会報・第1号 2010.11.10

京都日独協会報
第 1 号
2010.11.10
■事務所:〒606-0047 京都市左京区上高野諸木町 50-3 翠川医院内 Tel・Fax : 075-701-8111
Mail : jdgkyoto@hotmail.co.jp website : http://www.jdg.or.jp/list/vjdg_j/36kyoto.html
■会報の発行にあたって
此の度、京都日独協会は会報を発行することになりました。来年 2011 年は、日独修好 150 周年を迎えます。当協会は総
会を含め年 4 回の例会を行い、ドイツ理解と会員相互の交流の場として参りましが、今後その役割は一層大きいものにな
るでしょう。若い方々の参加を進めていくことも大切な課題となってきます。そのためには、今まで以上に多面的な活動が
求められています。その一環として、「例会」の間を繋いで「会報」を発行致します。皆様方の投稿をお待ち致します。
記念行事の準備進む 2011 年 4 月
日独交流 150 周年を迎えて
下程息会員のお話を聞く
トーマス・マンと「ドイツ」という国
◇◇秋の例会◇◇
日本・プロイセン修好通商条約調印から150年目にあ
たる2011年に日独交流150周年と定め、様々な記
今年の秋の例会(Stammtisch)は、さる 9 月 25 日、中
念事業の準備が進められています。全国日独協会連合会
京区のコープイン・京都で開催されました。トーマス・
は、来年4月24日~26日来年度の連合会総会を奈良
マンの研究者である独文学者の下程息会員のお話を聞い
市で開催するとともに、それと合わせてドイツ大使館、
た後、立食パーティーを楽しみました。ドイツという国
外務省と協力して「日独パートナー・シップ会議」とそ
の特性を、歴史をさかのぼりお話頂き、感覚だけでドイ
の関連行事を実施することを決めております。日本側関
ツを理解することを避けねばならないことを思い知らさ
係者はじめドイツ側からも 60 名ほどの訪日団が参加す
れました。若い人を含め14名が参加され、多くの質問
る予定です。
や感想も提起されました。
(下程会員にこの講演をもとに
開催の主管は奈良日独協会となりますが、京都を始め
書き下ろして頂いたエッセイを裏面に掲載しました。)
近県の協会が、様々な協力を行うことになっています。
☆12 月例会のお知らせ☆
会員の皆様方には、個別にご協力をお願いすることがあ
るかもしれません。その際は、よろしくお願い致します。
家庭におけるドイツとの交流について
近年は大学生や若い研究者の外国留学が昔より減ったと
報じられます。他方中高年を中心に外国への観光旅行は
盛んです。当協会は、これらとは違って(1 週間程度の)
短期ホーム・ステイによってドイツとの相互交流を進め
たいと考えています。そのために「ホーム・ステイ受け
入れ要綱」を作りました。下記の全国日独協会連合会の
サイトから当協会へのリンクをご覧下さい。
http://www.jdg.or.jp/list/vjdg_j/36kyoto.html
受け入れをしてみようとお考えの方があれば、是非ご連
絡下さい。また逆にドイツでホームステイをしたいと言
う学生があれはご一報下さい。
冬季例会を下記の通り開催いたします。会員の皆さ
んのみならず、誰もが参加できます。お知り合いや
お友達、お誘いあわせの上ご参加ください。
■日
時 : 12 月 18 日(土)
午後 6 時半~8 時半
■会
場 : コープイン・京都
■会
費 : 別途、ご連絡致します。
クリスマスや年末の事でもありますので、楽しく
語り合うパーティーにしたいと思います。
尚、参加される方は例年通り、500 円程度の交換
プレゼントをご持参ください。
*3月例会(予定)
2011年3月26日{土}
午後6時半~
会場・会費
等後日ご連絡いたします。
「ドイツのスポーツ」
(仮題)について田附俊一会員から
お話を伺う予定です。
トーマス・マンと
「ドイツ」という国
下程
息
わが国でも長篇『魔の山』の作者として知られているト
ーマス・マンは、戦後日本の風潮によって「政治の闘牛
場」で戦う民主主義者として一時もてはやされていた。
マンはこういうアンガジュマンの作家だったのだろう
か?さにあらず、マンは政治を内心忌避していたので、
政治発言は必要最小限にとどめ、創作でもってナチズム
と対決するのを自己の本分本領としていた。その総決算
となっていたのが、亡命地アメリカで完成された辞世の
本稿は、下程会員に講演でお話いただいた内容を中心に、特
別に加筆・書き下ろしていただいたものです。写真は、例会
での場面です。
作『ファウストゥス博士』(1947 年)であった。
帰するところ、ドイツの芸術家である自己自身に対する、
マンはナチズムをつねに自己の時代と人生を踏まえて理
自虐的・断罪的批判となっていた。この絶体絶命の場で
解しようとしていた。だからこそその魔性をその内面か
マンが垣間見ていたのは、こういう「悪しきドイツ」を
ら具体的に認識し批判することができた。この『ファウ
克服していく「良きドイツ」への道であり、ここにドイ
ストゥス博士』の総合テーマは、音楽と哲学の領域にお
ツの今後のアイデンティティを見出そうとしていた。そ
いて世界に冠絶していた「ドイツ特有の内面性」の問題
れは、ゲーテのヒューマニズムを導きの星とするもので
であった。それはドイツの政治音痴と切り離して考えら
あった。ここでマンがその礎石としていたのは、
「良い意
れない。事実、世紀の哲学者ハイデッガー、ノ―ヴェル
味でドイツ的なのは脱ドイツ化することである」という、
賞作家グラス、丌世出の音楽家カラヤン、シュヴァルツ
ニーチェのテーゼであった。
コップ等、これらドイツの超エリートは往時ナチスの翼
ところで戦後のドイツが国是としているのは、国際協調
賛者、それとも党員であった。こういう事例は枚挙に暇
と世界平和に貢献する、新生ドイツである。そのために
がない。どうして彼らはナチズムに足をとられてしまっ
「ドイツとドイツ人」は「ナチス時代」という「過去」
たのだろう?マンの観るところ、ナチスが党是としてい
を何が何でも克服し清算しなければならない。ドイツ本
たドイツの民族と文化の至上化・一元化は、退廃と混迷
国でもわが国でもベストセラーになった、シュリンクの
の極にあった西欧文明に対する「浄化の嵐」という電撃
『朗読者』
(Der Vorleser 1995 年
作用となっていた。この作品においてドイツ史未曾有の
「愛を読む人」
)はこの現況を端的に物語っている。知識
悲劇は、
「梅毒」注1という致命的な病によって創作力が
人や要職者の過去の言動の暴露や糾弾は現在も絶えない。
絶頂を極めたときに破滅する、
「孤高の天才音楽家」注2
こういうドイツの「戦後責任」の問題にかんする論議は
の悲劇としてシンフォニックに物語化されていた。教養
熱く、過去の追及の執拗さはおよそ日本の比ではない。
ある読者は、その概要はニーチェの生涯のパロディーと
ドイツ人はその名に値する「国際人」になるためには、
なっていることに気付くだろう。マンは、こういうドイ
かつてヤスパースが声明していたように、こういう腹の
ツ固有の悲劇を20世紀の芸術家の宿命の十字架と解し
底からの贖罪行為を必要としていた。ここに看取されて
ていた。それは、本作品の標題が示唆するとおり、悪魔
くるのは、アイデンティティの絶えざる模索という、ド
との契約を意味しており、本作品は同時にまた「民衆本」
イツ精神特有の伝統にほかならない。
「何がドイツ的であ
の『ファウスト博士』のパロディーともなっている。
るか、これを問うことこそもっともドイツ的である」と
映画化
The Reader
いう、ニーチェの命題は今も生きている。マンは、眼光
注 1 )この主人公はブラティスラバ(旧名プレスブルク)で梅毒に
核心を照射し尽くすニーチェのドイツ観の正統な継承者
感染するが、この街は、若きヒトラーがグラーツでのR.シ
であった。以上のようなマンのナチズム解釈は社会科学、
ュトラウスの『サロメ』初演を見るために立ち寄った街では
人文科学とは縁遠く、あまりにも文学的であることは争
なかろうかと、語り手 は読者を推察させるよう暗に仕向け
えない。その手法があまりにも保守的なことは、同時代
ている。
人のカフカと比べれば一目瞭然である。カフカのように
注 2) ヒトラーは天才芸術家の醜悪きわまる兄弟にほかならない、
とマンは評論で特徴化している。
以後の作家に大きな影響をあたえてはいない。けれども
反面、マンが提唱していた「良きドイツ」という理念は、
ドイツ人が今や歩まねばならない王道となっていること
こういうマンのナチズム批判、すなわちドイツ批判は、
は確かである。
(したほど・いぶき
独文学者)