111025C スペイン紀行 -後篇 (バスク巡礼街道をあるく) いよいよ

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111025C
スペイン紀行 -後篇
(バスク巡礼街道をあるく)
いよいよ「バスク国」に入る。
「国境」を越えると、奇怪なリ
ズムの音曲のような言葉が天
空の一角から響いてくる感じ
がある。ここは天地開闢以来、
つまりアダムとイヴの時代か
らピレネー山地に存在した国
なのだそうである。
1955 年まで30年間日本に
住み、58歳の生涯を日本に
ピレネーの遠景(ザビエル城より)
捧げたバスク人宣教師ソルヴール・カンドウ神父が、熱い望郷のおもいを名
文エッセイ「晩秋望郷」のなかで詩情ゆたかに語っておられるからほぼ間違
いない
バスク語のはなし
聖書に、はじめに言葉ありきというように、バスク国には原初の言葉があ
った。そして今もその特異性を失わず「一国」の公用語として存在している。
誇り高き民族というほかない。
バスク語はヨーロッパにあってインド・ヨーロッ
パ語族のどれにも起源を求めにくい、というよりど
れにも該当しない言語らしい。むしろアルタイ系の
日本語に近い膠着語といわれている。
こんなエピソードがある。中世のころ、ローマの
グレゴリアン修道院だったか北のボローニャ大学
だったか忘れたが、入りたての学生(修道僧)が厳
しい僧院の修行に耐えかねていた。そこに司祭が現
れて訊いた、
ザビエル立像
ならば、君はバスク語のコースに移ってもらおうか
ね、どっちがいいかい、、?」
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若い学僧はのけぞってしまった、
「そ、それだけはごめんです、先生! 頭の中がグジャグジャに混乱して身
がもちません。明日から身を入れて修行に励みますから、バスク語だけは勘
弁してください、、」
と哀願した。それほどにバスク語は当時(今も)のヨーロッパ人に毛嫌い
された言葉だった。ちなみに、グレゴリアンはカンドウ神父が博士課程を修
めた大学で、世界最古のボローニャ大学ではザビエルの父が法律を学んだ。
このはなし、他人ごとではない。難解な言葉のたぶん代表とされる日本語
はどうなのかということである。以前、なにかの本で読んだことがあった。
「もはや、地球上に秘境はなくなった、、、」
と、その外国人の民俗学者がいう。
パプア・ニューギニア山中のある高地民族が唯一それに近いが、驚くこと
に、もっと近いのが日本ではないか、という。この極東の島国はそこまで異
質で奇異に見えるそうだ。
これは言葉だけの問題ではない。文化を含め、ものの見方、考え方すべて
がガラパゴス化してしまって、一国のすすむべき方向を決める政治すらもい
ったい外の世界を見ているのか疑わしいというのである。大いにおもい当た
たるふしがある。
バスク語から日本秘境論にまで話が飛んでしまった。
マドリードからパンプローナへ
わたしは家族3人でパンプローナに向かう RENFE(スペイン国鉄)特急列
車のなかにいる。窓外に半砂漠がひろがり、遠く近くグアダラマ山脈が赤茶
けた岩肌を見せる。カステイリア地方、かつてのカステイリア王国のど真ん
なかを走っている。
半砂漠のカステイリア高原
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メセタ(なにもない階段の踊り場)と呼ばれる半砂漠の高原が、イベリア
半島中央部を南西に貫ぬくこの山脈を中心にひろがっていた。
北へ向かう列車の左側座席から、風力発電の風車群が山脈の稜線に沿って
ほとんど切れ目なく続いて見える。尾根づたいに一直線に、あるいは遠くの
尾根のそれを入れれば幾すじも、カステイリアに吹く風は隙間風も逃すまい
としているかのように林立していた。スペインは山国の特徴を生かした風力
発電大国なのである。
ふと、その昔、風車を仇敵とみて戦いを挑んだドンキホーテと従者サンチ
ョパンサをおもい出し、おかしかった。
パンプローナに着くまでの約3時間、途中サラゴサ(かつてのアラゴン王
国の首都)など通ったはずだが、はっきりおぼえていない。記憶にあるのは
半砂漠と岩山と風車だけだったのではないかとおもうほどメセタは広く、旅
の感興をよぶものではなかった。
パンプローナ
中世国家・ナバーラ王国(いま、ナバラ自治州)は、ある時期パンプロー
ナ王国といわれたバスク人の国だった。歴史を遡れば、古代ローマの時代(前
1世紀)カエサル、クラッススとともに共和国の三頭政治を担ったポンペイ
ウスの前線基地だったことからこの名前がつ
けられたといわれる。
フランスとの国境に近い交通の要所にある
ことから商業が栄え、歴代のナバーラ朝は繁栄
をきわめた。一時はカステイリア、アラゴンに
まで版図をひろげた。
ピレネーのロンスヴォ―峠(標高千メートル)
を越えてはるばる北ヨーロッパ各地からやっ
てくる巡礼たちをもてなすこの宿場町にキリ
スト教文化が根づき、いつの頃からか巡礼街道
の守護聖人としてサン・フェルミンがこの都邑
に由ることになる。
サンフェルミン像
巡礼たちは帆立貝印の旅籠で旅の荷を解き、サンフェルミンを拝んだあと、
「ど~れ、みなの衆、闘牛でも見てこようじゃないかね、、」
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と互いに誘いあい、翌朝からのはるかな旅に備えて英気を養ったかもしれ
ない。パンプローナには世界第3の闘牛場(観客席約2万)がある。闘牛場
ができる前は街の中心部のカステイロ広場で闘牛がおこなわれていた。
また、サンフェルミン祭の「牛追い祭り」がこの街の一大イベントになっ
ていて、全速力で街を突きぬけ広場を駈けまわる牛たちのダイナミズムが有
名なのだそうだ。
広場から放射状にひろがる
街筋で日本人らしき40代
の女性と出会い、どちらから
ともなく声をかけた。すぐ近
くで画廊をやっている。
「観せていただきましょ
うか、、」
ということで中に入った。
自身も画家だが、日本の友人
パンプローナのカフェ風景
画家たちの紹介が目的で店
を開いているらしい。
「いまは、自画像でないと売れないんですよ、、」
といって、親御さんの注文になる子供の人物画をいくつか見せてくれた。
つい、僕も描いてもらいたいね、、といいかけたが、思いつきはやめにした。
ヘミングウェイとパンプローナ
カステイロ広場に面した一等地に「ラ・ペルラ」というヨーロッパ人好み
の小ぶりだが豪華なホテルがある。スペイン内乱時、アーネスト・ヘングウ
ェイが定宿にしていたそうだ。血の気の多いこの行動派作家は共和国側国際
義勇軍に参加し、ファシスト・フランコに抵抗したことはよく知られる。彼
は戦いの合間、このホテルの一室にこもり「誰がために鐘は鳴る」を書きあ
げた。
ヘミングウェイにあやかってか、娘が一泊だけだからといって予約してく
れたが、値段の割にはさして居心地のいいホテルではなかったような気がす
る。豪華ホテルは庶民の肌に合わないようだ。
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ザビエル城へ
パンプローナから東へ約1時間、タクシ
ーでピレネー(支峰レイレといった)山中
に入った。山が開けたところに突如、かつ
てのナバーラ王国の東の守りを固めた城
塞が姿を現した。ザビエルの父の居城だっ
た。
長らく手を入れず修道僧が守をしてき
たが、2006 年にザビエル生誕500年を記
念してイエズス会により立派に修復された。
ザビエル城前にて
観光スポットとして見事に整備されている。
ザビエルはこの城で貴族の末っ子として愛情を一身に受けて育った。一族
は城持ちとはいえ暮らし向きは楽ではなかったが、パリ大学へすすんだ聡明
なザビエルを、晩年のカステイリア女王・イサベラに仕えた尼僧の姉 -のち
司教に栄達- が物心両面の援助を惜しまなかった。
わがカンドウ神父に共通する心温まる家
族愛を見るようである。
ナバーラ王国の大臣をつとめ、最後は宰
相としてアラゴン国と闘った父は、王とと
もに戦場で死んだ。ときにザビエル6歳。
父なきあと、ザビエルはこの城で叔父から
なにくれとなく教育を受けたという。
ザビエル少年期の学問部屋
その昔(レコンキスタ初期の8世紀末)、
異教徒サラセン軍を討つべくイベリア半島に攻め入ったフランク王国・カル
ル大帝がサラゴサの戦いで大敗した。退却部隊がフランス国境のロンスヴォ
―峠にさしかかったとき、バスク人の一団に退路を断たれ潰滅した。その時
の勇猛果敢なバスク人の戦いぶりを叔父は誇らしく幼いザビエルに物語って
聴かせたろう。
歴史は、しかし、後世の勝者 ―この場合キリスト教徒側― に味方する。
「ローランの歌」として語り継がれる、のちのキリスト教騎士団を鼓舞し
てやまない武勲詩は長くヨーロッパの歴史に残ることになった。
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国境のロンスヴォー峠(標高約 1000 メートル)
バスク自治州と ETA 「バスク祖国と自由」
ここで誇り高きバスク人について考えてみたい。
これまで触れたバスクは中世国家のナバール王国で
ある。バスク人は太古から、ことさら他と闘うこと
をしない本来自由の民だった。ローマがやってきた
ときも戦わずに山中に逃げた。
15世紀、カステイリア・アラゴン連合王国スペ
インができて圧迫をうけ、以来、民族的な意識をも
つにいたったと考えられる。
20世紀に入ってそれが爆発した。スペイン内乱
のとき、ファシスト・フランコと闘い、わずか一週
バスクの家
間で敗れた。その後わかれたバスク自治州を中心に
反フランコ独裁の地下運動がはじまり、今日に至っ
ている。ETA「バスク祖国と自由」と呼ばれるテ
ロ組織がその中核をなしている。
つい最近、武器不使用の協定がスペイン政府との
間で成立したと新聞で読んだが、どうなることやら。
そもそもが、この自由民族は国家権力と無縁の存
在で、フランスバスクを例にとれば、中央集権国家
の萌芽とされるフランス革命に抵抗し続けた歴史が
ある。さいわいフランス政府は、ピレネーに拠る
一地方民への無用の干渉を避け、バスクを温存した。
バイヨンヌのカフェ風景
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スペインバスクの場合、さすがファシスト・フランコに我慢ができなかっ
たのだろう。
サンジャン・ピエ・ド・ポール
やっとサンジャン・ピエ・ド・ポー
ルまで来た。ナバール王国がフランス
側バスク防衛をかけて築いたピレネー
の要衝だった。同時に北ヨーロッパか
ら聖地サンテイアゴ・デ・コンポステ
ラを目指す「巡礼街道」の起点である。
ピレネー越えを前にして巡礼たちは
ここで一休みして気を入れなおしたに
違いない。入り口ドアに帆立貝印をつ
けた巡礼宿が至るところにある。大ヤ
コブが漁師の出だったことから帆立貝
印がそのシンボルになったとおもわれる。
サンジャン巡礼街道の巡礼たち
さきに触れた S.カンドウ神父は
10人兄姉の末っ子として 1897 年
にこの町で生まれた。なぜカンド
ウ神父にこだわるかといえば、神
父の生まれ育った環境がいかにも
バスク的であり、キリスト教的に
おもえるからだが、生涯にわたっ
て持ちつづけた人間愛はこのよう
な土壌で育まれるのかとおもうか
らである。
カンドウ神父生家前の教会
生家の筋向いにある大教会から覆さるように聞こえてくるアンジェラスの
鐘の音を合図に、家族全員で食卓をかこんだ。終わっては、さながら子らの
歌と踊りの演芸会だった。両親は、小さな楽士、歌手たちのパフォーマンス
に一流のコンサートでも聴くように耳を傾け、目を細め、拍手を送った。カ
ンドウ家には明るい笑い声が絶えることがなかったそうである。
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以下は神父の日記のなかの一節である。
父の命日である。次々と人が生まれたり死んだりするのは、なんと神
秘的なことだろう。とくに伝統が生や死をめぐってわれわれの生活の内
に造り上げたものを、第三者としてながめるときそれを感じる。バスク
地方の雰囲気、家庭の様子を思いおこしてみると、すぐにむかしながら
の環境が目に浮かび、ものの感じ方、考え方、頭の働かせ方まで、ある
特定の調子、色彩を帯びてくる。バスク的雰囲気の持つ特徴は、確かに
平和という特色であろう
生への洞察にあふれ、出自としての自
由バスク人、バスクの空気を髣髴させて
あますところのない名文である。
これらは、時代こそ違え、ザビエルが
やはり末っ子として家族愛の海の中で
育ったことを考えあわせると、人間形成
における普遍性におもいがいたる。
ちなみに、カンドウ神父の生家と目と
鼻の先の城門わきにザビエルの祖父の
城門横のザビエル祖父生家(軒下に家紋)
生まれた家がある。
神父の父が、息子が若くしてイエズス会士になり日本に行ってしまったこ
とについて、
「ザビエルの黴菌のなかで育ったようなものだから、仕方ないさね~」
と、いつも笑って述懐していたという。
ここで思いがけないハプニングが
あった。
カンドウ神父の生家 -いまはブ
テイク- の前を行きつ戻りつする
初老の夫婦を見かけた娘が、
「どこかお探しですか、、」
と声をかけた。
「カンドウの家はたしかこのあた
カンドウ神父の生家(いま、ブテイック)
りだったとおもって探してるんです
が、、」
「わたしたちもです。やっと見つけたのです、、」
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はなしが一致した。奥さんが元カンドウ姓で、神父の縁戚にあたる人だっ
たのである。パリからの旅行で近くまで来たが、ふる里が懐かしくなって立
ち寄ったのだといっていた。
「なつかしいです! いまは代がかわったんですね、、」
なんという偶然だろう。しばらくご夫婦と話しこんだ。カンドウ神父にく
っついたザビエルの黴菌がいまだにこのバスクの街の空気のなかで生きつづ
け、われわれに感染してくれたのかとおもうと嬉しくなった。
ウレぺル
娘の友人、カテリンの生まれ育った
ウレぺル村はサンジャンから西に約1
時間入ったピレネー最西端の山中にあ
った。山の向こうにはたぶんビスケー
湾がひろがっているだろう、海風のに
おいがした。
バスク山地の斜面にひろがる長閑な
牧場には牧羊、馬、牛が放たれ、山全
体が夏の日差しを受けて眩しいほどに
輝いている。
人口200人そこそこの村は、緑の
なかにバスク特有の白壁とベンガラ色
(外扉)のツートーンカラーが映える
村だった。
ウレぺルは酪農の村
また、この小さな村で毎年バスク
語のサマースクールが開講されている。
村人たちの心意気であろう。
バイヨンヌに住むカテリンも特別講師
として参加するのだろうか、普段は海寄りのバイヨンヌ~サンセバスチャン
地区(民族運動が盛んな低地バスク)でバスク語とフランス語を教えている。
カテリンの姉、ビチョリが経営するレストラン・ホテル「エチェ・チュリア」
の好意に甘えて2泊した。数年前にたたんだホテルの2室を開放してくれ、
費用は食事オンリーで宿泊はタダ。おそれいった。日本から持参した女物の
着物と帯で好意に報いることにした。
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娘マイテイ(中3?)と息子アンチョン(小5?)は人なつっこく、いず
れ近隣のバスクで評判の美女、美男になることだろう。
近くに巨大な耳をしたバスク豚の養豚
場があった。バスク豚の産地としても知ら
れる村である。数年前から日本に輸出をは
じめ、いま三越伊勢丹で名が知られる銘柄
になっているそうだ。製造元の店で試食し、
幾種類かを仕入れた。
イベリコ豚よりさらに美味しかったが、
それは1-2年(あるいは3年?)養った
巨大耳のバスク豚(ウレぺル)
あとで潰すからだそうである。手間ひま
コストをかけている。
巡礼と宗教
バスク巡礼街道をたどりながら、道みち巡礼と宗教について考えた。
はじめに、人間は
-人間だけが- なぜ悩むのかという命題がある。平た
くいえば、それは揺れ動く<こころ>があるからだとなるだろう。こころさ
えなければ、たれも悩まなくてすむ。悩める動物なんて聞いたことがない。
では、こころとはいったい何者なのか、実体はあるのか、あるとすれば捕
まえて手なずけることができないのか。そこのところを衆生に説くのが宗教
であるといわれる。禅では、
「その<こころ>とやらがあるのなら、ここに取り出して拙僧に見せい!
どうじゃ、、、喝!」
といって不動心を説く。
つぎに、巡礼はなぜ人口に膾炙
してきたか、宗教上のわかりやす
い偶像化との関係についてであ
る。
そもそも、神や超越的実在の存
在を云々する宗教は形而上のも
ので、具象化、偶像化を否定する。
したがって捉えどころがない。
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しかし、厳格に偶像を否定するイスラムは別として、キリスト教や仏教に
あっては、それぞれにやかましい教義上の規定があるにせよ、多かれ少なか
れ土地の習俗と結びついてきた結果、偶像を認めるに至ったのではないか。
そこに住む人間のこころと一体になってこその宗教だからである。
門外漢のわたしにはキリストそのものが偶像ではないかとおもわれるのだ
が、それはひとまずおいて、巡礼を例にとれば、それは目に見える偶像を同
伴者としてともに人生をあゆむことを意味したのではないだろうか。
キリストの弟子を偶像化した聖ヤコブとともにあるけば、揺れ動く心を鎮
めてもらえるかもしれない、病が癒され、弱い人間も長生きできるのではな
いか、といった生身の人間の素朴な願いが根底にある。アルプスの北のヨー
ロッパは自然環境の厳しい寒冷地
-蛮地といわれた- だったから人々はと
くにそうおもったろう。
巡礼の道すがら、宿に着いたら宿の主人が足を洗ってくれる、もてなして
くれる、ともに人生を語らう、その一つひとつに同伴者ヤコブの姿を重ねる。
ヤコブという偶像を通して神と自己同一化する人間の営みが巡礼だったので
はないか。
北ヨーロッパの巡礼たちは、そんなおも
いで地の果ての聖地サンテイアゴ・デ・コ
ンポステラを目指して数千キロをあるい
た。道のりは遠いほど有難かったにちがい
ない。信仰とは不合理のものである。
日本における平安期の「蟻の熊野詣」と
いわれた熊野信仰や、お伊勢参り、「同行
二人」の四国お遍路も同じような巡礼行だ
った。
いま、わたしは74歳まで9年間つづけ
た四国歩き遍路をふり返っている。1500 キロともいわれる長途を寸土もあま
さずわが足であるき通した達成感がいまは懐かしく、いとおしい。家族とと
もにあるいた「同行三人」だった。
オーバーかもしれないが、正直いっていつお迎えが来ても生涯の勲章をさ
げて冥土の旅に出立できそうである。
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藤
勝
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