The Tohoku English Literary Society

Proceedings
of the 59th Conference
November 20— 21 , 2004
at TOHOKU UNIVERSITY
The Tohoku English Literary Society
東北英文学会
Proceedings of the 59th Conference
The Tohoku English Literary Society
©2005 The Tohoku English Literary Society
目 次
CONTENTS
東北英文学会第 59 回大会プログラム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ iii
PAPERS
フォルスタッフ退場
̶The Merry Wives of Windosr におけるフォルスタッフ表象̶
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Paradise Regained にみる ‘pacifism’
二つの The Empress of Morocco
柴田 尚子
1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
川崎 和基
7
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
松田 幸子
15
吉田 直希
20
<帝国>の犯罪システム̶『乞食オペラ』と野蛮な黒人̶
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
右方移動要素の談話機能について
as 句の構造
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
及川 佳寿子 28
小林 夢仁
33
西原 哲雄
41
音韻論的主要部と形態論的主要部̶失文法話者の分析から̶
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本人 ESL / EFL 学習者の認知・性格要因と学習ストラテジー使用の関係
佐藤 博晴
49
司 会 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 田中 一隆
55
T・S・エリオットとシェイクスピア
56
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
SYMPOSIA
英文学部門 シェイクスピア批評と英文学/英文学とシェイクスピア批評
・・・・・・・・・・・・・・・・
村田 俊一
シェイクスピア批評に埋もれた歴史̶ステュアート朝の英国史劇再評価̶
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
シェイクスピアと古典主義の伝統
石橋 敬太郎 63
田中 一隆
69
司 会 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 村上 東
76
77
・・・・・・・・・・・・・・・・・
アメリカ文学部門 自然・環境・文学
Mary Austin の The Land of Little Rain 再評価 ・・・・・・・・・ 秋田 淳子
現代アメリカ文学と<自然>̶『郭公の巣の上で』を例にして̶
斎藤 博次
85
開 龍美
92
司 会 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ Toshihiko Asaka
98
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ウィルダネスという他者?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
英語学部門 形式と意味のインターフェイス̶述部とめぐる諸問題̶
Interface between Form and Meaning: Issues on Predicates
ii
Predication in the English Classifer Construction・ ・ ・ ・ ・ ・ Toshihiko Asaka 99
Resultatives in Make-Causatives・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Toru Suzuki 108
Aspectual Structure and Floating Numeral Quantifier in Japanese
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Hidenari Katsuragawa 117
The Syntactic and Semantic Restrictions on Japanese Verbs
in the Simple Present Tense
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Yoshiki Ogawa 127
雑録・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 136
会員名簿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 139
東北英文学会会則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 146
東北英文学会賞規定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 147
iii
東北英文学会第 59 回大会 プログラム
第1日 11 月 20 日(土)
評議員会 【11:30】(文学研究科棟 804 教室)
開会式 【13:00】(文化系総合研究棟 206 教室)
○開会の言葉 東北英文学会会長 原 英一
研究発表(13:30 ∼ 17:00)
第1室 (206 教室)
司 会 岩手大学教授 境野 直樹
1. フォルスタッフ退場
̶The Merry Wives of Windsor 最終幕でのフォルスタッフ表象̶
東北大学大学院生 柴田 尚子
2. 同性のダンス・花の孤独̶The Two Noble Kinsmen 論̶
北見工業大学助教授 鳴島 史之
司 会 福島大学助教授 川田 潤
3. Paradise Regained にみる ‘pacifism’
東北学院大学研究員 川崎 和基
司 会 東北学院大学教授 遠藤 健一
4. 二つの The Empress of Morocco̶王政復古期の「見世物」̶
筑波大学大学院生 松田 幸子
5. <帝国>の犯罪システム̶『乞食オペラ』と野蛮な黒人̶
小樽商科大学助教授 吉田 直希
第2室 (202 教室)
司 会 東北学院大学助教授 阿部 潤
1. 右方移動要素の談話機能について
東北大学大学院生 及川佳寿子
2. as 句の構造
東北大学大学院生 小林 夢仁
3. 音韻論的主要部と形態論的主要部̶失文法話者の分析から̶
宮城教育大学助教授 西原 哲雄
4. 日本人 ESL/EFL 学習者の認知・性格要因と学習ストラテジー使用の関係
秋田県立大学助教授 佐藤 博晴
iv
懇親会【18:30】
会場: 仙台ガーデンパレス
––––––––––––––––––––––
第2日 11 月 21 日(日)
SYMPOSIA(10:00 ∼ 12:30)
英文学部門 (206 教室)
シェイクスピア批評と英文学/英文学とシェイクスピア批評
司 会 ・ 講 師
弘前大学教授 田中 一隆
講 師
宮城教育大学教授
村田 俊一
藤田 博
岩手県立大学助教授
石橋 敬太郎
弘前大学教授
アメリカ文学部門 (201 教室)
自然・環境・文学
司 会
秋田大学助教授 村上 東
講 師
岩手大学講師
秋田 淳子
岩手大学教授
齋藤 博次
岩手大学教授
開 龍美
英語学部門 (202 教室)
形式と意味のインターフェイス
̶述部をめぐる諸問題̶
司 会 ・ 講 師
福島大学助教授
朝賀 俊彦
講 師
山形大学助教授
鈴木 亨
東北大学助教授
小川 芳樹
Proceedings of the 59h Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
フォルスタッフ退場
̶The Merry Wives of Windsor におけるフォルスタッフ表象̶
柴田 尚子
I
The Merry Wives of Windsor(初演 1597 年)は 1602 年に The First Quarto ( 以下,Q1) と 1623 年に
The First Folio ( 以下,
F1) が出版される.この 2 つの版の表題には大きな違いが見受けられる.即ち,
Q1 の表題が,“Most pleasaunt and excellent conceited comedie, of Syr Iohn Falstaffe, and the merrie wiues
of Windsor” 1 であるのに対し,F1 の表題は現在用いられている The Merry Wives of Windsor となっ
ている点である.しかも,Q1 の表題は Falstaff の名前が The Merry Wives of Windsor よりも先に掲
げられている.それから 21 年後,F1 が出版されると,この劇の表題から Falstaff の名前は消える.
The Merry Wives of Windsor のアーデン版の編者 Giorgio Melchiori は,その冒頭で Q1 の表題を提示
しながら,“This is Falstaff’s play” (1)2 であると主張する.この劇は,ウィンザーへやって来た老騎士
Falstaff が,金銭を騙し取ろうと,2 人の女房に恋文を送るが,この陰謀があっさりとばれてしまい,
2 人の女房を中心としたウィンザーの住人に 3 度懲らしめられる.この懲らしめ,つまり,1 度目
は汚れた洗濯物と共に川に放り込まれ,2 度目は魔女に変装させられた上,棍棒で叩き出され,3
度目は真夜中のウィンザーの森に雄鹿の角をつけて現れた Falstaff を妖精に扮したウィンザーの
住人が火であぶり,つねるというものであるが,これは劇のサブプロットでありながらも,その大
半を占め,非常にコミカルに,威勢よく描かれている.これまでの研究でも,このサブプロットに
焦点をあてて,民衆の社会的制裁であるシャリヴァリ (charivari) との結びつきを明らかにするもの
が数多くあった.
The Merry Wives of Windsor において,劇の大部分で懲罰の対象であった Falstaff は大きな存在を
示しているといえる.しかし,その Falstaff も最終幕で影を潜める.というのは,3 度目に Falstaff
がウィンザーの森で懲らしめられた後,劇のメインプロットである Page 夫妻の娘 Anne の結婚
問題が浮上してくることで,Falstaff が脇へと押しやられたためである.結果,Anne の結婚によ
り,Falstaff がウィンザーの住人と共に退場する調和のとれた終幕に見えるが,台詞を詳細に見て
いくと,Falstaff の大団円への参加はそれほど明確ではない.そこで本稿では,The Merry Wives of
Windsor の最終幕での Falstaff の退場に焦点をあてながら,この劇の調和の破綻を明らかにし,そ
の意味を探ろうと考える.
II
最後の懲らしめの後,Falstaff はそれまで身の上に起こった不幸な出来事が 2 人の女房による
策略であることに気づく.Falstaff は,結果,金銭を奪うために騙そうとしていた女房に騙され
ていた.この後,Anne と Fenton の結婚が明らかになる.この Falstaff に対する制裁の背後に隠
2
フォルスタッフ退場̶The Merry Wive of Windsor におけるフォルスタッフ表象̶
れていた Anne の結婚問題に関する各々の企て,つまり,父親の George Page は治安判事 Shallow
の甥 Slender と Anne を,母親の Margaret Page はフランス人医師 Caius と Anne を結婚させよう
とする企ては失敗に終わる.「騙す者が騙される」といったこの劇のプロットが明らかになった
後,ウィンザーの住人は Anne と Fenton の結婚を祝福すべく,また,今夜の騒ぎを語り合うため
に全員退場となる.一見して調和のとれた退場に見える.John Dryden (1631-1700) も “some plays
which are almost exactly formed; as The Merry Wives of Windsor”(66) とし,この劇がほぼ喜劇の法則
どおりであると指摘する.3 しかし,ここで Falstaff に注目しながら,この劇の終幕を告げる台詞
を見ると,Falstaff がウィンザーの住人と調和するという解釈とは違った,別の解釈が可能となる.
FORD.
Stand not amaz’d, here is no remedie:
In Loue, the heauens themselues do guide the state,
Money buyes Lands, and wiues are sold by fate.
FAL.
I am glad, though you haue tane a special stand to strike at me, that your Arrow hath glanc’d.
PAGE.
Well, what remedy? Fenton, heauen giue thee ioy,
What cannot be eschew’d, must be embrac’d.
FAL.
When night-dogges run, all sorts of Deere are chac’d.
MIST. PAGE.
Well, I will muse no further: Mr Fenton,
Heauen giue you many, many merry dayes:
Good husband, let vs euery one go home,
And laugh this sport ore by a Countrie fire,
Sir Iohn and all.
FORD.
Let it be so (Sir Iohn:)
To Master Broome, you yet shall hold your word,
For he, to night, shall lye with Mistris Ford:
Exeunt
(F1, TLN 2713-28; 5. 5. 223-37) 4
一般的に,Shakespeare の喜劇では,若い恋人達が両親の反対や何らかの事件に巻き込まれなが
らも,最後には全てが解決し,和やかで歓喜に満ちた結婚に終わる.A Midsummer Night’s Dream
(1600) でも,妖精の悪戯によってアテネ公爵 Theseus とアマゾン族の女王 Hippolyta の他,2 組
の結婚がまとまり,調和のとれた終幕となる.しかし The Merry Wives of Windsor での Falstaff の
退場を見ると,一概に調和をもたらす退場だとはいえない.先程示した引用を再度検討すると,
Falstaff と,Page らウィンザーの住人との会話がかみ合っていないことが分かる.たとえば,は
じめに Ford が「驚いてばかりじゃいられない.今更どうしようもないじゃないか」と Anne と
Fenton の結婚に関して,自分たちの思惑どおりに事が進まなかった Page 夫妻を慰める台詞にな
っているのに対し,続くのは Falstaff の「俺は嬉しいよ,お前たちが俺を打とうとした特別な場
所を準備したのに,弓が俺を掠めちまってね」という.続いて,Page がはじめの Ford の台詞に
答えるかのように,「しょうがない,Fenton さん,おめでとう.避けられないことは受け止める
しかない」というのに対して,Falstaff は「夜犬が走り回れば,鹿が全て飛び出していく」と意
味深い言葉を漏らす.これらの台詞を見ると,ウィンザーの住人は Anne と Fenton の結婚につい
て話しているのに対し,Falstaff は自分のことばかりで,全く 2 人の結婚に関心がないようである.
このかみ合わない会話から,Falstaff は Anne の結婚話で盛り上がっている人々の輪から少し離れ
た所に 1 人でいる可能性が考えられる.その Falstaff に Mistress Page,そして Ford は一緒に炉辺
柴田 尚子
3
を囲んで談笑しようと呼びかけるが,Falstaff の返答がないまま全員退場となる.
また,これよりも以前,全ての事実を知った Falstaff は,ウィンザーの住人に罵りの言葉を浴
びせかけられると,ひどく失望し,無力感を訴えると同時に,自分が子供騙しの企てに首尾よ
く掛かったことを悔やむ.
FAL.
Well, I am your Theame: you haue the start of me, I am deiected: I am not able to answer the Welch
Flannell, Ignorance it selfe is a plummet ore me, vse me as you will.
(F1, TLN 2646-49; 5. 5. 159-62)
これを聞いた Ford は早速,Falstaff を Master Broome5 の所へ連れて行こうとする.Master Broome
とは,Ford 自身が強い嫉妬のあまり Falstaff と妻の関係を疑り,彼らの関係を突き止めようとし
た際,Ford が変装した人物である.Falstaff と妻の不倫を確信した Ford は,Master Broome に扮して,
Falstaff に妻と関係を持つように促し,その現場を押さえようとした.その件で,Ford は Falstaff
に謝礼として金銭を払ったのだが,最終幕において,Ford は懲らしめに傷つく Falstaff を,その
金銭を返しに連れて行こうとするが,Page は Falstaff を慰め,家へ迎えようと声をかける.
PAGE.
Yet be cheerefull Knight: thou shalt eat a posset to night at my house, wher I will desire thee to
laugh at my wife, that now laughes at thee: Tell her Mr Slender hath married her daughter.
(F1, TLN 2655-58; 5. 5. 168-71)
この後,Slender の登場となり,Anne に対する各々の結婚に関する企てがうまくいかなかったこ
とが明らかになるが,先程の Page の台詞に対する Falstaff の返答はないまま,ここから,5 幕 5 場
2716 行目までの 70 行,Falstaff の台詞はなく,彼は一言もしゃべらずに,この結婚騒動をただ傍
観している.その後は,2720 行目のわずか 1 行で Falstaff の台詞は終わる.このように,Anne の
結婚問題が浮上するまで,劇中で主要な役割を果たしてきた Falstaff は,劇の終盤にかけてのその
存在は影を潜めていく.
III
ここで,The Merry Wives of Windsor の典拠となる唯一のテクスト F1 と「不良四折本」(bad
quarto) とはいえ,上演を反映している Q1 を比較して,Q1 最終幕における Falstaff がどのように
描かれているのかを検討していく.
2 つのテクストに関して,F1 は 2,700 行であるのに対し,Q1 はおよそ 1,600 行と短い.その影
響からか,本稿の最初に示した 5 幕 5 場の 2713 行目から 2728 行の台詞を Q1 と照し合せると,
Falstaff の台詞が “I am glad yet that your arrow hath glanced”(Q1,sc.18) と,1 箇所のみとなる.その
代わりに,F1 には見当たらないウェールズ生まれの神父 Sir Hugh Evans の台詞が “Come M. Page,
you must needs agree” (Q1; sc.18) / “I wil also dance & eat plums at your weddings”(Q1; sc.18) として 2
箇所加えられている.結果,F1 と比べて,Q1 は Falstaff の存在がますます小さく感じられる.F1
では,ウィンザーの共同体の中へ呼びかけられたのに対して,Q1 では,その輪に入る機会さえ
与えられないという点で,さらにその存在は薄い.また,F1 では Mistress Page がただ “laugh this
sport o’er by a country fire”(F1, TLN 2724; 5.5.234)としているのに対し,Sir Hugh Evans の後者の
台詞 “I wil also dance & eat plums at your weddings”(Q1; sc.18) では,これから Anne と Fenton の結婚
式が行われることを暗示している.また,続く Q1 の Ford の台詞を見ると,Falstaff はウィンザー
の共同体から外されている.
4
フォルスタッフ退場̶The Merry Wive of Windsor におけるフォルスタッフ表象̶
Ford.
All parties pleased, now let vs in to feast,
And laugh at Slender, and the Doctors ieast.
He hath got the maiden, each of you a boy
To wait vpon you, so giue you ioy,
And sir Iohn Falstaffe now shal you keep your word,
For Brooke this night shall lye with mistris Ford.
Exit omnes.
(Q1; sc. 18)
F1 で Falstaff は Ford に “Let it be so, Sir John”(F1, TLN 2726; 5.5.235) と温かく迎えられている一方
で,先程の Q1 においては,Ford が “All parties pleased” といって,人々を祝宴へと促す.しかし,
Falstaff は誘われるどころか,その輪に入ることすらできない.この “All parties” とは,Page 夫妻,
Ford 夫妻,Anne と Fenton の 3 組のことを示唆する.その “parties” に入ることが出来なかった,
Slender と Caius は,もともと Falstaff と同じようにウィンザーの人間ではなく,外部から来た人
物だが,祝宴での笑い話としてこの場の中心に取り上げられる.しかし,Falstaff は誘われるど
ころか,話の種にもならない.F1 において Page が Falstaff を誘う最初の台詞,“Thou shalt eat a
posset tonight at my house, where I will desire thee to laugh at my wife that now laughs at thee”(F1, TLN
2655-57; 5.5.168-70) も Q1 では見当たらない.ただ,そこには F1 にはない別の台詞が Mistress
Ford と Ford によって語られている.
Mi.For.
Nay husband let that go to make améds,
Forgiue that sum,and so weele all be friends.
For. Well here is my hand, all’s forgiuen at all.
Fal. It hath cost me well,
I haue bene well pinched and washed.
(Q1; sc.18 )
Ford 夫妻は Falstaff に対する制裁を詫び,和解を提案するが,Falstaff はこれを受け入れているよ
うには見えない.Falstaff は完全にこの制裁を逆恨みして,大団円へと組み込まれていくことを
自ら許しがたいとしている.
IV
このようにして見ると,Falstaff は皆と共に退場しながらも,完全に開き直ったのではなく,
その体の割には小さくなりながら,退場するのではないか,あるいは,Mistress Page や Ford に
誘われながらも,皆と一緒に退場せず,別のドアからまたは遅れて退場したとも考えられる.
具体的には,楽屋部分と演技領域を結ぶ出入り口は,両脇に 2 つのドアと,その間に central
opening,即ち,舞台背後の中央開口部があったと考えられる.この central opening は,他の 2 つ
のドアとは違い,通常の登退場では使用されず,特別な時に利用されたとしている.その事例
の 1 つとして,市川真理子は多くの喜劇で行われる終幕で central opening が使われるとしている.
Most comedies and some history plays end with the joint departure of the two groups of characters
who have achieved a harmonious relationship. Because of its centrality, the central opening would be
appropriate for such happy endings. (114) 6
市川は central opening を使って退場することよって,大団円に終わる喜劇の調和がよりいっそう
際立つと主張しており,その例として The Merry Wives of Windsor もあげている.しかし,Falstaff
の退場と台詞を考えると,完全な調和とは言い難く,彼の受けた傷が思ったよりも大きいために,
5
柴田 尚子
Falstaff はむしろ違うドアから,あるいは,遅れて退場したと考えることすらできる.
V
何故それまで舞台上で中心的役割を担っていた Falstaff が,最終幕において脇に追いやられな
ければならなかったのか.本稿の冒頭でも述べたように,F1 では,Q1 であった Falstaff の名前
が表題から消えている.このことにより,Shakespeare では唯一,市民階級で,しかも ‘Wives’「女
房」という形で示された女性が登場人物としてタイトルに掲げられることになる.そうすると,
観客はやはり,Q1 の時とは違った印象をこの劇に持つに違いない.Mistress Page は Falstaff に対
する 2 度目の懲らしめの前に,観客に向かって次のように語りかける.
MIST. PAGE.
Hang him dishonest Varlet, we cannot misuse enough:
We’ll leaue a proofe by that which we will doo,
Wiues may be merry, and yet honest too:
We do not acte that often, iest, and laugh,
’Tis old, but true, Still Swine eats all the draugh.
(F1, TLN 1993-96; 4. 2. 92-97)
この劇中で,唯一観客に向けて語りかけられた Mistress Page の台詞は,家庭を,そしてこの共
同体を守る強い決意として劇場内に響き渡る.そして 2 人の女房が避けなければならないのは
“acte”(F1, TLN 1995; 4.2.96) 7,つまり,性的な欲望の危険性である.Falstaff はウィンザーの共同
体の治安を脅かす不必要な存在であり,以前のような平穏な社会にするためには,彼を共同体
へ取り込み改心させるか,または,排除するしかない.一方,Falstaff は,劇の大半を占めた懲
らしめがシャリヴァリであると解釈するならば,その社会的制裁に耐え切れず,共同体から出
て行かざるをえなかったと考えられる.実際,1604 年屈辱のあまりシャリヴァリの対象者は町
を出て行ったとする記録も残されている.8
当時の The Merry Wives of Windsor の最終幕における上演について考えた時,Falstaff が,
Mistress Page や Ford の呼びかけに応じ,皆と共に退場するという上演ももちろんありえたこと
は認める.しかし,これまで Falstaff が受けた屈辱を考えると,ウィンザーの住人によって共同
体を追放されたのではなく,Falstaff 自らその共同体を去った,ということを示唆する上演も考
えられるだろう.
Notes
1
本稿における Q1 の引用は Michael J.B.Allen, and Kenneth Muir, eds., Shakespeare’s Plays in Quarto: A
Facsimile (Berkeley: University of Calfornia Press, 1981) を使用する.
2
Giorgio Melchiori. ed. Introduction. The Merry Wives of Windsor. The Arden Shakespeare (London: Thomson
Learning, 2000).
3
John Dryden. John Dryden: Of Dramatic Poesy and Other Critical Essays, ed. George Watson, Everyman’s Library,
2 vols. (London: J.M. Dent, 1962), I, 66.
4
本稿における Shakespeare の作品全ては Chalrton Hinman, ed., The First Folio of Shakespeare: The Norton
Facsimile (New York: W. W. Norton, 1968) を使用する.尚,幕・場・行の表示は,Stanley Wells and Gary
Taylor, general eds., William Shakespeare: The Complete Works. (1988. Oxford: Clarendon Press, 1992) に拠る.
5
Ford が変装して Falstaff に会いに行く際の名前は,
Q1 では ‘Brook’ であるが,
F1 においては ‘Broome’ である.
これに関する詳細は,The Merry Wives of Windsor. The New Cambridge Shakespeare (Cambridge: Cambridge
University Press, 1997) 9-10 を参照.
6
フォルスタッフ退場̶The Merry Wive of Windsor におけるフォルスタッフ表象̶
6
Mariko Ichikawa, Shakespearean Entrances (Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2002).
7
Crane はこの ‘acte’ が “act immorally” であると解釈している.Crane, ed. The Merry Wives of Windsor 120.
8
このシャリヴァリの事例については,Anthony Fletcher and John Stevenson, eds. Order and Disorder in the
English Revolution (Cambridge: Cambridge University Press, 1985), 131 を参照.
Bibliography
Flethcer, Antony, and John Stevenson, eds. Order and Disorder in the English Revolution. Cambridge: Cambridge
University Press, 1985.
Helgerson, Richard. Adulterous Alliances. Chicago: University of Chicago Press, 2000.
Ichikawa, Mariko. Shakespearean Entrances. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2002.
John Dryden. John Dryden: Of Dramatic Poesy and Other Critical Essays. Ed. George Watson, Everyman’s Library, 2
vols. London: J.M. Dent, 1962.
Shakespeare, William. The First Folio of Shakespeare: The Norton Facsimile. Ed. Charlton Hinman. New York: W.W.
Norton, 1968.
––––. Shakespeare’s Plays in Quarto: A Facsimile. Eds. Michael J. B. Allen, and Kenneth Muir. Berkeley: University
of California Press, 1981.
––––. William Shakespeare: The Complete Works. Eds. Stanley Wells, and Gary Taylor. 1988. Oxford: Clarendon Press,
1992.
––––. The Merry Wives of Windsor. The New Cambridge Shakespeare. Ed. David Crane. Cambridge: Cambridge
University Press, 1997.
––––. The Merry Wives of Windsor. The Arden Shakespeare. Ed. Giorgio Melchiori. London:Thomson Learning, 2000.
岩崎宗治『シェイクスピアの文化史−社会・演劇・イコノロジー−』.名古屋:名古屋大学出版会,2002.
Proceedings of the 59h Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
Paradise Regained にみる ‘pacifism’
川崎 和基
I
Paradise Regained と Samson Agonistes は共に 1667 年に出版された.この両作品に対してなさ
れた初期の批評のなかに Milton の甥の Edward Phillips が指摘するものがある.Phillips によれば,
1
Paradise Regained は概して Samson Agonistes や Paradise Lost よりも劣っていると評されていた.
そ
して,その原因が「主題」(‘subject’)にあるようだと指摘している.確かに,天地創造から楽園
の喪失にいたる壮大なパノラマやサムソンの劇的な最後というようなダイナミズムは Paradise
Regained には見られず,むしろ「動」に対する「静」というように,荒野の誘惑に打ち勝つ静
的イエスの姿を見ることができる.この「静的」すなわち ‘quiet’ な Paradise Regained に対する
近年注目すべき批評にクエーカーの ‘quietism’ と ‘pacifism’ といった特徴を見出す傾向がある.
すなわち,Steven Marx や Michael Wilding は,Paradise Regained のイエスに,政治的 ‘quietism’
を信奉し,武力を用いず「宗教的良心」(‘Religious conscience’) を得ようとする ‘pacifism’ の平
和的側面を見いだしている.2 Milton とクエーカーとの接点について言えば,確かに,Milton は
クエーカーの Isaac Penington や Thomas Ellwood と交流があった.特に,Ellwood は,1665 年の
黒死病が蔓延するロンドンから Milton が避難する際に,Milton の要請から避難場所(Chalfont
St. Giles)を紹介し,さらに,Paradise Lost の草稿に目を通すことができた.また,Ellwood 自
身による説明によると,Milton に Paradise Lost について感想を述べ,その結果,彼に Paradise
Regained の執筆を促すことになったというように,Milton と親密な関係があった.
し か し,Ellwood が Paradise Regained の着想を Milton に与えたというこの Ellwood 自身
3
の説明に対して,Parker や Lewalski といった伝記作家や批評家は懐疑的に見ている.
一方,
Loweinstein のように,Ellwood の Milton に対する影響を再評価する批評家がいることも見逃せ
ない.4
このようなクエーカーとの交流が Milton に ‘pacifism’ の着想を与えたと推察することはできる.
しかし,Marx が言う ‘pacifism’ の特徴を Paradise Regained に見ることにはいささか疑問が残る.
それは,彼が用いる ‘pacifism’ の定義そのものにあるといえる.したがって,そもそも ‘pacifism’
とはどのようなものであるかを明らかにし,その上で Paradise Regained の ‘pacifism’ を吟味し,
再考する必要がある.その際,Milton と交友があり,‘pacifism’ を実践した Ellwood の History of
Thomas Ellwood by himself が Milton の ‘pacifism’ を明らかにする手がかりになるといえる.
本論では,Paradise Regained における ‘pacifism’ を中心にして Milton のクエーカー的要素を
Ellwood の交流から明らかにし,また,Milton が描く ‘pacifism’ を再考していきたいと思う.
II
内乱期において「宗教的良心」を得るために,Cromwell といった多くの者が武器を取り,参
戦していった.カルバン主義者の中には戦争には積極的目的があり,聖戦は,真の信仰者の内的,
8
Paradise Regained にみる ‘pacifism’
外的生活に必要不可欠なものであると考えている者もいた.クエーカーの George Fox でさえも
内乱期の初めには,積極的とは言わずとも,武力行使は容認していたのであった.その原因の一
つは,クエーカーの多くはこの世の義のために行使する武力は不可欠であると考える Cromwell
の New Model Army 出身が多かったことにある.しかし,1654 年になると,Fox は「私の武器は
肉によるものではなく,霊によるものである」と Cromwell に手紙を書いているように,武力行
使を容認していない.5 Edward Burrow も Fox に同調し,肉による戦いを否定している.この一連
のクエーカーの武力行使に対する動きを Marx は,クエーカーの ‘pacifism’ への転向と実践と考え,
Milton の戦争と平和に対する考えと parallel にして考えている.すなわち,内乱期を経て変わっ
ていたクエーカーの武力行使に対する態度と Milton の武力行使に対する態度に相似を見出して
いるのである.Marx の定義によれば,クエーカーの ‘pacifism’ とは,暴力を否定しながら政治
や社会変革に関与し,参加していくことをいう.6 確かに Paradise Regained には Marx が主張するような非暴力に訴える姿をイエスに見ること
ができる.
But first I mean
To exercise him in the Wilderness, . . .
. . . I send him forth
To conquer Sin and Death the two grand foes,
By humiliation and strong sufferance:
His weakness shall o’ercome Satanic strength
And all the world, and mass of sinful flesh;
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Victory and triumph to the Son of God
Now ent’ring his great duel, not of arms,
But to vanquish by wisdom hellish wiles.
(PR I, 155-75)7
Paradise Regained には,暴力によらずサタンの誘惑に打ち勝つイエスの姿が予言されている.
この暴力の否定について,具体的にイエスは,サタンの暴力の行使の勧めに対して次のように答
える.
Much ostentation vain of fleshly arm,
And fragile arms, much instrument of war
Long in preparing, soon to nothing brought,
Before mine eyes thou hast set; and in my ear
Vented much policy, and projects deep
Of enemies, of aids, battles and leagues,
Plausible to the world, to me worth naught.
Means I must use thou say’st, prediction else
Will unpredict and fail me of the throne:
My time I told thee (and that time for thee
Were better farthest off) is not yet come;
When that comes think not thou to find me slack
On my part aught endeavouring, or to need
Thy politic maxims, or that cumbersome
Luggage of war there shown me, argument
Of human weakness rather than of strength.
(PR III, 387-402; italics mine)
肉による武具はむなしく壊れやすいものであり,その武具により行使された暴力はこの世には
栄誉となるが,イエスにとっては何の価値にもならない.それはただ人間の弱さを表すものに
過ぎないのである.このイエスの非暴力に訴える姿を Marx はクエーカーの ‘pacifism’ の実践で
川崎 和基
9
あると主張している.
確かに,
Fox や Burrow は ‘pacifism’の実践者である.しかし,彼らは直接 Miltonと交友はなかった.
では,交友があったクエーカーの Ellwood は,Fox や Burrow のような ‘pacifism’の実践者であったの
であろうか.実際,Marx は Ellwood の存在を指摘し,Paradise Regained に ‘pacifism’を見出したと
主張している.しかし,Marx は Ellwood の ‘pacifism’を検証してはおらず,彼が Milton に与えたであろ
う影響についても議論はしていない.このことを考慮すれば,Ellwood の ‘pacifism’と彼との交友によ
り生じたと考えられるMilton への影響を検証する必要があるといえる.
III
そもそも Ellwood が Milton と出会うきっかけになったのは,Isaac Penington の友人である Dr.
Paget の仲介によるものであった.Ellwood は Milton の家の近くに居をかまえ,足しげく Milton
のもとに通っていた.彼が Milton のもとを訪れたのは知的探求からであり,特に,Milton からラ
テン語の手ほどきを受けるためであった.そして,Ellwood は Milton からラテン語の手ほどきを
受ける傍ら,Milton のために詩や散文を朗読していた.その Ellwood は Milton を次のように描写
している.
He [Isaac Penington] had an intimate acquaintance with Dr. Paget, a physician of note in London,
and he, with John Milton, a gentleman of great note for learning throughout the learned world, for
the accurate pieces he had written on various subjects and occasions. This person, having filled a
public station in the former times, lived now a private and retired life in London, and having wholly
lost his sight, kept always a man to read to him, which usually was the son of some gentleman of his
acquaintance, whom in kindness he took to improve in his learning.
(History of Thomas Ellwood 84; italics mine )8
Ellwood によれば,Milton は知識界では学識高く誉れ高い人物で,かつて公職についていたが,
現在は ‘private and retired life’ を ロンドンで送っている.ここで注目したいのは,‘private and
retired life’ という言葉である.ともすればこの言葉を「私的な隠遁生活」というような意味で解
釈してしまう可能性がある.確かに,‘retired life’ を政治活動から身を引き隠退し,隠遁生活を
送っている Milton の暮らしと解釈することは可能であろう.例えば,Michael Wilding が主張し
ているように,この姿に,政治的 ‘quietism’ を信奉し,政治に信をおかず,そこから身を引いた
姿を見いだしている.さらに,Steven Marx は,この姿を十分論議しつくしているとは言えない
9
ものの,むしろそこに非暴力を説く Milton の姿を見出している.
Ellwood が用いる ‘private’ と
‘retired’ という言葉は改めて解釈されなければならないであろう.
This was new work to me, and what the issue of it would be I could not foresee; but being left there
alone, I sat down, and retired in spirit to the Lord, in whom alone my strength and safety were, and
begged support of him, . . . .
(History of Thomas Ellwood 45; italics mine)
But though I gave them the hearing of what they said, which I could not well avoid, yet I said little to
them; but keeping my mind as well retired as I could, I breathed to the Lord for help and strength from
him, to bear me up and carry me through this trial, that I might not sink under it, . . . .
(History of Thomas Ellwood 56; italics mine)
Ellwood が使う ‘private’ と ‘retired’ という言葉は,祈りを捧げ,黙想をしているときに用いられ
る言葉で,単に政治活動から身を引いた隠遁と解釈すべき言葉ではない.Ellwood は神に祈り
を捧げ,黙想をする,すなわち ‘retired’ しているときに,神の言葉をひたすら待ち,神により
動かされるのを待っている.また,祈りをするときに ‘retirement and privacy’ (History of Thomas
Ellwood 109) を望んでいる.Ellwood にとって ‘retired’ という言葉はこのような意味を持つが,
10
Paradise Regained にみる ‘pacifism’
Milton が ‘retired life’ を送っていたと記した Ellwood の目には Milton はまさにこの祈りの状態を
過ごしていたように映ったのであった.すなわち,Ellwood は,Milton は祈りながら神の言葉を
ひたすら待ち,神により突き動かされるのを待っていたと記していたのである.
IV
このように Ellwood は Milton を描写しているが,この Ellwood という人物について少し述べたい.
Ellwood は 1639 年に生まれ,厳格な父のもとで暮らしていた.彼は父親の交友関係から知り
合った Issacc Penington から影響を受けクエーカーとなり,以後 1713 年に亡くなるまで Society
of Friends の活動に従事していた.彼は他のクエーカー同様に,その奇異な行動から,たびたび,
暴徒と化した人々によって襲われた.10 しかし,クエーカーに対する攻撃はこのような民衆側か
らだけではなく,体制側からもあったのである.特にそれは「クラレンドンコード」(‘Clarendon
Code’)(1661-65) によるものであった.クエーカーは王への「誓約」
(‘oath’)をことごとく拒否し,
「秘密集会禁止令」(‘Conventicle Act’)(1664) にも従わず,投獄されたのであった.Ellwood もそ
れにもれることはなかった.
And therefore they [justices] could do no less than tender me the oaths of allegiance and supremacy,
which therefore they required me to take. I told them if I could take any oath at all, I would take the
oath of allegiance, for I owed allegiance to the King; but I durst not take any oath, because my Lord
and Master Jesus Christ had commanded me not to swear at all; . . . .
(History of Thomas Ellwood 57-59; italics mine)
Ellwood は,クエーカーの集会で逮捕され,誓約を拒み幾度も投獄された.Ellwood が頑なに
誓約を拒むのは,Ellwood は,キリストがキリスト以外に誓約をしないようにと命じているのだ
と信じていたからであった.また,強制され自由がない状態での誓約は,無効であると考えて
いたので,Ellwood は王に忠誠を誓うことができなかった.Ellwood やクエーカーたちはこのよ
うにして迫害を受け,投獄されていった.そして,その迫害は監獄においても途絶えることは
なかった.なぜなら,彼らは投獄されようとも頑なに誓約を拒み続けたからであった.したが
って,彼らの投獄は長引くこととなった.
Ellwood が描写しているように,New Gate 監獄はクエーカーで溢れていた.11 しかし,この多
くのクエーカーたちと彼らの長い投獄生活は,看守らに彼らに対する理解と態度を変えていく
ことになった.Ellwood の描写によれば,看守らの態度の変化は,Ellwood たちが New gate 監獄
から Bridewell 監獄へ移送される際,看守もつかず,彼らだけで,移動しているところに顕著に
現れているといえる.12
当然,Ellwood たちは逃げることができた.しかし,彼らは敢えてそれをせず,むしろ彼らが
クエーカーである証明,言い換えれば,平和主義者である証明のため,むしろ苦しみを受ける
という.看守も彼らが逃げると考えず,むしろ彼らが平和主義者であることを認めていた.そ
のようなクエーカーに対する認識は,Bridewell 監獄においても明らかであった.
When we were come to Bridewell, we were not put up into the great room in which we had been
before, but into a low room in another fair court, which had a pump in the middle of it. And here
we were not shut up as before, but had the liberty of the court to walk in, and of the pump to wash
or drink at. And indeed we might easily have gone quite away if we would, there being a passage
through the court into the street; but we were true and steady prisoners, and looked upon this liberty,
arising from their confidence in us, to be a kind of parole upon us; so that both conscience and honour
stood now engaged for our true imprisonment.
(History of Thomas Ellwood 109; italics mine)
Bridewell 監獄では,彼らは以前の処遇とは違い,牢獄は鍵もかけられず自由に出入りでき,と
11
川崎 和基
もすれば町にまで行くことができた.しかし,ここでもやはり彼らは逃げるどころか時が至る
まで監獄に留まっていた.
これが,Ellwood の実践した ‘pacifism’ であり,彼が見たクエーカーの ‘pacifism’ であった.迫
害に対して暴力で抵抗するのではなく,時が来るまで,神に祈りを捧げ,黙想をする,すなわ
ち ‘retire’ しているときに,神の言葉をひたすら待ち,そして,神により突き動かされるのを待
っているのである.Milton が出会った Ellwood はこのようなクエーカーであった.
Milton はこのように ‘pacifism’ を実践する Ellwood に,黒死病広がるロンドンから逃れるため
に,その移住先を託す.Lewalski は,Milton にとってこの黒死病の恐怖は,暗殺の危険よりも差
し迫ったものであったはずであると指摘しているが,この危機の回避を Milton は Ellwood に託
したのであった.13 ここに,Milton の Ellwood に対する絶大な信頼を見ることができるといえよ
う.一方,Ellwood 自身も ‘my master’ と呼んで Milton に絶大な畏敬の念を抱いている.14 このよ
うな互いの信頼関係の中にあって,Milton は Ellwood に Paradise Lost の草稿を見せることになる.
After I had, with the best attention, read it [“Paradise Lost”] through, I made him another visit, and
returned him his book, with due acknowledgment of the favour he had done me in communicating it
to me. He asked me how I liked it and what I thought of it, which I modestly but freely told him, and
after some further discourse about it, I pleasantly said to him, “‘Thou hast said much here of Paradise
Lost,’but what hast thou to say of ‘Paradise Found?’”
(History of Thomas Ellwood 140; italics mine)
Milton に Paradise Lost の草稿についての意見を求められると,Ellwood は,その感想を述べ,
Milton に賛辞を送っている.また,それだけではなく,さらに Milton に ‘Paradise Found’ を要求
する.これに,Milton は次のように答える.
. . . he showed me his second poem, called “Paradise Regained,” and in a pleasant tone said to me,
“This is owing to you, for you put it into my head by the question you put to me at Chalfont, which
before I had not thought of.”
(History of Thomas Ellwood 141; italics mine)
Ellwood は Milton に Paradise Regained を見せられ,これが Ellwood のお蔭であると言われる.
この Ellwood の言葉通り,彼の影響により Paradise Regained が完成することとなったのであ
ろうか.この Ellwood の言葉を Parker や Lewalski は懐疑的にみている.しかし,Ellwood との
交友の後に Paradise Regained ができ,Ellwood が実践したような ‘pacifism’ が Paradise Regained
に見られるとすれば,あながちこの言葉を否定することはできないであろう.そこで,さらに
Paradise Regained を検討してみる必要がある.
V
For whither is he [Messiah] gone, what accident
Hath rapt him from us? will he now retire
After appearance, and again prolong
Our expectation?
(PR II, 39-42; italics mine)
ここには顕現したのち姿が見えないが,荒野へ ‘retire’ している救い主がいる.そして,その救
い主をひたすら待つ信仰者の姿がある.この荒野へ ‘retire’ したイエスは霊と深き思いに導かれ
てきたのであった.それはイエス自身の認識によれば,強い衝動により導かれたのであった.
12
Paradise Regained にみる ‘pacifism’
O what a multitude of thoughts at once
Awakened in me swarm, while I consider
What from within I feel myself, and hear
What from without comes often to my ears,
Ill sorting with my present state compared.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
And now by some strong motion I am led
Into this wilderness, to what intent
I learn not yet, perhaps I need not know;
For what concerns my knowledge God reveals.
(PR I, 196-293)
強い衝動により導かれたキリストは,荒野で黙想に耽っていた.そのときたくさんの思いが
内に目覚め,内側に感じるものと外側から聞こえてくるものに気づく.このように,Milton は荒
野に ‘retire’ しているキリスト描いているが,この姿は,聖書における聖霊の導きにより荒野へ
と向かうキリストの姿と重ねることができる.
さて,この ‘retire’ している状態をサタンは非難する.
. . . and think’st thou to regain
Thy right by sitting still or thus retiring?
So did not Maccabeus: he indeed
Retired unto the desert, but with arms; . . . .
(PR III, 163-66; italics mine)
サタンはローマの属国になったユダヤと約束の地全土で,神殿が荒らされ,律法が汚されてい
るのに静かに座って,‘retire’ したままでいていいのであろうかと,キリストを責める.そして,
マカベのように,武器を携え,戦ってはどうかと勧める.しかし,キリストはサタンの言葉を
退ける.
What if he hath decreed that I shall first
Be tried in humble state, and things adverse,
By tribulations, injuries, insults,
Contempts, and scorns, and snares, and violence,
Suffering, abstaining, quietly expecting
Without distrust or doubt, that he may know
What I can suffer, how obey? Who best
Can suffer, best can do; best reign, who first
Well hath obeyed; . . . .
(PR III, 188-96)
サタンは肉の力による,すなわち暴力による統治を説き,それを行使しないイエスを嘲る.し
かし,そのような嘲笑を受けようとも神への疑念を持たず,ただ,耐え,静かに待ち望み,神
に従うことこそ,よく治めることになるのだとキリストは言う.暴力は行使するのではなく,
それに耐え,時がきて神により動かされるまで静かに待ち望むのであると言う.この神に従う
姿は暴力を行使せず,‘retire’ してひたすら神に祈り,耐え忍ぶ姿である.ここで特筆すべきは,
この姿は明らかに聖書の荒野の誘惑にはない姿である.すなわち,暴力を否定し,自らの意志
で ‘retire’ するイエスは聖書にはない.このイエスの姿は Milton の創作である.そして,イエス
はサタンが主張する暴力の美徳,栄光に対して次のように言う.
But if there be in glory aught of good,
It may by means far different be attained
13
川崎 和基
Without ambition, war, or violence;
By deeds of peace, by wisdom eminent,
By patience, temperance; . . . .
(PR III, 88-92)
野望,戦争,暴力によって栄誉は得られず,それは平和,卓越の知恵,忍耐,節制によって得
られるのであるとイエスは言う.Milton は明らかに戦争や暴力を否定し,‘retire’ して黙想する
イエスを描いている.このイエスの言葉を実践したのが宗教的良心を暴力によってではなく,
平和,忍耐,節制によって得ようとした,Ellwood であった.ここに,まさに ‘pacifism’ を実践
した Ellwood の姿を重ね合わせることが可能ではないであろうか.しかし,この姿には Marx が
言うような政治を行う姿はない.「よく耐えることができる者がよく行うことができる.はじ
めによく従った者が,よく治めるのだ.」( “Who best / Can suffer, best can do; best reign, who first /
Well hath obeyed” )(PR III, 194-96) とは,暴力を行使せず,迫害に耐え,神に従ったものが自分
をよく治めるのであって,暴力を行使せず,迫害に耐え,神に従ったものが政治をよく行うこ
とができると解釈すべきではない.したがって,Marx が言う ‘pacifism’ は Fox や Burrow が実践
したような,‘pacifism’ であり,Ellwood が実践したものとは異なるといえる.Milton が Paradise
Regained で示している ‘pacifism’ はむしろ Ellwood のものである.
以上,Paradise Regained にみる ‘pacifism’ を再考してきた.Paradise Regained の静的イエスは,
Edward Phillips が評していたように,ある読者には Paradise Lost や Samson Agonistes よりも劣っ
て見えたかもしれない.しかし,ある特定の読者,すなわち,少なくとも Ellwood のようなクエ
ーカーにはそうは見えなかったに違いない.Ellwood との交友によって Paradise Regained が世に
出るに至った可能性は否定できない.その論拠となるのが Paradise Regained にみる暴力を否定
し,‘retire’ し黙想を行うイエスの ‘pacifism’ と Ellwood 自身が実践した ‘pacifism’ であるといえ
る.Ellwood が見た Milton も ‘pacifism’ の実践者であった.Paradise Regained にみる ‘pacifism’ は
したがって,Marx が言う Fox や Burrow が実践した ‘pacifism’ とは異なる.しかしながら,Marx
が着眼した ‘pacifism’ は Milton とクエーカーとの関係にさらなる議論の可能性と Milton の作品
にクエーカー的要素を見出す可能性を与えたという点で評価に値するといえる.
注
1
Edward Phillips, The Life of Mr. John Milton, ed. Helen Darbishire The Early Lives of Milton (London: Constable,
1932) 75-76.
2
Steven Marx, “The Prophet Disarmed: Milton and the Quakers,” Studies in English Literature 32 (1992): 111-28.
Michael Wilding, Dragons Teeth: Literature in the English Revolution (Oxford: Oxford UP, 1987).
3
William Riley Parker, Milton: A Biography, vol. 1 (Oxford: Clarendon, 1968) 2 Vols. 597-98. Barbara K. Lewalski,
The Life of John Milton (Oxford: Blackwell, 2000) 451.
4
David Loewenstein, Representing Revolution in Milton and His Contemporaries: Religion, Politics, and Polemics in
Radical Puritanism (Cambridge: Cambridge UP, 2001).
5
George Fox, The Journal of George Fox, ed. John L. Nickalls (London: Cambridge University P, 1952) 198.
6
Marx 115-17.
7
Paradise Regained の引用はすべて,John Carey, ed., John Milton, John Milton: Complete Shorter Poems (1968,
London and New York: Longman, 1992) からとし,以下 PR と記す.
8
History of Thomas Ellwood by himself の引用はすべて Thomas Ellwood, The History of Thomas Ellwood Written
by Himself, ed. Rosemary Moore (Croydon: Altamira P, 2004) からとし,以下 History of Thomas Ellwood と記
す.
14
Paradise Regained にみる ‘pacifism’
9
Wilding 251-57. Marx 123.
10
History of Thomas Ellwood 52.
11
History of Thomas Ellwood 108.
12
History of Thomas Ellwood 108-09.
13
Lewalski 414.
14
History of Thomas Ellwood 86.
Proceedings of the 59h Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
二つの The Empress of Morocco
̶王政復古期の「見世物」̶
松田 幸子
Elkanah Settle による The Empress of Morocco (1673) 1 は,豪華な背景,舞台装置の多用,グロ
テスクな流血場面のために,イングランド王政復古期演劇のスペクタクル性を指摘する文脈で,
出版時に付せられた挿絵と共に言及されることが多い.2 チャールズ 2 世統治下のイングランド
における,音楽についての記録を多数残した Roger North は,Morocco について次のように述べ
ている.
And now we turne to the publik theatres. It had bin strange if they had not observed this promiscuous
tendency to musik, and not have taken it into their scenes and profited by it. The first proffer of
theirs, as I take it, was in a play of thick-scold-poetaster Elkanah Setle, called The Empress of
Morocco; which had a sort of masque poem Orpeus and Euridice, set by Mr M. Lock, but scandalously
performed. It begins “The Groans of Ghosts,” &c. and may be had in print. (306)
ここで Settle は North によって,
「愚鈍なへぼ詩人」“thick-scold-poetaster” と称されており,劇中
で演じられた仮面劇にいたっては,
「憤慨にたえない様子」“scandalously” で演じられたとある.
しかしこの劇は興業的には成功した.その成功をうけて Thomas Duffett によるバーレスク
The Empress of Morocco が,翌 1674 年に国王一座によって演じられる.1691 年に出版された An
Account of Dramatick Poets で,Langbain は Duffett に関して以下のような論評を加えている.
An Author [Duffett] altogether unknown to me, but his Writings; and by them I take him to be a
Wit of third Rate: and One whose Fancy leads him rather to Low-Comedy, and Farce, than Heroick
Poetry. He has written three Plays; Two of which were purposely design’d in Burlesque Stile: but are
intermixt with so much Scurrility, that instead of Diverting, they offend the modest Mind. (177)
Langbain は Duffett を「第三級のウィット」“a Wit of third Rate” であると断じている.このような同
時代の批評,すなわち Settle は詩よりも音楽・舞台装置等のスペクタクルの点で秀でた劇作家であ
るとする傾向は現在でも続いており,一般的には Duffett のバーレスクもそのスペクタクル性こそ
を揶揄したものであるとされている.3 すなわち,悪趣味なスペクタクル英雄劇 Morocco と,それ
を矮小化したバーレスク Morocco という構図である.しかしながら,1670 年代の劇場世界におけ
る反 Morocco の動きは,バーレスクにとどまるものではない.桂冠詩人 John Dryden は,人気劇作
家であった Thomas Shadwell,John Crowne と組み,匿名で新人劇作家 Settle を批判するパンフレッ
ト Notes and Observations on The Empress of Morocco (1673) 4 を出版しているのである.このような
反 Settle の動きをどのように解釈すべきであろうか.Settle の Morocco は特殊効果を多用したグ
ロテスクな「見世物」で,Duffett の Morocco はそれを揶揄したバーレスクにすぎないのか.本論
では Dryden らによる Settle 批判,NO を中心に,同時代の反 Settle の動きを確認することで,王政
16
二つの The Empress of Morocco̶王政復古期の見せ物̶
復古期の劇場空間において形成されつつあった,ある「境界」を明らかにする.その際に,Duffett
によるバーレスク Morocco はどのように機能したのかを探ることが,本論の目的である.
Ⅰ
当時の反 Settle の動きのひとつが Dryden,Shadwell,Crowne らによるパンフレット Notes and
Observations on The Empress of Morocco である.その中で Dryden らは Settle の Morocco の一字一
句を詳細に検討し,その欠点をあげつらっている.彼らは Settle を批判する際に,次のような戦
略をとる.
Yet since the common Audience are much of his levell, and both the great Vulgar and the small (as
Mr. Cowly calls them) are apt to admire what they do not understand; and think all which rumbles is
Heroick. . . . With these Men, they who laugh at him, will be thought envious, for they will be sure
to rise up in Arms for Non-sense, and violently defend a cause, in which they are engag’d by the tyes
of Nature and Education. But it will be for the benefit of Mankind hereafter, to observe what kind of
People they are, who frequent this Play: that Men of common sense may know whom to shun.
(“Preface”)
ここで,Drydenらによって,センス/ノンセンスの差異化が計られていることが確認できる.Drydenら
はセンス/ノンセンスという関係性によって自らとSettle を峻別し,Settle にノンセンスのレッテルを貼る
ことで,Settle を自らの領域から排除しようと試みているのである.では,Drydenらをそのような排除
行動に駆り立てるものは何に由来するものであろうか.NO が排斥しようとしている,Settle の Morocco
のいくつかの要素の中のひとつと思われるものを挙げ,考察を加える.
Ⅱ
モロッコ皇帝が息子 Muly Labas とその恋人を反逆者として捕らえ,殺そうとするプロットを
批判した後に,Dryden らは次のように論調を変える.
As to the matter of Plots I dare be Compurgator both for Muley Labas and for the Poet, Our Elkanah
shall never suffer for Treason in the Raign of King Charles the Second. He is certainly the most
Innocent servant his Majesty has; and therefore I am sorry that I finde by the Gazette he must loose his
priviledge of poet in extraordinary to his Majesty. (268)
Dryden らは,突然チャールズ 2 世の名をあげ,Settle は王に対する反逆の為に罰されることはな
いと述べている.この記述によって,Dryden らが Settle のモロッコと,イングランドとの関連性
に気付いていたことがうかがえる.血みどろの惨劇が繰り広げられる,Settle の混沌としたモロッ
コは,同時代のイングランドと接続可能な場なのである.その際に,無意識的,あるいは意識的
に,
観客は Morocco から過剰ともいえる政治的意味を受け取ってしまうことになる.そのひとつが,
当時イングランドにおける最大の関心事でもあった,王位の継承に関する問題である.
Settle のモロッコでは,帝位は常に正統性を欠いた形で継承される.まず,皇帝が妻の Laula
とその愛人で廷臣の Crimalhaz との共謀によって毒殺される.息子の Muly Labas が帝位を継ぐが,
すぐまた Crimalhaz らによって殺害され,今度は Crimalhaz が皇帝となる.この Crimalhaz を倒
して即位するのが Muly Hamet である.彼は王族ではあるものの,嫡流ではない.彼が帝位につ
いた所以は武勇,特に海軍における功績にあった.Crimalhaz は自分の簒奪行為に関し以下のよ
うに述べる.
Crim.
Though on the Blood of Kings my Throne I’ve built,
The World my Glory sees, but not my Guilt.
Mystrious Majesty best fits a Throne.
(5.1.1-3) 5
17
松田 幸子
このような不安定な継承にともなって,モロッコ国内に大きな混乱が生じていく.上記の台詞
をとって,Dryden らは次のように述べる.
This is one of his [Crimalhaz’s] Sentences; which are commonly sounding Nonsense. For why
Misterious Majesty becomes a Throne better than plain Majesty, is to me Misterious riddle. (250)
Crimalhaz の「謎めいた君主こそが玉座に相応しい」“Mystrious Majesty best fits a Throne” とい
う台詞は「ノンセンス」“Nonsense” であるとし,Dryden らはこの言葉こそ「謎めいた謎かけ」
“Misterious riddle” であると揶揄している.まさにここでは,Settle のモロッコにおける不安定な
継承こそが批判の対象となっているのである.
5 幕 2 場で,Crimalhaz の切断された死体を前に,Abdlecador は以下のように述べる.
Abd.
See the reward of Treason; Death’s the thing
Distinguishes th’Usurper from the King.
Kings are immortal, and from Life remove,
From their Low’r Thrones to wear new Crowns above;
But Heav’n for him has scarce that bliss in store:
When an Usurper dies he raigns no more.
(5.2.213-218)
Abdlecador は,死こそが王と簒奪者とを分けるものであると宣言するが,逆にいえば二者を区別
するものは,死のみなのである.残虐な処刑,すなわち元王の切り刻まれた身体なしには,正
統な継承が行われないとするこの場面は,イングランドにとって過去の記憶であり,同時に未
来の不吉な予言である.
Crimalhaz の切断された死体で喚起されるのは,無論,王政復古期前,内乱期の「王の処刑」の記
憶であったであろうが,同時にこの場面には 1670 年代的な継承問題に関する関心も書き込まれ
ている.1670 年代前半のイングランドでは,王と正妻キャサリン・オブ・ブラガンザとの間に子供
がないことから,誰が王位を継ぐかが目下の関心事となっていた.候補となっていたチャールズ
の弟ジェイムズが,1673 年にカトリックへの改宗を明らかにしたのである.カトリックの王を戴
6
くわけにはいかない議会からは,ジェイムズの王位継承に疑問の声があがっていた.
Morocco が
上演されたのは,このような不穏な情勢下においてであった.ジェイムズのカトリックへの改宗
が明らかになった 1673 年に書かれた,作者不明の風刺詩 Advice to a Painter to Draw the Duke by に
7
おいて,チャールズ 2 世は次のような忠告を受けている.
Let not thy [Charles’s] life and crown together end,
Betray’d by a false brother and false friend.
Observe the danger that appears so near
And all your subjects do each minute fear:
A drop of Poison or Popish knife
Ends all the joys of England with thy life
Brothers, ’tis true, by nature should be kind,
But to a zealous and ambitious mind,
Brib’d with a crown on earth and one above,
There’s no more friendship, tenderness, or love.
(Lord 219)
ここにははっきりと,「毒の一滴あるいはカトリックのナイフ」“A drop of Poison or Popish knife”
によって,後継者の手で殺される王のヴィジョンが書き込まれている.このようなイングラン
ドにおける継承問題への不安は,Settle の描いたモロッコでの継承への不安と同根のものである
と考えられる.不安定な継承による宮廷の騒乱と,その結果,処刑される簒奪者を,過剰なス
ペクタクルによって視覚化している Morocco は,Dryden らが Settle の「無罪」“Innocent” を擁護
18
二つの The Empress of Morocco̶王政復古期の見せ物̶
する程度には,危険を孕んだ劇だったのではないかと考えられる.
それゆえに,NO において Dryden らはこの危険な劇を,自らの領域外に位置づけようとする.
He [Settle] was arrogant, because he saw not his own mistakes . . . that his Tragedy is turn’d round
into a Farce, and the judicious part of his Audience came only to laugh, as they did to Harlequin and
Scaramucha. (265)
ここで Morocco は,
「道化芝居」“Farce” であるとして,Dryden らが書く英雄劇の埒外に置かれる.
And for this no doubt it was our Poet was so much courted . . . as if he had lately come out of Asia or
Affrica with strange kinds of Dromedaries, Rhinoceroses, or a Cambises, a Beast more monstrous than
any of the former. (197)
さらにここで Settle は,「アジアやアフリカからきた」“he had lately come out of Asia or Affrica” と
され,「ラクダやサイやカンビュセス」“Dromedaries, Rhinoceroses, or a Cambises” に例えられる.
Settle は劇場世界だけでなく,イングランドから排除されてしまうのである.Dryden らにとって
Morocco はノンセンスでなければならない.Morocco は,その舞台が,イングランドではなくモ
ロッコにある限りにおいて,ノンセンスかつ,イノセントでいられるのである.
Ⅲ
では,この時 Duffett によるバーレスク Morocco はどのように機能するだろうか.バーレスク
Morocco は,Settle による Morocco の成功を受けて作られたカウンター・アトラクションに過ぎな
いのだろうか.
バーレスク Morocco の舞台は同時代のロンドンに設定されている.そこは皇帝,女帝,将軍が英
雄劇を繰りひろげる場ではなく,荷車引きや,娼婦や煙突掃除人が酒宴で騒ぎまわる場である.す
なわちこのバーレスクは,Settle の Morocco のプロットを極端に矮小化・猥雑化したうえでなぞ
っているものと考えられるが,単なる矮小化・猥雑化と片付けることのできない変更点もいくつ
か確認できる.
Muly Ham. Thus stript of thy black gowns protection,
I order thee Gentle correction;
Tied up to post, instead of Gaunches,
Thou shalt be drubb’d on thy haunches. (1. 2. 188-191)8
ここでは,鉤刺しというショッキングな処刑法が回避されるだけでなく,処刑される人物も簒奪
者 Crimalhaz から,その友人の教区司祭 Hamet Alhaz に変更されている.これによって,Settle の
Morocco に含まれていた政治的な意味は,薄められることとなる.すなわち,もはや内乱期の王
の処刑に関する記憶は喚起されず,さらに同時代的関心である継承問題にも抵触しない.加えて,
バーレスクでは誰一人死者が出ない.死んだと思われた Muly Labas は酒に酔っているだけであ
る.バーレスク Morocco は,スペクタクルの多用によって,あまりに危険なものとなってしま
った Settle の Morocco から,スペクタクル要素を減らすことで,政治的含意を抜き出し,笑いに
転化させる試みであると考えられる.
1670 年代に巻き起こった反 Settle の動きは,Settle 劇の内包する危険性に由来するものである
と考えることができる.Dryden らは,正常に行われない継承を 1670 年代ロンドンの劇場でえが
く危険性にすばやく反応した.その結果が,NO における,Settle を自らの領域から排除しようと
する試みにつながっていくのである.またその際,Duffett のバーレスクは,Settle 劇の抱える不
安を,過剰なスペクタクルを取り除くことで隠蔽する機能を果たしているといえる.すなわちこ
松田 幸子
19
れら二つの Morocco は,単なるスペクタクルとそのバーレスクにとどまらない,王政復古期の劇場世界
におけるダイナミックな相関関係を,われわれに示している劇であると考えられるのである.
Notes
1
2
本稿において,以降同名タイトルを Morocco と略記し,作者名を明記することで,その区別つけるもの
とする.
Jean I. Marsden, “Spectacle, horror, and pathos,” ed. Deborah Payne Fisk, The Cambridge Companionto English
Restoration Theatre (Cambridge: Cambridge UP, 2000)176 を参照.
3
Duffett のバーレスクは当時生成されつつあった,ドラマティック・オペラの華美さへの批判にもなって
いる.バーレスク Morocco のエピローグは,オペラ版 Macbeth の魔女の場面のパロディ.Ronald Eugene
DiLorenzo, “Introduction,” Thomas Duffett, Three Burlesque Plays of Thomas Duffett (Iowa: U of Iowa P, 1972)
xviii を参照.
4
本稿において,以降これを NO と略記する.
5
Elkanah Settle, The Empress of Morocco, ed. Ann T. Doyle, Elkanah Settle’s The Empress of Morocco and
Controversy Surrounding it: A Critical Edition (New York: Garland Pub., 1987). 本論における Settle の The
Empress of Morocco からの引用は,すべて同版から行うものとし,幕,場,行数を括弧内に示す.
6
Ronald Hutton, Charles II: King of England, Scotland, and Ireland (Oxford: Clarendon Press, 1989) 308-309 参照.
7
出版は Popish Plot 発覚後の 1679 年.George deF. Lord, ed., Poems on Affairs of State: Augustan Satirical Verse,
1660-1714, vol. 1 (New Haven: Yale UP, 1963) 213 を参照.
8
Thomas Duffett, The Empress of Morocco, ed. Ronald Eugene DiLorenzo, Three Burlesque Plays of Thomas Duffett
(Iowa: U of Iowa P, 1972). 本論における Settle の The Empress of Morocco からの引用は,すべて同版から行
うものとし,幕,場,行数を括弧内に示す.
Bibliography
Dryden, John, Thomas Shadwell, John Crown. Notes and Observations on The Empress of Morocco. Elkanah Settle’s
The Empress of Morocco and the Controversy Surrounding it: A Critical Edition. Ed. Anne T. Doyle. New York:
Garland Pub., 1987.
Duffett, Thomas. Three Burlesque Plays of Thomas Duffett. Ed. Ronald Eugene DiLorenzo. Iowa: U of Iowa P, 1972.
Engetsu Katsuhiro. 圓月勝博「王権的奴隷のボディペイントを読む̶王権復古期文壇のエスノグラフィ̶」
末廣幹編『国家身体はアンドロイドの夢を見るか』ありな書房 , 2001.
Hutton, Ronald. Charles II: King of England, Scotland, and Ireland. Oxford: Oxford UP, 1989.
Langbaine, Gerald. An Account of Dramatick Poets. Ed. Arthur Freeman. New York: Garland Publishing, 1973.
Lord, George deF., ed. Poems on Affairs of State: Augustan Satirical Verse, 1660-1714. Vol. 1. New Haven: Yale UP,
1963.
Marsden, Jean I. “Spectacle, horror, and pathos.” Ed. Deborah Payne Fisk. TheCambridge Companionto English
Restoration Theatre. Cambridge: Cambridge UP, 2000.
North, Roger. Roger North’s Writing on Music to c.1703. Kensington: School of English, U of New South Wales, 1986.
Orr, Bridget. Empire on the English Stage 1660-1714. Cambridge: Cambridge UP, 2001.
Settle, Elkanah. The Empress of Morocco. Elkanah Settle’s The Empress of Morocco and the Controversy Surrounding
it: A Critical Edition. Ed. Anne T. Doyle. New York: Garland Pub., 1987.
Proceedings of the 59h Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
〈帝国〉の犯罪システム:『乞食オペラ』と野蛮な黒人
吉田 直希
ジョン・ゲイの『乞食オペラ』は,ダニエル・デフォーの『モル・フランダース』やヘンリー・
フィールディングの『ジョナサン・ワイルド』とならんで,18 世紀を代表する犯罪文学の傑作で
ある.1728 年 1 月,リンカーンズ・イン・フィールズ劇場で初演をむかえたこの『乞食オペラ』は,
18 世紀を通して最大のヒットを記録し,劇場の支配人ジョン・リッチと作者ゲイの関係が,次の
ように言われていたという逸話はあまりに有名である.「リッチは陽気(gay)に,ゲイは金持ち
(rich)になった」と.
『乞食オペラ』の登場人物とストーリーは以下のようになる.追い剥ぎ一味のボスであるマッ
クヒースが,ポリーとルーシー,二人の女性と関係をもったところから話は始まる.盗品回収
業者のピーチャムとその妻ミセス・ピーチャムは,娘ポリーがマックヒースと結婚することに強
く反対している.盗品回収業であることが公になること(それは彼らにとって死刑になること
を意味する)を恐れるピーチャムは,ポリーがどうしても結婚をあきらめない(すでに結婚し
てしまっている)ことを知り,先手を打って,娘の夫を告発し死刑にしてしまおうとたくらむ.
いったんは,ニューゲイト監獄に入れられるマックヒースであるが,刑務所の所長であるロキ
ットの娘(ポリーのライバル)ルーシーが恋人の脱獄を手助けし,脱獄に成功する.だが,結
局は密告,裏切りによって彼は監獄に連れ戻され,処刑が決まり,タイバーン行きということ
になる.ところが,突如ここで,劇の序幕にも登場する乞食(作者フィギュア)と役者(その
話し相手)が再び登場し,
「執行猶予」(reprieve)を宣言し,マックヒースは死刑を免れることと
なり,最後は野次馬たちも参加し,みんなで陽気にダンスを踊っている中,幕はおりる.
主な登場人物にはモデルとなった実在の人物がおり,ピーチャムとマックヒースはそれぞれ,
当時の代表的な犯罪者ジョナサン・ワイルドとジャック・シェパードがモデルである.女性陣に
ついては,ポリーとルーシーは,フランチェスカ・クッツォーニとファウスティーナ・ボルドー
ニという,ライバル関係にあった,当時人気のオペラ歌手だと言われている.さらに,当時の
首相ウォールポールに対する言及は,ピーチャム,マックヒース,あるいはその手下のロビン
など複数の人物を通してなされている.このように,『乞食オペラ』という作品は,1720 年代の
政治的・社会的状況を色濃く反映したバラッド・オペラとして大成功を収め,今日まで,その政
治的諷刺の鋭さという点で高く評価されてきた.
I
『乞食オペラ』では,舞台はニューゲイト監獄とその周辺(ピーチャムの盗品保管庫や居酒屋,
賭博場)に設定され,観客は 18 世紀初頭の犯罪世界の一端を目の当たりにすることになる.し
かしながら,ここで注意しなければならないのは,この裏世界には現代的な意味でのリアルさ
吉田 直希
21
といったものはなく,政治色の強いパロディ化された犯罪世界だという点である.当時すでに
ワイルドやシェパードについて新聞やパンフレット,ピリオディカルを通してかなりの知識を
得ていた観客にとって最も興味深かったのは,現実そのものをリアルに再現するという意味で
のリアリズムではなく,グラブストリート版の犯罪世界というフィクションを笑いの対象とし
てしまう『乞食オペラ』のパロディ性であったと思われる.
この劇の過剰なまでのパロディ性は,初演から 50 年近くたった 18 世紀後半の上演でも確認
される.John Brewer は The Pleasures of the Imagination の中で,ゲイのパロディ,諷刺が持って
いた意味が時間,時代と共に変化してきた点に注目している.それは極めて当然のことで,初
演当時にタイムリーであった政治的諷刺,ウォールポールに対する辛らつな揶揄も,彼の死後
30 年以上も経った 70 年代以降ではその効力を失っていたとしても不思議ではないだろう.
この時期の『乞食のオペラ』は,社会のモラルとりわけジェンダーの乱れを諷刺するもので
あった(図1).異性装の導入による男女の役割の攪乱にこそこの劇の中心的主題が設定されて
いるのだ.原作・オリジナルの『乞食オペラ』がもつ人間の裏表あるいは階級の上下関係の転倒は,
ジェンダーの逆転に置換されている.20 年代の『乞食オペラ』にはなかった(あるいは表面的
には認められない)性差・ジェンダーの曖昧さという新しいテーマの登場からは,元祖『乞食オ
ペラ』がコピーの元ネタ,言い換えれば,キャノンとして認められるようになったとも言うこ
とができるだろう.この劇にはこのような果てしないオリジナル/コピーの繰り返しをいざな
うような構造が隠されているようである.
この 70 年代以降のジェンダーの曖昧さという新しい視点に注意して,もう一度この作品を
読み返すと,ピーチャム夫妻の描写に,ジェンダー逆転の兆候が見られることに気づかされる.
娘ポリーがマックヒースとの結婚を望んでいるのを知ったピーチャムはものすごい剣幕でポリ
ーを,“But if I find out that you have played the fool and are married, you jade you, I’ll cut your throat,
hussy.” (The Beggar’s Opera 54)1 と,叱りつける.そして,この少し後で,同じような言葉が用い
られ,さらに,愚か者,間抜けと娘を口汚くののしる台詞がある.
I knew she was always a proud slut; and now the wench hath played the fool and married, because
forsooth she would do like the gentry. Can you support the expense of a husband, hussy, in gaming,
drinking and whoring? Have you money enough to carry on the daily quarrels of man and wife
about who shall squander most? There are not many husbands and wives, who can bear the charges
of plaguing one another in a handsome way. If you must be married, could you introduce nobody
into our family but a highwayman? Why, thou foolish jade, thou wilt be as ill-used, and as much
neglected, as if thou hadst married a lord!
PEACHUM. Let not your anger, my dear, break through the rules of decency, for the Captain looks
upon himself in the military capacity, as a gentleman by his profession. (The Beggar’s Opera 55-56)
“played the fool” と先ほどと同じ言葉こそ使っているものの,この激高した台詞は,実はミセス
・ピーチャムの台詞である.彼女は最初,ポリーの恋愛に同情的だったが,いつのまにか夫以上
に娘を非難するようになり,むしろ夫のピーチャムの方が,娘に同情的になり,二人の役割は
逆転する.この他にも愛に浮かれた娘を口汚くののしるミセス・ピーチャム,マックヒースを早
く処刑すべきだと主張するミセス・ピーチャムが描かれているが,夫は,そのような時,どちら
かというとマックヒースに対する同情心のようなものを示す.だが初演当時の 20 年代にはおそ
らくこうした夫婦という男女間の役割の逆転は問題視されることはなかった,少なくとも異性
装によって前景化され,劇の中心的なテーマに据えられることはなかったようである.
II
では時代の推移によって様々な解釈,コピーを生み出すこの作品は,どのようなコンテクス
22
<帝国>の犯罪システム:『乞食オペラ』と野蛮な黒人
図1
図2
図3
吉田 直希
23
トの中で生まれ,他のテクストにどのような影響を与えたのだろうか?次に,『乞食オペラ』の
ブリコラージュ的な寄せ集めという特徴に注目して,テクスト/コンテクストの相関関係を確
認していきたい.すでに述べたように,この作品は第一に政治的諷刺を目的とするものであるが,
そもそも諷刺(satire)とはメニッポス的「寄せ集め」(medley)であるため,ゲイは,様々なソー
スから題材を借用し,あるいは密かにそれらを転用して,新しいストーリーを作り上げている.
ここでは特に犯罪文学のお決まりのパターンに注目しておきたい.
次の引用は,死刑囚の最後の悔い改め(dying confession)を記録したテクストからのものである.
Good People, take warning by my Fall; you see I am a young Man, who by my Sins, have shortened
my Days, and brought my Self to this shameful but deserved Death . . . Live not as I have done, lest
you come to the like sad and untimely End. Break not the Sabbath Day and keep not Company with
wicked Men and lewd Women, as I have done . . . Avoid all manner of Sin, even the smallest; for from
one little Sin Men easily fall to the Commission of greater ones.
(A Compleat Collection of Remarkable Tryals of the Most Notorious Malefactors 186-87)
このようなテクストは監獄の教誨師や大衆ジャーナリズムが作り上げたきわめてポピュラーな
物語であった.当時,このような物語は数多く流通しており,犯罪者を扱った作品は多かれ少
なかれその影響を受けていただろう.『乞食オペラ』も例に漏れず,マックヒースの次の台詞は,
その言葉の一致からも,上述の引用から影響を受けていることは明らかである.
MACHEATH. For my having broke prison, you see, gentlemen, I am ordered immediate
execution. The Sheriff’s Officers, I believe, are now at the door. That Jemmy Twitcher should peach
me, I own surprised me! ’Tis a plain proof that the world is all alike, and that even our gang can no
more trust one another than other people. Therefore, I beg you, gentlemen, look well to yourselves, for
in all probability you may live some months longer.
MATT. We are heartily sorry, Captain, for your misfortune. But ’tis what we must all come to.
MACHEATH. Peachum and Lockit, you know, are infamous scoundrels. Their lives are as much
in your power, as yours are in theirs. Remember your dying friend! ’Tis my last request. Bring those
villains to the gallows before you, and I am satisfied.
MATT. We’ll do’t.
JAILOR. Miss Polly and Miss Lucy entreat a word with you.
MACHEATH. Gentlemen, adieu.
(The Beggar’s Opera 118-19)
ここでのマックヒースの台詞は,自分の早すぎる死(untimely end)を嘆くと同時に,残された者
たちに犯罪者と関わりをもたないように “keep not Company with wicked Men and lewd Women”,と
警告を与えている.とはいっても,生き長らえて,たかだか数ヶ月,また犯罪者との関わりを
断つといっても犯罪そのものは決してなくならないことが,ここにははっきりと表されている
のであるが.さらに,このマックヒースの後悔の念を受けて,ミントのマットは “But ’tis what
we must all come to” と返答する.このとき,観客は物語が悪党の処刑というかたちで終わること,
つまり舞台がタイバーン処刑場に変わると予期することになる.
しかし,その予感,期待はこの後すぐに裏切られる.冒頭で見たように,役者と乞食が登場
してきて,劇の筋に変更を加えるのである.
PLAYER. But, honest friend, I hope you don’t intend that Macheath shall be really executed.
BEGGAR. Most certainly, sir. To make the piece perfect, I was for doing strict poetical justice.
Macheath is to be hanged; and for the other personages of the drama, the audience must have supposed
they were all either hanged or transported.
PLAYER. Why then, friend, this is a downright deep tragedy. The catastrophe is manifestly
wrong, for an opera must end happily.
BEGGAR. Your objection, sir, is very just; and is easily removed. For you must allow, that in this
kind of drama, ‘tis no matter how absurdly things are brought about. So—you rabble there—run and
24
<帝国>の犯罪システム:『乞食オペラ』と野蛮な黒人
cry a reprieve?let the prisoner be brought back to his wives in triumph.
PLAYER. All this we must do, to comply with the taste of the town.
(The Beggar’s Opera 120-21)
彼らは,“an opera must end happily” と主張し,マックヒースの「執行猶予」(reprieve)を叫ぶ.こ
のように,『乞食オペラ』は,犯罪文学のおきまりのパターンを引用し,さらに,それを逆転さ
せる性質をもっているのだ.
また,次の引用は,第一幕でポリーが囚人護送車に乗せられたマックヒースを想像して涙を
流す場面である.
POLLY. Now I’m a wretch, indeed. Methinks I see him already in the cart, sweeter and more
lovely than the nosegay in his hand! I hear the crowd extolling his resolution and intrepidity! What
vollies of sighs are sent from the windows of Holborn, that so comely a youth should be brought
to disgrace! I see him at the tree! The whole circle are in tears! Even butchers weep! Jack Ketch
himself hesitates to perform his duty, and would be glad to lose his fee, by a reprieve. What then will
become of Polly!
(The Beggar’s Opera 64)
マックヒースが刑場へと連れて行かれる様子を想像し,涙するという内容は,グラブストリー
ト版のロマンスというより,ロマンスを読みながら自らを悲劇のヒロインと勘違いしてしまう
女性読者を揶揄していると解釈できるだろう.
要するに,観客がいだく期待なり予想を強く意識化させ,一段上のレベルに立ってこの劇を
笑い飛ばす,言い換えれば,メタレベルでの娯楽が『乞食オペラ』のもう一つの特徴となって
いるのだ.①「さまざまな要素の寄せ集め」と②「メタレベルに立った笑い」という二点によって,
この作品は興味深いものになっていると言うことができるだろう.
III
『乞食オペラ』は寄せ集めから成り立つフィクションなのだが,それだけにはとどまらない.
この作品は原料とも言うべき元の素材の中へ自らを差し戻すことで,再び現実と強く結びつい
ていく.オリジナル/コピーというキーワードでこれを言い換えると,現実社会の断片をつな
ぎ合わせたコピーの寄せ集め的『乞食オペラ』が,今度は別なところで切り取られ生活の一部
となっていくということになる.こうしてこの作品はオリジン(起源),元ネタを表す作品へと
姿を変えることになる.例えば,『乞食オペラ』の「キャラクター・カード」が実際に庶民の遊
びの中でそして賭博場で使われていたのだ.この作品はバラッド,オペラ,小説,絵画,各種
カードから雑多な要素を借用し,今度は,カード,版画,そして小説へと差し戻す,そういう
相互関係を結んでおり,まさにインター・テクスチュアリティがこの劇をめぐって実践されてい
たのである.
そのような中でも,とりわけ『乞食オペラ』は,絵画,特にウィリアム・ホガースの一連の版
画作品に与えた影響が大きかったと考えられている.ゲイとホガースとの間にどのようなインタ
ー・テクスチュアリティが認められるかを,以下で確認したい.まず,表面的な,明らかな両者
のつながりを指摘しておきたい.ホガースは,
『乞食オペラ』初演の翌年 1729 年にこの劇の一幕,
ポリーとルーシーがそれぞれの父親にマックヒースの赦免をもとめる場面を描いている(図 2)
.
ここで注目すべきことは,右端に,原作に登場しない,ポリーを真剣に見つめる黒人の少年
が出てきている,という点である.どうして,原作にいない人物をわざわざホガースは登場さ
せたのだろうか.
その答えを考える前に,まず,ホガースの代表的な版画『一日の四つの時̶昼』を使って,
ゲイとホガース両者に共通する①「さまざまな要素の寄せ集め」と②「メタレベルに立った笑い」
吉田 直希
25
という二点を確認しておきたい(図3).
この絵では,左右を分ける中央の溝によって,二つの世界が分けられている.日曜日の礼拝
を終えて教会からでてきた右側の富裕な人々,そして,左側にいる,食べものと性(セックス)
に対する執着をあからさまに見せる居酒屋周辺にいる野蛮な下層階級,両者の対比がここには
描かれている.右端でキスをしている老婆は瓜二つで鏡に向かってキスをしているようにも見
える.手前の男の子はすぐ後ろの伊達男(beau)と外見上同じだが,水溜りに写った自分の姿に
うっとりしているという点では老婆のナルシシズムともつながりをもつ.左側にも様々の要素
̶居酒屋の窓(二階)で言い争いをして肉を落としてしまう女性,パイを運ぶ若い女とその女
に後ろから抱きついてキスを迫る黒人男性,落ちたものを貪り食らう女の子等が見つけられる.
ここでは特に,二階で言い争っているこの女に突き刺さっているかのように見える槍形の鉄棒
が表している視覚的なトリックと,左端にいるホッテントット型の黒人男性に注目してみたい.
まず,槍形の鉄棒がもつ視覚的なトリックだが,現実にはこの槍の先が女性の頭に刺さること
はない.手前の看板,Good Eating という文字が見える看板のとがった鉄棒と奥の,二階の窓か
ら身を乗り出している女性との間には何メートルかの距離があり,両者の間には何の関係もな
い.刺さるはずのない矢が刺さっているかのように見えているだけなのだ.さらに奥の首なし
女性の看板の場合も同様に遠くの建物の壁のひびわれと呼応している.こうした視覚上のトリ
ックは,それほど難しいものではなく,ホガースは現実の生活から切り取られた断片をいろい
ろと組み合わせているだけなのだ.寄せ集めが,ときに「リアルな状況描写を超えた」,つまり「実
際にはありえないが非常におもしろい状況ができあがる」,そんなリアリティを彼は示している.
「実際にはありえない=フィクショナルな」現実こそがホガースの版画の魅力の一つと言うこと
ができるだろう.そもそも,『昼』という作品においても,現実に野蛮と洗練の併存がこのよう
な形のまま街中で見られることなどなかったはずである.ホガースは,それぞれの虚構的な現
実があたかも同時に存在しうるかのように人物・建物・商品を寄せ集め,バランスよく配置する
ことによって,新たなフィクションが鑑賞者の側で現実化することを狙ったのであろう.
次にホッテントットの黒人を検討してみたい.実は 1720 年代,ロンドンをアフリカのジャン
グル,すなわち「ホッテントットの居住地である野蛮の地」にたとえることは頻繁に行われてい
た.ロンドンの下層世界において,お互いに他を食い物にするカニバリズム的生活の実態を描き
出すためには,ここに登場する黒人はうってつけの人物ということになる.また,ホッテントッ
2
トと伊達男の対比は,
『ジェントルマンズ・マガジン』などでもなされており,
この時期には比較
的馴染み深い諷刺の手法だった.そのため,この絵の中に黒人男性が登場していること自体はと
りたてて問題にならないだろう.問題なのは,この絵を見る者が,知らず知らずのうちに実際に
はありえない二つの世界を同時に眺める地点に立たされているという点である.このとき,虚飾
に彩られた上流階級を肯定することはまずないにせよ,野蛮なカニバリズム的世界を自己の内面
に忠実である,ナチュラルであるという理由で賞賛することもできない.なぜなら,二つの世界
を同時に見て取る地点とは,野蛮と洗練,内/外のバランスを見極める場所であり,どちらか一
方を完全に否定し消し去ってしまうと,自らも消滅しかねない危険にさらされているからである.
以上見てきたように,
『昼』というホガースの版画も,フィクショナルな断片から成り立っており,
細部の視覚的なトリックから全体の構図に至るまで,
『乞食オペラ』と同様に,①「さまざまな
要素の寄せ集め」と②「メタレベルに立った笑い」から成り立っているのだ.
IV
それでは,先ほどの疑問にもどり,ホガースはどうして黒人を登場させたのかという問題を
最後に考えてみたい.『乞食オペラ』では黒人が作品の表面に現れることはないが,ホガースが
26
<帝国>の犯罪システム:『乞食オペラ』と野蛮な黒人
この作品の内に読み取ったように見えない黒人を探しだすことは可能だろう.この劇では,階
級問題に対する諷刺が,マックヒースの highwayman という二面性,貴族的であると同時に下層
のアウトローでもあるという点に表れていたが,このことから,この劇では人種ではなく,階
級の対立が最も重要であったということが推測でき,黒人が問題化されていなかったのも当然
である.
しかしながら,作者フィギュアの乞食,役者の「執行猶予」によって無罪となったマックヒ
ースは,その後どうなったかを考えると,そこには人種問題(黒人)が潜んでいたことが明ら
かになっていく.実は,地上で追い剥ぎのボス(キャプテン)であったマックヒースは,その後,
船長(キャプテン)になり,帝国の拡大をめざす航海へと向かうことになるのだ.『乞食オペラ』
の次に上演されるはずであった,西インド諸島を舞台とする『ポリー』がその航海を題材とし
3
たものである.
劇の結末で,マックヒースは再び捕らえられ,そして今度は本当に処刑されて
しまう.
Pol. Macheath! /
Jen. He is no black, Sir, but under that disguise, / for my sake, skreen’d himself from the claims
and importunities / of other women. May love intercede for / him? /
Pol. Macheath! Is it possible? Spare him, save him, / I ask no other reward. /
Poh. Haste, let the sentence be suspended. /
(Polly 67)4
前作においては貴族と下層階級という二つの世界を同時に体現することができた highwayman マ
ックヒースは,今度は自らを黒く塗り内面の白さを覆い隠すことによって,二つの世界,帝国
と植民地の境界に位置する人物となる.しかし,国内の階級問題ではなく,植民地の人種問題
とその転倒を主題とする『ポリー』では,マックヒースは「執行猶予」を得ることはできない.
このことを作者ジョン・ゲイの限界と見るかどうかは意見が分かれるところだが,『ポリー』の
上演禁止により,階級と人種,そしてジェンダーの絡み合いが表面化するのは,18 世紀後半に
なってからということになるだろう.そして,ホガースが読み取った,不在の黒人とは,まさ
にこの顕在化していなかったが,潜在的に存在していた,人種問題の表象ということになる.
Notes
i
作品からの引用はペンギン版による.
2
The Gentleman’s Magazine 1732 年 2 月号 602 ページ.
3
しかし,この劇が実際に上演されたのはゲイの死後,45 年経った 1777 年のことである.
4
Polly: an opera. Being the second part of The beggar’s opera. London, 1729 による.
Bibliography
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Manchester UP, 2001.
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Proceedings of the 59h Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
右方移動要素の談話機能について
及川 佳寿子
1. はじめに
本稿では, Inversion
(倒置)・ Relative Extraposition
(関係節外置)・ Heavy NP Shift
(重名詞句転移)
といった移動操作がなされた文を, 先行/後続談話との関連を重視しながら分析し, 右方移動 (後
置) された要素は, 談話において特に後続談話への情報の橋渡し機能を持つ可能性があることを示
していくことを目的とする.
(1)
a.
A beautiful white house stood at the foot of the mountain.
b.
[At the foot of the mountain] stood [a beautiful white house].
a.
A man who was wearing very funny clothes just came in.
b.
A man just came in [who was wearing very funny clothes]. ( 高見 1995:187)
(2)
(Ziv 1975:569)
(1) は倒置が起こっている例である.(1a) が倒置される前の文で,(1b) においては動詞 stood を挟んで
主語名詞句と前置詞句が倒置されている. また,(2) は関係節外置が起こっている例である.(2a) に
おいて先行詞 a man の直後に後続していた関係節が,(2b) においては先行詞と切り離され動詞句の後
ろに外置されている.
2. 先行研究
2.1 Inversion
○ Birner(1994)
Birner(1994) によると,Inversion の談話機能は,“Information-packaging function” である
と定義されている. つまり, 前置された要素は familiar-information を表し, 後置された要素は
unfamiliar-information を表すということになる.この点については Birner(1994) によるコーパスデー
タを基にした分析によって証明されている.また,Birner(1994) では Inversion に課される語用論的
制約として, 以下の制約が提示されている.
<Inversion に課される語用論的制約>
Inversion によって前置された要素は, 後置された要素よりもその談話において新しいものであっては
ならない.
○ Birner&Ward(1998)
Birner&Ward(1998) では Inversion における前置要素の機能について次のように述べている.
<Inversion における前置要素の機能>
29
及川 佳寿子
Inversion における前置要素はその談話においていわゆる旧情報を表し,その情報は前の (prior) 談
話と関連がある.
以上の2つの先行研究を基に, 本稿では Inversion によって後置された要素は前置された要素より
も新しい情報で, 前置要素とは逆に, 後続談話と関連があると仮定する.
2.2 Relative Extraposition
○ Ziv(1975)
Ziv(1975) では Relative Extraposition の談話機能に関して,「関係節外置は関係節で表される命
題を際立たせ前景化し, 外置された関係節は話者の主たる断定となる.」 と述べられている.
(3)
a.
A man [who was wearing very funny clothes] just came in, didn’t/*wasn’t he, Mary?
b.
A man just came in [who was wearing very funny clothes], wasn’t/?didn’t he, Mary?
(Ziv 1975:569)
Ziv(1975) によると,Tag-Question には話者の主たる断定となる情報とそうではない情報を区別する
機能があるとされている.Tag- Question の焦点となる部分はその文における話者の主たる断定を表
していることになる.(3a) では関係節外置は起こっておらず,Tag- Question の焦点となるのは動詞句
の 「男が入ってきた」 ことで, 関係節が表す 「おもしろい服を着ていた」 ことではない. 一方,(3b)
の関係節外置が起こっている文では, 関係節の表す情報が焦点となり, 動詞句で表される情報を
Tag- Questionで尋ねた場合, 容認度が低くなる.このことから, 外置した関係節は話者の主たる断
定となると言うことができる.
○ Givón(1993)
Givón
(1993)では Relative Extrapositionの談話機能は「新たな participantを談話に導入する機能と,
既に談話に登場した要素を再度談話に導入する機能がある.」 とされている.
以上の Relative Extraposition に関する先行研究を基に, 本稿では, 外置された関係節は話の本筋
を担う点と, いわゆる新情報の要素にその談話と関連する情報を付加して談話に導入させる点から,
先行/後続談話の両方に対する橋渡し機能があると仮定する.
3. 分析
3.1 右方移動要素の談話機能に関する仮定
(4) 右方移動要素の談話機能に関する仮定:後置 (右方移動) された要素は, 後置されない
場合よりも, 後続談話との意味的つながりが強くなる.
また,この仮定から導き出せる補足的仮定として,
「前置された要素,もしくは移動していない要素(主
節) が, 後置された要素 (関係節) よりも後続談話とつながりが良くなってはいけない」 とも言うこ
とができる. このことは, わざわざ文末の後続文脈に近いところに移動させた要素が, 先行文脈と
のつながりが良いのでは,その移動が無駄なものになってしまうと考えられることからも裏付けられる.
また, ここで言う 『つながりが強い』 という考え方については, 中島 (1995:31) にある 『なめらか
な結合』 に関する仮説を支持することとする.
30
右方異動要素の談話機能について
(5) ある情報が, 先行する文脈に対して 「説明」「含意」「強化」「対比」「理由」 などの
役割を演じている場合, なめらかな結合が成立する.
(6) a. A man hit Mary [who had hostility toward her].
b. *A man hit Mary [who was wearing T-shirt]. ( 中島 1995:31)
(6a) の外置要素で述べられている 「彼女に敵意を抱いている」 という情報は, 文の前半の主節で述
べられている 「男がメアリを殴った」 という内容について 「説明」(もしくは 「理由」) を加えてい
る.一方,
(6b) が非文となっているのは,外置要素で述べられている「T シャツを着ている」というのは,
「男がメアリを殴った」 ことについての説明にも, 含意にも強化にもなっていないためである.
3.2 分析
ここでは, コーパスなどから検出した例文を,(4) の仮定を考慮して分析していく. 分析対象となる構
文は,
Inversion ・ Relative Extraposition ・ Heavy NP Shift である.また,
Relative Extraposition の分析に
当たっては, 主節と従属節 (外置関係節) がそれぞれ異なる命題を表していると考え, 先行/後続
文脈とのつながりの良さを比較するためのテストを提案する.
(7) a.
[In a little white house] lived [two rabbits]. *It/*The house was the oldest one in
the forest, and all the animals worried that someday it would come crashing down.
b. [In a little white house] lived [two rabbits]. They/The rabbits were named
Flopsy and Mopsy, and they spent their days merrily invading neighborhood
gardens.
c.
[Two rabbits] lived [in a little white house].
i.
It/The house was the oldest one in the forest ?
ii. They/The rabbits were named Flopsy and Mopsy ?
(Birner 1994:240)
(7c) のように Inversionされていない文では,pre verbal 要素の Two rabbitsとpost verbal 要素の in a
little white house は,どちらも直後の文の Topic になることができるが,(7a,b) で表されているように,
Inversionされている文の場合は, 前置した要素は直後の文の Topic になることはできない. 前置され
た要素が, 後置された要素よりも後続談話とつながりが良くなることができない点から,(4) の仮定は
正しいと言える.
(8) a.
Though certainly relevant, the criterion based on the principle of relevance, like
any criterion based on the intent or purpose of an utterance, is somewhat vague.
[More illuminating] is [Strawson’s second criterion of truth-assessment]. He
argues that “assessments of statements as true or false are commonly though not only
topic centered.
(Birner & Ward 1998:228)
b. With 87% of the vote reported, Councilman Francis Rafferty and former
Councilman Al Pearlman?former Rizzo supporters? were leading the pack.
[Following them] were [the three Democratic at-large candidates who were on
Goode’s slate during the primary]: Councilwoman Augusta A. Clark, Councilman
David Cohen, and Ed Schwartz, a community organizer.
(Birner & Ward 1998:17)
31
及川 佳寿子
(8a,b)もInversion の例である.(8a) において,
somewhat vague(漠然としたもの)は言い換えれば “not
illuminating”(わかりやすくしない,明らかにしない) であるため,Inversion が起こっている次の文の
前置要素 More illuminating を暗示しており, この 2 つの要素は意味的に結び付きが強いと考えられ
る.また,Inversion により後置した要素内の Strawson’s はその直後の文の He と結び付き, 直後の文
の argues 以下の内容は後置要素の具体的内容を 「説明」 しているため,後置要素は先行する文より
も後続する文と密接に関連があり,『なめらかな結合』 をしていると言える. よって,(4) の仮定は正
しいと考えられる.また,(8b)も前置した要素の them は直前の文に登場する人物を表しており, 後置
した要素は後続する文で列挙されている人物を表している.つまり, 後続する文脈はこの後置要素の
「説明」 をしており,つながりが良いと言える.さらに, ネイティブスピーカーの判断によると,(8b)
は Inversion が起こっていない場合と起こっている場合を比較した場合, 起こっていない場合には文
のつながりに違和感があるようなので,この点からも(4) の仮定は正しいと判断できる.
(9) . . . One evening not long after their father’s death Penelope the plump and Lyra the
lean were summoned by a servant to the drawing room of the Hood pile. They found
[waiting for them] [Mr. Strake, the family lawyer].
Mr. Strake’s commonest utterance fell like a sentence from the lips of a judge;. . .
(The Three Widows)
(9) は Heavy NP Shift の例である. 後置した名詞句に含まれるMr. Strake は, 段落が変わって後続し
ている文の topic になっており, 後続文脈において 「説明」 されていると考えられる.また, 太字に
なっている文の先行文脈で Mr. Strake が説明・対比・強化になるような情報はまったく出てこないのに対
して, 直後の文では topic となっている点から,(4) の仮定は正しいと言うことができる.
(10) <Original Sentence>
. . . If he found data that fitted his general plan, he used it and counted his sources
trustworthy. Conversely, if statistics were uncovered [which contradicted a
cherished theory], the sources were denounced as faulty. Such manipulations
are frequently encountered in his essay on the suppression of the monasteries
during the English reformation.
(The Brown Corpus)
(もし彼が彼の案を支持するデータを見つけると, 彼はそれを使いそのデータの
情報源を信頼できるものだと見なした. 反対に,もしある統計 (=データ) が
見つけられ,それが大切な理論と矛盾していたら,その統計の情報源は間違っ
ていると非難された)
a.
. . . If he found data that fitted his general plan, he used it and counted his sources
tr ustwor thy. Conversely, if statistics were uncovered, the sources were
denounced as faulty. Such manipulations are …
b.
…If he found data that fitted his general plan, he used it and counted his sources
trustworthy. Conversely, if statistics contradicted a cherished theory, the sources
were denounced as faulty. Such manipulations are …
(10) は Relative Extraposition の例である.ここでは, 主節と関係節を分離して, 先行/後続文脈と
のつながりの良さを比較するためのテストを提案する. まず,Relative Extraposition がおこっている
32
右方異動要素の談話機能について
Original Sentence の太字の文を基に, 主節と関係節を分離してそれぞれ単独で Original Sentence に
組み込む.(10a) は主節のみを組み込んだ例で,(10b) は関係節のみを組み込んだ例である.(10a,b) を
比較した場合, ネイティブスピーカーの判断によると,(10b) の方がオリジナルに近い意味となる.(10)
では副詞 conversely の対象,つまり一つ目の文に関する 「対比」 に当たるのは, 主節の 「何らかの
データ, 統計が見つかる」 ということではなく, 関係節で表される情報ということになる. また, 後
続文の Such manipulations(そういったごまかし, 操作) は 「都合のいいデータの出所は信頼し,
矛盾するデータの出所は非難した」 ことを表す. 従って,(10) の外置関係節の情報は先行/後続文脈
の両方とつながりが良くなっており, 後続文脈のみを意識した (4) の仮定を満たしていると言えないか
もしれないが,(4) から導き出した補足的仮定である,「移動していない要素 (主節) が, 後置され
た要素 (関係節) よりも後続談話とつながりが良くなってはいけない」 という点は, 主節は先行/後
続文脈のどちらともつながりが悪くなっていることから満たされていると判断できる.
4. 結論
本稿では, 移動操作において右方移動 (後置) された要素の談話機能について 『意味的なつな
がりの良さ』 に注目しながら考察してきた.(4) の仮定を基にした分析の結果, 右方移動された要素
には「移動操作が行われた文と後続文脈のつながりをより強くする」機能があると言えるようである.
それぞれの構文の性質上, 全ての場合においてこの機能があるとは言い切れないが,(7)と(8a) のよ
うに移動が起こっている文に後続する文の主語として,移動が起こっている文の要素が現れているよう
な場合と,(8b) のように移動が起こる文に現れる要素の内容に関して後続文脈で列挙するような場合
は, 上で述べたような機能を果たす右方移動が必要とされると言えるようである.
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例文引用
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Proceedings of the 59h Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
As 句の構造
(On the Structure of As-Phrases)
小林 夢仁
1. Introduction
本研究では (1) の as 構文 1 は (2) の小節と同様の構造を持っていると主張する.
(1)
I regard him as honest.
(2)
I consider him honest.
つまり(1)と(2) は同一の機能範疇をもち,(1) では as がその主要部を占め,(2) では空となっていると主
張する.
(3)
a. [IP I [VP regard [FP himi [F’ as [AP ti honest]]]]].
b. [IP I [VP consider [FP himi [F’ φ [AP ti honest]]]]].
さらに (3) に示されるFP は (4)と(5) の性質を持つと主張する.
(4)
F は predicative な要素のみを導く.
(5)
FP は客観的内容を表してはならない.
従来,(1) のような文において,regard は him を直接目的語として選択しているのか,him as honest
が構成素を成し,それを命題として選択しているのかという問題について議論がなされてきた.さら
に命題となっていると主張する議論の中にもECM 構造 (6)と平行的であるという主張と小節と平行的
であるという主張がある.
(6)
I believe him to be honest.
本研究ではまずas 構文は小節と同様の FP を持っていると主張し, 次に FP のもつ性質に関して議
論する.
2. Previous analysis
2.1 PP Analysis
この節においては Emonds(1984) における as 構造の分析が不完全であることを示す.そして本研究
で扱うas 構造の範囲を限定する.Emonds(1984) は as は comparative as,subordinate conjunction as,
34
As 句の構造 (On the Structure of As-Phrases)
non-comparative as の三種類に分類されると提案している.そして当該の as を non-comparative as に
分類している.Emonds は non-comparative as は前置詞であると主張し,その主張をいくつかの統語
テストを用いて支持している.しかし (1) のような as 構造に対していくつかテストをしてみると前置詞句
とはまったく異なる振る舞いを示すということがわかる.
第一に,Emonds は as 句が前置詞句であるという証拠として一般的な前置詞句と同様に強調構文の
焦点になることができるとして(7) の例を提出している.
(7)
It’s as his supervisor that she was criticizing John.
(Emonds (1984:138))
しかし Emondsも自ら指摘しているように,(1) の as 句は強調構文の焦点になることができない.
(8)
*It’s as knowing too much that he regards me.
(Ibid.)
(7)と(8)から二種類のas 構造が存在し,
(7)のas XPはPPであるが,
(8)のas XPはPPではないといえる.
以下では (7) の as 句をタイプAの as 句,(8) の as 句をタイプ B の as 句と呼んで区別することにしよう.
第二に,(9) の移動によるテストから分かるように, タイプAの as 句は PP であり, 話題化移動がで
きるが,タイプ B の as 句は移動ができない. 仮にタイプ B の as 句が PP だとすれば通例の PP 同様,
話題化による移動が可能なはずである. タイプ B の as 句が移動できない事実はこれが PP ではない
ことを示唆している.
(9)
a.
* As honest, I regard him.
b.
* As doing your job, picking up the mail counts.
c.
As a supervisor, she was criticizing John.
(Ibid.)
第三に, タイプA の as XP は省略できるが, タイプ B の as XP は省略できない. 一般に付加部は
省略可能だが,項や述部は省略されない.(10) の事実はタイプAの as 句が付加部であるのに対して,
タイプ B の as 句は付加部ではないということを示していると思われる.
(10)
a.
b.
I regard him as honest.
* I regard him.
c.
I use the Internet as a research tool.
d.
I use the Internet.
第四に, タイプ B の as 句の場合,NP as XP は it で置き換えることができるが, タイプAの as 句の
場合は,それができない.
(11)
a.
She regards him as honest, and it is true.
b. * I use the Internet as a research tool, and it is true.
(11a) のように NP as XP を it で受けることができる事実は, タイプ B の as 句の場合,NP as XP が命
35
小林 夢仁
題を表す構成素になっていることを示している.
第五に,(12) が示すように, タイプ B の as は形容詞を導くことができるが, タイプAの as は形容詞
を導けない.
(12)
a.
I regard him as an honest man.
b.
I regard him as honest.
c.
I use the Internet as a research tool.
d. * I use the Internet as useful.
通例, 前置詞は補部に形容詞をとることがない.(12d) が非文であることはタイプA の as が前置詞で
あることを示し,(12b) が文法的であることはタイプ B の as が前置詞ではないことを示している.
以上の観察は Emonds のいう non comparative as は二種類に分けられるべきであることを示してい
る.regard が選択する as 句において,as XP は PP ではないこと, 及び,NP as XP が構成素であると
いうことがわかる.
さらに次の例を考えてみよう.
(13)
a.
I regard this teacher as a megalomaniac.
b.
I regard these teachers as megalomaniacs.
(13) では as の後の名詞句が先行するNPと数の一致を引き起こしていることがわかる. この現象は
regard が選択する as 句は先行するNPと構成素を成しているだけでなくNP as XP 全体で節として振舞
うということを示唆している. 本稿ではこの節構造を形成していると考えられる as 構造に焦点を当て
ていこう.
2.2 ECM constructions, Small Clauses and As Constructions
前節では as 構造が節を形成しているという可能性を示した.この分析が正しければこの as 構造と
比較可能な節構造を二つあげることができる.それは小節とECM 構文である. 実際に Borkin (1984)
は ECM 構文, 小節,as 構造の比較分析を行っている.この節では as 構造の振る舞いが小節と似て
いるということを示す.
第一に,まず there の分布を見てみよう. 一般的に there は主語位置にのみ現れるが ECM 構文に
おいては目的語位置に現れることができる.また容認可能性が極端に下がるものの as 構造にもthere
は出現することができるとBorkin (1984) は観察する.
(14)
a.
I believe there to be a real problem with security on campus.
b. (*) I regard there as being a real problem with security on campus.
(Borkin (1984:15))
さらに小節においてもthere が生起すると容認性が下がる.
(14)
c. (*) I consider there a real problem with security on campus.
(14) の例から as 構造と小節は ECM 構造よりもthere の出現が厳しくなることがわかる. この点で as
構造と小節は同じ様に振舞う.
36
As 句の構造 (On the Structure of As-Phrases)
第二に,as 構造と小節においては,ECM 構造の場合よりも, 補部に客観的内容をとりにくいと
Borkin(1984) は観察している.
(15)
a.
I find Hank to be one of the most reliable dealers on the Strip.
b.
?When I looked in the files, I found her to be Mexican.
(Borkin (1984: 56))
(16)
a.
b.
Sue is unwilling to recognize Sam as being more intelligent than Mary.
* Sue is unwilling to recognize Sam as being double-jointed.
(Borkin (1984: 69))
(17)
* When I looked in the files, I found her Mexican.
(Borkin (1984: 56))
それぞれの (b) は客観的内容を補部にとっているが,as 構造や小節は ECM 構造より容認性が低い.
第三に, 述部名詞句の分布を見よう.Tanaka (2004) によるとas 構造, 小節においては, 述部名
詞句が動詞の直後に現れることはできない.(18) の例をみよう.
(18)
a.
I consider John to be the culprit.
b.
I consider the culprit to be John.
c.
I regard John as the culprit.
d. * I regard the culprit as John.
e.
I consider John the culprit.
f. * I consider the culprit John.
(Tanaka (2004: 312-313))
ECM 構造では述部名詞句であるthe culprit が (a) のように to be の直後,(b) のように動詞の直後どち
らにも出現可能であるが, 一方 (d), (f ) が示すように,as 構造と小節では述部名詞句は動詞の直後に
現れない.
以上のように,there の出現, 客観的補部, 述部名詞句の出現位置という三つの現象は,as 構造と
小節が同じ振る舞いをすることを示す.次節では,小節のとas 構造が同一構造をしていると主張する.
3. Proposal
前節では as 構造と小節は似た振る舞いをすることを示した.この節では as 構造は小節と同一の構
造を持つと主張する.
Stowell(1983) は小節に (19) のような構造を与えている.
(19)
I consider [AP him [A’ honest]].
この構造は動詞が XP(VP, AP, NP, PP) を選択し,XP の指定部に小節の主語が現れた構造である.
つまり小節の主語は XP の指定部に基底生成されると主張している.しかしこの構造は次の二つの問
題がある. 第一に Aarts(1992) はこの構造では (20) の例が説明できないと述べている.
(20)
I consider [[ NP the teachers] [ NP megalomaniacs]].
(Aarts (1992:177))
37
小林 夢仁
(20) では, 二つの NP が数の一致を起こしている.Aarts はこの一致現象をとらえるため, 小節内には
機能範疇が存在しなければならないと述べている.
第二に,Bowers(1993) は (21) の例が説明できないと指摘している.
(21)
They consider John crazy and a fool.
(Bowers (1993: 605))
一般に二つの異なる統語範疇を and で接続することは許されない.しかし (18) が文法的であることか
ら and は APとNP を接続しているのではなくAP, NP を支配する最大投射同士を接続しているはずで
あるとBowers は述べている.それはおおよそ (22) のような構造となる.
(22)
They consider Johni [XP [XP ti [AP crazy]] and [XP ti [ NP a fool]]].
そこで Bowers の指摘を踏まえ,as 構造における主語は XP(VP, AP, NP, PP) の指定部に基底生成さ
れ,as を主要部とする機能範疇の指定部に移動すると仮定しよう.
(23)
a. [IP I [VP regard [FP himi [F’ as [AP ti honest]]]]].
b. [IP I [consider [FP himi [F’ φ [AP ti honest]]]]].
この構造が示すとおりas 構造と小節は同一の構造を持っており,(1) のような as 構造では as がその主
要部を占め,(2) のような小節では主要部は空となっている.
(23) を仮定することによって Emonds の問題点を解決することができる.Emonds(1984) の問題点
は, 二種類の as 句が存在し,PP ではない as 句は何かということであった. 統語テストによればタイ
プAの as 句は完全に前置詞句であり,移動や省略が自由である. 一方タイプ B の as 句では先行する
NPとともに NP as XP が構成素であり,as 句は前置詞句ではないということが示された.この事実は
(23) の構造を仮定することによって説明することができる.(23) の構造においてhim as honest は構成
素を成していると考えることができ,またこの as は前置詞ではないといえるためである.
次に (23) の構造を踏まえて,as 構造と小節の共通点をもう一度考えてみよう.まず, なぜ述部名詞
句は動詞のすぐ後ろに現れてはいけないかという問題を考えてみよう.
(24)
a.
I consider John to be the culprit.
b.
I consider the culprit to be John.
c.
I regard John as the culprit.
d. * I regard the culprit as John.
e.
I consider John the culprit.
f. * I consider the culprit John.
(Tanaka (2004: 312-313))
この現象を説明するために,(23) の機能範疇 F について(25) を仮定しよう.
(25)
F は predicative な要素のみを導く.2
この仮定により,(24d) においてas の直後に,(24f ) では空の F の直後に predicative な要素ではない
38
As 句の構造 (On the Structure of As-Phrases)
John が現れているので非文になる.
第二に there の分布に関して考えてみよう.
(26)
a.
I believe there to be a real problem with security on campus.
b. (*)I regard there as being a real problem with security on campus.
c. (*)I consider there real problem with security on campus.
2.2 節で見たように as 構造, 小節では there は現れにくい. この現象も(25) の仮定で説明すること
ができると思われる.(25) によると直後の要素は述部的でなくてはならない.しかし (26b), (26c) では
there 構文のために F の直後の要素が location を指定された theme となっている.これは predicative
な要素とは考えられない. ゆえに小節や as 構造では there 構文を挿入できないと予測できる.
第三に, 客観的補部の制限に関してみよう.2.2 節で観察したとおり,as 構造も小節も主観的内容
を補部にとることはできるが客観的内容を補部にとることはできない.そこで (23) の F についてもう
一つ仮定を付け加えよう.
(27)
FP は客観的内容を表してはならない.
as 構造も小節も(23) の構造において同じ FPをとる.この FP が客観的内容を表してはならないため,
(16), (17) のように非文になるとas 構造と小節を共通に扱うことができる.もし FP が客観的内容を表
さないという仮説が正しければ (16),(17) の例は as 構造と小節は同一構造であるという仮説をサポート
する.
以上から as 構造を小節とみなす本発表での主張が正しいことが示された. 次の節においては as
構造が小節と同一構造をとると示すことによって得られる帰結を論ずる.
Further Consequences
本節では,as 構造が小節と同じく(25),(27) のような性質を持った FP を含むと仮定することによって
得られる帰結を説明する.
まずas 構造と小節における目的語の解釈について考えてみよう. 形容詞をともなう小節とas 構造で
は,目的語の名詞句が無冠詞で複数形の場合,総称的解釈を受ける (Basilico (2003)).(28a),(28b) の
prisoners はどちらも存在的な解釈を受けることはない.(28a),(28b)ともにおおよそ 「看守は囚人とは
一般的に賢いものであると考えている」 と解釈される.
(28)
a.
The guard regards prisoners as intelligent.
b. The guard considers prisoners intelligent.
(Ibid.)
本稿では NP as XPというas 構造の目的語 NP は語彙的投射 XP の指定部に基底生成され, 機能
投射 FP の指定部に移動していると主張した.この観点からBasilico(2003) が観察している次の例を
みよう.(29a) は opinion verb に選択された形容詞的小節の例であり,(29b) は causative verb に選択さ
れた動詞的小節の例である.
(29)
a. ?Whoi did you judge [ NP a rumor about ti] false?
b.
Whoi did you let [ NP a rumor about ti] spread around the entire department?
39
小林 夢仁
(Basilico (2003: 5))
一般的に主語名詞句からの抜き出しは認められないということが広く知られている. したがって,
(29a) における形容詞的小節の主語は抜き出しが困難であることから,(29) の名詞句は文字どおり主
語の位置にあることが分かる.(29) の対比を示すために Basilico は (29a) に (30a) の構造を (29b) に
(30b) の構造を仮定している.
(30)
a. [FP NPi [AP ti A]]
b. [FP [VP NP V]] 3
(Ibid.)
形容詞的小節では,(30a) に示されるとおり, 主語が語彙的投射の指定部から機能投射の指定部へ
と移動する.この移動は機能範疇の指定部への移動であるという点で, 典型的主語と形容詞的小節
の主語は同じである. 一方, 動詞的小節では NP がθ役割をもらう位置にとどまるという点で典型的
目的語と似ている.Basilico によると,(30) の構造を仮定することにより,(29) の振る舞いの違いを,
摘出に関する主語と目的語の相違と同様に説明できることになる.
Bowers(1993) では本稿と同じような分析を as 構造に与えている.しかし基底主語位置の点で本稿
の分析とは異なる.Bowers(1993)では基底主語位置が機能範疇であるPrP の指定部を占めると仮定し
ている. 一方, 本稿の分析, 及び,Basilico(2003) の分析では基底主語位置は語彙的投射の指定部
であり,この位置から機能投射の指定部へと移動する.しかし,Bowers の分析では形容詞的小節の
主語も動詞的小節の主語も機能投射の指定部に基底生成されるため, なぜ (29a), (29b) のような容認
性の差が生じるのか説明できない.したがって Bowers の分析は妥当とは考えられない.
Conclusion
本研究においてregard 等が選択する as 構造は前置詞句ではなくas 構造全体で節を形成していると
主張してきた.さらに as 構造は小節と同じ (25), (27) のような性質を持つ (23) のような構造の FP を
持つと主張してきた.
* 本稿は東北英文学会第 59 回大会 (2004 年 11 月 20 日, 東北大学 ) における口頭発表に基づき加筆・修正したも
のである. 司会者の阿部潤先生, 及び発表の際有益なコメントを下さった方々に感謝したい.
注
1
本稿で扱うas 構造とは, 特に regard と共起する構造である.
2
ここで predicative な要素とは何かという疑問が生じるかもしれない.Halliday (1967) は be 動詞を be 0, be1, be2
の三つのクラスに分類している.be 0 は predicative な要素や性質等を導き,be1 は locative な要素を導き,be2 は
identifiable な要素を導く.
(i) a.
John is honest.
(be0 predicative)
b.
John was in the garden.
(be1 locative)
c.
The culprit is John.
(be2 identifiable)
40
As 句の構造 (On the Structure of As-Phrases)
また,there 構文における be は be1 に属す. 本稿では,Halliday の分類を参考にしてpredicative な要素とは be 0 に
導かれる要素であるとする.
3
Diesing (1992) は stage/individual level predicate を含む文構造として Basilico (2003) とは全く異なった構造を提
案している.
(ii) a.
b.
[IP [I’ I [ VP [ V NP [ V’ V ?]]]]
(Stage-level predicate)
[IP NPi [I’ I [ VP [ V PROi [ V’ V ?]]]]
(Individual-level predicate)
(Diesing (1992: 361))
(Diesing (1992: 363))
Basilico (2003) の構造とDiesing (1992) の構造どちらが正しいかは今後の課題である.
References
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Borkin, Ann. 1984. Problems in Form and Function. Ablex. Norwood, N.J.
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Emonds, Joseph. 1984. The Prepositional Copular As. Linguistic Analysis 13, 127-144.
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Stowell, Timothy. 1983. Subjects across Categories. The Linguistic Review 2:285-312.
Tanaka, Shoichi. 2004. Notes on Small Clause Predication. Tsukuba English Studies 22,311-324.
Proceedings of the 59th Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
音韻論的主要部と形態論的主要部*
̶失文法話者の分析から̶
西原 哲雄
0. 序
Kean (1977) では失文法発話を音韻論的観点から分析をおこなっている.それは Chomsky&
Halle の Sound Pattern of English (1968: SPE) の分析で提案されている語境界接辞(word-boundary
affixes: #) と非語境界接辞(non word-boundary affixes) の区別を導入し,音韻論的語 (phonological
word) の概念を導入し,失文法患者の発話の分析を行っている.この考えにしたがうと,英語
の失文法患者の発話では,-ness という接尾辞は強勢付与に影響をあたえないので,音韻論的
語の外側に置かれることになる.すなわち,[#[# definite #] ness #] という構造になり,“definite”
までが音韻論的語ということになり,失文法患者が欠落させる要素は,“-ness” であると予
測する.しかし,形態論における語の主要部という観点からはこの事実を適切に説明するこ
とができない.そこで本稿では,この現象をより的確に説明するために,形態論的な主要部
(Morphological Head) とは別に,音韻論的主要部 (Phonological Head) なるものを提案することに
よって “definiteness” の場合だけでなく,失文法患者の統語論における冠詞の脱落も適切に説明で
きることを論証したい.
1. SPE 理論と階層理論
語構造の表示に関して,SPE 理論においては,語境界接辞(word-boundary affixes: #) と非語
境界接辞(non word-boundary affixes: +) に区別され表示されていた.
(1)SPE 理論 (The Sound Pattern of English (1968))
a) 語境界接辞(word-boundary affixes: #)
b) 非語境界接辞(non word-boundary affixes: +)
そして,英語の接辞について,クラスI接辞とクラス II 接辞と呼ばれる2種類の接辞が Siegel
(1974) や Allen (1978) らによって区別されている.そこで,この2種類の接辞の特徴を (1) に示
すことにする.
( 2) a. クラスI接辞は,派生語の強勢の位置決定に関与し,付加されると,付加 される語(を
基体 (base) と呼ぶ)の第 1 強勢の移動を引き起こすことがあるが,クラス II 接辞は引き
起こさない.
42
音韻論的主要部と形態論的主要部̶失文法話者の分析から̶
b. クラスI接辞は接辞自身の形または基体の形を変えることがあるが,クラス II 接辞は自
身にも基体の形にも何の変化も引き起こさない.
(2a.) の特徴について,Siegel (1974) は「循環語強勢規則はクラスI接辞付加より後に,そして
クラス II 接辞付加より前に行われる」と述べており,これによってクラスI接辞とクラス II 接
辞の強勢付与に関するふるまいの違いが自動的に説明されることになる.
( 3) クラスI接辞付加(+)
↓
循環語強勢規則
↓
クラス II 接辞付加(#)
したがって,このような2種類の接辞の特徴からクラスI接辞はクラス II 接辞の内側に生じ,
通常,外側には生じないことになる.(3) に示されたような規則適用の順序付けを順序付けの仮
説 (ordering hypothesis) と呼ぶ.
3. Kean (1977) による表示と主張
Kean (1977) によれば,上記で見た SPE 理論などの語の表示方法では,強勢の位置を変えない
語境界接辞(word-boundary affixes: #) と,強勢の位置を変える非語境界接辞(non word-boundary
affixes: +) に区別され,(4) のように表記することができる.
(4)
a) de'finite →
de'finite#ness (#)
b) de'finite →
def î n' ite+ive (+)
(Kean 1977)
Kean (1977) にしたがって,正確な表示を行うと以下のようになる.
(5)
a)[#[# definite #] ness #]
b) [# [# definite +] ive#]
(Kean 1977)
同様に名詞句や屈折接辞の付加された名詞の表示についても同様に (6) のように表示されてい
る.
(6)
a) [ # the [ # boy #] #]
b) [# [ # boy # ] s # ]
(Kean 1977)
5a) における # によって囲まれた部分を Kean (1977) は音韻語 (Phonological Word: PW) が形成
され,# definite # の部分は音韻語であり,音韻語でない接尾辞 -ness はその外側に置かれること
になり,失語症患者はこの -ness の部分を脱落させると説明している.一方,5b) では [# definite
43
西原 哲雄
+] ive#] のように語全体が音韻語となり,脱落は生じないと予測している.この Kean (1977) の
説明と予測は失語症患者の音韻現象と一致するものであり,妥当なものであるといえる.(6) に
ついても以下のように,説明しており,冠詞や屈折接辞は音韻語でないので,脱落するという,
実際の現象と同じ結果を予測する.
(7)
[F]unction words, like the plural marker -s and the nominalizing suffixes -ness
and -ing, are not phonological words.
(Kean 1977)
このようにして,Kean (1977) 音韻語という単位を導入して,失語症患者の音韻現象を説明して
いる.また,Kean (1977) や Obler and Gjerlow (1999) によれば,これらの現象は内容語と機能語と
いう観点からも説明が可能である.すなわち,言語習得における初期段階で習得される内容語は
保持され,比較的遅い段階で習得される機能語などは脱落しやすい要素であると説明される.
4. 音韻語 (Phonological Word) による分析 (Nespor & Vogel 1986 など)
音韻語という単位は Kean (1977) によって提案された後に,新たに Nespor & Vogel (1986) など
によって提案された音律音韻論 (Prosodic Phonology) における基本概念である音律階層 (Prosodic
Hierarchy) の 1 つの重要な音韻現象に係わる音韻的単位であるとして,(8) のように導入されて
いる.
(8)Prosodic Hierarchy
(-----------------------------------------------------------) Utterance(U)
(---------------------------------------)(------------------) Intonational Phrase (IP)
(----------------------)(---------------)(------------------) Phonological Phrase (PP)
(-----------)(---------)(----------------)(-----------------) Phonological Word (W)
(---)(-------)(--------)(---------)(------)(----------------) Foot (F)
(---)(-)(--)(-)(----)(-- )(---)(----)(------)(----)(--------) syllable ( σ )
音律音韻論によって提案された音律階層において,音韻語は Booij & Rubach 1984 では,密着接
辞 (cohering affixes) と非密着接辞 (non-cohering affixes) に区別され,前者は 単独で音韻語を形
成することができず,先行する音韻語と融合し,新しい音韻語を形成し,後者は単独で音韻語
を構成すると述べている ( m= PW).
(9)Cohering and Non-Cohering Affixes
a) Cohering Affixes
:(
)m (
)m →(
)m
b) Non-Cohering Affixes :(
)m (
)m→ (
)m (
)m
(Booij & Rubach 1984)
語彙部門の形態構造と音韻構造との明確な定式化を主張したのが Szpyra (1989) による分析であ
る.Szpyra (1989) は次に見られるように,形態構造から写像規則を経て音韻構造が導き出され
44
音韻論的主要部と形態論的主要部̶失文法話者の分析から̶
ると述べている.
(10) Class I
Class II
(11) [
suffixes
+X
prefixes
X+
[ + X]
[ X +]
]→([
(Szpyra 1989)
])w
(Szpyra 1989)
(10),(11) の定式化と写像規則を経ると,次のような語の派生が得られる.
(12) a) ( [ [ democrat ] N + ity I ] N ) w
b) ( [ [ refuse ] V ) w ( [+ al II ] ] N ) w
(Szpyra 1989)
西原 (1996) では,Nespor & Vogel (1986) や Szpyra (1989) にしたがって提案された新たな音韻語
を用いて,以下のように分析している.
(13) a) (definite)PW (ness)PW
b) (definitive)PW
c) (the)PW (boy)PW
d) (boy)PW (s)PW ( 西原 1996)
しかしながら,(13) の表示では複数存在する音韻語のいずれの部分が脱落するのかを的確に説
明することは不可能である.
そこで,西原 (1996) は音韻語をさらに2つの音韻語に分けることを提案している.
内容語や語幹の部分を最大音韻語 (Maximal Phonological Word:MPW) とし,接辞や機能語などを
最小音韻語 (Small Phonological Word: SPW) として,最大音韻語以外の最小音韻語が欠落すると
すればうまく説明ができると述べている.
(14) MPW (Maximal Phonological Word) / SPW (Small Phonological Word)
a) (definite)MPW (ness)SPW
b) (definitive)MPW
c) (the)SPW (boy)MPW
d) (boy)MPW (s)SPW
( 西原 1996)
この考え方は Selkirk (1985) が 音韻句 (Phonological Phrase: PP) をフランス語のリエゾンの適用
領域として最大音韻句 (Maximal Phonological Phrase) を定義し,その他の言語の外連声の適用領
域として最小音韻句 ( Small Phonological Phrase) を定義し,区別していることからも妥当な考え
方であるといえる.
5. Head of Morphology による分析
Williams (1981) 派生語や複合語の語彙範疇全体の品詞を決定する主要部 (Head) はそれらの語
の右側の要素であると述べている.
45
西原 哲雄
(15) Head(主要部:語彙範疇全体の品詞を決定する)
In morphology, we difine the head of a mophologically complex word to be the righth and member
of that word.
(Williams 1981)
右側主要部を持つ派生語や複合語の構造は以下に示されるものである.
(16) a)
N
b)
V
/
V
N
|
|
c)
/ \
|
V
|
construct ion
re
A
/ \
P
A
|
|
|
construct
off
white
(Williams 1981)
Kean (1977) で示された語を Morphological Head と Phonological Word によって表示すると以下
のようになる.
(17) a)
N
/
A
A
/ \
A
A
N
|
|
|
|
definite
ness
definit
ive
(18) a)
b)
\
N
/
A
b)
A
\
N
A
A
|
|
|
|
/ \
(definite)w (ness)w
c)
(definit ive)w
d)
NP
N
/\
Det
N
/\
N
Af
|
|
|
(the)w (boy)w
(boy)w
|
( s )w
(17) では,Williams (1981) 主張するように右側の要素がそれぞれの語の主要部であるといえ
る.しかし,この形態論における主要部の概念を導入することは,(18) に示された音韻語であ
る (ness)w や d) における (boy)w の誤った脱落を予測してしまうことになる.すなわち,形態
論における主要部の脱落を予測してしまうことになるのである(cf. Inflectional morphemes are not
heads (Scalise 1988) ).
そこで,次節では,この問題を解決するために新たな主要部の提案をおこなう.
46
音韻論的主要部と形態論的主要部̶失文法話者の分析から̶
6. Multiple Heads の提案
Tzakosta & van de Weijer (2002) によれば,形態論における主要部のほかに,音韻的主要部
(Phonological Head),または意味的主要部 (Semantic Head) を導入するように提案されている.
(19)
a) Phonologhical Heads: different degrees of stress: accented syllables are heads while unaccented
syllables are non-heads.
b) Morphological Heads: the affix which determines major lexical class membership is the head, while
other parts of morphological structure are non-heads.
c) Semantic Heads: in a complex morphological structure, the part which carries the core meaning (the
root) is the head, while non- (or less-) meaningful parts (affixes) are non-heads.
(Tzakosta & van de Weijer 2002)
Tzakosta & van de Weijer (2002) はギリシャ語を例に挙げて複数の主要部の必要性を提唱してい
る.
(20) Mismatch between Types of Head: Greek
* [k a l î' ] [ t e r o s ]
*
stressed syllable: Phonological Head rightmost morpheme: Morphological Head
root morpheme: Semantic Head
*
“warm-COMP”
(Tzakosta & van de Weijer 2002)
Kubozono (1990) では以下に述べるように音韻的主要部の必要性を述べている.
(21) ... if one consider the phonological patterns of blending in general, it seems reasonable to discuss
the notion from a phonological viewpoint as well as from a morphological one, and thereby to
introduce the notion “phonological head of word”. ...I have implicitly correlated this concept of
“phonological head” with morphological concept “head of word”...
(Kubozono 1990)
(22) で見られる日本語と英語の混成 (blending) における,音韻的特徴としては,まず,日本語
での混成語の重要な点は,音節構造ではなく,モーラ構造の支配を強くうけているところにあり,
下記の混成過程をモーラ構造の数に注目して分析を行うと,いずれの場合も新しく作られた語
のモーラ数は,2番目にある既知語のモーラ数と同じである.また,これを音節数で分析すると,
共通の性質を得ることはできない.一方,英語では,新しい語の音節数が,2番目の既知語の
音節数と同じであることが確認できる.
(22) Blending in both English and Japanese
1) Japanese (mora) (syllable)
a) ダス(ト)+(ゾー)キン=ダスキン:3+4=4 / 3+2=4
b) ママ+(アイ)ドル=ママドル :2+4=4 / 2+3=4
c) オ+(シ)ッポ=オッポ :1+3=3 / 1+2=4
47
西原 哲雄
2) English
(syllable)
a) sm (oke) + (f)og =smog :1+1=1
b) br(eakfast) + (l)unch =brunch :2+1=1
c) l (unch) + (s) upper = luper
:1+2=2
( 渡部・松井 1997)
このように,2番目の音節数やモーラ数が新規語と同じ数を示すということは,2番目の要素
が音韻的に重要な役割をしており,音韻的主要部の存在を暗示するものであると考えられる.
7. Phonological Head による再分析
前節まで見てきた,内容から判断すると,音韻論的主要部 (Phonological Head) というものを
新たに定義する必要があると考えられ,次のように定義する.
(23) Phonologhical Heads: different degrees of stress: accented syllables (in Phonological Word:
PW) are (Phonological) heads while unaccented syllables (in Phonological Word: PW) are
non(-Phonological) heads.
そして,脱落の要素の決定は (24) の区別にしたがって,音韻的主要部は保持され,非音韻的主
要部は脱落してしまうと考えることが可能である.
(24) a) Phonological Head = Maximal Phonological Word
b) Non-Phonological Head= Small Phonological Word
(25) に示した下線部の音韻的主要部は脱落することなく,保持され,非音韻的主要部である要
素は脱落すると予測される.
(25) a)
N
b)
A
/
\
A
N
A
|
|
|
(definite)mw (ness)sw
(definit
c)
d)
NP
A
|
ive)mw
e)
N
PP
/ \
\
/ \
Det
N
N
Af
P
NP
|
|
|
|
|
/ \
(the)sw (boy)mw
(boy)mw
( s )sw
( in )sw Det
N
| | ( the )sw (park)mw
8. 結語
以上,本稿では失語症患者の音韻現象(脱落)を説明するのに,形態論における主要部の定
義は問題を生じさせることになり,音韻現象の的確な説明をするためには,音韻的主要部の提
案が必要であることを論証した.そして,本稿における,主な主張は以下のようにまとめるこ
とができる.
48
音韻論的主要部と形態論的主要部̶失文法話者の分析から̶
(26)
a) Phonological Head including accented syllable: Non Deletion
b) Non-Phonological Head including unaccented syllable: Deletion
c) Phonological Head should be defined from viewpoint of accented syllable.
*本稿は,東北英文学会第 59 回大会(2004 年 11 月 20 日,於東北大学)における口頭発表の原稿を加筆・
修正したものである.聴衆の方々から貴重なご意見をいただいた.特に,菊池清一郎氏(東北大学)からは,
有意義なご意見をいただいた.ここに記して感謝したい.言うまでもなく,本稿における一切の不備や誤り
は筆者の責任である.
References
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Szpyra, J. (1989) The Phonology-Morphology Interface. London: Routledge.
Tzakosta, M. & J. van de Weijer (2002) “On the Role of Phonological, Morphological and Semantic Headness in
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渡部真一朗・松井理直 (1997)「音声言語研究」『言語文化学概論』大阪:大阪大学出版会.137-150.
Williams, E. (1981) “On the Notions ‘Lexically Related’ and ‘Head of a Word’”. Linguistic Inquiry 12, 245-74.
Proceedings of the 59th Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
日本人 ESL / EFL 学習者の認知・性格要因と
学習ストラテジー使用の関係 1
佐藤 博晴
1.背景と目的
第2言語習得研究においては一般に,曖昧耐性 (Ambiguity Tolerance; 以下 AT) 2 が高い学
習者ほど,また場依存 (Field Dependent Cognitive Style; 以下 FD)/ 場独立的認知スタイル (Field
Independent Cognitive Style; 以下 FI)3 では FI を持った者ほど第2言語の習得や学習に成功する可
能性が高いことが報告されている.しかし筆者の調査も含め我が国における先行研究では,この
2つの学習者要因が日本人の英語学習にプラスの影響を与えたとする調査結果は少ない.逆に
大学生を被験者にした調査からは,AT の高さや FI への認知スタイルの偏りが日本人の英語学習
を阻害する可能性があることを示す調査報告も見られる.本研究では,第2言語習得環境 (ESL)
で英語を学習している日本人留学生を被験者に,彼らの AT ・ FI の強さと学習ストラテジー使用
との関係を調査する.また,EFL 環境で得られた筆者の先行研究 (1998,1999) 結果との比較から,
学習環境が学習者要因に与える影響の有無についても検証する.さらに,学習環境の違いが学
習ストラテジー使用にどのような影響を与えているのかについてもあわせて調査する.
2.調査
2.1.被験者
被験者は,米国ミネソタ州の大学で英語を専攻している,又は第2言語として英語を使用し
ながら社会学や生物学等を専攻している日本人留学生 42 名 ( 男子 14 名,女子 28 名 ) である.
年齢層は 19 歳から 38 歳までの幅がある.
2.2.学習者要因の測定
AT の測定の関しては,今川 (1981) が日本人成人用に作成した今川 AT −Ⅳを使用した.この質
問紙は 42 個の質問に 7 段階のリカートで答えさせ,その合計点から各個人の AT の強さを診断す
るものである (Appendix Ⅰ参照 ).合計点が高い者ほど曖昧耐性が高い,曖昧な状況に対する寛容
さがある人間であると診断される.筆者の先行研究 (1999) においてもこの尺度が用いられている.
FI の測定に関しては,これまで Witkin(1971) らが開発した Group Embedded Figures Test(GEFT)
が使用されてきた.筆者の先行研究 (1998) においてもこの尺度が用いられてきた.しかしこの
テストを日本人大学生 ( 成人 ) に使用することに関しては,平均点が高くなりすぎる天井効果の
弊害が指摘されている.そこで本研究では,杉原 (1981) らが日本人の認知スタイルの発達調査
のために開発した集団式認知スタイルテストの中の,FI に関するテスト部分のみを使用した.
このテストは GEFT 同様,複雑な図形の中に埋もれた単純な幾何学模様を見つけさせ,それを
50
日本人 ESL / EFL 学習者の認知・性格要因と学習ストラテジー使用の関係
鉛筆で間違わぬようになぞることを要求するものである (Appendix Ⅱを参照 ).被験者は制限時間
3 分以内で最大 24 個の問いに答えることになる.得点が高い者ほど FI 的な物の見方ができる ( 見
方に偏った ) 人間であると診断される.
2.3.学習ストラテジーの測定
学習ストラテジーの測定に関しては,筆者が日本における先行研究 (1998,1999) で使用し,本調
査との比較検討が可能な Oxford(1989) の SILL(Strategies Inventory for Language Learning)Version 7 を
使用した.この質問紙は,英語学習者の学習方略使用を 50 個の質問により,包括的かつ詳細に
(8 つ下位項目毎:直接 ( 記憶,認知,補償 ),間接 ( メタ認知,情意,社会 )) 診断することが可能
である (Appendix Ⅲ参照 ).本調査では,この質問紙の本来の診断項目の他に,Watanabe(1991) が
日本人大学生を被験者にこの質問紙から新たに日本人英語学習者に特徴的な学習方略であると抽
出したコミュニカティブ・ラーニング・ストラテジー4の使用に関しても調査した.被験者は各質
問に対し使用頻度に合わせ 5 段階のリカートで回答することになるが,原本ではその使用頻度を
表す説明が分かりにくかったため,90% 以上使用する場合には 5,50% ぐらいのときは 3,10%
以下のときは 1,4 と 2 はその中間という指示に換えて調査を行った.
3.結果
Table 1 には,筆者が日本人大学生を被験者に AT と学習ストラテジーの調査 (1999) で得た AT
に関する基礎統計量と,本調査で得られた日本人留学生の AT 及び FI 得点に関する基礎統計量
が示してある.先に述べたように筆者には杉原らのテストを用いて日本人大学生から得たデー
タが無いために,先行研究の FI 得点の欄には杉原らが日本人中学生から得た数値を参考までに
引用した.表を見れば明らかなように AT 得点に関しては,日本人 EFL/ESL 学習者間で差は認め
られない.FI 得点に関しては,この認知スタイルの分化を考えると,本調査の得点の方が高く
なるはずであるが結果はそうはなっていない.しかしこの認知スタイルに関しては,何点以上
からが FI であるという基準はなく,調査された集団ごとにその基準を設けることが一般である.
また,本調査では統計手法としても単相関しか算出しないため,平均値は期待される値より低
めではあるが,このデータをそのまま使用することとする.
Table 1
Statistics for Ambiguity Tolerance (AT) and Field Independence (FI)
in the EFL (N=101) and ESL (N=42) Environments
EFL (Previous Study)
Mean Score
SD
ESL (This Study)
AT
FI
AT
FI
156.79
(15.22)
154.21
15.00
23.04
(4.00)
23.55
3.98
Maximum
214
223
23
Minimum
105
106
4
Table 2 は,先に述べた AT と学習ストラテジー使用に関する筆者の先行研究の結果と,学習
者要因を FI に換えて行った同様の調査 ( 佐藤,1998) の結果をまとめて示したものである.統
51
佐藤 博晴
計的には非常に弱い数値ではあるが,AT の高さは SILL で測定された 10 個の学習ストラテジー
のうち7つのストラテジー使用にマイナスの影響を与えていることが分かる ( 直接,認知,間接,
メタ認知,社会,全体,コミュニカティブ・ラーニング・ストラテジー ).FI に関しても傾向は同
じで,FI の高さは,補償,間接,メタ認知,全体に関わるストラテジー及びコミュニカティブ・
ラーニング・ストラテジーの5つの学習方略の使用を阻害していた.
Table 2
Statistics for Oxford’s SILL and Correlations
Between SILL and AT or FI in the EFL (N=101) Environment
Direct
Mean Score
2.62
M
C
CP
Indirect
MC
A
S
2.30
2.57
2.98
2.24
2.33
2.35
2.54
2.50
Total
2.32
CLS
SD
0.53
0.55
0.57
0.50
0.64
0.78
0.66
0.82
0.54
0.71
Maximum
4.04
3.67
3.88
5.00
4.02
4.33
4.17
4.33
3.82
4.13
Minimum
1.58
1.22
1.21
0.71
1.19
1.00
1.00
-0.14
1.50
1.00
AT
-0.19�
-0.15
-0.24*
-0.12
-0.22*
-0.26**
-0.05
-0.23*
-0.21*
FI
-0.12
-0.10
-0.17�
-0.04
-0.19�
-0.21*
-0.14
-0.18�
-0.23*
M: Memory
C: Cognitive
CP: Compensation
MC: Metacognitive
A: Affective S: Social
-0.23*
-0.14
CLS: Communicative Learning Strategies
**p < 0.01
*p < 0.05
† p < 0.10
Table 3
Statistics for Oxford’s SILL and Correlations
Between SILL and AT or FI in the ESL (N=42) Environment
Direct
M
C
CP
Indirect
MC
A
S
Total
CLS
Mean Score
3.50
2.69
3.45
3.75
3.43
3.50
3.06
3.73
3.36
3.80
SD
0.50
0.63
0.65
0.49
0.58
0.73
0.63
0.75
0.50
0.69
Maximum
4.07
4.00
4.71
4.83
4.67
5.00
4.17
5.00
4.37
5.00
Minimum
2.30
1.11
2.29
2.66
2.40
1.56
1.67
2.50
2.35
2.10
AT
0.20
0.34*
-0.09
0.30�
-0.15
-0.02
-0.12
-0.22
0.02
0.14
FI
0.29�
0.26�
0.18
0.29�
0.17
0.21
0.15
0.05
0.24
-0.01
M: Memory
C: Cognitive
MC: Metacognitive
A: Affective S: Social
CP: Compensation
CLS: Communicative Learning Strategies
*p < 0.05
† p < 0.10
Table 3 には,本調査で得られた学習ストラテジー使用得点に関する基礎統計量及び,AT ・ FI
得点とそれぞれの学習ストラテジー使用得点間の相関係数が示してある.EFL 環境で見られた
結果と異なり,AT の高さと記憶,補償に関するストラテジー得点の間にはプラスの相関傾向が
52
日本人 ESL / EFL 学習者の認知・性格要因と学習ストラテジー使用の関係
確認された.FI に関しても同様で,FI 的 ESL 学習者ほど,直接,記憶,補償に関するストラテ
ジーを多用している傾向が示された.EFL 環境で確認された数値と同じく統計学的には非常に
弱いものではあるが,少なくとも AT と FI への偏りが EFL で確認されたように日本人の英語学
習を阻害するものにはなっていない.また,EFL 環境では 50%( 平均得点で 3) 以上使用されて
いる学習ストラテジーは一つも存在しなかったが,ESL 環境では記憶に関するストラテジー以
外の全ての学習方略使用が5割以上となっている.
Table 4
Differences in Mean Scores for Oxford’s SILL
Direct
0.68**
M
0.39**
C
0.88**
CP
0.77**
Indirect
MC
1.03**
1.17**
M: Memory
C: Cognitive
MC: Metacognitive
A: Affective S: Social
A
0.71**
S
1.19**
Total
CLS
0.86**
1.48**
CP: Compensation
CLS: Communicative Learning Strategies
**p < 0.01
Table 4 には,学習方略ごとの平均点の差が示してある.5 点満点ではその差が分かりにくい
ため,カッコ内には 100 点満点に換算した平均得点の差も示してある.それによると,直接で
0.68p(13.6p),記憶で 0.39p(7.8p),認知で 0.88p(17.6p),補償で 0.77p(15.4p),間接で 1.03p(20.6p),メタ
認知で 1.17p(23.4p),情意で 0.71p(14.2p),社会で 1.19p(23.8p),全体で 0.86p(17.2p),コミュニカティ
ブ・ラーニング・ストラテジーで 1.48p(29.6p) となっており,いずれも統計的には 1%水準で有意
差が確認されている.
4.まとめ
本研究では AT ・ FI というわずか2つの学習者要因の視点からであるが,同じ日本人英語学習
者であっても各個人が生得的に備えている要因によって,学習環境の違いから受ける恩恵が全
く逆のものとなってしまう可能性があることが示された.今我が国では使えない英語への反省
から,従来型の訳読・暗記中心の学習を廃止し,言語活動を主体としたコミュニカティブな学習
環境・指導法へ転換すべきだという意見が声高に叫ばれているが,この結果はフォーマル,コミ
ュニカティブいずれにせよ,学習環境が極端にどちらかに偏ることで,英語学習が阻害される学
習者が発生する危険性があることを示している.また,ESL 環境と比較して我が国の英語学習
環境では学習方略が活性化されていないことが示された.英語に限らず全ての教科教育で Good
Learner 育成の条件の一つに挙げられているのがそれぞれの領域に関わる学習方略の効果的な使
用の指導である.ESL に極端に傾くことの弊害は先に述べたが,学習方略を活性化する何らか
の工夫が必要とされる.
注
1
発表では,AT ・ FI が言語学習に与える影響についての筆者以外の先行研究の結果についても報告したが,
本稿では紙面の都合上削除した.
2
Frenkel-Brunswik(1949) は AT の特徴を,
「AT とは人間が曖昧な状況に置かれた際にその中で受ける刺激や
事態をどの程度まで許容できるかを示す性格変数である.AT の低い人間は思考に柔軟性がなく,価値判
佐藤 博晴
53
断に関しては白黒をはっきりさせる態度を取り,性急で未熟な結論に達しやすく,ステレオタイプ的な
判断をしやすい」としている.
3
FI ・ FD という心理概念の創始者である Witkin(1962) らによると,
「FI ・ FD とは知覚的に埋もれた文脈の影
響を克服する能力である.知覚的に FI 的な様式を持つ人間は環境を分析的に経験する傾向があり対象を
背景から区別するが,FD 的様式を持つ人間は比較的全体的な様式で環境を経験する傾向があり,優勢な
場や文脈の影響に受動的に従う」とこの認知スタイルを定義づけしている.
4
Watanabe によるとコミュニカティブ・ラーニング・ストラテジーという因子名でくくられるストラテジー群
は,調査を行った2つの大学間によって多少違っている.本研究では,2つの大学でともにこの因子名で
取り上げられた質問ならば他の日本人大学生を被験者とした場合であってもこの因子名でくくられる可能
性が高いと考えて,2つの大学に共通に見られた8個の質問に対する得点をコミュニカティブ・ラーニン
グ・ストラテジー得点とした.SILL の質問番号 13,14,15,16,17,40,49,50 がこれにあたる.
引用文献
Frenkel-Brunswick,E.(1949) “Intolerance of Ambiguity Tolerance as an Emotional and Perceptual Personality
Variable.” Journal of Personality,18,108-143.
今川民雄 (1981)「Ambiguity Tolerance Scale の構成 (1)̶項目分析と信頼性について̶」『北海道教育大学
紀要第 1 部 C 教育科学編』32,79-63.
Oxford,R.L.(1989) Language Learning Strategies: What Every Teacher Should Know. New York: Newbury House.
佐藤博晴 (1998)「日本人大学生における場依存 / 場独立的認知スタイルと英語学習の関係」『秋田公立美術
工芸短期大学紀要』3,55-63.
Sato, H.(1999) “The Relationships between Ambiguity Tolerance, Language Learning Strategies and English
Proficiency in Japanese College Students.”『秋田英語英文学』41,3-13.
杉原一昭 (1981)「認知スタイルの発達と認知スタイルと学力の関係」,鈴木清他『児童・生徒の知的能力の構
造と発達に関する分析的研究』科学研究費総合研究 A 報告書所収 ,34-45.
Watanabe, Y.(1991) “Classification of Language Learning Strategies.” ICU Language Research Bulletin,6(1),75-102.
Witkin,H.A.,P.K.Oltman.,E.Raskin& S.A.Krap.(1971) A Manual for the Embedded Figures Test. Palo Alto: Consulting
Psychologists Press.
Appendix Ⅰ
1.映画や小説では,はっきりとした結末があるものが好きですか.
全くそう かなりそう いくらかそう ? いくらか違う かなり違う 全く違う
13.会議は議題が明確であってこそうまく行くものです.
全くそう かなりそう いくらかそう ? いくらか違う かなり違う 全く違う
21.概して,色々と違った解釈ができる詩が好きですか.(逆転項目)
全くそう かなりそう いくらかそう ? いくらか違う かなり違う 全く違う
Appendix Ⅱ
54
日本人 ESL / EFL 学習者の認知・性格要因と学習ストラテジー使用の関係
Appendix Ⅲ
2.覚えやすいように文の中で新語を使う.(記憶に関するストラテジー)
22.逐語訳はしないようにする.(認知に関するストラテジー)
24.知らない語を理解しようと推測する.(補償に関するストラテジー)
36.スケジュールを立てて英語の学習に十分時間を充てる.(メタ認知に関するストラテジー)
40.間違いを恐れずに英語で話すよう自分を励ます.(情意に関するストラテジー)
50.英語話者の文化を学ぶよう心掛ける.(社会に関するストラテジー)
回答選択肢: 1.全然,あるいはほとんどあてはまらない(10% 以下の時)
2.通常あてはまらない
3.いくらかあてはまる(50% 前後の時)
4.通常あてはまる
5.常に,あるいはほとんどあてはまる(90% 以上の時)
シンポジアム【英文学部門】
シェイクスピア批評と英文学/英文学とシェイクスピア批評
弘前大学教授
田中 一隆
講師 弘前大学教授
村田 俊一
講師 宮城教育大学教授
藤田 博
講師
岩手県立大学助教授
石橋 敬太郎
講師
弘前大学教授
田中 一隆
司会
本シンポジアムの趣旨は,直接的あるいは間接的に,シェイクスピアを代表とする英国ルネ
サンス演劇について(必ずしも近代的な批評意識を伴っていなくても)思いをめぐらすという
営為が,ルネサンス以降の英文学の創作,近代的な批評意識や文学研究に影響を与えたいくつ
かの事例を考察することによって,英文学を考える視点を提示することであった.
石橋敬太郎氏は,これまで単に歴史劇衰退説を裏付ける資料としてしか位置づけられてこな
かったステュアート朝の英国史劇を,初演された時代の政局と関連づけながら,それらが反体
制的なイデオロギーに基づいて書かれていることを,具体的な資料の裏付けとともに実証的に
論じた.
藤田博氏は,シェイクスピアの芝居を形づくるドラマトゥルギーの代表である変装やのぞき,
テーマの代表としての誤解や嫉妬,あるいはそれらを集約する「試すこと」
(と「試されること」)
のモチーフを手がかりに,ジェーン・オースティンとシャーロット・ブロンテの作品の距離を測
ろうとした.
村田俊一氏は,T. S. エリオットが評論の中でシェイクスピアに関して触れている箇所を拾い
上げながら,シェイクスピアへの言及が暗示するエリオットの詩劇観を同定すると同時に,20
世紀シェイクスピア批評の一つの見取り図を提示しようとした.
田中一隆は,英国ルネサンス演劇はなぜヴァースと散文の混合体で書かれなければならなか
ったのかを問題にしながら,古典主義的演劇理論がシェイクスピア劇を始めとする英国ルネサ
ンス演劇のプロット構造をよく理解できなかったことについて,文体と仮構意識という新しい
視点から問題を提起した.
司会者は大会準備資料に,「フロアの皆様からの積極的な質問や発言をいただきながら,実り
ある議論を展開したいと考えています」と書いた.単に4つの研究発表を聴いてもらうのでは
なく,「学の饗宴」としてのシンポジアム本来の趣旨を少しでも実りあるものにしたい,という
切実な願いを込めて,そう書いた.そして,司会者の願いは叶えられた.当日のシンポジアムでは,
質問のみならず,厳しい反論や御意見も多数寄せられ,実り多いシンポジアムになった.講師
の先生方,そして当日ご参加下さった peers の皆様に,心より感謝申し上げます.ありがとう
ございました.
(田中一隆)
Proceedings of the 59th Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
シンポジアム 【英文学部門】
T・S・エリオットとシェイクスピア
村田 俊一
序
エリオット(T.S.Eliot) がエリザベス朝の劇に没頭していたのは早くもハーヴァード大学に入学してい
た頃のことで,1 この方面に関する彼の深遠な学殖の基礎はこの時代から養われて行った.しかし,
その後のエリオットの評論の中で彼が正面からシェイクスピア(William Shakespeare) を論じたものは
数少なく,せいぜい,「ハムレット」(“Hamlet and His Problems,” 1919) 論と 『シェイクスピアとセネ
カのストア主義』(Shakespeare and the Stoicism of Seneca, 1927) の二つくらいなものである.その他
のシェイクスピアに触れた評論の内容は, エリオット自身の一般的詩論, 詩劇論の発想源ないし踏
み台の開陳に傾いたもの, あるいはエリザベス朝劇作家の理解と評価を見るための標準, 基準とし
て使われていたようだ. 実際,「シェイクスピアとセネカのストア主義」 の評論にしたところで, エリ
オットが言いたかったことは 「自己劇化」2 (self-dramatization) の問題で,ここに見られる自我意識
は 「伝統と個人の才能」(“Tradition and Individual Talent,” 1919) の中で展開された 「個性の滅却」
(depersonalization [SE 17]) に通ずるもので, 彼のハムレット批評の根底を支えているものである.
小論では, エリオットが彼の評論の中でシェイクスピアに関して触れているところを幾つか拾い上げ
ることによって, 彼のシェイクスピアに対するスタンスだけでなく, 彼の詩劇観,そして彼が直面して
いった批評論の根底を垣間見るものである.
1
「『ハムレット』 という戯曲こそが第一義的なものでハムレットという人物は第二義的なもので
ある」(SE 141) という書き出しで始まる 「ハムレット」 論が提起した問題の一つは 「歴史的事実」
(historical facts[SE 142]) を提起するということであった. エリオットが 「批評の機能」(“The Function
of Criticism,” 1923) の中でイギリス小説にキリンが何回出てきたとか,シェイクスピアの洗濯屋の勘定
書を発見することさえ後に何らかの意義を持つだろうと言ったのは, このような低級な事実でも, 新
聞や本に見られる大部分の批判的記事,つまり 「意見」 や 「空想」 より優れた仕事であると皮肉っ
たからなのである (SE 33). エリオットの「ハムレット」論に見られる性格解釈に対する批判,そして,
そこから生まれてくる 「多層体」(stratification)としての 「歴史的事実」 などは,このようなことを踏
まえて書かれたものである (SE 142). エリオットにとって 「我々は事実を支配するもので,事実の召使
いではない」(SE 33) のである,3 それ故, エリオットは, 彼の 「ハムレット」 論で,ロバートソン(J.
M. Robertson) の 『ハムレットの問題』(The Problem of “Hamlet”, 1919)とストール (E. E. Stoll) の 『ハ
ムレット』(Hamlet: An Historical and Comparative Study, 1919) の両者の所論がこの作品に関する「歴
史的事実」 を提示したとして高く評価し,ロバートソンに導かれて, 彼自身の解釈論を打ち出すので
ある.「芸術作品は, 芸術作品として解釈することは出来ない. 我々は唯, 種々の基準に従って,
また他の芸術作品と比較することによって,それを批評することが出来るだけである.そして,
『解釈』
としての主要な仕事は,読者が知らないと仮定される歴史的事実を提示することである」(SE 142)と.
村田 俊一
57
この一節は, ニュー・クリティシズム (New Criticism)とは相反する 「歴史主義」(historicism) を取り
入れた批評になっている. このようなエリオットのシェイクスピア批評は, 後で述べることになるが,
1930 年頃に変わって行き, 彼の詩論と大きく係わっていくのである.
この劇と詩の関係に関して,エリオットは,1951年のハーヴァード大学での講演「詩と劇」(“Poetry
and Drama,” 1951) の冒頭で,過去 30 年間を振り返って,いつでも立ち返るところは演劇であったと述
懐している,4 このことは彼の初期の詩作品に見られる劇的要素にも現れているが,1919 年の「ハムレ
ット」 論の数ヶ月前,エドモン・ロスタン(Edmond Rostand) の死を悼む心を持って書かれた「『レトリッ
ク』 と詩劇」(“‘Rhetoric and Poetic Drama,” 1919 ) の中に,エリオットのその後の詩劇に対する考え
方を窺い知ることが出来る.この評論で言っていることであるが,エリオットにとって「詩劇は,純粋
にして本質的な人間の情緒,言うなれば,観察によて確認され得るような情緒,典型的な情緒を捉え
て,それらの情緒に芸術的な形式 (artistic form) を与えなければならない」(SE 41-2) のである.ここで
言う「詩劇」(poetic drama ) は仔細に見るなら「劇詩」(dramatic poetry)と少々意味合いを異にしてい
る.この辺の違いは,1928 年に翻刻されたドライデン(John Dryden) の『劇詩論』(Of Dramatic Poesie,
An Essay, 1668) の序文として執筆されたエリオットの評論「詩劇との対話」(“A Dialogue on Poetic
5
Drama,” 1928) の「序文」に見られるが,
この評論は,ウィリアム・アーチャー (William Archer) 氏が『新
旧劇』(The Old Drama and the New, 1923) の中で,劇詩に反対したのを機縁とて書かれたものである.
エリオットのアーチャー非難は,「劇作品の劇的な価値が詩的な価値と無関係に評価」(SE 50)された
という点にある.エリオットによるなら,エリザベス朝の演劇は,決して近代劇のようなリアリズムよって
詩的形式を喪失したのではなく,約束の世界,コンヴェンション(convention) を持ったものであり,個性
の誇示などにとらわれずに,反リアリズム的にリアリティに達したものなのである (SE 111).このような
ことから,エリザベス朝演劇の欠陥は,エリオットが指摘するように,「そのリアリズムの欠陥にあるの
ではなく,リアリズムの試みにあり,そのコンヴェンションにあるのではなく,その不足にある」(SE 112)
のである.アーチャー氏はこのコンヴェンションを単に技術な舞台上の約束と解して,詩劇における傍
白や独白や変装などを写実の立場から非難したが,エリオットの言うコンヴェンションは劇そのものな
のである.このような考えは,先程触れたE・E・ストールが,シェイクスピアの作品は,その当時のコンヴ
ェンションの中で理解すべきだとする歴史主義の流れに沿うもののようであるが,エリオットが,このコ
ンヴェンションに徹した世界,劇の本源の世界として憧れたものはギリシャ劇であり,更にバレーなの
であった,6 芸術は,対象の純粋な模倣再現ではなく,どこまでも仮象であって,現実から一定の間隔
を遊離したところにその機能が営まれるのである.シェイクスピアの真に優れたレトリックは先程触れた
「『レトリック』 と詩劇」 の中の言葉を用いるなら「劇中の人物が劇的な光の中で自己を眺める」(SE
39)ところにある.このようなレトリックは,登場人物が作者の主観の代弁者に過ぎない多弁のマンネリ
ズムではなく,登場人物が作者の主観から独立して客観性を獲得し自分自身の「劇的感覚」(dramatic
sense) を自ら支えようとするものである (SE 40-1).この辺はエリオットの「詩における三つの声」(“Three
Voices of Poetry,” 1953 ) の「第三の声」(the third voice [OPP 89]) に関係して行くが,7 芸術家の自由は
この時与えられるのである.つまり「劇的な光の中で」 自己を見ることによって,そこに一つの仮象世
界を作り上げることは,エリオットにとって芸術における創作の極致である.現代劇はこのようなレトリ
ックをないがしろにしているが,その中にあって異彩を放つものは先程のロスタンの『シラノ・ド・ベルジ
ェラック』(Cyrano de Bergerac, 1897) なのである.
このようなことはエリオットの近世に見られる自意識批判に深く関係することになる.エリオットはル
ネッサンス期の劇作家が持つ「自己劇化」の傾向を激しく非難している.エリオットが批判した自我は,
エリザベス朝時代という混乱した時代に, 自己を支える態度として意味を持ったものであるが,それ
はシェイクスピアの悲劇の中には 「最も悲劇的な瞬間に自分を何か劇的なものとして見る」 ニーチェ
に至って頂点に達するセネカに由来する近代的な自意識の発生に向かう流れなのである(SE 129-132).
58
T. S. エリオットとシェイクスピア
このようなエリオットが見たシェイクスピアの背景にあるエリザべス朝文化と 「哲学」 に対するエリオ
ットの否定的な態度 (SE 116) は, 次第にダンテへ傾斜して行く要因を作り上げて行ったのである (SE
8
135-6).
II
以上のようなアーチャー批判に端を発したエリオットの「詩劇との対話」でエリオットが訴えたのは,
「偉大な詩で劇的でないものはない」
(SE 51))ということである.先程触れたロスタンを思い起こすなら,
エリオットが,ロスタンを当代のより有名な劇詩人メーテルリンクと比較して,「ロスタンはメーテルリン
クに優っている」(SE 41)としたのは, 劇と詩の融合があったからなのである. エリオットが描く詩劇観
の根底をなすものは, あたかも, 思想と感情の一致のように, 詩と劇の完全な一致である. 劇と詩が
究極において一致するという立場に立てば,劇詩が単に過去に栄えたことをもって満足するのではなく,
それの現在および将来における可能性を考えなければならない. だからこそ「劇詩」ではなく「詩劇」
なのである. 実際,「詩劇との対話」 の主題は,この中の登場人物の一人が述べる言葉を借りるなら,
「詩劇の可能性」(the possibility of poetic drama [SE 56])ということである. エリオットには 「詩劇の可
能性」(“The Possibility of Poetic Drama,” 1920)という評論があるが,ここで論じている問題の一つは劇
における詩の役割,つまり, 無韻詩 (blank verse) を含めた 「枠組み」(framework) である.このブラ
ンク・ヴァースに対するものとして, エリオットが 『詩の効用と批評の効用』( The Use of Poetry and the
9
Use of Criticism, 1932)で問題にした脚韻 (rhyme)の問題,
それから散文(prose)の問題が起こってくるが,
ブランク・ヴァースはこの脚韻と散文の狭間で, この両者の影響をうけつつ推移発展して行ったのであ
る.このようにして,このブランク・ヴァースはシェイクスピアを初め,その当時のエリザベス朝劇詩人に
よって使われ, 散文では出来ない複雑な思想や感情を含蓄ある形において急速に伝えて行ったのであ
る.エリオットにとって,ブランク・ヴァースがエリザベス朝演劇の研究における重要な一面であることは,
彼がエリザベス朝劇作家達の評価の中心をここに置いていることからも明らかなことである.しかし,
この詩形は, エリオットによれば,その後, 長きにわたって劇詩以外の詩に用いられたため, かって
持っていた柔軟性を失い, 現代語の動きからは遠く離れてしまった. 19 世紀詩人達が盛んに劇詩を書
いたのにも係わらず, 成功しなかったのは, 無自覚にブランク・ヴァースを踏襲したからなのである. エ
リオットはこのような轍を踏まないために,中世末期の道徳劇 『エヴリマン』(Everyman) の詩形を参考
にして,いろいろ工夫を凝らして頭韻を利用するとか, 思いがけないところに脚韻を踏んでみたりした
10
(OPP 80- 81),
このようなことは,エリオットが彼の詩劇 『寺院の殺人』(Murder in the Cathedral, 1935)
で 「行き詰まり」,『一族再会』(The Family Reunion, 1939) において,ブランク・ヴァースの影響から脱
11
して出来るだけ日常口語に近づけさせようとしたことに窺い知ることが出来る.
III
ところで, エリオットは 1930 年になって, 前に見たロバートソンの 「歴史主義」 とは違ったウィル
ソン・ナイト(Wilson Knight) の審美主義批評, あるいは分析主義批評を受け入れている. エリオット
は,シェイクスピア研究においてロバートソンの研究 (research)と堅実な学識 (sholarship) を重要視し
ながらも, ニュー・クリティシズムの 「作品内のパターン」 の枠を捨てきれなかった.このことは, エ
リオットが 1929 年,ナイトの 『神話と奇跡』(Myth and Miracle, 1929) 読んで, 彼のシェイクスピア
批評の方法に共鳴し, 翌年ナイトの 『火の車』(The Wheel of Fire, 1930) に序文を書いたこと,また
シェイクスピアの 『ペリクリーズ』(Pericles, 1608) を下敷きにした詩 「マリーナ」(“Marina,” 1930) を
12
ナイトに送ったこと等から窺い知ることが出来る,
ナイトの批評は, 彼の 「シェイクスピア解釈の原理
村田 俊一
59
について」 の中で 「我々は作品を, 擬人化と雰囲気ある暗示,そして直接的な詩的象徴とで緊密に
編み上げられた一つの幻想的な全体 (a visionary whole)として見るべきである」13 と要約されている.
このようにシェイクスピアの劇を詩として捉えて行く審美批評ともいうべきナイトの態度は, ある意味で
ニュー・クリティシズムの流れに沿うものである. エリオットは,このような解釈を 「ダンテ」(“Dante,”
1929) 論の中で 「シェイクスピアの絨毯の模様」(the pattern in Shakespere’s carpet [SE 245])という言
14
葉で表し,
「ジョン・フォード」(“John Ford,” 1932) 論では 「全一的人間」(the whole man)という立場
15
から説明している.
ナイトの批評に見られる 「幻想的な全体」 のこの 「全体」 の問題は, エリオッ
トの批評を振り返ってみるなら,「伝統と個人の才能」 の中で, 時間軸,つまり文学史を打ち破り空
間軸に移行する歴史観に見られもので, 彼の若い時のF・H・ブラッドレー哲学などを思い起こさせるも
16
のである,
多分, エリオットのこの考え方は, 今まで内在していたものがナイトによって触発されたも
ののようである. 実際,このナイトの 「序文」 に寄せた謙虚な 「解釈」 への試みを見るなら,やは
り「ハムレット」論に見られる「事実」の感覚への延長線上にあるものである.このように考えるなら,
ナイトがシェイクスピアの晩年の劇に見た 「不滅性の神秘主義的要素」17 にエリオットが同調し,「マ
リーナ」の詩を書いたのも自然の成り行きであった.この神秘主義的要素は「『筋』や『登場人物』
の次元の下に存在する」「地下または海底の音楽」(subterrence or submarine music) 18 というエリオッ
トの全体・パターン・音楽といった 「音楽的意匠」(music design [OPP 76]) の世界へと展開して行くの
である.
19
エリオットのこのような考え方は 1937 年のエディンバラ講演に反映されている.
この評論で最終的に
エリオットが訴えたことは, 詩劇のみがおぼろげにしか捉えることが出来ない感情の領域を表現するこ
とが出来るということである. エリオットがベセル ( S. L. Bethell ) の『シェイクスピアと大衆劇の伝統』
(Shakespeare and the Popular Dramatic Tradition, 1945) につけた 「序文」 で述べているように 「韻文
で書かれた劇は……詩で本質を覆い隠すのではなく, 事物の表面を取り除き日常的な表面の現象にあ
る見えないところ, あるいは内部をさらけ出すのである.」20 このような詩劇の領域にある感情に触れ
ることが出来るのは音楽なのである.つまり,詩劇によって「劇と音楽のそれぞれの秩序」が統合され,
「人間の行動と言葉の規範」が生まれるのである」(OPP 87-8). エリオットが「ハムレット」論で,
『ハ
ムレット』(Hamlet, 1603) の冒頭の部分の韻文化 (versification) が不安定で,それは 『ロメオとジュリエ
ット』(Romeo and Juliet, 1597) の 5 幕 2 場のようなもであると過小評価した部分 (SE 143-4) が,このエ
ディンバラ講演で修正されて評価されるのは,『ハムレット』 のこの部分に 「ある種の音楽的構想」(a
kind of design [OPP 76]) が読み取れたからなのである.そしてエリオットは,その理想が実現されるの
は,シェイクスピアの 『ロメオとジュリエット』 のバルコーニーの場面であると考えている (OPP 86-7).
このようにエリオットはシェイクスピアを崇拝し, またその影響から脱しようとしながら, 彼自身の
詩劇ないし文学理論は形成されて行った.しかしながら, ここで興味あることは, エリオットが最終
的に出版した自選集 『エリザベス演劇に関する評論集』(Essays on Elizabethan Drama, 1956) には,
かって 1934 年に完結の形にした自選集 『エリザベス朝評論集』(Elizabethan Essays, 1934) から,シ
ェイクスピアに関する三つの評論が取り除かれているということである. エリオットは昔の完結した評
論を 20 年ぶりで再読し,この序文で次のように述懐している.
それらの論文のうち二つはシェイクスピアに関するものであった.すなわち 『シェイクスピアと
セネカのストア主義』 と 『ハムレットと彼の問題』 とであった.もう一つは 『四人のエリザベス
朝劇作家』 と題され,『いまだ書かれざる書物への序文』 というやや思い上がった副題を添え
た一文があった. これらの3編の論文は,その未熟さによって, またそこここで生意気と言うに
21
近くなる無修飾の断言の安易さによって私を当惑させた.
このような述懐を考えるなら, エリオットは最終的に満足行くシェイクスピア論というべきものを書けな
60
T. S. エリオットとシェイクスピア
かったのではないか. この理由を今まで触れてきたエリオットのシェイクスピアへの言及から考えるな
ら, エリオットはシェイクスピアの中に, 従来の 「歴史主義」, ニュー・クリティシズムだけでは収め
りきれない考え方を見抜いたからではなかろうか. たとえば,
「ハムレット」論に見られる「多層体」,
エリザベス朝演劇のコンヴェンションとリアリズム,それからブランク・ヴァースとそのリズムの関係に見
られる民衆文化,そして 「個性の滅却」,「自己劇化」 の背後に見た歴史,さらには, これらを包
含している伝統と呼んでいる問題などは,エリオットにしてみれば,自分が抱え込んでいる,文化的,
時代的立場を認識しなければならないという読み手の主体を意識したテキストと歴史の関係,また諸々
の差異によって構成されている言説のシステムとしての文学史の問題といった新しい批評の在り方を必
要としたのではなかったのか. エリオットが完結したと考えた 『エリザベス朝評論集』 から, 20 年
後にエリザベス朝劇作家を含むシェイクスピアに関する3編の評論を削除した背景には,以上のような
エリオットの新しいシェイクスピア批評を模索する姿,言うなれば 「英知における展開」(development
in wisdom)22 の必要が迫られたからではなかろうか.
注 1
T. S. Eliot, “Donne in Our Time,” A Garland for John Donne 1631-1931, ed. Theodore Spencer(Cambridge:
Harvard University Press, 1931) 1.
2
Eliot, Selected Essays(1942; London: Faber and Faber, 1966) 129. 以降, この評論からの引用はすべてこの版
3
4
5
により, 本文中の括弧内に SEとして頁数を示す.
村田俊一,「 T. S. Eliot における『事実』 の意味̶批評論とのかかわりにおいて̶ 」,
『試論』 第 19 集(東
北大学文学部英文学研究室,1980): 71-87 参照.
Eliot, On Poetry and Poets (1957; London: Faber and Faber, 1979) 72. 以降, この評論からの引用はすべてこの
版により, 本文中の括弧内に OPPとして頁数を示す.
この評論はもともとThe Haslewood Books の一冊として 1928 年に翻刻された. この時つけられた序文は後に
省かれて ”A Dialogue on Dramatic Poetry” としてエリオットの Selected Essays に再録されている.Haslewood
Book の 序文には 「劇詩」 と 「詩劇」 の違いに触れている. その一部を以下にあげる.
”Dryden and his
friends could discuss a ‘dramatic poetry’ which actually existed, which was still being written; and their aim was
therefore to construct its critical laws. We, on the other hand, are always discussing something which does not
exist but which we should like to have brought into existence; so we are not occupied with critical laws; and so we
range over a wide field of speculation, asking many questions and answering none”(Eliot, “A Dialogue on Poetic
Drama,” quoted from Essays by T. S. Eliot, edited by Kazumi Yano [Tokyo, Kenkyusha, 1970] 298-299).
6
“I say that the consummation of the drama, the perfect and ideal drama, is to be found in the ceremony of the
Mass. I say . . . that drama springs from religious litrugy, and that it cannot afford to depart far from religious
liturgy” (Eliot, SE 47).
7
8
エリオットが 「第三の声」 を聞くようになったのは 『一族再会』(The Family Reuinon) 出版前の 1938 年であ
った (OPP 92).
この議論の背景には, 詩における思想の有無 (SE 135) の問題がある. 文学の世界を両分するシェイクスピア
とダンテのエリオットの比較論 は, この背景において説かれているが, この比較を, パースペクティヴに見る
なら, エリオットのシェイクスピアへの不満はエリオットの 1920 年代のカトリシズムとダンテへの傾斜によって
強められて行ったようである.しかし,エリオットは努めてシェイクスピアとダンテの二人の長所の比較を避け,
9
10
シェイクスピアに対して公平であろうとしたことが見受けられる (SE 136, 238-9, 252, 264-5.).
Eliot, The Use of Poetry and the Use of Criticism(1933; London: Faber and Faber, 1968)38-9.
エリオットはスウィンバーンが扱ったエリザベス朝の評論を次のように批判している.
“He [Swinburne] might as a
poet have concentrated his attention upon the technical problems solved or tackled by these men; he might have
traced for us the development of blank verse from Sackville to the mature Shakeswpeare, and its degeneration
from Shakespeare to Milton”(Eliot, “Swinburne as Critic,” The Sacred Wood [1920; London: Methuen, 1966]
村田 俊一
61
20-1). Cf. “The problem for us, therefore, is to get away from Shakespeare... I have found, in trying to write
dramatic verse, that ... I will wake up to find that I have been writing bad Shakespearean blank verse... Hence we
have to make use of suggestions from more remote drama, too remote for there to be any danger of imitation, such
as ‘Everyman’, and the late mediaeval morality and mystery plays, and the great Greek dramatists” (“The Needs
for Poetic Drama,” The Listener XVI. 411 [Nov. 25, 1936]: 994-5).
11
これは観客を詩の世界に招くことではなく, 詩を観客の中に導入するというエリオットの大衆文化を念頭に
置いてのことである.
“What we have to do is to bring poetry into the world in which the audience lives and to
which it returns when it leaves the theatre; not to transport the audience into some imaginary world totally unlike
its own, an unreal world in which poetry is tolerated. What I should hope might be achieved, by a generation of
dramatists having the benefit of our experience, is that the audience should find, at the moment, of awareness
that it is hearing poetry, that it is saying to itself: ‘I could talk in poetry too ! Then we should not be transported
into an artificial world; on the contrary, our own sordid, dreary daily world would be suddenly illuminated and
transfigured” (Eliot, OPP 82).
12
W. Knight, “T. S. Eliot: Some Literary Impressions,” in T. S. Eliot: The Man and His Work, ed. Allen Tate(New
13
W. Knight, “On the Principles of Shakespeare Interpretation,” The Wheel of Fire (1930; London: Methuen,
York: A Delta Book, 1966) 247.
1954)11.
14
Cf. “The poet has something to say which is not even necessarily implicit in the system, something which is also
over and above the verbal beauty. In other words, the pattern of Cyrene or that of the Schools is not the whole of
the pattern of the carpet of Lucretius or of Dante” (Eliot, “Introduction” to The Wheel of Fire, xiii).
15
“What is ‘the whole man’ is not simply his greatest or maturest achievement, but the whole pattern formed by the
sequence of plays; so that we may say confidently that the full meaning of any one of his plays is not in itself alone,
but in that play in the order in which it was written, in its relation to all of Shakespeare’s other plays, earlier and
later: we must know all of Shakespeare’s work in order to know any of it. No other dramatist of the time approaches
anywhere near to this perfection of pattern, of pattern superficial and profound; but the measure in which dramatists
and poets approximate to this unity in a lifetime’s work, is one of the measures of major poetry and drama” (SE
193-4).
16
この辺に関しては Eliot, Knowledge and Experience in the Philosophy of F. H. Bradley (London: Faber and
Faber, 1964)15. そして F. H. Bradley, Appearance and Reality (London: Clarendon Press, 1966)141, 406-7, 507.
Bradley, Essays on Truth and Reality (London: Clarendon Press, 1968)194 を参照.
17
18
19
Knight, Myth and Miracle: An Essay on the Mystic Symbolism of Shakespeare (London: E. J. Burrow, 1929) 21.
Eliot, “Intoroduction” to The Wheel of Fire xviii-xix.
この講演は 「詩人, 劇作家としてのシェイクスピア」(“Shekespeare as Poet and Dramatist,” given at Edinburgh
University in 1937) と題されたものである. エリオットの On Poetry and Poets の序文によれば,この講演の「文
章が実にまずいものであり全面的に書き換える必要がある」(Eliot, OPP 11) ということで出版されることはなか
った. この講演は Charles Warren, T. S. Eliot on Shakespeare(UMI: Michigan, 1985), Ronald Bush, T. S. Eliot :
A Study in Character and Style (New York, Oxford: Oxford University Press, 1983),そして笹山隆氏の 「エリオ
ットとシェイクスピア̶エディンバラ講演 (1937 年 ) への道筋」(『英語青年』,1966) で紹介されているが,そ
20
の一節はエリオットの1951 年の評論 ”Poetry and Drama”(OPP 87-88) に引用されている.
Eliot, “Introduction,” Shakespeare and the Popular Dramtic Traditon by S. L. Bethell(Durham, Duke University,
1945) ix-x. この問題は詩劇に見られる二重性, 二元論の問題へと発展して行く. これをエリオットの作品の中
で 「出会い」 の立場から論じた拙論 「 T. S. Eliot の ‘RECOGNITION SCENE’ について」,『英文学研究』
Vol. 64 (日本英文学会 , 1987): 51-65 参照
21
Eliot, Elizabethan Dramatists(London: Faber and Faber, 1963)5-6. A reprint under this new title American new
edition, Essays on Elizabethan Drama, with the same contens.
22
Eliot, Elizabethan Dramatists 6.
62
T. S. エリオットとシェイクスピア
参照・引用文献
Bradley, F. H., Appearance and Reality. Oxford: Clarendon Press, 1966.
––––. Essays on Truth and Reality. Oxford: Clarendon Press, 1968.
Bush, Ronald, T. S. Eliot : A Study in Character and Style. New York, Oxford: Oxford University Press, 1983.
Eliot, T. S., “Donne in Our Time,” A Garland for John Donne 1631-1931. Ed. Theodore Spencer. Cambridge: Harvard
University Press, 1931.
––––. Elizabethan Dramatists. London: Faber and Faber, 1963. A reprint under this new title American new edition,
Essays on Elizabethan Drama, with the same contens.
––––. Essays. Ed. Yano Kazmumi. Tokyo: Kenkyusha, 1970.
––––. “Hamlet and His Problems,” Athenaeum 4665 (26 Sept. 1919): 940.
––––. “Introduction.” Shakespeare and the Popular Dramtic Tradition. By S. L. Bethell. Durham: Duke University,
1945.
––––. “Introduction.” The Wheel of Fire by Wilson Knight, by Wilson Knight. 1930. London: Methuen, 1954.
––––. Knowledge and Experience in the Philosophy of F. H. Bradley. London: Faber and Faber, 1964.
––––. Selected Essays. 1942. London: Faber and Faber, 1966.
––––. The Sacred Wood. 1920. London: Methuen, 1966.
––––. The Use of Poetry and the Use of Criticism. 1933. London: Faber and Faber, 1968.
Knight, Wilson, Myth and Miracle: An Essay on the Mystic Symbolism of Shakespeare. London: E. J. Burrow, 1929.
–––– “On the Principles of Shakespeare Interpretation.” The Wheel of Fire. 1930. London: Methuen, 1954.
––––. “T. S. Eliot: Some Literary Impressions.” T. S. Eliot: The Man and His Work. Ed. Allen Tate. New York: A
Delta Book, 1966.
村田俊一,「 T. S. Eliot における 『事実』 の意味̶批評論とのかかわりにおいて ̶ 」.『試論』19. 東北大
学文学部英文学研究室 , 1980: 71-87.
––––. 「 T. S. Eliot の ’RECOGNITION SCENE’ について」.『英文学研究』Vol. 64. 日本英文学会 ,1987: 51-65.
Robertoson, J. M., The Probelm of “Hamlet”. London: George Allen & Uwin, 1919
笹山隆氏,「エディンバラ講演への道筋」.『英語青年』5-7. 研究社,1966.
Stoll, E. E., Hamlet: An Historical and Comparative Study. New York: Gordian Press, 1919.
Warren, Charles, T. S. Eliot on Shakespeare. UMI: Michigan, 1985.
Proceedings of the 59th Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
シンポジアム 【英文学部門】
シェイクスピア批評に埋もれた歴史
̶ステュアート朝の英国史劇再評価 ̶
石橋 敬太郎
Ⅰ
本発表の目的は,サミュエル・ローリー作 『私を見ればわかるはず』 以降, ステュアート朝に創作
された英国史劇を劇作家の歴史意識̶作品に登場する国王の治世を初演された時代に再現する意味
̶をもとに分析して, 一連の反体制演劇として再評価することである.アーヴィング・リブナー (Irving
1 Ribner) の集計によれば, ステュアート朝に創作された英国史劇の数は 25 作品である.
しかしなが
ら,この集計には,ウィリアム・シェイクスピア作 『リア王』,『マクベス』 といった悲劇や, 同じシェ
イクスピア作 『シンベリン』,トマス・ミドルトン作 『ケント王ヘンジスト』 及びウィリアム・ローリー他
作 『マーリンの誕生』 のように, イングランド史成立以前の伝説を扱ったものも含まれている.これ
らの作品は, イングランド国王の治世をリアルに描く他の英国史劇と同列に論じるには多少無理があ
り, むしろ悲劇やロマンス劇の系譜のもとで論じられるべきであろう. また,リブナーは, イングラ
ンド国王ジェイムズ一世のスペイン外交政策を風刺したミドルトンの 『チェスゲーム』 を彼の英国史劇
リストから除外しているが,作品を政治的に分析する観点から,この劇を英国史劇の一つに数えたい.
このようなフィルターを通すとき, ステュアート朝に創作された英国史劇の主なものは次の10 作品とな
る.
サミュエル・ローリー作 『私を見ればわかるはず』(1604−5)
トマス・デッカー,ジョン・ウェブスター共作 『サー・トマス・ワイアット』(1603−5)
トマス・ヘイウッド作 『私をご存じなければ,どなたもご存じない』 第一部 (1603−5)
トマス・ヘイウッド作 『私をご存じなければ,どなたもご存じない』 第二部 (1603−5)
トマス・デッカー作 『バビロンの娼婦』(1605− 6)
ウィリアム・シェイクスピア作 『ヘンリー八世』(1612−13)
トマス・ドゥルー作 『サフォーク公爵夫人の生涯』(1623)
トマス・ミドルトン作 『チェスゲーム』(1624)
ロバート・ダヴェンポート作 『ジョン王とマチルダ』(1628−34)
ジョン・フォード作 『パーキン・ウォーベック』(ca. 1633)
ステュアート朝に創作された英国史劇の数は,エリザベス朝のそれの数と比べるとはるかに少ない.
『チェスゲーム』 と 『ジョン王とマチルダ』 は別として,いずれの作品も前世紀の英国史劇では取り
上げられることのなかったテューダー王朝の歴史を題材とする.その評価については,リブナーとアン
・バートン(Anne Barton) のものが現在でも広く批評家の間で共有されている. 彼らによれば,ジェイ
2 ムズ即位以後, ステュアート朝の英国史劇は衰退したという.
その理由として,リブナーは創作され
3 た作品の数の減少と先の時代の英国史劇の活力ないし芸術的な美質の欠如を挙げる.
アン・バートン
64
シェイクスピア批評に埋もれた歴史̶ステュアート朝の英国歴史劇再評価̶
は, ステュアート朝の英国史劇は,『ヘンリー八世』 と 『パーキン・ウォーベック』 を唯一の例外とし
4 て, 注目に値するものはほとんど皆無だと考える.
英国史劇が衰退した理由として, 彼女は,ナショ
ナル・スピリッツの減少, スコットランド国王ジェイムズ六世のイングランド国王即位, 私設劇場の観客
5 の趣向の変化や, 作品そのものの歴史からロマンスへの変容等を挙げている.
二人のコメントを待つ
までもなく, エピソード主体のメロドラマ的な感傷に傾斜するステュアート朝の英国史劇は, 王権の
意義と政治的な教訓を主題とするエリザベス朝のそれと異なり,確かに質的に見劣りがする.それに,
歴史上のイングランドの国王について取り上げる題材も前世紀までに出尽くしたことも考え合わせるの
なら,リブナーやアン・バートンの歴史劇衰退説はうなずけるところもある.それにしても, 彼らに代
表される多くの批評家は, 何を基準にしてステュアート朝の英国史劇を評価しているのだろうか. こ
の時代の英国史劇を再評価する際の問題は,まさにここにあるように思われる.この問題について考
える上で, 再びアン・バートンの見解が参考になる.
Plays concerned with the lives of English kings had been written during the last decades of the
sixteenth century not only by Shakespeare, but by Marlowe, Peele, Greene, Heywood, Munday,
Wilson and by all those anonymous authors responsible for such works as The Troublesome Raigne
of King John (1588), Edward III (1590), Jack Strow (1591), The True Tragedy of Richard III (1591),
and Woodstock (1592). Many other plays of this type have been lost. 6
上の引用から,アン・バートンは, ステュアート朝の英国史劇を評価するとき, イングランドの国王
の王権と君主制度を脱神秘化するシェイクスピアなどの劇作家を念頭においていることがわかる. ま
た,17 世紀の演劇を考える上で必ず引き合いに出されるマーゴット・ハイネマン(Margot Heinemann) が
7 「深刻な政治, 歴史劇」 と言うとき, 射程に入っているのはシェイクスピアの英国史劇なのである.
ということは, 前世紀の劇作家たちの英国史劇がステュアート朝の英国史劇を評価する際の基準とな
ってきたと言えよう.そして,シェイクスピアなどの英国史劇をよしとする思考回路は,そのまま後の
時代の英国史劇衰退説と結びついてきたということになる.そのように考えてみると,シェイクスピア
の歴史意識だけを絶対視して, ステュアート朝の英国史劇を軽視することは, 他にありえたかもしれ
ない劇作家の歴史意識を埋没させてしまうことになる.
Ⅱ
ところで, ステュアート朝に, 劇作家がどのような視点からイングランドの歴史を再現したのかとい
う問題について, 今のところ最も説得力のある解答を与えているのは,ジュディス・ドゥリン・スパイクス
(Judith Doolin Spikes) の提唱した 「選民神話」 史観だろう. スパイクスは,ステュアート朝に創作さ
れた英国史劇のほとんどが, 終末論的な歴史意識と, 選民としてのイングランドの国民意識を基調と
8 するジョン・フォックスの 『殉教者列伝』 に依拠していることに着目する.
フォックスによれば,キリス
トの再臨とともに終わる人間の歴史をプロテスタントとローマ・カトリックとの戦いの歴史とみなし,この
ような歴史の中で, イングランド国民は, 反キリストの象徴たるローマ教皇を倒し, 地上にキリストの
王国を再建するために選ばれた国民として位置づけられる. スパイクスは,フォックスの歴史に対す
る意識を 「選民神話」 史観と呼び, この歴史観がステュアート朝に創作された英国史劇の大きな枠
9 組みを構成していると主張する.
それでは, 前世紀の劇作家の関心が王位をめぐる国王と貴族との争
いだったのが, なぜステュアート朝になって王国内の宗教的な対立に移行したのだろうか. この理由
について, スパイクスは, ジェイムズ一世即位後生じたカトリック主義のアン王妃の政治介入, 不人
気に終わったジェイムズの対スペイン融和政策,そしてカトリックへの方位転換を合意の条件とした皇
太子チャールズとスペイン王女との結婚問題が, イングランドの国体と宗教というヘンリー八世治世以
10
来の問題を再びクローズアップしたと説明する.
なるほどそうかもしれないが,この 「 選民神話 」 史観が必ずしも作品全体に及んでいないのも事実
石橋 敬太郎
65
なのである. 例えば,プロテスタント主義の王妃キャサリン・パーを陥れようとするカトリックの司教た
ちの陰謀の失敗をアクションの中心に据えて, 終幕で国王ヘンリー八世が王子エドワード及び王女エ
リザベスの信仰を容認する過程を描く 『私を見ればわかるはず』 は,プロテスタント擁護の劇とみな
されているが, 劇中でカトリック主義教会体制が維持されていることは見落とせない. また, この作
品とほぼ同じ時期に創作された 『サー・トマス・ワイアット』 の英雄サー・トマス・ワイアットは, 女王メ
アリのカトリック主義に抵抗したプロテスタント主義の殉教者とみなされている. 確かに, メアリとス
ペイン国王フェリペ二世との結婚に反対するワイアットの武装蜂起には, イングランドのスペイン化を
救済するための大義名分が見てとれるが, 彼は一言も女王のカトリック主義を疑問視していないので
ある.女王エリザベスの治世を描く 『私をご存じなければ,どなたもご存じない』 第二部の焦点も,
サー・トマス・グレッシャムたちプロテスタント主義の大商人が原動力となって推進した資本主義経済に
向けられる.そうしてみると, この作品の終わりで展開するアルマダ撃滅は, エリザベス治世のエピ
ソードを伝える以上に大きな宗教的意義をもたない.もう一つ例を挙げるのなら,『バビロンの娼婦』
の妖精王国女王タイタニアは, 劇の後半までカトリックによる威嚇に気づかない.それどころか, カト
リック主義を容認している節もある.これら四つの作品を取り上げただけでも, スパイクスの 「選民
神話」史観が作品全体に及んでいないことがわかるだろう.とは言え,彼女の「選民神話」史観は,
今やこの分野の研究者の間で広く認識されている. 例えば, 過去 20 年間に米国で刊行されたステュ
アート朝の英国史劇に関する博士論文では, ほとんど必ずと言っていいほど, 肯定的にスパイクスへ
の言及がなされている.しかしながら, ポリティックスへと傾斜した歴史観,そして同時代に対する
政治意識は, ステュアート朝の英国史劇を初演された時代の政治, 外交, 宗教を通して読み直すこ
とを可能にする.そのような可能性がある限り, 従来のシェイクスピアなどの英国史劇研究によって導
き出されてきたバイアスをひたすら排除し, ステュアート朝の英国史劇をそれぞれ劇作家の歴史意識
という観点から分析して,どのような歴史観が浮かび上がってくるのか検討してみなければならないだ
ろう.
Ⅲ
周知のように, ステュアート家がイングランドの王位を継いだとき, 中央集権的傾向をもつテューダ
ー王朝の絶対君主制度は疑問視されていた.すなわち, 神の代理人として, 意のままに王国を統治
する権利は, 法律の知識と産業資本をもとに急成長してきた議会勢力によって制限されつつあったの
である.そこへ,王権神授説を確信して,議会を無視した宮廷政治を推進する新国王の登場である.
彼の統治がすでに時代遅れであることは, 誰の目にも明らかだったのだろう. この時代の英国史劇
作家は, 主として近代的な国家に変貌を遂げた前王朝の歴史を再現する. ところが, 劇作家の描く
登場人物は,テューダー朝などではなく,ステュアート朝に生きているかのように描かれる.ちょうど,
シェイクスピアの英国史劇の封建君主が,自らの不当な政治を「天与の権利」,
「正当な要求」及び「神
意」 をもとに神秘化して, 近代初期イングランドの支配構造の矛盾点をさらけ出したように, ステュ
アート朝の英国史劇の国民は, 近代へ向かう途上のイングランドの支配体制の実像を暴いてみせる.
例えば, 議会法や国法をたてに支配者層の暴走に異議を唱えるワイアットの行動は, 王権神授説を
支持する寵臣ノーサンプトン伯ハワードを頼みとして,議会を無視した宮廷政治を推進する国王ジェイ
ムズ一世の政策を批判する. イングランドのプロテスタント大商人が国家形成に介入するのを歓迎する
『私をご存じなければ, どなたもご存じない』 第二部の女王エリザベスの政策は, 国家の父として
宗教や貿易を一方的に利用するジェイムズの政策と著しい対照をなす.そうしたジェイムズの政治に対
する疑問は, 彼のスペイン融和政策にも向けられる. 中でも,『バビロンの娼婦』 で平和外交に徹
していた女王タイタニアの好戦主義への政策転換は, スペインを武力で根絶すべきとする宮廷内の好
戦的なプロテスタント派の主張と結びつく.そして,シェイクスピアは, 反体制的な感情を生み出す原
66
シェイクスピア批評に埋もれた歴史̶ステュアート朝の英国歴史劇再評価̶
因となった廷臣の問題にメスを入れる.すなわち,『ヘンリー八世』 では,ウルジーによる暴政を生
み出した原因が, ときの権力者である彼に政治を一任する国王ヘンリー八世の支配構造にあることを
明らかにする.このようなヘンリーの支配構造は,ジェイムズの政治を支えてきた有能な廷臣ソールズ
ベリー伯の失脚を契機として, ハワード派による宮廷政治をいっそう推進した時代のそれを想起させ
る.
1620 年代になると,ジェイムズが義理の息子パラタイン選挙候フレデリック五世の領地回復を取りつ
けるためにスペインを支持し,イングランドの宗教も大きなカトリックへの転換の揺れを見せる.そのよ
うな時代に創作されたのが『サフォーク公爵夫人の生涯』 である.劇中では,カトリックの主教による
迫害に耐え,プロテスタントの信仰を守ったサフォーク公爵夫人の波乱万丈の生涯が展開するが,その
物語には女王メアリのカトリック政策を描くにとどまらない時事的メッセージが認められる.それは,
フレデリック五世を強く印象づける,劇中のポーランド国王パラタインの好戦的プロテスタント主義への
言及である.すなわち,彼のメアリの宗教政策に対する批判的な姿勢には,ジェイムズのカトリック政策
と真っ向から対立する好戦的プロテスタント派の政治的表明が刷り込まれている.ステュアート朝最後
の英国史劇となった『パーキン・ウォーベック』 は,ヘンリー七世を当時の議会が理想とした,合理的
な論理に基づく実践的な国王として表象する一方で,ウォーベックのネオプラトニズム的な愛の王国を
国王チャールズ一世の目指す君主制度として表象する演劇構造をなしている.そして,ウォーベックと妻
キャサリンがヘンリーの支配構造に組み込まれるのを拒否したところに,ときのピューリタンによる議
会政治の限界が読み取れる.もっとも,ステュアート朝の英国史劇が再現するのはテューダー朝の歴史
ばかりではない.カトリックの方位転換を合意の条件としたスペイン外交を風刺する『チェスゲーム』
は,現在の時局に題材を求めている.また,『ジョン王とマチルダ』 は,古のジョン王時代を背景とし
ている.題材を現在に求めようと,あるいは遠い過去に求めようと,これらの作品が歴史を題材として
「現実の出来事」 を意識的に,かつ巧みに描出していることに変わりはない.だからと言って,この時
代の英国史劇が,後のオリヴァ・クロムウェルによる共和政体を志向し,イングランドの君主制度そのも
のを攻撃しているのではない.あくまでも,劇作家は,君主制度を維持しながら,君主の無制限な王権
が制限される前例を示しているのである.
Ⅳ
劇作家の歴史意識という観点に立つとき,ステュアート朝の英国史劇には,カトリックへの方位転換
を合意の条件としたジェイムズ一世のスペイン融和政策や,チャールズ一世の専制政治に異議を唱える
劇作家の明白な政治的表明が見出せる.そして,そこに浮かび上がってくる劇作家の歴史観は,反体制
的な政治観であったということになる.このように,過去の歴史から引き出される教訓よりも,過去を
題材としてイングランドの支配体制の実情を探り,その政策に関与する劇作家の姿勢は,ベン・ジョンソ
ン的であり,ここに1590 年代のものとは異なる歴史記述が存在することになる.つまり,ジョンソンは,
タキトゥスに歴史観を仰ぎ,暴君や支配者の愚行を批判する『セジェイナス』 (1603) を創作したが,そこ
11 に描かれる支配者に対する告発には,彼の歴史に対する新しい意識がはたらいている.
そのような歴史
観をもって,ステュアート朝の劇作家は,職務や寵愛の配分をコントロールし,政策を決定する国王権
力が制限される前例を示す.その前例は,国家や国王の神秘化を志向するジェイムズの政治理念を拒
絶する.もちろん,当時の劇作家や劇団が,どの程度,政治に関与していたのか,はっきりしたことは
わからない.しかし,劇作家がトピカルな出来事を表して,国王の政策に反応する劇作術は,A・ H ・トリ
12
コミ(A. H. Tricomi) が指摘したように,フィリップ・マッシンジャーの悲劇にも見出せる特徴である.
マッシンジャーは,第二代ハーバート伯の従者の息子だったこともあって,議会を理想的な政治体と考
13 えるハーバート家の政治観を共有していた.
マッシンジャーの悲劇の特色を無理を承知で一言でまと
めるのなら,ジェイムズのスペイン融和政策が生み出した,ネーデルラントの反乱に対するイングランド
石橋 敬太郎
67
の外交政策や,アルミニウス説を支持する寵臣バッキンガム公爵の影響をまともに受けた国王の政策に
反対する政治声明と言うことになろう.その政治声明は,当時のピューリタンの政治批判と通じるもの
がある.それにしても,反体制的な政治的表明を主眼とするこの時代の英国史劇が,そもそも検閲を通
り,上演や出版をも可能にした背景はどこから現れたのだろうか.資料が乏しく,断定はできないが,
ピューリタンの実力者ペンブルック伯と饗宴局長サー・ヘンリー・ハーバートとの協力関係は指摘できる
かもしれない.いずれにしても,ステュアート朝の政治,外交そして宗教を通して,この時代の英国史劇
を読み直すのなら,反体制的政治観が浮上してくることだけは問題として提起できると思う.
最後にもう一度, 英国史劇衰退説について考えてみる.ジェイムズ一世即位間もない時期には, 新
しい英国史劇がいくつも創作,初演された.その後,新作が現れる機会は減少するが,
1620 年代以降,
再びこの種の劇が復活する.それぞれの作品は出版され,そのいくつかは何度も版を重ねている. 中
でも,『私を見ればわかるはず』 は四度 (1605,1613,1621,1632),『私をご存じなければ,どなたもご
存じない』 第一部は七度 (1605,
1608,
1610,
1613,
1623,
1632,
1639),そして第二部は四度 (1606,
1609,
1623,
1632) 版を重ねている.このことに加えて,英国史劇の出版数は,他のジャンルのものと比べると意外
なまでに多い. 依然として出版が続いていれば, 新作が減少しても,「衰退」 したとは簡単に言えな
いことになる.それに, 当時の刊本は宗教関係書が中心であって, 戯曲本は出版業者として必ずしも
儲からない分野であったことが事実なら,14 上演されても, 人気のない作品, あるいは再演されるこ
ともない不人気な作品が出版されるとは,とても考えにくい. 上演が好評を博したから, 書籍商が利
潤を期待して,その脚本を出版したと考えるのが自然だろう.もちろん,シェイクスピアをはじめとする
1590 年代の英国史劇も何度も出版されている. ステュアート朝には, ヘンズロウの 『日記』 のような
資料がなく,どの作品が,どの劇場で,いつ再演されたかを知るのは難しいが, 出版された作品が再
演されるケースは高かったと推測できる.とするならば, ステュアート朝に入って新作の数が減少した
からと言って, 英国史劇が衰退したと断定できないことになる. 衰退していたとしても,その速度は想
像以上に緩やかだったのではないか. 喜劇やロマンス劇が全盛の時代にあっても, 英国史劇は依然と
して人気があり,1642 年の劇場閉鎖に至るまで,シェイクスピアなどの 「古い」 タイプの英国史劇とと
もに上演され, 活況を呈していたのではないかと思われる.
注
1
Irving Ribner, The English History Play in the Age of Shakespeare (Princeton, New Jersey: Princeton University
Press, 1957), pp. 325-27.
2
Ribner, p. 266.
3
Ribner, p. 266.
4
Anne Barton, Essays, Mainly Shakespearean (Cambridge: Cambridge University Press, 1994), p. 234.
5
Barton, p. 234.
6
Barton, p. 234.
7
Margot Heinemann, Puritanism and Theatre: Thomas Middleton and Opposition Drama under the Early Stuarts
(Cambridge: Cambridge University Press, 1982), p. 46.
8
Judith Doolin Spikes, “The Jacobean History Play and the Myth of Elect Nation,” Renaissance Drama 8, 1977,
117-48.
9
Spikes, 117-48.
10
Spikes, 117-48.
11
Margot Heinemann, “Political drama” in English Renaissance Drama, eds. A. R. Braunmuller and Michael
Hattaway (Cambridge: Cambridge University Press, 1990), pp. 191-92.
12
Albert H. Tricomi, Anticourt Drama in England 1603-1642 (Charlottesville: University Press of Virginia, 1989),
68
シェイクスピア批評に埋もれた歴史̶ステュアート朝の英国歴史劇再評価̶
pp. 153-64.
13
Tricomi, p. 153.
14
Peter W. M. Blayney, “Publication of Playbooks” in A New History of Early English Drama, eds. John D. Cox and
David Scott Kastan (New York: Columbia University Press, 1997), p. 389.
Proceedings of the 59th Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
シンポジアム 【英文学部門】
シェイクスピアと古典主義の伝統
田中 一隆
序. 基本的な結論̶イントロダクションに代えて
筆者は,「観客論的視点から見た英国ルネサンス演劇のマルティプル・プロット構造の研究」 という
テーマで研究を続けてきた. この研究の目的は, 英国ルネサンス演劇の多様な側面の中でも, 特に
そのマルティプル・プロット構造を中心的な研究対象として,この現象を観客の演劇受容との関連にお
いて分析しようとするものである. 当時の演劇のサブ・プロットは, 純然たる仮構世界としてのメイン・
プロットとは区別された,観客の日常的現実世界に意味ある関連を持った仮構世界の一部であり,こ
の虚構の中に組み込まれた,古典演劇あるいは近代演劇の観点からすれば余分な一部は,本質的に,
観客の虚構受容を日常的現実の準拠枠 (frame of reference) で支える劇場の演劇の必須の一部であ
った,という知見を実証的に解明することが,この研究の目的である.
演劇現象を観客との相互作用において把握しようとする視点は, 英国ルネサンス演劇の研究史の
中でも特に新しい問題意識である.マルティプル・プロット構造についての研究も少ないことに加えて,
従来の研究では,マルティプル・プロット構造を, 単にテクストの一要素として認め, 作品内部の次元
における複数のプロットの有機的相互関連のみに議論が集中し過ぎたきらいがある.しかし, 当時
の演劇では,そもそも複数のプロットが相互に有機的に関連している事例が極めて少ないために,そ
れらの作品は芸術的失敗作であるとされ, ごく少数の例外を除いてほとんど議論されていないのが
現状である. 本研究のように,サブ・プロットを, 純然たる虚構としてのメイン・プロットに対する観客
の現実的批判意識の反映と見なし, 演劇現象の意味ある一部として再び組み込もうとする作業は,
これまでほとんどなされてこなかったと言っても過言ではない. 古典演劇や近代演劇が, 純粋な虚構
世界を構築することを目指したのに対して, 仮構世界に観客の日常的現実世界が突出している事態を
反映するマルティプル・プロット構造は, 古典劇や近代劇に固有の仮構意識とは異質な, 英国ルネサ
ンス演劇独特の層を構成しているように思われる.したがって, 本研究は, 単に英国ルネサンス演劇
の研究に止まらず,西欧演劇現象の歴史的変遷という問題意識にもある程度貢献しうる研究である.
Ⅰ. 問題の所在
英国ルネサンス演劇には,一見したところでは物語の進行を妨害するような,西欧古典演劇の伝統,
あるいは近代演劇の観点から見ても不自然な場面が数多く挿入されている. 悲劇的で重厚かつ真面
目な場面に挿入された, 喜劇的で猥雑で笑劇的な場面.アリストテレス的な演劇理念からどうしよう
もなくずれてしまった困りものの存在. 純粋なカタルシスを台無しにする異物など,シェイクスピア劇
を始めとする英国ルネサンス演劇に頻出する複数の 「筋」 の (一見したところ混沌とした) 混在状
況に与えられた伝統的な批評的評価は, 極めて否定的なものであった.
これらの否定的な見解は,ルネサンスと同時代の古典主義批評理論から近代批評理論に至るまで,
70
シェイクスピアと古典主義の伝統
連綿と続く一つの伝統を形成しているが, 本稿では特に, 古典主義的批評理論に注目して,その理
論的前提を抽出してみたい.
英国ルネサンス演劇の 「マルティプル・プロット構造」 を解明するためには,アリストテレス的な西
欧古典劇のドラマトゥルギー (dramaturgy) が,英国ルネサンス文芸のメタ理論の中で,どのような位
置を占めていたのか, という問題を考慮に入れなければならない.これからしばらくの間,サー・フィ
リップ・シドニーとジョン・ドライデンという, 二人の代表的な古典派の理論家の演劇理論について, メ
タ理論の観点から考察してみたいと思う.シドニーとドライデンの批判に共通しているのは, 彼らが二
人とも観客の反応を問題にしていることである.
Ⅱ. シドニー理論の再検討
まず,シドニーから始めよう.
But besides these gross absurdities, how all their plays be neither right tragedies, nor right
comedies, mingling kings and clowns, not because the matter so carrieth it, but thrust in the clown
by head and shoulders to play a part in majestical matters, with neither decency nor discretion,
so as neither the admiration and commiseration, nor the right sportfulness, is by their mongrel
tragi-comedy obtained. I know Apuleius did somewhat so, but that is a thing recounted with space
of time, not represented in one moment: and I know the ancients have one or two examples of
tragicomedies, as Plautus hath Amphitryo. But if we mark them well, we shall find that they never
or very daintily match hornpipes and funerals. So falleth it out, that having indeed no right comedy,
in that comical part of our tragedy, we have nothing but scurrility, unworthy of any chaste ears, or
some extreme show of doltishness, indeed fit to lift up a loud laughter, and nothing else: where the
whole tract of a comedy should be full of delight, as the tragedy should be still maintained in a well
raised admiration.
But our comedians think there is no delight without laughter, which is very wrong, for though
laughter may come with delight, yet cometh it not of delight, as though delight should be the cause
of laughter; but well may one thing breed both together. Nay, rather in themselves they have, as
it were a kind of contrariety: for delight we scarcely do but in things that have a conveniency to
our selves or to the general nature; laughter almost ever cometh of things most disproportioned to
our selves and nature. Delight hath a joy in it, either permanent or present. Laughter hath onely a
scornful tickling.
For example, we are ravished with delight to see a faire woman, and yet are far from being
moved to laughter; we laugh at deformed creatures, wherein certainly we cannot delight. We
delight in good chances, we laugh at mischances: we delight to hear the happiness of our friends
and country, at which he were worthy to be laughed at that would laugh; we shall, contrarily, laugh
sometimes to find a matter quite mistaken, and go down the hill against the bias, in the mouth of
some such men--as for the respect of them one shall be heartily sorry, he cannot choose but laugh,
and so is rather pained than delighted with laughter.
Yet deny I not but that they may go well together. For as in Alexander's picture well set out
we delight without laughter, and in twenty mad antics we laugh without delight; so in Hercules,
painted with his great beard and furious countenance, in a womans attire, spinning at Omphale's
commandment, it breedeth both delight and laughter: for the representing of so strange a power
in love procureth delight, and the scornfulness of the action stirreth laughter. But I speak to this
purpose that all the end of the comical part be not upon such scornful matters as stir laughter only,
but, mixed with it, that delightful teaching which is the end of poesy. And the great fault even in
that point of laughter, and forbidden plainly by Aristotle, is that they stir laughter in sinful things,
which are rather execrable then ridiculous, or in miserable, which are rather to be pitied then
scorned. For what is it to make folks gape at a wretched beggar and a beggarly clown; or, against
law of hospitality, to jest at strangers, because they speak not English so well as we do? (244-45)
よく指摘されるように,シドニーはアリストテレスを引き合いに出しているように見えて,その背後にあ
るものの考え方は,ホラティウス(Horace)が『詩論』(Ars Poetica)で展開している見方なのである.
このことは,一見アリストテレスを思わせるようなアクションの統一 (the unity of action) に関するシド
田中 一隆
71
ニーの議論が,「悲劇と喜劇 (“hornpipes and funerals”) の混淆」 の問題に始まり,しだいに喜劇の
問題に限定されて行って,観客の反応を問題にしながら,喜劇が喚起する「笑い(“laughter”)」と「歓
喜 (“delight”)」 の要素を峻別し,
「詩 (“poesy”)」 の目的は 「教えかつ楽しませること(“delightful
teaching”)」 であると断言しているところに明らかに示されている.「笑いよりもむしろ畏れを喚起
すべき人間の罪 (“sinful things, which are rather execrable then ridiculous”)」, あるいは,「嘲笑さ
れるよりもむしろ哀れまれるべき人間の悲惨 (“miserable [things], which are rather to be pitied then
scorned”)」を描きながらも,その中に「笑いを喚起(“stir laughter”)」しようとするような作詩法は,
「アリストテレスによって厳に戒められている (“forbidden plainly by Aristotle”)」 とシドニーは結論
づける.ここでもシドニーは, 表向き 「哀れみと畏怖」 というアリストテレスのカタルシス論に言及す
るように見えて, 彼の実際の目的は,「教えかつ楽しませること (“delightful teaching”)」 というホラ
ティウスの論点を主張することにある.アリストテレスの権威を借りながら実はホラティウスに訴えるこ
と,シドニーが目指したのは,劇が観客に与える効果を主眼とするラテン的伝統の擁護なのであった.
Ⅲ.ドライデン理論の再検討
次に,ドライデンの批評理論を見てみたい.
The unity of action in all their [the French's] plays is yet more conspicuous. For they do not
burden them with under-plots, as the English do--which is the reason why many scenes of our
tragicomedies carry on a design that is nothing of kin to the main plot, and that we see two distinct
webs in a play, like those in ill wrought stuffs, and two actions--that is, two plays--carried on
together to the confounding of the audience, who, before they are warm in their concernments
for one part, are diverted to another, and by that means espouse the interest of neither. From
hence likewise it arises that the one half of our actors are not known to the other. They keep their
distances as if they were Montagues and Capulets, and seldom begin an acquaintance till the last
scene of the fifth act, when they are all to meet upon the Stage.
There is no theatre in the world has anything so absurd as the English tragicomedy. 'Tis a drama
of our own invention, and the fashion of it is enough to proclaim it so--here a course of mirth, there
another of sadness and passion, a third of honour, and fourth a duel. Thus in two hours and a half
we run through all the fits of Bedlam. (94)
ドライデンの非難が,いわゆる 「三一致の法則」(the three unities) と呼ばれるアリストテレス的詩作
法の原理に基づいていることは明らかだが,我々にとって興味深いのはむしろ,ドライデンが 「マルテ
ィプル・プロット」 を非難するために, 観客の反応を問題にしていることである. 単一のプロットによ
って統一された作品とは異なって, 同一の作品の中に複数のプロットが共存する作品の場合は, 演劇
を観る観客の興味は 「二つの異なった筋 (“two distinct webs in a play”)」 によって分散されて, 観
客は二つのプロットのいずれにも意識を集中することができないまま, 結局演劇のアクションについて
何らかの統一された関心を形成できない混乱状態に陥ってしまう. 悲劇的な筋が喚起する 「悲しみ
や哀れみの情感 (“sadness and passion”)」 と,喜劇的な筋が喚起する 「陽気や喜びなどの情感 (“a
course of mirth”)」 とが同時に観客の内部に生起することで,アリストテレスが主張した悲劇的感情
の純粋性やカタルシスの効果が台無しになってしまうと主張して,ドライデンもシドニーと同様に,「マ
ルティプル・プロット」 の芸術的意義についてかなり懐疑的な態度を表明している.
しかし,「マルティプル・プロット」 の観点に基づいて演劇を非難することは,シェイクスピアの作
品を含めて, ほぼすべての英国のエリザベス朝・ジェイムズ朝演劇を非難することになる. 英国ルネサ
ンス演劇の 「マルティプル・プロット構造」 は,シドニーやドライデン等の古典派の演劇理論が主張す
るように,演劇のアクションに関する観客の関心を分散させる効果を果たしていたのであろうか.そう
ではなく, 劇作家は故意に複数のプロットを単一の作品の内部に共存させることによって, 観客の観
劇意識の中にある統一されたヴィジョンを形成させようと意図していたのではないか. 英国ルネサンス
72
シェイクスピアと古典主義の伝統
演劇に顕著な 「マルティプル・プロット構造」 を正しく理解するためには,観劇行為のそもそもの前提
として当時の観客の中に存在していたある受容意識,アリストテレスが主張するアクションの統一を前
提としない受容意識, 我々近代人固有の観劇意識とも異質の受容意識に訴えるということが必要なの
ではないか.
このような認識の一つの論点として, 本論では, 散文とヴァースの混合体という英国ルネサンス演
劇の極めて特異な文体を, 観客の演劇受容との関連で考えてみたい.
Ⅳ.「ポエジー」(poesy) と英国ルネサンス演劇という問題
シェイクスピアを中心とする英国ルネサンス演劇の形態を考える場合,西欧の古典的な演劇理念に
基づいているシドニーやドライデンの議論には,ある問題が存在することをまず指摘しなければならな
い.『詩の弁護』
(The Defence of Poesy),
『詩劇論』
(An Essay on Dramatic Poesy)のタイトルが示す
ように,古典派の理論はあくまでも「詩」(poesy) にその対象を限定して構築されている.つまり,古典
派の前提では,
「演劇」
(drama)はまず「劇」
(play)であるまえに「詩」
(poesy)の範疇に属していな
ければならなかったのである.従って,英国ルネサンス期の古典的文芸理論が念頭に置いていたのは,
「劇作法」(ドラマトゥルギー̶dramaturgy) の問題ではなく,
「詩作法」(ポエジー̶poesy) の問
題なのであった.「ポエジー」 とは区別された「ドラマトゥルギー」 の概念が成立するのは 19 世紀の
出来事である.古典古代からルネサンスに至るまで,劇作法の問題がそれ自体で独立することはなく,
劇作法は詩作法(ポエジー) の(必須の) 一部だったのである.詩作法とは区別された劇作法の概
念が成立する経緯を明らかにすることは,それ自体が興味深い問題だが,いまは問題の所在だけを指
摘するに止めたい.ただし,この場合の「ポエジー」(poesy) というのは,日本語の「詩」 という言葉
で想起されるもの,すなわち,
「散文」(prose)に対する「ヴァース」(verse)としての「詩」という意味
では必ずしもない,ということに注意を喚起しておかなければならない.
シドニー, ベン・ジョンソン,ドライデン,ジョン・ミルトンのような, 西欧古典演劇派が擁護しようと
したのは 「ポエジー」 あるいは 「ポエトリー」(poetry) の伝統であって, 規範としてアリストテレスが
持ち出されるのも,彼の『詩学』
(Poetics)があくまでも「詩作法」の指南書であったからなのである.
アリストテレスは 『詩学』 の中で劇作の問題を主要なテーマとしているが,それは古典古代において
は 「劇」 は 「詩」 で書かれるのが前提であったからであって, 古典的演劇理論は,シェイクスピア
を始めとする英国ルネサンス演劇の基本的な形態であるところの, 散文とヴァースの混合体という極
めて特異な文体を視野に収めることはなかったのである. 英国ルネサンス演劇に見られる 「悲劇と喜
劇の混淆」 状態が,詩と散文 (verse and prose) の区別という伝達様式の差異をも基本的に伴ってい
るという事実を, 古典派の理論家達は全く考慮に入れていないのである. 古典的劇作法理論は, 対
象として詩劇 (poetic drama) を暗黙の前提としていたのであり,
「詩と散文の混合体」 という英国ル
ネサンス演劇の一大特徴をまったく無視してしまっているのである. なぜかかる基本的な認識が欠落
していたのかという問題は重大かつ難解な問題だが, 本論では問題の所在だけを指摘するに止めて
おきたい.アリストテレスが 『詩学』 において前提としていたのは詩で書かれた作品であって, 散文
という表現媒体はアリストテレスの理論の埒外にある. 散文作品が論じるに値する 「文学」 であると
いう考え方, あるいは,そもそも散文で書かれた作品が 「文学」 を構成しうる̶ここでの 「文学」
の中味は一応問わないこととして̶という考え方自体がアリストテレスには存在していなかった. 散文
の作品が文学として認められるには, 近代という時代の到来を待たなければならないのである.アリ
ストテレスの『詩学』はあくまでも「詩作法」に関わる理論であって,一般に考えられているように「劇
作法」 に関わる理論ではない.『詩学』 でアリストテレスは,「詩劇」 のみならず 「叙事詩」 も念
頭に置いているが, ホメーロスを始めとする古代ギリシアの 「叙事詩」 はすべて 「詩」 で書かれて
いるという事実は, 極めて重要な意味を持っているのである.
田中 一隆
73
Ⅴ. 文体と仮構意識
シドニーやドライデンの古典主義の批評伝統は, 高踏的な宮廷貴族の文化伝統, いわゆる当時の
ハイカルチャーに属していたので, 一般民衆の大衆的な文化伝統, いわゆるサブカルチャーに属し
ていた英国ルネサンス演劇の実践を, 古典的伝統の枠組みで考えると過ちを犯すことになるだろう.
民衆演劇としての英国ルネサンス演劇という論点で, 特に注目したい現象として 「アナクロニズム」
(anachronism) と 「散文」 の問題がある. 英国ルネサンス演劇において,何を理由にある台詞が散
文で構想され, ある台詞がヴァースで構想されるのか,という問題は極めて複雑な要素が関わってい
て単純に一般化することは困難だが, 例えば, 身分の低い登場人物は散文を話す, 手紙の内容は散
文でというような, 表象内容の問題のみならず, ある台詞が劇場の観客にどのように受け止められる
のかという, 観客の演劇受容の問題と深く, かつ本質的に関わっているように思われる.このような
認識の一つの証左として,『マクベス』 を例に挙げて, 表象とアナクロニズムの観点から, 散文とヴ
ァースの問題を考えるための一つの手掛かりを提示してみたいと思う.
Port. Here's a knocking indeed! If a man were porter of hell-gate he should have old turning the
key. Knock, knock, knock. Who's there, i' th' name of Beelzebub? Here's a farmer that hanged
himself on th' expectation of plenty. Come in time! Have napkins enough about you; here you'll
sweat for 't. Knock, knock. Who's there, in th' other devil's name? Faith, here's an equivocator that
could swear in both the scales against either scale, who committed treason enough for God's sake,
yet could not equivocate to heaven. O, come in, equivocator. Knock, knock, knock. Who's there?
'Faith, here's an English tailor come hither for stealing out of a French hose. Come in, tailor. Here
you may roast your goose. Knock, knock. Never at quiet. What are you? But this place is too cold
for hell. I'll devil-porter it no further. I had thought to have let in some of all professions that go the
primrose way to th' everlasting bonfire. Anon, anon! I pray you remember the porter. (2.3.1-21)
Son. Was my father a traitor, mother?
L. Macd. Ay, that he was.
Son. What is a traitor?
L. Macd. Why, one that swears and lies.
Son. And be all traitors that do so?
L. Macd. Everyone that does so is a traitor, and must be hanged.
Son. And must they all be hanged that swear and lie?
L. Macd. Every one.
Son. Who must hang them?
L. Macd. Why, the honest men.
Son. Then the liars and swearers are fools, for there are liars and swearers enough to beat the
honest men and hang up them. (4.2.44-58)
これらの引用は, 一つはいわゆる 「門番の場」,もう一つは, 殺される運命にあるマクダフの妻と幼
い息子の極めてパセティックな場面である. これら二つの場面とも, 散文で書かれている. 考えてみ
たいのは次のような問題である. これら二つの場面は, 古典的演劇理論から見れば, 純粋なカタル
シスを台無しにする余計な幕間劇 (interlude) とも言える場面であるが,これらの場面が散文で書か
れているのはなぜなのであろうか.下層社会層の人間である門番やマクダフの息子はヴァースで語るに
は, あまりにも卑俗あるいは幼すぎるので, ということはつまり, 古典派の理論家たちが基準とした
表象の内的な要請,つまりミメーシス (mimesis),あるいはヴェリシミリチュード (verisimilitude) の
基準によって散文が選択されているのであろうか. 恐らくそうではない.ここは,ロベルト・ヴァイマン
が指摘した二つの演技領域の問題,すなわちプラテア(platea)とロクス(locus)の問題が深く関わっ
ているように思われる. 門番とマクダフの息子は,「プラテア」 の演技空間にあって,中世スコットラ
ンドのマクベスの物語とは切り離されてはいるが, 当時の観客にとってはまさにホットな政治問題を想
74
シェイクスピアと古典主義の伝統
起させる文脈を喚起しているのである.
門番はここでプラテアとロクスという二つの演技領域を巧みに移動する. 門番はまず,「地獄の門番
(“porter of hell-gate”)」 として,プラテアの演技領域に登場する.プラテアでは,演技者は役者 (プ
レイヤー̶player) として,観客の現実世界と直接的 (presentational) な関係を結ぶ. 門番は,「火
薬陰謀事件」 の記憶が生々しい観客の意識に訴えながら,ヘンリー・ガーネットに間接的に言及する.
「神様のためと称して国王を裏切ろうとした者 (“who committed treason enough for God's sake”)」 と
聞いて観客は,すぐにガーネットのことを思い出したはずである. ガーネット裁判が物議を醸したのは
何よりもまず,彼の equivocation が全ての宣誓を無効にする危険なものと見なされたことによる. 従っ
て, 宣誓とequivocation の関係は, 当時の観客に広く共有されていたはずである. 宣誓を無効にす
る equivocation の深刻さが, 悪魔的な存在と関連させられていることに対して, 観客は何の違和感も
抱かなかったであろう.
興味深いことに, この equivocationと宣誓の関係は, 別のプラテアの演技領域で, 繰り返される
ことになる.マクダフ夫人とマクダフの息子のやり取りでは,equivocation の概念は 「嘘 (“lie”)」 と
単純化されて,「国王に反逆する者 (“traitor”)」 の定義として用いられている. 観客の理解では,
equivocation は 「嘘」 とほとんど同意語であった.シェイクスピアはそれを逆手に取って,「神様に
誓って嘘は言わないと宣誓しても, 嘘をつく馬鹿はいっぱいいるから, 馬鹿が正直者を追い立てて,
縛り首にすることになっちゃうね」 と冗談を言って平気であるが, この台詞は, 解釈の仕方によって
はかなり危険な含みを持つ台詞であった. なぜならば, 当時の観客は,「地獄の門番」 の登場によ
って, ガーネットの魂が, 地獄墜ちの運命にさらされていると信じていたからである. ここでは, 幼
いマクダフの息子に言わせているので, 辛うじて無害なものになっている.
観客に向かって,「あなたたちの魂もいつ地獄に堕ちるか分からないから, 地獄の門番のことを常
に想起せよ (“I pray you remember the porter”)」 という含みを残して, 門番は,プラテアの演技領
域から,ロクスの演技領域へと瞬時に移動する.ロクスの演技領域では, 門番は, 観客の日常世界
から切り離された虚構世界, ホリンシェッドが描いた中世スコットランドの世界を表象する,リプリゼ
ンテイショナル (representational)な演技を行う俳優 (アクター̶actor) へと,彼の役割を変化させ
る. 同時に門番は, 観客もいずれはお世話になるかもしれない 「地獄の門番」 から,マクベスに仕
える虚構世界の門番へと変化する.ところが不思議なことに,equivocation の概念は,ロクスの演技
領域で再び用いられることになる. ここを書いたシェイクスピアにアナクロニズムの意識はなかったで
あろうが,
equivocation の概念は同時代への言及の含みを保ちながら,中世スコットランドの世界へと,
その意味を持続させていくのである.
Ⅵ. まとめ
シドニー,ドライデンなどの古典主義的の批評伝統は,その規範的伝統をあくまでも 「ポエジー」
に求めようとした.しかし,シェイクスピアを始めとする, いわゆる英国民衆演劇の伝統は,ヴァー
スと散文の混合体を駆使しながら, 西欧古典演劇の伝統とは異なる, 独特で固有の仮構意識を創造
した,と言うことができるのではないだろうか.
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田中 一隆
75
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シンポジアム【アメリカ文学部門】
自然・環境・文学
司会
秋田大学助教授
村上 東
講師 岩手大学講師
秋田 淳子
講師 岩手大学教授
齋藤 博次
講師
開 龍美
岩手大学教授
文学を論ずる場で環境問題を考える.しかも,講師として参加してくださった開氏は環境思想史の
専門家である.この辺りに本シンポジアムの面白さと難しさがあった.例えばフェミニズムなどでシ
ンポジアムを組むのだったら,既に文学研究の領域に導入されている概念や方法論を触媒ににして話
の重なり合う地点を設けることが容易であろうが,今回私たち四人の間にある距離や方向性の違いを
確認し,今後建設的な議論を続けるとしたら取り組まなければいけない宿題が明らかになった,とい
うところであろうか.とは申せ,議論を続ければ成果もあがるであろうという手応えは,少なくとも私
には,感じられた.
秋田氏の取り上げた Mary Austin という作家はなかなかの難物で,手をつけた範囲が広く,環境問題
と西部問題に留まらず,女性,アメリカン・インディアン問題等々,その先駆性には驚くべきものがあ
る.そして,その背後に白人男性社会,ユダヤ・キリスト教,西欧文明に対する根源的な批判と問いか
けが展開されているのであるから,今後機会があれば Mary Austin ひとりだけで一回のシンポジアム
を計画する必要があろう.他の方々にも是非この作家を勉強していただきたいと考えざるを得ない.
齋藤氏の発表はアメリカ文学に見られる男性の想像力,あるいは男性中心社会の産物としての想
像力に特有な二項対立と象徴主義に鋭いメスを加えるものであった.口やかましい女房と彼女の住む
村が自由も理想もない人間の<文明社会>である時,Rip Van Winkle が逃げてゆく山奥は男性の楽園
としての<荒野>という象徴性を帯びてしまう.これはアメリカン・インディアンを合衆国ナショナ
リズムの隠喩,象徴として理想化する James Fenimore Cooper の戦略へと受け継がれる.そして,この
傾向は Ken Kesey といった二十世紀作家,しかも対抗文化の代表作である One Flew Over the Cuckoo’s
Nest のような作品にも顕著であると齋藤氏は指摘する.こうした齋藤氏の議論は,我等が内なる男性
的象徴主義と「自然を讃美すればいい」といった安易な環境主義への警鐘として展開された.
開氏の発表を簡単に要約することは,少なくとも私には,難しい.まず,開氏以外は,参集された
方々,講師,司会者,皆哲学の素人に近いので,合衆国環境思想史のおさらいをしていただいた.その
過程で,ユダヤ・キリスト教等に見られる人間例外主義,ロマン主義から現代に流れる自然・ウィル
ダネス讃美の系譜を指摘されたあと,ウィルダネスの観念に規定された環境思想・倫理学の形成と展
開を解説していただいた.そこには,ウィルダネスそのものが文明の産物ではないのか,ウィルダネス
という観念が文明の産物ではないのか,という疑問が持ち上がる.人間例外主義と人間中心主義を超
克するかたちで深められる環境に関する議論は<ウィルダネスという他者>をどう扱うのか,難しい
地点に辿りつくのであった.あとは開氏の論考を御参照いただきたい.さて,開氏の議論を文学研究に
生かせるか,ひとつの大きな宿題である.
開氏から,Gary Snyder がヒントになるかも知れない,というお話をいただいている.これはありが
たいことで,数年後 ecocriticism, nature writing の人間を集め,勿論開氏の応援も仰ぎ,続きのシンポジ
アムが行える可能性が残されたわけである.
(村上 東)
Proceedings of the 59h Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
シンポジアム【アメリカ文学部門】
Mary Austin の The Land of Little Rain 再評価
秋田 淳子
[1] はじめに
1868 年,Illinois 州 Carlinville に生まれた Mary Austin は,科学を専攻して Blackburn College を
1888 年に卒業する.同年,ホームステッド法を利用してCalifornia へ移住を希望する長兄 James に従
い Tejon 地方に赴く.その移動の体験を “One Hundred Miles on Horseback”として大学の文芸誌 The
Blackburnian に掲載し,彼女は作家としての軌跡を歩み始めることとなった.1934 年に Santa Feで亡
くなるまで,彼女はおもに生活のために執筆活動に邁進する.長・短編小説,詩,劇,児童書,伝記,
エッセイと多岐にわたる内容を扱った 30 作品以上の著書,雑誌や新聞に 200 以上の原稿を寄稿する.
多作な作家であるばかりか,New York や晩年を過ごした New Mexico 州では多くの講演をし,ネイテ
ィヴ・アメリカン文化をはじめ土地や自然の保護運動,さらにフェミニスト運動に携わるアクティヴィスト
として精力的な活動を展開する.
E. Boyd Smith のイラストが付されてクリスマス用ギフト本の装丁をとった The Land of Little Rain
(1903) (*以下LRと記す ) は,Atlantic Monthly 掲載後に出版される.1988 年刊行の LR 序文において
Edward Abbey が疑問を呈するように,オースティンが関与した生前の執筆や社会における活動は同書
が出版され続けていたことを除き,長い間忘れられてきた.しかし,1970 年代以降のおもに女性作家
による文学作品をめぐる一連の再評価の機運の中で,Sierra Nevada 山脈の東に位置するDeath Valley
周辺 Owens Valley の土地と生態系の営みを描写し,
“a small classic of American literature” (Hass xi)と
評価されるにすぎなかった LR の著者オースティンは脚光を浴びることとなる.本発表では再評価の動
きを「評価」 することで,オースティン研究の方向性にひとつの指針を提示したい.
[2] The Land of Little Rain 再評価の動き
LR は,オースティンが「境界線のない土地」 と呼ぶ砂漠地帯の土地と生態系を描写する14 編のス
ケッチから成る.彼女はその地域の乾いた土地とわずかな水域を背景に,200 種以上の植物,動物,
昆虫,鳥,魚などによる生態系の営みを描写する.季節の推移や天候の変化を受ける土地が生態系を
決定する役を担う.食物連鎖のサイクルが機能する自然界の効率良い秩序の中で,生物が相互依存し
ながら命をつなぐ.1892 年から1905 年まで砂漠地帯に居住した体験が形成したオースティンの場所の
感覚は,多様な自然界の様相をとらえる.苛酷で厳しい自然界の営みが,豊穣さと美しさによる畏敬の
念で彼女を圧倒することもある.バスケットをつくる老女やメディシンマンなどのネイティヴ・アメリカン,
ヒスパニック系の住人,開拓者や羊飼いのような牧畜に携わる少数の白人は生態系を構成する一要素
にすぎない.
LR を再評価する際,アメリカ西部の砂漠地帯という作品舞台,その土地で展開される自然界やネイ
ティヴ・アメリカンおよびヒスパニック系の人たちの生の営み,オースティンの自伝的事実と作品の関係
という 3 点の特異性が重視される傾向にある.白人男性を中心とするイデオロギーが主流となり人間
中心主義に立脚した近代化へと邁進していく時代に,オースティンは砂漠地帯の Independenceで作品
を執筆する.彼女は効率や利益を重視する風潮が価値を見出すことが困難な地域,デス・ヴァレー周
78
Mary Austin の The Land of Little Rain 再評価
辺の苛酷な自然環境を作品の中心に据える.生物中心主義の視点に基づく作品は,John Muir の The
Mountains of California (1894)とAldo Leopold の A Sand County Almanac (1949) の間に位置するネイ
チャーライティングの作品として評価される.オースティンの周縁への視線は,砂漠という舞台だけでな
くネイティヴ・アメリカンやヒスパニック系の住民たちにも向けられる.生態系に適応して生きる姿や,彼
らの場所の呼称を表記する.それらは,西欧の土地所有の概念とは異なる場所の感覚に由来する.少
数民族を「見えない存在」 とする時代に,その尊厳を重視するオースティンの姿勢が強調される.さら
に,オースティンが家父長制のもとで苦悩したという自伝的な事実に言及し,彼女が砂漠の不毛さに共
1
感を抱いた点を考察することも多い.
バスケットをつくる Seyavi や,銀鉱夫に捨てられたネイティヴ・ア
メリカンなど少数の女性にしか言及はないものの,執筆当時のオースティンの内的な葛藤を重ねること
で普遍的な女性の状況を探求する.オースティンは 1878 年に父親 George Hunter を亡くして以来,結
婚前は家長をつとめた兄,結婚後は 1914 年に離婚することになる夫 Stafford Wallace Austin の無理解
に苦しむ.母親の愛情も得ることはなく,一人娘 Ruthも生まれつき障害を負っていた.妻,母の役割と,
作家として自己確立を果たそうとする葛藤の過程が考察の焦点となる.オースティン再評価の動きは,
環境文学あるいはネイチャーライティング批評,マルチ・カルチュアリズムあるいはポスト・コロニアリズム
批評,フェミニズム批評という3 領域を中心に論じられることが多い.また,エコフェミニズム批評のよ
うに,領域を横断することで批評の可能性は広がる.
アメリカで生じたオースティン再評価の流れを受け, 日本では 1995 年 『英語青年』 「特集:ネイ
チャーライティング」 において, 山里氏が LR を 「アメリカのネイチャーライティングの先駆的な作品
のひとつといえるであろう」 と伝記的な事実とともに作品の概要を紹介している.1996 年 『ユリイカ』
「特集ネイチャーライティング」 巻末の高田賢一氏編 「アメリカン・ネイチャーライティングブックガイ
ド 30」 では,「本書によってオースティンは,アメリカの女性で初めての本格的なネイチャーライターと
して, また苛酷な自然とその中の美を表現する砂漠の語り部 (ストーリーテラー) としての声を確立
したといえる」 と赤嶺氏が LR を紹介する.アメリカと日本での研究動向を概観する伊藤氏は,2004
年に 「テリトリィからプレイスへ」 においてオースティン再評価の動きが 「定着」 したと論じる.
メアリー・オースティンは,前世紀末のネイチャーライティング・ジャンルの確立とエコクリティシズム
批評制度の中で完全に再評価が定着した.日本からの三篇を含む続々と表れる研究によって,こ
れまで主としてアングロ・アメリカンのマスキュリンな「光輝く荒野」(“pristine wilderness”) のパラ
ダイムで形成されてきた砂漠の美学と西部神話に対し,『雨の少ない土地』 は,南西部の土地が
客体でなく主体となり,そこに住む女性とマイノリティと動植物の目と感覚から土地を物語る,西
部のオルターナティヴを提示していることが明らかになってきた.(81)
山里氏は Henry David Thoreau やアビーらとオースティンを比べて,「必ずしも野生に接近した」 の
が男性作家だけではなかったと彼女の特異性について述べる.さらに,オースティンのように「荒涼と
した西部の砂漠を見つめる中で,先駆的なヴィジョンを獲得した女性の “Naturist”もいるのである」と,
彼女の「先駆性」 を評価する.同様に,赤嶺氏は「先住民の文化を現代文明に新しい生命を吹き込
むものとして高く評価したオースティンの先駆的なヴィジョン」 に意義を見出す.自然や環境,ネイティ
ヴ・アメリカンやヒスパニック系というマイノリティとみなされていた人たち,さらに主流権力が彼らに及
ぼす影響などを扱うLR は,現代社会が抱える関心を共有する.しかし,オースティンの「先駆性」 に
彼女自身の問題意識が照射されることは少ない.現代の視点による再評価と彼女が作品に投影した
実像との接点は乖離する傾向にある.
秋田 淳子
79
[3] 「再評価」 を評価する
(1) 受動的な関係
同時代の西欧人には砂漠を生命や生態系が不在である空間とみなす傾向がある.一方,オースティ
ンはそれを生命が枯渇した状態としてではなく,豊かな生態系が機能する場として提示する.しかし,
彼女が生物中心主義の視点からそれを作品の主題としたことは,多くのネイチャーライターのように自
然に意義を見出し,自らの意志でそこに対峙しようとした姿勢とは異なるものである.ソロー,ミュア,
アビーらは,都会や文明にたいするひとつの表明として,それに抗い,自然や荒野へと向かう.オース
ティンは家長であった兄の希望により西部に移住する.当時,多くの女性が一家の移住に従わなければ
ならなかったように,移動した土地にすぐに畏敬の念を感じたとはいえオースティンの移動は彼女の意
志や希望が配慮されないものであった.彼女自身が砂漠の地を選んだのではない.彼女は受動的にそ
の地と向き合わざるを得なかった.
夫の仕事の都合により移ったインディペンデンスで2オースティンは LR を執筆する.そこは,広大な
Mojave 砂漠の中に位置し,西は 3,000m 級の山々が 650km にわたって聳えるシエラ・ネヴァダ山脈が連
なり,東はデス・ヴァレーが広がる土地である.中西部の故郷を離れたオースティンは,San Francisco
や Los Angeles 滞在を経た後に東西が山脈と砂漠に挟まれたインディペンデンスで暮らすことになる.
山脈や砂漠は,故郷や都市や文明からインディペンデンスとそこに暮らすオースティンを隔離する.当
時,インディペンデンスは人口が 300人程度の町であった.初めて訪れた地形的に隔離された空間に,
知的障害を持って生まれた娘と精神的に疎遠な夫とオースティンは暮らす.山脈とデス・ヴァレー砂漠
によって物理的に閉鎖された空間において,彼女は家族を含めた周囲の人間との接点も断たれる.自
然界の営みと土地を除き,周囲に存在するものはない隔絶した状況に彼女は置かれることとなった.
幼少期から自然界に志向があり大学で科学を専攻したオースティンは,土地と自然が周囲に存在する
孤立した状況下でそれを詳細に観察し始める.砂が土地の上を移動することにより砂漠の風景は生物
のごとく変化する.砂漠は彼女の周囲に存在する唯一の「他者」 となる.彼女は複数の選択肢の中か
ら人間ではなく土地や自然をLR の主題としたのではない.彼女の周囲にはそれしか存在しなかった.
(2) 先駆者たちの存在
アメリカ西部神話における女性不在が指摘される時代に,Caroline Kirkland の A New Home—Whoʼll
Follow? Or, Glimpses of Western Life (1839) の意義と同様,それを主題としたオースティンの功績が評価
を得る.Kolodny が論じるように,当時の西部の女性たちが自然を開拓すべき庭とみなした姿勢とは
異なりオーティンはその自律性に視線を向ける.しかし,周囲から隔絶された状況下で,生態系の営
みを注視せざるを得なかった必然性が指摘されることは少ない.また,LR は地方色文学とみなされ
3
ることもある.
地方色文学という先行文学の流行を背景に,限定された地域の特性を主題とするオー
スティンの作品は登場する.LR において言及されるBret Harte のような西部を描写する男性作家の活
躍もあった.LR 出版直前の1901年には John C. Van Dyke が The Desert: Further Studies in Natural
Appearances を発表している.The Desert is No Lady はオースティンが男性作家と異なった視点から土
地や南西部を解釈していると指摘するが理由は明記されない.同様に,LR の特徴のひとつとされる
科学的記述法にたいしても,男性による砂漠の描写と彼女のそれとの違いは言及されるもののその
根拠は明言されない.大学入学前からリンネ派の命名法や分類法に傾倒していたオースティン(Hass
xvii-xviii) は,LR の砂漠地帯を学名を多く使用することなどにより生態系を詳細に描出した.これら
の表記は作品に客観性と科学的な正確さを付す.Michelle Campbell Toohey は“Mary Austinʼs The
Land of Little Rain: Remembering the Coyote” において,National GeographicとHarperʼs Bazaar 両誌
に掲載された砂漠の記述とLR のそれを比較する(Exploring 209).学名表記による多様な生物種の
列挙,地形学に基づく土地の描写,生物の環境への適応性にたいする描写といった LR の特徴にみら
80
Mary Austin の The Land of Little Rain 再評価
れる科学的記述法は,同時代人と共通のものであると指摘する.彼女が自然を一方的に解釈しない点
を評価するが,その根拠は明確にされずに指摘にとどまる.
LR の舞台,主題,科学的記述法は先駆者や同時代の傾向と共有する点が多い.同様に,オーステ
ィンの多文化尊重の志向は彼女自身の「異質なもの」 をとらえる視点によるものではなく,Lanigan が
彼女の “a western literary mentor” (Maverick 64)と指摘する Charles Lummisとそのサークルの影響下
で形成されたものである.スミソニアン協会刊行の Handbook of American Indians North of Mexico
(1907) に過去形で記述されるネイティヴ・アメリカンが遺物として客観的に言及される一方で,オースティ
ンは彼らが生態系に順応して生きる姿を共感をもって映し出す(Exploring 212).彼らに ʻprimitiveʼや
ʻsimplicityʼ が象徴する劣性を見出す傾向が強い時代に彼女はそれと対極のものを認め,バスケットを
作る盲目の老女セヤヴィを芸術家として表象する.ネイティヴ・アメリカンやヒスパニック系住人,また多
文化主義への傾倒は,オースティン再評価の重要な一因となる.卒業した大学の文芸誌や Ina Coolbrith
が編集長を勤めていた The Overland Monthly への掲載経験はあるものの,執筆により経済的に自立す
ることを目指したオースティンは文学界との接点がなかった.1899 年当時,西部で最も影響力をもつ文
芸サークルを主催するロスアンゼルスのルミスとの知己を求め,自宅に “the Southwest Museum” を備え
る彼の元を彼女は訪れるようになる.娘の治療を理由に彼の近隣に移り住んだ時期もある.
ルミスはニュー・メキシコ州 Ysleta Pueblo に 5 年間の居住経験があり,Adolph Bandelier,Edgar L.
Hewett と並んで南西部のネイティヴ・アメリカンやヒスパニック系住人たちへの研究で著名であった.
オースティンは, ルミスの多文化主義への傾倒へ共感を示すことにより弟子として師弟関係を結ぶこと
に成功する. 彼女はルミスの妻 Eve との友情から精神的な支えを得るばかりでなく, 文学上の指導を
受けて彼の編集雑誌に詩作を掲載することもあった.LR の執筆に与えたルミスの影響は大きく, 作
品執筆当時も彼より助言を得ていた.
In many ways Lummisʼs work became Austinʼs work, especially the close observations of Indian life
and the recording of their tales. Over the years his idiosyncratic way of life, his place as cynosure of
the western literary community, became goals to which Austin herself aspired. (Maverick 64-65)
オースティン独自の価値観や思想よりも,LR はルミスの影響が投影された作品としての性質が強い.
オースティンとルミスの関係は後に悪化するために,彼女は自伝においても彼の影響を詳細に言
及しない.彼女は “Mr. Lummis did not take to her, nor she to him. She had no genius, he said; talent
and industry and a certain kind of knowledge, but little gift.” (Earth Horizon 291)と述べるにとどまる.
Lanigan の伝記も “Austin the scientist . . . is only a pose for Austin the storyteller and seeker of truth; her
work differs quite markedly in this regard from that of Charles Lummis.”(Maverick 79)と,影響関係は
指摘しながらも両者の作品の違いに関する根拠は明確ではない.彼女をめぐる批評の中でもNicole
Tonkovich の“At Cross Purposes: Church, State, and Sex in Mary Austinʼs Isidro” だけが,1880 年代の
南西部を “myth”として提示することに成功したルミスが与えた影響力の大きさを指摘する.
During [Lummisʼs] years of acquaintance with Austin, he took over the editorship of Land of
Sunshine, a magazine promoting regional interests, and fashioned it into an important venue for
literature of the Southwest. Austin herself shared these interests, seeking with her writing to insist
that “American” history and literature recognize the importance of the southwestern Indian and
Hispanic cultures. (Exploring 8)
ルミスと出会う前は General Edward Fitzgerald Beal が務めたように,オースティンは男性指導者を求め
4
る傾向がある.
ルミスは彼女に性的な恐怖を与えず,10 歳も離れていない彼女を “my dear child”と呼
びかけていたという.彼女のルミスへの傾倒は,文学に造詣が深く地元の新聞に寄稿をするなど執筆
活動も行った父親の不在を埋める“the model for her of a literary man” (Mary Austin Reader 5) の探求
であるとともに,母親,夫,障害をもった娘と精神的な絆が結べない彼女の愛情に枯渇した精神を反
秋田 淳子
81
映する.
ルミスのサークルでは,David Starr Jordan から地理学や動植物と環境の関わりを,著名な人類学者
でありネイティヴ・アメリカン民族誌家であった Frederick Webb Hodge からは価値を見出していなかっ
た部族の習慣を集める手法をオースティンは学ぶ(Fink 99-100). 娘をおいて夫と離婚し,後にオース
ティンが同様の過程を経る際に影響を受けたことを認める Charlotte Perkins Gilmanと出会ったのも彼
のサークルにおいてのことである.ルミスとの出会いは LR 成立に不可欠で,その受けた恩恵は甚大な
ものである.作品舞台,主題,科学的記述法が先駆者たちの傾向や姿勢を共有するLR が,彼女の時
代において極めて独創的なものであったとは言いがたい.LR の再評価において指摘される「先駆性」
は,オースティンと同時代の文脈においてその文学史上の功績が考慮されるべきであろう.
(3) 商品としての西部
1890 年に Frederick Jackson Turner がフロンティア消滅宣言をする.アメリカ人の思想形成に寄与
した西部の役割を過去のものとする1893 年の講演(“The Significance of the Frontier in American
History”)は,大きな影響を及ぼす.フロンティアやウィルダネスにたいする郷愁の念が高まる時勢の中
で,オースティンは文壇に登場する.東部の文芸誌は西部を主題とする傾向が強くなり,西部は商品と
しての価値をもつようになっていた (Hass vi).父親を亡くして以来,彼女は夫の事業の失敗や娘の医療
費の必要性から常に金銭問題に直面していた.経済的な自立を求めたことが大きな動機となり執筆に
向かう.西部には本屋もなく読者の需要がないことを知っていた彼女は,作家を志した当初から東部
の市場を視野に入れ,受容されやすい主題を意識的に探す (Maverick 45-46).芸術作品が商品の価値
を有するセヤヴィのバスケットのように (“Seyavi made baskets for love and sold them for money”5),オー
スティンは商品としての価値をもつ作品を書かざるを得ない状況におかれていた.
エッセイ “How I Learned to Read and Write” (1961) において,1900 年頃に執筆で身を立てようとし
たオースティンは文芸雑誌のリストを作成したことを回想する.そのトップに名をあげた「アトランティッ
ク・マンスリー」 誌に投稿を試み,掲載されることとなる.LR は文学市場の需要に合った特異性ゆえ
に,同誌に掲載された後に1冊の本として市場に受容される.白人作家が西部やネイティヴ・アメリカン
文化を素材として作品を商品化する動向を「文化的所有」 とみなし,オースティンの多文化主義的な視
点を批判する動きもある.しかし,Graulich はオースティン作品におけるネイティヴ・アメリカンに向けら
れる関心を,彼女の異文化への知識と尊厳の姿勢の反映とみなす批評が最近では主流となっていると
指摘する(XVIII).東部に収入を依存しながら西部の魅力を描出したオースティンが,それを「利用」
することを意図して作者としての地位を得たことは事実である.収入の必要性から題材を選択する自由
が制約を受けたこともあると後に告白するオースティンは,西部やそこに居住する人たちを商品として
利用する一方,作家である彼女自身も「商品」 として世紀末の文壇で扱われることとなった.
Ellis は LR の雑誌という初出形態に注目する.雑誌への投稿は,当時,無名の女性作家たちを輩出
する媒体であった.1900 年までに雑誌文化はすでに地位を獲得し,作品を商品として流通させる手段
となる.文壇と接点をもたない女性作家や,インディペンデンスのような物理的に隔離された場所から
でも発表の機会をもつことを可能とした.オースティンが投稿を始める当時の文芸雑誌はすでに売り上
げ競争が激化しており,需要次第で商品としての作品はすぐに市場から抹消された.商品価値を高め,
読者の関心を維持しなければならないというオースティンの切迫した現実は,多くの批評家が指摘す
るLR における “discursive narrative” や代名詞の不統一な使用による視点の不明確さを生じさせる一因
となる.たとえば,ネイティヴ・アメリカンの言葉やスペイン語などの現地で使用される言語と学名表記
などの専門用語.客観的な描写による科学的な記述と,砂漠を擬人化し,神の存在を意識した主観的
な描写.LR における多層なナラティヴの混在や “we”, “you”, “I” などの代名詞の不統一な使用は,
作品の視点を揺るがす.とくに,多くのネイチャーライティングの作品が特徴とする土地や自然との交感
82
Mary Austin の The Land of Little Rain 再評価
に基づく描写と比較すると,LR には “You” が多出する.たとえば,
“. . . how many you would not believe
without seeing the footprint tracings in the sand” (13), “The trail passes insensibly into them from the
black pines and a thin belt of firs. You look back as you rise, and strain for glimpses of the tawny valley
. . . ” (105), “There you get only a hint of what is about to happen . . . ” (133.下線部は秋田による) など
と,作品には一貫して「読者」 が存在する.人間中心主義を脱却し,西部の土地や自然描写が評価さ
れるLR の作品世界は東部の存在を背景としており,作品空間には常に読者が介在している.
6
多層なディスコースの混在を,LR の多義性として評価するToohey や Hass のような批評家もいる.
初出が作品毎の連載であったことが一貫性の欠如に結びつくこともあろう.しかし,作家としての道を
歩み出したばかりのオースティンが,師であるルミス,東部の出版社,読者の要求を満たす「商品」 を
執筆せざるを得なかった背景が一因となった可能性は否めない.土地や自然と交感する作者自身の声
ばかりでなく,LR にはオースティンが応えようとする複数の「他者」 の声が通底する. “You”と喚起す
ることで東部の読者の関心を引かざるを得ないオースティンの切実な訴えが作品に反響する.「商品」
である作品には,消化されていない複数の声が引き起こす矛盾が顕在化する.
[4] おわりに
現代社会と関心を共有するLR は再評価がすすみ,それは定着したと言及されるようになっている.
本発表では再評価に孕む問題提示を試み,オースティン研究のさらなる可能性を示唆することを目的と
した.西部を扱うLR が異質性ゆえに東部の市場で受容されたことを考慮し,現代の読者はそれを偶
像化することなく本質を正当に評価しなければならない.今日の視点からではなく,発表当時の文脈
の中で LR の再評価が遂行される必要があろう.
オースティンは時代の主流志向に逆らう問題意識をLR において提示したと再評価される.彼女の諸
問題にたいする先駆性は,砂漠の生物が有するような力強い生命力をオースティン像に付与することと
なる.しかし,インディペンデンスで物理的にも精神的にも孤立したオースティンは,土地や自然の生命
を見出し,それを描写することによりかろうじて生命とつながる.大学時代に精神を病んだ経験もある
オースティンは土地や自然に拠ることで自己消失の危機から脱し,作家として生きる道を模索する.閉
塞した砂漠地帯で,オースティンは凝縮した生命の営みに向き合う.
オースティンの言説によって,土地や自然の意義や価値が見出されたのではない.土地や自然が彼女
を支え,助け,生かしたのである.
注
1
2
3
4
5
6
Nelson のように,オースティンが砂漠に不毛性を見出したことがなかったと指摘することで,彼女の実人生と砂
漠の乾きを結びつける批評群に異議をはさむ研究者もいる.
オースティンが反対するインディペンデンス行きを夫が強行したのは,知的障害を負った娘と,自我と個性が強
い妻を周囲の目から隠すためだったとの動機も指摘される.妻を周囲の人間から隔離し,孤立した状態に追い
やることは夫の意図するところであった(Maverick 59).
オースティンは “Regionalism in American Fiction”(1932) において,作品の背景にすぎない「地方」 を扱う小説
よりも,その「地域 (ʻregionʼ)」の自律性を描写する作品の価値を主張する.地方色文学とみなされることを否定
する主張は,逆にそれとの関係を照射する.
女性が執筆する際,モデルとなる女性作家が不在なことはフェミニズムの視点からよく指摘される.
Stories 95.以下,引用はこの版により,頁数は引用末括弧内に示す.
Exploring 207.Toohey は LR に Roland Barthes のテキストとの類似性を指摘し評価する.また,Hass は視点の混
在や,登場したり消失したりする作者の声の扱いにおける不統一さが作品世界に広がりをもたらすものと評価す
る (xxiv).
秋田 淳子
83
注
Austin, Mary. Beyond Borders: The Selected Essays of Mary Austin. ed. Reuben J. Ellis. Carbondale: Southern
Illinois UP, 1996.
––––. Earth Horizon. 1932. Albuquerque: U. of New Mexico P, 1991.
––––. The Land of Little Rain. 1903. Rep. with an introduction of Edward Abbey, NY: Penguin, 1988; Rep. with
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Random House, Inc., 2003.
––––. A Mary Austin Reader. ed. Esther F. Lanigan. Tucson: U of Arizona P, 1996.
––––. Stories from the Country of Lost Borders. ed. Marjorie Pryse. New Brunswick: Rutgers UP, 1995.
Church, Peggy Pond. Windʼs Trail: The Early Life of Mary Austin. Santa Fe: Museum of New Mexico P, 1990.
Drinnon, Richard. Facing West: The Metaphysics of Indian-Hating and Empire-Building. Minneapolis: U of
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Graulich, Melody and Elizabeth Klimasmith eds. Exploring Lost Borders: Critical Essays on Mary Austin. Reno: U.
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Hoyer, Mark T. Dancing Ghosts: Native American and Christian Syncretism in Mary Austinʼs Work. Reno: U of
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–––– 「自然とジェンダー̶メアリー・オースティンによる砂漠の表象」, 『文学と環境』 第 3 号 (ふみくら
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山里勝己 「砂漠と人間̶Mary Austinの The Land of Little Rain̶
」,
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吉田美津 「メアリー・オースティンとボーダーとしての砂漠」,『新しい風景のアメリカ』 (南雲堂,2003 年),
189-197頁.
Proceedings of the 59th Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
シンポジアム 【アメリカ文学部門】
現代アメリカ文学と<自然>
̶
『郭公の巣の上で』 を例にして̶
斎藤 博次
(1)
近年, 日本においても, ポスト構造主義の流れの中で文学研究のあり方が問われるようになってき
た. 人種, 性, 階級という3 種の神器の導入により, 文学史の書き換えや作品評価の変化が起こっ
たことは既に周知の事実であるが, 最近ではそれに加えて, 自然/環境という要素が新たに着目さ
れるようになってきた. エコクリティシズムと名づけられた文学研究がそれである.
チェリル・グロットフェルティによると, 自然や環境をテーマにした個別的な文学研究は, 環境問題
への関心が高まり始めた 70 年代に既に始まっていたという.しかし,そうした研究は,アメリカ研究,
regionalism 研究,frontier 研究,science and literature 研究といった異なる範疇の研究分野で発表さ
れてきたため, 研究の成果が相互に結びつけられることはなかった.そこで, 個々の研究を統合す
る学会や, 異なる範疇を結びつける学問分野の必要性が唱えられるようになり,その結果,80 年代
の半ばから“environmental literary studies”という名の研究分野が登場し,自然と環境をめぐる研究が
そこに集約されるようになってきた(Glotfelty xv-xvii).
Literary Theory(1983) の中でイーグルトンがポス
ト構造主義時代の文学理論, 批評理論に目配りのきいた批評を展開していたにも関わらず, 環境文
学やエコクリティシズムに言及していないのは, 当時においてはエコクリティシズムが公に認知されて
なかったことを物語っている.
しかし, エコクリティシズムは 90 年代になると急速に発展・拡大していく.1991 年には, ハロルド・
フロムが先頭となって“Ecocriticism: The Greeting of Literary Studies”という特別セッションがMLAで
開催され,1992 年には,Association of the Literature and Environment が設立され, 初代会長にスコ
ット・スロヴィックが選出されている(Glotfelty xvii-xviii).この学会はその後急速に会員数を増やし,
日本, 韓国,ドイツ, イギリスなどで支部ができている.
グロットフェルティは, エコクリティシズムとは “the study of the relationship between literature and
the physical environment” であると定義している. エコクリティシズムが「文学」(ただしこの「文学」
とは広義の意味での 「文学」 である) と 「自然環境」 との関係を問う批評であるなら,その批評
対象は, 当然, 全ての 「文学」 を含むはずである.しかし実際は, エコクリティシズムが扱う作品
はネイチャー・ライティングや環境文学といった特定の作品に限られる傾向が強い. エコクリティシズム
の眼差しは<自然>に注がれる.したがって,やむをえないこととはいえ,<自然>が直接表面に出
てこない作品は批評対象から外れがちとなる.さらにまた, エコクリティシズムは, 自然環境に対す
る意識の変革や生態系の保存といった運動と結びついているために, 自然環境の保護・保全に対して
肯定的なメッセージを宿している作品に高い評価を与える傾向も見られる.その結果, たとえば都市
が主要舞台となっているような作品は,仮に批評の対象になるにしても,環境に優しくない文学として,
斎藤 博次
85
その否定的な側面が強調されることになる. 腐敗した<文明>の巣窟である都市は,聖なる<自然>
の敵対物として否定されるか, 無視されるのである.
個人的なことを言えば, これまで主としてユダヤ系文学やポストモダニズム小説に関心を寄せてきた
こともあって, 小説の中に描写された<自然>に対してはほとんど無関心だった.ソール・ベローにせ
よ, バーナード・マラマッドやフィリップ・ロスにせよ, あるいはポール・オースターやカート・ヴォネガット
にせよ,<自然>が作品の全面に迫り出すことはない.<自然>を放逐した人工的な都市空間が拡大
し,<自然>のリアリティよりも非=自然的なリアリティのほうが優位になる状況が進む中,<自然>
そのものをテーマ化することは難しいのではないか. 仮にテーマ化できたとしても,そこにリアリティ
を与えるのは至難の業なのではないのか. 現代小説に<自然>は似合わない.そんなふうに感じてい
たのである.
(2)
だが, 今回改めて<自然>に着目しながら幾つかの作品を再読してみると,<自然>を直接的なテ
ーマとしていない作品,<自然>がプロットの隙間からわずかに顔をだすだけの作品においても, 重
要な意味作用を持つ記号として<自然>が機能していることが分かってきた.もちろん, 全ての作品
から<自然>の意味を抽出すことはできないし,同じ意味内容を<自然>に与えることもできない.し
かしながら,<自然>を 「真正」(authentic) な生と結びつけ, 救済の場として<自然>が機能する作
品が幾つか見出される.
たとえば,ソール・ベローの 『ハーツォグ』. 妻との離婚に心悩まし, 半狂乱の状態で手紙を書き
続けてきたハーツォグは, 最後に,マサチューセッツ州ルディヴィルにある 「森」 の中で精神の安定
を取り戻していく. ニューヨークとシカゴを主要な舞台とするこの小説において, ハーツォグが最後に
たどり着いた場所は, たまに兄のウィリーや恋人のラモーナが訪れることはあるが, 基本的には<自
然>と<わたし>によって構成される非=共同体的な空間である. 森に囲まれ, 夜は家の外のハンモ
ックで星を見ながら眠るという生活を続ける中で, 主人公の心の傷は次第に癒され, 自己回復へと向
かう.
J.D.サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
(この小説の主要な舞台もニューヨークである)
で,ホールデンが最後に西部に行くことを決意する場面についても似たようなことが言える.「西部」
に行って,「森のはずれ」 に一軒家を建てて暮らすというのが, ホールデンが最後に語る夢である.
それだけではない. 彼は, 西部で唖者のふりをして暮らしたいと語り, 本物の唖者の女性と結婚し
たいと望む.そして,子どもが生まれたあかつきには, 家の外には出さないで自分だけで育てたいと
言うのである.「西部」「森」「唖者」「自分だけの手による子育て」 といった意味内容を持つホ
ールデンの夢には, 人里離れた辺境の地に住み, 他者との関わりを断つことで本当の生活を得たい
という願望が読み取れる.
ポール・オースターの 『ムーン・パレス』 でも, 自己回復の場として, 西部の<自然>が登場する.
この物語の主要な舞台はニューヨークであるが, 主人公のマーコは, 父の死を体験したあと, 祖父
がかつて暮らしていたユタ州の砂漠の中の洞窟を探すために, 車を走らせて西に向かう.そして, ユ
タ州で車を盗まれたあとは, カリフォルニアの西海岸に向かってひたすら歩き続けていく. 何故そうし
て歩き続けるのかはマーコ自身も理解してはいないが,3ヶ月間ほど歩き続けることによって,マーコは
自分の中で何かが変わることを自覚し始める.そうして, 太平洋を望む浜辺にたどり着き, 夜空に上
っていく月を見つめる場面で小説は終わるのである.「西の果て」「海」「孤独」「月」 といった意
匠を施されて終わる 『ムーン・パレス』 においても, 辺境に位置する他者不在の<自然>の中で, 主
人公が変身を遂げるというモチーフが現われている.
小説の主要な舞台が都会 (ニューヨークやシカゴ) であるにもかかわらず,主人公たちが最後にた
86
現代アメリカ文学と<自然>̶『郭公の巣の上で』を例にして̶
どり着く場所 (あるいはたどり着こうとする場所) として<自然>が用意されていること.また,そこ
において主人公たちの救済の可能性が示唆されていること.このことは, 他者が不在であるところの
<自然>の中でこそ本来の自己の姿が立ち現れてくるのだという考えが, 現代の小説家の意識/無意
識の中にも根強く残っていることを示している.<自然>を堕落以前の聖なる世界と捉え, 逆に文明
化された生活を堕落した世界と捉えるロマン主義的自然観 (あるいは,そうした自然観の残滓) が,
現代小説の言説の中にも侵入している.
(3)
「自然への回帰」と「自己救済」を等価で結びつける物語.こうした物語が現代小説の中でも
反復され,読者自身もこうした物語に対して違和感を覚えずに受容しているとすれば,そこに
は<自然>をめぐる集合的無意識が関与しているにちがいない.この問題を本格的に論じるこ
とは今はできないが,ここでは,アメリカン・パストラル思想とフロンティア言説を拠り所にし
て,簡単に触れておくことにする.
レオ・マークスは 「アメリカン・パストラルの思想」 の中で, クーパー, メルヴィル, ホーソン,ソロ
ー,マーク・トウェイン, ヘミングウェイ,フイッツジェラルドといった作家に見られるアメリカン・パスト
ラリズムの思想が,その後のテクノロジーの発展に伴って時代遅れになるどころか, 復活する傾向に
あることを指摘している.マークスはかつて 『楽園と機械文明』 の中で, 高度先端技術が進むにつ
れてパストラリズムは時代錯誤的な考えになると予測していた.しかし,60 年代以降のアメリカ社会の
動き, 特に反体制的な学生運動や若者の対抗文化などを見て, かつての考えを修正するに至ったと
言う.パストラリズムは衰退するどころか,現代人の欲求の一部として根強く残っているのではないか.
マークスはこう考えて, パストラリズムが,(1) 物質的・科学的・進歩主義的イデオロギーへの反抗,(2)
自己回復と自然の回復との連動,(3) 自然に近い領域で単純で満足な生活様式を求める欲望,(4) 意
図的に脱俗的な人生をめざす生活実践といった内容を持っていることを指摘している.このようなパス
トラリズムの思想は, 現代文学においては,ソール・ベローのヘンダソン, ジョン・アップダイクのウサ
ギ,そしてケン・キージーのブロムデンといったキャラクターの中に体現されているという(マークス 115-138).
フロンティア思想も,パストラリズムと重なり合いながら,<自然>にまつわるアメリカ人の集合的
無意識の形成に寄与していると思われる.ウィリアム・クロノンは「ウィルダネス」 の概念を歴史的に
考察した論文の中で,「ウィルダネス」 とは「実体としてそこにある」 ものではなくて,歴史的に様々
な文化的意味を付与されながら表象/再現されてきたものであり,一種の文化的構成物であると主張
している.クロノンが批判するのは,「手付かずの生態系」(untouched ecosystem) や「無人の荒野」
(uninhabited wilderness)といった理念(=虚構)を絶対視し,文明が全く入り込まないような自然環境
を守ろうとする一部の環境保護運動(たとえば,ディープ・エコロジーの運動) であるが,クロノンによ
れば,こうした考えの背後には,<自然>を堕落以前の無垢の世界,本来の魂を回復できる神聖な場
所とみなし,逆に<文明>を人間の堕落の元凶とみなすロマン主義的思想があるという.クロノンは,
こうした思考がアメリカのフロンティアをめぐる言説(特にフロンティアが消滅したあとで作られてきた
フロンティア神話) に特徴的に現われていることを指摘し,フロンティア神話には,(1) 個人の自由が
フロンティアに存在したことの強調と,それへのノスタルジア,(2) 近代 (modernity) によって表象される
もの(たとえば,都市生活,工場,産業社会,文明) への嫌悪,(3) 個性を失った集団的生活への反
感, (4) フロンティアにいたとされる英雄的人間像へのあこがれ,といった特徴が見られることを指摘
している (Cronon 471-489).
クロノンのウィルダネス論が興味深いのは,<自然>を文化の対立物としてではなく, 文化による
構築物であると捉えていることである.<自然>は時代や文化に応じて特定の意味や価値が与えられ,
斎藤 博次
87
それに応じて畏怖されたり賛美されたりしてきた. だとすれば, 自己の回復と<自然>の回復を等価
で結びつけるパストラリズムの思想にせよ,フロンティアにこそ個人の真の自由はあったのだと唱える
フロンティア言説にせよ,それは結局のところ, 文化が生み出す虚構だということになる.<自然>
は所詮は虚構なのだから,自然礼賛などくだらぬ行為であると言いたいのではない. だが,ちょうど,
ジェンダー化された世界がその内部の人間にとって自然性をまとって立ち現れてくるように, 神話化さ
れた<自然>も, 社会的に形成された意識/無意識を介して自然性として立ち現れてくる. 特定の文
化圏における自然観はたやすく神話化される. だからこそ, 特定の文化の中で<自然>が果たす意
味作用に対しては自覚的になる必要がある.
先ほど, 幾つかの現代小説を例に出して, 一見しただけではあまり目立たない<自然>が, 主人
公の自己回復の場として機能することを見てきた. だが, 作品によっては, 登場人物を救済すること
になっている<自然>に別の意味を加えることによって, いかがわしいメッセージを生み出すことがあ
る.<自然>の自然性が巧みに利用されることによって, 不合理なメッセージの合理化がはかられる
作品.そんな作品の例として, ある一つの作品を取り上げてみよう.60 年代の対抗文化のヒーローと
して祭り上げられた作家,ケン・キージーの代表作 『郭公の巣の上で』 がそれである.
(4)
『郭公の巣の上で』 は, オレゴン州の大草原にある精神病院を主要な舞台としている. 小説の語
り手はインディアンの血を半分受けついたブロムデン (通称,ブルーム酋長).ブロムデンは幻覚症
状にさいなまれることがあり,そのため, 彼が語る物語には, 妄想と現実とが区別がつかないまま
混在するという特徴が見られる.
物語は, 新たにこの精神病院にやってきたマックマーフィーと, この精神病院を支配している看護
婦のラチェッド (通称,ビッグ・ナース) との対立・抗争を中心にして展開する. この二人の対立は,
第一に, 自由と管理をめぐる争いとしてテーマ化されている.
マックマーフィーが精神病院に来るまでは, 患者は自由と自尊心を奪われ,ラチェッドの指示と命
令に対して従順に行動するだけであったが,マックマーフィーが病院に送り込まれ,ラチェッドに対し
て反抗をし始めるにつれ, 他の患者たちも次第に反抗の精神に目覚めるようになっていく. 個人の自
由を体現するマックマーフィーと,その自由を管理・抑圧しようとするラチェッドとの争いは, 最終的に
は,
マックマーフィーが強制的にロボトミーの手術を施され,廃人同様の身になるという帰結を通して,
支配者側 (ラチェッド) の勝利が示される.
しかし, 両者の対立の過程で示されたマックマーフィーの頑強な抵抗 (それは特に, 電気ショック
療法に屈しなかった行動によって強調されている) は, 支配と抑圧に対する反抗のメッセージを読者
に向かって雄弁に語り続ける. また,マックマーフィーの影響を受けて他の多くの患者が最終的に精
神病院から退院していったことや,マックマーフィーのおかげで発話と記憶を取り戻すことができたブ
ロムデンが, 病院の窓をコントロール・パネルで打ち砕いて逃走する結末は,マックマーフィーの反抗
が無駄ではなかったことを印象づける.ヒーローは戦いに敗れたが, 戦いは無駄ではなかったのだと
いうメッセージ̶ヘミングウェイの 『老人と海』 の現在版ともいえるメッセージをここに読み込むこと
は容易であろう.
だが,『郭公の巣の上で』 におけるマックマーフィーとラチェッドとの対立には,もう一つの意味の
層,つまり自然と文明をめぐっての対立が重層的に重ねられている.この第二の対立の意味は, 精神
病院やラチェッドが, 機械や工場, 電気回路やロボットといった比喩を通して語られていることから
生み出される. たとえばラチェッドは,病院が「円滑で正確な,精密機械のように機能する」(running
like a smooth, accurate, precision-made machine)ことが保てないと怒りを露にする(26).ブロムデン
の以下のような言葉は,ラチェッド自身が, 機械文明の申し子である 「ロボット」 として, 精神病院
88
現代アメリカ文学と<自然>̶『郭公の巣の上で』を例にして̶
という名の機械工場を隅々まで管理していることを示唆する.
And I’ve watched her get more and more skillful over the years. Practice has steadied and
strengthened her until now she wields a sure power that extends in all directions on hairlike wires
too small for anybody’s eye but mine; I see her sit in the center of this web of wires like a watchful
robot, tend her network with mechanical insect skill, know every second which wire runs where and
just what current to send up to get the results she wants. (26-7)
これに加え,この精神病院=機械工場の目的が「地域や学校や教会でおかした過ちを修正する」
(fixing up mistakes made in the neighborhoods and in the schools and in the churches) ことにあるこ
と,そして「完成品が,すべて新品同様すばらしくなり,時には新品以上にすばらしい状態になって社
会に帰っていくと,ビッグ・ナースの心は喜びで満ちるのだった (When a completed product goes back
out into society, all fixed up good as new, better than new sometimes, it brings joy to the Big Nurse’s
heart)(38)といった記述から容易に窺えるように,ラチェッドが管理する精神病院は,個人の画一化と
社会への順応を推し進める産業化社会の隠喩となる.精神病院が広大なオレゴン州の草原に建てられ
ていることも,この病院が自然の中に進入してきた文明の比喩になっていることを示唆していよう.
だとすれば,ビッグ・ナースへの敵対者となるマックマーフィーや, 彼の影響を最も強く受けるブロム
デンの中に,文明と対抗するパストラル的価値が体現されているのは,見やすい道理であろう.実際,
マックマーフィーの中に描き込まれているのは, 次の引用から分かるように, 荒野のならず者というイ
メージである.
He says he’s a dedicated man. He says he was just a wanderer and logging bum before the Army
took him and taught him what his natural bent was; just like they taught some men to goldbrick
and some men to goof off, he says, they taught him to play poker. Since then he’s settled down and
devoted himself to gambling on all levels. Just play poker and stay single and live where and how
he wants to, if people would let him, he says, “but you know how society persecutes a dedicated
man . . . .” (20)
かつては 「放浪者」(wanderer) であり,「樵」(logging bum) であった男. 第二次大戦中にポーカー
を覚え,それからはギャンブル三昧の生活をし, 結婚もせず, 好きなところで好きなように暮らしてき
た男.マックマーフィーには,賭博,喧嘩,流浪,気まま,不服従,自尊心,勇気,快活といった,
フロンティア神話の中に現れる西部の男の属性がふんだんに与えられている. 患者を規格化された製
品へと矯正しようとするラチェッドと好対照である.そして,作者の意図が人間を管理・統制しようとす
る現代社会への批判にあることを思えば, 当然のことながら, 荒野のならず者であるマックマーフィ
ーは,その美徳が強調されることになる.
いっぽう,ブロムデンのほうは, 自然が豊かに残っていた先祖伝来の土地を白人によって奪われた
犠牲者として登場する. 彼の父は或るインディアン部族の酋長であったが, 部族の土地を白人に買収
され,それ以降アルコール漬けの生活を送るようになった. 白人からの迫害と父の零落などが原因と
なって,ブロムデンは,過去の記憶を思い出そうとしてもうまく思い出せないようになっている.しかし,
マックマーフィーと精神病院で出会い, 彼が示す不屈の反抗を目にする過程で,ブロムデンは過去の
記憶を次第によみがえらせていく. 特にブロムデンの記憶によみがえってくる光景は, 次の引用に見
られるように, 少年時代に父や親類と過ごした自然の中での生活である.
The stars up close to the moon were pale; they got brighter and braver the farther they got out of the
circle of light ruled by the giant moon. It called to mind how I noticed the exact same thing when I
was off on a hunt with Papa and the uncles and I lay rolled in blankets Grandma had woven, lying
off a piece from where the men hunkered around the fire as they passed a quart jar of cactus liquor
斎藤 博次
89
in a silent circle. I watched that big Oregon prairie moon above me put all the stars around it to
shame. I kept awake watching, to see if the moon ever got dimmer or if the stars got brighter. . . .
(155)
機械工場と電気回路のイメージで表象される文明と,ブロムデンの記憶の中で蘇生してくる自然のイ
メージとの対比は, 小説の最終場面,つまりブロムデンがコントロール・パネルを引き抜き, それを
使って病院の窓を割り,「月光」(moonlight) の中へ飛び降りる場面で決定的となる.そして, 物語
は,ブロムデンが,インディアンの土地に作られたダムの場所を訪れ,部族仲間がダムの 「吐水路」
(spillway) で鮭を突くのを見る決意をする場面で終わるのである.
以上のようにして,この小説の中から<自然>と<文明>の対立項を読み取るならば,この物語は,
近代文明への批判を孕むとともに,<自然>に回帰して, 失われた個人の自由と尊厳の回復を訴える
パストラリズム小説と見なすことができる.
しかしながら, この小説には第三の対立項があり, 自由の回復を訴えているように見える物語に別
の意味を帯びさせる.<文明>を女性として表象し,<自然>を男性として表象することによって生じ
る,<性>をめぐっての争いがそれである.
物語の悪役となるラチェッドが患者を管理・支配する存在であることは既に述べたが,彼女は同時
に,患者にとって母親的存在であることが示唆されている.この「母親」 の役割と,患者たちが置か
れた状況について,患者の 1人であるハーディングはマックマーフィーに向かって次のように語ってい
る.
“In this hospital,” Harding says, “the doctor doesn’t hold the power of hiring and firing. That power
goes to the supervisor, and the supervisor is a woman, a dear old friend of Miss Ratched’s; they
were Army nurses together in the thirties. We are victims of a matriarchy here, my friend, and the
doctor is just as helpless against it as we are.” (61)
“Wait; I’m afraid you’ve raised a point that requires some deliberation. Rabbits are noted for that
certain trait, aren’t they? Notorious, in fact, for their whambam. Yes. Um. But in any case, the
point you bring up simply indicates that you are a healthy, functioning and adequate rabbit, whereas
most of us in here even lack the sexual ability to make the grade as adequate rabbits. Failures, we
are—feeble, stunted, weak little creatures in a weak little race. . . .” (64)
「われわれは, ここでは母系制の犠牲者なのだ」 という言葉や, 病院の患者たちはラチェッドによっ
て去勢されたために「一人前の兎として成功するだけの性的能力を欠いているのだ」といった言葉は,
ラチェッドと患者たちとの間にある支配関係が,同時に,母/息子関係でもあることを物語っている.
つまり,ラチェッドは, 患者=息子が一人前の男になることを禁じ, 彼らを従順な 「兎」 のように飼
いならそうとしているのである. 患者=息子の側も,マックマーフィーが来るまでは,ラチェッド=母
親による去勢を受け入れてきただけでなく, 彼女に甘えてきた. だから,ラチェッドに対してマックマ
ーフィーが示す反抗は, 個人の自由を束縛する組織や文明への反抗を意味するだけでなく, 母の支
配を転覆するための反抗, あるいは女性による男性支配を打ち壊すための反抗だということになる.
ラチェッドとマックマーフィーとの対立を男性 (または息子) と女性 (または母) との対立として捉
え直してみると, この小説における去勢恐怖症と,それを裏返した形で現れる女性支配の欲望を読
み取ることができよう. 実際,たとえば,マックマーフィーが意図的に自分のパンツ姿を見せつけて,
「無言の激しい怒りを露にしながらパンツの上を飛び跳ねている巨大な白鯨」(those big white whales
leaping around on his shorts in pure wordless outrage) (96) をラチェッドに見せる行為に典型的に表れて
いるように,マックマーフィーの反抗には,ラチェッドを性的に支配しようとする意図,サディスティッ
クなまでの攻撃欲動が透けて見える.
90
現代アメリカ文学と<自然>̶『郭公の巣の上で』を例にして̶
このように見てくると, この小説は,<文明>の象徴である<女性>が<自然>の象徴である<男
性>を支配していることに対して, 支配された男性が反抗を企てた物語として読み替えることができ
る. だとすれば, この小説は, 男性による女性支配の欲望を極めて狡猾に正当化した小説であると
言わざるをえない. この小説は,<文明>を個人の自由を抑圧する邪悪な存在として描きつつ,<文
明>と<女性>を重ね合わせることによって,<女性>の支配下に置かれた被害者としての男性のイメ
ージを作り出す.そして,さらに,マックマーフィーの反抗が, 実際は女性を支配しようとする欲望の
現れであるにもかかわらず, あたかもそれが自由の回復と<自然>状態への回帰を意図した反抗であ
るかのような身振りを示すのである.
思えば,レスリー・フィールダーが『アメリカ小説における愛と死』 の中で鋭く洞察していたように,ア
メリカ文学に出てくる典型的な男たちは,<文明>を避けるために森や海などの<自然>の中へ逃げて
いく者たちであった (Fiedler xx-xxi).『郭公の巣の上で』 では,自然児マックマーフィーは,<母>,
<支配者>,<ロボット>,<機械工場の管理者>,<性的抑圧者>といった様々な意味内容を付
与された女性であるラチェッドに戦いを挑んだ末に敗れるのであるが,彼はブロムデンという後継者
を育てることによって象徴的に生き延びていく.ブロムデンは月の光の中へ,オレゴン州の大草原の中
へ,彼の父が失った土地の中へと逃げて行く.個人の自由を奪う精神病院から逃れ,<自然>の中で
新たな人生が始まることを暗示する最後の場面は美しい.だが,この美しい<自然>の中におそらく女
性はいないはずである.ブロムデンが崇拝する父を無力な酔っ払いにしたのは,父が結婚した白人の
女性であったことを思い出せば,ブロムデン自身の中にも女性恐怖症があることが推察できるからであ
る (208).
<自然>は常に自然性を装って我々の前に姿を現す.ちょうど, 女性の女性らしさが自然性を装っ
て現れるように.ナチュラルに見える<自然>が, 実際は巧妙に捏造された<自然>ではないかと疑
ってみること.こうした視座から,今後も現代文学の中の<自然>を見つめていきたいと思う.
Works Cited
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Bellow, Saul. Herzog. New York: Viking, 1964.
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Fiedler, Leslie. Love and Death in the American Novel. (1960; rpt. New York: Meridian-World, 1962).
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Salinger, J.D. The Catcher in the Rye. New York: Penguin, 1958.
マークス,レオ.「アメリカン・パストラルの思想」. ハロルド・フロム, ポーラ・ G ・アレン, ローレンス・ビュエル著. 伊藤詔子, 横田由理, 吉田美津訳 .『緑の文学批評』 松柏社 (1998), 115-141.
Proceedings of the 59th Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
シンポジアム 【アメリカ文学部門】
ウィルダネスという他者?
開 龍美
はじめに
原生自然,つまり 「人間の手が入っていない自然」 という意味でのウィルダネス (wilderness) は,
地球環境の危機意識の高まりのなかで地球環境改変の尺度となり, 環境保護運動のシンボルともな
っている.ウィルダネスが, 環境保護思想・運動の推進力となるのには, 地球環境改変のであるとい
う具体的な事柄だけが理由ではなく, より深いところでは,ウィルダネスが私たちに人間と自然との
関わりについて根本的に問いかけ, また導きとなっているからである.ウィルダネスという自然は私た
ちにいかなる存在意味をもっているのか.それは地図上の単なる空白域なのか,それとも人間を超え
た何ものかなのか.そしてウィルダネスと対峙する私たちはいったいいかなる存在意味をもっているの
か.ウィルダネスに対して疎遠なものなのか,それとも親和的なものなのか.これらの問いをどう捉え,
どう答えるかによって, 必然的に自然に対する私たちの臨み方, 関わり方も, 環境保護のあり方も異
なったものとなる.
エールシュレーガーは,『ウィルダネスの観念』 においてウィルダネス体験の意味を次のように述べ
ている.「要するに,ウィルダネスを他者として経験することは, どのような根拠付けをするにせよ人
間であることに関して理解し, 個人としてのアイデンティティを明確にするうえでは必要である」1 . エ
ールシュレーガーのこの言葉と符合するのは,「人間存在の境界を超えたものを認め, 畏怖し驚嘆す
るこのような感覚を保ち強化することにはいったいどのような価値があるのでしょうか.・・・・私はその
なかに,ずっと深いもの, 持続的で意味のあるものがあると確信しています. 地球の美しさと神秘を
感じ取れる人は・・・人生に飽きて疲れたり, 孤独に苛まれたりすることは, けっしてないでしょう」2 と
いうレイチェル・カーソンの言葉である. 自然に驚嘆・畏怖し,その美しさと神秘を感じ取るとは, 自
然を対象化されたもの,「死んだ」 物体とみなす機械論的自然観の対極にある態度である.そのよ
うな驚嘆, 畏怖の感情は, 私が自然・生命のそれ自体の固有の在り方と価値を不十分ながらも理解が
できるという意味では, 自然・生命と私との間には共通性があることを示している. 他方, 自然・生命
が驚異, 畏敬, 神秘を引き起こし, 私にとっては理解を超える未知なるものである意味では, 自然・
生命は私と異なるものとして立ち現れている. 私との共通性と異なり(それゆえの未知性 ) を併せもち
立ち現れるものが, 真の他者なのである.つまりは, 驚異・畏敬・神秘という現れ方は, 自己による
他者構成を超越した真の他者性との出会いを意味するものである.
しかし,ウィルダネスという観念には長い錯綜した歴史がある. 長い歴史におけるウィルダネスの
観念の変遷を辿り, 現在の私たちのウィルダネス観を相対化し,ウィルダネス保存の思想を批判する
立場もある. 本論考では, 以上の問題性を踏まえ, 環境哲学・環境倫理学やエコクリティシズムにお
いて重要な位置を占めるウィルダネスの観念を考察する.
1. 環境主義を規定するウィルダネス
ウィルダネスは, ユダヤ・キリスト教においては 「荒野」 であったが,ロマン主義による讃美を経て
92
ウィルダネスという他者
新大陸にわたり,ミューア(John Muir,1838-1914) において 「神の聖堂」 と化し,レオポルド(Aldo
Leopold, 1887-1948) に至って 「人間存在の源泉, 原点」 として再確認され,その保存はアメリカの
環境主義の推進力となった.
アメリカ合衆国の世論を二分するまでに注目され,環境主義の画期となる出来事と言えば,ヘッチ・ヘ
ッチー論争 (ヨセミテ公園内にあるヘッチヘッチー渓谷でのダム建設をめぐる争議,1908-1913) であ
る. 功利主義に基づく自然の 「賢明な利用 (wise use)」 を原則として,ダム建設を支持する初代森林
局長ギフォード・ピンショー (Gifford Pinchot,1865-1946) に対して,ジョン・ミューアは, 自然にはそれ
自体守るべき価値があることを力説した.その際,それ自体としての価値をもつ自然の概念として象
徴的に提示されたのがウィルダネスであった. 彼は,『初めてのシェラの夏 (My First Summer in the
Serra)』(1911) において神の被造物としての自然を賛美し, 次のように記している.
言うまでもなく, 私に残されたわずかばかりの日のうちに,できるだけたくさんウィルダネスを見
たいものだ. ・・・・ともかく, 私たちには, 自分がどこに行くべきなのか, いかなる道しるべを辿
るべきなのか決してわからない̶人間も, 嵐も,守護神も,そして羊たちも. おそらく自然から
最も隔たっている人でもほとんどが,自分が意識している以上に守られているのだ.すべてのウィ
3
ルダネスは, 私たちを神の光へと促し導く仕掛けと計画に満ちあふれているようだ.
そして,アメリカ環境保護思想の原点にあげられるレオポルドは, 当時は新しい学問であった生態
学を取り入れた「土地倫理 (Land Ethic)」を構想したということでは一つの転換点に立ってはいるが,
やはり核心においては伝統的なウィルダネス観を継承している. 人間が繰り返し立ち返る歴史の始ま
りにある尺度の原点, 人間存在の源泉,それがウィルダネスなのである.
ウィルダネスの文化的価値を見て取る能力は, 煎じ詰めると, 最終的には, 知的謙虚さの問題
となる. 大地への根付きを失った浅薄な現代人たちは, 自分は大切なものをすでに発見してい
ると思いこんでいる.そのような連中が, 政治的ないし経済的な帝国が一千年も続くと無駄口を
たたいている.歴史はすべて唯一の出発点(原点)からの継続的な往復運動から成りたっており,
人は永続性ある価値尺度を再び探し求めるために,この出発点に繰り返し立ち帰るものであるこ
とを理解しているのは学者だけである. 学者だけが, 未開のウィルダネスが人間の企てに明確な
4
形と意味を与える理由を理解している.
このように環境保護の象徴としてウィルダネス保存が語られ,ウィルダネス保存を主張するエマソン,
ソロー,ミューア,レオポルドらの思想を捉え直す形で現代の環境主義・環境倫理学が形成されてきた
とするならば,ウィルダネスの観念が現代の環境主義を規定したと言ってもよい.
2.ウィルダネス幻想 しかし, 昨今,ウィルダネス保存の実態と価値観に対して批判が出され,「ウィルダネス論争」 が
起こっている. 批判の代表的論者の一人は環境史家クロノン(William Cronon) である. 彼の批判を
一言でいえば, 次のようになるだろう.ウィルダネスの伝統的観念 (人間の手が入っていないという
意味での無垢の自然, 原生自然) に従えば,ウィルダネスは自然と非自然 ( 文明・人為等) との間に
線引きができるという仮定の上に成り立っている.しかし, 現実には, 線引きによってそれ自体として
取り出すことができるような何ら検証可能な経験的意味をもたない.ウィルダネスは一種の構成された
もの, 作り上げられたものに他ならない. 大局的に見れば,ウィルダネスは西洋文明のなかで, どの
ようにして文明・人間にとっての 「他者」 として自然が作り上げられたのか,その実例を示しているこ
とになる.そして,ウィルダネスはまさにある特定の時代のある特定の地域のイデオロギーを反映する
ものに過ぎないと述べ,このようなウィルダネスを聖域と感じ, 人間と自然の関わり方を考える基準に
開 龍美
93
5
するとすれば,その環境保護思想は端緒から問題を孕んでいると言わざるを得ないと批判する.
クロノンの指摘を待つまでもなく,ウィルダネス志向が人類に普遍的なものではないことは, 聖書
にあるウィルダネス観 (荒野としてのウィルダネス) から19 世紀末のアメリカのおけるウィルダネス礼
賛への大転換を跡づけるならば, 容易に見てとれるところである.18 世紀になっても英語ではウィル
ダネスは 「荒廃した土地」 という意味で用いられていたのが,「崇高」 と 「辺境 (フロンティア)」
の概念を媒介としてそのイメージが変容し,ソロー,ミューア等のウィルダネス礼讃が国民に浸透する
ことで, 道徳的価値と文化的シンボルとなった. 一方で,ウィルダネスがそもそも 「人間がまったく介
入していない純粋無垢な自然」 であり, 自然は本来ウィルダネスでなければならないとすれば,そし
てまた他方で, 我々人間が自然を汚す存在に他ならず, 今いる場所がその点でウィルダネスではあり
得ないとすれば, 人間はどこまで行ってもウィルダネスへは到達しえず,ウィルダネスは常に人間から
逃れてゆく幻想,どこにも存在しないユートピアに終わる. 人間の居住の場所たりえないウィルダネス
を自然の 「模範」 として受け入れることは, 自然と人間の関わりを捉え直す作業においては決して有
効なものではあり得ない.ウィルダネス賞讃によって,地球上でウィルダネスではない大部分の場所は,
自然らしくないものとなり, 劣るものと見なされる.また大部分の人間が遠方にある非日常的なウィル
ダネス地域にばかり関心を向けるなら, 身近な日常的な居住の場所を軽視することにつながる.
3. 環境主義の思想史的意味
西洋思想を貫くものに 「人間例外主義 (human exceptionalism)」 の伝統がある.その典型は,キ
リスト教における 「人間は世界のうちにあるが, 世界に帰属するものではない (Man is in, but not of
the world.)」 という人間観に看取できる.つまり,「神の似姿 (imago Dei)としての人間」 と 「救済
(salvation)」 の思想に従うならば,人間は専一的に神に向かうべきであって,自然に向かうべきもので
はない. たとえ人間は自然世界のなかに存在しようとも, 自然世界は仮の宿であって, 人間は本来的
には救済により神に帰還すべきなのである.それが人生の目的なのである. ゆえにキリスト教におい
て自然世界は人間の救済の舞台として存在するにすぎず,それが自然に対する否定的態度を強化する
ことになった.このような態度は,17 世紀のデカルトの 「精神̶物体」 の二元論哲学においては,コ
ギト(cogito:「我思う」) の観念に含まれる没世界性, 没身体性に端的に現れており, こうして自然
6
に対峙する人間は,「自然の主人かつ所有者」 へ変貌し, 人間中心主義へと傾斜してゆく.
そして環境主義の思想史的意味は, 自然の内在的価値 (intrinsic value) に基づき人間と自然との関
わりを再検討することから出発し, 人間例外主義と,それから帰結する人間中心主義を批判し, 近
代の二元論によって分断された人間と自然とを再び結び直そうとする試みにある. 環境主義のこのよ
うな動向は, 近代に固有な人間観・世界観を克服しようとする他の諸分野の動向と合致する. たとえ
ば,哲学者ハイデガー(M.Heidegger) の 『存在と時間』 における「世界内存在 (In-der-Welt-sein)」
の概念は, デカルト哲学を典型とする近代の 「主観̶客観」 の二元論の克服を試みたものである.
主観概念に代えて提示した現存在 (Dasein) には, 現存在の存在構造を世界内存在と捉えることによ
7 り, 没世界性を克服し, 自己と世界を結びつけようとする企図がある.
他方, 人文主義的地理学に
おいても人間と場所との本質的関係をめぐる議論 ( エドワード・レルフやイー・フー・トゥアン ) において,
8
環境主義と同じ方向性を跡づけることができる.
デカルトの延長実体 (res extensa) の概念に従えば,
生きとし生けるものたちの住む (自然) 世界は 「死んだ」 物体世界,「無色透明な」 な幾何学的
世界と化し, 自己のアイデンティティと切断された世界はその固有性・アイデンティティを失い, 匿名性
のうちに浮遊する.この現象が 「没場所性 (placelessness)」 という事態である. 具体的には, 技術
革新により距離の短縮・無化が進むことにより場所の個別性が破壊され, 方々の町の駅前などのコン
ビニエンス・ストアやファーストフード店に象徴されるような画一的風景が造り上げられる傾向 (=世界の
ディズニーランド化) に没場所性は指摘できる. これに対してレルフ等は, 場所に根付くことが人間
94
ウィルダネスという他者
の本質的条件であり,自己のアイデンティティと場所のアイデンティティには本質的なつながりがあると
主張している.そして,ディープ・エコロジーと親近性をもつ生命地域主義 (bioregionalism) の提唱者
である詩人ゲーリー・スナイダー (Gary Snyder) における 「再定住 (reinhabitation)」 の概念も,一端切
断されてしまった人間と自然世界, 自己と場所とのつながりを結び直そうとする試みを訴えていること
9
は言うまでもない.
4. 自然の社会的構成, または人間中心主義への退行
ウィルダネスの観念とそれに基づくウィルダネス保存に対するクロノン等の批判の前提にある思想
は, 社会的構成主義 (social constructionism) である. 社会的構成主義の古典であるバーガー,リュ
ックマンの『現実の社会的構成』によれば,人間と自然,現実との関係は次のように述べられている.
人間は他者と一つの世界を構成し,そこで居住するように生物学的に予め定められている. この
世界は人間にとって支配的決定的な現実となる.この世界の限界は自然によって定められている.
しかし, いったん構成されると, この世界は自然に対して逆に働きかける. 自然と社会的に構成
された世界との弁証法的関係のなかで, 人間という生物自身が変容する.そしてこの同じ弁証法
10
的関係において, 人間は現実を造り,そしてそれによって自分自身をも造る.
「実存は本質に先立つ」 という実存思想の言葉にも端的に示されているように, 人間は自らの可能
性を担い自己実現を目指すものとして 「途上存在」 である.しかし,もし 「自然」 と 「社会的に
構成された世界」 とが弁証法的関係にある, あるいは両者が相互制約的・相補的関係にあるという認
識が希薄になり, 人間が現実を造り, 自分自身を造るという側面に重心が移ると, 上記の社会的構
成主義の立場は極端なものに変質する.そこでは,人間の生物的,物理的制約がいっさい捨象され,
人間本性が無限に可塑的なものとなり,またその意味で人間本性はなきに等しいものとなる. ゆえに,
人間性の真正性は, 人間一般の理念に基づくのではなく, 特定の地域の, 特定の時代の文化によっ
て確定されることになる (確かにそれは普遍的人間などという近代の普遍主義・本質主義を打破する
という目的に適ってはいる).
一般に, 社会的構成の立場からすると, 自然の観念は文化的・言語的に構成されたものである.
私たちは自然という観念の意味内容を共有しているという前提のもとに,「自然保護」 を論じている
のだが,この観念は,その意味内容が, 視点, 地域, 時代によって錯綜しおり, けっして普遍的な
意味をもってはいないのが実情なのである.自然の観念の意味内容は,対応する外部の実在をもたず,
そうした言語記号によって喚起されるイメージに過ぎないのである.その意味では自然は文化的概念
として, 個々別々の文化の独自のコスモロジーを反映していると言えよう. 別な言い方をすれば, 私
たちは自然に関して特定の文化と時代により与えられた意味のフィルターを通してしか, 自然を経験で
11
きないのである.
そしてそのフィルターの典型がウィルダネスという観念なのである. 確かにこの観点
は,自然に対する私たちの関わり方の可能性を探る環境倫理学にとっては,重要な意味をもっている.
私たちは,その地域に相応しい形でそれぞれに自然への関わり方があって,それぞれに築き上げられ
た環境文化には学ぶべきものがある, ということになるからだ.しかしここには相対主義の問題があ
る. 突き詰めるならば, 伝統的に継承されて来たやり方なら何でも良いということになり, 自然に対
する関わり方,介入の仕方の差異,違いをないに等しいものにしてしまう.このような立場においては,
「この世界の限界は自然によって定められている」という認識が欠落していることを指摘しなければな
らない.
また,ウィルダネスという自然 (体験) への思いが 「文化的発明 (a cultural invention)」 に尽きる
とするクロノンの主張に従うなら, たちまち問題が生ずる.
開 龍美
95
ウィルダネスとの出会いにおいて体験されるものが, 仮想現実のごとくまったくの私たちの捏造物
であると言っているのではない. 確かに,ウィルダネスが含む諸事物の美しさと力強さは讃美に値
する. 私たちはそのようなものと出会ったときのことを記憶にとどめている.しかし,そのような記
12
憶が可能となった場所へ私たちを引き寄せたものは,まったくの文化的発明(案出)である.
クロノンの見方からすれば,ウィルダネス体験への思い, 言いかえるならば,ウィルダネスに対する価
値観が文化的発明であるということは,ウィルダネスの価値は相対的であるだけでなく,ウィルダネス
という物理的実在に, 種々様々な観点から価値が人間によって付与されたということになる. これは
そもそも人間例外主義・人間中心主義への退行を意味する. 環境主義が目指しているのは, 人間だけ
でなく自然にも内在的価値を認めることにより, 人間中心主義を打破し, 人間と自然をつなげること
であるからだ.
5. 真正なる他者としてのウィルダネスとの出会い
ウィルダネスがもし西洋文明の只中で造り出されたものに過ぎないとすれば,つまり特定の文明によ
って構成された社会的構築物に他ならないとすれば, たとえウィルダネスという自然が文明にとっては
「文明にあらざるもの」 として 「他者」 であると解釈されているにせよ,その本性は文明の投影物と
いう意味では, 文明という 「自己」 をかたどるネガである.その意味で私たちが都市から遙か遠隔
に出かけていってウィルダネスに臨もうとも,それは自分とは本質的に何の異なるところのない自分の
ネガを体験していることとなる. このような態度は, 簡便に言い換えるならば, 自然のなかにあって
自分が紡ぎ出したウィルダネスという幻想を押しつけ,その地域の歴史的・地理的背景を一切無視する
とともに, 土地の人々の存在を軽視する無思慮と無責任を招く.そして, これは, より大きな文脈で
言えば, 近代西洋文明に特有であった 「啓蒙と拡張の論理」 と合致することは明らかである. 近代
西洋文明は啓蒙主義の御旗のもと, 全世界の未開と野生を駆逐していった. 未開状態のウィルダネ
スは開拓されるべきものであった.ウィルダネスは西洋文明を拡張するための素材であった.それが
20 世紀に入りウィルダネスが文明の行く末を左右するシンボルとなる.しかしそのウィルダネスの観念
とその保存思想は, 近代の啓蒙と拡張主義を批判しているように見えて, 実は近代西欧文明の実像
の 「裏返し」 なのである. クロノンをはじめウィルダネス保存の思想と実践を批判した人たちの主張
の眼目はこの点にある.
しかしソロー,ミューアらが自己のアイデンティティの拠り所として 「場所の感覚」 を見いだしたウ
ィルダネスは,「西洋文明の自己」 による構築物としての, 自己の単なるネガにすぎない他者だった
のであろうか.むしろ自己による構成を超える他者, 主体的にして未知なるものとしての他者というウ
ィルダネスの体験が指摘されているのである.そしてそのような他者との出会い, 他者への開けに導
かれ初めて, 自己了解は真実なものになる.その意味で,このような真の他者に出会わない者も文明
も自己閉塞に陥らざるを得ない.それゆえに,ウィルダネスを文化的構築物と言って批判したクロノン
自身,その同じ論文で,ウィルダネスに対する相反する感情を自らに抱いていることを吐露しないでは
いられない.
他方において, 私たちが, 人間以外の世界を, 私たちが創造したのではない世界, 存在するの
にそれ自身の根拠をもつ世界として, 認め賞賛することはやはり重要なことである, とも私には
思われる. 人間の利害は地球の他の各生物の利害とは必ずしも一致しないということを, 私たち
に思い起こさせる̶ウィルダネスの場合やはりその傾向が強いが̶ような自然の見方は, 責任あ
る行為を養う可能性が高い.ウィルダネスが, 人間以外の世界に対する私たちの責務と責任に
関して深い道徳的価値観を明確に表現する重要な媒体として働くに応じて, 私としては, 自然に
13
関する私たちの文化的な考えたかに対するウィルダネスの貢献を, 捨て去りたくない.
96
ウィルダネスという他者
こうして彼は彼自身がウィルダネスについて否定しがたい点をウィルダネスの 「他者性 (otherness)」 と
捉え直し,そのような「他者性の感覚」をウィルダネスという「人間の外にあるもの」に限定せずに,
むしろ私たちの生活の場面に拡大しようとする.しかしクロノンが最終的に提示する「自然の他者性」
こそ, 自然そのものに内在的価値を認め, 人間中心主義を打破しようとした環境主義が,ウィルダネ
スの観念に重ねた合わせた意味内容なのである.
結語
クロノンらは,ウィルダネス保存に規定されている (欧米の) 環境主義が 「緑の帝国主義 (green
imperialism)」の一種であり,環境正義 (environmental justice) を侵害するものであると批判している.
しかし彼らの批判の前提そのものが,実在としての自然を無視した極端な社会的構成主義に偏する傾
向があり,それゆえに, 人間中心主義へ退行を端的に示している. 人間中心主義は,その背後に人
間と自然・世界との切断があり,この事態こそ現代思想の諸潮流がその克服を目指してきたものにほか
ならない.そして,クロノンは,自らが展開している批判とは相容れないものとして自分のなかにある
と感じ取っているのは,ウィルダネス体験には人間にとっての真正な他者との出会いの経験が含まれ
ており,それによって人間は自然・世界における人間の位置に関して真正な自己理解を得る可能性が示
され得ることである.ウィルダネスが示すこのような可能性こそ, 実はエマソン,ソロー,ミューアの
伝統が伝えようとしたものに他ならない.
注
1
cf. Nax Oelschlaeger, The Idea of Wilderness. From Prehistory to the Age of Ecology (New Haven: Yale
University Press, 1991) p.8f.
2
Rachel Carson, The Sense of Wonder (New York: Harper Collins Publishers, 1998) p.100.
3
William Cronon (ed.), John Muir, Nature Writings, (The Library of America, 1997) p.298.
4
Aldo Leopold, A Sand County Almanac and Sketches Here and There (Oxford: Oxford Uni. Pr.,1949) pp.
188-200.
5
William Cronon, “The Trouble with Wilderness, or, Getting Back to the Wrong Narure”, in: William Cronon
(ed.), Uncommon Ground. Rethinking the Human Place in Nature (New York: W.W. Norton & Company, 1995)
pp. 69-90.
6
ルネ・デカルト(野田又夫訳)
『方法序説』,野田又夫編『世界の名著デカルト』(中央公論社,
1978)所収,p.188,
p.210 参照.
7
cf. Martin Heidegger, Sein und Zeit (Tübingen: Max Niemeyer Verlag, 1927).
8
エドワード・レルフ(高野岳彦ほか訳)
『場所の現象学̶没場所性を越えて』
(筑摩書房, 1991)参照.
9
cf. Gary Snyder, The Practice of the Wild (New York: North Point Press, 1990). 10
Peter L.Berger; Thomas Luckmann, The Social Construction of Realty (New York: Anchor Books, 1967) p.183.
11
松井健 『自然の文化人類学』(東京大学出版会,1997)pp. i-xv 参照.
12
Cronon,p.472.
13
Cronon, p.492.
Proceedings of the 59th Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
シンポジアム【英語学部門】
Interface between Form and Meaning: Issues on Predicates
Toshihiko Asaka, Toru Suzuki, Hidenari Katsuragawa, and Yoshiki Ogawa
福島大学助教授
朝賀 俊彦
講師 福島大学助教授
朝賀 俊彦
講師 山形大学助教授
鈴木 亨
講師
東北大学大学院
桂川 英也
講師
東北大学助教授
小川 芳樹
司会
In the linguistic research under the framework of generative grammar, predicates have been considered
to be one of the key elements determining the fundamental properties for the interpretation of a given
linguistic expression. Predicates play the central role in forming the core of the sentence interpretation
by stipulating the semantic properties such as the argument structure and aspects. Also in the field of
lexical semantics, semantic decomposition centers on the semantic structure of verbs, which are the main
predicative elements in clauses. Moreover, the notion of predication makes it possible to capture various
types of subject-predicate relation such as secondary predicates and operator constructions in terms of the
saturation of functions at the level of syntax. Thus, the clarification of the properties of predicates is one of
the major issues of linguistic research in the domains of syntax and semantics.
This symposium addressed four issues pertinent to predicates and considered what roles predicates play
in mediating form and meaning. The first speaker, Asaka discussed what is a proper treatment of the two
nominals in the construction of the form N of an N, which are understood to be in a subject-predicate
relation. Critically reviewing previous syntactic movement analyses, Asaka argued that the modification
relation of the two is better licensed at a level of semantics under the correspondence view of grammar.
The second speaker, Suzuki dealt with the resultative construction and related constructions with
special reference to the conditions on the formation of an abstract scale/path. From the viewpoint of the
division of labor between syntax and semantics, Suzuki discussed how syntax and semantics conspire
to license resultative phrases. The third speaker, Katsuragawa addressed the syntactic structure of -teiru
in Japanese, focusing on its aspectual properties and the effects that this verbal predicate exerts on the
quantifier floating construction. Examining the structural conditions determining the well-formedness
of floating quantifiers, Katsuragawa discussed the correlation between the interpretation of -teiru and its
syntax. The fourth speaker, Ogawa argued, making use of an extended sense of predication, for a new
formal licensing mechanism of the present tense interpretation in Japanese. Observing that an apparently
exceptional interpretation is allowed in syntactic environments involving operators, Ogawa proposed that
a class of Japanese verbs in the simple present tense introduce a temporal variable that can be bound by a
phonetically empty universal quantifier.
(Toshihiko Asaka)
Proceedings of the 59th Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
シンポジアム【英語学部門】
Predication in the English Classifier Construction
Toshihiko Asaka
1. Introduction
This article discusses the relation between the two nominals in the adjectival noun construction,
exemplified in (1) and related constructions:
(1)
an angel of a girl, a hell of a problem, that idiot of a doctor
In this construction, the first noun, called N1, is understood to be the predicate of the second noun, called
N2. On the basis of several types of evidence, it is argued that the subject-predicate relationship between
the two nominals should be captured at a semantic level.
In what follows, section 2 will review the analyses of the construction based on the syntactic predication
and then point out their problems. Section 3 will argue for an analysis based on a semantic attribution
function. Section 4 will address the non-referentiality of N1. Section 5 will discuss the relation between
the adjectival noun construction and other related constructions. Section 6 will summarize the article,
touching upon the implications of the proposal for the semantic contribution that constructions make for
interpretation.
2. Movement Analyses
As for such expressions as those given in (1), there is a modification relation between N1 and N2, just as
the adjective angelic modifies the noun girl in an angelic girl. In this section, we will critically review
two analyses which account for this modificational relation in terms of syntactic predication. Both of them
posit a predicate movement in a noun phrase. Let us take a look at them in turn.
Den Dikken (1998) argues that of in the construction is a nominal copula, spelled out as a result of a head
movement. First observing what he calls the ‘commutability’ of the subject and the predicate in a copular
sentence, den Dikken argues that (2a) and (2b) share the same base structure (3a), and that they are derived
as in (3b) and (3c), respectively:
(2)
(3)
a. our doctor is the biggest idiot in town
b. the biggest idiot in town is our doctor
a. [IP ... be [XP our doctor X [Pred the biggest idiot in town]]]
b. [IP our doctori ... be [XP ti X [Pred the biggest idiot in town ti]]
c. [IP the biggest idiot in townj ... be [XP our doctor X [Pred tj]]]
In the theoretical framework that den Dikken adopts, raising of the predicate over the subject in (3c) causes
a violation of the Minimal Link Condition and thus the raising of X to F is required to apply to make such
a movement possible (See Chomsky(1993) for the details of the theory of movement based on the notion
of equidistance). This head movement is schematized in (4):
(4)
[FP Predj [F’ F(=F+Xi) [XP Sub [X’ X(=ti) tj]]]]
By claiming that the raising of X to F causes the resulting complex head to be spelled out as an copula, den
Dikken accounts for the fact that the copula must be present in the predicate inversion construction like
99
Toshihiko Asaka
(5a), though it may be absent in the corresponding sentence involving no predicate inversion like (5b):
(5)
a. I consider the cause of the riot *(to be) a picture of a politician.
b. I consider a picture of a politician (to be) the cause of the riot.
By proposing that of is a nominal copula in the nominal construction under discussion, den Dikken
accounts for its distribution. That is, capitalizing on the fact that when predicate movement applies in a
clause, the copula is obligatory, as shown in (5), he accounts for the obligatoriness of of in the construction
in a parallel fashion by assuming a nominal predicate movement in (6):
(6)
a. [DP that (...) [SC doctor [Pred idiot]]]
b. [DP that (...) idioti of [SC doctor ti]]
More specifically schematized in (7), it is assumed that in a nominal small clause headed by X, N1 is
originally the predicate of the small clause:
(7)
a. [DP Det [FP Spec F [XP NP [X’ X NP]]]]
b. [DP Det [FP [Spec [NP idioti]] [F F+Xj (=of)] [XP [NP doctor] [X’ tj [NP ti]]]]]
Just as in the predicate inversion in a clause, N1 is moved across its subject, N2, and this is made possible
by the raising of X to F. In this analysis, of is treated as a nominal copula spelled out in F, and the
obligatoriness of this copular element is analyzed as the result of the head movement of X to F, which is
required for the predicate movement.
Another movement analysis is the one proposed in Kayne(1994). In his analysis of French constructions
involving de, Kayne mentions that of may correspond to de in the French construction in (8), suggesting
that of is analyzed as a prepositional determiner corresponding to a prepositional complementizer, as
shown in (9):
(8)
(9)
a. cet imbécile de Jean
‘that imbecile of Jean’
b. cet [D/PP [NP imbécilej] [de [IP Jean I0 [e]j ...
a. that idiot of a doctor
b. that [D/PP [NP idiotj][of [IP a doctor I0 [e]j ...
(Kayne (1994:106))
In this analysis as well, an NP-internal clausal structure, headed by I 0 in (9), is posited. The
subject-predicate relation between N1 and N2 is then expressed within this IP. The surface predicate-subject
order is also derived via fronting of the predicate NP.
Thus, these two movement analyses share the view that N1 and N2 are in predication relation at some
underlying level of syntax, with the surface order derived via preposing of the predicative element N1.
However, these predicate movement analyses face several difficulties. For den Dikken, one of the
problems is concerned with the obligatoriness of the predicate movement and the overt copular element in
the nominal construction. A closer examination reveals that the parallelism between nominal and clausal
predicate movements does not hold when it comes to their obligatoriness. The examples in (2) and (5),
cited to illustrate the ‘commutability’ of the subject and the predicate, show that the predicate movement
in a clause is not obligatory. Hence, in (5a) the non-inverted form without the copula is possible. If the
nominal construction under discussion is to be analyzed in the same way, a nominal counterpart to the
copular construction involving no predicate inversion (and with no concomitant spell-out of of) should also
be allowed. However, a non-inverted form is not allowed as shown in (10a) and the predicative element
cannot follow the subject in the nominal case:
(10) a. *a girl an angel
b. [DP Det [FP [Spec [NP girl]i ] F [XP ti [X’ X [NP an angel ]]]]]
100
Predication in English Classifier Construction
Another difficulty for this predicate inversion analysis is related to the identity of the functional category
F, which is yet to be worked out. As a result of this, how the inversion of the predicate is motivated is not
clear, either. See also Aarts (1998) on this point.
For Kayne, a potential problem pointed out by Aarts (1998) is that the predicate movement analysis
may cause difficulties for the usual adjective-noun modification. According to Kayne, the fronting of
a predicate is also involved in the derivation of such phrases as the yellow book so that the predicate
movement implies that a case of attributional modification like the one in (11a) is analyzed as in (11b):
(11)
a. a hot summer
b. a [[hotj] [SC summer [e]j]
However, there are cases where this analysis fails, as the following examples show:
(12) a. a real shame
b. My shame is real.
(cf. Aarts(1998))
In (12), the two occurrences of real have different meanings. Since there are those adjectives, like this,
which have different meanings in an attributive position and in a predicate position, an analysis of
adjectival elements based on the general application of predicate fronting cannot be maintained. This, in
turn, makes such an analysis of the adjectival noun construction dubious.
Other than these difficulties, both of the two analyses equally face the following problems as well.
First, given that of N2 is assumed to form a syntactic constituent in these analyses, the impossibility of the
movement of that part must be implemented:
(13) a. a monster of a machine
b. a fool of a lawyer
c. a little slip of a girl
(14) a. *[of a machine]i, it was [a monster ti]
b. *[of a lawyer]i, he was [a fool ti]
c. *[of a girl]i, she was [a little slip ti]
(15) a. *[a monster ti] was delivered [of a machine]i
b. *[that fool ti] showed up [of a lawyer]i
c. *[a little slip ti] came in [of a girl]i
(Abney(1987:297))
Secondly, Matushansky(2002) observes that the construction allows iterated predicates:
(16) this asshole of an idiot of a bastard of a musketeer
(Matushansky (2002:265))
One way to accommodate this property in the movement analysis would be to allow the iteration within
the moved predicate, as in (17):
(17) [Pred asshole [of an idiot [of a bastard]]]
If, however, the iteration without movement is allowed this way, the unavailability of the same structure in
the construction as a whole must be explicated. Another possible solution would be to allow the iteration
of movement within the domain of FP or D/PP. Though we do not go into the details, this would lead to the
introduction of extra layers of structures otherwise unmotivated.
These arguments indicate that movement analyses should not be considered viable.
3. A Proposal
Now I propose that the construction involves a type of phrasal lexical item incorporating a semantic
function of property attribution. Phrasal lexical items are recognized as part of the lexicon under the
correspondence view advocated in Jackendoff (1997a, 2002). In the correspondence view, the grammatical
Toshihiko Asaka
101
structure is regarded as a triple of phonological, syntactic and conceptual structures, <PS, SS, CS>, which
is integrated into sentences through a unification termed as lexical licensing.
Given that a phrasal lexical item is allowed under the correspondence view, it is possible to specify the
semantic property of N1 as part of such a phrasal item. Using an informal notation, let us propose the
following triple for an angel of a girl:
(18) Phonological Structure: an angel of a girl
Syntactic Structure:
[DP an [NP angel [PP of [DP a [NP girl]]]]]
Conceptual Structure:
GIRL α
MODIFIER: BEAscription ([ α ], [ANGEL])
Here the conceptual constituent ANGEL, which corresponds to the syntactic constituent angel, appears as
a part of the modificational element in the conceptual structure. The grammatical structure in (18) indicates
that the semantic constituent ANGEL serves as a part of a restrictive modifier, as red in the case of red
house in (19):
(19) a. red house
b. HOUSE
MODIFIER: RED
In (18), the semantic function of attribution stipulates the relation between GIRL, the semantic constituent
corresponding the syntactic constituent girl, and the first of its argument, designated as [ α ], as what
Jackendoff calls argument binding. Then, in this analysis, the relevant subject-predicate relation between
N1 and N2 is captured at the level of conceptual structure. With this analysis of the relation between N1
and N2, there is no need to posit a structure to represent subject-predicate relation in syntactic terms, nor a
syntactic operation to derive the inverted surface order from such an underlying structure.
The problems related to the movement, then, do not arise in the present analysis. Firstly, in the absence
of movement, the obligatory movement of the predicate or the functional head F does not matter.
Secondly, we do not have to introduce the otherwise unmotivated category F, either. Thirdly, since there
is no movement for the fronted predicates, there is no extension of movement analysis to the case of the
adjective-noun modification.
The other two properties of the construction may be reduced to its licensing. Fisrt, apparently, the
immobility of of N2 might be considered to pose a problem, since it is considered to be a constituent in the
present analysis. However, it is known that fixed phrasal expressions like idioms resist movement, as the
following example shows:
(20) #The bucket was kicked by John. (in the idiomatic reading)
After the movement of a part of a phrasal item like idioms, lexical licensing becomes impossible, since
the stipulated syntactic structure is not maintained. Then, the immobility of of N2 is reduced to its being an
unbreakable lexical phrase.
As to the iteration, under the lexical licensing approach, a construction can be licensed repeatedly, insofar
as the relevant licensing conditions are met. The structure of the iterated phrase in (16) is given in (21):
(21) [DP1 this asshole of [DP2 an idiot of [DP3 a bastard of a musketeer]]]
In this structure, the lexical licensing of the adjectival noun construction applies three times; first, the
deeply embedded phrase, DP3, is licensed as the construction. After that, the phrase DP3 as a whole serves
as the subject at the level of the next higher phrase DP2, with idiot as its predicate. This is once again
repeated in the domain of DP1, with DP2 as the subject and asshole as its predicate. This way the analysis
based on lexical licensing can account for the iteration rather straightforwardly.
4. (Non-)Referentiality
In the previous section, we argued that the conceptual constituent corresponding to N1 is an argument of
102
Predication in English Classifier Construction
the semantic function BEAscription, which constitutes the modificational element of the phrase. Now let us
take a look at this semantic function. The introduction of this function makes it possible to account for the
non-referential property of N1, which is not explicitly discussed in the movement analyses.
As for the semantic function BEAscription, Jackendoff suggests that it takes a predicative role as its second
argument. This semantic function is contained, for example, in a copular sentence like Eva became a
doctor, where the subject Eva and the predicate a doctor is in a subject-predicate relation. This sentence
would be represented as follows:
(22) PS: Eva became a doctor.
SS: [S [NP Eva] [VP became [NP a doctor]]]
CS: [Event INCH ([State BE ([Object EVA],[Object DOCTOR])])]
(cf. Jackendoff(2002:396))
On the assumption that N1 in the adjectival noun construction is stipulated as the second argument of the
same semantic function, it is assimilated to a predicate nominal like a doctor in (22). As for the referential
property of predicate nominals, Jackendoff(2002) suggests that it is properly accounted for by breaking
conceptual structure into a set of tiers, two of which, relevant here, are descriptive tier and referential tier.
The descriptive tier organizes conceptual functions, arguments and modifiers. The referential tier deals
with referential claims a sentence makes about the entities in it. For example, in (23) the presence of
indices on the referential tier encodes the existential claims about the two entities, a fox and a grape, and
about the event of eating they are engaged in:
(23) a. A fox ate a grape.
b. Syntax/Phonology: [S [NP a fox]]1 [VP ate [NP a grape]2]]3
Descriptive tier:
[Event EAT ([Object FOX]1,[Object GRAPE]2)]3
Referential tier:
1
2 3 (ibid.:395)
In the case of predicate NPs, the indices on the descriptive tier are not copied. Given that conceptual
structure is divided this way, the grammatical structure in (22) can be elaborated as in (24), where on the
referential tier there is no index corresponding to the predicate NP a doctor:
(24) a. Eva became a doctor.
b. S/P: [S [NP Eva]4 [VP became [NP a doctor]5]]6
DT: [Event INCH ([State BE ([Object EVA]4,[Object DOCTOR]5)])]6
RT:
4
6
(ibid.:396)
Under this analysis, the coreference of a definite pronoun is notated by equating the indices of the
pronoun and its antecedent in the referential tier, as in (25):
(25) S/P: [[Joan]1 bought [a car]2]3. [[Fred]4 liked [it]5]6
DT: [BUY (JOAN1, CAR2)]3 [LIKE (FRED4, [3SingNeut]5)]6
RT:
1
2 3
4
5=2 6
(ibid.:397)
Since the present proposal claims that N1 is specified as a kind of predicate nominal at the level of
conceptual structure, it entails that N1 lacks the referential index, on a par with a doctor in (24). If the
definite anaphora requires indices on the referential tier, and given that N 1 lacks such an index, then
it is expected that the definite anaphora with N1 is impossible. The following example shows that this
prediction is born out:
(26) I met an angel of a girl yesterday. I fell in love with her (=?*the angel/the girl) at first sight.
(cf. Ike-uchi (1986:44))
5. The English Classifier Construction as a Family of Constructions
So far we have been concerned ourselves with the adjectival noun construction. Now we would like to
Toshihiko Asaka
103
suggest that the semantic subordination of N1 as part of a modifier is also found in the pseudo-partitive
(and other related constructions). In the discussion, we will see that though generally it is not considered to
be a classifier language, English does employ various types of ‘classifying’ elements.
As is well-known, the pseudo-partitive construction also exhibits an unusual relation between the two
nominals contained in it. Thus, in an example like a bunch of flowers, it is interpreted with flowers as its
semantic head. With this observation, we propose the following grammatical structure for this instance of
the pseudo-partitive construction:
(27) PS:
SS:
CS:
a bunch of flowers
[DP a [NP bunch [PP of [DP flowers]]]]
FLOWERS α
MODIFIER: BEAscription ([ α ], [BUNCH])
As in the adjectival noun construction, the first noun bunch is included in the semantic function BEAscription
in the modifier in the conceptual structure. This readily accounts for the ‘inverted’ predication relation
between bunch and flowers. Moreover, since N1 is specified as the second argument of this semantic
function, it is expected that it lacks the referential/existential claim. The example below shows that the
implication of the referent of N1 can be cancelled:1
(28) John was served a cup of soup, but it came to him in a glass (jug, barrel). (Lehrer(1986:130))
Under the proposed analysis, we may attribute this cancellation to the lack of the referential index on N1.
Furthermore, if the pseudo-partitive construction is treated as a phrasal lexical item on a par with the
adjectival noun construction, the impossibility of movement in the following examples is also attributed to
the lexical licensing:
(29) a. A cup of sugar was strewn on the floor.
b. *A cup was strewn on the floor of sugar.
(a. from Selkirk (1977:310))
The pseudo-partitive construction, however, differs from the adjectival noun construction in several
respects. In the domain of syntax, the adjectival noun construction allows only the singular form of N1 (at
least in the present-day English), while N1 in the pseudo-partitive construction can be plural:
(30) a. *two angels of girls
b. two bunches of flowers
Also in terms of semantics, though N1 is semantically subordinated as part of a modifier in both cases,
the two constructions should be differentiated, since what aspect of N2 is relevant for the modification is
not the same in the two constructions. In the adjectival noun construction, N1 specifies the quality of N2
while in the case of the pseudo-partitive construction, N1 is more likely to be concerned with the quantity
or form of N2.2 In fact, the exact semantic relation between N1 and N2 in the pseudo-partitive construction
might not be uniquely characterized. According to what kind of semantic relation N 1 bears to N2, the
pseudo-partitive construction can be divided into several subgroups, as in (31) (cf. Lehrer(1986)): 3,4
(31) a. quantity, unit
many hundreds of people, dozens of birds
two pounds of cabbage, one liter of wine
a bunch of flowers [quantificational]
a piece of equipment, two head of cattle, a drop of water
a box of candy, a bowl of sugar, (a group of people, a herd of animals[unit])
b. kind, property
two species of wheat, all kinds of flowers
(an angel of a girl, a bear of a man, a slip of a girl, a dream of a house)
104
Predication in English Classifier Construction
(a herd of animals[property])
c. degree
a hell of a problem, a devil of a player
d. form
(i) aggregation of N2
two rows of beans, three stacks of books, two clumps of grass
a bunch of flowers [spatial]
(ii) N2 as an individual
a head of cabbage, (two head of cattle)
e. element /part of N2
a grain of rice, a drop of water
Then, those syntactic and semantic peculiarities might be stipulated individually, even if the two nominal
constructions share several aspects of their syntax and semantics. Taking these parallels and differences
between them into consideration, we would like to suggest that these two are instances of a more abstract
construction (32), which might be called the ‘noun subordination archi-construction,’ following the
argument on the ‘time’-away construction and related constructions in Jackendoff(1997b):
(32) PS/SS: [NP ... N1 [PP of ... N2 ...]]
CS:
N2
MODIFIER: ...N1...
Then, the common property of semantic subordination of N1 is seen as a result of the inheritance from this
archi-construction and their respective peculiarities are attributed to their being lexical items independent
of each other.
Jackendoff and Goldberg both argue that syntactic configurations may make their own semantic
contribution to interpretation. According to Jackendoff, such constructions can be detected by the
following criteria (cf. Jackendoff (1997b:553)):
(33) a. unusual complement structure
b. unusually restricted syntactic structure
c. unusual selectional restriction
d. special morpheme
The two English nominal constructions meet these criteria. They have an unusual complement
structure, since the relation between N1 and N2 feels ‘reversed’ compared to the usual noun-complement
construction, which has the same syntactic configuration as these two. Also as the impossibility of
movement illustrates, the syntactic structure of the whole phrase is fixed, again unlike the usual
noun-complement construction. Moreover, it seems that N1 is limited to degree nouns in the adjectival
noun construction. In the case of pseudo-partitive construction, N1 is considered to be a kind of ‘container,’
though the notion is extended in several cases. Finally, since the preposition is restricted to of, as the
following example shows, we may say this morpheme marks the construction:
(34) an angel of/*on/*in/*for a girl
More generally, instances of the archi-construction in (32) may form a family of constructions in the sense
of the view cited below:
(35) At the level of phrasal syntax, pieces of syntax connected to meaning in a conventionalized
and partially idiosyncratic way are captured by constructions.
(Goldberg and Jackendoff (2004:532-533))
With further research on other related constructions, these considerations might be generalized to include
Toshihiko Asaka
105
the constructions involving what Lehrer (1986) calls classifiers in English, such as partitives, and measure
phrases.
6. Summary
We have argued that in the adjectival noun construction and the pseudo-partitive construction, the
relation between N1 and N2 should not be regarded as the predication relation at the level of syntax, but as
a property attribution at a semantic level. These constructions are claimed to be two different instances of
the archi-construction, sharing the syntax of a usual noun phrase and the semantics of property attribution,
with respective idiosyncratic lexical specifications. It is also suggested that they might constitute part of a
family of constructions involving classifiers.
One of the controversial issues on the relation between form and meaning in the approaches under the
constructional view is the question of how much of the meaning of a given linguistic expression can be
attributed to the construction. According to some proponents of Construction Grammar such as Goldberg,
all syntactic structures are claimed to be form-meaning pairings. Contrary to that, Jackendoff suggests
that not all syntactic configurations bear meanings, mentioning that the range of meanings associated
with some constructions, with the N-of-NP construction included, cannot be attributed solely to the
constructions.
If the syntax of the constructions discussed here is proved to be identical with that of a simple
noun-complement construction in relevant respects, the present argument can be support for the latter
view, since these constructions and the ordinary noun-complement construction may not have a significant
semantic property in common.
Notes
1
2
3
4
Cancellation of meaning, however, does not occur, when the classifier refers to the spatial configuration of N2:
(i) *I saw a row of flowers in her garden, but I did not see/notice the row.
Another major difference between the two types is concerned with the boundendess. Jackendoff(1991) introduces
this notion in order to distinguish entities according to whether their boundaries are of concern or not. In the
pseudo-partitive construction, N1 serves the function of specifying the boundedness of N2 in this sense. For example,
in a bunch of flowers, bunch makes the unbounded aggregate flowers bounded. On the other hand, N1 in the
adjectival noun construction serves no such function.
We leave open how the quantificational aspect of the construction is implemented.
Note that this classification is not disjoint. Some classifiers can serve more than one function. Thus, bunch can
express either the amount, as in a bunch of friends, or the form of the groups, as in a bunch of flowers. Since bunch
does not refer to the form of the group of friends in the former case, we can see that the two functions may not be
coincide. However, some classifiers simultaneously serve more than one function. For instance, in the case of a herd
of animals, herd specifies the bounded unit, and at the same time it also specifies the property of the group members,
implying their heaviness (cf. Lehrer (1986)).
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Proceedings of the 59th Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
シンポジアム【英語学部門】
Resultatives and Make-Causatives
Toru Suzuki
1. Introduction
The resultative construction is notorious for its choosiness over the possible range of resultative
adjectives, while at the same time their variation attested in the literature is rather limited. Based on his
extensive corpus study of resultative phrases, Boas (2003) argues that most of the observed cases of
resultatives are more or less lexicalized patterns of verb-adjective combination, and that any attempt to
establish a generalized constraint on the resultative formation is doomed to failure. In this paper, however,
we would like to argue that close examination of the resultative data reveals that there exist certain types
of adjectives that can appear in the construction more readily than other types, and thus it is possible
to establish a general constraint on the resultative construction. We also discuss the contrast between
resultatives and make-causatives, and argue that the two types of constructions cannot be assimilated
to each other, at least, in any direct way. Our conclusion is that the resultative construction has its own
independent semantic architecture that is differently characterized from the make-causative construction.
Section 2 introduces a general constraint on the formation of resultatives. Section 3 examines some
contrast between resultatives and make-causatives, which is attributed to the fact that the two differ in their
aspectual properties. In section 4, the origin of the resultative constraint is explored in connection with
complex predicate formation. Lastly, a brief summary is given in section 5.
2. Resultative Constraint: Transition on a Complementary Opposition Scale
We adopt a major division of the resultative construction based on selectional relation between the verb
and NP in the direct object position (Wechsler 1997, Goldberg and Jackendoff 2004 among others; see
also Washio 1997 for a slightly different view). When the object is lexically selected by the verb, we call
the resultative sentence a “normal resultative”; when it is not lexically selected by the verb, we call the
expression a “fake object resultative.” The fake object resultatives are further divided into two sub-classes:
(1) resultatives with inherently intransitive (= unergative) verbs, where a reflexive pronoun or a reflexive
body-part NP typically appears as the direct object, and (2) resultatives with transitive verbs, where
selection of the direct object does not directly follow from the semantics of verbs; rather the direct object
is considered to be pragmatically or contextually interpreted.
(1) Normal resultatives:
a. He hammered the metal flat.
b. He wiped the table clean.
(2) Fake object resultatives with unergative verbs:
a. She laughed herself sick.
b. He cried his eyes out.
(3) Fake object resultatives with transitive verbs:
a. They drank the teapot dry.
b. The dog barked the baby awake.
In the literature it is also noted that the construction exhibits a variety of idiosyncratic restrictions on
108
Resultatives and Make-Causatives
the choice of resultative phrases. Apparently it does not seem easy to give a general characterization that
renders the following resultative examples unacceptable.
(4)
a. *He hammered the metal beautiful/safe/tubular. (Green 1972)
b. *He wiped the table wet/dirty.
c. *Dean laughed himself happy/sleepy. (Jackendoff 1997: 552)
d. *The bear growled us afraid. (Goldberg 1995: 195)
Although several recent proposals (Goldberg 1995, Napoli 1999, Vanden Wyngaerd 2001, Wechsler 2001
among others) circle around a notion “boundedness,” no general consensus seems to have been reached yet
on how a relevant constraint can be stated in an explicit and explanatory way.
In what follows, we pursue an alternative view of the boundedness in resultatives. Adapting the
notion of “complementary opposition” (Cruse 2000), we propose the following constraint as the core
characterization of the construction:
(5) The Resultative Constraint: in the resultative construction, there must be a transition on a unique
scale/path that is defined by the notion of complementary opposition.
Before going into details of our account, let us first clarify the notion of complementary opposition
in comparison with two other types of opposition. Based on studies of antonyms (Cruse 1976, 2000,
Gnutsmann 1975), we define the following three types of adjectives in opposition: “complementary
opposites,” “descriptive antonyms” and “evaluative antonyms.” Schematic illustrations are given below:1
(6) Three Types of Opposites/Antonyms
a. complementary opposites: {dry/wet, sober/drunk, smooth/rough, straight/bent, dead/alive}
clean
dirty
<+-------------------------------->
(/+/ indicates an endpoint of a scale.)
b. descriptive antonyms: {deep/shallow, long/short, wide/narrow, heavy/light, thick/thin}
deep
shallow
<-----------=======----------->
(/===/ indicates a mid-interval on a scale.)
c. evaluative antonyms: {good/bad, happy/sad, beautiful/ugly, polite/rude, intelligent/stupid}
happy
sad
<------------------ --------------->
The notion of complementary opposition is characterized as “some definite conceptual area is
partitioned by the terms of the opposition into two mutually exclusive compartments, with no possibility of
‘sitting on the fence’”(Cruse 2000: 168). Accordingly, complementary opposites have no mid-interval on
the scale. One basic test to identify them is stated as follows: it is not acceptable to say X is neither A or B
but in-between (where A and B are opposites) (Cruse 2000: 168). Let us take the pair of clean/dirty as an
example; if X is not clean, it is dirty; if X is not dirty, it is clean. Nothing can be neither clean nor dirty,
but rather in-between.
In addition to complementary opposites, we have two other types of antonyms: “descriptive
antonyms” and “evaluative antonyms.” Descriptive antonyms include opposite pairs like easy/difficult
and deep/shallow, which do not pass the complementary test. Instead scales on which they are located
can characteristically have mid-intervals. For example, an exam can be neither easy nor difficult but
in-between; a river can be neither deep nor shallow but in-between. Adjectives of this class include
long/short, fast/slow, wide/narrow, heavy/light, large/small, thick/thin, etc.2 The third type of antonyms,
evaluative antonyms, generally lack conventional or objective measures to gauge their degrees, and
typically concern more or less subjective evaluation of things with positive/negative connotations.
Although the distinction between descriptive antonyms and evaluative antonyms might at first seem
obscure, it should be pointed out that the latter are unable to be located on a single scale. Unlike
complementary opposites and descriptive antonyms, each member of an evaluative antonym pair is
Toru Suzuki
109
independently defined on its own scale. For example, saying that he is not happy nor sad does not
necessarily imply that he is somewhere between “happiness” and “sadness”; instead, he can be angry,
serious, embarrassed, and so on. Thus, each member of an evaluative antonym pair is not related with the
other on a single scale, but rather two independent scales are involved in this type of opposition.
With this background in mind, I propose that formation of a scale defined on the notion of
complementary opposition is prerequisite for felicitous resultative interpretation. First, consider normal
resultatives. Some adjectives typically found in normal resultatives are given below:
(7)
awake, clean, dry, flat, straight, smooth, dead
We can observe that these adjectives are basically qualified to belong to the class of complementary
opposites: they have a lexical opposite with which they can constitute a unique scale of complementary
opposition. Awake can be paired with asleep, clean can be paired with dirty, dry can be paired with wet,
and so on.3 It must be noted that normally only one member of a complementary opposition pair that denotes an
endpoint (= upper limit) of a scale is allowed in resultatives, with the other member covering all the rest
of the scale. Accordingly, the adjectives referring to an endpoint are not gradable. In other words, the scale
composed of the gradable member and the non-gradable member of complementary opposites can be
generally characterized as the non-gradable one denoting zero X-ness (= an endpoint on the scale) where
X-ness is represented by the gradable one. It is beyond the scope of this paper to pursue the question why
complementary opposites generally have this property.
Next, in fake object resultatives, especially those with reflexive pronoun objects, events described
are typically characterized as a dysfunctional state of an entity. A representative, if not exhaustive, list of
adjectives that typically appear in fake object resultatives is shown below:
(8)
sore, sick, hoarse, silent, silly, tired, speechless, senseless, helpless, blind, deaf
As is suggested from the presence of several adjectives with the negative suffix-less, these adjectives can
be understood as describing various states of dysfunction in which an entity, typically human, is unable to
perform its normal activities due to some negative effects on its bodily functions. To quote from Goldberg,
they “imply that the patient argument has ‘gone over the edge,’ beyond the point where normal functioning
is possible” (1995: 196). The same point is also noted as “excessive activity” by Jackendoff (1997).
As for these fake object resultatives, I argue that it is the potential existence of an implicit standard (=
a norm) that supports successful formation of a complementary scale. Although there are generally no
explicit lexical counterparts to realize the notion of normalcy available in these cases, it is reasonable to
speculate that a relevant change of state can be described as a transition from normalcy to dysfunction; we
have a bipolar scale of change with a boundary that separates dysfunction from normalcy. The following is
the schematic representation of a dysfunctional scale for fake object resultatives:
(9) +---------------------------+> [negative value]
norm
dysfunction
Note that scales constructed here are expected to be complementary with no mid-interval, since a
normal state invariably refers to zero X-ness by default whenever an opposition scale for X is established.
For example, when we state that someone’s voice is hoarse, we automatically understand that her voice
is not in a normal state with respect to “hoarseness”; similarly, when we say that her voice is not hoarse,
we know that it is normal with respect to “hoarseness.” Since there is no mid-interval on the scale, we
cannot claim that her voice is neither hoarse nor normal but in-between, when we are talking about her
“hoarseness.”
Our analysis is confirmed by the observation that these resultatives actually allow degree modification
by half, which is understood to indicate the existence of a transition toward a boundary (Vanden Wyngaerd
2001: 64):
110
Resultatives and Make-Causatives
(10) a. Tim danced himself half tired.
b. Max shouted himself half hoarse.
c. Charley laughed himself half silly.
Apart from these dysfunctional adjectives, there are other adjectives that often appear in fake object
resultatives:
(11) a. She cried her handkerchief wet.
b. They drank the pub dry.
It is easy to detect that an implicit norm is also invoked in these resultatives. As for (11a), a normal
state for a handkerchief is expected to be its zero-wetness (= dry), and we may argue that this piece of
information about handkerchief is highly motivated from our daily experience. Likewise, in (11b), we can
reasonably assume that a pub is not normally dry, that is, without any stock of alcohol. These examples
can thus be assimilated to our analysis of complementary opposition of dysfunction. Although a scale
constructed in fake object resultatives is “virtual” in that it lacks direct lexical realization, it nevertheless
enables us to derive complementary opposition interpretation in which a transition starts from a norm to a
critical boundary where normal functioning of an entity is totally lost.
Next, consider the resultatives with PP predicates. They can also be analyzed as involving a
complementary opposition scale since the resultative prepositions are typically confined to those that
describe directional paths involving a boundary that defines two distinct and complementary regions. Thus
the prepositions in resultatives are normally confined to the following two classes: those which refer to
“ingression” into a specified region, and those which refer to “egression” from a specified region. The two
types of transitions are schematically illustrated below:
(12) a. ingression (e.g. to, into)
-----------/===>
( === indicates a region denoted by the nominal complement)
b. egression (e.g. out of, away from, off)
======/----->
In both (12a) and (12b), location of an entity in motion at any time can be localized on either the inside or
the outside of a specified region. In other words, the path of transition can be complementarily divided into
two components, with a spatial boundary serving as an upper limit just in the same way as adjectives in
complementary opposition.4
So far we have characterized the parallelism detected in adjectival resultatives (normal resultatives
and fake object resultatives) and PP resultatives in terms of the notion complementary opposition, which
is embodied in our resultative constraint in (5). The uniqueness of transition is intended to capture its
boundary-crossing nature; by crossing a boundary (or reaching an upper bound) of complementary
opposition, a transition is qualified to have a unique scale/path. Thus the existence of a boundary is
considered to be a direct reflection of constructing a complementary opposition scale.
The scale/path of resultative transition has the following three manifestations:
(13) a. a scale based on lexical complementary opposition in normal resultatives
b. a scale based on normalcy/dysfunction opposition in fake object resultatives
c. a path with a boundary dividing two complementary regions in PP resultatives
All these resultatives share an abstract interpretive schema: a unique transition on a complementary
opposition scale/path. This is the essence of our resultative constraint in (5), and the boundedness effect
can be seen as realization of a properly interpreted scale/path of complementary opposition.
3. Why Are They Different?: Resultatives and Make-Causatives
In this section, we will consider some differences between resultatives and make-causatives. Although
the latter are sometimes regarded as one of the constructional sources of resultatives (Boas 2003), I would
Toru Suzuki
111
like to argue that the two types of constructions should be regarded as independent from each other in
terms of their event/aspectual properties.
A resultative sentence is normally analyzed as denoting a “causative” event in which a patient
undergoes a certain change of state/location as a direct result of an agent’s activity. In his usage-based
analysis, Boas (2003: 271) suggests that the “resultative” usages of several basic verbs such as push,
pull, take, move, make, put in the [NP V NP XP] structure are the multiple sources of deriving other more
creative uses of resultatives.5 Among the basic verbs named above, make is likely to be qualified for the
best prototypical model of other change-of-state resultatives. However, close scrutiny of make-causatives
and other resultatives shows that the latter have a distinct semantic property that the former lack.
First, make-causatives do not impose the so-called boundedness constraint on their result phrases, thus
allowing a wider range of adjectives including those not allowable in “true resultatives.”
(14) a. He made the pizza warm.
b. She made him happy.
c. His talk always makes me sleepy.
Note also that, unlike true resultatives, degree modification by very/a little is permissible in
make-causatives:
(15) Her remark made me {very/a little} {sad/happy}.
(cf. *She sang herself {very/a little} hoarse.)
These examples suggest that in make-causatives there is no general restriction imposed on the choice of
adjectives.
Secondly, it has been pointed out in the literature that adjectival passives are normally excluded from
the resultative context (Carrier & Randall 1992, Goldberg 1995, Embick 2004), whereas they are rather
free to appear in make-causatives.
(16) a. She cooked the toast dry/*burnt/*overdone. (Green 1972: 89)
b. The gardener watered the tulips *flattened/flat. (Carrier & Randall 1992: 212)
c. She kicked the door open/*opened. (Goldberg 1995: 196)
(17) a. The beard makes him quite distinguished.
b. Too much wine makes men drunk.
c. He couldn’t make himself heard above the cheers.
Moreover, in normal resultatives, it is possible to omit result phrases as long as we ignore changes in
their aspectual properties while, in make-causatives, it is impossible to omit them, which indicates that
adjectives in make-causatives constitute some indispensable part of causative interpretation.
(18) a. He hammered the metal (flat).
b. She wiped the table (clean).
c. *She made me.
(cf. She made me happy/sad/sick/sleepy.)
I argue that these differences between the two types of constructions are due to the fact that
make-causatives are not “true resultatives” in that resultatives describe a unique transition on a scale of
complementary opposition, whereas make-causatives only denote an event of atomic change with no
reference to its accompanying process. This characterization can explain the unconstrained choice of
adjectives in make-causatives.
The idea that there are linguistically two types of change in events originates back from the
Vendler/Dowty tradition and for our present purposes it is best captured by Rothstein’s (2004) formulation,
where the distinction between “accomplishments” and “achievements” is defined in terms of whether
changes in question are atomic or not:
112
Resultatives and Make-Causatives
(19) a. Accomplishments . . . are changes which take time. Since a change from ¬φ to φ is
near-instantaneous, a change which takes time must be a change from ψ to φ , where ψ is . . . a
state which entails ¬φ . Accomplishments are not atomic. . . , since they can be broken down into a
series of smaller changes which gradually get you from ψ to φ . (2004: 155)
b. Achievements are minimal changes from ¬φ to φ , which therefore take no time . . . [they are]
“atomic” in the sense that they cannot be broken down into any smaller changes. (2004: 155)
The gist of her characterization is that achievements are atomic in that they only focus on a change itself
whereas accomplishments are not atomic in that they can be decomposed further into an atomic change
and a gradual process that takes a period of time leading to culmination.
Adopting her view, I propose that true resultatives are events of accomplishment with a non-atomic
change that necessarily involves a certain amount of changing process; on the other hand, make-causatives
are events of achievement with an atomic change with no further specification on how it culminates. It is
rather easy to recognize this property of accomplishments in resultatives as has been widely noted in the
literature. However, in this connection, aspectual event properties of make-causatives have been paid little
attention so far.
A notable exception is Vanden Wyngaerd (2001), adopting Barbiers’ (1995) insight on interpretation
of adjectives in negative context, who offers an interesting view of the contrast between resultatives and
make-causatives. According to his observation, there are two different ways of interpreting a transition
expressed by adjectives under negation: “value transition” and “property transition.” Examples and their
schematic representations are given below:
(20) a. The bottle is not empty.
b. Theo is not happy.
(value transition: 0 -------- α --------1)
(property transition: ∼ A → A)
In (20a), the lower and upper bounds of a scale are represented by 0 and 1, respectively. The sentence in
(20a) states that the degree of emptiness of the bottle could have every value between 0 and 1, except for
one, which is 0 (i.e. fully empty). That is, negation of this adjective yields the complement set of values:
all values except 0. On the other hand, in (20b), negation operates on all the values on the scale, yielding
“an infinite set of properties that share the characteristic of being distinct from the property being negated”
(Vanden Wyngaerd 2001: 73). Thus, in (20b), Theo could have been in any kind of state (of mind), but
happy. Vanden Wyngaerd notes that value transition can be found in resultatives while property transition
can be found only in make-causatives.
Note that the distinction between value transition and property transition largely overlaps the difference
between complementary opposites and descriptive/evaluative antonyms discussed before. Although
this dichotomy of value transition and property transition has certain intuitive appeal, characterizing
resultatives by the category of value transition seems to be too generous since it would allow descriptive
antonyms to appear in resultatives, which is not generally true. Furthermore, descriptive antonyms
are normally unbounded (= gradable). It therefore does not suffice to answer the question as to why
resultatives involve a unique transition crossing a boundary while make-causatives do not.
Instead, from a slightly different perspective, we propose that the difference is due to the fact that make
is a causative light verb that lacks manner specification, in contrast to verbs in resultatives that are more or
less lexically specific on their manner in which an agent performs its activity toward a patient. In this view,
make projects an abstract empty causative frame that must be filled with a specific result. Hence events
described in make-causatives only consist of an atomic change in the sense of Rothstein (2004) without
reference to a process of culmination into a result.6
Thus, while at a certain level of abstraction the two types of constructions might share the so-called
“causative” interpretation, make-causatives are not, in our terms, “true resultatives” because they do not
conform to the resultative constraint that requires a unique transition on a scale/path. This in turn enables
them to tolerate a wider variety of adjectives including those of non-complementary nature.
In support of this line of argument, it may be pointed out that not all resultatives have causative
interpretation (Rothstein 2004). The following examples exhibit typical resultative properties except that
Toru Suzuki
113
events described are not necessarily causative:
(21) a. Reluctant to let him go, the audience clapped the singer off the stage.
b. At the opening of the new Parliament building, the crowd cheered the huge gates open.
c. Every night the neighbor’s dog barks me asleep. (a-c, Rothstein 2004: 131)
d. He opened his mouth to reply and another gust of wind struck them, this one so hard it made them
both wince their eyes shut. (Stephen King, Insomnia; italics added)
In these sentences, it is possible to have an activity event and a result event temporally unfold in a parallel
way without causation implied between the two subevents. Thus, in (21c), for example, the dog’s barking
does not necessarily cause my getting asleep; on the contrary, as pointed out by Rothstein, it is quite
possible that the two events occur simultaneously with no causative implication. This suggests that it might
be a general property of the English grammar that the two subevents in the structure [NP V [NP XP]] can
be interpreted in two alternative ways: as a causative event or a contemporaneous event (Rothstein 2004;
see also Wunderlich 1997, Rappaport Hovav and Levin 2001).
To summarize, it does not seem plausible to relate resultatives with make-causatives on a simple
analogy, since the two types of constructions exhibit quite different properties with respect to the choice
of their secondary predicates. The difference is attributable to immunity of make-causatives from the
resultative constraint. We consider that lack of manner specification in the light verb make is reflected
in its event property that consequently leads to underspecification of the culmination process. These
considerations in turn give support to our view of resultatives as a relatively independent construction with
its own semantic architecture.
4. The Origin of Boundary and Complex Predicate Formation
Having established the relative independence of the resultative construction from the causative
construction, we may now ask a more substantial question concerning the origin of the complementary
opposition, which has been central to our analysis. The question can be stated as follows: why does the
resultative transition necessarily involve a boundary?
Although my answer to the question remains speculative at this stage, I would like to suggest that
formation of the complementary opposition scale is conceptually required along the process of complex
predicate formation based on the structure [NP V [SCNP AP/PP]]. 7
We assume that the complex predicate formation is an interfacial operation that has dual aspects: on its
syntactic level, the process is structure-dependent in that it presupposes for locality reasons the structure of
a small clause embedded in the complement position of a matrix verb; on its semantic level, it necessarily
involves some version of “coercion” operation (Pustejovsky 1995) that assimilates adjectives that are by
definition “atemporal” into a temporal axis headed by a verb that is inherently eventive.
Consider how the semantic coercion proceeds: complex predicate formation forces a secondary
predicate to be located somewhere on a temporal event axis which is projected from the main predicate;
being atemporal in its nature, however, an adjective as it stands does not feed into an eventive/temporal
interpretation; in order to get properly located on a temporal axis, then, it can function as a boundary in an
event axis which in turn realizes as a scale/path of complementary opposition; normally, the boundary is
associated with the culmination point of an activity denoted by the verb.
If we adopt this line of argument, it is predicted that the secondary predicates in resultatives must be
limited to those that are able to have a bounded reading either intrinsically or contextually. In short, we
would like to suggest that the requirement of a boundary on the resultative transition ultimately follow as a
conceptual necessity in the process of complex predicate formation operative at the interface of syntax and
semantics.8
A question immediately arises as to why adjectives in make-causatives can be left unbounded. We
suggest that this can be derived from the lack of manner specification in make. If a verb has its specific
manner component, then it is reflected in an activity process that has to be associated with an adjective
through coercion; the adjective is coerced to have a bounded reading despite its atemporal nature. On
the other hand, if a verb has no specific manner component, then there is no activity process along
which an adjective has to be interpreted, thus no restriction on the types of adjectives. This holds true of
114
Resultatives and Make-Causatives
make-causatives, where events are interpreted as a minimal change with no culminating process, and the
adjectives only denote a state accompanying the change with no bounded implication.
Another related question is how PP resultatives are integrated into this system. There is at least one
indication that adjectives and PPs behave differently in the embedded small clause structure: unlike
resultative adjectives, PPs are sometimes left unbounded in this structure.
(22) a. John waltzed Matilda around and around the room for hours. (Harley and Folli 2004: 8)
b. Jeff washed soap out of his eyes for ten minutes. (Vanden Wyngaerd 2001: 82)
These examples seem to suggest that the bounded interpretation in resultatives is conceptually motivated
and thus is sensitive to the conceptual distinction of category between adjectives and prepositions. In other
words, atemporal nature of adjectives requires a bounded interpretation when combined with a process of
activity, whereas elasticity of prepositions in terms of temporal interpretation admit certain ambiguity over
(un)boundedness. If this line of speculation is correct, we might have to weaken the resultative constraint
in (5) so as to make some room for these unbounded PP resultatives. We leave this issue for future
research.
5. Concluding Remarks
We have argued that the choice of result phrases and the bounded constraint on resultatives can be
captured by the resultative constraint that requires formation of a unique transition on a complementary
opposition scale/path. This constraint may be regarded as an abstract interpretive schema associated with
the construction. Our examination of resultatives and make-causatives has revealed that the two types of
constructions should not simply be assimilated to each other because they can be best analyzed as having
different aspectual properties concerning the nature of change. It has been discussed that the contrast is
ultimately attributable to the status of make as a light verb that lacks manner specification. Exploring the
origin of the boundedness in resultatives, we have offered a speculative view that the process of complex
predicate formation in the embedded small clause structure forces adjectives to have a bounded reading as
a conceptual necessity. We thus suggest that the boundedness constraint in resultatives can be reduced to a
conceptual requirement due to conspiracy between syntax and semantics.
Notes
1
2
3
4
5
The term “complementary opposites” is adopted from Cruse (2000), while the terms “descriptive antonyms” and
“evaluative antonyms” are taken from Gnutzmann (1975), who characterizes the former as “express[ing] ‘something
‘objectively’ descriptive,” in contrast to the latter as “impl[ing] a ‘subjective’ judgement”(Gnutzmann 1975: 431).
Although I have deliberately adapted these terms and notions, I omit the details for lack of space. See Suzuki 2004
for details.
Descriptive antonyms generally describe “degrees of some objective, unidimensional physical property,
prototypically one which can be measured in conventional units such as centimeters, kilograms, miles per hour,
etc.”(Cruse 2000: 170), reflecting a fact that, despite their lack of complementarity, they still constitute a single
continuous scale (with a mid-interval). An interesting property of this class of adjectives is that many of them are
used adverbially without -ly suffixation, that is, they can be used as “flat adverbs”.
There actually are some dubious adjectives in normal resultatives that do not seem to fit complementary opposition,
but I would like to suggest that those adjectives might be regarded as not true resultatives but adverbials (“flat
adverbs”) in their own right. See Suzuki 2004 for details; see also Washio 1997 and Rapoport 1999 for analyses to
view certain result phrases as optional adverbials.
An apparent difference is that adjectival resultatives normally describe a change of state while PP resultatives
typically describe a change of location. There are, however, many cases where adjectives express a change in
location/posture (e.g. loose, free)) whereas PPs express a change of state (e.g. to sleep, to death). Hence, it might be
better to assume our conception of change on a scale/path at a more abstract level (cf. Verspoor 1997). For ease of
exposition, we hereafter adopt the notation of “scale/path.”
Although in his discussion Boas mainly concerns the licensing of the unconventionalized resultatives (e.g. Frank
sneezed the tissue off the table), his view of analogical is intended to cover normal (“conventionalized” in his terms)
resultatives as well.
Toru Suzuki
6
115
A similar point can be made about another basic verb put, which is also designated as one of the models for caused
motion resultatives.
(i) Howard put the toy {in/into} the box.
As shown in (i), put tolerates either directional (= dynamic) PP or non-directional (= static) PP with
“pseudo-resultative” interpretation. It might seem counterintuitive since we have seen that PPs in resultatives are
normally restricted to directional ones with “ingression” or “egression” interpretation. However, if we adopt the
light verb analysis of put denoting an atomic change of location (= an achievement) due to the lack of manner
specification, put can be exempted from the resultative constraint in parallel with make. This view is also supported
by the obligatoriness of PP complements.
(ii) *Howard put the toy.
For several previous proposals that embrace some forms of complex predicate formation, see Rapport Hovav and
Levin 2001, Wechsler 2001, Verspoor 1997 among others.
8 Another interpretive option for adjectives might be conceived in complex predicate formation. That is depictive
predicates, which are generally interpreted extensively over an entire course of events. If this is correct, then we
have two alternative interpretations available for adjectives in complex predicate formation: a bounded reading in
resultatives and an extensive reading in depictives.
7
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シンポジアム【英語学部門】
Aspectual Structure and Floating Numeral Quantifier
in Japanese
Hidenari KATSURAGAWA
The main purpose of this paper is to investigate the syntactic structure of a sentence including the affix teiru, which
corresponds to the English be -ing in the progressive meaning or have –en in the perfect meaning. In doing so, it is
useful to consider the behavior of floating numeral quantifiers in Japanese. We limit our focus exclusively on floating
quantifiers having the word order of “subject + object + subject-oriented numeral quantifier (SNQ) + verb” (henceforth,
we call this word order the “S-O-SNQ-V” form) and propose some requirements for the licensing of NQs in the
S-O-SNQ-V form.
1. Previous Analyses of Floating Numeral Quantifiers and their Problems
Floating numeral quantifiers in Japanese are long-standing issues of syntax, semantics, and pragmatics.1 Regarding
the syntactic analysis, Miyagawa (1989) regards the floating numeral quantifier as a secondary predicate and proposes a
condition in (1) to account for examples in (2):
(1) Mutual C-Command Requirement: For a predicate to predicate of a NP, the NP or its trace and the
predicate or its trace must c-command each other. (Miyagawa 1989: 30)
(2) a. gakusei-ga san-nin [VP
hon-o katta]2
student-Nom
3-Cl
book-Acc
bought
‘Three students bought a book.’
b. ?gakusei-ga kyoo san-nin [VP hon-o katta]
student-Nom today 3-Cl
book-Acc bought
‘Three students bought a book today.’
c. *gakusei-ga [VP hon-o san-nin
katta]
student-Nom
book-Acc
3-Cl
bought
‘Three students bought a book.’
(Ishii 1998: 151)
In the light of (1) in (2a) and (2b), both the subject gakusei-ga (‘student-Nom’) and the NQ san-nin (‘3-Cl’) occur
outside the VP, making it possible to c-command each other, whether the time adverbial kyoo (‘today’) intervenes
between them or not. The sentence (2c) with the S-O-SNQ-V form, however, violates the condition (1) because the
subject c-commands the NQ in much the same way as (2a) and (2b). However, the NQ in (2c) cannot c-command the
subject since the subject occurs outside the VP, while this NQ occurs inside the VP.
Miyagawa’s syntactic condition as in (1) appears to account for the contrast in (2), although subsequent works
point out that there are some problems in his proposal.3 Space prevents us from going into details here and thus,
we will overview only Ishii (1998) and Katagiri (1992) in turn. First, Ishii (1998) argues that the sentence having
the S-O-SNQ-V form as in (2c) is not necessarily unacceptable, but clearly appropriate when the NQ receives a
distributive reading, in which “more than a single event is involved.” Ishii (1998) uses temporal adverbials such as kono
ni-syuu-kan-de (‘in these two weeks’), or totuzen (‘suddenly’), where the former indicates an occurrence of multiple
events (distributive reading) and the latter an occurrence of a single event (non-distributive reading). All sentences in
(3), for instance, have the S-O-SNQ-V form, though they differ in the kind of adverbs associated with.
(3) a. ??syuuzin-ga
keimusyo-o
prisoner-Nom
prison-Acc
‘Five prisoners escaped from prison.’
go-nin
5-Cl
dassoo-sita
escaped
117
Hidenari Katsuragawa
b. ?*totsuzen
syuuzin-ga
keimusyo-o
go-nin
dassoo-sita
suddenly
prisoner-Nom
prison-Acc
5-Cl
escaped
‘Suddenly, five prisoners escaped from prison.’
c.
kono
ni-syuu-kan-de
syuuzin-ga
keimusyo-o
go-nin
dassoo-sita
these
2-weeks-during
prisoner-Nom prison-Acc
5-Cl
escaped
‘During the last two weeks, five prisoners (in total) have escaped from prison.’
(Ishii 1998: 162)
Clearly, the sentence (3b) with the adverb totuzen is less acceptable than the sentence (3a) because this adverb forces
the non-distributive (= single event) reading, while the sentence (3c) with the adverb kono ni-syuu-kan-de is more
acceptable than the sentence (3a) because this adverb reinforces the distributive (= multiple events) reading.
Following these observations, Ishii (1998) makes a distinction between NQs in Japanese: a VP quantifier and a NP
quantifier, in which the former must have the distributive reading, while the latter can have both the distributive and
non-distributive readings. He further claims that all apparent counterexamples to Miyagawa’s analysis, which have the
S-O-SNQ-V form, can be acceptable when they receive the distributive reading. It follows that NQs in sentences of the
S-O-SNQ-V are always regarded as the VP quantifier and that these NQs should receive the distributive reading.
Next, consider examples in (4), in which the sentence (4a) is ungrammatical, while the sentence (4b) with the
affix teiru is grammatical. Katagiri (1992) observes that the grammaticality of these sentences depends on whether
a sentence indicates a result or state and that when a sentence is stativized by adding teiru to a verb, the NQ can be
correctly interpreted.
(4) a. *kodomo-ga
geragera-to
huta-ri
child-Nom
with great guffaws 2-Cl
‘Two children laughed with great guffaws.’
b. kodomo-ga
geragera-to
huta-ri
child-Nom
with great guffaws 2-Cl
‘Two children was laughing with great guffaws.’
waratta
laughed
warat-tei-ta
laugh-Prog-Past
(Katagiri 1992)
The two analyses seem to work well. They, however, fail to account for examples in the following, where all sentences
have the S-O-SNQ-V form with difference in the presence or absence of the affix teiru.
(5) a. *gakusei-ga
sudeni
LGB-o
san-nin
yonda
student-Nom
already
LGB-Acc
3-Cl
read (Past)
‘Three students read LGB already.’
b. gakusei-ga
sudeni
LGB-o
san-nin
yon-dei-ru
student-Nom
already
LGB-o
3-Cl
read-Perf-Pres
‘Three student have already read LGB’
(6) a. *asagao-ga
hana-o
san-bon
sakaseta4
morning glory-Nom blossom-Acc
3-Cl
bloomed
‘Three morning glories bloomed one after another.’
b. *asagao-ga
hana-o
san-bon
sakase-tei-r
morning glory-Nom blossom-Acc
3-Cl
bloom-Prog-Pres
‘Three morning glories are blooming with a blossom one after another’
(7) a. *yakushima-dewa
yakusugi-ga
ni-juu-meitoru-o san-bon
koeta
yaku island-Loc
yaku-cedar-Nom
20 meters-Acc
3-Cl
was over
‘At Yaku island, three Yaku-cedars were over 20 meters high.’
b. *yakushima-dewa yakusugi-ga
ni-juu-meitoru-o san-bon
koe-tei-ru
yaku island-Loc
yaku-cedar-Nom
20 meters-Acc
3-Cl
be over-Pres
‘At Yaku island, three yaku-cedars are over 20 meters high.’
First, while the grammaticality of (5b) is expected in Katagiri’s claim, the ungrammaticality of (6b) and (7b) is not.
That is, adding the affix teiru to a verb in (6b) or (7b) does not improve the grammaticality of these sentences. Second,
(5b) indicates a failure of Ishii’s proposal in that even a sentence of the S-O-SNQ-V form, in which the NQ is regarded
as the VP quantifier, can receive the non-distributive reading. Furthermore, Ishii does not provide any reason for his
claim that the VP quantifier should receive the distributive reading.
118
Aspectual Structure and Floating Numeral Quantifier in Japanese
2. teiru
Before considering their problems, it is useful to overview the syntax and semantics of the affix teiru. Teramura
(1984) points out that it is generally assumed that teiru has two meanings: “a continuation of an action (CA)” as in (8)
and “a continuation of a result (CR)” as in (9).
(8) Continuation of an Action (CA)
a. akanbou-ga
nai-tei-ru
baby-Nom
cry-Prog-Pres
‘The baby is crying.’
b. mura-no
hito-ga
moti-o
village-Loc
people-Nom
rice cake-o
‘some people in a village are making rice cake.’
c. yuki-ga
hut-tei-ru
snow-Nom
fall-Prog-Pres
‘It is snowing.’
tui-tei-ru
make-Prog-Pres
(Teramura 1984)
(9) Continuation of a Result (CR)
a. kingyo-ga
sin-dei-ru
goldfish-Nom
die-Perf-Pres
‘A goldfish has died.’
b. tukuba-deha
mayudama-gyouji-ga
hajimat-tei-ru
tukuba-Loc
mayudama-festival-Nom
begin-Pref-Pres
‘At Tukuba, the festival of mayudama
has begun.’
c. asoko-ni
hyaku-en-dama-ga oti-tei-ru
there-Loc
100-yen-coin-Nom fall-Perf-Pres
‘There is a 100 yen coin on the road.’
(ibid.)
On the basis of this distinction, Washio & Mihara (1997) (henceforth W&M) propose that when teiru receives the
CA reading, the sentence with teiru has a raising construction as in (10a). On the other hand, a sentence including
teiru with the CR reading has the control construction as in (10b).5 W&M provide some supporting arguments for their
claim, though it seems unconvincing at least to me and I will adopt the opposite constructions for teiru shown in Table
1.6 The crucial point to be addressed is that when teiru receives the CA reading, the sentence with teiru can have a
different structure depending on the status of the subject, namely, self-controllable or non-self-controllable.
Washio & Mihara
This Paper
The continuation of an
action (CA)
Raising
self-controllable subject � Control
non-self-controllable subject � Raising
The continuation of a
result (CR)
Control
Raising
(W&M 1997)
Hidenari Katsuragawa
119
3. Data and Generalization
Given Ishii’s distinction between the distributive and non-distributive readings of NQs and Teramura’s distinction
between the CA and CR readings of teiru, we can subdivide the examples in (5) - (7), repeated in (11) - (13), into Table
2.7,8
(11)
(12)
(13)
a. gakusei-ga
student-Nom
b. gakusei-ga
c. gakusei-ga
student-Nom
d. gakusei-ga
a. asagao-ga
b. asagao-ga
c. asagao-ga
d. asagao-ga
a. yakusugi-ga
b. yakusugi-ga
c. yakusugi-ga
d. yakusugi-ga
san-nin
3-Cl
hon-o
san-nin
3-Cl
hon-o
san-bon
hana-o
san-bon
hana-o
san-bon
20m-o
san-bon
20m-o
hon-o
book-Acc
san-nin
hon-o
book-Acc
san-nin
hana-o
san-bon
hana-o
san-bon
20m-o
san-bon
20m-o
san-bon
yon-da
read (Past)
yon-da
yon-dei-ru
read-teiru-Pres9
yon-dei-ru
sakase-ta
sakase-ta
sakase-tei-ru
sakase-tei-ru
koe-ta
koe-ta
koe-tei-ru
koe-tei-ru
In Table 2, the non-distributive and distributive readings are defined respectively, as follows: given that an event
occurs at a certain time (event time) and at a certain place (event place) and that numeral quantifiers designate how
many events occur, then a sentence receives the non-distributive reading if, for all events that the NQ indicates, the
event time and event place in one event are identical with those in the others, and a sentence receives a distributive
reading in any other cases.
120
Aspectual Structure and Floating Numeral Quantifier in Japanese
Following these observations, we will provide four generalizations. First, in (13), the NQ san-bon must be adjacent
to the antecedent NP yakusugi-ga whether it receives the CR or CA reading as in (i) – (iv) or whether they have ta or
teiru as in (b) and (d). Thus the verb such as koeru, which Kindaichi calls daiyonsyu (type four) verbs , never allows
NQs to float across the object NP. Because of the specific properties of daiyonsyu verb, we put this class of verbs aside,
making generalizations excluding the sentences in (13). The second generalization, concerning distributive readings
in (i) and (ii), is that SNQs can float across object NPs whether a subject is self-controllable or non-self-controllable,
whether teiru is attached to a verb or not, and whether teiru receives the CA or CR reading. The third generalization,
concerning the non-distributive and the CR readings in (iii), is that SNQs cannot float across object NPs. The last
generalization with the non-distributive and the CA readings in (iv) is that the self-controllability of a subject, the aspect
of a verb and the interpretation of teiru all affect the grammaticality of a sentence of the S-O-SNQ-V.
(14)Generalizations
(I) The daiyonsyu verbs never allow SNQs to float across object NPs.
(II) Sentences with SNQs floating across object NPs always force the distributive reading, and the
self-controllability of a subject, the aspect of a verb, or the interpretation of teiru does not improve
the acceptability of a sentence of the S-O-SNQ-V.
(III) Sentences with SNQs floating across Object NPs never allow the non-distributive and the CR
readings, and the self-controllability of a subject, the aspect of a verb, or the interpretation of teiru
does not improve the grammaticality of a sentence of the S-O-SNQ-V.
(IV) For the non-distributive and the CA readings, the self-controllability of a subject, the aspect of a
verb, and the interpretation of teiru improve the grammaticality of sentences of the S-O-SNQ-V.
Note that Katagiri (1992) can expect the generalization (II), but not the generalization (III), in which adding teiru
to a verb does not improve the grammaticality of a sentence. On the other hand, the generalizations (II) and (III) are
expected within Ishii (1998). That is, his account guarantees that a sentence of the S-O-SNQ-V can be grammatical
when it receives the distributive reading and also that the grammaticality of a sentence of the S-O-SNQ-V cannot
be improved when the sentence receives the non-distributive reading. Ishii (1998), however, cannot expect the
generalization (IV) because he does not take the interpretation of teiru into account. In the following, we will explain
the generalization (IV) in chapter 5 after we make proposals in chapter 4.
4. Proposal
In this chapter, we will provide our proposals to solve the problems and to explain the generalization (IV). On the
basis of Borer (1994), Travis (2000) or Ritter and Rosen (2000), in which they all assume an aspectual phrase above the
VP, we also assume the aspectual structure (AspP) above the VP as in (15).
(15) Syntactic Structure of Japanese
We further make some assumptions:
(16)LF Movement and Multiple Specs
a. NQs optionally move to a specifier of AspP (Spec-AspP) at LF.
b. Objects obligatorily move to Spec-AspP at LF.
c. Aspectual head allows multiple specs.
Hidenari Katsuragawa
121
In the assumption (16a), the optional movement of NQs gives rise to the distinction between the distributive and
non-distributive readings. The movement of the object in (16b) is independently motivated in Borer (1994), Travis
(2000) or Ritter and Rosen (2000), though our assumption diverge from theirs in that the movement of the object is
regarded as obligatory at LF.10 Furthermore, the assumption in (16c) guarantees both the NQ and the object move to
Spec-AspP at LF.
Regarding the structure of a sentence with teiru, contrary to W&M, we postulate as below:
(17)The Structure of teiru
a. When teiru receives the CR reading, it has a raising structure.
b. When teiru receives the CA reading and the subject is non-self-controllable, it has a raising
structure.11
c. When teiru receives CA reading and the subject is self-controllable, it has a control structure.
As we noted above, a structure of a sentence with teiru differs depending on what kind of interpretation teiru receives
and what kind of subject the sentence has.
While we have proposed 5in (16) that LF movement of NQs is optional, this optionality affects what kind of
interpretation teiru receives, namely, the distributive or non-distributive reading:12
(18)The Interpretation of NQs
a. VP-external NQs receive the distributive reading.
b. VP-internal NQs receive the non-distributive reading.
The last proposal is concerned with license conditions on NQs:
(19)
License Conditions on NQ in the S-O-SNQ-V
a. NP1 c-commands NQ2 (1 = 2)
b. Host NP
NPs bearing a certain phonetic form (NPovert) and PRO can license NQs, while NP-trace cannot.
NPovert
NQ
PRO
NQ
NP-trace
NQ
122
Aspectual Structure and Floating Numeral Quantifier in Japanese
c. Given (i) a certain chain CHx of an arbitrary NP which is not coindexed with NP1 or NQ2, the
relations in (ii) must not hold simultaneously:
(i) CHx = {A1…Ai…An} (n ≧ 1 & Ai c-commands Ai+1)
(ii) NP1 c-commands A1 & An c-commands NQ2
NP1 … A1…Ai…An…NQ
According to these assumptions, possible occurrence patterns of NQs in the S-O-SNQ-V and their grammaticality
can be illustrated as below:
(20)
a. * NP1…NP3…NQ2
b. * NP1…NP3…t3…NQ2
c. * NP1…NP3…t1…t3…NQ2
d.
NP1…NP3…NQ2…t3
e.
NP1…NQ2…NP3…t3
f.
NP1…NP3…PRO…t3…NQ2
Note that when all the members of a chain of NP3 intervene between NP1 and NQ2, then NP1 cannot license NQ2
in (20b) or (20c), even when the chain consists of a single member as in (20a). On the other hand, when nothing
intervenes between NP1 and NQ2, then it is completely grammatical in (20e) and moreover, some, but not all, members
of a chain can be located between NP1 and NQ2, as in (20d). Furthermore, (20f) is grammatical because PRO can
license NQ2 as defined in (19c) even when all the members of the chain intervene between NP1 and NQ2. In the next
chapter, we will see how these assumptions interact to account for the examples in Table 2.
5. Analysis
In the following, we will show how our proposals can account for the generalization (IV). Because the limitation
of space keeps us from explaining all the sentences, we focus mainly on some typical sentences of (11) and (12).
First, take a brief look at how this mechanism makes a distinction between (11a) and (11b), and then we consider the
generalization (IV).
Note that according to the assumption in (16) that the movement of NQs is optional, we must consider two patterns
in each example, namely, one is when NQs move to Spec-AspP at LF (VP external) and the other is when NQs stay in
situ (VP internal). As is clear in (21), we assume that sentences without teiru do not include PRO.
(21)gakusei-ga san-nin hon-o yon-da (=(11a))
(a)
VP external
(b) VP internal
Hidenari Katsuragawa
123
In the structure (21a), the NQ san-nin moves to Spec-AspP at LF optionally and hon-o also moves to Spec-AspP
at LF obligatorily. In this structure, there is nothing intervening between the host NP gakusei-ga and the NQ san-nin
just as (20e) and thus it does not violate the license condition (19c). Since this NQ moves out of the VP (VP external),
it receives the distributional reading, as assumed in (18a). In the structure (21b), where the NQ stays in situ and
only the object hon-o moves out of the VP, the head of the object-chain intervenes between the host NP and the NQ,
though its trace t3 does not intervene. Accordingly, NP1 c-commands A1, but An does not c-command NQ2 and thus it
does not violate (19c). In this case, since the NQ stays in situ (VP internal), the assumption in (18b) guarantees it the
non-distributive reading.
Next, turn to the case in (11b), where the distributive reading can be obtained, but the non-distributive reading cannot.
(22)gakusei-ga hon-o san-nin yon-da (=(11b))
(a) VP external
(b) *VP internal
When both the NQ and the object move to Spec-AspP as in (22a), nothing intervenes between the host NP and
NQ, meeting the license condition (19c). In this case, the NQ in the VP external position receives the distributive
reading. On the other hand, the structure in (22b) is ruled out because the NQ stays in situ and gakusei-ga c-commands
hon-o and the trace of hon-o, t3 c-commands san-nin. That is, all the members of the object-chain intervene between
the host NP and the NQ, violating the license condition (19c). Accordingly, the sentence in (11b) cannot receive the
non-distributive reading.
With all these things in mind, turn to the generalization (IV), which claims that the grammaticality of a sentence,
which has the S-O-SNQ-V form with the non-distributive and CA readings, is affected by the self-controllability of a
subject, the aspect of a verb, and also the interpretation of teiru. Note that the generalization (IV) is problematic for
Katagiri in that adding teiru to a verb does not improve the grammaticality of a sentence as in (11d) and (12d) with the
non-distributive and CR readings and it is also problematic for Ishii in that VP quantifiers can have the non-distributive
reading shown in (11d) with the CA reading. Consider first the contrast between (11d) and (12d), which, as we will
suggest, concerns self-controllable or non-self-controllable and then the contrast between (11b) and (11d), concerning
the presence or absence of teiru.
(23)gakusei-ga hon-o san-nin yon-dei-ru (=(11d)) (= CA reading)
(a) VP external
(b) VP internal
124
Aspectual Structure and Floating Numeral Quantifier in Japanese
According to (17c), the structures in (23), which include self-controllable subjects and receive the CA readings, are
supposed to have the control structure. In (23a), since the NQ and the object move out of the VP, nothing intervenes
between the host NP and the NQ and thus the NQ can be licensed appropriately. Semantically, the NQ receives the
distributive reading because it moves out of the VP. The NQ in (23b) also can be licensed, even when the NQ stays in
situ. Because this structure includes PRO, which can be the host NP, not all the members of the object-chain intervene
between the host NP (=PRO) and the NQ. Semantically, the NQ in the VP internal position receives the non-distributive
reading, which differ from the expectation within Ishii in that even the sentence with a floating numeral quantifier can
receive the non-distributive reading.
Next, turn to the CA reading of (12d), considering two patterns.
(24)asagao-ga hana-o san-bon sakase-tei-ru (=(12d))
(a) Distributive & CA
(b) *Non-Distributive & CA
Note that sentence in (12d) has the non-self-controllable subject and thus has the structure in (17b’). When the NQ
and the object move out of the VP as in (24a), it can be provided the same explanation as that of (23a) except for the
existence of PRO: nothing intervenes between the host NP and the NQ, making it possible for the NQ in the VP external
position to receive the distributive reading. On the other hand, when the NQ stays in situ and only the object moves
out of the VP as in (24b), the NQ cannot be licensed. In (24b), the subject asagao-ga is regarded as the host NP since
PRO is not available. Then all the members of the object-chain intervene between the host NP asagao-ga and the NQ.
Therefore, the sentence in (24b) violates the license condition in (19c). Accordingly, the generalization (IV) can be
accounted for by the contrast between the self-controllable and non-self-controllable subjects.
Now, turn to the effect of the contrast between aspects of verbs in the generalization (IV). Consider the sentences
in (22b) and (23b). The difference between (22b) and (23b) is whether teiru is attached to a verb or not. When teiru is
not attached to the verb as in (22b), the subject gakusei-ga is regarded as the host NP since PRO is not available. On the
other hand, when teiru is attached to the verb as in (23b), PRO is available and regarded as the host NP. In the former
case, since the host NP is the subject and the NQ stays in situ, all the members of the object-chain intervene between the
host NP and the NQ. In this case, the NQ cannot be licensed due to the violation of (19c). In the latter case, the host NP
is PRO and even when NQ stays in situ, the NQ can be licensed because only the trace of hon-o intervenes between the
host NP (=PRO) and the NQ. It can be concluded that the availability of PRO affects the interpretation of the NQ and
also that the generalization (IV) can be accounted for by the contrast between aspects of verbs due to the presence or
absence of teiru.
5. Conclusion
In this paper, we proposed the syntactic structure of a sentence including the affix teiru. We further proposed LF
movement of the NQ, which responsible for the interpretation of a sentence with the floating numeral quantifiers. That
is, the VP external NQ receives the distributive reading and the VP internal NQ receives the non-distributive reading.
In addition, we presented the license conditions on the NQ in the S-O-SNQ-V. If these are on the right track, it follows
that teiru can improve the grammaticality of a sentence of the S-O-SNQ-V only in the following cases: (i) teiru receives
the CA reading, (ii) the subject of the sentence is self-controllable, and (iii) the NQ receives the non-distributive reading.
The examples we have dealt with are restricted only to floating numeral quantifiers of the S-O-SNQ-V, in which NQ is
interpreted as being connected with the subject. A full explanation of floating numeral quantifiers must include other
examples such as object-oriented NQs and so on. Thus further work on a wider range of data will be needed.
Hidenari Katsuragawa
125
Notes
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
The limitation of space prevents us from discussing the details.
Nom=Nominative, Acc=Accusative, Cl=Classifier, Prog=Progressive, Perf=Perfective, Pres=Present.
See Katagiri (1992), Mihara (1998), and Takami (1998).
Note that this NQ is intended to be coindexed with the subject asagao-ga, but not hana-o.
Strictly speaking, W&M propose these structures following Kindaichi’s (1950) four way classification, though Kindaichi’s
keizoku-dousi corresponds to Teramura’s CA as in (8) and syunkan-dousi to CR as in (9).
W&M’s supporting evidence consist of two argument: one is concerning an interpretation of idiom based on a parallelism
between English and Japanese idioms and the other is concerning the scope of a negation (dake … nai). We have found
counter examples for the first argument and disagree with their judgments about the second argument. We cannot present
details with the limitation of space.
We substitute sentences in (11) for those in (5) to remove the influence of the noun LGB.
We do not provide a translation to each example because each example has more than one interpretation, as we show in
Table 2.
The affix teiru is glossed just as teiru because, as we have seen, teiru has two meanings and the difference of its meaning is
crucial to determine the structure of a sentence with teiru.
They attribute the object movement to the reason of the Case. That is, when the object is specific, it must move to check the
accusative case. Furthermore, only the object in Spec-AspP measures out the event in the sense of Tenny (1994).
For the assumptions (17b) and (17c), see Postal (1974). It is observed in Postal (1974) that verbs taking the control sturcture
are subject to the selectional restriction, while verbs taking the raising structure are not.
The assumptions in (18) are different from Ishii (1998) and Abe (1998).
References
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Language 2: 365-388.
Borer, Hagit. 1994. The Projection of Arguments, University of Massachusetts Occasional Papers in Linguistics 17: 19-47.
Ishii, Yasuo. 1998. Floating Quantifiers in Japanese: NP Quantifiers, VP Quantifiers, or Both? Researching and Verifying an
Advanced Theory of Human Language 2: 149-171.
Katagiri, Masumi. 1992. Syohyou-Ronbun (Review Article of Miyagawa: Structure and Case Marking in Japanese). Gengo
Kenkyu 101: 146-158.
Kindaichi, Haruhiko. 1950. Kokugodoushi no Ichibunrui (A Classification of Japanese Verbs). Gengo Kenkyu 15: 48-63.
Miyagawa, Shigeru. 1989. Structure and Case Marking in Japanese (Syntax and Semantics 22). San Diego: Academic Press.
Postal, Paul M. 1974. On Raising: One Rule of English Grammar and Its Theoretical Implications. MIT Press.
Ritter, Elizabeth and Sara Rosen. 2000. Event Structure and Ergativity. Events as Grammatical Objects. ed. by Carol Tenny and
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Takami, Ken-ichi. 1998. Nihongo no Suuryoushi Yuuri ni tsuite (On Quantifier Float in Japanese). Gengo 27. 1: 86-95; 27.2:
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Tenny, Carol. 1994. Aspectual Roles and the Syntax-Semantics Interface. Dordrecht: Kluwer.
Teramura, Hideo. 1984. Nihongo-no Shintakusu to Imi II (Japanese Syntax and Semantics II). Kurosio Publishers.
Travis, Lisa. 2000. Event Structure in Syntax. Events as Grammatical Objects. ed. by Carol Tenny and James Pustejovsky.
145-186. CSLI Publications.
Washio, Ryuichi and Ken-ichi Mihara. 1997. Voisu to Asupekuto (Voice and Aspect). Kenkyusha.
Proceedings of the 59th Conference
The Tohoku English Literary Society (March, 2005)
シンポジアム【英語学部門】
The Syntactic and Semantic Restrictions
on Japanese Verbs in the Simple Present Tense
Yoshiki Ogawa
1. Introduction
Kindaichi (1950; 1976) classified Japanese verbs into four classes: the state verbs (zyoutai doushi),
the continuative verbs (keizoku doushi), the instantaneous verbs (syunkan doushi), and the fourth class
verbs (dai-yon-syu doushi). Among these four classes, both the state verbs such as aru ‘be’ or iru ‘be’ and
the fourth-class verbs such as siru ‘know’ are semantically stative. However, they must be distinguished
from each other, since the latter must be paired with the aspectual morpheme TEI (or the complex of two
morphemes -te and -i; cf. Jacobson 1992), while the former cannot, when it denotes a state that holds at the
time of speech (henceforth, referred to as ‘a present state’). In English, no state verbs can be paired with
the (partially) corresponding aspectual morpheme -ing. Compare (1) and (2):
(1) Taro-ga sono ziken-no sinsou-o sit-tei-u /*sir-u.
Taro-Nom the case-Gen truth-Acc know-TEI-Nonpast /know-Nonpast
‘Taro knows the truth about the case.’
(2) John knows/*is knowing the truth about the case.
This property of the fourth class verbs in Japanese is not semantically oriented, since their English
counterparts require no such morphology. Hence, the peculiar property of the fourth-class verbs must be
explained morpho-syntactically.
Kindaichi also proposed the semantic distinction of what appears to be a single aspectual morpheme.
He proposed that (i) the TEI attached to a continuative verb indicates the continuation of the action
denoted by the verb, (ii) the TEI attached to an instantaneous verb indicates the continuation of the state
resulting from the event denoted by the verb, and (iii) the TEI attached to a fourth class verb indicates a
state that obtains after the event denoted by the verb.
Okuda (1978) falsified the dichotomy between the continuative verbs and the instantaneous verbs and
replaced it by the dichotomy between the action verbs (dousa doushi) and the result verbs (kekka doushi).
However, he did not argue against the aspectual meanings of the TEI attached to the two types of verbs.
Following Okuda’s insight, Washio and Mihara (1997) have discussed the syntax and semantics of the TEI
attached to the two types of verbs, by refering to the former as ‘dousa zizoku (action continuation)’ and to
the latter as ‘kekka zizoku (result continuation)’. However, they have not discussed the semantics of the
fourth class verbs or the TEI attached to them.
Another important fact about the fourth class verbs, which was, to the best of my knowledge, first pointed
out by Takahashi (1973), is that, in the relative clauses, the morpheme TEI does not have to attach to them
and the simple present tense can denote a present state, as shown in (3) (As for the verb siru ‘know’, although
Kindaichi classified it to the instantaneous verbs, Fujii (1966) argues that it is ambiguous between the
instantaneous verb and the fourth class verb, and that siru in (1) and (3) is the fourth class verb):1
(3) Sono ziken-no sinsou-o sir-u
hito-to
hanasi-o si-you.
the case-Gen truth-Acc know-Nonpast man-with talk-Acc do-shall
‘Let’s talk with the man who knows the truth about the case.’
Yoshiki Ogawa
127
Importantly, the contrast between (1) and (3) holds only for a certain semantically restricted set of verbs, as
seen below.
Here arise two questions. The first question is what is the semantic restriction, and the second one is
what is the morpho-syntactic difference between the relative clauses and the root clauses. As for the first
question, we will show that the relevant verbs are limited to those which denote a potentially everlasting
state or motion. As for the second question, Takahashi (1973) proposed to reduce the relevant asymmetry
to a certain conjugational difference between the verbs in the root clauses and in the relative clauses. I
will argue against his proposal and provide an alternative approach to the asymmetry, by proposing a
phonetically empty operator that enters into universal quantification over time.
This article is organized as follows: in section 2, I will propose a descriptive generalization about the
verbs whose simple present tense can denote a present state in a relative clause. In this section, I will also
critically review Takahashi’s (1973) proposal, by examining six more syntactic environments in which the
simple present tense on certain verbs can or cannot denote a present state. In section 3, I will introduce a
set of theoretical devices and account for my generalization. And section 4 is a conclusion of this article.
2. The Descriptive Generalization
In the root clauses, the fourth class verbs in the simple present tense cannot denote a present state.
Similarly, the asterisk on the sentences in (4) and (5) shows that (most of) the continuative verbs and the
instantaneous verbs in the simple present tense also lack the present state interpretation. Although they are
morphologically acceptable, the only possible interpretations for them are modal (future) or habitual ones,
even if they are located in the relative clauses:
(4) *John-ga kouen-o aruk-u
(koto)
John-Nom park-Acc walk-Nonpast fact
‘John is walking in the park.‘
(5) *John-ga siai-ni kat-u
(koto)
John-Nom game-at win-Nonpast fact
‘John is winning the game.’
By contrast, the fourth class verbs and a certain subset of the continuation verbs, as listed in (6), can be
paired with the simple present tense to denote a present state, if they occur in a relative clause:2
(6)
tomu ‘abound’, oisigeru ‘thrive’, oowu ‘cover’, matagaru ‘span’, karamaru ‘entangle’, sumu ‘live’,
(kawa-ga) nagareru ‘(the river) run’, sikiru ‘partition’, hittekisuru ‘correspond’, meguru ‘circulate’,
(~no kagi-o) nigiru ‘hold (the key to)’, sowu ‘be on’, hokoru ‘boast’, mensuru ‘face’, sessuru
‘border’, turanuku ‘run through’, yokotawaru ‘lie in’, hirogaru ‘spread’, sobieru ‘soar’, mawaru
‘rotate’, nozomu ‘face’, hisomu ‘sneak’, nemuru ‘sleep’, kurasu ‘lead a life’, (toki-o) kizamu ‘keep
(the time)’, yureru ‘swing’, tenmetusuru ‘blink’, torimaku / kakomu ‘surround’, yoru ‘depend’,
tuuziru ‘lead to’, noboru ‘amount’, simeru ‘occupy’, (~no nagare-o) kumu ‘be descended from’, ...
A few examples based on the verbs in (6) are illustrated below:
(7) a. Ano oka-noueni nemur-u
Taro-no itai-o
hori-das-ou.
that hill-on
sleep-Nonpast Taroo-Gen body-Acc dig-up-shall
‘Let’s dig up Taro’s body that sleeps under the ground of that hill.’
b. Fukusuu-no ryouiki-ni matagar-u
mondai-ni torikum-ou.
plural-Gen field-Dat cross-Nonpast issue-Dat challenge-shall
‘Let’s challenge an issue that crosses over more than one field.’
Interestingly, many of the verbs in (6) are the Japanese counterparts of what Levin and Rappaport
(1994) call ‘verbs of spatial configuration,’ which specify the position occupied by the referent of the
subject, either temporally or permanently, basically depending on whether its subject is animate or
128
The Syntactic and Semantic Restrictions on Japanese Verbs in the Simple Present Tense
inanimate. In English, when it denotes a present state of the subject, the former usage requires the verb to
be paired with the progressive -ing morpheme, whereas the latter usage requires it to be paired with the
simple present tense:
(8) a. John is standing/*stands in the hallway.
b. A cottage stands/*is standing on the hill.
A similar observation can be made in Japanese, but only in the relative clauses. Compare (7a-b) with
(9a-b):
(9) a.*Kouen-no benti-de nemur-u
Taro-o okos-ou.
Park-Gen bench-Loc sleep-Nonpast Taro-Acc wake-shall
‘Let’s wake up Taro who is sleeping on the bench of the park.’
b.*Asoko-de
uma-ni matagar-u
hito-to
hanasi-o si-you.
over there-Loc horse-on cross-Nonpast man-with talk-Acc do-shall
‘Let’s talk with the man who is crossing a horse over there.’
The subjects of the italicized verbs in (7) are inanimate and the states denoted by these verbs potentially
continue everlastingly: the predicate is ‘individual-level’ in Kratzer’s (1989) sense. On the other hand,
those of the italicized verbs in (9) are animate and the states that could be denoted by these verbs are
temporally delimited: the predicate is ‘stage-level’ in Kratzer’s sense. From the examples in (6), (7) and
(9), we reach the following generalization:3
(10) In a relative clause, a verb in the simple present tense can denote a present state if and only if the
verb is an individual-level predicate.
2.1. Takahashi’s (1973) Proposals
Takahashi (1973) made an observation essentially identical to (10), by using the expression of ‘release
from the ‘tense-ness’ (tensu-sei-kara-no kaihou)’. What he intended is that, in the relative clauses,
modification of the verbs in (6) by adverbs such as ima ‘now’ or sonotoki ‘then’ leads to an unnatural or
unintelligible sentence. This observation is essentially identical to Kratzer’s (1989) that individual-level
predicates cannot be modified by spatio-temporal adverbs.
As for the question why the verbs in the relative clauses but not in the root clauses are released from
the tense-ness, Takahashi (1973) attributed it to the fact that the verbs in the relative clauses are in the
rentai (adnominal) form, whereas those in the root clauses are in the syuusi (cadence) form. In the modern
Japanese, the two forms of a verb are morphologically nondistinct. However, the adjectival verbs (keiyou
dousi) in the present tense manifest different morphological endings, NA or DA, depending on which type
of conjugation they have. Compare (11a) and (11b):
(11) a. Ano zyosei-wa kirei-da.
that lady-Top beautiful-DA (= Cop+Nonpast)
‘That lady is beautiful.’
b. kirei-na
zyosei
beautiful-NA (= Cop+Nonpast) lady
‘The beautiful lady’
The syntactic and semantic relation between the noun and the modifying relative clause is identical to the
one between the noun and the modifying adjectival verb in (11b). Hence, we can reasonably assume that
the verb immediately preceding the head noun in (3) is in the rentai form. And it can be independently
proved that the rentai form of a verb has lesser morphological properties of typical verbs. Hence,
Takahashi (1973) concludes that the verbs in the relative clauses are being released from the tense-ness
and being categorically shifted into adjectives. Since they are more like adjectives than verbs, the aspectual
morpheme TEI is unnecessary for a verb to refer to a present state.
Yoshiki Ogawa
129
2.2. Problems with Takahashi’s (1973) Proposal
Takashashi’s conclusion about the rentai form of a verb has a crucial defect. Given that neither the
morpheme RU or TEIRU attaches to a bona-fide adjective, we need to assume that the rentai form of a
verb remains to be a verb.
I also emphasize that the relative clauses are not the only syntactic environment in which the verbs
in the simple present tense can denote a present state. First, in the negative sentences, the mizen form
of a verb (diffferent from the rentai or syuusi form), can be immediately followed by the present tense
morpheme, to denote a present state:
(12) a. Taro-wa Hanako-o sit-tei-ru/*sir-u.
Taro-Top Hanako-Acc know-TEI-Nonpast / know-Nonpast
b. Taro-wa Hanako-o
sit-tei-na-i/sira-na-i.
Taro-Top Hanako-Acc know-TEI-Neg-Nonpast / know-Neg-Nonpast
Apparently, the negated verbs in the simple present tense can denote a present state, even if they are
stage-level. Thus, (13) appears to have a present state interpretation in which Taro is not reading LBG at
the time of speech:
(13) Taro-wa (kessite) LGB-o yoma-na-i.
Taroo-Top ever
LGB-Acc read-Neg-Nonpast
‘Taro never reads LGB.’
However, I claim that this interpretation is simply derived, by pragmatic inference, from its (original)
habitual interpretation. As a piece of evidence, (13) can be followed, without any contradiction, by a
sentence that denotes an inversed proposition, as in (14a); this is not the case in (12b), and (14b) is a
contradition:
(14) a. Taro-wa
(kessite) LGB-o yoma-na-i
hito da
ga,
naze-ka ima-wa
Taroo-Top ever LGB-Acc read-Neg-Nonpast man Cop-Nonpast though why-Q now-Top
sore-o yon-dei-ru.
it-Acc read-TEI-Nonpast
‘Taro is a man who never reads LGB, but he is reading it now, for some reason.’
b. #Taro-wa Hanako-o
sira-na-i
hito da
ga,
naze-ka
Taro-Top Hanako-Gen truth-Acc know-Neg-Nonpast man Cop-Nonpast though why-Q
kanozyo-o sit-tei-ru.
her-Acc
know-TEI-Nonpast
‘#Taro is a man who does not know Hanako, but he knows her for some reason.’
This indicates that, even in the root clauses, the negated verbs can be paired with the simple present tense
to denote a present state, only if they are individual-level.
A second environment in which the simple present tense on an individual-level verb can denote a
present state is the presuppositional clause of a cleft sentence:
(15) a. Sono ziken-no sinsou-o sir-u
no-wa,
Taro dake da.
the case-Gen truth-Acc know-Nonpast Comp-Top Taro only is
‘It is only Taro who knows the truth about the case.’
b. Tikyuu-no mawari-o mawar-u
no-wa
tuki dake da.
earth-Gen round-Acc revolve-Nonpast Comp-Top moon only is
‘It is only the moon that revolves round the earth.’
A third environment is the yori ‘than’ clause of the comparative sentence:
130
The Syntactic and Semantic Restrictions on Japanese Verbs in the Simple Present Tense
(16) a. Taro-ga sir-u
yorimo ooku-no zizitu-o Ziro-wa sir-u-koto-ni-naru
Taro-Nom know-Nonpast than
many-Gen fact-Acc Ziro-Top know-Nonpast-fact-Dat-become
darou.
will
‘Ziro will come to know more facts than Taro knows.
b. Mokusei-no mawari-o mawa-ru
yorimo ooku-no eisei-ga
kono wakusei-no
Jupiter-Gen round-Acc revolve-Nonpast than
many-Gen satellite-Nom this planet-Gen
mawari-o mawar-u-koto-ni
naru
darou.
round-Acc revolve-Nonpast-fact-Dat become will
More satellites than revolve around Jupiter now will come to revolve round this planet (in the
future).’
In contrast, in the interrogative clauses, the verbs in the simple present tense cannot denote a present
state:
(17) * (Boku-wa) dare-o Taro-ga sir-u
no(-ka wakar-u).
I-Top
who-Acc Taro-Nom know-Nonpast Q
know-Nonpast
‘(I know) who Taro knows.’
Another environment with the same property is the appositive clauses:
(18) *Taro-ga ziken-no sinsou-o sir-u
koto-wa kanozyo-o odorok-ase-ru
darou.
Taro-Nom case-Gen truth-Acc know-Nonpast fact-Top her-Acc surprise-Caus-Nonpast will
‘The fact that Taro knows the truth about the case will surprise her.’
Applying the DA/NA test to the just-mentioned seven syntactic environments. we can see that the
verbs in the relative clauses, the presuppositional clauses of the cleft sentence, the yori-clause of the
comparative construction, the interrogative clauses, and the appositive clauses must be in the rentai
form, whereas those in the root clauses cannot be in the rentai form, whether affirmative or negative.
Therefore, if Takahashi’s proposal is correct, we predict that the four non-root clauses can host a verb in
the simple present tense to denote a present state, whereas the root clauses can never do so. However, this
prediction is largely in conflict with the facts we have seen.
In this section, we have argued that the verbs in the simple present tense can denote a present state
only if they satisfy two requirements. The semantic requirement is that they be individual-level, and the
syntactic requirement is that they must occur in one of the following four clauses: the relative clauses,
the negative (root) clauses, the presuppositional clauses of the cleft sentence, and the yori-clause of the
comparative construction. We have also shown that whether the relevant verbs are in the rentai form or not
is irrelevant to the availability of the present state interpretation.
3. Proposals
In this section, I propose a set of theoretical devices and provide an account for both of the two
requirements.
3.1. The Theoretical Devices
My first proposals are (19a-e). Here, I introduce the name ‘the everlasting interpretation’. This refers to
the interpretation in which the state of affairs denoted by the verb in the simple present tense holds in and
after the point of speech time, for a period as long as the life span of the referent of the subject, without
any suspension:
(19) a. A phonetically empty operator that universally quantifies over time (called the U-OP) can be
adjoined to any clause whose verb is in the simple present tense.
b. In Japanese, all the verbs in the simple present tense must introduce a temporal variable, denoted
as <e>, which is the phonetically empty cunterpart of the morpheme TEI.
Yoshiki Ogawa
131
c. The temporal variable is formally licensed only if c-commanded by some operator that quantifies
over time, such as the U-OP, the habitual operator, or the future-denoting modal operator. (cf. Enç
1996:354)
d. If the U-OP binds the temporal variable, the everlasting interpretion of the verb follows.
e. A present state interpretation is derived as a logical necessity, when the everlasting interpretation
holds.
3.2. The Asymmetry between Simple Clauses and Relative Clauses
Now, let us see how the proposals in (19) interact to explain the observed facts. Consider, first, (20a):
(20) a. Fukusuu-no ryouiki-ni matagar-u mondai-ni torikum-ou. (= (7b))
b. [NP [CP Wh-OPi [IP U-OP [IP ti fukusuu-no ryouiki-ni matagar-<e>-u]]] mondaii]
Given the proposal in (19a) and (19b), the relevant structure of (20a) is shown in (20b), where the U-OP is
adjoined to IP and the empty Wh-operator (represented as ‘Wh-OP’) is located in [Spec, CP]. Given (19b),
the verb matagaru in (20a) must introduce a temporal variable <e>. Given (19c), the variable is licensed
by the U-OP. Given (19d), (20a) receives the everlasting interpretation. Given (19e), (20a) receives the
present state interpretation, as a logical necessity.
Next, as a member of the minimal pair, consider the root (or appositive) clause in (21a), whose structure
is (21b):
(21) a. Mondai-ga fukusuu-no ryouiki-ni matagar-u (koto)
b. [NP [CP [IP U-OP [IP mondai-ga fukusuu-no ryouiki-ni matagar-<e>-u]]] (koto)]
(20b) and (21b) differ in that the former but not the latter involves the Wh-OP in [Spec, CP]. Now, let
us propose the formal licensing requirements on the U-OP, as in (22a,b):
(22) a. The U-OP must bind a temporal variable introduced by the verbal complex that satisfies (19b).
b. The U-OP must be c-commanded by some semantically non-vacuous operator in overt syntax.
Although (22b) seems stiputative, it can ultimately be subsumed under a general requirement on null
operators. Thus, in the parasitic gap construction, the null OP must be c-commanded by the coindexed
Wh-OP overtly located in [Spec, CP]. In the ill-formed examples in (23b,c), the null OP is not bound by
the Wh-OP, either because the Wh-phrase remains in-situ in overt syntax or because the adjunct clause that
contains the null OP is preposed:
(23) a. Which articlesi did John file ti [OPj without reading ej]? (i = j)
b.*Who filed which filesi [OPj without reading ej]? (i = j)
c.*[OPj Without reading ej], which articlesi did John file ti? (i = j)
Alternatively, we can reduce (22b) to the licensing condition on the negative polarity items (NPI).
The NPI must be c-commanded by some operator in overt syntax. At least, the negative operator in (24a),
the interrogative Wh-OP in (24b), the relative clause Wh-OP in (24c), the modal OP in (24d), and the
comparative than in (24e) can license any:
(24) a. In addition, don’t forward any email warning about a new virus.
b. How shall we cover religion on any beat By David Crumm, Free Press Religion Writer?
c. Find lists of famous people who were born or died on any date, religeous observances, holidays,
religious history.
d. You can always contact us with any questions.
e. Balloons cause more childhood deaths than any other toy!
From the facts in (24), we can assume that the U-OP is a phonetically empty parallel of the NPI.
132
The Syntactic and Semantic Restrictions on Japanese Verbs in the Simple Present Tense
Anyway, suppose that (22a,b) are correct, and first consider (21b). Here, no operator is located in [Spec,
CP]. Hence, if the U-OP is adjoined to the clause, it should violate (22b). On the other hand, in (20b),
the U-OP is c-commanded by the Wh-OP overtly located in [Spec, CP]. One might say that the Wh-OP
lacks a semantic content per se. But it is given some semantic content by undergoing ‘strong binding’ by
the relative head (cf. Chomsky (1986:85)). Hence, the U-OP is overtly c-commanded by a semantically
non-vacuous operator, and satisfies (22b).
3.3. The Semantic Restriction on Verbs
The postulation of the U-OP can also provide a straightforward account for the semantic restriction
we stated in (10). Thus, (25a) will have the syntactic representation in (25b). If we adopt Parsons’ (1990)
framework of event semantics, (25b) will be mapped into the logical representation in (25c):
(25) a. *Asoko-de uma-ni matagar-u hito-to hanasi-o si-you. (= (9b))
b. [NP [CP Wh-OPi [IP U-OPj [IP ti uma-ni matagar-<ej>-u]]] hito]
c. [ λ x, x = man [ ∀ t, t = time [ ∃ e [Crossing (e) & Object (e, x) & On (e, horse) & Hold (e, t)]]]]
As we have just seen, the U-OP in (25b) satisfies the formal licensing requirements in (22). However,
(25c) is semantically anomalous, since we know that someone’s being crossing a horse is a transitory
state. In other words, the anomaly of (25c) is due to the incompatibility between the U-OP and the lexical
meaning of matagaru. On the other hand, without the U-OP in (25b), another operator that quantifies
over time must be introduced to formally license the temporal variable. However, the introduction
of the habitual operator or the modal operator to the relative clause does not lead to the present state
interpretation, since someone who habitually crosses a horse or will cross a horse in the future does not
have to be doing so at the time of speech. For these reasons, whether the U-OP is introduced or not, the
present state interpretation is unavailable in (25a).
(25a) is ruled out because matagaru in this sentence is stage-level. However, an individual-level verb
in the simple present tense does not always allow the present state interpretation. Consider the following
contrast:
(26) a. Mou sono koto-o sit-tei-ru/*sir-u
otoko
already that fact-Acc know-TEI-Nonpast/*know-Nonpast man
‘the man who has already known the fact’
b. Eigo-o
yoku sit-tei-ru/sir-u
otoko
English-Acc well know-TEI-Nonpast/know-Nonpast man
‘the man who knows English well’
Although sitteiru is permitted in both (26a) and (26b), the elimination of TEI makes only (26a) ill-formed.
Unlike Kindaichi (1950), Fujii (1966) analyzes the verb siru in (26a) as the result verb and that in (26b) as
the fourth class verb.
Washio and Mihara (1997) propose a four-way classification of TEI: action continuation (dousa zizoku),
result continuation (kekka zizoku), effect continuation (kouryoku zizoku), and state continuation (zyoutai
zizoku). On the basis of this classification, they suggest that the TEI of action continuation attaches to
an action verb, the TEI of result continuation attaches to a result verb, and the TEI of effect continuation
can attach to any non-state verb. Unfortunately, they have not discussed which class the TEI that must
attach to the fourth class verbs belongs to. However, it can be independently tested that the TEI of action
continuation, result continuation, and effect continuation cannot be dropped in the relative clauses. On
the other hand, the TEI of state continuation, which they assume to be attached to psych verbs such as
nayamu ‘be worried’ to form nayandeiru, can be dropped in relative clauses. Hence, if the four types
of TEI are exhaustive, the TEI which must attach to the fourth class verb must be identied with that of
state continuation. Given this conclusion, we can replace (19b) by the claim that the temporal variable
bound by the U-OP is the empty counterpart of the TEI of state continuation. Given this claim and Fujii’
s, we can exclude the simple present tense in (26a) on morpho-syntactic grounds, since the result verb is
incompatible with the TEI of state continuation.
Yoshiki Ogawa
133
3.4. Licensing of the Simple Present Tense in Non-Relative Clauses
Given (22b), it is predicted that, wherever there is a Wh-OP in a position c-commanding the U-OP, the
simple present tense should be licensed in the present state interpretation. One such construction is the
comparative construction. Chomsky (1977:87) points out that some dialects of English manifest an overt
Wh-phrase in [Spec, CP], as in (27):
(27) John is taller than what Mary is.
The existence of such a dialect led Chomsky to propose that, in the standard English, too, the empty
Wh-OP is overtly moved to [Spec, CP].
Kikuchi (1987) argues that the same assumption holds true for the comparative construction in
Japanese, in view of the island sensitivity, a characteristic of the overt syntactic movement. Given
Kikuchi’s proposal, the well-formedness of (16a,b) naturally falls under our proposal, since the U-OP in
the yori-clause of the comparative construction is formally licensed by the empty Wh-OP in [Spec, CP].
3.4.1. The Negative Sentences
(22b) states that the licenser of the U-OP can be any semantically non-vacuous operators, which include
the negative operator (Neg-OP). With this in mind, consider (28) (= (12b)):
(28) Taro-wa sono ziken-no sinsou-o sira-na-i.
Taro-Top the case-Gen truth-Acc know-Neg-Nonpast
‘Taro does not know the truth about the case.’
Now, let us assume that the Neg-OP is merged with IP in Japanese. (This assumption is supported by the
fact that the NPI in the subject position can be licensed in Japanese.) Given this assumption, (28) has the
structure in (29):
(29) [Neg-OP [IP U-OP [IPTaro-wa [sono ziken-no sinsou-o sira-<e>-nai]]]]
Here, (22a) is satisfied since the U-OP binds the temporal variable <e> introduced by sira-nai ‘not know’,
and (22b) is also satisfied since it is c-commanded by the Neg-OP.
3.4.2. Interrogative Clauses, Relative Clauses, and the Cleft Construction
Saito (1992), among others, argues that, in Japanese, the Wh-interrogative sentences do not involve
overt operator movement. Thus, in (30), although dare-o ‘who-Acc’ is fronted to the sentence-initial
position, this is not a case of overt operator movement but is an instance of scrambling:
(30) Dare-o Taro-wa mikake-ta no?
Who-Acc Taro-Top see-Past Q
‘Who did Taro see?’
There are at least two arguments in favor of this assmption. First, Kuroda (1965) argues that the
Wh-phrases in Japanese, unlike the English ones, are indeterminate pronouns rather than bona-fide
operators. Second, Hoji (1986:187) shows that the preposing of the Wh-word in Japanese does not
manifest a WCO effect. Thus, the well-formedness of (31) contrasts with the English counterpart of
Wh-movement, as in (32a), and is rather similar to the NP-raising, as in (32b) (cf. also Lasnik and Stowell
(1991), who claim that only the movement of a bona-fide operator induces the WCO effects):
(31) Darei-o soitui-no yuuzin-ga mikake-ta no?
who-Acc he-Gen friend-Nom see-Past Q
‘Who did his friend see?’
(32) a.*Whoi does hisi mother love ti?
b. Johni seems to hisi mother [tI to be too honest].
134
The Syntactic and Semantic Restrictions on Japanese Verbs in the Simple Present Tense
The well-formedness of (31) contrasts with the ill-formedness of the corresponding relative clause in
Japanese, as in (33), where we are assuming that the Wh-OP is located in [Spec, CP] in overt syntax. This
contrast leads us to conclude that the apparent overt Wh-movement in (30) is actually a clause-internal
scrambling. If this conclusion is tenable, we can attribute the lack of the present state interpretation in
(17a,b) to a violation of (22b):
(33) *Soitui-no yuuzin-ga mi-ta otokoi-ga Taro-o korosi-ta hazuda.
hei-Gen friend-Nom see-Past mani-Nom Taro-Acc kill-Past must
‘The man who his friend saw must have killed Taro.’
Next, consider the cleft construction, which we have seen in (15a,b). This is also a kind of focus
construction that involves operator movement, because, in a WCO configuration, the sentence becomes
ill-formed:
(34) *Soitui-no yuuzin-ga mi-ta no-wa, (masani)
Tarooi-o da.
He-Gen friend-Nom see-Past Comp-Top exactly Taroo-Acc is
‘It is (exactly) Taroo that his friend saw.’
Given this, we can argue that the present state interpretation is available in the cleft construction in (15a,b),
because the U-OP adjoined to the clause, as in (36), can be c-commanded by the Foc-OP located in [Spec,
CP]:
(35) [CP Foc-OPi [IP U-OP [IP . . . ti . . . V-<e>-ru]] no]-wa Xi-o da.
In this section, assuming the U-OP and the formal licensing requirements on it, we have explained both
of the syntactic and semantic requirements for a verb in the simple present tense to denote a present state. 4
4. Concluding Remarks
At this point, what remains to be explained is why, in English, the verbs in the simple present tense can
denote a present state, wherever they occur (cf. (2); cf. also The earth revolves round the sun).
Here, I will just suggest a possibility. Note that the progressive morpheme —ing in English
corresponds to the TEI of action continuation in Japanese and the past participial morpheme —en in
English corresponds to the TEI of result or effect continuation in Japanese. However, there is no English
counterpart of the TEI of state continuation (*We were fearing the storm (Grimshaw (1990: 23))). Hence,
given our claim in section 3.3, it follows that the verbs in the simple present tense in English do not
introduce a temporal variable. In the absence of the temporal variable, there is no room for the U-OP to be
introduced in syntax. Hence, the formal requirement in (22) is irrelevant in English. (cf. Giorgi and Pianesi
(1997: chapter 4) for an alternative solution.)
Since the phonetically empty U-OP is unavailable to a language learner as positive evidence, we have
to assume that the U-OP and the formal licensing requirements on it are part of UG. In this case, one might
wonder why English does not introduce either the U-OP or the temporal cariable. We will leave these
important questions for future research.
Notes
1
2
3
There is a body of literature that studies the tense and aspect of Japanese, only some of which are listed below:
Kindaichi (1950; 1976), Fujii (1966), Suzuki (1957; 1965), Okuda (1978), Takahashi (1973), Teramura (1984),
Inoue (1989), Mihara (1992), Jacobson (1992), Kinsui (1994), Washio and Mihara (1997), Ogihara (1999), and
Kusumoto (2000; 2001).
We have excluded, from the list in (6), what Kinsui (1994) refers to as the ‘fifth class verb’, as exemplified by the
verbs such as chigawu ‘differ’ and kakawaru ‘relate’.
We have classified action verbs like (tuki-ga) mawaru ‘(the moon) rotate’ into individual level predicates, in spite
of their denoting a location-changing motion, since, given that the relevant motions will continue everlastingly
Yoshiki Ogawa
4
135
during the life span of the referent of the subject, there is no obvious reason to distinguish them from the typical
individual-level stative verbs such as know.
Our proposed U-OP is quite similar to Chierchia’s (1995) Generic Operator, which he assumes to be introduced
in the VP-adjoined position of an individual-predicate. However, We are against his idea that the individual-level
stative sentences are identical to the generic sentences such as John smokes, except for the content of the contextual
variable associated with the Generic Opearator. See Ogawa (2004: section 7) for a relevant argument.
Selected References
Chierchia, Gennaro (1995) “Individual-level Predicates as Inherent Generics,” The Generic Book, ed. by Gregory
Carlson and Francis Jeffry Pelletier, The University of Chicago Press, Chicago.
Chomsky, Noam (1986) Knowledge of Language: Its Nature, Origin, and Use, Praeger, New York.
Enç, Mürvet (1996) “Tense and Modality,” The Handbook of Contemporary Semantics Theory, ed. by Shalon Lappin,
345-358, Blackwell, Malden, MA.
Fujii, Tadashi (1966) “Dousi + Teiru No Imi [The Semantics of Verbs + Teiru],” reproduced in Kindaichi (1976).
Giorgi, Alessandra and Fabio Pianesi (1997) Tense and Aspect: From Semantics to Morphosyntax, Oxford University
Press, New York.
Kikuchi, Akira (1987) “Comparative Deletion in Japanese,” ms., Yamagata University.
Kindaichi, Haruhiko (1950) “Kokugo Doosi no Itibunrui [An Attempt at Classification of Japanese Verbs], Gengo
Kenkyuu 15, 48-63. [Reprinted in Kindaichi (1976)].
Kindaichi, Haruhiko (1976) Nihongo Doosi no Asupekuto [Aspectual Properties of Japanese Verbs], Mugi Syobo,
Tokyo.
Kinsui, Satoshi (1994) “Rentai Syuushoku-no Ta Nituite [About the Ta of Rentai Modification],” Nihongo-no
Meisi-syuushoku Hyougen [Noun-modifying Expressions in Japanese], ed. by Yukinori Takubo, 29-66, Kurosio
Publishers, Tokyo.
Kratzer, Angelika (1989) “Stage-Level and Individual-Level Predicates,” ms., University of Massachusetts.
Kusumoto, Kiyomi (2000) “Temporal Interpretation of Relative Clauses,” UMass Occasional Papers in Linguistics 23,
73-90.
Mihara, Ken’ichi (1992) Jisei Kaisyaku To Tougo Gensyou [Temporal Interpretation and Syntactic Phenomena],
Kurosio Publishers, Tokyo.
Ogawa, Yoshiki (2004) “The Simple Present Tense in Japanese and the Phonetically Empty Universal Quantifier,”
Explorations in English Linguistics 19, 145-262.
Ogihara, Toshiyuki (1999) “Tense and Aspect,” The Handbook of Japanese Linguistics, ed. by Natsuko Tujimura,
326-348, Blackwell Publishers, Malden, MA.
Okuda, Yasuo (1978) “Asupekuto-no Kenkyuu-o Megutte (Zyou/Ge) [Over the Study of Aspects (Vol.1/2)],”
Kyouikukokugo 53/54.
Suzuki, Sigeyuki (1965) “Gendai Nihongo-no Dousi-no Tensu [The Tense of the Modern Japanese Verbs], Kotoba No
Kenkyuu [Study of Language] Vol. 2, ed. by Kokuritu Kokugo Kenkyuusyo [The National Institute for Japanese
Language], 1-38.
Takahashi, Taro (1973) “Dousi-no Rentai-Kei ‘Suru’, ‘Sita’ Nituiteno Iti-Kousatu [A Note on the Rentai Form of
Verbs Suru and Sita],” Kotoba No Kenkyuu [Study of Language] Vol. 4, ed. by Kokuritu Kokugo Kenkyuusyo [The
National Institute for Japanese Language], 101-132.
Teramura, Hideo (1984) Nihongo No Sintakusu to Imi II [The Syntax and Semantics of the Japanese Language II],
Kurosio Publishers, Tokyo.
Washio Ryuuichi and Ken’ichi Mihara (1997) Voisu to Asupekuto [Voice and Aspect], Kenkyuusya, Tokyo.
雑 録
2004(平成 16)年度東北英文学会評議員会議事録
日時
11 月 20 日(土) 午前 11 時 30 分より 12 時 30 分
場所
東北大学文学部 804 教室
出席者
会 長
原 英一
事務局員
岩田 美喜 評議員
15 名
議 題
1.平成 16 年度事業報告
原会長から,以下の事柄について報告があった.
・大会準備委員会の開催.
・東北英文学会賞:今年度は応募者なし.
・大会 Proceedings 第三号の発行.
・電子辞書特別講座の開催
2.平成 16 年度決算
原会長から,本年度の決算について以下の報告があり,承認された.
・Proceedings の印刷費が予算を大きく上回ったが,これは寄稿者が多く内容が充実
したためである.
・今年度の会計監査は準備が整い次第行う予定である.
3.平成 17 年度予算
原会長から,来年度の予算案について以下の提案があり,承認された.
・前年度を参考に予算を組んだ.ただし,議題5に関連して日本英文学会からの交付
金が加わることになれば,再度予算の組み直しを行う.
決算と予算案の詳細については,大会 Proceedings 第四号において報告することになった.
4.次年度開催校について
原会長から,次年度開催校の候補として岩手大学と盛岡大学が挙げられた.評議員によ
る協議の結果,次年度開催校は岩手大学に決定した.
原会長から,来年度は第 60 回の記念大会になるので,何らかの企画を立てることも検討
したいとの発言があった.
137
雑 録
5.日本英文学会との関係について
原会長から,東北英文学会が日本英文学会の東北支部となることについて,「支部化のメ
リットは交付金,デメリットは当学会の名称変更だが,旧名称を何らかの形で残すことは
可能と思われる」という旨の発言があった.これに対して評議員から,「東北英文学会に所
属すると即ち日本英文学会にも所属せねばならないという縛りがかかるのではないか」と
いう質問があった.
協議の結果,以下の条件付きで支部化を承諾し,原会長に交渉を一任することに決定した.
・対等な立場で交渉し,所属の縛りなどがかからないようにする
・「東北英文学会」という名称と実体とを共に残しておく.
東北英文学会平成 16 年度決算報告(平成 16 年 11 月 20 日)
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138
雑 録
東北英文学会平成 17 年度予算案(平成 16 年 11 月 20 日)
会 員 名 簿
© 東北英文学会 2005
○この名簿は 2004 年度名簿です.2005 年 4 月 1 日以降の異動は一部のみ反映しております.
○名簿は姓の五十音順です.
○電話番号は掲載しておりません.必要な場合は事務局までお問い合わせください.ただし.会員以外の方
には回答いたしません.
○この名簿の無断転載を禁じます.
*印は評議員.(非)は非常勤.(院)は大学院生.
専門分野の略号はおおよそ次の通り.
(英)=英文学.
(米)=アメリカ文学.
(語)=英語学.英語教育.
(教)=
英語教育.(比)=比較文学.比較文化.(コミ)=コミュニケーション論
氏 名
〒
住 所
所属先等
専門
分野
140
氏 名
東北英文学会会員名簿
〒
住 所
所属先等
専門
分野
141
東北英文学会会員名簿
氏 名
〒
住 所
所属先等
専門
分野
142
氏 名
東北英文学会会員名簿
〒
住 所
所属先等
専門
分野
143
東北英文学会会員名簿
氏 名
〒
住 所
所属先等
専門
分野
144
氏 名
東北英文学会会員名簿
〒
住 所
所属先等
専門
分野
145
東北英文学会会員名簿
氏 名
〒
住 所
所属先等
会員のみなさまへ
この名簿では 2005 年以降の異動はほとんど反映されておりません.勤務先の変更
などがありましたら,随時事務局までご連絡ください.
東北英文学会では,個人情報保護の観点から,名簿に電話番号は掲載しておりま
せん.データをすべて不掲載とすることもできますので,事務局までお申し出くだ
さい.
ここに掲載されていないデータは,会員以外には開示いたしません.
専門
分野
146
東北英文学会会則
一, 名 称
本会は,東北英文学会と名づける.
二, 目 的
本会は,東北地方における英米文学,英語学,英語教育及びその他の関連分野の研究を
促進し,併せて会員相互の親睦をはかることを目的とする.
三, 事 業
以上の目的を達成するために,次の事業を行う.
(イ) 大会(毎年一回 秋季)
(ロ) 東北英文学会賞の選考と授与
(ハ) 大会 Proceedings の刊行
(ニ) その他
四, 組 織
(イ) 会 員 本会は,本会の趣旨に賛同する者を以て組織する.
(ロ) 役 員
本会に次の役員を置き,任期はそれぞれ三年とし,選出は付則による.
会 長 一名 副 会 長 一名
評 議 員 若干名 会計監査委員 二名
五, 機 関
(イ) 評議員会
原則として毎年一回,秋季大会と同時に開催する.
評議員会においては,予算,決算,その他の重要事項を審議する.
(ロ) 常任大会準備委員会
大会の企画を行う.
(ハ) 事務局
原則として会長の所属する加盟校に置く.
六, 会 計
(イ) 会 費
本会の経費は,会費ならびに寄付金を以てこれに当てる.ただし,会員は一人四千円の年会費を納入す
るものとする.
(ロ) 会計監査
会計監査は,原則として年一回,会計監査委員が行い,評議員会に報告するものとする.
付 則
一, 役員の選出
(イ) 会長の選出は,評議員会において無記名投票によって行う.
(ロ) 副会長は,会長が指名する.
(ハ) 評議員は,同一の教育・研究組織に属する会員が互選する.ただし,教員十名以下一名,二十
名以下二名,三十名以下三名,三十一名以上四名を推薦する.
(ニ) 会計監査委員は,会長が評議員の中から指名する.
(ホ) 常任大会準備委員は,会長が委嘱し,六名(英文学二名,米文学二名,英語学・英語教育二名)
を以て構成する.
任期は二年半数交替とする.
二, 東北英文学会賞の選考は別に定める規定によるものとする.
三, 会則の変更は,評議員会の議を経なければならない.
四, この会則は,平成十三(2001)年十月一日から施行する.
147
東 北 英 文 学 会 賞 規 程
第1条(名称) 本賞は東北英文学会賞と称する.
第2条(目的及び賞金) 本賞は英文学,米文学(それぞれ比較文学・比較文化を含む),英語学(言語学,
英語教育を含む)の各分野における研究を奨励するとともに優れた業績を顕彰することを目的と
する.
各分野の入賞者には賞状及び賞金5万円を授与する.
第3条(基金) 本賞の基金は,東北英文学会元会長村岡勇氏より寄付された基金を原資とする.必要に応
じて募金を行って基金に組み入れる.
第4条(対象)本賞は,東北英文学会大会における研究発表またはシンポジウム発表の内容が,後日論文ま
たは著書として刊行されたものを対象とする.
2 応募論文・著書では,東北英文学会大会において発表された内容に基づいていることが,本文また
は注の中に明記されていなければならない.
3 対象となる論文・著書は平成 7 (1995) 年 10 月 1 日以降に刊行されたものとする.
第5条(応募締切及び応募要項) 応募締切は原則として毎年 6 月 30 日とする.応募要項は別に定める.
第6条(審査) 応募論文・著書の審査は,東北英文学会賞審査委員会(以下「審査委員会」という)が行う.
審査委員会の委員長は東北英文学会会長とする.
2 審査委員会は,英文学,米文学(それぞれ比較文学・比較文化を含む),英語学(言語学,英語教
育を含む)の 3 分野につき,それぞれ 3 名で構成する.
3 審査委員は東北英文学会会長が指名する.
4 審査委員は東北英文学会会員の中から選任するが,必要に応じて会員以外の者に委嘱することも
できる.
5 審査委員の任期は 2 年とする.但し重任を妨げない.
6 授賞論文・著書は各分野につき 1 年に 1 編とし,佳作は設けない.
7 授賞論文・著書の決定は,審査委員会全体の合議により行う.
第7条(授賞) 授賞の発表は東北英文学会大会開会式において東北英文学会会長が行い,受賞者に賞状と
賞金を授与する.
付 則
本規定は,平成 7 (1995) 年 10 月 1 日より施行する.
東北英文学会賞 2005(平成 17)年度応募要項
(1)応募者は東北英文学会の会員であることを要しない.
(2)応募論文・著書には,東北英文学会大会において発表された内容に基づいていることが,本文または注
の中に明記されていなければならない.
(3)応募者は,対象となる論文・著書を三部(コピーでも可)提出すること.
(4)略歴を添付すること.
(5)応募論文・著書は,あらかじめ申し出がない限り,返却されない.返却を希望する場合は,返送に必要
な額の郵便切手を応募の際に同封すること.
(6)締切 平成 17(2005)年 7 月 31 日 消印有効・締切厳守.
(7)宛先 東北英文学会事務局
〒 980-8576 仙台青葉区川内 東北大学大学院文学研究科 英文学研究室内
(8)受賞者は東北英文学会第 60 回大会開会式において会長から発表される.応募者には審査結果を別に通
知する.
付記 応募は本人以外の推薦によるものも受け付ける.
応募論文・著書は締切日現在で刊行済みのものに限り,ゲラ刷りによる応募は受け付けない.
148
会費納入のお願い
当学会の運営は会員の納入する会費によって維持されております.払込料金受取人払いの郵
便振替用紙を同封しましたので,これにより新年度(2005 年度)の年会費 4,000 円をご納入くだ
さい.教員組織のご事情によっては,従来通り評議員がまとめて納入するという方法をとって
いただいてもけっこうです.
学会は会員の積極的な意志によって成立・運営されるものです.皆様のご協力をよろしくお願
い申し上げます.
東北英文学会の会員は東北地方在住者に限りません.英米文学,英語学,英語教育,比較文学・
文化の研究者であればどなたでも加入できます.カバーする領域が広く開放的である,会費が
安い,Proceedings により研究業績を短時間で形にできる,すぐれた研究業績に対して学会賞が
授与されるなど,他の学会より有利な点が多々あります.お知り合いの方にも入会を是非お勧
めください. 事務局から
○今回の Proceedings は,執筆を辞退された方が2名おられましたが,150 ページ近くなり,きわめて充実
したものとなりました.大会当日も2日間で約 100 名の参加者があり,大変な盛会でした.学会活動が活
発であることの証拠であり,誠に喜ばしいことです.
○しかしながら,学会の財政事情はかなり窮屈になりつつあります.とくに Proceedings の発行費用が予想
を大きく上回っており,現在のようなページ数が続きますと,赤字が大きくふくらむことは避けられませ
ん.とはいえ,会員の研究業績となる出版事業ですので,これを縮小することはできません.
○こうした事情から会費の値上げを検討せざるをえないと思われます.今秋の評議員会で具体的な提案をし
たいと思いますが,会員の皆様からのご意見をお寄せいただければ幸いです.
○評議員会議事録にありますように,東北英文学会の名称を残しつつ,日本英文学会の東北支部になること
を検討しています.日本英文学会でも財政事情が悪化しており,支部への交付金は大きく減額されていま
すが,多少の財政上のメリットはまだあるようです.
○今回も刊行が大幅に遅れてしまいました.とくに執筆者の方々に深くお詫び申し上げます.校正もれ,印
刷不鮮明の箇所等が目立つかもしれませんが,Proceedings としての性格上,ご容赦ください.
(E. H.)
東北英文学会大会 Proceedings
第 59 回大会
平成 17 (2005) 年 3 月 30 日印刷発行
発 行 東北英文学会
〒 980–8576 仙台市青葉区川内
東北大学大学院文学研究科 英文学研究室内
TEL & FAX 022(795)5961
E-mail : englit@sal.tohoku.ac.jp
http://charles.sal.tohoku.ac.jp/tohoku-eibun.html
印 刷 (株)東北プリント