2012/11/18 聖霊降臨後第25主日礼拝

2013/08/25
C年
聖霊降臨後第 14 主日
説教題:「 神へのにじり口 」
説教者:
伊藤節彦
イザヤ 66:18~23
ヘブライ 12:18~29
ルカ 13:22~30
22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に
言われた。24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れ
ない人が多いのだ。25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたが
たが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがど
この者か知らない』という答えが返ってくるだけである。26 そのとき、あなたがたは、『御
一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』
と言いだすだろう。27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ど
も、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコ
ブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、
そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29 そして人々は、東から西から、また南から北から来
て、神の国で宴会の席に着く。30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後にな
る者もある。」
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C 年 聖霊降臨後第 14 主日 広島教会主日礼拝
私達の父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、
皆様お一人お一人の上にありますように。アーメン
【起】
ここ数週間、私たちに与えられている福音書の日課は、とても厳しいものです。先週は、
主イエスがこの世に火を投じ、分裂をもたらすために来たというみ言葉を聞きました。そ
して今週は「狭い戸口から入れ」と命じられます。しかもその戸口はいつか閉じられる時
が来る、というのであります。
何度も繰り返し述べていますように、主イエスは今、エルサレムへの道を歩んでおられ
ます。そして、主イエスを信じる教会もまた、この十字架への道を歩む者として従うので
す。ですから、今日の物語の発端である、ある男の問いも、そのような状況の中で、私た
ちは聞かなければならない。その男の問いはこうでした。「主よ、救われる者は少ないので
しょうか」
。この男の人が、どのような思いでこの問いを発したのか、それは分かりません。
しかし、この問いには切実さ、真剣さが感じられません。問う者が自分をどこに置いて問
うているのかが曖昧なのです。その後の、主イエスのお答えを聞くならば、この男は、自分
が既に救いの中にある者として、他者の救いについて漠然と一般的な興味で語っていると
しか思えないのです。
ですから、主イエスはここで大きなチェレンジを私たちに与えておられます。私たちが
頭の中で描いている救いのパラダイム・枠組みをひっくり返してしまわれるのです。自分
がアブラハムの子孫であるとか、信仰熱心であるとかいうことの中には救いの確かさはな
い。
「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入って
いるのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」と、
これまで救いに真っ先に与ると思われた優等生たちが投げ出されるというのです。その代
わりに、
「東から西から、また南から北から来た人々が、神の国で宴会の席に着く」と語ら
れる。つまり、全ての国民が、全ての者が、神の国への招きを受け、実際にその恵みに与
るのだというのです。そこではまた、「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者も
ある」と語られるように、先に招かれたユダヤ人や義人からではなく、後から招かれた異
邦人や罪人が先ず先に神の国に入るということが告げられています。
【承】
主イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」と答えられました。この「努めなさ
い」というのは、原語のニュアンスからするとかなり弱い訳語となっています。原語では
スポーツ選手が勝利を得るために必死に体を鍛えて努力をするという言葉です。同じ言葉
をパウロはコリントの信徒への手紙一 9:24~25 で次のように語っています。
「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは
一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節
制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を
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得るために節制するのです」。信仰には確かに、厳しく自分を律してゆく側面があります。
自分を棄て、自分の十字架を負ってキリストに実際に従う行為こそ信仰です。キリストに
服従することとキリストを信じることは一つなのです。
ここで私たちが競技とか賞、冠と聞くと誤解しやすいのは、救いに与るということが何
か能力主義的なもので、試験や競争のように誰かを出し抜くことで得られるものだと考え
てしまうことです。まるで神の国の狭き門を通るための偏差値がどれほどか?
そんな思い
が「救われる者は少ないのですか?」と尋ねた男の思いにあったのではないでしょうか。
しかし、この男を私たちは笑うことは出来ない。なぜなら、私たちもどこかでこの男と
同じように、私たちは救われるにふさわしい者だと思っているからです。特にルーテル教
会には顕著で重い病があります。それは信仰義認を強調するあまり、このような信仰にお
ける厳しい闘いの側面を見過ごしにしてしまうことです。しかしそれはルターの語った信
仰義認ではなく、神の恵みの叩き売り。ボンヘッファーの語る「安価な恵み」に他なりま
せん。それは「安価な恵み」に満足し、救いに対してまどろみ、安穏として真剣さと緊張
を失っている状態、といって良いかも知れません。
一方で、私たちは次のような思いも抱くのです。私はもう既にクリスチャンであり、ま
じめに教会に通い、倫理的道徳的にも後ろ指を指される生き方はしていない。そのような
自負が、そうでない方々を無意識であっても裁いてしまってはいないでしょうか。私たち
はいつも、誰かと比較しながら生きることから自由ではないのです。
「努めなさい」という言葉は、スポーツ選手が勝利を得るために必死に体を鍛えて努力
をするということだと申しました。ここでの意味は、他者との優劣関係ではなく、むしろ
自分自身の鍛錬だということです。釜ヶ崎で長年活動している本田哲郎神父の訳は明快で
す。
「あなたたちは、狭い戸口からなんとか入るように自分と格闘しなさい。多くの人が入
りたいと願ってはいても、そこに力を入れようとはしないのだ」
。多くの人は願っていても、
自分と格闘するということに目を向けず力を入れようとはしない。ヘブライ人への手紙 12:4
にあるように、私たちはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがないのです。私た
ちの闘いは、私たちの中にある罪との闘いに他ならないのです。
【転】
ところで、狭い戸口と言いますと、茶室の躙り口を思い浮かべる方も多いのではないで
しょうか? この躙り口と呼ばれる出入り口の大きさは、高さが約 66cm、幅が約 63cm とい
いますから、かなり狭いものです。慣れていなければ、身長の低い女性でも身を屈めて入
るのが大変だと聞きます。ましてや体が大きく且つ柔軟性の乏しい私のような男性ならば
なおさらのことでしょう。
茶の湯が千利休によって大成されたことは良く知られております。利休が活躍した 16 世
紀はフランシスコ・ザビエルを初めとした、キリシタンとの出会いの時でもありました。
そのため、茶の湯とキリスト教の関係は深いものがあることも、皆さんご承知のことと思
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います。例えば、茶室の入口近くにある手と口を洗う手水鉢「つくばい」は、礼拝堂入り
口に置かれている洗礼盤と似ています。お茶を飲む所作は、聖餐式で司祭がカリスのぶど
う酒を飲む所作そのものですし、お菓子とお茶のセットがウェハース状のパンとぶどう酒
によく似ているのも偶然ではないでしょう。そのような外見的な類似点もさることながら、
今日、特に注目したいのは説教題にも用いた「躙り口」であります。
封建社会での身分の上下関係は絶対的なものでしたが、茶室に入るには誰であろうとも、
低く頭を垂れて深く屈まなければ、決して入れません。武士も刀をさしたままでは中には
入れない。茶室の中では、どんな権力者であろうと身分の高い者であろうと、まず自分と
いうものを一度捨て、お互いに一人の人間として亭主と対峙します。信仰の世界も同様で
す。狭い戸口とは一人でしか通れない道です。家族や親友が代わることも一緒に行くこと
も出来ない道。しかも名誉や富、権力や才能などを持ち込むことの出来ない裸の自分だけ
が辛うじて入ることが出来る道です。しかし、それ以外は何の制約も条件もない道なので
す。
主はエルサレムに向かって進んでゆかれます。私たちに命の門を開いてくださるため、
ご自身が命の門となってくださるために。
「狭い戸口から入るよう格闘しなさい」という主
の言葉は、エルサレムへと向かい、私たちのために十字架と復活において救いの門を開い
てくださったキリストから離れてはならない、ここにあなたの救いがあるのだから、そう
主イエスは私たちに命じているのです。
そしてこの救いの戸口は、いつかその主人によって閉められるのです。その時がいつな
のかは誰も分からない。だから、今、み言葉を聞いている今こそが大切なのだ。そう主は
語られるのです。信仰の決断とは明日ではない今、その歩みの連続に他ならないのです。
【結】
ルターは有名な『ロマ書序文』で信仰についての二つの側面を語りました。一つは、
「信
仰はわたしたちの内における神の働きである」ということです。誰も亭主の招きがないの
に茶室に入ることが出来ないように、亭主である神様ご自身が私たちを招き、私たちの内
に先ず働いて下さるのです。だから私たちは、その招きに応じるために狭い戸口から入る
ための闘いをする力が与えられているのです。
二つ目は、
「信仰とは神の恵みに対する生きた、大胆な信頼であり、そのためには千度死
んでもよいというほどの確信である」という言葉です。ここでも神様の恵みが先行して与
えられています。そしてその恵みに私たちが大胆に信頼し、確信をもって応えていくこと。
それが私たち信仰者の生き方だとルターは語るのです。
今日の週報の扉絵は、宗教改革の発端となった 95 箇条の提題をルターが貼り出している
様子を描いたものです。その第一条は「私たちの主であるイエス・キリストが『悔い改め
なさい……』と言われたとき、信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになった
のである」という言葉でした。
私たちの全生涯が悔い改めであると語るルターは、いかに私たちがたやすく神様の恵み
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から離れてしまうものであるかを知っていました。だからこそ、毎週の礼拝で、そして毎
日の生活の只中で私たちが、洗礼の恵みを思い起こし、神の御前に立ち帰ることこそが悔
い改めであることを強調したのでした。それは、神様を忘れ、日毎に己の富と権力を誇り
傲慢になる私たちへの戒めです。この悔い改めという神様への躙り口を、日毎に通ること
によって導かれる十字架の御許こそが、神様との出会いの場、恵みの場に他ならないので
す。そして主イエスは今日も、唯一つの救いへの戸口として、私たちを神の御国、永遠の
命へと導いて下さるのです。
人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリ
スト・イエスにあって守るように。 アーメン
以上本文
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