第 318 回企画展示 会期:平成 27 年 3 月 25 日(水)~5 月 23 日(土) 会場:慶應義塾図書館 1 階展示室 主催:三田メディアセンター展示委員会 展示にあたって 2014 年 1 月、20 世紀最大の物理学者の1人として知られるアルベルト・アインシュタイン (1879-1955)の草稿や書簡、写真などが、これらを受け取り保管されていた三宅速(みやけ は やり、1866-1945)氏のご令孫である比企寿美子(ひき すみこ)氏のご厚意により慶應義塾図書 館に寄贈されました。アインシュタインによる一般相対性理論の完成から 1 世紀となる今年、慶 應義塾図書館の企画展示としてこれらの資料を初めて展示します。 1922 年の秋、アインシュタインは、創刊間もない新進気鋭の総合雑誌「改造」を発行する改 造社社長の山本實彦(やまもと さねひこ、1885-1952)の招聘で日本での講演旅行の船旅に出発 し、その途上でノーベル物理学賞受賞の報を受けます。受賞後そして日本で最初となった講演は、 当時慶應義塾大学の三田山上にあった大講堂で行われた相対性理論についての概論でした。 2,000 人を超える一般聴衆が休憩をはさみ 6 時間にわたってアインシュタインの言葉に耳を傾け たと伝えられています。その後アインシュタインは、日本の各地を訪問して大歓迎を受けます。 ノーベル賞受賞で一躍時代の寵児となった物理学者に日本中が熱狂する一方、来日の途上には 1 人の日本人医学者との出会いがありました。その医学者が三宅速、九州帝国大学医学部の教授で 日本郵船「北野丸」に偶然乗り合わせ、遠いアジアの国への旅行の途中で体調を崩したアインシ ュタインを診察した医師です。船上で受けた恩義に報いるため来日中の三宅邸訪問を約束したア インシュタインは家族ぐるみの歓待を受け、来日中に執筆した日本旅行記の草稿を感謝の気持ち を込めて三宅に贈ります。この出会いから始まるアインシュタインと三宅との絆を物語る書簡は、 偉大な科学者の豊かな人間性をうかがい知ることのできる貴重な記録です。 本展示では図書館が所蔵する関連資料でアインシュタインの業績や来日当時の様子を振り返 りつつ、アインシュタインと三宅との絆、そこに残されたアインシュタインのメッセージを読み 解きます。ご来場の皆様は、草稿に記されたアインシュタインの日本に対する温かいまなざしを 通して、彼の見た当時の日本を垣間見ることができるでしょう。また、戦災で亡くなられた三宅 夫妻の墓碑に贈られたアインシュタインの言葉は皆様の心に何を残してくれるでしょうか。この 展示を通してともに考える機会となれば幸いです。 最後になりましたが、本展示にあたり草稿や書簡の日本語翻訳文をご提供いただいた慶應義塾 大学文学部斎藤太郎教授に感謝申し上げるとともに、資料をご寄贈いただいた比企様に改めて厚 く御礼申し上げます。 1 <展示ケース 1-(1)> アインシュタインを知る(資料リストは p.13~15 参照) 著作・業績 (資料リスト No.1~8) 1905 年に発表された「光量子論」「ブラウン運動」「特殊相対性理論」に関するものを皮切りに論文や 講演録、エッセイなどが多数あり、様々な形で再編、再版され紹介されている。 1922 年の来日を機に、それ以降もアインシュタインの著作は邦訳で紹介されてきた。翻訳された主 な著作として『一般相対性理論』 『アインスタイン全集』 『我が世界観』 『物理学はいかに創られたか』 『自伝的ノート』 『晩年に想う』などがある。 評伝 (資料リスト No.9~19) 1911 年 32 歳で一般相対性理論の最初論文を発表、1922 年 43 歳でノーベル物理学賞を受賞したア インシュタインについては、生前から没後、現在に至るまで、多くの評伝が書かれている。日本の著 名な科学者が翻訳したものや序文を寄せたものもある。没後 1970 年代頃までは、科学的業績を中心 とする学者としての生涯や業績をまとめたものが中心だったが、アインシュタイン関連の文書の整理 が進み、アインシュタインという人物の背景や学者以外の側面にも言及した評伝も数多く書かれるよ うになった。 アインシュタイン・アーカイブズ (資料リスト No.20~22) アインシュタインは遺言で、遺言執行人にオットー・ネーサン博士とヘレン・デュカスを指名、手 紙や原稿の最終的な管理場所にヘブライ大学を指名した。アインシュタインの死後、デュカス、ネー サン、ジェラルド・ホールトン等によって、アインシュタイン関連の文書は整理、収集、維持が行わ れた。 プリンストン大学出版局とヘブライ大学の共同プロジェクト、The collected papers of Albert Einstein の編集に向けて、アインシュタイン関連の文書は、アインシュタインの住居からプリンスト ン高等研究所に移された。著作集の刊行は 1987 年から始まり現在 14 巻まで刊行されているが、刊行 開始に先立ち、アインシュタインの私的文書類はプリンストン高等研究所からヘブライ大学へ移され ている。 公私に渡る膨大な文書の整備は今も続けられており、Einstein Archives Online では、ヘブライ 大学の Albert Einstein Archives および プリンストン高等研究所の Einstein Papers Project の文書に関する情報を探すことができる。また、刊行された著作集の PDF や、デジタル化された文 書なども、次々とネット上で閲覧できるようになっている。 『アインシュタインは語る』は、1970 年代の文書のデータベース化の頃からこの事業に携わってい るアリス・カラプリスが、作業の中で見つけたアインシュタインの言葉を集めた珠玉の 1 冊である。 人柄を知る (資料リスト No.23~31) アインシュタイン関連資料が、ヘレン・デュカスらによって厳重に管理され、文書の整理途上であ った時期は、偉大な学者としてのイメージを外れるものや関係者に影響のおよぶ事項には触れないこ とが多かったが、アインシュタイン関連の文書の公開が進むにつれ、従来のイメージとは違った面も 2 次第に明らかになってきている。 日本をはじめとする各国訪問の様子や、家族や知人との手紙のやりとり、ベルリン郊外の夏の家の 設計者との交流など、個性的な博士の一風変わったエピソードも様々に紹介されている。また、生涯 を追う評伝ではなく、ベルリン時代、日本訪問、プリンストンでの思い出など、一時期の記録や交流 を整理し、まとめた著作も、アインシュタインの人柄を知る上で興味深い。 影響を知る (資料リスト No.32~37) ノーベル賞受賞者で知名度の高い偉大な科学者であり、ドイツを逃れてアメリカに渡ったユダヤ人 であるアインシュタインの発言や行動は、科学界の後継者だけでなく、政治、平和問題、民族、宗教 など様々な方面に広く影響を与えている。 <展示ケース 1-(2)> 三田山上のアインシュタイン 1922 年 11 月 19 日、アインシュタインは慶應義塾大学三田キャンパスの大講堂で相対性理論の講 演を行った。日本では初めての講演で 2,000 人以上の人々が詰めかけたと言われている。午後 1 時半 から 8 時半まで、1 時間の休憩をはさんで合計 6 時間にわたる長時間の講演だったが、1 人として席 を立たず、聞き入っていたという。通訳は東北帝国大学教授の理学博士、石原純。 講演が行われた大講堂は現在の西校舎の位置にあった。慶應義塾の文化活動発信の場としての役割 を果たし、バルコニーに設置されたユニコン像とともに親しまれていたが、1945 年の東京大空襲によ って焼失した。 「特殊及び一般相対性原理論に就ての概論」 『三田新聞』 大正 11 年(1922)11 月 21 日 2 面・3 面 アインシュタインの講演後の三田新聞では、 「特殊及び一般相対性原 理論に就ての概論」として、講演の内容を大きく取り上げている。2 面には、特殊相対性理論と、一般相対性理論の概説、ドイツに 2 年間 留学していた慶應義塾大学教授伊藤吉之助の談話を掲載している。3 面には、大講堂で撮影されたアインシュタインと通訳の石原純の写真 が掲載されている。 「碩学ア氏来る十九日大講堂で相対原律を説く」 『三田新聞』 大正 11 年(1922)11 月 11 日 3 面 3 面に、1922 年 11 月 19 日に大講堂で行われるアインシュタイン講 演会の予告が掲載されている。訳者は東北帝国大学教授の理学博士、 石原純である旨、聴講料は 1 名 3 円である旨が記載されている。3 円 は現在の価値に換算すると約 1 万円である。 3 「相対性を説くア博士」 『時事新報』大正 11 年(1922)11 月 20 日 6 面(マイクロフィルム版) [YN@5@1922@11] 11 月 19 日の大講堂での日本で初めてのアインシュタインによる講演会に際して、講演前のアイン シュタインの様子が、写真とともに詳細に記録されている記事。日本での講演をできるだけ完璧にし たいとの意思で、コーヒーなどの刺激物の摂取を極力避け、また聴衆の反応を見て自由に講演したい との趣旨であえて事前に原稿は用意しないとの細心な注意を払われた。 「身振り手真似でア博士が最初の講演」 『時事新報』大正 11 年(1922)11 月 21 日 11 面(マイクロフィルム版) [YN@5@1922@11] 11 月 19 日に、三田キャンパスの大講堂において日本で初めてのアインシュタインによる 5 時間に も及ぶ講演会が行われたときの様子が記録されている。 収容人数 2,000 人の会場を埋め尽くす聴衆は、 8 割が学生で、その他、鎌田栄吉文相、長岡半太郎博士、愛知敬一博士、福田徳三、各国外交官など も参加していた。女子学生も参加し、新しい学説に対する興味がいかに高かったかが示されている。 アインシュタインはモーニング姿、通訳の石原純は紋付姿で、身振り、手真似でわかりやすく解説さ れた。 『アインスタイン教授講演録』 石原純[訳]東京 : 改造社, 1923 [8S@231@1] アインシュタイン来日時の各地での講演が収録されている。著者は、アインシュタインの日本周遊 に同行し、通訳を務めた石原純と、漫画家の岡本一平。慶應での講演は、2 章と 3 章に収録されてい る。展示した 1 冊は岡本一平の寄贈本である。 『アインシュタイン日本で相対論を語る』 アルバート・アインシュタイン;杉元賢治編訳;佐藤文 隆解説 東京 : 講談社, 2001 [A@421.2@Ei1@3] アインシュタイン来日時の様子を豊富な写真と、当時の新聞記事、アインシュタインの自筆原稿な どを交えて紹介している。慶應での講演については、読売新聞の記事や、大学図書館で撮影された写 真が掲載されている。大学図書館で撮影された写真は、 「慶大図書館に於けるア氏と日本学会の権威」 と見出しがつけられ、当時女性向けに発行されていた改造社の雑誌「女性改造」に掲載されたもので ある。アインシュタインとともに、山本實彦改造社社長や、石原純をはじめとする当時の著名な物理 学者らが写っている。 <展示ケース 2> アインシュタインの日本紀行 1922 年、改造社の招待にて日本を訪れたアインシュタインは、国内各地で講演を行い、熱烈な歓迎を受 けた。各地訪問時の様子は新聞をはじめとしたメディアで紹介され、日本国民の関心の的となった。アイ ンシュタインは日本訪問・周遊の目的として、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の著作から得た日本に ついての知識を、実際に見て理解・研究し、日本人の日常生活に親しむこと、またそれを機に、科学上の 国際関係を改善したいと取材に答えている( 『東京朝日新聞』大正 11 年(1922)11 月 18 日)。多忙な講 演スケジュールの合間でも、アインシュタインは日本の伝統文化や日本人と接する機会をできる限り設け、 大いに満喫したとされる。国内周遊一行には、漫画家・朝日新聞記者であった岡本一平が加わり、その人 柄・風貌が窺い知れるエピソード等を挿画と小文で紹介した記事「アインシュタインの人間味」 (全 7 回) が当時の東京朝日新聞にて連載された。 4 「来朝せるア博士夫妻(昨夕神戸にて撮影)」 『東京朝日新聞』 大正 11 年(1922)11 月 19 日 1 面(縮刷版) 「アインシュタイン博士の人間味(二)」 『東京朝日新聞』 大正 11 年(1922)12 月 10 日 1 面(縮刷版) 『アインシュタインの東京大学講義録 : その時日本の物理学が動いた』 杉元賢治編著 東京:大竹出版, 1991 [A@421@Ei1@5] 雑誌「女性改造」 大正 12 年(1923)1 月号 (復刻版 東京 : 不二出版, 2007) 「女性改造」は 1922 年 10 月に女性向けに改造社が創刊した雑誌。帝国ホテルで開催された改造社主催 の歓迎会において、アインシュタインがバイオリンを弾く写真が掲載されている。 『アインシュタイン・アドベンチャー : 素顔にみる真実の生涯』 杉元賢治著 京都 : 現代数学社, 1991 [A@421@E1@10] 『日本の文化と思想への衝撃』(アインシュタイン・ショック . 第 2 部) 金子務著 東京 : 河出書房新社, 1981 [A@289.3@E2@8-2] <展示ケース 3> 雑誌「改造」と改造社 アインシュタインは改造社の働きによって来日を果たすが、そのきっかけは改造社社長、山本實彦 が哲学者のバートランド・ラッセルに対して「現存する世界の偉人は誰と思うか、三人ばかりあげて みてくれ」と聞いたところ「第一にアインシュタイン」と答えたことから興味をもったとされている。 改造社はアインシュタインの招聘を決定、来日時には雑誌「改造」でアインシュタイン特集号を組み、 『アインスタイン全集』 『アインスタインと相対性理論』などを次々に発行し、日本にアインシュタイ ンブームを巻き起こした。 『アインスタイン全集』 石原純 等訳 東京 : 改造社, 1922-1924 [10S@2@4] 1910 年発表の最初の論文から 1922 年前半までのアインシュタインの著作のうち、量子論関係の論 文以外の著作が翻訳され、全 4 巻にわけて収録されている。第 4 巻にあたる本書は、1921 年 5 月に プリンストン大学で行った 4 回の相対性理論の講義録の翻訳。アインシュタインの講演会が毎回満員 盛況だったのと同様、この全集の売れ行きも出版社自体が驚くほどよかった。 『アインスタインと相対性理論』 石原純 著 東京 : 改造社, 1921 [34S@13@1] 慶應での講演会の際の通訳をつとめた理学博士石原純による著書。当時、日本での相対性理論の第 一人者で、かつ東北帝国大学教授でもあった石原は、山本からアインシュタイン招聘企画の相談をう け、アインシュタインに招聘の手紙を書いた。 5 『アインシュタイン傳』 桑木彧雄 著 東京 : 改造社, 1934 [44H@53@1] 物理学者で九州大学教授、日本科学史学会初代会長でもあった、桑木彧雄の著書。桑木は 1909 年 にアインシュタインと会見している。山本は石原との面会後、桑木にも会い、アインシュタインの業 績について確認したとされる。本書は、のちにサイエンス社より増補再版される。 『図説アインシュタイン』 千葉透文 ; AMC・地球の楽好編 東京 : 河出書房新社, 2007 [A@421@Ei1@21] 本書はアインシュタインの生涯のほか、日本への招聘の経緯、日本でのアインシュタイン・ブーム の様子などが、豊富な写真とともに紹介されている。改造社は、招聘のための準備だけではなく、同 時に『アインスタイン全集』の編集作業も行っていた。 雑誌「改造」 大正 11 年(1922)12 月号(アインスタイン号) アインシュタインを日本へ招待した改造社の雑誌「改造」のアイ ンシュタイン特集号。アインシュタイン本人の「理論物理学の現時 の危機について」という論稿が巻頭を飾り、当時の日本物理学界に おいて権威ある学者たちの論文が並んだ。アインシュタイン夫妻の 写真・アインシュタイン自筆原稿の写真・改造社発行の『アインス タイン全集』の広告なども掲載されている。 雑誌「改造」 昭和 9 年(1934)4 月号(創刊満 15 年記念号) 「改造」創刊 15 年記念号。この記念号に際してアインシュタイ ンは山本宛てに寄稿文「平和のために」を送っている。アインシュ タインは当初、徴兵拒否による反戦運動を唱えていたが、次第に軍事力を持つ世界政府の樹立を主張 するようになった。この寄稿文でも、 「十分現実的な力によって装はれた国際的行政組織の創設によっ てのみ、他の国民の侵略に対する個々の国民の安全が保障されうるのである。」と述べている。 雑誌「改造」 昭和 15 年(1940)4 月号 1940 年、山本實彦はプリンストンまでアインシュタインを訪ね、ここでの話を「アインシュタイン の世界観・戦争観」として「改造」に執筆している。アインシュタインは日本人について、次のよう に述べている。 「日本人は個人としては正直であるし、親切でもあるが、国家的に仕事をするときはあ まりにかけ離れたことをする、そのコントラストがひどすぎる」と述べ、山本實彦、三宅速ら個々人 に関しては認めつつも第二次世界大戦に向かう日本に対しては批判的であった。 6 <展示ケース 4> 自筆草稿 慶應義塾図書館がこのたび寄贈を受けた資料は、日本到着後、講演のため国内をめぐったアインシ ュタインがその感想を記した「私の日本旅行雑感」の自筆草稿や書簡など、およそ 20 点にのぼる。 草稿全 8 枚の公開は今回が初めてとなる。草稿はアインシュタインを日本に招いた改造社が発行する 雑誌「改造」に寄稿したもので、 「日本に於ける私の印象」というタイトルで 1923 年 1 月号に掲載さ れた。当時掲載された日本語訳は草稿とは異なる部分がみられるが、今回の寄贈後に、慶應義塾大学 文学部斎藤太郎教授が正確な日本語訳を行った。 アインシュタイン自筆草稿(「私の日本旅行雑感 (Plauderei über meine Reise in Japan)」 ) 8 枚 アインシュタインが雑誌「改造」1923 年 1 月 号に寄稿した「日本に於ける私の印象(Plauderei über meine Eindrücke in Japan)」と題する日本 滞在中の感想記の草稿。前半の 4 枚には日光金谷 ホテルの便箋、5 枚目には東京・下関特急列車の 用紙が使われている。5 枚目裏にテンソルの成分 の計算が書き付けてあり、相対論の計算の一部で はないかと推測される。この草稿は、日本への船 旅中に体調を崩したアインシュタインを治療し、 それをきっかけに交流をもった九州帝国大学医学 部教授三宅速に対してアインシュタインが感謝の 印として送ったものである。生涯一度の日本訪問 となった 1922 年来日時の日本文化に関する唯一 の手稿として貴重である。日本語訳全文は壁面パ ネル参照。 アインシュタイン自筆署名入り写真 1枚 日付:1922 年 11 月 10 日 撮影場所:日本郵船「北野丸」船上 アインシュタインは 1922 年 10 月 8 日、日本郵船「北野丸」に乗船し てマルセーユを出発し、11 月 17 日神戸に到着する。その途中、 「北野 丸」の船上での写真である。自筆署名入り。 7 雑誌「改造」大正 12 年(1923)1 月号 アインシュタインの「日本に於ける私の印象」の掲載号。 自筆草稿は、口述筆記による日本の音楽の印象記が追加され、題名を「日本に於ける私の印象」と変 更して、日本語の翻訳(訳者不明)およびドイツ語原文が雑誌「改造」に掲載された。 「改造」に掲載 されたドイツ語原文と草稿にはいくつか相違点があるが、題名の変更も含めアインシュタイン自身が 校正したかどうかは定かではない。 <展示ケース 5> 三宅速との交流(出会いから日本訪問) 日本訪問に先立つ 1922 年 10 月、アインシュタインとエルザ夫人は日本に向けてフランス・マルセ イユの港を船で出発した。その途上、体調を崩したアインシュタインを治療したのが偶然乗り合わせ た日本人医師の三宅速であった。ドイツへの医学留学の経験があり、語学にも堪能であった三宅の診 察によってアインシュタインの容態はほどなく快方に向かった。このことをきっかけに二人は友誼を 結び、生涯にわたる交流を持つこととなった。 アインシュタインと三宅速の自筆署名入り写真 1 枚 日付:1922 年 11 月 10 日 撮影場所:日本郵船「北野丸」船上 二人の親交の様子がわかる「北野丸」船上での 1 枚。 アインシュタイン夫妻自筆の色紙 2 枚 日付:1922 年 12 月 25 日 三宅速への感謝のメッセージが書かれた色紙。 アインシュタイン自筆(左) ・エルザ夫人自筆(右) 親愛なる旅のお仲間、慈悲深い医師で日本の友、三宅先生へ。感 謝の思いを込めて。 アルベルト・アインシュタイン 三宅先生とご一緒したことが、私にとって心温まる思い出となりました。 エルザ・アインシュタイン 8 <展示ケース 6> 三宅速との交流(日本訪問および帰国後) 日本を訪れたアインシュタインは、 講演旅行中、 たっての希望で福岡にある三宅速の自宅を訪問し、 家族も交えて親交を深めた。今回寄贈された資料の中には、その訪問の御礼状のほか、その後の交流 を示す書簡も含まれている。これらの書簡の多くも今回が初公開となる。 アインシュタイン自筆書簡(三宅速宛) 1 通 日付:1922 年 12 月 26 日 日本滞在中に福岡の三宅邸を訪問した際の礼状。 以下、日本語訳 22 年 12 月 26 日 三宅先生 福岡での日々、ことに先生にいただいたお心 遣いとおもてなしは忘れられぬものになるでし ょう。しかし、なにより胸を打たれたのは今朝 いただいた電報です。もちろん、万事先生のご 指示通りにいたしましたところ、おかげさまで もうずいぶん楽になりました。奥様と立派なお 子様たちにお目にかかり、またご自宅に上がら せていただき嬉しく存じます。ほんのひととき しかお邪魔できなかったことが残念でなりませ ん。 あらためて衷心より感謝申し上げるとともに、 ふたたびお目にかかれるまでのご健勝をお祈り 申し上げます。 奥様とお子様方にくれぐれもよろしくお伝え ください。 A・アインシュタイン アインシュタイン自筆の絵葉書(寄せ書き・三宅速宛) 1 枚 日付:1923 年 3 月 21 日 日本からの帰路、チューリッヒ~ベルリン間の列車中からアインシュタインが高畑哲五郎と連名で の三宅速へ宛てた絵葉書。当時九州大学医学部の助教授で三宅の同僚であった高畑は車中で偶然アイ ンシュタインと乗り合わせたようだ。この絵葉書はベルリンに着いた後で投函された。 アインシュタイン夫妻自筆書簡(三宅速宛) 1 通 日付:1924 年 6 月 15 日 アインシュタイン、エルザ夫人両名による三宅家家族写真送付に対する礼状。この中でアインシュ タインは「お送りくださった家族写真大変嬉しく、日本を訪れた折に家内と私にいただいた数々の細 やかなお心遣いが思い出されました。美しいお国のすてきな方々には素晴らしい思い出が尽きません が、なかでも先生とご家族のことはこの上なく美しく懐かしい記憶です。 」と書いている。 9 アインシュタイン夫妻自筆書簡(三宅速宛) 1 通 日付:1925 年 1 月 1 日 アインシュタイン、エルザ夫人両名による新年のあいさつ状。内容は 1924 年 9 月に三宅速宛に送 った医学論文に関する三宅の返信に対するコメントと、三宅から送られた福岡の絵葉書と娘と孫の写 真に対する礼状で、 「先生に医学の分野で目新しい情報を提供することはできないだろうとは思ってい ました。お子さまたちの写真をありがとうございます。日本を訪問した際、日本の人々の繊細な表情 が分かるようになって嬉しく思っています。それがなんと言っても一番素晴らしい思い出です。」と書 かれている。 <展示ケース 7> アインシュタインからの墓碑銘 三宅速・三保夫妻は 1945 年 6 月 29 日未明の岡山市への空襲の犠牲となり、亡くなった。戦後、長 男の三宅博(1901-1993)は両親の死をアインシュタインに知らせる手紙を書き、墓碑銘の寄稿を依 頼した。当時、アインシュタインはナチスによる迫害から逃れてアメリカに移り、プリンストンにい たが、すぐに返信があり、墓碑銘の原稿も送られた。アインシュタインの追悼文が記された墓碑は没 後 9 年を経て、三宅速の故郷である徳島県美馬市の夫妻の墓所に建てられた。 アインシュタインタイプ書簡(三宅博宛・自筆署名入り)1 通 日付:1947 年 3 月 3 日 三宅博へのアインシュタインのお悔やみ状。当時の郵便事情では最速で返事が届き、このお悔やみ 状には、墓碑銘原稿が同封されていた。 10 三宅速夫婦の墓碑銘草稿(アインシュタイン作成・タイプ原稿) 1枚 三宅速夫妻の墓碑銘の草稿 (ドイツ語・英語の 2 種) 以下、日本語訳(比企寿美子「大戦を越えたアインシュタ イン文書」 三田評論 no.1176, 2014, p.79-85 より引用) ここに三宅速とその妻三宅三保が眠る。 彼らは人類の幸せのために尽くし、 そしてその人類の過ちの犠牲になって逝った。 プリンストン N.J. USA 1947 年 3 月 3 日 三宅速・三保夫妻の墓碑(徳島県美馬市) アインシュタインタイプ書簡(三宅博宛・自筆署名入り)1 通 日付:1948 年 7 月 31 日 三宅博が墓碑銘草稿へのお礼としてアインシュタインへ送った有田焼花瓶への礼状。 三宅速に対する日本での歓待および北野丸船上での体調不良に対する思い出に言及して故人を偲んで いる。 『アインシュタインからの墓碑銘』 比企寿美子 著 武蔵野 : 出窓社, 2009 [A@913.6@Hi6@1] 三宅速のご令孫であり、今回展示されている「アインシュタイン文書」の寄贈者である比企寿美子 氏の著書。本書では、アインシュタインと三宅速との交流、三宅一家の戦中の苦難を中心にアインシ ュタインが墓碑銘を書くに至った経緯が丁寧にまとめられている。 三宅速夫妻の墓碑銘拓本 額装 墓碑所在地:徳島県美馬市 光泉寺 三宅速・三保夫妻の没後 9 年を経て、故郷の墓所に建てられた墓碑銘の拓本。 アインシュタインから贈られた墓碑銘のタイプ原稿を三宅博がアインシュタイン自筆の文書の中から 1つ1つドイツ語の単語を選んで集字し、銘文として刻んだものである。 11 関連人物紹介 アルベルト・アインシュタイン(1879-1955) 「相対性理論」 「光量子論」 「ブラウン運動」を始めとする、画期的な理論を導きだした偉大な頭脳 の持ち主として世界に広く知られる、1921 年度ノーベル物理学賞を受賞した物理学者。ユダヤ人とし て、ナチスが台頭したドイツを離れアメリカへ移住し、紛争のない平和の世界を望んだ。 偉大な学者でありながら気さくな人柄のアインシュタインは、1922 年の日本訪問の際も、没後 50 年 を超える現在も、人々に愛され、大きな影響を与え続けている。 三宅 速(みやけ はやり) (1866-1945) 胆石症研究の権威で世界的な医学者。慶応 2 年(1866)、阿波国美馬郡舞中島村(現・徳島県美馬 市)に生まれ、明治 24 年(1891)帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業。明治 31 年か ら 33 年までドイツへ私費留学し、帰国後は大阪府立医学校(現・大阪大学医学部)の教諭となり付 属病院外科医長を兼任した。明治 36 年から文部省外国留学生として、外科学研究のため再びドイツ へ留学。翌年帰国すると、京都帝国大学福岡医科大学教授を経て、その後身である九州帝国大学(現・ 九州大学)医学部初代第一外科教授となった。昭和 6 年(1931)胆石症の研究で学士院賞を受賞した。 日本外科学会会長、万国外科学会初代日本代表、ドイツ学士院会員となるなど、日本における外科 学の開拓者として活躍したが、昭和 20 年米軍空襲により岡山県において没した。 三宅 博(みやけ ひろし) (1901-1993) 三宅速の長男で、父と同じ外科医であり、胆石、胆石症の権威。 「アインシュタイン文書」をご寄贈 いただいた比企寿美子氏のご尊父にあたられる。 明治 34 年(1901)徳島県生まれ。九州帝国大学医学部を卒業後、助手、講師を経て、昭和 9 年(1934) 助教授に就任。その後ドイツ留学を経て、長崎医科大学、岡山医科大学の教授を歴任、昭和 22 年父 が初代教授を務めた九州大学医学部第一外科の教授に就任し、九州大学医学部附属病院長も務めた。 胆石症の研究、治療で知られ、昭和 39 年には日本医師会医学賞、昭和 46 年に武田医学賞を受賞した。 来日したアインシュタイン夫妻が福岡市の三宅邸を訪れた際、運悪く切れてしまったアインシュタイ ンの靴紐を博が繋ぎ結んだところ、アインシュタインが「いい子だ」と言って頭を撫でてくれたとい うエピソードを伝えている。 (三宅博「はるかなる友情―アインシュタイン博士と父と」CLINICIAN no.357 vol.34, 1987, p.99-101) 山本 實彦(やまもと さねひこ) (1885-1952) 大正・昭和期の出版事業家・政治家。鹿児島県出身。東京に出て日本大学、法政大学に学んだ後、 新聞記者となり、門司新聞主筆、やまと新聞ロンドン特派員を経て、東京毎日新聞社長となった。大 正 8 年(1919)改造社を設立し、総合雑誌「改造」を刊行、先行する「中央公論」と並ぶ戦前の代表 的総合雑誌に育てあげた。改造社として、アインシュタインの日本招請を実現したほか、バートラン ド・ラッセル(1872-1970) (哲学者、数学者、1950 年ノーベル文学賞受賞)マーガレット・サンガ ー(1883-1966) (女性社会運動家)なども日本へ招待している。ラッセルは慶應義塾大学三田キャン パスの大講堂でも講演を行っている。 また、政治家としても活動し、昭和 5 年 (1930)昭和 21 年 (1946) の 2 回、衆議院議員に当選している。第 2 次世界大戦後、協同民主党(のち国民協同党)を結成して 委員長となったが、昭和 22 年公職追放された。昭和 26 年に追放解除され、改造社社長に復帰するが 翌昭和 27 年病死。 12 <展示ケース1-(1)>「アインシュタインを知る」展示資料リスト 著作・業績 1. 『相対性理論』アインシュタイン[著] ; 内山龍雄訳・解説 東京 : 岩波書店, 1988 (岩波文庫) [A@421@Ei1@25] 2. 『相対性理論』アインスタイン 著 ; 石原純 訳 東京 : 春秋社, 1930 (世界大思想全集 ; 第 48 巻)[18F@46@1] 3. Albert Einsten. Die Grundlage der allgemeinen Relativitätstheorie. Leipzig : J.A. Barth, 1916. [S14@58@1] (アインシュタイン『一般相対性理論の基礎』) 4. Albert Einsten. The meaning of relativity 5th ed. Princeton : Princeton University Press , 1955. (The Stafford Little lectures ) [B@421@E1@5] 5. Albert Einsten. Einstein's 1912 manuscript on the special theory of relativity : a facsimile. New York : George Braziller, 1996. [2LB@383] 特殊相対性理論に関するアインシュタインの自筆原稿のファクリシミリ版 6. 『我が世界観』 アインシユタイン 著 ; 石井友幸, 稲葉明男 共訳. 東京 : 白揚社, 1935 [26F@135@1] (原著 The world as I see it (Mein Weltbild) . 1933 年刊) 7. 『自伝ノート』アルベルト・アインシュタイン 著 ; 中村誠太郎, 五十嵐正敬 訳. 東京 : 東京図書, 1978 (原著 Autobiographisches in Albert Einstein : philosopher-scientist .1949 年刊) [A@289.3@E2@9] 8. 『晩年に想う』 Albert Einstein [著] ; 中村誠太郎訳者代表. 東京 : 日本評論社, 1950 (原著 Out of my later years. (Aus meinen späten Jahren) 1950 年刊) [32M@320@1] 評伝 9. Abraham Pais. "Subtle is the Lord-- " : the science and the life of Albert Einstein. Oxford ; New York : Oxford University Press, 1982. ( 『神は老獪にして… : アインシュタインの人と学問』の原著) [B@420@E1@1] 10. Johannes Wickert. Albert Einstein in Selbstzeugnissen und Bilddokumenten. Reinbek : RowohltRowohlt, [1972]. (Rowohlts Monographien ; 162) [B@289.3@E8@2] 11. Johannes Wickert. Albert Einstein. Reinbek bei Hamburg : Rowohlt, 2005. (Rowohlts Monographien ; 50666) [B@421@Ei1@2] 12. 『アインシュタイン』桑木彧雄 著 ; 桑木務,西尾成子 増補. 東京 : サイエンス社, 1979 昭和 9 年、改造社刊の再刊。 (人生・教養叢書 ; 2) [A@289.3@E2@2-1] 13. 『アインシュタイン』P.フランク 著 ; 矢野健太郎 訳. 東京 : 岩波書店, 1951 (岩波現代叢書) (原著 Philip Frank. Einstein, his life and times . 1947 年刊 ) [70H@267@1] 14. 『アインシュタインの生涯』C.ゼーリッヒ著 ; 広重徹訳 ; 湯川秀樹序. 東京 : 東京図書, 1957 (原著 Carl Seelig . Albert Einstein : Eine dokumentarische Biographie. 1954 年刊) (科学技術選書) [A@289.3@E2@3] 15. 『アインシュタイン』B.G.クズネツォフ著 ; 益子正教, 吉田峰夫, 渡辺和夫共訳. 東京 : 合同出版, 1970 (原著 B.G.Kuznetsov. Einstein. 1967 年刊) 2冊 [A@289.3@E2@2-1] 16. 『アインシュタイン伝』矢野健太郎著. 東京 : 新潮社, 1968 ( 新潮選書) [ A@289.3@E2@1] 17. 『アインシュタイン : 創造と反骨の人』B.ホフマン, H.ドゥカス著 ; 鎮目恭夫, 林一共訳. 東京 : 河出書房新社, 1974 (原著 Banesh Hoffmann. Einstein, creator and rebel. 1972 年刊) [A@289.3@E2@4] 18. 『アインシュタイン奇跡の年 1905 : Albert Einstein』J.S.リグデン著 ; 並木雅俊訳. 東京 : シュプリンガー・フ ェアラーク東京, 2005 (原著 John S. Rigden. Einstein 1905 : the standard of greatness. 2005 年刊) [A@421@Ei1@18] 13 19. 『アインシュタイン: その生涯と宇宙』ウォルター・アイザックソン著, 関宗蔵訳, 松田卓也訳, 松浦俊輔訳. 東 京 : 武田ランダムハウスジャパン, 2011 2 冊(原著 Walter Isaacson . Einstein. 2007 年刊) [A@421@Ei1@1] アインシュタイン・アーカイブズ 20. The collected papers of Albert Einstein. Princeton, N.J. : Princeton University Press, 1987[B@420@E1@2-1~] 第 13 巻 p.296-326 には、Document 379 として、日本への旅行の際の日記が収録されている。 21. The ultimate quotable Einstein. collected and edited by Alice Calaprice ; with a foreword by Freeman Dyson. Princeton, N.J. : Princeton University Press, c2011. [B@421@Ei1@11] 『アインシュタインは語る』増補新版。 22. 『アインシュタインは語る』アインシュタイン[著] ; アリス・カラプリス編 ; 林一訳. 東京 : 大月書店, 1997 [A@420@Ei1@1] 人柄を知る 23. Dieter Hoffmann. Einstein's Berlin : in the footsteps of a genius. Baltimore : Johns Hopkins University Press, c2013. [B@421@Ei1@14] 24. Albert Einstein, the human side : new glimpses from his archives. selected and edited by Helen Dukas and Banesh Hoffmann. Princeton, N.J. : Princeton University Press ,c1979. [B@289.3@E8@3] 25. Michael Grüning. Ein Haus für Albert Einstein : Erinnerungen, Briefe, Dokumente. Berlin : Verlag der Nation, 1990. [B@421@Ei1@15] ベルリン近郊カプートの夏の家の設計者コンラート・ワックスマンからの聞書きによるもの。 26. 『青春のアインシュタイン : 創造のベルン時代』フリュキガー著 ; 金子務訳. 東京 : 東京図書, 1978 (原著 Max Flückiger. Albert Einstein in Bern. 1974 年刊) [A@289.3@E2@12] 27. 『知られざるアインシュタイン : ベルリン 1927-1933』フリードリッヒ・ヘルネック著 ; 村上陽一郎, 村上公子 訳. 東京 : 紀伊国屋書店, 1979 (原著 Friedrich Herneck. Einstein privat : Herta W. erinnert sich an die Jahre 1927 bis 1933. 1978 年刊) [A@289.3@E2@7] ベルリンとカプートの家で、アインシュタイン家の家政婦を勤めたヘルタ・ヴァルドウへのインタビューによる 記録。 28. 『アインシュタイン愛の手紙』アルバート・アインシュタイン, ミレヴァ・マリッチ [著] ; ユルゲン・レン, ロ バート・シュルマン編 ; 大貫昌子訳. 東京 : 岩波書店, 1993 (原著 The love letters. edited by Jürgen Renn and Robert Schulmann 1992 年刊) [A@421@E1@14] 29. 『裸のアインシュタイン : 女も宇宙も愛しぬいた男の大爆発(ビッグバン)』ロジャー・ハイフィールド, ポール・ カーター著 ; 古賀弥生訳. 東京 : 徳間書店, 1994(原著 Roger Highfield and Paul Carter . The private lives of Albert Einstein. 1993 年刊) [A@421@E1@16] 30. 『アインシュタインの情熱』Barry Parker 著 ; 井川俊彦訳. 東京 : 共立出版, 2005 (原著 Barry Parke. Einstein : the passions of a scientist. 2003 年刊) [A@289.3@E2@12] 31. 『アインシュタイン・ショック』金子務著. 東京 : 河出書房新社, 1981 2 冊 14 [A@289.3@E2@8-1~2] 影響を知る 32. Albert meets America : how journalists treated genius during Einstein's 1921 travel. edited by József Illy. Baltimore : Johns Hopkins University Press, 2006. [B@421@Ei1@9] 33. Einstein on politics : his private thoughts and public stands on nationalism, Zionism, war, peace, and the bomb. edited by David E. Rowe and Robert Schulmann. Princeton, N.J. : Princeton University Press, c2007. [B@421@Ei1@8] 34. John Stachel. Einstein from "B" to "Z". Boston : Birkhäuser, c2002 ( Einstein studies ; v. 9) [B@421@E1@8-9] 35. Ze'ev Rosenkranz. Einstein before Israel : Zionist icon or iconoclast? Press, c2011. [B@421@Ei1@12] 36. 『アインシュタインレクチャーズ@駒場 : 東京大学教養学部特別講義』 京 : 東京大学出版会, 2007 37. 『アインシュタイン劇場』 Princeton, N.J. : Princeton University 太田浩一, 松井哲男, 米谷民明編. 東 [A@420@Ei1@3] 金子務著. 東京 : 青土社, 1996 15 [A@421.2@Ei1@1] アルベルト・アインシュタイン 略年譜 西暦 和暦 年齢 1879 明治 12 年 0 歳 3 月 14 日 ドイツのウルムに生まれる。 1885 明治 18 年 6 歳 ミュンヘンの小学校へ入学。 1889 明治 22 年 10 歳 ミュンヘンのルイトポルト・ギムナジウムへ入学。(ギムナジウムは伝統的な中等学校) 1894 明治 27 年 15 歳 家族はイタリアへ移住。ミュンヘンに残るが、結局、年末にミュンヘンのギムナジウムを退学。 1895 明治 28 年 16 歳 スイス・アーラウのアールガウ州立学校へ通い始める。 1896 明治 29 年 17 歳 ドイツの市民権を放棄。チューリッヒのスイス連邦工科大学へ入学。 1900 明治 33 年 21 歳 物理学士の称号を得て、同校を卒業。初めての科学論文を投稿。 1901 明治 34 年 22 歳 スイス・チューリッヒの市民権取得。 1902 明治 35 年 23 歳 スイス・ベルンの特許局で 3 級技官として臨時の仕事を始める。(1904 年に終身職に変わる。) 1903 明治 36 年 24 歳 大学で同級生であったミレヴァ・マリッチと結婚。 1905 明治 38 年 26 歳 Annalen der Physik 誌(17 巻)に、光量子論、ブラウン運動の理論、特殊相対性理論に関する 3 大論文を発表する。その画期的な業績により、この年は「奇跡の年」と呼ばれる。 1909 明治 42 年 30 歳 スイス連邦工科大学定員外教授の職を得る。特許局を辞任。 1911 明治 44 年 32 歳 プラハのドイツ大学の理論物理学教授となり、プラハに移る。 1912 大正元年 33 歳 母校であるチューリッヒのスイス連邦工科大学の理論物理学教授となり、プラハの職を辞す。 1913 大正 2 年 34 歳 プロイセン科学アカデミー会員となり、単身でベルリンへ移る。ドイツ市民権取得。 1916 大正 5 年 37 歳 『一般相対性理論の起源』を発表、後に本として出版される。 1919 大正 8 年 40 歳 ミレヴァと離婚(2 月)。いとこのエルザ・レーヴェンタールと再婚(6 月)。 5 月の皆既日食の際の観測で一般相対性理論が立証された。新聞報道で一躍有名に。(11 月) 1921 大正 10 年 42 歳 ヘブライ大学創設の資金募集のために、初めてのアメリカ訪問。 1922 大正 11 年 43 歳 10 月~12 月 改造社の招待により日本訪問。 1921 年度ノーベル物理学賞を受賞。その知らせは日本に来る途中の船上で受ける。 1923 大正 12 年 44 歳 日本からの帰途、パレスチナ、スペインを訪問。 1925 大正 14 年 46 歳 南米、アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ訪問。 1930 昭和 5 年 51 歳 アメリカ・カリフォルニア工科大学客員教授となる。1930 年から 1932 年にかけて連続講義。 1933 昭和 8 年 54 歳 ナチスによる迫害を逃れ、1932 年末にドイツを離れたまま戻らず。ドイツの市民権を放棄。 プリンストン高等研究所の教授に就任。 1938 昭和 13 年 59 歳 妻エルザ死去。 1939 昭和 14 年 60 歳 ルーズベルト大統領に対して、ドイツの原子爆弾製造計画の可能性を警告し、原子エネルギー の軍事的含意について述べた有名な手紙を送る。 1940 昭和 15 年 61 歳 アメリカ合衆国市民権獲得。(死ぬまでアメリカ合衆国とスイスの二重市民権を持つ) 1945 昭和 20 年 66 歳 公的な生活から退く。 1950 昭和 25 年 71 歳 遺言書を作成。遺言執行人にオットー・ネーサン博士とヘレン・デュカスを指名。 手紙や原稿の最終的な管理場所にヘブライ大学を指名。 1952 昭和 27 年 73 歳 イスラエル初代大統領に推挙されるが辞退する。 1955 昭和 30 年 76 歳 4 月 11 日 核兵器廃棄などを求めた「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名。 4 月 18 日 プリンストンの病院にて、心臓病により死去。 参考: 千葉透文 ; AMC・地球の楽好編『図説 アインシュタイン』河出書房新社、2007. アインシュタイン〔著〕 ; アリス・カラプリス編 ; 林一訳『アインシュタインは語る』大月書店、1997. Barry Parker 著 ; 井川俊彦訳『アインシュタインの情熱』共立出版、2005. 16
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