544号平成20年3月15日号

第544号
平成20年(2008年)3月15日発行
奇数月15日発行・昭和30年8月6日第三種郵便物認可
関西大学校友会
〒564-8680 吹田市山手町3-3-35 関西大学会館
電話06(6368)1121(代) FAX06(6380)8476
URL http://www.kandai-koyukai.com/
Eメール koyukai@jm.kansai-u.ac.jp
卒業特集
一軸会長・河田学長・森本理事長の新卒業生に贈る言葉
新卒業生・定年退職教授の「大学を去るにあたって」
2008年スプリングフェスティバル4月6日開催
理工系3学部開設・工学部創立50周年記念祝賀行事5月17日(土)に開催
平成20年3月6日竣工の第4学舎3号館 空中テニスコートと屋内グラウンドを併有する
5
∼千里山中央体育館∼
平成18年10月15日に開催された母校創立120周年記念校友総会の会
場となり、初めて足を踏み入れた校友も多かったのではないだろうか。
千里山キャンパスの再整備計画の一環として、体育施設の充実を目的に、
旧第2グラウンド
(野球場)跡地と周辺を整備し、
「 第2体育館」として建設さ
れ、平成6年3月20日に竣工した。総床面積は約9,200㎡。
2階のメインアリーナは球技種目フロアだが、
6千人が一堂に会することの
できる広さを有し、学部入学式や卒業式(写真下)、
また教育後援会総会会場
などにも使用されている。
1階には、多目的に使用するフロアと武道系種目を
中心に使用するフロアの2つのサブアリーナがある。また、
3階には約180m
のU字型ランニングレーンが設置されている。設計者は、学内の多くの設計を
手がけた村野藤吾の流れを汲む斉藤格司(斉藤設計事務所)。
なお、学内施設の名称変更に伴い、平成14年4月1日に「千里山中央体育
館」
と改称された。
カンダイズーミング
目
第544号
次
卒業特集
一軸会長・河田学長・森本理事長の新卒業生に贈る言葉 …………………………………… 2
新卒業生・定年退職教授の「大学を去るにあたって」…………………………………………… 4
校友会から「新卒業生」の皆さんへ……………………………………………………………………… 10
理工系3学部開設・工学部創立50周年記念祝賀行事5月17日(土)に開催 ………………… 11
大学関係
第4学舎3号館(屋内グランド・空中テニスコート)竣工………………………14
新第1学舎1号館完成、あすかの庭・高松塚古墳壁画再現展示室も誕生 …………14
大阪医科大学・大阪薬科大学と全国初の共同学部 平成22年設置へ ……………15
学生関係 高橋大輔四大陸選手権初V! …………………………………………………17
体育会馬術部 全日本学生優勝祝賀会開く ……………………………………17
アーチェリー部石井選手 全日本室内個人選手権優勝etc. ……………………18
と
きらっ人校友録⑪(社)神戸日仏協会 秘書 小谷 舞さん ……………………………12
本部関係
2008年スプリングフェスティバル開催要項・総会等開催団体一覧 ……………20
新年互例会に230余人が参集 …………………………………………………23
第24回支部対抗親睦ゴルフ大会 5月20日に開催 ……………………………24
22 大城規由(上) ………………………………………19
オース!ごきげんさん。◇
北から南から(各地支部だより)………………………………………………25
会と催し ……………………………………………………………………………35
校友短信 …………………………………………………………………………36
校友トピックス ……………………………………………………………………37
新刊紹介 ……………………………………………………………………………38
訃報 ………………………………………………………………………………40
寒いときにはやっぱり、﹁な
べ﹂ですよね。〝食いだおれの
まち〟大阪には、﹁チャンコ﹂
はもちろん、﹁うどんすき﹂や
﹁紙なべ﹂さらには﹁草なべ﹂
や朝鮮伝来の﹁カムジャダン
︵イモなべ︶﹂など ⋮⋮、大阪
ならではのお鍋がたくさんあります▼
﹁すき焼き﹂は東京にもありますが、こ
れは大阪で農具の﹁鋤︵すき︶﹂を使っ
て肉を焼いたのがその語源といわれてま
す。大阪でいうすき焼きは、東京ではむ
しろ﹁牛なべ﹂。最近、大阪でも﹁牛な
べ﹂屋ができていますが▼ところで、職
場の仕事仲間や取引先との飲み会にでか
けるとき、大阪人は必ずといってもいい
くらい﹁行こ行こ﹂といいます。飲み屋
に着いても﹁ワインたのもか?﹂﹁たの
もたのも﹂▼休みの日でも、﹁ひさしぶ
りにソフトボールしょうか?﹂﹁やろや
ろ﹂。普段でも、﹁テレビみたか?﹂に
対しては﹁みたみた﹂。﹁おまえ、聞い
たか?﹂には﹁聞いた聞いた﹂。﹁会議
で忙しいけど、昼メシ食うたか?﹂﹁食
うた食うた﹂。果ては、﹁そやな!﹂
﹁そやそや!﹂まで▼なんで大阪の人間
は言葉をかさねるのでしょうね?一度、
飲み屋にいったとき耳をすましてみてく
ださい。自分が言っているのにも気が付
くかも。大阪人の﹁愛想のよさ﹂としか
言いようがありません。やっぱり﹁大阪
文化﹂は庶民がつくるんですね。
1
葦の雫
卒業特集
五千八百余人の新学士が誕生、期待を胸に社会へ翔く
れは、私たち先輩校友が新しい仲間を迎える時でもある。
新たな出会いを求めて実社会へ飛び出していく開花の時だ。そ
だいた。
たって「学生生活四年間の思い出と今後の抱負」を語っていた
学 生 生 活 で 顕 著 な 実 績 を あ げ た 八 人 の 新 卒 業 生 に、 卒 業 に あ
「卒業特集」として、一軸浩幸校友会長と河田悌一学長、森
桜が淡いピンクの蕾をふくらます春分の頃、学園は卒業の季
節を迎える。大学・大学院を卒業し、大きな期待と不安を胸に、 本靖一郎理事長から「新卒業生に贈る言葉」を、課外活動など
平成十九年度の学部卒業式は、三月十九日午前十一時から千
三月二十二日午前十時から第二学舎四号館BIGホール一〇〇
なお、第一高等学校の卒業式は、一足早く二月二十三日午前
十時から秀麗館で行われ、四百四十九人が卒業していった。
たって「お別れの言葉」を寄稿いただいた。
里山キャンパス・中央体育館で挙行され、五千八百余人の新学
また、三月末には校友には思い出深い二十二人の恩師の先生
士が誕生する。また、大学院の学位記(修士・専門職)授与式は、 が定年退職される。代表して六人の先生から、関大を去るにあ
で行われる。修士課程と法科大学院(専門職)、今年一期生を
出す会計専門職大学院の修了者は合せて七百四十余人。
た。転職される諸君も少なから
早期離職は慎重に」と書きまし
と ば と し て「 石 の 上 に も 三 年、
に確立しております。諸君はど
と支部等のネットワークも全国
以上の団体があります。校友会
域支部を含めて全国に二百五十
諸君を迎える校友 OB・OG
の組織体、関西大学校友会は地
新卒業生に贈る言葉
ず お ら れ る で し ょ う。 し か し、
こかの組織に属しましょう。縦、
間、社会とは、生きるとは、人
最高の教学の環境のもとで四年
「一輪咲いても花は花です」を
はなむけに、大いに頑張ってく
れます。
しょう。必ずや人生の糧を得ら
延べ三十万人の大所帯です。先
大学というものは、就職をす
るための予備校ではありません。 輩 諸 兄 姉 の 説 話 を う か が い ま
そして忍耐です。昨年、贈るこ
これは更なる飛躍を目指す手段
横の連携を得ましょう。卒業生
校友のネットワークに参加を
であります。不平、不満を申し
上げます。
間とは…、良き指導者・良き友
軸 浩 幸
る。
てはいけません。
企業や官庁への就職、更に学
問 を 究 め よ う と 大 学 院 へ 進 学、
とともに思考を重ねて業を卒え
ださい。母校は文字どおり母な
校友会長 一
四年間のキャンパスライフを
終え、母校を飛び立つ諸君に心
すべて長い人生の希望に満ちた
た の で す。 母 校、 十 学 部、「 強
からおめでとうとお祝いを申し
再出発点に立っております。人
古都・奈良に春を呼ぶ東大寺
二月堂の修二会(お水取り)が、 生に挫折はありません。あきら
る大地です。
福者であったと思います。
い関西大学」のもとで最良の至
とも捲土重来です。我慢、辛抱
いよいよ三月一日本行入をした。 めない、投げださない。なにご
春は別れと出会いの季節でもあ
2
ません。
ように想い出されるに違いあり
き時代の宝物として、走馬灯の
て、本を捨てて勉強をやめると
こ う し た 状 況 を 考 え る と き、
みなさんは卒業したからといっ
二〇四倍に増加しました。
達し、この十年間でなんと約
が昨年は一億三千七百万人に
トの利用者は六十二万人。それ
ます。
この言葉を、卒業生のみなさ
んに贈る言葉としたい、と思い
です。
会ったか。これが、私たち人間
どれだけ素晴らしい人びとと出
―― ど れ だ け 面 白 く 本 を 読
み、 ど れ だ け 美 し い 絵 を 見 て、
今後の長い人生の折々に、み
な さ ん の 体 験 の 一 つ ひ と つ が、
でしょう。
の学園を旅立っていかれること
後輩、教職員に別れを告げ、こ
かったという感慨を胸に、友人、
とともに、関西大学に学んでよ
をもたらしたものでもある、と
一人ひとりの総力が、この評価
やクラブ活動に勤しんだ皆さん
に実感することでしょう。勉学
会に出られてから、在学中以上
このことは、きっと皆さんも社
七年、中国では、インターネッ
れるものです。たとえば一九九
インターネットの流行に象徴さ
文明史的にみれば、それは携
帯電話、ワープロ、パソコン、
のであります。
争社会とを重視する、というも
すなわち、①市場原理を優先
し、②科学技術と経済成長と競
卒業生である西加奈子さんの第
活躍、文化面においては法学部
はじめとする体育会各クラブの
ーターとなった高橋大輔選手を
他にも、世界に誇るトップスケ
教育・研究面での競争的資金の
E 獲 得 を 筆 頭 に、 G P そ の 他、
ある文学者は、次のようにの
べています。
つづけて欲しいのです。
かならず週に一冊は書物を読
む、といった学ぶ努力を今後も
く必要があります。
にも、道徳的にも、成長してい
をもちつづけ、自分自身を知的
なかで、つねに真剣に学ぶ意欲
れば、卒業生皆さんの活躍の場
関西大学の評価がますます高ま
皆さんの活躍こそが、関西大
学 の 評 価 を 高 め る も の で あ り、
ければなりません。
いることを、ここで申し上げな
い実績をあげているところです。 んの活躍が、その成否を握って
獲得においても、次々と目覚し
は、ますます広がっていくこと
には、社会における卒業生皆さ
て「強い関西大学」であるため
しかし、今後、未来永劫にわたっ
希望しています。
な人生を歩んでくださることを
各地で、少しでも世のため人の
をもって、日本のみならず世界
と同時に、関西大学の卒業生
であるということに誇りと自信
にとっての最後の財産になるの
ロ ー バ ル 化 と い う“ 怪 物 ” が、
い う わ け に は い き ま せ ん。 グ
忘れ去ることができぬ貴重な若
いうことをお伝えしたいと思い
二十四回織田作之助賞大賞受賞
でしょう。
みなさんが関西大学を卒業さ
れる二十一世紀初頭のいま、グ
洋の東西を問わず横行していま
ローバル化がますます進展する
田 悌 一
し て 少 し ば か り の 不 安 を 胸 に、
す。そのグローバル化には、共
長 河
今日のこの晴れの日を迎えられ
通の考えがみられます。
申し上げます。
ます。
など、画期的な業績は枚挙にい
理 事 長 森 本 靖一郎
や様々な経験、それらを通して
数々の思い出を胸に、柔らか
で一番元気のある大学は関西大
い 躍 進 を 遂 げ ま し た。「 わ が 国
皆さんが在学しておられたこ
の数年の間に、関西大学は著し
れ、注目が集っています。
のニュースが大きく取り上げら
薬科大学との共同学部設置構想
今年に入ってからでも堺市へ
の進出や、大阪医科大学・大阪
く そ の 実 を 結 び つ つ あ り ま す。
の取組みは、ここへ来てようや
私が自らの使命として掲げま
した「強い関西大学」へ向けて
た多様な才能が次々と開花して
どうか、関西大学の卒業生と
いることを全国に示しています。 して、自信と誇りを胸に、力強
ためになる、有意義で稔り豊か
今後、いずれの道に進まれる
にせよ、学生時代に培った学力
最近では、新聞紙上やテレビ
のニュースでも、関西大学の名
とまがなく、関西大学で養われ
おそらくみなさんの多くは充
実感、達成感、満足感をいだく
学
たことでしょう。
誇りと自信をもって!
卒業生のみなさん、ご卒業お
めでとうございます。
みなさんは、いま新たな旅立
ちを前に大きな期待や希望、そ
果たした人間的成長こそが、何
前を見聞きする機会が大変多く
「強い関西大学」は皆さんの双肩に!
よりも、これからの人生を歩ん
な 陽 光 に 溢 れ た キ ャ ン パ ス を、
学」との評判を、そこかしこで
また、念願のグローバルCO
でいく大きな糧になるでしょう。 なってきました。
今まさに巣立とうとされる卒業
耳 に す る よ う に な っ て い ま す。
く自らの道を歩んでください。
生の皆さんに、心からお祝いを
3
卒業特集
ての方々への感謝を忘れず、ま
胸中をよぎるのは先輩達との思
い出。いよいよ私達の番になっ
討を重ねた結果、歴代委員長の
きました。その過程は容易では
悲願であった本部昇格に辿り着
為に一番必要なことは何か、検
た新しく出会う人達と共に頑
合宿場の手配、OBさんへの連
卒業にあたって
絡、書類の作成などをしていま
人と人の繋がりから
たのです。皆が研究活動を行う
2年間の裏方の仕事で
した。こうした裏方の仕事をす
張っていきたいと思います。
多くの人たちの支え知る
生まれる“力”に感動
る事で部がどのように運営され、
なく、幾度も話し合いを重ねま
した。衝突する事も度々ありま
~
井尻 有紀子(文4)
川村 広行(社4)
平成 年
度学術研究
したが、その分満足できる結果
だけ多くの人々の支えにより成
会運営委員
そしてアイススケート部がどれ
り立っているかという事を知り
ア イ ス ス ケ ー ト 部。 平 成
年度総主務。
大学生活を振り返ると、クラ
ブで過ごしたことが多く思い出
を得られました。多くの団体の
協力と、信じてついてきてくれ
二回生になってからはクラブ
のマネージャー的な仕事をする
ていた時期もありました。
校に行き、それから練習に行っ
て、早朝にアルバイトをし、学
うと、常にアルバイトはしてい
はスケートの費用は自分で稼ご
ところで選びました。大学から
私は中学からスケートをして
いて、大学もスケート部のある
ブを通し多くの人と出会うこと
なりつつあります。そしてクラ
代も今思い返すといい思い出に
ぎてしまえと思っていた幹部時
た。当時はしんどくて、早く過
本当にいつも助けられていまし
部員や先輩がいてくれたお陰で
。しかしそんな私でも見放
・・・
さず親身に相談に乗ってくれる
迷惑を掛けてきてしまいました
かりだったので、いろんな人に
ではなく、仕事も手こずってば
そして私はテキパキとこなす方
員会で、自分の無力さを痛感し
して飛び込んだ学園祭の実行委
たい衝動に駆られました。そう
れ、無性に自分の可能性を試し
史や、先輩方の努力と情熱に触
に参加した私は、学研創設の歴
一回生の冬、学術研究会の合宿
ります。その委員長の任を解か
や法政、マスコミ等多岐にわた
の行事ではよく熱も出しました。 おり、研究する学術分野は語学
大学での四年間を何よりの誇り
で心強い仲間達と過ごせた関西
私は生涯、彼らの笑顔を忘れ
ないとともに、こんなにも素敵
瞬間、迷いが晴れました。
たのかよく自問自答しています。 か迷ってしまう時がありました。
れた今、私は後輩達に何が残せ
に思います。
一際強い思い入れがありました。 輩達の笑顔と瞳に宿る光を見た
私は部活の先輩に特に可愛が
られていたので、課外活動には
仲間の期待と信頼が
これが後輩達のためになったの
ができました。ですが、未だに
力が合わさり、遂に実現する事
励まし、支えてくれた仲間達の
た 後 輩 達、 そ し て 時 に は 叱 り、
総主務を任されました。私達の
が出来、また普段出来ないよう
打ちのめされました。だからこ
学術研究
会は二十二の団体で構成されて
代は一つ上の先輩がいてなかっ
な経験も沢山してこれたのだと
そ、全員で力を合わせて学園祭
田坂 直也(法4)
励みと支えになって
そんな幹部の間は毎日が忙し
く、日々悩んだり泣いたり、部
た為、総主務を二年間務めまし
思います。四回生になり幹部を
を成功させた時、人と人との繋
先日、学術研究会の合宿にO
Bとして招かれた時、そこで後
た。連盟や試合の登録、練習・
引退した学生最後の年はのびの
平 成 年 度 体 育 会 本 部 長( 陸 上
競技部)。
19
そして迎えた大学生活四年目、 関西大学に入学し、すぐに私
強い感動を覚えました。
がりから生まれる力の大きさに
これから新しい環境に変わっ
ても、これまで支えて頂いた全
本人左
びスケートをしました。
と感じます。
会委員長。
19
ました。
18
され、本当に四年間早かったな
17
4
は何度もありました。ただそれ
の不甲斐無さに嫌になったこと
こと、いくつもの失敗から自分
す。つらかった事、苦しかった
は様々な感情があふれ出てきま
ます。その一つ一つの思い出に
しての思い出がよみがえってき
仕事や、陸上競技部の一部員と
企画など体育会本部員としての
の実行委員長や体育会卒業式の
今思い出すと本当に多くのこ
とをしてきました。総合関関戦
じ取ることができました。
西大学体育会を通して学び、感
など本当に多くのことをこの関
さ、苦しさ、自分の成長、失敗
全てであったと言えます。楽し
大学四年間のすべての始まりで
にも入りました。これらが私の
う体育会の中心となるべき組織
した。そして、体育会本部とい
ありがとうございました。
感謝したいと思います。本当に
を送ることができた全ての方に
そして、私がこの誇るべき関
西大学に在籍し充実した四年間
きたいと思います。
切磋琢磨し自分を成長させてい
が、大学時代と変わることなく
の友人と共に、環境は違います
卒業してからもこの大切な多く
と思っています。このつながり
た。本当に多くの友人ができた
学年が上がるごとに多くの仲
間と知り合い交友を深めまし
い大切なものです。
私にとって何事にも変えられな
た め に 過 ご し た 多 く の 時 間 は、
標の達成、様々な行事の成功の
る多くの体育会関係者と共に目
私を助けてくれた陸上競技部
の仲間、体育会本部を始めとす
りました。しかし私を時に厳し
だろうかという大きな不安があ
四回生になり、主将という立
場になったとき、私に務まるの
が私は好きでした。
り、ワイワイ騒いだりする時間
わった後、部室でまったりした
また、練習やトレーニングが終
でも部員同士で声をかけあうこ
りそうなくらいしんどかったで
たり、思い出すだけで息があが
と一緒に走ったり、階段を走っ
化が始まりました。サッカー部
でなく、トレーニング面でも強
目標を達成するべく、練習だけ
が設定されました。そしてその
い き、「 一 部 昇 格 」 と い う 目 標
から一人一人の意識も高まって
選手が集まってきました。それ
集まり、また戦力的にも優秀な
かったのですが、徐々に人数が
と思います。また、大学生活で
間的に格好良い女性になりたい
活動で学んだことを活かし、人
四月からは大学を離れ、社会
人になりますが、大学生活や部
ます。
て精一杯応援していこうと思い
生 も こ れ か ら は、 一 OG と し
ほしいと思います。私たち卒業
とでやりぬくことが出来ました。 部昇格」という目標を達成して
であり、財産であると思います。 す。しかし、しんどく辛い練習
こそが私の大学四年間の思い出
く、時に優しく支えてくれた同
レーヤーになり、その結果、
「一
が、 人 の 気 持 ち を 動 か せ る プ
負ではもちろん勝敗も大事です
見て胸が一杯になりました。勝
も一生懸命声を出す部員たちを
プレーや、試合に出ていなくて
した。また、一生懸命で必死な
までにないくらい盛り上がりま
ました。最後の引退試合では今
気にバスケットボールをしてい
そこの言葉を確認し、明るく元
合言葉でした。しんどいときこ
一丸」
「関大らしさ」が私たちの
とが出来ました。また、
「チーム
は体育会陸上競技部に入部しま
以上に周りが期待してくれてい
とって本当に励みになりました
信じてくれていたことは、私に
大切な仲間たちと過ごし
関大らしさ―
そ、私は主将を務めることが出
頼もしい後輩たちがいたからこ
級生、とても力強く一生懸命で
と思っています。
これからも大事にしていきたい
出会った仲間たちとの繋がりを
る こ と、「 田 坂 な ら で き る 」 と
し、私を支えてくれました。
目標を果たすことが出来なかっ
福井 友則(文4)
「 一 部 昇 格 」 と い う 目 標 を 掲
「何か始めたい」気持ちを
げ、部活をしてきました。結果、
ボランティア活動で形に
来たのだと思います。
バスケットボール部女子平成
年度主将
たけれど、一つの目標に向かい、
ボランティアセンター学生ス
タッフ。
谷垣 裕子(文4)
充実した大学部活動生活
大学生活を振り返ってみる
と、思い出すのは大学生活の大
部員全員が同じ気持ちで努力す
半を占めていた部活動のことで
ることの素晴らしさを感じるこ
私は最初「何か始めたい」と
す。 入 部 し た 時 は 人 数 も 少 な
5
19
卒業特集
した。その中で、自分のこの漠
てが新しく始めることばかりで
できたばかりの団体であり、全
たが、当初学生スタッフはまだ
加したのは三回生の春からでし
タッフに参加しました。私が参
ター学生ス
ティアセン
で、 ボ ラ ン
した気持ち
最後に、二年間という短い期
イレギュラーだらけの一年間
間でしたが、職員の方や先輩方、 を苦労して乗り越えたことが私
です。
会い共に活動してこれたおかげ
もひとえに、今の仲間たちと出
は感じることができます。これ
を経て一つの形になったと今で
私の気持ちも、これまでの活動
る時の「何か始めたい」という
います。学生スタッフに参加す
上に充実した活動になったと思
いただき、学内外問わず前年以
大学の広報や新聞にも紹介して
ないのです。
先輩方に教わったことに他なら
すが、それも結局は尊敬出来る
の礼儀には気を配ったつもりで
れれば嫌とは言えない後輩達へ
けていたようです。私に命じら
皆に助けて貰う手腕にだけは長
な こ と で す。 強 い て 言 う な ら、
遂げたことは本当に、ごく僅か
活の中で、私だけの手腕でやり
文化会二十七団体、千二百人
の代表だった本部長としての生
しい経験を積ませてくれた関大、
最後になりましたが、偉大な
先輩方と大切な仲間達、素晴ら
になりたいと思います。
母校の名誉の為に活躍する人間
う教訓を忘れずに、校友として
ば必ず結果がついて来る、とい
四年間の経験で得た、感謝の
気持ちを忘れずに行動していれ
ろうと感じました。
の単純さ故に見つけにくいのだ
事の本質はいつでも単純で、そ
然とした気持ちを形にしていく
の誇りとなったことは事実です
越 沖 地 震 募 金 活 動 な ど を 行 い、
ため、自分なりに試行錯誤を繰
同回生の仲間、そして後輩の皆
が、それは全て、多くの人々と
いう漠然と
り返しながら活動に参加してき
の支えがあったからこそ今の自
久基(文4)
しかし部員全員の努力はもち
ろ ん の こ と な が ら OB の 方 々
や大学関係者の方々のご支援の
お陰もあり、徐々に他大学との
距離が縮まることを感じ、私自
身の技術も高まり国際大会でメ
した。そうした中で大学の千里
松村
ことができた学生生活
満足する競技生活を送る
達に心から感謝致します。
そして、私を慕ってくれた後輩
ました。
分があり、心から感謝していま
の出会いの中で学んだことを忠
特に学園祭で行ったリサイク
ル活動を中心とした環境キャン
キャンパス内に射撃場を建設し
実にこなしていった結果に過ぎ
射 撃 部 主 将。 全 関 西 大 学 ラ イ フ
ル 射 撃 選 手 権 大 会 で、 三 季 連 続 総
す。社会に出てもここでの経験
ません。文化会、そして私のた
合団体優勝。二〇〇五年ハンガリー
ペーンについては、後輩と共に
めに時間を犠牲にしてくれた後
さった先輩方のように、慕われ
す。そして、私を成長させて下
生射撃選手権大会の日本代表選手、
のブダペストで開催された世界学
私は恩返しをしたいと思ってい
ていただけることになりました。
ダルも獲得できるようになりま
を大切にし、新たな一歩を踏み
輩を愛することは当然の礼儀で
責任者の一人として企画段階か
出したいと思います。
ら積極的に関わり、学生スタッ
ター職員の方はもちろん、学外
学生生活のほとんどが
たのですが、ますます大きなご
フの仲間やボランティアセン
団体の方々とも協力してこの企
団体優勝に貢献した。
浩則(商4)
る先輩に自分もなりたいという
宮西
で村制五十周年の花桃記念植樹
に、心から泣いたり、笑ったり
館という決して広くはない建物
課外活動ばかりだった四年間
が終わろうとしています。誠之
れただけのことです。結局、物
実績として、それなりに評価さ
学に恩返しをしたい」という思
らえたという経緯から「関西大
で優秀でなかった私を拾っても
いう思いと高校時代に特に射撃
私は関西大学に入学したとき
「射撃部を日本一にしたい」と
その後私は主将を任していた
だき、先輩方が残された関西王
できました。
に全関西大会で優勝することが
方の多大なるご活躍もありつい
そして私が三回生のときに先輩
恩をいただくことになりました。
活動を行ったりと、学生スタッ
した私の学生生活のほとんどが
いがありました。入学当時は関
者関大の名に恥じない結果を残
一心でやり抜いた結果が昨年の
フだからこそ関わっていくこと
詰まっています。今でも自信を
西の強豪校との距離は遠く全国
さなければならないという責任
年度文化会本部長。
詰まった誠之館
画を成功させることができまし
のできる活動に参加してきまし
持って言えることは、誰よりも
大会でも実力の違いを痛感する
と重圧の大きさに戸惑うことも
た。他にも、関大と地域連携協
た。
あの建物と、そして文化会を愛
ことが多くありました。
平成
そして新しい後輩たちが仲間
となってくれてからは、たばこ
したということです。
定を結んでいる奈良県明日香村
マナーキャンペーンや新潟県中
19
6
いう思いが繋り、全関西大会で
てみれば部員全員の「勝つ」と
ありましたが、結果を振り返っ
そ の た め、 一 回 生 の と き か ら
れほど多くはありませんでした。 たが、四年間続けてこられたの
競技なので、大学の部員数もそ
マイナーというイメージのある
も多くの人たちに支えられてい
いと思います。最後になりまし
ことを生かして頑張っていきた
たな一歩を踏み出していきたい
てくださった人々に感謝して新
たからだと思います。その支え
変化の激しい今日の社会に
あって、関西大学が名実ともに
びや か
) さず」の精神で臨んで
ほしいものです。
何事にも「強者は弱者を劫 お
(
であってほしいということです。
本学生大会においても四位では
ら続けて三連覇を果たし、全日
ました。
では三連覇を果たすことが出来
り、その結果、関西学生選手権
だ第一学舎の一号館も今春に向
るを得ません。私が慣れ親しん
ます。
て称えられることを期待してい
と思います。
春・秋と優勝し先輩方の優勝か
様々な大会に出場する機会があ
大学を去るにあたって
ありましたが、実質二位という
真に「強い関大」を願う
頃です。古いものに愛着を感じ
これからは射撃だけでなくあら
また、二回生の秋学期からは、
アメリカでもトップクラスの選
は強いものになりました。
員、学生諸君を始め利用する者
安全上、美観上などのキャンパ
けて新しい姿を見せ始めたこの
生の時には、同期の三人だけで
るのは、当然の感情でしょうが、 文学部教授 上村 哲彦
日本を代表する優れた大学とし
恥じることない成績を残すこと
法学部教授 池田 敏雄
私は四年間とても満足する競
技生活を送ることができました
活動するという時期もありまし
ができました。
私の一つ上の学年と一つ下の
学年がいなかったために、二回
が、まだまだ関西大学に対する
キャンパスが整備され、利用上、
ゆることから関大のために私自
ることにより、自分の持ってい
コミュニケーションなど交流す
りました。外国の選手と練習や
て関大に一年間来ていた事があ
なります。何はさておき、この
で、三十七年間奉職したことに
四十六年四月に赴任しましたの
職することになりました。昭和
が強調されてきたところで、現
叫ばれます。従前は「学の実化」
新しいといえば、このところ
「強い関大」という惹句がよく
にとって好ましいことだと思い
気付いてみれば七十歳!私は、
ます。
今年三月をもって関西大学を退
しかし、非常勤の年月を含める
で 二 十 六 年 の 歳 月 が 経 過 し た。
一九八二年に関西大学にお世
話になってから、本年三月末日
ある卒業論文
恩返しができたとは思えません。 たが、その分、部員同士の団結
身ができることをしていきたい
手であるベンが交換留学生とし
翔(経4)
た競技観とは違った点から考え
と、人生の大半を千里山に通っ
す意であると言われていますが、 が、今、大きな波のようにわた
在も色あせておらず、関大人の
しの心に甦ってくる。その方々
共通認識でしょう。
価 値 中 立 的 で、「 強 」 の 付 く 用
にまずこの場をお借りして心か
間、研究・教育の場を与えてい
私が赴任した当時は、正門を
入ると最初に目にとまるのが大
語には良い意味のものも悪い意
らお礼を申し上げたい。
ただいた学校法人関西大学に心
四年間を通してさまざまな経
験 を す る こ と が で き ま し た が、
きな第一グラウンドで、ドイツ
味のものもあります。そこで私
教員としての二十六年を振り
返ってみて、教育の場で学生と
てみるという貴重な経験が出来
私が在学中に果たすことが出来
の高名な法学者が本学を訪れた
が願うのは、「強い関大」は、「強
たのでよかったと思います。
ス機能が向上することは、教職
と思います。
守谷
さまざまな経験をさせて
くれたクラブ活動
重 量 拳 部。 級 で 関 西 学 生 選
抜選手大会で三連覇を達成。
なかった「全日本インカレⅠ部
際、体育大学かと訝ったという
恣 」 に 振 舞 う の で は な く、「 強
ていたことになる。その間、多
昇格」を目指して、これから後
話を思い出します。現在は、そ
の関わりが非常に重要なもので
より感謝の意を表します。
輩たちには頑張ってほしいと思
こに総合図書館が立つなど当時
恕」の心を持って「強学」に努
あった。特に、卒業論文の指導
学生生活を振り返ってみると、
重量拳部での活動が大部分を占
います。
の施設や建物がほとんど見られ
めて「強健」に育つ、真の「強者」
くの人々にお世話になったこと
めていたと思います。
私は卒業して社会人になって
も競技を続けていくつもりなの
なくなり、時代の推移を感じざ
「強」の文字は弓弦
ところで、
の天蚕糸が強靭であることを示
競技人口全体としてもそれほ
ど多くなく、どちらかといえば
で、今後もこの四年間で学んだ
7
85
kg
卒業特集
う。研究テーマは教授と共有す
の研究進捗状況も報告してもら
る。結果として、教授との関係
的に、教授と顔を合わせる。月々
て研究テーマに取り組み、必然
ないが、学生は毎日研究室に来
に進められた発掘が偉大な成果
苦楽を共にした学生たち
すべての方々に深甚なる謝意を
に結実したことは周知の事実で
その成長が大きな喜びに
んでいた。網干善教先生を中心
学生は常に真摯である。そう
した学生を擁する関西大学のま
あろう。そのような立派な仕事
は、わたしに関する限り大きな
意味を持っていた。わたしの場
すますのご発展を心から祈念い
なさる先生方が在籍される文学
部 に 迎 え て い た だ け る 幸 運 に、
捧げる次第である。
合 は 英 文 学 の 専 攻 で あ る の で、
たします。
印象に残るフランス留学
学生たちは英文学の作品を卒業
論文に取り上げる。ある年の一
人の学生のことが特に印象深く
任を待っていたことを思い出す。
を発表させ、二日目から、海水
また、ゼミ旅行では、初日に、
研究室配属以来の研究進捗状況
親密になる。
も密になる。院生になると一層
システム理工学部教授 野村 康雄
非 常 勤 の 期 間 も 入 れ て、 関
大教員としての三十六年間は
浴、テニス、スキーと、学生と
私はわくわくしながら四月の就
あ っ と い う 間 に 過 ぎ 去 っ た が、
共に過ごした、楽しき思い出に
わたしの心に残っている。その
D・H・ロレンスの作品『死ん
最も印象に残ることといえば
文学部教授 本田 忠雄
だ男』である。この作品はロレ
フ ラ ン ス へ の 留 学 で あ ろ う か。
学生は、熱心なクリスチャンで
ンスの晩年の作で、ロレンス哲
儀なくされた。わたしは、違う
自分の信仰との強烈な対峙を余
離れていたようである。彼女は
キリスト教信仰とはかなりかけ
てくる男の様子は、この学生の
霊魂ではなく肉体として復活し
この学生は、キリストの素直な
私にとっては楽しいものであっ
ようである。夜間部での勉学は
が、それがまるで昨日のことの
終えて急いで駆けつけたものだ
橋六丁目の第二部学舎に勤務を
かった。晩学であった私は天神
んだ。しかし、読めば読むほど、 なるなどとは夢にも思っていな
復活の物語としてこの作品を選
た。それは昼間の仕事に完全燃
将来母校の教壇に立てることに
一九六二年四月、関西大学文
学 部 仏 文 学 科 に 入 学 し た と き、
とになる。その間に大学は大き
学生時代も入れると四十年間
も関西大学のお世話になったこ
雰囲気のひと時であった。
起こせばのどかで楽しい牧歌的
姿が今でも脳裏をよぎる。思い
ともに学んだ各国の若者たちの
ネ ス ク 芸 術 の 見 事 な 建 造 物 や、
う地方都市であった。中世ロマ
最初の滞在地はポワティエとい
と 踏 む こ と が で き た の で あ る。
れであったフランスの地をやっ
に国内外を問わず学会講演の機
論し、研究成果が出れば、学生
学生と共に研究課題について議
大学教授という職業は誠に素
晴 ら し い。 学 生 に 教 育 を 行 い、
ている。
諸君のお陰であり、深く感謝し
た関西大学の皆様、そして学生
たのは、これまでお世話になっ
持って定年を迎えることができ
す る こ と に な っ た。 充 実 感 を
この三月末日をもって定年退職
究 室 を 担 当、 以 来 三 十 二 年 間、
昭和五十一年四月、工学部電
子工学科に着任し、情報工学研
工学会に関する思い出としては、
であった。学生も参加する、理
ピアニストは私の研究室の院生
や 二 重 唱 の 機 会 が 与 え ら れ た。
生の特設ステージで、文学部の
楽行事に参加し、凛風館前の芝
山ミュージックキャンパスの音
年記念行事の一環として、千里
さらに、一昨年秋には一二〇周
また、同好会電気通信工学研
究 会 の 顧 問 も し、 努 力 も し た。
一段と成長する。
に入ることにより、人間的にも
あった。彼女が取り上げたのは
学が凝縮されている。粗筋はキ
一九七五年七月、私は永年の憧
作品を取り上げたほうがいいの
焼できないなにかが自分の中に
く変貌した。少子化の進行は各
会を与え、苦楽を共にしてきた。 平成元年、二十年ぶりに工学部
満ち溢れている。学生も研究室
リストと思しき男が肉体として
ではないか、とアドヴァイスを
あったからかもしれない。人生
大学の運営を脅かし、研究や教
がこれほど強烈に自己との格闘
ことになった。研究というもの
彼女は自分との戦いに終始する
結 局、 卒 業 論 文 作 成 の 期 間 中、
年に発見された明日香高松塚古
ある。当時世の中では、その前
関西大学に専任教員として就
任したのは一九七三年のことで
導いていくものである。
まない。最後にお世話になった
のますますの発展を祈念してや
学の、またそれを支える校友会
だ継続するであろうが、関西大
している。厳しい状況はまだま
が待っており、授業はほとんど
に な る と 特 別 研 究( 卒 業 研 究 )
知のごとく、工学部では四年生
的環境にあり、苦楽を伴う。周
技術は進歩激しく、絶えず競争
今、過去を少し思い出しただ
け で も 懐 か し さ が 溢 れ て く る。
だいた。
のとき編集委員長をさせていた
卒業生名簿が発行されたが、そ
復活してくる話しである。最初、
したのであるが、彼女はその作
育にも重大な影響を及ぼそうと
であるということを、わたしは
墳の石室壁画が大変な反響を呼
田中俊也教授と私の二人に独唱
品を捨てることができなかった。 はまるで予期せぬ方向に人々を
目の当たりにした。
8
面で活躍し、立派になって訪ね
また、卒業生たちが社会の各方
は、プロスポーツと同じように
を咲かせていた。大学スポーツ
スポーツ振興のために、話に花
い高等学校に在籍する卒業生の
る。一般推薦入学の対象校でな
ないくらいの数で留年、退学す
一般入学試験での入学生に劣ら
要があろう。
「生き残る」理由を問い直す必
このモットーは、今日グロー
バル化でますます進む統一化な
ための競争か、大学の存在理由、 その心意気を表すものであった。
烈である。しかし、今こそ何の
側面を前にして、いっそう輝き
たが、関西大学の益々のご発展
感謝している。最後になりまし
な 年 月 を 過 ご さ せ て い た だ き、
である。これまで、本当に幸せ
大学への帰属意識を高揚するか
らずノスタルジアをもち、関西
見聞きする大学の名前に少なか
まと一緒に関西大学の夢をみま
しょうか。そして校友のみなさ
く時期が来ているのではないで
も報じられる。多くの卒業生は、 薦入学の校友枠として門戸を開
好のニュースソースで、大学名
しょう。
ロッパの大学では教会の権力
は 普 遍 性、 一 般 性、 講 義
rsitas
の総和を意味し、中世以来ヨー
の語源であるラテン語の
て、二十一世紀に生き残る意味
大こそ世界に通用する大学とし
「百年の計」を持つ関大こそ
フ( ポ ー ラ ン ド ) の ヤ ギ ロ ン
二年前訪れた歴史都市クラク
が 目 指 さ れ た。 た と え ば 私 が
に抗してさえ普遍的真理探究
にあるものと信じたい。
ない!)の関大への思いもここ
ん(残念ながら私は校友になれ
があるといえよう。校友の皆さ
回 出 雲 駅 伝 が 実 施 さ れ、 関 大
いまから十数年まえ関大ス
ポ ー ツ は 低 迷 し て い た。 第 一
げます。
借りしてこころからお礼申し上
支援の賜物です。この紙面をお
ましたことは、大学関係者のご
年間の長きにわたって在職でき
私が昭和四十年四月に工学部
助手として奉職してから四十三
薦入学は、高等学校在学中の評
いる。最初に実施された一般推
は定員のかなりの割合に達して
学制度が実施され、その入学数
いま一般推薦入学、スポーツ
推薦入学など数多くの特別な入
んと答えておいた。
のような制度は存在していませ
のかという問合せであった。そ
ばその制度の特典が受けられる
ると聞いたが、どのようにすれ
業生の子息の特別推薦制度があ
自宅に電話がかかってきた。卒
音信のなかった卒業生から突然
う。昨年末、私の研究室のある
時代」に入った。日本では少子
類 も 学 生 数 も 急 増 し、「 競 争 の
グローバリゼーション下の今
日、日本でも外国でも大学の種
いてである。
の将来像、理念、百年の計につ
ともないではない。それは大学
みが募るとともに気にかかるこ
その分関大への思いも強く親し
六流でいう)「上がり」となる。
私はいくつかの大学を経て関
西大学に「出戻り」、この春(双
探究と社会改革を求める情熱あ
国家の財政援助なくとも、真理
設立された。他方、私立大学は
兵の国策下で国家枢要の人物を
ところで、日本の大学制度の
歴史は浅い。明治時代の富国強
な研究者・学生を集めている。
は、今も国内外から多くの優秀
い経験を経て復活したこの大学
刻した一人のみ命拾いした)苦
された全教授が一網打尽にされ
チス指導者の講演のため呼び出
唱えた。第二次世界大戦中、ナ
学んだコペルニクスは地動説を
) 大 学 は、
Jagiellonski
一四〇〇年に創立され、そこで
●
が上位入賞した。当時の学長は
定平均点がかなり上位の現役の
つくるためと称して帝国大学が
明治十九年創立の関大のモッ
人の先生が定年退職 ●
法科大学院教授 藤田 久一
unive- を増している。このような理念
に基づき「百年の計」をもつ関
いし(権)力の支配という負の
を祈念いたします。
どうかは疑問であるが、関西大
トー「権力から正義を守れ」は
てきてくれることも大きな喜び
テレビ、ラジオ、新聞などの格
優秀なご子息に、関西大学の推
それには世界の大学の歴史を
振り返るのが近道だろう。大学
ある卒業生からの電話
学の名は頭のどこかでしっかり
と繰り返される。さほどスポー
シ ス テ ム 理工学部教授 横田 勝弘
ツに関心のない卒業生でも、ご
子息の大学受験時期が近くなる
大西昭男先生で、私はそのお手
学生が対象であった。しかし実
る青年たちを国内外から集めた。
ス キ(
伝いの末席に名を連ねていまし
化による学生確保競争が目立つ
と、母校を思い出すことでしょ
た。 学 長 先 生 を 囲 ん で 喜 び 合
施当初に比べて、ここ数年一般
アウシュビッツ送りとなる(遅
い、これからはマラソン、駅伝
推薦入学試験で入学した学生は、 が、世界では学問上の競争も熾
三月三十一日付で、次の二十二
人の先生が定年退職で関大を去ら
れることになった。
▼法学部(一人)池田敏雄教授▼
文学部(七人)遠藤邦基教授、上
村哲彦教授、川本武之教授、田中
欣和教授、長谷川存古教授、平田
重和教授、本田忠雄教授▼総合情
報学部(一人)野口宏教授▼シス
テム理工学部(四人)野村康雄教
授、横田勝弘教授、阿波啓造准教
授、山北隆征准教授▼環境都市工
学部(三人)丸茂弘幸教授、和田
安 彦 教 授、 泉 井 力 准 教 授 ▼ 化 学
生 命 工 学 部( 三 人 ) 大 石 敏 雄 教
授、大内辰郎教授、浅井彪准教授
▼ 法 科 大 学 院( 法 務 研 究 科 )( 三
人)石井一正教授、小田八重子教
授、藤田久一教授。
また、社会学部の杉野昭博教授、
総 合 情 報 学 部 の 木 村 壽 夫 准 教 授、
システム理工学部の市原完治教授、
外国語教育研究機構の河合忠仁教
授、法科大学院の野呂充教授の五
人先生が依願退職される。
に力を入れようではないかなど
9
22
卒業特集
友カード独自の特典として、提
し て い ま す )、 ⑸ 校 友 名 簿 発 行
名簿及び在社名簿の閲覧を許可
所定の手続きを行った上で校友
な場合は、校友会事務局(電話
かめた上でご返事下さい。不審
ず発信元の電話番号や住所を確
個人情報の問い合わせには、必
校友への失礼が無いよう指導し、 が あ り ま す の で ご 注 意 下 さ い。
携優待店の協賛を得て特別割引
のため、などです。校友名簿へ
会員証的機能を併有、さらに校
等の特典を設けています。
新卒業生の皆さんに
誓 約 し、 住 所 等 を 掲 載 さ れ る
〇六
方のみ予約できます。A4版・
の掲載、地域支部等からの案内
新卒業生の皆さんへ
や在学生の就職活動での利用を
〇〇四五〜
—
約 百 二 十 頁・ 予 約 定 価 二 千 円
絆と、母校との親しみをより一
八、 F A X 〇 六 —
六三八〇 —
八四七六)までお問い合わせ下
六三六八
—
(〒共)。予約された三月卒業の
層深めるための絶好の機会です。 希望されない方は、文書で校友
社会人として第一歩を踏み出
す皆さん!校友としての友好の
このたび新しく社会に羽ばた
かれた新校友のみなさん!あな
校友にのみ頒布いたします。
お願い
たの肩には三十万余人の先輩校
さい。
扱いにします。なお、お届けが
会事務局までお届け下さい。い
無い場合は、原則として「公開
つ で も 開 示 し な い「 公 開 不 可 」
申し込み下さい。折り返しカー
可」扱いとします。
校友のステータスシンボルであ
友の温かい目が注がれています。 また、この名簿に住所や勤務
先 の 掲 載 を 希 望 さ れ な い 方 は、 る「関西大学校友カード」をお
ド会社より申込書をお送りしま
一日も早く私たちのスクラムに
はがきの該当欄にチェックをお
す。
個人情報は厳重に管理してい
ます
加わり、ともに新しい道を切り
願いします。その場合は、名簿
校友会では、個人情報の紛失・
誤用・改竄や外部からの侵入が
へ掲載せず、校友会の地域支部
な管理下に保管しています。
校友会では、会員の承諾が無
い 限 り 登 録 さ れ た 個 人 情 報 を、
ないよう厳重に管理し、一般の
利用者がアクセスできない安全
拓き、母校の発展に寄与してい
等への連絡も行わない「公開不
可」扱いとします(後述の「個
個人情報の取扱いについて
人情報の取扱いについて」参
校友会では、本会の目的達成
照)。なお、ご返事が無い場合は、 のため大学から提供いただいた
個人情報は第三者に開示・提
供しません
こうではありませんか!
基本カードの提出を
日までに
4月
示・提供しません。
法律に基づき開示しなければな
名・フリガナ・性別・生年月日・
個人情報を厳重に管理し運営し
卒業年・学部学科と、皆さんか
個人情報はいつでも開示・変
更または削除できます
原則として名簿への掲載を了承
ド ) に 必 要 事 項 を ご 記 入 の 上、 名簿の内容は、卒業生を学部
別・学科別に配列し、氏名・勤
ら基本カードでご連絡いただい
皆さんにお送りしております
ご 案 内 に 同 封 の は が き( 平 成
務先・住所・自宅電話を掲載し
らない場合を除き、第三者に開
局から委託された校友の名簿管
た住所・電話・勤務先です。な
校友会では、会員本人より申
し出があった場合に限り、その
された「公開可」扱いとします。 ています。登録する情報は、氏
理の基礎資料となります。今後、 ています。
お、今後、この情報は大学と共
本 人 の 登 録 情 報 を 開 示 し ま す。
ご提出下さい。校友会が大学当
現住所、勤務先など変更された
同利用します。
また個人情報の追加・訂正また
場合には、早急にご連絡下さい。 「関西大学校友カード」
は削除は、本人の届け出により
行います。引っ越し、住居表示
校友会では、校友相互の親睦
を深めるために今年度卒業生の
井住友)の四ブランドと提携し、 窓 会 よ り 総 会 等 の 案 内 状 の 送
・UCマスター・VISA(三
校友カードはJCB・UCビザ
いの校友会地域支部や関係の同
アンケート等の送付、⑶お住ま
しい名前を騙り、電話やはがき
最近、関西大学卒業生に対し
て、関西大学や校友会と紛らわ
さい。
校 友 会 で は、「 関 西 大 学 校 友
みを収載した名簿を七月上旬に
付、 ⑷ 在 学 生 の 就 職 活 動 の 支
で個人情報を集めているケース
新卒業生名簿を
発行します。この名簿は、校友
本来のクレジット等の機能を持
援(キャリアセンターでは先輩
の変更などの場合は、ご連絡下
相互の親睦のためにのみ利用
つほか、校友のみが所持できる
カード」を発行し、既に一万五
⑴機関紙「関大」の送付、⑵
千人に及ぶ校友が持っています。 大学からの案内や就職に関する
し、第三者に提供しないことを
7月初旬に発行
の申し込みを
個人情報を利用するのは次の
ような場合です
二十年三月卒業・校友基本カー
10
10
関西大学
理工系3学部開設・工学部創立50周年記念祝賀行事
関西大学工学部は、昭和 33 年の創立以来、学界・
官界・産業界に幾多の有為な人材を輩出してまいり
ましたが、50 周年を前に昨年度、21 世紀に相応
しい理工学の教育と研究体制を整えるため、新たに
理工系3学部(システム理工学部・環境都市工学部・
化学生命工学部)に再編され、大きく生まれ変わり
ました。
この度、関西大学に理工系 3 学部が開設されまし
たこと、工学部が創立 50 周年を迎えましたことを
記念し、関西大学千里山キャンパスで記念祝賀行事
を開催いたします。
記
(1)日 時: 平成 20 年 5 月 17 日(土)13:30 より
(2)場 所: 関西大学千里山キャンパス 記念式典:第2学舎4号館「BIG ホール 100」
祝賀会:100 周年記念会館
吹田市山手町3−3−35(阪急千里線「関大前駅」下車)
(3)内 容:
1.記念式典
関西大学千里山キャンパス 第2学舎4号館「BIG ホール 100」
< 第1部 > 記念式典
13:30 開会の辞 土戸 哲明 化学生命工学部長 挨 拶 森本靖一郎 学校法人関西大学理事長 河田 悌一 関西大学学長 < 第2部 > 祝賀特別企画
14:30 記念講演 「21世紀を担うモノづくり」
大坪 文雄 氏 (松下電器産業(株)代表取締役社長)
15:35 パネルディスカッション 「21世紀の日本を担う人材∼技術立国を支える人材育成∼」
コーディネータ 楠見 晴重 (環境都市工学部長)
パネリスト 大坪 文雄 (松下電器産業(株)代表取締役社長)
和坂 貞雄 (新エネルギー・産業技術総合開発機構理事)
越智 光一 (関西大学副学長)
鈴木 直 (システム理工学部教授)
白石 真澄 (政策創造学部教授)
網 健行 (大学院博士課程後期課程学生)
土屋 博美 (大学院博士課程前期課程学生)
小泉 昌広 (学部学生)
閉会の辞 小澤 守 (システム理工学部長)
順不同、敬称略
2.祝賀会
関西大学千里山キャンパス 100 周年記念会館
17:30 開会
フルート、ピアノ演奏
記念パーティー
祝賀会は準備の都合上、事前申し込みが必要となります。
問い合わせ先 記念事業事務局 06−6368−1150
主催 関西大学理工系3学部開設・工学部創立50周年記念事業実行委員会
協賛 関西大学理工学会
後援 関西大学先端科学技術推進機構、関西大学科学技術振興会
全 く 話 せ ず、 身 振 り 手
振りと絵でのコミュニ
の貸し出しなど事業内容は
数回のイベント開催、書籍
ンス文化講座をはじめ、月
ん。フランス語教室やフラ
事業に携わっている小谷さ
フランスの文化交流
戸日仏協会で日本と
半 年 ほ ど す る と、 相 手 の 言 っ て い る こ と が 理 解 で
き る よ う に な り、 一 年 も す れ ば カ タ コ ト の フ ラ ン ス
げだったかも」。
え ば、 フ ラ ン ス 語 が 早 く 上 達 し た の は、 彼 女 の お か
る た め に 夜 な 夜 な 辞 書 を 引 い て 勉 強 し ま し た。 今 思
に 次 の イ タ ズ ラ を す る。 で す か ら、 彼 女 と 会 話 を す
て 』 と い う ひ と 言 が 言 え ず、 辞 書 で 調 べ て い る う ち
話しかけてきては、ちょっかいを出すんです。『やめ
てくれました。
とも思えないくらいギリギリの状態になって初めて人
なんて言っているうちはまだまだ余裕がある。大変だ
いという状況を経験して思ったのは、『大変だ、大変だ』
クになるヒマさえありませんでした。前に進むしかな
窓口など多岐に渡り、フランス語での対応が多いとか。
こ ん な と こ ろ に い た、 と い う の が 本 音 で す ね。 環 境
よ く 考 え て い な か っ た の だ と 思 い ま す。 気 付 い た ら
実施、事務や会計、問合せ
「フランス語を生かした仕事に就くのが念願でした」
の変化が大き過ぎて毎日が必死ですから、ホームシッ
校生になると寮生活に。中・高の男女合わせて
寮生は二百人弱。寮では挨拶の徹底と毎朝の掃
いました」。
ですから、部屋は常に掃除をしてきれいにして
男子の部屋を女子が、女子の部屋を男子が見る。
風紀委員が異性の部屋をチェックするんです。
なことだったと振り返ります。「二週間に一度、
すが、それらは集団生活において、とても大切
除、そして門限厳守といった規則が厳しかったそうで
高
フランス文化に触れ、
将来の夢を得た高校時代
は底力が出るのだということでした」と、実感を語っ
多 彩。 小 谷 さ ん の 業 務 は、
教育実習の機会に、
ホームステイ先を訪ねる
語で会話ができるようになりました。
卒業学習の一環として、
小学生の授業をする
講師のスケジュール管理か
書 き を し た り、 絶 え ず
い て、 私 の ノ ー ト に 落
のやんちゃな女の子が
「初めて行った家に六歳
ケーションでした。
11
ら イ ベ ン ト の 企 画・ 運 営・
神
Part
十 二 歳 と い う 年 齢 で 渡 仏 し た こ と に つ い て、 今 で
もよく聞かれるそうで「当時はまだ小さかったので、
Kandai Kiratto
と言う小谷さんに今の仕事に就いたプロセスや中学校
からの渡仏経験について伺いました。
した十二歳のとき。クラシックバレエを習って
谷さんがフランスに渡ったのは、小学校を卒業
ホームステイ先で、
気持ちを伝えるために夜な夜な勉強
小
いたことから、フランスに憧れを抱いたのがきっかけ
でした。お父様は「飛行機に乗ったらすぐだから」と、
いとも簡単に三人きょうだいの末っ子を海の向こうの
学校に行かせてくれたのです。
入学して三ヵ月後には学校からの紹介でホームステ
イをすることに。最初は、フランス語はおろか英語も
クラシックバレエはフランスにいた六年間も
さまざまなことを学びました。
ることで小谷さん自身、人との付き合い方など、
シックになる生徒や人間関係に悩む生徒に接す
小谷さんは寮生の代表委員や寮長も経験し、
全寮生を見るという大役も務めました。ホーム
オフィスでインタビューに答える小谷さん
(シャネルの社長たちと)
大阪での日仏協会パーティ 12
れる授業としてフランス文化コースがあり、バレエを
ずっと続けていました。高校では、フランス文化に触
付かされました。
しかし、入社後一年経つか経たない頃に転機が。現
職の話が舞い込んできたのです。フランス語をあきら
した」。
それで、フランス語を吹っ切って就職することにしま
です。でも、フランス語を使う仕事がなかなかなくて。
取りましたが、やはり一般企業で働いてみたかったん
関大ではフランス語 中・高一種の免許を取得しま
したが、就職したのはアパレル会社。「教職の免許は
選択した小谷さんは、国立音楽学校(コンセルバトワー
ル)で聴講生としてバレエを習うこともできました。
コンセルバトワールは、プロのバレリーナを育てる学
校。日本ではとてもできない貴重なレッスンを経験で
きました。
このフランス文化コースは、バレエの他には絵画や
料理、音楽や語学など多彩なコースが用意されていま
けはバレエでしたが、プロを目指していたわけではな
言う小谷さん。「私の場合、フランスに行ったきっか
ついて考えさせられるのが、海外校の特徴でもあると
た。二〇〇五年の卒業直前には、フランスのシラク大
関大に在籍していた四年間は得意なフランス語を生
かし、通訳のアルバイトやボランティア活動をしまし
関大のフランス文学科をA・O入試で受験しました」。
あって、総合大学に行きたいと思ったんです。それで、
関 大 の 先 生 に 相 談 す る こ と も あ り ま す し、 フ ラ ン ス
れていると言います。「イベントを企画する時などは
パレル会社への就職を含め、やってきた全てが生かさ
日仏協会の仕事では、フランスでのホームステイや
寮生活、関大時代の通訳のアルバイトだけでなく、ア
に。
め切れなかった小谷さんは、思い切って転職すること
かったので、文化コースで学ぶうち、将来はフランス
統領の来日に伴う先遣隊の通訳をしていたことで、大
語以外の社会を見ることができたという意味では会
す。高校時代にさまざまな文化を学ぶことで、将来に
語の先生になりたいと思うようになりました」。こう
統領と写真を撮るというラッキーな機会にも恵まれま
りやってきたので、このまま外国語大学に行って、フ
卒 業 し 帰 国。「 中 学 か ら ず っ と フ ラ ン ス 語 ば か
来はフランス語の先生という夢を得て、高校を
いということを実感しました」。このような経験から、
語学ができるからといって、通訳ができるわけではな
思ってたんですね。ところが、実際に経験してみると
ランス語と日本語が分かれば通訳はできるだろうと
「高校を卒業した頃は会話に自信がありましたし、フ
した。
チャンスを狙うことが大
やりたいと思い続けて
そ の 時 は 叶 わ な い 夢 で も、
も 無 駄 に な っ て い ま せ ん。
て い ま す。 で す か ら、 何
社勤めの経験も生かされ
将
ランス語だけをやるのが本当にいいのだろうか。もっ
切 だ と 感 じ ま し た 」。
さん
改めて日本語の大切さや日本文化・歴史の重要性に気
十二歳で単身フランスへ
日仏の文化交流にキャリアを生かす
小谷 舞
と他のことや日本のことを知りたいという気持ちも
十代の渡仏、関大への入学、就職。
経験した全てが今に生きている
して、高校三年生の時に将来の夢に出会えたのです。
シラク フランス大統領とのツーショット
プロフィール
小谷 舞(こたに まい)さん
社団法人 神戸日仏協会 秘書。
二〇〇五年 文学部 フランス文学科卒業。
小学校を卒業してすぐに単身渡仏。中・高の六年間「フランス甲南学
園トゥレーヌ」に在籍。中学時代はホームステイでフランスの一般家
庭の日常生活や国民性に触れ、高校では寮生活を通じ、規則の重要性
や人との付き合い方を学ぶ。帰国後、関西大学のフランス文学科に入
学。在学中は通訳のアルバイトやボランティアで活動の場を広げる。
現職では日仏交流のイベント企画の相談をするなど、今でも関大の先
生方との縁を生かしている。
13
神戸日仏協会のオフィス前で
「 世 紀 の 大 発 見 」 と 謳 わ れ た
高松塚古墳の発掘調査に関西
最新の授業支援システムが備え
の研究や学生の教育・研究に資
世に伝えるとともに、文化遺産
大学が関わったという史実を後
られ、遠隔講義システムを活用
第1学舎エリアが様変わり
1号館が竣工、あすかの庭誕生
昭和三十年に建設され、前庭
の楠の大木と共に校友にはなじ
空中テニスコートと屋内グラウンド
併有の第4学舎3号館が竣工
昨年四月より建設が進められ
て い た 第 四 学 舎 三 号 館 が 完 成、
して大教室を含む複数の教室で、 するため、壁画発見三十五年を
東壁・南壁・西壁・北壁・天井
み深かった第一学舎(元法文学
立ったままの目線で壁画を見る
三月六日、大学・校友会・教育
ことができるよう、高さ六七セ
記念して設置されたもので、発
ツ市にあるエッゲンベルク城に
ンチの支柱を付けて設置されて
舎)一号館の建替え工事が終り、 最 大 一、〇 〇 〇 人 が 同 時 に 一 つ
方メートルからなる「あすかの
収蔵されている豊臣時代の大坂
後援会関係者をはじめ、体育O
庭」が誕生。三月十一日には高
見直後に撮影された写真を元に、
松塚古墳壁画再現展示室も竣工
三月十七日に竣工式が行われる。 の講義を受講することも可能に
る一九八人、一〇八人、七二人
おり、発見と同じく南壁を開放、
B 会、 マ ス コ ミ 関 係 者 な ど 約
収容の三教室が配置され、いず
城や町並みを描いた「豊臣期大
天井は明かりが入るよう蓋を開
なる。
こ の 第 四 学 舎 三 号 館 は、「 教
育に強い関西大学」と「スポー
し、第一学舎エリアの景観が一
坂屏風図」の原寸大陶板が設置
併せて、新築された一号館の前
ツに強い関西大学」を実現する
れの教室も最新の授業支援設備
変する=詳細は次号に掲載。
けたような状態で展示されてい
百六十人が出席して盛大に竣工
た め の 施 設 と し て、 教 育 施 設
を備え付けている。理工系三学
される。
の増床となった。
年の節目の年に大きな教育施設
室、考古学、心理学、小学校教
室をはじめ一般教室、語学系教
トルで、五〇〇人収容教室二教
室が三月十一日に竣工。
あすかの庭の一角、簡文館の
前には高松塚古墳壁画再現展示
再現展示室も竣工
高松塚古墳壁画
から発見に至るエピソードを紹
教授(当時)と学生たちの発掘
る。また、室内には網干善教助
を原寸大の陶板で作製。陶板は
と体育施設を併存させるとい
部(システム理工学部・環境都
第一学舎一号館は、鉄骨鉄筋
コ ン ク リ ー ト 造 地 上 六 階 建 て、
に は 人 工 芝 を 含 む 三、〇 〇 〇 平
うユニークな発想のもとに建
市工学部・化学生命工学部)の
延 床 面 積 一 一、三 二 九 平 方 メ ー
式が行われた。
設 さ れ て お り、 延 床 面 積 は 五、
前身、工学部が昭和三十三年に
また、エントランスには、現
在、オーストリア南部のグラー
六一二・六八平方メートル。
一階部分に二七三人収容の教
室、 二 階 に は 四 五 六 人 と 九 〇
職課程等の実験実習教室、第一
設置されて半世紀、創設五十周
人 収 容 の 二 教 室、 三 階 に は 製
学舎オフィス・授業支援ステー
学生スポーツ振興のため、天候
空中テニスコートが設置された。
一五五人収容の観客席を備えた
上には、四面のオムニコートと、
ラウンドに相当する。さらに屋
も兼ね備えた看護師の育成を目
フト面(教養、心理、倫理など)
材、かつハード面のみならずソ
工学・薬学を学際的に学んだ人
世紀「生命の時代」を担う医学・
関西大学、大阪医科大学、大
阪薬科大学の三大学は、二十一
の開設を目指す。三大学は、い
建設し、平成二十二年四月から
大学のキャンパス内に新学舎を
して設置するもので、大阪医科
制度を活用して、三大学が共同
文部科学省が現在検討してい
る複数大学による共同学部設置
大阪医科大学・大阪薬科大学と全国初の共同学部
平成 年4月に生命科学系学部を設置へ
いる。
介した説明パネルも設置されて
図実習が可能なデザインルー
建物東側は、一階から四階ま
でを吹き抜けにし、床全面に人
ションなどが配置され、教室は
ム、四階には多目的に活用でき
工 芝 を 敷 設 し た 広 さ 一、三 八 七
平方メートルの屋内グラウンド
にかかわらず正課や正課外体育
的として、三大学共同学部を設
ずれも高槻市内にキャンパスを
表した。
に活用できる施設整備が求めら
置することになり、一月九日発
で、ちょうど硬式野球の内野グ
れていたことに対応したもの。
22
14
員双方において流動性の高いも
教育研究体制としては、共同
学部の利点を活かし、学生・教
る。
学科またはコースを想定してい
命薬科学科、医工学科、生命情
も未定だが、生命医科学科、生
科あるいはコース構成について
約二百人規模を考えている。学
の学部とし、学生定員は一学年
命健康学部といった生命科学系
学部名称は未定だが、生命科
学部、生命医科学部あるいは生
成が可能になる。
置でさらに高度な研究や人材育
などを行っているが、新学部設
学術交流協定を結び、共同研究
高校・第二商業高校(堺市堺区
成二十二年四月に、堺市立商業
関西大学は二月四日、文科系
の新学部「健康文化学部」を平
健康文化学部開設へ
堺市に新キャンパス
を行う。
うえで、文部科学省に設置申請
具体的な内容を協議・検討した
今後、三大学の関係者による
設 置 協 議 会 を 早 急 に 立 ち 上 げ、
とる予定。
用し、融合した教育研究体制を
学の既存の教育・研究施設も活
固有の装置・設備のほか、三大
さらに学部設置後は、共同大
学院、連合大学院等の設置もで
ア層に対するリカレント教育な
ことができるよう、女性、シニ
民が健康で文化的な生活を送る
の専門的教育を行う一方で、市
設置し、在学生に対して三領域
ユーモア科学」の三つの領域を
健康文化学部には「健康福祉」
「スポーツ・身体文化」「健康と
準備を進めていく。
本協定を締結し、具体的な開設
堺市側と協議のうえで三月に基
市から優先交渉権者に選定され
画提案書を提出、二月四日、堺
関西大学は十二月十三日付で企
市立商業高等学校・第二商業高
学誘致を計画、十九年八月に「堺
校が決まり、堺市は跡地への大
社会学部一三、六六五(九六・
一二、四三九(九七・二%)▽
五六七(七九・〇%)▽商学部
(九六・四%)▽経済学部一〇、
▽法学部八、六八四(七五・
二%)▽文学部一五、四七八
各学部の志願者数は次のとお
り。%は昨年比。
超えた。
願者数は昨年を上回り二万人を
みられるが、理工系三学部の志
また全国的に理工系離れ現象が
大学の進める改革は高校や受験
八歳人口が減少する中で、関西
ると一万人以上増えており、十
教育機関設置企画提案」を公募。 昨年(八三、〇〇〇人)に比べ
り高度な専門教育・研究のため、 等学校校地における大学等高等
きるだけ早い時期に検討し、よ
ど各種の支援・連携事業を展開
〇%)▽政策創造学部五、三二
めて一〇万人を突破したが、一
受験生の増える要因があり、初
学 生 命 工 学 部 ) へ の 再 編 な ど、
理工学部・環境都市工学部・化
総数は九七、三四三人となった。
を加えた二〇〇八年度の志願者
なお、昨年中に行われたAO
入試やSF入試など多彩な入試
(一〇九・四%)。
部五、八一八(一〇五・三%)
▽システム理工学部八、七八五
部七、四一三(一一〇・〇%)
所有することなどから、すでに
のとし、看護学科での国家資格
香ヶ丘町一)の跡地に新設する
することにより、積極的な地域
八(七六・四%)▽総合情報学
たとの連絡を受けたもの。今後、 生 に 評 価 さ れ て い る と い え る。
に か か わ る 専 門 科 目 以 外 で は、
と発表した。
貢献も行うことにしている。
教育研究拠点が北京外国語大
グローバルCOE文化交渉学
▽化学生命工学部五、五二四
(九六・一%)▽環境都市工学
共 通 の 教 養・ 専 門 教 育 の ほ か、
両高校は市立四高校の統廃合
に伴って平成二十二年三月に閉
報科学科、医療経営学科、看護
三大学における関連の専門教育
と卒業研究指導を受ける。
学中国海外漢学研究センター
と学術交流協定を締結
り七、七五〇人少ない九三、七
場で実施された。
二〇〇八年度学部一般入学試
験及びセンター利用入学試験は、 今年度の一般入試・センター
利用入試の志願者数は、昨年よ
に関するさまざまなプログラム
交流協定を締結し、文化交渉学
国海外漢学研究センターと学術
学部一般入学試験終わる
志願者は九三、七〇一人
〇一人(九二・四%)となった。
グローバルCOE文化交渉学
教 育 研 究 拠 点( I C I S ) は、
ンター利用中期が二月一日から
を協力して推進すること、北京
二月十五日、北京外国語大学中
八日まで、後期日程が三月三日
外国語大学内に同拠点の連絡
学部個別日程・全学部日程・セ
と四日に、それぞれ千里山キャ
昨年度は、政策創造学部の新
設、工学部の三学部(システム
ンパスをはじめ全国各地の試験
15
く感じられる程の熱いセミナー
功させ、169・
究 セ ン タ ー 長、 楊 学 義 党 委 員
学から張西平 中国海外漢学研
流センター所長、北京外国語大
リーダー、カイト由利子国際交
から河田悌一学長、陶徳民拠点
だくとともに、自分自身の人生
たくさんの気づきと勇気をいた
がる機会でもあったように思う。 全日で女子も健闘見せる
なモチベーションアップにつな
る方も見受けられたが、精神的
や仕事に対して自信を失ってい
スの貫祿を見せつけた。
大差をつけて優勝、日本のエー
において第
キャンパス
昨年 月になみはやドームで
開催された第 回全日本フィ
世界選手権出場を決める
高橋選手、全日3連覇達成
2月 日から韓国の高陽で開
かれたフィギュアスケート四大
位で総合
位で総合
位、平
位・
位となった。
歳以下)の部
でトップに立ち、3月に行われ
が、ジュニア(
ケート部の藤本真夢選手(文1)
日 本 選 手 権 大 会 で、 ア イ ス ス
センターで開催された第
回全
2月 日~ 日、長野県の帝
産アイススケートトレーニング
ジュニアの世界選手権へ
スピードの藤本真夢も
フリー
井絵己選手(経3)はSP
位・フリー
澤田亜紀選手(文1)はSP
点をマーク、 部 の 女 子 選 手 も 健 闘 を 見 せ た。
書記・校務委員会長が出席した
について考え直すきっかけ、前
点で2位以下に
のをはじめ、来賓として出席し
向きに人生を歩むきっかけと
総合254・
た本学名誉博士の湯一介 北京
なった方も多かったのではない
となった。参加者の中には就職
大学教授など約五十人が参加し
だろうか。
一回キャリ
ギ ュ ア ス ケ ー ト 選 手 権 大 会 で、
大陸選手権と世界選手権への出
9
北京外国語大学(北京市)で
行われた調印式には、関西大学
所を設置することなどを確認し
た。 澤田9位、平井 位
た。
ア形成&就
アイススケート部の高橋大輔選
陸 選 手 権 で、 高 橋 大 輔 選 手 は、
SP、フリーとも完璧な演技で
年
点で初優勝を飾っ
て3人目。
14
19
なお、次回は三月八日に開催。
(キャリアセンター
職支援セミ
手(文4)が3連覇を達成、四
1位となり、世界歴代最高の合
卒業生就業支援室)
ナーを開催
場を決めた。
計264・
全日本フィギュアスケート選
手権大会では、アイススケート
した。
初日のSPは、ヒップホップ
調 の「 白 鳥 の 湖 」。 序 盤 に 連 続
た。日本男子選手の優勝は
24
る世界ショートトラックスピー
ド選手権(韓国)と、世界チー
ムショートトラックスピード選
手権(中国)への派遣が決まった。
・
3日目のフリーでは、 月の
全日本選手権で初めて跳んだ冒
点をあげトップに立った。
マーク、世界歴代2位の
で、ただ一人8点台を4項目で
ど、表現力を示す5項目の得点
大声援を浴びる演技を見せるな
は会場から耳をつんざくような
半にかけての得意のステップで
ルッツを全て決め、中盤から後
高橋、 四大陸選手権初V!
完璧な演技で世界最高得点
当日は㈱
関西就職問
でジャンプを成功させると、観
日に千里山
気づきと勇気 目から鱗の 時間
第 回卒業生対象キャリア形成&就職支援セミナー開く
平成十七年十一月にキャリア
センター内に「卒業生就業支援
室」を設置し、卒業生の就業支
援に関する業務を本格的に開始
し て 二 年 が 経 過 し た。 こ の 間
の登録者は二、二〇〇人を超え、
あらためてニーズの高さに驚く
ばかりである。
これから就職しようとする
方・転職を考えている方を対象
氏 を 講 師 に 招 き、「 就 職・ 転 職
客の声援に乗っての演技は自己
位 に 立 っ た。 さ ら に 翌 日 の フ
題研究所代表取締役の本庄賢行
に必要な五つの心構え」と題し
仕事への姿勢をわかりやすくア
リ ー で は、「 2 本 の 4 回 転 ジ ャ
初日のSPでは、2連続3回
転ジャンプやトリプルアクセル
の織田信成選手(文3)に続い
ドバイスいただいたが、受講者
ンプを入れる」という今季プロ
( 3 回 転 半 ジ ャ ン プ )、 3 回 転
点で断トツの首
の熱心にメモをとる姿が印象的
グラムの難関に挑戦、初めて成
・
であり、二時間という時間が短
16
10
16
11
57
にさらに支援の強化をはかるべ
く、初の試みとして十二月十五
てご講演いただいた。講師自身
ベストの
14
23
15
14
の社会人としての経験をもとに
06
31
88
際大会で初めて成功させて波に
頭の2度の4回転ジャンプを国
12
2
平井絵己選手
澤田亜紀選手
58
41
76
43
13
12
85
1
す“ 強 い 関 大 ”“ 関 大 か ら
「高橋選手は私たちが目指
の後、森本靖一郎理事長は
員だった森本理事長のリードで
れ、応援歌の前には、元応援団
は、優勝を祈念して花束が贈ら
谷彩夏選手らスポーツ仲間から
にサイン色紙等のプレゼントが
壮行会終了後、高橋選手との
ジャンケン大会に勝った三十人
は大いに盛り上がった。
探検部
(祝勝会実行委員長 井手野一宏)
閉会した。
周年記念式典
世界へ”を具現する申し子
である。ガラスの心臓とい
輔」のエールを贈るなど、会場
参加者全員が「フレーフレー大
手して手渡していた。
あり、高橋選手は一人一人と握
地球規模の活動に感嘆の声
月四日に千里山キャンパス百周
われていた彼も、今や鉄の
心臓の持ち主になった。学
体 育 会 馬 術 部 は、 第 五 十 七
回全日本学
ー長・馬術部顧問の代理)の挨
公務により欠席の奥学生センタ
応援団による学歌斉唱の後、
田中学生センター副所長(当日
百人が昔話に花を咲かせるなど、
ル部のOB会代表らを迎えて約
表、山岳部、ワンダーフォーゲ
さらに来賓として学生生活課代
生最後の大会で有終の美を飾っ
生賞典障害
拶で開会。来賓の森本理事長、
大いに盛り上がった。
乗り、持ち味を存分に発揮した
学長も「必ずや金メダルをとっ
飛越競技大
越智副学長、一軸校友会長、小
年記念会館で行われ、現役、O
てくれると信じている」とエー
会(十九年
川学馬連会長に祝辞をいただき、
てほしい」と激励。芝井敬司副
エット」の重厚で悲劇的な世界
ルをおくった。
十月三十一
会心の演技で「ロメオとジュリ
を演じきった。SP同様、表現
橋本聖子日本スケート連盟会
長(アイススケート部名誉顧問)
日~十一月
ト選手権に出場する高橋大輔選
二〇〇八世界フィギュアスケー
3月 日からスエーデンの
イエーテボリで開催される
千二百人が高橋選手を激励
世界選手権出場壮行会
拳法部・中川絵美、馬術部・中
顔で挨拶。昨年日本一になった
メダルを持って帰ります」と笑
から世界へ”をアピールして金
多いが、世界選手権では“関大
得の演技ができた。ライバルは
橋選手は「四大陸選手権では納
が贈呈された。これに応えて高
長から、それぞれ「活動奨励金」
後援会長、小坂道一体育OB会
生サービス局長、校友会から一
中学生センター副所長、後藤学
越智副学長、池内常務理事、田
テ ル で、 大 学 か ら 森 本 理 事 長、
ロイヤルホ
大阪リーガ
二月三日に
勝祝勝会を、
公苑)の優
世田谷馬事
一日、東京
奨励金を贈呈いただいた。引き
壇 上 で 小 坂 体 育 OB 会 長 か ら
その後、監督による優勝メン
バーの紹介及び主将挨拶があり、
などを披露した。
歌斉唱と校旗掲揚の感動シーン
優勝決定の感激、表彰式での学
ビデオ上映、障害飛越の迫力や
懇談の後、馬術関係来賓によ
る祝辞をいただいた後、競技の
の発声で盛会裡に進行した。
小坂体育OB会長の力強い乾杯
手(文4)の壮行会が、2月
日 に 第 二 学 舎 四 号 館「 B I G
B、歴代の顧問教授や部長教授、
力5項目の得点で8点台を4項
らからの祝電披露に続いて、一
点でト
リノ五輪でプルシェンコ(ロシ
軸浩幸校友会長、小渕孝仁教育
ア)が出した記録を8・
ホール一〇〇」で開催され、学
軸会長、増地事務局長、教育後
続き応援団の諸君による演舞で
サポート 喜びの声に支えられて!
るフリーの世界最高得点をあげ
生や教職員、校友会、教育後援
援 会 か ら 古 渕 会 長、 体 育 OB
大いに盛り上がった。
♥結婚相談∼結婚式まで♥を
目でマーク、175・
上回
体育会馬術部
全日本学生優勝祝勝会
関西大学探検部の創部五十周
年を記念した式典が、昨年十一
50
会場では、一九五八年十一月
に創部して以来の、国内外の活
会、体育OB会など関大関係者
会からは小坂会長はじめ役員各
電話 06―6383―0017 FAX 06-6383-0116 メール bridal@mstkikaku.com(株)エムエステー企画
た。
と地元市民ら千二百人が、日本
最後に、池内常務理事の音頭
に よ り 万 歳 三 唱 で 連 覇 を 誓 い、
本学生馬術連盟会長はじめ連盟
全員による逍遙歌合唱の後、若
位、また馬術界からは小川全日
加盟大学関係者多数をお迎えし
原馬術部総監督のお礼の挨拶で
男子初の快挙に挑む高橋選手に
熱烈な声援をおくった。
て開催した。
JR吹田駅 中央改札口 西へ徒歩2分
84
17
壮 行 会 は、 奥 和 義 学 生 セ ン
ター所長の開会挨拶、学歌斉唱
17
19
17
だったの
しいクラブ
なに素晴ら
検部はこん
は「関大探
Bの間から
再確認。O
活動ぶりを
での多彩な
は地球規模
た。参会者
紹介され
たる活動が
底探検と様々なフィールドにわ
山岳、民族、洞窟、ボート、海
念 オ リ ジ ナ ル D V D 」 を 上 映。
の映像で編集した「五十周年記
動の歴史をドキュメントタッチ
真 は 一 万 枚 を 超 え た。 そ の 概
整理された資料は実に
千二百八十点にも及び、記録写
ものもデータ化した。
もの、部室の倉庫に眠っていた
ていった。個人が所有していた
料などもデータベースに入力し
などで紹介された記事や映像資
つ一つチェック。新聞やテレビ
料(計画書、報告書など)を一
と様々なフィールドにわたる資
査、山岳、洞窟、ボート、海底
協 力、 一 年 間 か け て 民 族、 踏
と し た も の で、 現 役・ O B が
データベース作りと関西大学
年史編纂室に保存する事を目的
て行った。
膨大な活動資料の整理も合わせ
の一環として、半世紀にわたる
毎年約
択され、助成金の交付を受けた。
化会ユネスコ研究部の活動が採
ンティア団体支援事業」で、文
行している学生の団体を対象に
に よ っ て 社 会 貢 献 を 計 画・ 実
財団法人学生サポートセン
タ ー が、 自 由 な 発 想 と 行 動 力
事業にユネスコ研究部採択
学生ボランティア団体助成
団体が採択されており、
募集した「平成
を飾った。
か!」と感
号」に紹介されており、探検部
要 は「 関 西 大 学 年 史 紀 要 十 七
年度学生ボラ
嘆の声が上
る だ け の 支 援 を し て い き た い。
けるよう、OB会としても出来
全日本室内個人選手権優勝
アーチェリー部・石井選手
ア活動を行うとともに、あしな
の交流を中心としたボランティ
岸和田市総合体育館で行われた
精神に基づいた活動を継続して
周年記念事業として
いる。
21
第8回全日本学生室内アーチェ
20
半世紀の活動資料データ化
が募金への参加や老人ホームの
訪問、植林活動など、ユネスコ
合宿交流するなど、子供たちと
休みには田舎の小学校を訪問し、
ユネスコ研究部は、月一回吹
田市内の小学生と遊んだり、夏
http:// 関 大 で は 昨 年 の 児 童 文 化 実 践
サークル「うぷ」に続いて3件目。
( 代・ 水 野 浩 = 文 学 部 地 理 学・
地域環境学専修 非常勤講師)
)見ることが出
www.kuec.org
来る。
の ホ ー ム ペ ー ジ で も(
がった。
時代の変化とともに、探検部
の活動も変わっていくと思われ
るが、未知なるものに憧れ、行
動していく精神は脈々と受け継
がれている。次なる半世紀に向
19
アーチェリー部の石井是選手
( 社 1) が、 2 月 日 ~ 日 に
けて部員たちが足跡を残してい
30
( 代・織田晃敏)
24
リー個人選手権大会で見事優勝
創部
25
探検部は、創部五十周年記念
50
18
わからないま ま、会 社に
自 身、何 を し たいの か、
を卒 業したものの、自 分
昭 和 四 十 二 年、大 学
私も、その仕事に向いているんじゃないか
る人がよくいたようだった。
公 務 員 をやめて、親 といっしょに仕 事 をす
している所では、その子供達が先生や他の
景 気で、親が織 物工場や、仲 卸の仕 事 を
両親は、沖縄から直接、来たのではなく、
いた。
やってきた人達が、たくさん集まって住んで
十 九年、戦 争の末 期に、沖 縄から疎 開で
八 百 屋 を していた。私 は 教
た︶織 り をや めて、両 親で
その後 を 継 ぎ、母 も 機︵は
沖 縄 に 引 揚 げて 行ったので、
家 の 近 く の 八 百 屋 の 人 が、
った。
るが、宮 崎でやるには、全 行 程
できていたので、作るのは楽であ
職 人がおり、流れ作 業で織 物が
え、考え、やってみた。また夜は、図案作
上に大きな鍋を置いて、染めの練習を、考
家では、庭にブロックで釜 を 作 り、その
三ヶ月程、そこで過し、宮崎に戻った。
ながったかもしれない。
りを、母にも教えてもらいながら勉強した。
大 変 なこと も わかった。し かし、
若い時は、非 常にエネルギーがあ
一年 近 く す る と、織 る 前 までの行 程 が、
したものを、母に織ってもらった。
全てできるようになったので、そこまで加工
簡単な織物ではあったが、全て、僕と母、
取っているうちに、自 分でも、で
き る と 自 信 が 出 て き た。ま た、
二人でしたものだったので大満足だった。
るもので、仕事を見ながらメモを
を 自 分でや ら ね ばいけ ないので、
産 地では、それぞれ、専 門の
がら勉強していた。
いたので、毎日、その仕事を見な
何 人 も織 物に関 する仕 事をして
幸 運にも、母の親 戚の人 達が、
した。
るには、どうしたらよいかと思案
そこで、宮 崎で織 物 作 り をす
をしようと決心するのに時間はかからなか
なあと思い、考え、よし、宮崎でこの仕事
入るが、そこに馴 染めず、
二ヶ月 足 ら ずでやめ、両
親の住む宮崎へ戻った。
父が北朝鮮で警察官をしていたので、大陸
私が育った所は、昭 和
からの引揚げ者だったのだが。
職 を 受 ける予 定で、家で勉
旅 す ること
強していたが、ふと、両親の
になった。
そこには、沖縄の伝統工芸品である琉球
沖 縄の両
里に行 きたく なり、沖 縄に
漆 器や、琉
よって 琉 球
親 の 里 は、
漆器や、琉球紬の職人もいたので、彼らに
球 紬の工 場
那 覇の近 く
の南 風 原 村
た。
私が子 供
︵ハ エ バ ル︶
が で き てい
琉 球 紬の工
の 頃、母 も
農 村 地 帯だ
と 言 っ て、
場 で 働いて
母は染め以外は殆どのことができ
平成5年宮崎県伝統工芸士認定
るとわかっていたのも、自 信につ
昭和59年宮崎県伝統工芸品指定
っ た が、ど
科卒
い た。沖 縄
昭和42年関西大学文学部英文学
機︵は た︶を 織 る 音 が
つ
の家 から も
昭和18年沖縄に生まれ宮崎で育
は、琉 球 絣
﹁かったん、こっとん﹂と心
る う ちに、それに興 味 が
わき、自 分には教 職より、
織 物のほうが向いているの
(おおしろ のりよし)
の 彼 女の 里
の 本 場 だっ
毎日、その音を聞いてい
地よくなり響いていた。
りに 関 して
た の で、織
は、り っ ぱ
な技 術 者だ
った。
ではないだろうかと思い始
大城 規由
絣を織る母
「私の選んだ道」
めた。当 時は、織 物が好
最初の頃は薪で大釜をたき糸を染めていた
すり込みで絣をつくる
19
私が宮 崎
に 帰った 時、
母の織りを見ながら勉強
大城 規由
〈上〉
22
連載 ◇
2008 スプリングフェスティバル
4月6日(日)千里山キャンパスで開催
恒例の餅つき大会やバザーに加え中国地方の物産展や鏡開きも企画
校友と家族、教職員とOBに現役学生も含めたオール関大人の春のイベントとして定着した『スプリングフェ
スティバル〜桜の母校によっといデー〜』は、今年も大学の全面的な協力を得て、四月六日の日曜日に千里山キャ
ンパスで開催する。
校 友 会 が、 百 周 年 記 念 行 事 と し て 毎 年 第 一 日 曜 日 を“ 校 友 の 日 ” と 定 め、 回 を 重 ね て き た こ の 催 し も、 第
二十三回目を迎える。
創立百二十周年を機に二十一世紀型総合学園を目指して日々発展する母校では、昨年七月には人工芝の千里山
北広場が竣工、現在工事の進んでいる第一学舎一号館の建て替え工事や、東体育館横の空中テニスコート・屋内
グラウンドも兼ね備えた第四学舎三号館は三月六日に竣工。この一年でキャンパスの景観は一変した。また、博
物館の横には、美術陶板を使って発見当初の写真から高松塚古墳の極彩色の壁画を再現した「高松塚古墳壁画再
現展示室」も完成している。
また、総合図書館前から経商学舎付近では毎年テントが設営され、各組織の協力により恒例のバザーや餅つき
大会など多彩なイベントが催されており、施設の見学とともに参加者の楽しみになっているが、今年は中国地区
各支部の協賛を得て「中国地方物産展」が開催される。河内長野支部による「河内長野物産展」では、地元の銘
酒「天の酒」関大ボトルや酒饅頭の販売、正午には総合図書館前で菰樽の鏡開きが行われ、参加者にふるまわれ
るなど、テントブースの企画は盛り沢山だ。
さらに、俳句コーナーでは、「自慢の俳句を投句して景品をゲットしよう」と、春の俳句大賞を募集。正門左
側の新関西大学会館北棟一階ロビーでは、校友の協力により、ロビー全体をパノラマレイアウトして、精密鉄道
模型の迫力ある走行展示が行われる。
今年も、日々発展する母校を訪れ、「確かめよう青春!深めよう友情!高めよう母校愛!」
なお、校友会受付テントでは、当日の催し内容を紹介した「プログラム」等を配付しているので、当日はまず
受付テントへお寄り下さい。
開催日時 平成二十年四月六日(日)午前十時〜午後三時
(時間内にご自由に来学下さい)
開催場所 千里山キャンパス(阪急千里線「関大前」駅下車)
(駐車場はないので、電車を利用下さい)
春の俳句大賞募集や鉄道模型の走行展示など新企画も
ドで、校友会長、理事長、学長
フィールドを持つ中央グラウン
ド と、 全 面 人 工 芝 の 緑 美 し い
…… 六 千 五 百 人 収 容 の ス タ ン
* 歓 迎 セ レ モ ニ ー( 午 後 一 時 )
できる開放感溢れるスペース
整備、自由に集い、憩うことが
出するため芝生広場やベンチを
館一号館跡地に、青空と緑を創
*野点・俳句コーナー……誠之
繰り広げられる。
“ 演 舞・ 演 奏 ” な ど が 華 や か に
を募集する。桜を賞でながら一
一 名、 優 秀 賞 一 名、 佳 作 三 名 )
よう」と、春の俳句大賞(大賞
俳句を投句して景品をゲットし
の 準 備 も 整 え て お り、「 自 慢 の
者を歓迎。また、短冊など句作
部現役学生が“お点前”で参加
点会場(無料)を設営し、茶道
事
の校友を歓迎するご挨拶に続い
「 悠 久 の 庭 」 が 誕 生。 こ こ に 野
行
て、応援団など現役学生による
学校・第一高等学校への進学を
門の職員が大学をはじめ第一中
大学会館南棟では、教員及び専
*進学相談コーナー……新関西
に引き継ぐ江戸の食文化』を開
一階展示室では、今年も春季
特 別 展『「 百 珍 」 っ て 何? ― 今
を備えている。
館の中でもトップクラスの機能
報の中枢として数ある大学図書
希望する校友親子のご相談に応
催する。読む楽しみのある料理
句おひねり下さい。
じます。
見学施設
*総合図書館……昭和六十年四
の名は『豆腐百珍』。「百珍」と
大坂で初めて出版された。書物
本(今でいうグルメ本)が、天
月に開館した総合図書館。蔵書
は「百の味」の意味で、豆腐料
下の台所と呼ばれた江戸時代の
数約二百二万冊、全学の学術情
20
ブームとなった。
が次々と出版され、百珍物の大
秘 密 で、「 百 珍 」 と 名 の つ く 本
ある文人であるところが人気の
ロの料理人ではなく、遊び心の
で掲載されている。執筆者はプ
らの豆腐に関する記事の集成ま
理百品を紹介し、和漢の典籍か
ど重要美術品十二点などの考古
十六点、鹿角製刀装具や銅鐸な
の碧玉製石枕など重要文化財
縄文時代の石製耳飾や古墳時代
*博物館……購入・寄贈及び発
画している。
奥深さを感じてもらえるよう企
多彩な料理に、今日の食文化の
化を紹介。江戸時代に完成した
と 発 展 し て き た 母 校 の 歴 史 を、
法律学校の誕生から総合学園へ
階の年史資料展示室では、関西
*年史資料展示室……簡文館一
天空や宇宙・炎にも通ずる鉄釉
美術館にも数多くの作品が永久
して深遠な輝色を発し、海外の
阪まちなみ賞の奨励賞を受賞し
ンパスに溶け込んだ親自然のや
ている。
こ の 度、 関 西 大 学 博 物 館 へ
十一点の作品を寄贈いただいた。 *百周年記念会館……緑のキャ
保存されている。
た。
一万五千点を収蔵。展示室では、 の見事な燿変を堪能いただける。 さしい建物として、第十一回大
掘等によって得た貴重な資料約
さまざまな展示品や、映像、パ
関大グッズや書籍等の販売をし
生協本部食堂が営業、三階では
お楽しみいただける。二階では
レストランで、バンケットルー
格的な食事まで楽しめる洒落た
のチルコロが営業。喫茶から本
新関西大学会館南棟では、四階
*レストラン“チルコロ”……
記念会館見学のあと、ゆっくり
喫 茶・ 軽 食 の 営 業 を し て お り、
念 会 館 の レ ス ト ラ ン 紫 紺 で は、
して「盛康天目」と呼ばれてい
第一人者であり、その作風を称
盛康氏は、現代陶芸界で天目の
〜』を開催する。陶芸家・木村
今年は、企画展『天目 宙(そ
ら)への誘い〜木村盛康陶芸展
「 凛 風 館 」 …… 母 校 創 立 百 二 十
*総合学生会館メディアパーク
年展』を開催する。
集めた特別展『児島惟謙歿後百
没後百年を記念して、縁の品を
年は創立者の一人、児島惟謙の
むきは、関大生協飲食事業部(電
飲物の予約もできる。ご希望の
千円)やパーティ用特別料理・
を開催の場合は、弁当(お茶付・
る。また教室等で総会・懇親会
様向けメニューもご用意してい
定食・麺類・丼物をはじめお子
*生協本部食堂……和定食・洋
務 局( 電 話 〇 六 ― 六 三 六 八 ―
し 込 み は、 関 西 大 学 校 友 会 事
スプリングフェスティバルに
関するお問い合わせ・参加お申
を販売している。
係書籍や関大オリジナルグッズ
ル・缶ジュースのほか、関大関
の生協テントでは、弁当・缶ビー
*生協テント……総合図書館前
ムも備えている。
寛ぎいただける。
今回の展示では、この百珍物
の献立本を中心に、江戸の食文
学資料を中心に展示している。
る。黒色の鉄釉にマンガンやコ
周 年 記 念 事 業 の ひ と つ と し て、
話〇六―六三六八―七五三一)
食事・弁当・飲物・
オリジナルグッズ
バルトなどを合わせて燿変して
平成十八年二月に竣工した総合
まで直接お申し込み下さい。
〇〇四一〜四六 FAX〇六―
六三八〇―八四七六)まで。
ネルなどで紹介しているが、今
できる天目は、土と炎が作り出
学生会館。屋上には桜の庭園も
*レストラン紫紺……百周年記
問い合わせ・申し込み
す奇蹟といわれ、精根を傾け造
備えられており、抜群の景観を
21
り出される氏の天目は、複雑に
鉄道模型の走行展示も行われる
▼
10
11
10
13
49
19
21
20
中村博
▼天六同友会懇親会 時・
第二学舎ゼミ棟A三一教室、連
=下垣法律事務所・下垣邦彦
▼葦文会親睦会 時・第二
学舎一号館A三〇八教室、連=
三坂友章
▼女子秀麗会幹事会 時・
第二学舎ゼミ棟A三三教室、連
=仁井ひろみ( 時より総合図
書館前テントでバザー開催)
▼ 秀麗寮士会春の集い 時・
第 二 学 舎 三 号 館 D 一 〇 二 教 室、
連=森茂実
▼ 長 砂 ゼ ミ 長 友 会 総 会 時
半・百周年記念会館・サロン桃
源、連=鍋島均
▼ 雄 弁 会 同 窓 会 時・ 第 二
学舎三号館D三〇四教室、連=
宮先一勝
サッカー部OB会総会
▼
時・第二学舎一号館A三一〇教
室、連=佐藤弘一
バスケットボール部OB会総
▼
会
時・第二学舎ゼミ棟A一
11
11
12
時・第二学舎三号館D一〇三教
室、連=塩田司法書士事務所・
塩田貴美代
10
24
11
▽二〇〇八スプリングフェスティ
バル~桜の母校によっといデー~
4月6日(日)午前 時~午後
3時 千里山キャンパス
▽第 回支部対抗親睦ゴルフ大会
5 月 日( 火 )
小野グランド
カントリークラブ
▽第 回定時代議員会 6月7日
( 土 ) 午 後 1 時 半 千 里 山 キ ャ ン
パス・百周年記念会館
▽天神祭・奉拝船「関大丸」就航
▽平成 年度校友総会 月 日
( 日 ) 午 後 1 時 千 里 山 キ ャ ン パ
ス・第2学舎4号館「BIGホー
ル 一 〇 〇 」( 議 事 = 任 期 満 了 に 伴
う代議員の改選について)
▽第 回海外研修 月2日(日)
~7日(金)・4泊6日 ハワイ
▽平成 年校友会新年互礼会 年1月 日(木)午後6時 新阪
急ホテル
▽ 臨 時 代 議 員 会 1 月 日( 土 )
午後1時半 千里山キャンパス・
百周年記念会館
11
10
7月 日(金)夕刻 奉拝船乗
船者集合場所
11
16
24
20
91
▼ 機 友 会 懇 親 会 時・ 第 四
学舎(工)一号館一階講師控室、
連=長谷川洋司
▼ 千里山建築会懇親会 時・
第四学舎二号館六階建築学科会
議室、連=環境都市工学部准教
授・伊藤淳志
▼ 金属工学科昭和 年入学生同
窓会
時・第四学舎二号館三
階先端マテリアル共同研究室Ⅰ、
連=化学生命工学部教授・赤松
勝也
▼ 関 西 大 学 金 曜 会 時・ 第
二学舎三号館D三〇二教室、連
=今井康雄
▼ 社 会 学 部 同 窓 会 時・ 第
二学舎一号館A三〇四教室、連
=中村仁
応援団OB千成会幹事会
▼
時・第二学舎一号館A五〇一教
室、連=プラ・メイド内・鷲見
彰治
▼応援団OB長柄会懇親会 時・有鄰館二部応援団本部団
室、連=中村司法書士事務所・
14
15 21
11
10
11
11
11
11
11
11
11
11
11
司法書士関大会懇親会
11
平
成
20
年
度
校
友
会
の
主
な
る
年
間
行
事
予
定
33
11
11
11
25
11
総会等開催団体一覧
12
11
11
10
22
11
11
11
11
11
11
11
10
河 内 長 野 支 部「 河 内 長 野 物 産
11
11
▼社 会保険労務士関大会総会 各団体とも初参加や
展」
時・第二学舎一号館A五〇二
時・ 総 合 図 書 館 前 テ ン
家族連れ参加を歓迎
ト、連=長尾保
教室、連=永盛労務事務所・永
盛啓司
二 月 末 日 現 在、 ス プ リ ン グ
▼ 堺 支 部「 関 親 会 」
時 半・
フェスティバルに合わせ総会・
第 二 学 舎 三 号 館 D 三 〇 一 教 室、 ▼ 関 西 大 学 臨 床 心 理 士 会 総 会・
研 修 会 9 時 半・ 第 三 学 舎 四 五
懇親会等を開催の団体は次のと
連=依田充啓
おり。
〇一教室、連=社会学部寺嶋研
▼ 高槻島本支部懇親会 時・
第 二 学 舎 三 号 館 E 一 〇 一 教 室、 究室・寺嶋繁典
各団体とも本紙を見ての初参
加や家族連れ参加を歓迎してい
連=コヤマカンパニー内支部事
▼ 関 大 一 八 会 総 会 時・ 第
る。関係の方は集合時間・会場
務局
二学舎ゼミ棟A二四教室、連=
を 確 認 の 上 多 数 ご 参 加 下 さ い。
▼ 豊中支部懇親会
時・ 第
山本光雄
会費など詳しいことは連絡先ま
二学舎ゼミ棟A二六教室、連=
▼ 予 科 撩 爛 会 総 会 時・ 第
で。なお、当日はまず校友会受
横畠正秀
二学舎ゼミ棟A一一教室、連=
付テントで資料等を受け取り下
東浦栄一
▼ 羽 曳 野 支 部 総 会 時・ 第
さい。
二学舎三号館D一〇一教室、連
▼ 第 一 新 生 会 懇 親 会 時・
=関西インシュアランス・小林
第二学舎ゼミ棟A一四教室、連
掲載は、団体催名・集合時間・
集合場所・連絡先の順(連絡先
民夫(バスで来学)
=篠原昭三
の電話番号は校友会事務局〇六
▼ 藤 井 寺 支 部「 桜 の 母 校 で 語 り
▼ 関 大 天 六 会 懇 親 会 時・
合う会」
―六三六八―〇〇四四までお問
時・ 第 三 学 舎( 社 ) 第二学舎ゼミ棟A二二教室、連
い合わせ下さい)。
二〇一教室、連=技建設計・本
=篠原昭三
間敏司
▼ 桔 梗 が 丘 ク ラ ブ 時 半・
▼学 部二七年会懇親会 時・
第二学舎(経商)三号館D一〇
第二学舎ゼミ棟A一三教室、連
▼ 八 尾 支 部 懇 親 会 時・ 第
四教室、連=花山宗一(マイク
二学舎ゼミ棟A二一教室、連=
=畑下公認会計士事務所・畑下
ロバスで来学)
青砥申生
辰典
▼ 尼崎支部家族懇親会 時・
▼ 大阪中央支部家族懇親会 ▼二九千里会懇親会 時・
第 二 学 舎 ゼ ミ 棟 横 特 設 テ ン ト、 時・第二学舎ゼミ棟A二三教室、 百周年記念会館・レストラン紫
連=佐藤泰秀
( 時より第二学舎ゼミ棟前で
紺 連=大村計治
▼ 川西支部母校懇親会 時・ 「曲芸&マジックショー」開催)、 ▼一高同窓会餅つき大会 9
第二学舎ゼミ棟A三六教室、連
連=伊藤晃充
時半・第二学舎ゼミ棟横特設テ
平野支部観桜会
=猪名川住建・中西清之
ント、同役員会 9時半・第二
時・ 第
▼
吹田支部婦人部・青年部ガレー
二学舎ゼミ棟A三二教室、連=
学舎ゼミ棟A二五教室、連=中
▼
ジセール
田中義信法律事務所・田中義信
野雅夫
時・ 総 合 図 書 館 前
テント、連=小西節子・渡辺善
▼ JR関大会総会
時・ 第
期・学部平成
▼関大一高第
孝(同テント横にて吹田市行政
二学舎三号館D二〇二教室、連
年卒業生同窓会 時・第二
相談開催)
=三宅順
学舎一号館A三〇二教室、連=
林智彦
▼
10
二教室、連=財前英司
▼ ハンドボール部OB会総会 時・第二学舎ゼミ棟A四一教
室、連=植中健登
▼ 陸上競技部OB会陸友会懇親
会
時・第二学舎A三〇一教
室、連=迫川叡作
▼ レスリング部OB会懇親会 時・第二学舎一号館A三〇九
教室、連=横山博行
▼ 千里山法律学会OB現役懇談
会
時・第二学舎三号館D三
〇三教室、連=千里山法律学会・
居町
▼ 書 道 部 O B 会 総 会 時・
第 二 学 舎 一 号 館 A 五 〇 三 教 室、
連=書道部副将・三木
▼ 速 記 部 O B 会 総 会・ 現 役 交 流
会
時・第二学舎一号館A三
〇七教室、連=森純也
▼ ユネスコ研究部OB会懇親会
時・ 第 三 学 舎 二 〇 二 教 室、
連=藤本商事・藤本正知
▼ 絵 画 部 O B 会 時・ 第 二
学舎ゼミ棟A三五教室、連=森
本棟夫
▼ 経済研究部OB会懇親会 時半・第二学舎三号館D二〇一
教室、連=矢崎賢司
▼ 證 志 会 懇 親 会 時・ 第 二
学舎三号館D二〇四教室、連=
岡田本社・岡田誠一
▼ 交 響 楽 団 O B・ O G 会 総 会・
親睦会
時・ 第 二 学 舎 一 号 館
A三〇三教室、連=谷口眞人
▼ 混声合唱団ひびきOB総会 時・第二学舎三号館E三〇一
教室、連=向井孝之( hibiki-ob@
)
yahoo.co.jp
▼ コールテクニカOB会総会 時・第二学舎一号館A三〇五
教室、連=内原裕一郎
▼ ユースホステルクラブ特別O
B総会
時 半・ 第 二 学 舎 三 号
館D二〇三教室、連=市山二郎
( jiro23may@theia.ocn.ne.jp
)
▼ 風 土 研 究 会 O B 会 総 会 時・第二学舎三号館E二〇一教
室、 連 = 阪 上 敏 郎( t-sakaue@
)
toyo-s.co.jp
13
▼ 関西大学プレイボーイクラブ
時・第二学舎ゼミ棟A三四
教室、連=東新産業・川島経正
躍進続ける母校を祝賀
10
二百三十人が出席して、二十一
会など組織の代表者、本部役員
の首長・議員、地域支部・職域
で開催され、大学関係者、校友
から大阪・梅田の新阪急ホテル
校友会主催の平成二十年新年
互礼会は、一月十五日午後六時
関西大学第二の併設高校となり、
また、今年四月には北陽高校が
としてこんな嬉しいことはない。
着々と成果をあげている。校友
大学”の構築に向けての努力が
理事長が提唱される“強い関西
斉 唱。 一 軸 浩 幸 会 長 は、「 森 本
祝った。
るということは喜ばしいこと
友会の一員となる。仲間が増え
い活発な活動を展開している。
友が結集し、母校の発展を願
を超え、各組織には多くの校
きた。登録組織数は二百五十
ワークの構築を強力に進めて
部、関係諸団体などのネット
は、一昨年から本部、地域支
を分かち合いたい。校友会で
を想い、皆さんとともに喜び
中、力強く躍進を続ける母校
定員割れという厳しい現況の
と考えている。大学の四割が
応援団第八十六代団長・高山
真吾君のリードで力強く学歌を
世紀型総合学園を目指す関西大
北陽OB三万余人がわれわれ校
11
学の創立百二十二年目の門出を
校友会新年互礼会に 230 人
11
厚くお礼申し上げるとともに、
23
11
11
11
11
10
11
11
11
11
11
12
10
第 回
回支
支部
部対
対抗
抗親
親睦
睦ゴ
ゴル
ルフ
フ大
大会
会 月
月 日
日に
に開
開催
催
第
IT推進プロジェクトなど充実
今年前半に竣工する建物、及び
六階建ての第一学舎一号館ほか
大学の弥栄を祈念して万歳を三
仁教育後援会会長の発声で関西
リードで逍遙歌を熱唱。小渕孝
六 十 四 代 団 長・ 横 内 俊 裕 君 の
館、高松塚古墳壁画再現展示室、 囲気で進み、二部応援団本部第
する施設についても説明した。
唱し、閉宴した。
荒井 廣氏逝去
法人顧問、校
友会参与、関大
大阪倶楽部理事
長 の 荒 井 廣 氏
が、三月四日逝
去された。 歳。
荒井氏は、昭和 年 月旧制専
門部法律学科卒業(臨 専二法)。
昭和 年大蔵省に入り、税務関係
の要職を歴任。 年退職し、税理
士を開業。荒井廣税理士事務所所
長。
在職中は、国税秀麗会の発展に
尽くし、昭和 年から 年まで副
会長を6年間、 年から 年まで
会長を4年間務めた。
大学の関係では、昭和 年 月
から平成 年9月まで評議員を6
期 年務め、この間、人事委員会
委員長等を歴任。平成4年から8
年までは理事を1期。
校友会関係では、昭和 年から
年まで常議員を4期務め、この
間、 年から財務部長を2期、総
務部長を1期。 年副会長に選任
され2期務めた後、 年代議員会
議 長 に 就 任。 平 成 3 年 か ら 参 与。
その他、関大大阪倶楽部、会計
人会、枚方支部など校友会の多く
の組織で要職を務め、校友会と大
学の発展に尽力された。
校友会参与
法人顧問
また、芝井敬司副学長は、昨
年の関西大学十大ニュースを紹
介 し て、「 関 西 大 学 は 社 会 連 携
を積極的に進めている。大学の
中だけで教育・研究するのでは
な く、 社 会 と 手 を 繋 ぎ な が ら、
地域に支えられながら、地域の
役に立ちながら進んでいきた
い」と述べ、北陽高校について
は「第二の併設高校として、きっ
ちりと教育力を発揮し、有為な
人材を大学に送り込んでもらえ
る か、 議 論 し、 プ ラ ン を 練 り、
実施するよう対応してきた」と、
昨年三月以降の経過を報告した。
校友議員・首長を代表して冬
柴鐵三国土交通大臣が「理事長、
副学長の挨拶に、関西大学の卒
業生として自信と誇りを感じた。
必ずや世界に羽ばたく多くの若
れを支えなければならない」と
支部相互の交流と校友の親睦をはかる催しとして昭
和 六 十 年 以 来 実 施 し て い る「 支 部 対 抗 親 睦 ゴ ル フ 大
会」は、皆さまのご協力により毎年多大な成果を上げ
ており、昨年は最多の四十五支部二百三十人のご参加
をいただきました。
本 年 は、 昨 年 と 同 じ く 小 野 グ ラ ン ド カ ン ト リ ー ク
ラブ(三六
ホール)を
会場に、第
二十四回大
会として開
催します。
美しい池
が 点 在 し、
雄大でフラ
ットな新緑
のコースを
舞台に、今
年も校友会
長杯(団体
戦 )、 理 事
長杯(個人
戦)を目指
し、併せて
親睦の実を
あげていた
の関西大学」について、北陽高
者が出てくるだろう。我々もそ
と切り出し、入学志願者の十万
後援会の支援、参加者の健勝を
母校を支える団体として校友会
部の設置、高槻新キャンパスの
挨拶の後、上原洋允常務理事が、
ローバルCOEほか教育・研究
記念して乾杯の音頭をとり開宴。
大学の充実発展、校友会・教育
面での多数の競争的資金の獲得、 着工など「諸計画を力強く推進
校への中学校の併設、大阪医科
言葉を述べた。
馬術部・日本拳法部の全国制覇、 していく」と決意を述べるとと
宴は応援団吹奏楽部の演奏が
流れる中、テーブルを移っての
大学・大阪薬科大学との共同学
来賓を代表して挨拶に立った
森 本 靖 一 郎 理 事 長 は、「 昨 年 は
もに、空中テニスコートと屋内
人突破、十学部体制によるより
創立百二十周年を機に大きく飛
高橋大輔選手の全日本三連覇な
強い教育・研究体制の構築、グ
躍した関西大学が、その実力を
賀詞交換や歓談で、賑やかな雰
も前進していきたい」と年頭の
※個人での申し込みも歓迎します。
だきたく、お知り合いの方お誘いの上、多数ご参
加下さいますようお願いいたします。
◆と き 五月二十日(火)
◆ところ 小野グランドカントリークラブ(小
野市中谷町、電話〇七九四―六七―一五〇〇)
◆競技方法 一八ホールストロークプレー(ロ
ーカルルール適用)、ダブルペリア方式採用(競
技委員長・ゴルフ場支配人一任)
◆表 彰 団体戦=上位十位まで入賞(各支部
上位四人のネット合計により決定)。個人戦=上
位二十位まで入賞。飛賞・特別賞等多数あり。
◆ 表 彰 式 競 技 終 了 後、 ク ラ ブ 食 堂 で 成 績 発
表・表彰式、懇親会を行います(三六ホールを使
っての競技ですので、プレー終了後の待ち時間が
大幅に短縮されます。表彰式には是非ご参加下さ
い)
◆参加費 五千円(ゴルフ場での支払いは各自
負担。プレーフィは税別で一万三千円=昼食代込、
キャディ付) 参加賞は校章入ゴルフボールセッ
ト・きんつば詰合せ。 ◆申込方法 一支部四人以上(四人に満たない
場 合 は 個 人 戦 の み ) で 校 友 会 事 務 局 ま で。 先 着
二百四十人(最終四月二十一日)。参加申込者に
は、五月十二日頃に実施要項・組合せ表等を改め
て送付します。
ホー
ール
ルの
の小
小野
野グ
グラ
ラン
ンド
ドカ
カン
ント
トリ
リー
ーク
クラ
ラブ
ブで
で
ホ
20
練習場を併設する第四学舎三号
10
16 12
48
5
どを詳しく紹介、続いて「今年
57
52
16
63
51
48
42
88
12
36
36
遺憾なく発揮した年であった」
48
51
45
13
24
56
24
24
新春総会で校友の輪広がる
「知っていただく努力」の成果
頃の成果の写真展があり総会に
るとの報告と共に、会場では日
写真同好会からは、今年度は
上高地へ撮影旅行を計画してい
に場内爆笑。
ウ」の変換登録が判明との余話
→「神田市場」→「カンダシジョ
重会長(昭
会では、徳
ア シ ス タ ワ ー で 行 わ れ た。 総
月二十日、大分全日空ホテルオ
年に一度の大分千里会(徳重
忠男会長)の総会と懇親会が十
平成卒の初参加者増える
北迫税理士がミニ講演会
きるだけ多くの校友の参加をお
年は、第五十七回目になる。で
務局は、頭をひねっている。今
集まる会にできないものかと事
何とかコンスタントに五十人位
て、幅広い世代での会になった。
例年より出席者が少なかった
が、平成卒業の初参加者が増え
花を添えた。また会場では、両
に 伴 い、 昭 和 二 十 八 年 か ら 平
を 売 り 始 め た の か 」( 著 者 石 川
ンビニでは、なぜ八月におでん
させる「たこ焼き器」や新書「コ
ビンゴゲームには大阪を思い出
人はだしの歌に酔いしれ、続く
第二部懇親会はコース料理を
味わいながら、カラオケでは玄
いだ。
事務局から
の呼びかけ、
の会の結束
からの九州
長(昭
花田正利会
福岡千里会
り、来賓の
拶に始ま
八七〇〇)
(徳重忠男=〇九七七―二七―
待ちしております。
千 葉 支 部( 杉 原 賦 彦 支 部 長 )
の新春総会が二月二日、市川市
成 十 三 年 と 幅 広 い 参 集 を 得 て、
勝利校友よりの寄贈)などバラ
は大分及び
法)の挨
のサンシティで、来賓に大学か
三十五人の輪へ広がったとの報
エティに富んだ賞品に会場が盛
九州のゴルフ大会、忘・新年会
同好会への参加申し込みが相次
ら石山東京センター長、校友会
告に会場より拍手が湧き上がっ
り上がった。
懇親会の前に昨年より始めた
校 友 に よ る ミ ニ 講 演 会 が あ り、
参加者は初参加の校友の増加
局長、近隣の重延神奈川支部長、 た。
本部から片山副会長・増地事務
支部を目指す旨の力強い報告が
第一部総会は学歌斉唱に続き、 重ね、ゴルフ同好会、写真同好
会、諸行事を通じ活力ある千葉
杉原支部長より活動報告、各担
催された。
なされた。続いて、大学・校友
最後に松岡校友(応援団OB)
のリードで逍遙歌を熱唱し、校
本年は北迫秀文税理士(昭
長より支部間交流の積極化など
堵」
(坂本校友経営)へ繰り出し、
会は市川駅前の家庭料理店「舞
では終われず、恒例により二次
懇親会では、昭和二十八年か
ら平成十年卒業の校友までが親
された。
が税金の話を面白おかしく講演
等の活動報告があった。
の提言もなされた。
追っかけ参加の女性校友も迎え
睦を深め、木本順子さん(昭
文)の豊後浄瑠璃の熱演もあ
り、和やかなうちに会が進行し
経)の口上で始ま
た。締めの逍遙歌では、山田和
嘉さん(昭
り、全員が輪になり合唱した。
十一月十一日の日曜日に鳥栖
市立儀徳町運動広場で、第一回
MVPは岡部君
(九歳)など三人
福岡若手と佐賀でソフトボール
(平2法・竹村浩太郎)
当者より会計報告ならびに会計
会本部の来賓より、受験状況や
友会活動への積極参加と再会を
経)
監査報告が行われた。活動報告
三大学提携学部の開設やスプリ
誓いお開きとなった。が、ここ
ゴルフ同好会からは、今年度
もゴルフ大会を二回計画してい
十七人が参加、親交を深めた。
今年度も「強い関大」に呼応
し、「 知 っ て い た だ く 努 力 」 を
で杉原支部長より「千葉支部便
ングフェスティバルなどについ
る旨と、次のエピソードが公表
青 山 誠 = 〇 三 ― 三 六 六 二 ―
七七一〇)
48
が、試合に入り、体が温まると
は し な い か? と 心 配 し て い た
は、試合が成立するのか?ケガ
る面々もあり、柔軟体操の際に
ンドを一周するだけで息切れす
二十年ぶりにグローブを手に
する人もいて、準備運動でグラ
二十数人参加のもと開催した。
会交流ソフトボール大会を総勢
福 岡 若 手 千 里 会 VS 佐 賀 千 里
大分千里会総会
34
された。ゴルフ大会当日受付で、
52
高木埼玉支部長をお迎えし、開
り」の発行など「知っていただ
ての報告があり、さらに各支部
経)
く努力」の甲斐もあり、今回の
38
(広報担当 池田光夫)
( ア イ ズ・ オ ブ・ マ イ ン ド 内 応対、探求の結果、「関大千葉」
で 予 約 し た と こ ろ、「 カ ン ダ イ
チ バ 」 →「 カ ン ダ イ チ バ 」
福岡×佐賀ソフトボール大会
25
51
「関大千葉」の予約が無いとの
千葉支部新春総会
村長三期目の熱い思いを語って
に 歩 む 村 づ く り 」 の テ ー マ で、
流が出来たと喜ばれた校友も多
わず抽選とし、世代を越えた交
と考える。席順も老若男女を問
に上がって来ている点が大きい
支部公式サイトの認知度も徐々
頂いた。合併することなく村民
の大合併ではなく、住民ととも
本位の行政を目指す関大魂溢れ
かった。
味、プライベート、また仕事の
る孤高の村長の熱弁は勇気と感
次第に緊迫したゲーム展開とな
後半は、カラオケ大会に突入
し、 色 々 な
に、投げて、打って、走ってと、 盛り上りをみせた。
り、各人普段の運動不足をよそ
年代層での
動を与えた。
話題など話に花が咲き、非常に
また、見学のつもりで参加し
ていたメンバーも、試合に駆り
歌声に時間
今後の運営に役立てたいと考
え、参加者にアンケートにも協
大変に盛り上がった。
出 さ れ グ ラ ン ド に 立 つ と、 皆、
の過ぎるの
力してもらった。因みに支部公
学 生 時 代 に 戻 っ た か の よ う に、
田淵顧問の乾杯の音頭で懇親
会に入り、初参加の校友や県外
を忘れるよ
式サイトは校友会本部が提供推
躍動感をもって白球を追いかけ
からも駆けつけてくれた守口支
進されているサーバーに昨年秋
うな更に盛
部、女子秀麗会役員の浜上夫妻
ていた。
後に、来年の発展と健勝を祈り
法)のリードで
逍遙歌を大合唱しお開き。
事務局へお問い合わせ下さ
URL:http://www2.kandai-
、
koyukai.com/al/okayama/
: oka-kandai@k-network.
mail
ゴルフ・ボウリングも
〇八六―二二二―七〇七六)
昨年まで同日開催であった親睦
近年最多の参加者
▼第四十四回親睦ゴルフ新年大
会の結果は次の通り。
と第八回親睦ボウリング新年大
第四十四回親睦ゴルフ新年大会
岡山支部(行本章允支部長代
行)が新年会と同時に案内した
ゴ ル フ も 前 日 に 変 更 し た 点 や、
バンテージを与えたこと。また
会費は女性と平成卒校友にアド
内状のデザインレイアウトを一
)
net
新し、夏の総会に行っていた講
(総務幹事・昭 社 小林浩一)
演 会 を 新 年 会 に 採 用 し た こ と。 ( 田 淵 自 動 車 鈑 金 塗 装 所 =
があった。その理由として、案
い(
村木校友(昭
プ レ ゼ ン ト の 抽 選 を 行 っ た 後、
福岡若手千里会忘年会
今回は、新年会を始めゴルフ、
ボウリングでも近年最多の参加
な お、 詳 細 や 最 新 支 部 情 報
は、 岡 山 支 部 公 式 サ イ ト か
より移設済みである。
り上がりを
― 佐 賀 6、二 戦 目 佐 賀 5 ― 福
岡6、で福岡若手千里会チーム
万歳三唱にてお開きとなった。
日に岡山市のラ・ヴィール岡山
等 を 紹 介 し 大 い に 盛 り 上 が り、
試合結果は、一戦目 福岡9
の勝利ということで閉会した。
で六十五人の参加を得て盛大に
46
み せ た。 最
個人賞では、MVP・岡部将大
なお、福岡若手千里会につい
ては、校友会のHPから福岡千
里会のWebを開いていただく
(九歳、福岡・岡部薫=昭 工・
ジ ュ ニ ア )、 福 岡 千 里 会・ 畠 中
と連絡先があります。お気軽に
お問い合わせ下さい。
商 )、 佐 賀 千 里 会・
俊 和( 平
法)の三人が選
(岡部 薫)
( 安 藤 造 園 土 木・ 白 木 成 光 =
〇九二―八四一―四一四一)
福岡若手千里会では、十二月
十九日に午後七時から四時間半
56
内山誠一(昭
出され、第二回目(来年度予定)
が楽しみな企画となった。
(福岡若手千里会代表幹事
岡部 薫)
「村民本位」目指す村長が熱弁
年目の新年会に最多の 人
に及ぶ大忘年会を博多区の祇園
行われた。記録を取り始めて過
岡山支部(行本章允支部長代
行)恒例の新年会が、一月十三
欧風居酒屋で、福岡千里会の諸
去最多の参加人数となった。
ンバーで開催した。
先輩もお迎えして二十五人のメ
居酒屋で大忘年会開く
カラオケで各年代層の歌声
65
経)から「平成
49
行本支部長代行の新年挨拶に
続き、岡山県西粟倉村長・道上
正寿校友(昭
工 機 )、 2 位・ 山 田
会(参加者二十六人)優勝・中
谷 輝( 昭
大 策( 昭
国 )、 3 位・ 安 延 文
54 51
61
今年一年、毎月のように行わ
れた若手会のイベントの話、趣
岡山支部新年会
51
59
14
26
介、 し ば し 料 理 に 舌 鼓 を 打 ち、
初参加者四人をステージ上で紹
ものの、出
出席を促す
し総会への
で、和気合いあいの雰囲気の中、
従って、総会終了後の会食は、 ( 大 西 経 二 = 〇 七 二 ― 七 六 六 ―
今や恒例となっている「牡丹鍋」 〇二七九)
経)
▼第八回親睦ボウリング新年大
各テーブルで歓談し懇親の輪を
参会者の自己紹介に始まり、ビ
男(昭
会(参加者十六人)優勝・野上
席は十四人
だった。一
ビンゴゲームの景品は、花や野
ど極めて楽しいひと時となった。
ンゴゲームでの賞品獲得競争な
義治支部長(昭
「 母 校 発 展 の 一 翼 を 担 え る 芦
屋支部を築いていきたい」上野
法)の大きな
世代を超えて総会に七十人集う
方、校友会
菜など、猪名川町の特性を生か
したものとした。
決意表明とともに幕を開けた 芦
ラオケで盛り上がり楽しく交歓
からは寺内
母校発展の一翼を担える支部を
広げた。アトラクションではカ
法)、3位・林典弘(昭
のひと時をすごした。
副会長、増
商 )、 2 位・ 松 田 謙
啓 治( 昭
太郎(昭
最後に全員肩を組み逍遙歌を
合唱、千里山を思い出し声高ら
地事務局長
筆に価することである。今後も
望むものである。
猪名川支部は、規模的にはさ
ほど大きくはないものの、今後、
団塊世代のリタイアといった社
会状況のもと、こうした校友の
ひとつの受け皿的役割を担うこ
とが出来ればと思っている。
( 幹 事 長・ 南 隆 志 )
屋支部の平成十九年度総会。一
のご臨席を
かに歌い上げた。
千里山思い逍遙歌合唱
初参加4人がステージ上に
社)
いただくと
月二十六日の夜は世代を超えた
藤村先輩の万歳三唱、法本先
輩による閉会の挨拶で、実り多
本年の総会には、女性会員の
出席もあり、懇親会の雰囲気が
愛知支部(森田敏二三支部長)
の 忘 年 会 が 十 二 月 十 八 日、 ロ
ともに、近
交歓の輪が広がり、絆を深めた。
き忘年会は幕を閉じた。
より一層和らいだものになった
イヤルパー
隣支部の支
会場となった芦屋市内のホテ
部長などご
ことは、喜ばしいことであり特
クイン名古
(幹事長 原 勝也)
ている。
年会」といった様相を呈してき
理旅館「まんか」で、開催された。 ながら一年の締めくくりの「忘
の支部長等来賓のご参加を仰ぎ
総会の時期は、近年十二月上
旬の実施が恒例化し、近隣支部
ることができた。
ほぼ昨年なみの参加者で開催す
来賓十二人のご臨席をいただき、 他の女性支部会員の参画を切に
( 知 多 工 業・ 森 田 敏 二 三 =
「忘年会」様相の支部総会
ビンゴ景品は地元の特産品
猪名川支部(大西経二支部長)
総会は、十二月二日に町内の料
〇五六二―三三―五八二二)
屋で参加者
二十三人を
集めて開催
された。
森田支部
長の挨拶の
後、会沢副
支部長の乾
杯の音頭で
総会開催に向け、支部校友四
百二人に対し、開催案内を送付
芦屋支部総会
27
43
47
50 57
宴 に 入 り、
愛知支部新年会
猪名川支部総会
60
部OB、甲南アルミ建材)にお
願いし、これからの役員と平成
文英、
アイススケート部OB)が代表
島建設)、中井宏子(平
(昭 学法 河合洋成)
(山口会計事務所気付 =
メンバーの心響きあう時空と平
ルには、昭和十年卒業の大先輩
から平成生まれの現役学生まで
で挨拶。次世代の勢いを全員が
成二十年新年互礼会での再会を
熱祈した。(平 文仏 小谷 舞)
部メンバーで企画、運営を進め
URL
owner@yahoogroups.jp
kuaa-kobe-
る チ ャ ン ス を 与 え て い た だ き、
神 戸 支 部 メ ー ル 神戸ルミナリエの夜、十二月
十一日に神戸支部(西村太一支
司会を山本智子(平8社、ナイ
親睦会は渡邊泰之幹事長(昭
法)より、関大神戸平成倶楽
感じた。
〇七九七―三一―八〇〇五)
か に 歌 い、「 関 大 人 」 と し て の
意識を高ぶらせた後、総会では
事業報告や会計報告などが行わ
の片山久江副会長からは感謝
部長)役員と 関大神戸平成倶楽
登場し、代表で細野幸男さん(平
総会に続いて、お楽しみの懇
親 会。 和 太 鼓 の 演 奏 や 応 援 団
な取り組みが高く評価された。
友 会 事 務 局 よ り 奥 田 惠 造 課 長、 ( 昭
でスタート。友好参加として校
法・山陽電気鉄道社長)の乾杯
西村支部長(昭 法・神戸ト
ヨペット会長)の開会挨拶に始
回は神戸平成倶楽部の小林泰代
での百四十二人で会場は瞬く間
二十八年卒から平成十九年卒ま
を 神 戸 東 急 イ ン で 開 催。 昭 和
会い」をテーマに、新年互礼会
神 戸 支 部( 西 村 太 一 支 部 長 )
は、 一 月 二 十 四 日、「 新 た な 出
た桜井誠一常任幹事(昭
いよいよ乾杯へ、昨年、神戸
市役所関大倶楽部の会長となっ
庫県議、神戸市議が挨拶。
が登壇。そして「関大党」の兵
て、昭和卒の初参加二十人近く
院 工・ 山 陽 電 気 鉄 道 )、 東 口
リーダー部の演舞で大いに盛り
さん(平5経、フラワーアーティ
に埋まった。
頼もしい活躍と笑顔
上がる中、校友マインドを刺激
京都若手会より畑尚樹(平8工
スト)が登場した。小林さんよ
心意気のもと、新たな一年のス
「 来 年 の 総 会 は 百 人 規 模 に し
たい」と強調する上野支部長の
会を誓い合った。
最後は逍遙歌で締めくくり、再
読 み 上 げ ら れ る 度 に 一 喜 一 憂。
された福引き大会では、番号が
毛布団」などの豪華賞品が用意
関 心 を 呼 び 起 こ し た。「 高 級 羽
生命保険)、
デンシャル
OB、プル
人(平3商・
び、黒田克
テージに並
平成卒二
十二人がス
で開会。
らっ人 校友録」連載で第一回
は神戸支部の前田由利常任幹事
工 建 ) に 引 き 続 き、 第 九
総勢百四十二人が会場埋める
するアピールも。芦屋市立美術
建 ) さ ん を 始 め、 女 子 秀 麗 会、
り、取材の様子や記事の内容を
タートをきった芦屋支部。地元
奥一郎(平
法・
邦さん(平6法)が挨拶。続い
ボ ー ル 部・ 竹 中 工 務 店 )、 堤 礼
和文さん(平2商・体育会バレー
16
た。解答速報に続いて、成績評
(?)、全員熱心に解いていまし
「 関 大 検 定 十 問 」 で は 飲 食
も 忘 れ、 学 生 時 代 を 思 い 出 し
教授となった矢田立郎顧問(昭
長が開会挨拶。また母校の客員
さんによる学歌斉唱、西村支部
八十六代団長となった髙山真吾
動、趣味・特技、勤務先業種な
身高校、大学時代のサークル活
で進行。今回は参加者名簿に出
社長)と山本智子幹事のコンビ
長(昭
を贈呈した。可、不可の会員に
解)の中から五人に関大グッズ
ミットの環境大臣会合、ブラジ
神戸で五月に開催するG8サ
見をしてもらう仕掛けとした。
どを記載し、お互いの新たな発
をアピールした。
(平
ル移住百周年など数多くの神戸
ジの熟読をお願いした。
ステージに「関大神戸平成倶
楽部」のメンバー三十人近くが
工建築)の奏でる音色に、
して活動している伊川洋平さん
閉会挨拶を本日の企画リー
ダーの今中寛(平9商・ゴルフ
は機関紙『関大』とホームペー
40
ステージに注目すると、在学
中よりジャズトランペッターと
残念ながら現れず、良(八問正
法・三宮クリニーング
価を行った。優(全問正解)は
法・ 神 戸 市 長 ) が 駆 け つ け、
神戸市保健福祉局長)が祝杯を
47
神戸にとってうれしいニュー
スを紹介。機関紙『関大』に「き
博物館の明尾圭造学芸課長(平
芦屋、西宮から駆けつけてくだ
への貢献を目指した「地域ネッ
5法・応援
46
40
神戸支部・関大神戸平成倶楽部合同懇親会
まり、天野文博副支部長(昭
元院修文)が厳しい運営状況に
トワーク」づくりに向け、校友
団OB、鹿
18
ラグビー部
たちは一歩を踏み出した。
42
61
ある同館への支援、協力を訴え、 さり、七十人で賑やかな雰囲気
最快事に語っていただいた。
四五三―二二一一)
co.jp/group/kuaa-kobe-heisei
(東光商会気付=〇七八―
http://groups.yahoo.
状。五十年以降の卒業生でつく
キジャパン)、「関大検定」を藤
院 法 )、 小 谷 舞( 平
文仏、神戸日仏協会)で進めた。
澤 薫( 平
部が合同懇親会を三宮・ペガー
れ、来賓として出席した校友会
17
ズで開催した。
支部役員と平成倶楽部で懇親会
親睦のハーモニー奏でる
約七十人が集った。学歌を高ら
14
挙げた。司会は吉田健剛副幹事
が支部活動をリードする先駆的
18
開会宣言を渡邊泰之幹事
長( 昭 法 )、 現 役 の 應 援 團 第
31
28
神戸支部新年互礼会
59
る「KU s`」(ケーユーフィ
フティーズ)を軸に、若い校友
42
17
50
会挨拶。
持ちの良さ」をアピールして閉
も変わらぬ神戸のメンバーの気
に心も揺らした。最後は大濵道
り、髙山応援団長による逍遙歌
あっという間に閉会の時間に
なり、会場いっぱいに輪をつく
もらった。
り、ステージに勇姿を披露して
警秀麗会メンバーの多数参加あ
と目標を披露した。また兵庫県
形式でツアープレイヤーの活動
期の今中寛幹事がインタビュー
ナイキ契約プロ)とゴルフ部同
ん(平9商・体育会ゴルフ部・
て、プロゴルファーの柴田哲さ
壇、 フ ラ ン ス 語 で 挨 拶。 続 い
院文仏・芦屋大学教授)も登
采。父親の伊川徹常任幹事(昭
しく報告さ
え面白おか
の状況を交
大会及び活動について、当時
湯川会長よりそれぞれ本年度の
ゴルフ愛好会岩見代表幹事、
釣り同好会滝岡会長、歩こう会
だいた。
議員(支部顧問)の祝辞をいた
宴も楽しく進む内、木挽司衆
議 院 議 員( 校 友 )、 加 茂 忍 県 会
ルカムの拍手でもって迎えた。
今回初参加の歩こう会、後北
氏の紹介・挨拶があり、全員ウェ
乾杯の発声で宴が始まった。
の言葉、歩こう会今宿氏による
ら支部活動活性化への協力感謝
よりの開会挨拶、水口支部長か
を開け、田中ゴルフ愛好会会長
り同好会山内副会長の司会で幕
果と、会員一同喜んでいる。釣
これは近年の各会活動隆盛の成
各会よりの参加者総数は
四 十 二 人 と 過 去 最 多 と な っ た。
表からも、今年の活動計画が発
会 」「 歩 こ う 会 」 の 各 同 好 会 代
た「 ゴ ル フ 愛 好 会 」「 釣 り 同 好
主要行事計画が発表された。ま
長より、平成二十年川西支部の
挨拶があり、続いて浅野副支部
水口支部長より「今年は支部
活動の一層の充実を」と抱負の
質疑で盛り上がった。
話題の道路特定財源の話をされ
挨拶で校友の木挽衆院議員が今
が出席して開催された。来賓の
内の「う越秀」で役員二十五人
川 西 支 部( 水 口 博 喜 支 部 長 )
新年初会が、一月二十六日に市
(副支部長 山内眞一郎)
高らかに歌い納会を終えた。
副支部長リードの下、逍遙歌を
菅原顧問の閉会挨拶の後、相澤
賑やかに話も尽きないうち、
閉会時間が近づいてきたので、
エールを送った。
願って、全員の大拍手でもって
氏ご両人の一日も早いご回復を
員で現在闘病中の野口氏、中西
促進を目的に、一月十九日、本
の事業協力並びに会員間の交流
役幹事の尽力により、各支部間
隣十一支部の各支部長及び世話
奈良・和歌山にまたがる周辺近
富田林、河内長野、橋本の大阪・
東 大 阪、 生 駒、 平 野、 八 尾、
柏 原、 松 原、 藤 井 寺、 羽 曳 野、
川西支部は今年も新年初会親
睦会を開き活動をスタートした。
ことになった。
か”との提案があり、検討する
開いた。
り会に花が
話がまとま
わいて早速
満場拍手が
所提供の申
幹事より場
兆」の野口
ろ、料亭「胡
子副支部長(昭
各会隆盛で参加者過去最高
3同好会が合同納会開く
出話やエピ
席でも想い
昭
釣った魚を肴に一杯の企画も
同好会の活動計画発表
〇七二―七五七―四三九二)
山本雅男
顧問よりは“川西市は他に誇る
古墳や多田神社、多田銀山跡等
の歴史や文化が多いので、川西
支部内だけでなく他支部にも呼
びかけて見学会を催したらどう
(副支部長 井上能一)
近隣十一支部が新年互礼会
事業協力 と会員交流促進
川西支部新年初会
体の芯まで揺さぶられた。大喝
平成卒の夢ある活動、昭和卒
の元気な笑顔、世代を超えて頼
れまた次年
表された。とりわけ「釣り同好
いに盛り上
ソードで大
川 西 支 部( 水 口 博 喜 支 部 長 )
のゴルフ・釣り・歩こう会の十
がった。
3
し出があり、
もしい神戸支部の平成二十年が
度計画や抱
会」の山内副会長が“春の釣り
部より一軸会長らを迎え、各支
九年度合同納会が十二月二十二
( 猪 名 川 住 建・ 中 西 清 之 =
始まった。
負等の発表
大会のあと、釣った魚を肴に皆
部の会員六十有余人が大阪南千
参加者全
29
法)が「いつ
(副幹事長 谷口欣久・
工建築・柔道部)
もあり、各
で一杯飲もう”と提案したとこ
日、料亭・胡兆で開催された。
川西支部 3 同好会合同納会
61
44
46
講演会は、四百五十人の市民
の参加で超満員、熱心に聞き入
頃の思い出話をしたり、近況を
語りあうなど、久しぶりに会う
る講演となった。
れて、ネオン眩しい浪華の街に
散会した。
校友と旧交を温めあった。
日前・鳥よし本店に集い、二十
年近隣十一支部新年互礼会を盛
(八尾支部 青砥申生)
本年九月から、第一回自殺予
防啓発週間も設けられ、国や地
大に開催した。
応援団の演舞の後、恒例の福
引きとなった。特賞の自転車が
方自治体の責務も重要視される
本年度世話役担当支部の八尾
支部中尾達夫副支部長の司会に
当ったときには、その周りで拍
中で、地域貢献として、支部活
会の辞、生駒支部西野四郎名誉
このバスツアーは、年に三回
のペースで実施しているが、十
山県の熊野古道である。
アーを実施した。行き先は和歌
して第十二回目の日帰りバスツ
守口支部(吉川美恵子支部長)
は十二月一日、二十二人が参加
遽、篠原勝事業部長の発案で「わ
し、まだ日も高かったので、急
この日の予定を完了した。しか
その後、目的地の熊野本宮大
社に到着。長い石段を上って厳
キング気分でお昼を満喫した。
気で、鮮やかな紅葉の下、ハイ
を 合 唱 し、
来賓紹介の後、北川支部長が挨
斉唱、校友会や近隣支部などの
第一部の総会では、応援団第
八十五代田邉弘団長により学歌
( 平 井 治 = 〇 六 ― 六 九 九 一 ―
〇三五九)
コースの入り口に当る滝尻王子
大社を目指した。途中、中辺路
田辺インターでおり、熊野本宮
夕刻から高槻現代劇場文化ホー
高槻島本支部(清水利男支部
長)の新春懇親会は、二月八日
立春寒波ふきとばす熱気
30
守口支部バスツアー
恒例の福引に拍手歓声
手や歓声が起こり、和やかに終
動ができたことに誇りを感じた。
より、青砥申生八尾支部長の開
始し、時間はあっという間に過
(副支部長 田村英明)
総会に百五十人が参加
顧問先導による学歌斉唱、校友
ぎ去った。
バスに積み込み、近露王子の広
場で昼食をとった。師走に入っ
小川宏さん講演会に協賛
九年には二月に伊勢神宮、八月
たとはいえ、快晴のぽかぽか陽
支部として地域貢献活動
に 高 野 山 に 出 か け た。 特 色 は、
熊野古道へ日帰りバスツアー
九月二十六日、茨木市市民総
合 セ ン タ ー( ク リ エ ー ト セ ン
たらせ温泉」に立ち寄ることに
ター)で、アナウンサーの小川
何といっても夫婦連れの参加が
決定。今回も温泉で身も心も癒
本互礼会世
拶。校友である野村宣一茨木市
( 北 川 均 = 〇 七 二 ― 六 二 三 ―
三七三三)
宏さん講演の、自殺予防啓発講
多いことと、できるだけ温泉に
し、満ち足りた気持ちで守口に
話役八尾支
長、片山久江校友会副会長から
市を午前八時に出発。近畿自動
粛 な 気 持 ち で 御 本 殿 に 参 拝 し、
演会『いきいき人生設計―うつ
立ち寄ってのんびり湯につかっ
帰って来ることができた。
(副幹事長 小西盛人)
急遽温泉にも立寄り
会長の祝辞、西野あきら、谷畑
茨木支部(北川均支部長)の
十九年度総会が、八月二日にホ
孝 両 衆 議 院 議 員 の 紹 介、 北 川
かに繰り広げられた。また、そ
テル日航茨木大阪で、来賓、現
拶を述べ、お開きとなった。
小路三郎副支部長が茨木支部
の更なる発展を祈念し閉会の挨
イッセイ、前川清成両参議院議
員の祝詞披露、合同記念写真撮
影、成岡事務局長代行の音頭に
よる乾杯と続き、今年初の和や
かな宴会で、懇親談笑が千里が
の間に各支部の会員紹介等が行
役応援団を迎え、百五十人を超
丘を遥かに望む難波の里で華や
われた。
催された。
病を体験して』が茨木市主催で
て帰ってくることである。
部横山享史
来賓挨拶。議事では、小川一夫
える校友の参加の下、盛大に開
最後に平野支部大江正則副支
部長のリー
行われ、茨木支部(北川均支部
顧問の音頭
常任幹事の司会進行で、事業報
した。
による万歳
新春懇親会に 人
で下車。次いで道の駅で弁当を
茨木市の行事に協賛
加していただいた。バスは守口
三唱と本年
車道を経て阪和自動車道の南紀
第二部の懇親会では、大阪府
議会議員であり摂津支部の阿部
賞久幹事長の乾杯の発声で開宴。
歓談に入り、自分たちの学生の
95
ドで逍遙歌
長)も地域貢献事業として協賛
この日も八夫婦が参加。また、 (山本 護)
門真支部の西田支部長も特別参
茨木支部総会
告や予算など議案が承認された。
度世話役担
当生駒支部
杉岡昌彦支
部長の閉会
の辞に送ら
近隣 11 支部新年互礼会
会場はオーバー・ヒート気味だ
で立春寒波を吹き飛ばす熱気で
者は九十五人、過去最多の盛況
ルで開催された。この日の参加
関大は質実剛健の気風で一致し
明大OB・大橋武彦氏が明大と
懇親会は、アカデミックな空
気から一転華やかムードになり、
こちでメモを取る姿が見られた。
と教学・校友会活動報告のご挨
語った。来賓を代表して芝井敬
学理事長、法学博士 國澤隆雄
先生の講演に移り、國澤先生は
聞きいった。
拶を述べ、参加者は決意新たに
じ、さらなる発展を願うとの挨
が広がっていることに誇りを感
こもったエールが送られた。
した各大学OBに気迫と愛情が
満屋英喜幹事の指揮で友好参加
平山実副支部長のリードの下
に高らかに逍遙歌を合唱の後、
た。
曲演奏は会場の雰囲気を和ませ
スクリーン・ミュージックや名
引き続いて、環境都市工学部
長の楠見晴重教授より、京都の
告いただき、今更ながら近年の
母校の活動を詳細にわたりご報
総会に先立ち、森本理事長より
国ホテルで盛大に挙行された。
が、昨年に引続き、二月十二日
(辻佐一郎会長)の第二回総会
組織された 大阪市内支部連合会
母校の発展に感激した。
会場を移して、仁井連合会幹
事の司会で総会に入り、辻連合
会長は挨拶で、大阪府下で北部・
拶があり、上原専務理事の乾杯
司副学長、一軸会長よりお祝い
った。
好きな勉強のおかげで大学とい
山口博好副支部長から多数の
参加に対する謝辞と次の支部総
地下水・大阪の地下水について
六ヶ月ぶりの再会を喜び合い参
ていると述べ、同氏の発声で元
司会はおなじみ、尾松恵美子
さんで歯切れよい口調で幕開け。 気いっぱい乾杯。支部総会以来、
う と こ ろ に 職 を 得、 大 学 と 一
会への出席を呼びかける閉会の
ご講演をいただき、今更ながら
学歌斉唱の後、清水支部長が関
般社会との常識の違いなどを
挨拶があり、参加者たちはそれ
水の大切さと、世界における水
加者は旧友を温めた。橋本良治
語るととも
ぞ れ 心 地 よ い 余 韻 を 胸 に 残 し、
大のJR高槻駅前の新キャンパ
に、大阪医
会場を後にした。
と都市の発展の歴史に驚きをか
ギターグループの演奏があり、
大は高槻市
くせなかった。是非もう一度ご
ス構想実現と、支部で交流の輪
と緊密な関
(畑中公太郎)
に百五十余人の校友が集い、帝
係を持って
( ㈱ コ ヤ マ カ ン パ ニ ー・ 小 山 洋
講演をとの声があがった。
引き続き、校友で大阪医科大
今後も運営
三=〇七二―六八二―二五二五)
第二回総会で楠見教授が講演
南部・大阪市の三つの連合会組
再建なり第二回総会開く
懇親会は西ブロック合同で
備会・新年互例会・大阪市内支
建世話役会・再建総会・結成準
議事では、十八年度事業報告(再
司会で開会。沢支部長挨拶の後、
第一部総会は総勢二十余人の
参加により、河野賢治副幹事長
で行われた。
同新年懇親会という新しい試み
此花・港・大正・住之江)の合
第一部は支部単独総会、第二
部は大阪西ブロック(西淀川・
れた。
ホテル大阪ベイタワーで開催さ
再建第二回総会が、二月二日に
一昨年五十年ぶりに再建され
た西淀川支部(沢勲支部長)の
(会長 辻 佐一郎)
言葉で幕をとじた。
引き続き、武智副会長の閉会の
上がった。寺内副会長の万歳に
さんの歌謡ショーで大いに盛り
連合会役員、参加各支部と団
体の紹介の後、校友の友成純子
で祝宴の幕があいた。
大阪市内支部連合会第 2 回総会
大阪市みおつくし葦の葉会・大
施策実施計画についても熱意を
また校友会組織の活性化の為の
グフェスティバル・岩見星光府
度事業計画(役員会・スプリン
織を立ちあげたいと抱負を述べ、 部 連 合 設 立 記 念 総 会 )、 十 九 年
阪 国 税 秀 麗 会・ 女 子 秀 麗 会 で
米谷副会長の司会で大阪市内
二十四支部・大阪府庁秀麗会・
京都・大阪の地下水について
し、同時に
大阪医大病
院は安心し
て受診でき
る病院であ
り、その自
信を持っていることを述べ、身
近な医療問題がテーマで、あち
31
高槻島本支部新春懇親会
と 懇 親 会 )、 お よ び 十 八 年 度 決
浩幸会長、山田拓幸組織部長は
になった。来賓も本部から一軸
五十余人が参加、賑やかなもの
を過ごし、関西大学の卒業生と
れ、楽しい雰囲気で優雅な時間
一番のみのカラオケ大会も行わ
見が発表された。また一人一曲
へ。
祈願して、かごの屋での懇親会
生根神社神殿でお祓いを受け、
清清しい気持ちで本年の幸せを
ごした。
算報告が異議なく承認された。
じめ、友好支部として辻佐一郎
して幸せであると感じ、実り多
澤田副支部長の名司会で、開
会宣言。全員で学歌斉唱。余興
換会を定期的に行いたい等の意
この他に
支部役員ら
市内支部連合会長、寺内俊太郎
い懇親会であると実感した。
出席者がなかったものの総勢
は、地域連
東淀川支部長(校友会副会長)
議会議長就任祝賀会・支部総会
携のため区
ほか近隣の各支部より支部長や
で頂き(さすが皆さん紳士・淑
縣支部長の落語を熱心に楽しん
行動で救える命がある!
るとの感を強くした。私たちの
では、宴たけなわにも拘わらず
役所で開催
最後に、平林康雄西淀川副支
部長から閉会の辞と長谷部憲司
役員をお迎えし、祝辞を頂戴し
同幹事長より一本締めがあり、、
された世界
た。
女 で す!)、 自 己 紹 介 に 移 る と
洞窟写真展
次回の開催を楽しみに幕を閉じ
二部はスタジオオーシャンで、
消防署担当指令も参加いただき
講演会、洞
懇親を深めた。我々一人ひとり
西淀川支部西山正明副幹事長
の司会で開会。続いて沢勲西淀
青春を謳歌された関大生の頃に
川支部長、平岡昭雄此花支部長、
戻って、皆さん大いに盛り上が
窟作品コン
た。 (河野賢治)
テストおよ
びテレビ出
支部長の三人より挨拶の後、大
武智虎義大阪西ブロック長兼港
かごの屋で懇親会開く
生根神社でお祓い受け
フィナーレは、元応援団長森
本氏のエールにより、逍遙歌を
聞きした。
り、すごく良いメッセージをお
はない!
きがねとなって地域貢献が出来、
は微力だが、関大西成支部が引
(縣 荘一)
平成クラブ(仮称)が誕生
懸案だった若手会員の集まり
人命が救えればこれ以上の幸福
光・西淀川支部顧問による乾杯
全員で熱唱。まだまだ名残惜し
阪府議会第百三代議長の岩見星
で開宴した。
い感のある、楽しい集いだった。
(縣 荘一)
営や他の支部の動向などについ
32
西成支部講習会
宴 も 進 ん だ 頃、 司 会 を 木 村
良雄港支部
幹事長に交
大阪中央支部(伊藤晃充支部
長)には、かねてより若手会員
かったが、一月十二日、中央区
の集まりが欲しいとの意見が多
私たちの行動で救える命がある!
内において平成卒業者の会が開
のオブザーバーを含め十三人。
かれた。出席者は伊藤支部長他
救急隊長から指導受ける
( 縣 荘 一 = 〇 六 ― 六 六 五 九 ―
二四七四)
西成支部(縣荘一支部長)で
は第二回アカデミック講習会を
開催した。二月十五日、西成消
防署梅川救急隊長の下、三十人
名 称 は 平 成 ク ラ ブ( 仮 称 )。
今回欠席者の中にも次回からの
西成支部(縣荘一支部長)で
は、一月十三日に恒例の年賀交
礼会を開催した。
私たち一般人でも救える命があ
支部長挨拶のあと、新庄幹事
かつての日本では医者しか生
命蘇生措置を行えなかったのが、 長(平3経)の司会で今後の運
出 席 を 希 望 し て い る 人 も お り、
まずは順調なスタート。
やかで且つ元気一杯の一時を過
ん・岸良さんをお迎えして、華
西成区・穐山課長はじめ福田さ
を超える参加者が熱心に指導を
二十数人の参加で、校友会・
畑次長、泉南支部・森本支部長、 受けた。
大阪市内支部連合会西ブロック合同懇親会
演に見られ
る神秘的な
「洞窟ハウス」の見学なども行っ
ている。生まれたばかりの西淀
川支部ですが、皆様と共に発展
し て 行 き た い と 考 え て い ま す。
ご指導のほど宜しくお願いいた
代。 会 員 の
親睦をはか
るため出席
者の一分間
テーブルス
ピーチに移
り、 ス ピ ー
チでは本学
創立百五十
周年まで生
き た い、 支
部内の懇談
会や情報交
西成支部年賀交礼会
します。 (河野賢治)
( 長 谷 部 組・ 長 谷 部 憲 司 = 〇 六
―六四七二―三二六一)
スピーチやカラオケ大会
初の合同新年懇親会開く
大阪市内支部連合会の西ブ
ロックに属する 西淀川・此花・
港・大正・住之江の五支部によ
る初の合同新年懇親会が、二月
二日にホテル大阪ベイタワーで
行われ、大正・住之江は都合で
西淀川支部総会
に意見交換
て終始活発
人選ばれ、これで平成クラブか
者の中から新たに支部幹事が三
お開きとなった。また当日出席
は元気な団体で活発な活動をし
続いて、来賓を代表して一軸
校友会長より「司法書士関大会
が参加し、学生時代の思い出に
議会議員、会員の合計五十六人
か、西宮支部長、校友の県・市
十一月三十日、大阪キャッス
ルホテルで司法書士関大会(塩
田貴美代会長)の第四十七回総
会・懇親会が行われ、一軸浩幸
業独自の切り口があり、すごく
んでいた。 (広報 矢野 茂)
( ベ ル・ 伊 藤 晃 充 = 〇 六 ―
二十三人の中にも自然に溶け込
卯 本 店 ) に も 早 速 出 席。 総 勢
二 月 二 日 の 役 員 新 年 会( 美 々
学技術振興会の寺内俊太郎会長
祝いに花束の贈呈が行われ、科
当会の上野義治副会長が秋の
叙勲で黄綬褒章を受章されたお
との報告があった。
作成に取り組むことも検討する
交流会の促進とホームページの
事業としては、異業種団体との
通り承認された。特に、来年の
案の全てが満場異議なく、原案
に選出し、議案を審議。提出議
戴した後、重里正信会員を議長
員に運営を
よる実行委
若手会員に
ゲ ー ム は、
クションの
し、 ア ト ラ
を極力減ら
賓挨拶など
よ う と、 来
今回の総会は、会員が楽しめ
る総会にし
浸った。
六八八一―一七〇三)
役に立つ勉強会と好評を博した
の発声で乾杯し、和やかな懇親
任せた。
催した。当日は、西宮市長のほ
がなされた。
らの支部役員は計六人となった。 ている」とのお褒めの言葉を頂
乾杯の後
は料理を頂
きながらの
懇親会、二
次会にも殆
んどの人が
繰り出した。やはり母校を同じ
ので、来年も継続して開催する
の 場 に 移 行 し た。 懇 親 会 で は、
発 足 四 十 七 年 目 に 会 旗 を 作 製 総会・懇親会で初お披露目
くする者、大いに盛り上がる中
ことになった。また、会発足四
恒例の抽選会が開かれ、参加者
験 し、 最 終
試 験 で は 三 二、 四 六 九 人 が 受
である。なお、本年度司法書士
本日の総会が初めてのお披露目
きとなり、盛会裏に幕を閉じた。 な輪ができ、肩を組み、学生時
竹正康副会長の閉会の辞でお開
宴もたけなわになり、行方正
行名誉会長の中締めの挨拶、佐
全員が次々と福袋を手にした。
代に思いを馳せ、声高らかに逍
時間が過ぎ、最後に会場に大き
した雰囲気に。あっという間に
校友会長はじめ、公認会計士関
合格者九一
(副幹事長 辻井宏之)
遙歌を歌い閉会となった。 じゃんけん
十 七 年 目 に し て 会 旗 を 作 製 し、
ゲームは
大いに盛り上がり、若い会員に
九人で合格
( 塩 田 司 法 書 士 事 務 所・ 塩 田
大会、会計人会、法曹会、科学
率 が 二・ 八
(幹事 笠井 忠)
団ОB長柄会、スポーツマンク
ラブより来賓のご出席をいただ
き、総勢五十八人が出席した。
運営は若手実行委員で
西宮市役所秀麗会(河野昌弘
会長)は、一月二十五日にノボ
テル甲子園で十九年度総会を開
経済人クラブ(樋口學会長)
第一七八回例会は、二月十八日
「闘わないがん治療」で講演
関心高く五十四人が出席
来賓や議員も加わり和気藹々と
総会は、武島博副会長の開会
の辞で始まり、学歌斉唱、黙祷
貴美代=〇六―六九四三―
技術振興会、女子秀麗会、応援
の後、塩田会長の挨拶があった。 三 % で あ っ
た が、 こ の
一七二四)
塩田会長は「今年から新たな試
会員が楽しめる総会を
( 西 宮 市 役 所・ 笠 井 忠 =
〇七九八―三五―三五四〇)
してきた合
格者七人を
招待してい
司法書士関大会総会
みとして、弁護士、公認会計士、 難 関 を 突 破
税理士、司法書士の四つの士業
で合同の若手勉強会を“会社法”
をテーマに六回開催した。この
る」と述べ
た。
33
勉強会は、毎回各士業が交代で
講師を担当することにより各士
西宮市役所秀麗会総会
大阪中央支部平成クラブ
に新阪急ホテルで開催され、安
台の装置で陽子線治療と炭素イ
学経)の司会で、 オン線治療のできる、世界唯一
今 回 は、「 闘 わ な い が ん 治 療:
最後に、以下の五つの粒子線
治療のまとめを詳しく説明して
の施設とのこと。
で、すぐ乾
挨拶は抜き
かたばった
三分で終了、
一分間スピーチが始まった。学
み 程 よ い 酔 い 心 地 と な っ た 頃、
次々と運ばれる料理に舌鼓を
打ちながら、和やかに歓談が進
の参加で開催した。
で恒例の新年懇親会を二十余人
粒子線治療」と題して、兵庫県
杯。
が、それも
立粒子線医療センター院長の菱
いただき講演を終了した。
達弘祐幹事(
川良夫先生に講演いただいた。
ぜての楽しいものであった。今
当日、お忙しい中ご出席くだ
さった黒田学部長、東村元学部
にも増して盛り上がった。
年は三十歳代の参加もあり例年
部の校風そのままに硬軟取り混
メンバーの関心が高く五十四人
ビールが、
一、 弱 者 の が ん 治 療 が 容 易、 二、スケジュールどおりの治療、 体中をひと
の出席となった。
三、日常生活の中での治療、四、 渡りするや、
冒 頭、「 が ん は 考 え る 時 間 が
ある病気である! 局所治療に
人生経験豊
化学療法や放射線治療の代わり
は、一、手術、二、放射線、三、 ではなく、手術の代わりの医療、 かな人たち
の、ウイッ
トに富んだ
といでー」での再会等々の約束
を話しながら、最後はやはり円
陣を組んで逍遙歌を合唱して閉
幕となった。 (幹事 久保敬子)
( 中 村 仁 = 〇 九 〇 ― 三 九 七 二
―二六〇八)
城下支部長が「支部旗」寄贈
新支部長には山下幹事長選出
秀麗寮士会四国支部(城下修
支部長・昭
経・愛媛
友会長の乾杯の音頭ではじまり、 会長の「ではこれでお開き、ま
会食、懇談会は、樋口会長の
お礼の挨拶、来賓の一軸浩幸校
過去を振り返るよりも次の四十
えられた。そして、この事業は
び交って、知らず三時間が経過。 大きな評価を得ていることが伝
四十周年記念事業は内外からも
ンドパレス
ホテルグラ
が参加して
日、十九人
九月二十九
県)総会が
ら、まず、①粒子線治療の歴史
た来年皆さん元気でお逢いしま
年へ向かって飛躍するためのも
長( 顧 問 ) か ら は 昨 年 十 月 の
や日本・世界の現状、②兵庫県
「 が ん と 仲 良 く 生 活 す る、 心 の
しょう」の一言で閉会。
れほど差がない。
粒子線があり、一はハイリスク、 五、臨床的には陽子と炭素はそ
二は三種類あるがハイリタ―
での取り組みと成果(マシンの
安心感を持って」との菱川先生
面白可笑しい「談論風発」が飛
進化・チーム医療・照射前の患
ちなみに、昭和二十四年卒業で
う意味合いからである。
二十六回目の卒業生の集いとい
お土産いっぱいとなった。
県の持ち廻
来、四国四
形浄瑠璃の観劇)、阿波木偶(で
当日は、総会の前にオプショ
ンとして阿波十郎兵衛屋敷(人
が担当した。
れており、今回は徳島県幹事団
りで開催さ
早や、四月の「桜の母校によっ
された。総
徳島で開催
の温かい言葉を心の中にきざみ
あ り な が ら、「 二 六 」 の 名 称 を
者測定)、③がんとの生きかた、
会は創立以
ン、三はノーリスク」との話か
二六会総会
そ れ ぞ れ 良 い 気 分 を 保 っ て、 のであることを確かめ合った。
大阪の街に吸い込まれて行った。
途中、ゲームでは会員有志よ
り素敵な景品が提供され、全員
(副代表幹事 田合邦臣)
ながら散会した。
(関西大学校友会気付=〇六―
冠 し た の は、 関 西 法 律 学 校 が
「挨拶」抜きですぐ乾杯
「関西大学」に昇格した年から、
六三六八―〇〇四一)
等について詳しく説明していた
だいた。
粒子線治療は世界の二十五ヶ
所以上で実施されているが、兵
庫県立粒子線医療センターは一
談論風発に三時間が経過
(幹事・今道 博)
一一八七)
( 嶋 謙 三 = 〇 七 二 ― 八 二 一 ―
の伝統文化の歴史の深さと伝承
聞)を訪ねて徳島(阿波)特有
り会館(本場の阿波おどりを見
り方、使い方)および阿波おど
こ)人形会館(浄瑠璃人形の作
社会学部同窓会新年懇親会
二 六 会( 嶋 謙 三 会 長 ) 第
二十一回総会が十一月八日、大
年に向かっての飛躍に
周年事業に大きな評価
次の
社会学部同窓会(中村仁会長)
では一月十九日、新大阪ホテル
40
阪やよい会館に会員十二人が集
ことサロン的な懇話会を主眼と
し て き た の で、 学 歌、 応 援 歌、
逍遙歌を一節づつ斉唱、会計報
告と一応総会の形式を踏襲した
40
まって開催された。当会は、ま
経済人クラブ第 178 回例会
34
秀麗寮士会四国支部総会
33
37
芸能の素晴らしさを実感した。
総会に先立ち、開催県を代表
して中村副支部長(昭 経)の
今年からSフェスティバルに参加
新年会に千葉・広島からも
二月二日、がんこ道頓堀店に
て文化会OB会・葦文会(中瀬
た。参加者は、二十人であった。
立以来十年にわたり支部長を務
参加校友の
乾杯で開宴。
北村公宏
名誉会長の
び城下前支部長から退任の記念
過ごした。
いひと時を
ることになっている。「校友ネッ
掲載は、組織名、開催日時、場所
(会費、連絡先・電話番号)の順。
▽第 回定時代議員会 3月 日
(土)午後1時半 千里山キャン
パス・百周年記念会館
▽社会保険労務士関大会総会 4
月6日(日)午前 時 第2学舎
1号館A502教室、社会学部森
田 雅 也 教 授 の 講 演( 5 千 円 = 昼
食・飲物代込。永盛労務事務所・
永盛啓司=〇六―六一七〇―四八
六四)
▽機友会懇親会 4月 日(日)
午前 時 第 学舎 号館 階講
師控室(長谷川洋司=〇六―六八
五六―三五〇二)
▽明石関大クラブ第5回ウォーキ
ング 4月 日(祝)午前9時半
JR魚住駅改札口前集合(ソー
エイ・斎藤雅彦=〇七八―九一一
―二九一八)
▽加古川市役所千里会総会 4月
日(水)午後6時半 加古川プ
ラザホテル
▽住之江支部再建総会 4月 日
(木)午後6時半 場所未定(塩
田司法書士事務所・塩田憲治=〇
六―六九四三―七二六七)
▽第 回支部対抗親睦ゴルフ大会
5 月 日( 火 )
小野グランド
カントリークラブ
▽イエローサブマリンテニスクラ
ブ総会 5月 日(土)午後6時
分 ラマダホテル大阪(潤井寛
=〇九〇―二一一七―八一九三)
▽第 回定時代議員会 6月7日
(土)午後1時半 千里山キャン
パス・百周年記念会館
▽関西大学六一会(応援団・体育
会各部昭和 年卒同期会)親睦会
6月7日(土)午後4時 千里
山キャンパス・レストラン「チル
コ ロ 」( 4 千 円。 柔 道 部・ 谷 口 欣
久=〇九〇―七三五六―三九八〇、
)
yoshihisa.taniguchi@nifty.com
▽豊中支部総会 6月 日(土)
午後5時 ホテル・アイボリー
(横畠正秀=〇六―六三三一―二
二七五)
▽堺支部総会 6月 日(土)午
後5時 リーガロイヤルホテル堺
(鍋島均=〇七二―二二一―五二
六九)
▽東大阪支部創立 周年記念総会
6月 日(土)午後6時半 ホ
テ ル ア ウ ィ ー ナ 大 阪( 岩 崎 事 務
所・岩崎英夫=〇七二―九六六―
〇一一一)
▽福島支部総会 6月 日(土)
午後6時半 中之島プラザ(宮腰
健次=〇六―六四五三―〇五一
九)
▽枚方支部 周年記念祝賀行事 6 月 日( 日 ) 午 後 6 時 大 阪
港・帆船型観光船サンタマリア号
クルージング(阿部進=〇七二―
八〇五―〇〇〇五)
▽女子秀麗会・博修士会合同講演
会・懇親会 6月 日(土)午後
5時 リーガロイヤルホテル(女
子秀麗会・仁井ひろみ=〇六―六
九二二―六八〇六)
▽京都支部総会 7月5日(土)
午後5時半 リーガロイヤルホテ
ル京都(1万円、平成 年~ 年
卒8千円、 年新卒生無料、同伴
家族5千円。いぐち・井口俊博=
〇七五―三五一―二一一二)
▽岡山支部ゴルフ大会 7月5日
(土) 金陵カントリークラブ
▽岡山支部総会 7月6日(日)
午後4時 場所未定(午後1時よ
り ボ ー リ ン グ 大 会 )( ㈲ 田 渕 自 動
車鈑金塗装所=〇八六―二二二―
七〇七六)
▽河内長野支部総会 7月6日
(日)午後3時 河内長野荘(上
奥雅勇=〇七二一―六三―三四五
七)
▽福岡千里会総会 7月 日(金)
午後6時半 福岡市天神・平和楼
本店(安藤造園土木㈱・白木成光
=〇九二―八四一―四一四一)
▽北九州支部総会 7月 日(土)
午後6時半 場所未定(岩水秀一
=〇九三―二四六―三八三三)
▽佐賀千里会総会 7月 日(日)
午前 時半 場所未定(坂井正彦
=〇九五二―四四―二〇六四)
▽高槻島本支部総会 7月 日
(土)午 後 5 時 た か つ き 京 都 ホ
テル(㈱コヤマカンパニー・小山
洋三=〇七二―六八二―二五二
五)
20
秋の見学会と雪の新年会
繁昌亭はやはり繁昌していた
十一月二十五日に女子秀麗
会(仁井ひろみ会長)の三十三
て、『大入』袋(千円)を頂きハッ
者にも二組のご夫婦がおられ
をプレゼントされる。当会参加
で、夫婦入場者には『大入』袋
人が寄席見物。十一月二十二日
の語呂合わせ“いい夫婦”週間
11
歓迎挨拶、城下支部長の開会挨
千葉県や広島県等遠方からの参
和夫会長)の新年会が開催され
法)の来賓挨拶に続いて、本年
加者もあった。また、国会開催
拶、寮士会重森英樹会長(昭
古 稀 を 迎 え る 校 友 四 人 に 対 し、
中の忙しい最中にもかかわらず、
城 下 支 部 長 よ り 記 念 品( 関 大
グッズ)が贈呈された。
定例総会では事業報告・計画、 西野陽衆議院議員も参加してく
収支決算・予算が承認された後、 れた。
めていただいた城下支部長が辞
自己紹介や
役員改選に移り、平成九年の創
経・香川県)が選任さ
任され、後任には幹事長の山下
学生時代の
晄(昭
れた。
近況等楽し
として「四国支部旗」が寄贈さ
思い出話や
四国支部では現在まで支部旗
を持っていなかったが、このた
れた。はじめて掲示された支部
総会終了後の交流会は四年間
の寮生活の思い出などを中心に
トワークの構築」と「強い関大」
月のスプリ
葦文会は
今年から四
旗をバックに早速記念撮影をし
盛り上り、全員からユーモア溢
の実現に向け、積極的な事業を
て感謝した。
れる近況報告があった。最後は
行っていく予定である。
ングフェスティバルにも参加す
二年後の再開を期して学歌、逍
遙歌を合唱して閉会した。
6
いと思います。
葦文会の参加資格は、在学中
文化会活動に参加していたもの。 (幹事長 三坂友章)
(三坂登記事務所内=〇九〇―
( 学 友 会、 文 化 会 の 出 身 は 問 わ
ない)となっている。一人でも
五一五八 七二五九)
19
26
61
50
41
(山下 晄)
葦文会新年会
10
18
19
20
29
1
24
10
1
14
21
21
40
28
91
21
22
4
29
31
90
11
24
20
33
( 幹 事 長・ 広 瀬 毅 = 〇 八 七 ―
八八二―五七三三)
多くの方に参加していただきた
35
23
40
35
ピー。
幹事会・新年会も、例年より多
い二十八人の参加。美々卯会長
専経)から
―三八七六)
新会長に大和田氏選出
合格者に記念品を贈呈
次年度は弁理士関大会結成
四十周年に当り、大和田新会長
から祝賀行事に向けての意気込
篠原昭三氏の挨拶に続き、乾
杯、懇談会に入り、一人ずつ昔
ねた総会が盛大に挙行された。
で組織する雄吼会の忘年会を兼
十一月三十日、マルビル第一
ホテルにおいて、雄弁会のOB
らご祝辞を頂戴した。その中で、 屋の創設を要請したいとの提案
玉利会長の挨拶のあと、来賓
の石川副会長(公認会計士)か
士二十八人が出席した。
英一事務局長を迎え、会員弁理
本部より石川昌司副会長、増地
ツ カ ー ル ト ン 大 阪 で 開 催 さ れ、
二十五日に大阪北区のザ・リッ
合 格 者 祝 賀 会 を 兼 ね て、 一 月
状況に鑑み、大学側に新たな部
に部屋が廃止され、本学受験生
試験の講義が開かれているため
ションリードセンターで弁理士
て い た が、 現 在 は エ ク ス テ ン
受験生のための部屋が提供され
前は大学において弁理士試験の
みのほどが表明された。また以
まって、現在の生活状況に至る
弁理士関大会(玉利冨二郎会
長)の定例総会は、弁理士試験
まで、時間を忘れて大いに盛り
関大法曹会、公認会計士関大会、 もあった。
会長も篠原昭三氏から日根直人
よる慎重な
選考委員に
親会では、全員に豪華景品の当
たる恒例の福引が行われた。本
年 度 も 多 数 の 景 品 が 用 意 さ れ、
◇大阪市議大正区補選で舟戸良裕
氏が返り咲く 昨年 月 日に投
開票された大阪市会議員大正区補
欠選挙で、元市会議員の舟戸良裕
氏( ふ な と・ よ し ひ ろ = 昭 高
一・ 学一教)が当選し、返り咲
いた。舟戸氏は自民元で当選4回
目。 歳。
◇泉佐野市議補選で布田拓也氏が
初当選 1月 日に投開票された
泉佐野市議会議員補欠選挙で、無
所属新人の布田拓也氏(ぬのた・
たくや=平 学一法)が初当選を
飾った。布田氏は、現在、関大の
会計専門職大学院に在学中。 歳。
◇栗本鉄工所社長に福井秀明氏就
任 1月1日付。福井秀明氏(ふ
くい・ひであき=昭 高一・ 学
工化)は、昭和 年同社入社、執
行役員機械事業部長、取締役を経
て平成 年6月から常務執行役員。
歳。
12
42
爆笑のうちに全員がス ピ ー チ
会長は篠原氏から日根氏へ
上がった。なかには詩吟から始
司法書士関大会で合同の勉強会
大学出身者が六人合格している
その弁理士試験に関し、特許
庁の発表によると本年度は関西
が不便な状況を強いられている
まって浪々としゃべる者、今だ
が開催されている旨の紹介、お
よび弁理士関大会への参加の誘
の学生時代の懐かしい話から始
からと昔話を暴露する者、爆笑
の内に全員が終わり、記念写真
とのことであったが、合格者の
氏にバトンタッチされ、雄吼会
審議の結果、
一人で二品を獲得した会員も見
受けられた。 (原田洋平)
(大和田特許事務所=〇六―
六六六一―一六〇六)
47
59
18
42
26
46
また、昼席の和服入場者にも
『 大 入 』 袋( 百 円 ) が 出 て、 思
いがけず私もゲット。持ち帰っ
て、 あ や か ろ う と 女 子 秀 麗 会
フ ァ イ ル の 表 紙 に 貼 り 付 け た。
その後、相生楼(三十人)で錦
いがあり、参加者一同、興味深
結果となった。しかし、前田周
を撮り散会した。のはいいんだ
(法卒)、宮地正浩(工卒)の二
秋の趣を感じる松花堂弁当を味
人が出席され、玉利会長より記
個人情報を入手できず、三人の
各幹事から
念品が贈呈され、かつ本会の新
く拝聴した。
の事業報告
会員として迎え入れられた。
が、あとから見たら、何にもな
今頃轟々と非難の声があがって
を承認した。
く、真っ暗で写真になっていな
続いて審
さ て、『 大 入 』 袋 の お 蔭 か、
十一年ぶりの積雪の二月九日昼、 い。「幹事何しとったんやー」と、 議 に 入 り、
わった。
いるだろうと思う。実は責任者
続いて二十
の薩摩卯一氏(昭
は勿論、雄弁会も再生すべく頑
大和田隆太
氏名が判明しただけで、淋しい
は私でして、何も申しません。
年度の会長
美々卯本店にて開催された新年
ともあれ今、現役では雄弁会
は実働しておらず、再会へ向け
項戴した紅・白ワインに感謝し
張る所存ですので、よろしくお
久しぶりに
て努力している所である。今回、 の選出では、
願いいたします。 (宮腰健次)
( 幹 事・ 宮 腰 健 次 = 〇 六 ―
再選された。
郎元会長が
六四五三―〇五一九)
17
27
48
女子秀麗会秋の見学会
記念撮影のあと懇親会に移り、
歓談のひとときを楽しんだ。懇
て 乾 杯 し、「 う ど ん す き 」 を 美
味しく頂いた。身も心も温まっ
た後、希望者は雪の舞うなか徒
歩十数分の緒方洪庵・適塾へ。
外気は厳しかったけれど、内
にほんわかぬくもりを感じる一
日だった。 (寺村秀子)
(仁井ひろみ=〇六―六九二一
弁理士関大会総会・合格者祝賀会
22
59
23
36
学一新)が「契沖賞」を受賞
事長、学長にことの由を伝えた。 の誇りをいただいたその瞬時の
主催の新年互礼会に持参して理
歓喜は、口筆には表しえない私
一層、関西大学情報収集に情熱
島での資料を糧として、さらに
達に困難を覚えた。幸い、宇和
今回は、一般の部に二一一首、
児童・生徒の部には尼崎市内の
した。
ておられて、関西大学資料の調
大学の方には何の連絡もなかっ
の宝でした。
が記されていた。早速、校友会
たようで私自身が驚いた。しか
を傾けたい。禅の哲学者 鈴木
大拙先生の「心の基軸」の言葉
祝 宴 で 私 は 指 名 を い た だ き、
乾杯の言葉を述べた。一生一代
校祖 兒島惟謙先生の
し、この情報提供が春を迎えて
とになった。
具体化し、花咲き、実を結ぶこ
関大人であり、青春期の人間性
る。
に支えられての、私の仕事であ
契沖大賞には、一般の部が伊丹
首、六首の入賞作品が選ばれた。
首の応募があり、それぞれ一四
市在住の元尼崎市立小校長・梅
田規誉さんの「指を折りことば
り組みのあったことを申し上げ
記念館にご案内した。この席で
される兒島様をお迎えし、兒島
日程を変更して、東京から来学
取 材 に 行 く 予 定 を し て い た が、
贈った。木はものを言わないけ
母校校庭に記念碑と記念樹を
推 さ れ た。 還 暦 を 迎 え た と き、
表彰式が、2月3日に園田学園
ズキ」は年々歳々伸長している。 5回記念契沖顕彰短歌大会」の
れども記念の「アメリカハナミ
女子大学で開かれ、同研究会理
徳会長=昭
院修国、園田学園
契沖(尼崎出身の国学者で江
戸時代の歌人)研究会(吉原栄
て」で、同研究会の裏方を引き
寄る次代へ引き継ぐ役目荷ない
契沖賞を受賞した田中氏の作
品 は、「 契 沖 を 慕 い し 人 達 集 い
言うために目覚まし五つかけて
ん の「『 お は よ う 』 と 君 に 一 言
をさがす子らはみな小さき契沖
た。
兒島様と大学関係者が一堂に会
九月下旬に、大学の了解を得
て兒島家に家内を伴って御礼に
事で事務局長の田中義昭氏(昭
田中義昭氏が 「契沖賞」 受賞
法、池田支部長)
関西大学の創立一二〇周年の
式典が、平成十八年十一月四日
いう同期会を組織して継続し続
に挙行され、その日、奇しくも
その日は母校の硬式野球部が安
(古川 智=昭
私は学生時代に兒島先生の事跡
平成十八年五月に兒島先生の
生誕地を訪ねた訪問記が、校友
して話し合われた。
伺う。先に品川の墓地にお参り
と な り て 歌 詠 む 」、 児 童・ 生 徒
会 紙『 関 大 』( 第 五 三 五 号 ) の
このようにして、七月二日に
待つこと久しく満悦の胸像除幕
した。その折、愛媛県宇和島の
第5回記念契沖顕彰短歌大会
紙上に掲載された。早速、兒島
式が挙行され、関西大学の建学
宇和津彦神社に鎮魂碑が奉納さ
けている。私はその初代会長に
先生のご家族にお届けした。
に注がれた校祖兒島惟謙先生の
れている話をお聞きした。
芸球場で合宿しているその姿を
平成十九年の新年に兒島先生
の ご 家 族 か ら 賀 状 を い た だ き、
お心を拝聴し、改めて鴻恩の致
について関心を抱き、多少の取
その中の添え文に「何か大学に
す今日に感謝感涙した。有史を
れるを感得し、再度、ありがと
切さを久遠の諭しとして活かさ
先生の胸像はじっと私たちを
眺め、慈しみ励まし、育英の大
ある。
今後の研究活動に活かすためで
西大学を巡る資料」を入手した。
春原源太郎氏(昭7法)の、「関
る私」が選ばれた。
受ける事務局長らしい歌。ご本
人も「これを励みに、さらに短
歌の魅力を尼崎市内に広げてい
きたい。また来年こそは大賞を」
と、受賞後の感想を述べていた。
なお、入賞作品二〇首の展示
会が2月 日から 日まで、尼
第 回織田作之助賞大賞に
西 加奈子氏の『 通天閣 』
関西大学が昨年から主催者に
(応援団OB千成会 近藤茂憲)
多くの市民で賑わった。
崎市役所南館ロビーで開催され、
15
女子大学名誉教授)主催の「第
の部は常陽中3年・山崎香菜さ
寄進をさせていただきたい」旨
の確立を友愛の中で育んだ一高
私は校祖兒島惟謙先生のご家族
三月八日に兒島様が来学され
とお目にかかる機会に恵まれた。 るとの知らせを受けて待機した。 四期の絆は、今も榮光倶楽部と
小・ 中・ 高 校 生 か ら 六、五 九 四
蹤跡を訪ねて
校祖兒島先生と私。関大一高
から関大と一貫修学した生粋の
43
早速、訪ねる。高さ二メート
ル、重さ七・五トンの碑を眺め、
うございますと頭をたれた。そ
12
飾る校祖胸像の贈呈を先生のご
の折の記念の写真が今ここにあ
今年に入って、前述の先輩に
当たる春原家を訪ねたが、医師
読売新聞の記事(2008.2.13 付)
令孫兒島鉄也様から賜わられた。 図書館に向い「兒島先生関係資
る。 そ の 並 ぶ 方 々 の 姿 に「 絆 」
と聞いていたご子息は亡くなっ
24
料」を閲覧し、今は亡き先輩の
なる言葉が蘇る。
37
31
33
参画、関西を題材に、関西の文
学的風土を豊かにすることを目
歳まで
第 回大阪女性文芸賞には
逸見 真由氏の『 桃の罐詰 』
小説を対象に全国公募する第
また水彩画やイラストなども手
がけながら、活躍の機会を窺っ
ていました。
九一年にモーツァルトの歌劇
「魔笛」
の CD ブック
(飛鳥出版)
的とした「大賞」と、
文芸協会主催、毎日新聞大阪本
を刊行したときにも驚かされま
回大阪女性文芸賞(大阪女性
「青春賞」の2本立となった「織
社など後援)に、逸見真由氏(へ
大阪市北区の大阪弥生会館で行
音楽出版社 刊
定価一、八〇〇円+税
院修英)著
流浪の作家
松村敏彦(昭
『新編
ジョウゼフ・コンラッド』
大阪教育図書 刊
活躍ぶりの一端が窺えます。
一八五〇年「ホーソーンとその
様々な人種を乗組員として世
界 を 彷 徨 う 捕 鯨 船 の 悲 劇、『 白
定価三、八〇〇円(税込)
『 僕 の 音 盤 青 春 記 』 は、 雑 誌
『CD ジャーナル』での連載も
『 苔 』」 に お い て、 ホ ー ソ ー ン
ラストで紹介しています。
遍歴を軽妙な文章と超私的なイ
懐かしいレコード(音盤)聴視
ロック、ジャズ、歌謡曲などの
ーソーンとの同質性を有するメ
したのである。さらにイギリス
“ blackness of darkness
”への
洞察力を、天才の印と高く評価
と絶賛した。世界の根源に潜む
載 中 )。 七 〇 年 代 洋 楽 を 中 心 に、 を「アメリカのシェイクスピア」
鯨』を執筆中のメルヴィルは、
の を ま と め た も の( 現 在 も 連
氏の推薦文が載り、現在の彼の
したこともある歌手の佐野元春
帯には CD のカバーデザインを
とたて続けに出版。ムック本の
旬にムック本、七月中旬に絵本
田作之助賞」(大阪文学振興会、
学一社)著
したが、〇七年になって二月下
逸見氏は、当初シナリオを書
いていたが、自己完結できる魅
の罐詰』が選ばれた。
た。
書きはじめたとのこと。受賞作
年から小説を
は同協会が発行する文芸誌『鐘』
力を感じて平成
学一法)
今回の大賞は2作で、その1
作に校友で作家の西加奈子氏
( に し・ か な こ = 平
号に掲載、贈呈式は3月1日、
ばれた。大賞の選考委員の一人
『 通 天 閣 』 は 構 成、 文 章 と も に
二部吟詠部のOB会「吟鴒会」
(森順道会長=昭 学二法)で
また、絵本『コワフの消えた
鼻』は、ロシアの文豪ゴーゴリ
ルヴィルの〈闇の力〉を、ジョ
吟詠部OB会「吟鴒会」が
は、昨年3月で二部が一二〇年
の作品をモチーフにした奇想天
ウゼフ・コンラッドが発展させ
た 著 者、 西 加 奈 子 の 大 阪 弁 は、
周年募金を社会福祉に寄付
下品でも、わざとらしくもなく
の歴史に幕を閉じ、吟詠部も廃
現在、版画家、イラストレー
ターとして活躍中の牧野氏
外な、鼻とその持ち主の話を絵
たと述べている(『闇の力』)。
代エジプトに住み、大阪に育っ
好 感 が も て た 」 と 選 評。「 こ の
部となったため「半世紀の足跡
は、七六年に本学社会学部に入
本にしたもの。
受賞をジャンピング・ボードと
を残そう」と、7月8日に創部
学。在学中は吹奏楽部でサキソ
た。
年末に毎日新聞大阪本社社会事
いう存在でした。
く一部の人間が知っている、と
一二〇人の会員から寄金を募り、 どをたしなんでいることを、ご
フォーンを吹く傍ら、水彩画な
いらっしゃる方々に読み聞かせ
にお勧め。後者は、お子さんが
前者は、七〇年代を青春時代
としてともに過ごした世代に特
ドの現代への普遍的メッセー
に分析し、底に流れるコンラッ
イードを初め広い視野から綿密
本書は、そのコンラッドの『闇
の奥』ほか幾つかの作品を、サ
28
I
『さくら』はベストセラーになっ
業団、読売光と愛の事業団、産
本としていかがでしょうか。
10
21
万円が贈呈された。
K
万円を寄託した。
八〇年に卒業後、武蔵野美大
副賞
50
10
同OB会では、1月 日に大
学にも 万円を寄付している。
なお、現在の牧野氏の活躍は、 ジ を 炙 り 出 す。 著 者 松 村 氏 は、
に進学し、生来の芸術家として
自身のホームページ
「『闇』の支配する暗黒大陸」の
の血(生家は岡崎の石材店)が
mackie.jp
奥地が表象する、人間を破壊す
騒ぎ出したのか、版画家として、 で。
( ・ )
経 新 聞 厚 生 文 化 事 業 団 な ど に、
45
授賞式は、2月 日に大阪市
天王寺区の大阪国際交流セン
文学者ハリー・レヴィンは、ホ
して、大きく高く飛躍して欲し
周年記念大会を開催した。そ
50
50
それぞれ
17
ターで行われ、大賞には賞状と
16
長崎出版 刊
定価一、六〇〇円+税
い」とエールをおくった。
の 折、 社 会 貢 献 を し よ う と 約
『コワフの消えた鼻』
44
西氏は、平成 年『あおい』(小
学館)でデビュー、 年発表の
われた。
の『 通 天 閣 』( 筑 摩 書 房 ) が 選
16
で あ る 河 田 悌 一 学 長 は、「 小 説
20
12
秀逸。テヘランに生れ、小学時
『僕の音盤青春記
』
1970-1976
院修社)の『桃
牧野良幸(昭
55
んみ・ゆみ=平
回受賞作品が決まり、1月
の若手を対象に全国公募する
25
毎日新聞社、関西大学主催)の
第
18
25
24
日に毎日新聞紙上で発表され
24
10
38
る。全ての人間は〈闇〉の力の
からの救済の可能性を追求す
来、宇宙旅行を実現させるため
このSF作品は、年々拡大を
続 け る 国 民 医 療 費 の 国 庫 負 担、 の生命維持装置なのである。現
本書が受賞後の第三作となる。
てくる。シオンシステムとは本
回日本SF新人賞を受賞し、翌
作品の本筋としては、この人
年、 同 書 が 刊 行 さ れ デ ビ ュ ー。 間の若返りが重要な意味を持っ
年世界卓球選手権で南北統一コ
外交の立役者であり、一九九一
への契機を作った米中ピンポン
村は一九七一年中国の国際参加
際卓球連盟の会長であった。荻
感銘を受け、その後のおばさん
ばさんからこの詩を紹介されて
るまい。著者の城島氏は直接お
が温かくなるのは私だけではあ
私はこんな美しい詩を知らな
い。この詩を真読したとき、心
日本卓球協会の会長であり、国
試練を受けるが、その不安から
実に沿いつつも、壮大なテーマ
リアチームを初めて実現させた
る 内 な る 根 源 的 な 闇 と、 そ こ
同胞意識すら喪失して孤独に陥
これが現実的な社会的背景とし
外交者でもあった。国際オリン
武蔵野卓球場がみつかるかも
しれない。
る。孤独は人間性に荒廃をきた
を帯びている。
うなおばさんへの敬愛の念と優
て成り立っている。医療費を減
しさを共感できたと「あとがき」
少させるために、国民の肉体改
ンチ前会長の信望も厚く、将来
で述べている。著者は、このお
し、一種の精神錯乱を招き、自
のIOC委員や会長就任、そし
ばさんと言うあたたかくなる緑
己をも他者をも破壊する。それ
て政治家に転身すれば大臣も夢
後間もない混乱の日本で卓球に
への関わりから、荻村と同じよ
ではないと言われた。
人生を賭けた一人の卓球人の生
ピック委員会(IOC)サマラ
本著は、その荻村伊智朗とい
う不世出の卓球人の生涯を、彼
なかなかの作品なので校友諸
を支え続けた武蔵野卓球場の女
きざまを見事に二人の物語とし
造 を 行 い、「 医 者 い ら ず 」 構 想
性場主・上原久枝さんの視点か
て紡ぐことができたのではない
を免れる方法としてコンラッド
城島 充(平元学一仏)著
ら 描 い て い る。「 お ば さ ん 」 こ
か。著者はまた「吉祥寺の空を
の点を実感できたからこそ、戦
と上原さんは一九四九年に卓球
見上げながら、久枝は人生のめ
が打ち立てられる。その延長線
医者いらず構想に対して、断
固として反対するのは日本医師
『ピンポンさん
ー異端と自己研鑽の
DNA 荻村伊智朗伝』
場を開き、荻村をはじめ多くの
ぐりあわせについて考えること
は、自己の弱さを認識し、人間
に告げているという。世界が混
会。新たな医療を日本の国富源
卓球選手を温かく見つめ、献身
がある。出会いは点と点のつな
虫寄生医療とは、特定の寄生
虫を体内に宿らせ、人間の免疫
荻村は東京都立第十高校(西高)
「武蔵野卓球場賛歌」の一節の
四十年を迎えて久枝に贈った
中、荻村が武蔵野卓球場の開場
荻 村 伊 智 朗 は 卓 球 選 手 で あ る。 の記録書、人生読本である。著
分 の こ と を こ う 呼 ば せ て い た。 年間にわたる交流を綴った人生
ピンポンさんとは荻村伊智朗
である。荻村の孫の真理恵に自
詩が掲載されている。
なく、荻村とおばさんの四十四
この本は単なる卓球技術書では
の必然性に導かれながら本著を
島氏も荻村が感じたおばさんと
だろうか」と表現している。城
すよ』と、得意顔で言い返すの
ぶ偶然じゃなくて、必然なんで
の人は『おばさん、それはぜん
思いを伝えても、天界にいるあ
は出合い、別れていく。そんな
とつの偶然が重なり合って、人
講談社 刊
定価一、八九〇円(税込)
的に支えてきた。荻村の卓越し
氏の一読をお勧めしたい。 ( ・ )
迷を深める今、本書は前著『流
厚生労働省。そしてシオンシス
の概念が登場する。
としての名誉である「誠実」と、 上にシオンシステムという究極
それを裏切らないための「真の
浪 の 作 家 ジ ョ ウ ゼ フ・ コ ン
ラッド』とともにお勧めの一冊
テムの研究開発を行う組織が三
勇気」を獲得することだ、と我々
である。
つ巴で抗争を繰り広げてゆく。
現する「虫寄生(ちゅうきせい)
現実的な社会的背景に対して、
SF的要素は、医者いらずを実
泉にしようともくろむのは政府
(文学部教授 入子文子)
三島浩司(平6学工電子)著
『シオンシステム』
力を飛躍的に向上させる技術で
の世界卓球選手権大会でのシン
一 方、 シ オ ン シ ス テ ム と は、 の高校生から卓球を始め、わず
この虫寄生医療を驚くべき発想
か六年間で一九五四年ロンドン
ある。
グルス優勝を達成し、それ以後
た 卓 球 理 論 に も ふ れ て あ る が、 が り で は な い。( 中 略 ) 一 つ ひ
で、さらに進歩させた医療技術
医療」と「シオンシステム」で
であるとイメージしていただき
ある。
著者は、平成十一年に勤務し
ていた会社を退社し、小説執筆
天界からこの蒼い惑星の
城島氏が関西大学出身というこ
執 筆 し た に 違 い な い。 最 後 に、
十五回以上の優勝と準優勝を成
返らせることもできるのである。 し遂げた名選手である。荻村は
たい。難病をも治し、人間を若
』で第四
Orphan's Trouble
活動を始めた。平成十四年に『ル
徳間書店 刊
定価一、九九五円
O
いちばんあたたかくなる緑な
る点を探すと
ナ
39
S
とにふれ、私もこの新刊紹介を
終えたい。
(総合情報学部教授 林 勲)
院博独)遺稿集
なる作品紹介など、孝子の問題
エッセイなどの数篇である。単
らせていたが、やがて、郊外に
し、そこにSLや路面電車を走
の庭に実用軌道のレールを敷設
夫をモデルにした児童小説であ
第二部は孝子の専門であっ
た ド イ ツ 文 学 を 主 と す る 論 文、 る。同氏は、最初は自宅の周辺
意識とあまり関わりのないと思
こで同じようなことをしている。
一人息子の勧めもあってその一
生 き る こ と へ の 真 の 存 在 と、 タッチで鮮やかに書き上げた作
そのあるべき姿をヒューマンな
品だと自負している。(A・K)
知市。
海野克利(うんの・かつとし=昭
学 一 商、 百 五 銀 行 常 務 取 締 役、
三重中勢支部副支部長) 月 日
死去。 歳。津市。
酒井彦一(さかい・ひこいち=昭
高一・ 学一商、元関西大学学
務課長・元法人評議員、元校友会
常議員・元代議員) 月 日死去。
歳。吹田市。
菅浜武司(すがはま・たけし=昭
高二商・ 学二経)平成 年1
月6日死去。 歳。吹田市。
松嶋 章(まつしま・あきら=昭
大予二・ 大経)1月9日死去。
歳。宝塚市。
前田鐵雄(まえだ・てつお=昭
高一・ 学一経、酒類卸・前田代
表取締役会長)1月 日死去。
歳。池田市。
山手 有(やまて・たもつ=名誉
教 授・ 元 工 学 部 応 用 化 学 科 教 授、
専 門 は 無 機 材 料 ) 1 月 日 死 去。
歳。西宮市。
福田一夫(ふくだ・かずお=昭
学 一 政、 元 大 阪 府 議 会 事 務 局 長 )
1月 日死去。 歳。堺市。
今井和幸(いまい・かずゆき=昭
学二法、元兵庫県副知事・元サ
ンテレビジョン会長、元法人評議
員、元校友会代議員・元兵庫県庁
秀 麗 会 会 長・ 元 神 戸 支 部 支 部 長 )
1月 日死去。 歳。神戸市。
石田主計(いしだ・かずえ=昭
学一法、イシダスタジオ社長)1
月 日死去。 歳。姫路市。
堅田偉三久(かただ・いさく=昭
学 工 化、 堅 田 測 量 登 記 事 務 所、
元 八 尾 支 部 顧 問 ) 2 月 日 死 去。
歳。八尾市。
島田陽夫(しまだ・はるお=昭
学 一 法、 未 来 塾 ) 2 月 日 死 去。
歳。延岡市。
53
渡辺孝子(昭
執筆の時期は一九六〇年代後半
わ れ る 数 篇 は、 は ぶ い て あ る。 新たな土地を購入して、今はそ
から一九八〇年代であって、そ
『かつて私は
軍国少女であった』
物語ではその二ケ所をフルに
活用して描いている。主人公の
校に通う中沢法子という女の子
の意味では第一部に先立つ時期
と仲良しで、奥さんの死後、同
大阪公立大学共同出版会 刊
によって培われた精神が、投書
居している鉄道マニアの一人息
岸本老人は近所に住む私立小学
に反映されているのを確かめて
ということができる。文学研究
いただけると思う。
子と二人で自宅の庭にレールを
入れて動くSL列車を走らせる
敷設して、内部に大型の電池を
編者は私、渡辺孝博である。
なお、渡辺孝子はかつて関西
大学非常勤講師を勤めていた。
が、彼女から石炭で動き、汽笛
るものもあるが、そのほとんど
部を購入し、彼女の供養の意味
相馬敏正(そうま・としまさ=昭
専二商)平成 年4月 日死去。
歳。大阪市。
大西誠一(おおにし・せいいち=
昭 学一商、手打うどんの店おお
にし) 月 日死去。 歳。加古
川市。
永田利雄(ながた・としお=昭
大法)平成 年1月 日死去。
歳。姫路市。
笠谷 勇(かさたに・いさむ=昭
高一・ 学二商、三勝設備)1
月 日死去。 歳。大阪市。
下間仲能(しもづま・なかよし=
昭 大予・ 大法)8月4日死去。
歳。京都市。
池田繁男(いけだ・しげお=昭
専二法・ 大法、泉塗専務取締役)
9月5日死去。 歳。羽曳野市。
加本武彦(かもと・たけひこ=昭
高 一・ 学 一 法 ) 月 死 去。
歳。大阪市。
岡田 茂(おかだ・しげる=昭
学二経、岡田電気商会) 月 日
死去。 歳。大阪市。
岡井泰雄(おかい・やすお=昭
専 二 英・ 大 法 ) 月 4 日 死 去。
歳。佐倉市。
阪口篤美(さかぐち・あつみ=昭
専二商・ 学二商、校友会代議
員) 月 日死去。 歳。大阪市。
勝 章(かつ・あきら=昭 専
一商・ 学一商、タム取締役会長)
月 日死去。 歳。東大阪市。
久保正雄(くぼ・まさお=昭 学
一法、常陽代表取締役) 月 日
死去。 歳。香芝市。
浜田耕一(はまだ・こういち=昭
学一法、弁護士・浜田耕一法律
事務所) 月 日死去。 歳。高
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定価一、六〇〇円+税
本書は二部からなる。第一部
は「戦争体験」「教育問題」「社
を鳴らして走るSLを作れば
(関西大学名誉教授 渡辺 孝博)
会問題」の三つのテーマからな
のにねと言われる。その後、彼
動殺人により彼女は絶命する。
女の通う小学校で体育祭が行わ
もっと迫力があり、魅力がある
り、 孝 子 の 書 き 残 し た〈 投 書 〉 河田 哲(平2院修産)著
の 草 稿 を 編 集 し た も の で あ る。 『“のりちゃん”の銀河鉄道 』
れ、その最中に中年男からの衝
軍国少女であった彼女の戦後の
文芸社ビジュアルアート 刊
定価一、二〇〇円+税
と思う。そのうちのかなりのも
生きざまが明らかになっている
の は す で に 活 字 に な っ て い る。
は九十年代のものである。とく
して走るSLを走らせることに
ていた石炭で動き、汽笛を鳴ら
も込めて、彼女が生前中に願っ
時代は一九七〇年代にさかのぼ
その死後、住宅地内に新風台
と い う 新 た な 土 地 が 開 拓 さ れ、
『“ の り ち ゃ ん ” の 銀 河 鉄 道 』
は、過去に何度もNHKや民放
に九十年代後半に集中している
のは孝子の健康状態に関係して
いる。
そこから芽生える様々な人間愛
成功する。鉄道敷設に力を注ぐ
のワイドショー番組、ニュース
投書先は特別の場合を除いて
明記していない。なお、章立て、 番組で紹介され、今や全国的に
がら端的に描いている。
を豊能町の自然の景観を交えな
の製作者で豊能町在住の持元節
有名になられた“桜谷軽便鉄道”
あるいは節の題目はすべて編者
による。
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み
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