1. 2009 春ツアー催行決定!! 2. 2008 年版のビデオと DVD が出来ました

あおじゅかい
No.55
2009.4.22
会報「青樹会」
〒156‐0043
東京都世田谷区松原 3-17-2
西
敬
史 方
(TEL & FAX 03‐3321‐2660)
e-mail:ryokka@azabu-u.ac.jp
中国内蒙古沙丘・草原緑化研究会
代表
川 鍋
祐 夫
(TEL & FAX 042‐776‐2040)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~aojukai/
1.
会報事務局
2009 春ツアー催行決定!!
毎度のことながら 2009 年春のツアーの集客も思
うように進みませんでした。しかし、今回は会から
の援助も当てにしても強行催行する考え方が幹部
にはありました。とは言うもののリピーター頼りの
陣容であり、総員で 8 名(リピータ 6 名、新人 2 名)
となりました。
春のツアーは当初は 4 月 15 日頃に実施していま
したが、この時期は航空運賃も安く、植樹には最も
相応しい時期でありました。しかし、ゴールデンウイークを絡ませれば一層の集客が期待
され、植樹もギリギリで間に合うとの判断から設定を変更しましたが、思うようには事は
進展しませんでした。
今回のツアーは瀋陽から入国、大連より出国の枠組みとしました。ツアー日程の詳細は
皆様のお手許に届いた内容となります。
2. 2008 年版のビデオと DVD が出来ました
お待たせ致しました。大変に遅くなってしまいましたが、
2008 年版の「緑化支援とふれあいの旅」の記録ビデオと
DVD が完成しました。27 回(春)は相田奈穂子さんの撮影・
語り、28 回(夏)は小泉善明さんの撮影・語り、ナレーショ
ンとイラストを立野恵子さんにお願い致しました。春と夏
のツアーをひとまとめにしたもので、編集は Suzuvideo(安
井さん)で、大変な力作です。
価格は DVD、ビデオともに 4,000 円(送料込み)です。
希望者は西さん宛てに連絡(03-3321-2660)して下さい。
3.
2009 春ツアー説明会+結団式開催される♪
去る 4 月 4 日、東京駅近くの八重洲倶楽部で 2009 年春のツアー説明会と結団
式が開催されました。参加者は西、中村(民)、石川(和)、望月、木村、近田、窪
田、樋川、桐山、押田、立野の 11 名でした。会合は中村さんの司会で 15 時か
1
ら始まり、2009 年の記録ビデ
オ上映、代表代行・押田の挨拶、
出席者の近況報告、旅行説明、
現地での注意事項などの説明
と質疑応答が行われました。
17 時前に説明会は終了。
フォーマルな会(説明会)の
左から西、望月、木村、桐山さん
後はお待ちかねの結団式であ
る。馴染の贔屓(ひいき)屋さんで、20 時近くまで盛り上がり、ツアーの成功を祈念して散会
しました。
近田さん
中村さん
窪田さん
左:立野さん、右:石川さん
4.
樋川さん
押田先生
左から樋川、望月、木村、立野さん、押田先生
平成 20 年度国際ボランティア貯金に係わる寄附金を獲得!!
「平成 20 年度国際ボランティア貯金に係わる寄附金の配分」の決定通知が
3 月 3 日付けで独立行政法人・郵便貯金・簡易生命保険管理機構よりありま
した。支援の事業期間は平成 21 年 4 月 1 日から平成 22 年 3 月 31 日までで、
その決定金額は 2,750,000 円です。
申請の前には平成 19 年度の完了報告書の提出がありましたが、こちらにつ
いては 4 月 14 日付けの文書で完了報告になんら問題はないとの通知を受けて
いました。平成 20 年度の申請は平成 20 年 9 月 22 日付けで行いました。ほとんどの立案は
事務局長の西さんによるものであり、押田先生は最終的なチェックなどを行いました。
なお、詳細は同機構の HP(http://www.yuchokampo.go.jp/yucho/volpost/orginfo.html)
に掲載されていますので、ご覧下さい。
2
5. 「日立電線商事」様よりまた、大口の寄附を戴きました
昨年 12 月(会報 53 号に掲載)に続いて、3 月 17 日に日立電線
商事様から 3 回目の大口の寄附を頂戴(振込み)致しました。
昨年末に幹部会で「日立の森」構想が提案され、今年度からの
緑化計画に加え、中国側との打合せ(会報 54 号に掲載)の席上で
も、この構想を説明し、実行に移すことで合意しています。
なお、同社のホームページは以下の通りです。
http://www.densyou.co.jp/corporate/eco.html
6. 「横浜国際フェスタ 2009」にエントリーしました
例年 10 月末に開催されています「横浜国際フェスタ」に今年もエントリーしました。い
つもは 10 月の開催ですが、今年は横浜開港 150 年を記念して開催中の「開国博 Y150」に併
催する格好で、開催時期を繰り上げたとのことです。
開催日時は 9 月 5 日(土)∼6 日(日)で、場所はパシフィコ横浜展示ホールです。詳細は判
り 次 第 に会 報 な ど に 掲 載予 定 で す が 、 事 務 局 のホ ー ム ペ ー ジ は 以 下 の通 り で す 。
http://www.yoke.or.jp/jigyou/kokusaifesta.html
7.
「昔・満州からの引揚げの記録」
西
敬史
青樹会事務局長の西さんは中国大陸からのいわゆる引揚げ者です。
今春の緑化ツアーの帰路に立寄る丹東は少年時代を過ごした西さんの
生まれ故郷といえます。ここに西さんの思いも織り交ぜた記録を執筆
して戴きました。
ご本人は謙遜されていましたが、是非、一読下さい。
<はしがき>
日本の敗戦となった 1945 年(昭和 20 年)8月 15 日以後の旧満州・
「安東」
(現在の「丹東」
)
の戦後の状態やその約 1 年後の引揚げの様子については、「満州引揚避難手記」桧垣光憲著
や、「満洲、少国民の戦記」藤原作弥著(現代教養文庫社会思想社)に載っており、全般的に
はこれでよいと思うが、この二著を追記する形で、我が家、我々家族がどうであったかに
ついて、大変貴重な、特異な体験でもあるので、
「忘備録」として書いてみることとしたい。
そして、私の後の子々孫々のためにも何らかの参考となればと思うのである。
あれから、もう 60 年と言う長い歳月を経て私の記憶も大分薄れてきている上、終戦時が
小学4年生で、安東の製紙会社の社宅内にある「光陽国民学校」と言う小学校在学中で、
戦時中は殆ど社宅から出ることなく過ごした。所詮「世間知らず」と言ってもいい。
従って、大幅に前記二著に頼るとして、私達家族が直接たどった終戦後の経路を思い出
すまま、ここに記して残す次第である。
<安東(現、丹東)と言うところ>
1945 年(昭和 20 年)の 8 月 15 日は日本の敗戦の日。この日を境に海外にいる私達は路頭
3
に迷うことになるが、私達家族は旧満州の安東(現、丹東)市に住んで
いた。安東市は朝鮮半島から満州に入る入口に当る。朝鮮半島を列車
で北上すると北朝鮮と中国との国境に鴨緑江(オウリョッコウ)と言う
大河が流れており、河幅約1㎞と言うこの大河をまたぐ大鉄橋を北朝
鮮側から渡った所に安東がある。対岸の北朝鮮側は新義州市である。
安東の桜の名所「錦江山」の山頂の展望台からは北朝鮮側が一望で
き、北朝鮮の新義州市からの列車が鉄橋を渡り安東駅に着く様子は、ここから手に取るよ
うに見える。河向こうの北朝鮮の左手には、昔の王子製紙㈱新義州工場
の煙突が聳えて見えている。この錦江山から見て、安東駅の左手(東側)
が安東の市街であり、この街からさらに東へ約4km 行った所に安東造紙
と言う製紙会社があって、そこが父の勤務地であり、その会社の社宅に
私たちは住んでいた。安東造紙はタバコの紙、いわゆるライスペーパーをつくる工場だっ
た。
安東には、もう一つ安東駅の西側に鴨緑江造紙と言う製紙会社があり、他にもう1つあ
った。長白山山系の豊富な木材が筏に組まれ鴨緑江で運ばれてくるので製紙業が発展した
と言われる。(なお、中国支配となって会社名が変わり、安東造紙が鴨緑江造紙公司に、鴨
緑江造紙が丹東造紙公司と、入れ替わった名前となっている。又、北朝鮮側の王子製紙㈱
新義州工場は、朝鮮が日本と同等とされていたためこの社名であった。いずれも、昔の王
子製紙の会社である。)
終戦時の我家は、父、良造(明治 36 年 4 月生 42 歳)母、富久子(明治 43 年 1 月生 35 歳)、
長男敬史(昭和 10 年 12 月生 9 歳)、次女輝久子(昭和 13 年7月生7歳)の 4 人であったが、
戦後の昭和 21 年 7 月 19 日に次男靖史が誕生し、5 人となった。なお、我々は父の転勤で、
大阪の王子製紙都島工場から開戦前年(昭和 15 年)の春に赴任したのだった。
<戦後の安東の状態>
安東の戦後混乱については、前記二著書「満州引揚避難手記」「満洲、少国民の戦記」に
書かれているが、我々とも関連する主な事項を少々抜粋するならば、次のようなものであろう。
・ソ連軍の安東入城は、敗戦日の 26 日後の 9 月 10 日であった。
・八路軍の安東入城は 10 月下旬で、我々の製紙会社の敷地に最初に駐屯したようである。
なお、ソ連軍は八路軍の入城を遅らせ、その間に物資、機械等を徴発、接収し本国に送
った。線路のレールまで徴用され複線が単線とならざるを得ない手荒いことまでした、
とある。
・10 月 30 日「三蚊竜事件」。安東の郊外で国民党支持団と流浪日本兵が八路軍を待ち伏
せし攻撃を仕掛けた事件。結果は、情報の漏洩で逆に待ち伏せに遭ってしまい、以降
日本人の信用を大幅に失墜させることとなった。
・12 月初旬「開放同盟事件」。自称共産党員を名乗る日本人が戦後できた「日本人会」を
乗取ったが、これが国民党分子と謀ったものだった。このような事実が明るみとなり、
治安維持に当っていた八路軍政府の不信を買い、以後日本人の逮捕、処刑が相次いだ。
父も会社を代表して「日本人会」の会合に出席していたため色々な嫌疑をかけられる
こととなった。
・戦後、国共内戦は各所で続いていたが、これらは激しい戦闘と言うより、誰もが敵か
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味方かわからない区別がつかない状態で、民衆は疑心暗鬼になってしまった。それ故、
各地に自衛団が組織される、民兵が起こる等であったが、それも敵味方がくるくる
変わる状態で、その間にスパイや扇動者が暗躍し収拾のつかない状態に陥った様であ
る。内戦とは、所詮このような状態なのであろう。
<終戦からの生活>
敗戦日から 3∼4 日経った時だったと思うが、黒服の民兵風の兵士
達が社宅に現れ拳銃を突きつけて、我々家族に両手を上に挙げさせ、
「武器類を隠してないか」と床下から天井裏まで、丹念に調べられた。
60 数戸の日本人社宅全部を調べて引き揚げたようである。
私は、ここで初めて父母といっしょに「ホールド・アップ」を経験
したのだった。会社の操業は勿論ストップ。学校も中止。父らは敗戦後の対応や情報の交
換に大わらわだった。
そのうちに、「日本人会」と言うのが市中でつくられ、北方から避難して来た人々の居留
場所、食料品等、緊急の救済支援を「日本人会」がまとまって当たるようになった。我々
社宅の家々にも、北満からの避難家族や逃亡してきた兵隊さんらを家に迎い向い入れた。
藤原氏著「戦記」には、当時の日本人の数は、安東居留民が 3 万、避難民 4 万で合計 7
万人が安東にいたと記している。我家にも割り当てられた避難の兵隊さんが 6∼7 人いて皆
若い 20 歳前後だった。これらの兵隊さんは隠れに隠れてようやくやってきた様子だったが、
彼らの話す会話で、中国兵士を含む中国人総てを「チャンコロ」と呼んでいた。兵隊さん
には「チャンコロ」が慣用語として定着していたのだろうが、子供心にも、彼らは逃げに
逃げて、隠れに隠れて来たものにと、奇妙な違和感を持った記憶がある。
10 月下旬中共軍が我々の学校と独身寮に駐屯し、学校の広場で炊き出しを始める。我々
子供はそれをよく見物していた。隊列をなして騎兵隊が来る。軍馬が手綱を引く兵士の肩
に噛み付いたのも見た。軍用犬を連れた隊が来る。みな日本と同じ拳銃を持ち薄黄緑色の
服を着ている。
軍の食事では豚が生きたまま大釜の煮え湯に入れられ解体される様子も目の前で見てい
た。兵士の中には、日本兵もいて我々子供を集めて歌も教えた。毛沢東を讃える歌「東方
紅」はまだ諳んじられるが、その時教わったものである。
11 月に入って、小さい方の日本人社宅に桝さんの 7 人家族と我々4 人家族が移り住んだ。
その内に、父に嫌疑が掛かり会社で一人だけ逮捕、拘留された。工場長ら上の方が技術屋
だったので、事務屋でトップの父が会社を代表して「日本人会」に出席していた為だと思
う。刑務所内の父の様子は桧垣氏著「手記」の 83、88 頁に書いてあるので省略する。
翌年、4月下旬頃だったと思うが真夜中の夜陰に乗じて母と私と妹は社宅の塀を越えて
用意された馬車に乗り、霜の降りた夜道を市内の楠さんと言う家に行き、かくまわれた。
その方がよいと言う会社の方々の判断で隠密裏にそうされたのであろう。中国語が堪能
な尾形さんの奥さんが案内役としてついてきてくれたのだった。
居場所は市内のど真ん中。六番通り三丁目付近でなかったかと思うが、角の家だった。
楠家は眼鏡商か貴金属商を営んでいたようだったが、敗戦を期に家の表壁や窓々は大き
な木材で完全に封鎖され、小さな鎧戸一つが出入口となっていた。楠さん家族は、おじい
さん、おばあさんに孫 2 人の 4 名で、なぜか父母はいなかった。その年の 5∼6 月頃だった
5
と思うが、孫のうちの 16∼17 歳の身体の大きい長男が瀋陽方面から家に帰って来た。どこ
かの学校からの帰還だったと思う。次男は終戦の時安東中学 2 年、三男は小学校 6 年で、
これで孫が 3 名となった。
父は人民裁判によって服役の重労働を課せられ、鉄道の枕木運び等をして 6 月下旬頃こ
の楠家に帰って来た。そして、しばらくして牛皮のなめし工場で働くようになった。
私もその工場に行ったことがある。湯水の水槽に浸かった一頭分の大きな牛のなめし皮
を水槽から上げて取り出しそれを干す作業だったが、それは相当な重労働だったと思う。
ここはその牛皮で兵隊の革帯や銃弾入れ、バッグ等を作っている所で、わざわざこんな
所を父は選んだように思う。その後 7 月 19 日に弟の靖史が生まれた。
桧垣氏著「手記」107 頁には、「西家族が八月中旬、胡蘆島(ころとう)経由で引揚げた」
と書かれている。しかし、これは間違いであり、このことを明確にしておきたいこともこ
こに記す目的の一つである。桧垣さんも間違えたが、私たちの「海路による引揚げ」は、
誰にも口外しない秘中の秘であって、どんな親しい人にも言えない事だったと思う。
<引揚げについて>
胡蘆島経由の引揚げとは、「陸路による引揚げ」のことで、今の瀋陽(昔、奉天)経由で錦
州、胡蘆島と行って、胡蘆島で日本の引揚げ船に乗ると言う、戦後1年も経って 9 月によ
うやく国・共軍の協議によって成立した、言わば「正式な帰還ルート」だった。
我々の社宅の人の殆どはこのルートで帰ってきた。しかし、このルートも列車問題、国
共の内戦地域を越えるのでその間徒歩で野山を越える、野宿する等の強行軍であり、陸路
としても帰国まで約1ヶ月もかかる、相当困難なものであった。我々家族のルートは、鴨
緑江の岸壁から船で出発し北朝鮮の港に立ち寄り、韓国の仁川に上陸する、言わば「海路
によるヤミのルート」で非認可のものだったが、一人 5,000 円と、当時では一年は楽に暮
らせる位のべらぼうな金が動くので、誰かが儲け施政者が見て見ぬ振りを装ったヤミの方
法だったのだろう。
船に乗ったのは 1946 年 9 月 25 日だったと思う。そして、それから丁度1ヵ月を要して
10 月 25 日、故郷の九州、小倉の実家に到着したのだった。終戦日から 1 年 2 ヵ月 10 日
を要しての帰還だった。今から 60 年前のこと、そんな昔のことをなぜ憶えているかと言う
と、弟靖史の誕生日が 7 月 19 日であり、小倉の家に到着して 4∼5 日経って、弟の百日目
(10 月 29 日)に誕生祝いをしたからであった。小倉の実家では 4 人の生還を心待ちして
いたが、一人増えて帰って来たので、それは大変な驚きであり歓喜であった。従って、こ
の日時については間違っても、一日位ではないかと思っている。
小倉と言えば、広島に続く原爆投下本命の場所であり、
1945 年 8 月 9 日午前中、原爆投下の B29 が小倉上空にさし
かかったが生憎の曇り空で雲がかかり地表が見えなかった。
そのため、B29 は急遽場所を変更して長崎に投下したのだっ
た。小倉には父の両親、西 鶴太郎 68 歳、はる 60 歳、そ
れに良造の長女、幸子 13 歳(いずれも終戦時の年齢)の 3 名
が、当時の小倉市白銀町1丁目 406 番地、「十三間道路」の呼称だった広い道路に面し、東
洋陶器(現在の TOTO)会社のすぐ近くに、200 坪で日本家屋式の邸宅で暮らしていた。運
命の分かれ道とは、まさにこう言うことを言うのだろう。
6
私はこの数行を入れるため、わざわざ北九州市役所に問合わせをして、この由来の原爆
碑の存在も確認した次第である。
<引揚げ船での様子>
船の大きさに関しては、トン数もよく分からないし、表現の仕様が
ない。木造の帆船であり、エンジンは付いてない。しかし、木造船と
しては、かなり大きなものであった。
この船に岸壁から幅 30 ㎝長さ 4m程の「はしけ板」が1枚渡されていて、これを伝って
乗る。はしけ板の 3m 位の下は海面で波が漂っている。母から「落ちたら誰も助けてくれな
いからね」と念を押されながらこのしなる板を一人づつが順に渡った。私は、家族の飲み
水を運ぶ役目で満杯の一升瓶を三本背負っていたので必死の思いだった。楠さん家族も、
同じ船に乗った。乗船するために岸壁に詰め掛けた人たち、岸辺にもあわよくば乗れない
かと思っている人たちが大勢いて、この船に詰めるだけ詰め込んでしまった。なにしろ船
倉の中は暑く、人息切れによる湯気がまるで風呂場のように立ち込めて船倉から湧き上が
り上空に消えてゆく。船内は大騒動大混乱である。
乗船出来なかった岸壁の人々や関係者から「このままでは動けない、沈んでしまう」と
の声が懸かり、しばらくして別の船(焼玉エンジンのポンポン船)が手配されて来て、乗
船していた人の約半分が乗り移ったのだった。船が出港してからわかったことだが、乗船
した人数は 124 名だった、と私は記憶している。
20 歳にもならないだろう若い船長が「南朝鮮から安東へ岩塩を運搬している船」と言っ
ていた。トイレは船の最後尾に筵囲いが突き出て取付けられ、下を覗くと海の上で海上に
落ちるのである。又、ボート一艘が甲板上に固定してあって、これが貯水槽でもあり、水
を一杯貯めてありテント布で上から蓋がしてある。この若い船長以外の人は記憶にないか
ら、あるいは船長ただ一人の船だったのだろう。
<航海の記>
私は船底の先頭部分のど真ん中、中心の柱木に左右の側面板がせり重なって上っている
所に場所を取り、船が左右に揺れるごとにギーギーと木材の軋む音を聞きながら、頭が高
く足はなだらかな傾斜となっている処に陣取って寝そべっていた。本当に今にも分解しそ
うな船で、暴風でも来たらバラバラになるのではないかと思っていた。しかし、それはそ
うとしても、ちっとも怖いとは感じなかったし、冷静でいたように思う。助かる時はそう
言うものなのだろう。
明るいうちに出発したのだが、夕暮れには座礁して動けなくなっていた。鴨緑江の河口
は堆積砂で相当浅くなっている。又、堆積砂に柳の木が茂っているのも驚きだった。木々
の半分まで水に浸かっている。河幅は広くて両岸とも見えるはずはないが、この柳で視界
もほとんどない。しかし、塩水でなく淡水なのである。大きい河の河口はみなこうなのか
と思って見ていたが、座礁して動かない時にはロープでバケツを垂らし、海水をすくい上
げる人もいる。満潮ごとに少しずつ前進し、二晩で何回かの座礁を繰り返しながら海に出
たようだ。
翌日の夜だったと思うが、北朝鮮の海上監視船の検査をうける。又、同じ夜だったと思
うが盗賊船による臨検に遭った。これはまったく予期されたもののようで、金品の授受が
手際よく行われて、ことなく済んだようだった。
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航海中にどの位の人が亡くなったのか分からないが、楠さんのおじいさんもお亡くなり
になり、月光の下、莚に被せられた遺体は縄で船から海面に静かに下ろされて浮かび、我々
はただ手を合わせて見送った。菰は月光で照らされた波間を沈むことなく遠ざかりやがて
暗闇に消えていった。お経を唱える声は続くが静かである。ここまでいっしょに来て、最
期をよく看取れたことで何も言うことはないのである。
昼の海は、波がないとまことに美しい。緑色の黄海から紺碧の黒潮と海の変化を楽しみ、
直径が 50cm 位もある乳白色の大きなクラゲが次々と近づいては流れて行く
のを見ていた。今話題の越前クラゲのようにも思うし、もっとグロテスク
な白味だったようにも思う。
食事は船倉や甲板の方々で家族が輪となって食べる。そんな風景が毎日
繰り返される。初めのうちは持参の握り飯やトウモロコシパンだったと思う
が、その後は蝋燭を 5∼6 本丸く立てて、飯盒で米を炊いて食べる。炒り米、炒り豆、小麦
粉をカチカチに焼いた菓子パン様のものも持っていた。
空と海だけを見る生活は単調でどれ位日数がたったか分からないが、多分一週間位では
なかったかと思うが、家族によっては食べるものが尽きてしまうところが出て来た。小さ
な子供が多い家族や老人で運び手の少ないところがそうである。
父らおやじ達が集まって、この問題の相談をしだした。その結果、それぞれに持ってい
る米を供出し共同で粥をつくり、次の日から一日二回みんなで一杯ずつ粥を啜りながらつ
ないでいくことになった。子供心にも大変なことになった、どう解決するのかと思ったこ
とを憶えている。
ただこの緊急事態は、長く続けることなく済んだ。完全実施したのは一
日か一日半位だったと思う。我々の船は韓国の仁川(じんせん)の近くに来
ており、海上で韓国の漁船に出会って米軍に連絡されて救出されたからで
あった。
この航海は、この救出の日を入れて 9 日か 10 日位ではなかったかと思う。
しかし、この航海中どんな船にも小島にも出会わなかったので、みんな本
当に救われた気持ちになったと思う。発見されてからの米軍の対応は早く、米軍の上陸用
舟艇がまもなく船に横付けされ、我々は戦車や自動車が格納される四方が厚い鉄板で囲ま
れた処に乗り込んだ。みな立ったままである。
そしてエンジンの轟音とすごい振動を体感しながら、白波をたてて走る様子を感じ、こ
れで救われたと皆が思ったことだろう。上陸用舟艇は仁川埠頭の桟橋から陸に上がって止
まった。もう宵闇迫る真っ暗な時刻となっていたが、我々は照明灯に照らされながら、舟
艇の前扉が下がって地面に着地し、地上に降り立ったのだった。
<ソウルの東本願寺滞在>
その日のうちにソウル市にある東本願寺に護送された。その当時の東本願寺は引揚げ者
が滞在する宿舎となっていて、我々もこの寺の畳敷きの広いお堂に 15∼16 日滞在した。
ここで思い出すのは、頭から殺虫剤の DDT を振りかけられ全身まっ白にされたこと、煮
立った大きな釜に着ていた衣服をいれ、虱(しらみ)、蚤(のみ)、南京虫等を駆除したこと
である。衣服とてその時着ているものしかなかったから、本当に「着のみ着のまま」、子供
らは昼の日中真っ裸でこれをやらされたが、ようやく洗濯したものが着られた。
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ソウル滞在で唯一ハプニングがある。ある日のこと、父と二人で連れ立って市内見物に
出かけたが、道中で韓国人紳士に声を掛けられ、喫茶店で紅茶とパンのご馳走になった。
パンは、帰国の後にそれがコッペパンと言うものと知ったが、あの紅茶の紅い色彩と言
い、パンの菱形の形と言い味と言い、未だ忘れ難い出来事である。きっとこの人に、大変
よくした日本人がいたのだろう。こんな善意が広がらないと、世の中よくならないとつく
づく思う。
<帰国>
ソウル滞在は、混乱の地からの生還であり、船の
中から陸地への生還であり精神的にも安堵の一時
ではなかったかと思う。食事の方も米軍用の肉や豆
の缶詰、パイン缶など、初めて味わう美味をいっぱ
い食べ、元気を取り戻し英気を培った一時であった。
ソウルの東本願寺を離れ帰国の途に着いたのは、
確か 10 月 19 日位だった。朝 10 時東本願寺を歩い
て出発し、竜山駅に行って釜山(プサン)行きの貨物列車に乗った。竜山駅の名は覚えてな
かったが、桧垣著「手記」で思い出した。ソウルからプサンまで、当時 6 時間位かかった
のではないかと思う。プサンに着いてプラットホームでの夕食となった。
石油のドラム缶にトマトケチャップ和えスパゲティが一杯詰まっていて、
柄杓で飯盒皿に汲んで食べた。これも今まで食べたことのない最高の美味
だった。
プサン港では、「大隈丸」と言う名前の日本の引揚げ専用船(弐千トン?
位)が迎えに来ていた。これに乗り込むと、すべてが日本の空気で、船員さ
んまで日本人で日本語が飛び交っていると言うのがなんとも懐かしい。確か 2,000 名位の
引揚者が乗っていたと思う。船はすぐに出航となり、もう、うれしさ一杯で船内のステー
ジでは「のど自慢大会」のようなもので盛り上がり、デッキは人人人で銘々がこの一夜の
航行を浮き浮きしていたと思う。朝方、博多港に着き錨を下ろした。
船内では検便や予防注射が実施された。伝染病等の国内持ち込み防止の水際作戦である。
このため結果が出るまでの二日間程船内足止めとなったが、その後上陸が認められた。
各人は、ここで内地の行先の被爆状況等を壁にかかった大きな地図で確認する。そして、
それぞれは列車で帰郷して行った。このへんは、桧垣さんの著書のとおりである。
我々一家も約 2 時間の乗車で、郷里小倉駅に着いた。駅には、祖父の鶴太郎おじいさん
がハイヤーを雇って迎えに来てくれていた。後年、おじいさんは「おれは泣いただい。み
んなのボロボロの姿を見て」と、よく言っていた。
楠さん家族も、小倉の我が家に二泊位滞在し佐世保か大村の郷里に帰って行ったと記憶
する。楠さんには、我々五人の帰国代金(一人当り 5,000 円也)を借用していたので、楠
さんが帰郷する時、父がその 25,000 円を返済していた。
楠のおばあさんは、帰りの挨拶で「おじいさんが犠牲になって私たちの命を守ってくれ
ました」と言った。その時はピンと来なかった言葉だったが、今ではとてもよく分かるお
じいさんへの愛のこもった言葉ではなかったかと思う。
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<我々の帰国後の安東>
我々の小倉帰国は 10 月 25 日だったが、その同じ日の安東は、大変な事態となっていた。
八路軍は国民党軍に追われ安東退却を余儀なくされ、10 月 24 日の夜 0 時を期して鉄橋、
変電所、水道局、工場等の主要施設を爆破して、北方に退却したのであった。
桧垣さんはこの 25 日が船で脱出する日であったので、自著 114 頁の「安東大爆破と引揚
船」の項で当時の模様を詳しく書いている。藤原著では、316 頁に書かれている。
我々の製紙会社の技術屋さん方も家族共々北方の長白山方面に、八路軍軍属、施政者ら
と共に、船や北朝鮮側の列車を使って強制移動をされた。結局、この人たちの一団が帰国
したのは昭和 28 年、戦後 8 年を経たのであった。一方、桧垣さんと同日の 25 日、やはり
鴨緑江の岸壁から帰還しようとしていた製紙会社の二家族がいた。私より 3 つ年上の当時
中学1年だった久保田満寿男さん家族と、当時 6 年生の石岡譲さん家族である。2 人は岸壁
で言葉を交わし、石岡さん家族は大型の機帆船に乗り、久保田さん家族は小さい漁船に乗
ったが、これが運命の分かれ目となったのである。
大型船の方は暴風で座礁し船体が割れて沈没したのであった。この話は、昔の社宅に居
た人達の集まり「安東会」で、久保田さんより直接聞いたのだが、桧垣著の 115 頁に出て
いる 400 トン位の大型機帆船で誰もが大きい船へと早い者勝ちに約 900 名が乗り込んだの
だった。久保田さん達は、ソウルの東本願寺滞在中この遭難を風の便りのように聞いたの
だったが、遭難船の船長ら幾人かが助かり、その人達の伝聞が引揚者間に伝わって分かっ
たのである。
安東は、翌年(1947 年)に八路軍が奪還した。中国は、その
2 年後の 1949 年 10 月 1 日天安門広場での毛沢東による「中
国独立宣言」で独立したのであった。
<桧垣光憲著「満州引揚避難手記」の概要>
昭和 20 年元旦に吉林省敦化(トンカ)の日満パルプ㈱に単身赴任した著者は敗戦をここで
迎える。年齢は 39 歳位だった。同年 11 月 5 日、引揚げの団長として、吉林、新京、奉天
と避難行を続け、11 月 25 日王子製紙系の三社がある安東に到着する。そして安東でも刑務
所に収監されたり、帰国の時は船の焼玉エンジンの故障で、13 日間の漂流で飲料水が無く
なる等の大変な辛苦を経て翌 1946 年 11 月 24 日帰国を果たす、その奇特な避難手記である。
著者も父と同じ王子製紙系の会社の人である。
本著の中での、父良造との関わり
・66 頁、昭和 20 年 11 月 26 日、桧垣さんが 35 名を引率して安東造紙へ行く。
・83 頁、昭和 21 年 5 月2 日、東坎子(トンカンズ)刑務所の22 号室で偶然父と同室となる。
・88 頁、5 月 18 日、刑務所内の淡白(告白)大会で、父の淡白を聞き大いに参考となる。
・89 頁、翌日桧垣さんの淡白の話は自身も納得のいくもので、起死回生のものとなった。
・107 頁、7 月下旬、牛皮のなめし工場で、父を見かける。
<藤原作弥著「満州、少国民の戦記」の概要>
著者は時事通信社の経済記者で解説委員長も務め、つい2年前まで、日本銀行速水総裁
のもと、副総裁として、日本の「ゼロ金利政策」等の金融政策全般を支えた人である。
著者の父上は、ウラル・アルタイ語圏の言語民俗学者で、北朝鮮の清津から、1944 年(昭
和 19 年)春、満州に渡り興安街(現、ウランホト)の軍官学校で国語の先生として教鞭を執
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りかつ実地調査、研究をされていた。
1945 年 8 月 8 日、ソ連軍は「日ソ中立条約」を破り国境を越えて参戦して来たが、その
8 月 10 日軍官学校の職員家族 150 人は興安街脱出組第1班として 1,4000 人で脱出し、安
東まで辿り着いて敗戦を向えたのだった。その時、著者は小学 3 年生であった。著者の満
州滞在は、興安街が1年半、安東が1年 2 ヵ月であったが、記者持前の胆力で現場への踏
み込み調査、関係者へのインタビュー、文献の収集等が重ねられ、詳細で見事な記録書と
なっている。興安街の話では、脱出第 2 班の 1,3000 名が終戦日前日の 8 月 14 日、ソ連軍
の戦車隊 14 台による銃撃、蹂躙を受け百数十名しか生還しなかった、所謂「葛根廟(かっ
こんびょう)事件」と言う葛根廟付近で被った大惨事が主題である。これは著者が痛恨の極
みとするところであり、後世に是非伝えたいところであろう。
安東では避難民生活だったが、著者の父上がやりだした古本屋「鴨江書院」が情報収集
の拠点として機能し、ソ連軍、八路軍、或は国民党支持者等の動き、「日本人会」の様子等
が細かく語られていて、戦後 1 年 2 ヶ月の安東の治安状況がよくわかるものである。
私の父も唯一度と思うが、三冊程の貸本を家に持ち帰ったことがあり、古本屋の存在を
知らない私には、何か奇妙な感じであったことを思い出すのである。(完)
8. 「地球温暖化政策フォーラム」開催のご案内
NPO 法人日本気候政策センター主催の「みんなで地球温暖化政策を考えるフォーラム」
の開催の案内がありましたので、お知らせします。
日時 2009 年 4 月 28 日(火)14:00∼17:00
場所 新霞ヶ関ビル・瀬尾ホール(東京都千代田区霞ヶ関 3-2-2
新霞ヶ関ビル LB 階)
定員 300 名程度
詳細は日本気候政策センターの HP
http://www.jcpc.or.jp/ をご覧下さい。
9. 「市民環境学校」開催のご案内
NPO法人グリーンサイエンス 21 主催の第 5 回「市民環境学校」の開催案内がありまし
たので、お知らせします。
日時:5 月 14 日(木)13:00∼17:00
場所:JR市ケ谷/自動車会館大会議室(03-3264-4719)
・「水とごみと国益」東京大学名誉教授 藤田賢二 氏
・
「21 世紀の社会的共通資本としての都市のみどり」東京大学大学院教授 石川幹子
・懇談会「急がれる地球温暖化防止:水と緑が危機的状況に」
16:00∼17:00
申し込み: 事務局の留守電あるいは Fax に、お名前と連絡先を申し込んで下さい。
定員:180 名 どなたでも参加できます。
参加費:1,000 円(当日受付にて)
主催:特定非営利活動法人グリーンサイエンス21
後援:厚生労働省、(社)日本水道工業団体連合会、(社)日本水環境学会関東支部
事務局電話:留守電&Fax
03-3952-1121
詳細は日本水環境学会関東支部の HP
http://www.jswe-kanto.com/ をご覧下さい。
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氏
10. 立野恵子さん著の絵本 「ニャンタとポンタとこいのぼり」
イラストレーター・絵本作家とし
て活躍中の立野恵子さんが新しい
絵本を発行されました。以下に内容
を紹介します。
食いしんぼうコンビのニャンタ
とポンタが、サンドイッチのお弁当
を持って魚つりに。魚は沢山つれま
したが、さらに大きな魚をつろうと、サンドイッチをエサ
にします。でも、それは、こいのぼりの中に入ったカラス
のカーとウーなのでした。サンドイッチをとられた二人が
慌てて追いかけると、そこには沢山のこいのぼりが…!
サンドイッチを取り戻した二人にさらに…! どんでん返
しが楽しいお話です。最後には
発行所:あかね書房
何がつれるのかな?
11. 黄砂・昨年より多発の予測
定価
:1,260 円
中国気象局
中国気象局の予報(2009.3.22)によると、今年は昨年以上に黄砂による砂塵現象が多く観
測される模様だ。ただし 2000 年以来、砂塵の平均観測日数は全体的に減少の傾向にあると
いう。90 年代以降の観測によると、とくに中国北部で顕著に見られる黄砂は、毎年 3 月中
旬から 4 月上旬に多発する。1 シーズンで平均 10 回程度の砂塵現象を観測するが、徐々に
減少の傾向にある。その原因としては寒気の勢力が弱くなっているこ
と、緑化が徐々に進んでいることが挙げられるという。
世界気象機関(WMO)が定める「世界気象デー」の今年のテーマが
「天気、気候、そして私たちをとりまく空気」であることを受け、中
国の気象部門では黄砂現象をはじめとした気候と空気汚染の関連を
広く社会に啓蒙するとともに、環境保護活動への参加を広く呼びかけ
ていく方針。
12. 2009 年度の会費の振込みをお願いします 
4 月 1 日より始まりました 2009 年度会費
(個人会員 3,000 円、学生会員 1,000 円)納入の
件、よろしくお願い致します。
お振込みの手続きは、郵便局にある「払込
取扱票」、もしくは次の口座をお選び願います。
なお、会計は昨年 4 月より中村民夫副代表
郵便貯金総合通帳
(ぱるる)
通帳記号 10050
番
号 85383971
加入者名
ジ
ム キョ クチ ョウ
事務局長
アオジュカイ
青樹会
ニシ
郵便振 替払込書
(払込取扱票)青
口座番号
00190-3-566175
加入者名 青樹会
ヨシ フミ
西 敬史
(tamio_n@hotmail.com) が 担 当 し て い ま す 。 中 村 さ ん へ の 連 絡 は 押 田 経 由
(oshida@azabu-u.ac.jp)か、直接、ご本人へお願い致します。
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