第十八章 女性助祭の役割 217 第十八章 女性助祭の役割 女性の叙階を拒絶する伝統的神学者は次のような理由で『女性 助祭』の存在を不適切なこととして葬り去ろうとする。 - 「公会議は助祭として女性を叙階することを禁じた」 - 「女性助祭は男性助祭のようにミサ聖祭での聖役には携わって いなかった」 - 「女性助祭の叙階は真の秘跡ではなく祝福に過ぎなかった」 - 「女性助祭は地域の一時的な重要性しかない、周辺的な問題で あった」 これらの理由づけを今ここで検討しよう。 公会議が禁止したのだろうか ニケア公会議(325)は女性の叙階が初代教会では秘跡だと考 えられなかったことを裏づけるために度々引用される。 「この地 位を占める女性助祭について、彼女たちが叙階(cheirotonia)さ れておらず、すべての点で信徒の中に数えられること(教会法 。一体、 19)を、私たちは(教会指導者たちに)思い起こさせる」 この箇所は現実に何を意味するのだろうか。 問題の法令は、第一ニケア公会議が反対しようとした異端者サ 第四部 218 再度の試み モサタのパウロ(Paul of Samosata)の弟子たちに関するものであ る。公会議は彼らがどのように教会に戻るべきかの規則を以下の ように決めた。 カトリック教会に復帰するパウロ派について、彼らは確かに 再び洗礼を受ける必要があると決定された。彼らの中で以前 司祭として働いていた者がいて、もし、彼らが純潔で、非難 されることがなければ、彼らは洗礼を受け、カトリック教会 の司教によって叙階されなければならない。このようにして 女性助祭及び教会の役務についていた者を扱う。この地位に ある女性助祭については(教会の指導者たちに)叙階(cheiro1) tonia)されないが、すべての点で信徒の中に数えられる。 公会議は特にパウロ派の秘跡、すなわち洗礼、司祭、助祭など の秘跡が無効だと基本的に宣言したのである。理由はサモサタの パウロがイエスを神の受肉した御子として受け入れなかったこと と、すべての秘跡がイエスの名において授けられることを拒んだ からである。公会議は特に、パウロ派の女性助祭職はカトリック の助祭職として叙階を通して授けられなかったので、これを退け 2) た。しかし、公会議は女性助祭そのものを拒否したのではない。 もう一つのお気に入りの引用は『オランジュ教会会議』(441) の教会法 26 である。「要するに誰も女性助祭に叙階されることは ならない。もし既に存在するなら、彼女たちは信徒のための祝福 3) を頭を下げて受けなさい」 。これは教会の普遍的な会議ではなく、 少数の教区が関わったガリア地方の教会会議であった。実際には この禁止は西方教会の地域で女性助祭への反対があったことを示 第十八章 女性助祭の役割 219 している。同時に、これは他のところでは女性が助祭に叙階され ていた事実を立証するものである。 実際、二つの公会議がはっきりと女性助祭の存在を認め、男性 司祭と助祭と同様に最低年齢制限を規定したのである。 - カルケドン公会議(451): 「女性は 40 歳以下で助祭としての按 手を受けてはならない。それ以後は審査を受けてからである。 もしそれ以前に彼女が按手を受けて奉仕を続けるなら、神の恵 4) みを侮り、結婚生活で夫とともにアナテマ(異端者)となる」 。 - トルロス教会会議(692): 「聖なる神を恐れる教父たちの教会 法はこの点についても確認する。すなわち、司祭はいかに立派 であっても 30 歳以前に叙階されてはならないが、彼を留保し ておきなさい。なぜなら、主イエス・キリストは洗礼を受け、 30 歳になってから教え始めた。同じように男性助祭は 25 歳以 5) 下、女性は 40 歳以下で叙階されてはならない」 。 異質の奉仕職なのか 男性助祭は祭壇奉仕のために叙階されたと私たちは教えられた。 彼らの役務は感謝の祭儀のためなので、したがって、秘跡的に叙 階された。それに対して、女性助祭は補足的な仕事を行うのみで、 叙階司式の司教は彼女たちを秘跡的奉仕職のために叙階する意向 6) はなかったとする。 日常的な役割分担の違いが異なる助祭職であったとの言い訳は 立たない。例えば、ローマ教皇庁の多くの長官は外交上の理由で 司教や大司教に叙階される。彼らはほとんど管理職に就く。組織 第四部 220 再度の試み 上の目的のために叙階が用いられることは倫理的に問題であるが、 この種の司教叙階が司牧に携わる司教叙階より正当でないわけで はない。助祭、司祭、司教の身分は叙階の儀式によるものであっ て、その後の仕事で決まるのではない。霊感を受けた教会の指導 者たちが女性助祭を異なった役務に就かせるのは司牧上の分別で あった。最も聖なる時に、人々から遮られている聖域で女性たち が司教に奉仕することは不適当ではないかとの疑いを招くかもし れない。さらに女性たちは、メンスの期間中に自分たちが宗教的 に不浄であるとの偏見と闘わねばならなかった。しかし、このこ とから女性助祭は男性より低い助祭職に叙階されたと推測するの は間違いである。 彼女も男性と同じようにカリスを渡されたので、女性助祭の叙 階の儀式そのものはこれと矛盾する。叙階の祈りは、男性の仲間 と同じように、女性助祭を神の神殿における『奉仕職』(ギリ シャ語の leitourgia )のために聖別したのである。さらに、シリ アの古代教会から知られているが、女性助祭は男性助祭がいない 7) 時には祭壇に奉仕していたし、病人に御聖体を運んでいた。「司 教の許しを得て女性助祭はカリスにぶどう酒と水を入れてもよ 8) かった」 。 彼女の主な役割の一つは、女性洗礼志願者を助けることであっ た。洗礼の前に女性洗礼志願者を教育したのは女性助祭であった。 すなわち女性助祭たちは「未熟な農村女性たちに、洗礼の時に洗 礼司式者の質問にどのように答えるか、受洗後にどのように生き 9) るかをはっきりと理論的に正しいことばで教える」 。女性助祭は もちろん洗礼式でも奉仕した。 洗礼室の入口で司式司教または司祭は、志願者の額に十字のし 第十八章 女性助祭の役割 221 るしをして「敵のあらゆる暴力を克服する喜びの油を塗り、それ によって父と子と聖霊の名によって護られますように」と祈りな がら油を塗った。その時、女性助祭は志願者を洗礼室に案内し、 着物を脱がせ、装飾品を外して彼女たちの体の各部分に塗油を施 した。 服を脱がせることと塗油すること、この二つのことが一体と なっていることは明白である。「洗礼を受ける人は裸になる…… すべて金銀の装飾品と衣服を外し……志願者の胸、腕、胃、背中、 両手の真ん中に塗油する」 「助祭は洗礼志願者からすべての衣服、 装飾品、耳飾など身につけている物全部を外す……彼は両手で 持っている器の中に塗油のための油を注ぎ、志願者の体全体、手 10) 足の指の間、手足の前と後に塗油する 」 。 女性志願者の塗油のために女性助祭の奉仕が必要とされていた ことは明らかである。「女性たちへの奉仕のために忠実で、聖な る女性助祭を叙階しなさい。なぜなら、未信者のために彼(司 教)は男の助祭を女性のところに送ることはできなかった。した がって、未信者の誤解を避けるために、女性のためには女性助祭 を送りなさい。なぜなら、多くの必要性のために女性助祭を必要 としています。まず女性の洗礼式で男性助祭は志願者たちの額に のみ聖油を塗り、それから女性助祭に彼女たちを塗油させます。 11) 女性が男性に見られる必要はないからです 」 。 昔の儀式から次に何が起こったかを幾分復元することができる。 昔の洗礼盤は階段で降りていく小さな池だった。女性助祭は(女 性)洗礼志願者たちを西から東に向かって階段を降りるよう導き、 彼女たちが降りてから東に向くようにした。真中は 3 フィートく らいの深さだった。いくつかの出典によると、洗礼の司式者であ 第四部 222 再度の試み る司教または司祭も洗礼盤のところに降り立った。彼が「私は父 と子と聖霊の名によってあなたに洗礼を授ける」と言って志願者 を三度水の中に浸す。そして司式者は新信者を洗礼盤に伴った助 祭または、女性助祭に渡し、彼・彼女らをタオルで拭いて白衣を 着せるのを手伝わせた。これが古い指針についての可能な解釈で ある。 上から見た洗礼盤 水 水 水 (深い) 側面から見た洗礼盤 その後、あなた、または司教、あるいはあなたの配下の長老 は厳粛に父と子と聖霊の名によって志願者を水に沈め、男性 助祭は男性を、女性助祭は女性を迎え、この神聖なしるしを 第十八章 女性助祭の役割 223 与える式が相応しい作法で行われる。その後、司教が受洗者 12) に油を塗る 。 洗礼式文が男性または女性助祭、あるいは洗礼盤の外に立って いる司教、司祭に読まれる間、水に浸すこと(浸礼)自体が男女 の助祭によって行われることはあり得た。数多くの証拠から、女 性助祭による女性洗礼志願者の浸礼が行われていたようである。 「男の助祭が男を受け入れ」 「女の助祭が女性を受け入れ」という 表現の『受け入れる』は元来『浸す』ことを意味していたかもし れない。この表現は洗礼儀式の中によく使われる。『男性に見ら れないように』女性洗礼志願者は裸になり、また、洗礼を授ける ことが『見苦しくなく』行われるために、女性助祭は塗油と浸礼 の両方を行うことが求められた。西のラテン教父たちの中で女性 が「洗礼を授ける」ことへの反対があったことは明らかに、他の 地方の教会で女性助祭が関与していたことを物語るものであった。 とにかく、女性助祭が男性助祭と同質の奉仕を行っていたこと は疑えない明白な事実なのである 祝福だけなのか 中世初期の神学者たちはカルケドン公会議(451)が『女性助 祭』の最低年齢制限を 40 歳と決めたことを知っていた。西方教 会では何世紀間か女性助祭の制定が廃止されたので、彼らはこの 助祭職にどのような意味があったか分からなかったのである。 女性を助祭に叙階する習慣が以前あったことは疑いの余地が 224 第四部 再度の試み ない。すなわち、福音の朗読者がいたという事実である。40 歳以下の女性は助祭に叙階されることは許されなかったし、 叙階後は結婚することは禁じられていた。しかし女性は司祭 に叙階されることはないとされた(ロランドス・バンディネ 13) 。 リ)(Rolandus Bandinelli, 1148) 過去において何人かの修道女は助祭に叙階されたが、司祭に は叙階されなかった。しかし、聖務日祷の朝課の中で福音朗 読を行い、また、それに類する奉仕をした。現在ではこれは 行われないが、まだどこかで特定の修道会ではないが、福音 朗読に携わる修道女がいる……。実際に女性助祭は叙階され ていた。すなわち、彼女たちは選ばれ、助祭職に匹敵する一 つないし他の奉仕職に厳粛に任命されていた。多分、彼女た ちは祈りや朝課で福音を朗読したり、歌ったりした。この聖 14) 役や尊厳が助祭職と呼ばれた(ウグッチオ , 1188)。 ある人たちは、男性性が(叙階の)秘跡の有効性のためでは なく、法的正当性のために必要であると断言した。なぜなら、 教皇の教令の中にでさえ女性助祭と女性司祭についての記述 がある。そこでは女性助祭は教会で説教を読むような助祭の 役割を行う女性のことであると述べている。女性司祭(presbytera)は寡婦のことを指し、 presbyter は年輩の意味であ 15) る(トマス・アクイナス , 1225 〜1274)。 明らかに、年輩の女性たちが叙階を受けていたというのがあ る人たちの意見であった。なぜなら、グラアチアヌス法令の 第十八章 女性助祭の役割 225 教会法 23 に「女性助祭は 40 歳以前に叙階されてはならない と決定し」と書かれている。そして、同じように「もし誰か が彼女に悪戯をしたり、邪魔をしたりするなら」とかグラチ アヌス法令の教会 32 は presbytera(ラテン語で『女性司祭』を 意味できる)について言明している。しかし、ここで言われ ている Presbyteram などに注意を払うなら、寡婦、年輩の女 性、地位のある既婚女性が presbyteras と呼ばれていたことが 分かる。ここから、男性助祭と一緒に朗読や説教などをして いた女性たちは女性助祭と呼ばれたのである。彼女たちは祝 福のようなものを受けた。したがって、かつて教会法に従っ て聖職に叙階された女性がいたなどと決して信じてはならな 16) い(ボナベントゥラ , 1217 〜1274)。 西方教会における中世の神学者たちが女性助祭にまつわる事実 について単に無知であったことは歴然としている。女性助祭に関 する彼らの評価には何の価値もない。もし彼らが叙階儀式を知っ ていたなら考えを変えたことであろう。 これはどうでもよい現象なのだろうか ビザンチン帝国内の諸地方における女性助祭に関する豊富な文 書が残っている。女性助祭たちは教会の指導者たちと繋がってい たので、彼女たちの名を挙げることができる。彼女たちは男性の 司祭や助祭のように何千人もの無名の人たちを代表している。 コンスタンチノープルのオリンピアス(Olimpias of Constantinople)はネクタリオス司教(Nektarios)によって叙階されていた。 226 第四部 再度の試み 彼女はナジアンゾスの聖グレゴリウス(Gregory of Nazianzus)と 後の聖ヨハネス・クリゾストモ(John of Chrysostom)の友人で、 特にクリゾストモが皇帝との対立中や追放中には彼の大きな力に なった。当時コンスタンチノープルの主聖堂であったハギア・ソ フィアには 60 人の司祭、100 人の男性助祭、40 人の女性助祭がい た。オリンピアスは 418 年に没した。 シルスのテオドレートス(Theodoret of Cyrus, 466)は、異教の司 祭の息子に教理を教え、キリスト教に導いたアンティオケアの女 性助祭について語っている。礼儀上、または、安全のために、彼 女は Anonyma (偽名)として知られている。これはユリアヌス 皇帝(在位 361 〜 363)下の迫害時代のことであった。彼女は青年 に洗礼の準備をした後、より安全なところにあるキリスト教共同 体に彼が入るために父親の家から逃亡させた。 チューリンゲンの王女であり、ドイツの皇帝クロダイア一世の 妻であったラデグンデ(Radegunde)は 550 年、宮殿から逃れ、ノ ヨンのメダルドゥス司教(Medardus of Noyon)から助祭に叙階さ れた。彼女はポアティエに『自由な』修道院、すなわち教会や政 界の介入から自由な修道院を創立して、周辺地域の福音化に励ん だ。 教父たちの書簡から、聖クリゾストモ(Chrysostom)が手紙を 送ったプロクラ(Procula)とペンタディア(Pentadia)のことが知 られている。後にコンスタンチノープルで助祭になったサルヴィ ナ(Salvina)は聖ヒエロニムスに手紙を書いた。アンティオケア の司教セヴェルス(Severus)は彼の手紙の中で助祭アナスタシア (Anastasia)のことに言及している。マクリナ(Macrina)は大聖バ シリウス(Basil)の妹であった。彼女には同じく女性助祭であっ 第十八章 女性助祭の役割 227 たランパディア助祭(Lampadia)という親しい友人がいた。テオ セビア助祭(Theosebia)は教会博士であるニュッサのグレゴリウ ス(Gregory of Nyssa)の妻だった。ギリシャ正教の聖人暦には名 前が明記されている 22 人の女性助祭とペルシャで 5 世紀にアブ ジェスス司教(Abdjesus)とともに殉教した 7 人の女性助祭が 17) 載っている 。 女性助祭の名前は墓石にも残されてきた。少なくとも 28 人が 確認されている。 - エルサレムのソフィア(Sophia)4 世紀?:ギリシャ語の碑文 には次のようにある。「キリストのはしためであり処女である フェベ(Phoebe)、3 月 21 日に平和のうちに逝去した第二のフェ ベ(ローマ 16:1)が眠る。主なる神の祝福が……」 。 - ガリアのテオドラ(Theodora of Gaul)の墓石に次のようなラテ ン語の碑文がある。 「539 年 7 月 22 日に 48 年の生涯を閉じた助 祭テオドラが安らかに眠る」 。 - ギリシャのデルフィのアタナシア (Athanasia of Delphi) 5 世 紀: 「最も敬虔な助祭アタナシアは非難されることのない立派 な一生を送った後、パンタミアノス司教(Pantamianos)によっ て助祭に挙げられた。彼がこの墓石を彼女が眠るこの地に建立 した。この墓を開けようとする者には主イエス・キリストを裏 切ったユダの運命が待っている……」 。 - エルサレムのエネオン助祭(Eneon)は病人への奉仕職を果た した。 「ネオイケティス(Neoiketis)の娘、エネオン、この病院 18) の助祭の墓 」 。 第四部 228 再度の試み アタナシアの墓石 使徒の書簡と照らし合わせて 教会は使徒時代から女性助祭の存在を知っていた。パウロは 言っている。 「ケンクレアイの教会の奉仕者(diaconos)である私 たちの姉妹フェベを紹介します。彼女は多くの人々の援助者、特 19) に私の援助者です…… 」 。フェベに使われた『奉仕者』(diaconos) という語は後に女性たちが関わったまさしく聖役の仕事を意味し たのではなかったのだろうか。私たちにはあまり確かではないが、 20) 奉仕者は間もなく教会の中で限定された機能になってしまった 。 また、アレクサンドリアのクレメンス(Clement of Alexandria, 150 「使徒 〜 215)は女性の聖役を使徒時代にまで遡って考えている。 たちは、自らの奉仕に相応しい者としてたゆむことなく福音宣教 の働きに自らを捧げ、家庭にいる女性たちへの奉仕を分かち合う 第十八章 女性助祭の役割 229 ために、妻としてではなく、姉妹として女性たちに同伴していた。 彼女たちの働きで主の教えは嫌疑をかけられることなく女性たち 21) に届いた 」 。 この初期の女性の助祭職はテモテへの前の手紙の古典的な一節 で確認されているが、度々見過ごされている。 奉仕者たちは品位のある人でなければなりません。この人々 はまず審査を受けるべきです。その上で非難される点がなけ れば奉仕者の務めに就かせなさい。婦人の奉仕者たちも同じ ように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制 し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。奉仕者は 22) 一人の妻で…… 。〔訳者注:原文では deacon(助祭)であるが、新共 同訳聖書では「奉仕者」となっている〕 この箇所全体は助祭職に就いている男女のことに関するもので ある。女性の奉仕職の秘跡的性格を擁護したダニエルー枢機卿 「次のことは明らかなことと思われる。 (Danielou)は書いている。 すなわち、 『助祭』という語はここ(一テモテ 3:8 〜 12)では専門 的な意味で使われている。問題とされている『女性』は男性助祭 の妻とは明白に区別されている。なぜなら、男性助祭の妻につい ての記述は男性助祭についての記述と並行しているからである。 したがって我々は女性助祭として理解しなければならないのであ る。これは叙階された聖職そのものに属する奉仕職であることを 23) 示してい る 」。このことは、112 年に若輩プリニウス(Pliny the Younger)が小アジアのキリスト教共同体に 2 人の女性助祭がいる 24) と報告している事実によって確認されている 。
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