着いた声で言った。 「マダム、あなたを非難するつもりなどまったくありません。あなたは完璧なまでにシャトーの評判を維持し、ラ・レーヌ・ ダンブルを世界最高のワインに押し上げた。販売状況も上々で、競合相手以上にアフリカの顧客をも惹きつけている。 将来もますます発展することは……」 「とはいえ役員たちは、私のことを引退に追い込もうとしていますね」 「なにをおっしゃるのですか、まだお若いのに。あなたの経験は我々には欠かせないものです」 ひつぎ 「というより、彼らは、私のために金色の柩を見つけようとしているわ」 「そんな皮肉をおっしゃらないでください」 「言わせていただきますが、役員たちは間違っているのよ。私は彼らが納得するセールスポイントを生み出してきました。 おいそれとクビになんてされないわ」 「誰もあなたをクビになどしません。ご自分の好きなときにお辞めになればいいんです」 「いったいどんな汚い手を用意しているのかしら」 マティスは首をかしげ、典子のことを横目でにらんだ。 「お言葉を返すようですが、我々を先にだましたのは、あなたのほうですよ」 典子が反論しようとしたとき、お手伝いの若い女性を伴ってクリスチャンがサロンに戻ってきた。女性がリモコンを使っ て動かしているワゴンの上には、ワインが4分の1ほど注がれたグラスが3つお盆にのっている。クリスチャンはラベルを 隠してボトルを持っている。 「ブラインドテイスティングですので、食べ物はご用意しておりません。アペリティフにふさわしい軽やかなタイプのヴィン テージを選んできました」 「ありがとうございます、クリスチャン。あなたの選択を信用していますよ」 執事は微笑みながらサロンのテーブルにボトルを置くと、お手伝いの女性は典子とマティスにグラスを渡した。マティ スはクリスタルのグラスの脚を持って、黄金色の液体を太陽の日差しにかざして観察し、何度かゆっくりと回したあと、 グラスに鼻を近づけた。典子は微動だにしない。お手伝いの女性に礼を言って、下がるように言った。 「 素晴らしい ! なんてふくよかな香りだろう !」マティスが声を上げた。 「これほど複雑な魅力を持ったヴィンテージは稀 少です。最高のワインを用意していただき恐縮です」 クリスチャンは何も言わずにうなずいた。典子は平然としたまま、ローテーブルに置かれたグラスにも手をつけていない。 「熟した果実のニュアンスが感じられます。ミラベルやアプリコット、そのあとにイチジクから洋梨へと移行していくよう な香り。しばらくたつと、スパイスのサフランのような特徴も出てきますね」 マティスはグラスを口に近づけ、最初のひと口を飲んだ。 「香りの開き方が見事ですね。ボリューム感も並外れている。甘美で、新鮮で、完璧だ。攻撃的なところがまったくない のに、 比類なきダイナミックさを備えている。 こんなに繊細なヴィンテージにはなかなか出合えません。 あなたが就任なさっ たあとの収穫のひとつということで選択肢は限られていますよね。 まだ若い感じがしますが、 今後さらに成熟していくでしょ 30 う。私の考えでは……2068 年、この年は素晴らしい当たり年でした」 マティスは執事の方を振り返り、賞賛されるのを待った。が、クリスチャンはマティスの期待には応えず、典子が自分 のグラスに手を伸ばす様子を見守っていた。宝石でかたどられた麒麟の舌が典子の手と同化しながら延び、指の先端に 達するとチューブとなってグラスの液体の中にもぐり込んだ。すると、透明だった目がたちまち肌の上で黄色く変わり、舌 は自分の場所にするするっと戻っていった。典子は片方のイヤリングをはずしてローテーブルの上に置いた。 「アデレイドの意見をお聞きになりたいのでは ?」 「もちろんです」 メノウと銀のイヤリングが一瞬、小さな音を立てると、内蔵されているマイクからアデレイドの声が聞こえてきた。 「湖のまわりを素足で歩いている、青くて長い髪をした娘は、大きな希望を胸に抱いています。彼女が微笑む姿を、草の 上で踊る姿を見てください。自由で、反抗的で、捕まえようと思っても無理です。彼女があなたに話しかけるとき、彼女 はあなたのことを誉め称えます。でも、あなたが、彼女を自分のものにしようとすると、するりと離れ、飛ぶように逃げ 去って隠れてしまいます。柔らかな生成りの白のワンピースは風をはらんでふくらみ、衣擦れの音を立てます。サテンのよ うな感触を実感したくて、あなたは肌をなでてみたいと思うでしょう。しかしながら、花開いたばかりの若さを謳歌してい る彼女は、あなたを待つことはありません」 典子は目を閉じ、グラスをつかんだ。そして液体がグラスの中で回転し、小さなしずくとなってゆっくりとグラスの内側 を下降していくのを観察してから、マティスに視線を向けた。 「あなたの評価もそう遠くはありませんでしたね。ワイン学者たちがしばしば陥る間違いです。混同するのはあなたが最 初ではないと思いますが、もう少し慎重な人なら、68 年によく似た年を言い当てるでしょう。ラ・レーヌ・ダンブルの歴 史の中には、2年続けてそっくりの当たり年が過去にありました。2067 年だと私は思います」 今度は、クリスチャンは笑みを見せ、 マティスのそばにボトルを置いてラベルを見せた。典子の言い当てた年が正解だっ た。マティスはいったん開きかけた口を閉じて、改めてワインを口にふくんだ。典子ははずしたイヤリングを耳につけると、 ワインを口にふくみ、目の前に広がる景色を楽しみながら、自分の手がけたワインのテクスチャーと新鮮さを味わった。 収穫が終わっても太陽はブドウ畑にさんさんと降り注ぎ、雲は輝いていた。実際に飲んでみるとディテールにますます敏 感になり、微細なハーモニーまで感じ取れる。 「奇跡的ですね」マティスはぶっきらぼうに言い放った。 「人工知能(AI)にこれほど繊細な製造年度を言い当てられる なんて」 「我が盃を 眺め飲み干す 秋うらら」 「は ?」 「19 世紀の俳人、良寛を真似て詠んでみたくなったのです」 「なるほど」 大地に広がる自然のやさしさに満ちた朝の終わろうとしているこの瞬間を、誰にも邪魔されることなく、もう少し楽し んでいたい。マティスにはワインを飲みながらの座禅というものが理解できるだろうか。 「マダム、あなたは見事に障害を乗り越えましたね。それでも、5年前の飛行機事故で嗅覚を失ったことを、これから も隠し続けるおつもりなのですか」 瞑想の時間を邪魔された典子は、今日は悟りの境地に至ることができないだろう。とはいえ、ワインの中に悟りを求 めたことは一度としてないが。 「私は申し分のないワインを造り続けていると思いますが。2071 年のワインを試してみますか ?」 「あなたの障害については、なんとかして隠し通さなくてはなりませんでした。いつか秘密が世間に知られれば……」 31 「ワインがあればいいじゃない。私の存在や私の嘘より、ずっと重要です。ワインを信じていればいいのです」 「リスクが大きすぎます。ラ・レーヌ・ダンブルの評判は何世紀にもさかのぼりますが、たったひとつでも間違えば、その 評判は一気に崩れさってしまうんですよ」 典子はワインをもうひと口飲んでからグラスをテーブルに置いた。 「その話なら、ほかの人にするといいわ。私はたったひとりでこのシャトーを守り抜いてきました。あのパンデミックで優 秀なセラーマスターたちが命を落とし、残り少なくなったセラーマスターをボルドーの名家がシャトーのために独占してし まったときも。 もし私がテクニカル・マネジャーとしてAIを採用しなかったら、 少なくとも10 年分の収穫は失っていたでしょ うね。会社は世界最優秀ソムリエに選ばれたことのある、私の母、樋口花恵の娘を社長のポストに就かせたことでアジ アの国々の顧客を惹きつけることができて、とても満足していましたよ。企業のイメージ作りなら、私はよく知っています」 典子のこの言葉を聞いて、マティスは体を強ばらせ、身構えた。これほど激しく抵抗してくるとは予想していなかった のだ。 「マダム、顧客は変化していきます。南アフリカのケープワインで知られる都市ステレンボッシュはボルドーのいくつかの シャトーと競い合っています。これからはケニアにも期待できます。5年もたたないうちに、アフリカ人の中から優秀なソ ムリエが誕生すると私は思っています」 「その時になったら、どうぞまたおいで下さい」 「私の言うことが、あなたにはよくわかるはずです。優秀な人物が見つかるまでの引き継ぎをしっかりするために、私はこ こに送られてきたのです。あなたの父親はクルセル家、私の母親はテセロン家の出身です。我々ふたりが、ワインの世 界では名家の出身という事実を知っただけで、世間は我が社の継承に不安を覚えるはずがありません」 「でも、あなたには経験がないでしょう。専門はお金でしょう」 マティスは典子の腕の麒麟を指差した。 「経験ですか、経験ならアデレイドのデータベースに納められたセラーマスターたちのすべての記憶の中に見いだすこと ができます。あなたが築いてきた系譜を断ち切ろうとは思っていません。ただ、ワイン造りから身を引くことを公表してい ただきたいだけです。ご心配であれば、栽培者たちも執事も、そのまま引き継いでもらいます」 「同意しかねます。あなた方は私の仕事をばかにしていますね」 「ばかにしたのはあなたのほうですよ。事故に遭ったにもかかわらず、なんの後遺症もないと嘘をついて。秘密裏に、よ く言えばエレガントなやり方で、あなたの代わりを見つける権利を彼らから奪った。マダム、選択の余地はありません。 あなたは引退して、閑職に甘んじるべきです」 典子は怒りで顔を紅潮させた。 「こんな不条理な決定は、認めません。私には障害などないわ。この土地とブドウ畑なら誰よりもよく知っているし、そ れに、引退するほど年取っていません。10 年、20 年、30 年あってもこのワインを完全に理解するには足りないのよ。 まだまだ私は熱意を失っていません」 マティスはワインを飲み干し、舌で唇を拭ってからグラスをテーブルに置き、立ち上がると、満足気にジャケットのボタ ンを留めながら言った。 「マダム、ご自分で先ほどこうおっしゃったではないですか。ワインはあなた自身より重要だと。ラ・レーヌ・ダンブルは あなたがここにやってくる前から存在している。あなたがいなくなっても在り続けるでしょう。あなたの大好きなこの眺め と、その傲慢な気持ちを混同しないでください。ここでの生活を手放すのがいやなのでしょう。しかし、潔く去ってくだ さい。ここで造られるヴィンテージにふさわしい態度をとってください」 「ムッシュー・ブルメール、帰り道はご存じでしょうから、お見送りはしませんわ」 32 マティスは軽く頭を下げると、そそくさと立ち去った。彼の姿が視界から消えると、クリスチャンは空いている席に腰 掛け、お手伝いの女性が置いていった3個目のグラスを手に取った。典子がテラスのテラコッタタイルをうつろな目で数 えながら思いをめぐらしているあいだに、クリスチャンはワインを口にふくんだ。 「本当に素晴らしい」つぶやいた。 「まさに、春のワインです」 「クリスチャン、私は引退すべきなのかしら」 「あなたが聞きたいのは、友人としての考えですか ? それとも、あのムッシュー・ブルメールに給料を支払っている会社 の同僚としての意見ですか ?」 女社長の顔がほころんだ。 「ここに来てからというもの、毎年、驚きの連続だった。何物にも代え難いほどの驚きを私に与えてくれた。それほど大 切なものを私から奪って、その代わりに彼らは私に何を与えてくれるというの ? 確かに嗅覚は失ったけれど、このワイ ン畑に対する愛情は冷めるどころか深まるばかりよ。今でも、ブドウの実の貴腐化が始まるのを見ると感動してしまうの よ。この不思議な力は役員たちにはわからない、わかるのは私たちの大切なお客様だけよ」 「私の考えを述べさせていただいてもよろしいでしょうか」 「もちろんよ」 「あの若者はなぜ今、ここにやってきたのだと思いますか ? 役員会は何を怖がっているのだと思いますか ?」 典子がこの問いに対する答えを探しているあいだ、一陣の風がマロニエの葉をゆすった。 3月のある晩、典子はブドウ畑を歩いていた。肩から斜めに掛けたバッグがカタカタと音を立てているのを見ると、少 なくともワインのボトルが1本は入っているのだろう。満月の光に照らされた植物が陰鬱な影となって地面に映し出され、 枯れ木にも似たブドウの樹はまるで引き裂かれた骸骨のようで、畑は何かが欠けた、もろい状態にあるように見えた。 典子はトネリコの植え込みをぐるりと回って立ち止まり、どっしりしたコートのボタンをはずした。3月にしては穏やか な夜で、風がないことに安心して典子はコートを脱いで地面に置き、クッション代わりにしてあぐらを組んだ。バッグの 中から、細い銀糸に縁取られた地味な色の四角い布を取り出し地面に広げた。次に取り出したボトルは倒れないように 太ももで支えている。そして、恭しいしぐさで、両手で盃を取り、布の真ん中に置いた。緑色の陶器の、直径 10 セン チほどの盃だ。 遠くからはやっとのことで畑の真ん中に女性がいることがわかる。毎年、欠かすことのないこの儀式には、誰ひとり 立ち会わない。一度、天気予報が豪雨の可能性を告げていたときには、ドローン(無人飛行機)が儀式のあいだじゅう、 彼女の頭の上にテントを張っていたことがあった。この瞬間がいかに必要不可欠であるかを物語る光景だったが、今年 はなおさらのことだ。昨年秋のマティスの訪問以来、典子を引退させようとするプレッシャーは強まるばかりで、ワイン のネゴシアンまでもが彼女が身を引くことを期待していた。顧客たちは醜聞を信じ、会社のマーケティング部門は女社 長の引退を、まるでイベントの準備でもするかのように待ち構えていた。典子はといえば、逃げ口を与えられぬまま、万 力で締めつけられていくようなものだった。 典子はラ・レーヌ・ダンブルから離れることなど考えられなかった。パリに引っ越して、移住してきた日本人のように暮 らすなど想像もつかなかった。世界を相手に商売するにはきっと有利であろうと、周囲の人々から、最優秀ソムリエとし て知られた母親の名前を名乗るよう勧められ、言われるがままにここまで来たが、自分のルーツはむしろ父の国、フラン スにあると思っている。父の仕事には定評があった。収穫のたびに彼女は父親の名にふさわしい仕事を成し遂げ、ボル ドーやシャンパーニュ地方に代々続く名家でさえ、彼女の能力を疑うことはなかった。典子はこの土地に快く迎えられ、 33 地元の人にしてみれば不思議なこの儀式も、誰ひとりとしてからかう者はいなかった。こうした習慣を続けることで、ブ ドウの樹の幹が2本の枝を空に向かって広げるように、典子は自分の仕事に自信をもっていられたのだ。 満月の放つ光が強くなり、突然、ブドウ畑がキラキラと輝いて見えた。2月に剪定した跡の切り口がふくらみ、ブド ウの涙が幹に沿ってしたたり落ち、樹液があふれ出して新しいサイクルの訪れを告げている。その奇跡を間近に見ながら、 典子は盃に少量のワインを注ぎ、右手の袖口をまくって、宝石でかたどられた麒麟を夜気にさらした。アデレイドは星空 のもとで眠りについていたようだ。AIを起こすには、親指でほんの少し揺するだけで十分だ。すぐさま宝石に触れてい る皮膚にかすかな震えを感じ、準備が整ったことを知らせてきた。麒麟の鉤爪と典子の皮下神経をつないだネットワー クが、宝石の台に組み込まれている電子チップと交信した。典子はマシンという言葉を使うことに抵抗があるのだが、こ のマシンは熱であれ電気であれ、伝導性のどんな変化にも調和して信号を伝えてくる。 典子にとっては単純な用途を超える存在であるこのAIとの共存から、 言葉が生まれるまでには10 年の歳月が必要だっ た。収穫の複雑さ、気象状況との駆け引き、こうしたことすべては方程式では解決できない。典子はAIがワインを探っ ていく中で、AI 自身の印象もそこに加味できるように、ワインを「感じ取って」ほしいと望んだ。AIが誕生する前には、 セラーマスターたちが過去の記録の中から学びとった知識に支えられながら分析を行っていたように、典子はAIにも同 じように、データベースに収められた記録にはとどまらない形で、彼らの仕事の流れを受け継いでほしいと願っていた。 麒麟の舌が延び、盃に注がれていた液体をなめると、目の色が変化した。すぐさま典子のイヤリングが軽い音を立て、 アデレイドの声が典子の脳に届けられた。 「大きな樹です。羊飼いが朝の風になびく新芽を眺めるように、荘厳な姿で丘に立っています。泡のつらなりのようなゆっ くりとした波が、遠ざかっていく子どもの足跡を一掃しながら消えていきます。山腹を飛ぶ鳥の声を聞いてください。ほと んど羽ばたきをしていないのに、それでも鳥のまわりの空気は振動しながら鳥を包み込み、運んでいきます。あなたも 大気に包み込まれて、巻きつかれて、大地の恵みを共有してください」 イヤリングは黙った。典子は両手で盃を持ち、口に近づけて数口ワインを飲んだ。そしてゆっくりと頭を下げながら、 盃を持ったまま両手を伸ばしていった。まるで目に見えぬ客人に差し出すように。そしてたっぷり 30 秒ほどそのまま姿 勢を崩さずにいたあと、典子はようやく体を起こして片手で布を横にずらし、盃の中身を砂質の土壌にこぼした。液体 は地面にしみ込んで消えていった。 日本酒にまつわる儀式とはなんら関係ないこの習慣を日本人が目にしても、そこに伝統的なものは感じないだろう。 典子は神道に敬意を表するためにこの習慣を続けているのではない。大地に敬意を表し、ラ・レーヌ・ダンブルの社長 に就任した日から彼女に与えてくれたすべてのことに感謝を伝えたいのだ。この土地で育ったブドウで造られたワインな のだから、その土にほんの少しわけてあげるくらいいいだろう。 「アデレイド」典子は声高らかに言った。 「ここを去るなんて考えたくないの。私の居場所はここよ。まだまだ学びたいこ とがたくさんあるのよ。あなたのおかげで私は障害を克服できた。あなたなしに、私になにができるというの ? 身勝 手かもしれないけれど、私たちはお互いに助け合いながら、ふたりで進歩してきたの。どのヴィンテージも、ふたりの協 力があってこそ生まれたものよ。私はまだまだあなたのことが必要なの」 返答はない。AIは交信するための声の機能は備えていても、報告を伝えるものであって会話をするためではない。ア デレイドはワインについて説明する以外、なんの言葉も持ち合わせていない。 「いえ、違うわ。私たちがふたりで築いてきたこと、それは私だけのものじゃない。私はむしろ仲介役でしかない。あな たには私の感情を提供した。あなたに成長してほしくて、もっと豊かになってほしくて、 私の感情を委ねた、 そして今…… (月 を見上げて)さあ、見せてちょうだい、アデレイド、あなたがどれだけ寛大かを」 典子は笑いだした。活力に満ちた笑い、エネルギーがわき上がってくるような笑いだった。 34 樽の熟成にあてられた地下のカーブの重々しい木製扉の前で、典子は鍵の束を手でもてあそびながら顔を輝かせてい た。クリスチャンとマティスがナラの木の階段を降りてくるのを見て、陽気に話しかけた。 「雨の多い、理想的な春ですね。電気ミニカーでのお迎えはお気に召していただけたかしら。飛行機ほどは快適でない かもしれませんが」 「畑は大忙しですね」 「寄生虫の駆除をしているんです。無駄な枝や葉っぱを取り除く作業には、いつも以上に人手が必要なんです。だから車 を1台迂回させて、あなたをお迎えに行くこともできたのよ」 「ありがとうございます。先週届いたメールには、正直、驚きました。昨年 10 月のあの訪問のあとに、こんなふうにあ なたから招待を受けるとは夢にも思っていませんでしたので」 「私にとっても、あんな知らせを、納得して受け止めるまでには時間が必要でしたの」 マティスは階段を降り切ってコンクリートの地面に足を置き、典子と握手をすると、黒い革の書類ケースを開けようと した。典子はそれを思いとどまらせるしぐさをした。 「書類を準備していらしたことはわかっています。でも、書類は私のほうで執事に作らせました。コネクトペンはお持ちで すか」 マティスは警戒し、怪訝な顔で尋ねた。 「何もおっしゃいませんでしたよね」 「ご安心ください、私は引退しますよ。それがあなた方の望みでしょう。私はただ、自分がいなくなったあともラ・レーヌ・ ダンブルがしっかりと守られることを望んでいるのです。私の雇った従業員とその家族については、自分で条項を書き留 めるべきだと思いまして。彼らのことをよく知っているのは、この私ですから」 「ここに来る前に、その書類を送ってくださるべきでしょう。役員会は、私が彼らの意見を聞かずにサインをしたらいい 顔をするはずがない」 「だからこそ、コネクトペンをお持ちか聞いたんです。クリスチャンはあなたの到着と同時に契約書を送っています。役員 の皆様も、今この瞬間に読んでいらっしゃるはずですよ。ご存じかと思いますが、ここの職人たちはみんなとても口うる さくて、何日もかけて話し合うのが好きなんです。その手間を省いて差し上げたのだから、喜ぶべきですわ。さあ、まい りましょうか」 典子は鍵束の中から鋳物の大きな鍵を取り出し、古めかしい錠に差し込んだ。装置がきしみ音を立て、典子が押すと 扉は一瞬抵抗したあと、ゆっくりと開いた。 「この香り……」マティスが驚いたような表情でつぶやいた。 典子は若者のこの言葉に他意があるとは思わなかった。自分自身もこの場所に初めて足を踏み入れた瞬間に沸き上がっ た感情、この場に漂っていた香りを今でもよく覚えている。樽から放たれる香りに不快感はいっさいなく、まるで、黒石 の分厚い支柱のある広いカーブにワインのエッセンスをさっと撒いたかのようだった。香水、そう、香水ビンの中に凝縮 されることのない香り。この感覚をどう伝えたらいいのだろう ? この贅沢な空間でしか体験できないこのはかない感覚 を。 この神秘的な嗅覚に慣れると、マティスは 30 メートルほど先の、カーブの奥に飾られている絵画のようなものに目を やった。プロジェクターのやさしい光の下でキラキラと輝いていなければ、印象派のポートレートに見えただろう。しかし、 近づくにつれて、それが何であるかがはっきりしてきた。一筆一筆が、微量のワインを閉じ込めた粒のようなガラスのカ 35 プセルで描かれているのだ。髪の黒、肌のハチミツ色、目の白さを表現するように色調が構成されている。全体としては、 控えめに微笑む、まるでアジアのモナリザといった感じの若い女性だ。 「あなたによく似ていますね」 「母です」 「かの有名な樋口花恵さんですね」 「オリジナルの写真は、母の死の2年前に撮られたものです。アーティストのゴルゲイア・アコスとガラス職人に頼んで、 彼らの望むすべてのヴィンテージを使って、このポートレートを仕上げてもらったのです。母が知ったら、素敵なアイデ アだと気に入ってくれたはずです。とても母らしい作品に仕上がりました」 「2035 年はひどい年でした。あのパンデミックをまぬがれた大陸はどこにもない。確か、お母さまはまだ 45 歳でしたね」 典子は若者の言葉にはほとんど耳を傾けずに、ポートレートに見入っていた。そして、樽が並べられた場所に続く階 段を数段降りたところで立ち止まり、揺るぎない口調で話し始めた。 「私たち人間と同じようにワインも年をとり、色も変わっていきます。この扉をくぐるたび、私は自分の顔に刻まれる小さ なしわと同じくらい微妙な違いに気づきます。私が死んだあとも、母は年を取り続けるのです。ヴィンテージが母を守り、 進化を続けながら、思い出を永遠のものにしているのです。私たちの職業にとって、こんな素敵な試みがほかにあるかしら」 「マダム、おっしゃるとおりです」 典子はうなずいて、自分についてくるようにと、マティスに左腕で方向を指し示した。壁をくりぬいたスペースに、テー ブルと椅子が置かれている。いくつものカラフが用意されているが、マティスの注意を引いたのは、ラ・レーヌ、 “女王”だ。 こはく スポットライトの光のもとで、 “女王”の体はガラスの輝きを放ち、中の液体はつややかな琥珀色だ。ハチミツ色の頰 に赤茶色の唇と、非現実的ではあるが調和のとれた顔で、オリーブグリーンの目だけがヒューマノイドの印象を払拭する かのように生き生きと輝いている。ラ・レーヌはマティスに挨拶をするために手を差し出し、自分のほうへ来るように導 いた。頭には繊細な環状の飾り紐が彫られており、身につけているもので服らしいのは白のエナメルのビュスチエだけだ。 ノッキングのない動きはなめらかで、全体がゴールドとオレンジの中間色で構成されていなければ、一瞥しただけでは人 間と見間違ってもおかしくはない。 「このヴィンテージを私と一緒に味わってください」機械的なアクセントはあるものの、甘美な声が告げた。 マティスが振り向くと、典子は彼が口にしなくとも知りたがっていることに答えた。 「ここを訪ねて来てくれる方たちに対するプレゼンテーションのひとつなんですよ。ショーのように思って、とても喜んでく れるわ。AIの存在が皆さんの気を引くんですね。ヒューマノイドとして楽しんでくれるの。私はここまで旅して来てくださっ た方たちの期待に応えたいと思っているのよ」 「私は観光客ではありませんが」 「契約書を読めば、おわかりになるでしょう。心配にはおよびませんよ、アデレイドは私たちと口頭でやり取りをするよ うには設定されていません。彼女はプログラムに従うだけ。どうぞおかけになって。ここに集まったのは、この秋に収穫 されたワインを格付けするためですよ」 「あなたが私に教えてくれるというのですね ? 光栄なことです」 クリスチャンに椅子を引いてもらって典子は腰かけると、10 枚ほどの契約書の入ったファイルを差し出した。典子は、 まるで目の不自由な人が点字を読むように、いつくしむように紙の表面をやさしくなでた。すべてがデジタル化された時 代だからこそ、印刷物はその厳かな面を保ち、契約書や公正証書のような特別な用途のためだけに残されている。信憑 性を証明するかのように1枚ずつ装飾的な縁取りが施されており、意見の対立があった場合に備えて電子コピーが予備と してとられている。 36 「私は決定には関わりませんよ、ムッシュー・ブルメール。立ち会いでしかありません。私の後継者の決定に従います」 「なんですって ? 今、引退なさるというのですか ? 引き継ぎもせずに ?」 「契約書をお読みになって。そうすればおわかりになるでしょう」 マティスは書類を急いで手にとると、最初の1行を読んだだけで目を丸くした。そして典子に視線を向け、ヒューマノイ ドを見て、そしてまた書類に没頭した。書類をめくればめくるほど表情が強ばり、足の震えは大きくなり、神経を高ぶら せていった。 「これがあなたの決断だというのですか ? どんな結果を招くことになるか、わかっているのですか ?」 「あなたはご自分がラ・レーヌ・ダンブルの新社長になると思っていらしたのでしょう。失望する気持ちはわかりますわ」 「あなたはアデレイドにシャトーを任せるというのですね、このマシンに !」 「言い直してください、マシンではなく、人工知能(AI)です。私の唯一の願いはこのシャトーを持続させていくことです。 あなたのおっしゃるとおり、ワインの見地からしてみると、私はもはやたいして役に立てません。傲慢な態度をとったこ とは後悔しています」 「こんな決定、役員会が認めるはずがない !」 「あなたのコネクトペンはなんと言っていますか ?」 マティスはジャケットの内ポケットから、光ファイバーの入った黒檀の繊細なペンを取り出した。ペンの中央の輪を回 すとかすかな雑音がして、金属製のペン先が現れた。典子はテーブルを軽く叩いた。 「おわかりですね、マーケティング部の人たちは、この選択をどう活用するか素早く理解したようです。アデレイドは会 社にとって重要な投資です。どんなに素晴らしい人物だとしても、一個人の利益のためにアデレイドを無視するなど、もっ てのほかです。私は多数派を認可したまでです」 「ワインは人間の創造物です」 「そうとは言いきれません。人間だけで造れるものではなく、連携によってでき上がるものです。ラ・レーヌ・ダンブルは 技術の産物にとどまりません、ボトリティス・シネレア菌に影響を受けた灰色かび病の粒の収穫の結果です。アデレイド は天候状況を見張りつつ、先読みをして、樽の熟成師たちの選択を承認する前に、摘み手たちの指揮を執っているのです」 「あなたは過去を捨てようとしているのですね」 「まさか、まったく逆です。AIは私たちすべての記録を頭に叩き込み、先達の経験を基にしてここまで進化してきました。 役員会は、アデレイドがヴィンテージを決める可能性を認めてくれています。だからこそ、あなたは私を辞めさせたかった のでしょう」 マティスは目を伏せて苦笑いをした。心の中で彼は、典子の抜け目なさを賞賛していた。 「どうしてわかったんですか」 「私の造るワインにはなんの心配もないはずです、それなのに、なぜ今この時期に引き継ぎを強要するのですか ? あな たは私に関する噂など、本当はちっとも怖くなかった。広報の担当者たちがネット上のコミュニケーションはしっかり管 理していたし、私に関する情報は完璧にコントロールしていました。しかも、お金の問題でもない、2056 年のような打 撃が生じる恐れもない。それなのになぜ私を説得するために、財務部長を送ってくるのですか ?」 「収穫のあいだ、 我々はアデレイドのレポートを読んでいましたよ。天気予報は 2056 年と同様、最悪だった。雨ばかりで、 太陽はほとんど顔を出さず、収穫量は少ないだろうと」 「2056 年は、このシャトーにふさわしいヴィンテージは造れないだろうと判断していました」 「300 万ユーロの損失でした」 「それでも、翌年は大成功でした」 37 「でも、あのときはまだあなたは嗅覚を奪われていなかった。今となっては、どうやってあなたを信用すればいいんですか ? 収穫の条件にかかわらず、ヴィンテージを生む可能性は大いにある。しかし、ハンディキャップのせいであなたが疑問 に思ったら、安全策としてシャトーの名前をつけずにネゴシアンにすべて売ってしまうことだってありえるじゃないですか。 絶対にありえないと言い切れますか ?」 典子は背中を向けたままのクリスチャンに目をやった。彼は動じない。決意を告げたときも、反対もしなかったが賛 同したわけでもない。典子はクリスチャンを裏切るようなことはしたくなかった。シャトーに仕え、摘み手が足りずに雇っ た人たちを訓練しなくてはならないときも彼は頼りになった。すべてが賭けで、リスクを伴うことだった。 「いずれにしても、私はアデレイドに任せると決めました。あなたが私だったら、同じことをしたはずよ。とはいっても、 私は賭けをするのが大好きなの。2073 年のワインをテイスティングしましょう。グラスを用意しておきましたから。まず はあなたの意見を聞かせてください。そのあと、AIの意見を聞きましょう。その前に、サインをしてくださいね」 マティスはコネクトペンを指の間で転がしながら、少し躊躇した。 「まさかマシンを調整していないでしょうね ?」 「私は情報処理のエキスパートではありません。それに、どんな小さな修正であれ、あなたのサインを有効にする前に、 役員の方たちが閲覧できるようになっています。アデレイドには皆さんに隠しておけるような秘密はいっさいありません」 マティスは大きく深呼吸をすると、書類の1枚1枚の右下にイニシャルだけの略式のサインをし、最後のページにフル ネームで署名をした。このすべてがありとあらゆるデジタルのバージョンに保管されるよう転送された。典子は本社の役 員と情報がつながっている自分のコネクトペンで同意のサインをした。この瞬間、典子はラ・レーヌ・ダンブルの社長で はなくなった。カーブの石造りのアーチの下にいるからといって、特別な郷愁は感じなかった。それよりも、胸を締めつ けてきたのは、なんともいえないはかなさだった。人は 30 年もの長い歳月をかけて注ぎ続けてきた情熱に、涙を流す こともなく、最後のページを閉じることができるのかと。 「マダム、大丈夫ですか ?」マティスが声をかけた。 「ええ。私くらいの年になってようやく、« もののあはれ » の意味が理解できるようになるのね。気づかずにやりすごし てしまうところだった、危ないところだったわ。さあ、どうぞテイスティングしてください」 マティスは典子の言葉には答えずに、狭くて長い首のグラスにカラフの中身を注いだ。 「濃い黄金色、コンフィした果物にアーモンドとマーマレードが混じり合った、とても凝縮された香り」 彼は液体を口に含み、目を閉じて、安心したようにため息をついた。ボールにワインを吐き出すと、彼の顔が満足感 で輝いた。 「余韻が長く残りますね。ハチミツとほんの少しヨードの香りがする。最高峰には位置づけられないが、素晴らしい。摘 み手も栽培者たちも、ひどい天候だったにもかかわらず、奇跡を起こしましたね」 「アデレイドのコメントを待ちましょう」 クリスチャンはグラスにワインを注ぎ、ヒューマノイドが口もとにグラスをもってこられるようにつまみを調整した。口か ら1本のチューブが飛び出し、ほんの少しワインを吸い込むと、10 秒ほどしてカーブに声が響き始めた。 「街の中に埋もれるようにして建つ、小さな建物です。壁にはひびが入り、たわんでいます。急ぎ足で歩くと気づかないでしょ うが、壁は赤みを帯びています。あなたの目の前にあるのは、ひなびた、しかし美しい後陣、アプスです。まわりを一 周すると、静けさや、建物の丸みを称えたくなりますが、最後には混乱するでしょう。なぜ空に向けてこんなに高くそび えているのかと」 典子はマティスに目を向けることなく、肘かけ椅子に深く身を沈めた。 「それで ?」と彼が聞いた。 38 「聞こえなかったのですか ?」 「あなたはアデレイドと一緒にこの言葉を作り上げたかもしれないが、私は何も知らないし、この言葉を翻訳するための 装置も持っていない」 「聞いていなかったのですね」 “女王”はマティスに向かって一撃を加えた。 「2073 年はグレイトヴィンテージにはなりません。基準に達していません」 「一体、なんの基準ですか ?」彼は憤慨したが無駄だった。 AIは口を閉じた。プログラム化されたコミュニケーション以外の質問には答えることができないのだ。 「マダム、白状したらどうですか、アデレイドを細工しましたね ?」 典子は右腕の袖をまくり、何もつけていない腕を見せた。 「これはアデレイドの判断です。数百年の経験に基づいた選択です。彼女の自由な表現であって、あなたも私も彼女の 発言を強要することはできません。この書類に署名をしたことで、私たちは彼女に責任を託したのです。このポストに任 命されたひとりの人間となんら変わりません」 「彼女はしゃべれないじゃないですか !」 「ワインは沈黙の中で感じ取るものです」 今度こそ、マティスは無力を隠さなかった。両手で頭をかかえ、わけのわからない言葉をつぶやいている。哀れに思っ た典子がそっとささやいた。 「財務部長としての体面を保つためのアイデアがあるの。がっかりしないで」 「あなたには振り回されてばかりだ ! テイスティングする前に署名なんかするんじゃなかった。しかし、こんなお芝居を仕 立てられたら、同意するしかないじゃないですか。あなたにとっては大成功でしたね」 「少しは黙っていられないのかしら、疲れる人だわ。確かに、今年は新しいヴィンテージを売り出すことができない、そ れは残念なことです。ただ、他のワインをみんなが奪い合うことになるところを想像してごらんなさい。ただし、私の言 うことを聞けば、ですが」 「お聞きしましょう」 「ここで造られるワインを飲むとき、その経験はあなただけのものです。世界にひとつの、唯一無二の経験です。でも、 ワインはいったん飲んでしまえば終わり。食事に招待した人たちとのディナーの折に、その唯一無二の経験を共有でき ないのは寂しいことだと思いませんか ? これこそがワインの矛盾する点なの。私からあなたに提案すること、それは、 その矛盾を超越しなさいということです。1本のボトル、そのボトルが空になったときに、アデレイドが試飲したときに 構成された言葉のメッセージが立ち上ってくるところを想像してみて。もちろん、味覚に置き換えることはできませんが、 あなたは皆さんに、その感動を伝えることができます、彼らが私と同じような麒麟を持っていようがいまいが。あなたと 会食する人たちは、ワインの講習会よりずっとリラックスした心持ちで、アデレイドの言葉とあなたの経験に耳を傾け、 喜びを共有するでしょう。お客様は、これまでのテイスティングの仕方と比較しながら、自分の好みのワインを選んで いくことになるはずです。さらに、その情報をほかの人たちとも交換しあい、好奇心を強めていくでしょう。そうなれば、 私たちの持っているすべてのヴィンテージが研究され、ラ・レーヌ・ダンブルの新たな評価が生まれることになるわ。ほ かのドメーヌのどんなワインも、この特徴をもつことはありません。なぜなら、ラ・レーヌ・ダンブルはすべてまるごとA Iに依存しているからよ」 マティスはこのあらたな発見に感動して目を見開き、さっそく、目の前に用意されている可能性に思いをはせたようだ。 「つまり、万人のためのワインの心よ」 39 典子がふっと笑みをこぼすと、マティスは微笑みで答えた。黄金色のヒューマノイドだけが、静かに、大理石のような 冷ややかな表情のままだ。 マティスが去ったあとも、クリスチャンと典子は地下のカーブに残った。執事も名前のつくことのないワインを味見した。 「そんなに悪くはありませんね」 「ええ。でもこれ以上、味がよくなっていくことはない、それは確かだわ。打ち捨てられた建物、役に立たない、廃墟。 もちろん、ひどくはない。だからこそ、マティス・ブルメールも間違えたのよ。ワインの複雑さを読み取るだけでは十分 ではないの。ワインの未来、時間の経過とともに、どう変化していくかを見極めることができなければ。私たちのAIは、 経験の乏しい人間の若者よりずっと賢い判断をしましたね」 「とはいえ、大きな危険を伴っていたことも確かですよ。アデレイドは、これまで参考になる意見しか出してきませんでし たから。財務部長の必要にかなう、期待に沿った答えが出たかもしれないのですから」 「嗅覚を失ったとき、私はアデレイドを信頼すると決めたの。自分のキャリアの最後の最後にしくじることのないように。 そもそも、危険を冒したくないのなら、並外れたワインを造りたいなどと願うはずがないでしょう ? 成功しがいがないわ」 クリスチャンはうなずいた。 すると、つい先ほどまで社長だった典子が、突然、不安に襲われたように両手をよじるのを見て、クリスチャンは心 配になった。 「それで私はこれからどうなるの ? 私の居場所は ? なんの役にも立たなくなって、この長い歴史の思い出のひとつで しかなくなってしまうのかしら」 「とんでもない、あなたはアデレイドとよきカップルになっていくのです。これからグレイトヴィンテージを生んでいくため には、あなたの感情が必要です。アデレイドはワインを知っています、あなたはそのワインを楽しむ人たちの心を理解し ている。アデレイドもひとりぼっちはあまり好きではないでしょう。心配する必要はありません」 「いつかは、アデレイドが私のことを必要としなくなるときがくるのでしょうね。すべて理解したと感じるときが、きっとく るわ。AIのキャパシティは計り知れないもの」 カーブは沈黙に包まれた。ふたりの心に生じた戸惑いと同じくらい重い沈黙だ。するとヒューマノイドがおもむろに口 を開き、穏やかな声で語り始めた。 「 80 歳でますます腕に磨きをかけ、90 歳で奥深さを究め、100 歳になれば、神の域に達するでしょう。110 歳となっ たら一点一画が生き物のごとくなるでしょう。ですから、できるだけ長く生きて、私のこの言葉を確かめてください」 クリスチャンがなんのことかと眉にしわを寄せているのを見て、典子が満足そうに言った。 「北斎の言葉よ。彼が 75 歳のときに描いた冨嶽百景のあとがきの言葉です」 Olivier Paquet オリヴィエ・パケ 40 FACETTES ファセット 「こんなふうにすべて箱から出してしまうと、 なにも欲しくなくなってしまうものね」 ココ・シャネル 1969 年 「趣味がよいというのは、なんの秘密も持たず、 ありとあらゆる面、すべてのファセットを見せること」 リュンヌ・ゲノン 2069 年 人差し指で頭の後ろをなぞっていくと、褐色の髪の真ん中にある四角くなめらかな皮膚に触れた。マチューが手術をし たのは数日前のことだ。 「午前中に手術をして、夜には退院できます」という宣伝文句は嘘ではなかった。しかし医者が 自分の脳の中にチップを埋め込んだことを考えただけで奇妙な感覚におそわれ、身震いした。すると、ジャケットの袖 の色が変わり、新しい模様が浮き上がった。 《エモティッシュ》は、まさしく第二の肌だ。初めて身につけたときは、何 時間ものあいだ、この高感度な布地の変化から目が離せずにいたが、今は、めまぐるしく色の変わる自分の服にも少し だけ慣れてきた。 マチューは深呼吸をひとつしてから、視線をあげた。ガラス張りの巨大な建物はめまいがするほどの高さで他を圧倒し、 建物の左右の壁から蜘蛛の脚のように突き出した光り輝くアーチの下では、十数機のエレベーターが宙を舞うダンサー のように上下し、細い隙間に入り込んだ光が拡散し合って、大理石の床に虹を映し出していた。ゲノン社のスローガンで ある、 「オープンな感情で、常に他者への思いやりを」という言葉が壁に大きく刻まれている。 マチューはエレベーターや真っ白なドアに向かってきびきびと歩く従業員たちの波の中で、一瞬、立ち止まった。ゲノ ン社で働く。これは辞退など思いも浮かばない、またとないチャンスだった。マチューはアメジスト社で3年間、広報と しにせ して仕事をしていたが、この老舗オートクチュールのメゾンはしばらく前から経営が悪化していた。一方、ゲノン社は5年 前から《エモティッシュ》がすべてのパリジャンの心をつかみ、急成長を遂げていた。何十万枚もの服が飛ぶように売れ、 海外進出が決まり、世界的流行の始まりと騒がれていた。 マチューが契約書に電子署名をするやいなや、ゲノン社は《エモティッシュ》の試着をするための日程の候補をいくつ か送ってきたのだった。この会社に入るには、まずは社風、そして商品を理解しなくてはならないということだ。 緊張がほぐれてきたところで、マチューはブレスレットの画面に指で触れた。エゴスフェールが視野に浮かび上がり、 ゲノン社のエントランスホールと重なった。最新モデルのユニバースレンズの購入も入社準備のひとつだった。タッチスク リーンの代わりをするブレスレットに同期させるだけで、情報はすぐ目の前の宙に浮かび上がる仕組みだ。 メールが3件、不在着信が2件。 画面右下に現れたいくつかの広告は削除し、ゲノン社からの新着メッセージに目をやった。 41 マチュー・リンレー 16 時に面会 エレベーター アストロサイト 14 階 マダム・ベルフォールのオフィスにて マチューはこの数行のメールを何度か読み直したあと、名前の上に指をのせた。人の波がエレベーターに押し寄せる 様子を背景にして、マダム・ベルフォールのプロフィールが目の前に映し出された。 ティニア・ベルフォール 性別 : 女 出身地 : フランス、パリ 生年月日 : 2038 年 1 月 13 日 (36 歳) 職種 : ゲノン社 広報部長 恋愛環境 : ナン・エヌギュイエンと結婚 マチューは初日から広報部長との面会があるとは知らされていなかったし、予定表にも記載はなかった。この面会の ことを考えただけで、突然ストレスに襲われ、パステルグリーンの服に黄土色の染みが浮き上がった。マチューはさらに スクロールして、これから会う上司の情報を少しでもインプットしておきたいと思った。何枚かの写真が出てきた。幼い 少女、マレーシアの海岸、家族の集合写真……。そのとき、肩に手が置かれるのを感じて振り返ると、思いやりに満ち た笑顔を浮かべた若い女性が立っていた。真珠のように白い歯が、光沢のある黒い肌に映えている。すぐにティニア・ ベルフォールのプロフィールが、目の前の女性のものと入れ替わった。 ダニサ・ムガベ 性別 : 女 出身地 : ジンバブエ、ハラレ 生年月日 : 2049 年 1 月 13 日(25 歳) 職種 : ゲノン社 マーケティング部責任者 恋愛環境 : 独身 「新人でしょ ?」 「そんなに簡単にわかりますか ?」即座に見抜かれたことにむっとして、マチューは答えた。 「黄土色は不安の色ですもの。がんばって」 彼女はそう言うとすぐにエレベーターに乗り込み、行ってしまった。マチューは心臓の鼓動を鎮めるのに数秒を要した。 ほんのちょっとした動揺さえ、他人に見破られてしまう。慣れなくてはいけない。 彼女のプロフィールの 「独身」 という文字に、 とっさに反応したに違いない。 スーツの色が元通りになるのを確認してから、 “アストロサイト”、と浮き彫りされたエレベーターに乗った。エレベーターに中枢神経細胞の名前がついているところが、 この会社らしい。 ガラスの箱が大気中を上昇していった。高くなればなるほど、パリの街が足もとに広がっていく。 太陽の日差しがス レート屋根を茜色に染め、ライトブルーの空に向かってそびえる半透明のビルを照らしていた。地上では、点在する群衆 42 が断続的なマルチカラーの長いリボンを作りながら通りを行き来している。パリの街で車が禁止されて以来、アスファル トは石畳や植え込みに代わっていた。 エレベーターが止まり、 「チンッ」と鳴ってドアが開くと、マチューはオフィスが居並ぶ広い廊下に出た。防音ガラスの 向こう側では、人々がせわしなく動き回っている。10 枚ほどはありそうなラフスケッチを抱えた男性が、自動ドアから出 てくると、目に見えない相手に向かって大きな声で話し始めた。 「新しいデザイン画はぼくが持ってる。すぐにきみのところに届けるよ。違う、リュンヌ・ゲノンのデザインじゃないんだ。 でも、わかるだろう、なにがなんでも、新しいコレクションを発表しなきゃいけないんだ」 マチューは、この忙しそうな人の群れの中で、自分だけがよそ者のように感じた。廊下を足早に進んでくる若者たちを 通そうと壁のほうによけると、そこに貼られた脳内マップが目に入った。白黒の断面図の前で立ち止まると、ふたつのゾー ンだけが赤で浮き上がっていた。キャプションには、 「扁桃体はすべての思い出を記憶する。ことさら心の深い傷を。さ らに、恐怖を呼び起こす刺激と密接に結びついている」とある。その横には、三角形のいくつものモチーフと、赤、ルビー、 深紅の多様な赤が絡み合っている。モードのクリエイターに転職した初の脳科学者、リュンヌ・ゲノンならではの内装だ と思った。 マチューは社内のフロア案内を見るために先ほどのメッセージを開いて、広報部長のオフィスを確認し、ガラス張りの 部屋の前で足を止めた。マダム・ベルフォールのオフィスはことごとく透明だった。壁から天井、いくつものディスプレー が置かれた大きなテーブル。30 代の女性が肘かけのついたバブルチェアに埋もれるようにして座り、こめかみをさすり ながら唇を動かしている。マチューは来たことを告げるためにメッセージを送り、大切な面会を邪魔されないように、ブ レスレットの画面を操作してユニバースレンズをオフにした。数秒してマダム・ベルフォールはハシバミ色の目を彼のほう に向け、自分のブレスレットに触れ、繭のような形をしたバブルチェアから立ち上がった。マチューはつばを飲み込み、 先ほどの黄土色のままで新たに同心円のモチーフを描き始めたジャケットに目をやった。ガラスの扉が開き、マダム・ベ ルフォールが、細かい宝石でネイルアートされた手を差し出した。 「マチュー・リンレーね。ちょっと待ってくださる ?」 彼女はブレスレットの画面をタッチして、再び、大きな声で話し始めた。 「そう、このプロジェクトについてラボは絶対に秘密厳守よ。いかなる情報も漏らしてはならないの」 マダム・ベルフォールが背中を向けたすきに、マチューは彼女のコンビパンタロンがドラジェのようなピンク色に変わっ ていく様子に見入った。ウエストのあたりには、さまざまなモチーフが浮かび上がってくる。色調の変化する真珠色の細 長いラインは、まるで、うごめくヘビがベルトの代わりをしているようだ。 《エモティッシュ》のガイドに、ピンクは興奮 を表すと書かれていたことを思い出した。しかし、マダム・ベルフォールの表情がけわしくなると、コンビパンタロンはす ぐさまグレーに変わった。 「すぐに体があかないって、どういうこと ? 彼が私のところに来られるように、あなたがなんとかしなさいよ」 彼女はカールした褐色の髪を揺らしながら、左右に頭を振った。そしてようやくマチューのほうを見た。 「どうぞ、かけて」 マチューは一番近くにあるバブルチェアに腰かけ、やわらかな背もたれに体をもたせかけると、空気の繭玉に包まれて いるように感じた。マンダリンオレンジにラベンダーがほんの少し混じった心地よい香りがした。マダム・ベルフォール は彼の正面に座ると、ふっくらした唇で愛想よく微笑んだ。すると彼女のグレーの服に少しずつピンク色が浮かんできた。 「かなり不安なようね。いつから《エモティッシュ》を着ているの ?」 「3日前からです」 「やっぱり、まだ初心者なのね。私なんてこのテクノロジーに出会う前の自分の生活を思い出せないくらい。心配する必 43 要なんてないわ」 「ただ……」 マチューはそこまで言って言葉を切った。初対面の広報部長にどこまで本心を打ち明けていいものか迷った。 「続けて」彼女が先を促した。 「年齢とか、仕事とか、昨日食べたものを人に知られてもなんとも思いませんが。でも、自分が感じていることを目の前 にいる人に知られるのは……これは、けっこう戸惑います」 「最初はそうでしょうね。でも私を信じて。これは本当の意味での人と人とのコミュニケーションの鍵を握っているの。感 情、エモーションという言葉の由来をご存じ ?」 マチューは自分の無知を恥じながら、頭を左右に振った。検索できるようにユニバースレンズをオンにしておくべきだっ た。彼の服を覆っていた同心円のモチーフは、今度は波打つようなラインとなり、黄土色はエメラルドグリーンに変わった。 「動きを意味する、モーションという昔の言葉からきているのよ。ラテン語の motio から派生しているの。エモーション は心の内側の動き。危険を回避したり、楽しいことを引き寄せようとしたりする生理的な反応なの。自分では意識して いないけれど、エモーションは常に生まれているの。話し相手が感じていることを目で確認できれば、相手の気持ちを 考慮し、その気持ちに合わせて行動できるということ。お互いに、より気持ちよく生きられるということよ」 マチューは広報部長のみぞおち付近に現れたハレーションに思わず見入ってしまった。ボルドー色にきらきらと輝いて いる。彼女も自分のお腹のあたりを満足げに眺めたあと、マチューに向き直って言った。 「《エモティッシュ》はリュンヌ・ゲノンの作品よ。この有能な女性はモードとテクノロジーを近づけたの。科学と美学、 そして欲望を融合させたのよ」 彼女の語調に合わせるように、布地の発する光が強くなっていった。 「あの、ビデオ面接でも申し上げたのですが」マチューが言った。 「脳科学の知識は本当に乏しくて。仕事の支障になら なければよいのですが……」 マダム・ベルフォールは優雅に足を組んだ。 「なんの問題もないわ。企業の理念については理解してもらわなくてはならないけれど、そのための基礎知識をこれから しっかり学んでもらいますから」 彼はバブルチェアから漂う香りを深く吸い込んでから聞いた。 「その基礎知識ですが、今、ざっと教えていただくことはできませんか」 「コンピューターで検索するより、人の言葉のほうを好むのね。好奇心の強い人ね」彼女は微笑んだ。 「悪くないスター トだわ」 椅子についているスイッチのひとつを押すと、ミネラルウォーターがくぼみから出てきた。彼女はひと口飲んでから続 けた。 「脳というのは、まだまだ未知の部分を残しているテリトリーなの。でも、あのパンデミックのあと、脳内マップの研究 は驚異的な進歩を遂げているわ。それ以来、私たちは我々の体の内部機能に作用する正確な領域やそれぞれのニュー ロンを特定できるようになったの」 「それがノーティスの発明につながったのですね」マチューはうなずいた。 「そのとおり。これまで研究者たちはテクノロジーの限界にぶつかっていたわ。なぜなら、脳の働きを記録するセンサーが、 精巧さに欠けていたからよ。脳から発せられるシグナルを最大限キャッチするには、中枢神経に直接連係しなければな らないの。頭にのせる電極のように、脳の内部に接触しない非侵入型システムでは実現不可能だったの。昔、使われて いたほとんどのセンサーは、生化学的に適合できなかった。そのため、免疫の拒絶反応を引き起こしてしまったわけ。リュ 44 ンヌ・ゲノンは 2062 年に有機チップを開発したわ。これは中枢神経と完全に適合性のある脳作用のセンサーなのよ」 マチューは広報部長の言葉を書きとめておくために、ブレスレットをオンにした。彼女は続けた。 「1ミリにも満たない極小のチップは、柔らかく抵抗力のあるセロファンでできているの。これぞまさに偉業よ」 「有機チップについては聞いたことがあります」マチューが言った。 「科学の世界に革命を起こしましたね。つかぬことを お聞きしますが、なぜ、マダム・ゲノンは服飾店を立ち上げようとしたのですか ? よくわからないもので…」 マダム・ベルフォールは、マチューに鋭い視線を向けた。 「マダム・ゲノンの発明はすぐさま医学界に広まったわ。でも、実を言うと、彼女のすべての研究は、ある隠された情熱 に突き動かされて実現したものなの。以前から、マダム・ゲノンは感情の機能について研究していて、誰もが心の中に抱 え込んでいる様々な感情面を堂々と見せることができたら、と考えていたの。人と人の、誠実な相互作用にあふれる世 界を発展させていきたいというものよ。それと並行して、デッサンも描いていたわ。水彩画が得意で、あるとき1枚の絵 を描きながら、自分の開発したチップを服に組み込んで、感情の多面的な動き、つまり、様々に移ろうファッセットをそ のまま布地に映し出せたら、というアイデアが浮かんだのね。こうして 2069 年に誕生したのが、 《エモティッシュ》よ。 一定の試験期間を経て、最初のモデルが2年前に市場にお目見えした。最初はやはり、服と緊密に連動して感情を表 に見せるというアイデアには抵抗を持った消費者も多くいたけれど、でも、このコンセプトは少しずつあらゆる階層に定 着していったわ」 パリのリュクスに関わるエコシステムの業界において、 《エモティッシュ》は新しい客層を吸い寄せながら、クラシック な服をすごい勢いで一掃していった。アメジストのような企業を破綻に追い込みながら。とマチューは考えた。 「裏切り」 という言葉が脳裏をよぎった。社長のアルマン・ドゥフェールに辞職を告げたとき、彼は淡々と「きみの人生、きみが決 めればいい」と言いながら、表情ひとつ変えなかった。その瞬間、ひとつでもいいから、自分を育ててくれた人の真意 を探る手かがりがほしいと思ったものだ。 マチューは羞恥心が舞い戻ってくる記憶を払拭し、はっきりとした口調で言った。 「リュンヌ・ゲノンは素晴らしい人物なのでしょうね」 「今夜、会えるわよ」 「今夜ですか ?」 マダム・ベルフォールは、かすかに声を出して笑った。 「あなたは偶然、採用されたわけではないのよ、ムッシュー・リンレー。リュンヌ・ゲノンは今、困難な時期に差しかかっ ていて……」 最後まで言わずに口を閉じると、肩のあたりが黄土色に変わった。 会話の成り行きに戸惑ったマチューは何も言わず に次の言葉を待った。 「リュンヌ・ゲノンは、これまでとは違う採用をしたかったの」広報部長が重い口を開いた。 「脳科学分野の出身ではな い人材を企業に投入するために。アメジスト社での広報担当というあなたの経験に彼女は興味を引かれたの。会社全体 に新たなビジョンが広がり、斬新なアイデアを受け入れる素地ができると期待しているのよ」 マチューは彼女の服の肩のあたりが元の色に戻っていくのを見ながら、このミッションを達成するには、自分の経験は 乏しすぎるように思えた。 「うまくいくわよ」彼女が言った。 「あなたはこれまでどおりに仕事をすればいいの。あなたらしく。リュンヌ・ゲノンが求 めているのはそれだけよ」 45 パリの空は真っ暗になるということがない。いえ、星はいつもどこかに追いやられて、時には、赤く見えることさえある。 人工的な光が私たちの頭上にある星たちを隠してしまい、人生ははかないものだと束の間、教えてくれるものを消し去っ てしまっている。自分のオフィスを社屋の建物のてっぺんに置いて、階下のテラスを見下ろせるガラスの半球体にしよう と決めたのは、少しでも天空に近づきたいとの願いからだった。たとえ星は見えなくても、月は見える。自分の名前も月、 リュンヌ。 私はしばらく、 モノクロームの背景に浮かぶ月を眺めてから、テラスに視線を落とした。これから始まるパーティーに備えて、 芝生で覆われたテラスにはキャンドルスタンドが飾られている。ろうそくなんて今風ではないが、広報担当のスタッフがあ えて昔の雰囲気に仕立てようと決めたのだ。アイビーが巻き付いた鉄製のあずまやが幻想的な光を放っている。 三々五々、従業員たちが到着し始め、テーブルのあいだをせわしなく動き回っている。私のオフィスのガラス窓からは 彼らの着ている服の色までよく見える。さまざまな色が飲み物の載ったテーブルのまわりに密集し、グラスや皿に向かっ て伸びたり縮んだりしながら、人々の束の間の感情を写し出している。まるで、色彩の海だ。 私はデスクに戻るためにこの光景に背を向けた。部屋の中央にある丸いデスクの上には合成繊維の布地が山積みに なったままだ。シグナルを感知して色や模様に変える受信システムの織り込まれた生地。私はつるっとした表面に触れて みた。 今、問題があるとすれば、私がより以上のものを望むようになってしまったことだ。立体感がほしい、生地そのものの 素材感で変化をつけたいと。外部のラボと組んで研究は進めているが、納得のいく試作品はまだできていない。 大きくため息をつき、鏡に自分の姿を映してみた。時間は過酷にも、与えられた仕事を続けている。唇の両脇にくっ きり刻まれたほうれい線を見て、私は即座にクリームを塗って矯正した。指の腹を使って皮膚にクリームをなじませれば、 肌はなめらかになり、色調も整えられ、一瞬にしてほうれい線は消える。今、実年齢を伝えられるのは、デジタルのプ ロフィールしかない。肉体的な修正は、それほど悪くない。いつでも修正がきくし、気づかれない。最悪なのは、私の 視線に潜む嵐のような猛々しさだ。過ぎ去って行く時間にもびくともせず、執拗に吹き荒れる嵐。私のまぶたの奥のか すかな光は消えてしまった。私の身につける《エモティッシュ》は色の変化を見せなくなって久しい。月の光を奪われ、 闇のような黒になってしまった布地。 人差し指でクリームの最後のひと塗りをしていると、疑いようのない考えが脳裏をよぎった。 私は情熱を失ってしまった。 それが真実だ。 《エモティッシュ》を改善していく方法を探り、美しさを追求しているけれど、その先にあるものは本当に自分が求めてい るものなのかどうか、それさえわからない。自分の発見に夢中になって以来、最初はたったの7人だった社員は 419 人 にまでふくれあがった。この高感度な布地の製作には長い時間を要する。購入を待つ顧客リストは膨大で、商品を扱う 店は、常に在庫切れだ。手に入りにくいものほど、人は欲しがるものだ。需要が供給を上回り、有機チップも改良され てきた。感情の表現力は洗練され、1着の服は個性を映す鏡となり、芸術的な創造物となり、個々に自分らしい物語 を紡ぎ出せる「場」となった。 皮膚の上の第二の皮膚は、不変的でありながらも進化を続ける美しさを可能にし、新たな価値を見出だす「場」となっ た。人と人が語り合う、ひとつの方法。 《エモティッシュ》を持っている人たちが望むのは、こうしたこと。 《エモティッシュ》 を身につけているおかげで、他人の私的な情報を受け取りながら、人とは違う唯一無二の個性を追い求めることができ る。 5年前、私は脳科学の分野からモードの世界に移りたいという欲求に取り憑かれていた。真のクリエイターになりた いと。私が勝ち取ったのは、まさにそのタイトル、専門家たちの賛辞だ。ところが今、私は自分のことをまるで詐欺師 46 のように感じている。 《エモティッシュ》を身につけることで、それぞれが自由に自己を創造できるようになった今、私が クリエイターで居続ける意味があるのだろうか。私は人々に、自分を描き、また、描き直す場と手がかりを与えた。もは やそのために外部の人など必要なくなったのだ。そして私はそれをしながら、自分自身の感情を取り上げてしまい、枯渇 してしまった。 私は今でも科学者ではある。 でも、本当のアーティストではない。 今は5年前に《エモティッシュ》を作り上げたときの、あの貴重な日々が懐かしく思えてしかたない。あのときは、突 ま ん だ ら 然、すべてがひとつの輪となって結びついたように思えた。脳科学と美が、曼荼羅のようにひとつの円になったと。私 はこのアイデアにしがみついた。脳の構造において発見されたさまざまなネットワークから生じるあらゆる変化を写し出す ひた ことのできる布を造り出そうと。私は我を忘れるほどこのプロジェクトに没頭した。幸せだった。心の底から幸せに浸っ ていた。人によっては、私のことを近づくことのできない陸の孤島のように感じていたかもしれないけれど。 《エモティッ シュ》が日の目を見るという確証もなく、感謝されるのか、褒められるのか、あるいは、なんの影響も及ぼさないのか、 はたまた罵倒されるのかもわからないというのに、いったい、どんな力に突き動かされて私はそこまでのめりこんだのだ ろう。もしあの頃《エモティッシュ》を身につけていたら、自分が浸っていた気分はどんな色だったのだろう。 《エモティッ シュ》に息吹を与えながら、私は陶酔していた。いえ、もっと強い感情。忘我、エクスタシー、激情。 《エモティッシュ》 の創造は、私を日常から連れ出してくれた。自分のことが見知らぬ人間に思えると同時に、これ以上ないほど自分らしく も感じられた。いつもよりずっと強烈で、より秩序ある日々だった。人々がドラッグやアルコール、人為的に神経伝達物 質に混乱を引き起こす要素を求めるのと同じに違いない。でも私は、脳の内側だけで恍惚状態に達することができて幸 せだった。 《エモティッシュ》のアイデアが閃光のように頭にひらめいたのは、ある意味、神の出現のような、絶対的な瞬間だった。 そして私の創造の日々は終わり、完成したものは私の指の間からすり抜けていき、何十万もの人々の身につけられるこ とになった。それ以来、私は試行錯誤を重ねている、もっともっと、この状態を再び見いだすために、新たに何かを生 み出すために。でも今は、デッサンをすることさえできなくなってしまった。皮肉なことに、私の服が、インスピレーショ ンを見つけられない毎日を残酷にも知らせてくる。 私は宝物を持っていたのに、それを失ってしまったのだ。 そのとき、視界の隅っこに現れたメッセージで、私は考えごとから引きずり出された。 ゲノン社 5周年記念パーティー 皆さん、屋上テラスにお集まりください 私はこのメッセージをスライドし、大きな声で言った。 「消灯」 部屋は暗闇に包まれた。ドアに鍵をかけ、テラスに続く階段をおりた。夜の冷気にあたり、一瞬、頰と手がちくっとしたが、 アーチ型のあずまやの下に入ると心地よい熱気に包まれた。鉄のアームに巻きつけられたアイビーの葉がきらめいている。 これが私の一番最近の大きな買い物。妖艶に光るこのアイビーが、アーチの放出する熱を取り込み、周囲の空気を温 かくする仕組みになっているのだ。 私の一挙手一投足に、みんなの視線が向けられている。服はまだ黒いまま。つまり、 「私に近づかないで」と叫んで いるのだ。 47 みんなから少し離れたベンチに腰かけると、ギャルソンがすぐにシャンパンを運んできた。私は、テラスに集まった人々 の興奮を感じながら、きらきら輝く泡を味わった。壇上のオーケストラが最初の曲を弾き始めた。フルートのトリルが響 くと、すぐにホルンの抑えた調べ、続いて弦楽器のビブラートが加わった。私は目の前で繰り広げられている色彩のショー を観察した。スカート、ブラウス、スーツ、帽子が行ったり来たりしている。どれも私がデザインし、身につける人のそ れぞれの感情が、 それぞれの模様や色に適応するように仕立てた服だ。しかし実際は、皮膚と合わさると 《エモティッシュ》 は別のものとなる。決まりごとから解放されたように、私が考えもしなかったような組み合わせが生まれるのだ。 私の左側にいる男女がひそひそ話をしている。 「この模様、新しいよね ?」男性が聞いた。 「昨日はなかったけど……」 「あ、これね、アデンと喧嘩したのよ」女性が答えた。 「本当に頭にきちゃって……茶色は消えたの、そもそも私はあま りこの色が好きじゃないんだけど。でもこのカーブの模様が現れて、で、ずっと残ってるの。つまり、自分で思っていた 以上に、アデンとの喧嘩がショックだったってことね」 私はシャンパングラスに目を落とした。感情というのは一時的であることのほうが多い。考えや行動、その日1日の相 互作用に反応して不意に訪れる。ひとつの状況にどう応じるか、その態度を示すための指針ともなる。逆に、気分や機 嫌は長引くもので、何日も、何ヶ月も続くこともある。こうした状態は、幾何学のような模様で生地の上に現れる。私のビュ スチエの星のような花模様は、寂しい気持ちの始まりを思い起こさせる。意欲を失い、インスピレーションをなくしたと きに、現れた模様だ。 いくつものメッセージが視界を邪魔しにくる。ここに集まった人たち、ほんの数メートル先にいる人たちが、話しにく る許可を求めてメッセージを送ってくるのだ。私はすべて無視して、ティニア・ベルフォールのものだけに目をやった。 「紹介したい人がいます。お話しに行ってもよろしいでしょうか」 私はブレスレットを通して返事をした。 広報部長のティニアが軽やかな足取りで近づいてきた。背中の開いたワンピースを着ていたのに、光沢のあるコンビ パンタロンに着替えている。最新モデルの中の1点だが、これは私がデザインしたものではない。彼女の背後にはそわ そわした様子の 20 代の男性がいる。整えにくそうな茶色い髪の、中性的な若者だ。明るい色の目の下にある鉤鼻が 個性的な印象を与えている。ティニアが新人を指して言った。 「マチュー・リンレー、こちらが社長のマダム・リュンヌ・ゲノンよ」 若者は恥ずかしそうに頭を下げただけだった。ジャケットの下のベストとパンタロンがサスペンダーで結ばれているア ンサンブルは黄土色のままで、腕の部分にいくつかアラベスク模様が現れている。かなり緊張している証拠だ。 「どうしてそんなに固くなっているの ?」 私が新人に声をかけると、ティニアは申し訳なさそうな視線を若者に向けたが若者は慌てた様子も見せずに、穏やか な声で答えた。 「ゲノン社には入社したばかりで、 《エモティッシュ》を身につけ始めたのはごく最近なんです」 彼の年頃にしては、落ち着きが感じられた。私は彼のプロフィールを即座にチェックした。 マチュー・リンレー 性別 : 男 出身地 : イギリス、ロンドン 48 生年月日 : 2048 年 1 月 13 日(26 歳) 職業 : ゲノン社 広報アシスタント 恋愛環境 : 独身 好奇心にかられて彼の職歴に関する情報を広げてみた。彼の、もの言わぬ顔、私をあえて遮ろうともしない口の上に 文字が浮かび始めた。 前職 : アメジスト社広報 よみがえ この社名を見て記憶が 蘇 ってきた。数ヶ月前に人事部から渡されたリストの中に彼の履歴書もあり、すでに目を通し ていたのだった。私が研究を重ねた、伝統的なメゾン・ド・クチュールで仕事をしていた若者だ。 私は接続をオフにして相手のほうを見た。ティニアはアーモンド形の目を宙で動かしながら、彼女にしかわからない世 界に没頭している。しばらくして、ティニアは私たちに向き直って言った。 「マダム・ゲノン、マチューのこと、お願いします。インタビュー用に、彼のほうからいくつか質問させていただきます」 ティニアがマチューの肩をやさしく叩くと、突然、サクランボのような赤が浮かんだ。欲情を表す色。同僚から呼びか けられたティニアは、そちらに向かってきびすを返した。 マチューに隣に座るように勧めて、同時に腰かけると、柳の枝で組まれたベンチが私たちの重みで心地よい音を立てた。 マチューは咳払いをし、目に見えないメモを熱心に見つめた。私は彼がどんなふうにインタビューを始めるのか、楽しみ に待ち受けた。 「今日が初日なんです」マチューは前置きの代わりにこう切り出した。 「マダム・ベルフォールから、明朝、社内で流すビ デオのために簡単なインタビューをするように言われました」 マチューはブレスレットのマイクロカメラを作動させ、私のほうに向けた。私は小さな緑色の発光ダイオードを見つめ、 愛想よく笑顔をつくった。むなしい作り笑い。 「マダム・ゲノン、あなたの有名な名を冠した会社が今日で創立5周年を迎えました。なにかひとことちょうだいできます か ?」 うかつ ティニアがこのつまらない問いかけの言葉を用意したのだろう。最近の私の様子を見ていれば、この先も迂闊な質問 はしてこないはずだ。 お お げ さ 「5年もたつのね」私は大袈裟につぶやいた。 「昨日のことのようにも、ずいぶん昔のことのようにも思えるわ。いずれに しても、 《エモティッシュ》がこれほどの成功を収めたことを誇りに思っています」 「あなたのコンセプトを基に、サンリ社が高感度布地を使用した服のラインアップを発表しましたが、これについてはど う思われますか ?」 思い違いだった。ティニアはそうそう私をいたわってはくれない。 「競合相手を恐れはしません」私は答えた。 「コンセプトはサンリ社以外の会社にも利用されるでしょう。でも、どんな 会社であれ《エモティッシュ》のクオリティに匹敵するものは作れるはずがありません。ココ・シャネルはこう言ったの。 《 私はコピーを信じはしない、でも、イミテーションは信じるわ 》 マチューはすぐには理解できない様子で、眉間にしわを寄せた。 「過去を振り返ることは悪いことじゃないわ」私は付け加えた。 「ココ・シャネルが言ったことは現代にも十分に通用する でしょう。サンリ社が売り出した服が現せる感情はたったの4種類。 《エモティッシュ》は 36 種類よ、しかもまだ始まっ 49 たばかり。私たちはもっともっと精緻な仕事をしていきます」 マチューの黄土色のジャケットが少しずつオパールブルーに変わっていった。ようやくこの若者は不安を払拭したのか、 大胆な面が波状になって現れ始めた。 「あなたの考えでは」と彼は続けた。 「《エモティッシュ》は我々の世の中の復興に、どのように参画するものと思われま すか ? 人々のどんな……よい意味で助けになると ?」 私はあえてじらすような笑みを唇に浮かべながら言った。 「口で説明するより、見てもらったほうがよさそうね」 私はマチューに、数メートル先でひそひそ話をしているふたりにカメラを向けるように指示した。たとえ私たちの耳に 彼らの話し声は聞こえなくても、彼らの着ている服を眺めるだけで十分だ。ボディコンシャスな女性の服は銀色がかった 白で、襟までカーブ模様で覆われている。男性のスーツは鮮やかなオレンジ色に変わっている。 「ふたりの様子を注意して見ているだけでいいの。あのふたりは何を感じている ?」 マチューはブレスレットを指でタッチし始めた。私はとっさに手を伸ばして、その動作を静止した。 「調べてはだめよ。すべて覚えないといけないわ。白は平静な心。でもよく見て、グレーが少し残っているわね。まだ失 望が残っている証拠。鮮やかなオレンジ色は、相手を軽視している証拠よ」 私はそう言いながら、自分の手が若者の手首の上に置かれたままだったことに気づくと同時に、夫との離婚以来、2 年間ものあいだ他人の肌に触れてこなかった現実に気づかされた。私は戸惑いを読み取られないように、さっと手を引っ 込めた。 「見ていて」私は言った。 数分が経過した。ふたりは話を続けている。マチューが急に口を開いた。 「ぼくにはなにもわかりませんが……」 私は命令するように指差した。 「見て、今よ !」 男性のスーツのオレンジ色が少しずつ淡い黄色になり、ついに女性の服と同じ白に変わった。急速な変化。ふたりの 間に突然、生まれたハーモニー。思わず、満足のため息がもれた。 「これぞ、 《エモティッシュ》よ。他者の行動を察知した神経細胞の反応を布地が映し出したのよ」 「それが正確にはどんな役割を担っているのか、説明していただけますか ?」マチューはカメラを再び私に向けながら聞 いた。 「これは前世紀後半の発見ですが、いくつかの神経細胞は私たちが動くことによって活発になりますが、誰かが動くのを 見ても、同様に活性化することがわかっています。私たちは無意識のうちに他人の動作を真似し、人の経験を共有して いるのです。この神経細胞は感情面でも同様に働いています。他人が感情を表現するのを見ると、この感情の受け皿 と連動した脳の範囲が活発になります。共有したことは私たちの細胞に記録されます」 私は白い服をまとったカップルを観察し続けた。マチューはふと、手を止めた。これ以上、カメラを回し続けていいの か迷っているのだろう。 「私にとってこれは 21 世紀初頭の、最高の科学の革命です。ミラーニューロンは私たち自身の行動と他人の行動を識別 はしません。一瞬だけ他人になることを許可するものです。この発見は共感という言葉の第一定義に位置づけられます。 他人の感情を自分のことのように感じ取れるという意味です。 《エモティッシュ》は私たちが無意識にしている行動を自 覚させてくれます。 色と模様のコードを知ってさえいれば、他人が見ていることを知り、メッセージを受け取れます。解 釈の間違いはありません。 他人とより強い絆を築けるのです。他人の揺れ動く心や、欠点や欠陥さえも寛大な気持ちで 50 受け止められるようになるのです」 私の暗い色のスタートに、突然、白い渦が現れた。 「《エモティッシュ》は私のユートピア。他人への理解と美しさを結びつけるユートピアです」 ここで話を切ると、カメラの発光ダイオードが消えた。マチューは依然として考えをめぐらせている様子で、ジャケット こはく が琥珀色に変化し、肩まで覆った。楽観の色。すると驚いたことに、私のスカートの白い渦模様も琥珀色に変わった。 私たちはそれを見て、くすっと笑い合った。 「インタビューでは言えないことは」私は真剣な口調でつけ加えた。 「私の望んだユートピアは広がったけれど、もうなに も作り出すことができなくなってしまったの。最近、20 世紀の慎ましさについてよく考えるの。今でこそこの透明性に慣 れてしまったけれど、物事は常にこうだったわけじゃないでしょう。過去からなにかインスピレーションを得られないかと。 だからこそ、アトリエでの経験者、つまり、伝統的なメゾンで仕事をしていた人を採用し始めたの。少し視点を変えてみ なければと思って」 ふ マチューは腑に落ちたとでも言うようにうなずいた。もう不安はないようだ。私の言葉が彼の心に響いたのか、私の 考え方が彼に感染していくのを感じた。 「ご提案があります」マチューが言った。 「アメジストの社長を知っています。アトリエを訪ねてみませんか ? エキゾティッ クな体験になるはずです。過去への思索を続けられると思いますが」 視線を落とすと、琥珀色に変わっていたスカートが渦模様で覆われていた。これだけ色が変化するのを見るのは本当 に久しぶりのことだ。私は若者の目を見た。 《エモティッシュ》に対する控えめな態度がとても新鮮に感じられた。他の スタッフとは何かが違う。大胆でありながら慎み深い。彼を見ていると、独自のルール、独自の習慣を持つことで、私の 会社は他の世界と壁を作り、閉じこもっていたのだと気づかされた。それがあたり前になってしまっていた。その現実に 気づかせてくれるために、彼は外から入ってきたのだ。 「ぜひ、お願いしたいわ」 空は雲で覆われていたが、先ほどのにわか雨のおかげで春の生暖かさが一掃されて空気はさっぱりしていた。リュンヌ ・ たたず ゲノンは、高層ビルに囲まれてうずくまるように佇む、昔ながらの建物の前に立っていた。石造りの建物の壁には桜草 が密生し、草も伸び放題だ。窓にはカーテンが掛けられており、ところどころ亀裂の入ったオスマン建築の中で何が起 こっているのか、のぞき見ることはできない。建物の前にはセーヌ川が流れ、水音が浮きデッキを散策する人々の心を和 ませている。 マチューがユニバースレンズを通してリクエストを送ると、カチッという音とともに木製の重々しい扉が開き、なじみ のある、色白の顔が現れた。アルマン・ドゥフェール。相変わらず、動きやすい幅広のパンタロンをはいている。一徹な 職人らしくたくましい上半身だが、不思議なことに手先はほっそりしている。アルマンの詮索好きな黒い小さな目が、脳 科学者でクリエイターだという女性の、不自然な紫色の目をとらえて言った。 「どうぞ、お入りください」 中に入ると、金と赤の絨毯が敷かれた螺旋階段が大理石の柱を囲んでいた。広いエントランスホールには、あふれん ばかりに布地の詰まった箱がいくつも置かれ、3人の若い女性が絹の束を抱えて急ぎ足で階段を駆け下りてきた。 「このたびは、特別な機会をつくってくださり、ありがとうございます」マチューが言った。 「こちらはリュンヌ・ゲノン ……」 「もちろん知っているよ」アルマンは快活な声で言った。 51 彼は鋭い目をリュンヌ・ゲノンのほうに向け、頭のてっぺんから足の先まで眺め、白い渦巻き模様のボディコンシャス な黒いワンピースをじっと見つめた。 「御社の評判についてはよくうかがっております」リュンヌ・ゲノンは礼儀正しく口を開いた。 「こちらも同様です。ただし、御社の哲学の支持者ではありませんがね」 この発言に、その場の空気が凍りついた。アルマン・ドゥフェールは鋭利な視線を今度はマチューに移し、ライバル 企業で仕事をしていることに満足しているのかどうか探るように見つめた。その瞬間、マチューは《エモティッシュ》を身 しゅうち につけてきた自分を呪った。彼の服がたちまち、羞恥心を示す緑色に変わってしまったのだ。 「こちらからどうぞ」アルマンは階段を差して言った。 3人が2階に上がると、木製のドアがひっきりなしに開閉している大部屋に出た。バタンという音は壁かけのおかげ でかき消され、机には布地が山積みになり、至るところで、お針子さんの器用な指先が動いている。左手にある金庫の 開いた扉からは、しつけ用のピンが刺さったままの布が飛び出している。 「アメジストにようこそ」アルマンが大きな声を出した。 「63 年前から続くメゾンです」 アルマンはふたりの客を、色も素材もさまざまな生地で覆われた大きなテーブルのほうに案内した。雪のような純白の 毛皮のコート、繊細な羽をあしらったドレス、そして、刺繍で縁取られたケープ。マチューは彼の宝物を鑑賞することに は慣れていた。叔父であるアルマンの仕事場を、子どものころはしょっちゅう歩き回ったものだ。しかし、並べられた服 の美しさにここまで心を打たれたのは、このときが初めてだった。アメジストからすでに遠ざかっているからなのだろうか ? マチューの横では、リュンヌ・ゲノンがこの生き生きとした服の山に目を奪われていた。黒いワンピースが鮮やかな紫 色に変わっている。マチューは急いでユニバースレンズで検索を掛けると、視界にテキストが浮かび上がった。 ローズ : 興奮 黒 : 憂鬱 ブルー : 勇気 緑 : 羞恥心 紫 : 喜び 薄紫 : 驚嘆 マチューは好奇心にかられて再び、彼女のほうを振り返った。 「さわってはいけませんよね」マダム・ゲノンがつぶやくように言った。 アルマンの太い眉のあいだにしわが寄った。 「なにをおっしゃるのですか。どうぞさわってください。触れなくては意味がないでしょう」 アルマンが低い声でなにかつぶやいたが、彼女の耳には届かなかったのか、スパンコールが光り輝くドレスに手を伸 ばし、オーク材のマネキンにかけられた刺繍をやさしくなでた。するとマダム・ゲノンのワンピースの色が上品な薄紫色 に変わり、キラキラと輝いた。 驚嘆。 まるで雷に打たれたように、彼女は完成した服がかけてあるブティックハンガーへと進んでいった。この瞬間、彼女 の視界から、室内を駆け回るスタッフの姿は消え、時折響く彼らの声も耳に届いていないようだった。すべての神経が 虹のような色彩を放つ服たちに向けられていた。ハンガーにかけられた服に一着ずつ触れていき、シルバーフォックスの ついた V 襟のジャケットで手を止めた。指が繊細な毛皮に埋もれていく。 52 「信じられない、すごいわ !」 マダム・ゲノンはこの素晴らしい手ざわりをマチューにも感じてもらいたくて、横で立ちすくんでいる彼の手を取って服 に近づけた。くすぐられるような肌ざわり。手間と時間を掛けた手仕事による、繊細ななめらかさ。 「これも !」 今度はマチューが、ゆったりとしたデザインのトップスをやさしくなでた。絹の手触りは、まるで液体のようだ。さらに 彼は、生成りのものと一緒に並べられた、サテンのフレアのロングスカートの感触を楽しんだ。 マダム・ゲノンはブティックハンガーを離れて、未完成の服が並べられているスペースに向かった。横にはデザイン画 が置いてある。マチューの目に、頰を紅潮させているゲノン社の社長は若々しく映った。彼女の目は、 《エモティッシュ》 が示すとおり、驚嘆で輝いていた。どんなに触れても足りないとばかりに、技術と洗練と素材への崇拝のために築かれ た聖堂で、ありとあらゆるものに触れていた。まるで、彼女の手が突然、触りたい、感じたいという欲望を持ち始めた かのように。接触することを渇望し始めたように。 マチューは常軌を逸したキアスム、 つまり、見るものと見られるものが入れ替わる状態を目にして呆然とした。感情によっ て美しさを生み出したいと願っていたマダム・ゲノンが、美しさが感情を生みだすのを体感していたのだ。 マチューのそばに戻ってきたマダム・ゲノンの目は潤んでいた。 「私、どうかしてた。忘れていたの」 アルマン・ドゥフェールはふたりをそっとしておこうと、 その場を離れて、 彼の指示を待っているお針子たちのところに行っ た。 「手ざわり、感触……大学で勉強したのに。私たちの皮膚には、刺激に反応して触知できるリセプターが 20 以上もあ るのよ」 そう言って腕を広げながら大きな部屋を見渡した。 「これ ! 手ざわりと同じくらい見た目も美しいわ。これは……これは、アートだわ」 マチューはうなずくしかなかった。モード界のトップに君臨するクリエイターのマダム・ゲノンが、自分が昔から慣れ親 しんだものを発見して感動しているのだ。 彼女のワンピースは、元の黒の色がすっかり消えていた。 「ありがとう」マダム・ゲノンがささやくように言った。 アルマン・ドゥフェールから資料室に案内しようと言われたとき、ワンピースはさまざまな色が絡み合う渦巻状になって いたが、落ち着きは取り戻していた。上の階は狭く、気の遠くなるようなキャビネットでぎっしり埋まっていた。いくつも の箱がテーブルの上に積み重なり、長い羽の縫い込まれた細長いベルトや光り輝くダイヤモンドのかけらが無造作に置 かれている。 肘かけ椅子に腰をおろしたマダム・ゲノンは両手をひざの上に置き、まるで叱られた子どものように神妙にしている。 マチューがそばに寄ろうとすると、アルマンが彼の肩に手をのせて言った。 「ひとりにしておいてあげなさい。アートはひとりで味わうものだよ」 マチューは叔父とふたりきりになると気まずさを覚えた。自分がなぜこのメゾンを離れたのか、改めて説明すべきとき だと思って言葉を探していると、先回りするようにアルマンが口を開いた。 「リュンヌ・ゲノンを連れてきてくれてありがとう」 「ほんとに ? 迷惑じゃないか心配だったんだけど。でも、おもしろい展開になるんじゃないかと思って……」 「迷惑だって ?」アルマンは驚いたように言った。 「そう見えたかい ! 気分も生地も、しわを寄せることもあれば、しわ ひとつないこともある。そうだろう ?」 53 マチューは、叔父はいつもなに事でも愛する生地に結びつけるんだなと思い、楽しそうに目を細めた。 ついに《アルテクスティル》ができあがった。 私のオフィスの机の上には、アートとテキスタイルを組み合わせて、 《アルテクスティル》と名付けた最新の試作品が 置かれている。 私の意識は艶のある革の長方形の箱に集中していた。何ヶ月も熟考し、会社のラボとアメジストでコラボしてできあがっ た集大成。喜びとプライド、不安の交じった大きなため息がもれた。 ゆっくりと箱を開けると、ワンピースが現れた。手に取って顔に近づけるとほのかな香り。パフスリーブの付いた、ウ エストを絞っただけのシンプルなカット。 《エモティッシュ》はニュートラルなメタリックグレーのままだ。リセプターはま だ有機チップとはつながっていないが、そのことならなんの心配もない。私はウロボロスの形に縫い込まれた宝石がきら めく、クラシックな仕立ての細部に見入った。ドラゴンが自らの尾を噛んで環となっているウロボロス。絆と革新の象徴。 ほんのちょっとした動きで宝石の環が生地の中で動き、ゆらめくような印象を与える。生き物のようにきらめきを放ちな がらもやさしさを感じさせる宝石に手を這わせてみる。作品の繊細さ、アメジストのお針子たちによって実現した完璧な 環にほれぼれとした。それからワンピースを箱に戻し、しばらくの間、手のひらでそっとなでていた。ドラゴンのエメラル ドの目が私のことを見つめているようだった。最後にワンピースにかがみこんで香りを吸い込み、バブルチェアに座り込 んだ。 「ジャスミンティー」この感覚を長引かせたくて、大好きなお茶の名前を告げた。 椅子に内蔵されている伝達機能がすぐに私のリクエストに応じた。ジャスミンの香りを深く吸い込み、この幸せな瞬 間を引き止めておこうと、ゆっくりと味わった。 仕事を成し遂げた充実感、変革することに成功した喜び。 しばらく穏やかな時間を過ごしたあと、ユニバースレンズをオンにすると、急ぎのメッセージが次々と目に飛び込んで きた。山のようなメッセージの中で、ひとつのリクエストが目に留まった。 マチュー・リンレー 「今、インタビューできますか ?」 私は微笑んで、了解の返事をした。彼には借りがある。 階段を上る足音に続いて、軽くドアをノックする音がした。マチューはドアの向こうで待っている。私の信頼を得たと いえども、呼ばれない限りは決してずかずかと割り込んでくるようなことはしない。私は彼のそんな態度を高く評価して いる。 「オープン」 ガラスのドアが開いて、彼が入ってきた。スーツの色は琥珀色だ。私たちには言葉は必要ない。すべきことはわかって いる。目の前のバブルチェアに腰かけるよう促すと、マチューはブレスレットのカメラをオンにし、私に向けた。 「マダム・ゲノン、今日は我々のために特別に、画期的な新作、 《アルテクスティル》を披露していただけるのですよね」 息を吸う。 そして、吐く。 さあ、今だ。 54 「画期的以上のものです」私は始めた。 「これは“ノヴァンティック”と呼ぶにふさわしいものです。イノヴェ - 革新、ヌー ヴォー - 新しさ、それにオートンティック - 正統的の語尾を組み合わせた新しい言葉です。アヴァンギャルドと過去の遺 産を融合させたのです。あなた方もよくご存じのように、ここ数ヶ月は考えることの多い時間でした。 《エモティッシュ》 はますます普及し、人々の習慣を変え、感情との向き合い方も変えています。前回のインタビューで、ユートピアの話を しましたよね。感情面をオープンにすることによって生まれるユートピアです。あの頃、私は物質と非物質、透明と不透 明の間に明らかな対立があると感じていました。その点を再考し、 《エモティッシュ》の新しいありかたを提案したいと願っ ていたのです」 私は再び箱を開け、試作品のワンピースを掲げてみせた。 「《アルテクスティル》はリバーシブルの洋服です。テクノロジーと美的感覚を結合させてあります。一日中でも数十分だ けでも、お望みの方を身につけることができます。感情を見せる側と隠す側、透明にするか不透明か、その時々で好き な面を自由に選べるのです。つまり、服というものを、人と世の中をつなぐ材料、あるいは、壁のような存在として捉え ていただきたいのです」 「《アルテクスティル》の製作のために、名高いメゾンであるアメジストとコラボレーションなさいましたね」 「ええ。アメジストは 60 年続くメゾンです。60 年の歴史をもつ、まさに技術の宝庫と言えるでしょう。 私はこの《ア ルテクスティル》によって、物質と非物質の間違った二分法を破壊したいのです。美しい服に触れ、仕立てや精巧なカッ トを賞賛する喜びと、テクノロジーがもたらしてくれる満足感、そのふたつとも選べるようにしたいのです。伝統とモダン、 このパラドックスは共存することができます。 《アルテクスティル》が何よりの証拠です」 発光ダイオードが消え、マチューが恭しくうなずいた。 「大丈夫?」私は聞いた。 「完璧です。編集してユニバースレンズに送ります。できるだけ大勢の人に見てもらえるように。きっとすごい反響ですよ」 私はバブルチェアに深くかけ直し、マチューがブレスレットにタッチしながら宙で操作する様子を観察した。この若者 は彼らしいやり方で私の人生に衝撃を与えてくれた。まだ出会ったばかりだけれど、短い時間の中で豊かなやり取りがで きた。 私は試作品のクラシックな仕立てを指でなでた。私たちは、いつでも視覚で読むことができる。網膜に刻まれるメッセー ジ、話し相手の表情、洋服によって生み出される色調をも、読み取ることができる。それと同時に、手を使って読むこ ともできる。生地の感触を確かめる手、テクスチャーを感じ取る手。私たちはみな、シグナルを解読し、表現すること ができる読者だ。私は長いあいだ、別れた夫を読み取り、自分のことも読み、周りの人々を読み取ろうと努力してきた。 理解するために。 《エモティッシュ》のおかげで、私たちは感情の様々な面、ファセットを見せ合い、語り合うことができ、クラシックな 服からは過去の物語を読み取ることができる。このふたつはアートであり続け、私たちの視点を変えたり、気持ちを揺 り動かしたりしてくれる。おそらく、私が望んでいたのは、これに尽きるのだ。驚かされ、追いつめられること。私は自 分の作品にさらなる新たな面、ファセットをもたらすために、裁断し直したのだ。 そしてこれからも世の中を読み直していくために、未知なものへと向かっていくつもりだ。 常に情熱がわきおこってくるように。 Samantha Bailly サマンサ・ベイリー 55 MIRAGES D UN AVENIR 未来の蜃気楼 ロック・リヴァによる新楽曲 http://rever2074.jp/sound.php 5分 56 NOCES DE DIAMANT 霧のダイヤモンド ヴァンドーム広場に面した建物の最上階にあるオフィスの窓から、彼はふたりの若者が中央の円柱をぐるりと回ってこ ちらに向かってくる様子を見ていた。ふたりは手ぶりをまじえて話に夢中になっている。彼の後ろにあるオーク材のデスク の上に置かれたロシアンティーは、淹れてからだいぶ時間がたっているのか、すでに冷たくなっているようだ。 広場の向こう側では名もなきチェロ奏者がバッハの『無伴奏チェロ組曲 第一番』を演奏している。 “もう少し時間がほしかったな”彼は心の中でつぶやいた。 “時間というのは、数ある宝石の中でも、もっとも貴重な宝石だ。 しかし、ついつい、磨くことを忘れてしまう。いとしい妻よ、きみが今、ここに一緒にいてくれたら……” 彼のエゴスフェールと連結しているインターフォンが、息子の到着を告げた。 「ひとりか ?」彼は秘書のアニータからの返事を待って、頭を振った。 「アニータ、悪いけれど、店の外に出て、今、通 りを渡ろうとしている黒い革ジャンを着た若者を連れてきてくれないか。 彼にも会いたいんだ。命令ではなく、これは私 からの頼み事だと伝えてほしい。来てくれたら、息子と一緒にオフィスに案内してくれ」 彼はゆっくりと振り返り、レンズにひびの入った銅製の古い望遠鏡に手を滑らせた。大切な思い出だけを詰め込んだ オフィスは、時代遅れの書斎のような様相を呈している。金属の表面に反射する琥珀色の光は、愛する妻も大好きでよ くふたりで味わったワインを思い出させた。 望遠鏡のすぐ上には、金のスパンコールをちりばめたような緑の目をした若い女性の油絵がかかっているが、あえて目を やらずとも、彼には妻がすぐそばにいるように感じられた。 「父さん、決心したよ !」 「アレクサンドル、それはよかった」 親子はいつものように、短いけれど力強い抱擁を交わした。 「マーク、一緒に来てくれてありがとう」 彼は、全身黒をまとった筋骨たくましい若者に手を差し出し、視線を捉えようとした。こうして会うのはまだ数えるほ どだが、マークの落ち着きと厳格さにはいつも感心させられた。しかし同時に、他人に心を開こうとしない壁のようなも のも感じていた。エゴスフェールのように、光を通さぬ沈黙のマントで身を守ろうとでもしているように。今のところアレ クサンドルは満足げな表情を浮かべているが、心の底では、 マークまで呼びつけた理由を一刻も早く知りたいはずだ。せっ かちな息子の中にすでにフラストレーションが広がりつつあるのを感じ取り、彼は言った。 「きみたちがこちらに向かってくるのが見えたんだ。どうせならふたり一緒に聞いてもらったほうがいいと思ってね。マーク、 これから私が話すことは、きみにも関係のあることなんだ」 「なぜかわかりませんが」声の調子からすると、好奇心こそあれ、攻撃的なところはまったくない。 「月末に宇宙飛行士 研修センターのあるオランダのハーグに発ちます。そこでミッションが下されるのを待つことになっているんです。アレク 57 サンドルが一緒に来てくれることになりました。ついさっきふたりで決めたことなんですが」 「父さん、申し訳ない」アレクサンドルがすまなそうな表情で言った。 「父さんがこの宝石店をぼくに継がせたいことはわ かっていたんだ。一度はそのつもりで始めたけれど……ぼくも宝石の世界は大好きだからね。でも、 マークと出会ってしまっ たから」 アレクサンドルがマークを見つめる視線の中に、包み隠さぬ愛情を感じ、彼は再び妻のことを思い出し、心の中で話 しかけていた。 “私もきみのことをこんなふうに見つめたものだったね。できることなら、時間を巻き戻したいよ” 「お茶はいかがかな」彼は独り言のようにつぶやきながらインターフォンに向かった。 「それとも、もう少しきつい飲み物 がいいかな」 彼はボタンを押し、新しいティーポットとガス入りのミネラルウォーターを持ってきてほしいと頼んだ。 「1、2時間もらえるかな。話したいことがあるんだ。贈りたいものもある。年寄りのきまぐれと思ってつき合ってくれる とありがたい」 「父さんはまだそんなに年取ってないよ」アレクサンドルが微笑みながら言った。 「体中の関節に向かって言ってほしいね」 革で閉じた家族のアルバムを取ってくると、ふたりを机のそばに呼んだ。指先で恭しく表紙をめくろうとすると、分厚 いページが乾いた音を立て、出し惜しみでもするように黄ばんだ写真がゆっくりと姿を現した。思い出の写真をデジタル 化しようと思ったことは一度もない。写真の価値は、過ぎ去った時間のはかなさ、もろさをそのまま紙が物語っている点 にもある。写真というのは、眺めているうちに過去の時間へと連れ戻してくれるものだ。頭の中でしか旅することのでき ない、時の輝きがそこにはある。 「これから聞かせたい話の始まりは 20 世紀初頭だ。私の曾々祖父のヴィクトールは末っ子だった。跡取りでなかったから、 好きなように人生の選択ができた」端っこがくるっとカールした濃いあごひげに縁取られた、いかつい表情の若者の銀 板写真をじっと眺めた。 「トルコ、シルクロード、アジア……ヴィクトールはいろいろな国を旅した。もっとも美しいサファ イア、あれはヴィクトールが我々に残してくれたものだ。といっても、一部は愛人たちに持ち逃げされてしまったのだけれ どね、これはまた別の話だ」 「おもしろい方ですね」マークは失礼のないように言った。 「このくらいは、まだまだ序の口だよ。1908 年のことだった。ヴィクトールはマンモスの牙を探しに、ツングースカの 北のシベリア草原を歩き回った。たき火のまわりでエヴェンキ族と交渉をしているときに、恐ろしい爆音が聞こえた。地 面が揺れ、空はオレンジ色の光で覆われた。ヴィクトールはそれから何時間も掛けて馬たちの興奮を静め、ツンドラの 中に飛び散った手綱を見つけ出すのもひと苦労だったそうだ。夜空が輝き始めて、辺りを見たエヴェンキ族のシャーマン は気が狂いそうになった。雪に落ちた影は、血のように赤かった。この夜は誰も一睡もできなかったそうだ。 翌日、ヴィクトールは現場を見に行こうと決めたんだ。 ポドカメンナヤ・ツングースカ川に沿って東に向かい、2日歩いてようやく爆心地にたどりついた。そこには想像を絶 するような惨状が広がっていた。森には大小さまざまのクレーターが口を広げ、まわりには至るところで積み木を崩した ように、何千本もの樹々が横たわっていた。衝撃を受けた場所の近くでは、折れ曲がった枝が数本、空に向かってそび えているのを除いて、木の幹はことごとく砕け散っていた。耳をつんざくほどの爆音が聞こえてきそうな光景とは裏腹に、 辺りは深閑と静まり返っていた。ヴィクトールの案内役のエヴェンキ族の男は近づくことさえ拒み、蚊の群れまでも、そ 58 の場所は避けているようだった。 ヴィクトールは目の前に広がるそんな光景を、必死になってスケッチブックに描いた。その後 10 年以上たってからだが、 ロシアの調査隊が撮った写真を何枚か見たことがあるよ。しかし、ヴィクトールの旅の日記を読んだだけで、どれほど の惨状だったかは十分に想像がつく」 彼はアルバムをゆっくりと閉じ、腰を突き刺す痛みをかき消そうとしながら、一瞬、胸に抱きしめた。 「さて、次は地下のドームにつき合ってもらおう。マークは初めてじゃないかな ?」 「ムッシュー、あなたとはまだ知り合ったばかりですから」 「ヤヌスと呼んでくれないか。子どものころは、ほこりだらけの古い本を書棚から引き抜いて、夢中になってローマ神話を 読みあさったものだ。ありそうにない未来を夢見ながらね。以来、ずっとこのニックネームで呼ばれているんだ」 3人は1階のショーケースの前を通りすぎた。そこには、光沢のある白い幅広のカウンターの上で宝石のホログラム映 像が投影されていた。クモの巣のように薄くて繊細なネックレス、絡み合うブレスレットが、まるで無重力のようにガラス のショーウィンドーの中に吊られており、近づくだけで、それぞれの歴史や特徴がわかる仕掛けになっている。映写機の 光の束に手をかざせば、肌の上に宝石がヴァーチャルイメージで浮き上がり、目の動きによって輝きを放つ様子を鏡に映 し出して試着することができる。一組の男女に商品の案内をしていた秘書のアニータがアレクサンドルににこりと微笑み かけると、アレクサンドルもこっそりと投げキッスをした。 社長であれ、社長の息子であれ、大切な顧客の邪魔をしてはならない。 地下に通じる木と鋼鉄の螺旋階段を降りて石とレンガの丸天井の長い廊下を進むと、複数の扉のついた円形のスペー スに出た。そのうちいくつかは防犯扉で、いくつかは閉まっている。ヤヌスはひとつの扉の前で止まり、ズボンのベルト の小さな鎖についているセキュリティ用の鍵を取り出した。 「アレクサンドル、覚えていないだろうが」ヤヌスは扉の鍵を開けながら聞いた。 「おまえがやっと歩き始めたころ、母さ んはわざとおまえを見失ったふりをして、この部屋に閉じ込めてしまったことがあった。でも、おまえはいたずらすること もなく、なにひとつ傷つけもしなかった」 「警報器を鳴らしてしまったことが1、2度あったらしいけど」とアレクサンドルは返した。 「5回だ !」ヤヌスは微笑んだ。 「でも、誰も数えてやしないよ」 マークは好奇心に満ちたまなざしで周囲を見ている。これみよがしにヤヌスの宝石を身につけた 20 世紀のスターたち の古い写真が飾られている廊下を過ぎて入った部屋は、ワインの貯蔵庫を思わせるような資料室だった。 一列に設置されているプロジェクターのそばで、天井の四隅に付けてある火災報知器が点滅している。 「ちょっと手を貸してくれないか」ヤヌスは扉と反対側の壁の棚を指差して言った。 「書棚の書物を取り出して閲覧台の上 に置いたら、書棚を動かしてほしいんだ」 書棚の後ろには、手の大きさと同じくらいの小さな金庫が隠されていた。ヤヌスが人差し指を近づけると指紋を読み 取った扉が静かに開いた。きれいな小石がはめ込まれ、彫刻を施された木の小箱を取り出し、山のような書物の上に置 き、ふたりに手招きをした。 アレクサンドルとマークは肩を寄せ合って小箱をのぞき込んだ。ふたりの指が一瞬、絡み合うのを見てヤヌスは微笑み、 亡き妻に心の中で話しかけた。 ぼくらにはたったひとりの子どもしかつくる時間がなかったが、きみの目と情熱は遺伝したよ。 「おまえはほんとに母親似だな」そう言いながら小箱のふたをなでると、カチッという音とともに開いた。 59 「ヴィクトールは頑固者だった」ほんの少し開いている小箱はまだその中に秘密を隠したままだ。ヤヌスは腰をかばうよ うに机にもたれかけた格好で話を続けた。 「爆心地での調査は4日間も続いた。夜になると空をかけめぐる残光に怯えて、 案内役はますます神経を高ぶらせた。そのときはまだ、爆発の原因が何だったのか、わかっていなかったんだ」 「ひょっとして、ツングースカの隕石……」マークがつぶやいた。 「隕石の落下の証人なんですね !」 「もしよければ、彼のノートを見せよう。私が幼いころから望遠鏡を集めているのは、このヴィクトールの影響なんだ」 「隕石は地上に到達するずっと前に爆発し、大気圏で燃え尽きなかったかけらが広大な面積のあちこちに散乱している はずだった。ヴィクトールはなんとかしてそのかけらを探し出そうとした。最後の日になってやっと、砕かれた木の幹に、 銃弾のように埋めこまれたかけらを見つけた。クルミの実と同じくらいの大きさのものだ。隕石の破片が爆発を引き起こ したんだ。このかけらは、遺産として私が相続するまで代々引き継がれてきたよ」 きんちゃく ヤヌスは小箱の中から、黒いビロードの素朴な巾着袋を取り出した。 アレクサンドルのノーティスが、コミュニケーションを試みようと腕で点滅すると、彼は煩わしそうに消音モードに切り替 えた。ふだんは感情をあまり表に出さないマークが、これほどヤヌスの話に魅了されている。こんな貴重な瞬間を見逃す わけにはいかない。 ヤヌスは袋の中身をいったん手のひらにとり、黒いビロードをテーブルの上に置いた。そして天井の四隅のプロジェク ターのスイッチを入れると、手のひらのものをビロードの上に置いた。 すると、天の川のような光が現れた。 ヤヌスはふたりに思う存分、光を堪能してもらおうと、宝石商が使用する特別なルーペをそれぞれに渡した。彼自身 には必要ない。どの石のどんな欠点も記憶し、触感も知り尽くしている。試作するために自分の手で磨いた石さえもあ るからだ。 「もともとの石の大きさはこのくらいだった」ヤヌスは親指と人差し指を広げてみせた。 「霧のダイヤモンドと呼ばれる石だ。 私はそれまでこんなに大きな石は見たことがなかった。純度の点からいうと、宝石商にとってはなんの価値もないものだ くわだ ざんごう がね、それでも魅力的だ。曾々祖父のヴィクトールはほかの石も探そうと調査を企てたのだが、兄が塹壕で殺され、ロ シアで革命が始まったこともあって、二度とツングースカに戻ることはなかった。 光のほうに向けて破片のひとつを透かしてみてごらん。結晶の特別な構造がかすかに乳白色になっているのがわかる だろう。ルーペでよく観察してみると、入り組んだ霧状のものが見える。その内包物がこの石の特徴だ」 ヤヌスはふたりに霧のダイヤモンドの魅力をたっぷりと堪能させたあと、かけらを集めた袋を小箱に入れ、元の金庫に 戻し、部屋を出てゆっくりと鍵をかけた。 「素晴らしいお話でした。それに、貴重なものを見せていただいて、ありがとうございます」感激を隠しきれない様子でマー クが言った。 「話はまだ終わっていないよ」ヤヌスは微笑んだ。 「すぐ近くのレストランで昼食をごちそうしよう。大好きな店なんだ。そ こで気分をがらりと変えて、一世紀半ほど飛び越えた話をしよう」 若いふたりは目配せをしたあと、うなずきあった。 3人が通された個室は改装されたばかりで、壁には日本風の大きな絵が掛かっている。クリスタルのシャンデリアの光 が花で飾られたテーブルを照らし、それぞれの飾り皿の横に置かれたチューリップ型の3つのグラスを輝かせていた。古 60 代ギリシャの弦楽器のような形をした皿には、美味しそうなアミューズブーシュが並んでいるが、ヤヌスは口にできない。 いずれにしても、数ヶ月前から、あまり食欲もない。 ヤヌスがメニューに目をやると、ノーティスに組み込まれた医療モニターによってほとんどの料理がひとつひとつ消され ていった。奇跡的に健康状態が良くなっていればと、いつも期待を持ってしまうのだが、実際には、医療モニターが示し てくる結果には気が滅入るばかりだった。若者ふたりが楽しそうにメニューを眺めている間に、ヤヌスは適当にサラダを ひと皿選んだ。最初のワインはほとんど透明のように澄んだ白で、その香りだけで、一度も頭から離れたことのない過 ひた 去に浸ることができた。 「この店で、おまえの母さんにプロポーズしたんだ」ヤヌスはグラスを置きながら言った。 「下の大きなホールでね。もちろん、 断られたよ」 アレクサンドルは驚いて顔をあげた。マークも、アミューズブーシュのオマールをのせたトーストを口に入れようとした まま固まった。 ヤヌスは片手をポケットに入れ、なめらかでひんやりとした感触の婚約指輪をしばらく指でもてあそんだあと、薬指に はめた。もう 20 年も前に指にはずし、二度とつけることはないだろうと思っていた指輪だ。 「アレクサンドル、おまえが母さんのどんなことを覚えているかわからないが……」ヤヌスは遠くを見つめながら言った。 「マーク、きみに妻のことを身近に感じてもらうのは難しいと思うが、でも、少しでも彼女のことをわかってもらえたら嬉 てんしんらんまん しい。クレールは植物学者だった。とても美しい女性で、天真爛漫でね、周りにいる人たちすべてに常にインスピレーショ ンをもたらすような女性だった。何ヶ月も口説いて、ベッドに連れ込む以外はなんの確証も得られなかったよ」 「研磨師としての研修を終えたばかりの頃だった。研磨盤から超音波まで、最新の技術に魅了されていた。結晶ファイ バーをベースにした新しい素材のおかげで、アクセサリーの台はほとんど目に見えなくなった。可能性は無限に広がった。 体温に反応して手首のカーブに沿うような、柔軟性のある宝石もデザインできるようになった。初めて宝石のデザインも 任せてもらえた頃だ。時機が来たら、祖父の跡を継ぐことになっていたんだ。あのパンデミックに我が家もやられて、同 世代で生き残ったのは私だけだったからね。しかし、それだけが理由ではなく、自分でこの道を選んだ」 「クレールのいない人生など想像できなかった。そこでまったく突飛なことをやってのけたんだ。曾々祖父のヴィクトール が持ち帰った霧のダイヤモンドをふたつにして3ミリの厚さにカットした。中の霧も両方に均等に配分されるようなカット の仕方で。磨き終わると両目にひとつずつ当てて空を見上げてみた。天の川を独り占めしたような気分だったよ。そして、 それぞれの石でふたりのための婚約指輪を作ったんだ」 ヤヌスがポケットからゆっくりと手を出し、目の前にかかげると、シャンデリアの光に反射して、左手の薬指にはめら れたダイヤモンドがカラフや銀器のうえで流れ星のようにキラキラと輝いた。 「わあ……このファセットはすごいや。これだけきれいなカット面にするには、かなり苦労したでしょう」テーブルに身を 乗り出してアレクサンドルが言った。 「このタイプのダイヤモンドはものすごく傷つきやすいはずだし」 「好きな人にクリエイティブなところを見せたかった。あの頃は無我夢中だったからね」ヤヌスは一瞬、口をとがらせた。 「ほかのかけらで練習して、何度も失敗して、でも、最終的に自分のテクニックを見つけられた。そして、勇気を振り絞り、 婚約指輪を手に、クレールをディナーに招待したんだ、このレストランにね」 「ここは家族にとっても大切な場所でね、父に初めて連れてきてもらったのは、20 歳の誕生日だった。生まれ年のワイ ンを開けてもらった。時の色というのを、初めてワインで味わわせてもらったんだ。私の生まれる一年前の夏のかけらを 閉じ込めた羊皮紙のような金色、ハチミツのような金色をしていた。酸味が表れてすべてを包み込んでしまうまで、ひと 口ごとにやさしくなっていった。クレールにも同じことを味わわせてあげたかった。クレールとはなにもかも分かち合いた いと思ったんだ」 61 ソムリエがやってきて、ヤヌスのサラダに合う辛口の赤を注いだ。ヤヌスをよく知るシェフは、彼の好みに合わせてパ ルメザンチーズと香りのいいヴィネガーでサラダを仕上げていた。心の中には思い出がすでに詰まっていたが、ワインの 香りでヤヌスはますます幸せな気分になった。 「その日、私はデザートになるのを待って、サプライズでプロポーズをしたんだ。彼女は目を閉じた。指輪は彼女の指にぴっ たりだった。それなのに私の告白が……」 ヤヌスは哀愁に満ちた笑みをこぼした。 しにせ 「そのときの光景を想像してごらん。老舗の高級レストラン、あのパンデミックに襲われる前の時代の食器、伝統的なカッ トのクリスタルグラス、ガラス職人がどれほど細かいところまでこだわったものか想像もつかないような逸品だ。クレー ルと私は、隅っこの、ワゴンのそばのテーブルに着いていた。誰も我々のことなど気に留めていなかった。クレールが椅 子を倒して席を立つまでは……」 “周りにいた人たちが、一斉に口をつぐんだ。クレールは腰に手をあてて私をにらみつけた。サプライズで驚かせたのが いけなかったのか、そういう方法が嫌いだったのか、あるいは私が彼女の自由を奪おうとしているとでも思ったのかもし れない。言葉も出てこないほど怒っていた。周囲の人たちの視線が私たちふたりに集まっていることはわかったが、それ どころではなかった。彼女を失いそうになっていたのだから。 彼女に手を差しだそうとしたら、空になっていたクリスタルのグラスにぶつかってしまった。グラスが揺れて倒れそうに なったところを、指でとっさにつかんだ。 ダイヤモンドがクリスタルと反響した。 そこで生まれた振動が星のきらめきを引き起こし、私の感じているすべてのこと、ひとつの楽曲のような感情が、グラ スと触れて広がった。すると、食事をしていたほかの人たちの心にも伝わり、彼らが一斉に歌い始めた。ワゴンに置か れていたカラフにも振動が伝わり、力強いコーラスとなって店内に響き渡った。クレールは立ち去るのをためらい、とどまっ た。 振動が弱まると、私は再び、自分が感じ取っていることを彼女にわかってもらおうとして、今度はわざとグラスにぶつ けた。するとまた音楽が始まった。先ほどよりさらに温かな声で、力強く。彼女の左薬指にはめられた指輪が私の指輪 と寄りそうように反応し合った。言葉は必要なかった。 私もゆっくりと立ち上がり、私たちは長いこと向き合ったまま、内側からわき上がる感情に身をまかせていた。周囲の 人たちも声をひそめていた。たとえ私たちにしか振動は感じ取れなくても、指輪の起こした魔法なら、そこに居合わせた すべての人が見ることができた。 彼女の指と私の指が絡み合った” 「それから数ヶ月後に私たちは結婚したんだ」ヤヌスはワインを飲み干しながら言った。 「結婚から3年たって、おまえが 生まれた。ところが、おまえがよちよち歩きをするようになったとき、彼女は植物の採集に出かけたボルネオで亡くなっ てしまった。 亡くなる前、妻は私をバルセロナの街に連れていってくれた。私はそこで初めてガウディの魅力を知ったんだ。今でも メゾンで作り続けている、ランの花を模した3つのブローチとアイビーのネックレスをデザインしたのは妻だ。 妻とはど なきがら んなことも分かち合い、ありとあらゆることを一緒に夢見てきた。ボルネオから亡骸が送還されてきたとき、私は彼女の 62 指にはめられていた指輪をはずした。以来、ほかの誰の指にもはめられることなく、私の指輪と一緒に宝石箱にしまわ れたままだった。今日まで一度も箱から出したことすらなかったよ」 ヤヌスはためらうことなく指輪をはずすと、ポケットに手を入れ、もうひとつの指輪を取り出した。ふたつの指輪が手 のひらのくぼみで静かに揺れると、感極まったのか、ヤヌスの目には涙が光った。 「このダイヤモンドは地上で生まれたものではない。星の真ん中で、爆発の直前に誕生したものだ。この石たちは、宇 宙がまだ若かった頃、銀河系で起きていることを見たり聞いたりしていたんだ。これからは、きみたちのものだ」ヤヌス はテーブル越しに手を差し出した。 「この石のおかげで、きみたちは改めて、自分たちの決意を固めることができるだろう。 どうしてかは、あとで説明しよう」 3人は雨の降りしきる中、それぞれの思いにふけりながら歩いて宝石店に戻った。石畳が滑りやすくなっているパリの 通りは、雨粒でくもったシルエットに覆われ、ぼんやりとかすんでいた。オフィスの窓から見下ろすと、ヴァンドーム広場 にはクラゲのようにテラテラと光る水たまりが点々としている。ヤヌスはできれば石をカットするようにゆっくりと時間を かけて話がしたかった。でも彼らには彼らの生活のスピードがある。今や若者の生活は体の一部となっているノーティス の振動と同じくらいせわしない。 ヤヌスは何年もかけて辛抱強く集めた書類を、映写機で壁に映し出した。壁に浮かび上がったロゴを見たとたん、マー クは飛び上がった。ESA(欧州宇宙機関)。 そのすぐ下には、D . N . プロジェクトとある。 「クレールに相談して、我々の知り合いで信頼できる結晶学者に秘密を打ち明けることにしたんだ。すると、霧のダイヤ モンドに興味を持っているのは私だけではないとわかった。何年も前から政府が研究していたんだよ。しかも、彼らの 所有しているものには心底、驚かされた。内側の構造こそ不完全だが、まさにその欠点に価値がある。ひとつのかたま りから離れた石の破片は、亀裂が共鳴し合うようにそれぞれコンタクトを取り合っているんだ。お互いに会話をしている んだよ」 「母さんと父さんのように ?」アレクサンドルが聞いた。 ヤヌスは声を詰まらせながらうなずき、急いでつけ足した。 「軍隊はこの石を使って新しいタイプの、コンパクトで探知不可能な発信・受信機を作れないだろうかと考えた。1〜2 カラットのマイクロクリスタルは、特別なカット法をマスターし、さらに、表面を微細に機械加工できれば、発信・受信 機として理想的なものができあがるからだ」 ヤヌスはふっと笑みを浮かべた。 「この分野では宝石商が軍事産業より一歩先を行っている。軍人がみんなそうだっ たように、軍事産業に関わる者たちは、本質からずれていたのさ」 映像が素早く切り替わった。画面に表れた電子の図表をセキュリティの警告バーが隠したまま動かなくなった。ヤヌ スは肩をすくめて映写機のスイッチを切った。 「これ以外は、くだらない書類ばかりだ。実は、30 年前、ほかにもきっとあるに違いないと思って、破片を見つけ出す ために、隕石が爆発した場所への学術探検に参加してみたんだ。衝突の現場に到着すると、一世紀以上も前から、樹 木という樹木は伐採され、燃やされ、クレーターはすべて埋められていた。もはや何も残っていなかったよ。 しかし、ツングースカのような隕石は、太陽系でも見つけられる。マーク、きみが向かおうとしているところだ。君た ちの期待する結果が得られると信じたい。心からそうなることを願っているよ」 さ ヤヌスは無意識のうちに望遠鏡に手を置き、自分の腰と同じくらい固く錆びついた調整用の歯車をさすった。 63 「独自の宇宙旅行を企てるだけの資金はないが、それなりの手段とコネクションは持ち合わせている。スポンサーは我々 のもっとも信頼の置ける大顧客の中から集めてある。ESAとはパートナー契約を結んだ。 彼らの所有するスペースシャ トルの、機体のパーツをつなぎあわせるのに必要な不可視接合部に、我々の特許が活用されているんだ。私は、特別 な分光学の証拠を探すため、ことさら、0.02 ミリに分布する赤外線の電磁波を調査するために、電波望遠鏡も使用した。 彼らには理由は説明しなかったが、いずれは理解するだろうと思っている。我々にはまだ少し時間はあるが、望んでいた ほどの余裕はない」 「彼らは何か発見したのですか ?」マークが眉をひそめて聞いた。 「情報には敏感なつもりですが、なにも聞いたことがあ りません」 「契約には秘密厳守が含まれているんだ。火星と木星のあいだに、小惑星の候補を見つけた。カイパーベルト天体にも もうひとつ。どうやら、我々の手の届くところにあるらしい。それ以上は追跡したくないが」ヤヌスは顔をしかめた。 「彼 らへの支払いは、それこそ宇宙並みに巨大だからね」 マークは微笑み、アレクサンドルはぷっと吹き出した。ヤヌスには、その笑顔が妻の笑顔と重なって見えた。 えいこう 「だから、見つけに行かなくてはならないのだよ」ヤヌスは結論づけた。 「宝物をつかまえ、曳航を準備し、地球周回軌 道までの恐ろしく複雑で長い帰還を実行しなくてはならないんだ。ESAは可能だと断言している」 「マーク、この探検に加わってみる気はあるかい ?」 マークは、こんな話を断るわけがないと言うかわりに、手を振り上げてみせた。 「私が話しているのは、早くても3年後のミッションだ。調整しなければならない課題が山のようにある。もし引き受け てくれるなら、アレクサンドルにも手伝わせよう。ほとんどの仕事は離れていてもできる、でも、霧のかかったダイヤモン ドをカットする方法を教えるために、しばらくは一緒に過ごす必要がある。傷つけることなく、欠点を魅力にすりかえて いく技術が必要だ。難しいことだが、きっと子どもを育てるように素晴らしいことだと思う。 記録も軍事産業向けのマニュアルも必要ない。我々の手の記憶にすべてがかかっているんだ。 しかし、宇宙に浮かぶダイヤモンドの塊を採取することができたら、それが何を意味するか考えてごらん。我々宝石商 はカラットで計算する習慣がある。稀少な石については1キロでさえ想像を超える量だ。でも、ここで話しているのは何 千トンという単位だ。望む人すべてに、宝石を削ってあげることができるようになるんだ」 ヤヌスはふたりが指を絡ませながら去っていく様子を窓から見下ろしていた。やってきたときよりゆっくりと歩を進めて いるのがわかる。ふたりが指輪をはめているかどうかまでは見えないが、はめていてくれたらいいなと思う。 あと何年、息子と過ごすことができるのだろう。医師から下された最近の診断結果は思わしいものではなかった。20 年前から少しずつ体はむしばまれてきたが、自分らしくないことはすまいと、無理に抵抗することなく病と共存してきた。 大切にしてきた宝石は、自分の命とともに失われてしまわないように、アトリエで仕事をする職人のように辛抱強く、ひ とつひとつ、ふさわしい人に譲ってきた。 「ふたりの未来が幸せでありますように」涙を拭いながら彼はささやいた。 「私が削った指輪は、きみたちにお似合いだ。 それぞれが感じていることを分かち合う手助けをしてくれるはずだ」 雨は止んでいた。雲の合間から晴れ間がのぞき始めた空を見上げた。夕暮れ近くの光が屋根の連なりを色づかせて いた。空の向こうには、果てしない未来が続いている。カーテンを引き、目を閉じるとクレールのささやきが聞こえてきた。 “もしこの世のすべての人が共感しあえたら、私たちの声だってきっとどこまでも届くわ Jean-Claude Dunyach ジャン = クロード・デュニャック 64 UN COIN DE SON ESPRIT 記憶の片隅 「すごいわ! タド、今回も素晴らしかったわ!」 エニド・ショーンがソファーに座ったまま言った。 「お言葉、いつもながら胸に沁みます、エニド」 新作発表会はラモーの『未開人の踊り』が終わりにさしかかると同時に締めを迎えた。ファッションコラムニストとして 名の知られたエニドの選んだ作品が、彼女の手首に付けられたノーティスのメインスクリーンに転送され、映し出されて いる。複合的で個人的な一連のデータをもとにして、その作品は様々な色に変化している。 タドとエニドのあいだにはサヴェージ社の伝説的なバッグが鎮座していた。ル・ナトーと呼ばれるそのバッグは、タドの父、 ニコラが 2030 年代初頭、エニドのために特別に作ったものだ。 高齢とはいえ、おしゃれなエニドは朱色のネクタイをして、同色のヘアバンドで白髪をまとめていた。向かい側にいる タド・サヴェージもエニドに負けず劣らずおしゃれで、選択眼に自信のある男性特有の優美な物腰をしている。直毛の短 い髪が若々しい感じを与え、実業家然とした顔だちを和らげていた。サヴェージ社を昔から知る人々はタドの髪を見ると 母親の明るい金髪を思い出すのだが、その母親も他界してもう 20 年になる。 エニドはスクリーンに映っているル・ナトーの最新モデル、同色の糸で繊細なかがり縫いの施されたバッグの映像を 片手でスライドした。それからノーティスにいくつか指示を出した。 「ホログラフィー投影はもう解除するわね。テキストも写真も十分送ったから、あとの作業はノーティスに任せておきま しょう。私があなたに何か言うときは、すべて言葉どおりに受け取ってもらっていいわ。余計なことは言わないから。タ ド……あなたのことはずっと前から知っているけど、ほんとうの意味で知り合ったのは、あなたが一人前に会話のできる 年頃になってからね」 「初めてまともに言葉を交わしたのは、25 歳の時だったと思います」タドは言った。 「私が言っているのはまさにその時のことよ。あなたの前にはお父さんを知っていたし、おじいさんとも多少は面識があっ たわ。アルクスと出会ったとき、彼女はまだアトリエのアシスタントにもなっていなかった。思い出すわ、あなたのお母 さんに捧げられた新しいコレクションの披露パーティーのことを。お母さんはまだ若いお嬢さんでしかなかった。夢のよ うなパーティーだったのよ」 「会社の資料では見たことがあります」 「あんなのを鵜呑みにしちゃだめよ。ノーティスはまだ発明もされていなかったんだから。いくつか映像は残っている…… だけどそれ以上のものがあるのよ! 会場を包む陽気な雰囲気……香水の匂い……そして途切れることのない人の渦 ……あのざわめき……もっと話して聞かせてあげたいけれど言葉にならないわ。自分で実際に経験しないとわからないの よ。とにかく……私はあなたのもっとも忠実な顧客で、それに私、こんなこと言うと年がばれてしまいそうでいやだから 言わないけれど、歴史的な顧客といってもいいくらいなのよ」 65 「たしかに」と応じたタドは、エニドの言いたいことがだんだんわかってきた。 「私はこれからもあなたの味方よ。私の使えるすべての情報伝達経路であなたをサポートするわ。でも、不安に思ってい ることは率直に伝えるわね」 「ありがとうございます、エニド。我が社はこれからもずっと技術力と創造力で他社との差別化をはかっていきます」タド は言葉少なに答えた。 タドはすぐに、今朝、アシスタントのアンに言われたままの言葉を口にしてしまったことに気づいていまいましく思った。 しかしエニド・ショーンはアンではない。エニドは有無を言わせぬ口調で言い放った。 「あなたたちがよそに違いを見せつけたことなんてなかったわ、タド。あなたたちは違いそのものなのよ」 「素敵な言葉だ」 「私のキャッチフレーズよ」エニドはウインクしながら言った。 「よく聞いて。あなたのお父さんがモノフォルム人工皮革 を商品化したとき、私たちはみんな夢中になった。革命的な商品だった! スーリヤ・イェマヤ・ダ・マタが考案したキ メラの擬態皮膚と同じくらい並外れた、素晴らしいものだった。あの新素材! 創造の可能性がどれだけひろがったこ とか……。ガラスみたいにプレス成型したり吹いたりして好きな形に加工できる革、しかも縫い目がひとつもないのよ!」 「新作にかがり縫いを施すべきではなかったということですか?」 「あのかがり縫いもね、話題になるのは来週のオートクチュールまでね」エニドはぴしゃりと言った。 「そして翌週になれ ばすでに世間は別のことに気をとられているのよ。私に小細工が通用すると思わないで。正式に発表されるのも時間の 問題よ……。カアジ社に市場を奪われ、せっかくの作品を平凡で陳腐な商品にされてしまうわよ。この状況を打開する 方法はあるの? ブランドの価値を再認識させられるような?」 彼女のトレードマークとなっている、左右で瞳の色が違うオッドアイで、エニドは詰め寄るようにタドを見つめた。タド は肩を落とす自分に気がついた。 「いいえ。アルクスは死に瀕しています。そしてアルクスしか知らない企業の秘密があるんです」 「それなら、単刀直入に言わせていただきますけれど、あなたは今、泥沼に両足を突っ込んでるのと同じような状況よ」 「ホログラフィー投影をあそこで解除していただいていてよかった」 エニドは心から微笑んだ。 「私たちファンをがっかりさせないで、タド。あなたが大好きなんだから」エニドはやさしい声で付け加えた。 タドは礼を言ったが、エニドに励まされても、ここふつかばかり息もできないほどの緊張が和らぐことはなかった。 蜜蜂はしばらくおずおずと戸惑いがちに青年の身体を這ってから、ようやく巣に戻ろうとしていた。ザディーグという 名のその青年は蜂が飛び立つ様子をじっと見つめていたかと思うと、2本の指ですばやく蜂をつまんだ。 「反射神経はもう問題なさそうね」ザディーグの背中越しに、アルベス・ルンドが声をかけた。神経外科医である彼女は、 テントから引っ張り出して地面に置いた簡易ベッドに腰かけていたザディーグのそばに座った。ザディーグが指でつまん でいた蜜蜂を放すと、蜜蜂は足もとに落ち、じたばたしながら途切れ途切れに羽音を立てた。 「刺されましたよ」ノーティスにデータを送りながら、アルベスは言った。 「わかっています」ザディーグは答えた。 「迷子だったんですよ」 「で、つぶしたの?」 収納箱の側面に埋め込まれた小さなタンクから1回分の軟膏が出てきた。ザディーグはおとなしく右手を上げ、人差 し指を立てた。 66 「他の蜂はとっくに帰ったんですよ。こいつは群れからはぐれていて」 アルベスは考えこんでいるようだった。金髪の眉毛が描いている弧の上には 35 歳という年齢をかろうじて感じさせる しわがあった。 「意外ね、あなたがそんなことをするとは……。あなたは私の知っている中でも、はみ出し者を殺すような人からはもっと も遠い人なのに」 「それはぼく自身がアウトサイダーだから?」 「そのとおり」 ザディーグは不本意ながらも自分の雰囲気を特徴づけている、謎めいた眼差しをアルベスに向けた。ザディーグの目 の奥に、ひとつの世界が広がった。ムネモシュネ、記憶の女神の名が付けられたアプリケーション・チップ、すなわち 彼の脳神経の接続を確立し、つねに制御、推進、濾過している世界だ。 「蜜蜂たちは巣の動きにしたがい、命令に応じるよう、遺伝子レベルでプログラムされています。巣に入っている設備の おかげで女王蜂に指令を出せるという点を取り上げれば、プログラムは二重だと言ってもいい。この蜜蜂はその両方の 支配から逃れたんです」 「それじゃ、あなたの興味深い理論を人間に置き換えると……」 「とっくに誰かがぼくをつぶしていたにちがいありません」ザディーグは冷めた口調で答えた。 「しかしムネモシュネは機能 しています。ぼくはその支配をまぬがれていない。だから蜂の巣に異物と見なされても、ぼくは蜂の巣のなかで生きるこ とができるのです」 ザディーグの言葉を聞くまでもなく、アルベスはそのことを誰よりもよく知っている。ザディーグの専属医師として配置 されて5年。ザディーグの医療記録に記されていることならどんな些細なことでも頭に入っている。ザディーグが記憶も コミュニケーション能力も持たずに生まれてきて、社会生活が困難なほどの過敏障害を患っていたことも。何度も手術を して、人工知能を内蔵したチップを脳に移植し、ノーティスに接続することで、ザディーグは言語と、なにより彼に欠け ていた長期記憶を獲得できたのだ。彼の記憶がどんな感情とも無縁だということもアルベスは知っている。昔を振り返 ることはできても、過去の出来事はムネモシュネの冷たいフィルターに濾過され、いかなる感覚も呼び起こさない。そう でないときの彼は常に感情で反応しているというのに。脳内を流れる冷たいイメージの数々がもたらすのは過去の知的 な展望でしかないのだ。 こうした医療技術の恩恵を受けているのは、世界でただひとりであるだけにいっそうアルベスはザディーグに興味が あった。給料も魅力的だったが、患者はそれ以上に魅力的だった。 「そういえば、私は呼ばれて来たんだったわね」ザディーグが沈む夕日を夢中になって見つめはじめたのに気づいて、アル ベスはあわてて確認した。 「そうでした。もうヌーベル・アフリカを離れてもいいくらい研究が進んだのです。見ていただけますか?」 「喜んで」 軽快な足どりで、ザディーグは土で作った鋳型のところへ行き、細心の注意を払いながら鋳型を砕き、革でできた玉 を取り出した。 「蠟は革に吸い取られて、完全に染み込んでしまいました」 「それで香りは残ったの?」 ザディーグは答えず、革でできた玉を指先でボールのように転がすのに夢中になっていた。アルベスもまた、その様子 を夢中で眺めていた。それは縫い目も綻びもない、完全な球体だった。ザディーグを担当するまでは、加熱して溶かす とガラスのようにも見えるが、ひとたび冷めると皮膚よりも柔らかくなる、そんなモノフォルム人工皮革の開発にどれほ 67 どの技術が必要かなどということは考えたこともなかった。 革でできた玉は常軌を逸した速度でぐるぐる回っている。ザディーグは鼻を近づけた。近づきすぎて、玉を落としてし まいそうだった。 「アルベス、シェドゥーヴル(傑作)ってどういう意味か知ってますか?」とザディーグは唐突に言った。 「職人の代表作 かしら といえるような作品のことです。磨いた腕の証拠になるような作品。シェドゥーヴルのシェ( フ ) には頭という意味もある。 あたま かしら 頭 って意味じゃなくて、指図をする指導者という意味の頭……。ぼくのケースを考えると、すごく皮肉じゃありませんか?」 アルベスは黙ってうなずいた。ザディーグが本音を話してくれるのは珍しいことだ。 「この所作がちゃんとできるようになるのに何年もかかったんです」ザディーグはつぶやくように言った。 「言ってみれば、 所作を身につけることで職人になれるのです。この人工皮革もようやく昔の革みたいな匂いがするようになりましたが、 所作を定めたからできたのです」 ザディーグは所作という言葉を強調し、話の要所要所で3度繰り返した。 「それでは、完成したのね?」アルベスは聞いた。 「それがそうでもないのです。香り自体を定着させるにはどうすればいいのかがまだ分からなくて」 「どういう意味?」 「革は香りを吸収するんですが、香りは最終的には飛んでしまう。残らないのです。パリに帰らなくてはならないのはその ためです。答えを見つけなければ」 「誰のところで?」 ザディーグは、ときどきアルベスを途方に暮れさせる、例の謎めいた微笑を浮かべた。 「蜂の巣の女王のところです」と言ってザディーグは革の玉を両手のひらで包みこんだ。 病室のドアの前で、タドは神経質だが的確に動く指をノーティスに滑らせて、ナースステーションにデータ送信のリク エストをした。 タドは明るい色のスーツにスカーフを無造作に垂らしている。 「色のついたネクタイが旬なのよ」とエニドからは指摘さ れたが、タドはネクタイが嫌いだった。ネクタイであれなんであれ、首の邪魔になるようなものを身につけるのは耐えられ なかった。今朝だけは流行りなんかに従わなくていいということにした。喪に服すやり方がいろいろあるとすれば、これ が彼なりのやり方なのだ。 しかし、まだ亡くなったわけじゃない、と頭の中で反論する自分の声が聞こえた。 先ほどリクエストしたアルクスの病状に関するデータが、ナースステーションからノーティスを通して送られてきた。タ ドの耳に「小康状態」いう言葉がかろうじて聞こえた。タドはその言葉が含んでいる皮肉を噛みしめた。大きな転落を 前にした逡巡。必死で逃げてきたところで目の前に現れた深淵。そこに飛び込む直前に、一瞬、必死で立ち止まるよう な、そんな状態を示す言葉に思えた。 ドアが開いて目に入ってきたのは、病室のベッドに横たわり、いまわのきわにあるアルクスの年老いた身体だけだっ た。そのあまりにもか細い身体は、人間工学に基づき開発された繭のように柔らかなマットレスに少しも沈み込んではい なかった。 きっと苦しいにちがいない。 タドはアルクスの様子がよく見えるように、軽く優雅な足どりで近づいた。顔は穏やかだった。チャームポイントだっ た笑いじわは老いによって刻まれたしわに埋もれ、まつ毛は少なくなったとはいえ黒々としているが、縮れた髪の毛はほ 68 とんど真っ白だ。 タドは突然、怒りがこみ上げてくるのを感じた。老いて寝たきりの姿なんて見たくない。マットレスの上の動かない両 手を見るなんていやだ。アルクスの素晴らしい両手。いまでこそしみで覆われているが、その手が革を撫でる様子を、考 えこむときの癖で美しい頰を包む様子を、タドはずっと眺めてきたのだった。 いまいましい生命維持装置を槍のように突き刺された身体は、かつてはしなやかに動き、はつらつとしていた、タドが いつも眺めていた身体ではない。 タドは、最初にアルクスと対面した幼い日のことを思い出していた。ある年のクリスマスイブの夜、サヴェージ社の昔 の宴会用の広間でのことだった。父と一緒に働いている人たちが一堂に会していた。パーティーは始まったばかりだった がすでに人々の会話は弾み、愉しげな声はシャンデリアに照らされた大きな天井へとこだましていた。おとなに混じれな いタドは、風変わりなシャンデリアの、触手のように曲がりくねった優雅な腕をじっと眺めていた。いつになったらあそ こにぶら下がることができるだろうかと機を狙いながら。 当時、タドの母親はまだ健在だった。はっとするほど白いシースドレスを着ていた。タドはというと白とブルーグレー の服を着て、大人ばかりのなかで子どもは自分ただひとり、ソファーの肘かけにつかまっていた。 そしてアルクスが入ってきた。人々の会話がやんだかどうか、人々が一斉に振り向いたかどうか、記憶は定かではない。 女盛りのアルクスは、顔つきはほっそりとして、物腰はどこか不遜だった。明るい色のチュニックが、光の具合でさまざ まに変化する肌の色を引き立てていた。驚くほど濃い褐色の肌は多種多様な民族の血を引いている証しだった。 女性たちの反応は、他の場面でもよく見られるが、呼吸の乱れに表れた。女性の誰もがまるで軽い呼吸困難に陥っ たようだった。美しいタドの母親でさえも、新参のアルクスを温かい目で迎え、歩み寄って手を差し伸べたとはいえ、他 の女性たちと同じように息を呑んでいた。まだ6歳だったタドは、居合わせた女たちがなぜ息を呑み、それから過剰なま でにやさしくなり、媚を売り始めたのかわからなかったが、大人になる過程でこの日のことを思い出しては繰り返し考え、 成人男性の知識を総動員して、ようやく理解できた。 女性たちはアルクスを懐柔したかったのだ。ライバルを手なずけたかったのだ。 「あのひと? 新しく入ってきた職人って?」誰かが背後でささやいた。 返事は聞き取れなかった。招待客全員が、男も女も、みんな一斉に答えていた。広間のざわめきが口を揃えはじめた。 そうだよ、あのひとがアルクスだよ……。 タドは突然、過去の記憶を振り払い、年老いて生気のなくなった身体をあらためて見つめた。タドの母は永遠の眠り について久しいが、あの晩招待されていた他の客たちも大半はおそらく母と同じように永遠の眠りについていることだろ う。死亡告知欄など熱心に読んだことはなかったが。 「ここにいらっしゃると思っていました」アシスタントのアンの声がした。 アンはドアの近くに立ったまま、タドが振り返るのを待った。タドとしては、必要以上にゆっくり振り返ることで、そっ としておいてほしかったことをアンに伝えたかった。 「ここにいたからどうしたと言うんだ?」と答える声にはしかし棘はなかった。 アンは軽く咳払いをした。 「上の階に戻ってお話ししたほうがいいでしょうか?」 タドは首を横に振った。新しい取締役たちと顔を合わせたくなかったのだ。いま自分に必要なのは考えることで、自 分以外の人間の心配ごとを一身に引き受けることではなかった。自分自身の不安と向き合うだけで精一杯だった。 タドがノーティスに指をスライドさせてナースステーションにリクエストを送信すると、病室のブラインドが開き、街の 景色が目の前に広がった。 69 無意識のうちに、今朝は結ぶことを拒んだネクタイを緩めようとしていた。指が喉元で止まり、早鐘のように打つ心拍 を感じ取った。ノーティスの心拍警報を解除しておいたのは正解だった。 アンの視線は昏睡状態で横たわるアルクスの身体に釘付けになっていた。 「心配するな」タドがアンに言葉をかけた。 「アルクスには聞こえていない。それにもし聞こえていたとしても……。アル クスがアトリエの主任になった日から、私たちの間に隠し事は何ひとつないんだ。我が社の状況を誰かに知らせなけれ ばいけないとすれば、それは彼女だ。それに、もしかしたら……」 アンはうなずいた。タドはアンがライラック色のネクタイをダブルノットで締めているのに気がついた。3年前、学歴 優秀だが何の経験もない若者の、控えめな前衛主義と、完璧に流行を押さえた服装に説得力を覚えたことを愉快な気 持ちで思い出した。そしてタド自身はとても耐えられないような首元の拘束に、涼しい顔で耐えられるアンの柔軟さをタ ドは気に入っているのだった。 「ノーティスのチャンネルニュースをオフにしていますね」アンは上司に指摘したものの、口調は穏やかだった。 「5分前 のニュースで確実になりました。カアジ社が正式に特許を出願しました。フォルムテックという製品は、いくつかのディテー ルを除いて我が社の製品にそっくりです。つまりカアジ社は、モノフォルム人工皮革と同レベルの製品を再現することが できるわけです」 「こんなに早く?」タドは小さな声で言った。 「それでうちのアトリエでは? どうなっている?」 「アトリエで働いている者たちは心配しています。業者からも 100 件以上の問い合わせが私のところに送られてきました」 「想定内だな」タドは続けた。 「それでアトリエ主任のマネックは? 彼は何と言っていた?」 「マネックには何か新しい動きがあったかと聞かれました。あなたや……アルクスがひょっとして……」 「ひょっとして我が社の人工皮革を希望通り進化させていくためにどうしても必要な情報を、アルクスから聞き出すことが できたかどうかを知りたかったんだろう?」胃がキリキリするのを感じながら、タドは言った。 「許してくれ、アン。人生で 初めて信用を失いつつある。カアジ社は市場を混乱させ……。それに例の特許のこともある……。アルクスがこの世を 去ろうとしているこんな時にかぎってだ。この喪失が私にとってどれほどのものか、きみには察してもらえるだろう」 タドは「我が社にとって」と言いそうになって思いとどまった。まさにその瞬間、自分に嫌気がさした。しかしサヴェー ジ社とアルクスを切り離して考えることはどうしてもできなかった。それはおそらく、アルクス自身も会社と自分を切り離 して考えたことがなかったからだった。サヴェージ社は彼女の家族であり、仕事であり、生きがいだった。完成させた作 品といってもよかった。 「我が社はそう簡単に立ち直ることはできないだろう。ひと月もすれば、市場にはモノフォルム人工皮革と同等の革でで きたバッグがあふれることになるだろう」 「創造的な仕事というのは、他の追随を許さないものです」アンはまたしても言った。 「うちはそれほどよそと変わらないってことさ」タドは突き放すように言った。 「今、うちの製品に欠けているのは、革の 香りだ。その解決の糸口はアルクスの頭の中にある」 ふたりは横たわったアルクスの身体のほうを振り返った。 「彼女のノーティスは脳の活動を信号で知らせています」アンはそれとなく言った。 「もしかしたら……」 タドはため息をついた。 「どうせ見えたとしても、つながりのないばらばらなイメージばかりだろう。まあいい……。もしやってみたいなら、接続 してみるといい。強制するわけではもちろんない。しかしきみになら私が見落とした何かが見えるかもしれない。きみは 意識していないかもしれないが、私の気づかないことによく気づいてくれているからね」 アンは控えめな微笑を浮かべてから自分のノーティスの透明な保護膜をずらした。ノーティスはアンの皮膚に触れて震 70 えながら、アンの脳から送られてくる無音の命令を受け取っていた。アルクスのノーティスもすぐに反応した。フィルター も秘密保護警報もかかっていない。セキュリティ管理された病室には部外者が入ってくることはないからだった。 タドがアンのノーティスに送ったシェアのリクエストが承認され、アルクスの頭の中にあるイメージがふたりの目の前に 現れた。 「いつもこれだ! アルクスが飼っていた蜜蜂だよ!」 上の階の蜂のぶんぶんいう音。下の庭にある菩提樹と栗の木。何十個もの巣箱に何千匹という蜜蜂が住んでいて、 巣箱の中で忙しそうに立ち働いている。聞き慣れた蜜蜂の羽音が病室じゅうに響き渡り、菩提樹の花と蜂蜜の香りが甘っ たるく広がった。アルクスの蜜蜂。アルクスの気まぐれ。 「これは情報なんかじゃない。死に瀕した老女が安らかな気持ちになるために最後に思い浮かべている映像だ」 タドは苦々しい思いで、蜜蜂や鮮やかな緑色の草、見慣れた庭の穏やかで心安らぐ風景から目をそらした。蜜蜂の羽 音は人を不安にさせないようにノーティスの機能によって調整されていたが、それでも病室は壁に埋め込まれた何百万と いう拡声器から出てくる音で満たされた。 「待ってください。これだけではないようです……」アンが突然声をあげた。 同じ場面が別の角度から映し出された。アンのノーティスを操作することによって、アルクスの脳内で繰り返し再生さ れている3Dのヴァーチャルイメージの角度を調整することができた。 「蜜蜂の群れが、木のほうへ向かって行きます!」 群れは整然と途切れることなく一列になって満開の菩提樹のほうへ飛んでいった。仮想カメラはゆったりとした動きで その行方を追った。 「男がいます……」 視界が狭まり、カメラは熱に浮かされたように飛ぶ蜜蜂の群れを追って鋭く向きを変えた。たしかに、ひとりの男が上 半身裸で菩提樹の幹に寄りかかり、向かってくる蜜蜂の群れを身じろぎもせずに見つめていた。 茶色いあごひげに縁取られた顔に、セミロングのカールした髪の毛。蜜蜂の群れが飛行を止め、体を覆い始めたとい うのに、その男は瞬きひとつしない。蜜蜂は肌の白さゆえに青い静脈が目立つ首筋に沿って這い上がり、何匹かは口も とまでたどり着いてじっとしている。あっという間にマントさながらに男の体をびっしりと覆ってしまった。 タドは微笑した。 「キリストか? 死の近づいた人間は、みんな同じような様子をしているものだな」タドは言った。 アンが男の顔にズームした。 「あれは……」タドが何かを言いかけた。 突然、蜜蜂の群れが飛び立った。それは一瞬の、そして完璧にシンクロした動きだった。 仮面がはがされた。 タドは釘づけになった。 「キリストじゃない……」タドはつぶやいた。 アンは男をじっと見た。男はこちらへ向かって手を上げながら、彼もまた怪訝そうに凝視してきた。 「キリストどころじゃない」タドはまた言った。取り乱しているのか唸るような声だった。 「どなたですか?」 それから男の動きが止まった。タドのノーティスがアルクスのノーティスとの接続をいきなり解除したのだった。それで もいくつかの兆候、激しい動揺を感じとるだけの時間はあった。蜜蜂の羽音も一瞬にしてかき消された。 タドがアルクスに向けた眼差しには悲しみと怒りの両方がこもっていた。 71 「あれは弟のザディーグだ」タドはそう言うなり、病室を出ていった。 赤くくすんだ空気が目の前の影と埃を強調していた。ザディーグは乾いた土に敷いた筵の上に尻をついて座っていた。 「パリへ発つ前にもう一度手術を受けられると思いますか?」ザディーグがたずねた。 「やっぱり本当なのね」アルベスはため息をついた。 「どうしてもう一度手術を受けたいと思うのですか?」 「時間がないのです。パリに着いたらぼくの所作をアルクスに伝え、アルクスの所作をぼくが引き継ぐことになります。そ のためには今の 10 倍の容量が必要なんです。記憶を少し解放しさえすれば、ムネモシュネが媒介してくれるでしょう。 それに今入っているチップはぼくが考えている用途に対して小さすぎます」 「神経外科医はあなたのほうかしら? アルクスって誰なの?」 「蜂の巣の女王です。ぼくの育ての親とも言えます。そして金属加工法のひとつであるロストワックス法を学ぶためにぼく をここへ送り込んだのも彼女です。成功するまではいっさい連絡をしてこないようにと言いつけられました」 「ずいぶんと厳しいのね」アルベスはため息をついた。 「スパルタ式というか」 「アルクスの教育方針は、昔ながらのスタイルで育てられた人から見ると理解しがたいものに映るかもしれません。それ で? 手術の日程を繰り上げられると思いますか?」 「ザディーグ、私はもう少し時間をおいてから検討すべきだと思いますよ。ムネモシュネがあなたの脳にどんな働きかけを しているのか、よくわかっているでしょう。プロセスを刺激して活性化させると、脳が自滅するおそれだってあるのよ。他 の先生の意見も聞いてみて……」 「移動中に面倒なことが起こるのを恐れていらっしゃるなら、ご心配なく」アルベスの警告など耳に入らなかったかのよ うにザディーグは言い放った。 「ぼくなら何があっても耐えられる自信がありますから」 「どうしてそんなに急ぐのか理由がわからないわ」アルベスはつぶやくように言った。 「ご自分の目で見てください」 ザディーグは自分のノーティスをのぞき込んだ。絵表示と方程式の複雑なネットワークが表示されて、ジャーナリスト とおぼしき男の高揚した声が聞こえてきた。 「カアジ社は特許の取得を正式に発表しました。これまでのところ、有名なモノフォルム人工皮革の開発と商品化にじゅ うぶんな技術と技法をもっていたのは、唯一サヴェージ社のみで、このモノフォルム人工皮革を顧客に提供したのはニ コラ・サヴェージでした。しかし、今回、カアジ社が特許出願した素材はフォルムテックといい、この商標はまもなく顧 客に……」 ザディーグは伝送をオフにした。 「さて、手術の日程を繰り上げられると思いますか?」ザディーグは落ち着き払ってもう一度聞いた。 「あなたが想像している以上に複雑なのよ」アルベスはため息をついた。 「ぼくは想像力を持たない人間なのですよ」ザディーグは微笑んだが、その微笑に皮肉はまったくこもっていなかった。 溶解炉から聞こえてくる低くかすかな音は耳になじんだほっとする響きだった。 ダンスが始まってもいい頃だった。職人たちはもはやタドが名前を知っている者たちとは別人のように見えた。職人同 士が一体化して絶妙のハーモニーを生み出し、素材と混じり合いながら動く肉体と化している。吹き竿をつかんだ者、 突進する構えの者。互いに背後からすり抜け合い、膝を曲げ、腕を前に投げ出し、しばし静止する。定期的に竿がぶつ 72 かり合う心地よい音が、炉から聞こえる単調な音をリズムよくさえぎった。 何年ものあいだ、何時間も眺めてきたというのに、タドはまるでダンスを披露しているような仕事ぶりにはいつも驚嘆 させられた。しかもそのダンスは時代時代で微妙に異なる。新しく工房に入ってきた職人たちがそのつど違いを刻み込 んでいくのだ。職人たちのダンスには、部族的で、異教的で、催眠術のような魅力があった。それを眺めるすべての人々 の心と同じように、自分の心臓の鼓動が工房の不思議な音楽と調和していてもおかしくないくらいタドの心にも響いた。 完璧な心の収縮作用。驚くべき調和。ただひとつのことを目指して、ただひとつのダンスを形成するために、個性豊 かな数十人の人間が見せる結束。 最後の職人が脚を踏ん張り、竿を持ち上げる。溶解した玉が現れる。ほどなく、ふたりの職人がやってきて軸を支え 持つ。最初の宙吹きだ。 この宙吹きは換気の風と混じりあうが、誰にも聞こえない。聞くのではなく、見るのだ。吸汗性機能のついた薄い男 性用シャツの下で上半身が盛り上がり、肩が開かれる様を。男がついに息を吹き込むと、今度はタドが息を詰める番だ。 溶解した玉は大きくなるほどに明るい色になっていく。男を支えているふたりは、ひざまずいたまま微動だにせず、ま るで彫像のようだ。ゆっくりとバッグが形造られてゆく。アトリエ主任のマネックが、バッグの形成された基部を人差し 指でなで、そっと切り離した。 もっと見ていたい名残惜しさを感じつつ、タドは体を楽にする。肩の緊張もほぐれてきた。 新しく成型された革を通して、タドは光が突き抜けるのを見たような気がした。光はほんの一瞬、赤みがかった炉の 輝きの中で、バッグをランタンに変えた。闇の中のわずかな光。 「この新作は、なかなか面白いですね」と言われて、タドはアンがそこにいたのを思い出した。 「次に流行るのはかがり縫いだと確信している」タドは前々日に会議で言ったのと同じことを繰り返しながら、抑揚のな い声で強調した。 「不合理に思えるかもしれないがそうなんだ。縫い目を必要としない素材にあえて施す縫い目。補強。 作品の内容と形式を結合させる、伝説的なバッグを造り続けるんだ」 「伝説的」アンはうなずきながら繰り返した。 「そしてそれをカアジ社はそそくさと模倣し、改造し、引き継ぐのだろうな。そのために人工皮革の特許までとってね。まっ たく、すばらしいことだ」 「宙吹きではなく、プレス加工をするべきだったと思われますか?」 「祈るべきだったな」タドは皮肉っぽい口調で言った。 「祈るべきだろうと思うよ。奇跡が起こるようにね」 赤色の乾いた土の上にじかに寝そべっているザディーグの周りでは、蜜蜂たちが羽音を立てながら飛んでいる。群れ の一部は、少し離れたところにあるアンゼリカの温室のほうへ飛んでいった。ザディーグは埃だらけの寝床でノーティス への指示をプログラムし直していた。白い光がほとばしり、蜂の巣がリクエストを受信して、女王蜂が働き蜂たちに新た な位置情報を伝えたのがわかった。まもなく、蜜蜂の群れも、西のほうの別の温室へと向かって飛んでいった。 ザディーグは羽音が遠ざかるのを聞いていた。脳に接続されているアプリケーション・チップ、ムネモシュネの最も古 い記憶の中に、蜜蜂はいた。 昔は、蜜蜂に怯えていたものだが、今はその恐怖がなくなっていることが嬉しかった。いずれにしても、蜜蜂を怖がる なんてばかげているのだけれど。 兄からのメッセージについて考えてみようと思った。数分前に受け取ったばかりのメッセージだったが、人工記憶の片 隅に追いやられていたものだ。 73 メッセージは明確だった。おそらく秘書に口述筆記させたものだろうが、重要な情報を客観視したような淡々とした口 調はいかにもタドらしいと思った。 ザディーグはタドがどういう気持ちでいるのかはわからなかった。 アルクス、危篤。 死期の近い昏睡状態で、意思の疎通は不可能。 ザディーグは鎌を持った死神の足音が近づいてくるのが聞こえる気がした。その刃はアルクスの命と彼らの未来をひと 振りで奪おうとしている。サヴェージ社の革も香りがなければ、その辺にある革と変わらず、カアジ社の製品やそのあと 続々と生産される類似品と大差なかった。 アルクス、あなたがなし得なかったことが、どうしてぼくにできるでしょう? ザディーグはつぶやいて、人工記憶を呼 び戻そうとした。 ムネモシュネのおかげで、1匹の蜜蜂の姿が描き出された。それからまた1匹……。また1匹……。 ザディーグは家の敷地の下のほうにあった庭へは一度も脚を踏み入れたことがなかった。ザディーグが統合失調症の ひとつであるカタレプシーを患う以前は、そこはアルクスの絶対的なテリトリーだった。彼のほうへ身を屈めて、蜂蜜色 の瞳で彼の顔をのぞき込むアルクスの姿がふたたび目の前にあった。ふたりのあいだでは、蠟はほとんど溶けていたが、 ふたりともそれには注意を払わなかった。 アルクスの言葉がよみがえった。 「ザディーグ、どんな所作が必要かわかったわね。あとはその所作を実践できるようになればいいの。ロストワックス法を、 その発祥の地、ヌーベル・アフリカに学びに行きなさい。私にはできないから。あなたが正しい所作を身につけてきて ほしいの。先生がひとりというのはよくないわ。ヌーベル・アフリカに行けば、他の先生を見つけられるチャンスが倍に なるのよ。 サヴェージ社は蜂の巣のようなもの。 ひとりひとりに役割があるわ。 所作をマスターしたら、 こちらへ戻っていらっ しゃい。そのときはあなたが教える番よ。ザディーグ、蜜蜂をごらんなさい、なんて働き者なのでしょう。でも、蜜蜂は 他の仲間がいなければ、蜂の巣がなければ、存在しないも同然なの。 自分の居場所へ、いつでも戻っていらっしゃい」 ザディーグは巣と巣の間に横たわって、瞬きもせず、記憶の中のアルクスの声を聞いていた。アルクスは歌うように話 し続け、蜂蜜の香りがふたりの間で蠟の香りと混じりあった。 「私は私で、香りを定着させる方法や、あなたと話し合った他のことについて新しいなにかを見つけているかもしれない。 向こうへ行っても、どんな物語でもより大きな物語を秘めているということを忘れないで。 『ウジェニー姫の肘かけ』を思 い出してごらんなさい。香りは記憶、これこそあなたが子どものときからあなたと私の間にあった、ふたりの秘密よ」 ザディーグは記憶の容量オーバーでムネモシュネの機能が弱まるのを感じ、ひと言で、ムネモシュネを覚醒させ、蜂の 巣のせわしない営みを眺め、唸るような羽音に耳を傾けた。 所作……香り……所作……香り……。 思考はザディーグの脳の人工的な接続をかき分けるようにして進み、ムネモシュネを通過し、左脳で急停止し、爆発し て無数の色を帯びた。 ザディーグは驚いて、立ち上がった。 「ウジェニー姫! 香り! 香りは記憶! アルクスの所作!」 身震いして、ザディーグはノーティスをアルベス・ルンド教授のノーティスに接続した。アルベスがすぐに現れ、神妙 そうな顔で彼の言葉を待った。 「やはり、あなたに再手術をしていただくことになりそうです」 「話を聞くわ。でもやはり手術はできないと言う可能性もあることはわかってね」 74 「ぼくがこれからお話しすることを聞いてから判断してください。正確な物語を知っていますか、アルベス。ぼくの厳密な 物語を。すべては『ウジェニー姫の肘かけ』から始まったのです……」ザディーグは両手を頭の後ろにあてて寝そべり、 話し始めた。 「弟さんから返事が来ました」事務的な口調で秘書が言った。 「弟さんの到着に備えるためのリストが送られてきました」 タドは何の感想も述べず、通信を切った。10 分後には一連の会議が始まり、それが間違いなく主要メディア各社か らのさりげない嫌がらせにつながるとわかっている今、どんなことであれ隠しておける自信はなかった。 「まったくザディーグらしいな」タドはぶつぶつ言った。 「10 年ぶりに帰ってくると思ったら、買い物リストを送りつけてく るなんて」 リストに並んでいる項目を見てタドは目を丸くした。 総合手術室と訪問蘇生班。 技術的なことが仔細に指示されている、未知の革用のプレス型。 職人を数人。 上の庭に植えられた1ヘクタールのアンゼリカ。 「1ヘクタールのアンゼリカだって?」タドは声に出して言った。 飼育箱。 ウジェニー姫の肘かけ。 上の階の箱の中に保管されている思い出の品は、彼らの父親が心底大切にしていたものだった……。 「放蕩息子のお戻りだ!」タドは大きな声で言った。 「奇跡が起きるのを待っていたとはね。哀れだな……」 そしてタドは両手で頭を抱えて、狂ったように笑い出した。 「手はどう?」アルベスは聞いた。 ザディーグは手をあげて指を動かして見せた。問題なさそうだ。トランスコンティネンタル鉄道の車窓越しに灰色の海 が見えた。ザディーグは容易に識別できる感覚は拒絶する。海の上空を飛ぶのは昔から苦手だったし、たとえ低速であっ ても、水中を横断するなどなおさら嫌いだった。トランスコンティネンタル鉄道はその透明な材質ゆえに華奢な構造で、 骨組みもなく、トンネルもない。 ザディーグの脳は反射的に海の灰色のような不安から逃れるように、明るい、生き生きとした思考を始めた。 たったいま海がザディーグを閉じ込めたように、海を閉じ込めることができる透明な革。泡立つ無限の水、その深さ は変化し、それぞれが所有しているもっとも貴重なものを隠したり露にしたりする。 アルベスはザディーグが思索にふけっていることに気づかず、ザディーグに話しかけた。 「それにしても、とてつもない犠牲を払ったわね、ザディーグ。もう元通りにはならないのよ。あなたの手。わかってるわね」 「わかっています」 そのときアルベスはザディーグの苦しそうな呼吸で、彼が興奮と同時に好奇心とも戦っていることに気がついた。 「家に帰ったらどんな感じがするのかしら?」アルベスは優しい声で言った。 「行けばきっと思い出しますよ」ザディーグは答えた。 海の向こうで、上の階がぼくを待っている。アルクスがぼくを待っている。 75 タドは部屋を出て、肺の中の空気を一息に出してしまおうとするかのように深い息をついた。 「何もかも明らかになりましたね」傍らで茫然としているアンがつぶやいた。 そうだ、そのとおりだ。2日間の会議のすえにたどり着いたのがこの結果だ……。 株主たちの態度は明快だった。それぞれのノーティスによって完璧に調整され、しかるべき取捨選択をされた曖昧な 談話を通してではあったが、何もかも言い尽くされた。積み上げてきたものが崩れさるまで、あと2日。それは脅威でさ えない、単に、想定の範囲内のことだ。 アンとタドは無言のまま事務所へ向かう廊下を通り、さらに奥にあるタドの自宅へ向かった。 ドアの前に、おびただしい数の滅菌済みのパレットやケースが置かれていた。玄関に入ると、そこもまた運送会社の ロゴが入ったコンテナでふさがっていた。 タドは立ちすくんだ。弟が目の前に立っていたのだ。長身で、ヌーベル・アフリカの日差しを浴びて褐色になった肌の ザディーグは、タドとはすべてが対照的だった。ザディーグは微笑んだ。そこそこまともな、社会的には何の問題もない と思える微笑。タドは微笑み返そうとしたが、口もとが強ばつてつくり笑いになった。 こちらから先に話しかけなければなるまい、とタドは思った。ザディーグはたぶん何を言っていいかわからないだろう。 ザディーグはこういう状況で気のきいたことを言えたためしがないのだから。 ザディーグはひと目見ただけではわからないくらいかすかにだが、子どものときよくそうしていたように、重心を右足に かけたり左足にかけたりして体を揺らしていた。そして落ち着きのない謎めいた目つきでタドを見つめていた。隣には、 若い女性がひとり、生真面目な顔つきで、居心地悪そうに立っていた。タドのノーティスが彼女のアイデンティティを送っ てきた。受付で登録されたとおり、アルベス・ルンド教授と書いてあった。神経外科医。私的な用件。それからまたタ ドはザディーグを見た。 「上の階の、宝の箱を開けてもらったらしいな!」タドは言ってからすぐに後悔した。 肘かけはちょうどふたりの間に置かれていた。薄いガラスの板に載せ、鐘型のカバーを被せてある。 「それで」タドは続けた。 「『ウジェニー姫の肘かけ』がないと生きていけないと思ったから10 年ぶりに帰ってきたという わけかい」 「兄さんに会いたかったんだよ」ザディーグは言った。 タドは顔を背けないように努めた。後ろでは、アンが気をきかせて飲み物の支度をしている。 「望み通り会えたじゃないか。で、おまえには感情の記憶が一切ないんだから、センティメンタルな言葉のやりとりをし ないですむわけだろう」 ザディーグのノーティスが短い信号音を発した。 「お願いです……」ザディーグの隣にいる若い女性がささやくような声で言った。 「弟さんの状態はまだ不安定なんです」 「本当に?」タドは皮肉っぽく言った。 「弟は、不安定なんですか?」 「ぼくは兄さんの手助けをしようと思って戻ってきたんだ」ザディーグが言った。 「どうやって?」 「革の香りをよみがえらせる方法を見つけたんだよ」 タドはぽかんと口を開けた。ザディーグのノーティスがまた信号音を発したが、さきほどよりは穏やかだった。 喜ばなくてはいけないところなのだろうな、とタドは思った。 しかしそれどころか、タドは激しい怒り、昔から収まることのない怒りにとらわれているのを感じていた。そしてその怒 りをようやく押し殺してつぶやいた。 76 「そうか。おまえは戻ってきて、会社を救ってくれようとしている。そのこととその……思い出の品は何の関係があるんだ?」 「すべてはそこから始まったんだ。でも今は説明できない。一刻も早くアルクスに会わなくてはならないんだ」 アンがとっさにタドのほうを見ると、タドはうなずいていた。タドは自分で自分の気持ちがもうよくわからなかった。な にをどう考えていいのかもわからなかった。なにも考えずに、ただうなずいたのだ。 「本当か? 蜜蠟だけで?」タドは信じられない様子でため息をついた。 ザディーグとタドはアルクスの病室のドアの前に立っていた。 「アンゼリカの香りから抽出した合成じゃ香を含んだ蜜蠟、ビーワックスだよ。蠟で作った型で革をプレスすれば、香り が革に染み込むんだ」 「どうしていままで誰も思いつかなかったんだ?」 「昔々の、ヌーベル・アフリカの根源に遡って、古い技法にあたらなくてはいけなかったんだ。優れた資質と創意工夫と 敬意も必要だった。人間と大地をつねに意識していなければいけなかった。アルクスみたいにならなくてはいけなかった んだよ」 「おまえが見つけたんじゃないのか?」 「違うよ。ぜんぶアルクスが見つけたんだ。そのアルクスが、引き継ぎをすべきときが来たと感じて、ぼくを向こうへ送っ たんだよ」 「それで、その方法はもう完成しているのか?」 「そうとも言えない。移った香りを定着させる方法が見つからないんだ」 「ああ……」タドはつぶやいた。 「そんなに簡単にうまくいくはずがないと思ったよ。いいか、アルクスは昏睡状態で、仕 事についてのメモはいっさい残してないよ」 「やりとりをする方法はほかにもあるよ」ザディーグはドアの開錠をリクエストしながら言った。 アルクスの病室に入ると、タドは自分の出る幕がないことをすぐに悟った。ザディーグとアルクスがなぜそこまで信頼 し合っているのか誰ひとり理解する者はいなかったが、ふたりの絆の強さはみなが承知しており、タドは誰よりもふたり の関係を尊重していた。タドは部屋の隅で、椅子にもたれかかり、目を見開き、息を詰めて様子を見守った。 ザディーグは猫のような足どりで、ゆっくりとベッドに近寄り、ひざまずいた。しばらくアルクスを見つめてから、アル クスの手に自分の手を重ね、ノーティスを作動させた。 目を見張るようなスピードで映像が流れ始めた。下の庭。蜜蜂。積み上げられた巣箱、菩提樹、栗の木。前の日に 見たキリストのようなザディーグは姿を消していた。あるいは、少なくともこの角度からは見えなかった。 タドは突然こみ上げてきた吐き気をこらえた。 たとえそれが唯一の頼みの綱だとしても、 蜜蜂の群れには耐えられなかっ た。 無駄だ。そう考えただけでタドは胸焼けがした。同じ映像の繰り返しだ。瀕死の老女が最後に思い浮かべている映 像にすぎない。 ザディーグがアルクスの肘から先を、祈るようにそっとなでるのをタドは見ていた。ふたつのノーティスだけで接続され ているので、ザディーグがアルクスに何を言っているのかは聞こえなかったが、それでもふたりの無言のやりとりは病室 を満たしているように思えた。少しずつ蜜蜂はおとなしくなり、それからいっせいに巣箱へ戻っていった。ふたりの間に 77 垂れ下がった透明なスクリーン上で日が暮れはじめた。ザディーグはアルクスの手に触れたまま立ち上がった。微笑んで もいない、泣いてもいない。顔は穏やかだった。 ザディーグがアルクスから手を離したとき、タドは弟の手のひらに甲羅のような膨らみのある医療センサーの小さな殻 があるのに気づいた。それは患者の臭紋を採取する人々が使う、バイオプラスチックと人工皮革でできた小さなかぶと 虫で、その脚がアルクスの動かない腕を這っていたのだった。 ふたつめのアトリエの真ん中に溶解炉が設置されていた。タドは中二階の手すりのところから作業を監督していた。ノー ティスを使って、アトリエの隅から隅まで、職人という職人を片端からズームしていく。職人たちに混じって、ザディーグ は軽やかに動き回っていた。まるでアトリエを一度も離れたことがない職人のようにその場にしっくりとなじんでいた。蠟 の原型は金属と人工ガラスを混ぜ合わせたもののなかに流し込まれた。職人たちが注視する中、ザディーグは溶解した モノフォルム皮革の玉を受け取った。外科医療器具なみに繊細なチューブによって、どろどろした液体が少しずつ注入さ れていく。 限りなく正確で、愛情に満ちたやさしい所作だけに、時間は要した。タドには聞こえなかったが、ザディーグがアトリ エの責任者のマネックになにかささやいていた。 最初のバッグが蠟の型から出てきて、職人たちがかわるがわる手に取ると、真剣そのものだった職人たちの顔が仮面 を外したようにほころんだ。しかし職人たちは、声には出さず、互いに目配せし合うことで祝福しあっていた。ついに、 ザディーグがタドに嬉しそうに合図を送った。 うまく行ったのだ。 「変ですね」数秒前まで深い安堵の表情を浮かべていたアンが突然言った。 「弟さんは……自分でバッグを型から出さな かった……」 「それのどこが変……」タドは口を開いた。 言いかけて、身をすくませ、こみ上げてくる不安を押し殺しながら小声で言った。 「アトリエの主任に花を持たせたのだろう……」 タドはノーティスにザディーグをズーム撮影するよう指示を出した。 「いちばんデリケートな作業だからね」と、あえてわざとらしくつけ加えた。 「しかしいくらマネックが優秀だといったって、 あの技術を駆使できるのはたしかにザディーグだけなんだ、だってあいつが自分で編み出した技術なんだから」 「タド?」同じくズーム撮影を命じていたアンが叫んだ。 「弟さんの手が!」 ザディーグの右手が脇に垂れていた。タドと同時にマネックも叫び声をあげていた。次の鋳造に必要な桶の中の熱い 蠟にザディーグの指が浸っているのに気づいたのだった。ザディーグは苦痛に顔をゆがめることもなく微笑み続けていた。 「どういうつもりだ?」タドは大声を出した。 「落ち着いてよ」ザディーグはぶつぶつ言った。 「大声は嫌いだよ」 「おまえのせいで俺の鼓膜は穴だらけなんだよ。俺が一度くらいおまえにやり返したっていいだろう!」タドは声をからし て叫んだ。 「ルンド教授! 説明してください、いったいどういうつもりでザディーグの手の感覚を麻痺させるなんてこと を引き受けたんですか! 弟の神経系が安定の基準値を満たしていないことをよくご存知のあなたが!」 「私は弟さんに頼まれたとおりのことをしたまでです」アルベスは自分に対するタドの口調にむっとして答えた。 78 「ぼくだけの責任なんだ」ザディーグが言った。 「俺の前で責任なんて言葉を使うな! 責任のなんたるかも知らないくせに」 「ぼくのおかげで難局を切り抜けられたんだって認めたほうがいいよ」ザディーグは言い返した。 「ぼくにどうしろって言う の? ぼくの手にまだ末梢神経が残っていたら、死ぬほどの苦痛を味わいながら蠟に手を突っ込むことになっていたの だから」 「おまえはあの桶にわざと手を突っ込んだっていうのかい?」 「違う、2回目は事故だったよ。兄さん、聞いてよ。兄さんがどれほどぼくに苛ついているか、よくわかってるよ。そんな こと感じ取る必要なんかないくらい、はっきりしてたからね。兄さんのひとつひとつの表情を思い出すだけで十分だよ。 でもね、兄さん。これが唯一の解決法だったんだ。アルクスは自分の研究を続けるために、この技術をぼくに習得させ ることを望んでいた。最初からふたりで計画していたことなんだ。ぼくが身につけたことを他のみんなに教える、そのた めに彼女がぼくに伝えようとしたことなんだよ」 「おまえが 10 歳だった頃のような、アルクスとの秘密の計画か?」 「お遊びなんかじゃない、最初から真剣な計画だったよ。兄さんに話すわけにはいかなかったけれど。アルクスは兄さん をがっかりさせたくなかったんだ。兄さんはそれほど完璧だった。周りの人間の間違いも許さないほどに。とくにぼくな んか、存在自体がひとつの過ちだからね。兄さんはぼくのことがずっと我慢ならなかった。そしてぼくがついに、自分の 存在理由を証明するべく、ヌーベル・アフリカに発つまでの 20 年間ずっと、自分を責め続けなければならなかったんだね」 ザディーグが話す声に感情はこもっていなかった。一言一言が耐えがたい真実のように重く響いた。しかしタドは無抵 抗のまま屈服はしなかった。 「俺が自分を責めるだって? どうして?」苦い思いで、タドは言った。 「俺が何年もの間、すべてをひとりで切り盛りして きたからか? おまえが打ち明けてくれるわけにいかなかったという秘密に距離を置いていたからか? 会社を管理し、 守るだけで、創造的なことは何もできない、平凡な人間だったからか? そのほうがみんなにとって好都合だったじゃな いか。パパが死んだとき、ザディーグ、おまえはどこにいた? 俺は最後まで付き添っていたぞ。そのことをおまえ、考 えたことあるか?」 「たしかに、ぼくはその場にいなかった。ああ、よくそのことを考えたよ。ママが死ぬ間際はそばにいたよ。おかげでマ マの死からいまだに立ち直れていない」 「ママもだよ」タドが皮肉っぽく言った。 ザディーグにはこうしたジョークが理解できなかった。靄のかかったような曖昧な目でタドを凝視した。 「パパがよく言っていたことを覚えている? 息子たちよ、サヴェージ社の心と、野生(ソバージュ)の心を」 「パパなりのユーモアだったんだ。やさしさでもあった」 「うん、言うたびにいつも笑ってた。でも考えてみてよ……ぼくの記憶には感情がないんだ。それに、その場にいるぼく にとってはそんなに面白くもなかったんだ。どうしてかわかるかい? パパは何の疑問もなく思ってたんだ、サヴェージ社 の心は兄さんだって。兄さんは完璧な息子だったんだ」 「そのことでまた自分を責めなくてはならないのかい? 本音を洗いざらい話すことにしたのなら、とことんまでやれよ。 お説教をぶってみろ」 「兄さんが自分で自分を責めたんじゃないか。ぼくは兄さんを恨んだことなんか一度もない。兄さんのせいじゃない。ぼく は病気だった。いつ起こってもおかしくなかったんだ」 タドはザディーグをじっと見つめた。 「なんの話だ?」 79 ザディーグは答えなかったが、ガラスの覆いを被せた肘かけをあごで示した。 「『ウジェニー姫の肘かけ』か」タドは抑揚のない声で言った。 それを見てタドは突然、ある場所を思い出した。熱気によってたちのぼる香り、人々のざわめき、それから劇場の肘か けの擦り切れた赤いビロード、美術館の深閑とした雰囲気、埃と薔薇の香り……。 胸が締めつけられ、あまりの苦しさに、タドは少しよろめいてザディーグのように足もとがおぼつかなくなった……。 パチンと音がして記憶の氾濫を告げると、 ザディーグのノーティスが共有スクリーンに接続され、 スクリーンが明るくなっ た。 タドは自分のノーティスがザディーグのリクエストに応えるのを遮ろうとはしなかった 最初に出てきたのは、幼年期を過ぎたばかりの、金髪でほっそりした少年時代のタドだった。父親が背後に立ち、両 手を後ろで組んで、額にしわを寄せている。ニコラ・サヴェージはどんな辛辣な批評家たちをも怖じ気づかせるボヘミア ン的エレガンスの持ち主で、それを受け継いだのは次男のザディーグだった。ザディーグと同じような、褐色の乱れ髪が 一種ロマンティックな雰囲気を醸し出し、ごつごつした顔だちを少しだけやわらかく見せていた。 「ぶつぶつ言うんじゃない。これからすごいものを見るのだから。そうだろう、アルクス?」 アルクスが画面に現れた。肩から斜めにかけているバッグの中から細身の短剣を取り出し、目の前の空を切るように ある形を描くと、アルクスのノーティスがすぐにそれを読み込んだ。大人になった今のタドには、アルクスの華奢な肩に かかっているのが、サヴェージ社が人工皮革で作った最初の作品、ル・ナトーだとわかった。アルクスは9歳になったば かりのザディーグの手を引いていた。 「私たちのために劇を見せてくれるんだ。私たちのためだけにだぞ。わかるかい、坊主ども?」父がたずねてきた。 「これは、 私たちのために考えてくれた、特別なイベントだ。なんだかわかるかい?」 「ウジェニー姫の肘かけだよ」タドは微笑んで答えた。 「1700 回も聞いたからね」 映像が途切れた。大人になったタドがノーティスに早回しをするように命じたのだった。 画面には4人そろっていた。タド、ザディーグ、父とアルクスが鐘型のカバーの周りに立っていた。学芸員がガラスケー スの制御ボタンに注意深く手を触れた。鐘型のカバーが持ち上がった。タドとザディーグは、父が興奮して目を輝かせ ているのを見た。 「さわっちゃいけないよ。タド、こっちに来て匂いを嗅いでごらん。カバーをかけて閉じ込めておかなければならなかった んだ。香りが飛んでしまってはいけないからね。長い間ただの伝説だと思われていた。だけど本当の話なんだ。匂いが わかるかい、タド? 肘かけにはウジェニー姫の香りが残っている。目を閉じてごらん。想像できるかい? 夏のフォン テーヌブロー、ある夜のことだ。舞台が始まろうとしている。ウジェニー姫が肘をつく。すでに何百回も触れてきたように、 肌がビロードに触れる。香りがビロードにまつわりつき、とどまる。そのまま何世紀も残っている。考えてごらん、タド、 もしこの香りを嗅ぐだけで、この一瞬を再現することができたら、彼女が見たものを見、彼女が聞いたものを聞くこと ができたら、どうだろう? 我々が持っている記憶はすべて匂い、香りのなかに含まれている。香りは記憶なんだ」 「ぼくは? ぼくにもかがせてよ」突然ザディーグが爪先立ちながら言った。当時、ザディーグはまだうまく話せなくて、 言葉の歯切れがよくなかった。大人になった今もタドはその口調をよく覚えていた。 「これは見たくない!」タドは言った。 ノーティスの接続が断たれた。 ふたりは顔を見合わせ、ザディーグがうなずいた。 「ママを思い出すにはママの匂いを嗅ぐだけでいいって兄さんが言ったとき、ぼくはもう、記憶に結びついた感情を抱く ことは一生ないんだって気づいたんだ。ママのことで何かを深く感じることは、もうないんだって。ママと過ごした時間 80 はすべて失われた。ママは、冷たくなった顔、無味乾燥な言葉でしかない。匂いや香りがどんなに貴重なものなのかを知っ たんだよ、タド」 「おまえがカタレプシーの発作を起こして、危うく死にそうになったのは、その直後だったな」 「そしてぼくは助かった。そのときからずっと切望してきた。ああいったすべての記憶、すべての感情を共有したいと。想 像してみてよ、タド、パパの見たものを再現できるとしたらどうなると思う? どんな記憶でもいい、ひとつの記憶を再 現しながら、その記憶が構築した感情を深く感じ直す可能性を顧客に提供するんだ……。特別なんてもんじゃないよ! ぼくのこうした話に耳を傾けて、そして理解してくれるのは、アルクスだけだった。ぼくはアルクスに命を救われたんだ。 ぼくひとりだったら、完全に絵空事を追いかけるだけで終わっていたと思う。アルクスの才能のおかげで、ぼくはスター ト地点に立つことができたんだ」 「どうもよくわからないな」タドは本音を言った。 「おまえ以外の人間もみんな、香りで思い出せる記憶や感情を持っている。 どこが特別なんだ?」 「誰でも過去を思い出すことはできる。だけど他人の過去を思い出すことはできないよ!」 「リオの生体医学会議が絶対 に許さないわ、そんな……」アルベスが声をあげた。 「説明させてください」ザディーグは嬉しそうにアルベスの言葉をさえぎった。 ザディーグの微笑む顔に、一瞬、アルクスの面影がよぎった。タドは座って、弟の話に耳を傾けた。 兄と弟はふたりきりになった。最後に弟とふたりきりになったのはいつだったか、タドは思い出せなかった。おそらく 子どもの頃だろう。タドは自分がある時期からザディーグと仲良くするのをあえて避けてきたことに気がついた。 「おまえのしたことがいまひとつよくわからないんだ」タドは言った。 「人が身に付けている匂いから記憶を引っ張り出し、 我が社のバッグに組み込んで、好きなときにいつでも取り出せるようにする……。手元に置ける記憶……。これは商品 開発なんてものじゃない、発明だよ、ザディーグ」 「匂いの知覚がぼくらの染色体や神経系と根本的につながっていることは証明されているんだよ。ラジオの科学番組を聞 いたことないの?」 「聞かないですむときは聞かないさ。おまえ、ロストワックスの桶に本当に手を入れたのか?」 「何も感じなかったって言ったじゃない。蠟はアルクスの匂いにまみれてた。あとはぼくのチップがやったんだよ」 「その香りを、革に染み込ませるみたいに、自分の肌に染み込ませたんだな」 「皮膚と革にだよ」ザディーグは鼻歌でも歌うみたいに言った。 「ムネモシュネがアルクスの香りと記憶をぼくの脳に組み 込んだんだ。香りも記憶ももうぼくの一部になった。組み込まれた記憶の中に、アルクスの最後の所作があったんだ。 香りを定着させる所作だよ。手を失ってしまった今、あの所作だけはできなくなってしまうんだろうな」 「手術で治るだろう」 「それでも前と同じようにはいかないよ。手術じゃなくて修理はしてくれるだろうけど。一度すごいことをやってのけたから 仕方ないか、とか、社長の弟だから不器用でも目をつぶるか、とか、そんなふうに思われるアトリエのお荷物にはなりた くないんだ」 「それじゃ、これからどうするんだ?」 タドは寂しそうな声になった。 「技術をみんなに習得してもらって、特許が取れるように準備をする」 「そのあとは?」 81 「ムネモシュネは不安定なんだ。いつすべての記憶を失ってもおかしくない。ただでさえ半端な記憶しかなかったけれど。 でも、それは、他のみんながもっている記憶と同じような記憶だった。ぼくの頭の中にあったんだ。これからは画面に 映し出された映像だけがぼくの記憶になる。脳内には何もない。自分と自分の自我だけ。わかる? だから、ぼくは旅 立つんだ。道に迷わないようになるまでは、アルベスに助けてもらうよ」 「なんのために?」 「生きるために決まってるじゃない!」ザディーグは笑った。 「この世で見るべきものすべてで、心と頭をいっぱいにするんだ。 映像や音や匂いでムネモシュネをがんじがらめにして、しまいには悲鳴をあげさせてやる。世界中の土の上で踊り、神様 が作ったありとあらゆる香りで頭の中をいっぱいにするんだ!」 「おまえのソバージュ(野性)の心が……」 「ぼくのサヴェージ社の心だよ」 ザディーグは黙り込んで、しばらく下を向いていた。それから落ち着かない目つきでタドのほうを見た。 「残ってなんて言わないでよ、タド。アルクスが死ぬのを見ろなんて言わないで。冷たくなったアルクスの思い出を死ぬま で抱えて生きろなんて言わないで。ママのときみたいなのはもうたくさんだよ」 ふたりとも黙り込んでいた。心地よい静けさの向こうから、仕事をする蜜蜂の軽やかな羽音と、さらにもっと遠くから、 こだまするように、炉の規則的で絶え間ない音が聞こえてきた。 でも、戻ってくるんだろう? タドのノーティスが音を立てずに聞いた。 控えめな口調がメッセージを茶色とブルーグレーに照らした。黒いスクリーン、抑えようのない不安がふたりのあいだ の隔たりを突然打ち砕いた。 「いつでもね」ザディーグは答えた。 ファッションコラムニストのエニド・ショーンはいつものからかうような口調の奥に感嘆を隠さなかった。 「やったわね……」エニドはタドにささやいた。 「どうしてこんなことが可能なの? こんな奇跡をどうやって成功させた の? 何もかも昔のままだわ! すべてがそろっている! これまでコレクションを見ながら感じてきたことをもう一度体 験することさえできたわ!」 「技術の魔法です」 共有用のレンズにすぐさまひとつの言葉が映し出された。 “イマジック” イメージと魔法を組み合わせてできた新しい言葉。 これから始まるブレインストーミングに備えて、ノーティスに送られた映像を交えつつ、エニドが自身の感想をまとめる ために最初に記した一語だった。 タドとエニドは、遥か昔からやってきたル・ナトーの最初のモデルを披露するパーティーを共に楽しんだのだ。有機チッ プと、映像と音を染み込ませたノーティスのおかげで実現したバッグ。そして、エニドの香り、彼女の記憶の古くて豊か な香りが、この夜の感情を心臓の鼓動とともに吹き込まれている作品だ。 「息をのむほどのす素晴らしさだったわ」エニドは付け加えた。 「スリリングなまでにね」 「我が社の作品がお気に召すことはわかっていましたが」タドは突然真顔になって答えた。 「そこまでとは思いませんでした。 お遊びにおつきあいいただきましてありがとうございました。まったくもって実験的な試みだったんですよ」 「お遊びですって?」エニドは叫んだ。 「あなた、自分で何を発明したかわかっていらっしゃるでしょう? あなたは革に 82 香りをつける方法を探していた。そして香りに知性を与えたのよ! 《エモティッシュ》を開発したリュンヌ・ゲノンがこの ニュースを知ったら……。で、今は更に進んだ技術の研究をしているのでしょうね」 「進行中です。今組み込めるのは単純な感情だけです。もっと複雑な感情を組み込もうとするのなら、脳に直接働きか ける必要があります。おそらくファッション業界で使われているものよりもっと手の込んだ有機チップを使わなければな らないでしょうね。」 エニドは立ち上がり、新しいル・ナトーに触れた。彼女だけのために造られた、より贅沢な、他の誰も所有している はずのないル・ナトー。なぜなら彼女自身の香りが彼女の皮膚から直接採取されているのだから。 「なにもかもまだ未完成で……たえず進化を続けているっていうのは悪くないわね」眉根を寄せて思索に耽りながらエニ ドは言った。 「長持ちするものが唯一無二の商品に組み込まれ、それを大切な思い出みたいに、一生持っていられるっ ていうのがいいわ。ある香りをもとにして誰とでも記憶を分かち合えるようになるなんて……。あなたは天才だわ、タド」 「せいぜい、仲介者ってところですよ」タドはぶっきらぼうに言った。 「謙遜しないで。もう広報とかオートクチュールとかいう段階じゃないわ。これからここ 20 年でいちばん型破りな広告キャ ンペーンを展開することになるのよ! さあ! いらっしゃい、世界の歴史に1ページ加えましょ!」 「お先にどうぞ、エニド」タドは微笑しながら優雅にお辞儀をした。 エニドは手ぶりでブレインストーミングが始まることを告げた。 タドはアルクスのかたわらに座り、彼女の手を取った。ノーティスは心音は弱いがまだ鼓動していることを示していたが、 体はすでに冷たくなっていた。 そこで、タドは父が母にしたように、またタド自身が父にしたようにした。アルクスが自分の声に反応してなにか言う のを聞き逃さないように、顔を近づけて、話しかけたのだ。隣に横になって、アルクスの耳もとに自分の口を近づけて、 長いこと話しかけた。横になったまま、ずっとそうしていた。 そのまま数時間が過ぎた。もう時間などどうでもよかった。アルクスの心拍がゆっくりと弱ってゆくのを聞いていた。 それからアルクスのノーティスがただならぬ音を立てた。警告信号もメッセージもなかった。頭がほんの少し滑って透 明なスクリーンのほうを向いた。 涙で曇った目で下の庭を見た。菩提樹と栗の木。蜜蜂の巣箱があった。 いつでも変わることなく鮮やかな緑色をした草の上に、ひと組の男女が寝転んでいる。傍らには、栗の木に寄りかか る華奢な体つきの少年の姿がある。その眼前で、浅黒い肌をした子どもが、スキップしながら両手を翼のように広げ、 蜜蜂がまとわりついてきても気にもせずに楽しそうにしている。 「あなたがサヴェージ社に与えたかったものはこれだったんだね。アルクス」アルクスの耳もとに唇を寄せてタドはささや いた。 「人類に、ザディーグに、私に与えたかったもの。大いなる遺産……」 それから、幼いザディーグの足もとで、草は白い斑点に覆われた。繊細な花びらが白い斑点となって、何千と。アン ゼリカだった。 花のひとつひとつに、蜜蜂が止まって、勤勉にまた優雅に蜜を採取している。 ブンブンと音を立てて、蜜蜂の数は増えていった。ひとつの花に1匹の蜜蜂、蜜蜂1匹に花ひとつ。家族は遠くから 身じろぎもせず、その様子を見ていた。 アルクスの意識が揺らぎ、やせこけた胸の中で苦しそうに呻くだけだった心臓がゆっくりと停止するのをタドは感じた。 漂流するいかだのような、病院の冷たく寂しいベッドの上で途方に暮れたタドとアルクスの周りは、草の緑と花の白と 83 海の青と埃っぽい赤に包まれた。ガラス張りの壁、建物、街並の向こうには庭が広がり、大地を巡り、いくつもの海を渡り、 何百万というアンゼリカが生え、花開き、赤く乾いた大地にまで続いていた。 そして蜜蜂の羽音は果てしなくあたりを満たしていた。 Anne Fakhouri アンヌ・ファクーリ 84 LE DON DES CHIMÈRES キメラたちの贈り物 イヤリングがブーンと鳴る音で目が覚めた。スーリヤは海から飛び出すイルカのような勢いでシーツをはねのけた。錯 覚だとわかっているけれど、アラーム音で鼓膜が破れるような気がした。脈が乱れ、酸っぱいものがこみ上げてきて喉 がひりひりした。そして手首に装着されているノーティスは血圧の数値を赤く映し出している。アドレナリンの濃度が上 がりすぎている。 吸って吐くという長年のルーティンがパニックを抑えてくれた。あのパンデミックから数十年経って、痛みはほとんどな くなっていたが、惨事を予告するような警報音はいまだに恐ろしかった。そしてAIに起こされたということは待ったなし の緊急事態を意味していた。 「メゾン? どうしたの?」 「ディアーヌからの着信です。信号が混乱しています。ディアーヌが捕獲されるかもしれません」 「ナノドローン(極小無人機)は?」 「2分圏内にいます」 スーリヤはベッドから飛び出し、前日着ていた服を慌ててはおり、夕食の食べ残しが置きっぱなしになっていた重いト レーに素足をぶつけて毒づいた。テレビスクリーンが点灯した。 「衛星受信、スーリヤ! 侵略者の映像です」 丸みのあるボートの形状が浮かび上がり、白いぎざぎざに縁どられた真っ黒い波を背景に揺らめくのが見えた。 水上滑走艇だ! スーリヤはトロール船か、それ以外のなんでもいいから漁船のほうがよかったのにと思った。 少な くとも、なにを覚悟すべきかはわかった。暴力、死の危険だ。この略奪犯はさらに野蛮な行動に出るおそれがある。 スーリヤが着ている虹色のチュニックの両知覚神経的繊維は身体のまわりで引き締まり、鎮静効果のある有効成分を 拡散させた。冷静になって、スーリヤは水棲住居の出艇口に向かって進んでいった。そこには出航を控えた哨戒艇が停 泊していた。青いボディに金のラインが入った小さなマシンに潜り込んだ。AIがそれを制御し、衛星のデータとナノドロー ンのデータを組み合わせながら案内する。呼吸を整えようとして、制圧用銃弾を込めたグロックをつかんだ。 「水上滑走艇が離れていきます」AIが知らせた。 「ナノドローンの報告は?」 「ステルス艇です。登録番号がありません。ディアーヌが抵抗したので、まだ網を牽引しています」 「最後通告は送ったの?」 「はい。キメラを降ろしなさい、さもないと他にも追っ手が来ます、と」 スーリヤはうなずいた。ステルス艇が沿岸警備隊と接触したがるとは考えにくい。ひりひりする額を指先で揉み、服 が放出するミントやセージやヒノキのマイクロカプセルで涼しさが保たれているにもかかわらず、額が汗ばんでいるのに気 づいて驚いた。いらいらして手まで湿っているのに気づき、落ち着きを取り戻そうと改めて深呼吸した。何度、私をこん 85 な目に遭わせれば気がすむの! スーリヤはディアーヌに心の中でつぶやきかけた。うちにいるキメラたちはみんな大好 きだったが、ディアーヌに対する愛情はことさら強い。それをすんなり認められるのは、ディアーヌがいちばん古株だから というよりは、わがままで、聞かん坊で、人懐っこく甘えてきたり不機嫌になったりする、その性格ゆえだった。 「標的です!」AIが報告した。 「見えました。哨戒艇のほうが速いです。暗視鏡をかけてみてください、見えるはずです」 スーリヤは暗視鏡をかけた。拡大すると、すぐに敵船を見分けることができた。船上ではふたつの影が後ろに身を反 らして活発に動いている。 「網を外しているみたい」スーリヤは言った。 「ナノドローンが確認しました」 いつもの威嚇工作で、ヘッドライトを点けようとして、スーリヤはいったん手を止めた。拉致は未遂に終わったのだ。 追いつめられた拉致犯たちを下手に刺激しないほうがいい。撮影されることを恐れて、ものすごいスピードで去ってゆく かもしれない。そうなると、ディアーヌが怪我をしたり死んだりする危険が出てくる。 船の上で、ふたつの影が立ち上がり、スーリヤは体をこわばらせた。連中がこのまま同じスピードで進んでさえくれれば。 渦の影響さえなければ。暗視鏡をかけたまま目を大きく見開いて、スーリヤは横長できらきら光るキメラの体を包む網を 見た。網はくるくる回って、沈み始めた。なんてことだ! そしてもしディアーヌが気絶していたら? しかしずんぐりした 形の塊は跳ね上がり、水面に上がってきた。 AIは危険を理解した。ディアーヌはきっと、暴れたせいで疲れきっている。水上滑走艇はすでに視界の外だった。そ こでスーリヤは哨戒艇を近づけた。船端に立って身を屈めた。網の目越しに、月の光に照らされてきらめき、おずおずと 目をしばたくキメラの姿が見えた。スーリヤはうねる水の中に飛び込んで、キメラを網から解放した。 「明日はね」女社長はイドゥンに言った。 「我が社の設立 50 周年の祝賀パーティーよ。会場はパリ本社。16 時発の高 速船(BGV)、ファーストクラスでの移動してください。切符はノーティスに登録しておきました。着いたらすぐに、ホテ ル・ケフェウスのスイートルームが使えるようになっています。きちんとした格好で出かけてね」 イドゥンが不安そうなのに気がついて、女社長は付け加えた。 「今回の旅行中の買い物用に出張費を用意してあります。 足りないものがあったらトリマランに乗ってから買うといいわ。いいお店がたくさん入っていますから」 オスロのクリスティアナ学院に、娘との週1回の面会を延期するという連絡をしたあと、イドゥンは同僚たちに出発を 知らせたいと思ったが、ラボ長からすでに連絡が行っていることに気づいて残念に思った。でも、結局はそのほうがよかっ た。洗面用具をかき集めたらすぐにベルゲンの港へ急がないと、フランスのブーローニュへ向かうトリマランに乗り遅れ てしまう。 そして今、船室に落ち着き、繊細なアミューズブーシュの盛り合わせを前にして、ラ・レーヌ・ダンブルのグラスを舐め ながら、イドゥンは自問し続けていた。どうして私に生かせるのかしら? あの社長は私に何を望んでいるのだろう? まあいいわ! 思いがけないこの自由時間を楽しむべきね。 イドゥンは柔らかいクッションの山に体を埋め、しけで海がうねっている今日のような日でさえびくともしない高速船 (B GV)の抜群の安定感を改めて楽しんだ。表面効果でトリマランの水上滑走を可能にする補助翼は見事なまでにその役 86 割を果たしており、ふたつのフロートは横揺れをほぼゼロにしていた。イドゥンは 「ウェーブピアサー」方式の船体とフロー トの間の空気の揚力を感じたような気がした。水中翼船を所有している友人たちと海に出る機会がよくあったが、船体 が浮上するといつも、海面すれすれを飛んでいるような感覚にうっとりさせられた。 ぞんざいにブーツを投げ捨て、見晴らしのよい大きな窓の前で手足を伸ばして横たわった。贅沢な船室を楽しむつもり だった。時間的にその余裕があるときはいつも、列車より時間がかかっても高速船(BGV)を好んで奮発したが、ツー リストクラスしか利用したことがなく、それでも十分満足していた。ラ・レーヌ・ダンブルの素晴らしいワインは熟した果 実のみずみずしさで口中を覆い尽くしていた。イドゥンはカーブで働いていた祖父の教えを思い出し、香りを識別しようと した。あんず、柑橘類……マンダリンオレンジ? イドゥンは集中した。それはいわゆる「孔雀の尾のような」ワインで、 サフランを思わせる香りを口中に残し、リコリスのニュアンスさえ感じさせた。クリスタルのグラスの中できらきらしてい る金色の反映はいつまで見ていても飽きることがなかった。イドゥンは満足してため息をついた。 疲れ果てて、いつのまにか寝入っていた。はっと目を覚ますと、喉はからからで、薄暗がりのなかで目をしばたいた。 船室内の照明は乗客の覚醒状態に合わせて調節されるようになっている。イドゥンが肘を突いて身を起こすとすぐに照明 が反応して照度を上げた。大きな鏡に映ったイドゥンは、旅行者に不似合いなしわだらけのシャンタンのテーラードスー ツを着ていた。 夜の9時? 臆せず堂々とホテル・ケフェウスに足を踏み入れられるような服を急いで見繕わなければ。 プロテウス社がノーティスに特別出張費を入れてくれたとわかって、着替えるのはやめにしたのだった。完璧なワードロー ブ一式と、ばか高いアクセサリーを買い揃えるだけの予算は十分にあった。 イドゥンは高速船(BGV)のショッピングモールに急いで向かった。17 時間もの航海のあいだ船にこもりきりの商 人たちは、ろくに休息もできずに働き通しの日々を送っていたが、彼らが船上に構えている店はこの上なく素晴らしかった。 ターゲットを絞って絶え間なく囁きかけてくるショーウィンドーの広告にちやほやされながら、イドゥンはブロックごとに進 み、結局アレクサンドルというブランドの看板が出ている店を選んだ。この大胆な高級服店が創り出す作品には長いこ と憧れていたのだった。プロテウス社は、叶わないと思っていた夢を実現する機会を与えてくれた。 イドゥンはノーティスをロックしていなかったので、店内に入るとすぐに、現地AIのチャイムが鳴り、イドゥンのIDとA Iがインターフェイスでつながったことを知らせた。女性店員が無愛想な顔で近づいてきた。もう少しましな格好をして いるか、もっと華々しいエゴスフェールをつけているかしていれば、この店員もにこやかに応対してくれただろうに、とイ ドゥンは思わずにいられなかった。胃がきゅっと縮まるのを感じて、自分はこういう場所にそぐわないのだと改めて思った。 しかし、出張費のことを思い出し、気を取り直して店員に告げた。 「テーラードスーツを一着と、明晩のパーティーに着ていくとびきり素敵なドレスを探しているの」 女性店員が目を丸くするのを見て胸のすく思いがした。イドゥンの分身が3Dで表示され、新しいデザインを身にまと うたびに、値段が即座に表示されるのを見るのも愉快だった。 「困ったわね」イドゥンは面白半分に言った。 「決められないわ。どれもみんな素敵なんですもの! テーラードスーツは 2着選ぶことにするわ。ブルーで長いペプラムが付いたのがいいんじゃないかしら? 私の目の色と同じ色ですものね。 それから絹の白いブラウスと、このバロック風のネックレスを合わせたら、素敵じゃない? それからかっちりしたコルセッ トの付いた黒いのもいただくわ。それと、この細身のスラックス。なんて素敵な形なんでしょう! ドレスを選ぶのは簡 単ね、これをいただくわ」 イドゥンが指差したのは、胸のところに網状の透かし模様を施し、真珠とカラーストーンを刺繍で縫い込んだ、素晴 87 らしいブロケードのシースドレスだった。 「素晴らしいお見立てですわ」店員が嬉しそうにうなずいた。 イドゥンの銀行口座情報をこっそり照会したにちがいなかった。 「配達のほうは心配ないかしら?」 「まあ!」女性店員は慌てふためいた。 「高速船(BGV)を降りられるまでに3着ともお受け取りをご希望でしたか? それは無理でございますよ、お客様。ブルーのテーラードスーツに関しましては、当店の3Dアーチをお通りいただけれ ばお持ち帰りいただけますが、黒のスーツとドレスのほうはもう少しあとのお届けになります」 「明日の夕方6時までにパリのホテル・ケフェウスに届くかしら? それが無理ならキャンセルするわ」 「少々お待ちください」 店員は聞き取れないくらい小さな声で話していた。ノーティスが点灯し、数字がめまぐるしく次々に表示され、そのあ と関係者らしい男性の顔が映って、何か話していたが、イドゥンにはその声は聞こえなかった。 「大丈夫です」女性店員は言った。 「手分けして早急に仕上げさせますので」 ブルーのテーラードスーツを身にまとって颯爽と店を出たとき、イドゥンは自分もトリマランと同じように宙を浮いてい るような心地がした。身なりに気を遣ったことがなく、既製服の3Dアーチで満足してきたイドゥンにとって、自分の寸法 に合わせたオーダーメイドの服を身につけることなど考えられないことのように思えた。前衛的な金色の編上げ靴を履き、 上下セットで買った下着を着け、サヴェージ社の新しいバッグの、それはそれは柔らかいモノフォルムをなでながら、船室 の大きな鏡の前で長いこと、戯れにポーズをとっていた。それからようやく、ここ3日ほど、外の有害な刺激から顔を保 護しているバイオスキンをこすり落とし、弾性細胞を新たに吹きつけた。そしてベッドの知覚敷布(センソシーツ)に滑り 込み、喜びに身を震わせると、何千というナノカプセルが、夢見を誘う有効成分を一糸まとわぬ体に振りまいた。 朝になると、イドゥンはいささかふらふらしたまま、ループの停留所へ行った。ループは電磁列車で、与圧された管の なかを通り、時速 1100 キロメートル以上の速さでパリへ連れて行ってくれる。イドゥンは、カプセルの壁に繰り返し映 し出されている、リー・サング = ソックの最新ヒット作の映像を、見るともなしにしばし見つめた。それから、拡張現実 メガネをかけ、フィルター機能を有効にした。防護殻の白っぽく静かな空間のなかで磁場の微細な横揺れに身を任せて いると、突然、我に返った。 “あなたは買われたのよ、イドゥン、そしてあなたはそれがなぜかさえわかっていない”イドゥ ンは寒気を覚えて、胎児のように身を丸めた。 スーリヤの怒りは収まらずにいた。前夜の出来事では足りなかったかのように、風がしだいに強さを増していった。 ビューフォート風力がレベル8になると、海は泡で覆われる。メテオサットが 10 から11の強風を伴う嵐を予告している間、 スーリヤは両手で耳を塞いでいた。安定フィンとシーアンカーがあっても、住まいであるメゾン・フルール(花の館)はスー リヤの足下で唸るように鳴り、揺れていた。スーリヤは自分の小さな城をどこかへ避難させる覚悟を決めなければならな かった。AIは、即断即決で、すでにキメラを呼び戻し、建物を海岸に近づけ、通路と竜骨の両方の役目を果たす潜水 円蓋を引っ込め始めていた。 遠くへ行く必要はなかった。スーリヤがリオン湾に滞在していたのは偶然ではなかった。温暖化の影響で水面が上昇し、 水没した鉄道がすべて移動してから、ナルボンヌにはふたたび港ができた。たしかに、1メートルの水面上昇と掘削工 88 事では、喫水の深い船を受け入れるには不十分だったが、砂丘の冠水によってひらけた水路が整備拡大されたので、水 棲住居だけでなく小型船も、エロール池とセッシュ池を通過してバージュ池まで行くことができるようになった。高い構 造を持たない船舶はしっかりとつながれていたので、それほどの危険もなくそこで嵐の終わりを待つことができた。 数万ヘクタールのラグーンだったが、スーリヤはそこへ逃げ込むのが嫌だった。逆にキメラたちはラグーンが大好きで、 それというのもラグーンにはタイ、ヒラメ、スズキ、ボラ、ウナギがたくさんいて、とくにウナギをたらふく食べられるの はここだけなのだった。残念ながら、キメラたちによる凄まじい乱獲は、漁師たちを苛立たせており、すべてを丸くおさ めるために賠償金をたっぷり振りまいても、海面上昇の痛手を被った人々の機嫌を直すことはできなかった。 スーリヤはクレームを聞きつつも微笑を絶やさぬように心がけた。冠水のおかげで海とラグーンのあいだの水のやりと りが改善されたことをスーリヤは知っていた。貝類の養殖業者たちでさえ生産量の増加を認めている。そして入念に手入 れされた水路によって池どうしが排水しあうようになった今では、堆積による埋め立ては減ってきており、富栄養化はそ のうち、過去の出来事になるにちがいない。ラグーンは生命に満ち溢れた空間に戻りつつあった。 またしてもスーリヤはある老人のクレームを聞く羽目に陥ってしまっていた。その老人の網をメゾン・フルールがうっか り持ち去ってしまったらしい。自分が近隣の住民の嫉妬心をあおってしまうことがあるのをスーリヤは自覚していた。住 民たちはたしかに、道具小屋を壊された程度の損害に対してかなりの賠償金を受け取っていたが、スーリヤの裕福さは彼 ぐろう らを愚弄しているように見えるに違いなかった。近隣の住民たちとは良好な関係を維持するためにも、顔をしかめては いられない。可愛いキメラたちの平和は、そこにかかっているのだから。 最新流行のアブサン、緑の妖精(フェ・ヴェルト)をしこたま飲ませて酔わせると、老人はやっとのことで帰っていった。 スーリヤは老人の悪口雑言に1時間近く耐えていた。水路を維持管理しているのも地元のビオトープを良い状態に保って いるのも自分自身だというのに、これほどの敵意を向けられると思うと憤懣やるかたない思いだった。 そのことを自慢できるわけではもちろんなかった。スーリヤが助力するのには誰も知らない理由があった。側面の花び らが水圧ジャッキで持ち上がるとしても、メゾン・フルールの主船体は幅が8メートルはあった。海藻がひしめく細い水 路を通って海から池へ滑り込むことはできないの。そしてその水質はというと、キメラたちの健康のかなめだった。 花びらが水平に戻ると、メゾン・フルールは錨を引いてもあまり揺れなかった。水中に沈んだ円蓋をふたたび広げて、 センサーを点検した。すべてが整っていた。スーリヤはウェットスーツを着た。今回はキメラたちがスーリヤ抜きで出て行っ てしまうことはないだろう。 「プロテウス社、2024- 2074、みなさまに卓越したサービスを」派手な幟にそう書いてあった。正装した執事が それとなくIDを確認し、とびきり贅沢な紙の芳名帳に金の羽根ペンで自分の名前が書き込まれるのを見て、イドゥンは 思わず息を飲んだ。いまどき紙に書く人なんて見たことない! しかも羽根ペンで! 執事は衣装と揃いの青い絹の指 なし手袋をはめて、手入れの行き届いた指先が自由に使えるようにしていた。イドゥンは紙の上に文字が書かれるあいだ 自分が息を詰めていたのに気づき、慌てて息をした。 けげん 執事が顔を上げて、もたもたしているイドゥンを怪訝そうに見たので、どぎまぎしたイドゥンは思わず声を立てて笑い、 逃げるように受付から離れた。心臓がどきどきしていた。さきほどはホテル・ケフェウスの部屋で、鏡に映った自分を、 ほんとうのお姫様みたいと胸を反らしながらうっとりと眺めていた。サテンの箱に入ったドレスを時間通りに届けにきた 89 縫い子の女性のことは熱心にほめちぎった。シースドレスはまるで体に直接縫いつけたかのようにイドゥンにぴったりで、 寸法を直す必要はまったくなかった。 しかしながら、いま、招待客でざわめく建物の屋上に植えられた生物発光の樹木のあいだを歩いていると、現実が 襲いかかってきた。来賓たちはババ・アーバンの最新作やリュンヌ・ゲノンの開発した感情を映す布、 《エモティッシュ》、 あるいはプロテウス社の工房で造られた豪華で夢のような装身具を得意げに身につけていた。すると、陰険な声がイドゥ ンの耳もとで囁いた。 “深夜 12 時の鐘が鳴ったら、おまえはこの幸運から見棄てられるんだよ、シンデレラ! かわい そうなおばかさん! 知り合いは誰もいないし、何をしに来たのかもわからないのだろう!” 居心地の悪さで胃がきりき りした。 「これはこれは、女神の登場だ! まだ宵の口だというのに。私もまだ酔っぱらうほどは飲んでいないのですがね!」 ひとりの男がイドゥンを見かけて立ち止まった。賞賛するように、両腕を開いていたが、褐色の眼は皮肉っぽく光って、 態度とは裏腹だった。 「どうか、マダム、かくも完璧なこの肌に触れさせてください。幽霊ではなく生身の人間だということを確認したいのです」 この軽い口調に、イドゥンは思わず笑って、手を差し出した。男はその手を指先で受け止め、優美にお辞儀をした。 「女神よ、今宵あなたにお仕えするしもべがここにおります。なんなりとご用を。おっしゃるとおりにいたします!」 「それではまず、このパーティーの主催者に私を紹介してくださいますか?」 「そんなに急いで行ってしまわれるのですか? もう少し私がお役に立てることを言いつけてくださいよ」 男は茶目っ気たっぷりで魅力的な微笑を浮かべ、きらめく金色を満たしたフルートグラスを差し出した。 「だめです、そんなの無作法です。義務を果たすのが先です。そんなに長くお待たせしませんわ」 「かもしれませんね、カレンがあなたを拉致してそのあとずっと独り占めにしなければ。カレンはものすごく独占欲が強い んですよ」 「独占されないように気をつけますわ。さあ、案内してください」 男はイドゥンの腕をとり、人の輪から人の輪へと案内してまわり、割って入ろうとする邪魔者たちを経験豊かなナイト 然として退け、ようやく女社長のところへ導いた。女社長はダイヤさながらのクリスタルの光沢を取り込んだかのような、 素晴らしいキメラの革を身にまとって燦然と輝いていた。数名の男たちと話し込んでいたが、男たちはその暗い顔つきと 目立たないエゴスフェールがパーティーの雰囲気にそぐわない感じだった。 「あの人がそうですよ、わかるでしょう。私は遠慮しますね。ちょっと苦手なんですよ、エリジウム社長のこと。おひとり でも大丈夫でしょう。早く戻ってきてくださいよ。見ていますからね」 慌てふためいてイドゥンが振り返ると、男はすでに姿を消していた。 “ばかね、私ったら! 名前も聞かなかったじゃない” イドゥンは1歩進んで2歩下がり、逃げ出したくなったが、取り巻き連中がイドゥンに気がつき、なかのひとりが女社 長に耳打ちした。カレン・エリジウムがイドゥンのほうを見て、自ら近づいてきたが、イドゥンはというと動けなくなって 立ち尽くしていた。 「イドゥンね、お会いできて嬉しいわ! ビデオで見るよりずっと素敵。一緒に来てちょうだい、今夜お呼びした理由を お話しするわ」 カレンはイドゥンを伴ってきびきびと歩き、その前を男性ひとりと女性ふたりが舳先のように歩いていた。身長と横柄 な態度、そして目立たない服装を見て、カレンのボディガードだろうとイドゥンはやっと見当をつけた。見晴らし台までやっ てきたとき、 イドゥンはその確証を得た。見晴らし台は、階段を3段降りたところにあったが、3人は段の上に残って見張っ ていた。 たいそうリラックスした様子で、カレンは虚空に面した見晴らし台のへりに沿って歩いた。手摺壁に肘をついて、パリ 90 の素晴らしい眺望を眺めていた。イドゥンは周りに植えられているリラと藤の花の鮮やかな色に気づいたが、これは大気 が清浄な証だった。50 年代に、ヨーロッパの主要都市で一般自動車の通行が禁止されて、許可された交通手段は公 共交通機関、自転車と電気タクシーだけになったので、都市部を覆っていた大気汚染の鉛色の蓋は消えてなくなった。 壁面、テラス、屋上を緑化し、太陽光塗料や風塔を活用し、生態系を害する物質を出てくるさきから根こそぎ取り除く 極小ロボットを大量に配置。あの自給自足の巨大な建物群、アーコロジー(完全環境都市)はきわめて効果的で、工 場に至っては今や観測機を装備して徹底的な管理を行なうようになり、これら一連の取り組みはそれぞれ真価を発揮し ていた。 「私、この建物が好きで好きでしかたないの」めまいがするほどの花の香りに正気を失ったかのように、カレンは鼻をひ くつかせながらため息をついた。 「これを失ったらと思うと耐えられないわ。プロテウス社はそれだけエコロジー建築の普 及に世界各地で手を貸してきたの。人生を変える、それがあのパンデミック後の我が社のスローガンでした」 イドゥンは眉をひそめた。また決まり文句かと思った。多くの企業が優れた居住区域を作ろうとし、快適で美しい指 定地域を急速に発展させ、何年ものあいだ各社で競争を繰り広げた。イドゥンはその頃まだまだ若かったが、地球の歴 史がこの取り組みを重要視し、公平な世界という概念を引き継いでその実現を可能にするべく、地球規模で活躍した数 多くの立役者たちを称えていることは知っていた。イドゥンは、疑う筋合いなどまったくなかったが、こうした手柄につい ては自慢するものでもないと思っていた。 「どうして建物を失うんですか?」イドゥンはいぶかしげに聞いた。 カレン・エリジウムはイドゥンの手をとり、緑廊の下まで連れて行った。緑廊の変形した葉は巧妙な指揮者にしたがう 合唱団員のように、風に吹かれて鳴っていた。キメラのなめし革を張った竪琴形の椅子が2脚、お誂え向きに置いてあり、 その向こうにあるテーブルには真珠のようにつややかな絹の刺繍を施した未晒しの麻のクロスがかかっていて、その上に 金めっきをかけた銀器、クリスタル、磁器が優雅に並べてあった。 「あなたには率直になんでも話すわね、イドゥン」カレン・エリジウムは椅子に座ると言った。 「プロテウス社は倒産寸前 なの。我が社は長年にわたって擬態皮膚を独占的に販売してきたわ。特許を持っていたし、コピーされても裁判には勝っ た。それにどのみち、ライバルたちは、少なくとも繊細さ、耐久性、美しさにおいて、我が社の製品に遠く及ばなかった。 それが今は、もうおしまい。彼らはうちとは違うやり方で独自のキメラを生み出す方法を見つけて、特許を出願した。わ かるでしょ、我が社は倒産するのよ、イドゥン。4年前に、最後の切り札が出て行ってしまってから、お得意様たちは我 が社の製品を買わなくなった……そしてよそがもっとずっと安く商品を提供しているということはわかっているの。明らか な、そして少なくとも不実なダンピングだわ。ライバルたちは先行投資の真っ最中で、投げ売りをしているから。でも我 が社を倒産させれば、短期的には勝利を手に入れることができるのよ」 イドゥンの驚きは顔に表れていたのだろう。カレンはきらきら輝く腕をテーブル越しに差し伸べ、イドゥンの手を軽く叩 いた。 「でも、安心してちょうだい、イドゥン、まだ絶体絶命というわけではないし、窮地を切り抜けるために、他でもないあ なたを当てにしているの」 「私を?」イドゥンは慌てふためいた。 「私はしがないラボ・アシスタントにすぎませんよ!」 「ほんとうにそれだけかしら? あなたの名刺を見たらみんなびっくりすると思うけど。まあ、分子生物学者としてのあな たの優秀さについて長々と論じるのはやめましょう。結局のところ、あなたの仕事は我々のためになっているんだから。 プロテ・ジェネティックスの所長からあなたの研究の進み具合のことはいつも聞いているの」 「それではもう……」 「スーリヤ・イェマヤ・ダ・マタを知っている?」出し抜けに言いながら、カレンはワインクーラーに入っているボトルの中から、 91 すぐに識別できる形のボトルを選んで引き抜いた。 自分のグラスとイドゥンのグラスを金色の液体で満たし、自分のグラスを鼻に近づけ、目を閉じて、この世の何もかも がもうどうでもよくなったかのように、その香りを嗅いだ。 イドゥンは質問には答えずに、カレンと同じようにした。トカイ・アスー! はっきりと見えるラベルには、並外れた豊 かさと糖度の凝縮を表す6プットニョシュの表示と、トカイでもっとも古くもっとも名高い畑であるオレムスの名があった。 カレンはクリスタルの杯を唇に運び、美酒をひとくち含み、テーブルの上で食べられるのを待っていたカナッペをひとつ手 に取った。イドゥンもカレンにならってカナッペに手を伸ばした。おなかがぺこぺこだった。 オマール海老の身肉とコンフィにしたアンズの果肉が混ざり合った素晴らしいスフレが舌の上で溶け、同じカナッペに もういちど飛びつきそうになるのをこらえるのは至難の業だった。トカイ・アスーをもうひとくち飲むと、めまいがするほ どのスモモとスパイスとクルミの香りに、頭がぼうっとなった。 「ロスコフにあった彼女のラボで研修を受けたのが、24 歳の時ですってね」カレンは話を続けた。 「3ヶ月だけです。胚性幹細胞と遺伝子導入をどのように活用しているのか見たかったので。短い間だったので知り合え たといえるのかどうか。回転が激しくて、研修生の出入りも引っ切りなしでした」 「あのひとが何者だか知らないのでしょう? 誤解しないでね、あなたの知性を貶めるつもりはないのよ。擬態キメラを 作らせたらスーリヤ・イェマヤ・ダ・マタの右に出る者はいないということくらい誰でも知っているわね。あのパンデミッ クのあいだに、幼くして両親を病気で亡くしたことも。ただ、本当の死因は病気じゃなくて、暴動に巻き込まれたのだっ てことは知られていないけれど。スーリヤの父親も生物学者だった。ニューデリーでとても重要なラボを主宰していて、 ある日、群衆のリンチに遭ったのよ。2030 年当時は、誰もがスケープゴートを探していた。映像資料は身の毛もよだ つような光景を伝えているわ。夫を守ろうとして死んでゆく母親の様子、燃え上がる家。子どもだったスーリヤがその場 に居合わせたら、一緒に死んでいたかもしれない。両親はスーリヤをアフリカに送り、ヨルバ人の祖母に預けていたの。 ごく初期の頃でパンデミックの影響がベナンにはまだほとんどなかった頃、祖母セレスティーヌ・ダ・マタは、ポルトノボ から遠く離れたウェメ川のほとりの、先祖から伝わる古い家に用心深く引きこもっていた。疫病の流行がおさまるまでふ たりはそこにいて、生き延びたというわけ」 「7年間学校に行かなかったということですか?」 「歴史の授業で習ったことをよく思い出して、イドゥン。あの頃のアフリカには電気通信網がカバーしていない地域とい うのはもうなかったの。どんな子どもでもネットにつながっていさえすれば無料で授業を受けることができたのよ。でなけ れば、アフリカ大陸の急速な発達をどう説明すればいいの?」 イドゥンは俯いた。カレンの人を見下したような喋りかたが嫌いだった。そうされるのが当然の報いだとしてもだ。毅 然して見せたい気持ちと挑発的な気持ちの両方で、テーブルの上からカナッペをふたついっぺんに手に取り……丸飲み しようとしたものの、それがためらわれるほど繊細なつくりに肝を潰した。料理人はいったいどうやって、カラメルの錯 綜から抜け出た小さな小さな鹿を作ることができたのだろう? そしていままさに飛び立とうとしているこの白鳥が動か ないでじっとしているのはいったいどういう奇跡だろう? 「それにスーリヤはHPIだったでしょう」 不平を言いそうになって、イドゥンはカレンが眉をひそめているのに気がついた。興味なさそうに聞いていたのが気に 入らなかったのだろうか? しかしイドゥン自身もまたHPIに認定されていることをカレンが知らないはずはなかった。 ♯高潜在知能〔HPI〕だからといって、人生の浮き沈みに苦しむときに助かる保証はどこにもない。 「17 歳のとき、スーリヤはポルトノボに海洋学ラボを設立したの」カレンは続けた。 「父親が取得していた特許のおかげ で投資することができたのね。3年後、7つの主要な特許を自分で出願し、その中のひとつがキメラに関するものだった。 92 当時はまだ擬態の要素はなかったのだけれど。それはすでに、いま我々が知っているのと同じ素晴らしい生き物たちだっ たわ。キメラたちはアザラシとトカゲの雑種で、素晴らしく滑らかな皮膚を持っていた。何より、我が社の顧客たちの心 からの要望に応えるものだったの。なぜなら、毛皮を採るためにもう動物を殺す必要はなくなったのだから。キメラたち が脱皮のときに脱ぎ捨てる皮膜は、薄さといい可塑性といい理想的で、好きなようになめしたり縫ったりすることができ た。そこで我々はスーリヤを雇うことにしたの。これは我が社が行なった最良の投資だったわね。残念ながら、プロテ ウス社は長年にわたってその成功に安住しすぎて、この分野で研究開発部門を展開するのを怠ってしまった。今、うち の会社がスーリヤなしではどうにもならないってことはわかりきったこと。我々はずっとキメラを作りつづけてきた。それ はライバルたちも同じことだけれど、我々はもっとずっと見事な皮を入手し続けてきたわ。だけど、贈呈の儀式なしには、 そして、我々にはコントロールできないキメラたちのあのちょっと不思議な選択なくしては、我々の想像を刺激するような 極上の皮は手に入らなくなったの。スーリヤに戻ってきてもらわなければならないの。そこであなたの手助けが必要なのよ」 「私ですか? そんなのばかげてますよ!」 「ばかげてなんかいないわ。あなたはキメラの分野で、素晴らしい専門知識を身につけている。泳げるし、ダイビングもする。 それがのちのち役に立つこともあるでしょう。それにあなたはスーリヤと面識がある」 「11 年も前の話ですよ。私のことなんか覚えているわけないじゃありませんか」 「スーリヤは子どもの頃から絶対的な記憶力を培ってきている……完璧ではないとしてもね。あなたのことは大丈夫、きっ と覚えているわ。それにどっちにしたって、この件で重要なのは、あなたなんですもの。あなたが彼女に憧れているとい うことが大事なの。彼女ともういちど会ってみたい?」 りょうが イドゥンは肩をすくめたが、興奮に凌駕されそうになっていたのは認めざるをえなかった。 「あなたには私たちの使者になってほしいの。スーリヤはプロテウス社に戻るべきよ。あるいはスーリヤが繰り返し言って いたことだけれど、もし養殖の話もラボの存続の話も聞きたくないと言われたら、彼女だけが知っている秘訣を我々に 教えてくれるように説得してもらいたいの。あの技術が彼女の引退と同時に失われるようなことがあってはならないのよ。 仕度はすべて整えたから、明日出発してくださるわね」 「明日ですって? 無理ですよ!」 「どうして? 何か出られない用事でもあるの?」 カレンの口調がとげとげしくなった。イドゥンは肩を落とす自分に気づいた。それ以上何も言えず、娘のことも言い出 せず、首を振った。いつ娘のティルデと会えるだろう? イドゥンはこの仕事があるからこそ娘の安全な人生を確保して いるとはいえ、この女社長に頼るのが急に嫌になった。 「さて。旅仕度一式のことは心配しなくていいわ。出張費は任務が終わるまで好きなだけお使いなさい。明日さっそく出 発していただくのは、嵐のせいでやむをえずだけれどスーリヤの館に隙ができているからよ。スーリヤの水棲住居は普段 もっとずっと見つけにくいところにあるの。莫大な財産のおかげで妨害電波を張り巡らせることができているのよ。お昼 前にベルシーから出ているループのひとつに乗るといいわ。私の助手のカールがホテルに迎えに行きます。そろそろあな たを解放してあげるわ。パーティーを楽しんで。でもあまり帰りが遅くならないようにね」 デッキの生態系を保護するため、風力がレベル5を超えたら自動的に広がるようになっているカルボスタット製のT字 形シェードの下で、スーリヤはプールの温かい水の中でキメラたちと夢中でボール遊びをしていた。イヤリングがブンブン 鳴りはじめた。 「メゾン?」 93 「新しいお客様です」 「この悪天候のなか? またクレーマーの漁師?」 「いいえ、ノーティスを持ってきてください」 AIのこのはっきりしない口ぶりに苛々して、スーリヤは眉をひそめた。ゲームを中断したくなくてぐいぐい寄ってくる、 スル、ダナ、ケリドウェンの3頭をぽんぽんと軽く叩いていなし、プールのへりまでいやいや泳いでいった。 手首にノーティスを装着し、インターフェイスがIDを確認するときの例のひりひりする感触があってすぐ、映像が目の 前に表れてきた。違う、漁師ではない。まず、近隣の住民たちにあんな豪華なタクシー船に乗れるほど裕福な者はいな い。それに、女性の組合員はそう多くないし、あんなに高価な服を買えるほどお金も持っていない。さらに、拡張現実 メガネを外した顔の輪郭に見覚えがあるような気がした。しかしながら、訪ねてきた女性がもし有名な人物なら、AIが その旨を知らせたはずだ。 「メゾン? 前方をズーム」 クローズアップを見て、昔自分のラボにいた研修生を思い出したとき、スーリヤは驚きの声を上げた。こみ上げる感情 で胸がいっぱいになった。研修生はそれほど齢を重ねたようには見えなかった。アスリートのようながっしりとした体つ きは相変わらずだ……。そしてあの豊かな金髪、現実離れした青と白の、明るく澄んだ瞳、果実のようにふっくらとして、 かつては齧ってみたいと思ったあの唇。スーリヤは深く息を吸い込んで、自分を抑えた。 「訪問の理由は?」 「詳しいことはわかりません。あなたと話したいそうです」 「3番目のアバターを映して」 映し出された自分の姿に元研修生が飛び上がるのを見てスーリヤは微笑んだ。スーリヤの仮想化身の写実性はほとん ど完璧に近く、唐突に出現するという点だけが現実の存在ではないということを示していた。しかし普段は自分が与え る印象になどほとんど頓着しないスーリヤが、めずらしくこの映像を加工した。ディアーヌが脱いだ皮を使ってプロテウ ス社で製作された長いチュニックを着て、これ以上ないほど恭しくお辞儀をした。ディアーヌはパンデピスのような肌色 を引き立てる、びっくりするくらい強烈なブルーを取り込んでいた。そして漆黒の髪にちりばめられたアクアマリン、エメ ラルド、ムーンストーンが顔のまわりを小川のように流れていた。 「お……お忙しいところお邪魔してすみません」元研修生はどぎまぎして、口ごもりながら言った。 「お……お伺いしたの は……」 「どういったご用件かしら、イドゥン・アンドレセンさん」 「私のことを覚えてらっしゃるんですか?」 「うちに来た研修生は全員覚えているわ」スーリヤはさりげない口調で答えた。 スーリヤは警戒していた。豪勢なタクシー船のスタビライザーは三角波を完璧に相殺しているにもかかわらず、イドゥ ンは体重を右足にかけたり左足にかけたりしてぐらついていた。そんな気詰まりがなにかを意味するとしたらひとつしか ない。それなりの魂胆があって訪ねてきたということだ。それに、イドゥンは拡張現実メガネをかけていなかったが、代 わりに無数のセンサーを体じゅうに装着していることをAIが指摘した。スーリヤは一瞬ためらって、強い風に吹かれてし なる葦原をじっと見つめた。メゾンが集めたデータによると、イドゥンが放つ、頭のくらくらするような匂いが、池から立 ちのぼる潮の香りを凌駕していた。スーリヤは攻撃を開始することにした。 「相変わらずプロテウス社から仕事を貰っているのね、イドゥン」 質問ではなく、断言だった。 「ええと……はい、でも……」 94 「あなたが身に着けているものすべてからあの腐った会社の臭いがするわ。あなたの給料1年分と同じくらいするアーバン のブーツ、その蛍光性のコンビネゾンのナノクリスタルの連結、そして宝石を嵌め込んだ素晴らしいヘアバンドに至るまで。 そのヘアバンドに仕込まれたマイクが、いまこの瞬間も私たちの会話を録音しているって誓ってもいいわ」 「なんですって?」イドゥンは抗議するような声で言った。 演技か、本心か? スーリヤは危険を冒さないことにした。もしカレンがこのばかな女を操っているとしたら、なおさ ら危険でしかない。 「私に会いにきたのはよからぬ考えがあってのことでしょう、イドゥン。私を陥れるためのセンサーをたくさんつけてきた だけではなく、それを隠すような服装で来たのですものね。あなたのすべてが嘘くさいわ。あなたの臭いまで。あなた、 調香台を使ったのじゃなくて?」 スーリヤの目の前で、イドゥンの顔は困惑のあまりまず真っ白になり、それから真っ赤になった。スーリヤは一瞬、イドゥ ちゅうちょ ンがかわいそうになり、躊躇したものの、覚悟を決めてとどめをさした。 「調香台を使うには、 「心得」がなければいけないの。あなたは明らかに調香師になるための手ほどきを受けていない。 竜涎香とパチョリとオークモスとジャスミンを組み合わせて、加減を間違えたら、香りはあなたを引き立たせるどころか、 覆い隠してしまう」 「では覆い隠されたまま先へ進みたいとしたら?」イドゥンは興奮して言った。 「まあ! 嘘が下手ね! すべてを覆い隠して何も見抜かれないことを望んでいるなら、体じゅうにくっついているいろん な道具をさっさと手放しているでしょうし、頭の上をずっとぶんぶん飛んでいる蜂みたいなのも追い払っているでしょう!」 イドゥンはまたしても飛び上がった。視線を上げて、頭の上でホバリングしているナノドローンを見つけたようだった。 その存在に最初から気づいていたとすれば、驚いたふりは迫真の演技といえた。 「イドゥン」スーリヤは続けた。 「プロテウス社があなたを送り込んできたことを心底残念に思っているの。きっとまた、 私を説得して会社に連れ戻したいんでしょう。私のところにいるキメラを1頭、拉致できなかった代わりにね。この間の 誘拐未遂はほんとに最悪だったってカレンに伝えてちょうだい。捕獲できていたとしてもどうせ失敗する運命だったし、 それについてはかなりはっきり説明したつもりだったのだけれど」 「わかってほしいわ、イドゥン、私は理由もなしに古巣を去ったわけではないのよ。会社の新しい方針に不満があったの。 私のところにいるキメラたちでは大量生産はできないってことを前の社長たちは理解してくれていた。でもこのことは昔 の話だから置いておきましょう。私とキメラたちがどれくらい長いことプロテウス社に忠実に尽くしてきたか、知ってるか しら?」 「30 年ですか?」 「もう隠居しても許される頃よね」 イドゥンは肩をすくめた。少しむくれて下唇が引きつったが見苦しくはなくかえって好感が持てた。カレン・エリジウム が自分の感情もコントロールできない密使を選んだのは意外だった。ここから出ていくようにとスーリヤがはっきり告げ ると、イドゥンの顔には失望の色が浮かんだ。 ホテルの部屋のドアが閉まるとすぐに、イドゥンは思うぞんぶん怒りを爆発させた。こんなに屈辱的な思いをしたのは 初めてだった。スイートルームをつかつかと歩いて調香台のところまで行き、その豪華な寄木細工に蹴りを入れると、中 に入っていた色とりどりのカプセルが飛び散った。もちろんそんなことで気が静まるわけもなかった。 私ってばかね、いままで一度も使ったことがなかった道具をどうして使いこなせると思ったのかしら? 95 シャワー室に飛び込んで、服も脱がずに超音波のスイッチを入れ、10 秒で出てきて、自分の体についていた匂いがすっ かり消えたのを確認してほっとした。 ドアをノックする音がした。イドゥンは憤然とドアを開けに行き、そこに立っていた青年を前にして呆然とした。 「ロビーを横切るあなたを見て声をかけたのですが、聞こえなかったみたいで。あなたの周りにだけ暴風雨が渦巻いてる みたいでしたから。シェイクスピアが見ていたらきっといい役をもらえたでしょうね!」 「私のあとをつけてきたの?」イドゥンは責めるような口調で言った。 青年は眉を上げて、微笑した。 「もしよければ、今夜は独り者どうし一緒に過ごすのはどうでしょう?」 両手を腰に当て、あごを突き出し、イドゥンはたいそういらいらしながら青年をじっと見据えた。 「エリジウム社長のところで懲りなかったの? あなた、ストーカー? それともそんなに暇なの?」 青年はなだめるように両手をあげた。 「私は弁護士なんですよ、お忘れじゃないでしょう? 明日はナルボンヌで裁判なんです。とても重要な案件です。こん なところで偶然あなたにお会いするとは思ってもみませんでしたよ」 戦意を喪失して、イドゥンはサロンのソファーに倒れ込んだ。束の間、雨粒がガラス張りの大きな窓を叩く音に耳を 澄まし、雨を部屋に呼び入れ、肌を伝わせ、腕も顔も濡らして、すべてを洗い流してしまいたいと思った。 イドゥンはため息をついた。 「弁護士さん? そうね、そういえば聞いたような気もするわ、名前は存じませんけれど」 「そうでしたか? そういえば、私のノーティスとあなたのノーティスがIDを交換したとき、大笑いしてましたね。私も頭 がこんがらがっていました。だって思い出してみると、あなたが突然いなくなったときも、空気みたいだ、なんて思ってま したからね」 青年は地面に膝をつき、お辞儀をした。 「昨日あなたが冷酷にも森のはずれ、ではなく酒盛りのはずれに置き去りにした賤しい男と、夕食などご一緒にいかがで すか、女神さま。私の名前は、エリック・ストランド。あなたのしもべです」 イドゥンは顔をしかめた。こんなふうに嘆願されるのはあまりにオーバーに思えた。青年の自信に満ちた性格、はっき りした顔だち、ゲリラ兵ふうの服装がどうにも好きになれない。 「まずは、そんな格好はやめて、立ってください。子どものころ、従姉のお下がりの短すぎるスカートを私にむりやり履か せようとして、母はいつもこう言ったわ。 “少しくらい変だからって死にはしないわ”って。そんなの嘘よ。たしかに、み んなに笑い者にされたって、その場で即死するわけじゃない。でもあなたという存在の大事な部分の大方は消え去って、 自信も一緒に失われ、二度と戻ってこないのよ」 「こんなにきれいなお嬢さんがずいぶん暗いことを言いますね。誰があなたを笑い者なんかにするでしょう? そんな無 礼者がいるなら名前を言ってください。叩きのめしてやりましょう!」 「おとぎ話や伝説も進化するのよ。そんなことも知らないの、ストランドさん? 少しバージョンアップが必要ね。それ は私の部屋じゃないところでやってちょうだい。私はひとりになりたいの」 イドゥンは青年を手荒く立ち上がらせて、ドアまで送っていった。青年は、拒まれたら食い下がらずに引き下がること を知っている伊達男ふうに、恭しくお辞儀をした。イドゥンは青年が去ってゆくのを見ながらうなずいたが、その後ろ姿 が征服者然としているのを認めずにはいられなかった。 96 ふたたび怒りが込み上げてきた。ドアを乱暴に閉めようとして、通りかかったボーイに制止されて静かな音を立てて閉 まったのに激怒し、いちばん近くにあったソファーをめった打ちに殴りながら、スーリヤとカレン・エリジウムを順番に思 い浮かべた。 カレン・エリジウム……。イドゥンは失敗に終わった訪問の報告をこれ以上先延ばしにすることはできないと思った。 観念して、前もって聞いていたプライベート回線をオンにした。すぐに出てきたカレンは、無表情だった。実りある結果 をもたらさなかったことをすでに知っていたのだ。あのナノドローンがプロテウス社のものでなくて、誰のものだろう。そ れにカレンは他の仕事に没頭しているらしく、イドゥンがしどろもどろの説明をしているあいだ、仮想モニターの上で両手 をせわしなく動かしていた。さして興味も無さそうに聞いていたカレンは、あんな悪質な行為のあとで自分を送り込むな んて、とイドゥンに非難されて初めて顔色を変えた。 「キメラを盗もうとしたですって? まったく、スーリヤときたら、私たちがそんなことをすると思っているなんて、ありえな いわ! そもそも私たちがそんな犯罪行為を犯すわけがないじゃない。そんなことをしたって何の役にも立たないってスー リヤから釘をさされていたんだから。キメラたちはずっと閉じ込められてきたのよ。自由に動ける範囲は半径 20 キロメー トル以内。その範囲を越えると衰弱し始めるの。しかも遠ざかれば遠ざかるほど、急速に駄目になるのよ」 「ひどいわ」イドゥンは憤慨した。 「キメラたちはスーリヤのそばを離れたくはない。いっぽうで、誘拐犯たちに手荒な捕まえ方をされるのは耐えられないの よ。距離が大きく離れたらすぐに死ぬようにスーリヤがプログラムしなかったのは、手遅れにならないうちに連れ戻せる という唯一の望みに賭けているの」 「アポトーシスのプロセスを食い止める方法を見つけていたら、その唯一の望みはあなたにとって好都合というわけですね」 イドゥンは辛辣な口調で言った。 イドゥンの瞳の奥がどれほど狡猾に光っているか、カレンはわかっていただろうか? 「あなたはスーリヤを見くびっているわ、イドゥン。今のところ、すべての手札はスーリヤのものよ。だからこそスーリヤ の防御を突破するためにあなたを当てにしてるのよ」 「あんなナノドローンを使ってですか? スーリヤが気づかないとでも思ったのですか? あなただって彼女を見くびって いるじゃありませんか!」 「ひとつ忘れていたことがあるの。土砂降りの雨だったことよ。そのせいでナノドローンは船体の影に隠れようとしてあな たたちに近づきすぎた。そうでなくては、晩春のこんな時季ですもの、気づかれずに済んだはずだった。それにあなた、 なにもあれを壊すことなんかなかったのよ。あれだけ小さいナノドローンになると生物学者の年収よりずっと高価なんだ から」 「次回は前もって知らせてください。軽率な真似はいたしませんから」 「そうね、覚えておくわ。私たちの計画の続きに話を戻しましょう。あなたには成功してもらわなくてはいけないわ、 イドゥン、 なにがなんでもよ。あなたには大きな期待がかかっているの。なぜってあなたは我が社でも指折りの優秀な生物学者だし、 なによりあなたはキメラを愛しているから。私たちをがっかりさせないで!」 自分は考え違いをしたのだろうか? 冷淡な口調、かたく結んだ唇……。カレン・エリジウムは、あなたは職を失う 危険性もあるのよと通告しているのだろうか?“ごめんなさい。あなたを挑発するべきではありませんでした。どうか、い まのはなかったことにしてください”そう言いたくても言葉にならず、イドゥンは平静を失った。目を伏せて、視線を上げ ようともせず、カレン・エリジウムの3D映像に立ち向かう勇気すらない自分に嫌気がさした。 「あの……ナノドローンで」イドゥンはようやく言った。 「状況は中継されていたのですか? あなたも見ていらっしゃった のですか? それならメゾン・フルールを開けてもらうにはどうしたらいいか教えてください。ホームオートメーションの 97 監視装置をショートさせるシステムを持ってらっしゃるんでしょう?」 「キメラたちとスーリヤは住居の下にある通路を通って出入りしているわ。あなたもそこを通れるはずよ。泳ぎが上手だと いうのもあなたを採用した理由のひとつなの。キメラたちと一緒に、もしくはあとについて入れば、見つかることはないわ」 イドゥンは呆然としてカレンの顔をまじまじと見た。 「こっそり忍び込めっておっしゃるんですか? そんなの意味がありません! あのひとを説得したいんじゃないんです か? ひとの家に不法侵入するような人間がどんなもてなしを受けるとお考えですか? 裁判所に呼び出されるくらいな らいいほうですよ。最悪の場合……」 「相手が納得するような態度で行かないと駄目よ。心配しないで行きなさい。裁判のことは、すごく優秀な顧問弁護士 がいるから大丈夫。それこそ、不法侵入になんてならないわ。注意処分を受けるくらいがせいぜいよ。もう議論は十分 でしょ! スーリヤの館の詳細な間取り図をあなたのノーティスに入れておきました。よく読み込んで、突撃しなさい」 カレンは「直ちに」とは言わなかったが、イドゥンに重くのしかかる視線はためらう隙をまったく与えなかった。たとえ 嵐が最高潮に達していても、もうすぐ夏至だった。暗くなってはいても、日が暮れるのは 22 時を回ってからだ。夜にな るまでまだ数時間ある。 カレン・エリジウムの映像は消えた。イドゥンは即座にメゾン・フルールを表示した。すると辛い気持ちがしだいに薄れ、 エコノマド建築の極致のような館に対する賞賛の念に取って代わられた。目の前で花びらが開いた今、イドゥンには建 物の構造がよくわかった。長い主船体には中央にプールがあって、その両側に3つの階層が円形劇場のような構造を成 し、宙吊りになった庭園に続いている。ふたつの翼棟はジャッキで連結しており、バイオマスや雨水のタンク、植物を利 用した浄化や逆浸透圧によるリサイクル用のタンクなど、専門施設を内蔵している。翼棟の表面はハイブリッドな太陽 光発電パネルで完全に覆われている。てっぺんには小さな垂直軸風車を頂いている。 おもり しかしいちばん重要なのは、イドゥンにとっては、館の錘の役もして、水中でキメラたちの出入り口となる巨大な円蓋だっ た。イドゥンは長い時間、目を細めて、いぶかしそうに円蓋を眺めていた。うまく潜り込めたとして、むりやり侵入した ことについて、どんなふうに申し開きをすればよいのだろう? 雨水が滴り落ちるガラス窓にそってイドゥンは進んだ。クラープ山塊の上のほうにあるフェアモント・ナルボンヌから は池も海もよく見えず、イドゥンは肩をすくめたが、もう躊躇している時ではない。それに、この濃霧は好都合だった。 長時間の潜水に必要なウェットスーツと、標的に気づかれずに接近するためのホバーバイクをレンタルするためにホテル のショッピングエリアに向かった。3Dスキャナーを通ったあと、店員がウェットスーツのサイズを調整するのを待ってい るあいだに、イドゥンはクリスティアナ学院に接続した。受付の女性がいつもどおり微笑んでなんの説明もしないので、 状況に変化がないことがわかった。それから娘の部屋につながった。 「ティルデ? ママよ」イドゥンは希望を押し殺すように小声で呼びかけた。 ティルデは指を開いて合図をしたが、目の前に見えているはずのイドゥンの姿は感知していないようだった。頭に巻き つけたヘッドバンドの下では、小さなセンサーが額を埋め尽くしていた。そのセンサーが上のほうまで剃り上げた首筋に 沿って降りてゆき、ブラウスの襟ぐりに入り込んでいるのに気づいて、イドゥンは身震いした。離れているからこそ気づく 98 些細な変化を見るにつけ、胸が締めつけられた。まだ子どもだった娘は成長し、まもなく思春期を迎えようとしている。 殺伐とした外界に向けたティルデの手ぶりは、誰にも解読不可能とはいえ、今ではとてもしっかりしたものになっていた。 「私の異邦人さん」イドゥンは囁いて、通信を切断した。 店員が戻ってきてイドゥンのウェットスーツを手渡した。きれいなブルーグリーンに生成りのアラベスク模様を配したワ ンピースタイプで、注文どおり、ラグーン地帯で着用する仕様になっていた。イドゥンはすぐに袖を通すことにした。羽 のような軽さは驚くべきもので、着ているのを忘れてしまいそうだった。防水だが通気性のあるマイクロファイバーはそれ ほど柔らかくしなやかだった。さしあたり、イドゥンはフードだけ被らないでおくことにした。持ってきたガウンをゆったり とまとい、大股で外へ出て、エリックに会わなくてよかったと胸をなで下ろした。プールやトレーニングルームから戻って きたふりなんかするのは気が進まなかった。 外に出ると、突風が吹きつけた。水しぶきに打たれてもそれほど怯むこともなく、それどころか次第に興奮してくる自 分を意外に思った。感電したみたいに指がちくちくした。腐植土と塩と濡れた樹皮の匂いにうっとりさせられた。亡くなっ ほうこう た夫が乗っていた年代物のハーレースーパーグライドのような咆哮が聞こえないのを残念に思いつつ、ホバーバイクにま たがった。おまけに、ホバーバイクは雨を察知して、イドゥンが乗るとすぐ、頭上で車体をピシャリと閉じてしまい、静 寂の繭に包まれて発進した。 “まあ、夫のハンス = ゲオルクはスピードを愛しすぎたあまり死んでしまったのだし、そういうあなたはというと、メゾン・ フルールにこっそり近づけてご満悦ってわけね” 。 ノーティスのGPSでバイクをプログラムし、標的から1キロメートルあまり離れた葦原に着水するとすぐに、イドゥン は短いフィンを足に着け、日暮れが近づいて元気になった蛙たちが大騒ぎしている池に滑り込み、クロールで泳ぎ始めた。 顔に当たる池の水が不快だったらどうしようと心配だったが、好物の牡蠣と同じような、塩とヨードの力強い味がした。 唇を舐めた。生きているという実感をこんなに強く抱いたのはものすごく久しぶりだった。私は埋葬されていたの? あ の恐ろしい女社長に墓から掘り出してもらったことを感謝すべきなのかしら? すぐそばにあった館が霧雨の中からついに姿を現したとき、なにかに体当たりされて、イドゥンは恐ろしさのあまり大 声を出しそうになった。が、ぶつかってきたのは1頭のキメラだったとすぐにわかった。キメラはまるで月の光を盗んでき たように輝いていた。銀色にキラキラ光って、あたかも自分の衣装の素晴らしさを知っていて、見られることを楽しんで いるかのように、波間を跳ね回っていた。 ボールを持ってくればよかった。きっと夢中になったわ。 後悔しても遅かった。それにこんなに近くにいては拍手喝采もできない。そもそもなにをするにしても近すぎる。キメ ラの注意を惹くことで、スーリヤやホームオートメーションに気づかれるのを恐れたイドゥンはすぐさま潜ることにした。 水の中に沈んでいる円蓋の配置は完全に記憶していたので、暗中模索するまでもなく、大きく開いた入り口が見つかった。 上の階から洩れてくる仄かな光が導いてくれた。そのとき、イドゥンはまたしても何かが擦り寄ってくるのを感じた。月光 をまとったさきほどのキメラが円蓋の中に入ってきて、仲間のキメラと合流していたのだ。仲間のキメラは鮮やかな青の 斑点を散らしたマントをまとい、 そのうちの2頭がイドゥンの周りをグルグル回り始めた。その旋回の仕方があまりに速く、 炎に取り巻かれているようで、イドゥンは急に怖くなった。脳裏に死神の姿がくっきりと浮かび上がった。息が苦しくなり、 それから凄まじい放電に打たれて気を失い、なにもわからなくなった。 99 黒にんにくのストックを補充するため、沖合で採取した海水に漬け込もうと見事な房を引っこ抜き、斜面の上のほうに ある果物や野菜の畑の草取りを終えたところで、スーリヤははっとしてプールの方を振り返った。ただならぬ騒ぎの気配。 いったい何の騒動がキメラたちを興奮させているのだろう? 呼びかけ合い、吠え合い、土手に跳ね上がり、また水に 飛び込んでは狂ったように興奮していた。スーリヤは、丸ごとのにんにく、ベビースピナッチ、グリーンアスパラ、白菜、 白小玉葱を放り込んだかごをつかむと急いで斜面を降りた。プールの真ん中にぐったりとした人影が見えたような気がし た。そしてスーリヤの思い違いでなければ、キメラたちがおもちゃにしているのはその溺死者なのだった。 疑惑が確信に変わった時、スーリヤはため息をついた。侵入者への憐れみはあまり感じなかったが、またしても地元 当局から事情聴取を受けることになのかと思うと気が重かった。今夜さっそく、潜水円蓋から溺死者を運び出し、池か らじゅうぶん遠いところまで運んで行かなければならない。そうしたところで、警察の捜査など煩わしさから逃れられるわ けではないが、少なくとも、直接巻き込まれないで済むにちがいなかった。 プールのへりに近づくと、ケリドウェンとディアーヌ、セレネが寄ってきて、キューキュー鳴きながら周りを跳ね回ったが、 スーリヤは、硬直した体があきらかに女性らしい丸みを帯びているのを見て震え始めた。 「メゾン! プールに明かりを」 スポットライトに照らされると、即座に疑いの余地はなくなった。スーリヤは茫然として額に手をやった。しかしよく見 ると、キメラたちはグルグル回りながら女性の体をもてあそんではいるが、顔だけはけっして水に浸けていない。スーリヤ は眉をひそめた。これこそまさに奇妙なことに思えたからだ。キメラたちはこれまで番犬のように家を守ってきた。侵入 者という侵入者は獲物と見なし、放電を食らわせ、手心を加えたことなど一度もなかったのだ。希望は残っているのだろ うか。 スーリヤは水に潜った。 しばらくして、精力的な心臓マッサージの甲斐あって、イドゥンは咳き込み、飲んでいた水を吐き出した。スーリヤは キメラたちを遠ざけるところまで手が回らず、イドゥンは目を覚ましたときに、キメラたちが垣根を作って物珍しそうに自 分のことをのぞき込んでいるのを見て、恐怖で叫び声を上げた。 スーリヤはイドゥンを安心させようとした。 「キメラたちはあなたにお仕置きはしたけれど、そのあと命を助けてくれたのよ」 生まれつき好奇心の強いキメラたちは、その性格ゆえに苦い目をみることもよくあったが、今回キメラたちがとった慈 悲深い行動もそれで説明がつきそうだった。とはいえ、侵入者に対してこのような態度を示したのは初めてのことだった。 スーリヤは正直当惑していた。うちの子たち……こんな呼び方はばかみたいだと思っているし、孤立した生活の弊害だと わかってはいても、心からそう感じている自分のキメラたちは、この生物学者を人畜無害だと感じたのだろうか。 イドゥンの無事が確認されたいま、ふたたび憤怒にとらわれたスーリヤは、その抜けるように白い肌、睫毛をしばたく 眼差し、恐怖に色を失った唇、丸めた身体をしげしげと眺めた。 「理由が知りたいわ。なにが望みだったの? 盗み?」 イドゥンは怯えたように首を振って否定した。 「それじゃあ、なに? 昼間、もっとわかりやすい言い方をするべきだったかしら?」 イドゥンは座り込んで顔を両手に埋めた。 「お話はよくわかりましたし、おっしゃったとおり伝えました」イドゥンは抑揚のない声で言った。 「問題はそれが受け入れ られず、私が板挟みになっていることです」 スーリヤは飛び上がった。プールサイドを大股で歩き、何度も大きく息を吸い込んで、冷静になろうとした。キメラた ちはスーリヤの動揺に気づき、鳴き声を上げながらうろうろとスーリヤの後を追った。スーリヤにいちばん同調しやすい 100 古株の2頭、ディアーヌとサーガがついてきて、脚に擦り寄ってきた。スーリヤはひざまずき、2頭の首もとに挟まれる ようにして縮こまった。2頭のキメラは絹のように滑らかな毛皮をスーリヤの頰に押しつけ、目を合わせようとのぞき込ん だ。スーリヤは根負けしてキメラたちを見た。イドゥンにも根負けすることになるだろうということは、もうわかっていた。 立ち上がったときには怒りは収まっていた。 「夕食を食べながらその板挟みの話をしましょうか。お腹が食事の時間だと言っているの。キメラたちに殺されなかった んだから、あなたはうちのお客様よ」 イドゥンの腕を取って居間へ連れて行きながら、スーリヤは、足をよろめかせて歩くイドゥンが状況の急転回を信じら れないでいるのに気がついた。しかたがない。温度調節機能のついたバスローブを渡し、バスルームの場所を教え、 しばらく部屋の真ん中に置き去りにしようと決めた。自分でなんとかすればいい。捕虜ではないのだし、家捜しのような ことをしたってめぼしいものは見つからないのだから。 しかしながら、ゲレデの仮面やオリシャのマスコットが並べてある階段に近づいたとき、スーリヤは気が変わりそうに なった。イドゥンはことさらエシュに興味を惹かれたようだが、おそらく茶目っ気たっぷりの卑猥な姿態ゆえか、あるい は子安貝の首飾りのせいだろう。幸い、じっくり眺めるだけで、指で触れようとはしなかった。 「イェマヤって水の神様の名前でしょう?」イドゥンはたずねた。 「そう。海のオリシャよ。でも祖母が私にこの名をつけたのは、ヨルバ語のイェイェ・エモ・エジャを短くしたものだから なの。 《魚のような子らを持つ母》という意味よ。母が私を身ごもるとすぐに、祖母は私のキメラたちを夢に見るようになっ て、聞いてくれる人には、この子は将来、生物を支配するだろうと自慢していたそうよ」 スーリヤは懐かしそうに微笑みながら、こうした大胆な発言をあっけらかんとしていた怖いものなしのセレスティーヌお ばあちゃんのことを思い出していた。所在なげに体をぐらつかせているイドゥンを横目で見ながら続けた。 「私の名前のことが気になって仕方ないみたいだから、もうひとこと付け加えておくと、スーリヤっていうのは太陽の神で、 父方の家系がインド系なのでそこから来ているの。ヒンズー風ね。まあ、といっても父の発案ではなくて、インドではよ くある名前なのよ」 よくあることだが、ふいに気がふさぐのを感じて、スーリヤは肩を揺すってふたたび料理に集中した。頰を真っ赤にして、 せっせと体を動かした。刻み、すりおろし、匂いを嗅ぎ、味見をする。手を作業台とコンロのあいだで行ったり来たりさ せながら、包丁、火、薬草、香辛料を使って料理をしているときは穏やかな気持ちでいられた。 シーケンサーを使うなんてもってのほかだった。DNAのコード目録から取り出してきたバイオブリックの配列を上げた り下げたりするのがもはやつまらなくなっていた。スーリヤは、どのようなゲル化剤や香料のカプセルを使えば、またど のようなナノ乳化剤を使えば、客の味覚を欺いたり、突飛な味で驚かせたりできるのかをあまりにも早くから知りすぎて いた。最近はほとんど、海か自宅の菜園でとれたものしか使わない。計り知れないほどの食材の種類、その再生力と 自然の香りをなによりも大事にするようになっていたからだ。しかしながら、嵐が来てバージュで買い物をしたおかげで、 メニューの種類が広がっていた。今夜、スーリヤがイドゥンにご馳走しようとしていたのは、母羊のもとで育った柔らか く美味極まりない仔羊という、エコロジストが聞いたら目をむいて怒りそうな美食家御用達の食材だった。 イドゥンは最初、フォークの先で皿をもてあそんでいたが、いったん心を決めて食べ始めると、食欲旺盛にフォークを 突きさし、パルメザンチーズで作ったチュイールや、タイムで香りづけしてローストしたほうれん草の上に載せたグリーン アスパラガスをたいらげつ。次の皿、細長く切って三角テントのように盛りつけた仔羊肉とその下に敷いたコンポート状 の黒にんにくを食べ始めたイドゥンはにっこり笑って囁いた。 101 「きれいね」 スーリヤは笑った。 「あなたに敬意を表してのコントラストよ。黒くてくたくたなのは私……。あなたは生まれたての仔羊みたいに真っ白。そ れでいて両義的で、曖昧でもある。私はにんにくをすりつぶして作ったこのピュレほど甘くはないし消化もよくない。あ なたの場合、純粋無垢ってことでいうと、お母さんのおっぱいを飲んでいたのはずっと昔のことね!」 「私、哺乳瓶で育ったんです」 「それは辛かったわね! おまえは揺りかごで不幸の乳を飲んだ、って歌があったわね。だからって先輩の家に忍び込ん で泥棒を働こうとしたりして許されるってわけじゃないわよね?」 イドゥンの美しい顔が強ばった。 「他にどうしようもなかったんです」 「いつだってどうしようもあるわよ!」スーリヤはかっとなった。 「どうせカレンに頼まれたのでしょうけれど、 そうだとしても、 あなたは断ることもできたはずよ」 「あなたはお金持ちですから!」こんどはイドゥンが激昂した。 「今までもずっとお金持ちだったでしょう! あなたにはわ からないのです。つねにいちばん高い波に乗って、自分がいちばんだって、いちばん優秀で、いちばん魅力的だって証明 するためにへとへとになって、いつ格下げされるだろうってびくびくしながら生きていかなくてはならない者の気持ちなん て」 スーリヤは驚いたようにイドゥンを見た。イドゥンの苦しみはその表情にありありと表れていた。 「それで、格下げされないためだったら、なんだって引き受けるの?」 「自分の産んだ子が、病気で人より虚弱だったら、その子を守るためになんでも引き受けられるわ。ええ、もしできるなら、 そしてそれで娘が助かるなら、あなたのキメラを1匹残らず盗むと思うわ」 スーリヤは当惑して首を振った。イドゥンの発言は、自分が知っていることとは一致しなかった。 「説明してちょうだい。出産した頃のあなたの職歴にちょうど興味があったの。私の記憶しているかぎりでは、とくに異 常のない子だったと思うけれど」 「異常なく生まれた娘が5歳の誕生日を迎えたばかりの頃、娘の見ている前で父親が死んだんです。ベースジャンピング の事故でした。彼は練習や試合に娘を連れていくのが大好きでした。私たち夫婦はもう別れていたので、それを止める ことはできなかったのです。あの子は父親が崖に接触するのを見ていました。パラシュートが開かず、地面に叩きつけら れる最後の瞬間も。それ以来、ひと言も口をききません。まるで父親と一緒に死んでしまったみたいに。でも、プロテ ウス社のおかげで、あの子を今いる学校に入れてやることができたんです。あそこにいれば、虐待されることも辛い思い をすることもありません」 スーリヤは唇をゆがめた。話が自分を丸め込むのにちょうどよくできすぎていて、疑わしくなった。小声でAIにデータ の確認を指示してから、たずねた。 「医師たちは何と言っているの?」 「PDD(広汎性発達障害)だそうです。PDDの中のどのカテゴリーにも属さない障害のひとつなんです。自閉症だと いう医師たちもいますが彼らによると、激しい動揺が、完全に表明されなかった感情の混乱をひき起こしたのだというこ とです。何をやっても治せませんでしたが、カレン・エリジウムの知り合いに神経科医がいて……」 「そりゃそうよ」スーリヤは声を上げた。 「人生で危機に陥ったとき、誰の周りにも救世主みたいな人がいるものよ」 AIが小声で返信してきた。ティルデ・アンドレセンはたしかに4年前からオスロに寄宿している。学費の高い名門校。 情報は符合していた。 102 イドゥンは立ち上がり、部屋の中を歩きまわった。背中は強ばり、あごは怒りに震えていた。 「立場が完全に逆転してるわ!」スーリヤはため息をついた。しかしながら、イドゥンの苦悩に胸を打たれたスーリヤは覚 悟を決めた。 「娘さんを私のところへ連れていらっしゃい」 「もう親しい口をきいてはくださらないんですか?」突然、丁寧な口調になったスーリヤを見てイドゥンはわめきたてた。 外ではキメラたちが吼え返していた。まるでイドゥンと一緒になって憤っているかのようだった。スーリヤは笑いをこらえ た。 「それはあなたしだいですよ」 イドゥンはスーリヤの前で傲然と身構え、腕を差し出し、人差し指を立てて報復のしぐさをした。 「わかったわ、スーリヤ・イェマヤ・ダ・マタ。それでは、はっきりさせておきましょう。うちのティルデはこの件とはいっ さい関係ないわ。ここへ連れてきてあなたに会わせるなんて、もってのほかよ」 「娘さんのためならなんでもできるんだと思っていたけれど? 娘さんに会いたいの。私も両親をなくしたとき、ちょうど 娘さんの年頃だった。それに、私、あなたがなにをしでかそうと、あなたのことが好きなのよ。大したことを頼んでいる わけじゃないでしょ。娘さんをろくでもない温室からしばらく出してあげなさい」 「温室だからこそよ! 温室だからあの子を守っていられるのよ。あなたの気まぐれを満足させるために、あの子の容態 が悪化するような危険を冒せというの?」 「決断なさい。あなたの将来はあなたの手中にあるのよ。娘さんがここへ来れば、もしかしたら私もキメラたちに関する 自分の態度を考え直すかもしれないわ」 スーリヤのところへティルデを連れてゆくために、イドゥンはオスロ発リスボン行きのエアロスクラフトの夜行便を選ん だ。出張費のおかげで、うっとりするほど快適な空の旅を享受することができた。ティルデのために電車の乗り継ぎだ けは避けたかったし、ティルデが特殊な子どもだということを見極めるやいなや、好奇の目を向ける人々と同乗するのも 避けたかった。同じ理由から親子はルームサービスで早めの夕食をとったあと、旅のあいだじゅうずっと客室に閉じこもり、 デッキに出て低空飛行や夜景を楽しむこともなく、トランジットのときに、発光する街を眺めることもなかった。ティル デの背中に寄り添って体を丸め、センサーをあえて着けたままにしてある剃り上げた首筋にあごを埋め、イドゥンは子ど も独特の少し酸っぱい匂いを嗅いだ。この子をこんなに近くに抱き寄せたのはいつ以来だろう? イドゥンは自問した。 そして穏やかに眠り込んだ。こうして娘と水いらずで何時間か過ごしただけでも連れ出した甲斐があったといえるだろう。 ボルドーでのトランジットの後、レンタルしたスカイカーのおかげで、引き続きティルデにじゅうぶん注意を払いながら ナルボンヌに戻ることができた。絹織物のように滑らかなティルデの肌に指を滑らせながら、耳もとで古い歌を口ずさん でやった。復路の旅費はもらっていない。ティルデは学院のタブレットでいつもの不思議なゲームを始めていた。両手を 無重力状態のような感じで動かし、秘密の合図を出している。イドゥンはあきらめて、ノーティスに指示を出し、たまっ ていたメールやメッセージを読み込んだ。プロテウス社からメールの山が届いていた。皇太后が家来に向けるような、警 告や忠告が 100 件近くも。イドゥンはため息をついた。こんどはイドゥンの指が動く番だったが、優雅に踊るティルデの 指と比べると、悲しいほど面白みのない動きだった。プログラムされたスカイカーは従順に車線を守り、通行可能な都 市部の上空飛行に速度を合わせていた。 103 フェアモント・ナルボンヌに戻ってくると、イドゥンは、カレン・エリジウムに見せたあからさまな自信が消えていること さいな に気づいた。罪悪感に苛まれた。いったいどうして、娘を、こんな無防備な娘を、あんな狂ったエゴイストたちに引き 渡そうなどと思ったのだろう? それで娘を守るためなら言うことを聞くだなんて? あのいまいましい女社長をひどい目 に遭わせてやるべきだったのに。 イドゥンはスカイカーを止め、ティルデを車内から引っ張り出しながら、あらためて娘の重みを思い知り、激しく苛立っ た。私の人生の重み、腕の先にある重み。そう思いながら無気力な体をそっと揺すった。この子は自分を取り巻くもの だけを見ているのだろうか? 嵐のあとの太陽の光を反射してキラキラ光る池や海を? 古い街並の瓦屋根の格子柄の 上に線描で、遠く、くっきりと浮かび上がっている大司教館の塔を? 空の強烈な青さの中でひたすら啼きつづけるカモ メの声は聞こえているのだろうか? そしてアレッポマツが漂わせる松脂や樹皮や松葉の熱い香りを嗅いでいるだろう か? 少なくとも、生活が激変したことで不安を感じている様子はなかった。臨床医たちは深刻な反応を予言していたが、 そんな反応は起こらなかった。あるいはもう少し後で出てくるのだろうか。イドゥンは自問することをやめ、気分を切り替 え、ティルデをホテルのロビーのほうへ引っ張っていった。ちょうどそのとき、ロビーからひとりの男性が現れた。イドゥ ンは飛び上がった。その奇妙な格好から即座に誰だか分かった。ゲリラ兵ふうのしなやかなブーツの上にベージュのズボ ン、ベルトの付いた茶色い革のジャケットを着て、青年は繊維と天然皮革だけを身にまとって美男子ふうの雰囲気を漂 わせている。イドゥンは、人目を引くウェットスーツを脱いで、パールグレーのエタミンでできたサガラ・コウジの旅行用 のアンサンブルに着替えていた自分を心の中で賞賛した。 「やれやれ、溺れ死んだのかと思ってましたよ!」エリック・ストランドは叫んだ。 「ありえないでしょう」 「溺れ死ぬことがですか?」 「あなたとまた街で偶然会うことが」 「シンクロニシティですよ。私の頭はあなたのことでいっぱいだった。そうしたらあなたが現れた。森の女神さまにとって はこの上なく普通のことでしょう?」 イドゥンはティルデの指が空しくも優雅なバレエを始めなければ、つられて笑うところだった。驚いて、エリックはティ ルデが合図をするのを見た。 「娘よ」イドゥンは知らせた。 「見ればわかりますよ! 女神がもうひとり。緑の瞳はおそらく父親譲り、しかしあとは子どものころのあなたを見るよう ですよ」 エリックの興味はふたたびイドゥンに戻った。イドゥンは自分の絶えざる苦悩の源泉にほとんど注意を払わないエリッ クに感謝したい気持ちだった。 「どうして溺れたなんておっしゃったの?」 「嵐の真っ最中に池へ出て行って戻らなかったからですよ」 「私を見張っていたんですか?」 「まさか、イドゥン! ディナーにお誘いしようと思って訪ねてきたんですよ、そしたら2時間ほど前にウェットスーツを着 て出かけたっていうじゃありませんか。待っても帰ってこないし、心配しましたよ……」 「取り越し苦労でしたわね」イドゥンはぶつぶつ言った。監視されていたと思うと、ほっとするより腹が立った。 エリックはうなずいた。男性というのは必ず守護天使の役割を引き受けなければならないのだろうか? 「あなたが泳ぎのエキスパートだということはもうわかりました。その代わり、3日前に私が真夜中に池のほとりへ行った とき、海の幽霊ドラウゲンが暴風の中でむせび泣くのが聞こえたんです。そして半分だけになった小舟の上に、首のな 104 い影がくっきりと浮かぶのが、降りしきる雨粒ごしに時たま見えました」 「すごい想像力ね!」 「それでよく叱られたものです」 「私の国の古い伝説をどうして知っているの?」 「子どものころ、バカンスでトロンハイムに行きましたから」 この妙な因縁がイドゥンを安心させた。そして再会したばかりなのにイドゥンを置き去りにすることを後ろめたく思って いるかのように詫びながら、エリックは去っていった。こんど夕食を共にする約束を取りつけるのを忘れずに。 「さて、この子がティルデなのね?」 イドゥンはスーリヤがティルデの周りをまわるのを見て、唇を噛み、答えなかった。娘を抱きかかえて、あらゆる脅威 から遠く離れたどこかへ連れ去りたかった。唇を噛むだけでは足りなくて、親指をくわえて噛んだ。スーリヤはティルデ の目の前に指を差し出し、ぱちんと鳴らし、それから手で触れて、揺すりさえしたが、布でできた人形を相手にするほど の手応えしか得られなかった。イドゥンはスーリヤがセンサーを外そうとしているのを見て、止めに入ろうとした。 「やめて、どうかしてるわ! 医師が着けたままにしているんだから、必要だってことなのよ!」 スーリヤはイドゥンを手荒く遠ざけた。 「彼らにとっては必要でも」スーリヤはティルデのチュニックの下に付けてある記録装置を外しながら言った。 「この子に は必要ないのよ。しばらくの間、データが取れないけど、医師たちはそれで死ぬわけではないわ。パッチも外すわよ。 こんなものなんの役にも立たないから。イドゥン、落ち着いて。この子に危険なことはなにもないわ」 3人は家の大きな入り口を出て、倉庫を横切り、プールが大きく口を開けている建物の中央部分にやってきた。プール サイドには、30 頭ほどのキメラたちが、戻ってきた太陽にまばゆい肌を晒して日光浴をしていた。キメラたちが3人のほ うへ興味津々に振り向いたとき、イドゥンはふたたび怖くなった。職場で研究対象にしている動物たちは、イドゥンを危 うく殺すところだった恐ろしい生き物たちとは別物だった。母親としての本能からティルデを安全なところに連れていかな ければと思った。 スーリヤはティルデをどこかへ避難させようと躍起になっているイドゥンを押しとどめ、プールの近くに置いてある、ブ ランコ型のベンチに座らせた。 「離れてなさい」有無をいわせぬ口調で命令した。 イドゥンは今や嗚咽にも似た奇妙な悲鳴をあげていた。息も絶え絶えだった。すると、2頭のキメラが群れを離れて 近づいてきた。イドゥンに興味を持ち始めたのだった。感電のショックを引きずっているイドゥンは、2頭が膝元に鼻を 寄せてきたとき、体を強ばらせた。2頭はキューキュー鳴きながら、イドゥンに魚くさい息を吐きかけ、首を伸ばし、身を よじった。イドゥンをじっと見つめる大きな黒い瞳の奥では瞳孔が狭まり、紡錘型の裂け目になって、太陽のような強烈 な光を放っていた。 「なでてほしいのよ」スーリヤが言った。 「この子たちには悪いのだけれど、歯を磨いてもらいたいわ」イドゥンは答えた。 スーリヤは笑い、 イドゥンは少しリラックスした。結局のところ、身の危険を感じていないときには、 ここのキメラたちも、 スーリヤの気に入るように派手な色の装束こそ身に着けてはいるが、イドゥンの知っているキメラたちと行動の面での違 いはないのだった。イドゥンは手を差しのべ、頭のところの柔らかい外皮を掻いてやり、喜んだキメラたちがシューシュー 声を出すのを面白がった。 105 「こんどは私たちの番よ」スーリヤが号令をかけた。 「スル、モーガン、ここへ!」 ふたたび喉を鳴らして、2頭のキメラは名残惜しそうにイドゥンから離れた。3回しなやかに跳躍して、ティルデとスー リヤのふたり組のところまで滑っていった。 イドゥンが見ていると、2頭はふたりと同じくらいの高さまで立ち上がり、カチカチいう音と歌うような抑揚の組み合 わせをひとしきり発した。ティルデは手ぶりで答えていた。 答えている? イドゥンは自問した。いえ、あの無意識の手の動きに意味なんかないはずだ。意味があるのではない かと夢見たことはあったけれど。スーリヤは少し離れて、集中した様子で眉をひそめていた。 あいかわらず力強い尾びれで立ち上がったまま、2頭のキメラは歌うのをやめ、ティルデを鼻先で突っついた。ティル デは、転びそうになった人がしがみつくようにして、キメラたちの首元につかまったが、キメラたちは逆にその姿勢を利用 してティルデを地面に寝かせ、ティルデにのしかかり、ひどく興奮した調子で先ほどと同じ歌を繰り返した。 気が動転してかけ出そうとしたところをスーリヤが引き止めようとするのを、イドゥンは必死で逃れようとした。体長2 メートル以上のキメラたちの体重はティルデの5、6倍もあるのだ。 「つぶされちゃうわ!」 「あの子に危害はいっさい加えないわ。わからない? うちの子たち、ティルデのことをちゃんとわかってるもの。大好 きなのよ」 「あの子たちがもりもり食べてる魚だって、大好きなのでしょう」 「見て。うまくいってるわ。私も実はびっくりしてるんだけど。ここまでうまくいくとは思っていなかったから。あの合唱が 聞こえる?」 はっと息を呑み、イドゥンはもがくのをやめた。ティルデたちのほうへ向かって、プールサイドにいた他のキメラたちが、 頭と尻尾を高く上げ、体を弓なりに反らして、自分たちの仲間が踊っている奇妙なダンスの伴奏をするかのように歌い始 めた。イドゥンはそれがダンスだとわかって安心した。どうしたらそんなことができるのかわからないが、あの2頭のキメ ラは大きな体でティルデにまとわりつきながらも、怪我をさせるようなことはまったくなかった。ティルデはまぶたを閉じて、 運ばれ、なでられ、引っ張られるがままになり、つねに受け身だったが落ち着いていた。その眺めは静かで美しく、イドゥ ンは感動で目頭が熱くなった。 スーリヤの声が魔法から引きずり出した。 「あの子にはしばらくここにいてもらうわ」スーリヤは言った。 イドゥンは、とんでもないと言わんばかりに首を振った。 「無理よ! 3日後には連れて帰るようにって言われたのよ」 「決めるのは誰? あなたなの、それともへぼ医者たちなの? 例の板挟みはどうなるの? あなたとティルデの将来 は?」 イドゥンはスーリヤをじろじろ見て、刺のある笑い声を立てた。 「あなたはなにも約束していないわ」 「あなたってほんとうにせっかちね! 私は長いこと すべてから隔絶されてきたの。4年間。ティルデと同じね、気づい てた? お願いだからすこし黙っていてよ。私がプロテウス社に見切りをつけたのはただ圧力をかけられたからというだ けじゃないのよ。あのパンデミックのあと、復興のために活動したの。理想郷をめざすあの流れに私も加わりたかった。 あのあふれ出るほどのエネルギーが大好きだったの。あんなにもたくさんの国々を団結させた素晴らしい躍動、もっとも 貧しい国々が見せた急成長。今ではもう、誰も必要なものに事欠いたりしない。あったとしても、それは偶然にすぎな い……。そして私は、プロテウス社がそういう新しい調和の立役者になったらいいと思ったの。夢と現実を調和させる 106 ことに心を砕く大きな集団の一部になればと。残念ながら、世界は沸き返ってしまった。どこの誰だかわからないような つまらない人間でさえ体じゅうセンサーだらけにして、大げさな通信機器とつながらないではいられない。私が接続を解 除したのは、ああいうインターフェイスとか偽物のシールドとかが我慢ならなくなったからよ。いま私が求めているのはう ちにいるキメラたちの真実とメゾン・フルールの平和だけなの」 「ほんとうに?」イドゥンは吐き捨てるように言った。 「それならティルデをしばらく置いておきたいというのはなぜ? そ れにそんなにこだわるほど退屈で死にそうなわけ?」 「イドゥン、イドゥン……」スーリヤはイドゥンを抱き寄せて囁いた。 イドゥンの首に頭を擦り寄せると、その肌からはシナモンやその他の悩ましい香りが、髪からは銀のヘアバンドにさし てあるリラの花の香りがした。 イドゥンは身震いした。11 年前、こういう瞬間を夢見たことがあった。しかし今は対立の時だ。イドゥンが体を強ばら せていると、スーリヤがひそひそ声で言った。 「うちのキメラたちがどうしてあの子を受け入れたのか知りたいの。私たちだけにして。ふつかだけ。ふつかあれば足りる と思うの。お願い、猶予をちょうだい。自分で産んだ娘みたいに面倒見るから」 ティルデを寝かしつけ、その火花と生命の草がすべての悪から守ってくれるというオサインの鳥とAIにまかせてから、 スーリヤは自問していた。イドゥンが帰ったあと、ティルデがキメラたちと遊んだり水に入ったりするのを眺めながら、最 初は、はしゃぎまわる彼らを見張っていた。ティルデが泳げるのかどうかスーリヤは知らなかったが、すぐにわかってきた のは幼少期に指導を受ける機会があったにちがいないということだった。たぶんクリスティアナ学院でも水泳を楽しむ機 会があったのだろう。驚くほど長いこと息を止めていられるだけでなく、のびのびと泳いでいた。 ところが、キメラたちから引き離すと、ティルデはたちまち魂が抜けたようになることに気づいた。ロボットのような動 作で美味しくもまずくもなさそうに食事をとったティルデがタブレットを取り出し、また手ぶりでお決まりの合図を始めた とき、スーリヤは耐えられなくなって、寝室に連れて行った。あまりにも強力な失望にとらわれて、スーリヤは自問自答を 始めたのだった。もしイドゥンが自分に向けた警戒心が正当なものだったとしたら? 自分はいったいなにを期待してい たのだろう? 9歳のとき、ウェメ川の三角洲で助けた1頭のアザラシを愛することで、自分の苦しみが癒えたから、い まティルデにも同じことを期待しているということか? 私は自閉症児ではなかったのに! イドゥンがフェアモント・ナルボンヌから信頼しきった口調で電話をかけてきて、現実を伝えたことで幻滅されたときに は、スーリヤは思った以上に傷ついた。そりゃそうだ、うちのキメラたちは神経科医じゃない、だからってプロテウス社 あつれき を無罪放免にしなければならないのだろうか? なんだってイドゥンはカレンとの軋轢を軽く見るのだろう? 私とキメラ たちを結ぶ絆がどういうものかわからないのだろうか? 「だけどその絆はあなたが作ったのでしょう!」イドゥンは辛辣な口調で叫んだ。 「あの子たちを産んだ神はあなたなのよ。 位置測定の装置を埋め込んだのも、遠隔警報システムを作ったのも、保護装置を作ったのも、ぜんぶあなたじゃない。 キメラたちを殺すと皮膚が腐敗するようになっているのも、あなたの仕業でしょう」 「たしかに、もう誰も、あの子たちの皮膚ほしさにキメラを殺したりしなくなったわね」スーリヤは諭すように言った。 「そ れが目的だったの。手に入るのは腐った抜け殻だけだってことを略奪者たちが学習するようにね。それに、キメラたちが 脱いだ皮をあげる相手を自分で選ぶのは、私が意図したことじゃないの。あれはあの子たちの気まぐれで、私だってずい ぶん悩まされたのよ。お客様のなかには、何年も何年もめげずに通ってきて、結局無駄足になった人たちもいた。あの 107 子たちの決定をコントロールすることなんてできたためしがなかったわ」 「ただの動物がそんなに人の心に敏感で利口だなんてありえないわ!」イドゥンはかっとなって言った。 「私が生物学者だっ てことを忘れないで。あなたが手を加えているに決まってるわ」 「考えてみれば」スーリヤはからかうように言った。 「同じ生物学者どうしなんだし、秘密をひとつ打ち明けてもいいわよ。 私のキメラたちはアザラシとトカゲとウナギの遺伝子型を持っているけれど、それだけではなく、私の遺伝子型も加えて あるのよ」 イドゥンは呆然として目を大きく見開いた。イドゥンが昔読んだどんな本を思い出しているか、スーリヤにはありありと 分かった。プロメテウス、フランケンシュタイン、ゴーレム……。 「そんなに心配することないわ!」スーリヤは冗談めかして言った。 「あの子たちに少しでいいから私に似ているところが 欲しかったの。あの子たちのことを《うちの子たち》って呼ぶのは、つまりそういうことよ! 」 スーリヤはイドゥンを注意深く見つめた。イドゥンが考えをまとめていくのが聞こえてくるような気がした。 “ファーミング とその産物であるヒト化された動物たちは何十年も前から存在し、フランケンフィッシュと呼ばれる遺伝子組み換えの魚 や、臓器供給庫や母乳供給源として作られるその他の動物たちが紙面を賑わさなくなって久しい。つまり、数個の細胞 がキメラたちに意識を授けることができたっておかしくないということか?” スーリヤはイドゥンの顔が穏やかになり、肩や手の緊張がほぐれてくるのを見た。スーリヤは満足して、通信を切断した。 横になると、目がひりひりした。セレスティーヌおばあちゃんが恋しかった。おばあちゃんなら占い用のお盆と 16 個 のヤシの実を出してきて、イファ(運命)にたずねただろう。いつのまにかまどろむと、おばあちゃんが節くれ立った指で 粉のなかに印を描いていく様子が夢に出てきた。 歌で目が覚めた。いくつもの和音が高く低く交互に響いていた。よく知っている歌、脱皮の歌、贈呈の歌だった。スー リヤは信じられない気持ちで体を起こした。ありえない! 何の準備もなく脱皮だなんて、何の儀式もなく贈呈だなんて ……。せめて……。オサインのご加護がありますように! 「メゾン? ティルデはどこ?」 「プールです。キメラたちと一緒です」 なるほど、とスーリヤは納得し、大急ぎで服を着た。AIが知らせてくれるはずもない。脱いだ皮が誰のものになるか はキメラが自分だけで決めることだ。買い手の存在が引き渡しの際に求められるなら、それは暴力の介在しない恩寵の 瞬間だ。贈呈のあいだ、ゲストたちがなんらかの危険を冒したことはいちどもない。 とはいえ、状況が分からなかった。儀式が進行中だとしても、いままでスーリヤ抜きで儀式が行われたことなどなかっ たのだ。それに、贈呈には準備がつきものだ。キメラの1頭がティルデを選んだとしても、午後になってからのキメラた ちの態度を考慮すると、どうしてこんなに唐突な形で贈呈が行なわれるということがありうるのだろう? 普通なら、キ メラの脱皮には数日かかるのだ。 スーリヤは階段を駆け下り、キメラたちが発している光に茫然として立ち止まった。目を細めて数えてみると、全員揃っ てプールの中に集まっていた。キメラたちの外皮は金銀の素晴らしい光沢に埋め尽くされ、そのきらめきが光のドームを 作り出していた。キメラたちは同心円を描きながらティルデを讃えるようにその周りをまわっていた。歌声は強く大きくなっ た。 108 スーリヤは首を振った。ありえない。どう考えてもありえない。自分はまだ眠っていて、夢を見ているのだ。私のキメ ラたちみんなが、一斉に、引き渡しを? みんなが一緒になって、自分が脱いだ皮を同じひとりの人間に? そんな贈 呈は想像できない! だけど……。 喉が締めつけられ、目には涙が浮かび、両腕を体に押しつけて、スーリヤは体を揺すっていた。向こうでは、歌と踊り のテンポが速くなり、キメラたちは光の輪になって1頭1頭の区別がつかなくなってきた。ひとつにまとまって、いまでは、 まるごとティルデのものになっていた。私の居場所はまだあるのかしら? スーリヤは思った。怒ったような身ぶりで涙を 拭き、この後ろ向きな考えに腹を立てたが、いっぽう目の前のキメラたちはあまりにも美しかった。この美しさを彼女に も見せなくては。 「メゾン? イドゥンに電話を。キメラの映像を見せてあげて」 誰が贈呈を受けるのかを知ったイドゥンはメゾン・フルールに駆けつけた。スーリヤは贈呈の規模をうっかり話さない ように気をつけた。イドゥンがしきたりを知っているのかどうか、キメラたちがどれだけ掟破りの行動をとったか理解でき るのかどうか、スーリヤにはわからなかった。原則的に、関係者でないかぎり素人が儀式に参列することはない。しか しながら、招待されていれば受け入れることもある。儀式のためにわざわざ招待客を選ぶことさえあった。 イドゥンが到着すると、キメラたちは示し合わせてティルドの母親の気を引こうとするかのように、彼女のドレスの彩ど り豊かな色調をまとって見せた。珍しい玉虫色の輝きが水面に広がり、AIが点けたウォールランプの灯りがテラスじゅ うを虹色に照らした。 「なんてきれいなの」イドゥンはため息をついた。 スーリヤはイドゥンを抱き寄せ、その体が腕のなかで震えるのを感じた。気持ちが高ぶっているのだろうか? 官能的 な興奮もあるのだろうか? スーリヤはイドゥンが抱かれたままでいてくれればいいと思っている自分に気がついた。歓 楽ロボットに飽きてしまったの、スーリヤ? あれはあれで面倒くさくなくていい恋人だと思うけれど。 イドゥンの金色の巻き毛は眠りとフランボワーズのシャンプーの匂いがした。そのなかに顔を埋めて微笑むスーリヤは 人食い鬼のような欲望にとらわれていた。噛みついて、毛を刈って、その下にある肉に食らいつきたかった。 「あなたのキメラたちはいっせいに贈呈するのね!」イドゥンは気がついた。 「ふつうは、1度に1頭でしょう?」 イドゥンの問いかけにスーリヤは茫然とした。つまり何でもお見通しというわけなのか? 「そうなの。なにがどうなっているのか私にもわからないのよ。あるいはこの儀式をあの子たちは長いこと待ち望んでい たのかもしれない。多くのキメラにとっては、何年もかかるのよ。年に1回ささやかな脱皮をするだけで満足していたのに」 「あなたが隔離していたせいね」イドゥンは非難がましく言った。 スーリヤは肩をすくめた。 「たぶんそうね。遅かれ早かれそこを改善する方法を見つけなければいけなかったのね。どうして準備なしに儀式を行な えたのかということもそれで説明できるにちがいないわ。みんな脱皮する準備ができているのよ。でもあの子たち、あな たのことが大好きだから、それほど満たされていなかったのなら、あなたを選んでいた可能性もあったと思うわ。そして あなたより前に何人も。私だって完全に引きこもって暮らしているわけじゃないのよ」 プールではメロディーラインが崩れ始めた。キメラたちはダンスをやめると、ティルデをプールサイドまで押していき、 水から上がるのを手助けした。それから自分たちも水から上がり、ティルデに合流した。そしてティルデがキメラたちの 背中をなでてまわり、その外皮に裂け目が入るのを見て、スーリヤとイドゥンは呆気にとられた。まるで、家臣たちに騎 士の称号を授ける女王さながらだった。それから、ティルデが母親のほうへ歩み寄ろうとすると、イドゥンは身をかたく 109 して震えながらスーリヤの腹部に逃げ込もうとするかのように抱きついた。 ティルデはイドゥンの前に立ち、キメラたちを指さして、しわがれ声で言った。 「あの子たちがパパの居場所を教えてくれたの。パパが今どこにいるか、わかる?」 イドゥンは首を振った。 ティルデは自分の心臓を指さした。 「ここよ」 そしてこう付け加えた。 「私もママも、もう二度と寂しい思いなんかしないわね」 「まあ! ティルデ、ティルデ」イドゥンは囁くように言って、ついにスーリヤの腕を振りほどき、ティルデをしっかりと抱 きしめた。 イドゥンは忘れな草が点々と咲いている柔らかい草の上を走りながら、花の咲いたエニシダの蜜の香りにうっとりした。 キメラたちの抜け殻が朝日に照らされて高価な装束のようにキラキラ輝くさまにイドゥンは目を奪われた。岸辺沿いには、 虚脱状態のキメラたちが擦り傷だらけで血を流しながら剥き出しの肌をさらして、うなり、けたたましく鳴き、弱々しく体 を動かしていた。外皮の引き渡しで受けたストレスからキメラたちが回復するのに数週間はかかる。プールの中で1頭だけ、 脱皮がまだ完全ではないキメラが、うら若い海の女神さながらのティルデを乗せて泳いでいた。 スーリヤはイドゥンに近寄り、興奮ぎみに低い声で笑った。 「思ったとおりだった。ほとんどみんなが脱皮したわ!」 イドゥンはうなずいたが、ティルデのほうしか見ていなかった。ティルデの外界への無関心は消え去ったようだったが、 完治するなど、ほんとうにありうるのだろうか? スーリヤはイドゥンの視線をたどり、微笑した。 「気をもむのはやめなさい。さっき一緒に朝食をとったでしょう。ティルデはしゃべれるのよ。前に自閉症を患っていたこ とがあるとしても、それはもう過去の話よ」 まるでふたりの会話を聞いていたかのように、ティルデはキメラの背中の上で立ち上がり、プールサイドに飛び移ると、 キメラの皮を1枚さっとつかんだ。そしてあごを上げ、叫んだ。 「ママ、ママ、見て!」 ティルデは皮をゆったりと体に巻きつけて、くるくる回りながら動きまわった。その動きがあんまり速いので、広がる 虹のように見えた。またティルデ自身がキメラになったようにも見え、近くにいたキメラたちが力強いビブラートでその踊 りに伴奏をつけた。興奮のあまり喉がからからになったイドゥンは、この子をまだ自分の娘だと思うことができるのだろ うかと思った。 「これを見たらカレンは有頂天になるわね」スーリヤがイドゥンの気分を変えるような口調で話しかけた。 「あなたの娘が 問題を解決したのよ。つまり、うちの商品のこの上なく稀有な特性よ。カレンにはずっと前から、キメラの頭数を増やせ とせっつかれていたの。あのひと、うちのキメラたちが大量生産とは相容れない存在だってことをけっして認めようとしな かった」 スーリヤの口調の激しさにイドゥンは狼狽した。しかし知っておく必要はあった。イドゥンは間接的な聞き方をした。 「カレンにはなんと言っておこうかしら?」 「あのへぼ女社長に? あの女になんの借りがあるの? ティルデは治ったっていうのに、今さら彼女になにを期待して 110 いるの? この奇跡では物足りないというの?」 「奇跡だって言うのね。カレンに借りがあるとすればそれよ。彼女がいなかったら、あなたの言う奇跡は起こらなかった。 だって私はここに来なかったでしょうから」 スーリヤは両耳を手のひらで叩き、天を見上げた。なにを言いたいのかあからさまにわかる身振りだ。イドゥンは執拗 に続けた。 「彼女のことが嫌いなのね? どうしてなの? プロテウス社は進歩の主導者の一員だったでしょう。パンデミックのあ と、人生を変える、ってスローガンを掲げたのもプロテウス社だった。彼らは自社のノウハウをみんなに開放した。他の 芸術家たちと一緒に、惜しみなさのピストン輸送を作り出し、夢を現実化する時代を到来させ、世界じゅうに幸福を生 み出すことを願っていたのよ」 「カレンが情勢を変えたのよ。あのひとはほんとにひどい女よ。社長に昇進してから、害のある決定ばかりし続けているわ。 高級ホテルでファッションショーをすれば新しい顧客を獲得できると言い張っているのよ、考えられる? 巨大企業と化 したプロテウス社はいまではアフリカにまで顧客を探しているようなありさまよ! インドネシアにもよ」 「プロテウス社との取引を拒んだら、あなたの製品はどうやって流通するの?」 スーリヤは投げやりな手ぶりでイドゥンの問いを一蹴した。 「お客ならたくさんいるわ。うちのキメラの皮を手に入れるためなら人殺しでもしかねない連中だっているんだから! こっ ちへいらっしゃい、コーヒーを入れてあげるわ。コロンビア産の高くなくて美味しい豆を自分で焙煎したの。素晴らしい 味よ」 リビングルームにやってきて腰を下ろしたとき、スーリヤが眉をひそめて、耳に指を当てた。 「メゾン?」スーリヤは顔をゆがめた。 「連中が上陸したんですって? どうして探知できなかったの? なんてこと! SOSを送りなさい!」 スーリヤは部屋の奥に飛んでいくと、壁にかかった1枚の凡庸な絵画に手のひらを押し当てた。壁面が回転して出現 した戸棚には、武器、弾倉、拳銃、突撃銃が並んでいた。 「撃ち方、わかる?」スーリヤはイドゥンに向かって叫んだ。 イドゥンが首を横に振ったので、スーリヤは言った。 「しょうがないわね、それでもいいからこれを持ってなさい!」 スーリヤはイドゥンにHKエレクトロを放り投げた。 「いったいなにを……」 「攻撃されているの」スーリヤはさえぎるように言った。 「スカイカーが複数機、過剰装備のステルス機よ。乗っているの はプロばっかり。武器をずっしり積んでるわ。さっき、うちのキメラたちの皮について言ったとおりになったわね」 スーリヤは一瞬もためらうことなく外へ飛び出していった。イドゥンは突然、ティルデがまだ外にいることを思い出した。 一緒に遊んでいるキメラたちの耳をつんざく吼え声を聞いて、イドゥンは恐怖から思わず悲鳴をあげて、自分も外へ駆け 出した。 軍用タイプだが一般車に偽装した2台のバンが岸辺に置いてあった。そのうちの1台にキメラが1頭ひかれていた。悲 痛な鳴き声をあげて苦しんでいる。その傍でキメラの首元を抱きしめて泣きじゃくっているティルデがいた。 「あいつらめ!」スーリヤは怒りにかられて叫んだ。 暴漢は6人。イドゥンはカウントした。加えて運転手がふたり、それぞれの持ち場にいる。キメラの抜け殻を拾い集め、 片方のバンに詰め込む作業を始めている者が4人。あとのふたりは、銃を構えてスーリヤを威圧しているが、イドゥンは 武器を持つ手を上げることさえできずにいる。 111 暴漢たちはみな、ひどく歪んだ顔の仮面を被っていた。メゾンの録画を見ても身元を割り出すことは不可能だろう。イ ドゥンは突然、ふたりのうちのひとりが、もう1台のバンの向こうにあるスロープを降りていくのに気づいた。暴漢たちが なにを企てているのか見当がついて、イドゥンは身震いした。 「ダ・マタさん!」暴漢のひとりが呼びかけた。 「お宅のキメラを2頭、積み込みたいので手伝ってくださいませんか」 イドゥンは背の高いその男がなにを要求するのか分かっていたが、その丁重な口調は想定していなかった。イドゥンは 震え上がった。イドゥンたちが相手にしているのは凡庸な窃盗集団ではない。表向きの礼儀正しさの奥に、不吉な意志 の気配があった。 「ダ・マタさん?」 「できるわけないわ」スーリヤはうなり声をあげた。 「この子たちがここを離れたら死んでしまうってことくらい知っているで しょう。死んだキメラなんかどうするの?」 「なかなか鋭いご指摘ですが、ダ・マタさん、キメラはみんな移動しますよ。そして我々はあなたのキメラたちだけどうし て特別なのか、分析したいと思っているのです」 「あなたの言うとおり、この子たちは特別なのよ! 移動すると死んでしまうの」 「ばかなことを言わないでください! ロスコフからは連れて来てるではありませんか。お願いしますよ、マダム、我々だっ て手荒な真似はしたくないのです」 「この子たちがそんな棺桶に乗るもんですか!」 「たしかですね?」 スーリヤは激昂してうなずいた。 男は面倒くさそうに腕を差し出し、引き金を引いた。額の真ん中を撃ち抜かれて、1頭のキメラが体を起こし、そして くずおれた。即死だった。火薬と血の匂いが混じり合い、むせ返るようだった。 やめて!というスーリヤの悲鳴が響きわたり、おびえきったティルデの悲鳴と重なった。ティルデはキメラを殺した男 に飛びかかり、殴ったり蹴ったりしたが、男は笑いながらティルデを片手でさっとあしらい、仲間のひとりに引き渡した。 引き受けた男は、暴れて悪態をつくティルデを押さえつけるのに苦労していた。怯え切ったイドゥンはティルデにおとなし くしていてほしいと思いながらも、心の奥底では、娘の活力がここまで回復したことを喜んでいた。 そのとき、背の高い男が、ひかれて死にかけていたキメラにとどめを刺した。 「これで2頭、と。こいつにはいらいらし始めてたんだ!」 キメラたちはわめき散らしていた。逆上して吼える者がいるかと思えば、慌てふためいて震え声を出す者もいた。キメ ラたちが押し合いへし合いし、ぶつかり合っているので、暴漢たちは後ずさりせざるをえなくなった。 「放電はしないの?」イドゥンは口のなかで呟いた。 「脱皮の直後は防御手段がなにもないのよ」スーリヤが囁き返した。 悲しみと怒りで噛み締めた唇はもはや見えないほどで、生気のない顔には涙の線が2本平行に筋を描いていた。 「ダ・マタさん」作戦を指揮しているらしいさきほどの背の高い男がふたたび口を開いた。 「私の言いたいことはもうじゅ うぶんおわかりいただけたと思いますが。それともターゲットを変えたほうがよろしいでしょうか? たとえば、こちらの 可愛らしいお嬢さんなんてどうでしょう?よろしい。さあ、キメラたちをおとなしくさせて、2頭積み込んでください。10 分後には出発していたいのです。1分遅れるごとに1頭撃ち殺していきますよ。私は冗談を言いません」 イドゥンは娘の命を案ずるあまり、スーリヤが脅しに屈して進み出たとき、安堵の呻き声を漏らした。スーリヤは歌い上 げるように長々と悲鳴のような声をあげたが、それは音階を上げたり下げたりするラメントのように聞こえた。哀歌が終 わると、キメラたちはおとなしくなった。背の高い男は満足そうにうなずいたあと、まだ脱皮が終わっておらず、頭から 112 尻尾まで皮に裂け目が生じている2頭のキメラを指差した。 「どうせなら、この2頭を積み込みましょう。残り時間は3分です、ダ・マタさん。積み込みが終わった時点でクロノメー タをストップします」 そんなことできっこない、イドゥンは思った。実際、そんなことはできるはずもなかった。そして男はわかっていて言っ ているのだった。虐殺という思いつきが大いに気に入っているのだ。 しかし、スーリヤは平静を保っていた。選ばれた2頭のキメラの前にしっかりと立ち、抑揚をつけ、クウクウと優しい 声を出し、バンのほうへ後ずさりした。イドゥンが茫然と見ている前で、2頭はスーリヤについていき、バンに乗り込み、 連中が用意した寝床に身を横たえた。間違いなく、積み込みには2分とかからなかった。 「けっこう」男は明らかに悔しそうな顔で言った。 「お宅の家畜たちはしつけが行き届いてますね、ダ・マタさん。きっと またお会いしますよ」 男は手下たちに合流し、スカイカーは飛び去った。 暴漢たちが行ってしまうとすぐに、スーリヤは怒りを爆発させて長い叫び声をあげ、それに反応したキメラたちは興奮 しはじめ、いっぽうイドゥンは泣きじゃくるティルデを抱きしめた。 「メゾン? SOSはどうなってるの? ナノドローンは? なに? 要撃中ですって? 待ち伏せしていたの? いった い誰が?」 スーリヤは首を振り、驚愕して目を見開き、AIの返事を聞くとまた冷静になった。 「そうなの? それなら、キャンセルしていいわ!」 スーリヤはしかし、希望を取り戻したようだった。イドゥンはスーリヤに事情をたずねた。 「オサインが私たちを守りたまわんことを! どういうことかしら。そう、救援を受けたのよ。民間のスカイカーが離陸と ほぼ同時に連中を追撃したの。願ってもないことよね? しかも地元警察からの情報によるとね、40 分以内に管轄区 内に入ってきた着陸機は1台もなかったっていうんだからなおさらよ。スカイカーの所有者は、カレン・エリジウムの甥の エリック・ストランド。気にかかる符合だわ」 「カレン・エリジウムの甥ですって?」イドゥンは驚いて息が詰まりそうになった。 「あの人、弁護士だと言っていたけど」 「弁護士よ。名刺にそう書いてあるし、嘘じゃないわ。どんな訴訟でも必ず勝つのよ。彼とどうやって知り合ったの?」 「パリからこっちへ来る道すがら、行く先々にあのふざけた男がいたの」 「ますます気にかかるわね……」 イドゥンは言葉巧みなエリックの言うことを真に受けて明らかに丸め込まれていた自分にうんざりして唇を噛んだ。この 失態に動揺していたイドゥンは、ノーティスが着信を知らせたとき、なにも考えずに応答していた。 エリックの顔が現れた。イドゥンは幸い、いつもノーティスへのアクセスに制限をかけていたので、エリックに見えて いるのはつるっとした虚像と、その後ろにあるきれいだけれど無難な背景だけだった。 「中継でお話しできませんか?」エリックはきいた。 「それからスーリヤさんにも同席願えますか? 彼女に関係のある話 なので」 「スーリヤのノーティスか自宅にかけたらいいじゃない」イドゥンはぶつぶつ言った。 「彼女、最近番号をぜんぶ変えてしまって、私はどれも知らないのです」 「たしかにね」スーリヤは皮肉っぽく肩を揺らし、認めた。 スーリヤはプロテウス社の幹部を困らせているのが嬉しくてしかたないようだったが、今はそれどころではない。接続 113 を許可する合図をし、イドゥンが中継をオンにした。エリックが送ってきた映像には、さっきのバンの1台が葦原の近く で屋根まで池に浸かっている様子が映っていた。 「もう片方のバンの追跡はあきらめました」エリックは説明した。 「私のスカイカーの赤外線スキャンでこのバンの積み荷 を調べました。キメラたちを優先的に助けたかったのです。不時着水のダメージは受けていませんでした。略奪犯たちも 無事です。まんまと逃げおおせたようです。岸辺が近かったですからね。私がキメラたちを解放しているあいだに、姿を 消しました」 「神様!」スーリヤは声を震わせて言った。 涙に濡れた頰が安堵に包まれた。 「スーリヤの番号を知らないのに、どうして家からのSOSにあんなに早く応答できたのか、説明してください」イドゥン はどうしても攻撃的な声になってしまうのを抑えられなかった。 「SOSはすべての周波数が対象なのですよ」エリックは笑った。 「そしてプロテウス社からは、あなたを見ているように 言われたのです」 「見ているって、監視するってこと?」 「カレンのやり方には全員が賛成していたわけではありませんでした。彼女は社長を解任ました。それから、こちらのキ メラたちがいっせいに脱皮したという特別な出来事が衛星によって露見したので、我々は警戒態勢に入ったのです。心 配でした、もっと迅速に手を打てばよかったと後悔しています。被害が出ましたか? 皮のことではなく。もちろん皮だっ て値段がつけられないくらい貴重なものですが」 「キメラが2頭射殺されたわ」イドゥンがため息まじりに言った。 「なんてことだ!」声を上げたエリックは心底打ちのめされた様子だった。 「これから我々は、あの残忍な虐殺者たちの身 元を突き止めるために総力を挙げます。さしあたって、スーリヤ、我々のほうではあなたを護衛させていただく用意がで きています。条件はありません。とにかく知っておいていただきたいのは、あなたがもしプロテウス社に戻ることを望ま れるなら、社長公認で、好きなように働いていただけるようにするということです。もう二度と干渉はいたしません」 イドゥンは肩をすくめた。 「そんなこと言ったってあなたはなんの責任も負わないじゃない、弁護士さん」 「そんなことありませんよ!」エリックは愉快そうに反論した。 「監査役会が開かれたところなのですよ。プロテウス社の 新社長をどうぞよろしくお願いします! どうぞこんどこそ、イドゥン、ディナーのお誘いを受けてやっていただけません か?」 イドゥンはびっくりしてうなずいた。 「スーリヤ、あなたもご一緒にいかがですか?」 その瞬間、水のほとばしる激しい音がして、濡れそぼった2頭のキメラがプールから飛び出し、プールサイドに這い上 がり、体をブルッと震わせたかと思うと、外皮がビリっと破れて、2頭は身をよじりながらそれを脱ぎ捨てた。 エリックは嬉しそうに大笑いした。 「流浪の民のご帰還ですね。私はひとまず失礼しますよ。それではまた今夜、ご婦人方!」 駆け寄って2頭のキメラを抱きしめ、喜びにむせび泣くスーリヤをイドゥンはそっとしておいた。一緒に再会を喜びたがっ ているティルデを引き止めた。殺された2頭を弔う時にも近づかせず、生き残ったキメラたちと遊ばせておいた。キメラ の亡骸は解体処分槽に移された。バイオマスの一部になって家の電力をまかなうことになるだろう。たしかにティルデは 心の健康を取り戻したが、これ以上むやみに死と接触させる必要はなかった。 「エリックの申し出をどう思う?」スーリヤとふたりで2頭の亡骸をリサイクル放水路に運び込んだあと、イドゥンはスーリ 114 ヤにたずねた。 「ちょっとタイミングがよすぎるなと思うわ」 イドゥンはいぶかしげにスーリヤを見た。スーリヤがチャンスをはねつけるなんて考えられないことだった。誰だって安 全と平穏が保証された環境で好きなように仕事がしたいのではないだろうか? さらに、寛大という言葉がキーワードに なった新しい時代に自分の知識を分け与えることを誰が拒むだろうか? 「本当のところは、なにを恐れているの? そんなにも美しく、力強く、毅然として見えるあなたが……。だけど、あな たのなかの奥深いところに、なにかを死ぬほど恐れて歯をがちがち鳴らしている小さな女の子がいる。もうそろそろ安心 してもいい頃じゃないのかしら。自信を取り戻したら?」 イドゥンが抱き寄せると、スーリヤは腕の中で、海藻とバニラの香りがするその大きな体を震わせた。こんなことをす べきではなかったのだろうか? スーリヤは体を離した。血で汚れたカフタンガウンを機械的にさすり、プールのほうへ 向かい、プールサイドでいっとき体を揺らしていた。それから、覚悟を決めたように、汚れたガウンを脱いで、水のなか に滑り込み、沈んでいった。 イドゥンは息を止めた。ばかげた反射だった。自分もスーリヤも昨日今日潜り始めたわけではない……。しかしスーリ ヤがあれほど意気消沈していなければ、イドゥンももっと楽に呼吸ができたはずだった。 大人たちが遊んでいるのだと思ったティルデが、大きな水柱を立てて自分も飛び込んで、見えなくなった。 わかったわ。イドゥンは腑に落ちたようにうなずいた。ふたりとも円蓋から外に出て池へ行こうとしてるのね。それな ら私も行くしかないじゃない。いささかの不安はあったものの、イドゥンは水の深みへ入り込んでいった。今日は、キメ ラと接触する危険はない。キメラたちはプールサイドにぐったりと横たわり、脱皮のストレスから回復しようとしている。 イドゥンはそのとき脚のあいだに誰かの頭が入り込んでくるのを感じて、恐怖のあまり思わず口を開いて叫びそうになっ たが、手をつかんできて嬉しそうに笑っているのがティルデだとわかって、手を引かれるままにした。 「ひどいわ」一緒に水から上がったとき、イドゥンはスーリヤに向かってぶつぶつ言った。 「怖くて背筋が凍ったわ。ま、 でもあなたはこれで気分転換できたでしょ。そろそろ覚悟を決めてくれるといいんだけど!」 スーリヤがサーフボードに寝そべり、腕を広げてくつろいでいるのを、ティルデもさっそく真似をした。 「見て、嵐に洗われたあの空の青さを。ラグーンが肌につける塩を味わい、太陽に熱せられた水の匂いを嗅いでごらんな さいよ。どうしたらこんなに素敵なことをぜんぶあきらめられると思う?」 「どうしてあきらめなければいけないの? 条件をしっかり決めておけばいいのよ。今までどおりメゾン・フルールで暮ら し続ければいい。ただし、近くにラボがあるような場所を選んでね。それから自閉症の子どもたちがあなたのキメラと触 れあえるような学校を設立してもらうように頼んでもいいわ。やってみないとわからないじゃない? 何回か機会をもうけ なければいけないかもしれないわね? でもあのすばらしいキメラたちが子どもたちの病を治せたらどうかしら。プロテ ウス社とあなたは単なる美の担い手じゃなくなるのよ! この上ない美的興奮に医療の要素を加えるの。キメラの皮は稀 少なものだからごく少数の選ばれた人たちのところにしか行き渡らないけど、キメラを育てる目的が美と贅沢だけではな くなるのよ!」 スーリヤは水に浮かんでうっとりしたまま、長いこと黙っていた。イドゥンがあきらめかけたとき、ティルデが立ち上がり、 不思議な歌を歌い出した。 115 大河のイモジャ 大海のイェマヤ わが水の美女 私の呼び声が聞こえるかい? 私の人生を果実で満たしておくれ、イェマヤ 私の望みを聞き入れておくれ、イモジャ わが水の美女 私の呼び声を聞いてくれ! 単語をひとつひとつはっきりと区切って発音しながら、捧げ物をするように両手をあげ、瞑想に耽ったような顔つきの ティルデ。その声、しぐさ、表情のすべてが、素晴らしい瞬間を作り出していた。他のことはどうでもいい、ティルデは治っ たのだ。 「素敵ね」スーリヤが言った。 スーリヤは腕を伸ばし、イドゥンのあごをとらえた。金色の輝きをたたえた褐色の瞳が皮肉っぽく光った。 「私からの提案を飲んでくれるなら応じてもいいわ。私がティルデの後見人になること。ティルデの教育は私が引き受け るわ。生物学か遺伝子導入の専門家にするの……もちろん、時期が来て、ティルデが合意すればの話よ。私のあとを 継いでもらうわ。自閉症だと言われていたあの子には、私があの子くらいの年頃にそうだったように、うちのキメラたち と心を通わせる能力があると踏んでいるの。ものすごい潜在能力を持っている予感がして、それを見過ごしたくないのよ。 なにかご不明な点は?」 感激のあまりなにも言えず、イドゥンが手のひらを上に向けて差し出すと、スーリヤがその手を叩き、合意が成立した。 その瞬間、ディアーヌがプールで跳ね上がり、自分もこの協定に参加するのだと伝えたいかのように、低くしわがれた声 で鳴いた。 女たち3人は大笑いした。 Joëlle Wintrebert ジョエル・ヴィントルベール 116 リュクスの新語 多国籍出版グループ Lexifrench レクシフレンチが紙媒体またはインターネット上の電子版で発行する辞書に収録され た néoluxe ネオリュクスのいくつかの言葉を紹介しよう。ちなみに、この出版社の名称レクシフレンチは、英語では単 にフランス製品を保護する言葉、あのばかげた「メイド・イン・フランス」と同様、ひんしゅくを買っている。 ARTIFACTUM アルティファクトゥム、男性名詞 ラテン語からの援用。 「人間の活動、技術、サヴォア・フェールによってつくられた」の意。自然および工業に対立する 言葉である。リュクスの製品はいまや職人の個人的創意を反映できる唯一のものとなった。このラテン語は、artefact アルテファクト(人工産物、人為構造)とは異なる意味を与えられた。アルテファクトは 20 世紀初頭に英語に取り入れ られ、アーティファクト、まず医学で人為的処置から生じるすべての影響を指す言葉となり、ついで、考古学や先史学 で、自然物からアルテファクトを区別する、すなわち人間の技術によって生まれた人工物(例えば削られた火打ち石)を 選別する、というような使い方をされるようになった。 これを artefait アルトフェまたは artifait アルティフェとフランス語化することもできただろうが、ラテン語のままが好まれ た。 用例:アルティファクタ(またはフランス語化してアルティファクトゥム)とは、芸術的営みから生まれるオブジェ、作品、 サービスを指す。それは創造性、革新性、そして特殊で個人的かつ正統的性格を表わす言葉である。工業製品の完成 度の高いしかし退屈な外見に比して、個人的創造の営みの痕跡がとどめられている。 BEL-ÊTRE ベルエートル、男性名詞 Bien-être ビヤンネートル(生活の質)をモデルにつくられた言葉。Bel は美を表わす。 2050 年代に出現したこの合成語は、美的な感覚と外見とによって示される客観的状態を指し、ビヤンネートルの主観 性に対応する。 用例:生来の遺伝的な肉体的美を越えて、ベルエートルは誰もが感得できる特別なステータスを構成する。この名詞を 獲得した者は、自然の美に加えて芸術的営為による美の持ち主とされる。ベルエートルに到達するためにはリュクスが 必須である。 この言葉はカナダフランス語できわめて一般的である。 117 CALLIPHORE カリフォール、形容詞 ; CALLIPHORIE カリフォリー、女性名詞 古典ギリシャ語の「美」 (kallos)と「〜を帯びた」 (動詞 pherein)から合成された言葉。 形容詞はいかなる種類のものであれ、美をまとう、または美を伝えるものに冠せられ、名詞は美を伝える活動を意味する。 用例:美のあらゆる種類の感覚と感動を伝えることができる活動、オブジェ、作品およびその作者はカリフォールと称 される。カリフォールとみなされることは、リュクスの製作者にとっては名誉なことである。カリフォリーは芸術と芸術家、 一部の職人と職人技を指す。このふたつの言葉における -phore フォールは普及と商業活動を表わしている。 ギリシャ語の eu-(良い)と上記の -phorie を合成した Euphorie ユーフォリー(幸福感)が、ビヤンネートルや、ときと してベルエートルおよび幸福を構成する言葉であるのは偶然ではない。 C.M.C. または CMC、男性名詞 愛好者の世界的サークルの略称。2010 年から 2020 年代にかけて現われた表現。電子機器の発達によって愛好者の グループがそれぞれの居住地にいながら一堂に会し、特にリュクスのビッグブランドの製品について各自の経験を交換し あうことから始まった。 用例:C.M.C.(または CMC)は、あらゆる国籍、民族、文化、年齢(ただし、ワインやアルコールのような成人向け 製品は除く)の男女からなるメンバーで構成する。彼らが集うのは、博学の愛好者、情熱的玄人というステイタスのせいだ。 EXTASIE エクスタジー、女性名詞 Extase エクスターズに比べると新しい言葉であるが、実は非常に古い最初の言葉への回帰なのである。13 世紀から14 世紀にかけて、自分自身からの解脱感覚を体験する神秘的な状態を表わすのに、ラテン語からとられた宗教用語が用 いられた。もともとギリシャ語の動詞 ex-histonai(外に置く)に由来する言葉である。偉大な神秘主義者たちによって 行われた宗教的恍惚は、魂を天に引き上げ、神に近づける法悦の状態である。 ところで、数十年前から、神経科学の進歩により、リュクスのブランドによって開発された「非物質的」 (immatérialiste の項目を参照)製品を使って、かつては味わうことのできなかった感覚に到達する方法が編み出された。エクスターズ に比して世俗化したエクスタジーは、ランボーを始めとする昔の多くの詩人たちが夢見たような通常の感覚を超越する悦 楽の状態を現出させる。 しかし、この言葉を英語からの借用で使われている ecstasy エクスタシーと混同してはならない。これは 20 世紀末には やったドラッグを指す言葉である。それは人為的に、危険な常習性のある状態をつくりだす、いわば嘘の「エクスターズ」 だからだ。 FORMOSE フォルモーズ、形容詞 1065 年頃、ラテン語の formosus フォルモーススから取られた言葉。Forma フォルマすなわち「形」に由来するこの言 葉は、肉体的な美を表わしながらも、それが必然的にエレガンスをも内包することを示している。副詞としてのフォルモー ズは「エレガントに、チャーミングに」を意味していた。 118 語源論にしたがって、フォルモーズは自然なエレガンスと魅力の含意を有し、この点において同じ美を表わす beau ボー、 belle ベルと異なるのである。例えば、こういう表現をすることができる。 「このドレスといい、このアクセサリーといい、 単にベル(美しい)だけではなく、ほんとうにフォルモーズだ」あるいは「彼は自分のアパルトマンをフォルモーズな雰囲 気でまとめた」 この言葉はその意味にふさわしく文学的であり、貴重でもある。最上級の formosissime フォルモジシム(ラテン語にも 相当する言葉があった)も用いられる。また女性名詞として formosité フォルモジテがある。 IMAGIQUE イマジック、形容詞 比較的最近はやりはじめた混成語である。形容詞 magique マジックの一部が image イマージュ(像)の概念によって 吸収されたもの。image に -ique の接尾語がついたものと勘違いしないこと。 イマージュ本来の意味からのイメージと意味を強調されたマジックとが相まって、この言葉に優れた資質をもたらしてい る。それは目に見えると同時に精神的な資質である。古代ペルシャで生まれた mage マージュ(魔術師)はギリシャ語 を経由してラテン語の imago イマゴとなったが、それは魔術師の秘密には到達しえなかったものの、子孫であるフランス 語よりは豊かな意味合いを有する言葉であった。このラテン語は、現実であれ夢想であれ、あらゆる外観を表わす。そ こには霊魂、幻、幽霊の外見までもが含まれたのである。ラテン語の複数形 imagines イマジネスは、演説の「人物像 たち」という使われ方もした。つまり、隠喩として 「イメージづくり」を担ったのである。ギリシャ語から取った接尾語を使って、 「彼女たちはimagiphores イマジフォールだ」という表現もできる。imagination イマジナシオンからimagerie イマジュリー そして imaginaire イマジネールにいたる素晴らしい系譜のこの言葉は、魔術師たちと出会うためにつくられたのである。 イマージュそのもの、またはイマージュを生みだすもので、芸術的行為により超越性と夢とをもたらすものはすべてイマジッ クと形容される。イマージュはしたがって、現実でありながら外観を超越した世界のしるしであり、それはリュクスの効果 に近接する。例えば、rêver-vrai レヴェ・ヴレ(夢見る本物)がそれに当たる。注意:この言葉をフラングレ(フランス 語化した英語)の e-magique と混同しないこと。これはインターネット上のまがい物のマジックか、マジックに関する 電子版コンテンツのことで、ときに詐欺的なものもある。 IMMATÉRIALISTE イマテリアリスト、形容詞 15 年ほど前に immatériel イマテリエルから派生したこの形容詞は、稀少物質を連想させる新たな感覚を仮想経路を使っ て伝達しようという一部のリュクス企業による研究について用いられた。 用例:イマテリアリスト技術および方法は、あまりに稀少なために直接に接することのできないような感動の源泉を有す る環境や喜びを創出するためのものである。 INSTÉTERNEL, ELLE〔女性形〕アンステテルネル、形容詞 形容詞 éternel エテルネル(永遠の)に名詞 instant アンスタン(瞬間)を載せてつくられた混成語。アンスタンはラテ ン語から来た「切迫した」を意味する古い形容詞とほぼ同じ意味で、ラテン語では近づくという意味の動詞 in-stare イ ン - スタレに由来する。そこから「時間の少なさ」という意味が生まれた。反対は終わりなき永遠の時間である。ところ 119 で、リュクスがもつ大きなパラドックスのひとつは、信頼性の高い方法と受け継がれてきた実践とによって即時的な感興 を呼び起こす一方で、強烈なしかし一瞬の感動をつねに新たにしながら伝えていくことができるような耐久性のあるオブ ジェをつくることである。リュクスは瞬間を更新しながら、時間の長さに耐えることができるのである。 この合成語では、永遠の概念は隠喩的であり、そこに示されるのは単に人間の尺度での時間の長さまたは豪華な瞬間 の長い記憶にすぎない。だから、人はアンステテルネルな食事あるいは夕べと表現する。それは「記憶に残る」より多 くのことを語っている。名詞化したアンステテルネルは、美食からジュエリーまで、また過去の実績で価値を認められた 耐久性のあるオブジェから記憶に値する感動までを網羅するリュクスのひとつのカテゴリーを示す。 形容詞 éternel エテルネルの使用が原点への回帰を意味することに注目したい。古典ラテン語の aeviternus アエウィテ ルヌス(一生続くもの)、aevus アエウス(年齢、寿命)はのちに aeternus アエテルヌス(永遠)となり、絶対的価値観を、 ついで宗教的価値観を獲得した。結局、エテルニテ(永遠)は、 「人間の命の長さ」の概念から来ているのであって、 「終 わりのない時間」ではない。だが人生はほんの一瞬の長さであることは、古代の賢人たちが繰り返し述べてきたことで ある。だから、この新しい合成語は見かけのパラドックス、リュクスのパラドックス自体を示しながら、現実そのものを 提示しているのである。 INTIPLANÉTAIRE アンチプラネテール、形容詞 この形容詞はかなり重々しく (その意味では intimondial アンチモンディアルの方を選ぶべきだったかもしれないが 2)リュ クスのもうひとつのパラドックスを明らかにしてくれる。リュクスが個人的で私的な感動と喜びをつくる一方で、普遍的 価値をも保ちつづけることである。 「プラネット」 (地球)への参照が意味するものは、地球以外での人間の施設はいま だ例外的、実験的段階にあり、メディアが何と言おうと、地球上での人の住まいの認識にはまったく影響がないという 事実である。 intime アンチーム(私的な)と planétaire プラネテール(地球規模の)のふたつを組み合わせたこの言葉は、全人類的、 普遍的側面と個人的、私的側面とをあわせもった感動と喜びの特徴を示している。この特徴こそ、まさにリュクスの作 業によって成し遂げられるものなのである。 用例:アンチプラネテール的現実が自然に生成されることは稀で、むしろそれは多くの場合リュクスのアートと技術をと もなう文化的な所産である。 この言葉はプロクシモンディアル(Proximondial の項目参照)よりも一般的かつ抽象的である。 NOVENTIQUE ノヴァンティック、形容詞および男性名詞 この言葉は、innover イノヴェ (革新する)と nouveau ヌーヴォー (新しい)の語基 nov- および authentique オートンティッ ク(正統的)の語尾を組みあわせてつくられた。 革新性と新しさを一方に、絶えず改良を重ね受け継いできたサヴォア・フェールの伝統に基づく正統性を他方に、これ らのあいだの親密な協調関係を伝える言葉である。 用例:ノヴァンティックなオブジェやサービスは、伝統と前衛の概念を両立させる。ノヴァンティックの探求は、受け継 ぎ刷新される才能と結びついた個人的創造性の上に遂行される。 120 ORBIQUITÉ オルビキテ、女性名詞 Ubiquité ユビキテ(遍在)にラテン語で「円」を意味する orbs, orbis を合成してつくられた言葉。このラテン語の言葉 は天文学用語として、とりわけ黄道帯の円についてと、orbis terrae オルビス・テッラエ「円の大地」の表現に用いられ た。オルビス・テッラエは globus グロブス「球」と対立する概念で、平板な地球が信じられていた時代の名残りである。 このラテン語はローマ法王の祝福の言葉として、今でもフランス語に受け入れられている。urbi et orbi ウルビエトルビ「都 (ローマ)と世界に」がそれである。Ubiquité ユビキテはラテン語の ubique ウビークェ「いたるところ」から取られ、神 学において神の特性のひとつである遍在性を表わすのに用いられる。この概念には絶対的、普遍的性格が付与された のはそのせいである。19 世紀の哲学は、これに uchronie ユクロニー〔ありえない時⇒歴史改変〕という時間的概念を 加えた。 しかし、抽象的にではなく「人間の地 球」上での遍在を語るためには、orbiquité オルビキテおよびその派 生語 orbiquitaire オルビキテールが適している。 用例:工業的に再生産される作品やオブジェにオルビキテを獲得することは、リュクスの職人技の目的のひとつである。 PROXIMONDIAL, ALE, AUX、プロクシモンディアル、形容詞 ラテン語の最上級 proximus プロクシムス「最も近い」から取った proxi- とフランス語の mondial モンディアル (世界的) とを合成した言葉。proxi- はラテン語から来たフランス語 proximité プロクシミテ(近さ)でよく知られているが、一方で 近いという時には、proxime プロキシメ ではなく proche プローシュと言う。 フランス語で「最も近いもの」という表現は厳密さ、あるいは正確さへの近さを意味する 3。生活に適した環境であるこ の地球にあって、カオスとは一線を画し、それに対立する一定の秩序があるからこそ、厳密さは人間世界に通用する言 葉なのである。これがラテン語の mundus ムンドゥス(世界)が意味するところである。古典ギリシャ語でこれに相当す るのは kosmos コスモスで、フランス語や他の言語に取り入れられて「天地万物」を意味する言葉になった。 従来のフランス語で“proximité mondiale” (世界の近さ)という時、それは個人であり、人格であり、子供、大人、年 寄りであり、男であり女であり、かつ哺乳綱霊長目の生き物たちを代表する生ける人間存在の条件を規定する言葉であ る。具体的な経験に照らすなら、感じ、体験するのは個人であり、人格である。防御本能と攻撃的衝動、無知と偏見 を乗り越えて、人間の普遍性を際立たせることは困難な仕事である。これを成し遂げるのは、芸術、文学、詩歌、音 楽とともに科学と哲学である。さらに具体的には、リュクスの発展とその共有のための活動、そしてそれと密接に関連 する創造と知恵の活動である。数年前から使われるようになったこの形容詞が表明するものは、まさしくひとりの個人 から全体的ヒューマニズムへとつながるこの二重の軌道のことなのである。 用例:プロクシモンディアルな作品やオブジェは、普遍的人間への覚醒を促す。それは、生活のリュクスにつながる喜 びと感動のプロクシモンディアルな本質を具象化したものだからだ。 121 RÊVER-VRAI レヴェ・ヴレ、男性名詞 動詞 rêver レヴェ(夢見る)の不定型と形容詞 vrai ヴレ(本当の)から成る言葉。到達不可能と思われる領域に誰でも が容易に近づけるようにしたいという欲求を表現する。 用例:レヴェ・ヴレの職人技および工業はリュクスのそれにかなり似ている。レヴェ・ヴレは現実で、知覚でき、感じる ことができる。それは夢想ではなく、バーチャルの具象化なのである。 これは集合名詞なので、あるカテゴリーのオブジェやサービス全体に適用される。特殊なひとつのものを指すことはなく、 また複数形を用いることもない。これは微妙なつづりの問題を回避させてくれる。 最近は、luxe リュクスという言葉自体を使って、いくつかの合成語が現われてきた。INTERLUXE アンテールリュクス および INTRALUXE アントラリュクスとそれぞれの形容詞は、前者がリュクスの活動そのものに関すること(intra-)、 後者がリュクスと一定の近接分野、例えば快適産業、娯楽産業、外食産業、単純食品と高級食品などとの関係に関わ ること(inter-)にそれぞれ用いられる。 TRANSLUXEトランスリュクスはあらゆるリュクスの生産活動がしだいに帯びてくる普及と伝達の側面を強調する言葉 である。一方、PÉRILUXE ペリリュクスはリュクスの周辺製品―本物のリュクスには届かないもののその近接製品―全 体を漠然と指す言葉である。ただし、これは価値観の問題をともなうために、往々にして主観的で論争の種になりうる。 取り扱いには注意を要する。危険だからといって、この言葉の流行を止めることはできない。 「あそこで食べて泊まったっ て? リュクスとは言えないなあ。せいぜいペリリュクスだ!」といった具合。PANLUXE パンリュクスは、普遍的なリュ クスを指す言葉。 派生語に関しては、動詞 LUXIFIER リュクシフィエが「ある製品にリュクスとしての性格を付与する」という意味で使わ れる。製品を改善し、常により多くの消費者が量ではなく「少なくても、より良いもの」を大切にするようにとの含意で ある。 リュクス教育を表わす合成語も無意味ではないだろう……LUXAGOGIE リュクサゴジー。 Alain Rey アラン・レイ 122 あとがき ユートピアファクトリー この作品はフランスの高級ブランド各社が乗り出した挑戦の成果です。私たちは明るい未来を想像しながら共同ユー トピアを作り、2074 年を夢想してみました。 60 年後の 2074 年、カッサンドラーによる予言は日々、悲観的なものばかりですが、私たちはどんな世界が生まれ るのを夢見ているのでしょう。中世の時代からフランスを象徴してきたこのレヴェ・ヴレ「rêver-vrai(夢見る本物)」を生 み出す産業、リュクスの他に、より明るい未来に必要な楽観主義を提供できる適任者はいるでしょうか。 すでに 60 年もの間、フランス高級ブランド各社はコルベール委員会の組織内において、共に考えるということを習 得してきました。一歩外に出れば競争相手であっても、組織の中では互いに協力しあうことをいとわず、意見を交換し合 い、敬意を抱き合い、それぞれが切磋琢磨し合う、こうした古くからのしきたりがあってこそ、今皆さんが読み終えたペー ジをそれぞれの才能のきらめきで照らすことができたのです。 ユートピアファクトリーの冒険は 2013 年4月に始まりました。各ブランドが 2074 年への夢を構想し、その夢を、5 つの言葉と1枚の画像と簡単な文章にして表現しました。 各社から集められたこの夢の資料は、およそ 250 の言葉、100 の画像と文章から成り、全てのメンバーによって共 有されました。そして 2013 年 9 月から12 月のあいだに 10 回にわたる制作所のワークショップが行われ、コルベール 委員会の考え方に沿って、分析、議論を重ね、質を高めてきました。 この間、6人の SF 作家6人とひとりの作曲家が、リュクス業界の舞台裏に潜り込みました。おかげで彼らは業界の 実情、緊迫感、創造性そしてフランス文化にいかに深く根付いているかを理解し、制作所で進行中の夢の神髄を形作る パラドックスについても実感として把握することができたのです。 ブランド同士のデリケートな世界で共に過ごす数日間は、また違った性質の経験となりました。すなわち共同作品を 作り上げるという経験ですが、そこでは、他の人たちの個性と交わり合いながらもひとりひとりの個性が大切にされ、自 分のものであると同時に共同作業としての作品を生み出して行ったのです。 10 回目のユートピア制作所ワークショップではコルベール委員会に加盟している各ブランドや各機構のトップが集い、 123 以下の通り、フレンチリュクス共同ユートピアの綱領をまとめました。 逆説をはらむ 2074 年のリュクスは、先駆者として永続もし、ローカルにも世界にも通用し、私的なものでありながら 社会的で、オーダーメイドであると同時にすべての人に共有され、物質の世界と精神の世界が共存。こうした相反する ふたつの要素が生み出す力関係が創造性を引き出して行くのです。 人間的価値観の保持者であるリュクスは、2074 年の社会において重要な役割を担います。 伝達の義務。ノウハウ、価値、フランス的感性を最大限に伝達していく義務。 知性の義務。私達のしていることに意義を与え、人々の、知りたいという意欲をかきたてます。 つながりの義務。職人の手から利用者の手へ、共に働く人々、暗黙の了解を築きながらひとりひとりを≪結びつけます≫。 リュクスは共有、愛他精神、混在の未来にたどり着くでしょう。同時に、すべてが加速しながらグローバル化していく 世の中で、リュクスは絶対的に本物であり、オリジナルで、個の幸福空間を保証するものであり続けるでしょう。リュク スに影響を与える変容は、技術工学よりはるかに社会学的(生活様式、考え方の変化)です。 2074 年はかつてないほどに、リュクスは美的関心事として定義されます。 人、物、思想、振る舞いの美しさ、優雅さ。こうしたものがリュクスを構成し、社会の更なる透明性がリュクスに倫 理学的及び審美的な規範の役割を与えていきます。それは、それに見合った高度な要求に常にさらされることを意味し ます。18 世紀からそうであったように、常に更なる品質の工場を目指し、美的感動のために尽くしていくことです。 脱物質化が大幅に進んだ生活環境の下、物質世界と精神世界のあいだの緊張感が、2074 年のリュクスを構築する 核心部分となります。 物質世界はリュクスにとって「在庫切れ」の要素となりえます。質の良い原材料が底をついたことが改革の第一の原 動力となり、新素材の開発、既存素材への新たな特性の加味、また、使用量を削減するための新しい作業方法の開 発などをもたらします。 しかし≪美しい素材≫をよりどころにしていく限り、リュクスは精神世界においても常に画期的であろうとします。すな わち、リュクスとはなによりも 2074 年の夢の考案者なのです。よってリュクスは感覚的体験の起源となり、その多くが 脱物質的であり、そのためにこれまでリュクスは長期に渡り、感覚の発達や人間の社会環境への適応に注目してきたの です。 逆説を楽しく利用しつつ、リュクスはこれからも物質世界に磨きをかけていきますが、未来を見据えているのは、外観 と内面のパラダイムシフトを伴った精神世界の価値です。2074 年、リュクスは存在のありかたとなっています。 リュクスとはつまり、ローカルでありグローバルなのです。なぜなら、私たちの生きる世界が地球規模、宇宙規模に なればなるほど、≪自然の≫≪真の≫といった原点が重要になってくるからです。また、偏在性や即時性がますます普及 する 2074 年は、アイデンティティ、愛着、喜びが更に確立されます。ユートピア制作所のリュクスは、光り輝き、着 想あふれるフランスの生まれであり、リュクスは多様性に富むローカルのノウハウや素材も全面に押し出していきますが、 それはフランスだけではなく世界中の他の場所でも、仲間意識を伴って広がっていきます。 この共同ユートピアはフランスのリュクスによって想像され、作家や作曲家の手に渡され、様々な夢の断面が互いの 124 作品中に錯綜するという性質を持つ共同作品を生み出しました。 アラン・レイはこのユートピアを、フレンチリュクスを表す 14 の新語に表現しました。これらの言葉は 2074 年のし かるべきすべての辞書に載ることでしょう。 ロック・リヴァのモンタージュは、2074 年には永遠のものとなり、さらに広がりを見せているリュクスの繊細な彩り をユートピアに与えています。 サマンサ・ベイリー、ジャン = クロード・デュニャック、アンヌ・ファクーリ、グザヴィエ・モメジャン、オリヴィエ・パケ、 ジョエル・ヴィントルベールはユートピアに物語形式を付与し、そこにはそれぞれの感情が力強く表現されています。 今、ユートピアは≪制作済≫となり、現実となるのを待つだけとなりました。読者の皆さん、これからはあなただけの 物語を描く番です! 125 著 者 この作品は、ユートピアファクトリー、作家たち、そしてひとりの作曲家を通して、コルベール委員会の加盟メ ンバーが共同で作り上げた作品です。 ALAIN DUCASSE AU PLAZA ATHÉNÉE http://www.alain-ducasse.com/fr/restaurant/alain-ducasse-au-plaza-athenee BACCARAT http://www.baccarat.jp/ SAMANTHA BAILLY http://www.samantha-bailly.com サマンサ・ベイリー 1988 年生まれ。処女小説「Oraisons オレゾン(祈り)」は著者が 19 歳のときに出版され、2011 年度イマジ ナル賞リセエンヌ部門を受賞。比較文学修士号及び出版職業修士号を取得、2 年に渡りビデオゲーム会社の編集 者を務める。彼女にとって執筆は、知的好奇心と創作意欲が引き寄せられ集結する中軸点であり、そこに、社会 学、神経科学、モードなど様々な分野への熱意を共在させている。 ファンタジー小説、現代小説の作家として、空想を呼び起こすあらゆるジャンル間を巧みに渡り歩く。リュクス の世界へは足を踏み出したばかりだ。 Métamorphoses, éditions Bragelonne, 2014 Les Stagiaires, éditions Milady, 2014 Souvenirs Perdus (3 tomes), éditions Syros, 2014 Oraisons, L intégrale, éditions Bragelonne, 2013 Ce qui nous lie, éditions Milady, 2013 À pile ou face, Éditions Rageot, 2013 BERLUTI http://www.berluti.com/ja BERNARDAUD http://www.bernardaud.jp/ CHAMPAGNE BOLLINGER BONPOINT http://www.bonpoint.jp/ BOUCHERON http://jp.boucheron.com/ja_jp/ BREGUET http://www.breguet.com/jp BUSSIÈRE http://www.bussiere.fr/ CARON http://www.parfumscaron.com/ CARTIER http://www.cartier.jp/ 126 CÉLINE https://www.celine.com/jp CHANEL http://www.chanel.com/ja_JP/ PARFUMS CHANEL http://www.chanel.com/ja_JP/ CHÂTEAU CHEVAL BLANC http://www.chateau-cheval-blanc.com/ www.champagne-bollinger.com CHÂTEAU LAFITE-ROTHSCHILD http://www.lafite.com/ja/ CHÂTEAU D YQUEM http://www.yquem.fr/ CHLOÉ http://www.chloe-fragrance.jp/ CHRISTIAN DIOR COUTURE http://www.dior.com/home/ja_jp PARFUMS CHRISTIAN DIOR http://www.dior.com/home/ja_jp CHRISTIAN LIAIGRE http://www.christian-liaigre.fr/fr/ CHRISTOFLE http://www.christofle.com/jp-ja COMITÉ COLBERT www.comitecolbert.com コルベール委員会 1954 年に設立されたコルベール委員会は、フランスの高級ブランド 78 社と 14 の文化機構が加盟しており、 フランス文化とフランス流ライフスタイルを世界に広めるために尽力している。 コルベール委員会に加盟する高級ブランド各社は同リュクス界の 12 の異なる部門を代表し、革新と真実性の価 値を共有し、フランスのイメージを象徴しつつ、経済の発展とそれぞれの部門の世界進出に貢献している。 DALLOYAU http://www.dalloyau.co.jp/ DELISLE http://www.delisle.fr/en/japonais/ DIANE DE SELLIERS EDITEUR http://www.editionsdianedeselliers.com/ JEAN-CLAUDE DUNYACH http://www.dunyach.fr ジャン = クロード・デュニャック 1957 年、トゥールーズに生まれる。彼の職業人生は明確な趣旨を持つロックバンド(ワールドマスターズ)の ギタリストから始まり、語り手、様々な分野の作詞家、トゥールーズのセックスショップのオーナーを一週間(彼 によれば著者略歴に記す為の最低限の期間)努める。 作家、作詞家、サイエンスフィクションのコラムニスト、選集者を次々と兼任し、2005 年までフランス語圏の フィクション雑誌『ギャラクシー(Galaxies)』の責任者を、そして 2009 年に執筆へ再度専念するため退任し た『ブラジュローヌSF(Bragelonne SF)』シリーズのディレクターを務めた。イマジネール賞グランプリ(Grand Prix de l Imaginaire)の審査委員でもある。 80 年代初めよりサイエンスフィクションを執筆。そして空き時間を有効に活用するため、航空研究技師として も活動する。 Le jeu des sabliers, Folio SF, 2012 Les Harmoniques célestes, Éditions l Atalante, 2011 127 Déchiffrer la trame, Éditions l Atalante, 2011 Étoiles Mortes, J ai lu, 2000 Étoiles Mourantes avec Ayerdhal, J ai lu, 2003 ERCUIS http://ercuis.fr/ ERES http://www.eres.fr/ FAÏENCERIE DE GIEN http://www.gien.com/boutique/index.php?___store=french ANNE FAKHOURI アンヌ・ファクーリ パリ生まれのアンヌ・ファクーリは、様々な国に暮らしたあと、パリへ戻ってくる。 世界中を駆け巡るコスモポリタンな父は、バハマやアメリカ合衆国、レバノン共和国からアラブ首長国連邦まで 娘を旅させた。一方、フランス語教師である母はアンヌに書棚を開放し、コレットが名付けた「不動の旅行家 une voyageuse immobile ユンヌ・ヴォワヤージューズ・イモビル」へと娘を成長させてゆく。 ルイス・キャロル、ヴィクトール・ユーゴ、イギリス文学に魅されたアンヌは、彼女の非常に古典的な教養を生 かすべくソルボンヌ大学へ進み、そこでもうひとつの情熱でもある中世文学を専攻、その後、中学校のフランス 語教師を務めるようになる。 2008 年、アタラント出版社より、青少年向けの処女小説「Le Clairvoyage ル・クレールヴォワヤージュ」と「La Brume des Jours ラ・ブリュム・デ・ジュール」の2巻を刊行、2010 年度イマジネール賞グランプリに輝く。 その後小説を 4 作、短編小説を 12 作品ほど執筆、想像力という境界のないこの世界のあらゆる道のりの探求に 向け、大人と青少年のために執筆を続ける。 L Horloge du temps perdu, l Atalante, 2013 Hantés, Rageot, 2013 Narcogenèse, l Atalante, 2011 La Brume des Jours, l Atalante, 2009 Le Clairvoyage, l Atalante, 2008 FLAMMARION BEAUX LIVRES http://www.groupe-flammarion.com/ EDITIONS DE PARFUMS FREDERIC MALLE http://www.frederic-malle-paris.fr/ GEORGE V http://www.fourseasons.com/paris/ GIVENCHY http://www.givenchy.com/jp/ PARFUMS GIVENCHY http://www.parfumsgivenchy.jp/ GUERLAIN http://www.guerlain.com/jp/ja LE RESTAURANT GUY SAVOY PARIS http://www.guysavoy.com/ja/ HÉDIARD http://www.hediard.fr/ HERMÈS http://japan.hermes.com/ PARFUMS HERMÈS http://japan.hermes.com/ 128 HERVÉ VAN DER STRAETEN http://www.vanderstraeten.fr/ HÔTEL LE BRISTOL http://www.lebristolparis.com/ HÔTEL DU PALAIS http://www.hotel-du-palais.com/web/hdp/hotel_du_palais.jsp HÔTEL PLAZA ATHÉNÉE http://www.dorchestercollection.com/fr/paris/hotel-plaza- athenee-paris HÔTEL RITZ http://www.ritzparis.com/ja-JP JEAN PATOU PARIS http://www.jeanpatou.com/ JEANNE LANVIN http://www.lanvin.com/#/jp/news L ATELIER DE JOËL ROBUCHON ÉTOILE http://www.robuchon.jp/latelier JOHN LOBB http://www.johnlobb.com/jp/ CHAMPAGNE KRUG https://www.krug.com/jp LACOSTE http://www.lacoste.jp/ LANCÔME http://www.lancome.jp/ LE MEURICE http://www.dorchestercollection.com/en/paris/le-meurice LENÔTRE http://www.lenotre.com/ LEONARD http://www.leonard-paris.jp/ LONGCHAMP http://jp.longchamp.com/ LORENZ BÄUMER JOAILLIER http://lorenzbaumer.com/fr/home LOUIS VUITTON http://jp.louisvuitton.com/jpn-jp/homepage LA MAISON DU CHOCOLAT https://www.lamaisonduchocolat.co.jp/ MARTELL http://www.martell.com/ XAVIER MAUMÉJEAN グザヴィエ・モメジャン 1963 年、ビアリッツ生まれ。哲学と宗教学の資格を持ち、編集者、作家、随筆家として活動。作家や推理小説 の批評家が集うクラブ・デ・マンディアン・ザマトゥール・ド・マドリッド及びコレージュ・ドゥ・パタフィジッ クのメンバー。ジャンル分け不可能な小説やフィクションに登場する人物の伝記の執筆のほか、テレビや映画の 仕事に携わる。フランス・キュルチュールのラジオ放送用に多数のオリジナル作品や脚色作品を提供している。 American Gothic, 10/18, 2014 Rosée de feu, Folio SF, 2013 Steampunk, art book en collaboration avec Didier Graffet, Le Pré aux clercs, 2013 Hercule Poirot, une vie avec André-François Ruaud, Les Moutons électriques, coll. Bibliothèque rouge, 2012 MELLERIO DITS MELLER http://www.mellerio.fr/jap/ OUSTAU DE BAUMANIÈRE http://www.oustaudebaumaniere.com/fr/accueil OLIVIER PAQUET オリヴィエ・パケ 1973 年生まれ。オリヴィエ・パケは好奇心のかたまりだ。星に、政治学に、そしてマンガ(雑誌リュクス・モー 129 ド・アート主催による日本の高級品についての記事やシンポジウムにて見受けられたとおり)に夢中。1999 年、 雑誌『Galaxies ギャラクシー』の紙面に初めての作品を発表、匂いによるコミュニケーションを題材にした短 編小説 Synesthésie シネステジが 2003 年度イマジネール賞グランプリを受賞。 2006 年よりフランス・キュルチュールの放送番組 Mauvais Genres モヴェ・ジャンルに出演し、日本のアニメ やマンガについて語る。アタランタ出版に近日発表したスペースオペラ三部作 Le Melkine ル・メルキンヌは、 未来の歴史に刻み込まれる作品だ。 Le Melkine (3 tomes), L Atalante, 2012-2013. Les Loups de Prague, L Atalante, 2011. Structura Maxima, Flammarion, 2003. CHAMPAGNE PERRIER-JOUËT http://www.perrier-jouet.com/jp-ja/ PIERRE BALMAIN http://balmain.co.jp/brand/ PIERRE FREY http://www.pierrefrey.com/ PIERRE HARDY http://www.pierrehardy.com/ PIERRE HERMÉ PARIS https://www.pierreherme.co.jp/ POTEL ET CHABOT http://www.poteletchabot.com/ PUIFORCAT http://www.puiforcat.com/fr COGNAC RÉMY MARTIN http://www.remymartin.com ALAIN REY アラン・レイ 1928 年、クレルモン・フェラン近郊のポン・ドュ・シャトー生まれ。アラン・レイは 1952 年よりポール・ロ ベール編発行のフランス語大辞典に協力、その後 1958 年から 1964 年にかけて編纂の指揮を執る。彼はフラン ス語歴史辞典をはじめ数々の辞書の主要な著者であり、プチ・ロベールの共著者にジョゼット・レイ・ドゥボー ブが、そして 2008 年に出版されたフランス語文化辞典の共著者としてダニエル・モルヴァンの存在がある。さ らにアラン・レイは、リトレ・ルマニスト・エ・レ・モ Littré, l humaniste et les mots(ガリマール 1970 年、 サントゥール賞)、レボリュション・イストワール・ダン・モ Révolution, histoire d un mot(ガリマール 1989 年)、 アントワンヌ・フルティエール・アン・プレキュルスール・デ・ルミエール Antoine Furetière, un precurseur des Lumières(ファイヤール 2010 年、アカデミーフランセーズ伝記賞)、レ・スペクトル・ドゥ・ラ・バンド・ エッセ・スール・ラ・BD Les spectres de la bande, essai sur la BD(ミニュイ出版 1978 年)、ミロワール・ ドュ・モンド・スール・ロンシクロペディスム Miroirs du monde, sur l encyclopédisme(ファイヤール 2007 年) といった著作物も数多く出版している。 1993 年から 2008 年にかけてフランス・アンテールのコラム番組担当者を務め、言葉に関する多くの記事(ガ リマール、ロベール・ラフォン、ファイヤール…)、フランス語に関わる数々の著作(ドゥノエル、ガリマー ル、ペラン)を出版、新刊書では Des pensées et des mots デ・ポンセ・エ・デ・モ(エルマン 2013 年)、 Le Dictionnaire amoureux du Diable ル・ディクショネール・アムルー・ドュ・ディアーブル 2013 年(Le Dictionnaire amoureux des dictionnaires ル・ディクショネール・アムルー・デ・ディクショネールに続き、共 にプロン出版より )、ラサアード・メトゥイの創作書道と共に書き綴った Le Voyages des mots de l Orient 130 vers la langue française ル・ボワヤージュ・デ・モ・ドュ・ロリオン ベール・ラ・ラング・フランセーズなど がある。 2011 年、アラン・レイはコミテ・コルベールと共に二か国語書籍 Au cœur du luxe, les mots オ・クール・ドュ・ リュクス、レ・モの共同執筆に携わる。 ROQUE RIVAS ロック・リヴァ 1975 年、チリのサンティアゴ生まれ。ジャズミュージシャンとして社会にデビューする。サンティアゴ国立音 楽学校にて修学、リヨン国立高等音楽舞踏学校のちにパリ国立高等音楽舞踏学校にて電子音響制作や情報音楽を 学ぶ。 2006 年から 2008 年まで、フランス国立音響音楽研究所において2年間の作曲及び情報音楽課程を修める。 ミックスミュージック(電子)の専門家であるロック・リヴァは、音楽の想像世界をより豊かにするため異質な 音響源の調合と並列を積極的に実践する。他にも、近代建築や文学にも強い関心を持つ。数々の作品をランサン ブル・アンテルコンタンポラン、ル・ロンドン・シンフォニエッタ、ランサンブル・イクトゥス、ルミックス・ アンサンブルの為に作曲。彼の作品は名高いイベントや数多くの美術館に於いて、世界を通じて紹介された。 * ミックスミュージック:生楽器と電子サウンドを融合させる音楽 Threads, pour deux danseurs et électronique, 2012-2013 Assemblage pour piano et électronique, 2011-2012 Mutations of matter, pour cinq voix, électronique et vidéo, 2008 ROBERT HAVILAND & C.PARLON http://www.roberthaviland-cparlon.fr ROCHAS http://www.rochas.com/ SAINT-LOUIS http://www.saint-louis.com/ S.T. DUPONT http://www.st-dupont.com/jp/ TAILLEVENT http://www.taillevent.com/ VAN CLEEF & ARPELS http://www.vancleefarpels.com/jp/ja.html CHAMPAGNE VEUVE CLICQUOT PONSARDIN http://www.veuve-clicquot.com/ja/champagne JOËLLE WINTREBERT http://www.wintrebert.info ジョエル・ヴィントルベール トゥーロン生まれ。1975 年に雑誌 Horizons du fantastique オリゾン・ドュ・ファンタスティックの編集長となる。 記者であり評論家(文芸、映画)であり、70 年代には散文詩や短編小説の出版を始める。1980 年に発表され た処女作 Les Olympiades truquées レ・ゾランピアドゥ・トルゥケは今でも定期的に再版されている。その後、 約 20 もの著作物、小説、短編集、散文詩や写真に加え、数多くの記事、選集、序文、翻訳やテレビ向けの脚本 を手掛ける。作家のステータスに関する課題に熱心で、1970 年代終わりより様々な作家協会、作家組合の加盟 会員や設立者である。 1980 年より文芸賞審査員を務め、1974 年に賞を創設したジョン・ピエール・フォンタナの後任者として本年 度よりイマジネール賞グランプリの審査長に就任する。 131 L amie-nuit, la-coop.org, 2010 Le Créateur chimérique, Gallimard, 2009 La Créode et autres récits futurs, Le Bélial, 2009 Les Olympiades truquées, J ai lu, 2009 La Chambre de sable, Glyphe, 2008 Les Amazones de Bohême, Robert Laffont, 2006 Pollen, Au diable vauvert, 2003 YVES DELORME http://www.yvesdelorme.com/fr/ YVES SAINT LAURENT https://www.yslb.jp/ YVES SAINT LAURENT PARFUMS https://www.yslb.jp/ ACADÉMIE DE FRANCE A ROME VILLA MÉDICIS http://www.villamedici.it/fr AIR FRANCE http:// corporate.airfrance.com/ LES ARTS DÉCORATIFS http://www.lesartsdecoratifs.fr CHÂTEAU DE VERSAILLES http://www.chateauversailles.fr/homepage COMÉDIE-FRANÇAISE http:// www.comedie-francaise.fr/ LA DEMEURE HISTORIQUE http://www.demeure-historique.org/association/ MUSÉE DU LOUVRE http://www.louvre.fr/ MUSÉE D ORSAY http://www.musee-orsay.fr MOBILIER NATIONAL-GOBELINS, BEAUVAIS, SAVONNERIE http://www.mobiliernational.culture.gouv.fr/fr/accueil LA MONNAIE DE PARIS http://www.monnaiedeparis.fr/ OPÉRA NATIONAL DE PARIS http://www.operadeparis.fr/ CERCLE DE L ORCHESTRE NATIONAL DE FRANCE http://www.cercle- onf.com/Ademma.cml LA SORBONNE http://www.paris-sorbonne.fr/ SÈVRES, CITÉ DE LA CÉRAMIQUE http://www.sevresciteceramique.fr/ 132 奥 付 企画制作 総括 / エリザベット・ポンソル デ ポルト ヴァレリー・サンドズ(コルベール委員会) 短編編集 / ジャン = クロード・デュニャック 音楽編集 / フランク・マドゥルネール(IRCAM) 短編 サマンサ・ベイリー ジャン = クロード・デュニャック アンヌ・ファクーリ グザヴィエ・モメジャン オリヴィエ・パケ アラン・レイ ジョエル・ヴィントルベール 音楽 ロック・リヴァ 短編翻訳 松本 百合子 工藤 妙子 アラン・レイのテキスト翻訳 中原 毅志(フランス著作権事務所) 校閲 坂本安子 ( オフィス宮崎 ) 133
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